あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 『 失敗もとより死、成功もまた死だ 』

2021年12月06日 19時49分12秒 | 末松太平

もし陛下がお前らの精神 あるひは
行動を御嘉納にならなかった場合は、
どうするつもりか
はい、神風連のやうに、すぐ腹を切ります
それならばだ、もし御嘉納になつたらどうする
はい、その場合も直ちに腹を切ります
・・・握り飯の忠義 


末松太平  スエマツ タヘイ
『 失敗もとより死、成功もまた死だ 』
目次
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・ 澁川善助の士官学校退校理由 
對馬勝雄中尉 ・ 残生  

・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録

・ 「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」 
・ 末松太平 ・赤化将校事件 1 
・ 末松太平 ・赤化将校事件 2 

やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。
末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
・ 絆 ・西田税と末松太平
後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」

・ 改造方案は金科玉条なのか 
澁川善助と末松太平 「 東京通い 」 
末松の慶事、万歳!! 


私は 昭和九年十月、

千葉の歩兵学校に学生で派遣された。
派遣されるまえに渋川善助から、
この秋に東京はいよいよ蹶起するといってきていた。
私は二度と帰らないつもりで、身の廻りの整理をして青森を発った。
千葉にくると、
各地から歩兵学校にきている青年将校二十人ばかり結集して、東京の蹶起にそなえた。
が、いつまでたっても東京は蹶起する気配がなかった。
村中大尉に問いただすと
「 何かの間違いだろう 」
と いった。
私は腹立ちまぎれに
「 東京は、どうせ起つ気はないんでしょう 」
と いった。
流石温厚な村中大尉もおこって
「 起つときがくれば起つさ 」
と 私を叱りつけた。
予め たしかめなかった私も悪かった。

肝心の渋川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、といって叱られれば、
そうですか、
と ひき下がるほかはなかった。
・・・悲哀の浪人革命家 ・ 西田税 

時期をきく奴はニセ者だと、むかし大岸大尉がいったことがある。
これで対馬中尉と大岸大尉の間がまずくなり、
私は間に立ってどうにも恰好がつかなくなって困ったことがある。
「郷詩会」の会合などのある前のことだった。
まだ仙台の教導学校にいた大岸中尉が、青森にでてきたので一緒に、
任官して間のない対馬少尉に会うため弘前にいった。
対馬は私たち二人を下宿につれていってもてなした。
酒はあったが新任少尉に肴といったもののありようはなかった。
対馬は、津軽味噌を焼いてそれを肴にしようとした。
かいがいしく接待につとめながら、
にこにこして大岸中尉に 「時期はいつになりますかね」 と蹶起の時期をなにげなく聞いた。
対馬のことばが終わるか終らぬうちに、大岸中尉は 「貴様ニセ者だ」 ときめつけた。
「 どうしてですか 」 と対馬が反問すると
「 昔から時期を聞くものに本物はいないといわれている。
意気地がないから、ついに時期を聴きたくなるのだ。
時期が気になるくらいなら、いっそのこと止めたがいいよ 」
といった。
対馬も腹を立ててしまった。
「 止めるよ 」 といったきり動かなくなった。
味噌はじりじり焦げて炭になっていった。
もちろんあとで、これは仲なおりできたけれど、
私からやるのかやらないのかと詰問されて、困惑を満面にあらわして、
やらない、といわざるを得なかった村中大尉が、佐藤に時期は、実行計画はと追求されて、
それを一々口述してメモすることまで許したのだから、これ以上の皮肉なことはない。
・・・
村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」

十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 
・ 十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した 
辻正信大尉
三角友幾 ・ 辻正信に抗議


・ 「 永田鉄山のことですか 」 
「 年寄りから、先ですよ 」 
本朝のこと寸毫も罪悪なし 

・ 
青森聯隊の呼応計画 『 将校がたが起つなら、おれたちも・・・・』
・ 末松太平大尉の四日間 1
・ 末松太平大尉の四日間 2
・ 
末松太平大尉の四日間 3

・ 反駁 ・青森聯隊 「 師團は我々と共に行動する體制にあり 」 
・ 反駁 ・末松太平へ西田税からの伝言 『 出る工夫をせよ 』

「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」 

・ 昭和維新 ・末松太平大尉
西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、
大学寮にきていたのである。
案内を乞うと、 声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、 変哲もなかったが、
つづいての、
「 このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、
このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
・・・天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 

・ 末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』


拵えられた裁判記録

2020年12月11日 06時01分28秒 | 末松太平

小生らの公判状況を読んでいて、
満洲事変の初期、熱河作戦のとき使った陸地測量部の地図のことを連想した。
この地図は路上、目算測図といったもので、正規の三角測量をしたものではなかった。
変装して現地を歩き、その結果を校舎に帰りまとめたものであった。
特に熱河といえば内蒙地区だから蒙古人が測量を嫌う。
土地を測量することは土地を奪うことだからである。 ( 三里塚も同様 )
そういうことで、こっそりつくった秘密地図だが、それだけに苦心の作にかかわらず誤りが多かった。
部分部分を測量してつなぎ合わせると、つながらないところができる。
そういうところは仕方なく地形をつくってつないだ。
それで地図にある山が実際にはなかったり、一里で到着する筈の部落が五里位先にあったりした。

他の人たちのことは知らないが、小生らに関する限り、
公判状況は、満洲事変初期の熱河省の地図だ。
全然ウソではないが創作の部分が相当ある。
が、これは臨席した憲兵が記憶を頼りに書いたものというから致し方あるまい。
しかし、熱河省の地図が信用できないまでも、ある程度役に立った。
全然地図がないより遥かにましだった。
公判状況というのは、たしかに、そういった点があるにはある。

若松裁判長が小生に、
この公判は天皇の名に於てやっているのだから、問うたことには答えなければいけないよ、
といったのに対し、
小生はハアとだけ答えたことは 相当フィクションで、むずかしい文章で表している。
が、こういう事実はあった。

小生が訊問に対し頗る簡単に答えたのに対し、若松中佐が注意をしたのである

もちろん、小生はハアとは答えたが、
こんな裁判が、何が天皇の名に於ける裁判なのか、とは思っていた。
最期のところで、この裁判は法に基づくものでなく、
政治的であるといったのは片岡俊郎中尉 ( 終戦後死んだ ) の言で、これも事実である。
これに対し若松中佐が、余計なことはいわんでもよろしいと叱った。

論告は割合よく書いてあるが、これは本物を貰い受けたのかも知れない。
いかにも青二才といった法務官 ( 法務将校 ) が、
ドイツの法律まで援用して衒学的に論告したのを馬鹿々々しいと思い乍ら聞いた。
弁護士がいないのだから検察側は勝手放題のことをいっても、まかり通るわけだった。
被告人らは東京に行って叛乱者を利する意図を持っていたと強弁している。
ヒドイ話だ。
完全に事実に反する断定だ。
こういうのが当時の日本軍部の体質だった。

