あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と靑年將校のあいだ

2017年02月15日 19時41分19秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇陛下

何と云ふ 御失政でありますか
何と云ふ ザマです
皇祖皇宗に 御あやまりなされませ


現代のエスプリ
二・二六事件
編集・解説  利根川裕
NO92
昭和50年3月1日発行  定価790円
 目次
昭和51年(1976年) 10月26日 出逢いし此の書籍
これまで再三 開いては眼をとおした
数ある記事の中で、特に私の関心を惹いたのは   ( 目次参照・・クリック)
新井勲著 『 日本を震撼させた四日間 ( 二・二六事件青年将校の回想) 』
和田日出吉著 『 青年将校運動とは何か 』 
の 二点
此を 熟読、浄書した
然し
その外の記事に 殊更 関心を惹くものに出逢うことはなかった
ところが
書籍との出逢いから 43年経った
2019年(平成31年) 4月
革めて書籍を開いた私は、
これまで やり過ごしてきた一つの記事を認め
此を 初めて精読・浄書したのである
『 機が熟す 』 
とは、斯様なこと を謂うのであろうや

概説
天皇と靑年將校のあいだ
利根川 裕
目次

 クリック すると頁が開く

天皇と靑年將校のあいだ 1 一君萬民、君臣一界の境 
日本の陸海軍は、天皇の軍隊であった。
そして 天皇と軍隊の関係は、
その制度においても倫理においても、
他の近代国家とちがった特殊なものであった。
それは しばしば、
「 万邦無比 」 とか 「 国体の精華 」 と 
称されて 益々昂揚されたものであったが、
この特殊世界における純粋培養体は、
その独善性を含めて 青年将校だったとも謂える。
天皇が自分の統帥する軍隊に要求する制度 と
倫理の純粋結晶の一つの現れが青年将校であった。
青年将校を生んだのは天皇であり、
それは天皇の生んだもののなかの 「 傑作 」 であった。
 
天皇と靑年將校のあいだ 2 天皇制の至純を踏み蹂ったのは天皇自身であった 
処刑されてゆく青年将校はじめ、その同調者達は、
彼等を敗北に追い込んだ統制派の策謀に万斛の恨みを抱く。
青年将校達の天皇帰一の至純な運動も、
統制派によって穢けがされ 歪められ、ついに葬られた、というわけである。
本来なら天皇に届くはずの彼等の忠誠心も
ファッショ的軍閥によって遮られてしまった、というわけである。
然し、果してそうだったのか。
青年将校達の意図を踏みにじったのは、果して統制派だったのか。
実は、どの勢力よりも断固として青年将校を許さない大権力があったのである。
他でもなく、それは、天皇自身であった。


天皇と靑年將校のあいだ 3 極めて特殊で異例な天皇の言動 
四日間を通じてみられる天皇の言動は、 極めて特殊なものである。
天皇は如何なる輔弼機関の決定をも待たずに、
初めから即刻鎮圧の意志決定をしており、
各機関の消極的抵抗を叱咤激励して、
自己の意思を貫徹させようとしているのである。
立憲国の君主として、これは極めて異例な事といわざるを得ない。
天皇と青年将校とは、
なににもまして、もっとも対立した関係にあったのである。
そしてこのことを、青年将校達は 少しも知らなかった。

天皇と靑年將校のあいだ 4 天皇が天皇に向って叛乱したようなもの 
天皇は何度も、自分の大命によって成立した内閣が
軍部のために瓦壊した事例を経験したし、
自分の統帥命令を俟たずに出兵した事例をも体験していた。
そういう鬱積が、二・二六事件に対して爆発したのでもあったろう。
( 尤も、青年将校側からいえば、
そういう軍部勢力こそ軍閥として 彼等の打倒せんとしたものではあったが )
天皇は、青年将校達が謂う
天皇帰一の理想国家をそのまま信じこむには、
遙かに近代官僚国家体制に通暁していたし、
自分の権力と責任がその体制下にあるものであることを十分に自覚していた。
青年将校達は、天皇という存在をあまりにもロマンティックに構想していたが、
天皇制国家の最高権力者である天皇は、
みずからをロマンティックな存在だとは少しも考えてはいなかった。
青年将校が信じていた ( あるいは心事ようとしていた ) 天皇と、
彼等を ためらいなく叛乱軍と呼ぶことのできた天皇、
この 二つの天皇は、余りにも違い過ぎる。
とはいえ これは、青年将校達が白昼夢を見ていたのだったということではない。
二つの天皇があったのである。
竹山道雄氏は、二・二六事件は
「 天皇が天皇に向って叛乱したような事件だった 」
という言い方でそのことを表現している。


天皇と靑年將校のあいだ 5 天皇制の二重構造を見破った北一輝 
明治憲法の草案を作成し、
日本最初の首相を務めた伊藤博文は、
この二重性恪を巧みに操作することにより 明治国家を運営することができた。
その際、天皇は、
国民全体に向かってこそ絶対的権威、絶対的主体として現れているが、
天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、
天皇の権威はむしろ名目的なものに過ぎず、
天皇の実質的権力は  各機関の担当者がほとんど全面的に分割し代行するシステムであった。
そしてこの二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、
伊藤の造った明治国家が成立っていたのである。
こういう二重の構造を、
久野収氏は 「 顕教 」 「 密教 」 という用語でこう説明している
顕教とは、
天皇を無限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈システム、
密教とは、
天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈システム  である。
はっきり謂えば、
国民全体には、天皇を絶対君主として信望させ、
この国民のエネルギーを国政に動員した上で、 国政を運営する秘訣としては、立憲君主説、
即ち 天皇国家最高機関説を採用する という仕方である。
( 『 現代日本の思想 』 ) 
ところで、この二重性が衝突することなく回転し得たのは、
伊藤の運営上の手腕であったと同時に、
明治天皇に国民統合の求心力があったからでもある。
だが、この国家運営は、やがて伊藤博文が死に遭い、
明治天皇が崩御するとともに、矛盾と弱点を次第に露呈し始める。
北一輝は已に、
最初の著作 『 国体論及び純正社会主義 』 で、果敢にその欺瞞性をあばいた。


天皇と靑年將校のあいだ 6 大御心は大御心に非ず 
なんぞはからん、
天皇は、君側の誰よりも早く、誰よりも強く、
そして天皇みずからの発意として、
青年将校を暴徒と呼び、
早く討てと命じ、
彼等が自殺するなら勝手にしたらいい、
と 言い放ったのである。

青年将校達は、天皇の名により叛徒とされ処刑された。
然し、彼等はそれが天皇の真の判断ではなく、
君側の奸によって曇らされた天皇の形式的判断だと思って死んでいった。
だからこそ、 死にあたってもなお、
彼等は 「 天皇陛下万歳 」 」 を 叫ぶことができた。
戦後に公にされたいくつかの文書は
甚だ特殊で異例な天皇の強烈の意志を明るみにだした。
青年将校達は、それと知らないで死んでいった。
若しそれを知っていたら、
彼等は絶望という言葉ではとても事足りないほどの
徹底的な絶望を味わねばならなかったことになる。


