あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

松浦邁 『 現下靑年将校の往くべき道 』

2023年02月11日 11時28分18秒 | 松浦邁

奈良に着いたときは、日が暮れていた。
松浦邁少尉は週番勤務中であった。 ( マツウラツグル )
士官学校を八月に卒業して、二カ月間の見習士官を経て十月に任官した、
ホヤホヤの新品少尉である松浦は、予想以上に元気であった。
『 五・一五事件 』 で おきざりにされて、精神的苦痛に悩んだ、候補生時代の暗い影は、
すでに消えていた。
私は和歌山で大岸大尉に会ったこと、大阪で中村義明と三人で田崎仁義博士を訪問したことなど、
こまごまと話した。
「 大岸さんは、中村義明は転向者と、ただひとこといっただけだったが、
貴様、中村という男を知っているのか 」
「 よく知っています 」
松浦が話をしてくれたのは、次のようであった。
中村はかつて浜松楽器の労働者争議を指導した若き共産党の闘士として、
活躍した経験の持主である。
三・一五事件 ( 昭和三年三月十五日、新生共産党の全国いっせい大検挙 ) のとき
検挙されて入獄し、獄中で渥美勝の 『 桃太郎主義 』 や 遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 などによって、
百八十度の転向をして出獄した。
そのころ、立憲養正会の里見岸雄は、盛んに天皇の科学的研究を唱道していた。
その講演会が、大阪で開かれた。
松浦は、たまたま先輩の鶴見重文中尉 ( 陸士四十期、後平井と改姓 ) と共に聴講した。
里見岸雄の講演内容に対して、堂々批判の一矢いっしをむくいたものがいた。
天皇を科学的に分析する態度に同調し得ない、という中村義明であった。
その中村の批判に全く同感の意を表したのが田崎仁義博士であった。
そのことがきっかけとなって田崎と中村との親交がはじまり、
当然のようにこれを通じて松浦と中村、田崎との交流がはじまった。
それがやがて大岸、中村のコンビに発展するのであるが、
私が大岸を訪ねた、その一日前に中村の反吐事件を誘発し、その交流が強化されたというわけだ。
「 そうですか。 義明が反吐を吐きましたか、よかったですね 」
松浦は愉快そうに笑った。
「 週番中の宿題みたいな気持ちで、ちょっと書いてみたんですが、読んで見てくれませんか、
つまらないものですが・・・」
松浦は、部厚い原稿を出した。
私は、その原稿を四つ折りにして、上衣の内ポケットにしまい込んだ。
本人のいうように、どうせ、つまらないものと思いながら・・・・。
松浦少尉と別れて、東京行きの汽車に乗ったのは、夜もだいぶ更けてからであった。
旅の疲れが一度に出て、私は、いつの間にか寝てしまった。
沼津で眼が覚めた。
いままで忘れていた松浦の原稿を、フト思い出した。
私は睡眠不足の重い頭で読んでみた。
『 現下青年将校の往くべき道 』 の 表題で書きつづられている文章を一枚、二枚と読んでいくうちに、
私の眠気は一ぺんにふっ飛んだ。言々句々、まさに珠玉の文章であった。
一気に読み終わった。
二度、三度倦むことなく読み返した。
これが、新品少尉のものした文章であろうか、と 疑ったほどの大文章であった。
東京でも、絶賛を惜しまなかった。
このままに埋もれさすのは惜しいというので、印刷に付すことにした。
香田中尉の斡旋で、まず 五百部が刷られた。
全国の各聯隊はもちろん、朝鮮、満洲の守備隊に至るまで配付した影響は大きかった。
この 『 現下青年将校の往くべき道 』 が、啓蒙の上に大きな役割を果たしたことは、
いうまでもない。 ・・・大蔵栄一 著  二・二六事件への挽歌  「 
松浦少尉、警世の大一文 」 から


松浦邁
(つぐる)
目次
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『 現下靑年将校の往くべき道 』 
松浦邁 ・ 異聞

松浦中尉はそのころ鶴見中尉と同じ奈良の三十八聯隊にいて、
いわば和歌山勢といったところだった。
彼は前に述べたように、
『 日本改造方案大綱 』をめぐっての東京と和歌山の確執を解くべく一役買って上京したこともある。

もともと彼は五 ・一五事件の士官候補生とは士官学校時代からの同志だが、
なにかのはずみで、この事件に参加しなかった。
それを彼は討入りにはぐれた赤穂浪士のように負い目に感じていた。
少佐になってからも、折にふれてそういった心境を私にもらしていた。
しかし彼が見習士官時代に聯隊長からの課題作業として綴った 『 青年将校の行くべき道 』 の一文は、すぐれた作品だった。
私たちは満洲事変中、満洲でそれの印刷したものを受取ったが、
凱旋の途次 新京で会った菅波大尉も、これを激賞して
「 誰が書いたのだろう、大岸さんではないかと思っているがね 」 と いっていた。
彼はしかし 二・二六事件にも連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、
懸命の奔走をつづけたのだった。
・・・末松太平著  私の昭和史  から


