あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

牧野伸顕襲撃 河野隊

2019年02月28日 15時24分54秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊

「磯部さん、
私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、
父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の 「 ろぼ 」 を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、
と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は厳然として
「飛びついて殺せ」 といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せという、たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ」

・・・
河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 


牧野伸顕襲撃
河野隊

目次
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・ 
澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

・ 
牧野伸顕襲撃 1 「 デンポウ ! デンポウ ! 」 
・ 牧野伸顕襲撃 2 「 俺に代って誰か邸内に突っ込め 」 
・ 
牧野伸顕襲撃 3 「 女がいるらしい、君、 女を助けてやってくれ 」 


・ 
牧野伯を救った白衣の佳人 

・ 河野壽大尉の最期 
「 栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、 ということについては、
一つの考えを持っていました。
それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、
いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、綺麗であるが、
反面安易な、弱い方法である。
われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。
自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、
死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、
ほんとうに強い生き方であるという信念です。
この考え方は、私はいまも変わりありません。
しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、
私の進むべき道はただ一つしかありません。
叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです 」


河野大尉 ・ 自決の由

2019年02月27日 20時44分36秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊

自決した河野大尉の遺書は、
私に一つのはっきりした事実を示した。
河野大尉の遺書の冒頭には
次のように書いてある。

時勢ノ混濁ヲ慨なげキ皇国ノ前途ヲ憂ウル余り、
死ヲ賭シテ此ノ源ヲ絶チ
上 皇運ヲ扶翼シ奉リ
下 国民ノ幸福ヲ来サント思ヒ
遂ニ二月二十六日未明蹶起セリ。
然ルニ事志ト違ヒ、大命ニ反抗スルノ徒トナル。
悲ノ極ナリ。
身既ニ逆徒ト化ス。
何ヲ以テ国家ヲ覚醒セシメ得ヘキ。
故ニ自決シ、
以テ罪ヲ闕下に謝シ奉リ、
一切ヲ清メ国民ニ告グ
・・・
 
河野壽

河野大尉は負傷した当時から自決を決意したのではなく、
二十八日、所沢の飛行学校から川原副官が来院して、
学校の意向として、責を負って自決するように勧告した時には、
はっきりと拒否している。
それでは何故に自決したか。
三月二日、宮内省発表の参加将校位返上命令の理由として、
「 大命に抗し 陸軍将校たるの本分に背き
陸軍将校分限第三条第二号該当者と認め 目下免官上奏中のものとす 」
という 記事が発表されたからである。
「 大命に抗す 」 とか 叛徒 とかいうことは、
軍人にとって堪え得るものではないからだ。
同志として一緒に蹶起した河野大尉も、東京の状況は不明で、
一方的情報のみ知らされていた。
よく考えれば
我々同志が大命に抗するなど、
有り得べからざることで、
何かの間違いであると考えるべきではなかったか。
しかし、離れていれば
渦中の我々の心情はわからなくなるのは止むを得ないと思った。
まして 事情を知らぬ一般の人々が、
我々が自決をとりやめたことを誹謗したことも、
致し方のないことであった。
まだ裁判も行われず、憲兵の調査も終わっていないうちに、
命令を下した側の軍の一方的見解に基づく宮内省の発表によって、
我々が大命に抗したと考えてしまったのである。
河野さんは、我々からすれば誤解による自決であり、
残念なことではあるが、
しかし、そのいさぎよい死は人々の称賛を得た。

 
池田俊彦少尉

池田俊彦 著  生きている二・二六 から


河野壽大尉の最期

2019年02月26日 20時41分10秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊

 
河野壽大尉
« 昭和十一年三月一日、熱海衛戍病院 »
「 ご心配かけてすみません 」
弟は はじめて口を切った。
思いもかけず兄弟きりの水入らずになったのであったが、
ここにいたるまでの、緊張した心のしこりは急にはほぐれなかった。
事件の結末が、最悪の事態に立至ったいま、
事件のことに関してこちらから触れることは、
弟の心境をいたずらに苦しめる結果になることを懸念して、意識的にこれを避けた。
「 怪我をしたそうじゃないか。でも経過がよいそうで安心した 」
「 たいしたことはありませんでした。しかし・・・・」
弟は言葉を切って眼をそらして、
「 不覚の負傷でした。大失敗でした。
おかげでなにもかもめちゃめちゃです。
私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはなかったでしょう。
それよりも東京の同志達が逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。
それが なによりも一生の遺憾です 」
「 きっと、血気にはやる栗原が事態をあやまったに違いありません。
私がいれば栗原を抑えることができたと思うと残念でたまりません。
取返しのつかないことをしてしまいました 」
栗原中尉ともっとも親しく、もっとも相通じていた弟としては、
この間の事情について、一抹の予感があったらしく唇を噛んだ。
事件に関する話は避けたいと思った心遣いもいまは無駄だった。
弟の心中には、事件のこと以外には考えるなにもなかったようだ。
「 勅命に抗するに至っては、万事終りです。
いろいろと複雑な事情はあるに相違ありませんが、
ことの如何を問わず、勅命に抗し、逆賊になるにおよんでは、大義名分が立ちません。
こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。
無念この上もありません。
死んでも死にきれない思いです 」
暗然として黙考する弟の姿に、返すべき言葉もなかった。
「 兄さん、どうか許してください。
こと 志と違い、いやしくも逆賊となり終った今日、
私一人はたとえその圏外にあったとはいえ、その責め同断です。
この事態に処すべき私の覚悟は、すでに充分にできました。
立派に死んでお詫びをいたします 」
はっと 胸を衝くものがあった。
弟は死を決意している。
弟の参加を知って以来、日毎に悪化する情勢のなかで、
事件のもたらす最悪の結果がなによりの傷心の種であった。
が、規模こそちがえ、血盟団や五・一五事件等、
この種の結末になにかしら心のよりどころを求めて、
どうしても最後的な死を考えようとはしていなかった。
あるいは そう考えることが怖ろしかったからであろう。
血盟団、五・一五の人々のことが、弟の言葉を聞きながら脳裡をかすめる。
「 しなないでも 」
という 気持ちが浮んでくるが、言葉にはならなかった。
ややあって、弟は再び語をついだ。
「 実は、昨夜以来 まんじりともせず熟慮しました。
それがいつの間にか叛乱部隊となり、帰順命令がでて事態の収拾を見た、
という 最悪の結果を知らされたときは、ただ、呆然として、泣くに泣けませんでした。
しかしこの絶望の中にも、なお一縷るの望みは、
私たち同志が叛徒として処断されるようなことは よもやあるまいということでした。

この最後の命の綱も、先刻の宮内省発表ですべてが終りました。
圏外にあった私も、抗勅者として、同様に位記の返上を命ぜられました。
国家のため、陛下の御為に起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・・」
弟は涙を流し、ふるえる唇を噛みしめて言葉を呑んだ。
「 栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、 ということについては、
一つの考えを持っていました。
それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、
いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、綺麗であるが、
反面安易な、弱い方法である。
われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。
自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、
死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、
ほんとうに強い生き方であるという信念です。
この考え方は、私はいまも変わりありません。
しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、
私の進むべき道はただ一つしかありません。
叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです 」
弟の眼にはもう涙はなかった。
沈重な面持に、低く重く、悲壮な信念が一言一句、強く私の肺腑を衝いた。
「 東京の同志たちは
この叛徒という厳然たる事実をなんと考えているのか諒解に苦しみます。
私共の日頃の信念であるところの、
あらゆる苦難を排して最後まで闘い抜く生き方も、
現実の私どもの冷厳なる立場は、絶対にそれを許さないのです。
私どもはたとえ、こと破れたさいも、恥を忍んでも生きながらえ、
最後まで公判廷において所信を披瀝ひれきして世論を喚起し、
結局の目的貫徹のために決意を固めていました。
しかし 日本国民として、
絶体絶命の 叛徒 となった現在、なにをいい、なにをしようとするのでしょう。
東京の同志たちが、もしあえてこの現実を無視して、公判廷に立つことができたとしても、
叛徒の言うことが、どうしても、世論に訴える方法があるでしょうか。
たとえその途が開けたとしても、その訴えるところが世論の同調をえることがあるとすれば、
それはいたずらに叛徒にくみする者を作ることになります。
そのあげくは、さらに不忠を重ねる結果となるに過ぎないということを、
深く考えねばなりません。
こと志とまったく相反して、完全に破れ去った私どものとるべき唯一の途は、
その言わんとし、訴えんとするところのすべてを、これを文章に残し、
自らは自決して 以て闕下にその不忠の罪を謝し奉るより他はありません 」
弟が考え抜き、苦しみ抜いた最後の決意はこれであった。
不動の決意を眉宇に輝かせながら語る弟の語に、
何一つ返す言葉もなく、私はただ無言でうなずくばかりであった。
弟は語調を改めて、
すくなくとも自分一人は、幸か不幸か熱海にあって、
勅命に抗した事実はいささかもないことを認めてもらいたいこと、
なお、亡父母もこのことだけは喜んでくださると思うと、
苦悩のうちにも、わずかに自ら慰めるところのある心境を語った。
・・・
・・・
「 河野大尉、今朝六時四十分死去す、来られよ 」
との 官報が配達された。
義兄と私は二人、ただちに熱海へ急行した。
ラジオが弟の死を報じたのは午後一時だった。
六日午後一時戒厳司令部発表  第八号
湯河原にて牧野伯襲撃に際し負傷し、東京第一衛戍病院熱海分院に入院中の
叛乱軍幹部元航空兵大尉河野寿は、昨五日自殺を図りて重態に陥り、
本日六日午前六時四十分遂に死亡せり。

自決

三月五日の朝、
私が持参した風呂敷包の下着類の中から、
弟は果物ナイフのみを受取って、
剃刀の方は 「 これはお返しします 」 と 院長に返したという。
私が来院して帰ったことを知って、末吉中尉が弟の病室を訪れたが、
弟は平素とすこしも変らず、淡々として談笑していたが、
その談笑のなかに、いよいよ、午後決行の決意をほのめかされ、
言外に最後の訣別を告げて、中尉は病室を辞し、そのまま病院をでた。
この日、特に入院将校中の最上席者であった金岡中佐から、
昼食を共にしたいとの申し出があり、
弟はありがたくお受けして、両名で最後の昼食をとった。
感慨ひとしおに深いものがあったらしく、
死後、左の歌が、中佐宛に残されていたのを発見した。
  武夫もののふの道と情を盛り上げし
  昼餉ひるげの味のいとゞ身にしむ
入院以来、弟に附添いっていた附添婦は、
この日、朝からなにか予感があったらしく、
終始弟の身近にあって離れなかった。
三時すぎ、彼女が下の事務所に立った隙に、
弟は白衣を素早く軍服に着替えて、縁側から病室を脱けでた。
病棟の横手の低い垣根を越えて、左手の山林に入ると、
病院との境界を劃かくする板塀から一〇メートルくらい離れたところに、
大きな松の木がある。
木立を通して崖下に熱海湾が碧い色をたたえているのが見下せる。
その松の根元に端坐した弟は、はるかに東方皇居を拝し、
午後三時半頃、
上着を脱いで、用意の果物ナイフを持ち、
武士の作法にのっとって、
下腹部を真一文字に割き切り、
返す刃で頸動脈を突いた。
一刀、二刀、さらに数刀が加えてある。
鮮血が拳を染めて軍袴ぐんこにしたたり落ち、
その血に おおいかぶさるように、前に崩折れた。
病室に帰った附添婦は、
弟の姿が見えず、白衣は整頓され、軍服のないのに驚いて、
たたちに院長に報告した。
院長の支持で、一同で捜査に取りかかっが 院内に見当らず、
院外にでた一班が、間もなく自決現場を発見した。

