あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

後顧の憂い

2017年11月30日 14時54分28秒 | 後顧の憂い

「姉ハ・・・・・・」
ポツリ ポツリ家庭ノ事情ニツイテ物語ッテ居タ彼ハ、
此処デハタト口ヲツグンダ、
ソシテチラリト自分ノ顔ヲ見上ゲタガ、
直ニ伏セテシマッタ、
見上ゲタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙ガタマッテ居タ、
固ク膝ノ上ニ握ラレタ両コブシノ上ニハ、二ツ三ツノ涙ガ光ッテ居ル
モウヨイ、コレ以上聞ク必要ハナイ、

 

後顧の憂い

目次
クリック すると頁が開く

貧困のどん底 
靑年將校がみていた 當時の社會 「 兵隊に後顧の憂いがある 」 
・ 
後顧の憂い 「 姉は・・・」
・ 
後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」
・ 
「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 
・ 
昭和十一年正月 
・ 「 芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」

後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」

・ 
凶作民 『 六萬余の窮民に衣類足袋を配給 』 
・ 
娘身賣り 1 『 賣られる最上娘 』 
・ 娘身賣り 2 『 娘を賣る 悲慘な二戸郡 』 
・ 東北大飢饉 (一) 「 子供たちは、とてもひどいボロを着ている 」
東北大飢饉 (二) 「 國のために勇敢に戰って、いさぎよく戰死しろ 」
東北大飢饉 (三) 「 切手の不足税6錢の金がないばかりに 」
・ 
東北大飢饉 (四) 「 人間を食うのは昔の人ばかりではない 」

わしも一人の息子を満洲の兵隊へ出しているだが、
こないだも手紙で言ってやっただ、
國のために勇敢に戰って、いさぎよく戰死をしろ、
とな。
そうすりゃ。
なア おかみさん、
なんぼか 一時金が下って、
わしらの一家も この冬ぐらいは生き伸びるだからな。
娘を持っているものは 娘を賣ることが出來るだが、
わしは、
息子しか持たねえから、
そうして 息子を賣ろうと考えてるだよ・・・・


貧困のどん底

2017年11月29日 18時53分07秒 | 後顧の憂い

安藤輝三
昭和五年の夏頃から、
時折、安藤は日曜日を利用して、
旧部下の生活状態を視察するようになった。
生活苦から安藤を訪れる除隊兵は依然とあとをたたなかったのである。
特に東京の浅草、月島、向島、荒川、葛飾、江戸川、足立 方面が多かった。
昭和六年の七月下旬、
すなわち菅波中尉が 歩三に転属になる少し前にも、
ある日曜日に安藤は(無二の親友) 湯浅を誘って、
隅田公園に近い花川戸の問屋街に旧部下を訪ねたことがあった。
「 このときは、
下駄や草履の鼻緒をあつかっている問屋の従業員であった安藤の旧部下を訪ねたのですが、
労働時間はでたらめで、早朝から夜遅くまで安月給で働かされているのをみて、
気の毒に思ったものでした。
ところが問屋に働いている者はまだいい方で、
次にその鼻緒を作っている小さな町工場へ行くと、これは問屋よりさらに過酷な労働条件なんです。
しかも下には下があって、
雨漏りと下水のくさい臭いが漂う長屋の中では、その鼻緒の下請けをやっているのがいるんです。
まるで内職みたいな仕事ですね。
この頃は失業者が街に溢れた時代ですから、それでも仕事のあるものはまだよかったんです。
働きたくとも働く仕事そのものがなかったのですよ 」
湯浅の回想によると、安藤に誘われて四、五回出かけた記憶があるというが、
このほかに、安藤が単身旧部下を訪ねた回数を入れたら、相当な回数になるだろうと語る。

安藤はいわば中産階級の出身であるが、
父の栄次郎は教師としても収入の多いほうであるから、
生活の苦しさは全く知らない。
それだけに聯隊へ安藤を訪ねて来る旧部下の窮状を聴いても、
信じられなかった部分もあったに違いない。
それが湯浅を誘った旧部下訪問、後には単身訪問ということになったようだが、
安藤にとって世相の苛酷さは何といっても衝撃であった。
潔癖で正義感の強い安藤に、社会の現実がどのように映じたかは想像に難くない。
むろん政府や政治家は一体何をしているのか、というふしん疑問は当然浮かんでくる。
こうなると安藤には政治がまるで悪魔の仕事に思えてくる。
だが、軍人の安藤には全く為すすべがない。
しかも、除隊していった旧部下だけならばともかく、
現在の部下である中隊の下士官、兵の中にも貧窮の家庭に育った者が多い。

下士官の中で、毎朝の洗面時に必ず兵隊が使っているランオン粉歯磨を借りる者がいた。
最初は忘れたと思って兵隊達もいい顔で貸していたが、
これが相手を代えていても毎日となれば次第にわかるものである。
「 班長は歯磨粉まで買わずに兵隊のを借りている 」
という評判がたち、やがて安藤の耳に入った。
安藤がそれとなく調べてみると噂は真実であった。
それに使っている歯ブラシも、実は古くなって兵隊たちが捨てたものを拾って、
内緒でいくつかを持っていた事実までわかった。
当時、聯隊の酒保で売っているライオン歯磨は、軍用で最も安いのは七銭であった。
ところがこの下士官は、聯隊から支給される俸給のほとんどを実家へ送金していた。
それでなくては残された家族が喰えなかったからである。
安藤中尉は、
その下士官が班長としての下士官の体面と、
実家の生活苦との板挟みになって心ならずも節約を重ね、
中隊内でケチの鼻つまみになっている事実を知って悩んだ。
残された家族が貧窮のどん底で呻吟しているのは、
その下士官の場合だけではなかったからである。
見かねた安藤が身銭をきったぐらいではどうにもならない。
また、食事時、初年兵の中にはたいして上等でもない聯隊の食事がもったいない。
祖父や弟にも食べさせてやりたい、
と ひそかに瞼をぬぐう者があることも安藤はよく承知していた。
さらに 旧部下の中には、
失業苦からルンペンになって上野公園あたりをうろついている者がある、
と 聴いて捜したことさえあった。
聯隊へ訪ねて来る旧部下の姿も依然としてなくならない。
ここにおいて安藤は次第に、
----こんなに家族のことを心配している兵を連れて戦場には行けない。
と 考えるようになった。
所謂 後顧の憂いである。
軍隊存立の建前からいっても、
民衆の貧困が、やがて軍隊の崩壊につながるのではないか、
と 結論を出した安藤輝三の思想を、
将校の身分意識でこれをとらえたとする批判は容易である。
だが、正義感溢れる安藤は、
部下の兵の家族だけでなく、旧部下の生活まで想いをはせた。
安藤が燃えるような眼差しで、湯浅に政治問題として民衆の生活苦救済を訴えても、
さりとて湯浅に満足な応えが出せるはずもなかった。
ここにおいて、安藤は初めて湯浅と政治を語り、現体制の矛盾を論じ合った。
こうしてみると、安藤中尉の情味が旧部下に慕われ、
かえってそれが安藤の精神的、物質的負担を重くし、
そして苦悩の結果政治への批判の眼を養成していったといえるだろう。

安藤中尉が菅波三郎の国家改造論に 打てば響くように反応を示した背後には、
これだけの経緯がある。
安藤が菅波に連れられて代々木山谷の西田税宅を訪れたのは、これから間もなくのことであった。
西田、安藤の初対面は互いに好感をもったという。
とくに西田は 安藤の謙虚な態度に感心したといわれている。
これは末松太平中尉の回想でもそうである。
安藤は陸士一期後輩の末松に対しても、革新派の先輩としてつねに教えを請う態度であった。
そして 安藤は、仙台幼年学校の一期後輩であった澁川善助に再会した。
安藤も澁川も、まさか革新派の同志として東京で再会しようとは、夢想だにせぬことであった。