小生は 「 私の昭和史 」 にも書いてあるように、
非合法も辞さないと かねて思っていたものが、
合法的に裁判されようとは思う如きは虫がよすぎると思っていたから、
非合法な裁判でも暗黒裁判でも、ちっともかまわぬが、
真実を追求する歴史家はそういうわけにいくまい。

在監者行状の報告は変なものですな。
森伝や市川、明石中尉らは行儀が悪い。
森伝は終戦後、小生にいった。
あんなところで行儀よくしてもつまらんですよ。私はうんと行儀悪くして楽をした。
平野さんなど、あまり行儀よくして体に無理したものだから、出るとすぐ死んでしまった。
小生ら青森組もあまり行儀はよくなかった。
看守の一人が、もっと行儀よくしなさいと笑っていったから、
そんなに行儀のいいのがいるかと聞いたら、平野さんと菅波さんがいい、見習いなさい、といった。
俺たちよりも悪いのもいるだろうといったら、誰々と名前をいった。
結局、小生らは中くらいといあことらしかった。

北から南から性のよくない動物が、寄せ集められていた。
その動物共は檻のなかで、いろいろな生態を看守である園丁どもに御披露した。
代々木動物園のつわものどもらで、けだものどもは思い思いの生態をみせつけて、
看守どもの、変な報告のタネになった。

二 ・ 二六事件秘録にのっている人のなかには、死んだ人が多いが、まだ存命の人もいる。
島野老は東京にいるし、明石寛二は富山県魚津にいる。
竹山君らは金子という憲兵にあっているが、小生らに判廷にきていた憲兵は可愛い顔の若い伍長だった。
この憲兵、愛嬌のいい男で、小生の肩章の星の数を数えて、七年だ、と笑った。
星の数で論告の年数の相場が決まっているということだった。


・・・末松太平 「 二・二六事件秘録 」 を読んで  から

★ これは昭和四十六年九月十四日付、松沢哲成氏宛末松太平氏の書簡の一部である。


青森聯隊の呼応計画 『 将校がたが起つなら、おれたちも・・・・』

2018年03月29日 15時49分05秒 | 末松太平

昨年秋、私は岩木山麓の旧八師団野営地跡の山田野開拓団を訪ねた。
といっても開拓団はすでに農協に変貌しており、開拓団長は農協組合長と名称をかえていた。
私が訪ねた先は、この組合長だった。
彼が二 ・二六事件当時、同じ青森聯隊にいた葛西曹長だったからである。
葛西曹長は、その後累進して少尉になり終戦を迎えるわけだが、
帰郷すると、もともと農家育ちだったから、近くの山田野開拓団に加わった。
野営地は、大抵荒蕪地と相場がきまっている。
山田野の原野も例外ではなかった。
そこで営々二十年近く、彼は苦闘してきたのである。
所得格差が云々される東北の農家のなかでも、
更にそれのいちじるしい営農に、彼は耐えてきた。
私は葛西組合長とは二 ・二六事件以来会っていない。
三十年ぶりの再会だった。
古軍服姿の彼と私は、積もる話の山を互いにくずしていった。
その途中で卒然と彼は
「 あのとき、将校がたが起つならわれわれも一緒に起とうと、
 下士官集会所に集まって気勢をあげたものでした 」
と感慨をこめていった。
当時青森聯隊の下士官たちが、われわれと行動をともにしようと、
よりより協議しているという話は、おぼろに私の耳にしていた。
しかし、それはおぼろのまま過ごしてきて、このときまで確めたこともなかったし、
確めようともしなかった。
それだけに彼のこのことばは、私にとっては鮮烈なものだった。
朴訥で真面目一方だった彼の下士官時代のことを知っているだけに・・・・。
二 ・二六事件を私が知ったのは、二月二十六日朝の九時頃だった。
当時東奥日報の記者だった現青森県知事 竹内俊吉が、電話で知らせてくれた。
蹶起した東京の同志の誰からも事前の連絡は何もなかった。
寝耳に水で、どうこれに対処していいか見当もつかなかった。
『 私の昭和史 』 に書いたとおりである。
当時将校がたが起ったら、おれたちも・・・・と下士官たちが自発的に協議したということも、
考えられていい、昂揚した雰囲気だったということである。
が 起つとは、どういうことか。
部隊を率い、東京に馳せつけることか。
県庁でも占領して東京に呼応することか。
われわれ青年将校の中にも、そういったことを提案したものがいたのだから、
下士官たちも同じようなことを考えていたのだろう。
東京の事件が撃ち合いもなく、おさまった翌日、
雪道で行き合った兵営前の筒井小学校長は、私に
「 県知事が五聯隊が県庁を占領しにきても、
 各自は自分の持場を離れないように訓示したそうです 」
と告げた。
竹内記者のもとに
「 君は五聯隊の若い将校と仲がいいから、生命だけは助けてくれるようにいってくれ 」
と哀願しにきた日頃 傲岸ごうがんな代議士もいたし、資産家もいた。
われわれは当時、大なり小なり 「 起つ 」 という形式しとらず、
聯隊長、旅団長と、統帥の順序をふんで、折角の東京の蹶起を無駄にしないよう、
これを契機に、軍中央部が国家革新に踏切るよう師団長から意見具申してもらう道を選んだ。
この行動が、あとで 「 叛乱者を利するの罪 」 になるわけだったが。
当時の葛西曹長たち下士官は、満州事変
をともに戦ったわれわれの戦友だった。
格別革新教室を開講したわけでもなかったのに、疲弊した農村出の彼らは、
それの救済を国家的に企図するわれわれに、知らず識らずのうちに信頼を寄せていたもののようである。
それが 「 将校がたが起つなら、おれたちも・・・・ 」 の自発的協議となったわけだったのだろう。
山田野農協は世帯数七十余。
水利がないため米作はできず畑作だけである。
酪農の道もまだ遠い。
農地は各戸五ヘクタール平均はあるが、葛西組合長のうちの粗収入は、年三十万くらい。
そのなかから、開拓資金の返済金十万を、今年から払わなければならないといっていた。
それでも近々、県で井戸を掘り、水利の便を図ってくれることになっているからと、
彼は明るい顔でいっていた。
私は途々、あのとき若し何等かの形で起つていたら、
昔にかわらぬ、この朴訥な組合長をも、どの辺かまで、
あわれな道づれにしたことだったろう。
それをしないでよかったんだな、と思いながら、
このとき岩木山を背に、山田野から去っていったのだった。
1965 ・2