駆けつけた瀬戸院長が弟を抱き起すと、
まだこと切れていなかった弟は、きっと院長を振り向き、
頸部を指差して、
「 まだ切れていませんか 」
と、たずねた。
院長が首をかしげるのを見て、
弟は鮮血にまみれた右腕を振りあげ 最後の力をふりしぼって、
さらに一刀を頸部に加えたという。
すでに周囲に病院の人々が多数集まったなかで、
院長は上体を支えて、止血法を行うと、
弟は
「 よしてください 」
と、すでに力ない腕を振って、これを拒否した。
しかしそれも、力尽きて、再びがっくりと前に伏した。
手にした果物ナイフは、刃が滅して悲惨というほかなく、
突き傷から推しておそらく六刀は加えたものらしい。
院長は担架を命じて、元の病室に収容した。
人々は弟の絶命を信じたという。
しかし、寝かせる位置を打合す人々が
「 北枕に 」
と 語り合うのが聞えたらしく、突然意識を回復した弟は、
大声に、
「 皇居に向って東向きにしてください 」
と 叫び、
感に打たれた人々が、静かに東向きに寝かせると、
満足気にかすかにうなずいて、
それきり また 意識を失ってしまった。
用意した亜砒酸は、自決直前に服用したが、量が多かったせいか吐きだしてしまって、
事後の万全を期した処置も悲運にも無駄に終った。
一刀にて死をえず、
数撃を加えてなおかつ死を果しえず、
しかも冷厳なる意識を保つ弟を思うと、まことに無惨というほかなかった。
弟はその後も おりおり 意識を回復しては、
枕頭に詰めていた人たちと、
「 刃物が骨に当って切れなかった 」 とか、「刃物が鈍かった 」 とか、
その他のことを断片的に語りながら、次第に昏睡状態に陥っていった。
そして、翌六日の午前三時頃にはまったく意識を失ってしまった。
病院からの急報によって、東京第一衛戍病院から田辺院長が自動車でかけつけ、
最後の処置をとられた。
白いカーテンを張った縁側の外が、明るくなってくるころ、
脈搏を診る田辺院長から、静かに臨終が告げられた。
六時四〇分であった。
瀬戸院長、末吉中尉が最後の死水をとった。
割腹後、実に一六時間の長きにわたって生を保ちながら、
一言半句も苦痛を洩らさず、
また苦面をさえ呈せず、
従容しょうようとして死についたという。
机の上に、整然と多数の遺書が残されてあった。
和紙に毛筆でしたためられたものであった。
そのなかに瀬戸院長宛の辞世があった。
  辞世
  あを嵐過ぎて静けき日和かな


私と義兄が熱海の病院に着いたのはもう夕方に近かった。
遺骸を引取りにこいという、次の電報を待って出てきたからである。
病室にはすでに仏壇が設けられ、
たくさんの生花や花輪が供えられていた。
弟は昨日のままの布団に横たわっていたが、面を覆った白いガーゼが淋しかった。
「 どうか会って上げてください 」
と、うながす末吉中尉の言葉に、二人は弟の傍に座った。
ガーゼを取る。
本当に温和な死顔だった。
なんの苦悶も、恨みもない、清らかな顔だった。
よかった。
ありがとう、と 私は瞑目して頭を下げた。
再びガーゼを面にかけて、義兄は静かに掛布団をはいだ、
外科医らしく、手際よく咽喉部の傷口をあらためた。
すくなくとも 五、六回はついたのであろう、ジグザグの傷口が無惨である。
さらに 白い下着を排して、腹部を開いた。
下腹部に薄く、真一文字に見事な切創がまざまざしく、
じっと見つめた義兄の口から
「 よくやった 」 と 一言、感極まったように洩れた。
「 立派に武士らしく切腹して死にます 」
と 約束した弟は、約束通り 立派に死んでくれた。
二人はあらためて合掌を捧げた。

河野司著  私の二・二六事件 から


牧野伯を救った白衣の佳人

2019年02月10日 20時37分12秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊


森鈴枝 さんの談話

二月二十五日は、何となく無気味な日でした。
朝から雪もよいの陰鬱な空模様でしたが、
午後になって、何だか不審な人夫風の男が、たびたび別荘の周囲をウロウロしており、
夕方ご主人様が皆様で散歩に出られた後も、また見かけましたので、
いっそう気味悪く思っておりました。
それで夜になって当夜の宿直であった護衛の皆川巡査に、
「 今日は 何だか気味の悪い日ですから、
もし泥棒でも入るようなことがあると 私共の責任ですから気をつけて下さいね 」
と、お話 したような次第でした。
ところが皆川さんは、こともなげに、馬鹿なと言わんばかりに、
「 なに、これがありますよ、心配することはありませんよ 」
と、片手に拳銃を示しながら笑って済ましたのでした。
今から考えてみますと、やはりあれが予感というものであったのでしょう。
こうして二十五日の夜は、
いつもと同じように御主人様は九時半ころ お寝みになり、
私共も間もなく床に就きました。
当夜は表のほうには 御主人様と私がお居間に、玄関の間に皆川さんが宿直しており、
奥のほうには 奥様と吉田様の御嬢様に女中さんが二人 泊っていたのです。
夜に入って 雪が白く地面を覆っておりました。


二十六日、
すなわち翌朝の早暁でした。
いつも起きます時間とて、ウツラウツラして床の中におりますと、
何だか裏の御勝手のほうが騒がしく、
起きようとしておりますうちに、皆川さんが出て行ったかと思う間もなく、
大きな異常な音がして、表の玄関のほうで大きな声で怒鳴り合う声がして、
ただならぬ空気を直感いたしました。
「 これはただごとではない 」
と、瞬間に起き上がり、寝着を着換え、足袋をはき、御主人様のほうを見ますと
すでにお目醒めにて、不安のご様子に見受けました。
ただちに私は廊下に出て玄関のところまで行きますと、
皆川さんの部屋で大声に罵り合うような声と、靴音とを聞き、障子を開けて見る元気もなく、
半ば 焦心してすぐに引返し、御主人様の許に帰りました。
万一の場合、お寝着のままでは申訳けないと、大急ぎで着物を着換えていただきました。
その間に 表のほうの騒ぎは、ますます激しく私もまったく興奮と恐怖のため、
その間の状況はほとんど記憶に残っておりません。
とにかくピストルの音に交って大きな音がしており、
人々の怒鳴り合うような声だけがボンヤリ耳に残っております。
奥様がいつの間にか、御主人様の側に来ておられましたのも、
いつ来られたのか前後の記憶がございません。
そのうちに家事が始まりました。
煙が廊下からお居間へと入ってきます。
その間にも銃声が聞こえるのです。
外に出ようと雨戸の隙から覗いて見ましたが、外部は危険とみて、
皆様と部屋の中で呼吸を殺しておりますと、
廊下で皆川さんが私を呼ばれる声を耳にしました。
廊下に出てみますと、曲がり角のところに皆川さんは寝着姿のまま、
拳銃を右手に持って俯向きに倒れておられました。
近寄りますと、
「 森さん、三人ばかり斃しましたが 私もやられました。
もう駄目です。
どうか閣下をお願いします 」
と、呼吸もたえだえに語られるのです。
それだけ言ってしまわれると、
バッタリとそのままに俯伏せに顔を伏せてしまわれたのです。
私も無意識に皆川さんを抱き上げようとしましたが、
女手の私の力ではビクとも動かすことができません。
拳銃を持った手がいかにも苦しそうなので、
しずかにその位置を直してあげました。
傷は胸部に二、三発の銃創のように思いました。

煙がどんどんと入って来ます。
ヒシヒシと御主人様の身辺に危険が迫っているのを覚え、
私も もちろんごいっしょに死ぬ運命を覚悟いたしました。
銃声は断続して聞えます。
すぐにお居間に引返し、
かねて万一の場合にと、戸棚にしまってありました拳銃のことを承知しておりましたので、
取出そうと思い、戸棚を開け 心当たりをいくら探しても見当たらないのです。
御主人様は奥様と共に呼吸を殺しておられます。
その間にも火の手は次第に拡がるらしく、煙はもえもうとして迫り、
壁にあいた小穴を通して火の手が赤く目に映じるのです。
後でわかったことですが、探しあぐねた拳銃は、やはり戸棚の中にあったらしく、
焼跡のその場所から出てきたそうです。
また壁を通して火焔が見えるはずがないと、後で考えてみたのですが、
それは機関銃の弾による穴だったらしいのです。
逆上しているときは、まったく何をしているのか判りませんし、
もちろん正確な記憶も想い出すことは困難なものです。
もし、この間に、侵入者の一人でも われわれの部屋に入ってこられたら、
御主人様の運命は恐らく終りをつげていたでしょうし、
私もまた 同じ運命をたどっていたに相違ありません。
わずか三分か四分の間だったのでしょうが、当時の私共にとっては、
数時間の長さにも感じられたものです。
一寸先に迫った恐怖と、圧しつけられるような心臓の重圧感に、まつたくどうしてよいか。
身の置きどころもなく、いよいよ迫る火の手に追われて危険を考える余裕もなく、
否応なしに外へ出ることになりました。


雨戸を開けますと、庭先の崖のほうで軍人の人が 「 危ないから出てこい 」 と、
手招きをしてくれました。
しかし侵入者の目標である 御主人様の危険を感じますので、
ふたたび躊躇して屋内に入ろうとしましたが、火焔は もはや中にいることを許しませんでした。
火に追われ、煙に追いたてられて 奥様と二人で御主人様を抱え、
隠すようにして重なって庭へ飛下りました。
そして御主人様を護りながら お庭の中央に出ましたとき、
奥のほうのお部屋からも、私共の姿を見てでしょう、御嬢様と女中さんが飛出して来まして、
皆いっしょにひとかたまりになっておりました。
近所にはたくさんの人の気配がいたしますし、火の手はいよいよ家中に回ったようです。
突然、崖下のほうからと思いましたが 銃声がするとともに、
私は右肘の下に強い衝撃を受けました。
撃たれますと同時に、悲鳴をあげたことを覚えております。
しびれるような鈍痛を覚えつつも興奮し、気が張っておりましたせいか、
気も失わず、
とっさに女中さんの羽織を 御主人様の頭からかけて、皆で取巻くようにして支えながら、
庭の隅のほうへと参りました。
庭から裏山へ続く崖のほうには、消防隊や青年団の人々が来ていましたが、
ここに来たときに ふたたび銃声が聞こえました。
その銃声と同時に、
抱くようにしていた御主人様が、崩れるように 前かがみに倒れられたのです。
一同 ハッとして、
びっくりして 起こしましたが、
何事もなくまったく ご無事であったことが判ったのです。
拳銃の危険、襲撃者の来襲、追いかけられるような危急に押出されるように、
御主人様を真中にして、
いつの間にか町の人々の手に入っておりました。
女の羽織を頭からかぶって、
前かがみに丸くなって足許の危ない御主人様を、皆でお助け申しあげながら、
消防団員の手の中に辿りつきましたときには、
まったく ホッといたし、「 助かった 」 という気持とともに、
これら消防隊員がいかに力強く思われたことでしょうか。

屈強な青年が御主人様を背に負い、山へとかかりましたが、
私は背負うことが かえって身体を現わすことになりますので、すぐにやめてもらい、
そうしてその代りに、二、三人で両側から抱えながら、やっと危急を逃れることができたのです。
いっさい無我夢中でした。
何がなにやら判りませんでしたが、
町の人々から山の上に運ばれましたとき、やっと、もう 大丈夫だと考えました。
急に気がゆるみましたせいか、
今まで忘れていました傷の痛みと、出血のはなはだしいことが 初めて感ぜられました。


これより先、
別荘の庭を出ますとき、
だれかに、
「 もうだれも残っている人はありませんか 」
と、聞かれました。
集った方々を調べ、
「 皆川さんが一人見えません 」
と 申しました。
しかし、御主人様はじめ 皆さんは、
それに対して一言も お言葉がございませんでした。
そのままで、いそいそと先を急いで山へかかってしまったのです。
私としましては、これが唯一の心残りでなりません。
「 閣下をお頼みしますよ 」
と、苦しい呼吸のなかから、うめくように語られた皆川さんの最後の言葉が、
今でもなお 耳底に残って 忘れられません。
拳銃を持った手の位置を直してあげて、さらに安全なところに移してあげようと、
手をかけましたものの無駄でしたのは申上げたとおりです。
皆川さんはあれっきり、
一言も語られず、
そして
廊下に俯伏したあのままの位置で、
焼跡から無惨なお姿となって発見されたのだそうです。
あるいは あのお言葉を最後に、この世を去られたのかも知れませんが、
わずか数分前には はっきりと力強いお言葉を聞いた私には、
燃え盛る火焔の中に、皆川さん一人を取残して、
私たちのみが安全を求めて去って行くことがいかに恐ろしい、忍び難いことであったでしょう。
平静に返って静かに回想し、内省してまいりますとき、
絶え難い心の重圧が私の責任を叫び続けるのを感じるのです。
皆川さん一人の尊くもりっぱな犠牲によって、
御主人様は
まったく虎口を逃れられ、
私共もまた 生還の日を得たことに、いささかも相違ないのです。
それなのに・・・・・・
「 皆川さん、許してください 」
と、涙のうちに合掌して、
今は還らぬ皆川さんの霊に対し 心からなるご冥福を祈るのみでございます。
・・・
森さんは そっと、ハンカチを手に涙をふいた
・・・
私が皆様からのお勧めで、山を下りまして町の病院へ治療のために行きましたのは、
負傷後、約一時間以上も経っておりましたでしょう。
緊張がゆるみましたため、急に寒さが身にしみますと共に、
傷の痛みも感じ、なんとなく足許も定まらないように覚えました。
病院に参りましたら、皆川さんの拳銃で負傷された軍人さんが一人と、
土地の青年と消防の方が一人ずつ 襲撃隊の銃で傷を負って、治療に見えられたことを聞きました。
私が一番遅く手当にうかがったわけです。
銃傷は、弾が骨に当って貫通せずにはね返ったらしく、
当った場所とほぼ同じ個所を破って出て行ったもののようでした。
病院では簡単に考えて治療をしてくださったようで、
とにかく傷口は二十日あまりで癒り、病院を出ましたが、
しかし実際には骨を折っておりましたのと、出血が多量であったために、
その後 半年間、さらに治療のために苦しまねばならないことになってしまいました。
依然として身体はすぐれず、今だに仕事のほうも休み勝ちで、
ぶらぶらしております有様でございます。
これも災難と諦めておりますが、
逝くなった方々のことを考えますと、このくらいのことは 何でもないことでございます。
その後、牧野様へはご用もないのでございますので、
おうかがいもいたしませずにおりましたが、
先日ま皆川さんの一周忌の際 お招きにあずかっておうかがいいたしました。
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約一時間近く、森さんは終始緊張した面持ちで静かに語ってくれた。聞いている人たちも固唾をのんで耳を傾けた。
森さんにはてみれば、聞き手は皆、いわば « 御主人様 » 牧野伯の適役側の人ばかりである。
当日襲撃隊の一員、綿引正三もいる。ほかに前日に夫人同伴で湯河原の牧野伯滞在の別邸を観察してその動向を確認し、
その結果を一足先に帰京させた夫人から 西田、磯部に報告させた澁川善助の夫人の絹子さんもいる。
さらに襲撃隊員中ただ一人、死刑となった水上源一の未亡人初子さんもいる。
この人たちへの配慮からか、被害者である森さんの談話のなかに、
襲撃隊員側の行動に対する非難、憎しみの言葉が少しも聞かれない。
これが本当の心境であるかどうかは臆測の限りではないが、少なくとも、
面識のない私の 「 会って話を聞きたい 」 との電話での申入れに対して、いささかのこだわりの様子もなく、
快く承諾して出かけて来られたということは、私たちに敵意を持っていないことのしるしとして嬉しいことであった。 