暁の戒厳令  芦澤紀之 著 から 


靑年將校がみていた 當時の社會 「 兵隊に後顧の憂いがある 」

2017年11月25日 17時39分16秒 | 後顧の憂い

靑年將校がみていた
當時の社會


一、山口一太郎  
靑年將校は戰時において下級指揮官として、貧しい靑年と共に、
敵の鐵砲火の中に飛び込む役である
と 同時に、平時においても軍隊敎育者として、
兵隊を仕込む役でもある。
熱心な敎育者であればある程、被敎育者たる兵隊の困窮に深い同情を持つ。
この困窮をなんとか救ってやりたいと思い、その困窮の原因となっている社會惡に對し、
激しい憤激を覺えてくる。

第一に
この國は國民大衆の幸福のために運営されていない。
天皇様は國民が幸福であるように、お情け深くあられるが、
牧野伸顕とか鈴木貫太郎とか齊藤實とかいう君側の肝が、
特權階級に都合のよいように虚を申し上げるから政治が惡くなるのだ。
高橋是清蔵相は財閥の味方ばかりして貧乏人を苦しめている。
第二に、
戰爭で死ぬのは靑年將校と兵隊とであり、
參謀本部や陸軍省の連中は、待合で兵器工業社の重役と飲み食いし、
戰爭になっても自分たちの生命は安泰で、その上勲章や褒美の金がもらえるのだ。
第三に、
二十歳から二十三歳位の働き盛りの靑年を兵隊にとられ、
どん底生活におちいった家庭の數は數えきれない。
それなのに、
それらの家庭に邦から与えられる軍事救護金は、家の涙ぐらいしかない。
ために苦界に身を沈めた兵隊の妹もおびただしい數にのぼる。
國を思い兵隊の家庭を通じて國民大衆の苦悩を、
ひしひしと體得している純眞な靑年將校は、
純眞であればあるほど、
時の政府、時の軍當局、特に財閥が憎くてたまらなかったのである。
國民を兵隊として召集する仕事をかる役所は聯隊區司令部である。
兵隊に後顧の憂いがある。
これでは天皇陛下萬才を心から叫んで死んでいけない。
今日の政治はだめだ 
という靑年將校の聲は、聯隊區司令官を通じて陸軍省にとりつがれ、
閣議の席上陸軍大臣からしばしば政府に申し立てられた。
これは國民大衆の声が、
爲政者に強く勧告される ひじょうに都合のよいルートであったのである。
しかし、政治はいっこうによくならなかった。
純眞な人たちが自己を忘れて國民大衆の幸福になる道をかんがえるとき、
正當な意志通達のルートが閉ざされていると、
その動きはおのずから危險性を帯びてくる
・・・『 青年将校 』 山口一太郎
・・日本週報 「 天皇と反乱軍 」 所載

靑年將校は
兵の身上から社會をのぞき、
そこから
政治惡を感じとっていた


二、高橋太郎
「姉は・・・」 
ポツリポツリ家庭の事情について物語っていた彼は、ここではたと口をつぐんだ。
そしてチラッと自分の顔を見上げたが、すぐに伏せてしまった。
見あげたとき彼の眼には一ぱいの涙がたまっていた。
固く膝の上にすえられた両こぶしはの上には、二つ三つの涙が光っている。
もうよい、これ以上聞く必要はない。

暗然拱手歎息、
初年兵身上調査にくりかえされる情景、
世俗と断った台上五年の武窓生活、
この純情そのものの青年に、實社會の荒波は、あまりに深刻だった。
はぐくまれた國體観と社會の實相との大矛盾、疑惑、煩悶はんもん
初年兵敎育にたずさわる靑年將校の胸には、
こうした煩悶がたえずくりかえされて行く。
しかもこの矛盾はいよいよ深刻化して行く。
こうして彼等の腸は九回し、眼は義憤の涙に光るのだ。

ともに國家の現狀に泣いた可憐な兵は今、
北満第一線の重壓にいそしんでおることだろう。
雨降る夜半、ただ彼らの幸を祈る。
食うや食わずの家族を後に、國防の第一線に命を致すつわもの、
その心中は如何ばかりか、この心情に泣く人幾人かある。
この人々に注ぐ涙があったならば、
國家の現狀をこのままにして置けないはずだ。
ことに爲政の重職に立つ人は。

國防の第一線、日夜生死の境にありながら
戰友の金を盗って故郷の母に送った兵がある。
これを發見した上官は、ただ彼を抱いて聲をあげて泣いたという。
神は人をやすくするを本誓とす。
天下の萬民は皆神物なり、
赤子萬物を苦しむる輩はこれ神の的なり、許すべからず
・・・『 感想録 』
死刑判決三日前の七

月二日に書き殘したもの
若い隊付將校の
革新の意嚮が切々と訴えられている


三、磯部淺一 
靑年將校の改造思想はその本源は改造法案や、北、西田氏ではありません。
大正の思想國難時代にこれではいけない、
日本の姿を失ってしまうという憂國の情が、忠君愛國の思想をたたきこまれている、
士官學校、兵學校、幼年學校の生徒の間に、勃然として起ったのです。
そしてこの憂國の武學生が任官して兵の敎育にあたってみると、
兵の家庭の情況は全く目もあてられない惨但たるものがあったのです。
何とかせねばと眞面目に考え出して、日本の狀態を見ると意外にひどい有様です。
政党、財閥のかぎりなき狼藉のために、國家はひどく喰い荒されている。
これは大變だ、國を根本的に立て直さねば駄目だと氣がついて、
一心に求めているとき、
日本改造法案と北、西田氏があったのです
・・・『獄中手記』・・磯部浅一
リンク→ 獄中手記 (三) の三 ・ 北、西田両氏と青年将校との関係

これも靑年將校の國家革新への志嚮を描いたものだが、
けっきょく靑年將校は、
いずれも
「 國家惡 」
を そこにみたわけであるが、
では
彼らは國家の現狀を、
何に照らして惡とみたのか、
彼らが日本の現狀を見る眼は
なんだったのか。


四、村中孝次 
明治末年以降、
人心の荒怠と外國思想の無批判的流入とにより、
三千年一貫の尊嚴秀絶なるこの皇國體に、
社會理想を發見し得ざるの徒、
相率いて自由主義に奔りデモクラシーを讃歌し、
再轉して社會主義、共産主義に狂奔し、
玆に天皇機關説思想者流の乗じて以て議會中心主義、
憲法常道なる國體背反の主張を公然高唱鞏調して、
隠然幕府再現の事態を醸せり。
之れ
一に明治大帝によりて確立復古せられたる
國體理想に對する國民的信認悟得なきによる
・・・『続丹心録』
リンク→ 昭和維新・村中孝次 (三) 丹心録

國家の現状、
それは村中によれば、
國體理想に背反せるものであった。
彼らのもの見る眼は
そのすべてが
國體観念、國體の理想にあった。
この理想にてらされる邦の姿は
「 國體破壊 」
の 現狀であったのである。