松浦邁 (つぐる) 『 現下靑年将校の往くべき道 』

2022年06月29日 19時00分58秒 | 松浦邁

現下靑年將校の往くべき道
松浦邁 (つぐる) 

第一  靑年將校憤起の要
一、
昭和日本の躍動は
唯 昭和靑年將校 「 簡單に中少尉と解すべからず 」 の 赤き血と熱とのみにて行はる。
明治維新は明治の靑年武士に依りて行はれたり、
昭和の大維新は昭和の靑年將校に依りて行はれざるべからす、
夫れ一國の危急を救は
必ずや自己一切を犠牲にして顧みざる鐵心石腸の男児の熱と血との事業一新の天地に躍動すべき
若き日本の渇望するは
唯若き靑年將校の赤き血に漲みなぎり何物をも融かさずには止まざる靑年將校の勢に燃えあがる事のみ。
二、
軍服の聖衣を纒まとへる農民の胸奥を知る者は獨り靑年將校のみ。
我等は熱と誠心の初年兵敎育に彼等の魂を攫つかみ彼等の胸奥を知る。
困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君國の爲め献身する彼等の努力こそ實に血と涙の結晶なり、
彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。
彼等が我等を見上る眞摯の眼には何物か溢あふるゝ
その至純なる農民層の頼むあるは唯 我等靑年將校のみ、

我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。
三、
興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。
客秋満蒙の地に鐵火閃ひらめきしより以來 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、
彼等は病床に獨り苦しめる老父母を殘して去れり、
彼等は粥を啜り 芋の根を噛かむりて日々を送る妻子を殘して去れり。
彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて歸りをのみ待てる弟妹を殘して去れり。
彼等は斷じて何人の犠牲にも非ず。彼等は唯 「天皇陛下の爲に 」 起てり。
彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、
彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。
「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。
金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、
嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に應ふる何物か与へられんや。
吾人は幾千の生靈を空しく異郷の土に冥する事に忍びず
彼等と共に戰へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり。
四、
欧米物質文明に浸潤し盡されたる現下
日本に皇道の大旗を翻し得る者は
獨り武にして文を解し得る我等靑年將校のみ。
皇國を滅亡の淵に臨ましめたるものは 實に歐米物質文明なり、
血の高鳴り 生生と躍動する皇國を以て
一の機械組織と観察したる所に總ての誤謬
ごびゆうは發生す、
現下の政治
現下の經濟
現下の敎育
現下の思想 
悉くが是此の認識の謬点びゅうてんを明證せざるはなし。
吾人は形而下に現はるゝ制度組織のみに理論の是非を行はず
吾人が今日の政党財閥其他一切の私權階級を絶對に否認するは
實に
彼等が彼の誤れる認識信念の下に出發するを以てなり。
今日の世界 文にして武を解し得る者  果して幾人かある 
市ヶ谷臺六十年の精神の發揚せらるゝは正に今日なり、
武にして克く文を解する我等靑年の手にこそ現下の世界及皇國興亡の鍵は握らる。
五、
國家を滅亡に陥るゝ政治經濟を打破し得る者、政治に拘泥せず世論に超越せる皇軍靑年將校を舎きて他なし、
 吾人の動くや悉くこれ聖勅の精神のみ、
字句の末に幻惑せられて文字の含める偉大なる内容に透徹する能はざる愚人輩に吾人は一言を呉るゝを要せず、
實に今日の危急に際し 偉大なる活動を爲さしめんが爲に
平時の枝葉末節の政治經濟技術に關与拘泥するを禁じ給へる大御心を三思せよ。
六、
皇威を發揚し國家を保護する爲に自ら一身を陛下に捧げ奉れる我等は
皇威を遮る宮狐社鼠の徒輩、國家崩壊に瀕せしむる亡國亡階級の存在を坐視するに忍びす。
尊嚴なる自己を顧みよ、吾人の軍服をまとへるは實に劍を以て君國を護らんが爲めなり。
何人の傭兵にも非ず 何人の奴隷にも非ず。
吾人の一身を捧ぐるは唯々 天皇陛下の爲のみ、
今や皇威は姦臣の壟断に委せられんとし
國家は私慾の徒に翻弄せられ抱懐せんとする時 
何故に軍服の國士よ起せざるか、
唯国泰かれと祈り給ひて宸襟を安んじ給ふ
一夜とてもなき 
我等が大君の今日の御苦悩を思ひ奉る時
何人か駘蕩の夢を破り碌々の生を偸ぬすむることの得るものぞ、
我等は黙視し得ざるなり、吾等は傍観し得ざるなり、
起て軍服の國士、吾人が吾人本來の使命に還りて憤起する時
吾人の一切の行動を束縛する何物も無き筈なり。
七、
草薙なぎの神劍を握れる者 之を皇軍靑年將校と謂ふ。
宏謨宣布の前途を遮る魑魅魍魎ちみもうりょうを伐つに草薙神劍あり、
皇道の敵を討つには豈に國外と國内とを問はんや 神劍を握り得るは至誠至純一の私慾なき聖戰散兵線の小隊長のみ。
八、
恒産なくして恒心ある者 唯 士のみ之を能くす。
恒産なくして恒心ある者は未だ之れあらざるなりとの先哲の唱破は現時日本社會に適切なり
恒情なきが故の不平 恒産なきが故の叛逆なり。
「 恒産なくして恒心ある者は唯 士のみ之を能くす 」 の 「 士 」 なる文字を國軍將校全部なりと解すべからず
現下の國軍には恒産あるも恒心なき輩多きに 況や 恒産なくして恒心ある鐵腸夫に於てをや、
「 士 」 とは實に 「 命 」 も要らぬ 名も要らぬ、官位も金も望まざる大丈夫の謂なり、
吾人は恒産なき徒なり 身に具するは一枚の戎衣蓄ふる資本は唯頑健鐵の如き體軀、
命は未來の戰場に托せられ 名誉は散兵線の消耗品に甘んず 官位は一介の中少尉、
金なく 妻なく 子なく 又 私慾なし 唯抱けるは憂國の熱情 唯持てるは破邪顯正の劍。
嗚呼 靑年將校に非ずして、いかで一切を君國に捧げて榮え行く皇國の礎となるに甘んじ得るあらんや、
吾人の抱負唯此の一路あるのみ、嗚呼皇軍の靑年將校に俱に擧りて奮起せん、
吾人を舎いて三千年の皇道を維持し神州を保全し得る者他に一人も非ざるなり。