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「 襲撃を知ったあとの、牧野伯の態度はどんなでしたか 」
との 質問に対して、
森さんは ただ口を緘とざして語らず、
重ねて反問すれば、
「 それは---」
と、言葉を濁して黙々として俯向くのみ。
すくなくとも当時主人として仕え、その生命を護りつつ死線を越えたる森さんとして、
この問に対して答ふるに能はざる心境を洞察するとき、
万事はこの無言のうちに千万言の解答を与へられたるに優るものと信ずる。
以上 当時における牧野伯の態度を察するに余りあるのではないか。
襲撃に腰を抜かし挙措悉く か弱き婦人の力に縋がり、
自ら辞瑛の方途を講ずるに非らず、勿論進んで襲撃者に対してその理由を質し、
非を脱服せしめんとするが如きは微塵だになく、
恰も蛇にみこまれた蛙にも等しく
進退の自由を失ひて諤々がくがくたる醜状彷彿として目を掩おおはしむるものに非ずや。
脱出するに当たりても、女中の女羽織を頭よりかぶりて辛うじて女手に縋りて支え、
一発銃声の至るや忽ち崩れ折れて地に伏す。
老齢なりといへども歩行に不自由あるを聞かず、
しかも歩行の自由を失ひて人の背によりて辛うじて身の安定を得たるを知る。
のみならず己れの安全を計るのみに汲々として他を顧ることなく、
貴重なる一身を犠牲にして
自らのために その職責に殉じたる皆川巡査の崇高なる生命すら、
冷然として火焔の中にこれを見殺しにして恬然たるに至っては
その心事一点人間として認むべき何物も存しないではないか。
事件平静に復したる後、虎口救出を助けたる人々への処置についても幾多の非難を聞く、
敢て真偽を確むるを要せん・・・・。
・・・河野司 森さんの談話を聞いた当日 ( 昭和12年6月9日) の手記

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襲撃隊員の銃弾による受傷をおして、
牧野伯を無事に救助隊員の手に引渡し、脱出を果した安堵と、
傷の出血・激痛にがっくりと崩れ折れて 半ば失心した森さんは、
消防団員に助けられて回春堂病院に運び込まれた。
そこにはすでに襲撃で傷ついた河野隊の宮田晃曹長と
消防団の岩本亀三、八亀広蔵の三名が入院していた。
最も出血の多かった森さんの治療が最後になったことは、その後に大きな影響を及ぼすことになった。
この病院で二週間の治療のあと、東京に帰ったが傷の工合は はかばかしくなく、
順天堂医院で検診の結果 骨折が判明し、その療養のためふたたび湯河原に戻り
佐野屋旅館で一カ月余の療養生活を送ったあと、いったん故郷に帰った。
この間の療養日は牧野家からの支弁であった。
受傷以来の貧血症に悩まされての在郷生活であったが、いつまでも遊んでいられず
東京の看護婦会に帰ったのは十二年の三月初めであった。
牧野家との縁は切れたが、復帰した森さんには、事件での名声で引く手あまたの人気が集った。
六月八日、私からの電話のあったとき、森さんは会長に相談したという。
会長の、
たびたび電話をもらっているので行っていらっしゃい
との言葉に、
承諾の返事をしたのでした
と 語ってくれた。
このことは
森さんにとって大きな影響をもたらすことになったようだ。
事件以来
当局の厳重な監視下にあった栗原大佐や私のほかに、
仮釈放で出獄していた 当の綿引正三の出席した集りとあっては、
当局が見逃すはずはなかったろう。
叛乱関係者に好意を寄せたと見られては、
森さんの身辺に影響が及ぶようになったことも想像されることである。
この年の夏、
牧野家から呼ばれた森さんは家令から、
これまでの謝礼金として、縁切りともいえる二百円を手渡された。
長い間の馴染で可愛がってくれた家令が、
慰めるような言葉をかけて小声でささやいたことによると、
皆川巡査の遺族には三千円が支給されたということだった。
二百円と三千円、生きている者と死んだ人との相違でもあろうが、
いぶかしい思いを秘めて牧野家とおさらばした。
当局の冷たい風が、次第に « 名物看護婦 » の 周辺におよんでいったようだ。
明石看護婦会への干渉も加わり、人気者が厄介者扱いとなって、
身辺に見切りをつけてか、森さんが淋しく東京を去ったのは 十二年の晩秋であった。
郷里に帰ってからも、さらに結婚後も、土地の警察の監視はつきまとい、
看護婦の免許さえ取上げられてしまったという。
驚いたことだった。

昭和十二年六月九日
出席者  栗原勇、中島荒次郎、綿引正三、渋川絹子、水上初子、河野司

二・二六事件秘話  河野司著 から


牧野伸顕襲撃 1 「 デンポウ ! デンポウ ! 」

2019年02月07日 20時26分49秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊


機関銃下に牧野邸炎上
二月二十日ごろにやるのではないかと、わたしは考えていた。
それを、二十五日の昼ごろになってから、
「 今晩やるから・・・・」
と 栗原中尉に言われた時は、ドキッとした。
当時 一等兵であったわたしは、
朝に素早く仕事をすませ、あとはぶらぶらしているような、態度だけ上等兵、
といった 生活をしていた。
二月二十六日は、ちょうど除隊日に当っていたし、
その二、三日前に歩兵砲隊に変っていたので、わりとのんきな数日を過ごしていたのである。
それでも、二十五日には、歩兵砲隊の夜間演習があった。
それと蹶起とが何か関係があったかは知らない。

二十五日 夜八時。
わたしは自分の隊の新兵のベッドに餞別として買って来た大福をしのばせ、
身のまわりを整理して、栗原中尉の機関銃隊へ行った。
もう 二六年式のピストルがずらりと置いてある。
この二六式というのは、大変性能が悪く、引き金がちょっとでも重いと すぐ弾が右へそれてしまう。
その 一つ一つをたしかめて、一番引き金の軽いものをとった。
宮田晃、中島清治も一緒だった。
そのあと、六中隊へ宇治野時三軍曹を呼びに行き、次に、歩兵中隊の尾島健次郎を呼びに行った。
彼の部屋のカーテンはしまっていたが、中に人影がみえた。
ちょっとまずいと思い、窓をコツコツとたたいてめくばせした。
彼だけ、真っ暗な将校室へつれこんで、だまってピストルをみせてやった。
「 今夜 やるよ 」
と 言うと、
ひどく とまどった顔をした。
この人は、参加しないな、
と 直感的に感じて別れた。
中隊に帰って来ると、宇治野が、すべり止めの足袋をもって来ようと言い出した。
二、三人で戦用倉庫へ忍んで行って、動哨の目をくらませて、舟艇をこぐ時に使う足袋をぬすんだ。
九時。
所沢航空隊の河野大尉が来た。
湯河原の伊東屋旅館本館に泊っている渋川が、
別館に牧野伯がいるかどうかをたしかめるのを待っていたのだ。
わたしは、はじめ、首相官邸襲撃に加わるはずだったが、
河野大尉が来る直前、栗原から、
「 黒沢は、湯河原へ行ってくれないか 」
と いわれた。
「 細かい指示は、河野に従ってくれ。時間は四時半の予定だ 」
栗原が出してくれた信玄袋、軽機関銃の弾を千二百発位つめた。
だいたい湯河原隊の使った武器というのは、
煙幕十本、毒ガス( 緑灯 ) 十本、二六式ピストルの弾二百五十発、軽機関銃二梃、三八銃二梃、
二六式ピストル( 弾付 ) 五、六挺、それに 日本刀が二振りであった。
湯河原出発は、零時ピッタリだった。
この出発を山口大尉が週番として知っていた。
われわれが出て行くときは、
営兵が 「 頭右 ! 」 を して 送ってくれた。
おもてには赤坂のハイヤー ( シボレー ) が 二台回してあった。
寒い夜中だ。
みんなトラックの上でこごえそうであった。
時間調整をしながら、
三時過ぎに小田原を通過した。
根府川付近へ来たとき、道端のお宮で若い衆が たき火をしているのに出会ったので、
そこで休憩し、たき火にあたった。
若い衆は何も知らず、大歓迎をしてくれて、
「 兵隊さん、大変ごくろうです 」
などと 言っていた。
われわれも 「 実弾演習だ 」 と とぼけていた。
午前四時過ぎ、湯河原入口に着いた。
一旦 車をとめ、懐中電灯をとりだして、図面を見せ、
一同に、だいたい牧野の宿泊の家屋の位置を知らせ、
警察との距離などについてもたしかめておいた。
そこで、誰が中へ入るかを決定した。
ピストルをもったものが中に入り、日本刀を持ったものが見張りということにきめた。
ピストルを持っていた私は中へ入ることになっていたが、少尉の肩章をつけた男が、
「 おい、兵隊。ピストルを俺によこせ 」
と わたしに命じた。
奴さんは 少尉の肩章をつけていたので、ピストルをしぶしぶ渡してしまった。
あとで聞くと、宮田という軍曹であった。
兵隊たちは警護にあたらせることになった。
「 巡査は射つな。窓ガラスを全部射ちやぶるのだ 」
と 河野大尉が言った。
玄関には宇治野と中島が立った。
わたしは、軽機二梃と、三八銃を二梃持って、弾を充填した。
そして、台所の裏手の高いところに軽機を据えつけた。
配置が終わった。

河野壽大尉が、
「 デンポウ! デンポウ! 」
と 叫びながら台所の扉をたたく。
だれも出てこないので、蹴破って中に侵入した。
郡靴でドカドカと歩きまわるのがきこえる。
すると、パ、パーン、と 銃声がきこえた。
わたしの足もとに、銃弾がうなりを生じて飛んで来た。
皆川巡査の射ったものだった。
頭の毛が、ゾーと立ちあがってしまって、わたしは完全に足の力を失った。
そんな状態が五分ぐらい続いた。
さらに、ピストルの音が激しくなったころ、
「 やられた! 」
という声が聞こえる。
ふと足もとをみると、河野大尉が軍刀をつえにしながら、台所から出て来る。
軍服の二ツ目のボタンと、三ツ目のボタンの間を射たれて血が流れている。
その弾が、筋骨をすべって横腹に頭を出している。
だから、二カ所から血が噴き出ていた。
私は、それをみて、がっかりした。
総指揮者がやられた、というショックは大きかった。
河野大尉は、大きな意志に腰をかけ、軍刀をついている。