軍閥 大谷啓二郎著 から  


後顧の憂い 「 姉は・・・」

2017年11月23日 12時50分05秒 | 高橋太郎

七月二日

「姉ハ・・・・・・」

ポツリ ポツリ家庭ノ事情ニツイテ物語ッテ居タ彼ハ、
此処デハタト口ヲツグンダ、
ソシテチラリト自分ノ顔ヲ見上ゲタガ、
直ニ伏セテシマッタ、
見上ゲタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙ガタマッテ居タ、
固ク膝ノ上ニ握ラレタ両コブシノ上ニハ、二ツ三ツノ涙ガ光ッテ居ル
モウヨイ、コレ以上聞ク必要ハナイ、

暗然拱手歎息、初年兵身上調査ニ繰返サレル情景
世俗ト斷ッタ臺上五年ノ武窓生活、コノ純情ソノモノノ靑年ニ、實社會ノ荒波ハ、
餘リニ深刻ダッタ育クマレタ國體観ト社會ノ實相トノ大矛盾、疑惑、煩悶、
初年兵敎育ニタヅサハル靑年將校ノ胸ニハ、
カウシタ煩悶ガ絶エズ繰返サレテ行ク、
而モコノ矛盾ハ愈々深刻化シテ行ク、
カウシテ彼等ノ腸ハ九回シ、眼ハ義憤ノ涙ニ光ルノダ
共ニ國家ノ現狀ニ泣イタ可憐ナ兵ハ今、
北満第一線ニ重任ニイソシンデ居ルコトダラウ、
雨降ル夜半、只彼等ノ幸ヲ祈ル
食フヤ食ハズノ家族ヲ後ニ、
國防ノ第一線ニ命ヲ致スツハモノ、ソノ心中ハ如何バカリカ、
コノ心情ニ泣ク人幾人カアル、
コノ人々ニ注ぐ涙ガアッタナラバ、
國家ノ現狀ヲコノママニシテハ置ケナイ筈ダ、
殊ニ爲政ノ重職ニ立ツ人ハ國防ノ第一線、
日夜生死ノ境ニアリナガラ戰友ノ金ヲ盗ッテ故郷ノ母ニ送ッタ兵ガアル、
之ヲ發見シタ上官ハ唯彼ヲ抱イテ聲ヲ擧ゲテ泣イタト云フ

神ハ人ヲヤスクスルヲ本誓トス、
天下ノ萬民ハ皆神物ナリ、
赤子萬民ヲ苦ムル輩ハ是レ神ノ敵ナリ、
許スベカラズ


高橋太郎 陸軍歩兵少尉 歩兵第三聯隊
二・二六事件 獄中手記遺書 河野司 編  高橋太郎 ・ 感想録 より


後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」

2017年11月20日 17時17分18秒 | 後顧の憂い

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の敎育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
餘裕のある家庭の子弟は大學に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社會は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」

と、香田が私に慨嘆したことがあった。
(昭和六年の事)

・・・二・二六事件の挽歌 大蔵栄一 著


昭和十一年正月

2017年11月18日 16時09分23秒 | 後顧の憂い

昭和十一年の正月は穏やかな日本晴れで明けた。

三日過ぎ、
栗原たちは顔の汗を寒風が飛ばすのをいつになく心地よく感じながら上池上の坂を上っていた。
斎藤瀏と史の家まであと少しだった。
呑川とその枝のように延びる支流を渡って、
何度この坂を上り下りしたことだろうと 栗原は考えていた。
現在の地名に上池上はない。
今日の池上台かせ馬込一帯が かつて大森区上池上と呼ばれていた山林台地であろうか。
本門寺下を曲がりながら羽田に落ち込む呑川は今でもあるが、
支流は暗渠になって流れは見えない。
だが、栗原たちが上っていたころの上池上台地からは細い水系をはさんで東に東京湾、西に富士山が望めた。
 ・
「 みろよ、霊峰というにふさわしい関節゛りだなあ 」
何にでも感激する栗原 ( 歩兵第一聯隊中尉 ) が 坂井直 ( 歩兵第三聯隊中尉 ) 、
中橋基明 ( 近衛歩兵第三聯隊中尉 ) 、清原康平 (歩兵第三聯隊少尉 ) 、林八郎 ( 歩兵第一聯隊少尉 )
ら連れに声をかけた。
中橋基明    清原康平
「 やあ、おじさん、フミ公、明けましておめでとうございます。一箇聯隊やって来ました 」
いうなり 例によって
「 どんどんやりましょう 」
などと 言いながら大勢で提げてきた一升瓶を差し出した。
その夜、瀏も若い隊付将校たちと心ゆくまで酒に酔った。
史も お運びの合間をみては盃を受けていた。
酒が入れば成行で必ず歌うのが 「 青年日本の歌 」、
一般的には 「 昭和維新の歌 」 として知られた歌である。
この夜も若い坂井や清原たちがまず歌い出した。
それに全員が声を揃えて、腕を振って歌った。

汨羅の淵に波騒ぎ  巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に吾立てば  義憤に燃えて血潮湧く

権門上に傲れども  國を憂うる誠なし
財閥富を誇れども  社稷を思う心なし

昭和維新の春の空  正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて  散るや万朶の桜花

栗原安秀 
やがて栗原が斎藤に、
「 おじさん、こんな話を聞いてください 」
と言って喋り始めた。
栗原の部下の家庭のことだった。
「 昭和六年の秋も終わりごろでした。
自分の中隊に満洲事変で両手両足を失って辛くも命だけ助かった兵がいました。
東北の生家に帰った彼に会いに行ってみたら、
一家の凋落を支えるため最愛の妹が遊女になっていたのです。
それなのに自分は何をしてやることもできず、樽の中に据えられたまま、
食べることも、着ることも人手に頼らねばならない。
なぜ自分は生き残ったか、そしてこの眼で貧しい両親の生活、
妹の苦労をみなければならない。
どうして自分は死ななかったのか、そう言って彼は泣きました 」
そう言いながら 栗原の両目にからも熱いものが溢れてきた。
人一倍、感情のひだの深い男だった栗原には、部下の耐え難い生活実態を語ること自体切なかった。
史も くしゃくしゃになった栗原の顔を見ているうちに、少女のようにもらい泣きした。
史    坂井直
続いて坂井が重い口を開いた。
坂井は第三聯隊の後輩で連隊旗手を務めている高橋太郎少尉から聞いたのだと
前置きして次のように語り始めた。
「 高橋少尉がある初年兵から家族の聞き取り調査を順次していたときの話であります。
高橋太郎 
『 姉は・・・』 
と ポツリと言ったきり彼は口をつぐんでしまったのだそうです。
そしてじっと高橋の顔を見上げたときには
その兵の目にはいっぱいの涙が溢れていて何も喋れない状態だったというのです。
高橋も  『 もうよい、なにも言うな 』 と言うのが精一杯だったといいます。
もうこれ以上、何も聞くことはない と言っていました。
高橋はそのあともこう言いました。
『 食うや食わずの家庭を後に、国防のために命を散らす者、その心中はいかばかりか。
この兵に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにしては置けないはずだ。
ことに政治の重職にある人たちは 』
そういって我々の仲間に加わってくれています。
それはおじさんに是非申し上げたかったのです 」
林八郎
さらに林八郎が話を継いだ。
「 先夜、実際に自分が隊内で見た事実です。
国防の第一線にありながら、日夜生死の境にある戦友の金を盗んで、
故郷の食うや食わずの母親に送った兵があったんのです。
これを発見した上官は ただその兵を抱いて声を上げて泣いていました 」

