あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

秩父宮関連下書

2016年11月15日 16時03分12秒 | 其の他

原田日記
十三年三月二十七日
これは 年をとったので言うのかもしれないし、どうせ、自分の死んだ後のことだろうが、
こんなような今日の空気が永く続けば、一体どうなるか分らない。
日本の歴史にも、随分いまわしい事実がある。
たとえば、神武天皇の後をうけられた綏靖天皇は、実はその兄弟を殺されて自分が帝位につかれた。
それはほんの一つの例で、そえいう事実は日本の歴史にも支那の歴史にもまだ たくさんある。
勿論、今後ともそういうことが、御自身からの御発意であるようなことは、断じてないだろうけれど、
しかし 周囲がそういう所に持ってゆくようなことになると、これはまことに判らない。
まさか 今日の皇族にそういう方々が、どうこうというようなことは無論あろう筈はないが、
しかし こういうことは、よほど今日から注意しておかねばならん、
ということを沈痛な面持で言って居られた。
十三年四月二十七日
まあ 自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれど、
木戸や近衛 ( 時の首相 ) にも注意しておいてもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか、陛下の御兄弟にかれこれということはあるまいけれど、
しかし 取巻の如何によっては、日本の歴史にときどき繰返されるように、
弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、また、今の秩父宮とか高松宮とかいう方々に、
かれこれいうことはないけれども、或は皇族の中に変な者に担がれて、
何をしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見ていてもらわないと、事すこぶる重大だから、
皇室のために、また 日本のために、この点くれぐれも考えておいてもらわなければならん、
と いうようなことを真剣に心配した。
十一年七月一日
それから、これは他のことだけれど、
皇太后様を非常に偉い方のように思って、あんまり信じ過ぎて・・・・というか、
賢い方と思い過ぎておるというか、
賢い方だろうが、とにかくやはり婦人のことであるから、
よほどその点は考えて接しないと、陛下との間で或は憂慮するようなことが起こりはせんか。
自分は心配している。

秩父宮と天皇
満洲国側と、日本の軍部首脳との間には、秩父宮の日程を協議しておったが、
宮は、一切の決定を無視して独自に動かれた。
かつて、海軍の特別大演習の時に、
天皇の詔勅の席におつきになるように、私が秩父宮に申しあげた時、
「 今 茶をのみ始めたとこである 」
と 云われて、中々御動きにならず、閑院宮外、十余の宮様を困らせたのみならず、
天皇も困惑なさったことであった。
「 何事も閣僚まかせの昭和天皇と、一切独自に動き、他の言を容れない秩父さんとのお二人が、
兄弟であるということは、天道様のいたずらとしても、あまりひどすぎる 」
秩父さんは、お目にかかる度毎に、兄貴の悪口を云っておられた。
天皇とか陛下というお言葉は一度もきいていない。
二・二六事件は、かつての秩父宮の部下が、天皇の廃止を考えたのだと云う人があるが、
真に近くはないであろうか。
「 秩父宮が天皇であったなら、大東亜戦争で国を失うような事は無かったであろうと思われる。
万一、事情止むなく、戦争になったとしたら、敗れた時に 「 自決 」 されたであろう 」
・・・海軍少将藤森良高


陸軍パンフレット 「 我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持す 」

2016年11月15日 05時15分17秒 | 其の他

陸軍パンフレット問題
(一) 概要
一、昭和九年一月二十三日
 陸軍大臣荒木貞夫に代って教育總監たりし林銑十郎大將が陸相に任ぜられ
眞崎甚三郎大將が教育總監に任ぜられた。
間もなく同年三月五日
軍政樞要の職であり大臣の輔佐役である陸軍省軍務局長に永田鐵山少將が任ぜられた。
斯くして陸軍は荒木陸相時代の急進的態度より漸進穏健的態度に變化し
林陸相により部内の統制が鞏化されつつあると観察された。

昭和九年十月一日
所謂 陸軍パンフレット 「 國防の本義と其強化の提唱 」 が陸軍省新聞班より公表され、
軍部の政治に對する積極的意見の開陳として各方面に衝撃を与へた。
其の要點は次の如くである。
「 
國防の本義と其強化の提唱 」の概要
一、國防観念の再檢討
 たゝかひは創造の父、文化の母である。
試練の個人に於ける、競爭の國家に於ける、齊とく夫々の生命の生成發展、
文化創造の動機であり刺戟である。
 國防なる観念は往昔の軍備なる思想より 今日の新國防観念に至る間に三種の段階を經ている。
即ち
(一)  世界大戰以前に於ては武力戰を對象とする狭義の軍備
(二)  世界大戰後 盛んとなつた武力戰を基調とする國家總動員なる思想
(三)  輓近ばんきん世界的經濟不況 竝に 國際關係の亂脈は
 遂に政治、經濟的に國家的ブロック的對立關係を生じ
平時に於て深刻なる經濟戰思想戰等が展開せらるゝに至り、
平時状態に於て對外的に國家の全活力を綜合統制して對抗するに非ずんば、
武力戰は愚か 國際競争其物の落伍者たるの外なき事態となりつゝある。
從って從來の武力本位の観念より脱却し新なる思想に發足せねばならなくなつた。
二、國防力構成の要素
(一)  人的要素
 最重要である。然らば如何にして培養するか。
1  建國の理想--皇國の使命に対する確乎たる信念を保持すること
2  盡忠報國の精神に徹底し--國家の生成發展の爲め、自己滅却の精神を涵養すること。
 國家を無視する國際主義、個人主義、自由主義思想を芟除し、眞に擧國一致の精神に統一すること
3  健全なる身體--國民保健政策
4  國民生活の安定--執中勤勞民の生活保障、農村漁村の疲弊の救濟
 人口及民族問題
  人口問題    全國にて九千二百萬の同胞を有し  有利
  民族問題    戰時に敵國内の民族を相反目せしめ、獨立運動を支援し 母國の崩壊を企圖するは
                   近代戰爭に於ける思想戰の重大なることに想到れば輕視得ず
(二)  自然要素
 領土--航空の發達により海上よりは航空母艦、
陸上よりは浦塩、上海、フィリピン、カムチャッカ、アリューシャン
の各方面に對し國土上空を暴露するに至つた。
 資源--
(三)  混合要素
1  經濟--最新の観念に於ける國防は平時の生存競爭たる戰爭をも含むものであり、
 其の主體は殆んど經濟戰なりと見ることが出來る。
 從って經濟が國防の極めて重要なる部門を占むることは明か。
 對外的には現下のブロック對立時代に應ずる對策
 對内的には武力戰其他の國防を維持培養する任務を有し頗る重要なる役割を演ず
 其の第一眼目は国民生活を維持高上せしめつゝ
 眞に必要なる國防力を充實せんが爲めには厖大ぼうだいなる經費を要するので、
 此の負担に耐へ得る如き經濟機構の整備
2  技術--無統制の現況より一歩を進めて合理的能率的な科學的研究の統制
3  武力--國防の基幹
4  通信、情報、宣傳--思想宣傳戰は刃に血塗らずして相手を壓倒し、
    國家を崩壊し、敵軍を撲滅せしむる戰爭方式
三、現下の國際情勢と我が國防
 世界的不安と日本、一九三五--六年の危機、海軍會議と米國、支那の態度、
聯盟脱退と委任統治、蘇聯邦と極東政策
之を要するに現下の非常時局は鞏調的外交工作のみによつて解消せしめ得る如き派生的事態ではなく、
大戰後世界各國の絶大なる努力に拘らず、運命的に出現した世界的非常時であり、
又満州事變と聯盟脱退を契機として、皇國に向つて与へられた光榮ある試練の非常時である。
吾人は揄安姑息の回避解消策により一時を糊塗するが如き態度は須らく之を嚴戒し、
与へられた運命を甘受して此機會に於て國家百年の大計を樹立するの決意とがなくてはならぬ。
四、國防國策強化の提唱
 將來の國際的抗爭は智能と智能との競爭であり、組織と組織との爭闘である。
國防國策とは國家の有する國防要素をば國防目的の爲めに組織運營する政策である。
國防と國内問題
 1  國民生活の安定
 2  農村漁村の更生
 3  創意發明の組織
國防と思想
 1  國民教化の振興--極端なる國際主義利己主義個人主義思想の芟除
 2  思想體系の整備
國防と武力--消極的軍備積極的軍備、蘇聯軍と我が軍備、航空力擴張の急務、
國防と經濟
 1  經濟の整備--現機構は個人主義を基調とし、其の半面に於て動もすれば經濟活動が、
 個人の利益と恣意とに放任せられんとする傾向があり、
從って國家國民全般の利益と一致しないことがある。
自由競爭激化の結果、階級對立観念を醸成するの虞がある。
富の偏在、國民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落等を來し
國民生活の安定を庶幾し得ない憾がある。
現機構は國家的統制力小なる爲め資源開發、産業振興、貿易促進等に禅能力を動員して
一元的運用を爲すに便ならず
又 國家豫算に甚しき制限を受け國防上絶對に必要とする施設すら之を實現し得ざる狀態に在る。
現經濟機構の是正の方策。國防上の見地よりして次の事項が擧げられて居る。
・ 建國の理想に基き、道義的經濟観念に立脚し 國家の發展と國民全部の慶福とを増進するものなること
・ 國民全部の活動を促進し勤勞に應ずる所得を得しめ國民大衆の生活安定を齎もたらすものなること
・ 資源開發、産業振興、貿易の促進、國防施設の充備に遺憾なからしむる如く金融の諸制度
 竝に産業の運營を改善すること
・ 國家の要求に反せざる限り、古人の創意と企業慾とを満足せしめ益々勤勞心を振興せしむること
 2  戰時經濟の確立--經濟戰は既に平時状態に於ても開始せられつゝあるが、
 戰時狀態に於て武力戰と併起する場合その激甚性は最高度に達する。
其の場合の經濟統制を如何に實施するかは國防上重要な問題である。
其の準備すべき要點としては、戰時不足資源関係企業の奨励、不足資源の貯蔵、
代用品の研究、戰時海外資源の取得計畫、平時之を利用する國防産業の實行促進、
過剰生産品の輸出對策、戰時財政金融對策、貿易對策、勞働對策等相當廣範囲に亙り、
豫め研究準備を遂げ、開戰の暁に於て些の遅滞なく統制ある戰時經濟の運用に移らなければならない。
(二)  各方面の意嚮
當時の新聞紙上に表れた各方面のこれに對する意嚮は次の如くである。
民政党幹部會--
 一體陸軍が社會政策或は經濟政策に關する指導的意見を國民に發表したことは誠に遺憾千萬で
唯々啞然たらざるを得ない。
秩序ある國家にはかゝることは有り得べからざることである。
政友會総務會--
一、陸軍のパンフレットが近代國防を論じ其の本義を明にしたのはよい。
 然れども現在の經濟機構の變革を期して
總て國防統制の一元に歸せんとするが如きに至っては遽すみやかに同意し難い。
一、 陸軍が斯の如き重大意見を發表せんとするならば當然閣議に諮つて後になすべきで
 單獨にこれを發表したことは輕率である。 岡田首相は之に對して責任を感ぜざるか。
一、豫算編成期であり且 臨時議會準備中の今日に於て陸軍が突如この如きパンフレットを發表せることは
 其の眞意が那辺にあるか、何れにしても世人をして陸軍が所管以外の問題に關与し
他の機關を壓迫するが如き感を起さしめたことは遺憾である。
日本文化同盟--
東都大學少壯教授より成る日本文化同盟では十一日神田万崎ビルで陸軍のパンフレット問題に付
批判會を開いた結果
 道家一郎 (専)    松下正寿 (立)
 村上堅固 (帝)    八木沢善治 (中)
 藤江利雄 (明)    藤井新一 (法)
の 諸教授外六十名ばかり出席、パンフレットの内容を檢討の結果、
各項を全面的に支持することを申し合わせた。  

右翼思想犯罪事件の綜合研究 ( 司法省刑事局 )

現代史資料4  国家主義運動1 から


昭和九年10月6 日 の新聞班

『 國防の本義と其強化の提唱 』

陸軍省新聞班の名で発表されたが、
執筆者は池田純久少佐それに清水盛明少佐が筆を入れたもの。 ・・田中清談
新聞班長は根本博中佐。
 池田純久   根本博
アドバルン的意圖で世間に公表したもの。
陸軍がこのパンフレットの放った効果の
國民や學者、政党人、財界人、評論家に
及ぼした反應を知ることが發行の一つの目的であった。

「 陸軍省新聞班の發表した 『 國防の本義と其強化の提唱 』 は、
あらゆる方面に強い刺戟を与へたように見える。

 これだけの刺戟を与へることが出來れば軍部としては提唱した趣意の一部を達したとしているであらうが、
軍部としてはさらに之れに対する率直な批判、討議の益々おこらんことを待望しているといふ事である。」
・・鈴木茂三郎論文 「 軍部パンフレットを批判す 」

「 ・・・然るに軍部が小冊子を出したことは、何故あれだけのセンセーションを惹起したか。
 そは軍部が言ひ出したら何をやるだらうと世間が之に注目したからである。
固より其の注目は、恐怖と期待との兩面からかけられて居る。
支配階級の或る方面では、又始まつたと當惑顔である。
地方農村では平民がやつたら忽ち彈壓と檢束とに見舞はるべき程度の言論が
皇軍の中樞に於て發表せらるゝを見て、小躍りして喜ばざるを得なかった。
唯一つのパンフレットが、農村各地方に及ぼした影響の大なることは、
實に豫想外だと報じられている。 」

