あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

北一輝 『 死は二非ず 』

2017年08月01日 14時40分45秒 | 北一輝

この日は風のないどんよりした日であった。
万歳の声がひとしきり続いて、
やがて静かになると、空砲の音は いよいよ激しくなった。
私はたまりかねて、
「 北先生、お経を上げて下さい 」
と、お願いした。
五つ六つ離れた監房にきこえるくらい大きな声であった。
これで維新は成ったなァ―。
君、お経はいらないよ、
すべての神仏がお迎えにきておられるから、
ボクのお経は必要ないよ

北一輝のドスの聞いた返事が返ってきた。
だが、
「 お経は必要ない 」
 と いった口の下から、その踊経がはじまった。
最初は小さな声がすすり泣くようであったが、
その声もだんだん大きくなっていった。
その声は、はんぶん泣きながらの踊経であった。
・・・長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ!


北一輝 
キタ イッキ
『 死は二
非ず 』
目次
クリック して頁を読む

北一輝  『 一輝こと北輝次郎 』

昭和維新 ・北一輝 

・ 日本改造法案大綱    クリック
 ・ 日本改造法案大綱 (1) 凡例
 ・ 日本改造法案大綱 (2) 第三回の公刊頒布に際して
 ・ 日本改造法案大綱 (3) 目次
 ・ 日本改造法案大綱 (4) 緒言
 ・ 日本改造法案大綱 (5) 巻一 國民の天皇
 ・ 日本改造法案大綱 (6) 巻二 私有財産限度
 ・ 日本改造法案大綱 (7) 巻三 土地處分三則
 ・ 日本改造法案大綱 (8) 巻四 大資本の國家統一
 ・ 日本改造法案大綱 (9) 巻五 勞働者の權利
 ・ 日本改造法案大綱 (10) 巻六 國民の生活權利
 ・
日本改造法案大綱 (11) 巻七 朝鮮其他現在及び將來の領土の改造方針
 ・ 日本改造法案大綱 (12) 巻八 國家の權利
 ・ 日本改造法案大綱 (13) 結言
 ・ 日本改造法案大綱 (14) 普及版の刊行に際して

・ 北一輝 (憲聴取1) 『 今回ノ事件ニハ西田ハ直接關係ハナイ 』  昭和11年3月2日
・ 北一輝 (憲聴取2) 『 譬ヘ逆賊ノ汚名を被セラルモ、 此ハ正義ノ行ヒナリ 』  
昭和11年3月3日
北一輝 (憲聴取3) 『 彼等ノ行フコトハ正義デアル 』  
昭和11年3月6日
・ 
北一輝 (憲聴取4) 『 實ハ西田税ガ、二月二十七日ヨリ同月二十八日迄私方ニ居リマシタ 』  
昭和11年3月8日
・ 
北一輝 (憲聴取5) 『 二十七日午後、安藤大尉ヲ電話ニ呼ビ出シテ、「 〇ガアルカ 」 ト尋ネタコトガアルカ 』  
昭和11年3月13日
・ 北一輝 (憲聴取6) 『 外部カラ蹶起部隊ニ對シテ好意的ナ助言ヲシタ 』  昭和11年3月15日
・ 北一輝 (憲聴取7) 『 國家改造運動ノ經緯ニ就テ 』  昭和11年3月17日

・ 
北一輝 (警聴取1) 『 是はもう大勢である 押へることも何うする事も出來ない 』  昭和11年3月17日
・ 北一輝 (警聴取2) 『 仕舞った 』  
昭和11年3月18日
・ 北一輝 (警聴取3) 『 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません 』
  昭和11年3月19日
北一輝 (警聴取4) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』
   昭和11年3月20、21日
北一輝 (憲聴取) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』  
昭和11年3月27日