末松太平著 
軍隊と戦後のなかで  から


悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

2018年03月28日 09時56分02秒 | 末松太平

昭和九年暮の
十一月二十日事件は完全に捏造事件だった。
中公新書 「 二・二六事件 」 の著者も、
「 村中ら三人は、陸軍士官学校辻政信中隊長が生徒をスパイに使っての策謀と、
 陸軍省片倉衷少佐、 憲兵隊塚本誠大尉の術中に陥ったのである。
そして彼らは完全に無実であった。
戦後 田中清氏が、この日の片倉少佐の言動を私に話した内容からみても、断言できる 」 
 と いっている。
しかし 私は他人の言をかりるまでもなく、
自分自身で、これが捏造事件だったことを証明しうる。
私は別の意味で被害者だったのだから。
くわしいことは、ここでは書いてはおれない。
すでに拙著 「 私の昭和史 」 にくどいほど書いておいた。
が、つぎの叙述のつなぎに略述しなければならない。
私は 昭和九年十月、
千葉の歩兵学校に学生で派遣された。

 
   
末松太平澁川善助

派遣されるまえに澁川善助から、
この秋に東京はいよいよ蹶起するといってきていた。
私は二度と帰らないつもりで、身の廻りの整理をして青森を発った。
千葉にくると、
各地から歩兵学校にきている青年将校二十人ばかり結集して、東京の蹶起にそなえた。
が、いつまでたっても東京は蹶起する気配がなかった。
村中大尉に問いただすと
「 何かの間違いだろう 」
と いった。

私は腹立ちまぎれに
「 東京は、どうせ起つ気はないんでしょう 」
と いった。
流石温厚な村中大尉もおこって
「 起つときがくれば起つさ 」
と 私を叱りつけた。

予め たしかめなかった私も悪かった。
肝心の澁川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、
といって叱られれば、
そうですか、
と ひき下がるほかはなかった。
が、私は腹の虫がおさまらなかったので、
見当違いの尻を西田税にもっていった。
「 東京の連中はだらしないですよ。
あんたも、この連中とはいい加減手をきって、
あんたは、あんた自身の才能を生かす政治の面に、
正面切って進んではどうですか 」
相手が西田税 だからいえる無警戒な、穏当を欠く いいがかりだった。
私は西田税の笑顔を予期していたが、
西田税の反応は意外に真剣で、しんみりしたものだった。

「 僕の存在が 君らの運動の邪魔になっていることは前から知っている。
できることなら 青年将校たちから、手を切った方が君らのためにもなるし、
僕自身も、君のいうとおり、僕に適した方面に進んだ方がいいと思う。
まだしたいことが沢山あるしね。
が、磯部君などが、いろいろ相談を持ちかけてくるんでね 」

もちろん正確に、この通りにいったわけではない。
が、記憶をよびおこすと、西田税は大体こんな意味の述懐をしたように思う。
自分の存在が青年将校運動の邪魔になると、
卒然といいだした西田税のことばは、
当時私にとってはショックだったし、いまだに忘れえない。
十月事件以来の西田税の心の疵に、私のことばが、まともにふれたのだと思った。
しかも私は 十月事件のときの轍をふむまいと用心して、
このとき千葉で結集した青年将校たちを、つとめて西田税に近づけまいとしていた。
西田税の、浪人であるが故の悲哀を、
私は非情に衝いたことになったと思って内心狼狽した。

「あんたが邪魔になるなんて、そんなことはありませんよ」

内心の狼狽をかくして、私は西田税の心の疵をかばおうとした。
こんなことまであったのに、
十一月二十日事件とやらいうものはデッチあげられて、
それを知ったかぶる者は、知ったかぶっている。

悲哀の浪人革命家・西田税
軍隊と戦後のなかで 末松太平 著 から


末松太平 ・ 赤化将校事件 1

2017年12月08日 04時56分58秒 | 末松太平

青森歩兵第五聯隊の記録
---赤化将校事件---

末松太平

二・二六事件連座の獄をでた私は
翌昭和十五年、
ある会合に出席して、
たまたま同席した厚生省労政課長の北村隆に紹介された。
紹介したのは、これも同席した竹内俊吉だった。
竹内俊吉は永年つとめた東奥日報をやめて、
東京の昭和通商に はいったばかりだった。
東奥日報といえば 青森県の代表的新聞である。
竹内俊吉は東奥日報社時代からの知合ということで北村隆と久濶を叙していたが、
ことのついでのように、そばにいた私を北村隆に紹介した。
私は北村隆とはもちろん初対面だから、初対面のように挨拶した。
が 北村隆は、いくぶん皮肉めいた笑いをうかべて
「 末松さんのほうは初対面のつもりでも、私のほうは初対面ではありません。
私は五聯隊赤化将校事件当時の青森県特高課長ですから。
青森県特高史に五聯隊赤化将校事件と、はっきり記録されています 」
と いった。
北村隆のいう五聯隊赤化将校事件がなんであるかは、私にはすぐに理解できた。
私が昭和五年の暮、仕出かした、
事件というほどのこともない些細な事件のことをさしているわけで、
赤化将校とは、とりもなおさず 当時の私のことである。
その意味で当時青森県特高課長だった北村隆にとって
私は初対面の相手ではないわけだった。
互いに初対面の顔が覆い会合だった。
引合わされて幾組も初対面の挨拶を交わしていた。
そのなかで私の場合は、ただの初対面でなく、
五聯隊赤化将校事件などという思いがけないものが、
十年後に、引きずりだされることになった。
それにしても、赤化将校事件とは恐れ入った格付けだった。

昭和五年は、
半ばから年末にかけて私は、機関銃隊長代理をしていた。
本職の機関銃隊長が千葉の歩兵学校に派遣されていたから、
その留守のあいだ、
中尉になったばかりだったが、
機関銃隊将校のなかでは最古参というだけで私が代理をつとめていた。
赤化将校事件と青森県特高でいっていたという事件は、
この機関銃隊長代理をしているあいだの、
除隊兵を送り出すとき、おこしたことだった。

毎年十一月の末に、その年の二年兵は除隊することになっていた。
一緒に入営した同年兵のうちでは、最後まで残された兵である。
一緒に入営した同年兵のうち
幹部候補生に合格した有資格者は、甲種、乙種の別はあったが、
旧制度の一年志願兵同様、一年で除隊した。
残ったもののうち入営前、居住地で軍事訓練をうけ、入営後の検定に合格したものは、
それから半年後に除隊した、
十一月に除隊する兵は幹部候補生になる学歴もなく、
北海道やカムチャッカなどに出稼ぎにいっていたか、家族が忙しいかで、
入営前に軍事訓練などうける暇のなかった兵である。
この最後まで残った兵に召集した予備役兵を合わせて、
稲の刈入れのおわる十月半ばから十一月の初めにかけて、毎年秋季演習が行われる。
これがおわると、それを待ちかねたように予備役兵は
「 うちのほうにも内務班がありますから 」
というものもあって、さっさと除隊して帰郷してしまう。
あとの兵営は人影もまばらで閑散になる。
二年兵は、いよいよ自分の番を待つだけである。

