あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (三) 村中孝次

2021年07月23日 09時26分09秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


嗚呼十有五烈士
懐十五士涙潸々  放聲
名尚如存
噫周日前臨刑晨  唱和國歌祈聖壽
皇城頭期爲一魂  從容就死鬼神泣
遠雷砌獄舎漸昏  宛似英魂呼両人
昭和十一年夏

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蹶起将校の公判が始まった四月二十八日から七月十二日の処刑まで、
看守たちに涙雨といわれたほど多かった雨も、
処刑が終ると手の平をかえすように上がって天気がよくなった。
が 詩にあるように一日 突如黒雲低く垂れて天地晦冥、
ただでさえ暗い監房のうちいよいよ暗くなるとみるまに、

獄舎の屋根瓦をかきむしるような落雷をまじえた豪雨になって、
稲妻の閃光が縦横に房内を駈けめぐったことがある。

それは処刑日からかぞえて、初七日にあたる日のことだったのである。
初七日と知っていた村中孝次は 「 死而為鎮護国之忠魂 」 と大書して、
その前に端座し、
処刑十五士のために法華経を誦していた。
天気が急変したのは、ちょうどその法華経第二巻を誦しおわったころだったという。

村中孝次はこのとき、十五士のうちの一人が、しばらく湯河原で避暑し、
一週間後に東京へ帰ってきて活動を開始するといっていたことを思いだし

「 十五士雷雲に乗じて帰り来たる 」
と感応して
「 嗚呼十有五烈士 」 の詩を口吟したという

・・・末松太平著 私の昭和史 から 


村中孝次  ムラナカ タカジ
陸軍歩兵大尉
昭和10年 「 粛軍に關する意見書 」を発表、免官
明治36年10月3日生  昭和12年8月19日銃殺
陸士37期生 香田淸貞 大蔵榮一 菅波三郎 と同期


死而化鎭護國家之忠魂

一、嗚呼 十有五烈士
十五士ヲ憶ヒ 涙潸々タリ
聲ヲ放ッテ名ヲ呼ベバ 尚存スルガ如シ
噫 周日前刑ニ臨ムノ晨
國歌ヲ唱和シテ聖寿ヲ祈ル
皇城ノ頭一魂ト爲ルヲ期ス
從容死ニ就キ鬼神泣ク
遠雷砌ニシテ獄舎漸ク昏シ
宛モ英魂ノ兩人ヲ呼ブ二似タリ

七月一九日、今日は香田兄等十五士の初七日なり
午前入浴場より刑場を見る
十一月事件にて入所中、毎日運動をなせる刑務所東北角の一隅なり
以前と趣を異にして赤土が堆まれあり、
 噫 相澤中佐 外 十五士の鮮血はこの赤土に濺がれあるか
夕刻遠雷砌りになり四邊暗澹たり、即ち一詩を賦して口吟微吟して悲しむ
嗚呼盡忠無私、至情純情、十五士今や亡し
然れども余には呼べば答へる感をなさしむ

七月十二日を想起するに、涙新なるものあり
余と磯部氏とは全夕、同志と一緒なりし獄舎より最南位にある一新獄舎に移さる
十二日朝、十五士の獄舎より國家を齊唱するを聞き、次いで萬歳を聯呼するを耳にす
午前七時より二、三時間軽機關銃、小銃の空砲音に交りて、拳銃の實包音を聞く
即ち死刑の執行なること手にとる如く感ぜられる
磯部氏遠くより余を呼んで 「 やられてゐますよ 」 と 叫ぶ
余 東北方に面して坐し 黙然合掌
噫  感無量
鉄腸も寸断せらるるの思あり
各獄舎より 「萬歳」 「萬歳」 と叫ぶ砌りに聞ゆ
入所中の多くの同志が、刑場に臨まんとする同志を送る悲痛なる萬歳なり
磯部氏 又叫ぶ
「 私はやられたら直ぐ血みどろな姿で陛下の許に參りますよ 」 と
余も 「 僕も一緒に行く 」 と 叫ぶ
嗚呼 今や一人の忠諌死諌の士なし
余は死して維新の招來成就に精進邁進せん

後に聞く
この朝 香田兄の發唱にて 「君が代」 を齊唱し、
 且 「 天皇陛下萬歳 」 「 大日本皇國萬歳 」 を 三唱したる後、
 香田兄が
「 撃たれたら直ぐ陛下の御側に集まらう。爾後の行動はそれから決めやう 」
 と 言ふや、
 一同意氣愈々昂然として不死の覺悟を定め、從容迫らず些かも亂れたるなく、
 歩武堂々刑場に臨み刑に就きたりと
今や 「 死而爲鎮護國之忠魂 」 と 大書したる前に端座して、
 十五士の爲め法華經二巻を讀誦し終るや
 遠雷変じて閃々たる紫電となり、豪雨次いで沛然たり
十五士中一人が
 「 暫らく湯河原で避暑し、一週間後に東京に帰って活動を開始しやう 」 
 と 言ひたりといふ
十五士雷雲に乗じて帰り来るか
前詩を口吟して英魂を慰めんとするに涙又両頬を伝って声を發する能はず

