あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

永田軍務局長刺殺事件

2018年05月08日 06時03分03秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


永田軍務局長刺殺事件
( 昭和十年八月十二日 )

事件發生前の諸情勢
所謂清軍、統制兩派 對 皇道派の對立は益々激化しつゝある如く見られて居たが
昭和九年二十日の所謂十一月廿日事件。
昭和十年四月二日、村中、磯部、片岡の三名に對する停職處分。
同年七月十六日、眞崎敎育總監更迭。
同年八月二日、村中、磯部の免官。
等の諸事件は、皇道派と目せらるゝ靑年將校を益々憤激せしむる結果となり、
村中、磯部の署名ある 『 肅軍に關する意見書 』 を始め、
「 十一月事件は皇道派抑壓の爲の捏造事件なり 」
「 眞崎敎育總監の更迭は統帥權を干犯したものなり 」
「 永田軍務局長等は朝飯會を通じて元老重臣と通謀し、之等妥協派の意嚮を迎へて八月人事異動を行ひたり 」
「 現首脳部は言論機關を黄白を以て買収せり 」
等の揣摩しま憶測を加へた怪文書が頻りに頒布せられ、
統制に全力を濺ぐ現首脳部に不満反感を抱く一部靑年將校方面に於て、
早晩何等かの形を以て首脳部排撃の意志表示がなされるに非ずやとの不穏なる空氣が漂ふに至つて居つた。

事件の發生
斯る情勢の裡に八月一日附の定期異動は、
問題の一根源と見られて居た秦第二師團長の待命を織込んで發表せられた。
八月十二日、突如 陸軍省軍務局長室に於て執務中の軍務局長永田鐵山少將に對し、
相澤三郎中佐が軍刀を以て襲ひ 之を刺殺するの一大不詳事件が突發した。

當時の新聞は次の如く報道した。
昭和十年八月十二日午後零時 陸軍省發表
軍務局長永田鐵山少將は軍務局長室に於て執務中、
本日午前九時四十分 某隊附某中佐のため軍刀を以て障害を受け危篤に陥る。
同中佐は憲兵隊に収容し目下取調中なり。

同日東朝夕刊
十二日午前十一時、小栗警視總監は安倍徳高、本間警務、矢野官房主事等各部長を總監室に招集、
重要協議を遂げた。
即ち警視廳としてはこの際思想團体の動向を厳重警戒する一方、
管下各署に對して待機命令を發するなど帝都治安の維持の萬全を期することゝなつた。

東朝、昭和十年八月十四日附夕刊
軍務局長永田中將に危害を加へたる犯人は陸軍歩兵中佐相澤三郎にして、
第一師團軍法會議の豫審に附せらるゝ事となる、
十二日午後十一時五十四分東京衛戍刑務所に収容せられたり。
兇行の動機は未だ審らかならざるも永田中將に關する誤れる巷説を盲信したる結果なるが如し。

東朝、昭和十年八月十五日附夕刊
永田中將遭難に關し、部内統制の善後措置を協議する陸軍三長官會議は十四日午後一時半から開會、
閑院參謀總長宮殿下の御臨席を仰ぎ、林陸相、渡邊敎育總監出席し、
林陸相から永田中將遭難に至る迄の部内の情勢を説明した上
今回の事件は事件そのものが極めて重大なるのみならず
斯の如き事件を發生せしめたる原因が、
全く部内に於ける錯雑せる誤解や感情の疎隔等に基いた
一種の雰囲氣により醸成せられたものであるから、
その根本原因を糺し國軍をして眞にその本然の使命に立ちかへらしめる様、
今後凡ゆる適切な方法を講じ粛軍の實を擧げる様にしたい。
其の爲には如何なる犠牲を拂ふも敢へて介意すべきでないと思ふ。
・・・旨の強硬なる信念を披瀝した。