第二  血と魂との團結の意義
一、
靑年將校は獨逸皇帝統帥權の奴隷となる能はず。
皇國が物質文明の餘弊に滅亡の岐路に立てる時
皇軍亦腐朽せる旧世紀統帥權思想に崩壊の危機に瀕す、

吾人は客年のロンドン條約締結時に於ける統帥權蹂躙の責は
決して他人に非ず 
國軍其者に罪ありと斷言する者なり、
苟も國軍に嚴然たる統帥權の確立する何人か能く之を顗覦ぎゆし何人か能く之を侵犯し得べき、
國軍の統帥權が蹂躙せられたるは 國軍に統帥權の確立あらざりし證明なり、
實に今日唱へらるゝ統帥権の解釋なるものは
何れも誤れる外來思想の根本より發する封建的統帥權にして

明治維新により宣布せられたる大日本帝國兵馬の大權は
斷じて巷問物質観的 學者輩専權的 獨逸思想の奴隷軍人の能く解し得る所にあらず。
然り而して 明治天皇が照炳へいとして明示し給へる兵馬の大權を誤り傳へて
遂に今日の紛糾を生みし者は 悉く陸海軍なり、
今日陸海軍を風靡ふうびする兵馬の大權の思想は
實に旧獨逸皇帝 「 カイゼル 」 の 「 朕の統帥權 」
の思想にして
斷じて我か 大元帥陛下の統帥權に非ず。

「 プロシア 」 王室に身を興して獨逸聯邦の上に専制獨裁帝國を建設せる皇帝 「 カイゼル 」には
「 朕の軍隊 」 「 朕の統帥權 」 の専制必要なりしらん、
然りと雖も三千年の國體ある皇國に持ち來るに此の専制統帥權とは何たる叛逆思想ぞ。
即ち 獨皇帝統帥權下の軍人及軍隊は悉く皇帝 「 カイゼル 」 の専制に死活を委ねられたる奴隷なりしなり。
我等皇國に生れ、 大元帥陛下に一身を捧ぐる者 斷じて斯る専制統帥權の奴隷となること能はざるなり。
而して専制獨逸皇帝の 「 朕の國家 」 が
西欧 「 デモクラシイ 」 の 「 國民の國家 」 に無殘にも撃砕せられたる今日
旧世紀の逆倒的腐朽思想を奉ぜる我陸海軍の専制統帥權が 「 デモクラシイ 」 思想の傀儡たる
現政党財閥に蹂躙せられたるは宣なる哉、
嗚呼 陸海軍は將に 「 統帥權 」 なる桎栝しつかつの下に崩壊せんとす、
吾人靑年將校は一日も早く眞の國體に則る 天皇の兵馬の大權を奉じて腐朽崩落せんとする
旧統帥權なるものを打破駆逐せざるべからず。
二、
皇軍と靑年將校の横断層は國家の精神的崩壊を支ふる最後のかくなり。
今日上流階級の物質的思想は上流より下流に及ぶものなり。
彼等には到底皇道なるものを解し得ず
従ってその誤れる國家観、國體観が恐るべき惡思想を國民に流布しつゝあるなり。
吾人は總てが唯物的思想より發生せる 「 デモクラシイ 」 政治にも 「 ファッショ 」 獨裁政治にも荷担する能はず。
國家主義にも將た 又 日本主義にも世界主義にも、斷じて荷担する能はず、
總ての主義なるものが微なる一個人の獨斷を以て創案せられたる唯物唯心
何れかの一面的表面観察に過ぎざるを知るものなり、
斯くの如く 吾人が現下の國家を見渡して
供手傍観して
國家を批判し得るものゝ存在を何処にも發見し得ざるものなり、
國民は白紙なり
偉大なる凡人なり
赤く染むれば赤くなり、
黒く染むれば黒くなる、

