あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

藤井齊 『 海軍の先驅 』

2021年09月13日 19時56分16秒 | 藤井齊

我等士官の現代日本に処する純忠報告の第一義は
天皇大權の擁護により日本國家使命實現の實行力たるに在る。
而して今や日本は經濟的不安と人材登庸の閉塞による民心の動揺
及 道義失はれたる祖國に言ふべからざる深憂を抱ける志士の義憤とによりて、
維新改造の風雲は孕はらまれつゝある。
今に至つては 如何なる個人及團體が政權を執りて漸進的改造を行はんとするも
遂に収拾すべからざるは論なし。
暴動か、維新か。
希くは 我等は日本を暴動に導くことあらしめず。
天皇大權の發動によつて政權財權及教權の統制を斷行せんと欲する
日本主義的維新運動の支持者たるを要する。
これ非常の時運に際會せる國軍及軍人の使命を日本歴史より導ける斷案である。
然らば平生行動の眼目は何であるか。
軍人はすべて同志たるの本義を自覺して先輩後輩上下一員切磋し琢磨しつゝ名利堕弱を去り、
剛健勇武の士風を作興し、
至誠奉公の唯一念に生きつゝ 日々の職分を盡しつゝ 下士官兵の教育に力を用ふべきである。
良兵を養ふは良民を作る所以、良民なくして良兵あることなし。
我等は良民を社会に送ることによつて 國家全般の精神的指導者たらねばならぬ。
明治大帝の汝等を股肱に頼むと詔へる深刻偉大なる知己の大恩義に感泣せよ。
嗚呼 是れ 軍人たるの眞乎本分であるのだ。
消極退嬰たいえいに堕せる海軍の過去に我等は一切の弁解---自己欺瞞---
を 脱却して深甚なる責任を負はねばならなぬ。
海軍出身在郷軍人の現狀は如何。
在役下士官兵の心境は如何。
我海軍 我祖國をして露獨の覆轍を踏ましむる勿れ。
嗚呼 我等の念々切々の祈りをもつて。
天皇を奉じて革命的大日本建設の唯一路に向はしめよ。

・・・ 藤井齊 『 憂國概言 』 


藤井齊  フジイ ヒトシ
『 海軍の先驅け 』
目次

クリック して頁を読む

藤井が大學寮に西田税 を訪れたの
はこの年 ( 大正14年 1925年 ) の夏 ( 7月 )、兵學校を卒業した直後のことと思われる。
西田税も同じ軍人出身であったし年齢も近く、性格にもあい通ずるものがあってウマが會い、
同志盟友として急速に親しくなっていった。
藤井齊が海軍部内で國家革新の同志を獲得しだしたのは昭和三年三月からで、
彼は 「 王帥会 」 を結成して同志に呼びかけた。
・・・ 
海軍の先驅、藤井齊

海軍に於て最初に改造運動を起こしたのは藤井齊であると云はれて居る。
彼は海軍兵學校在學中休暇等を利用し日本主義者の立籠つて居た大學寮に出入りし
大川周明、満川亀太郎、安岡正篤、西田税 
等と接触し 國家改造の緊急必要たる事を信じ
海軍兵學校に於ける同級生、下級生等に啓蒙運動を起した。
昭和三年三月 海軍部内の青年士官中の同志を集め王帥会を組織した。
發會式當時の會員は
藤井齊    鈴木四郎    花房武蔵    浜勇治    上出俊二    後藤直秀    河本元中    福村利治  林正義
等であつた。
・・・
藤井齊 ・王帥會 

軍令部は政府に對し、
統帥權の獨立を將來に保證せよと迫ると共に、軍事參議官會議の召集を要求した。
五月二十九日 海相官邸に於て同會議が開かれ、
財部海相と加藤寛治軍令部長とは正面衝突をなし、
三時間半に亙る討論が行はれたと報道されている。
六月十日 加藤軍令部長は參内し
「 是の如き兵力量を以て完全なる國防計畫を確立する事には確信が持てぬから職責上辭職したき 」
旨 ( 東京日日 ) を理由として骸骨を乞ひ奉つた。

・・・
ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』  

國民党は大車輪の働きをなしつつあり。
八幡氏大いに戰ひつつあり。
二道三府二十五県に組織官僚せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水會 ) なり、
統制委員長は西田氏、幹部の肝は政治的大衆運動にあり。
・・・ ロンドン條約問題の頃 2 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (1) 』

海軍の中で靑年士官は勿論、將官級の有力なる人が同志となつた。
陸軍の靑年士官と提携は出來た。
而して又陸軍の重鎮或師團長と海軍のそれとの提携も成つている。
○○中にも一名ある。
北氏一派と陸海軍との聯絡は出來た。
これからは益々この結束を固め、深くし、廣くし、勃々然たる力となさねばならぬ。
而して生野と大和の旗擧が又必要、民間同志の火蓋を切る必要がある。
・・・ 
ロンドン條約問題の頃 3 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』 

北---西田 この一派最も本脈なり。
先の不戰條約問題以來 北---小笠原長生---東郷。
今度の海軍問題に於て
陸  第一師團長  眞崎甚三郎
海  末次信正    加藤寛治
( こは積極的に革命に乗り出すことは疑問なれども軍隊の尊嚴のためには政党打倒の決心はあり )
霞ケ浦航空隊司令小林省三郎少將、長野修身 ( この二人は兄弟分 )
而して
○○○○○○
は北、西田と會見せり。
第一師と大いによし。
一師、霞空は會見せり。
斯くて革命の不可避を此等の人々は信ぜり。
然れども之をして起たしむるは青年の任なるは論をまたず。
四十を過ぎたる者は自ら起つこと稀なるべし。
豫後備にて有馬良橘大將よし。
西田氏等今や樞府に激励すると共に、政党政治家資本閥の罪状暴露に精進しつつあり
( 牧野の甥、一木の子、大河内正敏の子が共産党にして、宮内省内に細胞を組織しつつあること攻撃中 )
・・・ 
ロンドン條約問題の頃 4 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』 

建設の具體策 及 思想は 権藤翁の 『 自治民範 』 ---北氏の 『 改造法案 』、この二つ也。
中央に於て心配を頼むべきは、西田、北、権藤、井上の数氏

・・・ ロンドン條約問題の頃 5 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』

私は軍人だ。
軍人は軍命令で何時、如何なる死地にも赴かねばならんのだ。
私は國家改造をやらねばならんから その方は御免だと言う譯にはゆかぬ。
もし 萬が一 私に何事かあったら、
小沼君、君は 私の分まで働いてくれ。
頼む・・・・。
藤井中尉は、私の手を荒々しく握って、その手に力をこめた。
「 藤井さん、人間は老生不定で お互い様だ。
私に 萬一のことがあった場合には、
その時は、藤井さん、私の分までやって下さい 」
よし、お互い二人分だぞ
私は瞳が熱くなった。
藤井中尉の眼にも キラリと光るものがあった。
・・・ 藤井中尉、血盟團 小沼正、國家改造を誓う 

藤井齊 『 昭和6年8月26日の日記 』
・ 
藤井齊 『 昭和6年8月27日の日記 』

・ 
藤井齊 『 内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイ、即時決行シタイ 』
以前 海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後
近く上海に出征するのを控へて

御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度い
と云ふ手紙を 昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、

私は當時の狀勢等から絶對反対對其儘一月下旬には上海に出征し、
二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります
此の思出は私の一生最も感じ深いもの ・・・
・・・昭和十一年二月二十二日、西田税は安藤大尉にしみじみ そう語った
・・・ 西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」


海軍の先驅、藤井齊

2021年09月12日 05時54分40秒 | 藤井齊


藤井齊 ふじいひとし 
明治三十七年八月三日
長崎県平戸で、父荘次 母レイ の長男として生まれた。
斉が三歳の時、荘次は炭鉱経営に失敗して零落した。
見かねたレイの父 山口万兵衛が斉をひきとって養育することになり、
斉は父母の生まれ故郷、佐賀県の住之江港に帰った。
斉が八歳の時、祖父 万兵衛が他界した。
万兵衛の長男勝三郎はすでに死亡していたので、孫の半六が家を嗣いだ。
万兵衛は息をひきとる前、半六を枕元によんで、
「 斉はお前が育ててくれ、いま親元に返しても、荘次のもとではロクなものにならん。
斉はどこか見所ある奴だで、高等小学校まで出したら、あとは本人任せでやらせろ 」
と 遺言した。
藤井斉の短い生涯には、この養い親ともいうべき半六が大きな影響を与えている。

山口半六は、福富小学校を出ると東京の日比谷中学校に進んだ。
当時、佐賀県から東京の中学に進む者が年に四、五名いたらしい。
山口家も相当な資産家であったことがわかる。
半六は日比谷中学校を卒えると三井物産に入社し、支那駐在員として南支那の広東に渡った。
広東は中華民国革命の発祥地で、その頃は革命の諸派が大同団結し、
輿中会を組織して孫文はその領袖として暗躍しているさい中であった。
若い山口半六は、これら革命党の青年たちと交り、援助や便宜を図ったらしいが、
孫文とはかけ違って とうとう会えなかったという。
藤井斉が少年の頃すでに大アジア主義の思想をいだいたといわれるが、
その萌芽はこの養い親の山口半六の広東生活の体験談に発していると思われる。
半六は五年あまり広東に勤めていたが、祖父の万兵衛に呼び戻され、故郷の住之江港に帰った。
妻ウタをめとり、石炭の海上運送業を営んだ。
当時の住之江港は住之江川上流にある大町炭坑の石炭の積出しと、大陸からの大豆粕の輸入で、
船の出入りは激しく貿易港として栄えていた。
半六は几帳面な上に厳格な性格で、一面国士的な風格をもった人物であった。
今でも住之江の人々は 「 半六さんの言いなさる事なら間違いはなかばい 」
と、佐賀弁で回顧しているほどである。
 半六は斉の尋常一様でない素質を見ぬき、幼児からかなり厳しく躾けた。
「 沈着 」 と 「 冷静 」 は半六の座右銘であったが、半六はこれを斉の人生訓として銘記させ、
生涯の規範となるように鍛錬した。

