あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新 ・ 蹶起の目的

2023年02月08日 14時48分59秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」
昭和六年の事、
香田清貞は同期の大蔵栄一に しみじみとそう語った。


昭和4年10月に始まる世界第恐慌は 5年には日本農村に波及する。
米と繭の価格下落に加えて 6年、9年と続けて襲った東北大凶作に依り大被害となった。
米の価格は大正4年の一石40円71銭から、じり貧状態となっており、大恐慌の際にはいっきに17円77銭に暴落した。
繭も大正14年に一貫当り11円25銭であったのが 大恐慌によって昭和9年には2円52銭にまで惨落する。
1920年代後半から農村不況は進行し、1930年代前半に農村の疲弊はその極に達したのである。
借金のカタに差し押さえ、競売 又、収穫以前に出来秋の稲を事前に叩売りしてしまう 「 青田売り 」 が 行われ、
更に娘の身売りまで行われた。
東北地方の農村を中心に小学校の昼食時間に 弁当を持ってこない 「 欠食児童 」 が 大量に発生した
小作争議は急増し、恐慌下の生活破綻のなかで、 中小地主と小作人が小作地をめぐって血みどろの闘いを強いられた

    
小作争議                                                                                         満洲事変 ↑
大正十五年五月一日の早朝、西津軽郡車力村の鎮守の森から、突如として
「 聞け万国の労働者、とどろきわたるメーデーの示威者におこる勝鬨は  未来を告げる  トキの声・・・・」
と、インターナショナルの合唱が起こった。
村の人達は何事が始まったのかと、仕事を捨て、墨も黒々と左記の字句を列記していた。
小作人から田畑を取上げるナ---小作人から飯茶碗を取上げるナ---小作料をまけろ---小作人を人間扱いせヨ---
小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ---等のスローガンを掲げ、それに続く、むしろ旗や赤旗を押し立て、
ケラ ( 箕 ) を着て、縄帯を締め、素草鞋ばきで、手には草刈鎌やタチ ( 田のクロを切る農具 ) を持ち、鍬を肩に担いで、
木造きづくり町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、田茂木、芦野、地元の車力、下牛潟、富萢とみやち方面から、
約六百五十名の農民の大行列が、地元を揺り返が如き、勢で村内をインターナショナルの歌声で、行進した。
これが県下での初めてのメーデーである。 農民組合の発祥の地として、全国通々浦々に新聞等で、車力の名が紹介された。
この有様を二階の窓から見た或地主は 殺される! される!と叫んで家の中を逃げまわり土蔵の長持に隠れたというエピソードを、
いろんな本に書いているが、そうでなく、朝から夜中まで、便所の中に飯も食わずに、かくれていた事は本当で、
家の人がナダメて、やっとのことに、その中から出したという。
この地方は大昔から、二百十日頃になると毎年の如く、季節風が雨と一緒にやってくる。
暴風雨に混って、暗闇の中からドンドンと薄気味悪く鳴り響いてくる太鼓の音と共に、水だ---水だ---と ざわめく、悲痛な人声である。
本村の農民達は素早く種俵や土用俵をかついで、豪雨の中をジャッブ、ジャッブと走って行く足音が、次々と闇の中に吸い込まれた。
翌朝、あの広々とした津軽平野も、大海の如き様相を呈している。千貫の向うと、長泥の北はずれの岩木川の堤防が決裂したという。
人家は床下浸水どころか、軒下近くまで、水につかり、下車力や長泥の人々はマゲ ( 二階のように見せかけているが、様子がない )
で 一夜を明かした位だ。勿論 島立 ( 稲島 ) は流失して、皆無作である。焚出しを舟で運んだ。
土手の決壊の名残に岩木川の堤防沿いの東西に大、小の沼がある。これは今、昔の惨状を物語っている。
また太田山偏東風が続けば、山田川が十三湖より塩水の逆流で川や堰の魚が死んで浮いている。
叭や俵を背負って、それを拾いに行ったものである。無論、稲も枯死した。七分作、五分作、三分作、皆無作とその度合いによって異なった。
大正十二年頃から、内務省直営で、岩木川と山田川の堤防の改修工事が始められており、毎年に惨状が減って来た。
でも偏東風が植付早々吹き続き、綿入や犬の皮を着て田の草取りをし、早期に霜や あられが降ると、
未熟の稲穂が箒ほうきを逆立ちにしたようなものであって、いわゆる凶作である。このように、隔年的に水害と冷害に悩まされる。
減収による小作料の減免を乞うと地主は、弱い者には玄関払い、手答えの小作人には酒肴で誤魔化して、一粒も負けてくれなかった。
地主は数百ヘクターレル、数千ヘクタールを所有し、小作人はこれ等の田畑を借り受けて耕作していた。
その小作料を収納する土蔵を家の前後に、五つも六つも建造した。
小作人は残りの半分で、飯米、医療費、交際費、税金、学費、その他凡ゆるものに振り向けられていた。
田植を終った途端、飯米を不足している農民は三分の二位で、そうしたような窮地におかれていた。
村内には、人の弱みをつけ込んで、米貸し商売をしていたものもいた。現物返しで、一俵につき二斗の利米で、借りて生きて来た。
小作人等は来年の先行きも案じて、濁酒ではなく、清酒を無理して買い込み、利米に添えて持参した。偽ざる姿である。
この仕組はつい最近まで取引していたらしい。数える程少ない小作人のうちで、田植終了直後に、わずかに夏摺臼を廻せば、
人々はあそこの家がマブク ( 裕福 ) になったと注目した。
昔から、十三湖周辺の岩木川下流地域にある。中里町の武田、内潟と肩を並べて車力も冷水害に悩まされて来たことは
多くの津軽の関係史に残っているが、小作人は正に奴隷的存在であったことは云うまでもない。
政治家共は自己の利益のみに没頭し、農村問題対策には無頓着であった。
あれは確かに昭和六年頃だと思うが、東北地方は凶作の年だった。
全国的に不況のどん底におちいり、即ち、農村恐慌が深刻化する一方だった。
男たちは出稼ぎ、女たちは女工や女郎に身売りさせられた。
この最中に満洲事変が勃発した。騒然たる世相の中で、凶作に見舞われたこの地方の人々は、
どん底から更にどん底へつき落された。・・・攻略
・・・『 車力村村史 』 からの 小作争議
農民の窮状 ↓ 
     
     

紺の背広の澁川が熱狂的に叫んだ。
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」  誰かが駆け寄った。  それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」  野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」  澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」  野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」  野中は沈痛な顔をして呟くように云った。
・・・二月二十八日の幸楽

蹶起趣意書

昭和維新

蹶起の目的
目次
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根本の問題は國民の魂を更えることである。
魂を改革した人は維新的國民。

この維新的國民が九千万に及ぶ時、魂の革命は成就されると説く。
良くしたいという 一念 三千の折から
超法規的な信念に基ける所謂非合法行動によって維新を進めてゆく。
現行法規が天意神心に副はぬものである時には、
高い道念の世界に生きている人々にとっては、何らの意味もない。
非が理に勝ち、非が法に勝ち、非が權に勝ち、一切の正義が埋れて非が横行している現在、
非を天剣によって切り除いたのである。