此の純眞にして凡愚なる民衆なるものに
一度此の思想の浸潤せんか
恐る可き國民的崩壊は立所に至らん。
軍服を着たる偉大なる民衆は實に吾人の部下たる兵卒なることを忘却す可からず。
靑年將校は下級武士なり、偉大にして純眞なり、
民衆なるものゝ直接上層に位置する者、
其の腐敗如何は直ちに直接、
接する偉大なる軍服の民衆に及ばん。
然りと雖も吾人は斷言す、
現下吾人皇軍靑年將校は、決して上流亡國社會の腐朽惡思想の浸潤を受け居らず

皇國は實に皇軍靑年將校の至純至誠なる魂の横斷層を以て最後の複郭となし
以て彼等の腐朽惡外來思想の浸潤を防止することを絶對に必要とするものなり。
三、
皇道の敵を討つ聖戰に第一線小隊長の聯絡結束は最大の急務なり。
腐朽の言辭を連ねて靑年將校の横斷的結束を禁ずる人よ、
汝等は横斷的聯繋れんけいなるものを奉じて敵を前にして中隊長大隊長師團長の系統を辿れる命令文なる
物質的統帥權の降る待たざれば何事も出來得ざるか、
汝等が突撃の團結の爲に比隣各小隊長と密接なる聯繋を取ることは汝等の言に依れば
「 統帥權 」 に叛逆する横斷的結束には非ざるか、
一文の価値なき陳腐の議論を止めよ、

血と魂との躍動する皇軍隊の中には横と縦との區別あるなし、
横斷層の鐵の如き結束なくしていかで一體渾然こんぜん融和堅牢無比なる鐵軍の形成せらるべき。
吾人皇軍將校の護る者は唯 皇運、吾人皇軍將校の討つは 唯皇道の敵、
皇道の敵を討つに豈形體上の國境の内と外とを問はんや。
我等の鐵の如き横斷的聯繋結束は皇道の敵を討つ第一戰、小隊長當然の急務なり。
四、
靑年將校は正に市ヶ谷臺六十年の魂に結ぶべし。
血と熱と誠 唯 之を以て肝胆相照すに在り。
皇國の上流支配層及中流知識層の徒輩 悉くが物質文明の奴隷と化し去れる今日
武士道の眞精神を把握し撫養し來れる市ヶ谷臺の子が六十年來燃し來りし聖火を掲げて
神州の邪惡を焼き盡くさん時は正に今なり、
嗚呼 皇軍靑年將校よ。
再び魂の故郷に還れ。
一の私慾なく
一の不純なく
唯燃ゆる正義の熱血と 温かき友情の交融とに

一切を皇國に捧げて顧みずと誓ひし 臺上四年の生活に還らん。
同じ校舎に學び 同じ校庭に武を練り 共に食し 共に寝ね 共に志を同じうする魂の友よ、
今や雙ふたつ手以て皇道精神の大旆おおはたを掲げ
危急の皇國を救ひて
神州正気を永遠に伝ふべき時には非ずや、
紛糾の議論を捨てよ
栄華の野心を屠
ほふ
血と熱と誠の合體
是れ吾人の叫ばんとする
皇軍靑年將校の横斷的結束なり。