天皇と靑年將校のあいだ 7 二・二六事件の謎 
もし、
蹶起軍の意図が秩父宮擁立のクーデターであるとしたら、
已に軍の命令系統を踏み破っている行動部隊は、
天皇そのものをも攻撃目標にすることもあり得る、
と 天皇は予想したのだったかも知れない。
天皇は、国家秩序の破壊や軍隊の私兵化を怖れただけでなく、
もっと直接的な個人感情に左右されながら、
みずからの危険を怖れたのだったかも知れない。
これは、
一つの仮説である。

最初の頁
昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』 
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天皇と靑年將校のあいだ 1 一君萬民、君臣一界の境地

2017年02月13日 19時38分40秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (1)

二 ・二六事件の主役は天皇

昭和という元号は、
『 書経 』 のなかの 「 堯典 」 にある
「 百姓昭明  万邦無比共和 」
の文字が典拠であると謂う。

昭和四年 (1929年)、アメリカに端を発した大恐慌の波は、直ちに世界に拡がり、
日本をも深刻に見舞った。
いずれの資本主義国も、
政府がさまざまな方策で経済を統制し、景気の調整をはかろうとする傾向を強めた。
所謂 国家独占資本主義の体制である。
然し、いずれの国にしても、一刻だけの体制でそれを克服することが困難なため、
広域経済圏の確立、即ち ブロック化が構想される。
日本の、満洲・中国を圏内とする大陸経営計画もむろんその一つであった。
然し 日本の場合、そのブロックは先進列強の利害と重なりあう地帯であっただけに、
始から国際緊張を強める危険を伴なうものであった。
このような国際的課題の中で、昭和時代が展開して行く。
而して昭和時代は、その出発の そもそもの初めから、
何等かの意味の国家改造・社会改造を自己任務として担わざるを得なかった。
こういう日本の状態を、三つの観点で以て捉えると、

一、天皇シンボル
あらゆる社会的矛盾を救済する最高原理を天皇に見出すものである。
それは大衆の生活感情を 「 一君万民 」 という原理に結びつけようとするものであり、
青年将校達がそれを行動に移す。

二、デカダンの理念
社会的矛盾の解決よりも、その矛盾そのもものなかに自己を没入させるという
文学的ニヒリズムにそれが表れた。
所謂 エロ・グロ・ナンセンス の社会風俗もその大衆的表現である。
 
三、プロレタリアート革命
共産党は、その理念を組織化した現実の行動団体として、非合法の活動を行っていた。
而もこれは、天皇制原理にたいするアンチテーゼとして、国際的組織と繋がり、
日本的伝統から切り離された原理によって生きようとする異教的集団であった。
日本政府は、この異教徒的集団の弾圧を始める。
その間にも、失業と飢餓の大衆は、日毎に数を増していく。
そして青年将校達の心情的社会認識の中には、
この失業と飢餓の救済と、エロ・グロ・ナンセンスの匡正が次第に育ってゆくことになる。
青年将校達は、社会不安を克服するために、資本主義経済機構を明瞭に否定している。
彼等は、すくなくとも大資本、私有財産、土地の国有化ないし所有制限を必要としている。
こういう、構想はしばしば左翼思想に接近した現れ方を示すものであったが、
しかし決定的相違は、
それを天皇帰一という原理の上に考えている点である。
彼等は 「 一君万民、君臣一界という境地 」 にそれを求めた。
天皇と人民との間にいかなる中間支配層もおかず、
いっさいの搾取関係もおかないという、

いわば 天皇奉戴の共産体の理想国家である。
これは理想であり、夢想である
この夢想に現実化の火を点けたのは北一輝の 『 日本改造方案大綱』であろう。
只、北はこの改造計画を遂行する為に、如何に天皇大権を政治的に行使するかという
一種独特な天皇機関説を編みだしたが、
青年将校達は 「 万民一神たる天皇 」 という神話的
ないし 宗教的天皇観へと没入していった。

明治十五年にでた 『 軍人勅諭 』 は、
天皇が親しく軍人に語りかける文体を採っている。 ( ・・・リンク→軍人勅諭 )
「 朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。
されば朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ 其親は特に深かるべき 」
と 天皇は呼びかける。
もともとこの勅諭は、明治政府によって建てられた国軍が、
反政府・反天皇勢力になることを危惧したところから生まれたものであった。
そのことは、勅諭が嘗ての武家政権の歴史を振り返って、
「 兵馬の権は其武士どもの棟梁たる者に帰し、
世の乱れと共に政治の大権も亦其の手に落ち、
凡七百年の間武家の政治 」 となったのは
「 我国体に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき 」
と 記し、
「 再び中世以降の如き失態なからんことを望むなり 」
と戒めていることからも明らかである。
封建武士の間で歴史的に定着していたような主君( 諸侯 ) と 臣下( 武士 )
との主従関係とは 別の構造で編制された近代国軍としては、
天皇と軍隊を繋ぐ新しい主従関係が必要であった。
「 朕は汝等を股肱と頼み 」、「 汝等は朕を頭首と仰ぐ 」 新論理がかかげられる。
こういう両者の特殊関係は、
憲法の 「 天皇ハ陸海軍ヲ統率ス 」 という条項で、制度的にいっそう補強される。
陸海軍を統帥するものは直接天皇であり、それ以外のものは介入することができない。
このような制度と倫理は、明治・大正・昭和としだいに強調されてゆく。
軍人は天皇によって特に選ばれたものとなる。
この光栄にこたえるため、軍人たちの間では、
幕末期の勤皇意識が呼びもどされ、精神的国体観が呼び起される。
斯くて、
元首と国軍を繋ぐものは、近代国家の契約観とは異質な、宗教的絶対忠誠観となってゆく。
こういう経過からするなら、
青年将校達が 「 天皇帰一 」 を唱え
「 君側の奸 」 を除去しようとするに至るのは自然なことだったと謂えよう。

青年将校らの天皇への忠誠心は、主観的には至純なものであったろう。
只 彼等は、自分達の忠誠心を絶対化してしまった。
彼等は、天皇も亦 腐敗した元老重臣を斬ることを欲していると考えた。
天皇権力を正しく行使し得るものは、青年将校を中心とする軍隊運動だけであると考えた。
ここに至って、彼等の忠誠心は傲慢なものとならざるを得ない。
彼等がそれに気づいた様子はあまり見当たらない。
その点、彼等は近代的意識家の素質を欠いている。
おそらく彼等は、忠誠心の至純さという主観的な内的倫理にだけ生きていたのである。
日本の陸海軍は、天皇の軍隊であった。
そして 天皇と軍隊の関係は、その制度においても倫理においても、他の近代国家とちがった特殊なものであった。
それは しばしば、
「 万邦無比 」 とか 「 国体の精華 」 と 称されて 益々昂揚されたものであったが、
この特殊世界における純粋培養体は、その独善性を含めて 青年将校だったとも謂える。
天皇が自分の統帥する軍隊に要求する制度 と 倫理の純粋結晶の一つの現れが青年将校であった。
青年将校を生んだのは天皇であり、それは天皇の生んだもののなかの 「 傑作 」 であった。
二・二六事件の真の主役は天皇であった、と謂った意味の一つはそういうことでもある。


