あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

歩兵第三聯隊の將校寄宿舎

2017年12月15日 19時27分49秒 | 靑年將校運動


新井 勲 中尉


ビルディング式の歩兵第三聯隊の兵営に、一寸目につかぬ低地がある。
営門を這入ると、西はずっと開けて青山墓地が見渡され、右手はあの巍然たる建物である。
だから 営門を這入るや直ぐその左手に、
こんな低地があろうとは余程勝手を知ったものでなければ、わかる筈がない。
桜の老樹の植わった台端から斜に径を下りると、
その低地に陰気くさい、三十坪程の平家があり、
入口には将校寄宿舎と書かれた木札がかかっている。
若い青年将校の独身官舎で、兵営内でもおのずから別天地をなしている。
昼間はひっそりとして誰もいないが、夕食が済む頃になると、俄然賑やかとなる。
廊下を通る足音で、直ぐかれは誰だと判断がつくほど、みんな親しい仲である。
隊務にかまけて草むしりなど一向に気づかぬ連中とて、
この宿舎の近辺はと角雑草が伸びがちだが、
中にたった一人、
日曜等の暇をみては、誰にも云わず黙々と、
この伸びた雑草を片づけている人があった。
年長者の野中という中尉で、かれは滅多に外出することもなかった。
そして居住室の誰からも、「野中さん」 「野中さん」 と 尊敬されていた。

その 野中中尉の部屋に、今夜は珍しいお客さんが来た。
足音を耳にした若い連中は、直ぐにそれと気づいた。
お客さんは一人ではない。
野中中尉の部屋では、しばらくガタゴト何か片づけたり、
当番の兵隊らしい足音が忙しくしていたが、やがて来ないかという誘いの声が一同にかかった。
和服の着流しや軍服姿、あるいは白い体操衣の者など、六畳の洋間は所狭いばかりであった。
お客さんとは外でもない。
矢張りこの聯隊の将校で、この八月ある片田舎の聯隊から転任して来た菅波中尉である。
かれが居住室を訪れたのはこれが最初であった。
九月も十日を過ぎたので夜は相当涼しくなったが、
狭い部屋にこれだけ押しかけのと、煙草の煙もと角こもり勝ちである。
縁無し眼鏡をかけた菅波中尉は、どちらかといえば頬がそげ口もとのよくしまった、
容儀端然として、軍人には珍しいもの静かな人であった。
士官学校時代から思想問題には一家の見を立て、
また かの済南事変には勇敢なる聯隊旗手として、その令名を謳われていた。
当時大尉や少佐になってから後なら別のこと、
中尉では殆ど他隊に転任することもなかった時代に、
この菅波中尉は東京の中心に呼ばれて来たのである。
一聯隊長の意志のみでない事は勿論である。
少しは事情を知る青年将校が、その間の動きに気づかぬ訳はない。
菅波中尉をめぐって、今迄何回か集会が行われたのもそのためである。
今夜の集まりには、将校寄宿舎のものばかりでなく、
兵営内に起居している見習士官までも集められた。
菅波中尉は、社会革命家に見るような、激越な風は少しもなかった。
語るところも淡々として、人を煽動するような点もない。
誰かの質問にこたえて話題を見出して行くというような、話しぶりをする人である。
との 澄ましてはいないが、貴公子然たる人、これが最も適切な中尉の形容であろう。
だから今夜の会合も、誰かが質問して菅波中尉が答えるといった具合で進められた。
新聞や雑誌に出る報道以外、何も知らぬ見習士官や若い少尉は、
ただ黙って聞くだけで、
質問をする知識すらなかった。
直接行動という言葉も出たが、それが所謂西洋のクーデターを意味することわわかったが、
さて実際行動の場合どうするのか、具体的な内容は何も知らなかった。
国際情勢の危機 とくに満洲の険悪なる雲行き、それに引きかえ政党の腐敗堕落と農村の疲弊、
これをそのままに放置する訳にはゆかぬが、 さりとて何故直接行動をとらねばならぬのであろう。
今まで部屋の一隅に黙っていた見習士官が、突如として口を開いた。
「 直接行動を何故とらなけりゃならんのですか 」
「 ああそうですか 」
菅波中尉は後輩の見習士官に答えるにも、言葉は非情に丁寧である。
「 医者が腫物を手術する場合に、いかに立派な名医でも、
膿だけ出して血は一滴も流さぬということは不可能でしょう。
国家の場合においてもそれと同じです。
勿論直接行動は、無暗矢鱈に為すべきものではありません。
これをしなれば、国家が滅びるという時こそ、われらは起たねばならぬと思うのです 」
「 でも、軍隊を勝手に動かしてよいものですか 」
見習士官は他の先輩の思惑など、考慮している遑はなかった。
「 勿論わたくしどもは、命令によって動くのが望ましいのです。
しかし戦闘要領には、独断専行ということが許されていて、いや鼓吹されておるでしょう。
命令を待たずして行っても、それが上官の意図、天皇陛下の御意図に合すれば、よいのです。
とくにかかる行動は、偉くなるとその責任が重いので、
ともすれば上官は事勿れ主義になり易いのです。
自分でよしんばしたいと思っても、命令を下すほど奇骨のある人は、そうありますまい。
口火を切るのは、われわれ青年将校を措いて他にない、と 思うのです 」
「 わかりました。わたくしはその国家的判断はできません。
その判断は菅波さんにおまかせしますから、起つべき時には起てと一言仰言って下さい 」
習士官の眉宇には、決心の色が見えたのである。
他の青年将校の面にも、何か ホッとするものが窺われた。
しかし二、三のものの中には、心では納得得せぬものがありながら、
正面切って云出す勇気もなく、その場を繕っている人間があった。
「 何故男らしく菅波中尉にぶっつからぬか 」
純情な見習士官には、それが不満でならなかった。

これは 昭和六年九月なかば満洲事変を直前にして、
麻布歩兵第三聯隊の将校寄宿舎に行われた、青年将校の集会の情況である。
見習士官とはほかでもない、かく云う著者のわたくしである。
これから約五年後の二・二六事件に際し、叛乱軍の主力がこの聯隊から出たことは申すまでもない。
その歩三の叛乱軍の将校は、いずれもこの陰気臭い将校寄宿舎に、住んでいたものである。

新井勲 著  日本を震撼させた四日間 から 


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