ここまでのいきさつを、その直後 友人にきいたとおり 述べてみよう。

河野大尉らが 家の中にとびこむと、皆川巡査がとび出して来た。
すぐとりおさえて、牧野のいる所へ案内させる。
しかし、巡査は当然のことながら、牧野のいないところばかり案内した。
「 いないじゃないか 」
と、怒ると、
皆川は部屋の隅に置いてあった自分のベッドに、スルスルと近寄り、
ピストルをとって、いきなり射った。
それで、河野大尉が倒れた。
宮田軍曹が、先刻わたしから取り上げたピストルを発射すると、自分も首を射ち抜かれた。
巡査は膝を射たれて倒れたが、皆川は横たわったまま応戦した。
その時、水上源一が高台のわたしへ、
「 威嚇しろ! 」
と 叫んだ。
わたしは、軽機を腰にあて、別館の屋根にむかって、盲射ちに乱射した。
すると瓦が一メートル程うえにすっ飛ぶ。
すさまじい音だ。
これで湯河原中が目を覚ましたかと思われた。
その時 河野大尉が出てきた。
「 火をつけろ! 」
と 命令した。
火鉢から火をとり、ヘイ板を破って薪代りにすると、お勝手口にかけて、燃やしはじめた。
五分もしないうちに、火は燃え拡がった。
おばあさんが、家からあわてて首を出す。
「 出ると射つぞ 」
と おどかす。
牧野伯の奥さんであると思われた。
いいかげん火がまわったころ、一発のピストルの音がきこえた。
河野大尉はその音を聞いて、牧野伸顕が自決したのだ、と 思い込んだようだ。
「 引きあげだ!」
中島が飛んで来て私に伝えた。
すでに、火はごうごうと燃えはじめ、側にいると火傷をするほど熱かった。
その時、子男の綿引が、火の中を、倒れた宮田軍曹をかついで出て来た。
われわれは、河のほとりまで退いた。
そこで、ふりかえって見ると、
「 兵隊さーん! 助けて 」
と、石垣に、女の人 ( 麻生和子夫人 ) と、おばあさんが中腰になって叫んでいる。
よく見ると、その足もとに、うずくまった男がいる。
私はハッとして、
「 牧野だ! 」
と、三八式銃をとりあげ、その男に狙いをつけた。
五米ぐらいかと思われるほど近くに見えた。
すると 河野大尉が
「 やめい! 」
と 私を制した。
牧野は死んだのだ、
と 言う。
その頃には、消防ポンプが数台来ていた。
その消防夫へ、
「 おまえたち! この言えは燃やすのだ! 水をかけるなら、隣の家にかけろ! 」
と 水上が言った。
黒田も河野大尉に、
「 女 子供は かわいそうだから、助けます! 」
と 言って、
崖の上から、女 子供をだきおろした。
おばあさんを下し終わると、あとに看護婦と、もう一人の男が残った。
黒田は、ピストルを抜くと、
「 天誅! 」
と 叫んで、その男へ射った。
牧野だったのだ。
しかし、射った弾が看護婦の手首にあたって、ものすごい悲鳴を看護婦はあげた。
びっくりした黒田は、あわてて看護婦も牧野伯も抱きおろしてしまった。
どうにも、つじつまの合わない話だが、
その場の状況というものは、そうせざるを得ないようなものだったとしか考えようがない。

歩兵第一聯隊一等兵  黒沢元晴
現・資源通信社社長
人物往来/S・40・2
目撃者が語る昭和史  第4巻  2・26事件


牧野伸顕襲撃 2 「 俺に代って誰か邸内に突っ込め 」

2019年02月06日 20時13分32秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊


河野壽大尉
一足先にやりますよ
航空兵大尉河野壽は、その前年の昭和十年十月に、満洲から所沢飛行学校の操縦科学生として内地に帰ってきた。
所沢の学校にほど近い下宿屋玉屋旅館の女将北条ふく さんは、河野が二年前の機関科学生時代からのお馴染みで、
河野を、わが子のように面倒を見てくれた。
河野もまた、この北条の小母さんを心から頼りにして、安心してなにごとも打ち明けていたようであった。
この玉屋旅館の下宿生活が再びはじまった。
二月の初めの土曜日だった。
「 小母さん、明日は日曜だから東京にでてきます。もしかすると、月曜日も帰らないかも知れませんが、心配しないで下さい 」
と 言い残して出ていった。
しかしその河野が日曜の夜遅く、悄然として帰ってきた。
寝入りばなの小母さんが羽織をおりながら出迎えると、腰の拳銃をはずして、机の上にドサリとほおり出した。
「 小母さん、人一人を殺して短くて十年。出てくれば僕も四十です。考えればつまらないことのようにも思えますね 」
と、黙然として考え込んでしまった。
かねてから河野の交友関係と思想関係を承知している小母さんである。
「 河野さん、本当につまらない考えを起してはいけませんよ。またなにかあったんじゃありませんか 」
と いぶかりながらも、なにかさしせまった空気を直感しないではいられなかった。
前年の機関科学生時代にも、急進青年将校を中心として蹶起の企図があり、同志将校がそれぞれ配置についたが、
未遂に終ったことがあった。
この時も河野は参加していた。
帰ってきた河野は悲憤して、同志の優柔不断を慨し、大言壮語、恃むに足らず、俺はもう事を共にしないと、
一時きっぱりと関係を断ったことがあった。
小母さんはこの絶縁を喜んでくれた。
しかし、河野が満洲の航空隊に転任し、再び操縦学生として帰ってきた一年後には、河野はまた、旧の交友関係に復していた。
さらにいちだんの尖鋭さを加えていることを知った。
この日も河野は、単身牧野伸顕伯爵を探索すべく、機会あらば襲撃を覚悟して湯河原におもむいたのであった。
所沢から上京した河野は千駄ヶ谷の磯部浅一宅を訪ねた。
もう夜の八時を過ぎていた。
軍刀と拳銃を持った河野を見て磯部はハッと思った。
最近の数次にわたる会合において、同志将校の足並みはなかなか揃わず、最後の決行への踏切りがつかない際である。
磯部とともに最急進論者の河野は、逡巡する同志へ見切りをつけるような口吻を洩らしていたからだった。
はたして、
「 磯部さん、私は一足先にやるかも知れませんよ 」
と ポツンといった。
困ったといった深刻な顔つきで磯部は、
「 どうしても我慢できないか 」
という。
「 いや、牧野の偵察をしに湯河原にゆくだけですよ 」
河野はこういって笑った。
磯部はせっかく、各部隊との関係、連絡がここまで進捗し、もう一歩というところにきている重大な時機だから、
軽挙はやめてほしいことを切言して、自重をうながした。
しかし河野は、また笑いながら、
「 磯部さん、牧野という奴は、悪の本尊ですよ。
それにもかかわらず運の良い奴だから、やる時にやって置かないと、またいつやれるかわかりませんよ。
やられたらやってもいいでしょう 」
磯部はいよいよ困った顔をして考え込んだ。磯部、河野の交友はもっとも密接で、お互いにその性格を知っている。
とめて引退るような河野ではない。
「 よかろう、やって下さい。東京の方は私がただちに連絡して、急な弾圧には備えることにしましょう。
もしひどく弾圧するようなら、弾圧勢力の中心点に向って突入することくらいはできるだろうから・・・・」
磯部は観念の肚を決めた。
それにはつぎのような理由があった。
これより先、磯部は決行計画について、二人で話合ったことがあった。
その時の河野の話を、磯部は忘れることができなかった。
「磯部さん、私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の「ろぼ」 を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は厳然として 「 飛びついて殺せ 」 といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、父が子供の時教えてくれた、賊に飛びついて殺せという、たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ 」
こうした透徹した信念には、磯部もいまの河野を翻意させることのむだなのを知っていたのだろう。
こんないきさつで、確固たる決心をもって湯河原に乗込んだ河野だったが、翌日の夜に入って、ガッカリした。
といって再び磯部の家に帰ってきた。
牧野は光風荘にいるという情報だったので、光風荘を探したが、そんなところはないとのこと。
牧野は天野野にときどきやってくるということを旅館の者に聞いたので、それとなく天野野を探って見たが、
牧野はきていないことは確実だった。
無駄足に地団駄をふんだ河野は、あらためて牧野の居所をさぐることを磯部に頼んで、夜遅く所沢に帰って来たのだった。

渡満前にクーデター計画
この頃から河野の上京は、毎日のようにつづいた。

下宿に帰らない夜も多くなったが、学校をやすむことはなかった。
相沢中佐の公判が開始されて以来、毎回必ず前列に位置して、熱心にメモを取る村中、磯部の両大尉の姿は、
法廷内外の注目を集めたが、公判が漸次核心に入りはじめた二月のはじめ頃から、
この両人の姿が見られなくなったのは前述のとおり。
それと時を同じうして、彼らと上京青年将校との往来が頻繁を加えていった。
東京渋谷の駒場にある栗原安秀チュウイ、同じ代々木の磯部元大尉宅、あるいは麻布の竜土軒等と、
香田清貞、河野、栗原、村中、磯部等の会合が重ねられ、第一師団渡満前にクーデター決行の秘策が練られていった。
しかしこうした動きの中にも、青年将校の間には時期尚早派や兵力使用に対する危惧等のために、
決行派から脱落していった人々もあった。
この間にあって、河野は磯部、栗原等とともに、終始強行派の先鋒に立ち、
歴史廻転の一こまをズルズルと決行へひきずっていった。
「 皆がやらなければ俺一人でもやる 」

二月二十三日だった。
午前中に航法の訓練を終って下宿に帰った。
小母さんの部屋で昼食を食べながら、満洲で耐寒飛行の苦しさをおもしろおかしく語り終って自室に戻った。
平生は部屋の掃除、整頓はほとんど小母さんの役目で、呑気な河野は、まったくの無頓着だったが、
この日は、午後の半日を持物の整理に過した。
たくさんの紙屑や書類の反古を山積みにして、残雪の白い前庭で焼却した。
「 綺麗になったでしょう。これでサッパリしましたよ 」
と、でてきた小母さんに笑いながら、燃えてゆく紙片を感慨深げに見守っていた。
二十五日、この日は十一時までに代々木の磯部の宅にゆく約束になっていた。
第一時間目の講義をすませて、すぐ上京するつもりで登校すると、航法訓練のため金丸原への飛行の命令である。
困ったことになったと当惑しながらも、中止するわけにもゆかず、
「 よし第一番に片づけよう 」 し肚をきめて、第一番に飛びだして第一番に帰ってきた。
十一時に近かった。ただちに下宿に帰った河野は、あの日以来小母さんに預けて置いた拳銃を出してもらい、
勧める昼食を断って、時間を急ぐからとあわただしく玄関に降り立った。
「 明日までは帰ってこないかもしれません。
もし学校から誰かきましたら、腹痛で寝ていましたが、とでもいっておいてください 」
と 言い残し、第一装の軍服凛々しい裡うちにも、こころなしか哀愁の面影を残して、
一、二度ふり返りながら、雪解けの街角に消えた。
最近の河野の動静を知る小母さんは 「 なにかある 」 との予感にオチオチと落着かない一夜を明かした。

牧野伸顕伯の動静を探る
上京した河野は、高田馬場駅から円タクを飛ばして代々木新町の磯部宅に現れた。
ガラッと開けた玄関には、いま出かけようとする磯部が立っていた。
この日は十一時に河野がやってくる約束になっていた。
それは前日来、牧野の動静を確めるために湯河原におもむいていた民間同志、渋川善助からの情報を聞くためであった。
その渋川からの情報は、すでに絹子夫人が、渋川からの手紙を持って帰京し、
牧野が伊東屋旅館の別館に滞在していることを確認してきていた。
容易につかめなかった牧野の動静を握りえた喜びは、明日にひかえた決行を直前にして、
河野へのなによりの贈物であった。
きっと、恋人を探し当てたような嬉しさに快哉を叫ぶであろう河野の笑顔を想像しながら、
磯部は胸を躍らせて河野を待っていた。
その河野は、十二時を過ぎ一時を廻っても姿を見せない。
あの男に間違いがあるとは考えられないが、いまとなっては時間がゆるさない。
牧野は俺が引受けよう、栗原と相談して計画の変更もまたやむをえないと、
磯部は急いで湯河原への出発準備をすましたところだった。
「 イヤすまん、すまん。遅れて申訳ない、心矢猛にはやれども、という奴でね・・・・。とにかく上りますよ 」
河野はドシドシ座敷に上がっていった。
「 時間がないから、洋服に着換えながら話しをしましょう 」
と 軍服を脱いで、用意の背広に着替えにかかった。
「 今朝学校にいったら、急に金丸原への航法訓練だというのです。しまったと思いましたね。
しかし断る理由もないので、仕方なく飛行機を出しましたよ 」
本当に困ったという顔で、見上げる磯部と顔を見合せて笑った。
「 十一時の約束に遅れては大変だと思い、ままよと墜落したら俺には運がないんだと覚悟をきめて、
無茶苦茶に速力を出して、一番乗りをやって来ました。
神様が助けてくれたんですね。着陸したときは本当にありがたいと思いましたよ 」
磯部は聞きながら、この男のやりそうなことだと、その大胆不敵さに感心しながらも、
これなら大丈夫、牧野をやれると感じた。
磯部から牧野の情報を聞かされて、さすがに緊張した笑いを浮かべながら、
「 有難う、これからすぐ湯河原へ行きましょう 」
と、すわりもせずに、そのまま東京駅に向かった。  ・・・リンク→ 渋川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
湯河原には同志渋川善助夫妻が、河野の到着をいまや遅しと待ち焦がれていた。
渋川夫妻は前日来、湯河原に滞在し、同地伊東屋別館に滞在する牧野伸顕伯の動静を監視していたのだった。
すでに夕闇に包まれた伊東屋別館の前の坂道を、往きつ戻りつつする丹前姿の二人の偉丈夫があったが、
人通りのほとんどない山道のこととて、人目につくすこともなく、やがて坂下に去った。
河野、渋川の両人はこうして、別館の地理、地勢の探査を確実におえた。
渋川からバトンを完全に受継いだ河野は、一足先に帰京する渋川を送り出した後、
ホッとした思いで一人ゆっくりと温泉にひたった。
陶然と浴槽に身を沈め、静かに眼を閉じた河野の脳裡に映るのは、数時間後に再び訪れるこの地のことだった。
たちこめる湯気を通して、窓外には、雪もよいの寒夜が刻々に更けていった。