おもいつめ一つの道に死なむとするこの若人とわが行かむかな

斉藤は一首詠んで青年将校と生死を共にする覚悟をした。
正月が過ぎると各部隊の隊付将校の間では隠密裡に作戦が練られていったのである。

昭和維新の朝 二・二六事件を生きた将軍と娘  工藤美代子著から


安田優 『 軍は自らの手によって、その墓穴を掘ったのであります 』

2017年11月18日 15時32分28秒 | 安田優


安田 優

安田少尉は音吐朗々として雄弁を奮った。
その内容と共に私は非常に感激した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・昭和11年5月19日、第十五回公判・・・
公訴事實ニ對スル反駁
檢察官ノ陳述セル公訴事實中我々ノ行動ヲ賊軍ノ如ク取扱ヒアルモ、
私ハ奉勅命令ニ背キタルコトナキニ附、
奉勅命令ヲ傳達シタルヤ否ヤノ點十分審理アランコトヲ希望ス。
尤モ、私自身トシテハ賊徒ノ汚名ヲ甘受シテ死スルノ雅量ヲ有セザルニアラザルモ、
國軍ノ爲ニマコトニ遺憾ニ堪ヘザル次第ナリ、云々

原因、動機ニ就テ
上層階級ノ精神的堕落、中堅階級ノ思想的頽廃たいはい
下層階級ノ經濟的逼迫ひっぱく ヲ救フ爲ニハ、
球磨川ノ如キ流ガ大ナル岩ニ當リテ激スル如キ事件ヲ起コスカ、
或ハ戰争ヲ起スカ、
兩者其ノ一ヲ選ブノ外ナシト思料シ、
而モ戰爭ヲ起スコトハ我國内外ノ情勢上危險ヲ伴フ虞アリタルヲ以テ、
前者ヲ選ビタルモノナリ。
而シテ多クノ諸君 ( 相被告ノ意 ) ハ
陸軍大臣ノ告諭、戒嚴部隊編入等ヲ以テ
我々ノ擧ガ正シキモノノ如ク考ヘアルガ如キモ、自分ハ意見ヲ異ニス。
即チ、我々ノ行動ハ其ノ良否ハ別トシテ、最初ヨリ正シキガ故ニ正シキモノニシテ、
今トナリテハ考フレバ、
大臣ノ告諭、戒嚴部隊ノ編入等ハ却テ禍とナリタルモノト思料セラル。
肩ニベタ金ト星ヲ三ツ着ケテ自己ノ職分ヲ盡スコト能ハザル如キ軍人ノ存在ヨリモ、
身分ノ低キ一士官候補生ニテモ自己ノ信念ニ基キ盡クスベキ処ヲ盡ス者ノ存在ガ國軍ノ爲如何ニ有用ナルカ、
嚴頭ニ立ツテ頭ヲメグラス如キ軍人ノ存在ハ國軍ヲ毒シ國家ヲ滅亡ニ導クノ因ヲ爲スモノニシテ、
斷ジテ排撃すベキモノナリ、云々

國軍ノ將來ニ對スルオ願
私ハ斯ク申セバトテ我々ノ今回ノ擧ヲ以テ罪ナシトナスモノニアラズ。
又、國法無私スルモノニモアラズ。
唯現在ノ國法ハ強者ノ前ニハ其ノ威力を発揮セズシテ
弱者ノ前ニハ必要以上ノ威力ヲ發揮ス。
我々今回ノ
擧ハ此ノ國法ヲシテ絶對的ノ威力ヲ保タシメントシタルモノナリ。
私ハ今回ノ事件ヲ起コスニ方リ既ニ死ヲ決シテ着手シタリ。
即チ、決死ニアラズシテ必死ヲ期シタリ。
今更罪ニナルトカナラヌトカヲ云爲スルモノニアラズ。
靜カニ處刑ノ日ヲ待ツモノナリ。
今、玆ニ述ベントスル処ハ、恐ラク私ノ軍ニ對スル最期ノオ願ト成ル物ト思料ス。
(1)
軍ガ財閥ト結ブコトハ國軍ヲ破壊シ國家ヲ滅亡ニ陥ラシムル原因ナリ。
而シテ其ノ萌芽ハ既ニ三月事件、十月事件ノ際之ヲ認メタリ。
 トテ、池田成彬ガ靑年將校ニ偕行社ニ於テ金錢ヲ分配セントシタルコト、
十月事件ノ宴會費ハ機密費ヨリ支出セリト云フモ 財閥ヨリ支出セラレタル疑アルコト ヲ 引例ス )
(2)
軍上層部ト第一線部隊ノ者トノ間ニ意思ノ疎隔アルハ國軍將來ノ爲憂慮ニ不堪。
此ノ携行ハ在満軍隊ニ於テ其ノ著シキヲ見ル。
永田事件後、軍上層部ニ依リテ叫バレタル肅軍、統制ノ聲ハ相當大ナルモノナリシガ、
第一線部隊ニ在ル者ハ第一線ノ部隊ハ軍紀風紀嚴正ニシテ統制ヲ破ル者ナシ、
肅軍、統制ノ必要ハ第一線部隊ヨリモ軍上層部ナリトテ、中ニハ憤慨シタル者アリ。
多門師團長ガ第一線部隊ノ將兵ガ困苦欠乏ト闘ヒアル際自分ハ高楼ニ坐シテ酒色ニ耽リ、
靑年將校ガ憤慨シテ斬リ込ミタルハ事實ナリ。
某旅團長ガ花柳病ノ爲部下將兵ヲ満洲ノ野ニ殘シテ歸還セザルベカラザルニ至リタルモ事實ナリ。
日露戰役ノ際、上原將軍ガ部下將兵ト共ニ戰場ニ於テ穴居生活ヲ爲シアルヲ見タル
獨逸皇太子ヲシテ感歎セシメタルハ有名ナル話ナルガ、
斯ノ如キ將軍ガ現今幾人アリヤ。
(3)
將校ト下士官以下トノ氣持チハ漸次遠カリツツアリ。
此ノ現象ハ國軍將來ノ爲看過シ難キ一大事ナリ。
我々ハ及バズナガラ此ノ點ニツキ努力シ來レルガ、
將校タル者ハ大イニ考慮スベキコトト信ズ。
(4)
將校團ノ團結ニ就テ
現在ノ將校團ニハ士官學校出身アリ、少尉候補者出身アリ、特別志願者アリ。
士官學校出身者ノ中ニ於テモ貴族的ノ者アリ、
役者ノ如キ軟派ノ者アリ、或ハ纔ワズカニ氣骨ヲ保持スル者アリテ、多種多様ナリ。
此ノ現象ハ將校團ノ團結上障碍ヲ爲スニアラザルカ。
以上四項ハ軍首脳部ニ於テ特ニ御考慮ヲオ願ヒシ度キ點ニシテ、
恐ラク私ノ最後ノオ願ヒナリ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上は憲兵が残した記録であるが、
よくその意を尽くしていないし、舌足らずである。
そして肝心のことが欠落している。

安田少尉は今回の事件の処理に於て、
軍の取った方法手段は我々の心情を全く無視したものであると言った。
二十九日最後の日の軍のやり方は悉く我々の精神を蹂躙したもので、
これによって林の剛勇も池田の純情もすべて踏みにじられてしまったと慨嘆した。
そして軍はこれから我々の総てを葬り去ることによって
自らの指導権を確立した幕僚の天下となることを予言し、
このようなやり方が如何に軍自体を傷つけたかを直言し、
最後に、
「 軍ハ自ラノ手ニヨッテ、ソノ墓穴ヲ掘ツタノデアリマス 」
と絶叫した。