小学校六年間を首席で通した斉は、佐賀県立佐賀中学校に進んだ。
斉の進学とともに山口半六も一家を佐賀市内に移した。
中学校の四年間、斉は勉強にも精を出したが運動にも熱中して身体を鍛えた。
とりわけ山登りが好きであった。
佐賀市の西北に天山という山がある。
一〇四六米とあまり高くはないが、佐賀人は佐賀の名峯として愛好している。
山頂には南朝の忠臣阿蘇惟直の遺跡があり、その眺望はすばらしい。
北ははるか唐津から玄界灘の蒼海がのぞまれ、南は広々とした佐賀平野が有明海につらなっている。
藤井斉もこの天山を好んで級友とよくこの山を登った。
「 藤井の度量の広い、気宇広大な性格は、少年時代の天山登山で養われたのかも知れない 」
と、級友の碇いかり壮次 ( 元海軍大佐、現東与賀町長 ) は述懐する。
山口半六は斉を佐賀中学校から佐賀高校、さらに東京帝大の法学部に進ませ将来は外交官にしたいと熱望していた。
半六は数年間の海外生活で、国家の命運は外交にあることを体験していたからである。
しかし、斉は承服しなかった。
海軍兵学校に進むという固い決意に半六はついに折れてこれを許した。
佐賀中学校四年から海軍兵学校に三番の成績で入校した。 大正十一年八月のことである。
「 その頃の佐賀中学校は鹿児島一中に負けるな、という合言葉で全校一丸となって勉強していた。
鹿児島一中はその頃 海軍兵学校に一番多く入っていたからだ 」 ・・( 碇壮次談 )
幕末の鍋島藩はこと海軍においては薩摩藩よりも進んでいた。
英主鍋島直大のもとに軍艦を整備し、外人を招いて技能を錬磨していたが、
遺憾ながら明治維新は薩長二藩によって推進され、肥前藩はとり残された。
こうした薩摩に負けるな、という気風は大正の佐賀人の胸にも熱く燃えていた。
遠大な壮志をいだいて海軍兵学校に入った藤井斉は、やがて江田島の生活に失望した。
当時の兵学校は長い平和時代に校規がゆるんでいた点もあったが、
大正十年のワシントン条約で海軍の軍備縮小が取りきめられ、
そのため大正九年まで海軍兵学校の募集人員は三百名であったのに、大正十年から一挙に五十名に削減され
兵学校全体に意気が上らず、教育もだれ気味でマンネリ化していた。
「 当時の校長は千坂智次郎という海軍少将であった。
例の忠臣蔵に出てくる上杉藩の家老の千坂の子孫だが、千坂校長は止めたいものは止めてもよいと言っておられた。
中途で海軍軍人の将来に見切りをつけて、止める人が多かった 」 ・・( 碇壮次談 )
藤井斉も大正十四年七月、海軍兵学校を卒業して少尉候補生として練習艦隊に乗りこみ、
遠洋航海に乗り出したが途中から山口半六に手紙をよこしてきた。
オーストラリアのシドニーあたりからであったらしい。
「 どうにか我慢をして今日に至ったが、どうにも我慢がし切れなくなった。
遠洋航海が終ったら海軍を止める。北海道に渡って牧場を経営したい。
ついてはその資金として五万円が必要だ。帰るまでに用意しておいて下さい 」
という内容であった。( 後略 )

海軍兵学校時代の藤井斉は学校の教科は規定通りはやったが、関心はもう学校の外にあった。
歴史、哲学から社会思想まで幅広い読書に時間をさいた。
山口半六によって開かれた大陸への眼は、兵学校四ヶ年間の広汎な読書と思索に裏打ちされて、
大アジア主義は不動の信念として彼の心中に確立された。
兵学校四年の春、時の海軍軍令部長鈴木貫太郎中将が検閲に来校した。
検閲が終ってから各学年の代表が出て、海軍軍人としての思想、信条を発表するのが例であった。
この時、一号生徒の代表に選ばれたのが藤井であった。
藤井の演説は平素の信念を並べたものにすぎなかったが気宇が壮大な上に、
着眼のたしかさ、論理の鋭さは鈴木中将をはじめ全職員生徒を感銘させたといわれる。
その要旨は、すぐる年のワシントン会議をとりあげ、白色人種の世界支配を批判し、
将来日本が中心となりアジアの民族を糾合して、この白人優越の世界体制を打破せねばならぬというものであった。

藤井が大学寮に西田税を訪れたのはこの年 ( 大正14年 1925年 ) の夏 ( 7月 )、兵学校を卒業した直後のことと思われる。
西田税も同じ軍人出身であったし年齢も近く、性格にもあい通ずるものがあってウマが会い、
同志盟友として急速に親しくなっていった。
藤井斉が海軍部内で国家革新の同志を獲得しだしたのは昭和三年三月からで、
彼は 「 王帥会 」 を結成して同志に呼びかけた。
王帥会は綱領の冒頭に、
「 一、道義ヲ踏ミテ天下何モノヲモ恐レズ  剛健、素朴、清浄、雄大ナル古武士ノ風格アルベシ
( 中略 )
一、日本海軍一切ノ弊風ヲ打破シ将士ヲ覚醒奮起セシメテ世界最強ノ王帥タラシムベシ
( 後略 )
と 海軍軍人としての目的を掲げ、
「 宣言 」にはかなり激越な調子で現状の打破を訴えている。
「 ・・・政権ノ餓鬼政党者流ト吸血鬼ノ化身黄金大名ト無為遊堕ノ貴族階級トハ政権ヲ壟断シ、
天皇ノ大御心ヲオホヒ奉リ
建国ノ精神ヲ冒涜シ私利私慾ヲ中心トシテ闘争ニ浮身ヲヤツセル醜状ハ奇怪千万也。
( 中略 )
と述べ、
「 雄渾ゆうこん壮大ナル国民精神トヲ以テ大陸ヲ経営シ、
大洋ヲ開拓シ、暴逆ナル白人ヲ粉砕シテ有色人種ヲ解放独立セシメ 」
るため、海軍部内に各級同志の縦的連結を図るために王帥会を結成するのだ、
と 宣言している。
王帥会はその後、目だった活動はしていないが、
藤井の活動は保身に汲々たる上官たちには警戒されたらしく、
林正義著 『 五 ・一五事件 』 にも、
教官から 「 君は藤井と交際しているのか、彼は海軍の注意人物であるから交際を中止しろ 」
と 注意をうけたことを記している 。 ・・( 同書 P二一 )
大岸頼好  菅波三郎
藤井斉が志ある者と見れば同級生、下級生を問わず訪ねて自分の志を告げ、
同志としての交りを求めた。
彼はまた西田税から紹介されて、大岸頼好や菅波三郎ら陸軍の有志将校とも早くから手紙のやりとりをして、
意志の疎通を図っていた。
菅波三郎が藤井斉に会うのは昭和五年十二月、藤井が霞ケ浦航空学校を卒えて、
大村の海軍航空隊に入隊する途すがら、鹿児島本線の鳥栖駅でおちあい、
二時間ほど懇談するのが最初であるが、名前は互に志を同じくする者として認め合っていた。
「 まず藤井君は、天成の革命児とよぶべきであろう。
勇敢で真剣で、しかも精悍せいかんで闘志にあふれた人物であった。
その上思慮緻密、書物は実によく読んでおり思想も透徹している。
彼が上海で戦死しなければ西田税や陸軍の有志と組んで、真の昭和維新をやり遂げていたかも知れない 」
と、菅波三郎は述懐している。
藤井斉も一見して菅波を高く評価し、その手紙の中でも
「 九州に於ては菅波君 ( 鹿児島歩四十五少尉 ) を第一とす 」
と 万腔まんこうの信頼をよせている。

須山幸雄 著
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


藤井齊・王帥會

2021年09月11日 04時40分48秒 | 藤井齊

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である



藤井齊 

藤井齊、王帥會
海軍に於て最初に改造運動を起こしたのは藤井斉であると云はれて居る。
彼は海軍兵學校在學中休暇等を利用し日本主義者の立籠つて居た大學寮に出入りし
大川周明、満川亀太郎、安岡正篤、西田税 
等と接触し 國家改造の緊急必要たる事を信じ
海軍兵學校に於ける同級生、下級生等に啓蒙運動を起した。
昭和三年三月 海軍部内の靑年士官中の同志を集め
王帥會
を組織した。
發會式當時の會員は
藤井齊    鈴木四郎    花房武蔵    浜勇治    上出俊二    後藤直秀    河本元中    福村利治  林正義
等であつた。
王帥会の綱領宣言は次の如くである。

王帥會
綱領
一、道義ヲ踏ミテ天下何モノヲモ恐レズ  剛健、素朴、清淨、雄大ナル古武士ノ風格アルベシ
一、部下ヲ愛撫鍛錬シテ國家非常ノ秋、挺身難ニ趣キ 水火ヲモ辭セザルベシ
一、日本海軍一切ノ弊風ヲ打破シ將士ヲ覺醒奮起セシメテ世界最強ノ王帥タラシムベシ
一、天命ヲ奉ジテ明治維新ヲ完成シ  大乗日本ヲ建設スベシ
一、建國ノ大精神ニ則リテ大邦日本帝國ヲ建設シ以テ道義ニヨリ世界ヲ統一スベシ
宣言
明治維新中道ニシテ滅ビシヨリ國家的理想ハ失ハレ 國民精神ハ腐敗同様シ、
政權ノ餓鬼政党者流ト吸血鬼ノ化身黄金大名ト無爲遊堕ノ貴族階級トハ政權ヲ壟断シ、
天皇ノ大御心ヲオホヒ奉リ
建國ノ精神ヲ冒涜シ私利私慾ヲ中心トシテ闘爭ニ浮身ヲヤツセル醜狀ハ奇怪千萬也。