事件の全貌
左に相澤中佐に對する判決方 竝に陸軍當局談を摘記して、
永田中將が兇刃に殪れた眞相の全貌を窺ふ事とする。
相澤中佐に對する判決文摘錄
相澤中佐は・・・・( 中略 ) 昭和四、五年頃より
我國内外の情勢に關心を有し、
當時の情態を以て思想混亂し、
政治・經濟・敎育・外交等萬般の制度機構何れも惡
弊甚しく、
皇國の前途憂慮すべきものがあるとし、
之が革正刷新 所謂 昭和維新の要あるものとなし、
爾後同志として 大岸頼好、大蔵榮一、西田税、村中孝次、磯部淺一 等と相識るに及び、
益々其の信念を鞏め、同八年頃より昭和維新の達成には、先づ皇軍が國體原理に透徹し、
擧軍一體いよいよ皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、
陸軍の情勢は之に背反するものがありとし、
其の革正を斷行をせざるべからずし思惟するに至りたるが、
同九年三月 當時陸軍少將永田鐵山が軍務局長に就任後、前記同志の言説等により、
同局長を以て其の職務上の地位を利用し、名を軍の統制に籍り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做かんさくし居たる折柄、
同年
十一月當時陸軍歩兵大尉村中孝次及び陸軍一等主計磯部淺一等が、
叛亂陰謀の嫌疑により軍法會議に於て取調べを受け、
次で同十年四月停職處分に附せらるゝに及び、
同志の言説及び其の頃入手せる所謂怪文書により、
右は永田局長等が同志將校等を陥害せんとする奸策に外ならずとなし、深く之を憤慨し、
更に同年七月十六日任地福山市に於て敎育總監眞崎大將更迭の新聞記事を見るや、
平素崇拝敬慕せる同大將の敎育總監の地位を去るに至りたるは、
これ又永田局長の策動に基くものと推斷し、
總監更迭の事情其ま他陸軍の情勢を確めんと慾し、八月十八日上京し、
翌十九日に至り一應永田局長に面会して辭職勧告を試むることゝし、
同日午後三時過頃同局長に面接し、近時陸軍大臣の處置誤れるもの多く、
軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辭職せられたき旨を求めたるが、
其辭職の意なきを察知し、かくて同夜東京市澁谷區千駄ヶ谷に於ける前記西田税方に宿泊し、
同人及び大蔵榮一等より敎育總監更迭の經緯を聞き、且つ同月二十一日福山市に立歸りたる後、
入手したる前記村中孝次送附の 『 
敎育總監更迭事情要點  』 と題する文書
及び作成者、發送者不明の 『 軍閥重臣閥の大逆不逞  』 と題する所謂怪文書の記事を閲讀するに及び、
敎育總監眞崎大將の更迭を以て永田局長等の策動により同大將の意思に反して敢行せられたるものにして、
本質に於ても亦手續上に於ても、統帥権干犯なりとし、痛く之を憤慨するに至りたる處、
たまたま同年八月一日、臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
慾二日前記村中孝次、磯部淺一兩人の作業に係る 『 肅軍に關する意見書 』 と題する文書を入手閲讀し、
一途に永田局長を以て元老重臣、財閥、新官僚と款を通じ、
昭和維新の氣運を彈壓阻止し、皇軍を蠧毒とつどくするものなりと思惟し、
この儘 臺灣に赴任するに忍び難く、此際自己の執るべき途は、永田局長を倒すの一あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんこと決意するに至り、
同年十日福山市を出発し、翌十一日東京に到着したるも、
猶 永田局長の更迭等の情勢の變化に一縷の望を嘱し、同夜前記西田税方に投宿し、
同人及び來合せたる大蔵榮一と會談したる末、
自己の期待するが如き情勢の變化なきことを知り、
翌十二日西田税方を立出で、同日午前九時三十分頃陸軍省に至り、
同省整備局長室に立寄り、嘗て自己が士官學校に在勤當時、同校生徒隊長たりし同局長山岡中將に面會し、
對談中給仕を遣はして永田局長の在室を確めたる上、
同九時四十五分同省軍務局長室に至り、直ちに佩びたる自己所有の軍刀を抜き、
同室中央の事務用机を隔て、來訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相對し居たる永田局長の左側身邊に、
急遽無言のまゝ肉迫したる處、同局長が之に氣附き、新見大佐の傍に避けたるより、
同局長の背部に一刀を加へ、同部に斬附け、次で同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡し、
その背部を軍刀にて突刺し、更に同局長が應接用円机の側に至り倒るゝや其の頭部に斬附け・・・・( 中略 )
同局長を同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ、以て殺害の目的を達したるなり。

( 陸軍當局談 )
相澤中佐が、・・・( 中略 ) ・・・永田中將を目して政治的野心を包蔵し、
現狀維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結託して軍部内に於ける革新勢力を阻止すると共に、
軍をして此等支配階級の私兵化せしむるものなりとなし、
其の具體的事例として
一、維新運動の彈壓。
二、昭和九年十一月、村中、磯部等に關する叛亂陰謀被疑事件に對する策動。
三、敎育總監更迭問題に於ける策謀。
四、國體明徴の不徹底
等を擧げて居るのである。
而して此等の諸件は公正なる審理の結果に徴するに、何等の事實の認むべきものなく、
妄りに同志の言説及び所謂怪文書等の巷説を信じ、
全く我執の偏見の基く獨斷的推斷に基けるものに外ならないのである。