この事件は粛軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。

・・・磯部浅一

今回の行動は大權簒奪者を斬る爲の独斷専行なり。
党を結びて徒らに暴力を用ひたるものにあらず。
我々軍隊的行動により終始一貫したるものなるを以て、
此独斷専行を認めらるるか否かは位置に大御心にあるものなり。
若し大御心に副ひ奉る能はざりし時と雖も反乱者にあらず。
陸軍刑法上よりすれば檀權の罪により処斷せらるるものたるを信ず。
・・・
村中孝次    

・ 
維新は天皇大權により發動されるもの 
・ 「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」 
・ 尊皇討奸 ・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」 
・ 蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった 
・ 「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」 

憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二・二六事件 』 

・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1 
・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 

澁川善助
宇宙の進化、日本國體の進化は、悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
同志一同の行動は、大御心を上下に徹底し、上下民其所を得て尊皇絶對に邁進し、
皇威を八紘に輝らし 皇恩を四海に浴し乍ら、皇謨翼賛の重責を盡さず、
却って大御心を歪曲し奉りつつある奸臣を除かんとしたるものでありまして、蹶起趣意書の通りであります。
事件を決行しました動機の直接とか間接とか言ふ様なものは、
絶對の境地で行はれたものであり、説明は出来るものではありません。
然し 強いて申せば、
相澤中佐が公判廷に於て、あれ丈言はれたるに拘らず、
國家の上層部、軍上層部、軍幕僚、官僚、財閥、政党等が
何等反省の跡を見受ける事の出来ない事が 直接の原因動機でありますと申されませう。
・・・憲兵訊問調書 から

野中四郎 
迷夢昏々、萬民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶對絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、國内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戰士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず  一路遂に奔騰するのみ
・・・遺書・天壌無窮  から

村中孝次  
吾等は護國救世の念願抑止難く、捨身奉公の忠魂噴騰して今次の擧を敢てせり。
今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒嚴令を宣布し軍政權を樹立して昭和維新を斷行し、
以って 北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を実現するに在りとなすは是悉ことごとく誤れり。
吾人は 「クーデター」 を企圖するものに非ず、
武力を以って政權を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を爲せるものに非ず、
吾人の念願する所は一に昭和維新招來の爲に大義を宣明するに在り。
昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。
抑々維新とは國民の精神覺醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。
然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、
自ら理想とする建設案を以って是れを世に行はんとして、
遂に武力を擁して權を専らにせんと企圖するに至る。
而して斯の如くして成立せる國家の改造は、
其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、
國民を頣使し、國民を抑圧して築きたるものは國民自身の城廓なりと思惟する能はず、
民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。
之に反し國民の精神飛躍により、擧世的一大覺醒を以て改造の實現に進むとき、
玆に初めて堅実不退転の建設を見るべく、
外形は学者の机上に於ける空想圖には及ばずと雖も、其の實質的価値の遥かに是れを凌駕すべきは万々なり、
吾人は維新とは國民の精神革命を第一義とし、
物質的改造は之に次いで来るべきものなるの精神主義を堅持せんと欲す。
而して今や昭和維新に於ける精神革命の根本基調たるべきは、實に國體に對する覺醒に在り、
明治維新は各藩志士の間に欝勃として興起せる尊皇心によって成り、 
建武の中興は当時の武士の國體観なく尊皇の大義に昏く滔々私慾に趨りし為、
梟雄尊氏の乗じる所となり敗衂せり。
而して明治末年以降、人心の荒怠と外國思想の無批判的流入とにより、
三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇國體に、社会理想を発見し得ざるの徒、
相率いて自由主義に奔り 「デモクラシー」 を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、
玆に天皇機關説思想者流の乗じて以て議会中心主義、
憲政常道なる國體背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。
之れ一に明治大帝によりて確立復古せられたる國體理想に対する國民的認悟得なきによる、
玆に於てか倫敦条約当時に於ける統帥権干犯事實を捉へ來って、
佐郷屋留雄先ず慨然奮起し、
次で血盟団、五 ・一五両事件の憂國の士の蹶起を庶幾せりと雖も未だ決河の大勢をなすに至らず、
吾等即ち全國民の魂の奥底より覚醒せしむる爲、
一大衝撃を以て警世の乱鐘とすることを避く可からざる方策なりと信じ、
頃來期する所あり、機縁至って今回の擧を決行せしなり。
藤田東湖の回転史詩に曰く
『 苟も大義を明かにして民心を正せば皇道奚んぞ興起せざるを患んや 』  と。
國體の大義を正し、國民精神の興起を計るはこれ維新の基調、
而して維新の端は玆に発するものにあらずや。
吾人は昭和維新の達成を熱願す、
而して吾人の担當し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、
豈に微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当らんと企圖せるものならんや。
吾人は三月事件、十月事件等の如き 「クーデター」 は國體破壊なることを強調し、
諤々として今日迄諫論し来れり。
苟も兵力を用ひて大權の發動を強要し奉るが如き結果を招來せば、
至尊の尊嚴、國體の權威を奈何せん、
故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覺悟せる同志の集団ならざるべからず。
一兵に至る迄不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。
國體護持の爲に天剣を揮ひたる相澤中佐の多くが集団せるもの、
即ち 相澤大尉より 相澤中、少尉、相澤一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。
此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、
故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意圖は極微と雖もあらず、
純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。
吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、
乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の實現を妄想して此挙をなせるものならんや。
吾人は身を以て大義を宣明せしなり。
國體を護持せるものなり。
而してこれやがて維新の振基たり、
維新の第一歩なることは今後に於ける國民精神の変移が如実にこれを実証すべし、
今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。
吾人の蹶起の目的は蹶起趣意書に明記せるが如し。
吾人は軍政權に反対し、
國民の一大覺醒運動による國家の飛躍を期待し、これを維新の根本基調と考ふるものなり。
吾人は國民運動の前衛戰を敢行したるに留る、
今後全國的、全國民的維新運動が展開せらるべく、
玆に不世出の英傑蔟出、 地涌し大業輔弼の任に当たるべく、 これを真の維新と言ふべし。
國民のこの覺醒運動なくしては、
區々たる軍政府とか或は眞崎内閣、柳川内閣といふが如き出現によって現在の國難を打開し得べけんや

・・・村中孝次・丹心録から

松浦 邁中尉
軍服の聖衣を纒まとへる農民の胸奥を知る者は独り青年将校のみ。
我等は熱と誠心の初年兵教育に彼等の魂を攫つかみ彼等の胸奥を知る。
困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君國の爲め献身する彼等の努力こそ実に血と涙の結晶なり、
彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。
彼等が我等を見上る眞摯の眼には 何物か溢あふるゝその至純なる農民層の頼むあるは唯 我等青年将校のみ、
我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。
興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。
客秋満蒙の地に鉄火閃ひらめきしより以來 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、
彼等は病床に独り苦しめる老父母を残して去れり、
彼等は粥を啜り 芋の根を噛かむりて日々を送る妻子を残して去れり。
彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて帰りをのみ待てる弟妹を残して去れり。
彼等は斷じて何人の犠牲にも非ず。
彼等は唯 「天皇陛下の為に 」 起てり。
彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、
彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。
「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。
金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、
嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に応ふる何物か与へられんや。
吾人は幾千の生霊を空しく異郷の土に冥する事に忍びず
彼等と共に戰へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり。
・・・
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 から