除隊日が迫ると、中隊長は除隊兵を集めて現役最後の訓示をする。
良兵良民の訓示である。
良兵である お前たちは、こんど郷里に帰ったら良民にならねばならぬ、
ということがいいたいたるの訓示である。
軍隊内務令にも
「 在営間の教養は、
ただに全服役間を通じて軍人の本分を完うするに緊要なる基礎たるのみならず、
またもって国民道徳を涵養し、終世の用を為すべき習性を賦与するに至るべきものにして、
軍人は帰郷ののちと雖も、永くこれよりて各自の業務を励み、忠良なる国民となりて、
自らよく郷党を薫染し以て国民の風向を昻上せしむることを得る 」
良兵の証明書が善行証書で、それには照明者の聯隊長の官姓名が印刷しいあり、
判もおしてある。
が 教育とは分類し序列をつけることであるかのように、
序列によって、もらえぬものと、もらえぬものとが分類される。
比率があって除隊兵の何パーセントかが、もらうのだが、
もらえるものより、もらえぬもののほうが数が多い。
善行証書に値打ちがあるのはそのためで、就職、嫁取りの身分保障にもなる。
善行証書はしかし、
このころの五聯隊では、いよいよ除隊する、その日の朝でなければ渡さないことになっていた。
前日に渡して不都合なことのおこった前例があってからのことである。
二年間要領よく、かぶりつづけた猫を、善行証書をもらったとたん、
もう大丈夫と、たった一晩の辛抱がしきれず、ぬいで、正体をあらわすものがいたわけである。
一度渡したものを取返すのも無様だが、
たとえ取返したとしても、見込みちがいは取返しがつかない。
それを予防するため、営門を出る、ぎりぎりまで善行証書は渡さないことになっていた。
が 現役で除隊するまでは、猫をかぶりとおして無事善行証書をもらっておきながら、
予備役できて、臆面もなく正体をあらわして、あとの祭り、中隊幹部をくやしがらせる例もあった。

善行証書とは関係ないが、なかには折角、猫をかぶりおおせて除隊したのに、
わざわざそれをぬぐいにくる兵もいた。この年の機関銃隊の除隊兵のなかに今岡という兵がいた。
今岡は除隊日の夜、合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
「 なんだ、まだ帰らなかったのか 」
というと 今岡は
「 このまま帰ろうと思いましたが、猫をかぶったまま帰っては教官殿に、
すまない気がしたものですから 」
といって、自分の入営前の経歴をはなした。
入営前憲兵にわかっていれば、多分要注意兵にされていたであろう経歴だった。
軍隊には要注意兵という扱いをうける兵がいた。
五聯隊にも毎年わずかながら、そういう兵が入隊した。
要注意兵というのは憲兵から赤化した危険人物と、入営前連絡のあった兵のことである。
実は、この年の機関銃隊の除隊兵のなかにも要注意兵が一人いるはずだった。
毎年初年兵の入営を前にして、人事係特務曹長は聯隊本部から、
配属される兵員名簿を受領してくるのだが 二年前、このときの除隊兵のとき、
機関銃隊の人事係特務曹長は、要注意兵を一人、押しつけられてきた。
聯隊本部から帰ると初年兵教官だった私に
「 こんどは機関銃隊も番だと聯隊副官殿から因果をふくめられ、厄介者を一人もらってきました 」
といって苦笑した。
前には漸くレルギーが軍隊にあったが、このころの五聯隊では、個人差はあったが、
一般ではもう、それを特別意識するようなことはなかった。
かえって要注意兵自身のほうが終戦後、本人が書いたものなどをみても過剰にそれを意識していたようで、
要注意兵だからということで特別に変った待遇をするわけではなかった。
但し人事係特務曹長だけはべだった。
前からつづいている規則によって、一人でも要注意兵がいると、そのため毎月、聯隊本部に、
異常のあるなしにかかわらず報告書を提出しなければならなかった。
要注意兵がいるというだけで面倒な仕事が一つ増えるわけで、
人事係特務曹長にとっては、いかにもこれは有難くない荷物だった。
が 幸いなことに、このときの要注意兵は入営直後の身体検査にはねられ即日帰郷になった。
特務曹長はほっとした。
初年兵が入営する前、各中隊では親許に家庭通信を郵送し、所要の欄に記入したものを、
返送してもらうことになっていたが、このときの要注意兵は、本人の特長という欄に
「 命ぜられたことには反抗する性質がある 」
と 本人の筆跡らしい字で記入してあった。
それで、どんな青年だろうと、即日帰郷で帰りかけているのをとらえて
「 なにをしたんだ 」
と きいてみたら、家庭通信のそれとは、うってかわった素直さで、要注意兵にされたと思われるいきさつの、
あらましをはなした。
格別のことではなかった。
今岡の猫かぶりの経歴と似たようなことだった。
今岡と同じように組合運動の、お先棒みたいなことをしていたというだけのことだった。

猫を脱いだ今岡は、私の部屋に一晩とまって翌朝、北海道の親許に帰っていった。
帰りぎわに今岡は着ようとしたチョッキの裏をみていたが、着るのを一旦中止して、
ここに記念に字を書いてくれといって、チョッキの裏をひろげた。
裏地は白地だった。
私はなにか気負った文句を書いたようだった。
「 一剣報公 」 というのだったかも知れない。
北海道に帰りついた今岡からは時々手紙がきた。
手紙は二・二六事件までつづいた。
父親と同じ職場で働いているといっていた。

私が機関銃隊長代理をしていた昭和五年はロンドン条約が締結された年である。
条約の調印をめぐって統帥権干犯問題がおこり、
これがもとで総理大臣浜口雄幸は十一月十四日、
東京駅で佐郷屋留雄に狙撃された。
草刈海軍少佐が財部海軍大臣を、ロンドン会議からの帰朝の途中を要して
暗殺しようとしたが果たせず、それを自責して自刃したのは、
これに先だつ五月十一日のことだった。
ロンドン会議の最中、海軍中尉藤井斉は海軍部内に
「 憂国概言 」 を 配布して、
国家革新の見地からロンドン会議の重要性を訴えた。 ・・・リンク→ 
藤井斉 ・ 『 憂国概言 』 
加藤軍令部長の手記も、写しが陸海軍革新将校のあいだに順次手渡しされ、
私のところにも届いていた。
そのなかには、草刈少佐自刃の真意を財部海相に云う、
とか、若槻全権帰る、刈り出しの歓迎盛んなり、などといったことが記してあった。

昭和五年はまた世界恐慌が日本にも波及した年で、失業者は急増していた。
「 大学は出たけれども 」 就職はむずかしかった。
農村は豊作飢饉だった。
この年の東北地方も豊作だったが、冷害凶作のときと変りはなかった。
酒保で呑む一合の酒が、
在郷の親がつくる大根何本に相当するかを思うと兵隊は、うかうか酒保の酒も呑めなかった。
軍隊は閉鎖社会といわれていた。
五聯隊では青い針の棘が痛い、からたちの生垣を
有刺鉄線で補強して、社会から兵営を隔絶していた。
藤原義江の歌う歌のように、
兵営の生垣のからたちも、春には優しく白い花が咲き、
秋には金色のまろい玉の実がなった。
が、からたちの生垣から一歩出ると外には、失業の風が吹きすさんでいた。
善行証書をもらわぬ除隊兵にとっては、ことさら冷たい娑婆の風だった。