‥中野正剛

「 第一にパンフレット案は農村の救濟に主點を置くやうであるが、
 これは從來の政友會、民政党とは正反對な立場に立つものだ。
政党はその構成から、また選擧費捻出の上からも、必然的に大地主的乃至は中地主的立場に立つ。
故に現在の機構には絶對に触れずに、豫算の分取りによる拠出を以て、農村を救濟しようとしている。
從つて仮りに政党の主張する政策が總べて貫徹しても、
その利益をうるものは 重に金融家であり、大農であり、上層階級である。
況んや從來の經過では、それすらも不可能であつて、
農村その他における政党不信の聲はこゝに原因するところが多い。
しかるにパンフレット案は問題を根本から見ようとしている。
經濟機構そのものにまで触れて、農民貧困の原因にさかのぼつている。
總べての右翼人の案がさうであるやうに、それは恐ろしく左翼主義的公論であつて
どれだけ實効的であるかは問題であるが、
しかし今までの政党の農村救濟案では救はれなかつた農村の多數と、
今一つは 軍部の發案でさへあれば、それに絶對的価値ありとする少なからざる數の群衆に、
強い刺戟と同感を呼び起すであらうことは疑へない。」

・・清沢洌
現代史資料5  国家主義運動2 から

 村中孝次
國防の本義と其強化の提唱に就て
陸軍が其總意を以て公式に 經濟機構變革を宣明したるは建國未曾有のこと
昭和維新の氣運は劃期的進展を見たりと謂うべし。
( 水戸藩主が天下の副將軍を以て尊皇を唱えたるよりも島津侯が公武合體を捨て
尊皇統幕を宣言したるよりも大なる維新氣勢の確信なり )
陸軍は終に維新のルビコンを渡れるシーザーなり。
内容に抽象的不完全の點なきに非ずと雖も具體的充實化は今後の努力にあり。
我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し擴大し強化するを要す
之が方策の一、二例左の如し。
イ、
該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、
國防國策研究 (本冊子をテキストとして) の集會を盛に行うこと
ハ、
各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に
活行突破要請を具申建白すること
ニ、
農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること

一般情勢判斷に就て
イ、
陸海軍軍事豫算竝國民救濟豫算 ( 臨時議會提出及十年度分 ) を手呈的に支援し
要求貫徹を計ること
ロ、
在満機關紙海軍軍縮廢棄通告の實現を促進すること
ハ、
所在同憂同志諸士を正算結集し非常時におうずる準備を着々整うること
ニ、
可能なる限り在京同志と密度なる聯絡をとること
ホ、
冷鐵の判斷行動と焦魂の熱意努力とを以て日夜兼行り奔走を敢行すること

「 一息の間斷なく一刻の急忙なきは即ち是れ天地の気象 」
とは吾曹同志の採って以て日常の軌道とすべきなり。
降魔斬鬼救世濟人の菩薩が湧出すべき大地震裂の時は恐らく遠からずと想望され候
日夜不撓爲すべきを爲し、盡くすべきを盡くし以て維新奉公の赤心に活くべく
お互いに精遊驀往可仕候
十月五日  村中孝次


國防の本義と其強化の提唱

2016年11月14日 20時59分35秒 | 其の他

我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し擴大し強化するを要す
之が方策の一、二例左の如し。
イ、該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
 郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、國防國策研究 (本冊子をテキストとして) の集会を盛に行うこと
ハ、各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に
 活行突破要請を具申建白すること
ニ、農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること

・・・「 我等は徹底的に陸軍当局の信念方針を支持す 」
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國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
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一、
國防観念の再檢討 
二、國防力構成の要素 
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、
現下の國際情勢と我が國防 
四、國防國策強化の提唱 
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

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今日青年將校の多くが改造運動に對して熱意をもつて來たのは、
陸軍省發行の改造パンフレットや切迫せる對外關係等からであります。
・・・磯部浅一  獄中手記 (三) 


國防の本義と其強化の提唱 1 『 國防観念の再檢討 』

2016年11月14日 05時55分27秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

一、國防観念の再檢討
 たたかひの意義
たたかひは創造の父、文化の母である。
試練の個人に於ける、競爭の國家に於ける、齊しく夫々の生命の生成發展、
文化創造の動機であり刺戟である。
玆に謂ふ たたかひは人々相剋し、國々相食む、容赦なき兇兵乃至暴殄の謂ではない。
此の意味のたたかひは覇道、野望に伴ふ必然の歸結であり、
萬有に生命を認め、其の限りなき生成化育に參じ、
其の發展嚮上に与ることを天与の使命と確信する我が民族、我が國家の斷じて取らぬ所である。
此の正義の追求、創造の努力を妨げんとする野望、覇道の障碍を駕御、馴致して
遂に柔和忍辱の和魂に化成し、蕩々坦々の皇道に合體せしむることが、
皇國に与へられた使命であり皇軍の負担すべき重責である。
たたかひをして此の域にまで導かしむるもの、これ即ち我が國防の使命である。
××××
 國防の意義
「 國防 」 は國家生成發展の基本的活力の作用である。
從つて國家の全活力を最大限度に發揚せしむる如く、
國家及社會を組織し、運營する事が、國防國策の目でなければならぬ。
××××
 国防観念の變遷
右は近代國防の観點より観たる國防の意義である。
抑々國防なる観念は、往昔の國防観念即ち軍備なる思想より、
今日の新國防観念に至る間に三種の段階を經て居る。
即ち
 軍事的國防観
一、世界大戰以前に於ては、國防専ら軍備を主體とし、武力戰を對象とする極めて狭義のものであつた。
 從つて戰爭は軍隊の専任する所であり、國民は之に對し所謂銃後の後援を与ふるといふ意味に於て、
國防に參与するに過ぎなかつたのである。
 國家總動員的國防観
、然るに學芸技術の異常なる發達と、國際關係の複雑化とは、必然的に戰爭の規模を擴大せしめ、
 武力戰は單獨に行はるゝことなく、外交、經濟、思想戰等の部門と同時に
又は前後して併行的に展開されることゝなつた。
從つて右の要素を戰爭目的の爲め統制し、平時より戰爭指導體系を準備することが、
戰勝の爲め不可欠の問題たるに至つた。
大戰後盛に唱導せられた所謂武力戰を基調とする國家總動員なる思想がこれに属する。
これによつて國民と軍隊とは、一體となつて武力戰に參与することゝなつたのである。
最近漸く皇國識者間に認められつゝある國防観は此種類に属する。
 近代的國防観
三、然るに右の國防観念は更に再檢討を必要とするに至つた。
輓近ばんきん、世界大戰の結果として生じた世界的經濟不況
竝に 國際關係の亂脈は遂に政治、經濟的に國家間のブロック的對立關係を生じ、
今や國際生存競爭は白熱狀態を現出しつゝある。
深刻なる經濟戰、思想戰等は、平時情態に於て、既に随所に展開せられ、
對外的には國家の全活力を綜合統制するにあらずんば、
武力戰は愚か遂に國際競爭其物の落伍者たるの外なき事態となりつゝある。
從つて國防観念にも大なる變革を來し、
從來の武力戰爭本位の観念から脱却して新なる思想に發足せねばならなくなつた。
××××
 國家生活の二面
凡そ國家生活は之を二個の観點より考へることが出來る。
即ち
一、國家の平和的生活
二、國家の競爭的生活
國家生活を斯く見る場合、國防との關係は如何に考察すればよいか。
之を了解し易からしめんが爲め個人生活と比較して見よう。
個人生活に於ても國家の場合と同様に平和的一面と競爭的一面とがある。
而して近代國家内に於ける個人の平和的生活は、
道徳及法律の規範性と制裁力とによつて或程度には調和維持されて居る。
之に反し其競爭的生活は右の如く他力本願で保障することは出來ない。
自らの運命は開拓せねばならぬ。
即ち各個人の體力、氣力、智力の綜合的發顕によつて遂行し保障することになるのである。
右は個人生活の兩面に就て述べたのであるが、國家の場合は如何であるか。
國家の平和的生活に於ても、國際道徳といふものが存在して居るが、
然し個人の場合の如く嚴格でない。
又國際法規はあるが、之を鞏制すべき超國家的勢力はない。
即ち國家の平和的生活を保障すべき機關に至つては、遺憾乍ら皆無であつて、
自らの生存は自ら保障する外ないのである。
世界大戰後、國際聯盟は右の目的を達成すべく創設せられたのであるが、
漸次其の無力を暴露し、
斯かる方法による國際平和の維持が一の迷夢に過ぎない事が萬人に認められるゝに至つた。
右の如く國家の平和的生活すら他力によつて保障せらるゝを得ない。
況や、其の競爭的生活たる國際的生存競爭に於てをやである。
即ち個人の場合は體力、氣力、智力の綜合的實力を必要とした如く、
國家の競爭的生活遂行の爲めには、綜合的國力の發動を必要とする。
即ち國家生活の眞實、善美、的確、旺盛なる創造發展を庶幾する爲めには、
之が推進力たり原動力たる基本的活力、即ち國防力の發現に持たねばならぬ右の如く國防は、
單に國家競爭の結果生することある可き武力戰のみを對象とするものでなく、
國家生活の活力たり原動力である。
即ち劈頭に掲げた如く、國防とはこっかの生成發展の基本的活力の作用であるという考へ方が、
國際的生活に処するに上に於て極めて必要である。
就中最近に於ける國際競爭の白熱化、即ち國際的覇権時代に処し、
一方皇國の理想を紹述し、他方激甚なる競爭の優者たらんが爲め、
國防の必要は絶對的第一義的である。
××××
 國際絶對性、相對性
抑々國防には、絶對性と相對性とがあり、
相對性に關する限りに於ては、外囲の情勢に適合するの必要を生ずべく、
絶對性に至つては更改の餘地なきや勿論である。
言ふ迄もなく皇國を饒る現下の一般情勢は、列強の重壓下に異常の躍進を必要とするものであり、
國防組織強化の喫緊なること有史以來今日の如く大なるはない。
皇國の國防的に有する潜勢が、克く非常時局を克服するに足るべきは、
列強が皇國將來の飛躍に對し、如何に大なる脅威を感じつゝあるかに徴するも明瞭である。
問題は右の潜勢を組織の力によつて如何に現勢として發揮せしむるかに存する。
現在の如き機構を以て窮乏せる大衆を救濟し、
國民生活の向上を庶幾しつゝ非常時局打開に必要なる各般の緊急施設を爲し、
皇國の前途を保障せんことは至難事に属するであらう。
須らく國家全機構を、國家競爭の見地より再檢討し、財政に經濟に、外交に政略に、
將た國民教化に根本的の樹て直しを斷行し、
皇國の有する偉大なる精神的、物質的潜勢を國防目的の爲め組織統制して、
之を一元的に運営營し、最大限の現勢たらしむる如く努力せねばならぬ。
これが同時に皇國の直面せる非常時局克服の對策となるものである。
最近に至り現時の國際的對立を不可避的にあらずと爲し、
外交手段のみに依つて好轉せしめ得べしと樂観する向もあるが、
凡そ國際事情に通暁せざる者の言と謂ふべく、國民は斯る迷想に惑はされぬことが必要である。
××××
 國防力發動の形式
凡そ國防力には二個の發動形式がある。
即ち
一、靜的發動 ( 消極的發動 )
二、動的發動 ( 積極的發動 )
 靜的發動
一は國家其者の嚴然たる威容により、消極的に其の目的を達せんとするもの、
即ち孫氏の所謂 「 不戰而屈人之兵善之善者也 」 である。
満州事變當初に於て皇國の綜合國防力の威容が遂に、五年計畫建設に忙殺せられありし蘇國をして、
遂に爲すなからしめ、又 我が國力就中我が海軍の嚴然たる存在により、
スチムソンの恫喝をして竜頭蛇尾に終らしめたことを想起すれば、
所謂靜的國防の何たるかは容易に理解されるだろう。
國防力の靜的發動は 「 威力の睨み 」 なるが故に、其の基礎たり實體たるものは、
陸海空の軍備でなければならぬ。
斯くの如く観じ來れば、何故に米が日本に優越せる海軍力の獲得保持を熱望し、
蘇が世界一の陸軍を完成せんと焦慮するかゞ肯定されるであらう。
即ち、米の大海軍保持の要望は、自身のモンロー主義
竝に 支那に於ける門戸開放、機會均等主義を支持主張せんが爲めである。
就中極東問題の外交的發言權を獲得せんが爲めには、
皇國海軍を壓迫するに足る海軍力が彼に取つて絶對に必要であつて、
我が立場からすれば東亜平和の招來維持の大任を全うせんが爲めには、
之を阻止せんとする何者をも破摧するに足る海軍力を絶對に必要とする。
蘇國が厖大なる赤軍を有することは、彼の世界赤化政策遂行の支援の爲めである。
而も最近に於て其國防對象が我が日本に在る以上、
皇國としては、彼の極東政策と赤化政策とを
抑壓破摧するに足る國防力充實の必要なるは呶説を待たない所である。
 動的發動 
次に國防力の動的發動とは實力行使の謂ひである。
國防力が其靜的狀態に於て、目的を達成せざる場合、
即ち國防力の嚴然たる存在其物により其目的を達せず、
先方より挑戰し來る場合には必然的に其動的狀態 即ち戰爭を將來する。
戰爭とし謂へば直ちに武力戰を想起する。
勿論武力戰は戰爭の骨幹である。
然し乍ら、既に述べた通り近代戰爭は、
武力單獨戰を以て終始し得る如き單純なるものではなく、
敵國を徹底的に壓伏粉砕せむが爲めには、之が全生活力を中斷するを要する。
是に於てか戰爭手段としての經濟戰、攻略戰、思想戰は
武力戰に匹敵すべき重大なる役割を演ずべきである。
獨逸國は何が故に敗北したか、勿論武力戰に於ても最後には敗れて居る。
が然し 観方によつては武力戰に關する限り、彼は最後迄戰捷者の地位に在つたとも謂へる。
五年の久しきに亙り、聯合側をして一歩も國内に入らしめず、
自力獨往、前線健闘を續け来來つた點は、眞に驚嘆に値するものであつたではないか。
彼の没落は畢竟ひっきょう列強の經濟封鎖に堪へ得ず、
國民は榮養不足に陥り、抗爭力戰の氣力衰へ、
加ふるに思想戰による國民の戰意喪失、革命思想の檯頭だいとう等となれることに由來し、
かくて遂に内部的に自壊作用を起して、急遽和を乞ふの已むなきに至つたのである。
此の如く國防の動的威力の全幅的發揮の爲には、
國防の全要素を不可分の一體として組織統制することが絶對に必要である。
それは列國の夙に著眼し之が準備完成に焦慮努力しつつある所である。
斯るが故に將來戰の勝敗は一に繋つて國防の爲めの組織如何に在ると謂ふべく
更に要約切言すれば、近代戰爭は組織能力の抗爭だといふことにもなる。
××××
 國防の自主
國防の目的、本質は右の如くである。
之を一言にして掩おおへば、國家生成發展の基本的活力である。
從つて國の大小、貧富によつて、絶對的國防の規模、内容に差等を附することを鞏要し、
又 教養せらるゝことの不當なるは云ふ迄もない。
即ち國防驗の自主獨立は動かすべからざる天下の公理である
而して從來國際條約等によつて軍備を制限乃至禁止せんとせしが如きは、
平和主義に名を借りて、強國が自國の國防の優越を贏得せんが爲めの策謀に外ならざることは、
史実の明證する所であつて、如何なる國際主義者と雖も、此の事實を否定することは出來まい。
前述の如く國防の靜的目的は戰爭を未然に防止するに在る。
法の極致は法なき狀態を導くに在る如く、兵の極致は兵を用いざるに在る
即ち國防をして其靜動的發動に止まらしむるを得れば、上の上なるものである。
世界に於ける最終の戰爭なりと思惟し、又庶幾せし世界大戰後、
如何に多くの戰爭が勃発發したか。
又 最近の墺國動亂が一歩を過てば、直ちに第二の世界大戰となるの素因と可能性とを包蔵する如き、
欧州新國境の不合理性、殖民地領有の偏頗不當、人種的偏見、經濟財政破綻、
貿易乃至關税戰等の事實を擧げ來れば、戰爭の可避、不可避の問題の如きは論議の餘地のない所である。
現下の世界の情勢と我國際的立場とは、今や國防は観念遊戯の域を脱し、
國民の全關心全努力の傾注さるべき、焦眉喫緊の作業たる事を要求して居る。