午前二時、営門を通過す
河野が湯河原から帰京したのは、二十五日の終列車であった。
東京駅から円タクを走らせて、代々木の磯部宅に入った。
ここで再び背広を軍服に着換え、磯部が現役時代のマントを借用し、しきりに時間を気にしながら、
夫人の差出すお茶を一呑みにして辞去した。
外には円タクが待たせてあった。
武装をマントに包んで、円タクに飛び乗った河野は、折柄の小雪降る深夜疾駆し、愴惶として麻布第一聯隊の営門をくぐった。
すでに十二時を廻り、やがて一時に近かった。
隊内の栗原中尉の室には、河野の到着を一刻千秋の思いで待ちわびていた多数の同志の面上には、一瞬、サッと安堵の色が流れた。
これらの人々は栗原中尉の指導、訓育を受けた民間の人々であり、かねて深く相許した同志の人々であった。
単身で所沢の飛行学校からこんどの蹶起に参加する河野には、行を共にする手兵がなかった。
栗原はそのために、少数ではあるが信頼するに足りるこれらの民間の精鋭同志を招致したのだった。
したがって河野とは初対面の人々のみであった。
栗原中尉と別室で最後の打合せをすませ、河野が栗原から紹介され引継がれた隊員は七名、
武器は軽機二梃に弾薬若干、小銃は四挺であった。
隊員のうちに民間六名のほかに、現役から粒よりの宇治野時参軍曹が加えられていた。
出発の準備はできたようである。
「 資金がなくてすみませんが、なんとかこれで頼みます 」
と、百円を手渡しながら、いかにもすまなさそうに詫びる栗原に、河野は無言でうなずきながら、莞爾として固い握手を交わした。
万事諒解。
回天の天機必成を、堅く胸中に秘めつつ、青年将校急先鋒の両人は、いよいよ決行への第一歩を営庭へと踏み出した。
民間人とはいえ在郷軍人である同志の面々は、それぞれ借用の軍装に身を固め、営庭に待機した二台の乗用車に乗込んだ。
時に二月二十六日午前二時。
営門を 「 航空部隊との協同演習 」 と称して通過した一隊は、平和に眠る大東京の闇夜をフルスピードで京浜国道へと消えた。
宵からふりだした雪は、すでに街上を埋めて二本の轍の跡が判然と残されてつづいた。
この日から四日間、全日本を震撼させた 『 二・二六事件 』 は、遂に茲にその口火を切ったのであった。
湯河原襲撃隊一行の隊員は左の八名であった。
指揮官  航空兵大尉  河野壽
隊員  軍曹  宇治野時参
隊員  民間  水上源一
隊員  ( 予備上等兵 )  黒田昶
隊員  ( 予備曹長 )  宮田晃
隊員  ( 予備曹長 )  中島清治
隊員  ( 予備一等兵 )  黒沢鶴一
隊員  民間  綿引正三

隊員に決起趣意書を読み上ぐ
東京出発後の自動車のスピードは、予定以上に快調であった。
厳寒の深夜に火の気のない車中では寒気がヒシヒシと身にしみた。
足の爪先は凍るようにさえ感じられた。
馬入川を渡って間もなく、頃合の松林の傍で停車し、焚火を囲んで暖を取りながら時間を待つことにした。
河野は一人、地図を見入っていた。
一同は黙って枯枝をくべながら暖を取った。
折柄、国道を東京に向って通りかかったトラックが、焚火を見て停車し、運転手と助手らしい二人が下りてきた。
「 軍人さんですか。すみませんがちょっと焚火にあたらせてください。寒いのにご苦労さんですね 」
「 さあ、どうぞ 」
と、二人は一緒に焚火を囲んだ。
急にほぐれた空気で、ひとしきり雑談がはずんだ。
時計を見ながら、「 さあ、出発しよう 」 河野の命令に一同腰を上げた。
焚火を始末しようとする隊員に、「 火は私達がいただいて始末しますから 」
「 では間違いないように頼むよ 」
「 大丈夫です。ご苦労様です 」
二人の声に送られて、再び自動車は国道を西に走った。
十二、三分くらい走った頃、河野は再び停車を命じた。
真白につもった雪を踏んで、少し離れた木陰に隊員を集めた。
ここで、はじめて一同に決起趣意書を読上げて、襲撃目標と、状況を説明した。
懐中電灯で照明された牧野邸の見取図を囲んで鳩首きゅうしゅする隊員に、これからの行動方針を指示し、
改めて全員の決意を促した。
緊張にふるえる一同の面ざしには、いささかの不安もみられなかった。
しかしいま、この重大行動に生死を共にせんとする人々ではあるが、河野にとってはみな初対面の人ばかりである。
栗原中尉から託された信頼すべき同志であることは疑わなかったが、河野としてはどうしても、
改めて自己の信念を披瀝して隊員の不退転の決意を確認したかったのだった。
最後に、襲撃目標は牧野ただ一人であり、他には絶対に危害を及ぼさないように命令した。
隊員への指示を終えてから、河野は後方に待たせて置いた二人の運転手を呼んだ。
「 実は君らには演習といって連れてきたが、これからわれわれは湯河原おもむいて牧野伯を襲撃するのだ。
しかし、君らには決して迷惑はかけない。
いやだと言われても、気の毒だけれど目的が終るまで、適当の処置を取らせてもらわなければならない。
国家のためにぜひわれわれに協力してもらいたい 」
二人の運転手は、緊張の面持で聞いていたが、やがて顔を輝かして、応諾の意志を述べた。
この二人は、栗原中尉がかねて懇意にしていた自動車屋の運転手であって、
今日の行動も、うすうす事情を知っていたらしいフシがあった。
運転手の承諾に、
「 そうか、ではこれから出発する 」
河野は勇躍して、先に立って自動車に乗った。
湯河原まで もう二十分くらいの距離であった。
刻々に盛り上がる緊張を乗せて、一隊が湯河原の町に入ったのは、予定時刻の五時少し前であった。

蹶起趣意書
「 謹ンデ推ルニ我神洲タル所以ハ、
万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化ヲを遂ゲ、
終ニ 八紘一宇ヲ完フスルノ国体ニ存ス
此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ
天祖肇国神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制を整へ、
今ヤ 方ニ万万ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋ナリ
然ルニ 頃来遂ニ不逞兇悪の徒簇出シテ、
私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶対ノ尊厳を藐視シ僭上之レ働キ、
万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、
従ツテ 外侮外患日ヲ遂フテ激化ス
所謂 元老重臣軍閥官僚政党等ハ 此ノ国体破壊ノ元兇ナリ、
倫敦海軍条約 並ニ 教育総監更迭ニ於ケル 統帥権干犯、
至尊兵馬大権ノ僣窃ヲ図リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教団等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬ヘ難キ所ナリ
中岡、佐郷屋、血盟団ノ先駆捨者、
五・一五事件ノ噴騰、相沢中佐ノ閃発トナル 寔ニ故ナキニ非ズ
而モ 幾度カ頸血ヲ濺ギ来ツテ 今尚些カモ懺悔反省ナク、
然モ 依然トシテ 私権自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ
露支英米トノ間一触即発シテ
祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ 一擲破滅ニ堕ラシムルハ 火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
内外真ニ重大危急、
今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ 芟序除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
恰モ 第一師団出動ノ大命渙発セラレ、
年来御維新翼賛ヲ誓ヒ殉国捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ
帝都衛戍ノ我等同志ハ、
将ニ万里征途ニ上ラントシテ 而モ願ミテ内ノ世状ニ憂心転々禁ズル能ハズ
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク為スベシ
臣子タリ 股肱タルノ絶対道ヲ 今ニシテ尽サザレバ破滅沈淪ヲ翻ヘスニ由ナシ
茲ニ 同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、
奸賊ヲ誅滅シテ 大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕ニ肝脳ヲ竭シ、
以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス
皇祖皇宗ノ神霊 冀クバ照覧冥助ヲ垂レ給ハンコトヲ
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉野中四郎
外 同志一同


淡々と燃え上る伊東屋別館
前夜から降りつづいた雪は、春先には珍しい大雪となった。
満目銀一色に装った温泉湯河原の町は、一入平和な静けさに眠っていた。
処女雪に二条の轍を残して、まだ明けやらぬ湯の町に、二台の自動車は、エンジンの音も静かにすべりこんだ。
伊東屋本館の上手で停車し、軽機をはじめ武装物々しい一隊は、道路上に整列して河野の指示を受けた。
二人の運転手を車内に残して、八名は整然として橋を渡って対岸の山裾に消えた。
伊東屋本館から川沿いに上ったところに交番があった。
この交番の前を通る時、交番から顔を出した巡査が 「 ご苦労様です 」 と 声をかけた。
一同は黙って会釈をして通り過ぎた。
時ならぬ物騒な一党であったが、交番さえ怪しまれることなく、坂道を上って伊東屋別館の門前に到着した。
正五時が、東京の各隊とともに、いっせい決行の時刻であった。
定められた地点に密行し、ただちに所定の配置についた八名の隊員は、一切の準備を終えて、雪中に時間を待った。
わずか数分の間だったが、ずいぶん長い時間のように思えた。
山雨将に到らんとして、風楼に満つるの高潮した一瞬であった。
刻々と迫る殺気が門前にはらみ、伊東屋別館の平和の眠りは、文字通り風前の灯であった。
マッチの赤い光が河野の腕時計に映えた。
五時だった。
「 行動開始!」
低いが荘重な河野の声が流れた。
黒い塊りが門内に移動し、玄関を避けて勝手口へ殺到して行った。
「 電報、電報 」
三度、四度、勝手口の引戸を叩く物音に、牧野邸の静寂は破られた。
邸内に迫ったのは河野を先頭に、宮田、宇治野、水上の四名であり、
他の四名は表門及び裏口に配置された軽機に位置して、外部への警戒と、内部からの脱出に備えた。
早暁の電報の声に応じて、邸内の電灯がついた。
勝手口に現れたのは宿直警官の皆川巡査であった。
細目に開けた戸口から、異様な訪問者の姿を見て、スワと引返そうとする暇も与えず、
つづいて踏込んだ河野の手には拳銃が擬せられていた。
なす術もなく、皆川巡査は静かに観念の双手を挙げた。
「 牧野の寝室に案内せよ 」
と銃口を胸許に擬しながら命令する河野の言に、
皆川巡査はしぶしぶながら一隊を先導して、廊下を左手に廻った。
しかしこれはあらかじめ河野が調査しておいた部屋取りとは反対の方向である。
河野の拳銃が、やにわに皆川巡査の背中を突いた。
「 こっちではない。牧野の部屋に案内するんだ 」
と、語気鋭く迫った。
黙々として引返した皆川巡査の直後、ピタリとしたがった河野たちは、右ての廊下の突当りを左に折れた。
その突当りを右に廻れば確かに牧野伯の寝室のはずである。
廊下は幅三尺に過ぎない。
大の男が軍装で通るのに一杯であり、電燈は消えていて前方の見通しもきかない。
軍靴のままの不気味な足音が、暗い廊下をきしみ、無言の一列が一歩一歩を刻んだ。
最後の突当りを、皆川巡査が曲ったかと見た瞬間、振返りざま轟然、拳銃が皆川の直後につづいた河野の胸許に火を吐いた。
距離二尺とも離れていない。
連続してさらに一発、二発、河野の後につづく宮田、宇治野の方へも・・・・。
いつの間にか皆川巡査の手に拳銃が隠されていたのだった。
しかし撃たれた瞬間、アッと叫んだ河野の手の拳銃も、反射的に皆川巡査の腹部に唸りこんでいた。
両人が倒れたのはほとんど同時であり、宮田の 「 ヤラレタ 」 と 叫ぶ声もまた同時であった。
この間、一分にも満たない瞬間的の激突であったが、皆川巡査はそのままついに起たなかった。
これに反し、河野はただちに起き上がって後に退った。
暗い前方の廊下から、なお一、二発の音がつづいたようだった。
皆川巡査の最後の抗争であったろう。
邸内の銃声と、宮田の声に外部から駆つけた綿引に抱えられて、宮田は屋外に去り、
河野もまた、胸部を抑えながら宇治野と共に次の反撃に備えるため、いったん屋外に退いた。
邸内にはまだ三名くらいの護衛警官がいるはずであることが、調査されていたからである。