栗原安秀
「 吾々同志が蹶起したのは
天皇と臣民の間に居る特權階級たる重臣財閥官僚政党等が私心を慾ほしい侭に
人民の意志を 陛下に有りの侭を伝へて居ない
従って日本帝國を危くする
吾々の同志は已む無く 非常手段を以て今日彼等の中樞を打砕いたのである 」
・・・二十八日夜・幸楽での演説


河野壽
「 磯部さん、私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の ろぼ を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、  と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は嚴然として 飛びついて殺せ といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、
父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せ という たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ 」
・・・第磯部浅一  行動記  第八 

「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」
・・・西田税


逆賊の名を冠せらるるとも、今にして立たずんば

2023年02月07日 12時53分06秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

村中孝次  
事件の首謀者村中孝次らはもともと平和革命を念じていた。
そのいうところの維新 すなわち国家改造は、軍を主体とする合法的運動の展開に求め、
武力による一挙の革命については、
「 武力行使は國體反逆行為を討伐し大義名分を樹立するを要すべき場合に斷行することを餘期し、
平素よりは武力的迫力によって情勢を誘導指尊す 」
・・( 昭和十年二月七日、十一月事件に関連する誣告罪告訴理由書 )
といい、また、
「 たとえ國體を破るの餘儀なき場合に遭遇することがあるにしても、
それは私どもが尋常の人事を盡して尚及ばない場合であり、
その時は國體の大義に立脚して臣子の犠牲的本領を盡すに止まり、
一死挺身して みずから危うきに當り、
みずから法の前に刑死を甘受するの非常の決意の上に立つべき存念であります」
・・( 昭和十年四月二十四日、十一月事件に関連する誣告罪告訴理由書 )
これが彼らの直接行動への心構えであった。
ここでわたしは彼らが 「 国体を破る 」 といっていることに注目したい。
「 国体を破る 」 ことの認識に立っているのである。
しかし、ニ・ニ六がはたして右の基本構想によってなされたものであるかどうかは疑問であるが、
この理念が彼らの思惟の底辺にあったことは疑いないであろう。

右の記述は昭和十年春頃までのものだが、
その夏七月真崎教育総監の罷免、
次いで 八月 相澤事件が突発して彼らは非常な刺激をうけた。
そこでは維新の戦闘は開始されたと見た。
「 ---斥候戦は今や尖兵、前衛の戰闘開始となった。
維新の天機は刻々として着々と動いている。
維新の同志よ、
文久三年八月の非常政変に次いで来った大和、生野の義擧、
禁門戰争の無用なる犠牲に痛心する勿れ。
吾人はひたぶる維新に翼賛すれば足る。
維新のこと、今日を以て愈々本格的に進展飛躍してきた 」

・・( 教育総監更迭事情要点 ・村中孝次 )

もはや、無用なる犠牲に痛心することなく維新の戦列に走せ参ぜよと叫ぶ彼らには、
「 今にしてたたざれば 」 といった感慨がこめられている。
この場合 武力行使、国体破壊の元兇、重臣の討伐が、国体破壊に通じ
天皇の大御心に副うものかどうかは、もはや問題ではなかった。
「 我一介の武弁、いわゆる上層圏の機微を知る由なし。
 ただ神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み殊に畏くも至上を挟みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか、嗚呼、遂に赤子御稜威を仰ぐ能わざるか。
久しく職を帝都軍隊に奉じ一意軍の健全を翹望ぎょうぼうし他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我生來の軟骨滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士 絶體絶命に及んでや、ここに閃発せざるを得ず。
あるいは逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼。
然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん 」
野中四郎

野中四郎大尉の遺書の一節である。
今にして立たずんばとする絶体絶命の境地が躍如として表現されており、
たとえ逆賊の汚名をきても 「 やる 」 というのである。
また、村中孝次も、
「 今回の擧は喫緊不可欠たるを窃に感得して敢えて順逆不二の法門をくぐりしものなり。
もとより一時聖徳に副わざる事あるべきは万々覚悟。
然してこの挙を敢えてせざれば何れの日か、この困難を打開し得んや 」 ・・( 『 続丹心録 』 )

といい、
さらに、この一挙をかの満洲事変における関東軍の独断専行に比し、
「今次の決行は精神的には同志の集団的行動にして、
形式的には各部隊を指揮せる将校の独斷軍事行動なりしなり。
関東軍の独斷行動とその精神を一にし、後者は張学良軍を作戦目標とし、
餘輩は内敵を攻撃目標とせるの差異あるのみ。
不幸右独断行動が大元帥陛下ま御許容を仰ぐ能わざる場合においては、
明らかに私かに兵力を使用したるものとして、各部隊指揮官たりし将校と、
その独斷行動の籌画に与りしニ、三士とは檀健の罪の嚴罰を甘受すべきは当然とす 」 ・・( 『 続丹心録 』 )

とも書きのこしている。
また、この村中は、事件直後の訊問に答えて、
「 その後四日間にわたりて昼夜陛下の御宸襟を悩まし奉ったことについては、
恐懼措く能わざる所で何とも申訳ない次第であります。
又、陛下御親任の重臣を討ったのでありますから、これまた罪萬死に値する所でありますが 」

とも述べていた。

このように見てくると、この一挙、
重臣抹殺---陛下の信任になる重臣殺害は、大御心に副わないことを覚悟していたことがわかる。
少なくとも一時聖徳を汚すことを予期しての、法の前に刑死覚悟の蹶起であったことがわかる。
すると事が敗れることも彼らの計算の中にあったこととて、今更何を怒り何を恨むのだろうか。
討奸は、すでにみたように、
たとえ逆賊となってもやるといい ( 野中 )、聖慮に副わざることも覚悟の上 ( 村中 ) での決行であった。
だが、一面、彼らの心の中ではこれが許されることも考慮していた。
いや、一時、天皇に苦悩を与えても、次いで来るべき維新の成功によって、
のちには、喜びいただけるものと確信していた。
「 一時宸襟を痛く悩し奉ることも、
直後に来る昭和維新によって従来山積したご苦悩の原因を一挙に払い去ることができて、
直ちに償い奉ることが出來るものと思いましたが、志は全く達せられず
宸襟を悩まし奉る結果にのみおわりました 」・・( 村中孝次訊問調書 )

例によって村中の反省であるがともかくも、
事の成功を信じて一時聖徳を汚しても断乎やることの決行であったのであるから、
そのためにはこの一挙に余程の成算が見込まれなくてはならない。
もちろん、この場合 軍を推進しての維新であるから、陸軍をしてまず維新化することが先決であるが、
同時に宮中輔弼がとくに重要である。
すると彼らはこの宮中輔弼をどのようにしようとしたのか、
みずからが宮中にのりこんで輔弼をあえてしようとしたのか。
「 斬奸後血刀をさげて宮城に參内し、陛下にお目にかかり事態を申し上げ、
昭和維新の斷行をお願いするということはたびたび考えた。
あるいは、こうすることによって、あるいはお許しを得るかもしれないし、
あるいは重臣に御下問になることも考えられるが、何れにしてもお許しをうることができると思っていた。
しかし お上に鞏要云々がおそろしく このような手段にでることができなかった 」

これは、村中が入獄後、
塚本刑務所長に語ったという断片である。
・・・リンク→ 勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし 