次頁 
国防の本義と其強化の提唱 2 『 国防力構成の要素 』 に 続く
現代史資料5  国家主義運動2  から


国防の本義と其強化の提唱 2 『 國防力構成の要素 』

2016年11月13日 20時14分41秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と経済
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

一、國防観念の再檢討 の 續き
二、國防力構成の要素
國防の要素は、凡そ國家を構成する凡ての要素を包含する。
而して便宜上之を分類し人的要素、自然要素及び混合要素の三者とする。
 其一、人的要素
人的要素は國防力構成要素中第一義的重要性を有するものである。
而して人的要素が精神力と體力との合成せるものなることは玆に説明する迄もないことである。
而して、國際生存競爭場裡に於ては、正義の維持遂行に對する熱烈なる意識と、
必勝の信念とか人的要素の主體を爲すべきである。
「 勝利は正しき者と、勝たんと意志する者にのみ与へらる 」
とは、凡そ兵を語るものゝ信條とする所、國家間の競爭に於ても此の原則の適用せらる可きは勿論である。
 人的要素の培養 
 一然らば、右の要素は如何にして培養するか。
1、建國の理想、皇國の使命に對する確乎たる信念を保持すること。
 誤まれる人生観、國家観乃至は哲學、宗教、芸術等に基く現時の世界苦を除き、
更生の光を与ふべき、皇國現下の重責に目醒め、之が徹底的、把握實現を庶幾せんとするの心を養ふこと。
2、盡忠報國の精神に徹底し、國家の生成發展の爲め、自己滅却を涵養すること。
 國家を無視する國際主義、個人主義、自由主義を芟除し、眞に擧國一致の精神に統一すること。
玆に一般の注意を喚起せんと欲するは、列強は今や宣傳工作の秘術を盡して、
前述の如き非國家的思想を普及瀰漫びまんせしめ、或は國體の改變を企圖し、
軍民離間を策し、祖國敗戰を謀る等の方法により國際競爭を忌避し、戰意を抛棄ほうきせしめ、
以て最後の勝利を求めんとする思想戰的謀略を常用しつゝあることである。
從つて後に述べんとする、國防目的の爲めの國家組織の改善と共に、
國民の精神統制 即ち思想戰體系の整備は、國防上一刻も猶餘遅滞を許さぬ重要な政策なのである。
3、健全なる精神は健康なる身體に宿る。
 就中武力戰の主體を爲す兵員を補充すべき國民の體育を重視することは言を俟たぬ所である。
又 深刻なる國際文化競爭の闘士として内外に活躍せんが爲めにも、
戰時遭遇することある可き長期の經濟封鎖に堪へ得んが爲めにも、
國民保健政策に於て些の遺漏あることを許さぬのである。
萬一物質文化の余弊により、國民體格の低下を來す様なことあらば、
そは國防上看過し得ざる重大問題である。
4、次に國民が國際競爭の闘士として、自己を没却して君國の爲め奮闘せんが爲めには、
 其生活の安定を必要とし、兵士をして後顧の憂なく戰場に立たしめんが爲めには、
銃後に不安あらしめてはならぬ。
玆に國防と一般國策との不可分の關係を見るのである。
既刊の 「 近代國防より見たる蘇聯邦 」 に述べた如く、
蘇國の近代國防観念に立脚する國防組織の規模の廣大なる、
又 其の著々として實現する實行力に至つては、眞に驚嘆に値するものがあるが、
惜しい哉 共産主義自體の有する欠陥と國政の適正ならざる爲め生じた國民生活の不安定と、
國民の窮乏とは國民的気力を殺ぎ、不平不満は擧國一致的精神を喪失せしめ、
延て必勝の信念涵養の上に大なる禍となりつゝある。
輓近ばんきん、皇軍の軍紀、國民精神等を中傷し、或は大和魂恐る可らず等の宣傳によつて、
志氣の振作に努力しつゝあるは上述の消息を遺憾なく物語りつゝあるものである。
玆に於て結論し得ることは、國民の必勝信念と國家主義精神の培養の爲めには、
國民生活の安定を圖るを要し、
就中、勤勞民の生活保障、農村漁村の疲弊の救濟は最も重要なる政策であると謂ふことである。
 二、人口及民族問題
 人口問題
精神要素に就ては既に述べた。
次に考慮すべきは人的要素としての人口及民族の問題である。
人口は今や日本内地にのみで六千五百萬、全國で九千二百萬、満州國と共同防衛の場合を考ふれば
一億二千萬に達し、米蘇に匹敵する堂々たる世界の大國である。
人的要素に關する限りに於ては有利なる狀態に在りと謂ふべきである。
 民族問題
次は民族の問題である。
蘇國の如きは百八十有余の種族よりなり民族間の反目甚しく、
殊に三千萬の人口を擁するウクライナ人の如きは機會だにあらば獨立せんとの希望に燃えて居る。
独國が同化せざる獅子身中の虫たる猶太人に、如何に禍せられたるかはヒツトラーの、
猶太人排斥の徹底せる政策に見るも明瞭である。
米國亦各種の民族の混合國家であり、就中一千二百萬の黒奴を有する事は彼の永久の悩みである。
國家内の民族を相反目せしめ、獨立運動を支援し、母國の崩壊を企圖するは、
近代戰爭に於ける思想戰の重大戰略であることに想到すれば、
民族問題は國防國策上輕視すべからざるものである。
本件に関しては左記事項に留意を要する。
 イ、民族心理を十分研究し、統治上錯誤なきを要す。
 ロ、皇道精神を徹底せしめ、國家意識の鞏化を圖る。
 ハ、敵側の民族的分壊策謀に乗ぜられざる思想的對策を講ずること。

 其二、自然要素
 一、領土
領土の廣狭、地勢、可耕面積の廣狭、海岸線の延長、國境、隣邦との關係等は國防上重大なる關係を持つ。
就中、領土の地理的位置は武力戰は勿論經濟的戰爭に於て極めて重要なる価値を持つものである。
皇國が東亜の外郭とも稱すべき位置に在ることが、戰略的には勿論、
後略的に東亜の平和の守護者たるの天賦の使命を有するに至らしめた一つの素因である。
世界全人口の半を越ゆる十一億の人口を抱擁する地方に位置し、
世界の宝庫の稱ある支那、印度、南洋を指呼の間に見、
之を連絡するに交通自在の海洋を以てせることが、
如何に皇國將來の經濟發展を有利ならしめあるか。
皇國が海洋に囲繞せられあることは、國防上極めて重要なる利點なると共に、
他面一國の運命を制海權の得喪に託するの危険性をも包含するものである。
蘇満國境を介して、強大なる軍備を有する蘇國と對し、
太平洋を隔てゝ世界最大を誇る米國海軍の存在することは、
皇國軍備の上に重大なる關係を持つ。
殊に輓近 航空の發達と共に行動半径千五百粁以上に及ぶ優秀なる爆撃機出現するに及び、
海洋よりは航空母艦に對し、
又陸上よりは浦塩、上海、フイリッピン、カムチャッカ、アリューシャン等の各方面に對し、
國土上空を暴露するに至つた。
強力なる航空兵力を速に整備するの必要もそこから生まれて來る。
 二、資源
武力戰の場合の戰用資源の充實と補給の施設とを考慮すると共に、
經濟戰對策としての資源の獲得、經濟封鎖に應ずる諸準備に於て遺憾なきを期するを要する。
資源に就て考慮すべき件は
 イ、資源の調査
 ロ、戰用資源の貯蓄
 ハ、資源の培養
 ニ、資源の開發
等であらう。