天皇と靑年將校のあいだ 2 天皇制の至純を踏み蹂ったのは天皇自身であった

2017年02月11日 19時35分17秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (2)

然し、天皇が真の主役であるもっと重大な理由は他にある。
二・二六事件は、蹶起部隊を叛乱軍とし、青年将校を叛徒とすることで鎮定をみた。
そして、軍事裁判に付された青年将校達は、
行動事実に関してはほぼ起訴状どおりに承認しながら、異口同音の述べたのは、
自分達は叛徒でないという抗弁であった。
彼等がそう主張する根拠はおもに三点ある。
一つは、
二十六日午後三時三十分、蹶起部隊に対してだされた  大臣告示 」 である。
この第一項には 「 蹶起の趣旨に就いては天聴に達せられあり 」 とあり、
第二項には 「 諸氏の行動は国体顕現の至情に基くものと認む 」 とある。
これらの文章は、
どうみても蹶起部隊の行動が陸軍大臣の名において承認されたとしか読めない。
特に 「 天聴に達せられあり 」 の字句は青年将校等に 万歳を叫ばせた。
彼等は愈々昭和維新が成就するであろうことを喜びあった。
亦事実、 「 維新大詔 」 が 渙発されるという噂が流れ、
中にはその草案を見た者もいたのである。  (・・・リンク→ 維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」   )
二つは、
二十六日から二十七日にかけて、
東京警備司令部および戒厳司令部からだされた一連の告諭・命令によると、
歩一聯隊長、歩三聯隊長は蹶起部隊をあわせ指揮して治安維持に任ぜよ、
というのである。
蹶起部隊そのものが治安維持にあたるのだから、
当然それは賊軍ではなく官軍となる道理である。
(・・・リンク→命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」  )
ところが、後になって鎮圧当局は、これらはいずれも真の意図からでたものではなく、
鎮定の為の方便だった、と 強弁するのである。
やがて徹底的敗北に陥ったことを知った青年将校の一人 栗原中尉は、
「 当時陸軍大臣告示のごとき、亦戒厳司令官軍令のごとき、
あきらかに吾々の行動を助勢せられたるものであります。
しかるに今となって、
戒厳司令官の命令や告示その他の行動を以て吾々を鎮撫する手段であったなどと
申しておりますことは、欺瞞も甚だしきところであります 」
と 憤懣をぶちまけている。
さらに三は、
二十八日午前五時八分に出された奉勅命令に関するものである。
奉勅命令というのは天皇が直接下す命令のことである。
叛乱軍に原隊に帰れ、という天皇の命令である。
もし叛乱軍が二十六日以来の現状を変えずに頑張れば、
そのままでなにもしないでも勅命に抗した逆賊になるという命令である。
然し、実は青年将校達は下達されたはずのこの奉勅命令を見てはいないのである。
たとえば 安藤大尉は獄中手記で 奉勅命令ハ伝達サレアラズ と 記している。
奉勅命令が下達されていないからには勅命に反したことにはならず、
「 決して天皇に抗した覚えはない 」 ということになる。  (・・・リンク→ 「 奉勅命令ハ伝達サレアラズ 」   )

以上三点のように不可解なことが、なぜ起こったのか。
事件に対して陸軍当局が如何に動揺していたかの表れである。
蹶起行動自体は、二十六日の午前五時から ほぼ三十分くらいのうちに 已に終っている。
あとの四日間は、
結局 陸軍上層部における蹶起支持派と強硬鎮定派の対立抗争の時間である。
そしてこの対立は、
陸軍部内の、所謂 皇道派と統制派の派閥対立に繋がるものであった。
 蹶起趣意書
青年将校達は事件の 「 蹶起趣意書 」 のなかで、
国体破壊の元凶として、元老・重臣・官僚・政党とならんで軍閥をあげている。
ここで謂う軍閥とは、所謂幕僚ファッショである統制派勢力のことである。
結果としては、蹶起軍は叛乱軍とされ、
事件後統制派は皇道派を締め出して陸軍部内の一大主流となることに成功する。
陸軍部内の勢力分布の観点に立てば、二・二六事件は皇道派青年将校の統制派への挑戦と、
その敗北だったということになる。
処刑されてゆく青年将校はじめ、その同調者達は、
彼等を敗北に追い込んだ統制派の策謀に万斛の恨みを抱く。
青年将校達の天皇帰一の至純な運動も、統制派によって穢けがされ 歪められ、ついに葬られた、
というわけである。
本来なら天皇に届くはずの彼等の忠誠心もファッショ的軍閥によって遮られてしまった、
というわけである。
然し、果してそうだったのか。
青年将校達の意図を踏みにじったのは、果して統制派だったのか。
実は、どの勢力よりも断固として青年将校を許さない大権力があったのである。
他でもなく、それは、天皇自身であった。


天皇と靑年將校のあいだ 3 極めて特殊で異例な天皇の言動

2017年02月09日 19時32分06秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (3)

二・二六事件に対して、天皇が如何判断し、如何行動したかについて、
戦後になって公刊された書籍を以て、窺うことができる。
原田熊雄述 『 西園寺公と政局 』、『 木戸幸一日記 』、
当時侍従武官長だった 『 本庄日記 』 等である。