時間を与えてはいけない。
しかし河野は胸部の盲貫銃創で、すでに行動の自由を失っていた。
「 俺に代って誰か邸内に突っ込め 」
軍刀を杖に、辛うじて身を支える河野の声が暁闇に響いた。
しかし、この命令にこたえて、再び邸内に躍り込む人はいなかった。
失望の色が河野の面上に深く、身もだえして切歯した。
「 万事休す!」
一刻の猶予も許さない場合である。
最後の手段は、不本意だった。やりたくなかった。しかしいまとなってはそれよりほかに方法がなかった。
河野は牧野伯の寝室に向って、屋外から機銃の掃射を命じるとともに、
放火もまたやむをえないと決意しなければならなかった。
偶然にも、炭の空俵が勝手口に立てかけてあった。
塵紙に点火してこれに火を移したのは水上であった。
炭俵に移った火は、またたく間に屋内に燃え移っていった。
それと同時に、玄関の側から寝室に向って発射する機関銃の響きが、
暁の静寂をつんざいて、山腹に木魂して継続した。
銃声の合図を通して、屋内をとまどう人々の騒音が伝わってくる。
「 女、子供に怪我をさせてはいけない 」
苦しい呼吸の下から叫ぶ河野の命令がつづいた。
喰入るように状況に見入る河野の、傷ついた悲壮な姿が燃え上がった火勢に映しだされ、
その面上にはアリアリと焦慮の色が浮んでいた。
火の手は全館に拡がり、火焔は銃声を交えて積雪に映え、いっそう凄惨さを加えた。
これより先、邸内に近い撞球場の二階から三名の男が現れてきた。
これは当夜非番の、牧野伯の護衛警官たちであった。
いちはやく発見した宇治野軍曹に拳銃をつきつけられ、威嚇と説得にあって意気地なく拱手して引退ってしまった。
恐怖におびえ、火焔に追われて、屋内から前庭に逃れた婦女子の一団が燃えさかる火の手に明るく照らし出されてきた。
すでに屋内には人がとどまることはできないはずである。
にもかかわらず、たずねる牧野伯らしい姿は見えない。前庭の前面は石垣、西側と裏手は崖、
わずかに出口は表門側の一方だけである。
配置された警戒線を脱出することは、およそ不可能のことであった。
これらの状況から、牧野伯はテッキリ機銃によって死んだものと考えることも、あながち無理な判断ではなかった。

女装の牧野伯、脱出に成功
この時である、広くもない前庭に集った婦女子の一群が、火焔を避けて、西側山つづきの、
崖下の方へ移動するのが認められた。
その中に女物の羽織をかぶって、うずくまってゆく人影があった。
目ざとく見咎めた黒田は、疑わしいと見るや、
「 待て!」 と 大声で制した。
そして間髪を容れず、手にした小銃の引金が引かれていた。
「 キャッ!」
と 叫ぶ女の悲鳴があがった。この悲鳴にはねかえるように、
「 女、子供に怪我をさせてはいかん 」 と、河野の命令が鋭く押えた。
この時に森看護婦が、腕に受傷したのだった。
銃声は再び響かず、やがてこの一群の塊りは相擁しつつ崖下にたどりついた。
この頃、すでに騒ぎを知って裏山から崖上の山中に集っていた警防団の人々によって、
これらの婦女子群は吸湿され、山添いに逃れさっていった。
牧野伯、奇跡の脱出は、こうして演ぜられる結果となった。

傷ついた身を熱海衛戍病院へ
暁の襲撃は終った。
河野は全員を集合させて、まだ燃えさかる寝室の方へ向って、牧野伯への敬礼を命じて黙禱を捧げた。
街の半鐘の音が急に強く高く聞え、騒ぎを知って集ってきた群集が、下の道に群れていた。
襲撃--暗殺--引揚げと、一挙に目的を果すはずの計画が、意外な抵抗の前に不測の事態を引起こし、
その結果として、発砲、放火と、最悪の手段をとらなければならなかったばかりでなく、
肝腎の牧野伯の死さえも確認することができなかった。
この不手際は隊員たちに、隊長の重傷とともに、立去り難い不安の念を与えた。
後髪をひかれる思いだった。
放火は失敗であった。
地形上、燃えさかる建物を越えて、前庭に入ることのできなかったことは、
脱出者を一人一人、首実検する重大な機会を失わしめた不覚を招いてしまったわけだった。
確かに不手際であった。
どうやら失敗したらしい、という予感が、河野の脳裡をかすめた。
しかし鎮火を待って、牧野伯の死を確認する時間の余裕はもちろんない。
すでに引揚げの予定時刻を過ぎること一時間に近い。
たとえ死体は見届けなくとも、万策をつくした河野としては、せめても十中八九まで、その成功を信じたかった。
引揚げの命令に、すでに明けきった雪の朝の坂道を一隊八名は傷ついた河野、宮田を擁して、粛然と降りていった。
河野の胸部の傷は重かった。
部下に支えられて、辛うじて山を降りて自動車に横たわったが、すでに再起はおぼつかないことを観念した。
そしてその死所をいずれにえらぶべきかについて苦慮していた。
しかしその前に、足に負傷した宮田を同行することは、事後の行動に支障あるのを憂えて、
宮田を湯河原の病院に託することにした。
病院は本道を山手に少し上った橋を渡った左側にあった。
かかり合いになるのを迷惑がるような病院に、所持金のほとんどを治療費として残して、宮田を預けた。

襲撃中、待機を命じた自動車の運転手は、出発後において、はじめて行動を知らされた民間人であったが、
かねて栗原中尉と心易い間柄であっただけに、事情を明かされた後は欣然として協力を惜しまなかった。
襲撃によって騒ぎがはじまり、群がりでる町民の注視のなかにも、平然として自動車を守り、
エンジンをかけて一隊の帰りを待っていた。
重傷の河野が抱きかかえられるようにして乗り込んだ後、武器の積込み、隊員の乗車を終った二台の自動車は、
立ち騒ぐ町民の環視の中を、通り魔のように消えていった。
湯河原を発った一行は、事後の行動に関して意見が二つに分れた。
「 東京の本体に万難を排して合流しよう 」 と 主張する者がほとんどであった。
もちろん、決行後は東京に帰還することが最初からの計画でもあった。
これに対して、隊長河野の意見は反対であった。
それは河野自身の重傷と、予期しなかった襲撃の齟齬による時間の空費とのためによって、
状況が一変してしまったからであった。
いま、当初の計画を強行することは、前途に種々の困難を覚悟しなければならない。
すなわち、事件の突発によって、東京に至る沿道の警戒は、すでに必至と予期された。
この関所を押し通るためには、重傷の身をもってしてはとうてい困難であるし、
さらに無益の殺傷は回避しなければならないと、河野は諄々として隊員を説いた。
一行の行方は決った。
この際はいちおう熱海衛戍病院に入って本隊と連絡し、後図を策することとなった。
熱海に向った一隊は、途中、早くも河野が予期したように警官隊の警戒線にひっかかった。
二名ぐらいの警官が、縄を一本張って検問しているにすぎない。
これでは問題にならない。
先頭車にあった宇治野軍曹は、ただちにこれと応答し、通せないという警官を説得、威嚇を交えて押し通り、
熱海へと突っ走った。
雪もよいに、どんよりとくすむ海沿いの国道を、伊豆山を抜け熱海に入った。
湯河原を発って三十分くらいであったろう。
一行の自動車は、熱海駅前を左して、熱海湾を眼下に見下す熱海衛戍病院の石門をくぐった。
瀬戸病院長によって入院措置が取られ、ただちに河野の応急手当がえおこなわれることになった。
一方、三島憲兵隊への連絡により、駆けつけた宮内憲兵隊長のいちおうの訊問を受け、
隊員一同は三島に収容される手筈となったが、その日は病院の温泉に戦塵を落し、
翌二十七日、三島憲兵隊へ移った。
手術の結果は良好であった。
奇跡的にも弾丸は胸部を貫通せず、肋骨に当って胸側の皮下に留っていた。
院長の摘出手術もきわめて順調に終り、生命の不安は去った。
収容された病室は将官病舎であった。
手あつい看護の手が、温かく河野を遇した。
静かに見やる窓外には、浅春の日射しを南一杯に受けて、前庭の梅の花が馥郁と咲いていた。

河野司 著  湯河原襲撃 から


牧野伸顕襲撃 3 「 女がいるらしい、君、 女を助けてやってくれ 」

2019年02月05日 20時21分04秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊


河野壽大尉

綿引正三の手記

四時半頃再び車を走らせ湯河原を徐行、
伊東屋旅館の前の橋で自動車の向きを変え、同旅館の前に横付けにした。
夜は白々明け離れた。
二、三人が行き交う。
私はピストル、刀をさして同志と共に隊長に従った。
旅館前の幅 七、八間の小川の橋を渡り、坂道を二十間上る。
玉突場のある家の前に止った。
大尉は此家だと玉突場の前の家を指さした。
平屋建、地形は崖の上で、片方は山になっている。
石垣でたたんだ一隅にこの家はあるのだ。
門はしまっている。
裏手に回った。
配置を決めた。
裏手には高さ四、五尺の石垣があった。
私等は音のせぬ様とび降り、河野大尉、黒田、黒沢、宮田、中島君等は勝手口、
私、源一氏、宇治野君は表玄関にしのびよった。
源一氏は刀をひっさげ抜打と玄関に進むと、勝手口で何だか音がする。
よし、始まったな。
玄関を打蹴る。
ピストルをぶっ放す。
直ちに裏口にまわり勝手を馳せ上る。
三畳位の薄暗い部屋に人が倒れている。
誰かというと、宮田だ、宮田だと云う。
予備曹長宮田晃は、奥から射ってくる拳銃で負傷した。
私は奥に駆け込む。
弾がビューンとかすめる。
私は座敷に向けて五、六発速射する。
薄暗い、何人いるか分らぬが、守衛のいる事は分る。
守衛ではなく、牧野の護衛警官だった。
私は別の座敷にも行き、速射。
河野大尉が勝手口の方に歩いて行く。
河野大尉が、一偏外に出ろ、だいぶん人がいるらしい。
狭い所では損だ、と云う。
私は宮田君を石垣の上に抱え出した。
宮田君は歩けずうつ伏してしまう。
私は、こりゃいけぬ、自動車に置こうと肩にかつぎ走り出すと、石垣の上より顔を出した奴がある。
射つぞ、こら、と 銃を向けた。
対手は見えなくなった。急いで自動車に宮田君を置いた。
彼は元気で、そこからピストルを撃つ。
よし、君の仇討だ、と 走り帰った。
正門前に来た。
巡査らしいのが二人ほど出張って来た。
私はピストルをつき突け、邪魔をすると撃つぞ、帰れ、と 叫んだ。
二人は引込んでしまった。
私は庭先に人が立っているのを見て、弾を詰めて速射した。
玄関口に回ると崖下に河野大尉があぐらをかいている。
どうした、と 問うと、やられた、と 云う。
痛むか、と 聞くと、だまっていた。
相当の傷を受けた事を知った。
大尉は、それでも気丈夫に時々下知していた。

「 伊東屋の外の警備に当ったのは、中島清治と私とでした。
さだめられたところに軽機関銃を置きました。
その他の六人は別荘に近づきました。
しばらくすると誰かが表門の戸を叩き、電報、電報といいました。
河野大尉の声のようでした。あたりは静まりかえっていました。
すると、急に激しい物音がしました。
あとで分かったのですが、これは河野大尉が靴で通用門の扉を蹴った音でした。
扉は簡単に開いたそうです。
そのうち、拳銃を撃ち合う音が聞えはじめました。
流弾が私のいるところまで飛んできました。
変だな、と 思いました。
河野大尉から作戦を聞かされたときの話では、
ただの一発で牧野を仕とめるはずだったからです。
ところが判決文の通りの事態が起こったのです 」・・・警備の任務を与えられた黒沢鶴一