 其三、混合要素
 一、經濟
戰爭の要素としての經濟、
否 戰爭方式としての經濟戰が、重要なる役割を演ずるに至つたのは、
主として世界大戰以來のことに属する。
況や本篇に説く所の國防は、平時の生存競爭たる戰爭をも包含せしめんとするものであり、
其の主體は殆ど經濟戰であると見ることも出來る位である。
從つて經濟が國防の極めて重要なる部門を占むるの點に就ては論議の餘地はあるまい。
經濟戰略に就ては専門家に譲ることゝし 玆に詳述を避ける。
原則として對外的には自由貿易による可きではあるが、
現下の如くブロック對立の時代であり、列国競うて保護貿易を採用し來れる場合には
之に應酬するの對策を講ずるは止むを得ない処である。
之が爲め相互的に輸出入統制を行ひ、価格及數量に或種の制限を附し、
對手國に於て無法なる關税政策或は輸入割當制の如き方法を採るに於ては
我亦報復手段を採用するの已むなきに至るであらう。
全世界の大部分を占むる消費者階級たる大衆の利益の爲めには、
優良品を廉価に提供するを善しとする。
此見地に於て生活程度比較的低き我が國の如き新興國家は、大なる便宜を有するに反し、
英國、和蘭の如き老成國は甚しく不利になる條件下に置かれる。
彼等は英人、蘭人の如き少數支配民族の利益の爲め、
世界大衆たる植民地の有色人種に、高価なる物品を購買せしめんとするもので、
明かに道義に背馳して居る。
之に反し皇國の立場は世界大衆の利益に一致するものであり、
道義的見地よりするも最後の勝利を得べきことは疑を容れない。
萬一彼等が飽迄不正競爭を繼續するに於ては、
皇國としては、場合に依ては破邪顯正の手段として武力に訴ふることあるも 亦已む得ない所であらう。
經濟を對内的見地に於て見る場合は、武力に訴ふることもあるも亦已む得ない所であらう。
經濟を對内的見地に於て見る場合は、武力戰其他の國防力を維持培養するの任務を有して居る。
此見地よりして精神要素と共に頗る重要の役割を演ずべきものである。
國民生活を維持向上せしめつゝ、眞に必要なる國防力を充實せんが爲めには、
尨大なる經費を要し、右の負担に堪へ得る如き經濟機構の整備は、
現在の如き非常時局に於ては當然第一に考慮せらる可き問題である。
日満提携により今や資源に於ては優に如何なる國際競爭にも堪へ得るの情態に在る。
人的要素に於ては日本のみにて九千萬、日満合すれば一億二千萬に達し、
勤勉世界に比類なき活力を擁して居るのである。
此の人力と資源とを組織し運營し、最大限度の効果を發揮し、
以て來る可き經濟戰に備へんとするのが經濟國防の主眼でなくてはならぬ。
 二、技術
科学の進歩は國家を近接せしめ、
往時交戰不可能と考へられた國家間に於てすら戰争を可能ならしむるに至つた。
又 戰場と内地との區別を撤廢せしめ、開戰劈頭より國民の頭上に爆彈が落下する世の中となつたのである。
將來戰は國民全部の戰爭であり、兩國民の智能の戰爭である。
開戦戰當初の新式兵器は直ちに旧式兵器となる。
創造力の大なる國民は將來戰の勝者たり得る國民である。
欧州戰當初誰れか、タンクや毒瓦斯の出現を信じたらう。
無線操縦、殺人光線等は今や夢想の時代を過ぎて實用の時代に入りつつあるであるではないか。
以上の武力戰に就て述べたが、經濟戰に於ても然り。
日本商品の海外飛躍の原因は、圓価安にも因るが技術の優秀も与つて力がある。
武力戰に於ける如く經濟方面に於ても一層の技術の發達、創意、工風の行はれんことを希望する。
此の見地よりして、科學的研究に於ても、無統制の現況より一歩を進め、
合理的、能率的に研究の統制を企圖することが、國防の見地よりして望ましいことである。
更に發明の國家的奨励を鞏化し、資金の供給、研究機關の利用、特許制度の改善 等
緊急焦眉の問題は枚挙擧に遑いとまなき程である。
 三、武力
武力が國防の基幹を爲すことは謂ふ迄もない。
而して本書劈頭に述べたる國防目的達成の爲めには、
海軍に於ては速に華府、倫敦兩條約の不利なる拘束より脱し、
自主的國防權を獲得し、眞に國家の積極的發展を支援し得るに足る兵力を必要とする。
陸軍に於ては、蘇國の駸駸しんしん乎たる軍備擴張に鑑み、
皇國の生命線を確保するに足る兵力を更に充足すると共に、
速かに航空兵力の大擴張を即行し諸方の脅威を除去する必要がある。
民間航空は軍事航空の第二線兵力たるの価値を有するものであり、
其消長は直ちに國軍空中勢力の消長に影響を持つ。
從つて民間航空の發達は武力戰の見地よりして極めて重要なる意義を持つものである。
最後に一言し度きは國防の基幹たる可き我武力は、
皇道の大義を世界に宣布せんとする、破邪顯正の大乗劍であり、
利己的覇道を基調とし、優勝劣敗をのみ念として動く、他國の小乗劍に比す可きものではないという點である。
 四、通信、情報、宣傳
通信は武力戰たると 文化戰たるとを問はず、極めて重要なる要素である。
就中宣傳戰に於ては其の國の全世界に有する通信、宣傳組織如何が直ちに戰爭の勝敗に重大なる影響を持つ。
情報、宣傳勤務が戰爭に如何なる役割を演ずるかは、
彼の世界大戰於て、獨國の宣傳が英仏側の宣傳に壓倒せられ、
遂には帝國主義的侵略國なりと折紙を付けられ、全世界の反感と憎惡とを買ひ、
敗戰の重大なる原因を爲したることを想起すれば分る。
又 近くは満洲事變に於て我が宣傳の拙劣なりし爲め、我正義の主張を十分全世界に徹底せしむるを得ず、
遂に聯盟脱退の餘儀なきに至つた苦き經驗がある。
思想宣傳戰は刃に血塗らずして相手を壓倒し、國家を崩壊し、敵軍を遺滅せしむる戰爭方式である。
識者にして今尚ほ玆に着眼する者少きことは眞に慨しい次第である。
宣傳の要素たる可きものは、新聞雑誌、通信、パンフレット、講演等の言論 及 報道機關、
ラヂオ、映画其他の娯楽機關、展覧會、博覧會等多々あるが、
平時より是等機關の國家的統制を實行し、
平時より展開せられある思想戰對策に遺憾なからしめるひつようがあるのではないか。
××××
( 附言 )
國防要素としては、以上列擧した以外に、尚ほ擧ぐべき事項が多々あるが、
以下本書に述べんとする内容と直接關係なき要素に就ては、記述を省略することにする。

次頁 
国防の本義と其強化の提唱 3 『 現下の国際情勢と我が国防 』 に 続く
現代史資料5  国家主義運動2  から


國防の本義と其強化の提唱 3 『 現下の國際情勢と我が國防 』

2016年11月13日 05時33分31秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重圧 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

二、國防力構成の要素 の 續き
三、現下の國際情勢と我が國防
 世界的不安と日本
世界大戰における經濟的浪費の決濟難と、ヴエルサイユ條約の非合理的処理とに起因して、
未曾有の政治、經濟的の不均衡、不安定を招來した。
大戰に參加せし國も爲らざる國も、等しく直接間接に此の影響を蒙り、
今や世界を擧げて、不況不安に呻吟するに至つた。
此の世界的の苦難より免れんと焦慮する列國は、競うて理想主義的国際協調を棄て、
現實に即する國家主義に趨り、爲めに大戰後暫く世界を支配せし平和機構の破綻となり、
世界を擧げて政治及び經濟的の泥仕合を現出し、
主要列強を中心として利害を同じうする國々を以て結成するブロックの樹立とはなつたのである。
此間皇國亦其の渦中に巻込まれたのであるが、却つて之によつて不良なる企業を清算し、
産業の合理化を行ふ等、將來への飛躍を準備しつゝあつたのである。
偶々極東の風雲急を告げ、満洲事變突發し、支那の排日貨の爲め、
新市場獲得の必要に迫られたのと、圓価暴落に起因し、
皇國商品は支那を除く全世界の市場に怒濤の如く流出するに至り、
皇國未曾有の貿易時代を現出した。
一方満洲國の出現と共に、皇國の東亜に於ける地位確立し、
日満提携の結果は両國の前途に洋々たる希望を輝かしむることゝなつたのである。
これが爲め經濟不況に呻吟し、國際政局不安に懊悩する列強は、
等しく皇國貿易の進展を嫉視し、その政治的勢力の檯頭に不安を抱くに至り、
各種の手段により我が政治的經濟的の躍進に對し壓迫を加へ來つたのである。
現在の情勢を以て推移せんか、經濟的には遂に皇國の商品は到る処の市場より駆逐せられ、
皇國移民は到る処 締め出しを喰ひ、政治的には遂に孤立無援となり、
第二の獨國運命に陥るの虞無しといひ得ざるに情勢に在る。

 一九三五--六年の危機
皇國は更に上述の危機の前哨戦とも稱すべき 所謂一九三五--六年の危機に直面しつゝある。
 海軍會議と米國
明年開催せらる可き海軍會議に於ては、皇國は如何なる犠牲を拂ふとも絶對に國防自主權を獲得するを要し、
斷じて從來の如き比率主義の條約を甘受することは出來ない。
既に述べたる如く、國防は國家生成發展の基本的活力作用であり、
從つて絶對的のものであつて、斷じて他國の干渉を許すものでない。
比率を鞏要せらるゝ如きは獨立國の面目上よりするも斷じて許容し得べからざるものである。
更に我が海軍力の消長は、所謂太平洋問題の解決 及 對支政策の成敗を意味する。
其理由は玆に縷説るせつするの遑いとまを有しないが、約言すれば、
米國が皇國に對し絶對優勢の海軍を保持せんとするは、
皇國海軍を撃滅し得べき可能性ある實力を備へ、
之によつて米國の對支政策を支援し鞏行せんが爲めである。
右は臆説でも何でもない。
エベリー提督は左の如く公言して居るのである。
「 モンロー主義擁護の爲めには、防勢海軍で足りるが、
 支那の門戸開放主義遂行の爲めには攻勢的海軍を必要とす 」

 支那の態度
支那亦傳統的以夷制夷の策を棄てず、又皇國の極東平和に貢献せんとする眞意を解せず、
常に列強の力を借り 皇國を排撃せんとするの政策をとり來つている。
其最なるものは聯盟に哀訴して満洲事變を解決せんとしたことである。
今や聯盟の無力は全世界の定評であり、支那亦其頼むに足らぬことを自覺し、
列強の利用は結局に於て支那分割又は國際管理への道程に外ならぬと云ふことが、
漸く一部に了解せられ、眞に日支提携を希望するの識者も現はれつゝある。
誠に極東平和の爲め慶賀すべきことである。
が、然し、一方依然所謂欧米派なるものありて、
皇國の所謂一九三五--六年の危機に乗じ、
満洲の奪回を企圖し、
或は皇國の東亜に於ける政治的地位の轉落を策謀すると傳へられて居る。
此の如き策動は
究局に於て支那の前途を誤り、極東を混亂に導くものであつて、
皇國の斷じて容認せざる処、
而して右の如き策動は、皇國の海軍力が米海軍力に壓倒せらるゝか否かによつて、
或は鞏く主張せられ、或は然らざることは、過去の海軍軍縮會議に於て、
皇國が英米の威壓を蒙れる都度、支那に排日運動起り、
其都度出兵を餘儀なくせられあるに鑑みるも明瞭である。
從つて今回の海軍會議に於ける皇國の主張が貫徹するか否かは、
延て支那今後の對日動向決定の爲の指針となるべく、
極東平和の確立するか否かは一に懸つて會議の成果如何に在りと謂ふべきである

 聯盟脱退と委任統治
明年三月を以て愈々皇國の聯盟脱退は効力を發生する。
満洲事變干与によつて鼎かなえの輕重を問はれたる聯盟は、今や本問題に深入りする事を欲せず、
從つて支那側が恒例によつて策動するとしても、大なる反響なからんと観察せられるが、
本件に關聯して、委任統治問題の上程を見ることがないとは保障されない。
抑々委任統治は平和會議の際 旧聯合國側大國會議に於て決定したものであつて、
聯盟から委任せられたものではない。
從つて脱退するとも皇國は之を永久に保有すべき法律的根拠があり、
萬一之が奪還を圖するものあるも實質、皇國に決意ある限り何等懸念の要なきものと考へられる。

 蘇聯邦と極東政策
次は蘇國との關係に就て一言する。
蘇國の近情と皇國との關係に就ては
既に 「 近代國防より見たる蘇聯邦 」 に詳述して置いたから玆には再説しない。
要するに一九三七年を以て其の第二次五年計畫が完成する。
又皇國及び支那を除く近隣諸邦とは悉く不侵略又は侵略國定義條約を締結し、
世界の視聽を集めた聯盟加入は遂に實現を見、又昨今東欧ロカルノ條約の締結を策して居る。
斯くして愈々西方に対する彼の不安は輕減し、
今や全力を擧げて、極東政策遂行に向つて邁進し來らんとしつゝあるのである。
既に世人周知の如く、彼は一億六千万の人口に對し、
七十六個師團百三十萬の兵力と三千機の飛行機を装備している。
我は満洲國を合し人口一億二千萬人なるに對し、
國防兵力は満洲國軍を合すめも僅か三十萬人、飛行機千機内外に過ぎない。
而して赤軍は更に一九三七年迄には如何なる陣容を整ふるか逆賭し難いものがある。
又極東には既に二十萬の兵員、五百機の飛行機、一千台の戰車 ( 装甲自動車を含む ) と
二十隻内外の潜水艦とを集中し、
國境には一聯の近代的永久築城を設備し鋭意戰備の充實を圖りつゝある。
最近頻々として蘇國國境に不法事件發生し、
更に我特務機關襲撃、鐵道破壊の陰謀を企圖する等傍若無人の態度に出で、
一方蘇國民に對しては皇軍の無力を宣傳し、必勝の信念の附与に努むる等、
彼等の眞意那辺に存するかを窮はしむるに足るものがある。
皇國は今にして、此の強大なる赤軍に對應するの兵力装備、就中空軍の力を充實するにあらずんば、
他日噬脺の悔を胎す虞なきを保し難い。
就中在満兵力の充實を必要とする事は論議の餘地なき所である。

 非常時克服の對策
皇國を繞る國際情勢は、一九三五年の海軍會議に於て、英米と正面衝突となる可能性あり、
或は會議の決裂となつて異常の緊張を示すかも知れないが、
此の難関こそ實に皇國將來の浮沈と極東平和の成否とを決定する分岐点なるを以て、
國防安全感を満足せしむ可き海軍側の自主的國防の要求に對しては、
如何なる犠牲を拂つても之を充實し、以て來らんとする國際危機に應ずべき決意を必要とする。

次に蘇國が全力を擧げ極東經營に邁進し來ることは、
我が對満政策に重大なる影響を及ぼすべく、
事態によつては何時自衛上必要なる手段を要する事態發生するやも知れない。
右は極力回避すべきであるが、
彼にして挑戰し來るに於ては、斷乎之を排撃するの用意が必要である。
之が爲め、陸軍装備の充實 竝に空軍の擴充は喫緊であり、
海軍問題と共に國防上絶對不可欠の要求である。

次は英國其他にたいする貿易戰である。
ブロック經濟政策は今後愈々深刻化すべく、
欧米に於ける經濟上の行詰りを極東に於て解決せんとして、
列強が支那市場に殺到し來る事も豫想せねばならぬ。
玆に於てか吾人は 全く個人の利害を超越し、
眞の擧国一致を以て經濟及貿易統制政策を斷行し、
併せて新市場の獲得、支那に於ける旧市場の回復を圖り
以て危機を突破する可き對策を講ぜねばならぬ。
之を要するに、現下の非常時局は、協調外交工作のみによつて解消せしめ得る如き、
派生的の事態ではなく、大戰後世界各國の絶大なる努力にも拘らず、
運命的に出現した世界的非常時であり、又満洲事變と聯盟脱退とを契機として、
皇國に向つて与へられた光榮ある試練の非常時である。
吾人は姑息偸案の回避解消策により一時を糊塗するが如き態度は須らく之を嚴戒し、
与へられた運命を甘受して、此機会に國家百年の大計を樹立するの決意と勇氣とがなくてはならぬ

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国防の本義と其強化の提唱 4 『 国防国策強化の提唱 』  に 続く
現代史資料5  国家主義運動2  から