これ等を通して見る天皇の言動は極めて特異なものである。
戦後、天皇みずから語ったところに拠れば、
立憲君主は、憲法の枠の中にその言動を制約されていて、
合法的手続きを尽して天皇のもとへ差し出されたものについては、
たとえ 天皇自身が甚だ好ましくないと考えていても、結局は裁可する外はない、
それが立憲君主の天皇のとるべき唯一の途である。
もしそうしないと天皇みずから憲法を破壊したことになり、断じて許されることではない、 と。
そして 天皇は亦 みずからいっている、
然し 昭和年代に於て 二度だけ異例の行動をとった、
一つは 戦争終結の決定であり、いま一つは二・二六事件収拾についてである、 と。
『 木戸日記 』 に拠ると、
二十六日朝、事件発生後、陸軍大臣が最初に参内したとき、
天皇は、
「 今回のことは精神の如何を問わず 甚だ不本意なり。
国体の精華を傷くるものと認む 」
といった、 と 記されている。
二十六日午前中の段階で已に天皇は、
甚だ不本意なり
という表現で 蹶起軍を性格づけている。
陸軍大臣が参内したのは、蹶起将校等と真崎甚三郎大将の恐喝によって、
蹶起将校等の意図を天皇に取次ぐためであった。
『 本庄日記 』 は、
「 午前九時頃川島陸相参内、何等意見ヲ加フルコトナク、単ニ状況
( 青年将校蹶起趣意書ヲ付ケ加ヘ朗読申上ゲタリ ) ヲ申述べ、
斯ル事件ヲ出来シ、誠ニ恐懼ニ堪ヘザル旨ヲ奏上ス。
之ニ対シ、陛下ハ
速ニ事件ヲ鎮定スベク御沙汰アラセラル
と その様子を記している。
この時 陸相はかなり詳しく青年将校の要求事項を天皇に奏上したのに対し、
天皇から、
陸軍大臣は そういうことまで言わなくてもよかろう。
それよりも 叛乱軍を速やかに鎮圧する方法を講じるが先決要件ではないか
と 言われた、 と高宮太平氏の 『 天皇 』 は記しているが、
その場に立会った本庄侍従武官長の記録の方が真相に近いかもしれない。
いずれにせよ、この段階では、
岡田首相以下、内大臣斎藤実、侍従武官長鈴木貫太郎らは被害者であるから
当然参内しておらず、
逐次参内してきた軍事参議官や枢密顧問官達の間では、
蹶起軍の処置について 未だ態度が未決定の儘であった。
のみならず 真崎甚三郎や荒木貞夫らの軍事参議官は青年将校の代弁者として、
昭和維新の大詔渙発の方向で事を処理することを秘かた画策していたのである。
要するに
天皇は、側近者や軍事参議官らの態度決定以前に、如何なる会議を待たずに、
はっきりと 「甚だ不本意 」 であるから 「 速ニ鎮圧セヨ
という意志表示をしているのである。
二十六日の 『 本庄日記 』 は、さらに次のような記録をしている。
「 陛下ハ、二、三十分毎ニ御召アリ、事変ノ成行キヲ御下問アリ、
且ツ、鎮定方 督促 アラセラレル 」
このへんの事情を 『 西園寺公と政局 』 の叙述でみると、
「 陛下は亦屡々しばしば川島陸軍大臣を呼ばれて、
一時間の内に暴徒を鎮圧せよ 』 と言われ、
十五分ばかり経つと、『 もう撃ち始めたか 』 と仰せられて、
終始武官長に見におやりになるという具合 」 ということになる。
二十七日になると、
『 本庄日記 』 には いっそう天皇の強烈な意志を示す文字が何箇所も出てくる。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ兇暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ 何ノ恕ユルスベキモノアリヤ
ト 仰セラレル。
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、
真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニモ等シキ行為ナリ
ト 漏ラサル。
陛下ニハ、
陸軍当路ノ行動部隊ニ対スル鎮圧ノ手段実施ノ進捗セザルニ焦慮アラセラレ、
武官長 ( 本庄 ) ニ対シ、
朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン
ト 仰セラレ、真ニ恐懼ニ耐ヘザルモノアリ。

このような天皇の焦慮にもかかわらず、
蹶起軍の鎮圧は捗々はかばかしく進捗しなかった。
天皇の意志が某との即刻鎮圧にある以上、
蹶起軍を義軍とみたてて
維新大詔渙発を要請し奉るなどということは已に不可能であったが、
蹶起軍に対して 懐柔策で臨むか 弾圧策で臨むかについて、
陸軍上層部の態度は頗る優柔不断であった。
鎮圧の奉勅命令にしても、
香椎戒厳司令官は それを自分の手許に保留したままであったし、
亦 第一師団長は 「 部下ノ兵ヲ以テ、部下ノ兵ヲ討ツニ耐ヘズ 」 として、
鎮圧行動に出ることを躊躇していた。
つまり、天皇の意志は 悉く消極的な抵抗に出会っていたことになる
事件が、矛盾した告示や命令や告諭に囲まれた儘 いたずらに日数を重ねてゆくのは、
さきにも触れたように、蹶起支持派・懐柔派・弾圧派など
各派の政治折衝にそれだけの時間を要したということであるが、
もう一つ 突き進んでいうなら、
それは 意志強烈な天皇と陸軍上層部との妥協に要した時間に外ならない。
皇道派はもちろんだが、統制派としても、
天皇の強硬な意志には かなりとまどっているのである。

二十八日午後一時には、川島陸相が参内して、
「 行動将校一同ハ大臣官邸ニアリテ自刃 罪ヲ謝シ、下士官以下ハ原隊ニ復帰セシム、
就テハ、勅使を賜ハリ死出ノ光栄ヲ与ヘラレタシ、此以外解決ノ手段ナシ 」
と 本庄侍従武官長に訴えている。
本庄は 天皇に伝奏することを躊躇ったが、ともかくも其の儘を奏上した。
それに対する天皇の態度は、極めて厳しいものであった。
即ち 『 本庄日記 』 によると、
陛下ニハ非常ナル御不満ニテ、
殺スルナラバ 勝手ニ為スベク、
此ノ如キモノニ勅使ナド、以テノ外ナリ

ト 仰セラレ
たのである。
乱は二十九日午後に漸ようやく終結を見る。

四日間を通じてみられる天皇の言動は、
極めて特殊なものである。

天皇は如何なる輔弼機関の決定をも待たずに、
初めから即刻鎮圧の意志決定をしており、

各機関の消極的抵抗を叱咤激励して、
自己の意思を貫徹させようとしているのである。

立憲国の君主として、これは極めて異例な事といわざるを得ない。
天皇と青年将校とは、
なににもまして、もっとも対立した関係にあったのである。

そしてこのことを、青年将校達は 少しも知らなかった。


天皇と靑年將校のあいだ 4 天皇が天皇に向って叛亂したようなもの

2017年02月07日 19時29分48秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (4)

非情に大胆な仮説になるが、
もし 天皇が強烈な鎮圧意志をもたず、
そして、少なくとも平常時の立憲君主のありかたの範囲内にあったならば、
二・二六事件は成功していたかも知れない。
なるほど、天皇の意志とは別に、参謀本部は事件当初から強硬弾圧方針であった。
この事件はなんといっても、
一部将校が統帥系統をつき破って兵と武器を勝手に使用したものである。
国家が兵を動員し武器を使用し得るのは、
天皇の命令による統帥権の発動があった場合に限られる。
それをやぶったことは大権私議である。
直接この統帥を行使する参謀本部が強硬弾圧方針を持ったのは、その立場上当然である。
しかし、実際には、天皇の強烈な意志が背後にあっても、
なおかつ事態収拾までに四日間を要し、
その間 曖昧で矛盾にみちた告示や命令を出し続けていた陸軍当局である。
参謀本部の意志だけで事件を鎮定し得ると考えるのはかなり無理であろう。
既に見たように 天皇の鎮圧命令が発せられているにもかかわらず、
第一師団長は 「 部下ノ兵ヲ以テ、部下ノ兵ヲ討ツニ耐ヘズ 」 と躊躇している。
香椎戒厳司令官奉勅命令を直ちに下達する責任者でありながら、
「 本来自分は 彼等 ( 蹶起部隊 ) の行動を必ずしも否認せざるものなり 」
という心境で逡巡している。
青年将校達をして、陋劣ろうれつな欺瞞と憤らせた 「 陸軍大臣告示 」 も、
実は 天皇と陸軍首脳部との意志齟齬に基く苦渋の表れに外ならなかった。
青年将校達は、四日間、上層部の裏切りと策謀に翻弄される。
初め彼等の同調者とみられた真崎甚三郎や荒木貞夫は、
二十六日の段階で已に彼等を裏切っている。
裏切った最大の理由は、天皇の強硬な態度に出会ったからであった。
亦 鎮圧側の告諭や命令が策謀に満ちたものになってしまったのも、
天皇の意志が鎮圧当局者の意志を越えるほど強硬なものであったからである。
鎮圧の命を受けている司令官達が 躊躇っているのに比べ、
天皇が 「 朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン
と 決意しているのは甚だ対照的である。