軍當局の善後措置と之に對する策動
軍首脳部に於ては永田事件を以て 「 前代未聞の不祥事 」 として八月二十三日非公式軍事參議官會議、
同月二十六日臨時軍司令官、師團長會議を開催して 「 軍紀の肅正、團結の鞏化 」 を鞏調したる外、
同月二十七日には陸軍大臣、教育總監より、夫々管下各軍衙長官、學校長に對して、
師團長會議に於ける陸相訓示と同趣旨の訓示をなし、軍紀振作の徹底に努めた。
右の軍當局の措置に對し革新團體の一部に於ては
「 林陸相は此際八月異同に於ける英斷を貫徹し 以て永田局長の英魂を瞑せしめよ 」
として首脳部支持の態度を示すものもあつたが、
直心道場系の各團體にあつては、之に反し
1  軍内部に派閥抗爭ありとの認識を部外者に与へるは原幹部派の責にして事件發生の因も亦茲に存す。
2  眞の統制鞏化は皇道の光被てふ廣義國防の確立に邁進するにありて、
  無原理の統制は徒に時局を紛淆に導き皇國の發展を阻害するものなり。
等々暗に現首脳部を避難したる建白書、意見書を各師團長を始め、愛國團體等に頒布した。

相澤中佐公判を繞めぐる策動
相澤中佐は十月十一日豫備役に編入せられたが、
其の審理は第一師團軍法會議岡田豫審官によつて續行せられ、
十一月二日豫審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅團長佐藤正三郎少將以下が夫々判士長、判士に任命せられ、
辯護人は鵜沢聡明博士、特別辯護人として陸軍大學教官満井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件發生の當初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行爲を激賞し
單なる私憤私慾に發したるものにあらず。
眞に天誅とも稱すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と稱しつゝあつたが、公判期日の切迫と共に、西田税及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 國體明徴---粛軍---維新革命 」 は正しく三位一體にして、 相澤中佐蹶起の眞因亦茲にあり。
 從つて 「 超法規的の團體、超法規的維新に殉ずるものゝ受くる處、又同様超法規的でなければならぬ 」
と鞏調するに至り、左記の文書等によつて他の革新團体に飛檄し、
後半公開の要請及減刑運動を從慂じゅうようし、以て昭和維新達成の氣運醸成に努めた。
左記
國體明徴と粛軍と維新とは三位一體なり。
國體明徴が單なる學説竝學説信奉者の排撃に止まるべからず。
諸制百般に歪曲埋没せられたる國體實相の開顯、
而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界への皇道宣布ならざるべからざる以上、
國内に於て反國體の現狀を維持せんとする勢力
( 機關説擁護 = 資本主義維持 = 法律至上主義 = 個人主義自由主義 )
が現に政治的權力を掌握しあり、
又 内外勢力の切迫より擡頭せる所謂金權フアツシヨ勢力
( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、統制萬能主義勢力 = 官僚フアツシヨ は此の一部 ? )
が政權を窺窬きゆしつゝある今日に於て、
まつろはぬ者を討平げ、皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的粛正は、
國體明徴、維新聖戰に不可欠の要件焦眉の急務なり。
一、國體明徴運動進展途上に於ける陸軍首脳部の態度は、
 新陸相に於て全權フアツシヨ的野望を抱きながら、
郷軍の彈壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄たり。
現陸相に於て國體護持、建軍に恥ずべき右顧左眄たり。
對政府妥協たるは何ぞ。
是れ皇軍内部に巣喰ふ反國體勢力への内通者、
フアツシヨ勢力及乃至自由主義明哲保身者流の國體に對する無信念、
皇軍の本義に對する無自覺に禍せられたるによらずんばあらず。
國民は皇軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は、相澤中佐を以て
 「 誤れる巷説を盲信したる者 」 とせる、眞相隠蔽、事實歪曲たり。
次で師團長軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結鞏化 」 の鞏調にて、
其の結果は忠誠眞摯なる將士の処罰たり。
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任當初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか、
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄擧に出で來る、國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、現役のみが軍人に非ず、國民皆兵軍民一體なり。
  全國民は皇軍の維新的粛正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、今や皇軍身中の毒虫を誅討する相澤中佐の豫審終結し、近く公判開始せられんとす。
  國民は眞個軍民一體の皇運の扶翼を可能ならしむべく、皇軍の維新的粛正を希求し、
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。
註  1  公判は公開せざるべからず。
  一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ軍民一體を毀損し、
大元帥陛下御親率の國民皆兵の本義に背反するものなり。
註  2  三月事件、十月事件の眞相、總監更迭に絡からまる統帥權干犯嫌疑事實を闡明ならしめ
  責任者を公正に処斷して上下の疑惑を一掃し軍の威信を恢復すべし。
註  肅軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非ず、
  肅軍の徹底は破邪顯正の中堅的實力の整備を意味す。
反國體現狀維持勢力が政權を壟斷し、國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論決議勧告のみにして實力の充實、威力の完備なき糾弾は政府の痛痒を感ずる處に非ず。
實に肅軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上