秋季演習にいく前だった。
兵営の裏側の稲田を一人たたずんで眺めている機関銃隊の二年兵がいた。
兵営裏側の水田は、私の郷里の九州などと比べれば問題にならないが、
この地方では反収の多い良田のほうで、稲はゆたかに実って刈入れを待っていた。
私は近づいて
「 いよいよ、除隊だね 」
と 声をかけた。
その二年兵は
「 このまま軍隊に残っておれたら楽ですが、
うちの人手のことをかんがえると、そうもいきません 」 と いった。
稲が実のれば除隊日が近づく。
兵隊は稲を除隊草といって実のりを待ち、除隊日を待った。
その除隊草の二度目の実のりを迎えて、除隊日が目の前にきているのに
「 このまま軍隊に残っておれたら---」
と、ふとつぶやく兵もいるわけだった。
私も代理ながら格は隊長だから 除隊前の訓示をしなければならなかった。
が 除隊の前日になってもしなかった。
かわりに善行証書授与式を行った。
が 午後になって訓示代りに、何か書いて除隊兵に持たして帰そうと思った。
将校室の机に向かって筆をとった。
「 諸子が一歩営門を出れば失業が待っている 」
といったようなことから書きだした。
そこで藤井斉中尉の 「 憂国概言 」 のことを思いだした。
「 憂国概言 」 は 私のところにも郵送されてきていて、都合よく将校室の机のなかにいれてあった。
私がこれから書こうとしていることは結局 「 憂国概言 」 と 同じようなものになると思った。
どうせ同じようなものになるのだったら、新たに文章をひねりだすより、
これをそっくり真似たほうが労力が省けて利口だと思った。
私は 「 憂国概言 」 をとりだすと、
営門を出ると失業が待っている、の 書き出しは、そのままにして、
ところどころ時期的に合わないところなどを直しんがら、引き写しをはじめた。
剽窃ひょうせつである。
原稿ができあがると自分でガリ版切りをした。
表題は 「 憂国概言 」 をもじって 「 憂国数言 」 とした。
ガリ版刷りは部下の下士官にやらせた。
夜の点呼ごろまでかかった。
紙は官給の和紙より良質の和紙を買ってこさせておいた。
和紙特有の香りのいい、少し黄色がかった紙だった。
除隊日の朝は、
現役最後の朝食をおえた除隊兵が身支度をして舎前の営庭に、各中隊一様に整列した。
そこで各中隊では同じように善行証書授与式を行っていた。
機関銃隊の除隊兵は善行証書授与はすんでいるから、
各班ごとに班長から、ガリ版刷りをもらうと、
各中隊の善行証書授与式を尻目に奉公袋を提げて、さっさと営門をでていった。

除隊兵が出ていって十二月にはいると兵舎はさらに閑散になる。
雪は十二月にはいる前から、降っては消えていた。
山はもう雪におおわれ、八甲田山はとうに真白になっていた。
が 里の根雪はまだだった。
将校集会所の炉辺でも、
ことしの根雪は、いつからだろうといってみることが欠かせない挨拶だった。
そのなかで翌年一月十日に入営する初年兵の教育の準備をする。
このときの初年兵が、あとで私と一緒に満洲事変に出征する兵になる。
初年兵教官がきまり、助教、助手が選ばれる。
内務班の編成がえもし、支給する兵器、寝具、被覆の整備もする。
そうこうして十日ぐらいたった夜のことだった。
突然三人の除隊兵が、班長一人に付添われて合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
西山、須藤、前川の三人で、三人とも青森市内のものだった。
が、それがそろいもそろって在営間は、いわくつきの一等兵たちだった。
もちろん善行証書などは無縁の三人だった。
西山は商業学校中退だから当時としては学歴のあったほうで、
能力からいっても上等兵になって当然だったが、
商業学校中退という経歴に何かいわくでもあったのか、
世にすねたような性質を軍隊にまで持ちこんだようで、
酒癖のわるさも手伝って内務での行儀もわるく、
上等兵候補者にはなったが、上等兵にはなれなかった。
須藤は、うちが魚屋で、魚屋のむすこらしい威勢のよさはあったが、
西山同様、これも酒癖がわるく、
日曜祭日の外出のたびに泥酔して、帰営時刻すれすれに営門を通過するのが常習で、
週番勤務者を、いつもはらはらさせた。
それだけでもよくなかったが、
時には帰営後一旦内務班におさまったかと思うと、裸になって営門にむかって飛びだし、
あわてて追っかけた戦友たちにつれもどされるという、おまけまでついた。
前川は、うちが蕎麦屋で、魚屋と蕎麦屋の家業のちがいのせいでもあるまいが、
須藤とはちがって朴直だったが、因果なことに夜尿症を持ったまま入営した。
機関銃隊の不寝番は前川をしくじらせないため、
時間をきめておこし便所いかせる特別の申送りをしなければならなかった。
こういう厄介を戦友にかける劣等感のせいもあってか、
前川は何をさせても、動作が鈍く冴えなかった。
三人が三人ともいわくつきというわけであったが、いわくつきなのは三人だけではなかった。
付添った班長の山田がまた、三人におとらぬ、いわくつきの下士官だった。
下士官は年度がわりごとに再志願をする制度になっていた。
が 一般ではそれは例年、書類を出すだけの形式にすぎなかった。
が 山田の場合だけは、それがすんなりいかず、
再役志願のたびに、許可するかしないかが問題になった。
これも酒がもとの不始末が原因だったが、結局は本人の将来を慮り、
将来をいましめて再役許可に落ち着くのだった。
「 人のいやがる五聯隊に、志願ででてくる馬鹿もいる 」
という歌は、聯隊番号を自分の聯隊のものに替えて、全国の兵隊にうたわれたものである。
志願ででてくる馬鹿、というのは、
徴兵適齢まえ、満一八才で志願して入営するもののことをいったものだが、
下士官志願で軍隊に残るものを、風刺揶揄したものだった。
その人のいやがる軍隊だが、山田のような当時の農村出の青年にとっては、
下士官になって軍隊に残ることは、単なる口減らしの目的からだけでなく、
誇りの持てる安定した就職口だった。
下士官をやめて、これよりましな職場がほかで滅多にみつかるものではなかった。
本人の将来を慮るとは、このことであり、
酒さえ呑まなければ---と 将来をいましめて再役許可の判をおすわけだったが、
その都度山田も、酒をつつしむことを涙までだして誓った。
が、ほとぼりがさめての気がゆるみから、性懲りなく同じ不始末を仕出かしてきた。
仏の顔も何度とやらだが、それが三度をすぎて、四度五度となり、ずるずる年功が重なって山田も、
このころでは機関銃隊でも古参株の軍曹になっていた。