事件の証拠調、証拠物件の提示、
申請せられた証人に対する予審官の取調及びその回答、
これは大体に於て検察官が行ったように記憶している。
検察官は匂坂春平という法務大佐であった。
この背の低い小柄な検察官は嫌な感じのする男であった。
我々が占拠していた場所の検証調書、殺害した人々の死体検案書を一々読み上げ、
証拠物件として多数の品々を呈示した。
そしてブリキ缶の中から故高橋蔵相の血染めの寝巻などをとり出して呈示した。
我々がやったことはすべて事実として全員認めているのだから、
こんな物をわざわざ見せなくとも良いと思った。嫌な感じであった。
申請した証人の回答もすべて一方的なもので、
陸軍大臣の告示も戒厳部隊への編入も皆説得の為になされたものであることを、
川島大将の証言を読上げて立証した。
その他の証言もすべて最初から我々を鎮圧する為の作戦上の必要性から行われたまので、
我々の行動は兵営を出た時から反乱行為であると言う立場の上に構築されていた。
その他数多くの申請した証人に就いては、其の必要を認めないとの理由で脚下された。
事件勃発当時、義によって我々を応援した多くの人々も、
我々が敗れ去ってからは腫れ物に触るように、我れ関せずの態度をとった。
若し同調するような言動を取れば、直ちに拘留されることは判然としていたからである。
多くの人々は我々を一方的に葬り去ることによって、その責任を逃れた。
その変心の様はまことに憐れむべきものであった。


池田俊彦 著
きている二・二六  から 


安田優 ・ 憲兵訊問 「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 

2017年11月17日 19時19分30秒 | 安田優


安田 優
私ハ小サイ時カラ不義ト不正トノ幾多ノ事ヲ見セツケラレ、
非常ニ無念ニ感ジテ來タモノデスカラ、
小サイ時ハ辯護士ニナツテ之ヲ打破シヨウトシタガ
之ヲ達セラレナイト思ヒ
( 法律ハ金力ニ依ツテ左右サルコトガ多イカラ ) 斷念シ、
中學校ニ入リ一番正シイノハ
軍人ダロウト思イ軍人ヲ志願シタノデアリマス。
大正十二年頃
佐野學ガ第一ニ檢擧サレタ頃、
共産主義ノ説明ヲ父親ニ聞キ 大イニ共産主義ヲ憎ム様ニナリマシタ。
實ニ軍人ノ社會ハ正シイモノト思ツテ志願シタノデアリマス。
士官學校豫科ニ入ツテ二日目ニ、全ク裏切ラレタノデアリマス。
第一ニ
御賜ニテ幼年學校ヲ出ル様ナ人間ハ、
支給サレタ自分ノモノガ無イ時ハ
他人ノモノヲ取リテ自分ノモノニシタ様ナ實例ヲ見、
其ノ他 他人ノ金錢ヲ取ルモノ、
又ハ本科ノ生徒ガ
日曜ニ背広ヲ著シ 「 カフェー 」 ヤ遊郭ニ行ク様ナ點ハ 全ク憤慨ニ堪エナカツタノデアリマス。
此ノ様ナ點ニテ、
村中區隊長ト接触ヲ始メタノデアリマス。
而シテ 此ノ様ナ不正ハ何トカセネバナラヌト共鳴シテ居ツタノデアリマス。
原隊ニ歸ツテモ、
村中氏トハ家族同様ノ親交ヲシテ居ル内ニ、
村中氏ハ私情ヲ投ゲ
君國ニ殉ズルノ精神ニ甦ツテ行動シテ居ラルルコトニ非常ニ感奮シタノデス。
然シ 一度モ國家改造等ノ事ハ村中氏ヨリ聞イタコトハ有リマセン。
但シ、其ノ進行中ノ無言ノ内ニ愛國ノ士デアルコトガ判リ、
無言ノ感化共鳴シ 全ク此ノ愛國ノ至情ニハ一ツノ疑念ナク、
凡テニ於テ共ニ行動出來ルモノト確信シタノデアリマス。
ソノ後益々親交ヲ深クシテ居リマシタ。
然ルニ 悉ク遭遇スルモノハ皆不正不義ナル現實ニ接シ、
いよいよ凡テニ是非國家改造ノ必要ヲ痛感シテ來タノデアリマス。
就中、三月事件、十月事件、十一月事件デアツテ、
殊ニ甚シク遺憾千萬ナモノハ統帥權干犯問題デアリマス。
然ルニ相澤中佐殿ノ公判ニ依リテ見テモ、
統帥權干犯問題ガ闇カラ闇ニ葬り去ラレ様トシテ居ルノデ、
何トカシテ之ハ明瞭ニシ
斷乎ソノ根源ヲ絶タネバナラント愈決心ヲ固クシタノデアリマス。
ソレニハ元兇ヲ打タネバナラヌト考エタノデアリマス。
私ハ昨年十一月ニ砲工學校普通科ニ入ルベク上京以來、
勉強ノ爲メニ追ハレテ居ツタ關係上
村中氏トハ二回位シカ會ツタ事ガナイシ、ソノ他何人ニモ會ヒマセンデシタ。
然ルニ、統帥權干犯問題ヲ新聞ニテ知リ、
愈根源斷絶ヲ決行セネバ駄目ト考ヘテ居リマシタ。
之レガ爲メ、第一ニ中島ニ聯絡ヲトツタノデアリマス。
何とナレバ、中島ハ村中氏ヤ河野氏、安藤氏等ト聯絡ヲトツテクレルト思ツタシ、
マタ聯絡ヲトツテ呉レト頼ンデモ置イタカラデス。
其レデ、中島ニハ具體的方法等ノ事モ考エテツタノデス。
只此度ハ個々夫々ニ計畫ヲ口デ申シ合セ文章ニシテアリマセン。
ソレハ、從來文章ニスレバ失敗シテ折ツタ苦キ經驗ニ基クモノデス。

次ニ經濟上ニテ、
現狀ハ一君萬民ノ國情ニナツテ居ラヌ事ハ明瞭ナル事實デアリマス。
同ジ陛下ノ赤子ナガラ、
農村ノ子女ト都会上層部ノ人々トノ差ノアマリニ烈シイコトハ
陛下ニ對シテ申譯ナイト思ヒマス。
之ハ現在ノ國家ノ機構ガ惡イト思ウノデアリマス。
殊ニ北海道山奥ノ人民ノ生活ハ満洲人等以下ノ生活ヲシテ居リマス。
殊ニ北海道ノ北見ノ方ニ行クト、
十一月頃ニ一月位迄食ウ馬鈴薯モ ( 米、麦ハ勿論ナシ ) 無イト言ウ有様デアリマス。
然ルニ 農村ノ租税ノ割合ハ都市ヨリ多ク、金融ハ凡テ集中占領サレテ居リマス。
満洲事變以來、
軍部ハ政党ヲ押エ附ケ様トシテ來タガ今ハ政党ノ温床ノ如クナツテ居ル。
其レハ 軍需 「インフレ 」 工業ノ利益ガ政党ニ行ツテ居ル。
例エバ飛行機ノ政策ニテモ同様、
外国ヨリ 「 パーテント 」 ヲ買ツテイル中島、川崎、三菱等ハ高イ金ヲ以テ軍部ニ賣ツテ居ルガ、
ドウセ外國ノモノヲ買ワナイ、
彼等ノ手ヲ經ス國家ニテ統制シテ之ヲ整備スル必要ガアルノニ、
ソレヲヤラズニ居ルノハ即チ政党ノ温床ニナツテ居ルカラデアル。
殊ニ重工業ノ如キハ實ニ斯ル様ニ思ウ。
之ハ財閥重臣ヲ斃サネバ此ノ實現ハ出來ヌト思ウノデアリマス。
今デモソレヲ確信シテ居ルノデアリマス。
北海道ノ兵ノ如キハ、食物ハ軍隊ノ方ガヨイカラ地方ニ歸ツテ農ヲヤルコトヲ厭ツテ居ル。
ソレデ良兵ハ愚民ヲ作ルコトニナツテ居ル。
之皆農村ノ疲弊カラデアル。
之レヲ救ウニハ、ドウシテモ財閥重臣等ヲ排除セネバ實現ガ出來ヌト思ウノデアリマス。