而シテ 經濟生活ノ困窮ハ良民ヲシテ相率ヒ堕落ト犯罪ト自殺に赴カシメ
此ノ弱點ニ乗ジテ マルクス ノ奴隷 ソウ゛エット ・ロシア の走狗輩ハ
勞働者農民ヲ駆リテ階級闘爭ニ狂奔セシメ

國家ヲ呪詛シ國體ヲ變革シテ勞農露國ノ属國タラシメントス
又コノ年々百萬ヲ以テ算スル人口増殖ト國土ノ狭小ニヨリ
食料問題トノ重大事ハ解決ノ曙光スラ認メラレズ

萎縮自滅カ膨張發展カノ岐路ニ立ツ
排日ノ声 四方に起リ 迫害漸く深刻ナラントシテ
帝國ノ前途ハ多事多難急存亡ノトキニ直面スルモノ也、

凡ソ國家民族ノ治亂興亡ノ跡ヲ顧レバ理想ヲ掲ゲテ勇猛精進スルモノハ隆々トシテ榮エ、
前途光明ヲ失ヒ萎靡いび弛緩スルモノハ必ズ亡ブ、
日本ト雖モ亦コノ國家ノ目的ヲ失ヒ政治經濟風教ハ堕落紛亂シテ
現實ノ弥縫ノミニ執心セル今日ノ如キ日本國家ハ

存在ノ価値アルモノニアラズ 嗚呼、
天命ヲ奉ジテ建國セラレタル日本、光明赫々かくかくタル大理想を以テ創立セラレタル祖國日本、
今ソノ面目ハ何処ニアリヤ、
明治大帝、維新ノ志士在天ノ靈ニ對シテ
コノ無政府的困亂ノ狀況ヲ見テ義憤ヲ發セラル程ノ者ハ日本國民ニ非ズ、

吾人ハ須ク一切ノ弊風ヲ打破シ、一切ノ惡因を殲滅せんめつシテ、至上絶對ノ命ヲ奉ジ
道義ニヨツテ國家改造ヲ斷行セザルベカラズ、
總テノ君民間ヲ疎隔スル妖雲ヲ一掃シ 
天皇ノ稜威ハ赫々トシテ日本國家を天照シ  哲人立ツテ廟堂ニ列リ、

國民ハ經濟的生活ト獨立ヲ得、自由無碍ニソノ全才能ヲ發揮し
宗教、教育ヲ根本的ニ改革して風教ヲ肅正シ、

以テ大乗日本ヲ建設スベシ、
徹底的人材ノ登傭ト文化ノ興隆ト雄渾ゆうこん壯大ナル國民精神トヲ以テ大陸ヲ經營シ、
大洋ヲ開拓シ、暴逆ナル白人ヲ粉砕シテ有色人種ヲ解放獨立セシメ、
世界各國民族ヲシテ、其ノ本來ノ面目ニ歸ラシメ、天皇ヲ奉ジテ世界聯邦國家ノ盟主トナリ
之ヲ統一 一家タラシメザルベカラズ
而シテコノ大聖業ノ實行タル日本國軍ノ使命ニシテ
王帥會ハソノ根源的勢力タルヲ以テ目的トスルモノナリ。
一、國家ノ目的
神武天皇建國ノ詔みことのりニ曰ク
「 夫レ大人ひじりノのりヲ立ツル義ことわリハ必ズ時ニ随フ。
いやしく民ニ利くぼさ有ラバ、何ゾ聖造ひじりのわざタルヲ妨たがン、
また當ニ山林やまヲ披払ひらきはらヒ、宮室おほみやヲ經營をさめつくリテ、恭つつしみテ宝位たかみくらいニ臨ミ、
以オ オホミタカラ ヲ鎭ムベシ。
上ハ則チ乾靈あまつかみノ國ヲ授ケタマフ徳うつくしびニ答ヘ、
下ハ則チ皇孫すめみまノ正ただしきヲ養フノ心弘メン。ひたたまひしこころをひろめむ
然シテ後ニ、六合くにのうちヲ兼ネテ以テ都ヲ開キ、
八紘あめのしたヲ掩おおヒテ宇いえトナスコト亦可ヨナラズヤ 」 ト。
コレ歴代天ノ理想タルト共ニ日本國家ノ目的ナリ。
則チ天皇ハ道義體驗ノ聖天子ニシテ
國民生活ノ中心トナリ國家ノ制度ハ道義ヲ以テ根源トナシ、

必ズ時勢ノ進化ニ随ヒ物心共ニ國民ヲ救ヒテ理想日本ヲ建設、
天下ノ不正義ヲ折伏シテ之ヲ統一シ一家タラシメテ、
而シテ天命ニヨリテ授ケラレタル神聖國家ノ實ヲ擧グ、コレ日本國家ノ目的地也。
一、軍人ノ使命
皇謨ヲ扶翼シ國家ノ目的ヲ實現スルニアリ。
即チ、内 日本精神ヲ長養體顕シテ國民精神ノ本源トナリ
一旦動揺、混亂ニ際シテハ天皇ノ大命ヲ奉ジテ維新完成ノ實力トナリ
以テ道義日本ヲ建設シ
外、國家ヲ擁護シ國權ヲ伸張シテ大陸經營を斷行シ
大邦日本國家ノ力ヲモツテ不正列強ヲ癄懲ようちょう
有色民族ヲ開放シ世界ヲ統一シ、
而シテ日本皇帝ヲ奉戴スル世界聯盟邦國家建設ノ聖業ヲ完成スベキ也
一、國家ノ現状
日本精神ノ頽廃たいはいト欧米物質文明ノ心酔トニヨリ唯物利己、享楽主義跳梁、
跋扈シテ奢侈しゃし、贅澤、淫靡、惰弱ノ風吹キ荒ミ、
宗教ハ徒ラニ形骸ニ執シテ生命ヲ失ヒ 亘ニ門戸ヲ閉鎖シテ相爭ヒ甚シク職業化シ
教育ハ技術ノ末ニ趨はしリ、就職ノ手段ニ變ジ、
學者ハ批判、創造ノ力ヲ失ヒテ外國文明ノ奴隷トナリ人物ノ養成ハ顧ミラレズ、
一世ノ風教地ヲ払フテ空シキトキ資本主義、經濟組織ノ欠陥ト、
國土狭少人口増殖トノ故ニ經濟生活ノ逼迫ハ甚シク卑屈ニ堕シ、
犯罪者續出シ亂を思フノ怨声、漸ク爆發セントスルトキ廟堂ニ人材ナク
有産貴族階級ト政權アリテ國家ナキ政党者流トハ相結託金權政權を擁シ、
國體ヲ汚シ大御心ヲ掩おおヒテ國權濫用ノ大逆ヲ犯ス。
而シテ奴隷的外國模倣ノ無政府共産党唯物非國家主義者、
横暴ヲ極メ良民ヲ駆リテ階級闘爭ヲ煽リ立テ餓鬼畜生ノ如クニ相闘ハシムル中ニ
頑迷固陋ノ右傾派、暴力ヲ揮ふるヒテ之ヲ挑戦ス。
ソノ狀紛亂喧囂、悲惨ノ極ミニシテ
維新精神ノ不徹底ト國家的無理想トハ外
交ノ無方針奴隷的外國、
追随トナリ排日ノ聲四方ニ湧キ飜々飜弄セラレ、
國威ヲ失墜スルコト甚ダシク人口糧食問題 之ニ加リテ内憂外患、同時ニ到レリ、
國家ノ前途將來ニ何事カ起コラントス。
一、帝國海軍ノ現狀
國家ノ理想ノ何タルヲ知ラズ軍人使命ノ如何ヲ悟ラズ、
悟ノ徹底ヲ欠キテ生活中心動揺スルガ故ニ社會ノ惡弊ヲ受ケテ剛健質素ノ風ヲ失ヒ、
肉慾享樂奢侈、贅澤ニ流レ遊惰安逸ヲ求メテ但人家庭生活ノミ思ヒ患フ。
而シテ部下ヲ蔑視シ私的生活ニ於テ從僕ノ如ク駆使スルアリ。
上長ニハ阿諛あゆシテ一身ノ安全榮達ヲ顧慮シ 肉體的生活ノ放縦ハ精神生活ヲ荒廢セシメ
商人根性ニ堕シ甚シク 道義的精神ヲ失ヒテ豪壯雄大ナル武人ノ意氣氣魄ヲ欠ク、
軍紀風紀ハ士官ヨリ亂ルモノナリ、惡將ノ下ニ良卒アルコトナシ。
權力的壓伏ノ軍紀ハ上下ヲ疎隔シ團結力ヲ稀薄ナラシメ
士気廢レタル軍隊ハ攻撃精神消耗シ 到底明日ノ戰闘ニ即應シ得ザルノミナラズ、
赤化思想ノ前ニ不安極ルモノアリ。
又 貧弱ナル精神生活ト教育ノ欠陥ニヨル見低劣トハ重大ナル武人ノ國家的使命ヲ自覺セズ、
傳統ノママニ政治ニ係ラズノ直喩ヲ曲解シテソノ美器ノ下ニ國家ノ情勢ニ自ラ掩ヒ、
ソノ混亂ニ耳ヲ塞ギテ責任ヲノガレントス、
コノ故ニ國家ノ軍隊ハ資本主義政党ニ左右セラレ軍閥軍國主義ノ叫ビノ前ニ辟易シ
世界ノ現狀トソノ將來とを洞察セズ、
日本ノ對世界的使命ヲ理解スルコトナシ、
カクテハ
一朝國家動亂ニ際シテハ周章狼狽去就ニ迷ヒ処置ニ窮シテ
武人ノ使命實行ハ絶對ニ不可能ナリ。
一、組織ノ必要
軍人ノ使命ニ基キ國家ノ現狀ニ鑑ミテ海軍軍人覺醒奮起ノ急務ヲ痛感ス。
思フニコノ如キ不満ヲ感ジ改革ヲ必要トスル者ハ僅少ニアラザルベシ。
然レドモ大勢ニ支配セラレ妥協軟化シテ目的ヲ達シ得ザル所以ハ
同志ノ一致團結トソノ持續ヲナサザルニアリ、
我海軍ニ級會アリト雖モコノ事業タル廣範、重大ナルヲ以テ各級同志ノ縦的連結ハ最モ緊要ナリ、
コレ本綱領ヲ徹底實現セシメ 又 不朽タラシムル所以ナリ。
一、實行方法
 一、剛健清淨ニシテ真ニ軍人精神ノ本源タル次室ヲ建設シ以テ士官室ニ及ボス事
 一、部下の教育ニ全力ヲ盡シ本綱領ヲ徹底セシムル事
 一、綱領ヲ以テ各級會ヲ覺醒指導スル事
 一、國家ノ情勢世界ノ實情ヲ徴見シ、海軍改善大乗日本建設ノ具體案及對世界的經綸を考究スル事
       同志乾坤獨住ノ奮闘ト金剛不壊ノ團結トヲ以テ實行ノ基礎トナス
一、組織
第一條  本會ヲ王帥會ト稱ス
第二條  本會ハ海軍軍人ヲ以テ組織ス
第三條  本會ハ左ノ機關ヲ置ク
 一、會長
 一、會長補佐
 一、委員
 中央委員    東京  二名    横須賀  一名  ( 中央委員ヲ兼ヌルコトヲ得 )
 地方委員    呉  一名    佐世保  一名    第一艦隊  一名   
 艦隊委員    第二艦隊  一名    遺外艦隊  一名    練習艦隊  一名
 特別委員
  但し必要以外ハ欠員トス
第四條  會長ハ本會ノ總務ヲトル
第五條  中央委員ハ同志ノ聯絡名簿作製会誌ノ發行會計事務ヲ処理ス
第六條  ソノ他ノ委員ハ所属内及各方面ノ聯絡ヲ保持シ中央委員ヲ補佐ス
第七條  會長ハ同志ノ公選ニヨリ決定シソノ任期ヲ一年トス、但シ再選差支ナキモノトス
第八條  會長、補佐及委員ノ任命ハ會長ノ指令ニヨル、
            會長、補佐及委員任期ハ一ヶ年トシ十二月交代ヲ例トス、但シ再選差支ナキモノトス
第九條  同志ハ住所變更毎ニコリヲ所属委員ニ通知ス、地方委員ハ名簿ヲ作成シテ中央ニ報告ス
第十條  問題發生ノ場合ハ所属内ニテ処理スルヲ原則トシ、
            重要ナルモノハ中央ヨリ全般ニ通知シテ之ヲ解決ス
第十一條  春秋二回會誌ヲ發行ス
第十二條  同志ノ加入ハ殊ニ人選ヲ嚴ニスベシ、
            共に革正ノ事業ニ從事シ敬服スベキ人物ト認メタルトキハ
            所属内、同志協議ノ上會長ニ報告シ會長之ヲ決定ス
第十三條  同志ニシテ本綱領ニモトリ改心ノ見込ナキモノハ
            所属内同志協議ノ上會長ニ報告シ會長之ヲ決定除名ス
第十四條  會長ハ毎月一圓トシ毎年四期ニ分ケ会員ヨリ徴収ス
第十五條  本會期變更ノ必要アル場合ハ會長之ヲ一般ニ問フ
            會員ハ地方毎ニ意見ヲマトメテ中央ニ報告シ會長之ヲ決定ス