仏の顔が三度すぎて、なお山田が下士官にとどまり得たのは、
酒さえ呑まなければ---と 思わせる取柄のようなものが山田にあったからでもあった。
それを証拠立てたのが満洲事変での設営だった。
戦地での設営は戦闘ちはちがった才覚がいるものだが、山田に設営を任せておくと、
疲れた兵隊を徒らに路上にさらすことなく、手際よく休息につかせることができた。
もめごとのまとめ役も山田の取柄のうちだった。
駐留中は、互に気がすさんでいるから、軍隊側と民間側とで、酒の上のまちがいから、
もめごとがおこりがちだった。
こういった場合、山田が居合わすと、双方をまるくおさめてくるわけだった。
たずねてきた除隊兵が除隊兵なら、下士官も下士官ということだったが、
この四人も、もともと悪い人間ではなかった。
軍隊が要領を本分とするものであるならば、
この四人はそろいもそろって要領がわるいということでもあった。

次頁 末松太平 ・ 赤化将校事件 2 に 続く


末松太平 ・ 赤化将校事件 2

2017年12月07日 07時04分55秒 | 末松太平

 
末松太平 
前頁 末松太平 ・赤化将校事件 1 の 続き

たずねてきた四人の顔は謹聴で硬ばっていた。
たずねてきたわけは除隊兵のリーダー格西山が話した。
「 今日青森の警察のものがきて、
除隊のとき、なにか印刷物をもらわなかったかときくから、
なにももらわなかったというと
こんどは教官殿の教育ぶりは、どうだったときくのです。
別にほかの将校とちがった教育はしなかった と いったのですが、
どうしてこういうことになったのか、わけがわからぬから、
警察が帰ったあと須藤のところにいってきいてみると、
やはり警察がきて同じことをきいていることがわかりました。
それじゃ前川のところは、同だろうと
須藤と二人で前川をたずねてみると事情は同じでした。
それで三人で班長殿のところにききにきたら、
班長殿が一緒に教官殿のところにいってみようというので、
こうして、うかがったのです 」
西山は、いいおえると須藤と前川に 「 そうだったな 」 と 念をおした。
須藤と前川は 「 そうだ、そうだ 」 と 口々に相槌をうった。

除隊日の朝 渡したガリ版刷りが、どこからか青森警察の手に渡り、
除隊したことによって憲兵から警察に縄張りが移った除隊兵から早速、
ガリ版刷りのことと私の偏向教育のことを、ききだそうとしているわけだった。
が、ガリ版刷りが問題になっていることは、
この三人の除隊兵からきく少し前だが私は知っていた。
大岸中尉から知らせてきていたから。
ガリ版刷りのことについては、大岸中尉には、なにも知らせてなかった。
が 大岸中尉はガリ版刷りのことを知っていて、
これは軍中央部は不問に付することになっているから、
心配いらないと、いってきていた。
警察、憲兵、軍中央部と伝わったものが、大岸中尉の耳にかえってきたものだろう。
当時仙台の教導学校にいた大岸中尉にとっては 「 兵火 」 問題のほとぼりが、
やっとさめたといったところだった。
「 兵火 」 というのは大岸中尉が、全国の有志将校に月々配っていた印刷物の表題である。
何号かに憲兵の目にとまり問題になったが、
軍中央部は 「 憂国の至情に出でたるもの 」 ということで不問に付した。
それと同列に 「 憂国数言 」も、軍中央部で処理されたというわけである。
三人の除隊兵が、 「 憂国数言 」 のことを警察に、かくしだてするほどのことは、
もうなくなっていた。
が、それをここで明かしては折角心配して知らせてくれた除隊兵たちの腰を折るようでわるいと思った。
私は決まっている軍中央部の処置のことは明かさず、
「 知らせてくれて有難う。だが心配いらないよ。
ガリ版刷りのことも警察にかくさなくてもいいよ 」
とだけいって、除隊兵たちの心の緊張をほぐそうとした。
が 須藤は、
「 いや、おれたちは、絶対にしゃべらないよ。 前川、お前もそうだな 」
と 前川にいった。
前川も、
「 そうだ。 絶対にしゃべらないよ 」
と 気色ばんでいった。
西川といい 須藤といい 前川といい、在営時代には、ついぞみせたことのない頼もしさだった。
合同官舎のはしに、偕行社といっていた官舎相手の売店があった。
私は山田に、
「 どうだ、顔ぶれがそろってるじゃないか。 偕行社にいって一升とってこいよ 」
といつた。
が 山田は、
「 こん夜は、このまま帰ります 」
といって、しばらく世間ばなしをしたあと、
門限がありますからと、三人の除隊兵をうながして帰っていった。
除隊兵たちには、もう門限はなかったが、下士官の山田にはまだ門限があった。
翌朝私は出勤すると、その足で聯隊本部にいき、聯隊付中佐に、
「 中佐殿、私のことで何か問題が、おこってるでしょう 」
といった。
中佐は一瞬どぎまぎして、
「 実はそうなんだ。 君にどういうふうに切り出そうかと思っていたところだ 」
といった。
私が
「 憲兵分隊にいきましょうか 」
というと、中佐は、
「 そうしてくれるか 」
といった。
五聯隊には内地の部隊にしてはめずらしく官舎があった。
その官舎街のはずれ、青森市内に近いほうに憲兵分隊があった。
その途中に独身ものの合同官舎がある。
私は中佐と肩をならべて歩きながら官舎街まできて、
合同官舎のそばにさしかかると、
「 中佐殿、普通こういうときにはやることになっているでしょう 。
私の部屋を調べては如何ですか 」
といった。中佐は、
「 そうさせてくれるか 」
といって合同官舎の私の部屋に寄った。
中佐はひとわたり部屋をみまわしたあと、
「 随分本があるね。これ、みな読んでるのか 」
と 本棚の本ばかり、じろじろながめていた。
私は 「 これなど如何でしょう 」 と 本棚から、
大岸中尉が少尉のとき書いて、士官候補生の私にくれた
ガリ版刷りの小冊子 「兵農分離亡国論 」 を とって中佐に渡した。
証拠物件といったつもりだったが、いまから思えば渡さずもがなのものだった。
馬鹿げたことをしたものだった。
物のはずみということだった。
これ以来 「 兵農分離亡国論 」 は私にとって、幻の文献になってしまった。
中佐は証拠物件に「 兵農分離亡国論 」 一つを持って部屋を出るとき、
「 すまないね、憲兵に知られた以上、聯隊だけで内々にすますわけにいかないからね 」
といった。
軍中央部の処置が決まってしまっていることだけに、
中佐の人の好さが、余計気の毒だった。
が、このときも私は軍中央部の処置のことは打ち明けなかった。
青森の憲兵分隊長は、大尉のことも中尉のこともあった。
が、どういうわけか、このときは少佐が憲兵分隊長だった。
憲兵少佐は机の上に 「 憂国数言 」 を ひろげて、勿体ぶって、
「 これはあなたの書いたものですね 」
と、ことばだけは丁寧にいった。
軍中央部では、とうに結論がでていることを、
これから調べて報告書を書こうとしている田舎憲兵の勿体ぶった態度が、
かえって気の毒に思えたが、私は、
「 いや、これは海軍の藤井中尉がロンドン会議の最中に書いたもので、
別段もう、めずらしいものではありません 」
と 空とぼけたようにいった。
憲兵少佐は、それが癪にさわったのか、それとも私が逃げを打つとでも思ったのか、
むっとして、
「 あなたはそういうが、これではもうロンドン条約は締結したことになっていますよ 」
と、いって、さあ、どうだ、といわぬばかりに身構えた。
が、私は逆らわず、
「 時期的には合わないところは直したのです。私が書いたといってはうそになるが、
私が書いたといったほうが都合がよければ、それにして下さい 」
といった。
憲兵少佐は機嫌を直して、このあと二、三きいていたが、
これが取っておき、といったように、その箇所を指摘して、
「 自覚なき軍隊はブルジョアの番犬、とありますね。
これはどういう意味ですか。共産党のいっていることと同じじゃないですか 」
と 語気をつよめていった。
私は、
「 毎日、ブルジョアの門の前にきて、ねそべっている犬をみれば、
よその犬でも、知らぬ人は、この犬は、このブルジョアのうちの番犬だと思うでしょう。
そういう意味です 」
と いっておいた。
「 自覚なき軍隊はブルジョアの番犬 」 という文句は、
藤井斉中尉の 「 憂国概言 」 のなかにあったものである。
それをそのまま私は 「 憂国数言 」 のなかにも書いておいた。
憲兵少佐が特に、この文句にこだわったように、青森県特高も、この文句にこだわり、
私を赤化将校と規定し、ガリ版刷り事件を、赤化将校事件と銘打ったものだろう。
「 憂国概言 」 改め 「憂国数言 」 については憲兵少佐が、
紙質を 「 これは、いい紙ですね。隊の紙ではないようですね。
あなたが自分で買ったのですか 」 といったようなことまで、きくようになって一段落し、
そのあとで憲兵少佐は、大岸中尉の 「 兵火 」 のことをふれた。
憲兵少佐は苦り切って、
「 大岸中尉には、ひどい目にあわされましたよ。
大岸中尉が兵火を送ったという将校にきくと皆、そんなもの知るものか、
といってぷりぷりおこるのです。 あなたのところには、どうだったのですか 」
といった。
私は、もうすんだことだから、
「 送ってきたといっても、送ってこなかったといっても、どちらでもいいでしょう 」
といった。
大岸中尉の原隊が五聯隊だっただけに、
「 兵火 」 の送り先の調査は当然五聯隊に集中された。
大岸中尉は口から出まかせに五聯隊の将校の名前をあげた。
が、そうまでしなくてもよかったのに要心深く、私の名前だけは伏せておいた。
そのため五聯隊の将校が何人か調べられたが、私のところには憲兵は、ついにこなかった。
憲兵に調べられた腹いせに 「 大岸の奴、ひどい奴だ 」 と、
将校集会所で、ぶつぶついっている将校が何人かいた。
最後に憲兵少佐は、
「 大岸中尉の書いたものは兵火に限らず、用語が共産党と、ちっとも変りませんね 」
といった。
この道の権威らしい口振りだった。
この憲兵少佐は着任早々、将校集会所にきて、軍隊教育の参考に、ということで、
共産党、共産主義の退屈な講話をしたことがあった。
憲兵分隊を出ると、分隊長の前では殆ど口を利かなかった中佐が、
「 君は若いに似合わず腹がすわっているね。何か特別の修養でもしているのかね 」
と きいた。
別に腹がすわっているわけではなかった。
もうすんでしまっていることを、
そうとは知らずに調べる田舎憲兵に、横道をしてみせたまでのことだった。
「 憂国数言 」 事件は
大岸中尉がいったとおり、
これだけのことですんで、あとは何の沙汰もなかった。