 昭和11年7月19日 村中孝次 大尉
 丹心録から


 遺言
一、維新ノ爲メニ戰フコト四周星  今信念ニ死ス
 不肖ノ死ハ即チ維新斷行ナリ
男児ノ本懐事  亦何ヲカ言ハン
一、不肖等ハ武力ヲ以テ戰ヒ勝ツベキ方策ハナキニアラザリシナリ
 敢テコレヲ爲サゞリシハ不肖等ノ國体信念ニ基クモノナリ
身ヲ殺シテモ  至尊ヲ強要シ奉ルガ如キコトヲ慾セザリシニヨル
一、今後ニ於ケル静子及法子ノ身上及生計ニ關シテハ
 村中宇野両家ノ親戚一同ノ後髙庇に俟ツ       (マツ)
コノ事ハ慎ミテ千願万望シ奉ル
一、事ニ當リ 成ルベク静子ノ自由意志ヲ尊重セラレタシ
一、静子及法子を速カニ分家セシメラレタシ
一、遺品ノ處分ハ静子ニ一任ス
一、從來ノ運動ニ關スル文章類ハ成ルベク保存ヲ望ム
一、法子ノ恙ナキ生長ヲ祈ル                 (ツツガナキ)
 余りニ重大ナル希望ヲカケ過重ノ負担ニ苦シムガ如キ結果に陥ラザル様注意セラレヨ
一、静子及法子ニ対シテハ生前全ク盡ス所ナシヲ謝ス  (ツクス)
 今後精神的ニ朗カニ気樂ニ暮ス様祈ル
 右遺言ス
 昭和十一年七月十一日
 静子殿
 親戚御一同様



静子殿        孝次
一、四年余の契りは餘りにも短くはかないものだつた。
 而もこの四年の日子は殆ど國事に全努力を傾倒して家を顧みず、君を忘れたかのやうであつた。
君と樂しみ落付いて暮した日時、十指を屈するにも足りない位であらうか。
幾度か居所をかへ境遇は幾變遷した。
君は辛酸苦勞を嘗めるために僕に嫁した様なものだつた。
一、顧みて何の辭を以て君に謝してよいかわからない。
 僕一個は本懐を遂げて死ぬので、
 未だ生きる丈生きて國家國民のために盡したいのは勿論だが
尚以て冥すべし。
未だ若い君をして永い將來を寡婦として過ごさせる始末になつたことは、
 實に言ふに忍びない悲痛な思ひで、
 君をこの悲惨な境遇に陥入れたことについては
何とも謝すべき言葉がない。
運命と思って呉れ給へ。
一、四年半の間よく盡して呉れた、君の温かい勝れた優しい人格につゝまれて、
 非常な悲境と困難な苦闘の中にあつてよくこれに打ち克つことが出來た。
今回の事件を世に誇り得る時機が來たならば、これに与つた僕の功績の一半は君に捧げる。
僕は元來非常に憂鬱な性であつたが、君と一緒になつて以來人生を樂しむことが出來た。
僕が國事に奔走して家を忘れてゐたのは、君や法子を愛してゐないからだと思ふかも知れない。
僕は君が非常に好きだつた。
君を何人よりも愛してゐる。
ただ僕の性格としてそれを殊更に表現しなかつた。
僕は夫婦愛といふものは淡々として而も離れ難いものだと思つてゐる。
愛情を表現し合はなければ相互の情意が通じない様では、
未だ夫婦一體の道に達してゐないものであると思ふ。
僕は夫婦は一體と思ひ、その一體観は得てゐる様に思つてゐる。
それは愛といふもの以上であらう。
(中略)
僕が愛情を特に表現しなかったので、君は不満に思つてゐたかも知れないが、
僕の夫婦一體観の信念と又僕が殊更にその様な表現をすることを好まぬし
さういふ術にも疎い男だつたことを理解して、諒として貰ひ度い。
君を熱愛してゐることは僕の爲はらぬ情だ。
今國事に奔走して家を離れてゐても、
維新成就の暁は早く身を引いて共白髪を楽しみたい
と常日頃思つてゐた。
今や空し。
生前何等君に盡さず苦しい悲しい思ひをさせることのみだつたが、
死後は必ず君と法子とのためにつくす。
僕の霊魂は君の體内に生きて行く。
維新のため國家のためにつくさんとする精神は、同志一體魂の中に生きて、
必ずや維新の實現を見るであらう。
又 救世濟民の念願を果たさなければ斷じてやまない。
が、僕の霊魂は君の體内に宿る。
未來永劫に一緒でゐやう。
君に宿ることによつて法子の將來を護つて行かう。
僕の夫婦一體の信仰を信じて呉れ給へ。
一、百萬言を費やすも意を盡す能はず。 察せられよ。
 今後二、三年の辛酸に堪へられよ。
世人が決して遺族を放置するが如きことなかるべし。(以下略)
  とも白髪たのしむ日まで國のため
  盡さばやとて家を忘れき

二月二十五日、夫は菅波三郎の家へ行くと言い
「 しばらく留守にするからね 」 と言いおいて出かけて行った。
いつもの小旅行と同じさりげない様子であった。
しかしその二、三日前、夫人に貯金通帳と生命保険の証書を出させ、黙って見ていた。
この日、出かける支度が整ってから、村中は座敷に坐り込み、立ちがたい風情で、
「僕は陛下のお光を妨げる者を芟除するのがつとめと考える。
自分としてはそうしか生きようがない・・・・」 と 呟いた。
日頃夫がよく口にする言葉であったのと、汽車に乗るものとばかり思って
夫の外出仕度を急いだ妻は 「 あなた、時間大丈夫ですか 」 と 思わず言葉をはさんだ。
夫はこのあとに何を言うつもりであったのだろうか。
聞きそびれてしまった。
村中は立ちながら、数え年四歳の娘に 「 お土産はなにがいいの ?」 と 聞いた。
子供は無邪気に 「 ハンモック 」 と 答えた。
目立つといけないから見送るなと言われて、母娘は台所の桟越しに手を振って送った。
振返って眼でうなずいた夫は、そのまま足早に立去った。
村中が提げた鞄には、軍服一揃いと長靴がしまわれていた。
陸軍を逐われた男には着る機会のないはずの軍服である。
辛酸に堪えられよ
妻たちの二・二六事件 澤地久枝 著から

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