あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

井上日召 ・ 五、一五事件 前後

2018年02月15日 19時02分31秒 | 井上日召

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である
    
 
井上日召            古賀清志海軍中尉   中村義雄海軍中尉

井上日召の活動を記してある
現代史資料4 国家主義運動 1 から

第二部  血盟団、五 ・ 一五、神兵隊事件
第二章  五 ・ 一五事件
第一節  第二陣海軍側の暗躍
(一)  古賀、中村 両海軍中尉 日召と聯絡しつつ陣容整備に努む。
一月三十一日の權藤空家に於ける最後の會合により、
民間側同志が先づ立って第一陣として一人一殺主義による暗殺をなし、
海軍側は第二陣として同志の凱旋を俟って菅波一統の陸軍側を引摺って陸海軍聯合軍を組織し、
大々的蹶起をなすことに決定し、井上昭は第一陣の暗殺には直接參加せず、
背後にあって聯絡統制の任務を担當すると同時に海軍側同志を指導し、
後續部隊の陣容整備の任に當たることになった。

井上は權藤空家に居って第一陣の民間側同志の統制聯絡に當たり乍ら、
同時に藤井齊 上海出征後、
中央に近い霞ヶ浦航空隊に居り 海軍側同志の聯絡に當って居た海軍中尉古賀清志、同 中村義雄の兩名と
屡々會合し、海軍側同志の結束 及 情勢の探索に努めて居った。
古賀、中村兩海軍中尉は毎土曜、日曜に上京し、井上、古内等と聯絡し、
其の指導を受けて各方面を奔走し、陸軍側、民間側の情勢を探って之を井上に報告して居った。

二月三日頃、
古賀は一月三十一日の會合の結果を、上海に出征中の藤井齊、村山格之 及 海軍側同志に通報した。
二月六日、古賀、中村は航空隊敎官より藤井の戰死の報を聞き、
直ちに上京して權藤空家に行き、井上 ・ 古内 ・ 四元等に会ひ、之を報告した。
其の後 井上より大川周明が何事か畫策中であるから其の計畫を探り出來るならば之と合體を計るか
或は大川周明が三月事件當時爆弾 ・ 拳銃當多數を入手し保管して居る筈だから
之を此方の計畫に提出して貰ふ様、とにかく大川を訪問し形勢を探ることを指令せられた。

二月七日
古 ・ 中村は大川を訪問し、同人が拳銃を所持し居るのを探り、権藤空家に戻り井上に之を報告した。

二月九日、
小沼正が井上前蔵相を暗殺したので、井上は危険を察し、
天行会道場に身を潜め 古賀 ・ 中村に暫く上京を見合はせる様 通知し 両名は上京を止めて居った。

二月二十八日頃、
井上の旨を受けた浜勇治海軍大尉より中村 ・ 古賀に対し上京せよとの通知が発せられ、
それに応じ 三月二十日、古賀、中村は上京し
浜方の二階に於て血盟団の古内栄司、田中邦雄の両名が官憲の目を逃れて来て居るのに相会し
彼等より其後の形勢を聞いたが、
更に古賀は天行会道場に赴き 井上昭に会ひ、井上より
「 小沼正に続き同志の誰かから第二弾が発せられるれば全線暴露の危険がある。
直ちに西田税 の処へ行き軍部同志が集団蹶起する様に交渉して呉れ、
集団 『 テロ 』 は東京会館、華族会館、工業倶楽部等に支配階級が集った時期を見て、
之に対し敢行することにしたい 。
更に 明日 大川周明の所へ行き 既に第一陣を撃ったから同人の一派に於ても起つ準備をする様に勧めて呉れ 」
との
依頼を受けた。
古賀は天行会を出て、西田方を訪れ、
折良く同所に集合していた西田税、菅波三郎、栗原安秀、安藤輝三、大蔵栄一 等の陸軍青年将校一同に対し
「 第二弾が鳴ったから 我々の全線が暴露するかも知れぬから、
此際軍部同志が結束して例へば、東京会館、華族会館、工業倶楽部等に目標人物の集合した時機を見て
之を襲撃するやうにしたい。
尤も陸軍の方では実力部隊に居る者は本隊として残って貰はねばならぬが、
其の他の者は 此の襲撃に加って貰ひ度い 」 と告げた。
併し 種々議論が出て賛否何れとも定まらなかった。