次ニハ思想上ヨリ言エバ、
無産党ガ成功シテ居ルコトハ所謂 「インテリ 」 階級ノ動向ヲ察セラルルノデアル。
無産党ガ斯クヤッテ居ルト、軍隊ナラバ非常ニ隆盛ニナルコトト思イマス。
サスレバ、之レガ國體ニ相反スルモノガ此ノ様ナ狀況ニナレバ英國ノ如クナリ、
甚ダ憂フベキコトト思イマス。

憲兵隊 被告人訊問調書
「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 の問に答えたものである


後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」

2017年11月16日 12時29分32秒 | 後顧の憂い

昭和七年 ・満州事変

 
・・・新民の東方部に匪賊がしんにゅうしているとの情報で、討伐袋は夜中に臣民を出発した。
渡満後、はじめての討伐だった。
まだらな雪が夜目にも白い凍土をふんで、目的地に近づいたころは、まだ薄暗かった。
はだかの楡樹にれにかこまれた部落は静まりかえって、
こんな部落に果して匪賊がひそんでいるだろうかとあやしまれた。
部隊を停止さして 部落をうかがっていた討伐隊長の英雄中隊長は、そのとき突然、
「 歩兵砲射撃!」
と 歩兵砲隊長の私に射撃を命じた。
私は
「 匪賊がいるのですか 」
と きいた。
英雄中隊長は、
「 いるか、いないかわからぬから射撃するのだ 」
と いきまいた。
私は
「 遺族がいるかいないかわからぬのに射撃しては、部落の良民をただ傷つけることになる 」
と いってきかなかった。
英雄中隊長は、このとき持っていた例の扇子を構えて、
「 満洲にきて良民と匪賊を区別していては戦争はできやしない。
討伐隊長命令!  歩兵砲射撃!」
と、どなった。
戦争馴れしたもののいいそうな台詞だった。
私に向ってより、随行した新聞記者に向かっての見得のようだった。
さほど いい争うほどのこともなかった。
面倒臭かった。
部下に軽く実戦の手馴らしをさせるのに、いい機会だと思いかえした。
わざと部落を外して、二門の曲射砲に五 六発ずつ、つづけさまに撃たした。
討伐隊長は 一、二発、さぐりに撃たすつもりだったらしい。
暁暗の空をいろどって、バッパッパッと火の手があがり、つづけさまに十数発の爆音がとどろいた。
荒涼とした満洲の広野を渡る実弾の音は、
小さな歩兵砲のものとは思えぬほど意外に大きく爽快だった。
討伐隊長の
「 そんなに撃たなくてもいいのだ 」
という、あわてたきんきん声は、この爆音に消されてしまった。
この射撃で部落のなかから、バラバラと馬に乗った匪賊らしいものが走り出して、
シルエットを、あがる火の手にうつして、地平線に消えていった。
あわてて小銃部隊や機関銃隊が射撃した。

ちょうどそのころは、
出征兵士の郷里である農村は、冷害による凶作にさいなまれていた。
最近の冷害に強い稲の品種が現れるまでは、
親潮寒流の流れぐあいで、宿命的に何年かに一度は冷害による凶作から、
青森県農民はまぬかれることはできなかった。
ただでさえ貧困な農家出の兵士が多かった。
そこに凶作と出征が かちあった。
出征兵士の後願の憂いは深かった。
・・・
困窮のすえは常識では考えられない、
ひどい手紙を出征兵士に送る親もいた。

「末松君、この手紙の意味をどうとればよいかね」
と、隣りの中隊長が私に見せた手紙など、その一例だった。
それには
「お前は必ず死んで帰れ、生きて帰ったら承知しない」
といった意味のことから書き出してあった。
もちろんこれだけの文面なら、
十分働いて、死んで護国の神となれ、
とは出征兵士を励ます聞き馴れた文句である。
しかし、これはそれとはちがっていた。
隣りの中隊長が思案に余って私に訴えるはずのものだった。
つづけて
「おれは お前の死んだあとのの国から下がる金がほしいのだ」
といった意味のことが書いてあった。
この手紙の受取り主は真面目な兵だったが、
泣いてこの手紙を中隊長に差出したのだった。
「この親は継父じゃないですか」
と 私は聞かざるを得なかった。
「いや、実父に間違いない」
と 中隊長は愁い深く答えた。
が、しかしこの親の希望は、それから間もなくかなえられた。
次の討伐でこの兵は戦死したからである。
しかもそのときのただ一人の戦死者だった。
手紙のことを知らないはたの戦友は、
「昔からいわれている通り虫が知らせたんだな」
といっていた。
ほかの兵にくらべて、
一きわめだって身の廻りが綺麗に片付けられてあったから。
・・・りんく→東北大飢饉 (二) 「 国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死しろ 」

戦死者に下がる金にからまる、こういった問題は、この兵士に限らなかった。
あとから師団主力と共に渡満した将校が、
この問題についての留守隊づとめの辛さを折にふれて話していた。
戦死者がでて満州から遺骨が還送されると、
留守隊では遺族を招いて、営庭で慰霊祭を行うのだが、
それがすんで遺族のなかの誰かが遺骨を抱いて一歩営門を出ると、
きまってそこで親戚間で遺骨の争奪戦が、見得も外聞もなくはじまる。
そのたびに、
それを仲裁するのが予期しなかった留守隊将校のつとめとなるのだったが、並大抵の苦労ではない。
これも、もちろん
遺骨を祀る名誉のためでなく、遺骨に下がる金が目あてのものだけに、
留守隊に残った将校は、戦地のものが味わう苦労とちがった苦労をさせられるわけだった。
戦死者がでると、改めて留守家族の事情をしらべる。
大抵貧困だった。
意地悪く、弾丸は貧困な家庭の兵から、
選り好んであたるのではあるまいかとさえ、ふと思うことがあった。
が 考えてみれば、どの出征兵士の家庭も一様に貧困だったのである。


末松太平 著
私の昭和史  から


「 芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」

2017年11月15日 09時53分33秒 | 後顧の憂い

栗原が何人もの若い将校を連れて齋藤の家に訪ねてきた。
昭和六年七月末のことである。

「おじさん、同志を連れてきました。どんどんやってください」
同志と聞いても軍帽を脱げば まだ童顔の残る、
むき卵みたいなつるりとした青年ばかりであった。
紹介されたのは、
栗原と陸士同期で 近衛歩兵第三聯隊附の中橋基明少尉、
たまたま所用あって上京中の同じく同期で 弘前歩兵第三十一聯隊附対馬勝雄少尉、
士官学校をこの七月に卒業し、十月からは歩兵第一聯隊附が決まっているという丹生誠忠、
そして旭川で 史 や栗原の一級下だった坂井直。
坂井はまだ士官学校生である。
栗原、中橋、対馬、丹生、坂井と五人が齋藤瀏の前に胡坐をかいて座った。
軍帽を脇の畳に置くと、その上に白い手袋を重ねて齋藤の口元をじっと見つめた。

「ところで、今日は若い君たちが
一部特権階級の堕落や腐敗の影響を受けて軍まで侵されており、
国家改造の必要があるというので、私も同感だと考えており少し話をしておきたい」
そう前置きした瀏は
農村を襲っている窮乏の実態をまず知って欲しいのだ、と話し始めた。