ところで、青年将校側からすれば、
天皇の命令を俟たずに兵や武器を使用することの是非を考えないではなかった。
蹶起行動の数日前の会合で新井勲中尉は、
「 軍服を脱いで一個人として蹶起するならともかく、
軍隊を使用するのは、事が全然違います。
吾々が飛出すには、« 戦闘要綱 » には常に上官の意図を明察し、
大局を判断するとありますが、この際の上官は陛下です。
軍隊を使用して直接行動に出ることは、
陛下が御自ら元老重臣を斬ろうと考えている場合、
その時だけに許されるべきです 」
と主張している。
それに対して村中孝次は
「 なに、陛下だって御不満さ 」
と応答している。
( 『 日本を震撼させた四日間 』 )
亦 磯部浅一は
獄中手記で次のように書きとめている。
なにが大権私議だ、この国家重大の時局に、
国家のためにこの人の出馬を希望するという赤誠国民の希望が、
なぜ大権私議か。

青年将校も軍隊内部の者である以上、
天皇の命令に拠らず兵と武器を使用することが
大権私議となることを十分承知していた。
然し、それを踏み越える根拠となったのは、
「 戦闘要綱 」 で謂う 独断専行に合致し得ると自らを合理化したことと、
自分達の忠誠心に不純なものが無いという倫理的判断であり、
それ等を 究極のところで支えているものは、
天皇と自分達の意志は一致している  という予定調和であった。
然し、已に指摘したように、
その天皇こそが
他の誰よりも 厳しく彼等を否定していたのである。
青年将校達が描き、且 信じていた天皇と、
実際の天皇とは、ほとんど一点も似た所がないくらい別人だったのである。
ことは此処に至ると、非常にユーモラスなものとなる。
亦、たいへん悲劇的なこととなる。
而も、こういう青年将校こそ大元帥陛下の 「 傑作 」 であったとすれば、尚更に。

天皇をして 斯くも強硬な意志をもたせた理由は何んであったのか。
『 本庄日記 』 は
「 朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等・・・・」、
「 朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、
真綿ニテ朕ガ自ヲ締ムルニモ等シキ行為ナリ・・・・」
と 語った天皇を記録している。
立憲君主国の最高権力者である天皇は、
自分の握っている制度の破壊者を許すことができなかったのである。
青年将校達が 「 君側の奸 」 と呼んだ者は、
天皇によれば 「 最モ信頼セル老臣 」であった。
のみならず
天皇は 「 真綿ニテ朕ガ自ヲ締ムルニモ等シキ行為 」 といって、
天皇 自らがこの事件の被害者であることを訴えている。
青年将校達の思ってもみなかったことであろう。
おそらく天皇は、
かなり以前から 「 真綿ニテ首ヲ締メラレル 」 ような感慨を抱いていたのである。
前記の 『 木戸日記 』 や 『 西園寺公と政局 』 では、
満洲事変以来、
天皇が軍部の軍事的、政治的進出に対して
不信を抱いていたことが明らかに読みとれる。
天皇の側近にいた木戸幸一などは、天皇と陸軍が離反してゆくことを怖れ、
「 陛下は科学者であり非常に自由主義者の方で、同時に亦平和主義の方である。
この陛下の御考えになりかたを多少変えて頂かねば、
将来軍部及び右翼と非常に距離ができる 」
そして
「 孝明天皇の晩年に側近をすっかり幕府方にとりかえられてしまったような場合に、
どうされるか判らない。
で、陸軍に引き摺られるような恰好でいながら、
結局こっちが陸軍を引っ張って行くということになるには、
もう少し陸軍に理解を持ったような形をとらねばならぬ 」
と 語っている。 ( 『 西園寺公と政局 』 )
木戸の感想はともあれ、
天皇は何度も、自分の大命によって成立した内閣が
軍部のために瓦壊した事例を経験したし、
自分の統帥命令を俟たずに出兵した事例をも体験していた。
そういう鬱積が、二・二六事件に対して爆発したのでもあったろう。
(尤も、青年将校側からいえば、
そういう軍部勢力こそ軍閥として 彼等の打倒せんとしたものではあったが )
天皇は、
青年将校達が謂う天皇帰一の理想国家をそのまま信じこむには、
遙かに近代官僚国家体制に通暁していたし、
自分の権力と責任がその体制下にあるものであることを十分に自覚していた。
青年将校達は、天皇という存在をあまりにもロマンティックに構想していたが、
天皇制国家の最高権力者である天皇は、
みずからをロマンティックな存在だとは少しも考えてはいなかった。
青年将校が信じていた ( あるいは心事ようとしていた ) 天皇と、
彼等を ためらいなく叛乱軍と呼ぶことのできた天皇、
この 二つの天皇は、余りにも違い過ぎる。
とはいえ これは、青年将校達が白昼夢を見ていたのだったということではない。
二つの天皇があったのである。
竹山道雄氏は、二・二六事件は 「 天皇が天皇に向って叛乱したような事件だった 」
という言い方でそのことを表現している。   


天皇と靑年將校のあいだ 5 天皇制の二重構造を見破った北一輝

2017年02月05日 19時27分03秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (5)

「 天皇は二重の性格をもっていた 」
として、竹山道雄氏は次のように整理している。
第一は、
正統・財閥・官僚・軍閥の頂点にあって機関説によって運営される、
謂わば イギリスの王のようなものであった。
第二は、
御親政によって民と直結し、平等な民族共同体の首長であるべきであり、
国難を克服する、国家の一元的意志の体現者で、一部軍人はこの性格の天皇を奉じた。
竹山氏は
前者を 「 機関説的天皇制 」 と名づけ、
後者を 「統帥権的天皇制 」と呼んでいるが、
この呼称をあてはめれば、
二・二六事件は、
統帥的天皇制が機関説的天皇制に向って叛乱した事件ということになる。
こういう天皇の性格は、昭和の裕仁天皇が作りだしたものではない。
亦 青年将校が捏造したものでもない。
基本的には、明治憲法に基づく立憲君主制そのものに内在する性格であった。