村中にしてはこのようなお上に強要する手段を避けたが、これに代る手段は何だったのか。
いわゆる宮中工作、こんな言葉は彼らは口にすることさえ避けていたが、
事実として行なわれ、
また 行なわれようとしたものの一つが、
直接行動としての 「 不逞重臣の参内阻止 」 であった。
このことはあとでくわしく触れるつもりであるが、
彼らがその計画において坂下門における不逞重臣の参内阻止をきめ、
近歩三 中橋基明の一隊が禁闕守衛兵力増強に籍口して宮城内に入り、
わずかな時間であったが、坂下門の警戒に任じた事実がある。
不逞重臣の参内阻止とは重臣の天皇輔翼を妨げ天皇を孤立させることであった。
たとえ重臣の参内入門を許したとしても、それは蹶起軍の息のかかったものに限られるとなると、
もはや宮中の事実上支配ということになる。
しかしこの重臣の参内阻止は、
忠誠心にこりかたまって天皇強要を極度に戒慎したという彼らにしては、
はなはだしい不逞行為であって、
わたしはこれがはたしてどこまでのものであったかを疑うものである。
結局、この参内阻止の効果は、
付近警備に任じていた安藤中隊、あるいは野中中隊のそれとかわることはなかったのであるが。

大谷敬二郎著  ニ・ニ六事件 から


尊皇討奸・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」

2021年11月26日 20時24分22秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました
私は理屈は知りません、
しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
牧野だけは私にやらして下さい、
牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ
と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、
余は強く肺肝をさされた様に感じた。
・・・第磯部浅一  行動記  第八 


朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、

此ノ如キ暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ
・・・「 彼等は朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 」 

確かに陛下は股肱を殺されたとお考えあそばされた。
だがな、
陛下からご覧になれば股肱でも、
我々から見れば君側の奸だった。
・・・斎藤瀏 

『 君側の奸を討つ 』

謹ンデ推ルニ我神洲タル所以ハ、
万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化ヲを遂ゲ、
終ニ 八紘一宇ヲ完フスルノ国体ニ存ス
此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ
天祖肇国神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制を整へ、
今ヤ 方ニ万万ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋ナリ
然ルニ 頃来遂ニ不逞兇悪の徒簇出シテ、
私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶対ノ尊厳を藐視シ僭上之レ働キ、
万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、
従ツテ 外侮外患日ヲ遂フテ激化ス
所謂 元老重臣軍閥財閥官僚政党等ハ 此ノ国体破壊ノ元兇ナリ
倫敦海軍条約 並ニ 教育総監更迭ニ於ケル 統帥権干犯、
至尊兵馬大権ノ僣窃ヲ図リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教団等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬ヘ難キ所ナリ
 ・・・蹶起趣意書


余の計画は最初は田中、河野、余の三人で
岡田及び内府をたほして政変を起す程度で満足せねばならぬと思ってゐたのであったが、
栗原は、その関係方面の実力を以て、三目標は完全にやれると云ふのだ。
そこで栗原が一案を出して、岡田、齋藤、鈴木貫位ひでどうですかと云ふのだ。
   <註>・・・
鈴木侍従長の帷幄上奏阻止 

・・・挿入・・・
ある日曜日、西田税が、後の血盟団の一人、
東大生の久木田裕弘を伴って私の下宿に訪ねてきた。
西田は 「 参謀本部の連中の持ってきた暗殺計画には驚いたよ。
警察署長クラスの小物までやろうというんだから・・・。
うんとケズって大物だけ残すようにいっておいたがね 」
と いって笑ったが、こんな話から私が
「 牧野伸顕 をねらうつもりだが 」 と いうと、
これまで控え目に西田のかげに坐っていた久木田が 突如にじり出て
「 私では間に合いませんか 」 と 真剣な顔でいった。
私は 「 久木田さんが是非にというのなら、別のでかまいませんよ」 と いった。
・・・末松太平 ・ 十月事件の体験 (3)


余は牧野は如何と云ふたら、
牧野はいいでせう。
う 内府をしりぞいて力を振ふわけにはゆかぬではないか、
と云ふのだ。
余は牧野、西園寺をたほさねば革命にはならぬ、維新の維の字にもならぬ。
政変が起って、しかもそれが吾々同志に不利な政変になるかも知れぬぞ、と答へて。
大きくやるなら徹底的に殺してしまはぬと駄目だ、
特に牧、西は絶対に討たねばだめだ、と主張した。
・・・磯部浅一  行動記 第六 

襲撃目標は五・一五以来、
同志の間に常識化してゐたから大した問題にならず、簡単に決定した。
唯 世間のわけを知らぬ者共から見て、
渡辺と高橋は問題になると思ふから、理由を記しておく。
高橋は 五・一五以来、維新反対勢力として上層財界人の人気を受けてゐた。
その上、彼は参謀本部廃止論なぞを唱へ、
昨冬予算問題の時には、軍部に対して反対的言辞をさえ発している。
又、重臣、元老なき後の重臣でもある。  <註>・・・
高橋是清 ・ 天誅の由 
渡辺は 同志将校を弾圧したばかりでなく、
三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しさうな人物の筆頭だ。
天皇機関説の軍部に於ける本尊だ。 <註>・・・渡辺教育総監に呈する公開状
・・・磯部浅一 行動記  第十 


大内山の暗雲 ( 君側の奸 )
私は昭和十一年一月十日入隊したばかりの新兵で、

訓練と内務のため追廻わされるような毎日を過ごしていた。
だが日課の中には 午後 精神訓話が組まれてゐて中隊長安藤大尉からの話を謹聴する
落着いた時間もあった。
中隊長の訓話は日本の現状をテーマにしたものが多く、
東北地方の農村における深刻な実情について、娘の身売りや生活の赤貧ぶりなどを
克明に説明されたのを今でも記憶している。
そして必ず左のような絵を黒板に書いたものである。

いくら太陽 ( 天皇 ) が照っても
黒雲 ( 側近・軍財閥 ) が遮っている限り 地上の作物は生長しない、

つまり国民が栄えてゆくためには黒雲を取り除かねばならない。
今の日本の現状はこの絵のとおりである。
東北の農民は勿論、全国民が安らかな生活をするにはどうしても
天皇のとりまき連中を排除して
国民の声を上聞に達するようにしなければならない。

いずれ日本は米英から戦争を仕向けられる運命にあるので
国内の改革を急ぎ断行する必要がある。

安藤大尉は常にこの持論をもって強調した。
・・・歩兵第三聯隊第六中隊・二等兵 酒井光司 


かくすれば
かくなるものと 知りながら
已むに已まれぬ 大和魂


教育勅語に国憲を重んじ、国法に遵い、とあります。
自分はこの勅語を重んじ、従うものであります。

「 それでは、被告は国法の大切なことは知っているが、
 今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか 」

そうであります。
大悟徹底の境地に達したのであります。
 ・・・
相澤三郎 

二・二六事件に参加せる動機は

私は日本大学在学中から政治問題に就ては研究を為して居りました関係から、
栗原中尉の感化を受けたわけでも何でもありません、
過去の歴史が、即ちロンドン条約、五・一五事件、永田事件、神兵隊事件
等々が私を奮起せしめた原因であります。
ロンドン条約に於ては、三千万円の金に依って牧野其の他の重臣が買収され、
敢て六割の比率条約を結び、亦、五・一五事件後の彼等の情態は、反省せざるのみか、
却って私利私慾のみに腐心し、又、五・一五事件後の斎藤内閣に於ては、
農村に対し自力更生等と愚弄策を以て欺瞞し、
実に為政家は所謂策略を以て国民を欺瞞して居りました。
現在の農民に対してより以上の勤勉と節約を望まんとする前に、なぜ彼等は反省せざるや、
彼等は驕奢華美の生活に飽き足らず、猶農村の血と汗と油の結晶を吸血せんとするのか、
是こそ真の国賊であり、逆賊でなくして何んであろうと、
彼等の一大反省と覚醒と奮起を促す為、
非常手段を以て奸賊共を排除せざるべからずと思考し、
確固たる信念を以て同志栗原中尉等の蹶起に参加致しました。
・・・
 綿引正三
・・・ 牧野伸顕襲撃 3 