王帥會は其後 會として見るべき行動はなかつたものの様である。
併し 藤井齊は益々部内の啓蒙 同志の獲得に努め
一方大學寮によりて相識つた大川、西田、満川等と聯絡を保ち
國内改造運動の情勢を探り
昭和二年 西田税が天劔党の結成を企圖した際には之に參畫し
陸軍部内の一部靑年將校と聯絡を保ち機運の來るのを待って居った。
是の如くにして藤井が獲得した海軍部内の同志は四十余命に上ると云はれて居るが
其の中に五 ・一五事件を惹起した
古賀清志    中村義雄    三上卓    伊藤亀城    大庭春雄    古賀忠一   村上功    村山格之  山岸宏
の氏名を見出す。

現代史資料4  国家主義運動1  及び現代史資料23  国家主義運動3  から


ロンドン條約問題の頃 2 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (1) 』

2021年09月07日 05時27分11秒 | 藤井齊


藤井齊 

・・・前頁 ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』 の 続き

軍部と政党との正面衝突
眞に注意しなければならないのは、流の本當の力をなす陸海軍部全体が、
この問題によつて反政党の立場に立ち、そして陸海軍の急進分子間に提携、連絡を生じた事である。
其の間の事情に付ては、之を知るべき文章記録を存しないが、
當時 帝都に近き霞ケ浦航空隊にあつて、海軍側革新派の中心であつた
藤井齊より九州熊本の同志に宛てて、中央の情勢を報告した書簡によりてその大略を窺ふことが出来る。

(1)  昭和五年一月二十二日附
    霞ケ浦航空隊藤井齊より九州の同志に宛てたるもの

御書簡有難く拝見、
中央の情勢いささか申し述べ僕の意見もそへ度存候。
日本國民党は八幡博堂氏 ( 土佐の人、信州に長く在り 痛快男子、三十歳位新聞関係の人 ) が信州國民党を組織し、
此地に於て日本大衆党を奪還し、勢を得、行地社に合同を申し込みたる様子、
長野氏、津田氏個人として之に加る。
西田氏またかの不戰條約問題に於ける内閣倒壊の際、
頭山、内田翁一派 及 明徳会より信州國民党を擴大して大衆自覺運動のために、日本國民党は組織せられたり。
それ以前に、西田氏、津久井竜雄氏 ( 高富門下 ) 中谷武世の三名にて大衆運動をなさんとする議ありたり。
ここに於て此等の人々は皆、日本國民党結成準備會には出て相談しつつありき。
その内 中谷、津久井氏等は地盤を別にして、愛國大衆党を組織し各々別方面に戰ひ、
將來は合同せんとの約束にてこの二党 ( ( 註  日本國民党、愛國大衆党 (愛國勤労党と後に改稱) )) に分れたり。
然るに中谷氏は性格的に、國民党を嫉妬せる傾向にて、日本新聞紙上に國民党広告を妨害せりとの批難あり
又 對立せんとの意味にて大衆党を急造し、地方代表は獨斷にて相談なしに發表せりとて、
これ等の人々より不満の聲擧れり。
呉の毛利氏亦然り、
大衆党は津久井氏の急進愛國勞働者聯盟 ( これも有力なる團體は分裂せり ) を唯一の地盤となし
今や殆んど有名無實の態たらくなり。
綾川氏 ( 綾川武治 ) は直接關係なきが如し。中谷氏獨舞台の如し。
田口氏 ( 田口康信 ) は客分の形、目下東京近傍にて一二ケ所に靑年及勞働者の塾を拵へ、
これを以て改造に當たらんとせられつつあり。
羽田に四、五十名の團體あり。奈良に江藤少將が組織せる大和民衆 ( 農民 ? ) 党あり。
對等の合同ならばなすも、支部としては賛成せずと主張の由。
兎に角、大衆党は大をなさず國民党に糾合せらるゝやの感あり。
但し、綾川、田口氏等は直ちに合同すまじ。

國民党は大車輪の働きをなしつつあり。
八幡氏大いに戰ひつつあり。
二道三府二十五県に組織官僚せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水会 ) なり、
統制委員長は西田氏、幹部の肝は政治的大衆運動にあり。
今度の選擧にも代議士として當選可能の所は大いに戰ひ、然らざる所も大衆獲得のため戰ふ由。
僕思ふに、この党の将来幾多の曲折あらむも、その目的は経済社会問題をかかげて政治闘争をなす等より、
大衆の自覺糾合組織をなすにあるべしと。
議會進出も亦一の方法たるが故になさざるべからざる事、
然れども最も大事なるはこの大衆の組織の外に、戰闘的分子の血盟に依る革命手段にあり、
そは大衆を率いこの大勢を以て壓倒するか、或は戰闘的分子のみを以てするかはその時による。
行地社の腹は陸軍軍人にあり。
然れども隠忍自重に過ぎて容易に大川氏は之をあかさず今や人材も離れたり。
西田氏は金解禁に際して安田銀行の不正貸出し大穴ありと暴露し、
又 井上蔵相の○○○○事件を摘發し其他首相に金の入りこめることを暴露し、
内閣倒閣を企てたるも早く知られて恐らくは失敗ならむ。
政党を叩き潰してヘトヘトになすにあり。
選擧を何回も繰り返さすれば既成政党は立つ能はざるに至る。
中央の情勢は大體此の如し。
九州には獨立に九州國民党を組織するを可なりと信ず。
要は大衆の自覺奮起とその組織にあり。
その中に戰闘的分子の血盟を目論むを要す。
大衆自覺なくんば維新あらむも失敗に歸す。
而して改造の端緒は、大衆の經濟的貧窮の原因を知ること、才能あるも學校に入れず、
出世は出來ず、黄金大名の奴隷たる境涯より自由ならむとする氣運を爆發せしむるにあり。
このために既成指導階級の不正義暴露及倒壊運動の必要あり。
彼の不戰條約は機運すら段々似而非日本主義者は淘汰せられつつあり。
日本精神に綜合せられたる社會主義が本流をなしつつあり。
但し改造具體案未だ確立せるものなし。
今度は中央集權的官吏制度は打破せられ社稷體統の純日本的制度たらざるべからず。
この制度研究に三代を費せる久留米出身の権藤翁を初めて知れり。
學識高邁未だ此の如きを知らず。
その著 『 自治民範 』 は必讀の良書。
僕等佐賀の同志野口君 ( 今水戸の県廳に務む拓大出の靑年 )
( 註 金鶏學院安岡の門下にて井上昭、藤井齋の聯絡の端緒を作り、
又 井上を金鶏學院に關係せしめ、金鶏會館にて四元義隆
、池袋正釟郎と相結ぶ機縁を作る )
と我等の友人三四名にて毎月一二回翁を訪ひ改造案を練ることに約せり。
この地方 ( 茨木県下 ) には靑年に二、三、中年に二名 眞の同志あり。
靑年の中に大いに革命の氣運の捲き起さんと思ふ。
事をなすは靑年なり。
・・・・以下略。