西田に電話を掛けさせて青年将校の誰かを電話口に出て貰ふ事にしました。
確か栗原中尉と思ひます、電話口に出ましたので私は次の様に話しました。
「 やあ暫らく、愈々やりましたね、
就いては君等は昨日 台湾の柳川を総理に希望してゐると云ふ事を軍事参議官の方々に申したさうだが、
東京と台湾では余り話しが遠すぎるではないか、
何事も第一善を求めると云ふ事はかういふ場合に考ふ可きではありません、
眞崎でよいではないか、
眞崎に時局を収拾して貰ふ事に先づ君等青年将校全部の意見を一致させなさい。
さうして君等の意見一致として軍事参議官の方々も、
亦軍事参議官全部の意見一致として眞崎を推薦する事にすれば、即ち陸軍上下一致と云ふ事になる。
君等は軍事参議官の意見一致と同時に 眞崎に一任して一切の要求は致さない事にしなさい。
そして呉れ呉も大権私議にならない様に軍事参議官に御願ひする様にしなさい 」
更に私は念を押して、
「 良く私の云ふ意味が判りますか、 意味を間違へない様に他の諸君と相談して意見を一致させなさい 」
電話の要旨し以上の通りで、午前十時過ぎと思ひます。
尚 西田と村中との電話で話して居るのを機会に私が電話に出まして
村中に向っても、栗原に申したと同一の言葉を以つて
青年将校の意見一致を急速にする様に説き勧めました。

此時、栗原も、村中も
 
「 皆と相談して直ちに其様に致します」 
と 云ふ返事でありました。
・・・北一輝 2 「 仕舞った 」 

・ 「 國家人無し、勇將眞崎あり 」 
・ 行動記 ・「 國家人なし、勇將眞崎あり 」 

・ 反駁 ・ 北一輝、西田税、龜川哲也 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 1 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 2 
・ 反駁 ・ 北一輝 


・  北一輝、西田税 論告 求刑 
・ 北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑

判決の当夜、
北輝次郎の居室を覗いて見た。
そして判決にたいする所感、
といったようなことを聞いて見た。
そのとき
「 判決は有罪であろうが無罪であろうが、そんなことは考えていません。
ただ私の著書日本改造法案大綱を愛読信奉したのが遠因で、
青年将校らが蹶起したとしたら、

私は責任上当然彼らに殉ずる覚悟でいました。
私に対する判決など どうでもよいのです。
死は二つありません 」

この覚悟のほどは、全く見上げたものである。
この度胸と覚悟があってこそ、死の直前の挙措、動止がうなずける。
実弟 北玲吉氏 「 文春 」 特集号風雲人物読本に書いている。
「 兄は泰然というよりは淡然として刑死したことは、当時の目撃者の語るところである 」 と。
現に執行した私は、淡然よりも もっと安易な心境で刑に服したことを知る。
平然か澄然か、何といったらよいか表現に苦しむほどの気楽な態度であった。
これは訪問情況ではないが、
ついでにここでもう一つ書いておく。
それは北の銃殺のとき、銃声とほとんど同時に、
「 惜しい人を殺した 」
と全場一語も洩れない緊張した黙々の間に、
この一語が入場許可者の中から、
歎声交りに洩れたのが聞こえた。
私は振返って見たが、
それは誰であったか分からなかった。
が、この独語者のみならず、
在場した多くの者は、この独語に同感を持ったことであろう。
・・・塚本定吉  二・二六事件、軍獄秘話  から

