あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

相澤三郎 『 年寄りから先ですよ 』

2022年09月16日 15時42分18秒 | 相澤三郎

五・一五事件のとき 相澤中佐は、
そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま 安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、
中村中尉らをいさめ、
「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。
「 年寄りから先ですよ 」
は 前から相澤中佐の口癖であり信念だった。
私が満洲事変から帰って東京にでたとき、
相澤中佐は中耳炎で慶応病院に入院していたのが全快して退院するところだった。
澁川善助に案内されて私が病室をたずねたときは、
相澤中佐は後片付けも終わり、病院をでようとして、羽織袴姿になったところだったが、
そばにいた夫人が澁川に
「 いろいろとお世話に・・・・」 と 礼をいいかけると
「 そんな礼などいっても仕方ないよ。口の先きでいくらいっても追っつくことじゃない 」
と、むしろ苦りきって、夫人の口を抑えた。
相澤中佐は九死に一生の命を、東京の同志の献身によって助かったと思いこんだ。
これからの自分の命は、若い人たちからの預りものだと思いこんだ。
たしかに澁川などは 特に献身したであろうが、
このとき以来、
いよいよ 「 年寄りから  先ですよ  」
が 相澤中佐の堅い信念になった。

「 年寄りから  先ですよ  」 は 「 若いものは先立った年寄りにつづけ 」
ということではなかった。
「 神武不殺 」 とはいえ、
革新への突破孔を開くために、
どうしても犠牲が必要とすれば、
自分がそれになって、
愛すべき若い人々の散ろうとするのを防ごうとすることだった。
・・・ 「年寄りから、先ですよ」 ・・末松太平

相澤三郎
陸軍歩兵中佐 
陸士22期生
歩兵第41聯隊付
昭和10年8月12日 永田鉄山軍務局長に天誅を下す 「相澤事件」
明治22年9月9日生
昭和11年7月3日午前5時4分 銃殺

一ノ関中学校第二学年から仙台陸軍幼年学校に入学
明治41年5月30日幼年学校卒業
同年5月31日、士官候補生として歩兵第29聯隊へ入営
明治43年5月28日陸軍士官学校歩兵科教育課程卒業(95/509)
新義州守備隊で任官、同年、原隊仙台歩兵第29聯隊に帰還
中尉時代に約2年間台湾歩兵第1聯隊附となり、宜蘭守備隊に勤務
大正10年大尉に進級し、原隊歩兵第29聯隊に帰隊、大隊副官を務める
同年暮、戸山学校剣術教官として転出
大正15年、熊本歩兵13聯隊中隊長
昭和2年、東京歩兵第1聯隊附となり、日本体育会体操学校服務
昭和5年、陸軍士官学校剣術教官
昭和6年、少佐に進級、青森歩兵第5聯隊大隊長
昭和7年、秋田歩兵17聯隊大隊長
昭和8年、中佐に進級、福山歩兵第41聯隊附
昭和10年8月、台湾歩兵第一聯隊附に転補


相澤三郎  アイザワ サブロウ
『 年寄りから先ですよ 』

目次

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・ 昭和維新 ・相澤三郎中佐

・ 
「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」 
・ 
「 大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか 」 
・ 相澤中佐の中耳炎さわぎ 

・ 國體明徴と相澤中佐事件 
今日本で一番惡い奴はだれですか 
相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )
 ・ 國體明徴と相澤中佐事件
 ・ 永田軍務局長刺殺事件
 ・ 訊問調書 ・ 事件への道程 ( みちのり )
 ・ 憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」
 ・ 永田伏誅ノ眞相
 ・ 「 永田鐵山のことですか 」
 ・ 「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか 」
 ・ 「 年寄りから、先ですよ 」
 ・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1
 ・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2
 ・ 軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」
 ・ 軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室へ入る 」
 ・ 軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長へと向ひ合っていた 」
 ・ 軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」
 ・ 軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」
 ・ 軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ (大事) だ 」
 ・ 軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」
 ・ 相澤さんが永田少將をやったよ 
 ・ 行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」
 ・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件
 ・ 相澤三郎 發 西田税
 ・ 満井佐吉中佐 ・ 特別辯護人に至る經緯
 ・ 第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆彈發言
 ・ 所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」
 ・ 相澤三郎 ・ 上告趣意書 1
 ・ 相澤三郎 ・ 上告趣意書 2
 ・ 大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」
 ・ 判決 『 被告人を死刑に處す 』
 ・ 本朝のこと寸毫も罪惡なし

あを雲の涯 (二十) 相澤三郎 
相澤三郎 『 仕えはたして今かへるわれ 』 (一)
相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二) 
昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 