「昭和初年より続いた不況は四年、五年となってますます苛烈となり、
国民の購買力は減退し、
物価は極度に低落し、米価は昭和五年には十六円台にまで下がっている。
生糸の値段も下がり、休業する製糸工場は全国に広がっている。
従ってそこに働く女工の生活も成り立たない。
昭和六年には農村の肥料不足から米作は五千五百万石に過ぎず、
特に北海道、東北の一部では飢饉のため木の芽、草の葉で飢えをしのいでいるのだ」
そこまで一気に喋ると齋藤は、
「欠食児童の実態を私は見て来たが、それは見るに耐えないものだった」
といってから座を見まわした。

対馬勝雄がぼそりとした東北弁で重い口を 開いた。
「ズブンのずっかは青森ですが、
すり合いの家では芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです」
対馬はなおもお国訛りで語った。
それによると芋のつるさえなくなり、種芋も食い尽くす有様だという、
上京して師団参謀や幕僚の宴会に呼ばれたが、
財閥のお偉方も大勢来ては飲めや歌えやの大騒ぎを見せつけられ、
これでは故郷にいる兵は納得しないだろう、
と 彼は声を震わせて嘆いた。


對馬勝雄中尉

昭和維新の朝  工藤美代子 著から


東北大飢饉 (一) 「 子供たちは、とてもひどいボロを着ている 」

2017年11月14日 09時25分54秒 | 後顧の憂い


昭和六年  木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)


飢餓地帯を歩く
ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日

( 中央公論 S ・7 ・2 )

また雪が降り出した。
もう一尺五寸、
手のゆびも足の指もちぎれそうだ。
しかし俺は喰ひものをあさりに、
一山へ登って行く。
俺はいつも、男だ男だと思って、
寒さを消しながら、
夢中で山から山をあさって歩く。

これは、青森県のある新聞に載せてあったもので、
ある農村---八甲田山麓の村の一青年の詩である。
詩としての善し悪しはここでは問題としない。
ただ、この短い詩句の中から、
大飢饉に見舞われたこの地方の百姓達の、
生きるための苦闘をはっきり思い浮べて貰えば足りるのである。
殊に、
「 俺はいつも、男だ男だと思って寒さを消しながら、夢中で山から山をあさって歩く 」
という文句の、男だ男だと、ひとりでがん張っているところが、
あまりに単純素朴であるだけ、哀れにも惨めではないか。
私も、常陸の貧乏な百姓村に生れて、百姓達の惨めな生活は、いやというほど見て来た。
また、東京へ出てからは、
暗黒街にうごめく多くの若い女達、
失業者街にうろつく多くの浮浪者達るんぺんの、絶望的な生活も、
げんなりするほど見て来た。
そうして、人間、飢えるということが、どんなことであるか、
それはどんな結果を見るか、ということも、
あらゆる機会 あらゆる場合で見て来た。
しかし、右の詩句に現われているような、単純にして素朴な苦闘ぶりには、
それが、大兇作、大飢饉地帯の中であるだけに、
私は、今までの暗黒街の女群や、ルンペン群の生活苦闘に対して感じたのとは異なった、
一種の特別の暗然たる気持---なきながら眠って行く孤児を見るような
淋しい暗さを感ぜずにはいられなかったのである。
で、私は考えずにはいられなかった。
果してこれが、飢餓地帯の百姓達の最後までの生き方であろうか。
多くの百姓達は、食物が尽き果てて ついに餓死する時もで、
同じように黙々として、何ものも恨まず、何ものにも訴えずに終わるのであろうか ?
岩手県下に三万余人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、
そうして北海道全道には二十五万人、総計四十五万人近くの百姓達は、
この冬の氷と雪に鎖されながら、字義通り餓死線上に立たされているという。
私は、これらの人達の中の幾人かと会って話し合い、以上の疑問をただして見たかった。
即ち、それらの百姓達の胸の奥には、
この大凶作、大飢饉に対して、
どんなことが考えられているのか、
どんな生き方が考えられているのか、
また それが今、どんな具体的な姿となって現れつつあるのか、
そのほんとうのところを知りたかった。---私は出かけて行ったのである。

凶作地帯の惨状視察から帰った後藤農相の報告と、
持帰った稲や大豆の作柄を見て、
予想以上の不作に愕然とする斎藤首相
( 昭和7年10月 )

それは今から、十日ほど前、
昨年十二月二十七日の午後一時頃であった。
私はまず、岩手県下で最もひどかったという地方---岩手県の御堂村という集落へ入って行った。
ここは、盛岡市から北へ一時間ほど乗り、沼宮内という小駅で降りて、
更に徒歩で一里近く山手に入った所である。
空は晴れたり曇ったりしていたが、
やがて、北の方からうす墨の雲が低く流れて来たかと思うと、
粉雪がさアーッと降り出して来た。
私は、オーバーの襟を立てて、田圃と畑との間の村道を歩いていた。
それは、どろどろの道である。
じっと立っていれば、泥は脛までも埋めそうな深い泥の道である。
私は、満洲の泥道を思い出しながら、
短靴を靴下まで泥にして、山裾の村へ入って行った。
と、子供が四、五人、
ある小さな藁ワラ家の軒の下にうずくまって、私を珍しそうに見ている。
私は、小学校をたずねるつもりだったので、その子供達へその道順を訊いて見た。
「 ここを行ったら、学校へ行けるかえ?」
「 ・・・・」
子供達は、顔を見合わして黙っている。
私は手をあげてまた訊いた。
「 学校は、こっち、あっち? 」
すると、独りの男の子が、その短い手をあげて、
「 あっちだべえし 」
と 言った。
私はこの時、つくづくとこの子供達の着物を見た。
それは縞目しまめ も解からない真っ黒のもので、また実にひどい ぼろ であった。
私も、貧乏百姓の子供達と一緒に、ぼろにくるまって育ったのであるが、
これほどのぼろではなかった。
冬になれば、木綿ではあったが、シャツも股引もはいた。
が、この子供達は雪が降っているというのに、シャツも着ていず、足袋もはいていなかった。
そして、女の子は、脛だけをくるんだ赤い布の股引をはいているきりであった。
私は、ふと、台湾の生蕃人を思い出した。
生蕃人も、その脛に赤い布の脚絆をかけていたからである
こればかりではない。
この子供達のぼうぼうに乱れた頭髪、
いつ風呂に入ったか解からないような真っ黒けな手や足を見ても、
生蕃人を連想せずにはいられなかった。
これは、単に今年の兇作のためばかりではなく思われた。
今までの彼等の生活が、こうなのだろうと思われた。
で、私は、間もなく小学校を訪ねて、その校長に会うと いきなり質問したのである。
「 この地方の百姓達は、あれほどまでに原始的な生活をしているのですか? 」
「 さようです 」
校長は、顎あご一ぱいに生えらかした髯をざらざらと撫でながら答えるのである。
「 私も、初めて赴任して来た当時はびっくりしました。
何しろ、生徒の大部分は、いつも泥だらけの手足をしている。
風呂へ入らないどころか、手足もろくに洗わないのです。
で、それを注意したところが こんど来た校長は変な人だ。
ひるに、手足を洗えと言った、と言って、あべこべに私が非難されたですから 」
「 それじゃ、教育程度もずいぶん低いですね?」
「 さようです。子供の入学年齢が来ても、たまたま役場からの通知漏れがあったりすると、
その子供が九つになっても十になっても学校へ入れようとはしません。
それから、農繁期になりますと、学校よりゃ野良仕事が大事だと言って、
めったに学校へは出て来ない子供が多いです 」
「 それじゃ、村の百姓達の人情、人気はどうでしょう?」
「 その点はまた実に素朴です。
恐らく日本中で、一番素朴な人達ではなかろうかと思います。
その一つの証拠でありますが、最近、この村の青年訓練所の人達が、
在満軍人慰問金を集めるために、活動写真をやりました。
一人十銭の入場料で、この学校の生徒もその切符を買うようすすめられましたが、
何しろこの不況と兇作とで、百姓達は一銭の金も持っていません。
ですから、四百人近くの生徒の中で、
その十銭の入場券を買い得たものはたった六人でした。
活動写真といえば、子供は泣くほど見たいのですが、その金がないのです。
そんな訳で、この村中六百軒あまりから集まった金が僅か二十円足らずであったそうですが、
そしてこの金こそ全く血の出るような金ですが、
それを全部、在満の軍人へ送ってしまったのです。
この素朴な忠君愛国は非常なもので、
この地方の百姓達はみんな
『 一太郎ヤーイ 』
のお婆さんのような人達ばかりです 」
この村の今年の兇作状態を見ると、
一反二石が平年作であるに対し、一反 ( 三百坪 ) 三斗 乃至ないし 四斗 であった。
また全村総反別二百町の二割までは全然無収穫であったという。
そうして、百姓達は、粟と稗とで飢えをしのぎ、
更に山地の百姓達になると、シダミと称する楢ならの実をふかして食い、
わらびの根を澱粉として腹を充たしているというのだ。
従って、全村の小学校児童九百名のうち、四百名までは欠食児童であるというのだ。
この事実と、今の話、在満軍人慰問金との話とを思い合せて、
私は、何とも言えなくなったのであった。
私は最後に言ったのである。
「 じゃ、この地方の人達は、今、食うものを食わずに 着るものを着ずという状態ですね? 」
「 まア そうです 」
と 校長は暗い顔をした。
「 子供達の大部分は、とてもひどいぼろを着ています。
今までもずいぶんひどい身なりでしたが、
今年の飢饉では、もう身につけるものなどは一つでも買うことが出来ない有様です。
雪が降り出してから、ゴム靴ははいて来ますが、
そのゴム靴が破けていて、中が泥だらけのが多いです。