あを雲の涯 (二十二) 北一輝 


北一輝 ・ 研究報告 『 日本改造法案大綱 』

2017年07月02日 09時55分48秒 | 北一輝

北一輝 
日本改造法案大綱 
本書は日本改造運動の萠芽時代
其の先頭に立つて革新思想の普及に努めた猶存社より公判せられ
広く日本の改造運動者の啓蒙的役目をなし
又後に至り西田税を通じ改造運動の経典として青年将校、民間一部有志に読まれたものである。
 ・
北は同書に於て次の如く延べ、
「 国家は又国家自身の発達の結果
他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す。
・・・・日本が積極的発展の為めに戦ふことの単なる我利私慾に非ることは他の民族が積極的覚醒の為めに、
占有者又は侵略者を排除せんとする現状打破の自己的行動が政義視せらるる如く正義なり。
自利が罪悪に非ることは自滅が道徳に非ると同じ。
従つて利己其者は不義に非ずして他の正当なる利己を侵害して己を利せんとするに至つて正義を逸す。
正義とは現在の状態其者に非るは論なし。
・・・・英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり。
散栗の島嶼を劃定線として
国際間に於ける無産者の地位にある日本は正義の名に於て彼等の独占より奪取する開戦の権利なきか、
国内に於ける無産階級の闘争を認容しつつ
独り国際的無産者の戦争を侵略主義なり 軍国主義なりと考ふる欧米社会主義者は根本思想の自己矛盾なり。
・・・・国内の無産階級が組織的結合をなし力の解決を準備し
又は 流血に訴へて不正義なる現状を打破することが彼等に主張せらるるならば、
国際的無産者たる日本が力の組織的結合たる陸海軍を充実し、
更に戦争開始に訴へて国際的劃定線の不正義を匡ことが亦無条件に是認せらるべし。
若し是れが侵略主義国主義ならば日本は全世界無産階級の歓呼声裡に黄金の冠として之を頭に加ふべし。
合理化せられたる民主社会主義其者の名に於ても日本は濠洲と極東西比利亜とを要求す。
如何なる豊作を以てすとも日本は数年の後に於て食ふべき土地を有せず。
国内の分配より国際間の分配を決せざれば日本の社会問題は永遠無窮に解決されざるなり。
只独逸の社会主義に此の国際的理解なく 且つ 中世組織の 「 カイゼル 」 政府に支配せられたるが為に、
英領分配の合理的要求が中世的組織の破滅に準じて不義の名を頒たちる事に注意すべし。
従つて今の軍閥と財閥の日本が此の要求を掲ぐるならば独逸の轍を踏むべきは天日を指す如し。
改造せられたる合理的、革命的大帝国が国際的正義を叫ぶとき之に対抗し得べき一学説なし。」
として 欧米流の正義と平和とが単なる現状維持にして
人類共存の天道は不法に領土を独占して他を排斥するを許さざることを主張し、
英国が印度、濠洲を侵略し、世界の資源を独占し居るのを不法を指摘し 大戦前の独逸が其分割を主張したるを是認し、
唯その独逸が英国に対抗せんとして国民組織に於て不合理の点ありしため一敗地に塗れ、
其の合理的要求すら悪名を冠せられたりと説き、我日本の国際的地位が大戦前の独逸に相同じく、
必至的に世界の富源を独占し 東亜諸民族を奴隷化せしめて居る英国と衝突することを予言し、
其の不公正なる国際事情を匡すことこそ我日本の活路であり
又 東亜の雄邦たる我日本の責務にして
この重大使命達成のために国内改造をなして独逸の轍を踏まざる様主張して居るのである。

又彼は
「 国境を撤去したる世界の平和を考ふる各種の主義は其理想の設定に於て、
是を可能ならしむる幾多の根本条件、即ち人類が更に重大なる科学的発明と神性的躍進とを得たるべきことを無視したる者。
東西を通じたる歴史的進歩に於て各々其の戦国時代に亜ぎて封建的国家の集合的統一を見たる如く、
現時までの国際的戦国時代に亜ぎて可能なる世界の平和は、
必ず世界の大小国家の上に君臨する最強なる国家の出現によりて維持さるる封建的平和ならざる可らず。」
と 高唱して 国際聯盟流の超国家的平和は現在の人類の人智に於ては空想にして将来は益々国際的競争となり
其最強国家により世界の封建的平和時代に至るべきことを予言して居る。

彼は更に其立場を明らかにして
「 支那、印度七億の同胞は実に我が扶導擁護を外にして自立の途なし。
我が日本亦五十年間に二倍せし人口増加率によりて
百年後少なくも二億四五千万人を養ふべき大領土を余儀なくせらる。
国家の百年は一人の百日に等し。
此の余儀なき明日を憂ひ 彼の凄惨なる隣邦を悲しむ者、如何ぞ、
直訳社会主義者流の巾幗的平和論に安んずるを得べき。
階級闘争による社会進化は敢えて之を否まず。
而も人類歴史ありて以来の民族競争、国家競争に眼を蔽ひて何の所謂科学的ぞ。」
即ち北は国民主義、民族主義に基く大亜細亜主義者にして我国の国際的地位が戦前の独逸に同じく
民族発展のため東亜民族解放のためには必ず大領土を独占し、
他を排斥する永露と対立せざる可からざることを思ひ、
当時の国家百年の計を思はざる国内の政治的経済的組織を顚覆せしめ、
天皇を奉じて之を改造せんことを計つたものである。