十二月の末に機関銃隊長が歩兵学校から帰ってきた。
私はもとの住居住の身になった。
年が明けて一月十日に初年兵は入隊した。
この聯隊で任官して以来、毎年初年兵教育をしてきた私は、
この年からは、それをしなくてよくなった。
初年兵の教育は後輩がするようになった。
私は教育が機関銃と歩兵砲に分科するまでは暇だった。
私は歩兵砲だけの教育をすればよかった。
三月にはいると積もる雪より解ける雪が多くなる。
八甲田山を源にして、兵営を挟むようにして流れている筒井川と駒込川の
川っぷちから雪は消えはじめる。
兵隊を教育するかたわら、雪の消えかけた川っぷちにでてみると、
もうそこには蕗ふきや藪人参や、その他の名も知らぬ雑草の芽が萠えでている。
第一期教育は四月の末におわる。
これで初年兵も、いつ戦争につれていっても一人前の役に立つ兵になる。
春の遅い青森も四月の末から五月の初めにかけて桜の花が咲き、
兵営の土手につらなって根をはっている桜の古木が、
ちょうど花の見頃の五月五日には軍旗祭がある。
大岸中尉が仙台の教導学校から原隊の五聯隊に復帰したのは、軍旗際のあとだった。
三月事件のことは、聯隊にかえってきた大岸中尉から、はしせめてきいた。
三月事件というのは、
軍中央が宇垣大将を担いで政権をとろうとしたクーデター未遂事件のことである。
この事件には大岸中尉の同期生も関係していたから、
その同期生からの連絡で大岸中尉は知ったのだろう。
三月事件のことを知って、私には思いあたることがあった。
クーデターでもおこそうとしていた軍中央が、田舎聯隊の一中尉が仕出かした、
けちなガリ版刷り事件など、不問にして当然だということである。