翌二十一日
古賀は大川を訪ね、計画の大略を話し、之に誘致しようとした。
大川は政党財閥を倒し、軍政府を樹立する決心であるが必ずしも 「 クーデター 」 の様な非合法に依る必要はない。
などと云って判然たる意嚮を示さなかった。
其の正午頃、
地方から第一次二月十一日決行の計画を聞いて上京して居った同志、黒岩勇予備海軍少尉と井上と面接せしめるために、
上野公園前料亭 「 揚出 」 で会合が催された。
会したものは、井上昭、頭山秀三、浜勇治、黒岩勇、古賀清志、中村義雄であった。
頭山秀三は既に井上と深く結ばれ準同志の間柄であったので、井上は頭山を一同に紹介した。
古賀は井上に西田、大川方の模様を話した。

二月二十七日、
古賀、中村は上京し、天行会道場に行ったが、井上は不在であったので西田を訪問した。
西田方には西田、菅波、大蔵、安藤 等の一等が居ったが、
青年将校連は古賀に、自分等は近く上海に出征するから帰る迄待って呉れと言ひ棄てて帰った。
其の後を引受けて西田等を中心とする一統に起って貰ひ度いと話した。
併し 判然たる答はなかった。

翌二十八日
古賀、中村両名は大川周明を訪問し、愈々決行が迫ったことを話し、拳銃の都合を依頼した。
大川は之を承諾したので両名は直ぐに天行会道場に行き、井上に西田、大川訪問の報告をした。
当時古賀等の許に上海出勤中の村山格之海軍少尉から、手榴弾二十個入手したとの通知があり、
拳銃のみ揃へば武器は十分になるのであった。・
三月五日午後、
古賀、中村は上京したが、途中新聞号外によって菱沼五郎の団琢磨暗殺の事を知った。
上京し直ちに天行会道場に行き井上に会った。
井上と談合の結果、菱沼の第二弾により警戒は厳重になり、個人テロは至難の形勢になったから、
今後は残った民間同志と海軍側と聯合して、集団 「 テロ 」 を決行することに大体意見一致し、
大川周明一派に共同して起つ様交渉することとし、古賀、中村は井上と別れたが、これが最後の連絡となった。

翌六日、
古賀、中村は大川を訪問しようとしたが、浜大尉より危険であるからとて止められ、
両名は其の儘 霞ヶ浦に帰隊した。

其の後 井上の潜伏して居った天行会道場二階は警察官隊に包囲せられ
且つ権藤成卿 始め知人が取調を受ける様になり、井上は到底逃れざるを自覚し、割腹自殺の決意をなした。
此の時、本間憲一郎、天野辰雄は自決を思ひ止らせ、後事を引受けて
三月十一日、井上を自首せしめた。

(二)  日召自首後蹶起を急ぐ
一方、海軍側の古賀、中村両中尉は井上の自首を聞いて、最初の計画通り第二陣の決行を決心した。
この時 両中尉は井上と従来連絡のあった
一、橘孝三郎の愛郷塾一派
二、陸軍士官候補生の一団
三、血盟団の残党
を糾合し、海軍側との聯合軍を組織し、一方
四、大川周明
五、本間憲一郎
六、頭山秀三
の援助を求め、出来得べくんば西田税、菅波三郎一党の陸軍側をも蹶起せしめ、
一大集団テロを敢行しようと決意した。
此等の諸勢力と井上昭一派との関係は次の如くであった。

一、橘孝三郎の愛郷塾一派
橘は茨木県水戸市外常盤村に於て兄弟村を経営し、愛郷塾を開き、農本主義に基く天地主義を唱へ、
農村を救済し延いで国家を救済する事を目的としていた。
昭和五年 同県郡珂郡渡村小学校に於て、農村問題の講演をなしたる際、
同小学校の訓導であった古内栄司と相識り、其後交際を続けた。
古内は井上昭と同志の間柄であるので、
昭和六年五月頃、古内の勧めで東京牛込区の林正一方にて橘は井上と懇談を遂げ、爾来 深い関係を持つに至った。
井上は橘の思想に全く同感であるが、橘の性格が学者肌であり、革命家には適しない処から、
橘に井上の破壊後に建設方面を担当させようと考えて居った。
然し 井上は、橘に破壊後の建設に当り、発言する資格権利を持たせようとして、
海軍側其他の同志に対し、同志としての取扱をして見せた。