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告  
第四章  ロンドン軍縮条約と其影響 
現代史資料4  国家主義運動1 から

次ページ 
ロンドン条約問題の頃 3 『 藤井斉の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』 に続く


ロンドン條約問題の頃 3 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』

2021年09月05日 18時53分39秒 | 藤井齊


藤井齊 

軍部と政党との正面衝突
真に注意しなければならないのは、流の本当の力をなす陸海軍部全体が、
この問題によつて反政党の立場に立ち、そして陸海軍の急進分子間に提携、連絡を生じた事である。
其の間の事情に付ては、之を知るべき文章記録を存しないが、
当時 帝都に近き霞ケ浦航空隊にあつて、海軍側革新派の中心であつた
藤井斉より九州熊本の同志に宛てて、中央の情勢を報告した書簡によりてその大略を窺ふことが出来る。

(2)  昭和五年四月八日附霞ケ浦航空隊藤井齊より九州の同志に宛てたるもの
昨日 西田氏訪問。
北---小笠原---東郷---侍從長、内閣打倒 ( 勿論 軍事參議官、樞府 ) 不戰條約の場合と同様
軍令部長一日に上奏をなし得ざりしは、西園寺、牧野、一木の陰謀のため、言論其他の壓迫甚しい。
小生、海軍と國家改造に覺醒し、陸軍と提携を策しつつあり。御健戰を祈る。

(3)  昭和五年五月八日附霞ケ浦航空隊藤井齊より九州の同志に宛てたるもの
先日は御書簡有難く拝見。
牛深 ( 熊本県下 ) への轉任の由、それ以上西へ行かば何処に行かるる積りなりや十萬億土あるのみか。 呵々。カカ・・笑
軍縮問題は天の下せる命運であつた。 ( 中略 )
議會中心の民主主義者が明かに名乗りを上げて來たのである。
財閥が政權を握れる政党、政府、議會に對して國防の責任を負ふと云ふし、
浜口は軍令部、參謀本部を廢し、帷幄上奏權を取り上げ、軍部大臣を文官となし、
斯くて兵馬の大權を内閣即ち政党の下に置換へて、大元帥を廢せんとする計畫なり。
今や政權は天皇の手を離れて最後の兵權迄奪はんとす。
不逞逆賊の政党 ( 財閥 ) 學者所謂無産階級指導者、新聞、彼等は天皇を中心とせる軍隊に刃を向け來つた。
戰は明かに開始せられた。
國體變革の大動亂は捲き起されつつある。
我等は生命を賭して戰ひ、彼等を最後の一人迄もやつつけなければならぬ。
海軍の中で靑年士官は勿論、將官級の有力なる人が同志となつた。
陸軍の靑年士官と提携は出來た。
而して又陸軍の重鎭或師團長と海軍のそれとの提携も成つている。
○○中にも一名ある。
北氏一派と陸海軍との聯絡は出來た。
これからは益々この結束を固め、深くし、広くし、勃々然たる力となさねばならぬ。
而して生野と大和の旗擧が又必要、民間同志の火蓋を切る必要がある。
恐らくはここ數年であらう。
これ總て先輩同志の言、急迫せる ( 不明 ) 御察を乞ふ。
當地方には有力眞劍の士數名あり、明日會合。
小生はこの問題を促へ活動している。先日は同志數名と海軍省に海軍次官を訪問した。
職權を以て追ひ出すと云ふ迄突込んで行つた。
今相當のセンセイションを捲き起している様子。愛國提言はこれはと思ふ聯中に皆配つた。
鈴木は又一方を會明隊に配つた。
當隊の司令を中心として軍令部長其他へどんどん迫つている。
内閣も近い内に倒れるであらう。
然し其はほんの一部のこと、只糸口に過ぎない。
軍部對政党の溝深刻化しつつあり。只軍人中の ヌエ をたたき切る必要がある。
北氏は軍令部長、同次長にも會つて最後の方法の処迄話したと云ふ。
軍令部の中には段々明らかに解つて來た。
一途は革命維新に通じている。陸、海、國民、の三軍の聯絡はここに取られた。
要は氣運の作成と、同志の鐵の如き團結にある。
希くはこの氣運の急迫を察し、益々御奮戰下さらむことを。
死を決するの用意己にととのへり。
小生は全力をあげて大局の運行に力をつくす。 決意。


「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告 第四章  ロンドン軍縮条約と其影響
現代史資料4  国家主義運動1  から

次ページ 
ロンドン条約問題の頃 4 『 藤井斉の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』 に続く


ロンドン條約問題の頃 4 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』

2021年09月03日 09時06分23秒 | 藤井齊


藤井齊 

軍部と政党との正面衝突

真に注意しなければならないのは、流の本当の力をなす陸海軍部全体が、
この問題によつて反政党の立場に立ち、そして陸海軍の急進分子間に提携、連絡を生じた事である。
其の間の事情に付ては、之を知るべき文章記録を存しないが、
当時 帝都に近き霞ケ浦航空隊にあつて、海軍側革新派の中心であつた
藤井斉より九州熊本の同志に宛てて、中央の情勢を報告した書簡によりてその大略を窺ふことが出来る。

(4)  
昭和五年六月七日附當時霞ケ浦航空隊附なりし藤井齊より九州熊本の同志に宛てたるもの
拝啓
先日の大暴風雨は近來稀なるもの、九州地方の損害甚大なりし由 如何御座候也。
農村の疲弊、農民の苦勞、全國町村長會議愈々時機通り來申候。
八月の休に九州迄遊びたきも或は不可能なるやも知れず。
大兄若し出馬關東に來られなば住むべき処有之、水戸の近く大洗と云ふ所に眞乎革命家あり。
井上昭氏也。
護國堂とて日蓮の寺に住す。
氏も亦 大兄の來るのを喜び居り候。
又 氏の親友同志 熊本市外花岡山祇園平三恵庵前田虎雄氏と御聯絡御とり下され度候。
右御見舞迄。

(5)  昭和五年八月十四日附當時霞ケ浦航空隊附なりし藤井齊より九州の同志に宛てたるもの
御書簡拝見
憂國概言のことに付出版違反とかにて謹愼一週間を命ぜられたり。 面白い世の中なり。
樞府は強硬論者八名、議長、副議長伊東、金子等もその内。
伊東は總理になりたいと言ふ。政府の斷末魔なり。
政友の森恪は面白き奴と云ふ。やや革命を解するか。
--中略--
九州にては ( 太刀洗飛行四聯隊 ) 大尉原田文男、中尉小島竜己 ( 鹿児島四十五聯隊 ) 中尉田中要、中尉菅波三郎
( 都城二十三聯隊 ) 少尉下林民雄、中尉朝井憲章  ( 福岡二十四聯隊 ) 中尉小河原清衛、同西村茂
( 大村歩兵四十八聯隊 ) 中尉末松竜吉 ( 佐賀大隊 ) 若松満則 ( 大分歩四十七聯隊 ) 少尉鎌賀晴一
を御訪問。
急を要する時期是非御訪問。
人物をたしかめ本物は聯絡固くせられ度し。御願す。
若松は面識あり。其他も大丈夫との話はあり。
御訪問後はお知せ下され度。

(6)  昭和五年八月二十一日附當時霞ケ浦航空隊附なりし藤井齊より九州の同志に宛てたるもの
( 御一讀後焼却を乞ふ )
御書簡有難く拝見。
--中略--
日本の堕落は論無き処なり。在京の同志といふも局地に跼躋して蝸牛角上をなす。
多く頼む可らず。
北---西田 この一派最も本脈なり。
先の不戰條約問題以來 北---小笠原長生---東郷。
今度の海軍問題に於て
陸  第一師團長  眞崎甚三郎
海  末次信正    加藤寛治
( こは積極的に革命に乗り出すことは疑問なれども軍隊の尊嚴のためには政党打倒の決心はあり )
霞ケ浦航空隊司令小林省三郎少將、長野修身 ( この二人は兄弟分 )
而して
○○○○○○
は北、西田と會見せり。
第一師と大いによし。
一師、霞空は會見せり。
斯くて革命の不可避を此等の人々は信ぜり。
然れども之をして起たしむるは靑年の任なるは論をまたず。
四十を過ぎたる者は自ら起つこと稀なるべし。
豫後備にて有馬良橘大將よし。

西田氏等今や樞府に激励すると共に、政党政治家資本閥の罪状暴露に精進しつつあり
( 牧野の甥、一木の子、大河内正敏の子が共産党にして、宮内省内に細胞を組織しつつあること攻撃中 )
所謂怪文書は頻りに飛びつつあり。
財部は武人が云ふことをきかざるを以て、文官たる法務官を使用して各方面に了解を求めつつあり。
憲兵司令部にある同志は之もつかまへて掘り出さんと計劃中の由、吉村と云ふ法務官なり。
小生等もこれに調べられたり。
今や 『 憂國概言 』
は出版法違反とかにて謹愼を申渡され始末つきたけれども餘罪ある見込とか、
即ち我々の同志運動を極力この目明し文吉が取調べ中なり。
御要心ありたし。
文書の始末は十分に御願ひす。