第三  擧軍一體の宣言
一、
年將校の信念は昭和日本の信念なり。
靑年將校の動は昭和日本の動向なり。
嗚呼 吾人靑年將校の此の血と熱と誠とに抗し得る何者ありや、
吾人の血は清純なり 一の汚濁なし、吾人の魂は至誠なり 一の蔽はるゝ所なし。
誠は天の道にして誠を行ふは人の道なり、
天は物言はず然も健々廻りて息まず 皇道悠々唯黙々神惟しんいの道は一の言擧げを要せず。
唯至誠至純なる吾人の魂にのみ吾皇道の精神は宿る、
私慾なく私心なき國士の動向こそ實に我尊嚴なる國體の顯現なり。
一切を犠牲にして唯 天皇にのみ歸する吾人靑年將校の信念こそ
將に旧殻を打破して一新の天地に更生すべき昭和日本の信念なり。
明治の御代に生を禀けたる人は 明治の日本を担へり、
昭和に生を禀けたる吾人は正に昭和日本を担はんとす、
將に脱落せんとする表皮の如き存在たる老人輩に若き血に躍動する昭和日本を担ひ得るものに非ず。
吾人は唯 彼等の今日迄に於ける國家に対する勲業を感謝して彼等に隠居を勧むれば足る。
二、
年將校は直しく溢るゝ叫の熱血と至純とを以て全軍を焼き 全國民を焼き盡くすべし。
我等は此の熱血と至誠とを二十萬の部下に及ぼすべし。
我等の熱もて彼等の血を湧かし 我等の誠もて彼等の愛國心を叫び起すべし。
彼等軍服の農民が 我等より受けたる愛國の熱血に奮起する時 天下何物か此の大濤だいどうに抗し得べき。
我等は我等の此の至誠を我等の上長に推倒すべし、至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり。
我等の上長の動かざるは我等の至誠未だ足らざるなり。
我等の上長等を知る能はず 我等を解する能はず、吾等の勞未だ足らざるが故なり、
我等は千百の理論を陳べて上長に強るに非ず、上長に従はしむるに非ず 上長を啓蒙するに非ず。
吾人は吾人を統率する偉大にして宏濶なる胸と腹とを有せらるゝ我等の上長の其胸と腹の中に熱血を濺ぎ、
吾人の至誠を推倒し 而して我等の此の熱血の大濤に乗り 我等のこの至誠の團結の統帥者となりて
此の熱血の波濤を彼岸に打たしめ 此の至誠の團結をして皇國興隆の精神的革新とせしめられんことなり。
我等はゆる努力を傾けて我等の上長を動かさざるべからず、
我等の此の至誠にして何者か動かさざるものあるべき、
我等のこの熱血にして何者か焼かれざる者あるべき、
上官をして動かしむるには唯々吾人の至誠による團結結束を以て推し行くにあるのみ。
三、
明治大正の御代の皇國に血と魂とを附与したる皇軍の上長は
宜しく昭和御代の皇國には昭和の靑年將校の血と魂とを献ぜしめよ。
至公至平を旨とせらるゝ我等の上長は
心を空しくして昭和皇軍靑年將校の血と魂とを その擴なる腹中に容れらるべし。
靑年將校はあくまで上長の部下なり、
靑年將校はあく迄初年兵敎官にして第一戰小隊長たり、

我等は初年兵敎官として軍服の農民の苦悩を知り 軍服の農民の魂を攫つか
軍服の農民を握る我等は第一戰小隊長として皇道の敵を討つて殉國の血を湧し
至誠と決死との團結を作り 前進又前進するのみ、
我等は礼儀の如何なるものなるかを知り 我等は統帥の眞諦の如何なるものなりやを知る。
皇軍は武装せる 「 ロボット 」 の集團に非ざるが故に 上長が上意を解せず下意を評せずと言ひて
直に上下を轉倒し 若しくは上長を屠りて破壊の建設を叫ぶものに非ず。
皇軍が専制覇王に率いらるゝ軍隊はならば反逆もあり上下轉倒もあるべし。
然りと雖も吾人の皇室は有形的階級の區別こそあれ一様に、
天皇の股肱たり護國の大丈夫たる平等自由なる人格との團結なるを信ずるが故に
斷じて獨露奴隷軍の軌わだちを踏むものにあらず。
皇軍が物質的機械的なる組織に運用せらるゝならば破壊と建設とは行はれ得べし。
然れ共 血の通へる魂の通ぜる皇軍に於ては破壊もなく建設もなし。
唯 期するは皇軍の生命體に宿る憎むべき毒惡腐朽の鼠賊を掃蕩し
不死鳥の如く旧殻を打破焼盡して大悟更生の一途あるのみ。
六十年間脱却し得ざりし獨逸式専權の旧套をば皇國の血と肉とを體得して生れ出たる
我等靑年將校の殉國決死の熱炎を以て焼き捨つべし。
今や靑年將校の信念と實力とは嚴然として總て備はれり、我等の意氣は皇道を疾駆する駿馬の如し。
乗馬本分者たる上長は宜しく此の駿馬に跨れ手綱を把し 鞍を要せず。
駿馬は在ゆる難路嶮難けんなんを踏破して皇道の理想に邁進せん、
大一線全線の鞏き聯絡は完成せり、
聯隊長師團長軍司令官 宜しく馬首を進むべし、
聖戰場裡機 既に熱す、前線の將士決河怒涛の満を持せり、
嗚呼 斯くの如くして上下一致渾然こんぜん團結堂々として毅然きぜんとして王事に勤勞すべし。
勅諭は上たると 下たるとを問はず 上下の團結を紊す者を誡むるに
「 軍隊の蠧きくいむし毒國家の爲許し難き罪人を 」 以てし給へり。