五時三十分頃一斉ニ襲撃ヲ開始シ、
被告人宮田晃ハ、拳銃ヲ携ヘ黒田昶ト共ニ 亡河野寿ニ從ヒ、
同別荘裏口ヨリ 屋内ニ闖入ちんにゅうシ、廊下ニ於テ護衛巡査皆川義孝ヲ捕へ、
拳銃ヲ擬シテ威嚇シ、
牧野伸顕ノ居室ニ案内スベク強要中、却テ 同巡査ノ術策ニ陥リ、
廊下曲リ角附近ニ於テ 突然拳銃射撃ヲ受ケタルヨリ、
直チニ応射シテ同巡査ヲ殪たおシタルモ、
コレガタメ 亡河野寿、宮田晃ハ共ニ重傷ヲ負ヒ、
気力ヲ喪ヒテ屋外ニ退出スルノ已ムナキニ至リ・・・判決文


早暁の電報の声に応じて、邸内の電灯がついた。
勝手口に現われたのは宿直警官の皆川巡査であった。
細目に開けた戸口から、異様な訪問者の姿を見て、スワッと引返そうとする暇いとまも与えず、
つづいて踏み込んだ河野の手には拳銃が擬せられていた。
牧野の寝室に案内せよと河野にいわれた皆川巡査は せまい廊下を先に立った。
廊下を右に曲れば牧野の寝室と思われるのに、
皆川巡査は左に折れた。
最後の突当りを、皆川巡査が曲ったかと見た瞬間、
振返りざま轟然、拳銃が皆川巡査の直後につづいた河野の胸許に火を吐いた。
距離二尺とは離れていない。
連続してさらに一発、二発、河野の後につづく宮田、宇治野の方へも・・・。
いつの間に皆川巡査の手に拳銃が隠されていたのだった。
しかし 撃たれた瞬間、アッと叫んだ河野の手の拳銃も、
反射的に皆川巡査の腹部に唸りこんでいた。
両人が倒れたのはほとんど同時であり、
宮田の 「 ヤラレタ 」 と 叫ぶ声もまた 同時であった。
この間、一分にも満たない瞬間的の激突であったが、
皆川巡査はそのままついに起たなかった。
これに反し、河野はただちに起き上がって後に退った。
前方の廊下から、なお一、二発拳銃の音がつづいたようだった。
皆川巡査の最後の抗争であったろう。・・・河野司・湯河原襲撃

「 やられた、と いつて河野大尉が軍刀を杖にして出て来ました。
胸から血が流れていました。
つづいて出て来た宮田は、首をやられていました。
河野大尉は道に腰を下して指揮をとりました。
しかし事実上の指揮者は、そのころから水上源一となったのです。
水上は、別荘の屋根の瓦を狙って機関銃で威嚇射撃をするように云いました。
私は中島と二人で屋根を狙ったところ、屋根瓦が躍って飛散しました。
機関銃のすさまじさにいまさらのようにおどろきました。
火をつけなけりゃダメだ、という水上の叫び声がしました 」・・・黒沢鶴一

源一氏が馳せて来、私に、正ちゃん、牧野を追出すために火をつけよう、と いった。
よし、と 紙を源一氏に与えた。
源一氏は火をかけた。
家内の者は庭の一隅に逃げ出したらしい、
七、八人つくばっている。
私は何回も、牧野はいないかと狙いをつけて 二、三発放った。
黒沢君は山の側から機関銃をさかんに撃ちつつあった。
黒田君が裏手の崖の上からピストルを乱射、牧野を撃ったぞと叫ぶ。
私は河野大尉に報告する。
大尉、それでは女子供を救助、引あげだという。
附近の者が大勢来る。
消防組の者に消火救助を頼み、私は機関銃を片手に、日本刀を腰に、
ピストルを一方の手に持って引きあげた。

牧野は如何
「 火がまわってしばらくして、家の中で三、四発、拳銃の音がしました。
『 牧野が自決した 』 と、河野大尉がそう云いました。
確信に満ちた語調でした。
あとで考えると、どうやら巡査の拳銃弾が火熱で暴発したらしいのです。
が、とにかく、
見ると向うのほうで煙に追われながら女の人が何人か身体を乗り出すようにして、
兵隊さん、助けて、といっています。
その中に老人がいました。
男か女か はっきりしません。
しかし、何となく牧野のような気がして、私は小銃を構えました。
すると河野大尉が射ってはいかん、という。
あれは牧野ではない、牧野はさっき自決した、というのです。
女たちは黒田が助けに行きました。
黒田も、女のなかにまじった老人を牧野にちがいないと思ったそうです。
彼は拳銃を発射しました。
ところがこの拳銃、旧式でまっすぐに飛んでくれない上に、黒田がそれを使うのが初めてだったので、
老人を狙ったのに弾が逸れて、傍に付いていた森鈴枝という看護婦に当ってしまいました。
看護婦は悲鳴をあげて倒れる。
牧野以外の者は撃ってはならないと命じられていたし、
むろんこっちもそのつもりだったので、黒田はすっかり狼狽してしまいました。
夢中で女といっしょにその年寄りを救助してしまいました。
いまでも、あの老人は牧野伸顕だったと思います 」・・・黒沢鶴一

牧野伸顕は、森看護婦の機転で、女装して難をのがれたのである。
牧野の側には、この遭難の公表記録がない、
牧野伸顕 『 回顧録 』 には 事件のことは一行も語っていない。
牧野が遭難を回避する気持は察せられるが、女装の脱出を羞恥としたのかどうかはよく分らない。
女中部屋にかくれて危急を脱した首相の岡田啓介は 「 体験談 」 で素直に当時の状況を語った。
女婿 迫水久常その他周辺の者もこれを隠さなかった。
岡田は武人である。
牧野は宮廷権力者である。
この性格の相違 ( その周囲の人々を含めて ) から くるのであろうか。

事件当時、伊藤屋旅館の主人だった 伊藤達也氏は
「 別館は、父の隠居所としてつくったのを牧野伸顕さんの秘書の方がぜひ貸してくれということで開けた。
牧野さんは事件の一カ月前から逗留していた。
あとで分ったことだが、
牧野さんの動静を偵察するために来た人たち ( 渋川善助夫婦、河野大尉 ) は、
本館の玄関の真上にあたる二七号室に泊っていた。
その部屋は見通しがよく、別館がよく見えた。
事件のときは、まさか兵隊の襲撃とは知らず、火事だと分って駆けつけたときは家が焼け落ちる寸前だった。
途中で両脇を抱えられて肩にもたれた兵隊と会ったが ( 宮田のこと ) 、
わたしたちのわけの分らないうちに別館が全焼したことになる。
牧野さんは山の奥に逃げ、広河原のほうへ行ったことがすぐに分って安心した。
山の斜面を這い上がり、畔道に出て、更に奥へ のがれたということだった。
二十六日朝は、別館のまわりには雪が二十センチほども積もっていて、
家が燃えている間も雪が降っていたように思う。
その後、牧野さんの関係者は一度もわたしのほうに顔を出されない 」
・・と 語つた

伊東屋別館の火事に 最初にかけつけた
元消防組の子頭、岩本亀三氏は
「 その朝、わたしの経営していた旅館で五時半に早立ちする客があり、
タクシー会社に電話で連絡して待っていると 川向うの家の壁が真赤になっている。
着がえの仕度をするひまもなく、シャツに股引の姿で長靴をはき 半鐘櫓のところへとんでゆくと、
そこに兵隊がいて、半鐘を叩いてはいけない、という。
あとで、それが水上源一という人らしいと分った。
伊藤屋別館の前に行くと兵隊たちが立っている。
その中の航空将校がわたしを見て、 「 とまれ、君はなにだ 」 と 咎めた。
「 消防だ。あんたらは何だ」 と 云い返した。
「 われわれは国家の革新のためにやっている 」
「 民家に延焼するじゃないか 」
「 その点はやむを得ない 」
こんな問答をしているうちに、家の中で女たちの騒ぐ声が聞えた。
将校は
「 女がいるらしい。君、女を助けてやってくれ 」
と いった。
そこで門の中に入って石垣の塀と家の間のせまいところを伝って山の斜面側に行ったところ、
便所のところで行詰りになっている。
高い塀を乗りこえ、斜面に上り、どこから下に降りようかと考えているとき、
女ものの着物を頭からかぶった牧野さんを先頭とする一行が塀のところにきた。
写真で見覚えの顔なので、はじめて牧野さんと知った。
牧野さんは顔を土色にして 「 助けてくれ 」 と 私に云った。
私が一メートル半ばかりの塀を降りようとする前に、牧野さんが塀をよじ登ってきた。
私はその首根ッ子をつかまえ力まかせに引上げた。
その瞬間、私は左脚を丸太ン棒でたたかれたように感じた。
兵隊の撃つ弾丸が当ったのだが、そのときは分らなかった。
牧野さんを塀のこっち側に移すと、幸い雪が積もっていたのでその上をいっしょにずり落ちた。
そこへ近くの旅館の工事をしている人たちや警防団の人たちが来てくれたので、
牧野さんのことを頼んだ。
そのとき 「 撤収用意 」 という声がした。
つづいて 「 撤収 」 という声がした。
兵隊たちが引きあげたのは、別館が焼け落ちる前だったと思う。
平間医師は、頭上に落ちた瓦で人事不肖になった警防団の者から治療をはじめ、
看護婦の森鈴枝さん ( 職業柄自分で応急処置 ) 、私、襲撃組の宮田という順だった。
私は傷が癒えるまで六十日ぐらいかかった。
その間に牧野さんの息子さん夫婦が、二、三回見舞にきてくれた。
しかし、当人の牧野さんは、以来一度も顔を見せずじまいです 」
と、語った。

牧野が湯河原から東京にたどりつくまでの経緯も発表されていない。
死を以て牧野を護った巡査皆川義孝は茨城県の農家出身、
高等小学校だけの学歴だった。
昭和二年、小石川富坂警察署勤務がふり出しで、九年、警務部警衛課勤務となった。
警視庁では皆川巡査に左のような 「 功績書 」 を贈った。
右者、
神奈川県湯ケ原町伊藤屋別館ニ滞在中ノ伯爵牧野伸顕 警護ノ為随行シ、
昭和十一年二月二十六日午前五時二十分頃、
河野航空兵大尉ノ指揮セル八名ノ兵、機関銃、小銃、日本刀ヲ携ヘ 同別館ヲ襲撃スルヤ、
裏口方面ヨリ先頭ニ侵入セル宮田早朝ニ胸部及び脚部ニ弾ヲ命中セシメテ之ヲ斃シ、
続イテ侵入シ来レル河野大尉外二名を迎フルヤ 「 コレモカ コレモカ 」 ト 絶叫シツツ、
各一弾ヲ命中セシム。
然ルニ 自ラモ亦右胸部前方ヨリ貫通銃創及盲管銃創ヲ蒙リ、
既ニ行動意ノ如クナラザルニ屈セズ、
意外ノ抵抗ニ侵入部隊ノ怯ひるム間ヲ偸ぬすミ 翻ひるがえっテ 牧野伯居室隣室ニ至リ、
附添看護婦森鈴枝ヲ呼ビテ之ニ急ヲ告グルト共ニ
「 閣下ハ大丈夫カ 」
「 俺ハ三人ヤツタガ俺モ二発受ケテ モウ駄目ダ、閣下ノコトハ宜シク頼ミマス 」
ト 伯ノ後事ヲ托シ、
伯爵ヲシテ同別館裏庭方面ヨリ無事難ヲ避ケシメ、
遂ニ再ビ起ツ能ハズ、襲撃部隊ノ放テル猛火ノ炎々タル裡うち
悲壮ナル殉職ヲ遂ゲタルモノナリ。
全焼した伊藤屋別館の焼跡から、皆川巡査の黒焦げ死体が発見された。

警察の者抵抗せば 一撃をと注意しつつ 河野大尉を自動車に乗せる。
宮田君は中島君の手で附近の病院にかつぎ込まれた。
私等は自動車に乗る。
私(綿引)、源一氏、宇治野君、黒沢君、を先発自動車、河野大尉、黒田、中島両君を後続自動車に。
六時頃出発、熱海街道を走る。
宇治君は運転台に機関銃を据付け、私等は小銃を構えて待機の姿勢で後続車を見守りつつ走る。

「 河野大尉は、先発車に乗った。
襲撃を終えれば東京に戻ることになっていました。
東京の蹶起部隊が途中まで迎えにきてくれるはずでした 」・・・黒沢鶴一

大尉は熱海の衛戍病院の正面玄関側の病室に横たわった。
容態を聞いて、胸を撃たれていることをはじめて知った。
河野大尉にはだれか付添いの者に残ってもらい、他は東京に行こうと私は思っていた。
黒田君も同様な考えであった。
彼はまだ鉢巻をしていた。
私は、東京に行こう、と 云い出した。
河野大尉が聞いて、
「 まあ待て、東京の様子が分るまでここに居よ 」 と 言う。
振切ることもできないのでそのまま居ることにした。


澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」

2019年02月02日 20時08分06秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊

二月二十三日、
小石川直心道場の稽古場の窓から、ばらつく雪を眺めながら木刀を振って一汗流した澁川善助は、
部屋に戻ると、朝食の支度に忙しい妻の絹子を呼んでいった。
「 今日は雪かもしれないが、午後から旅行に連れて行くから仕度をしておけ。
着物は一番いいのを着て行けよ 」
絹子は茫然としばし声も出なかった。リンク→澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
すでに結婚後一年近くたっていたが、いまだかつて澁川が旅行などに誘ったことはなかった。
妻がおっとから旅行に誘われて悪い気はしない。
けれども絹子はまだ信用できなかった。
相澤事件の公判はようやく期待の眞崎甚三郎大将の証人出廷が、二十五日と噂されていたし、
いわば最大の山場を迎えようとしていた重大な時期である。
むろん絹子に公判の詳しい状況がわかるはずはないが、
それにしても夫婦がのんびりと旅行になど出かけられる時期ではないことぐらいは、
これまでの澁川の言動を顧れば、絹子にも容易に察知できた。
「 二晩ぐらいは泊るかもしれんからな 」
と いう澁川の声に、絹子は本当と思ったという。

午後二時半頃、降雪は次第に激しくなってきたが、
まさか明治十六年以来の大雪になると予想するものはなかった。
澁川夫妻は直心道場の書生連中に半ばからかわれながら道場を出た。
雪はさらに激しさを増す気配であったが、澁川は躊躇なく歩いて行く。
後からそっと影のようについてゆく絹子の姿は、美しい訪問着に女らしい華やかさをかもし出して、
いかにもいそいそとした感じであった。
タクシーを拾うとき、澁川の表情がやや緊張味を加えたが、東京駅で湯河原までの切符を二枚買って、
東京発午後三時十分の急行 「 米原行 」 の列車に乗ると、
澁川は柄になく新婚時代のような優しみをみせた。
後で考えれば、特高や憲兵り目に見えない針のような鋭い視線を警戒していたことになる。
事件後、警察へ拘引された絹子は取調べに対して、
「 主人が温泉に連れて行くというので、私はついて行っただけです 」
と 応えると、警察では、
「 今生の別れに連れて行ったのだろう 」
と 素直に解釈したという。
やはり澁川夫妻の湯河原行も、当局には事前に探知されていた。

湯河原駅に着いたのは午後五時頃である。
山間の道はすでに白く積雪であった。
雪はまだ降り続き、近来稀にみる大雪の気配を示していた。
澁川夫妻の宿泊先はすでに伊藤屋旅館ときまっていた。
部屋は玄関の真上にあって見晴らしがよく、牧野がいる別館がよく見えたという。
ひと風呂浴びると、夕食前に澁川は散歩してくるといって外に出た。
旅館の女中たちは、こんな雪の夜に、と 物好きな客と思ったことだろう。
帰ったのは一時間後ぐらいであった。
憲兵調書では、
午後五時半頃の汽車で東京駅を発ち、
湯河原駅に着くと、伊藤屋旅館の客引き番頭がいたので一緒に行ったことになっているが、
これは公判用発言である。
だが、伊藤屋旅館の部屋に落着き、夕食後、膳を下げに来た女中に、
「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」
と 澁川がさり気なく牧野伸顕の存在を確かめているのは事実である。
この夜、澁川はつつましく旅行を喜ぶ絹子の姿に何を思い、何を感じたろうか。
すでに澁川の胸中には、前内大臣牧野伸顕襲撃のプログラムは出来上がっていたはずである。
襲撃指揮官は盟友安藤大尉とともに、澁川が最も期待する好漢河野寿大尉であることも確定していた。
しかし澁川は最後まで、絹子に事件発生を知らせるような言動は全く見せなかったのである。

翌二十四日、
この日は絶好の雪晴れであった。
朝食後、絹子とともに散歩に出た澁川の足は、やがて伊藤屋別館の視察に向った。
いかにも夫婦の散歩に見せた澁川の視線は、おそらく鋭いものがあったことと思われるが、絹子は全く気付かない。
しかし、絹子にとって、この日は生涯で最も楽しい一日ではなかったろうか。
昼食を外ですませ、菓子や絵ハガキまで買って旅館に戻った渋川夫妻は、
他人の目にもさぞ仲埜い平凡な夫婦に映じたことだろう。
この夜、結婚以来、苦労をかけ続けの絹子に対して、
澁川が柄になく優しく感謝の意をこめた言葉をかけると、普段豪快な男だけにまた格別な愛情の響きに聞えてくる。
翌二十五日、
早朝から目を覚ました澁川は、絹子を呼び、
昨夜したためた書簡を、東京の西田税に届けて返事をもらってくるように依頼した。
「 雪で大変だろうが、気をつけて行って来てもらいたい 」
絹子にとっては辛いことだが、官憲の監視を思えばかえって好都合と澁川は思ったことだろう。
こんな場合でも、絹子は決して愚痴もいわず、無理とも酷い夫とも思わないのだ。
信じていたからである。
絹子が階段を降りて帳場の前までくると、女中が、
「 お出かけですか、表は酷い雪ですよ 」
といって、女物の足駄を貸してくれた。

午前十時頃、中央線千駄ヶ谷駅で下りた絹子が西田宅を訪れると、
西田はさも待ちかねたように絹子を迎え、澁川からの書簡を開いた。
折から西田宅には、絹子がかねて顔見知りの村中や磯部が来ていたが、
別に珍しいことではないので、何の不審ももたなかったという。
むしろ、いつになく親切でいたわるような態度をみせる村中や磯部に、
絹子はいささかテレるような恥ずかしさがあったようだ。
純情な絹子から見れば、磯部、村中も、みな夫のよい友人に見える。
政治論ではいつも辛辣な発言で絹子を驚かす磯部も、女にはいたって優しい。
だが、絹子は澁川の書簡も、西田からの返事の内容も、むろん知る由もない。
「 牧野はたしかに伊藤屋の別館に滞在しているとの通知。
伊藤屋本館に滞在中の徳大寺の所へ時々囲碁をやりに来る。
其の時も警戒付で、平素四、五人の警官がついている 」
となっている。
いつもならゆっくりしてゆくようにすすめる西田が、
このときばかりは逆にせきたてるように絹子を玄関まで送出し、
「 奥さん、寄り道はせず、楽しそうな顔で御主人の所へ戻って下さい。
この手紙は必ず御主人に渡して下さいよ 」
といって微笑を見せた。
絹子は書簡の内容が秘めた重大さを知らないので、西田宅を出るといったん直心道場に寄り、
さらに身支度を整えて再び湯河原へ向かった。
絹子が伊藤屋旅館に着いたとき、すでに午後五時を過ぎていた。
澁川は絹子から西田の書簡を受取ると、
「 ご苦労だった。疲れたろう、西田さんの所に誰か来ていたか 」
と 聞き、西田の書簡を読む間、絹子を廊下に見張りに立たせたという。
やがて西田の書簡を読み終えた澁川は、絹子を部屋に呼びいれるとすまなそうな顔をして言った。
「 すまないが、今夜の終列車で東京へ帰らなければならない 」
絹子は一言の愚痴もいわずに素直にうなずいた。
これではいったい何のためにわざわざ湯河原まで来たのかわからない。
ところがこれからが大変であった。
絹子の回想では、午後十時過ぎの列車に乗ったというが、調べてみると、二十四日午前九時十五分に、
姫路を発車した横浜行の列車であった。
湯河原駅を出たのが二十五日の午後十時三十四分頃である。
午後十時過ぎの列車で湯河原に停車するのは、この列車が最後であった。
憲兵調書によると、澁川は二十五日の終列車で、夜半東京小石川の直心道場へ帰ったことになっているが、
実はここに重大な秘密が伏せられていた。
湯河原駅を発車した先の列車が横浜に到着したのは、二十六日の午前零時五分頃である。
ゆっくりと下車し 一休みして駅を出た澁川夫妻は、タクシーに乗ってほど遠くない裏町の旅館に着き、
約一時間近く待っていると、軍人をまじえた三、四名の男たちが頬を強張らせてやって来た。
その中のひとりだけ絹子には馴染みの顔があった。
直心道場へよく顔をみせる水上源一である。
すると旅館で待合せをしたのは、午前零時三十分頃に東京赤坂の歩兵第一聯隊を乗用車で出発した、
河野寿大尉以下八名の湯河原襲撃組ということになる。
こ絹子が中に若い端正な将校がいたというのは、おそらく河野寿大尉であったろう。
絹子を隣りの部屋に待たせてしばらく一同の密議が続くうちに、
やがてやや嶮けわし気な眼差しの一行が、絹子に丁寧に会釈して静かに出て行った。
「 奥さん、ご苦労でした。帰りは気を付けて下さいよ 」
という水上源一の声が、絹子の耳にいつまでもこびりついてはなれなかった。
一行が軽機関銃を持っていなかったところをみると、
約半数を残して、近くに自動車を待たせていたのではないかと思われる。
会合時刻は大体一時半頃であったというが、
深夜、歩一から雪の京浜国道を横浜まで突走ったとしても、一時間はかからない。
このことは憲兵調書や公判記録には出ていないようだが、
二月二十六日の午前一時三十分頃に、横浜近くの旅館で澁川がわざわざ逢った人物といえば、
湯河原襲撃組しかないだろう。
まして水上源一がいたのであれば、これは断定できる。
旅館に残った澁川夫妻は、やがて待たせていたタクシーに乗って、東京小石川の直心道場へ着いたのが、
二十六日の午前五時頃であったという。
だが澁川は、この間二度にわたって西田に電話連絡をしている。
ところが横浜から東京小石川までの約三時間の経過が、絹子にはどうしてもよく思い出せない。
絹子にしてみれば、おそらく疲労の極みにあったので車内で眠ってしまったのだろう。

そこで絹子の断片的な回想と資料を並べて、この時間を推測してみる。
まず、当時、横浜から公衆電話で東京へかけることはできなかった。
絹子が旅館で同志の密談を待っている間に、澁川が旅館の電話を隠密にうまく利用したことになる。
西田の公判記録では、二十六日の午前一時に、澁川から湯河原を引揚げ帰京する、
という電話が西田宅にあったことになっている。
しかし、その電話はおそらく澁川が河野大尉らを旅館から送出し、出発を確認してからだろう。
内容は澁川からは牧野在住確認の報で、西田からは用件が済み次第蹶起状況の報告を依頼し、
帰京をうながしたものと思われる。
したがって澁川が千駄ヶ谷の西田宅へ電話をかけたのが、二十六日の午前二時頃だろう。
このとき西田は、午前五時に予定された襲撃への出動状況を確認報告することを再び依頼し、
自分は直ちに北一輝邸へ行くことを澁川に知らせている。
横浜からタクシーで東京にはいった澁川は、まず、麻布六本木辺にタクシーと絹子を待たせて、
歩一、歩三の出動状況を視察し、今度は北一輝邸で待つ西田に再び電話で報告している。
このときは孝電話である。
この時間が午前四時前後であろう。
西田の公判記録では午前四時十五分となっている。
また大谷憲兵大尉の調査では、西田の命をうけた澁川が、部隊の出動を確認するために、
歩三の営門附近に身をひそめていたとあるが、西田の命とは、先にふれた視察報告の依頼であり、
身をひそめていたのは、横浜からタクシーで駆けつけたのである。
さらに安藤大尉の当番兵であった前島上等兵の手記では、営門を出た安藤中隊が歩一の前まで行くと、
突然一台の自動車が停車し、黒服の紳士が降りて、
「 いよいよ決行ですか、ご成功を祈ります 」
と 簡単な会話を安藤大尉と交わしたとある。
大谷憲兵大尉は、これを澁川善助としたが、まさにそのとおりだったのである。
澁川にとって同志中最も信頼できたのが、仙台幼年学校の一期先輩である安藤であり、
また、安藤こそ実力行動の中心人物であることを承知していたからであろう。
絹子の回想では、午前五時頃直心道場へ到着すると、まもなく道場の書生が大事件が発生したことを一同に告げた。
澁川はとうとうやったかという表情でうなずきながら、絹子に、
「 これから出かける 」
と 着替えもせず、背広のまま外へ飛び出して行った。
澁川はこうして事件三日目の二月二十八日、赤坂の「 幸楽 」 にいる安藤中隊に自ら飛び込み、
再び絹子のところにはもどらなかったのである。
絹子は自分がどんな立場におかれていたか、それさえ全く知らなかったのであった。

澁川夫妻の湯河原行は、完全に警察に探知されていたが、
絹子が往復して届けた澁川と西田の書簡には、警察も全く気づいていないようである。
澁川は巧みに妻を利用して、まんまと警察の裏をかいたことになる。
そして蹶起部隊の状況不利となった二十八日になった、何故わざわざ、「 幸楽 」 の安藤中隊に身を投じ、
自ら火中の栗を拾う以上の無茶なことをやったか。
それには澁川と安藤の間に、同志としてよりも、男と男の信義と友情があったからである。
・・・芦澤紀之著  暁の戒厳令 から