国防の本義と其強化の提唱 4 『 國防國策強化の提唱 』

2016年11月12日 20時27分01秒 | 其の他

 
國防の本義と其強化の提唱
陸軍省新聞班

本篇は 「 躍進の日本と列強の重壓 」 の姉妹篇として、
國防の本義を明かにし其強化を提唱し、
以て非常局に對する覺悟を促さんが爲配布するものである。

目次
一、國防観念の再檢討
二、國防力構成の要素
 其一  人的要素
 其二  自然要素
 其三  混合要素
三、現下の國際情勢と我が國防
四、國防國策強化の提唱
 其一  國防の組織
 其二  國防と國内問題
 其三  國防と思想
 其四  國防と武力
 其五  國防と經濟
五、國民の覺悟
  ( 附表省略 )

三、現下の國際情勢と我が國防の続き
四、國防國策強化の提唱
 其一、國防の組織

輓近學芸の進歩發達の結果、國際生存競爭としての戰爭の方式は、
極めて科學的、組織的となりつゝある。
就中、思想戰、經濟戰、武力戰に於て然りである。
之を端的に表現すれば、將來の國際的抗爭は智能と智能の競爭であり、
組織と組織の爭闘であると謂ひ得る。
從つて、勝利の榮冠は對手方に優る創意と組織とを有する者に与へられるとも言ひ得るのであらう
玆に於てか、國防國策とは
國家の有する國防要素をば國防目的の爲めに組織運營する政策であると約言し得るのである
而して國防要素に就ては既に述べた通りであるが、
之が運營上よりすれば、政略、思想、武力、經濟の諸部門に分類することが出來る。
國防要素の組織運營に就ては、世上諸説紛々たるものがあるが、
其最も妥當なりと考へらるゝものを左に掲げることにする。

 一、國民生活の安定
人的要素を充實培養し、擧國一致の實を擧げんが爲めには、
國民全部をして齊しく慶福を享有せしめねばならぬ。
國民の一部のみが經濟上の利益 特に不勞所得を享有し、
國民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的對立を生ずる如き事實ありとせば、
一般國策上は勿論國防上の見地よりして看過し得ざる問題である。
之が爲め國民が等しく利己的個人主義經濟観念より脱却し、
道義に基く全體的經濟観念に覺醒し、
速に皇國の理想實現に適應する如き、經濟機構の樹立に邁進することが望ましい。
從つて苟いやしくも志あるの士は、
其學者たると實業家たると、將又朝に在ると野に在るとは問はず、
擧國一致其對策を攻究し、之が實現を企圖せねばならぬ。

國民生活に對し原価最大の問題は農村漁村の匡救である。
 二、農村漁村の更生
現在農村窮迫の原因は世上種々述べられて居るが、今其主なるものを列擧すれば
1、農産物価格の不當 竝に不安定
2、生産品配給制度の不備
3、農業經營法の欠陥と過剰勞力利用の不適切
4、小作問題
5、公租公課等農村負担の過重と負債の増加
6、肥料の不廉
7、農村金融の不備 ( 資本の都市集中 )
8、繭、絹糸価格の暴落
9、旱ひでり、水、風、雪、虫害等自然的災害
10、農村に於ける誤れる卑農思想と中堅人物の欠乏
11、限度ある耕地と人口の過剰等
以上のごとき諸原因は、彼此交錯して、現時の如き農村の急迫を來して居るのであるが、
此等の原因の大半は都市と農村との對立に歸納せられる。
斯るが故に、窮迫せる農村を救濟せんが爲めには、社會政策的對策は、固より緊要であるが、
都市と農村との相互依存と國民共存共榮の全大観とに基き經濟機構の改善、
人口問題の解決等根本的の對策を講ずることが必要であり、
農村自身の自律的なる勤勞心と創造力の強化發展と相俟つて、
農村が眞底より更生するに至らんこを希望して已まない。

 三、創意、發明の組織
本件は國策上重要なること勿論であるが、
國防上の見地よりして、經濟的にも軍事的にも、
極めて重要なる意義を有することは、既に述べた如く、
將來戰が創意と智能との爭闘たることによつて明瞭であると思ふ。
之が爲め 創意、發明に關する國家の全能力を動員し、
之を科學的に組織し其最大能率を發揮せしむることが望ましい。
之が爲め
1、科學的研究機關を統制し、合理化し其能率を嚮上し、經費を節納し、利用に便ならしむ。
2、發明を奨励し、資金供給、研究機關の利用の道を拓き特許制度に改善を加ふ。
等の施設が必要であらう。

 其三、國防と思想
思想戰が國防上如何に重要なる役を演ずべきかは既に述べた通りである。
而して之が基礎たる可きものは、人的要素即ち精神力體力の充實である。
之が爲め 學校 及 社會教育に於て、其の陶治を行ふと共に、
一方社會上の欠陥是正、經濟組織の整調と相俟つて、國民生活の安定、農村更生救濟等を圖り、
民力の培養を策することが必要である。
國防上の見地より思想戰對策として考慮すべき要件を掲げれば左の如くである。
 一、國民教化の振興
1、肇國の理想、皇國の使命に關する深き認識と確乎たる信念とを把持せしめ、
 皇國内外に瀰漫びまんせる不穏、過激なる如何なる思想に對しても、寸毫も動揺することなき、
堅確なる國家観念と道義観念とを確立せしむること。
2、國家 及 全體の爲め、自己滅却の崇高なる犠牲的精神を涵養し、
 國家を無視し、國家の必要とする統制を忌避し、國家の利益に反する如き行動に出でんとする
極端なる國際主義、利己主義、個人主義的思想を芟除すること。
3、質實剛健の氣風を養成し、頽廃的たいはいてき氣分を一掃すること。
4、世界の現狀、國際情勢に通暁し、日本の世界的地位を十分認識せしむること。
5、民族特有の文化を顯揚し、泰西文物の無批判的吸収を防止すること。
6、智育偏重の教育を改め訓育を重視し 且つ 實務的、實際的教育を主とすること。
7、國民體育の嚮上を圖ること。
 二、思想戰體系の整備
思想、宣傳戰の中樞機關として、宣傳省又は情報局の如き國家機關が、
平時より必要なることは縷説るせつする迄もない。
此種機關の實例を見るに、世界大戰に於ては、
相當大規模な工作を以て、所謂プロパガンダ ( 宣傳 ) の名に於て、
近代的一戰爭手段たる思想戰が出現した。
此のプロパガンダ戰線の勇將は、英國のノースクリツフ卿、獨逸ルーデンドルフ將軍、
米國に於ては大統領ウイルソン自らであつた。
戰爭の中期より末期にかけて、恐るべきプロパガンダ戰の力は、
敵國戰線の後方は固より、其の國内の主要都市、國民の台所に迄猛威を揮つて 遂に獨逸側は、
この威力の前に崩壊するに至つた。
それが武力戰 及び 經濟封鎖戰と相關聯して行はれたことは勿論であるが、
プロパガンダ戰夫れ自體として、獨自の立場に立つて、活力を發揮したことは見遁すべからざることである。

 英国 は 世界大戦勃発直後、一九一四年八月、平時からあつた宣傳事業を拡張して新聞局を設置し、
一九一七年一月には別に情報局が設けられ、宣傳事業を一括して活動を開始するに至つた。
次でノースクリツフ卿外三名を以て成る顧問委員が組織せられ、
ノースクリツフは自ら宣傳 及 政略関係の使命を帯びて米國に渡り、
大いに活動するところがあつたが、一九一八年の二月に至り、情報省が設置せられ、
ビーバーブルツク氏が情報大臣の椅子を占め、ノースクリツフ卿は敵國宣傳部長の職に就いた。
其後曲折を經て、ノースクリツフ卿が宣傳政策委員会の全指導を行うことになつた。
 米国 は 一九一七年四月世界大戰に參加後、大統領ウイルソンにより廣報委員會を組織した。
この組織は、國務長官、陸軍大臣、海軍大臣 竝に ジヨージ・クリール氏を以て編成せられ、
クリールが右広報委員會の議長となつて、對内、對外宣傳事業の一切を統括した。
 佛国 では 外務、陸軍、海軍の各省が夫々宣傳機關を持つて、互に鞏調しつゝ宣傳を實施した。
 獨逸側 に在つては、
大戰間の宣傳は最初、不統制のまゝ、一の宣傳用機關誌を利用するに過ぎなかつたが、
軍事當局と各省間に幾多の抗爭曲折が繰り返された後、
ルーデンドルフの提唱に依り一九一八年八月に至つて、漸く宣傳組織を設置することが出來たけれども、
時既に遅く、聯合國側の猛烈なる宣傳に因り、遂に一敗地に塗るの已むなきに立ち至つた


然るに我國に於ける識者中思想戰観念の認識十分ならざるもの多きは頗る遺憾とする所である。
蘇聯邦の組織ある赤化宣傳工作の爲め如何に我國上下を擧げて苦悩せしか。
又満洲事變を通じて宣傳機關の不備の爲め如何に惨但たる苦杯を嘗めたるか。
又現下の貿易經濟戰に於て列國の宣傳戰の爲め皇國が如何に不利なる立場に置かれて居るか。
是等を考ふるとき平戰兩時を通じての思想戰體系整備の急務なることは論議の餘地はない。
要は速に之が實現を圖るに在る。

 其四、國防と武力
 消極的軍備、積極的軍備
武力戰の主體は軍備である。
抑々軍備には消極的に國防目的を達成するに必要なる最少限度の武力と、
積極的に目的を達成せんが爲め要すべき武力とに分れる。
而して前者は國策、領土の廣狭、地理的位置等の關係より、自主的に決定し得べきものであり、
後者は國際情勢に應じて變化すべきものである。
現在我が陸軍の保有する軍備は上述の消極的國防に必要なる最少限度のものであり、
大戰直後、蘇國の軍備薄弱なりし時代に於ては、之を以て東亜平和維持の靜的目的を達成し得たのであるが、
満洲事變に伴ふ 國防第一線の擴大により皇国に三倍する領域の治安維持を負担することゝなり、
消極的國防の見地に於てすら既に軍備の不十分を感ずるに至つた。
加ふるに蘇國の所謂五か年計畫實施の結果、世界最大の軍備を保有するに至り、
特に著々として極東に軍備を充實しつゝあること、
蘇満國境の絶えざる紛爭、更に両者間に蟠わだかまれる幾多の案件は、
最近募り來れる蘇國の挑戰的態度と常習的不信なる態度と相俟つて日蘇關係の今後の推移は逆賭し難き情勢に在る。
從つて如何なる情勢の變化に遭遇するも支障なからしむべき兵力、装備の充實は、
時局對策として最も重要なるのゝ一つであらねばならぬ。
此の兵力装備の具體的數字を掲ぐる自由を持たないが、
主要列強の軍備と比較し、國際情勢の急迫せる狀態
を考察せば、
皇國兵力装備の十分ならざることは十分了解し得ると信ずる。
近代軍備に於て航空機の有する価値の絶大なることは今更述べる迄もない。
( 後掲の主要列強陸軍兵力一覧表竝附録第一の列國軍備の表参照 )
思ふて玆に至れば慄然たらざるを得ない。
最近民間航空大拡張の企圖あるかに仄聞そくぶんする。
誠に慶賀の至りに堪へない。
こいねがはくは、一刻も速に空中國防の欠陥を充足し、國防上些の遺憾なからしめんことを。
又重要都市防空の爲め施設の必要があるが、飛行機に対する絶對の防禦は飛行機を以て、
敵機を撃墜し或は本拠地を覆滅するに在る。
此意味よりしても空中勢力の充実を企圖することが急務である。

 
其五、國防と經濟

 一、經濟の調整
 現機構の不備
現經濟機構が、我が國の經濟的發展に、大なる貢献をなしたることは認めねばならぬ。
然し國家的全體観、特に國防の観點より見て、左の如き改善調整の餘地ありと言はれて居る。
1、現機構は個人主義を基調として發達したものであるが、其半面に於て動もすれば、
 經濟活動が、個人の利益と恣意とに放任せられんとする傾があり、
從つて必ずしも國家國民全般の利益と一致しないことがある。
2、自由競爭激化の結果、排他的思想を醸成し、階級對立観念を醸成する虞がある。
3、富の偏在を來し、國民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落等を來し、
 國民生活の安定を庶幾し得ない憾がある。
4、現機構は、國家的統制力小なる爲め、資源開發、産業振興、貿易促進等に全能力を動員して、
 一元的運用を爲すに便ならず、又國家豫算に甚しき制限を受け、
國防上絶對に必要とする施設すら之を實現し得ざる狀態に在る。

 新經濟機構に具備すべき要件
現經濟機構の變改是正の法案に對しては、種々の意見があるが、
國防上の見地よりして左の如き事項が擧げられて居る。
1、建國の理想に基き、道義的經濟観念に立脚し、國家の發展と國民全部の慶福を増進するものなること。
2、國民全部の活動を促進し、勤勞に應ずる所得を得しめ、國民大衆の生活安定を齎もたらすものなること。
3、資源開發、産業振興、貿易の促進、國防施設の充備に遺憾なからしむる如く、
 金融の諸制度 竝に 産業の運營を改善すること。
4、國家の要求に反せざる限り、個人の創意と企業慾とを満足せしめ、益々勤勞心を振興せしむること。
5、公租公課を真に更生ならしむる如く税制の整理。