昭和六年八月の青山青年会館の郷詩会の会合に、橘 及 愛郷塾教師 後藤圀彦を出席せしめた。
又 彼等を海軍側同志に紹介した。
橘は井上の同志たることは相違なかったが、破壊行動の同志ではなかった。
井上は、橘に、破壊は自分等が担当するから建設に当って呉れ
建設に必要なる貴兄は決して破壊方面に関与してはならない、と
言って居った。
従って橘は、血盟団事件に付ては関与して居らなかった。
然し斯かる微妙なる関係を知らなかった海軍側古賀清志等は、橘を井上の同志として取扱ひ、
第二陣の計画に参加せしめた。

昭和七年三月中旬、
古賀海軍中尉は愛郷塾に行き、橘に計画を打明け、参加を求めた。
橘は予て国家の現状を革新し、農村を瀕死の状態より救はねばならぬと考へて居ったので、直ちに之に応諾した。
塾の教師後藤圀彦 及 自己の妹婿で同塾の教師をして居た林正三に打明け、
両名等も革新的思想に燃えていたので、直ちに承諾し、愛郷塾生より適任者を選び、
愛郷塾一派が参加するに至った。

二、血盟団の残党
井上昭の護国堂時代その影響を受け、革新思想を持つに至った大洗附近の青年は多数あった。
血盟団事件に連座し、収容せられた以外にも急進的分子が数名残って居った。
古賀清志が第二陣の計画を樹て、三月中旬愛郷塾を訪ね、橘を参加せしめた際、
橘はこれ等大洗青年の数名をも動員することになり、
三月二十五日 後藤邦彦はその一味の堀川秀雄を同郡湊町の実家に訪ね、
井上昭一味の検挙された模様や、古賀中尉の第二陣の計画を話した。
堀川は直ちに之に参加を約し、井上残党の川崎長光、黒沢金吾、照沼操と共に、この四名の参加が決定した。

奥田秀夫は父が朝鮮咸鏡北海清津府に居住し、漁業を営む関係上少年時代を清津に於て過し、
当時清津にあって皇室中心主義を奉じ、敬愛学舎と云ふ私塾を立て、
少年に精神教育を施していた四元義正、其弟 四元義隆や その友人の池袋正釟郎と親しい間柄であった。
四元義隆、池袋正釟郎が七稿を出て東大に入学し、金鶏学院に居る頃、奥田は上京し、
明大に入学して居たので金鶏学院に四元等を訪ね、同時に其処で井上昭と接触し、
革命精神を吹き込まれた。
血盟団計画には奥田も参加し、木村久寿弥太の暗殺を引受け、偵察をして居った。
血盟団員の検挙が開始されるや、
彼は当時東京市外野方町四五三番地林新太郎方に下宿して居た四元義正方に逃避し、
官憲の追跡を逃れて居た。

古賀、中村両中尉が第二陣の計画を進めていた三月十二日、
中村中尉が浜勇治大尉の所で池袋に会った。
其後池袋は、自分は警視庁から召喚状が来ているので明日 出頭する。
此で全部検挙せられるのだから、後はよろしく頼む。
陸軍側も大蔵中尉あたりが中心だから極力引摺って呉れ、
尚 一味の中、奥田秀夫のみは警視庁に判らずに居るから決行の際は参加せしめて呉れ
と云ひ置いて行った。
それで中村中尉は三月二十日、林方を訪ね、奥田に会ひ、計画を打明け 同人を参加せしめた。
尚 当時奥田の親しいクラスメートに中橋照夫がある。
中橋は当時奥田と行動を共にして居り、五・一五事件によって強い革新的信念を持つに至り、
後に 二・二六事件に関係するに至った。

三、陸軍士官候補生 ( 附池松武志 ) の一団
士官候補生 後藤英範、篠原市之助、石関栄、中島忠利、吉原政巳、西川武敏、八木春雄、菅 勤、
野村三郎、金清 豊、坂元兼一 及 元士官候補生 池松武志は、
昭和六年十月  夫々所属部隊より派遣せられて、陸軍士官学校本科に入校した第四十四期生であるが、
入校早々 十月事件に際会し、
先輩将校の計画であったので極めて簡単に参加を約した。
当時はこれ等の外にも数十名参加の予定であった。
その後間もなく一同は
歩兵第三聯隊菅波三郎中尉が歩三に転隊前長く所属して居った鹿児島聯隊より派遣せられて居た後藤英範より、
菅波中尉が革新的人物なることを聞き、休日毎に菅波の下宿を訪ねる様になった。
十月事件の体験と、菅波の啓蒙に因り、第四十四期生は国体問題、社会問題に関心を高め、
此方面の有識者の所説を訊ねる様になった。
同年 昭和六年十一月頃から権藤成卿を一同が訪ね、その談論講義を聞くこととなった。
そして権藤方で井上昭とも知り合ひ、其後数回井上昭を訪ね、十月事件失敗の真相を尋ねた。
右の如くにして、一同の革新的気分は一層強められて行き、一同は井上昭の人物に敬服するに至った。