五月にはいると同時に、二期の教育がはじまる。
二期以後の教育は部隊単位の訓練だから、
八甲田山の山裾に演習にいくことが多くなる。
山裾の松林では郭公が、しきりになき、
田甫では単作地帯だから、もう田打ちがはじまっている。
前年昭和五年はこの地方も豊作だったが、
この年昭和六年は東北、北海道は大凶作に見舞われるのである。
宮沢賢治が 「雨ニモマケズ 」 を 書いておいたのは昭和六年十一月である。
「 雨ニモマケズ 」 のなかの 「 サムサノナツハオロオロアルキ 」 の 「 寒さの夏 」 が、
この年の大凶作の原因だった。
大凶作になるとは知らず兵営のまわりの田甫で農家が田植えをはじめた
六月の半ばごろの、ある日曜日、
なんの前ぶれもなく高村という、このまえの除隊兵が合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
高村は大工だったが、その仕事のことで青森にきたから寄ったということだった。
私は、ついでにただ寄ったのだとしか思わなかったが、
そうとばかりはいえなかった。
ついではついでながら、あやまりがいいたくて、高村は寄ったのだった。
「 私は在営中、教官殿の話をきいて、そんな過激なことが、いまの世のなかにあるものかと、
小馬鹿にしていましたが、こんどそれが過激でなく本当のことだったことを思い知らされました。
実はそのことであやまりにきました。
除隊のとき、もらった印刷物を警察に渡したのも私です 」
と 高村はいって、一部始終を話した。
高村が除隊していった先は恐山のある下北半島の陸奥湾に面した田舎町である。
町では除隊兵が帰りつくとすぐ恒例の歓迎会を、町長以下町の名士が列席して催した。
その席で、各中隊の除隊兵が順々に立って、在営中の思い出ばなしを披露した。
高村は自分の番がくると、
おれの隊には変った教官がいて、除隊のときこんな刷り物をくれたといって、
除隊服のポケットに突っこんでおいた 「 憂国数言 」 を取り出すと読んできかせた。
田舎町では駐在巡査も名士のうちだから、歓迎会に列席していた。
高村の読んだ 「 憂国数言 」 に別段聞き耳たてるものはいなかったが、
駐在巡査だけは別だった。
高村に 「 憂国数言 」 をみせてくれといった。
高村は、こんな刷り物などと思って駐在巡査に渡して、そのままになった。
高村にしてみれば、除隊のときにもらうにはもらったが、
途中捨ててもいいぐらいの気持でポケットに突っこんでおいたものだったから
「 憂国数言 」 の行方など気にとめるはずはなかった。
これで 「 憂国数言 」 が青森県警察の手に渡り、憲兵隊にも通牒され、
西山ら除隊兵の身辺に警察の手がのびたわけだった。
が、そんなことは高村の知るところではなかった。
「 憂国数言 」 のことなど忘れてしまっていた。
が、それを思い出さずにおれないことが高村の身辺におこった。
高村の弟が町の若いもの数人を相手に喧嘩をし、そのあとしばらくたって死んだ。
高村は弟の死んだのは喧嘩のとき受けた傷がもとだと思った。
高村は喧嘩相手の若いものたちのことを駐在巡査に訴えた。
が駐在巡査はとりあわなかった。
高村は相手の若いものたちが町の権力者の身内のものだから
駐在巡査がとりあわないのだと思った。
いままで小馬鹿にしていた在営中の教官の話 「 憂国数言 」 のことが、
いまさらのように思い出されてきたという。
高村は、
「 私は町の権力者とたたかいます。教官殿の仲間にしてもらいます 」
といった。
高村のいう町の権力者というのは、
下北の田舎町には不似合な豪壮な邸宅に住み、
大湊海軍要港部の新任の司令官は必ず挨拶にくるのが慣例になっているほどの権勢で、
そのとき権力者は、どてら姿で内玄関から、新任司令官を応接したという。
新任司令官が帰るとき南部鉄瓶を持たせることも慣例で、
入営前の高村は、それを容れる桐の箱をつくらせられたことがあるという。
財力があるから権力がつき、権力がつくから、その上また財力がつく。
高村の話では、この権力者は、権力と財力をかさに、
伝説に似た悪徳を重ねてきているようだった。
帰りぎわに高村が、
その権力者を殺す、といったから、
言行が必ずしも一致するとは思わなかったし、
悪い奴は人が手を下さずとも、天が必ず手を下す、
と世間ありきたりの文句だけいっておいた。
が たかむらが下北に帰って間もなく、
問題の権力者が不慮の死を遂げて、
高村から、教官殿のいったとおりだった、と いってきた。

「 憂国数言 」 の件を 「 五聯隊赤化将校事件 」 と北村隆はいったが、
北村隆のいったとおり、青森県特高史に記録されているかどうかはわからない。
「 五聯隊赤化将校事件 」 といったのは、北村隆の皮肉だったのかも知れない。
が 何等かの形で青森県特高史に、跡はとどめたことであろう。
どこが火元だろうということは、別に気にしていなかった。
が 高村のはなしで、それが下北の田舎町だったらしいことはわかった。
火元が下北とすれば、それが陸奥湾を渡って、対岸の青森市に飛火したことになるが、
青森市だけでなく青森県下に散った機関銃隊除隊兵を求めて点々と、
飛火していったことだろう。
が 心配して駆けつけたのは青森市内の西山ら三人だけで、あとは何の音沙汰もなかった。
青森市は人口が多いだけに機関銃隊除隊兵も多く、伍長勤務上等兵を筆頭に、
良兵の保証の善行証書をもらったものも沢山いた。
が、そういう良兵どもからは何の沙汰もなく、
駆けつけたのは、そろいもそろって良兵の保証のない一等兵の三人だけだった。
私が満洲に出征するとき、
私をとらえて、別れを惜しんでくれたのがまた、この三人だけだった。
この年、満洲事変で内地から初めて第八師団で編制した混成旅団が満洲に渡った。
青森の聯隊からも一箇大隊出征した。
兵営を出発したのは十一月十四日の暗いうちだった。
兵営から乗車駅、青森駅までは四キロほどの道のりである。
行軍して青森市内にはいると沿道は人だかりで、
部隊のとおる道筋だけが、辛うじてあいていた。
歩兵砲隊は行軍部隊の最後尾だったから、軍隊のセオリどおり、
歩兵砲隊長の私は出征部隊の最後尾を歩いていた。
部隊がとおったあとは群集が、どっと道路に押しよせて、ややもすると私は、
もみくちゃにされそうだった。
その群集をかきわけて三人があらわれ、
私の手をかわるがわるとり、駅までついてきた。

日中戦争から大東亜戦争にかけて、
下士官の山田も西山ら三人も、高村も今岡も出征した。
山田は特務曹長になっていたらしいが北支で戦死したという。
西山ら三人のうち、
西山には終戦後、青森で一度会ったことがあるが、
あとの二人は戦死したようである。
今岡が北支の野戦病院で戦死したことは終戦後、生還した高村からきいた。
北支の戦線で軽傷した高村がたどりついた野戦病院の入口に、
血に染まった軍服がかかっていた。
なにげなく裏をかえして名前をみると今岡のものだった。
高村は軍医に、
「 今岡は同年兵だから会してくれ 」
といった。
軍医は
「 今岡は臨終が近い、いまのうちにいい遺すことを、きいてやってくれ 」
といった。
高村が病床に近づくと
「 高村か、大丈夫だよ 」
と 今岡は元気な声をだしていっていたが、
そのうち、
「 高村、暗くなったようだな。 日が暮れたらしいな 」
といったまま息をひきとったという。
外では、北支の太陽がまだ高かったという。

ドキュメント日本人3  反逆者  から