私は在郷中、建国会員深沢四郎の書生として雇はれ、

本人より常に社会情勢並に重臣、財閥、特権階級 等の腐敗堕落の実情を聴取し、
国家革新の必然を痛感するに至り、栗原中尉を知り 国家革新運動を学び、
遂に事件に参加したるものなり。

五・一五事件後に於ても 政党、財閥、特権階級、重臣等は何等反省する所なく、
依然私利私慾のみに狂奔し居る実情に鑑み、直接行動を以てする外手段なしと覚悟し参加せり。
国家を毒するものは一掃しなくてはならぬと思って居り、
吾々の蹶起により、譬え一部たりとも社会の改革が出来得たなれば、本望と存じて居ります。
・・・宇治野時参 軍曹
・・・
下士官兵 

国を思ふ心に萌えるそくりようの

心の奥ぞ神や知るらん
重臣を殺害し、昭和維新を断行したる行為は国法に違反するものとは考へざりしや
国法に違反することは考へて居りました。
然し、百年の計を得んが為には、今は悪い事をしても良いと思ひました。
・・・長瀬一 伍長 
・・・長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 


自分は農村出身であり 農民の苦しみと高位高官の生活の距り等 考えると、
どうしても不正を行っているように思う。
上御一人はこの様な庶民の苦しい生活を知らされてない。
即ち 重臣達が陛下の側近に垣を成して神意を妨げ、私慾を恣ほしいままにしているのではないか。
それが大内山の暗雲なのです。
・・・ 福本理本伍長 
・・・下士官兵 


日本の生成発展の大飛躍の為

已むに止まれぬ所より
統帥権干犯者を斬ったのみにて、
超法的の行為なり
・・・
栗原安秀

陛下の御為に

重臣、財閥等の袞竜の袖に隠れて大権簒奪をなせるものを斬った。
我々の行動は已むに止まれず起ちたるものなり。
国家危急存亡の秋、
時弊を今にして改めずんば国体危機より、
超法的に行動をなしたるものなり。
故に、国憲国法を無視したるものにあらず。
即ち、大権簒奪者に対する現行刑法の制裁なし。
因て、其の犯行者を其儘にする能はざるを以て、
之を討つには斬るより他に途なし
・・・村中孝次

死刑判決理由主文中の
「 絶対に我が国体に容れざる 」 云々は、如何に考へてみても承服出来ぬ、
天皇大権を干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ、
剣を以てしたのが国体に容れずと云ふのか、兵力を以てしたのが然りと云ふのか
天皇の玉体に危害を加へんとした者に対しては
忠誠なる日本人は直ちに剣をもつて立つ、
この場合剣をもつて賊を斬ることは赤子の道である、
天皇大権は玉体と不二一体のものである、
されば大権の干犯者(統帥権干犯)に対して、
純忠無二なる真日本人が激とし、この賊を討つことは当然のことではないか、
その討奸の手段の如きは剣によらふが、弾丸によらふが、
爆撃しようが、多数兵士と共にしようが何等とふ必要がない、
忠誠心の徹底せる戦士は簡短に剣をもつて斬奸するのだ、
忠義心が自利私慾で曇っている奴は理由をつけて逃げるのだ、
唯それだけの差だ、
だから斬ることが国体に容れぬとか何とか云ふことには絶対にないのだ、
否々、天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ、
国体に徹底すると国体を侵すものを斬らねばおれなくなる、
而してこれを斬ることが国体であるのだ、
・・・獄中日記 (二)  八月九日

曹長は、法律と云うが、
その法律を勝手に造る人達が、御上の袖に隠れ、
法律を超越した行為があった場合、一体誰が之を罰っするのだ。
神様に依る天誅以外に道がないではないか。
 ・・・相澤三郎


維新は天皇大権により発動されるもの

2020年04月20日 18時49分37秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

青年将校は、
その維新達成のためにどんな方法をもって、ことをすすめようとしていたのか。
その彼らは、二・二六に蹶起し、重臣を暗殺し、軍に維新断行を迫った。
このため、彼らは武力革命を信念としていた、
と 一般に理解されている。
だが、それはかならずしも正しい理解ではない。
彼らはその革命に武力の発動を否定しなかったが、その根本は平和革命にあったし、
何よりも彼ら自らが革命の主体となるのではなく、軍を革命化することであった。
すなわち、彼らの昭和維新実現の方途として、二つの注目すべき態度があった。
その一つは、当面、軍を維新化することであり、
その二は、武力的、権力的な行き方に批判的であったことである。

昭和九年春頃、
東京にあって青年将校運動の中核的存在として、活躍していたのは、
当時、陸軍大学校に在学していた村中孝次大尉と、
野砲兵第一連隊の主計大尉だった磯部浅一であった。
   
村中孝次          磯部浅一 
この村中は、その年の三月に、同期生有志にあてて通信を贈っているが、
その中に、
「 維新とは軍民の魂の覚醒で、これを基礎とする国家組織制度の変革をいう。
則ち、国民の各人が建国の理想、進化発達した時世をよく理解し、
国家の現実中、建国の理想にもとり時代の進運にともなわない部分をただすにある。
組織制度の改造は全部でなく、国民意識の覚醒が第一であり、
これを基礎として、新しい組織制度が結集されるのである 」
「 吾等は日本の維新は、
 天皇大権の御発動によってのみ行われるべきものであるとの、国体観に立つものである。
したがって、
上は至上を至上と敬し奉り、
下は国民階層とくに維新機運の熟成を図るに努め、
かつ、同志相戒めて、国民の艱難かんなんを自身に負い来ったのである 」
「 維新の本義は国内正義の拡充確立にある。
われらは派閥をつくり党派を立てんとするものではない。
建国の大精神に挙国一体たることを維新への道と心得、
自己ならびに自己の周囲に対する道義の拡大強化を、
維新実現の基調と信ずるが故に、
皇威宣揚、億兆安撫を志す同志間に、培われつつある同心偕行の一体観を拡大して、
皇国全体に及ぼさんと念願するものなり 」
と書いている。

リンク→村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信 

すなわち、彼によれば、
維新とは精神革命であり、
しかもその全国維新は天皇大権により発動されるもの、
これがため、
まず、軍が維新への一体化を期さなくてはならないとしていたのである。
だから、
この年の秋、十月、陸軍省が公表した 『 国防の本義と其強化の提唱 』 という
パンフレットには彼らはたいへんな感激を示している。
( リンク→ 
村中孝次 『 国防の本義と其教化の提唱について 』 
ちょうどその頃は青年将校と中央部幕僚とが対立し、
青年将校は、ひどく中央部幕僚に反感を示し あたかも仇敵視していたのであるが、
そうした感情をこえて村中は、
「 陸軍が公式に経済機構の変革を宣明したのは、建国未曾有のこと、
 昭和維新の気運は画期的進展を見たりというべし。
われわれは徹底的に陸軍当局の信念、方針を支持し、拡大し強化するを要す 」
と 同期生有志に書き送っているが、
それは彼がかねて希望する
軍の維新体勢への途が開かれたと信じたからである。