同年 昭和六年十二月、
第四十四期生の一人、米津三郎候補生が、
社会問題に付て論じた一文を執筆し謄写版にて印刷し、配布した事件が発覚し、
学校当局は翌七年一月二十五日、
米津三郎、池松武志 等 関係者を退学処分に付した。
その大略は
日本国家の政策は、日本の経済の盛衰が農業にかかっている関係上、農村本位たるべし。
綱領として現在の経済機構は不合理であるから、凡ての生産機関を国営となすべく、
其の過渡期に於ては戒厳令を布き、戦時給付の状態となすべきである。
と言ふのであった。
この処分問題や、其後起った井上一派の暗殺事件は、一同の革新気分を弥が上に高からしめた。

一方 井上昭は第二陣計画をなすに当り、
古賀、中村両中尉に、
この士官候補生の一団のあること 竝 井上と或る連絡のあったことを告げて自首したのであった。

三月十三日、
古賀、中村 両海軍中尉は天行会道場に頭山秀三を訪問し、井上昭自首の経過を聞いた。
両名は更に、大蔵栄一陸軍中尉宅を訪ね、大蔵、安藤輝三 陸軍中尉に、
井上等の後続部隊として蹶起方を促したが、満足な返答を得ることが出来なかったので、
古賀は安藤に、第四十四期生と会へる様連絡して呉れと頼んだ。
安藤は
候補生は焦って居って困るから煽動して呉れるな、
兎に角、二十日に歩三の自分の処で、陸軍側同志の会合があるが、
それに候補生が出ることになっているから、其時来て呉れ
と告げた。

三月二十日、
中村海軍中尉は歩三に行って、
陸軍側、安藤輝三中尉 ( 歩三 )、大蔵栄一中尉 ( 戸山教官
)、朝山小次郎中尉 ( 野戦砲工学校分遣中 )
村中孝次中尉 ( 陸士予科第一中隊第一区隊長 )、佐藤中尉 ( 歩三 )、
相澤三郎少佐 ( 千葉歩兵学校分遣中 )、士官候補生代表 坂元兼一
に面会し、陸軍側の蹶起を極力進めた。
併し 陸軍側は自重論を執って応じなかった。
坂元候補生は両者の説を聞いて居って、海軍側の決意に感動し、中村海軍中尉を別室に呼んで、
参加の意思のあることを打明け、明日同期生一同が面会することを約束した。
・・・リンク→ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」

三月二十一日、
春季皇霊祭当日、東京市外大久保町百人町一七八番地 藤田儀治所有の家屋に於て、
古賀清志海軍中尉と、第四十四期候補生 後藤英範外十名
退校処分後一旦帰国したが当時上京して居た池松武志とが面談した。
古賀は陸軍将校は自重に傾き、ともに計ることが出来なくなったから、候補生の合同参加を要望した。
一同は之を快諾し、候補生等は従来、菅波等の統制下にあったのであるが
茲に海軍側と合体することになり、遂に其の参加を見るに至った。

四、大川周明  ・・・略
五、本間憲一郎
六、頭山秀三  ・・・略

(三)  古賀、中村 等の活躍
古賀、中村 両海軍中尉は、井上が十一日自首し、血盟団が全部検挙せられた後を承けて、
以上の諸関係勢力に向って直ちに働きかけた。
三月十三日午前
古賀、中村は、牛込区戸山町の大蔵栄一中尉宅を訪問した。
大蔵中尉は戸山学校教官 ( 体操 ) で、細事に頓着せぬ性格で菅波一統に属していたが、
井上昭一派とも近く、血盟団の古内栄司は二月下旬、官憲の追跡を逃れる一面、
大蔵中尉と密接な関係を結び、第二陣ら獲得しようとして大蔵中尉方に潜伏し、
三月十一日朝 同所から検挙せられたのであった。
古賀、中村 両名は大蔵方に行き、血盟団の池袋正釟郎と落合ひ、
大蔵栄一、及び 来合せた安藤輝三中尉に、口を極めて共に蹶起せんことを勧めた。
併し、大蔵、安藤は判然としなかった。
そこで古賀は、安藤中尉に、士官候補生に会へる様にして呉れ、と頼み
安藤は、
次の日曜日二十日に麻布歩兵第三聯隊の自分の許にて、
陸軍側の会合があってそこへ士官候補生が来ることになっている。
併し、候補生は焦っているから煽動的なことは言って呉れるな、
と云って会見の機会を作ってやった。

