あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」

2020年06月14日 18時01分12秒 | 説得と鎭壓

「 維新大詔 」 について
磯部、安藤、林、香田、中橋、對馬、村中等はその遺書の中で、
それぞれ 「 維新大詔 」 という言葉を殘している。
實際、事件を起した靑年將校らの目的は、
君側の奸をたおして大義を正し、
國體を擁護開顯し、
もって昭和維新を斷行し、
日本を革新しようとするところにあった。
それゆえ、蹶起將校らは一日も早い大詔の渙発を期待し、
ま た陸軍當局(一部を除いて) も 一時はそれに傾き、
「 維新大詔降下運動 」 すら 行われたのであった。
この狀況が、靑年將校たちを大いに力づけたことは否定できない。
とにかく
「 維新大詔 」 は 實際に起草されていたのである。
岩畔豪雄氏 ( 元陸軍少將、事件當時少佐、陸軍省軍務局課員で對満事務局に勤務していた)
の談は、この間の事情を明かにしている。
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・・・挿入・・・
2.26事件の蹶起當初は、
陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し
靑年將校らの 「 昭和維新 」 を 助けようとする動きもあった。
「 今にして思へば大臣告示の如きものは師團長の処に置きし方 良かりし様に思ふ。
然し 當時の僞らざる師團長の感じとしては、頻々として入來する情報に依り、
軍事參議官の軍上層部の人々が非常に努力し居らるる事を聞きたれば

或は、彼等の希望し居るが如き事が出來するにあらざるかと云ふ雰囲氣を感じ居たり 」
・・・堀丈夫 第一師團長中將 憲兵聴取書
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又 陸軍省 ・參謀本部では、クーデターが萬一成就した時の仮政府について、
下記のように豫想していた
・内閣總理大臣 眞崎甚三郎
・内大臣あるいは參謀總長 荒木貞夫
・陸軍大臣 小畑敏四郎 あるいは 柳川平助
・大蔵大臣 勝田主計 あるいは 結城豊太郎
・司法大臣 光行次郎
・(不詳) 北一輝
・内閣書記官長 西田税
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二・二六事件のとき武藤は軍事課の高級参謀ですね。そして我々を眞っ向からつぶした。
當時の軍事課長は村上啓作さんで、
村上さんは何とか蹶起將校のメンツがたつようにしてやろうと思っていた。
しかし、かれの部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝った譯けですね。
・・・池田俊彦  リンク→生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 
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村上啓作大佐

岩畔豪雄の談話
事件の勃發で、陸軍全体が混亂の眞最中の二月二十六日正午頃、
所は陸軍省の移轉先だった九段会館の憲兵司令部であった。
村上啓作軍事課長が、河村参郎少佐と私に、
「 維新大詔 」 の草案の起草を命ぜられた。
陸軍に關する勅語は、軍事課で作ることになっていた。
しかしこれは容易ならぬ文章であるので、河村少佐と協力して、苦心しながら起案にかかった。
ところが、午後三時頃だったと思う、
再び村上課長がアタフタと入って來て、至急に草案が欲しいという。
だが、まだその時には半分くらいしか書けていない。
半分くらいしかできておりませんと言うと、
それでもよいからと、書きかけの草案をもって、
急いで蹶起部隊の靑年將校首脳が集まっている陸相官邸へ車を飛ばしていった。
仄聞すると、
すでに 「 陸軍大臣告示 」 が 山下奉文少将から傳達されて欣喜している靑年將校達に、
村上大佐はこの草案を示して、
いよいよ維新大詔の渙發も間近い情勢にあることを傳えたという。
ところが、この草案は再び私の所に歸って來なかった。
その後の事態の變化をみれば、
死産に終わった 「 維新大詔 」 の 運命は自明のことであろう。
今では草案原稿の控えもないし、その内容は忘れたが、
靑年將校らの蹶起趣意書を認めた意味のものだったように憶えている。
もちろん天皇の御意思ではなく、
村上課長が一人できめたものではないかと思う、
後で裁判の時、
問題化して村上課長が 若い者たちをなだめるためだったと弁明していた。
その後の推移からそう思われるのである。


うして、
村上啓作大佐に持ち去られた未完の 「 維新大詔案 」 は、
同じ二十六日に
「 大詔渙發に至らんとしているが、内閣が辭表を出しているため復署ができないから、それにいたらぬ 」
と 傳えられ、 ( ・・・満井中佐 )
さらに 二十八日には、
蹶起將校の一人安藤輝三大尉が
村上大佐から
「 ここまで來ているのだから 」
と 直接、原文を示されている。
とにかく、
一部幕僚等によって進められていた維新大詔降下運動は
事情の急變によって二十八日、
奉勅命令による叛亂軍討伐に變ったことは、その後の事情がよく説明している。
結局、この大詔案は、
村上大佐が二十六日午後から二十八日まで持ち廻ったあげく、
そのまま握りつぶしたものではないかと推測される。
なお、叛亂軍討伐と變った事情の急變がどのような理由によるものか、
この點はいろいろ言われているが、いずれも臆測の域を出ていない。
・・・二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編から


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