東京憲兵分隊長は同志なり。
憲兵は一般に警察よりはこの運動に理解あり。

安岡正篤は國家の基礎工事を受持ち、現代文化に汚されたる農村の靑年を集めて晴耕雨読、
哲学と經綸と詩と与ふ可く東京附近に山林を買ひ入れたり。
即ち権藤先生の自治思想を以て國礎を固め、人物の續出、革命の長養をなさんとす。
これも大いに必要なり。
明治維新の失敗はこの欠乏にあり。
眞の革命児は第一線に倒れ、第二流以下の人物朝に起れり。
制度は總べて官僚的國家主義---獨逸---を模倣し、
今や英國流の政党専制、天皇輕視の實現に努力する時代となれり。
第二維新にこの欠陥あらしむべからず。
---権藤先生の書は後送する筈。
先生は現代に於ける第一の經綸家也、大化革命に於ける南淵先生也、
安岡氏は北氏と提携する可能大いにあり。自ら名言せり。
時勢逼迫せば提携せざるべからず。

大川氏は北氏に離れ行動中。
只その牧野 ( 牧野伸顕 ) によつて大權降下を考へ居ると言ふは當人之に讃せず。
故に大川氏を救ふの道は牧野を倒すにあり。
然らば北氏と合一せんか。
大川氏の下には金子中佐あるのみ。具體的の運動は爲し居らず。
皆この一味は氏によつて何事かなさんとするもの、積極的ならず。

満川氏はあまり活動し居らず。北氏とはよし。
田口氏も學者なれば打開には多くを望むべからず。
今は妻は病床に臥し、児は飢になきつつ然も塾を開き、ささやかながら活動中の心事察すべし。

日本國民党は寺田氏しつかりせず。八幡氏また金なければ働けざる人物、
西田氏手を引いてより有名無實なり。
---手を引きしは財界攪乱の怪文書事件に頭山翁がおこりしためなり。
鈴木善一君のみはしつかりし居る ( 井上日召氏下に現今在り )

内田良平翁が大日本生産党なるものを計畫中、之は生産者を第一とせる党。
大本教 を土台にせむとの考、成功難からむ。
國民党はこれに合同するやも知れず。今や殆んど取るに足らず。
斯る運動は本脈にあらず、末の問題なり。
潰す方或は可ならむ、若し作るとせば西田氏を當主として表面政党、
裏面結社のものたらしめて農民労働者を團結せしむべきのみ。

愛國社勤勞党も有名無實なり、中谷氏はヒステリーにして同志より嫌はれつつあり。
綾川氏は日本新聞に籠りて筆を振ふのみ、實兵殆んどなし。
津久井氏の一統は團結最も健固なり。高富の國家社會主義一派也。
同氏は有望、西田氏ともよし。
元々、日本國民党は、西田、津久井、中谷 三氏にて計畫せしもの
途中に別れし時も只方面を異にして活動せむと兄弟的に成立したる党也。
欠陥はここにあり。
中央の状況 以上の如し。

人、夫々運動の方針を異にす、己の立場を固守して人に下らず、性格のためもあり、功名心もあり。
---即ち俺の地盤の者を引張つたからと何かと言ふものあり、
この人民を利用する心---既成政党、無産党式の心理起る時 日本主義者も堕落なり。
人を利用して己の地歩を占め、功名を高からしめんとす、悲しむべき人性也。
或は新日本の崩壊もここに原因せむか、嚴重に戒しむべき點なり。
この故に眞の革命家を養ひ、團結し、續出せしむべきを要す。

小生の方針は
民間に於ては、北、西田氏を中心とし
海軍に於ては、末次、小林を中心とし
陸軍は眞崎、荒木 ( この二人はよし ) を中心とし、
而して
○○○○を戴き ( ○○○は○○○○と最もよし、○○○には御帰朝後手を伸さむ )
この團結を以て斷行せむとす。
今や海軍軍人の日米戰爭を望むや切なり。
一九三六年以後は勢力益々衰ふる故に、同年頃は開戰すべしと云ふものあり。
然れども飛行機等實戰に使用し得るものは八十機に過ぎず、在庫品は一機もなし。
機械の不良なる、十年は後れたり。
財政は立ち行かず。地方は極度に衰へ、人心の萎縮此の如し。
戰ふべきからざる論なし。
若し戰ふとも負くるかやつと引分くるかなり。
日露戦争の時は國民に意氣ありたり、今は然らず、よくて引分なり。
米國を抑ふべからざるは勿論順序は先づ國内の革命なり。
この革命をやり切らぬ日本ならば日米戰は無論、再び地上に生存する価値無き國也。
農村の窮乏は言語に絶す、革命の遠からざらむ事は明白也、
丁度仏蘭西革命、ロシア革命の前夜の如し。
浜口内閣をして生殺のままに長生せしめよ海軍問題を長引かしめよ。
これ打開を早からしめて日本を救ひ、海軍を救ふことなり。
先づ國亂は風前の燈火たらしむるを要す、
ここに眞乎の國民は金剛不懐の力を振ひ起さむ---以下數行略。

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告  第四章  ロンドン軍縮条約と其影響
代史資料4  国家主義運動1  から


次ページ 
ロンドン条約問題の頃 5 『 藤井斉の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』 に続く


ロンドン條約問題の頃 5 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』

2021年09月01日 14時58分45秒 | 藤井齊


藤井齊 

軍部
と政党との正面衝突
真に注意しなければならないのは、流の本当の力をなす陸海軍部全体が、
この問題によつて反政党の立場に立ち、そして陸海軍の急進分子間に提携、連絡を生じた事である。
其の間の事情に付ては、之を知るべき文章記録を存しないが、
当時 帝都に近き霞ケ浦航空隊にあつて、海軍側革新派の中心であつた
藤井斉より九州熊本の同志に宛てて、中央の情勢を報告した書簡によりてその大略を窺ふことが出来る

(7)  昭和六年四月十日附大村航空隊に轉じたる藤井齊より九州熊本の同志に宛てたるもの
( 秘 )  火中
拝啓、先日御送のものうけとれり。
久敷失礼 其後如何に候也、小生頑健先日久留米に會せり
江崎 ( 佐賀、大尉 )  小河原清衛 ( 福岡歩二十四中尉 )   若松 ( 若松満則 佐賀大隊附 )  皆大丈夫也。
九州に於ては菅波君 ( 鹿児島歩四十五少尉 ) を第一とす。
三月二十六日上京せり。
三聯隊田中、野田兩中尉に會へり、ともに大丈夫。
来々年○○○○○近衛に師團長たらるる由、これは好機なり。
一切の戰備を速やかに完成するを要す。
其他行地社の狩野、建國會の赤尾、愛國勤労の津久井 其他、國民の鈴木 ( 鈴木善一 ) 等會し
全日本愛國者共同闘爭協議會を作りたり、これから日本の戰線統一の基礎たらしむべきものと云へり
---中略---
其他政敎社大分よろし、倒閣維新聯盟を作れり。
左派は不振、共産党は根氣よく活動しつつあるものの如し。
彼等智見足らず 時空の認識即ち物を具體的に見ることは能はざるが故の妄動なり。
然れども必ずや吾人の大道に轉じ來るの日あり。
氣運は動きつつあり。
民政は近く倒れむ、政友に移らむか。
宇垣に大野望あり。
兄を東京に呼ばんとの話  日召師等の間にありたり。
御健闘を祈る。
・・・・

(8)  昭和六年六月十三日附大村航空隊 藤井齊より九州熊本の同志に宛てたるもの
( 一読後火中のこと )
久敷失礼。
益々御健勝のことと思ふ。
勤勞新聞 ( 註 天野辰夫等の愛國勤勞党の機關紙を指す ) 有難く拝見。
熊本の方は狀況如何、又 兄の勤勞党に關する意見如何。
小生はそのヂャーナリスト多きと、ビラと演説と文章のみにて維新が出來るとは更に思ひ申さず。
只日協 ( 全日本愛國者共同闘爭協議會 ) と云ひ、國民党 ( 註 生産党の前身 日本國民党 ) と云ひ、
この党と云ひ 民衆を自覺させるに役立つ位の程度、維新の原動ともなるまい。
建設に於て邪魔になるものの多きことも考へておかねばならぬ。
即ち名誉心大なる故なり。
地涌の菩薩は黙々として只劍によつて自ら敵を倒すことのみ精神行動を集中している。
現代の弊は弁論に堕することだ。
如何に日本人の心魂を毒し、至誠の精神を賊せるぞ、
只吾人は此等の党の行動文書---文書は行動を誇大に報告している。
而して他を煽動せんとするもの人を相手に而も利用して事をなさうなんか云ふことは最も惡い。
左翼の大衆運動はこれである。
所謂日本主義者も段々これにかぶれている。
大衆に革命は出来ない! 出來るやうなら革命の必要なし。
---中略---
暗殺は革命の大部を決す。
生やさしい考はやむべし、共産党の方がまだ日本的だ。
ここ一、二年のうちに大破壊が始まるであらう。
---中略---
建設の具體策 及 思想は 権藤翁の 『 自治民範 』 ---北氏の 『 改造法案 』、この二つ也。
中央に於て心配を頼むべきは、西田 、北、権藤、井上の數氏
---中略---
小生はここに陸海民間に數十の血盟志士を得たり。
乾坤一擲の業必ずなすべきを疑はず。
---以下略。

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告  第四章  ロンドン軍縮条約と其影響
現代史資料4  国家主義運動1  から

最初のページ 
ロンドン条約問題の頃 1 『 民間団体の反対運動 』 に戻る


藤井齊 『 内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイ、即時決行シタイ 』

2018年02月02日 04時40分48秒 | 藤井齊

西田税、盟友藤井齊ヲ語る

藤井齊 

十月事件ガ不発ニ終ツタノデ、
海軍側ノ藤井ナドヤ民間側ノ井上日召ナドガ焦リ出シ、

私ニ關係ナク計劃ヲ進メタノガ、彼ノ血盟團事件デアリマス。
昭和七年ノ元旦ニ、日召ハ酒ニ酔拂ツテ、
テロヲヤルノダトカ、革命ヲヤルノダ等ト叫ムダトノ事ヲ聞キマシタノデ、
私ハ其ノ輕率不謹愼ヲ責メタ事ガアリマス。