古賀、中村は其夕刻 天行会道場に行き、
頭山秀三に会ひ、井上昭の自首の模様を聞いた。
そして頭山に、自分等が近く起つことになっているから貴方も一緒に蹶起するやうに願ひ度い、
士官候補生も共に起つ見込みがある。
手榴弾は手に入っているから、拳銃を都合して呉れと頼んだ。
頭山は大いに喜んで拳銃も機関銃もある。拳銃三十挺位は準備出来る。
自分でも極力同志を動員するやうに計画を立て地方を廻って見ようと申した。

三月二十日 ( ・・・リンク→ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
)
中村上京し、歩兵第三聯隊に行き、前記の如く士官候補生と提携することが出来た。
同日古賀は愛郷塾に行き、橘孝三郎 及 後藤圀彦に計画を打明け、さんかを求め両名の承諾を得た。
中村は大蔵方を出て長野朗を訪ね様として、明治神宮表参道同潤会アパートの菅波の留守宅を訪ね、
菅波の留守を預って居った、渋川善助、池松武志に教へられ長野方を訪れ、同人の改造意見等を尋ねた。
更に 中村は其夕刻
池袋正釟郎より十三日上京の際、血盟団で四元の連絡下にあり警視庁に判らずに居る奥田秀夫の住所を聞いて居ったので、
市外野方町新井四五三林新太郎かた四元義正 ( 義隆の兄 ) の許に居った奥田を訪ね、
同人を参加せしむることにした。

三月二十一日、
東京市外大久保百人町 ( 現淀橋区百人町三丁目三七八番地 ) 藤田儀治所有貸家に於て、
後藤英範等十名の士官候補生 及 池松武志と古賀、中村 両名が会合し、
古賀等より其の所信 及 計画を披露し参加を求めたところ、
士官候補生 及 池松 等は即座に快諾し 其の提携が成った。
当時陸軍青年将校の一団は、自重的態度に決して居ったので、
従来菅波の統制下にあった候補生が、海軍側に走るのを制止しようとして居った。
この会合のあることを察していた大蔵栄一中尉は、この会談の済んだ頃同所に来たが、
此時は既に海軍側及候補生等は、陸軍側の自重的態度を慊あきたらずとして、
是と全く絶縁して決行する決意を固めた時であったので、
大蔵中尉にこの会合の結果を秘して別れた。
尚 池松は此日迄、菅波が上海出征の動員業務のため帰宅せぬ様になったので、
其の留守を預っていたのであったが、此の提携が成立して直ぐ、菅波の留守宅を失踪して、
菅波一統に住所を秘して海軍側に連絡しつつ、襲撃準備のため首相官邸の偵察を始めた。

三月二十三日、
本間憲一郎自宅 ( 茨木県土浦町真鍋大一、二二三番地築山塾 ) より電話があって、
古賀は築山塾に行った。
本間は頭山秀三より話を聞いた。
拳銃は自分が都合するから、あまり頭山秀三を表面に出さない様にして呉れ、
と頭山満翁に累の及ぶことのない様注意した。

三月二十六日、
古賀は愛郷塾を訪れ連絡した。
三月二十七日、
古賀、中村は大川周明を訪問し、愈々四月中旬から五月中旬迄の間に於て一斉に起つことを話す。
大川は拳銃軍資金を都合することを約束した。
中村は其帰途、天行会に行ったが頭山秀三は病気にて面会出来ず、本間より古賀に対すると同じ話があった。
一方古賀は、士官学校附近の三省舎に於て、坂元候補生に会ひ、
更に後藤候補生の下宿に行き、後藤、中島 両候補生に会ひ所要の連絡を執った。

三月二十八日、九日頃
古賀、中村は其の下宿、土浦町大和町 来栖万之助方にて第一次計画を樹てた。
それに依れば
会員を六組に分ち
第一弾に於て、首相官邸、牧野内府邸、華族会館、工業倶楽部、政友会本部、民政党本部
の六箇所を襲撃し
第二弾に於て三組に分ち
一組は、東郷元帥邸に到り 同元帥を宮中に御伴する。
二組は、権藤成卿を荒木陸相官邸に連れて行く。
三組は、刑務所を襲ひ 血盟団被告を奪還する。
ことと東郷元帥を推戴し、戒厳政府を出現せしめ、
権藤の主催する自治主義を基礎として国家改造を行ふと云ふのであった。