この二重性の構造を独特の史眼で見破っていたのが、北一輝であった。
嘗て 明治憲法の草案を作成し、
日本最初の首相を務めた伊藤博文は、
この二重性恪を巧みに操作することにより 明治国家を運営することができた。
その際、天皇は、
国民全体に向かってこそ絶対的権威、絶対的主体として現れているが、
天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、
天皇の権威はむしろ名目的なものに過ぎず、
天皇の実質的権力は
各機関の担当者がほとんど全面的に分割し代行するシステムであった。
そしてこの二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、
伊藤の造った明治国家が成立っていたのである。
こういう二重の構造を、
久野収氏は 「 顕教 」 「 密教 」 という用語でこう説明している
顕教とは、
天皇を無限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈システム、
密教とは、
天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈システム
である。
はっきり謂えば、
国民全体には、天皇を絶対君主として信望させ、
この国民のエネルギーを国政に動員した上で、
国政を運営する秘訣としては、立憲君主説、
即ち 天皇国家最高機関説を採用する
という仕方である。 ( 『 現代日本の思想 』 )

ところで、この二重性が衝突することなく回転し得たのは、
伊藤の運営上の手腕であったと同時に、
明治天皇に国民統合の求心力があったからでもある。
だが、この国家運営は、やがて伊藤博文が死に遭い、
明治天皇が崩御するとともに、矛盾と弱点を次第に露呈し始める。
北一輝は已に、
最初の著作 『 国体論及び純正社会主義 』 で、果敢にその欺瞞性をあばいた。
久野氏流に謂うなら、
北一輝は
「 伊藤の造った憲法を読み抜き、読み破ることによって、
伊藤の憲法、即ち 天皇の国民、天皇の日本から、
逆に、国民の天皇、国民の日本という結論を引出し、
この結論を新しい結合の原理にしようとする思想家 」
だったのである。
最初の著作から ほぼ二〇年後に、
北は 『 日本改造方案大綱 』 を書く。  (・・・リンク→ 日本改造法案大綱   )
その緒権は
「 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、
天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ 」
と 記し、亦
「 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガタメニ、
天皇ノ大権発動ニヨリテ三年間ノ間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ノ戒厳令ヲ布ク 」
と記している。
以下彼は、この国家改造の主体を軍人とする具体的プランを書きすすめ、
対外政策から世界連邦の構想にまで及ぶ。
そこには戦争の神聖説、血の信仰観が唱われ、 「 剣ノ福音 」 が 説かれている。
これらの北の理論の中で、
左右両翼から誤解ないし曲解される中心点は、その天皇観であった。
陸軍部内に撒布された文書の中には、
「 北一輝は明白なる社会民主主義革命の御本尊にして、
最も徹底せる天皇機関説主義者なり。
名にぞ身の程を知らず国体明徴を口にするをや許さんや 」
と いうのがある。
これは北を誹謗するための文章であるが、
この受取り方は、単なる牽強けんきょう付会の言説ではなく、
北自身の理論が含みもっている一面でもある。
一般に北の 『 改造方案 』 は青年将校に兄弟な影響力をふるったとされているが、
昭和七年の五・一五事件関係の士官候補生は、
公判廷で 『 改造方案 』 にふれ、
「 皇室及ビ国体ニ関スル信念ニツイテ感心シナイ点ガアリマシタ 」
と述べている。
ところがまた、
二・二六事件の主謀者・磯部浅一は、
「 『 法案 』 を 一点一画も修正することなく、完全にこれを実現する 」
ことが蹶起の趣旨であったと書いているのである。
天皇を 「 国民の総代表 」 とする北一輝の天皇観自身に、
「 機関説的天皇 」 と 「 統帥権的天皇 」
が共存している。
そして、そのどちらにアクセントをおくかによって、北解釈は大きく変わってくる。
一種の進歩派は、
北の 『 改造方案 』 の中に、
『 国体論 』 以来の社会主義的見地と天皇機関説発想が
そのまま持ち込まれていると見、
だから彼の二・二六事件連坐は、
自分自身の思想を裏切る出来事への殉難ないし殉教であった、と観察する。
こういう観察眼は、
北一輝の中に、
明治憲法的国家に対する反逆的批判家をみることであり、
さらにそういう反逆が、
明治憲法の益々絶対化されていった昭和前期では
いかなる迫害を負わざるを得なかったかの、
典型的な一例であった、と見ることになる。
而もこのような観察方法は、
この反逆的思想家が、叛乱罪によって、銃殺刑に処せられたという事実で、
一層の真実感で飾られることにもなる。
これに対して、むろん北一輝を、
絶対的天皇を中心とする国家改造を企図した 「 憂国の志士 」 とみる観察がある。
この観察方法は、
磯部浅一や村中孝次、あるいは安藤輝三大尉らと思想的基盤を同一のものとする
「 昭和維新 」 の推進者だったと見ることであり、
北は二・二六事件のかけがえのない指導者であり、
『 改造方案 』 こそ青年将校達の経典であり、
二・二六事件の起爆思想だったということになる。
北と青年将校達の距離は、それぞれによって違う。
磯部や村中がよほど近い所にいたのは事実だが、
それを以て青年将校全体を代表させることは無理である。
ある青年将校は、事件の直前に、
「 国民暴動を扇動して戒厳令を奏請するということは、
陛下を騙し奉るやりかたで 大権強要に属する。
むしろ自分がやるだけのことをやって、
陛下の前にひれ伏すという態度でなければならない 」
と 語っているが
( 『 青年将校運動とは何か 』 ) 、これは北の思想への批判であろう。
そしてこういう考えの方が、
青年将校一般の信念や心情に合致するものであった、と思われる。
そう謂えば、北一輝自身も、逮捕された後の 「 調書 」 で、
「 私のこのこと ( 二・二六事件 ) によって、
改造方案の実現が真に可能のものであるというが如き、
安価な楽観を持っていませんことは勿論でした 」
と云っているのである。
こう見て来るなら、
青年将校と北一輝の距離は、意外に遠かったと謂わざるを得ない。
北一輝は青年将校等と共に、
二・二六事件によって銃殺刑に処せられた。
両者に相似た相互交渉があったのは事実であるが、
両者を余りにも同一観点から論じるのは、
北一輝にとっても、
青年将校にとっても、
誤差や偏差の多い観察となってしまおう。


天皇と靑年將校のあいだ 6 大御心は大御心に非ず

2017年02月03日 19時24分15秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (6)

天皇は二重の性格を持っている。
二・二六事件は、
青年将校にとって、その神聖天皇の面を引出し、拡大し、絶対化する運動であった。
が、二・二六事件は、
天皇にとっては、機関説的天皇制を守るために自らが異例な権力行使を試みた出来事であった。
二・二六事件は、
天皇の持っている二重性が、それぞれ極限まで発動され、
そのために 正面衝突せざるを得なかった事件である。
日本近代史の中で、これくらい天皇という存在の性格が裸形となったことはない。
二・二六事件は、
天皇が天皇に叛乱した事件でもあり、
天皇が天皇に出会った事件でもあり、
天皇が天皇を守りきった事件でもある。