 二、戰争經濟の確立
經濟戰は既に平時情態に於ても開始せられつゝあることは既に述べた通りである。
戰時状態に於て武力戰と併記する場合、其激甚性は最高度に達すること勿論である。
其場合の經濟統制を如何に実施するやは、國防上重要なる問題である。
二十世紀初頭迄の間に於ける各戰爭を観察するに。
國を擧げて交戰の事に従つた場合に於ても、比較的光線兵力、軍需品の需要が寡少であつて、
國民經濟の全般に亙り特別の變動を与ふることはなかつた。
然るに、世界大戰は全く從來と其の趣を異にして居る。
即ち軍需品の需要が未曾有の膨張をなした。
一面交戰國は外部との通商交通は、著しく阻害せられ、甚しき場合には全く封鎖狀態に陥るを以て、
軍需品は勿論 國民生活必需品に至る迄、海外よりの資源の輸入は途絶せらるのみでなく、
時刻輸出産業の販路も、全く閉塞され、平常時に於ける世界經濟の紐帯は全く切斷せらるゝ事となつた。
故に戰時不足すべき資源を適時充足する如く平時に於て準備を整ふると共に、
一旦緩急の暁には、國家は莫大なる軍需品の需要を満すと共に、
國民の經濟生活維持の爲 經濟の全般就中 國防産業運輸通信 及 國民經濟生活に對しては、
相當徹底して続制を行ふの必要がある。
其の結果 經濟組織に對しても尠すくなからざる臨時變更を生ずることとなる。
之を世界大戰の實例に徴するに、列強より封鎖せられたる獨逸が、
食糧軍需資源の輸入途絶に依り著しき困難を嘗めたるは勿論、
過剰生産品の輸出販路を失ひ、爲に國家經濟が窮地に陥つた事は周知の事實である。
又獨逸の潜水艦封鎖の脅威を受け乍らも兎に角 世界經濟との關聯を保持せし英國に於てすら
砂糖、小麦、肉類等の不足を生じ、又綿花輸入困難の結果はランカシヤ綿業廢止を餘儀なくせらるゝ等、
國民經濟に致命的影響を蒙つたことは枚擧に遑いとまがない。
されば交戰諸國は資源、食糧の不足を補う爲め、其の生産 及 輸入に對して強度の保護奨励策を取るは勿論、
中には國家自ら其一部を經營するものすらあつた。
極端なる自由主義を標榜せし英國に於てすら農地の鞏制耕作、製粉工場の政府管理、
小麦、砂糖 及 肉類の輸入 及 配給事業の政府直營等を實施し、
又 ランカシヤ綿業の危機を救はんが爲め、政府は在荷綿花の公平なる分配、操業の調整、
失業救濟等に對し 積極的統制を實施している。
又交戰時は殆んど例外なく國民の消費にまで干渉し、或はパン、肉、砂糖 等の食料品を始めとし
各種燃料 及 衣服に対しても標準消費量 又は日量を定め切符制度に依り之が配給をも實施している。
又一方國家は戰爭の爲 打撃を蒙れる一般國民 竝に特殊産業の資本家 及 勞働者に對して救濟策を講じ、
又戰禍の爲 生業を失へる者に對する對策を必要とするに至つて居る。
此の如き世界大戰の經驗は、將來戦に於て戰時經濟を如何に準備すべきや暗示するものである。
而して此等の準備なき國家は、多大の困難を感ずるのみならず、
往々 之が爲 敗戰を招來するやも測り難い。
故に平時より官民力を戮せ之が準備を完成するの必要がある。
而して其の準備すべき要點としては、戰時不足資源関係の企業の奨励、
不足資源の貯蔵、代用品の研究、戰時海外資源の取得計畫、平時之を利用する國防産業の實行促進、
過剰生産品の輸出對策、戰時財政金融對策、貿易對策、勞働對策等 相當廣範囲に亙り
豫め研究準備を遂げ開戰の暁に於て些の遅滞なく、
統制ある戰時經濟の運用に移らなければならない。

 五、國民の覺悟
以上は
國防國策として速に實現を要すと一般に考へられある事項の若干を掲げたに過ぎない。
素より國防は國家の生成發展に關する限り
國策の全般に亙るが故に本書に述べた以外に考慮すべき要件は多々あることは勿論である。
皇國は今や駸々しんしん乎たる躍進を遂げつゝある、一方列強の重圧は刻々と過重しつゝある。
此の有史以來の國難--然しそれは皇國が永遠に繁榮するや否やの光榮ある國家試練である--
を 突破し光輝ある三千年の歴史に一般の光彩を添ふることは、
昭和聖代に生を禀けた國民の責務であり、喜悦である、
冀はくは、全國民が國防の何物たるかを了解し、
新なる國防本位の各種機構を創造運營し、
美事に危局を克服し、
日本精神の高調擴充と世界恒久平和の確立とに向つて邁進せんことを。

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歩一、歩三の将校団 下書

2016年11月12日 04時39分09秒 | 其の他

歩兵第一聯隊将校団




歩兵第三聯隊将校団  昭和11年2月26日の時点
聯隊長  渋谷三郎 大佐  陸士20期
 副官  大橋健三 少佐  陸士31期
 聯隊付  宮沢斉四郎 中佐  陸士24期
 聯隊本部  石川 少佐
 教育掛  天野武輔 少佐  陸士29期
 連隊旗手  高橋太郎 少尉 陸士46期
第一大隊長  本江政一 少佐  陸士27期
 副官  坂井直 中尉  陸士44期
 第一中隊長  矢野正俊 大尉  陸士37期
  中隊付  麦屋清済 少尉  特可志願
 第二中隊長  梶山健 大尉  陸士38期 ・・・習志野学校派遣中
  中隊付  小杉留五郎 中尉  少候
  中隊付  渡辺進 中尉  陸士45期
 第三中隊長  森田利八 大尉  陸士36期
  中隊付  清原康平 少尉  陸士47期
第二大隊長  伊集院兼信 少佐  陸士25期
  副官  今井秋三郎中尉  少候
 第五中隊長
  中隊長代理  小林美文 中尉  陸士40期
  中隊付  春田孝一 中尉  少候
 第六中隊長  安藤輝三 大尉  陸士38期
  中隊付  菱山栄 少尉  少候
 第七中隊長  野中四郎 大尉  陸士36期
  中隊付  常盤稔 少尉  陸士47期
第三大隊長  野津敏 少佐  陸士25期
 副官  江上新 中尉  少候
 第九中隊長  了戒次男 大尉  陸士38期 ・・・全員天津派遣中
  中隊付  冷泉隆 中尉  陸士44期
  中隊付  佐藤秀彦 中尉  陸士45期
 第十中隊長  島田信平 大尉  陸士36期 ・・・歩兵学校派遣中

  中隊付  新井勲 中尉  陸士43期
  中隊付  鈴木金次郎 少尉  陸士47期
 第十一中隊長  浅尾時正 大尉  陸士33期
  中隊付  赤石清 少尉  特別志願
  中隊付  谷ケ崎鉦正 少尉  特別志願
 機関銃隊長  内堀次郎 大尉  陸士39期 ・・・豊橋歩兵第十八聯隊へ出張中
  隊付  柳下良二 中尉  陸士45期
  隊付  小林三郎 中尉  少候
  隊付  高橋丑太郎 中尉
 歩兵砲隊長  宇田川富蔵 大尉  陸士32期


三箇大隊三箇中隊編成の為、四、八、一二中隊は欠番

第一師団
師団長  堀丈夫 中将
 副官  与古田洋 大尉 ( 36期 )
参謀長  舞伝男 大佐
第一旅団長  佐藤正三郎 少将
第二旅団長  工藤義雄少将


永田鐵山 『 噫 軍神 林聯隊長 』

2016年11月11日 10時02分23秒 | 林八郎


噫 軍神  林聯隊長    序文
永田鐵山
満蒙通の国法的権威として惜しまれ、不世出の名聯隊長として仰がれた
故林君の一周忌に接し、
その麾下きかたりし将校団が、君の伝記を編纂せらるるに方あたり、
君の同期生として、幼時から寝食を共にし喜憂を領けた予に、
その序を求められたのは、予の光栄とし感激に堪えない所である。
林君は、その父祖から継承した伝統の武士気質かたぎを多分に持っておった上に、
自己の修養と家庭の訓化によって、それが益々拡充されたのであって、
軍神として万人渇仰の的となったのは決して偶然ではない。
君は小兵であったが、五尺の短身、尽ことごとくこれ胆であった。
恬淡てんたんで磊落らいらくで、剛毅で、運動好きであった。
角力すもうの強いことは同期生随一で、
東京地方幼年学校の柔道場で常に我々の稽古台となった。
大弓も、厳父の嗜たしなみを承けて優秀な技倆を具そなえておられた。
手裏剣なども中々の妙手だった。
その他の武技においても人なみ優れていたが、余り多くの人に知られていない。
けだし内に蔵すること深く、しかも外之を誇らない人と為りの致すところである。
強い反面において君はまた実に情味の豊かな温かいところがあった。
従って交友まことに深いものがあった。
君の戦死を聞いて、御遺族のもとに集った弔電弔辞の中には、
単に一面の識しかない人や、秋季演習の宿舎になった人からのが少なくなかった。
一寸でも君に接した人が、如何に君に懐かしみを感じていたかが判るであろう。
君を慕う者は決して日本人ばかりではなかった。
支那人の中にも、親兄弟を失った様な親身な弔辞を送ってくる者が少なくなかった。
君は弱冠にして大陸に志があった。
地方幼年学校入学とともに露語を習ったのでも明かである。
また早くから満蒙の研究に意を注ぎ、その一生を通じ、
大陸国策の樹立に貢献されたところは実に偉大なものがある。
今日皇軍が満州に赫々かくかくたる勲業を建て、
東亜の一角に王道楽土が建設されつつある裏面に、
君の隠れたる功績と努力とは真に莫大なるものがある。
君の軍人生活の大部分は、実に存外情報勤務であって、
死線を越えたことも幾度であったかも知れない。
この間、国事のために家庭の如き之を顧みるに暇がなかった。
文字通り君国のために一身一家を犠牲としたものである。
この聯隊長を父と慕い、将と仰いで、中支江南の地に奮戦された聯隊は実に幸福であったと信ずる。
その戦闘開始の前夜における訓示を見ても、君の平素の修養が窺うかがわれ、
その徹底した心境は、正に禅の高僧を偲ばせるものがある。
敵前線突破の端緒を拓ひらいた江湾鎮堅壘の攻略は、
この隊長のもとに、勇んで死に就いた幾多勇士の力であったが、
部下を駆って悦んで弾雨の中に突進せしめたのは、君の人格そのものでなくて何であろう。
嗚呼、去年の今日、君は最後の命令 「 前進 」 の一語を残し、
莞爾として死に就いたのである。
国家の君に期待するところはまだまだ多く残されていた。
万人斉ひとしく君の昇天を痛哭つうこくした。
しかしながら天晴あっぱれ江南の花と散った君の気魄は、
きびすを接すべきを信じて疑わない。
一言にしていえば、君は実に文武両道に通じ、恩威ならび備えた武将の典型である。
君の命日は実に満洲國の誕生日である。
天為とでも言うべきであろう。
永年母国を離れ家庭と別れて、或は息も凍る西比利亜シベリアに、
或は朔風黄塵を捲く蒙古の奥に、危難を冒おかし、艱苦かんくを忍んで尽された努力、
今や酬いられて、満洲國の勇ましい呱々ここの声を聞きながら、
君は莞爾として地下に安らかに眠るであろう。


小林友一 著  同期の雪 から


林大八

2016年11月10日 18時58分12秒 | 林八郎

軍神・林聯隊長 (林八郎 の父) 
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から
「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との 命に接し、
林聯隊長は憤慨して、
「 陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるか 」
と 烈火の如く怒った
林聯隊長はこの日、
「 兵隊達だけ死なすことは出来ない 」
と、みずから第一戦に進出し
壮烈な戦死を遂げた


 軍神・林大八
林大八は
幼年学校のときからロシア語と蒙古語に特別の努力をしていたが、
大正三年参謀本部から満蒙に派遣された。
それから昭和六年までの十七年間に、内地勤務はわずか二年である。
平和時に、これほど長期に亘って治安の悪い準戦地に勤務した軍人は他に例がない。
しかも、この間の彼の仕事は情報収集や特殊工作などの働きであるから、ごく一部の人にしか知られていない。
( シベリヤにおけるパルチザン工作の報告や張作相の顧問をしていた時代の報告などが断片的に残っている。
昭和十年ころ読まれた小説、山中峯太郎著 『 大陸非常線 』 は、林をモデルにしている )
途中の内地勤務二年間は歩兵第三聯隊 ( 東京 ) の大隊長の時代で、
平和時の大隊長は比較的閑職とされていたが、
彼の場合はこの間に関東大震災 ( 大正十二年 ) があり、
大隊を指揮して救難・警備に出勤している。
さらに引続き
大杉栄事件の被告甘粕憲兵大尉の軍法会議に判士として列するなど、極めて多忙な二年をすごした。
それからまた長い大陸の勤務があり、
次の帰国は昭和六年八月、歩兵第七聯隊長 ( 金沢 ) に補せられたときである。
二男 八郎は、既に彼と同じ東京幼年学校を卒業 ( 第32期 ) して 士官学校予科に在学していた。
しかるに金沢の生活も七ヶ月足らず、金沢師団は上海に出勤することとなり ( 上海事変 )、
彼も聯隊を率いて激戦に参加、
 
七年三月一日、
江湾鎮において陣頭に指揮中、腹部に敵弾を受けて倒れたのであった。
連隊副官は重傷救い難しと見て、連隊旗手を招いた。
おおいを取った軍旗が聯隊長の目に映ずると、
彼は副官に手をささえられて御紋章に触れ、
最後のおいとまごいをして 瞑目、多端なりし人生を終った。
時に四十八歳。