更に直心道場は皇道派民間團体の牙城として
西田税の指導下に雑誌 『 核心 』 『 皇魂 』 及 新聞紙 『 大眼目 』 等を總動員して
相澤公判の好轉、維新運動の推進のため宣傳煽動に勤めつつあつたが、
就中 『 大眼目 』 は西田税、村中孝次、磯部淺一、澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を同人として、
宛然怪文書と異る處なき筆致を以て
「 重臣ブロック政黨財閥官僚軍閥等の不當存在の芟所除 」 を力説し、
「 革命の先駆的同志は異端者不逞の徒 等のデマ中傷に顧慮する處なく
不退轉の意氣を以て維新革命に邁進すべき 」 ことを煽動し、
之を軍内外に廣汎に頒布する等暗流の策源地たるの観を呈して居つた。

同年 ( 昭和十年 ) 十二月末の岩佐憲兵司令官の報告通牒に依れば
一、相澤中佐を支持するものとしては
  北一輝、西田税一派、勤皇維新同盟
  直心道場、大日本生産黨、愛國社
  建國會、黒竜會、國粋大衆黨
  鶴鳴莊、國體擁護聯合會、三六社、愛国靑年聯盟
二、静観的態度を持するものとしては
  明倫會、皇道會、國民協會、愛國政治同盟の大部
三、反相澤の態度を持するものとしては
  大亜細亜協會及民間浪人高野清八郎、山科敏
  社會大衆黨、大日本國家社会黨、新日本國民同盟の大部
として居る。

相澤中佐公判狀況
昭和十一年一月二十八日、第一師團司令部軍法會議法廷に於て
佐藤少將判士長、小藤、木谷、木村各大佐 岩村中佐の各判士、杉原首理法務官、島田檢察官、
鵜沢辯護人、満井特別辯護人等關与の下に第一回公判が開廷せられ、
其の後 二月二十五日、二 ・二六事件突發前日迄十回開廷せられた。
相澤中佐は皇道派靑年將校及西田税、古賀、中村兩海軍中尉 ( 五 ・一五事件被告 ) との交友關係
或は 「 永田局長は重臣、財閥等の現狀維持勢力に迎合して靑年將校の維新運動を彈壓された 」
として、十一月事件、眞崎敎育總監更迭の事情等を例證として擧げ、
「 永田局長閣下は悪魔の總司令部であると思ひ、
 大逆の樞軸を殲滅せんめつして昭和維新の大業を翼賛し奉らうと思つたのであります 」
と 決行動機に關する激烈なる陳述をなした。
又第二回公判に於て満井特別辯護人は
「 相澤中佐の背後には全軍將校の気魄横溢いつして犇々ほんほんと迫りつつある。
 一度事件の措置を誤らば、第二、第三の相澤三郎繼起すべし 」
とて各地よりの激励的信書電文を讀上げ 更に
「 皇軍の事態は重大危機に臨んでいる、自分は首脳部に意見を具申したが容れられず、
 不安を一掃することが出來ず 爆彈を抱いてこの公判に臨んで居る。
この公判の結果は皇軍をして破局に至らしめる虞がある。」
旨の陳述をした。
又二月七日には鵜沢弁護人は政黨脱退の聲明を發し、
同月十二日には、事件當時の陸軍次官橋本虎之助中將、古荘陸軍次官、堀第一師團長、
十七日には林前陸相が證人として公開禁止裡に訊問せられ、
更に二十五日 眞崎大將が召喚せられ公判は最高潮に達し、異常の關を聚あつめるに至つた。
果然翌二十六日満井中佐の警告的陳述の如く空前の叛亂事件が突發した。
公判はこのため無期延期となり、四月二十一日新判士長 内藤正一少將の下に再開せられ、
非公開の儘審理續行せられ、弁護人の申請に係る證人喚問、
十一月二十日事件に關する關係記録取寄せ等何れも脚下となり、
四月二十五日検察官の論告、五月一日角岡、菅原祐兩辯護人の辯論の後、
被告は裁判長に促され、
感慨無量、悌嗚咽しつ
「 裁判官、辯護人其の他の御厚配を謝する 」
旨の最終陳述をなし、
同月七日 「 被告を死刑に處す 」 旨の判決言渡があつた。
相澤被告は翌八日上告をなしたが六月三十日、第一師團軍法會議に於て、
判士長 牧野正迪少將より上告棄却の判決言渡あり、死刑判決は確定した。
斯くて七月三日、渋谷區宇田川町陸軍衛戍刑務所に於て刑執行せられた。

「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」 昭和十四年二月、司法省刑事局
現代史資料4 国家主義運動1 から


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