獄に捕えられてからの青年将校が、終始一貫、繰返したのは、
自分達は 「 大命に抗した逆賊でない 」 ということである。
彼等の天皇信仰からすれば、天皇のために蹶起した行動が、天皇の為に敗北し、
天皇によって逆賊という烙印をおされる事態が、如何にしても承服し難いものであった。
彼等は逆賊という烙印の前で、それを突き破ってゆく方途を持っていなかった。
獄中の彼等は、自分達の天皇絶対の信仰と、逆賊者であるみずからの立場の矛盾に苦悩した。
それは彼等の悲劇であると同時に、
実は天皇という存在の性格そのものの矛盾が内に持っている悲劇である。
近代日本国家の矛盾した悲劇である。
青年将校達には、これを突き破る力はなかった。
祈りと口惜しさと、矛盾と悲劇と、これ等いっさいを彼等は
結局 「 天皇陛下万歳 」 という絶叫に託して処刑されて行く他はなかった。
この矛盾の突破口があるとすれば、
彼等は、彼等の考える天皇の大御心と一致するまで、
君側の奸を討ち続け、いまある天皇制度を破壊し尽くすか、
もっと踏み込んで謂うなら、
天皇の存在そのものにまで迫る外なかったはずである。
然し、そうするには、彼等はあまりにも、天皇に対する純粋な信仰者であった。
彼等の天皇信仰は、そういう政治的パワーを必要とする 當にその極限で、
非政治的な道徳性に縛られる。
そして、天皇制政治の最高権力者である天皇にとっては、
彼等のこの種の道徳は、なんの興味も惹かないものであった。

北一輝は、軍隊勢力を中心とする改造プランを構想したが、
青年将校達の意識が以上のような限界を持つものである以上、
革命中核体としては、
極めて脆弱なものであることも知らねばならなかったろう。
北はたぶん、それを十分に知っていたのであろう。
「 調書 」 の中で、
「 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を待っても理想を実現することはできません。
この点は、革命を社会革命となしてきた諸外国とは全然相違するので、
この点は私の最も重大視している処であります 」
と云っている言葉は、
天皇の軍隊を用いる軍事革命の限界をいいあかしている 。
「 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権ノ発動ヲ要請シ、
天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ 」
と 書いた北であるが、
この
「 天皇大権ノ発動ノ要請 」 も、
「 大御心が必要なしと御認めになれば、百年の年月を待っても 」
どうしてみようもない、となれば、
彼の改造プランも一挙に空洞化したものとならざるを得ない。
北一輝自身は、「 調書 」 の中で、
「 ただ私は、日本は結局
改造方案の根本原則を実現するに至るものであることを確信して、
如何なる失望落胆の時も、この確信を以て今日まで生きてきておりました 」
とも述べているが、
実は北自身、自己のプランの現実性をどれほど信じ込んでいたろうか。
彼自身の 『 改造方案 』 への 「 確信 」 というのは、
現実上の政治プランとしての確信ではなく、
自分で編みだした宗教的救済観への帰依のことだったかも知れない。
彼は憲兵隊の聴取で、
「 現在其方の思想体系は 『 日本改造方案大綱を 』 書いた当時と大差なきや 」 
と 問われたのに対して
「 根本に於ては相違ありませんが、逐次浄化しようと思っております 」
と答えている。
「 浄化 」 とは一体何を意味するのであろう。
おそらく、機関説的性格を持つ改造方案の天皇観から、
逐次その性格を払拭しようと思っている、
と いう意味を含んでいよう。
然し、そうすれば
「 天皇大権ノ発動ヲ要請スル 」 ことの上に築かれた彼のプランも、
大御心如何では一片の空文と化すことにもなろう。
つまり、『 改造方案 』 の現実性は遠ざからざるを得ない。
そこまで思い至れば 「 浄化 」 という言葉は、
もはや現実性に絶望を持たざるを得なかった彼が、
『 改造方案 』 に
天上的宗教世界を託そうとしていることの表現だったのではないか。
銃殺刑にあたって、
彼が 「 天皇陛下万歳を叫ぶことはよしましょう 」
と いったというエピソードは有名である。
天皇が存在する限り、亦 その天皇の 「 大御心 」 が認めない限りは、
彼の 『 改造方案 』 は 何等の現実性を持ち得ないものである以上、
そして現に、
二・二六事件に於て、
天皇の 「 大御心 」 が 改造を必要なしと判断した のであったからには、
天皇は 『 改造方案 』 に対する最も強力な扼殺者やくさつしゃだったことになろう。
北は 「 天皇陛下万歳 」 を 叫びはしなかったし、
亦 叫んではならなかった筈である。
こういう北の諦観風な態度とは別に、
天皇のもつ二重性格の矛盾をなんとか突き抜けようとした者もあった。
それが磯部浅一である。
獄中の彼は書き続ける、
「 今の私は怒髪天をつくの怒に燃えています。
私は今、陛下をお叱り申上げるところまで、精神が高まりました。
だから朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。
天皇陛下、なんという御失政でありますか、なんというザマです、
皇祖皇宗におあやまりなされませ 」  と。
さらに磯部はこうまで言うのである、
「 朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、
仮にも十五名の将校を銃殺するのです
・・・・菱海 ( 磯部が自分でつけた法合 ) は再び、

陛下側近の賊をうつまでであります、
今度こそは宮中に忍び込んででも、
陛下の大御前ででも、
きっと側近の奸を討ちとります。

恐らく、陛下は、
陛下の御前を血に染めるほどのことをせねば、
お気付き遊ばさぬのでありましょう、

悲しいことではありますが、
陛下のため、皇祖皇宗のため仕方ありません、
菱海必ずやりますぞ。

悪漢どもの上奏したことをそのままうけ入れ遊ばして、
忠義の赤子を銃殺なされましたところの陛下は、

不明であられるということをまぬかれません 」  と。

このような文書を書き残した事件関係者は、磯部浅一の外、誰一人いない。
安藤大尉は、その遺書に 「 万斛の恨み 」と記しているが、
それが大多数の処刑青年将校の最期の心境であった。
それにくらべて、磯部の文書は極めて特色のあるものである。
然し、これだけ激しい言葉で天皇を難詰するに至った磯部ではあるが、
彼の難じているのは、
君側の奸にあやまたされて聖明を曇らせている天皇の不明に対してである。
なんぞはからん、
天皇は、君側の誰よりも早く、誰よりも強く、
そして天皇みずからの発意として、

青年将校を暴徒と呼び、
早く討てと命じ、
彼等が自殺するなら勝手にしたらいい、

と 言い放ったのである

青年将校達は、天皇の名により叛徒とされ処刑された。

然し、彼等はそれが天皇の真の判断ではなく、
君側の奸によって曇らされた天皇の形式的判断だと思って死んでいった。
だからこそ、
死にあたってもなお、彼等は 「 天皇陛下万歳 」 」 を 叫ぶことができた。

戦後に公にされたいくつかの文書は
甚だ特殊で異例な天皇の強烈の意志を明るみにだした。

青年将校達は、それと知らないで死んでいった。
若しそれを知っていたら、
彼等は絶望という言葉ではとても事足りないほどの
徹底的な絶望を味わねばならなかったことになる。


天皇と靑年將校のあいだ 7 二・二六事件の謎

2017年02月01日 19時19分36秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (7)