ところが、
彼らが陸軍の態度に大きな期待をもってこれを支援しようとしていたやさき、
思いがけなくも
十一月事件という一部幕僚の陰謀のワナにかかり投獄されたのであるが、
(  昭和九年、村中孝次、磯部浅一らによる クーデター計画があるとして拘禁されるが 証拠不十分で不起訴処分 )
リンク  ↓
・ 所謂 十一月二十日事件 
十一月二十日事件の経過
・ 
法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」

そこでの予審調書には、
「 まず軍部が国体原理に覚醒し国体の真姿顕現を目標として、
 所謂維新的に挙軍一体の実をあぐるとともに、軍隊教育を通し、
かつ、軍部を枢軸として全国民の覚醒を促し、全国的に国家改造機運を醸成し、
軍部を中心主体とする挙国一致の改造内閣を成立せしめ、
因って以て国家改造の途に進まんと企図した 」
と 記録されているし、
さらに、
村中は自分たちの検挙に策動した者を獄中より誣告罪で告訴しているが、
その告訴理由の中で、
「 十月事件以来、小官らは次の方針を以て終始し来れり。
 即ち、至誠天に通ずる左の如き各種の手段方法を講じ、大号令の御発動を希う。
第一、陰謀的策動を排し、左右、上下を貫通し陸海両軍を維新的に結成し、軍を維新の中核に向って推進す。
第二、軍隊教育を通じ、かつ軍隊運動を槓桿こうかんとして、全国的に維新気風を醸成す。
第三、各種の国家問題、社会事象を捕捉し、これを維新的に解決し国内情勢を推進し、
 維新発程、すなわち大号令の渙発を容易ならしむ 」
といい、これが具体策としては、
「 小官らは刻下の方策として、
現陸相林大将を首班に、真崎、荒木両大将をその羽翼とし、
陸海軍を提携一本とせる軍部中心主義とする挙国内閣の出現を願望とし、
大権発動の下に、軍民一致の一大国民運動により国家改造の目的を達せんとす 」
( 昭和十年二月七日獄中より提出した告訴理由書 )
このように、
彼らも直接行動を絶対に否定するものではなく、
「 国家、国民を感格せしむるだけの非常の大時機 」
「 尋常の人事をつくしてなお及ばない 」
場合には、奸賊討滅のために法の前に刑死する覚悟で立つというのである。
だから、
彼らの武力行使は、真に切羽つまった国家の危局には、
あえて捨身の一挙により革命の先端を開くことを予期していたわけである
が、二・二六蹶起がこれにあたるものであったかどうか

大谷啓二郎著 軍閥 より 


「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」

2020年04月10日 18時45分50秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的


「 青年将校は、北、西田の思想に指導せられて 日本改造法案 を実現するために蹶起したのだ 」
  と 云ったり、
「真崎内閣を作るためにやったのだ」
 等の 不届至極の事を云って、ちっとも蹶起の真精神を理解しようとはせずに、
彼等の勝手なる推断によって青年将校は殺されてしまひました。
北、西田氏も亦同様に殺され様としています。
青年将校は改造法案を実現する為に蹶起したものでもなく、
真崎内閣をつくるために立ったのでもありません。

蹶起の真精神は
大権を犯し国体をみだる君側の重臣を討って大権を守り、
国体を守らんとしたのです。

ロンドン条約以来統帥大権干犯されること二度に及び、
天皇機関説を信奉する学匪、官匪が宮中、府中にはびこって
天皇の御位置をあやうくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
そもそも 維新と云ふことは皇権を恢復奉還することであって、
陸軍省あたりの幕僚の云ふ政治経済機構の改造そのものではありません。

青年将校の考へは 一言にして云へば
「 皇権を奪取 (徳川一門の手より、重臣元老の手より) 奉還して大義を明らかにすれば、
 国体の光は自然に明徴になり、国体を明徴にすれば 直ちに国の政・経・文教全てが改まるのである。
これが維新である 」
と 云ふのです。
考え方が一般の改造論者とひどく相違しています。
法務官などは此精神がわからぬものですから、
「 オイ、御前達は改造の具体案をもっているか。何ッ、もっていないッ。 
 そんな馬鹿な事があるか。
具体案もなくて維新とは何だッ。
日本改造法案が御前達の具体案だらう。何ッ、ちがいますう。
嘘だ、御前達の具体案は改造法案にきまっている。
あれを実現しようとしたのだ。サウダ、サウダ 」
こんな調子で予審を終り、
公判になって、民主革命を強行し、・・・・を押しつけられたのです。

藤田東湖の
「 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 」

これが維新の真精神でありまして、
青年将校蹶起の真精神であるのです。
維新とは具体案でもなく、
建設計画でもなく、
又、案と計画を実現すること、そのことでもありません。

維新の意義と青年将校の真精神とがわかれば、改造法案を実現する為めや、
真崎内閣をつくる為に蹶起したのではない事は明瞭です。
統帥権干犯の賊を討つ為に、軍隊の一部が非常なる独断行動したのです。
私共の主張に対して、彼等は統帥権は干犯されず、と云ひます。
けれどもロンドン条約と真崎更迭の事件は、二つとも明かに統帥権干犯です。
法律上干犯でないと彼等は云ひますが、
法律に於て統帥権干犯に関する規定がどこにあるのですか。
又、統帥権干犯などと云ふものは、法律の限界外で行はれる事であって、
法律家の法律眼を以ては見定めることは出来ないのです。
これを見定め得るものは、
愛国心の非常に強く、尊皇精神の非常に高い人達だけであります。
統帥権干犯を直接の動因として蹶起した吾々に対して、
統帥権は干犯されていないとし、
北の改造法案を実現する為に反乱を起こしたのだとして
罪を他になすりつける軍部の態度は、卑怯ではありませんか。


磯部淺一  獄中手記(三) 四、尊皇討奸事件(二・二六)と北、西田両氏トノ関係
1 青年将校蹶起の動因
二・二六事件秘録 (別巻) より


憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二・二六事件 』

2020年04月01日 15時00分38秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的


二・二六事件、
あの一世を聳動したこの大事件も、
すでに三十七年の歳月を刻んでいる。
その雪の朝、
「 尊皇討奸 」 の旗印をかかげて蹶起した青年将校たちは、
その討奸の故に、天皇の激怒に触れ 事はただちについえた。
彼らがともに天をいただかざる逆臣と信じた元老、重臣は、
天皇の信任厚き老臣であった。  ここに、この事件の悲劇がある。


その年七月十二日、むし暑い日だった。
代々木の原では、あちこちに点在する兵隊たちが、空砲を空に向けて撃っていた。
銃殺音をまぎらわせるための偽装工作であった。
高い刑務所の塀の内から、絞り出すような天皇陛下万歳の叫び、
軽機の点射音かと思う一斉射撃の銃声、 
この身のひきしまった一瞬、
わたしは今でもこの体験を忘れることができない。