四月一日、
愛郷塾後藤圀彦に右計画を打明けた。
四月三日、
古賀上京して大川周明方を訪ね、大川より拳銃五挺実包百二十五発と軍資金千五百円を貰ひ受けた。
それより古賀、中村は三省舎に行き、坂元候補生に会ひ 第一次計画を話し各候補生の配置を定め置くことを依頼した。
更に 池松武志と連絡し、池松に襲撃個所の偵察方を命じ、
其後毎週火曜日夕刻、土浦町山水閣にて連絡することを定めた。
池松、奥田は、其後偵察に努め、鳥観図等を作り、山水閣にて毎週一、二回連絡を続けた。

四月四日、
古賀は同志村山格之 ( 上海 )、林正義 ( 佐世保 )、山岸宏 ( 鎮海 )、村山功 ( 舞鶴 ) に計画を通報した。

四月十日、
古賀、中村は近く臨時議会開催せらるとの報を聞いて、計画を変更し議会襲撃を計画した。
池松に議事堂の偵察を命じ橘に依頼し、風見代議士より傍聴券を貰ふこととした。

四月十六日、
古賀は愛郷塾を訪問し、橘に第二次計画を話し、傍聴券の件を依頼した。

四月十七日、
古賀上京、頭山方に行き本間より拳銃三挺実包若干を貰ひ受けた。

四月二十一日頃、
村山格之突然土浦に来た。
古賀、中村は村山より佐世保の林正義の下に手榴弾が到着したことを聞き、村山より拳銃一挺実包百五十発貰ひ受けた。
此の日頃、西田税が此の計画を探索し、他に洩らすらしき様子があるとして、
古賀、中村は橘、後藤と相談し、川崎長光をして西田を暗殺せしめることに決定した。
尚 此の日頃、本間憲一郎宅にて同人より、拳銃二挺実包若干貰ひ受けた。

四月二十三日、
電報あり、古賀は横須賀水交社に行き 山岸と会ひ、同人が血盟団関係にて軍法会議の取調を受けたことを聞き、
至急決行を決心した。

四月二十七日頃、
古賀、中村は議会開会中は、士官候補生が富士山山麓に野営に行くことが判り、
五月十五日、首相官邸にてチャップリンの歓迎会開催の予定であるから、
其の席上を襲撃することに変更した ( 第三次計画 )

四月二十九日、
古賀上京、大川周明り軍資金二千円貰ひ受け、五月十五日決行を話した。
黒岩勇を佐世保に派遣し、鈴木四郎、古賀忠一、林正義、三上卓に連絡せしむることとした。
此の日頃、チャップリンの件は、不正確なことが判り、古賀、中村は第四時計画を樹てた。
これに依れば次の如くである。
「 第一段、  全隊を三組に分ち、首相官邸、牧野邸、工業倶楽部を襲撃する。
第二弾、  一、二組は憲兵隊に自首し、三組 ( 工業倶楽部 ) は東郷元帥を宮中に参内せしめること。
別動隊として、愛郷塾は変電所を襲撃し、東京市内を暗黒化する。
川崎長光は西田税を暗殺すること。
斯くして軍政府樹立した暁は、大川と通ずる陸軍同志、長野朗を中心とする農民一派、
大川、頭山系の民間革命家其他一般愛国団体が、此の軍政府を支持することを予想する。」

其後同志間の往復頻繁に行はれていた。
尚 血盟団事件の取調に依り、海軍側同志の身辺も漸次危険となって、
既に浜大尉は三月初より取調を受けて居り、村山格之は上海より呼び返され、禁足を命ぜられる状態で、
海軍側では非常に決行を急いで居った。

五月六日、
佐世保より手榴弾二十一個を持って帰京して居った黒岩勇り、
北豊郡王子町下十条 田代平方に於て、愛郷塾一派の同志林正三に変電所襲撃用手榴弾六個が交付された。

五月八日、
豊多摩郡淡谷町神宮通り一丁目二十番地 蕎麦屋方 万盛庵に於て、
古賀、黒岩、山岸、村山等海軍側と士官候補生と会合し、五月十五日決行と決定した。

五月十三日、
茨木県土浦町山水閣に於て、古賀、中村、池松、奥田、後藤圀彦が会合し 最後の計画を協定した ( 第五次 )

五月十五日午後五時半、遂にこの計画に依って一斉蜂起した。

第二節  犯罪事実の概要
以下省略


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