・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

井上日召

井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担当し、
革命の為め一命を捨てる覚悟をしたので、十月事件の挫折によつてもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し 陸海民間の聯合を組織して蹶起しようとして居つた。
同年 ( 昭和六年 ) 十二月二十八日、当時井上は十月初頃より、
当時の東京府豊多摩郡代々木幡町代々木上原百八十六番地 成事 権藤善太郎 方附近の
同人管理する所謂権藤空家に居つたのであるが
冬の休暇で状況して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一統と権藤方に於て忘年会を開いた。
出席者は
海軍側  村上功    沢田邲    古賀清志    伊藤亀城    浜勇治    中村義男
陸軍側  菅波三郎    栗原安秀    大蔵栄一    佐藤某
民間側  井上昭    古内栄司    池袋正釟郎    四元義隆    田中邦雄    久木田祐弘
            西田税
            権藤成卿
等で単純なる顔合せに過ぎなかつた。
然るに 其の直後 同月 ( 十二月 ) 三十一日
西田税の発議で陸海民間の同志のみで会合することとなり、
府下 下高井戸料亭松仙閣に於て会合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田清貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年会には出席せず 其直後揃つて上京し
而も 従来の関係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず何の挨拶もなかつた。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事かを画策して居る。
即ち 西田、菅波が自分より離れて了つたことを直感したと称している。
その上 宴会に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜井上は泥酔した。
正月になり菅波から古内等に
井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る

と 排斥的な注意があつた。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて来た。
井上は非常に苦しみ、
同志に対し これ迄指導的立場に在つて、今斯様な状態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する青年達や海軍側同志は
陸軍側の離れつつあるのを偏へに西田の所為となして西田に対し強い反感を抱いた。
・・・ 血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼等ハ何ウシテモ私ヲ引込ミ、

以テ陸軍靑年將校ヲモ引出サウト考ヘテ居ルト云フ事ヲ日召ヨリ聞キ、
之ニ反對シテ陸軍靑年將校ノ參加ヲ思ヒ止マラセマシタ。
次デ同年一月中旬、藤井ハ私ニ、
「 乗掛ツタ船ダカラ、何トカシタイ。
支那ノ風雲急ヲ告グルノ時、
内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイカラ、
十月事件ノ噂ニ依ル計劃ト同程度デ即時決行シタイ。
自分ハ先ヅ空中ヨリ第一聲ヲ放ツカラ、貴方ハ後事善処シナイカ。」
ト云フ趣旨ノ手紙ヲ寄越シマシタノデ、私ハ直ニ
「 十月事件ガ惨澹タル失敗ニ終リタルニ、尚懲リズニ蹶起スルト云フノハ何ウカ。
事ハ愼重デナケレバナラヌ。」
ト云フ趣旨ヲ書キ、鞏硬ナル反對意見ノ返事ヲ出シマシタ処、
更ニ沈痛ナ語調ヲ以テ悶々ノ情ヲ訴ヘテ來マシタ。
夫レハ、同人ガ上海ニ出征スル二、三日前デアリマシタ。

藤井ガ上海ニ出征シテ戰死シタノハ、
夫レヨリ一週間位後ノ昭和七年二月五日デアリマス。

藤井ト云フ人ハ、
鞏硬ナ意見ノ持主デハアリマスガ、道理ヲ説聞カセバ判ル人デ、

何レ上海ニ行ケバ死ヌ、
ダカラ行ク前ニ決行シタイト考ヘタミノト思ヒマス。

夫レガ私ノ反對ニ會ツタノデ、起ツニ起タレズ、
悲壮ナ氣持デ出征シ戰死シタモノデ、

私ハ、藤井ハ敵中深ク立入ツテ戰死シタト云フヨリモ、
進ムデ死ヲ選ムダノデナイカト思ツテ居リマス。

・・・リンク
 西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」 
西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」



斯様ニ軍部ガ蹶起シナイノデ、
民間側ダケデ起ツタノガ血盟團事件デ、
二月九日蔵相井上準之助ヲ殺シ、
三月五日男爵斷琢磨ヲ斃シマシタガ、
私ハ其ノ翌三月六日警視庁ニ檢束セラレ、
爾後血盟團ノ起訴當日迄引續キ留置、取調ヲ受ケテ居リマシタガ、
無關係ナルコトガ判ツテ釋放セラレマシタ。

・・・ニ ・二六事件北 ・西田裁判記録(三) 第一回公判 から


藤井中尉、血盟団 小沼正、國家改造を誓う

2018年02月01日 05時15分07秒 | 藤井齊


藤井齊 

藤井中尉と國家改造を誓う

小沼君、
日本もいよいよ此処まで来ては駄目だ。
君も識っている通り、
政党は、党利党略あって、国利国策なし、
三井、三菱、住友等の財閥は政権と結んで国家、国民を搾取して飽くことを知らない。
為に、農村は極度に疲弊しているが、
今の政府はその救済は題目だけ。
都会には失業者が日に月に増加し、
犯罪と一家心中が徒に新聞の三面記事を賑わす材料となるのみだ。
共産主義者は刈れども 摘めども後を絶たぬ。
これは日本の現状が、その温床をなしていると言えるのではないか。
政界の堕落、疑獄は疑獄を生み、腐敗はその極度に達し、
勲章さえ金で売買されるのだ。
頼みに思われた軍部までが、山科半蔵陸軍大将事件で、その威信を国民に問われている。
軍政、軍令の別も今や怪しくなって来た。
皇師幾万の血を以て贖あがなうた満洲の権利も今は全く危殆きたいに頻している。
南京の蒋介石政権は慇懃無礼、陽に排日政策を打ち出し、その陰には、英と米が糸を引く。
それを知りながら、日本の外交は英米追従外交に終始し、
特に幣原外相の軟弱さは、何処の国の大臣で、何処の国の外交かと その所属を問いたいくらいだ。
このざまでは、
いざ お国に一旦緩急あった場合、
青年達は果して祖国防衛に生命を賭して闘うであろうか。
自分の親、兄弟、妻子が飢えていて何の防衛か。
誰の為の防衛か。
青年達がこのことを考えるようになったら大変だ。
私は、思いを茲ここに致す時、
小沼君、
限りない不安と焦燥を感じてならないのだ。
だがここに、吾が国には、一つの救い道がある。
上、天皇在し、汚れなき日の丸がある。
これが今日の日本を支え、明日の日本を救う唯一の希望であり道である。
この一筋の道だけがまた、この己を支えてくれるのだ。
それは和尚の言う通りだ。
しかし道は、余りにま険しく、国民はその荊いばらの道に迷っている。
吾々の任務は既にきまっておるのだ。
国家改造だ!
藤井中尉の声は熱し、その気魄は潮騒さえも押し返していた。
小沼君、
この吾々の使命を達するにはどうすべきか。
和尚以外の指導者はないのだ。
吾々は和尚を中心に死を以て団結し、
国家改造をやろう。
あの記念館にある明治維新の志士先覚者の志を嗣ついで、この日本を護ろう。
腐敗堕落した国家社会を救い、
やがて、日本が名実共にアジア民族の支柱となるようにすることだ。
だがナア 小沼君、
私は軍人だ。
軍人は軍命令で何時、如何なる死地にも赴かねばならんのだ。
私は国家改造をやらねばならんから その方は御免だと言う訳にはゆかぬ。
もし
万が一
私に何事かあったら、
小沼君、
君は 私の分まで働いてくれ。
頼む・・・・。
藤井中尉は、私の手を荒々しく握って、その手に力をこめた。
「 藤井さん、人間は老生不定で お互い様だ。
私に 万一のことがあった場合には、
その時は、藤井さん、私の分までやって下さい 」
よし、お互い二人分だぞ
私は瞳が熱くなった。
藤井中尉の眼にも キラリと光るものがあった。


血盟団 ・ 小沼 正
一人一殺第一号  から


藤井齊 『 昭和6年8月27日の日記 』

2017年12月09日 09時57分39秒 | 藤井齊

『 郷詩会の會合 』
赴任先の九州大村海軍航空隊から參加した藤井が、
井上日召の家 ( 代々木上原の権藤成卿の借家 ) に歸ると、そこへ對馬がガリ版刷りを持ちこんできた。
「 全艦隊に送るべく宛名を書き終えた 」 という。
よく見ると、「 陸海軍靑年將校一同 」 と書かれている。
「 満蒙問題に就て陸海軍合同すべし 」 と呼びかける文書で、
藤井は、
「 これはいかぬ、早速止めさせろ 」
と 青山參道アパートの菅波三郎宅に集まっていた對馬の仲間たちを説いて止めることにした。
藤井はこの日の午後、海軍の同志である古賀、三上卓海軍中尉、井上らと共に
霞ヶ浦海軍航空隊の小林省三郎司令を訪ねて 「 革命 」 への決意を問い、
さらに參謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐、大川周明らと會う約束をし、
「 本年秋の義擧 」 について詳しく調べ 知らせる約束をした。 ・・ 十月事件