二・二六事件が起きた翌日、
天皇の弟宮である秩父宮は、任地の弘前聯隊から急拠上京している。
上京の意志は、已に二十六日、
もう一人の弟宮、高松宮を通じて宮内省に届いている。
宮内省としては、
「 遠方に御出にて御心配遊ばされ、御見舞の為に御帰京のお思召ということであれば、
我々としてそれを御止め申すべき筋合ではありませんが、
高松宮は東京の現在の状況は御承知のこと故、
しかるべく御判断を御願いする外はないと存じます 」
と 高松宮に答えている。
はっきり言えばあまり来ては戴きたくない、ということである。
それは、かねてから秩父宮と青年将校の接近が噂されていたからである。
二十七日の 『 木戸日記 』 には、
「 秩父宮の御帰途を擁し、行動軍が御殿に入込むとの計画ありとの情報あり 」
と 明記されている。
嘗て 秩父宮は歩兵三聯隊にあって、
特に安藤輝三大尉とは極めて親密な関係であった。
この秩父宮と青年将校が、はたして思想基盤を同じくしており、
蹶起行動についても何らかの合意があったかは不明である。
ただ 秩父宮上京によって、
青年将校達が宮を擁して何かを画策するのではないかという観測は、
かなり広範囲に流れていたらしい。
それがどのくらい事実に基づくものか、あるいは単なる風聞に過ぎないかは、
今のところ決めてになる材料は見当たらない。
亦、そういう風聞を天皇がどのように聞取り、受取っていたかもわからない。
天皇と秩父宮との間に、ある対立があったのではないかということは、
しばしば人々の想像として語られているが、
当時の責任ある記録文書でそれを明確に証拠だてるものはない。 
それに触れるのはかなり憚り多いことだからであろうか。
(・・・リンク→  「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」  )
が、イギリスのジャーナリストである L・モズレーが戦後に出版した 『 天皇ヒロヒト 』 では
外人らしい表現でそのことに触れている。
それによると、
二人のあいだには幼少期から一種の緊張関係があったという。
ヒロヒトは皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、
生涯ずっとしきたりのワクにはめこまれて生きてきた。
然し 秩父宮は海外留学を許され、みずから妃を選ぶことが許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許された。
だからヒロヒトはこうした皇弟をうらやむだけでなく、
反感さえ抱かれたことを否定してもムダであろう。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけであったが、
天皇のことを « 鈍行馬車 » などと謂ったりした。
一九三〇年代初期のクーデターのうち 少なくとも二度は、
天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は天皇の競争者の役を担わされたことになり、
天皇自身にとっても、そうでないとは思えなかった。
この競争関係を感じ取った青年将校は、秩父宮を戴くことを決めていた。
権力を握り計画どおり、過激なファシスト政権を樹立した暁には、
秩父宮を表に立てて影から操ろうというわけで、
秩父宮の同意は疑いなしと勝手に決め込んでいた
 ---というように、モズリーは記している。

ところで、状況してくる秩父宮に対しては、各派の勢力が途中までお迎えに行き、
さまざまな情報を伝達しようとしている。
とにかく二十七日の午後五時頃上野駅に着いた秩父宮は直ちに皇居に入り、
高松宮と会見の後、天皇、皇后両陛下と会食をしている。
二十六日の蹶起行動を迎えて以来、焦慮と不安に苛立っていたはずの天皇が、
わざわざ皇后を陪席させて会食したという事実に、
ある政治的交渉を想像してみてはいけないであろうか。
たぶん天皇は、けんめいに秩父宮を説得したのではなかったか。
それを裏付けるように、
翌二十八日には、天皇は広幡侍従次長に次のように感想を漏らしているのである。
「 高松宮が一番宜しい。
秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなられた 」  と。
( 『 木戸日記 』 )
この後秩父宮は、嘗て親密だった蹶起将校のところへ、鎮圧説得に赴くのである。
青年将校の中には、それを秩父宮の裏切りととった者もあった。
尤も 宮中内部に接近していた元老西園寺公望は、時々、こういうことを語っている、
「 まあ、自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれども、
木戸や近衛にも注意してもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか陛下の御兄弟にかれこれいうことはあるまいけれども、
しかし取巻き如何によっては、
日本の歴史にときどき繰返されたように
弟が兄を殺して帝位に着くというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、
亦 今の秩父宮とか高松宮とかいう方方にかれこれいうことはないけれども、
あるいは皇族の中に変なものに担がれて
なにをしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見てもらわないと、
事頗る重大だから皇室のために亦日本のために、
この点はくれぐれも考えておいてもらわねばならん 」  と。
( 『 西園寺公と政局 』 )
西園寺公の言い方は、極めて婉曲えんきょくであるが、
外人のL・モズレーが率直に書いたと同じ内容をさしているのかも知れない。
モズレーの既述が正しいとすれば、二・二六事件発生直後から、
天皇が甚だ強烈な意志決定
---しかもそれは、
立憲君主の明治憲法以来の慣習からすれば頗る異例なことであるが---
を したことの、真の理由が垣間見られはしないであろうか。
もし、蹶起軍の意図が秩父宮擁立のクーデターであるとしたら、
已に軍の命令系統を踏み破っている行動部隊は、
天皇そのものをも攻撃目標にすることもあり得る、
と 天皇は予想したのだったかも知れない。
天皇は、国家秩序の破壊や軍隊の私兵化を怖れただけでなく、
もっと直接的な個人感情に左右されながら、
みずからの危険を怖れたのだったかも知れない。
これは、モズレーの叙述の上に建てられる一つの仮説である。
只、様々な謎を含む二・二六事件に、

この仮説を適用すれば、
謎は かなり鮮明に解かれたことになるだろう。
二・二六事件の真の主役は天皇であった、
と 冒頭に謂った所以である。

二・二六事件は、
蹶起部隊を叛乱軍と規定し、青年将校を銃殺刑に処したことで終りを見た。
この事件は、
青年将校達の計画が挫折、失敗しただけではなかった。
これを契機に、統制派、つまり彼等の謂う 「 軍閥 」 は二重の効果をあげることに成功する。
一つは、
不祥事の粛正を名目に、部内の皇道派を徹底的に追い払った。
さらには
政財界や一般国民に対し、
こういう不祥事の起きたのは政財界が腐敗しているからだとし

その改革を迫るというかたちで、軍部独裁の政治体制を着々と進めていった。
それが第二次大戦に真直ぐに繋がる道であったことは、いうまでもない。
戦後の歴史書はしばしば、
「 二・二六事件によって、日本はついにファッシズムに突入し、第二次大戦を迎える 」
 と 簡略に記して、
恰も二二六事件がそれを目指したかのような誤解を与える。

事情は逆である。
青年将校達を葬った勢力が、ファッシズムと戦争に突入していったのである。
これもまた 天皇の意志であった、ということはできない。
事件後の天皇は再び、立憲君主として、
輔弼機関の決定上奏してくるものを充裁する平常の地点に踏み止まるのだから。