二・二六事件は青年将校の悲劇として、今日多くの人々にうけとられている。
たしかに、彼らは天皇のため、
あるいは国のためと信じて重臣たちを討ちとった。
この天皇への忠誠心は、寸分の濁りもない至純のものだった。
だが、彼らの事は敗れ、
蹶起のあと、わずか百三十四日にして、その多くはもはやこの世の人ではなかった。
天皇への忠誠心に こりかたまっていた彼らは、
叛徒として天皇の名において裁かれ処刑されたのである。

青年将校は国体破壊の元兇として天皇側近の重臣を斬奸した。
この朝、天皇はその寝所において当直侍従甘露寺受長から、
鈴木侍従長の重傷、齋藤内大臣の即死の報告を得られたが、
それは午前五時半すぎであったという。
彼らは午前五時を期して一斉に重臣たちを襲ったが、
その三十分のあと、それはまさに彼らの蹶起の瞬間において、
その凱歌とともに決定的敗北を喫したことになる。
天皇はその側近たちの横死に、はげしい怒りを発したからである。
天皇側近の重臣を殺害することは、
天皇の主体性をきわめて直接的に否定することであり、
天皇の激怒を買うことは、おおよそ、必然に予想しうるところなのに、
彼らは得々として天皇の信頼する重臣を逆賊ときめて、
兵力をもってこれを誅伏したのだ。

天皇絶対を信念とした彼らは、
そのことが天皇の意に叛きその激怒にあっては、
ただ、天皇の御前に懼伏するほかはない。
彼らの 「 尊皇討奸 」 の旗印は、
その尊皇と討奸の現実の矛盾の故に、
その始めから消え去る運命にあったともいえる。
人はこれを二・二六事件の悲劇という。

なるほど、天皇のために聖明を蔽うと信ずる逆臣どもを討ちとったが、
その彼らがとらえた逆臣は、天皇の信頼する老臣であったのだ。
なぜ、このようになったのであろうか。
昭和史の発掘に心血をそそぎ、
二・二六事件の分析追求に顕著な業績を示された、
作家松本清張氏は、
彼らは天皇と天皇制との理解がなかったのだという。
( 朝日新聞読書特集 「 私の身辺昭和史 」 )。
天皇制を構成する元老重臣をたおして天皇制そのものを破壊したので、
その天皇制の中心たる天皇の激怒に触れ、事は不成功におわったというのであろう。
だが、彼らは天皇と天皇制との理解がなかったというほどに思想的無知ではない。
彼らは天皇制そのものを破壊しようとしたものではない。
現に天皇制を構成している側近をしりぞけて、
これに代うるに不世出の人格者の大業翼によって、
天皇の御光があまねく国民に光被されることを望んで、
あえて現在の輔翼者を斬奸したのだ。
ともかくも、彼らは彼らなりに、わが国体観を確立しその国体観にもとづいて、
現重臣たちを国家悪と認識したのだ。
ただ、その重臣たちを討ちとった場合、天皇がこれにいかに反応されるかについて、
彼らがどのように考えたか、この点がわたしはたいへん重要だと思っている。
悪臣であろうが、逆臣であろうが、
現に天皇の側近であることには間違いのない重臣を討滅するのであるから、
それが、天皇の心に副うるものなりや、
あるいは、はなはだ不本意とされるものなりやの判断がなくてはならない。
一体、彼らはこのことに思い至らなかったのだろうか。
いや、
彼らは天皇側近の重臣をたおすことは、
天皇の意に反することあるべきを知っていた。
「 素より一時聖徳に副わざる事あるべきは万々覚悟 」
の上のことであった。
( 村中孝次 「 丹心録 」 )
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・・・挿入・・・
昭和維新の断行とは臣下の口にすべき言にあらず、
吾人は昭和維新の大業聖猷を翼成せんが為、我等軍人たるものの任とすべき、
且 吾人のみに負担し得ることとして、今回の挙は喫緊不可欠たるを窃に感得し、
敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり、
素より一時聖徳に副はざる事あるべきは万々覚悟、
然して此の挙を敢てせざれば何れの日にか此の国難を打開し得んや。

・・・続丹心録 ・ 第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」 
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しかもあえてこれを断行したのは、
いずれは天皇の理解を得ることができると信じていたからである。
彼らによれば、天皇は神であり、至誠至純は神に通ずるものと信念していた。

だが、彼らの天皇観は彼らの観念のうちにあった天皇であって、現実の天皇ではなかった。
現実の天皇の重臣への信頼は絶対に近いものであった。
天皇にとっては、その重臣殺戮は許しがたい暴逆であった。
もはや忠誠心などといえたものではなかった。
ここに、二・二六事件の悲劇がある。

わたしは、すでに 「 二・二六事件の謎 」 という一書を公けにしている。
再びこれについて書くこともないと思っていたが、
頃来、閑を得て、
小学館発行の 「 二・二六事件秘録 」 四巻、
この厖大なる事件資料をつぶさにひもといた。
そこでは、わたし達の関係した多くの憲兵調書が
生々しく集録されていて感慨さらに一入なるものがあった。
が、とくにわたしは青年将校たちの、その短い悲劇の一生に思いを馳せながら、
この悲劇がどこに由来するものかを、あらためて考えてみたくなった。
そして、あくこともなく、丹念に この書に読みふけった。

たしかに、彼らは無念至極であっただろう。
天皇陛下に忠誠を誓い、
天皇陛下のためにこの日本国を立派な姿にしようと蹶起したが、
その彼らの真意は雲の上に通じなかった。
それだけではなかった。
軍の首脳は天皇の御思召しとは逆に、彼らの志を賞揚した。
わが事成れりと喜んだのも束の間、しきりに兵を引けとすすめる。
このインチキを看破できないまま、
「 奉勅命令 」 とかで撤退をすすめることに首をかしげた。
われらの行動が認められて、こうした命令がでるはずがないのに、
奉勅命令、奉勅命令である。
彼らはこうしてもはや、軍首脳部をはじめ、これにしたがう幕僚たちに不満というよりも不信を示した。
だが、奉勅命令は天皇の命令である。
これが出れば従わざるを得ない、それは絶対である。
そこで、これを抑止しようと懸命になった。
だが、その命令はすでに二十七日朝天皇の允裁をうけており、
その抑止方の努力もわずかにこれが実行を延引させるだけの効果しかなかった。
そして、二十八日以来、彼らを包囲した軍隊は、その包囲網を縮小して彼らを激発した。
そして二十九日早暁来の討伐作戦となった。
彼らにとっては、ほんとに何がなんだかわからないことばかりであったが、
払暁以来奉勅命令の下達間違いなしと判断して、続々兵をかえして帰順した。

だが、彼らは奉勅命令に従わなかったとて逆賊扱いにされてしまった。

陸相官邸では、昨日までは青年将校に拍手をおくり、
あるいは青年将校の威迫におそれて機嫌をとり結んでいた幕僚たちが、
にわかに威勢高を示し、 横柄にも捕虜扱いをする。
そして自決を迫る。
こんな状況に追い込まれた彼らは、自決など糞くらえと、
連日の疲労でグッスリね込んでいるところを起こされ、手錠をかけられ投獄されてしまった。

たしかに、彼らに同情すべき多くのものがある。
だが、また、彼らにも考えの及ばなかったこと、若さの故の弱点も多い。
とくに彼らが入獄以来、世の流れに隔絶されていたとはいえ、
一途にかの四日間の情感に生きて、
そこに、この事件についての静かなる反省のないことが惜しまれる。
・・・・