我等はそれに代わつて之を擴大--深刻化し
指導して 我等の革命になさんとするものなるが故なり、

斯くて陸海軍の合同はなるべし

陸軍はどうも政治革命迄しか考え居らざる様子、
先ず一辺やらせよ、而る後 之を叩きつぶすし我任なり、
恐らくは革命の本体なるべし
・・・8月27日

藤井齊
藤井斉、昭和6年8月27日の日記 
・・・検察秘録五 ・一五事件 より

・・と 陸軍側に信を置かず、
政権奪取とは違う直接行動の蹶起をこの時點で練りつつあった。
それゆえ、對馬が持込んだ満蒙問題の呼びかけ文書を中止させたのも、
大事の前に海軍側の名前が漏れるのを危惧したためと思われる。
郷詩會や翌8月27日に集った靑年將校の中に、末松太平中尉もいた。
郷詩會を機に、西田税の自宅を聯絡場所として、
陸海軍有志や井上日召グループが毎晩のように顔を合わせていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『 郷詩会の會合 』 ・・昭和六年八月二十六日
この会合のあとも、私は何ごともなかったように戸山学校に通い、剣術、体操に励んだ。
そして毎晩のように西田税のうちに出掛けた。
藤井斉大尉、古賀清志、中村義雄中尉、大庭春雄、伊東亀城少尉らの海軍や、
菅波三郎、村中孝次中尉らの陸軍や、井上日召、小沼正、澁川善助らが、
このころの西田のうちで出合う常連だった。
会えば語り合い、語りあえばそこに何物かが胎動した。
それは 「 郷詩会 」 を 単なる組織固めに終らせたくなかった、
海軍のペースに乗ったものだった。
・・・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合 


藤井齊 『 昭和6年8月26日の日記 』

2017年12月07日 09時21分13秒 | 藤井齊

午後、外苑日本靑年會館に郷詩社の名にて會合あり。
海の一統、陸の一統 ・・大岸君の東北、その他は九州代表の 東 來れるのみ
井氏の一統、菅波、野田、橘孝三郎、古賀潔、高橋北雄、澁川善助、
初對面は 對馬、高橋と秋田聯隊の少尉 金子伸孝と
四人なり

こゝに組織を造り中央本部は代々木に置き、
西田氏之に當り、井氏を助け遊撃隊として井氏の一統はあたることゝせり
こゝに最も急進的なる革命家の一團三十餘名の團結はなれり
新宿に行きて酒を飲みつゝ 一同歓談し、その中に胸襟を叩き割って相結べり
野田又宅に黒澤、菱沼、古賀清と 東 と行つて泊まる

藤井齊
・・藤井齊、8月26日の日記
・・・検察秘録五 ・一五事件 より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『 郷詩会の會合 』 ・・昭和六年八月二十六日
リンク

・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』


藤井齊 『 憂國概言 』

2017年12月05日 05時22分01秒 | 藤井齊


藤井齊 

憂國概言

皇祖皇宗の神靈と幾多の志士仁人の雄魂とを以て築き上げられたる
祖國日本の現狀は、
貧窮の民道に充満して
或は 一家の糊口を支ふべく、
子女を驛路の娼に賈り
或は 最愛の妻子と共に水に投じて死すあり。
或は 只生きんが爲めの故にパンの一片を盗みて法に網せらるヽあり。
或は 祖父傳來の田地にかへて學びたる學業も用ふる処なく、
失業の群に投じて巷路を放浪するもの幾萬なるを知らず。
貿易の行詰れる生糸は米國に販路を絶たれ 綿糸は印度の障壁を越ゆべからず。
北海の漁民亦その糧道を奪はれむとし、
征戰幾萬の犠牲を払つて得たる満洲も退却の悲報切に到る。
食ふに食なく、
住むに家なく、
故郷を張られて流浪の旅にある幾百萬の民衆は只動物的存在のために狂奔し、
或は 自爆に堕して淫亂に趨おもむく。
餓鬼畜生道の日本、
そは宛然應仁戰國の大動亂を豫想せしむるではないか。
共産主義はこの因亂紛爭の産物であるのだ。
然るに廟堂の諸公は口に日本は大丈夫だと安心を稱へつゝ
内心云ふべからざる不安焦燥に苦しみつゝ
民心の欺瞞と権力の壓迫とを以て一時を瀰縫し
只己れの利權を守らむが爲めに
数十萬、数百萬の賄賂わいろをむさぼれる濁血鮮々たるその手を以て
天皇の大權を左右しつゝある。
嗚呼 財界を見よ、
何処に社稷体統の天皇の道業は存する。
皆是れ民衆の生血を啜り骨を舐める惡鬼狼の畜生道ではないか。
内斯くの如し、
外 國際場裡を見よ、
劍を把らざる戰は、今やロンドンに於て戰はつゝある。
祖國日本の代表は英米聯合軍の高抑壓的威嚇に屈辱的城下の誓ひを鞏ひられんとして居る。
而も 外務当局及内閣大臣共は 之を甘受せんとしてゐるではないか。
日本は豚の如く存在すればよいのであるか。
この面上三斗の泥土をどうする。
君恥かしめらるるれば臣死す と云ふことは、
天皇及日本國家そのものが恥かしめらるる事實であるのだ。
閣僚共が體内政策の無爲無能を欺瞞せんが爲めに、
一旦己れの生命を延さんが爲めの故に、
日本自らの生命に劍を擬しつゝある現狀を、
我等は明かに認識することによつて忠勇義烈の骨髄に徹せしめよ。
我等は外敵の侮辱に刃を磨くと同様にこの内敵---然り 天皇の大權を汚し、
民衆の生命を賊する貴族、政黨者流及財閥---の國家亡滅の行動に對して手を空しうして
座視するの惨酷無責任を敢てすべきではない。
武人の使命は實に日本の大使命を万古不動に確立し、
生々發展の一路を蹈ましむるにあるからだ。
政治にか々はらずとは現代の如き腐敗政治に超越するを意味し、
世論にまどはずとは民主共産主義の如き亡國思想に堕せざるを云ふ。
そは日本軍人本然の面目---修身治國平天下の大道に歸れと云ふことだ。
故に國家現在の明確なる認識と將來の適確なる洞察とは目下第一の急務である。
識見なき軍人軍隊は政党財閥に愚弄せられ、
或は その手先として民衆怨おん府の的となり、
國家そのものゝ賊と化するは露獨其他古今東西の史實に明々白々の事實、
そは
明治大帝の大御心---無智なるが故に---叛くことゝなるのである。
然り 萬惡の根源は無智にある。
苟も忠君愛國を軍人の第一義と考ふる程の者は、
何が今日真に忠君愛國であるかを考へよ。
我等の忠君愛國は不義を討つことである。
日本國家生命に叛くものに刃を向けることであるのだ
---自己と他人と國内と國外とを問ふことなし---
この故に國家の現狀は如何 ( 現實の認識 ・學問 )
日本は如何にあらざるべからざるか、
如何に變化せんとしゝあるか ( 國家の理想・識見 )
我等の之に對する任務は如何 ( 軍人観 ・職務観 ・胆略 )
此三事は念々刻々武人の心境を離るべからざるものである。
即ち 山鹿素行先生の 「 武士道の本義は修身治國平天下にあり 」
とは 萬古不滅の鐵則である。
この三事の確立なくして
只肉體的元氣と其日暮しの勤勉とのみにて満足せし過去の海軍々人中より、
南京事件と云ふ前古未曾有の國辱を惹起せしことを銘刻せよ。
此怠慢は士官にとりて許すべからざる責任の冒瀆である。
士官は國軍の指導者なるが故に、
而して軍隊は決して社會より獨立せるものに非ざることを自覺することを要する。
社會の現狀が風濤なみ相搏ち、
濁流天に沖するの大動亂である時、
その暴風眼の中心より軍隊に入り來り、
或は 去り行く
幾千幾萬の下士官兵の身上に想到せよ。
此の如き世の中である。
軍隊の指導者が矩見區々たる其日暮しを改めて
高朗明澄の気、雄渾ゆうこん偉大なる魂、
而して大局達観の識見を養ひ 正義堂々、
國軍の目的を確立して下士官兵の愛撫鍛錬---眞の日本人たらしめよ。
臣の軍人たらしめよ---に 全力を擧ぐることなくば、天は日本にのみ例外を許す筈はない。
軍隊の崩壊は必然である。
嗚呼 この昭々冷嚴なる天を畏れよ。
我等士官の現代日本に処する純忠報告の第一義は
天皇大權の擁護により日本國家使命實現の實行力たるに在る。
而して今や日本は經濟的不安と人材登庸の閉塞による民心の動揺
及 道義失はれたる祖國に言ふべからざる深憂を抱ける志士の義憤とによりて、
維新改造の風雲は孕はらまれつゝある。
今に至つては 如何なる個人及團體が政權を執りて漸進的改造を行はんとするも
遂に収拾すべからざるは論なし。
暴動か、維新か。
希くは 我等は日本を暴動に導くことあらしめず。
天皇大權の發動によつて政權財權及教權の統制を斷行せんと欲する
日本主義的維新運動の支持者たるを要する。
これ非常の時運に際會せる國軍及軍人の使命を日本歴史より導ける斷案である。
然らば平生行動の眼目は何であるか。
軍人はすべて同志たるの本義を自覺して先輩後輩上下一員切磋し琢磨しつゝ名利堕弱を去り、
剛健勇武の士風を作興し、
至誠奉公の唯一念に生きつゝ 日々の職分を盡しつゝ 下士官兵の教育に力を用ふべきである。
良兵を養ふは良民を作る所以、良民なくして良兵あることなし。
我等は良民を社会に送ることによつて 國家全般の精神的指導者たらねばならぬ。
明治大帝の汝等を股肱に頼むと詔へる深刻偉大なる知己の大恩義に感泣せよ。
嗚呼 是れ 軍人たるの眞乎本分であるのだ。
消極退嬰たいえいに堕せる海軍の過去に我等は一切の弁解---自己欺瞞---
を 脱却して深甚なる責任を負はねばならなぬ。
海軍出身在郷軍人の現狀は如何。
在役下士官兵の心境は如何。
我海軍 我祖國をして露独の覆轍を踏ましむる勿れ。
嗚呼 我等の念々切々の祈りをもつて。
天皇を奉じて革命的大日本建設の唯一路に向はしめよ。
皇紀  二千五百九十年  神武天皇祭   昭和五年四月三日

現代史資料23  国家主義運動3  から