林大八の言行は、
関東大震災前後と歩兵第七聯隊長着任から戦死まで、
通算しても二年に足らぬ期間のものだけを拾っても、ゆうに一章をなすものであるが、
そのうちから江湾鎮の攻撃開始前後、
聯隊将校全員 ( 大部分は戦場の経験がなかった ) を集めて行った訓示を記しておく。
・・・・諸君は、既に充分の覚悟あろうかと思うが、二つだけ注意を述べる。
一、戦場において最も顕著に現われるのは人間の本能による興奮、恐怖から生ずる現象である。
顔色の青くなる者もいれば、からだの震える者もいる。
けれども、これは決して恥づべきことではない。無理にこれを隠したり、または故ことさらに剛胆を装ったり、
あるいは功名を焦ったりすることは禁物である。
青ざめながらでもよい、震えながらでもよい、ただ任務を正しく実行せよ。
戦場では、責任観念の強い者が、いちばん強い者である。
二、老人、子供、女子は、いかなることがあっても殺してはならぬ。
男子であっても敵対せぬ者を殺してはならぬ。
良民に対しては皇軍の慈しみを忘れないようにせよ。

この訓示が初陣に臨む若い将校たちの心に落着きを与えたことは想像に難くない。
若い中隊長 辻正信中尉も感動しながら聴いていた。
誰かが質問した。
「 聯隊長殿は、女を絶対に殺すなとおっしゃっるが、もし 女が狙撃してきたらどうします 」
聯隊長は笑って答えた。
「 女に殺されるなら、いいではないか 」
戦いを前にして一同、大爆笑した。

毎日新聞社
別冊1億人の昭和史  陸士☆陸幼
日本の戦史別巻10  から

リンク→
永田鉄山 『 噫 軍神 林聯隊長 』


平野助九郎 發・ 川島義之 宛

2016年11月09日 17時32分57秒 | 其の他

川島義之  宛
昭和10年10月12日

謹啓
事ある秋 日本國の靈力發動して國體を無欠に擁護し無窮に傳へたるは古來史實の證する処に御座候。
而して明治以來浸潤累積せる機關説的思想の徒輩に依り我國體は危からむとするに方り、
遂に日本國體の靈力は發動し 之等機關説思想の 「 まつろはぬものどもを討ち平ぐ 」 べき聖戰の前哨戰は開始せられ、
而かも此聖戰たるや必勝を疑ふ可くも無之候。
今や 上聖上を輔翼し奉り 下萬民に大義の重きを知らしむべき忠臣良弼の正に出づべき時到りしことを御自覺確信せられ、
御維新聖業の翼賛に向て捨身の御奮進切に奉折候。
戰機は既に熟す。
他を顧るの要なし。
唯閣下の突進を祈るのみ。
第二、第三陣は必ず續き、戰果を擴張可致候。
右 西陲の一隅に靜思直感のまゝ衷心より奉懇願候。
乍末筆閣下の御健康を奉祈候。
頓首再拝
十月十二日    平野助九郎
川島陸軍大臣 閣下

〔 註 〕  巻紙墨書、封筒表 「 川島義之陸軍大臣閣下 」
 裏 「 豊予要塞司令部平野助九郎 」


平野助九郎 發 ・ 森傳 宛

2016年11月09日 07時03分53秒 | 其の他

森伝 宛
昭和10年10月12日

拝啓  益々御活躍の御事ならむと奉慶賀候。
九州の片隅にも秋は音づれ、殊に臨海谷間の官舎の獨居には明月一しほ靜寂を覺え申候。
大演習前にて何かと引張り出されて落着き讀書の暇も多からず、
中央の様子は時折りの通信の外、主として新聞に依り推察判斷罷在候。
大演習の際は色々の方々に拝眉出來るかと存居候得共、
尚ほ年末年始は休暇上京致度、其際は拝眉御指導仰げることゝ楽み居候。
川島閣下御就任以來 漸次機關説思想の省内幕僚の更迭も行はれ頼もしく存居候。
唯十一月廿日事件の陰謀組の馘首は出來ざるものかと西海にて實狀に通ぜざるまゝに念じ居候。
又 機關説問題に就ても鞏硬に御進み被下候段感謝罷在候。
此上共々閣下の國體に關する御理解と信念とを益々堅くせられ、
一路邁進せらるゝ様 御輔佐 呉々も奉祈候。
第六師管に於ても國體明徴問題は仲々旺にて、
小生の如きも來る廿日 大分市 及 大分郡兩軍人聯合分會の大會に國體公演をと せがまれ、
若し師團長 及 都崎少將來らざる場合は是非なしと引受け申候次第に御坐候。
大分市は後藤内相の生地、その他県下は政爭も激敷所なれば述べる事も愼重に致す心得に御坐候。
早稲田には別紙の如き一石を投じ候得共、まひせる教職員聯にはさしたる反響もなきかと存居候。
別紙印刷物少き爲 學生の多くに撒布出來ざりしは残念に存居候。
早大日本主義學會の學生聯は幾分動くかと存居候。
川島將軍始め在京將軍方には反て御迷惑相懸け候事を恐れて愚翰差上ぐる事差控へ居候。
別封御一覧の上 川島閣下に差上度願上候。
擱筆せんとして東の窓を開ければ、八月十五夜の明月、
港の彼方早吸女神社の山のはを登り、
隈なく照らすを見れば凡夫の焦慮恥かしき感致しそうです。
御令室始め表の方各位にも宜敷願上候。
横浜の留守宅何かと御世話に相成り居候事と存候。
何卒宜敷願上候。  敬具
十月十二日    平野助九郎
森傳様
尊台下

〔 註 〕 巻紙墨書。
 封筒表 「 東京市淀橋区諏訪町一四八  森傳様  親展  書留 」
裏 「 大分県佐賀ノ関町陸軍官舎  平野助九郎  十二日夜 」


松浦邁 ・ 異聞

2016年11月08日 04時22分30秒 | 松浦邁

ある憲兵の記録  朝日新聞山形支局
の中に、『 二・二六事件異聞 』 という頁を認めたので 全文を掲載する

二・二六事件異聞
斉共事件の翌昭和
十一年 ( 一九三六年 ) に、
日本の軍隊叛乱史上最大とされる二・二六事件が起こった。
二月二十六日未明、陸軍の一部青年将校らが急激な国粋的変革を求め、
約千四百人の部隊を率いて叛乱を起した。
蔵相・高橋是清、内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎を殺害、侍従長・鈴木貫太郎に重傷を負わせた。
首相・岡田啓介をも殺したつもりだったが、人違いだった。
永田町や麹町一帯を一時、占拠したが、二十九日、鎮圧された。
事件の背景には、陸軍内部の皇道派と統制派の対立があり、皇道派が蜂起した。
皇道派は前陸相・荒木貞夫や前教育総監・真崎甚三郎をリーダーと仰ぎ、
『 日本改造方案大綱 』 を 書いた北一輝を理論的指導者とした。
統制派は、前年八月に暗殺された軍務局長・永田鉄山を指導者とし、多数派とされた。
いずれも軍部の力を強めようとする急進派には違いないが、
統制派は、「 総力戦のためには旧来の財閥とも強力し合う 」 という方針だったのに対し、
皇道派は農村の惨状に心を痛め、財閥を憎んだ。
そして、財閥などと手を結んでいる将軍や幕僚層をも軍閥とみなし、
天皇の正しい政治を妨げている 「 君側の奸 」 と 反感を抱いていた。
「 監軍護法 」 の 憲兵は、当時の二・二六事件の起こる前から彼ら皇道派を 「 一部将校 」
と よんで、その言動を注視していた。
土屋のいたチチハルにも、この一部将校がいた。
土屋の担当は松浦という歩兵38聯隊の中尉だった。
二十四、五歳、小柄で怪異といっていい顔立ちだった。
尾行などを繰り返すうちに、彼がしきりにどこかに手紙を出し、自分も受けていることに気づいた。
手紙の内容が分れば、不穏分子かどうか仲間の有無、行動を起こすとすれば その時期などが
情報として得られ、未然に防ぐことができる。
どうすれば郵便物を見られるか。
わけないことだった。
作戦要務令には 「 通信および言論機関の検閲取締り 」 を 憲兵の任務の一つに挙げていたし、
当時、不穏文書を取締る別の法律もあったように土屋は記憶している。
軍事郵便物は憲兵隊内にあった軍事郵便取扱所で、
普通郵便はチチハルの郵便局というべき郵政局で、見た。
ほとんど連日のように行った。
慣れてくると、勘で、そろそろおかしいのが来るところだなと思う時に行った。
「 イヨッ 」 と 声をかけて中に入り、私信だろうが外国領事館の本国への公文書だろうが、
ジャガジャガ開封した。
必要なものは写し取って情報として報告し、外国のものの多くは暗号文だったから、
やはり写して暗号係に渡した。
写し終えるとノリをつけて、コテでシャッとすると、開封した跡は消えた。
開封はどうしたかというと、湯気をあてるような面倒なことはしない。
指のつめの先で、スッと開ける。
開封したことが絶対わからないように今でもできる。
外国のものには、検閲防止のため円形のロウで封をしてあるものがあったが、
それとて簡単だった。

一部将校の松浦中尉の出す郵便は、内容はほぼ同じだった。
「 天御中主神 あめのみなかぬしのかみ の子孫が天皇である。
 天皇の権力をもっと強めて天皇親政の日本として治めていかねばならない。
ところが、日本の今の政治は財閥に牛耳られ腐敗している。
君側の奸が多すぎる。これを改め、天皇の権力を拡大し、天皇の真姿顕現を図らねばならない 」
いわゆる檄だ。
これを関東軍だけでなく、内地の軍の仲間にも送っていた。
土屋は、その内容を見て 「 なるほど 」 と 同感だった。
天皇の取巻きに悪いのがいる。
日本を天皇中心のもっと強い国に改造しなくてはならない、と。
「 松浦中尉とは何と素晴らしい人か 」 とも 思ったが、検閲は仕事だから続けた。
そして、二・二六事件があった。
情報が流れてきた。
すぐに、松浦中尉はじめ二十四人の皇道派青年将校を検挙した。
取調べは憲兵分隊長が当り、関東軍軍法会議に送検した。
結果は、土屋たちには知らされなかった。
取調べが中国人に対するような、拷問責めなどではなかったことだけは確かである。
松浦中尉は、その後、昭和十五年ころだったと思うが、チチハル以外の戦闘で戦死した。
連日流れてくる戦死者名簿の中に彼の名前を見つけた土屋は、「 一部将校であった 」 と 添え書きして上官に持参した。
この上官は一瞬、ムッとして土屋をにらみつけ、黙ってしまった。
ひょっとして、この上官は皇道派だったのではなかろうか、
土屋にしても、皇道派を非難がましくみていたわけではない。
むしろ、好ましくさえ内心では思っていた。
それは、皇道派が土屋の出身でもある農村の疲弊にも目を向けていたから、というわけではない。
やはり、頭に刻み込まれていた天皇のイメージからみて、皇道派や松浦中尉の主張は 「 なるほど 」 と 思わせた、というほうが近い。
土屋だけでなく、憲兵の中には皇道派に同情的な見方をする人も少なくなかった。
同じ関東軍憲兵隊のある隊では、二・二六事件直後に何人かの青年将校を逮捕したものの、客分扱いだったという。
もっとも、関東軍憲兵司令部は違っていた。
その時の司令官、東條英機は
「 この機会に関東軍内部の皇道派将校と、満鉄および満洲国政府内の親皇道派の一掃を 」
図ろうとして、各憲兵隊に厳しい取調べを要求したといわれる。
昭和十六年(一九四一年) 十月、首相となった東条は、陸軍大臣を兼務し、
憲兵を手足のように使って東條憲兵と悪評されるが、その下地づくりをここでしていたようにもみえる。
このように東京で起きた二・二六事件でははあったが、満洲への波紋も小さくはなかった。
いずれにしても、事件後、
「 財閥の意のままに動く軍部独裁政治へと急速に変わっていった 」
と 土屋は分析する。
「 それにしても 」 と 思う。
皇道派に走り、若くして散った松浦中尉の生き様は、その死は、何だったのか。
これもまた検閲で開封して読んだのだが、中尉の母の手紙を思い出す。
島根県の人だった。
「 お前は藩士だった父の血をうけて過激すぎる。おだやかに往きなさい 」
と あった。
そういう男だった。
と 同時に、だれとも同じように、やさしい母のいた人でもあった、と 思う。
土屋にとっての 「 二・二六事件異聞 」 である。

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茲に登場する 松浦中尉が、
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 の、松浦邁少尉かは判らない
それは
黒崎貞明著の恋闕
の中に下記、 松浦少佐が登場する場面があり
・・・・・・・・

( 昭和二十年八月 ) 十三日、
松浦少佐が大岸頼好、菅波三郎、末松太平の三人を連れてきた。

いずれも 二 ・二六事件の先輩同志である。
聞けば、陸軍省の嘱託だといって門をくぐったそうだ。
この時期に旧同志の 揃い踏み とはいささかできすぎた演出であった。
「 何事ですか 」
「 日本の大事にあたって、何かわれわれにできることはないかと思って様子をみにきた 」
という。
私はポツダム宣言以来の概略を話して、阿南陸相の決定に従うことにしているというと。
「 他に途はないのか 」
というので、
「 軍が二つに割れて、片や皇軍、片や官軍ということになると、収拾がつかなくなるし、
分断占領も、革命もあり得る 」
と 所信をのべると、
「 天皇を擁してあくまで戦うことはできないのか 」
と 迫ってくる。
これは誰かから、軍の中堅将校が阿南陸相に進言したが、
梅津参謀総長がこれに反対したという情報を聞いて、とんできたものらしい。
「 たしかにこの際、天皇を無理にでも市ヶ谷台にお連れして本土決戦を行い、
条件講話にもって行こうという考えがあったことはたしかであるが、それは省部の大勢ではなかった筈だ 」
と 説明し、むしろその後われわれはいかにして国体を護持して、
日本の再建の方途を考えるべきではないかと思うとのべた。
このとき、松浦少佐は、いきなり私の拳銃を取って飛び出した。
何をするのだろうと呆気にとられていると、しばらくしてから悄然として帰ってきた。
「 俺は二・二六事件でも死に損なった。あの失敗が支那事変を拡大し、そしてこの大戦となり、
今、日本は無条件降伏を迎えようとしている。
われわれが倒そうとした軍閥がいま、このような形で倒れようとは思わなかった。
俺は貴様ほど利口ではない。ただ死に場所を見つけたいと思った。
俺が、梅津総長と刺し違えれば、なにか別の途が開けるかも知れないと思って、
総長室に行って見たが、総長は宮中に行ったあとだった。 俺はまた死に損なった 」
と いってボロボロ涙を流している。
その純粋さには思わず頭が下がった。
基本的な考え方や手段方法についてはそれぞれ異なるであろうが、
この日本の重大な難局にあたって 祖国のために死に場所を得ようと決心することは得難いことでもあり、
尊いことでもある。
・・・・
彼はしかし 二・二六事件にも 連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二 ・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、懸命の奔走をつづけたのだった。
・・・黒崎貞明著の恋闕

上記の松浦少佐は

末松太平著 私の昭和史
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 
の、松浦邁少尉と一致する


末松の慶事、万歳!!