北は改造せらるべき政治組織経済制度に付いて次の如く述べている。
「 天皇は国民の総代表たり、国家の根柱たるの原理主義を明かにす。」
「 華族制を廃止し、天皇と国民と阻隔し来れる藩屏を撤去して明治維新の精神を明か
にす。」
「 貴族院を廃止して審議院を置き衆議院の決議を審議せしむ。
審議院は一回を限りとして衆議院の決議を拒否するを得。
審議院議員は各種の勲功者間互選及勅選による。」
「 二十五歳以上の男子は大日本国民たるの権利に於て平等普通に衆議院議員の被選挙権及選挙権を有す。」
地方自治会亦之に同じ
女子は参政権を有せず 」
「 日本国民一家の所有し得べき財産限度を一百万円とす。」
「 日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価十万円とす 」
「 私人生産業の限度を資本一千万円とす
私人生産業限度を超過せる生産業は凡て之を国家に集中し国家の統一的経営となす 」
其他 労働問題、教育問題、自動老廃疾者問題、婦人問題、殖民地問題に付いて規定している。
即ち 政治組織に於ては天皇を政治的中心とした近代的民主制を採り、
経済組織に於ては私有財産私人企業に大なる制限を加へている。

最後に注意すべきは 北はこの改造遂行の手段として、
クーデターを認め 戒厳令施行に導き 其の間に大詔渙発を仰ぎ 一挙現行政治機構の運用を停止するに至らしめ
在郷軍人--軍部--を以て改造せしめんとする点である。
後日 本書の影響を受けた不穏事件が孰れもこの手段を採らんとし、
「 クーデター 」 を計画し 戒厳令、大詔渙発を策した所以である。
同書に曰く
「 天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為めに
天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し 両院を解散し 全国に戒厳令を布く 」
「 天皇は戒厳令施行中 在郷軍人団を以て改造計画に直属したる機関とし、
以て国家改造中の秩序を維持すると共に、各地方の私有財産限度超過者を調査し、
其の徴収に当らしむ。」


 ・
現代史資料4  国家主義運動1
「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 
第五節  北一輝  『 日本改造法案大綱 』 から


北一輝 『 一輝こと北輝次郎 』

2017年07月01日 05時22分46秒 | 北一輝


北一輝 は新潟県佐渡に生れ
承久以降皇室に関係ある佐渡の伝説遺跡等に刺激せられ
早くより国史及国体に就き関心を有して居た。
同地の中学校に入学したが病気の為 中途退学し
其後上京して独学を以て広く社会科学に関する研究に没頭し二十四歳の頃
『 国体論及び純正社会主義 』
と題する著述を出版し
其の国体観に基き当時の幸徳秋水一派の唱導した直訳的社会主義を痛烈に反駁し世論を喚起した。
之が機縁となつて支那亡命客の
孫 逸仙    黄 興
宋 教仁    張 継
等と相識り、遂に同人等の秘密結社支那革命党に加入し
二十九歳の秋頃支那第一革命が勃発するや 単身支那に渡り
上海、武昌、南京等の各地に於て革命達成の為めに画策奔走した。
其の為三十一歳の時 帝国領事から三年間支那在留禁止処分を受けて帰朝した。
大正五年頃
『 革命の支那及び日本の外交革命 』
を著述して我朝野の人士に頒布し 帝国外交の進路に就き警告を促した。

大正五年夏 再び支那に渡り 支那第三革命に参加したが事志と違ひ上海に滞在中、
我外交の行詰り、米国及び全支那に捲起る排日熱、支那に於ける英国の制覇ならむとするの事実を見、
悶々として居た折 大川周明より祖国の情勢が日に日に悪化し、
欧州大戦以来世界を風靡した左翼思想は国内に瀰漫びまん
加ふるに重臣官僚政党等 所謂特権階級は財閥と結託し私利私慾を肆つらねるにし、
国政を紊り、国威を失墜し、国民生活を窮乏に陥しめたり、
と 聞き  今にして之等 支配階級の猛省を促し、
政治経済其他諸般の制度機構に一大変革を加ふるに非ずんば我国も亦露独の轍を踏み
三千年の光輝ある歴史も一空に帰すべしと成し、
国家改造の緊急焦眉の事なるを痛感して 大川周明、満川亀太郎 と共に国家改造を遂行する目的を以て、
大正九年一月帰朝した。
之より先 我国改造の中核は軍部竝に民間志士の団結に依り形成せられるべきとの信念の下に
大正八年八月
『 国家改造法案原理大綱 』  ( 後に 『 日本改造法案大綱  』 と改題 )
を 執筆し、当時 北を迎へるため上海に渡って居た大川周明に之を示し
之を基礎として国家改造を断行しようとしたもので
北一輝の革新思想は同書によつて識るべきである。
 ・
現代史資料4  国家主義運動1
「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 
第五節  北一輝  『 日本改造法案大綱 』 から