第四  破邪顯正劒
一、
他人の惡を責むる前に先づ自己の惡を正せ、
他國の不正に刃を向來る前に先づ自國の不正鼠賊を掃蕩すべし。
自己の内心疚やましくして何人に向って正義を唱へん、
自國の内に皇道を阻害する獅子身中の虫を抱き何処の國に向ってか皇道を、
宣布し得べき、自己社會の中に資本主義の如き誤れる物質文明の大欠陥を包蔵し乍ら
同じ物質文明の胎中より發生せる共産主義國に對して何の日露戰爭ぞ。
斯の如き腐爛せる國を提げて戰ふは是れ國民を駆って崩壊滅亡の深淵に投ずるの大罪なり、
外勢の我皇國に向つて逼追ひっついせる今日 吾人は一日も速に皇國の眞實の姿に返して
眞の皇道國家として甦らせしめ九千萬の民と共に正義の敵に當らんと欲す。
皇道を甦らすには皇道に仇なす敵を掃蕩すべし、
皇道の敵は宮中に在り、元老重臣中に在り矣

二、
皇國は一日も速かに皇國本然の姿に還り
而して皇道の宣布に仇なす赤賊の根拠に對し
昭和の三韓征伐を斷行すべし。
資本主義社會に巣喰ふ赤賊輩は資本主義社會の存在する限り絶滅し得るものに非ず。
皇國は物質文明の生みし金銭の奴隷制度たる資本主義思想を根底より打破し
眞に本然の皇道に建直したる後は 神功皇后の御鴻業に則り
一日も早く同じ物質文明の奴隷たる赤賊の根拠地ソヴエート政權に聖戰の大軍を向けて
赤露獨裁専制王に城下の盟をなさしめざるべからず。
三、
東海日出る所の皇道の聖火燃ゆれば 世界の萬惡悉く焼盡せられ
二十億人類に皇化霑うるおはん、北歐一野蛮國の膺おう懲何物ぞ。
吾人の往手は豈氷雪に閉さるゝ西伯利亜のみならんや、
資本と武力と鐵鎖に幾百年間縛られて

死滅に瀕する我等の同胞亜細亜民族を救ひ
更に一歩聖旆はたを進めては物質文明の闇に沈淪して苦悩の窮極に喘ぐ世界人類の上に
救世の神國となつて君臨し 六合を兼ねて國となし
八紘を蔽ひて宇となすてふ
皇道の大理想を實現すべし。
嗚呼 靑年將校は 「 一世の智勇を推倒し 萬古の心胸を開拓 」 せん。
是れ 吾人の人生の總てなり。

第五  總てを天皇へ
我等の士 我等の家 我等の財 我等の生命 總て悉く 天皇のものなり
利慾の邪念を脱却して自己を顧みよ 何処に自己の物ありや、
何処に自己の恣
ほしいままにし得る物ありや、
總ては天皇の物なり、天皇の物なり、
汝は汝等が最も尊重して之のみは自己のものなりと信ずる汝等自身の生命さへも
断じて汝等自身が能く左右し得るものに非ず。
況や汝等の身邊に附随する有形物質に於てや、
汝等は國家の一細胞にして汝等の血には 肉には
國家の生命が脈打てり。
汝等の父母も妻子も同胞も悉く國家のものなればなり、
汝等は象徴し給へる天皇の赤子に非ずや。
國家生活の血液たる經濟の大權を速に、 天皇に奉還せよ。
財は國家なる生命隊の形而下的血液なり。
誤れる個人主義理論に立脚して國家のものなるべき財を、
個人の専斷に委ねて顧みざる無謀の惡制度を日本國體は許容する能はず。
今や財界は物質文明最後の終幕たる世界經濟大恐慌の怒濤壊滅せられんとす、
天命は明かに汝等の上に令せり。
聞け 「 總ての土地と財を 天皇に奉還せよ 」
一、
我等靑年將校の往く所 何物か粉砕せざらん
嗚呼 吾人の血潮は今や揺坤ようこんの波濤となって滔々と進む、
吾人の熱誠は焦天の炎として燃ゆ、
何物か砕かざらん、何物か焼かざらん、

吾人の行手を遮る眞に何物かある、
吾人は至誠を推して進む、吾人は熱血を吐露して進む、
然りと雖も吾人の此の至誠に遂に動かず、
吾人の此の熱血を遂に腹中に入るゝ能はざる者あらば
吾人は彼等を捨てゝ進まん、
顧みずして進まん。

彼等は既に死物なり、彼等は既に皇道の障碍なり、
吾人皇軍靑年將校は如何なる威武や權力が之を阻止すとも遮斷すとも
斷々乎として獨り皇道を闊歩せん、

吾人は絶對に腐朽せる獨逸式統帥權力に服従せず。
何者か聖なる大同團結の前途を阻止するが如き、
魑魅魍魎あるには三千年の武の精神を傳へたる草薙の神劍は閃かん、
宝刀鞘を脱する時 何の魔か降らざらん。
吾人は抜くべき宝刀を握れり。
聖旆は進む
日本國民よ擧りて行け  天皇の許へ
昭和八年三月十日
靑年將校