二・二六事件はなぜ挫折したのか、
これを戦術的にいえば、彼らが維新革命家に徹しきれなかったことにあるともいえる。
あれだけの武力を動員しながら、彼らはみずからが革命の母体となることを避け、
まず陸軍をして革新に進ましめ、 その陸軍をもって天皇に維新発動を要請せしめようと企てた。
これがため陸軍首脳の説得に全力をつくしたが、遺憾ながらそれは空ぶりにおわった。

「 吾人は維新の前衛戦を戦いしなり、独断前衛戦を敢行せるものなり。
 もし本体たる陸軍当局がこの独断行動を是認するか、
もしくはこの戦闘に加入するかにより陸軍は明らかに維新に入る。
これに従って国民がこれに賛同せば、これ国民自身の維新なり。
しかして至尊大御心の御発動ありて維新を宣せらるとき日本国家は始めて維新の緒につきしものなり。
余はこれを翼願しこれを目標とし蹶起後において専念この工作に尽力せり 」

・・・続丹心録 ・ 第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」 

だが、なぜに彼らは他力をたのみ、みずから革命の主体たることを忌避したのだろうか。
それは、兵力をもって大権の発動を強要し奉ることは、
彼らにとっては国体の破壊であるとしていたからである。
「 いやしくも兵力を用いて大権の発動を強要し奉るがごとき結果を招来せば
 至尊の尊厳国体の権威を如何せん 」
 (同右)
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・・・挿入・・・
吾人は三月事件、十月事件等の如き 「 クーデター 」 は国体破壊なることを強調し、
諤々として今日迄諫論し来れり。
苟も兵力を用ひて体験の発動を強要し奉るが如き結果を招来せば、
至尊の尊厳、国体の権威を奈何せん、
故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覚悟せる同志の集団ならざるべからず。
一兵に至る迄 不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。
国体護持の為に天剣を揮ひたる相澤中佐の多くが集団せるもの、
即ち相澤大尉より相澤中、少尉、相澤一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。
此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、
故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意図は極微と雖もあらず、
純乎として純なる殉国の赤誠至情に駆られて、国体を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。
吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、
乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の実現を妄想して此挙をなせるものならんや。
吾人は身を以て大義を宣明せしなり。
国体を護持せるものなり。
而してこれやがて維新の振基たり、
維新の第一歩なることは今後に於ける国民精神の変移が如実にこれを実証すべし、
今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。
・・・丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 

軍政府樹立、しかして戒厳宣布これ正に武家政治への逆進なり。
国体観念上吾人の到底同意し能わざるところなり
・・・丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 
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みずから革命の主体となり革命を進めることは、
この国では天皇への強要を意味しそれは国体破壊だというのである。
いわば、彼らのもつ国体観、天皇観がこれを許さなかったのである。
では、その国体観、天皇観とは何か。
「 我国体は上は万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、
万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命結合なることにゆいて
万邦無比といわざるべからず。 我国体の真髄は実にここに存す 」
・・・続丹心録  「 死刑は既定の方針だから 」 
すなわち、我が国体は天子を中心とする全国民の渾一的生命体であり
天皇と国民とは直通一体たるべく、
したがって、天皇と国民とを分断する一切は排除せられ、
国民は天皇の赤子として奉公翼賛にあたるべきもの。

たしかにそれは天皇制国家の理想像であった。
一方、日本国体における天皇は、「 神聖ニシテ侵スベカラズ 」 であったが、
軍人のとらえる天皇は、大元帥としての天皇であった。
軍統帥権者としての天皇は、その統帥に服する軍人にとっては、「 絶対 」 の天皇であった。
「 天皇 」 という一言で将兵一同粛然と姿勢を正すといった軍隊社会では、
もはや天皇は現世における絶対の権威であった。
これが現人神であったのだ。

このことは革新に燃える青年将校といえどもその例外ではない。
いな むしろ天皇信仰の第一人者であった。
したがって、この一挙においても天皇の意思
即ち大御心は青年将校の憶測予断を許さざるものであった。
ただ、陸軍首脳を鞭撻しその首脳者の天皇輔翼によってのみ、
維新への道を開こうとしたにすぎない。
ここでは必然にクーデターに限界があった。
彼らの天皇信仰から発したこの維新革命も、
その天皇信仰の故に、たどりつくべき宿命的障壁をもっていたのだ。

そして事は敗れたが、
その敗戦は彼らのいう殺戮の不徹底でもなければ、
また、鳥羽伏見の戦が蛤御門の戦であったわけでもない。
実にその敗因は彼らの天皇観とその信仰にあったといえよう。
天皇の御為めと、その純真なる天皇観に支えられて蹶起したが、
天皇の名による裁判によって処刑された彼らこそ、
その忠誠心が至純なだけに、歴史の悲劇と断ぜざるを得ない。

ここに安藤輝三の遺書 
「 国体を護らんとして逆徒となる  万斛の恨 涙も涸れる ああ天は 」 
が 悲痛なひびきをもって、われわれに迫ってくるものがある。

わたしが、その頃 代々木の軍刑務所で彼らに会ったのは、
死刑の求刑後、判決の前後のことであった。
そしてその会った人々も、村中、磯部、香田、安藤、對馬、竹嶌などで
刑死したすべてに会ったわけではない。
しかし彼らに対する影像は、いまに至るまではっきり残っていて、
こうしたことを書いていても、
時に、彼らと対談しているような錯覚におちいることがあるほどに、
わたしはこれらの人々につよい愛着を感じている。
私は首謀者たちが、軍に対する不信と、
その不信の故に軍の前途に深い憂慮をもちつづけ死んで行ったことを、
よくその言動によって承知しているし、
また、竹嶌や對馬などがどうして、この道に入り込んだのか、
その思想の成長過程に興味を感じ、
なにくれとなく そうしたことの雑談にふけっていたことの想い出も深いものがある。

これらのことを今日思い浮かべてみて、
考えることは、やはり軍人には軍人特有のな偏向があった。
それは普通人では理解しがたい性向というべきか、
ともかくもこうしたものの上に、国家改造という思想洗礼をうけて、
一途にそれこそ馬車馬のように、自己過信の独走をつづけ、
聞くもの見るもの破壊しなければやまぬといった焦そう、
そうしたものの行きつく先が、この事件の突出であったとも思われる。
ここにこれらの若者たちを指導し薫化する先輩や上長のいなかったことがくやまれる。
とはいえ、これらの思想に魅せられた若者たちの、自分たちこそ忠君愛国のかたまりで、
こうした思想運動に血道をあげない奴は、職業軍人だとあざけりつづけていた。
その独善的態度にも問題はあるが、
やはり、彼らの腹の中に入って彼らとともに事を進めながら、
かたわらにその指導改善をはかるといった人々のいなかったことが、
結局、極端なる愛国軍人をつくり上げ、国を不安のどん底に陥れ、
しかも彼らみずからもまた悲劇の道におちこむ不幸を招いたというほかはない。
これが歴史の流れというのかも知れない。
が、そこに大局的な判断に立ち、
つねに、大胆に、いかなる力をも恐れざる指導者こそ、
いつの世でも、国民をこうした不幸から救うものであることを、
つくづく感ずる次第である。
・・・・
昭和四十八年八月
大谷敬二郎


「 二・二六事件 」 から