・ 相澤三郎考科表抄 
・ 相澤中佐片影 

剛毅朴訥 仁に近し
剛毅朴訥 にして、決行敢爲の風あり
十の想いを一言で述べる
・・如何にも、相澤中佐に相応しい

相澤三郎中佐の追悼録
相澤三郎の爲人
私が中佐にお目にかかったのは二度です
昭和八年一月五日

山海関西関に於きまして戦死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました
他人としては当町分会長長谷川大尉、小学校長五十嵐氏が入って居ました
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身体、襟章は十七、じっと下を凝視してゐるのが私の目に入りました
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました
私には今でもはっきり其の姿が見えます
膝をしっかり合わせて、拳をしっかり握って、下を凝視して居られた姿が
その方が相澤少佐殿でした
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて独りブリッジに
倚りかかって居られたさうです
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に「乗せて下さい」と云はれて来られたのださうです
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした
唯一言
「遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない」
とポツリポツリおっしゃいました
それから白石町分会長長谷川大尉と話し出されました
大体こんな内容でした
遠藤さんはすばらしく偉い人だ
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ
と 力をこめておっしゃいました
分会長は仕方なく相槌を打って居たやうでした
話はたまたま多聞師団長の事に移りました
(其の頃は第二師団が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師団長を招待し、胸像を贈呈する予定になって居ました)
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「多聞師団長に胸像をやるよりりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ」
と口を極めて申されました
それから私に 「遠藤さんの骨を持たせて写真をとらせてくれ」 と申されました
私は喜んで承知しました
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな声を上げて泣き出されました
私は、愕然としました
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます
しばらく続きました
私も泣いて了ひました
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、「お葬式の時には参ります」
と 申されてお帰りになりました
之が最初にお目にかかった時の印象でございます
葬式の時は、現地戦術で参れないと言ふ御懇篤な御書面がありました
同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事変戦歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に参列し、奥羽戦で帰ります途中、
ふと中佐殿にお目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました
中佐は非常にお喜びになり、
(其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした)
丁度会議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました
そのときこんなことをおっしゃいました
「あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした」
「遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる
遠藤さんのお考へは実に立派なものだった。今其の内容を話すことは出来ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの為めに同志が記念碑を建てます」 と
お別れの間近に中佐殿は
「どれ、遠藤さんに報告しやうかな」 と言はれて奥に入られたので私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の写真がかざってありました
私も拝みましたが私は泣いて了ひました
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって来てたまりません
それから御子様三人を連れられて無理に送って下さいました
発車致しました
挨拶致しました
しばらく経って窓から顔を出すと中佐殿は未だ立って居られます
又敬礼されました
私はびっくりして頭を下げました
胸は一杯でした
しばらくは泣いてゐました
これが二度目でした
八月に進級御礼の挨拶を戴きました
私は中佐殿にお目にかかったのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出来ません
兄の写真を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません
私は中佐殿を維新の志士の如く方と思って居りました
熱烈なる御精神
あの温容
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません
この手紙は一日兄の霊前に供へました
何卒国家の為に中佐殿御決行の精神を社会に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出来ません
表現するに適当な言葉がありません
只如何としても忘れることの出来ないありがたいお方としか申すことが出来ません
・・・遠藤美樹 ( 満州事変で戦死の遠藤中尉の弟 ) ・・・澤中佐片影

純真素朴で剛毅 ・・・有末精三

朴訥で生一本 ・・・大蔵栄一

信義を重んじる点では相澤中佐は小児のようだった、
小児は冗談でも本気にする。
信義を重んじる相澤中佐に、はったりや冗談は禁物だった。
もちろん小児の如く幼稚ではない。
巧言令色の徒の言には、いささかも耳をかさなかったであろう。
小児の如く信じるのは、信頼する同志の一言一句である ・・末松太平

資性純情朴直にして感激性に富み ・・公訴事実

口は重いというより非常な訥弁で、
面と向かって話しても、調子というものが全然合わなかった。
十の思いを一言で述べるといった具合で、
聞き手の方がよほど想像力を逞しくしないと、
何を言っているのかわからないくらいだった ・・・新井勲

日本という国は不思議な国だ。
まさに神国だ。

こんなに腐りきり、混乱した時世になると、神の使いのような人物が現れる。
相澤さんなぞはその尤ゆうなる人だ。
神の使いのように心に一点の曇りもない。
至純、至誠の人というのは相澤さんのような人を言うのであろう。
・・・西田税、末弟に語る

最も純粋な国体に対する信仰的な信念を有し、
その意味に於て日本臣民たることに非常な感謝の念を抱いている人であり、
かつ 剣 禅 一如 の 修業をされた悟道の風格を備へた人 ・・・西田税

戸山学校剣術教官時代、
天覧に供するため、
木刀で気合もろとも 三六本の棒を一気に倒すという離れ技を披露したことがあった
これも 剣禅一如の極意とされる
神人合一の境地にまで進み得た人 ・・・大蔵栄一

全く我等は神様と崇拝している ・・・小川三郎

山科の浮きさんは 昨日も今日も一力通ひ
女の色香酒の味 敵討ちなど野暮なこと
アア 酔ふた酔ふた 盃の酒までが 
ひよいと見えたよ血の色に
アア酔ふた酔ふた ・・・大石良雄の山科遊び

何時も愉快な源蔵が今日は泣き上戸になって
手酌でクビリクビリと一ツづつのみながら
他出して居ない兄者の羽織にすがって訣れを惜しむ
雪はサラサラ降っている ・・・赤垣源蔵徳利の訣れの小唄
此れ、相澤中佐の好んだ歌である。