2016年11月06日 04時47分23秒 | 澁川善助

澁川善助発西田税      〔 昭和十年四月二十日 〕
復啓仕候
末松の慶事、万歳!!
欣喜雀躍の至に御座候、
歓哉、好哉、快哉、
あな嬉しいきどほろしきわびし
  はからず聞ける友のよろこび
歌など まどろかしくてこの喜びを表せず候、
この葉書 五月一日以前に配達せらるるや否や 不明に候間取敢へず渡邊氏宛、
謝辭と祝辭と電報にて發信の手続仕置候へども
尚も重ねて宜しく御鳳声被成下度奉懇願候、
下手くその歌にて候へども 花嫁御芳名とし子の君と承り候まづ
  千代八千代末の世までも輝かむ
  とし得て雄々しい松の操は
  末の世の男 の子の鑑雄々しき松
  としごとふやせその彦ばえを
と、渡邊氏宛 右の電報中に、
式の際 披露宴を御願申上置候へども 電文不明を顧慮とて念の爲再度仕候、
何とぞよしなに御取計ひなし被下度懇願の至に御座候、
更に、その佳き日にまのあたり祝盃を献じ得ざるが
小生何よりの遺憾に有之候間何とぞ小生の分も御乾盃なし被下様御願申上候、
小生は此処に於て遥に祝賀仕るべく候、
ああ太平夫妻の顔が見たくなり申候!!
  ×--×―×--×--×--×--
天業恢弘・億兆安堵の  皇謨を扶翼すべく魯鈍に鞭ち微力を尽すこと幾春秋、
わずかに大陸經論の曙光を見しのみにして 内外の暗雲猶ほ重し
わらふべき業務に引かれて囹圄の身となり、
世運忙々の外に閑坐する早くも半歳、
鐵窓を隔てて満帝の御來京を聞く、
想は遠く馳せめぐりて感慨無量なるもの有之候
然り 盛事なり畫時代的盛事なり
噫々 而も 創生安んぜざる如何せん
皇天上席眼文明、或は風
或は雨、春を虐しいたぐる夫れ意なからんや
--×―×--×--
屋外運動も取やめ勝にて、
屋外の桜花心ゆくまで愛でられもせぬ内に早や散り果て申候
ただ春逝不可停、還喜盛夏來、落花眞可憐、男子自不嘆と有居候
愈々明後日 月曜 ( 廿二日 ) 小生の取調 ( 但し檢事の ) 始まることに相成候、
簡單に相濟むらしく候、
益々頑健に罷在候間 何とぞ御放念被成下候
末筆ながら弥々御清穆ぼくの程 伏して奉祈上候
      恐々頓首

〔 ペン書。  封緘葉書。
表、渋谷区千駄ヶ谷四八三 西田税様。
裏、中野区新井町三三六 澁川善助  四月廿日認。
郵便消印10・4・26.
なお 文中
は消去  傍線をほどこした個所は、渋川のペンで書いて後 消されたことを示す。〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十月にはいったころのある土曜日、
私は戸山学校に末松太平 の訪問を受けた。
「 きょう午後、わたしにつきあってくれませんか 」
「 だしぬけに何だい 」
私は、末松のいう意味がわからなかった。
「 あんたも知っている例の縁談のことですよ 」
私は、ああそうかと思った。
そのころ末松は、戸山学校の学生時代に下宿していた家のおばさん夫妻から、
しきりに結婚をすすめられて困っていた。
いついかなる事態が起るかもわからぬこの時期に、
結婚でもないもんだというのが末松の心境であった。
相手は久保三郎元千葉県知事の令嬢との縁談であった。
「 その結婚の件で、どうつきあえというんだ 」
「 ことわりたいんですよ、私からはいい出しにくいので、その役をあなたにやってもらいたいんです 」
戦場では金鵄に輝く さすがの末松も、こんなことでは気が弱かった。
「 本気でことわるんだな 」
「 本気ですよ 」
「 じゃ、いっしょに行こう。建設は苦手だが、破壊ならやれそうだ 」
私は縁談のぶちこわし役を引き受けた。
面会の場所は神田駿河台の主婦の友社であった。
その昔、石川武美 主婦の友 社長が雑誌 『 主婦の友 』 を、
肩にかついで行商的販売をしていたころ、
久保元痴ぢが強力な後援を惜しまなかったので、いまでは石河社長はその恩義に報いて、
退官後の久保を顧問として迎えているとのことであった。

久保夫妻は すでにきていた。
名乗ってみると、あろうことか、彼は私の同郷の先輩であった。
「 末松さんは今度の満洲事変で金鵄勲章を頂いたそうですね 」
金鵄勲章にだいぶ魅力があるらしい。
「 別にたいした手柄をたてたのではありませんが、なんとなしにもらったというところでしょう。
運がよかったんですよ 」
と、末松がいった。
「 そうです、運ですよ。
戦場では、きょうの勇者必ずしも あすの勇者ではないといわれます 」
私は、ここで末松の悪口をまくしたてて、一挙に破壊力を集中しようと思った。
「 末松という奴は、金鵄なんかもらったものだから、
ちょっとえらそうに見えるけれども、もともとだいぶ変わりもので、たいした男ではないんですよ。
戸山学校の学生のときも、教官のいうことはきかんし ( 実際はそうではなかった )
でたらめで学校のもてあましものでした。
このままでゆくと、いずれは処罰を食うようになるでしょうし、
悪くすると監獄にもはいりかねない奴ですよ。
こんなことはいうべきことではないかも知れませんが、
大事な縁談のことですから、あえて本人を前にして申し上げたわけです・・・・。
末松、申しわけない、許せ 」
私は、ちょっぴり深刻な顔をして、末松の方を向いて頭を下げた。
縁談を破談に導こうとする目的であったとはいえ、
親しい後輩に悪口雑言を浴びせかけるのは、いささか心苦しいものがあった。
「 かまいませんよ、本当のことだから 」
と、末松は苦笑いしていた。
「 しかし、女に関するかぎり 石部金吉であることは間違いありません 」
私は一つだけほめた。
「 ちかごろの若いものは、そのくらいの元気があってほしいですね、
とくに国家を守らねばならぬ青年将校は、なおさらそうあるべきでしょう。
わたしらは大賛成ですよ 」
久保夫妻はニコニコしていた。
二、三十分雑談を交わしたあと、私と末松は主婦の友社を出た。
「 オレの破壊力も台無しだったらしい。もしかしたら、
破壊と建設とがすりかえられたのではないか 」
「 そうだろうか 」
「 こうなったら、どうだ末松、あつさり男としての覚悟を決めたら・・・・」
「・・・・・・」
末松は黙って歩いた。

やがて末松家と久保家との話が進んで、
十月の菊かおるころ、
偕行社で華燭の典があげられた。

新婚の夢なおさめやらぬ数ヶ月後、
はからずも私が破談のためとはいえ口走った
「 投獄される・・・・」
云々が現実となって、末松は禁錮四年の刑に処せられたのであるが、
そのときの結婚記念写真の中に
いまはなき 西田税 渋川善助 の若若しい面影が、
私とともになつかしい当時を偲ぶよすがとして残されている。
西田は写真を撮るのがきらいであったのか、いまはほとんどその面影が残されていない。

大蔵栄一 著 二・二六事件の挽歌
末松太平 の結婚式にひと役  から


中村義明 ロマンス実る

2016年11月04日 04時19分35秒 | 大蔵榮一

そういうある日、
私は中村義明の呼び出しを受けて、彼の家をたずねた。
「 蔵さん待っていたぞ、さっそく 『 皇魂 』 に 原稿をかいてくれよ 」
と、中村がいった。
大岸の原稿が演習がいそがしくて間に合わんらしい、
そこで私にその穴埋めをしろというのであった。
このころになると中村は、私を 「 大蔵 」 と呼ばずに 「 蔵さん 」 と呼ぶように打ちとけていた。
「 オレは分筆の徒ではないんだ。首から下だけでご奉公するのがオレの身上だ。
原稿だなんて無茶をいうな 」
「 なんでもいいから書いてくれよ 」
「 書くことと考えることはまっぴらだよ 」
と いった問答を繰り返しているとき、速達郵便がとどいた。
相当部厚い 大岸からの原稿であった。
おかげで私は、にが手の作業から解放されることになった。
「 いじめてやろうと思ったのに、あんたは運のいい人だ。
ときにきょうはひまだろう、今夜は僕に付き合ってくれ、いやとはいわさんからな 」
私はうなずいた。
二人でゆっくり晩飯を終わったのが八時ごろであった。
「 蔵さん、これから外に出よう 」
私は中村に従って外に出た。
彼は麹町通りに出て車を止めた。
「 どこに行くんだ?」
「 黙ってついてきなさい 」
車がどこをどう走ったか見当のつかないうちに、とある薄暗い露地に止った。
「 どこに行くんだ?」
私は、再び質問した。
「 あの家だよ 」
中村が指した方向を見ると、板べいに囲まれた家の二階の部屋であった。
障子に電灯の光が明るかった。
「 あんたはここで待っていてくれ 」
と いいのこして、中村は いそいで板べいを上りはじめた。
「 おいやめろよ、泥棒みたいなまねはよせよ 」
私は小さな声でたしなめた。
中村は私の声に耳をかそうとしないで、
苦心の結果板べいを上りきって部屋の窓までたどりついた。
私は中村の挙動をヒヤヒヤしながら見守るばかりであった。
露地は人っ子ひとり通らない静かな夜だった。
「 だれだッ!!」
下の部屋から大声がどなった。
びっくりした中村は板べいから露地に向かって飛び下りた。
たまたま露地の片隅に積んであった砂の上に飛び下りたので、
中村は砂の中に顔をつっ込んでしまった。
口の中にもだいぶ砂がはいったらしい。
「 ぺッ、ぺッ 」
砂を吐き出す中村のかっこうは見られたものではなかった。
 中村義明
目ざす部屋の中の住人は、中村の意中の人であった。
中村義明が東京に進出してから二、三人の学生と共同炊事をしていたことは、
先に書いた通りであるが、
その中のある学生に一人の姉がいた。
津田英学塾出の才媛さいえんである。
学生時代から少々赤味がかっていた関係で、
いつか中村と話し合う仲になっていた。
というよりも
中村の方がその女性にぞっこん参ってしまったという方が正しいらしい。
その女性に私を引き合わす目的で、
今晩の度はずれた中村の行為となったようだ。
厳寒から堂々と名乗りを上げてアプローチせず、
夜這いじみたかっこうで近づこうとする態度に、
むしろ中村らしい ほほえましさを感じて、
私には好感のもてる閑日月の一コマであった。

この女性はとうとう中村に射止められて、菊
薫る (昭和十年 ) 十月に中村と結婚して、
中村よし と名乗るのであるが、
この夜私は、
みめうるわしき彼女の顔かたちに接するせっかくのチャンスを失したのである。
九月の末、私は中村の訪問を受けた。
「 蔵さん、頼みがあるんだ、
いよいよ結婚しようと思うんだが、
まとまった金はなし、
何とか安く上る方法を考えてくれよ 」
「 九段の軍人会館を使おうじゃないか、
オレが交渉してやろう。
結婚は形式なんてどうでもいい。
問題はあとをうまくやればいいんだ。
で、挙式の予定は何日だ 」
「 十月のはじめがいい 」
「 ヨーシきた、それでいこう 」
結婚式は予定通り十月一日 軍人会館で挙げた。
参列者は新郎側として増田次郎 ( 日本発送電総裁 )、
中村三郎 ( 海南島で銃殺 )、それに私、
新婦側として海野晋吉 ( 弁護士 ) など数名という寂しい挙式であった。
だが、
内容はすこぶる充実したものであった。

大蔵栄一 
二・二六事件への挽歌 から