現代史資料4 国家主義運動1 から


松浦邁 ・ 異聞

2016年11月08日 04時22分30秒 | 松浦邁

ある憲兵の記録  朝日新聞山形支局
の中に、『 二・二六事件異聞 』 という頁を認めたので 全文を掲載する

二・二六事件異聞
斉共事件の翌昭和
十一年 ( 一九三六年 ) に、
日本の軍隊叛乱史上最大とされる二・二六事件が起こった。
二月二十六日未明、陸軍の一部青年将校らが急激な国粋的変革を求め、
約千四百人の部隊を率いて叛乱を起した。
蔵相・高橋是清、内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎を殺害、侍従長・鈴木貫太郎に重傷を負わせた。
首相・岡田啓介をも殺したつもりだったが、人違いだった。
永田町や麹町一帯を一時、占拠したが、二十九日、鎮圧された。
事件の背景には、陸軍内部の皇道派と統制派の対立があり、皇道派が蜂起した。
皇道派は前陸相・荒木貞夫や前教育総監・真崎甚三郎をリーダーと仰ぎ、
『 日本改造方案大綱 』 を 書いた北一輝を理論的指導者とした。
統制派は、前年八月に暗殺された軍務局長・永田鉄山を指導者とし、多数派とされた。
いずれも軍部の力を強めようとする急進派には違いないが、
統制派は、「 総力戦のためには旧来の財閥とも強力し合う 」 という方針だったのに対し、
皇道派は農村の惨状に心を痛め、財閥を憎んだ。
そして、財閥などと手を結んでいる将軍や幕僚層をも軍閥とみなし、
天皇の正しい政治を妨げている 「 君側の奸 」 と 反感を抱いていた。
「 監軍護法 」 の 憲兵は、当時の二・二六事件の起こる前から彼ら皇道派を 「 一部将校 」
と よんで、その言動を注視していた。
土屋のいたチチハルにも、この一部将校がいた。
土屋の担当は松浦という歩兵38聯隊の中尉だった。
二十四、五歳、小柄で怪異といっていい顔立ちだった。
尾行などを繰り返すうちに、彼がしきりにどこかに手紙を出し、自分も受けていることに気づいた。
手紙の内容が分れば、不穏分子かどうか仲間の有無、行動を起こすとすれば その時期などが
情報として得られ、未然に防ぐことができる。
どうすれば郵便物を見られるか。
わけないことだった。
作戦要務令には 「 通信および言論機関の検閲取締り 」 を 憲兵の任務の一つに挙げていたし、
当時、不穏文書を取締る別の法律もあったように土屋は記憶している。
軍事郵便物は憲兵隊内にあった軍事郵便取扱所で、
普通郵便はチチハルの郵便局というべき郵政局で、見た。
ほとんど連日のように行った。
慣れてくると、勘で、そろそろおかしいのが来るところだなと思う時に行った。
「 イヨッ 」 と 声をかけて中に入り、私信だろうが外国領事館の本国への公文書だろうが、
ジャガジャガ開封した。
必要なものは写し取って情報として報告し、外国のものの多くは暗号文だったから、
やはり写して暗号係に渡した。
写し終えるとノリをつけて、コテでシャッとすると、開封した跡は消えた。
開封はどうしたかというと、湯気をあてるような面倒なことはしない。
指のつめの先で、スッと開ける。
開封したことが絶対わからないように今でもできる。
外国のものには、検閲防止のため円形のロウで封をしてあるものがあったが、
それとて簡単だった。

一部将校の松浦中尉の出す郵便は、内容はほぼ同じだった。
「 天御中主神 あめのみなかぬしのかみ の子孫が天皇である。
 天皇の権力をもっと強めて天皇親政の日本として治めていかねばならない。
ところが、日本の今の政治は財閥に牛耳られ腐敗している。
君側の奸が多すぎる。これを改め、天皇の権力を拡大し、天皇の真姿顕現を図らねばならない 」
いわゆる檄だ。
これを関東軍だけでなく、内地の軍の仲間にも送っていた。
土屋は、その内容を見て 「 なるほど 」 と 同感だった。
天皇の取巻きに悪いのがいる。
日本を天皇中心のもっと強い国に改造しなくてはならない、と。
「 松浦中尉とは何と素晴らしい人か 」 とも 思ったが、検閲は仕事だから続けた。
そして、二・二六事件があった。
情報が流れてきた。
すぐに、松浦中尉はじめ二十四人の皇道派青年将校を検挙した。
取調べは憲兵分隊長が当り、関東軍軍法会議に送検した。
結果は、土屋たちには知らされなかった。
取調べが中国人に対するような、拷問責めなどではなかったことだけは確かである。
松浦中尉は、その後、昭和十五年ころだったと思うが、チチハル以外の戦闘で戦死した。
連日流れてくる戦死者名簿の中に彼の名前を見つけた土屋は、「 一部将校であった 」 と 添え書きして上官に持参した。
この上官は一瞬、ムッとして土屋をにらみつけ、黙ってしまった。
ひょっとして、この上官は皇道派だったのではなかろうか、
土屋にしても、皇道派を非難がましくみていたわけではない。
むしろ、好ましくさえ内心では思っていた。
それは、皇道派が土屋の出身でもある農村の疲弊にも目を向けていたから、というわけではない。
やはり、頭に刻み込まれていた天皇のイメージからみて、皇道派や松浦中尉の主張は 「 なるほど 」 と 思わせた、というほうが近い。
土屋だけでなく、憲兵の中には皇道派に同情的な見方をする人も少なくなかった。
同じ関東軍憲兵隊のある隊では、二・二六事件直後に何人かの青年将校を逮捕したものの、客分扱いだったという。
もっとも、関東軍憲兵司令部は違っていた。
その時の司令官、東條英機は
「 この機会に関東軍内部の皇道派将校と、満鉄および満洲国政府内の親皇道派の一掃を 」
図ろうとして、各憲兵隊に厳しい取調べを要求したといわれる。
昭和十六年(一九四一年) 十月、首相となった東条は、陸軍大臣を兼務し、
憲兵を手足のように使って東條憲兵と悪評されるが、その下地づくりをここでしていたようにもみえる。
このように東京で起きた二・二六事件でははあったが、満洲への波紋も小さくはなかった。
いずれにしても、事件後、
「 財閥の意のままに動く軍部独裁政治へと急速に変わっていった 」
と 土屋は分析する。
「 それにしても 」 と 思う。
皇道派に走り、若くして散った松浦中尉の生き様は、その死は、何だったのか。
これもまた検閲で開封して読んだのだが、中尉の母の手紙を思い出す。
島根県の人だった。
「 お前は藩士だった父の血をうけて過激すぎる。おだやかに往きなさい 」
と あった。
そういう男だった。
と 同時に、だれとも同じように、やさしい母のいた人でもあった、と 思う。
土屋にとっての 「 二・二六事件異聞 」 である。

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茲に登場する 松浦中尉が、
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 の、松浦邁少尉かは判らない
それは
黒崎貞明著の恋闕
の中に下記、 松浦少佐が登場する場面があり
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( 昭和二十年八月 ) 十三日、
松浦少佐が大岸頼好、菅波三郎、末松太平の三人を連れてきた。

いずれも 二 ・二六事件の先輩同志である。
聞けば、陸軍省の嘱託だといって門をくぐったそうだ。
この時期に旧同志の 揃い踏み とはいささかできすぎた演出であった。
「 何事ですか 」
「 日本の大事にあたって、何かわれわれにできることはないかと思って様子をみにきた 」
という。
私はポツダム宣言以来の概略を話して、阿南陸相の決定に従うことにしているというと。
「 他に途はないのか 」
というので、
「 軍が二つに割れて、片や皇軍、片や官軍ということになると、収拾がつかなくなるし、
分断占領も、革命もあり得る 」
と 所信をのべると、
「 天皇を擁してあくまで戦うことはできないのか 」
と 迫ってくる。
これは誰かから、軍の中堅将校が阿南陸相に進言したが、
梅津参謀総長がこれに反対したという情報を聞いて、とんできたものらしい。
「 たしかにこの際、天皇を無理にでも市ヶ谷台にお連れして本土決戦を行い、
条件講話にもって行こうという考えがあったことはたしかであるが、それは省部の大勢ではなかった筈だ 」
と 説明し、むしろその後われわれはいかにして国体を護持して、
日本の再建の方途を考えるべきではないかと思うとのべた。
このとき、松浦少佐は、いきなり私の拳銃を取って飛び出した。
何をするのだろうと呆気にとられていると、しばらくしてから悄然として帰ってきた。
「 俺は二・二六事件でも死に損なった。あの失敗が支那事変を拡大し、そしてこの大戦となり、
今、日本は無条件降伏を迎えようとしている。
われわれが倒そうとした軍閥がいま、このような形で倒れようとは思わなかった。
俺は貴様ほど利口ではない。ただ死に場所を見つけたいと思った。
俺が、梅津総長と刺し違えれば、なにか別の途が開けるかも知れないと思って、
総長室に行って見たが、総長は宮中に行ったあとだった。 俺はまた死に損なった 」
と いってボロボロ涙を流している。
その純粋さには思わず頭が下がった。
基本的な考え方や手段方法についてはそれぞれ異なるであろうが、
この日本の重大な難局にあたって 祖国のために死に場所を得ようと決心することは得難いことでもあり、
尊いことでもある。
・・・・
彼はしかし 二・二六事件にも 連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二 ・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、懸命の奔走をつづけたのだった。
・・・黒崎貞明著の恋闕

上記の松浦少佐は

末松太平著 私の昭和史
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 
の、松浦邁少尉と一致する