しかも素足にその泥だらけのをはいているのですから、堪らないです。
もしこのままでいたら、
二月頃には、餓死者と同時に、
凍死者も出るのではないかと思われるほどです・・・」

そうして校長先生は、しばらく沈黙の後、部屋の隅の 「 かます俵 」を 指し、
「 あれは、この学校に所属した田から取れた米です。
年々三斗ばかり取れるので、
お正月が来ると、それでお餅をついて祝ったのですが、
今年はもみで一斗ばかり、
それとどうせ くだけ米ですから、このお正月にはお餅もつかないことにしました。

次頁 東北大飢饉 (二) 「 国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死しろ 」 に 続く

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 ・ 『 一太郎やーい 』

日露戦争当時のことである。
軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
「 ごめんなさい。ごめんなさい。」
と いい いい、 見送り人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。
年は六十四五でもあろうか、
腰に小さなふろしきづつみをむすびつけている。
御用船を見つけると、
「 一太郎やあい。其の船に乗っているなら、鉄砲を上げろ 」
と さけんだ。

すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。
おばあさんは又さけんだ。
「 うちのことはしんぱいするな。 天子様によく御ほうこうするだよ。 わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又 鉄砲を上げたのがかすかに見えた。
おばあさんは
「 やれやれ。」

と いって、其所へすわった。
聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いで来たのだそうだ。
郡長をはじめ、見送りの人々はみんな泣いたということである。

(第三期 国語、七の十三)


東北大飢饉 (二) 「 國のために勇敢に戰って、いさぎよく戰死しろ 」

2017年11月13日 09時20分13秒 | 後顧の憂い


昭和六年  木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)

飢餓地帯を歩く

ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日

( 中央公論 S ・7 ・2 )

岩手県下は、この岩手郡を始め、
二戸郡、八戸郡の大部分、下閉伊郡、上閉伊郡、和賀郡の一部分が、
飢餓地帯と化した。
その総面積は約三千町歩であるという。
殊に問題であることは、八戸郡、下閉伊郡の交通不便の山地であるという。
鉄道はなし、道路も山地の凸凹道で、トラックは勿論、馬橇ばそりもろくに通れない地区が多い。
この地方は、水田が殆どないので、平年でも、畑作もの、即ち、粟や稗を常食としているのだが、
今年はその粟や稗も殆んど取れず、代用食であるシダミ ( 楢の実 ) トチの実もまた
よく実らなかったというので、今唯一の食物は、わらびの根であるが、
これにも限りあり、また雪が尺余に積もれば、それを掘り取ることが出来なくなるので、
この時になって、今言った交通不便のため、他所からの食糧運搬が不充分であったなら、
彼等は文字通り餓死するのではないかと言われているのである。
私は、御堂村を訪ねた翌日の午後、二戸郡の小鳥谷こずや村の山間の地区へ入り、
ある山裾にあった炭焼小屋の老爺と話したのである。
昨日降った雪が、山かげに三、四寸に積もり、雑木林の地肌にはうすい白い雪が敷かれて、
あたりはひっそりとしていた。
炭がまは、かやの屋根に蔽われ、
その屋根のうしろの煙出しからは、浅黄色の煙がほうほうとこぼれ出て、
傍の雑木の梢にからまりながら消えて行った。
老爺は、かまの前の風穴の所にこっちりと縮まり、かまのぬくもりで暖まりながら、炭俵を編んでいた。
老爺は、いろいろの凶作話の末こう言ったのである。
「 いよいよ食うものが無くなりゃ、こんどは金で買わなければならねえが、
その金を取るにゃ、この地方ではこの炭焼きするより外の方法はねえでさア。
だが、この炭材は、官有林から払い下げにゃならねえで、それが現金でなくっちゃいけねえですから、
まずそれで困るですがす。
それからやっと炭材を買い込んで、こうしてかまで焼いた炭が---楢の上等の五貫目俵が、
たった四十五銭ですからな。
それもこのかま一つからやっと二十俵で、日数にすれば五日はかかります。
五日で二十銭、売って九両ですが、炭材代を差し引くと、残るのが五十銭か六十銭、
一日やっと十銭の稼ぎというわけです・・・・」
ここで私は、少々聞き難いことであったが、思い切ってこう聞いてみたのであった。
「 それでは、僅かの金のために、娘を売るような家もあるのでしょうね?」
すると老爺は、何にも言わず、静かに首を廻して私の顔を見詰めた。
炭がまの熱に焼かれた赤黒い皺しわだらけの顔であったが、
それがやがて笑うとも泣くともつかぬ顔に変ると、こう言ったのである。
「 お前さんは知っているかどうか、
山に吹雪が来る時は、その山中の小鳥共はチンとも啼かねえもんです。
小鳥共は、山の荒れることを知って、どっかへ飛んで行ってしまうものと見えますだ。
この村の小鳥共もそれと同じですがす・・・・」
私はこれ以上訊くことは出来なくなってしまった。
 
凶作と貧しさに追われて         不況に打ちひしがれる農村の娘たちを狙う
大都市に身を売運ぶ娘たち    口入屋 だけは大繁盛だった


この、娘を売る哀話は、青森県の津軽半島へ入ってから実際に聞きもし見もし、
私は、その売られた娘とも会って話したのであるが、これは後に述べることにして、
私はます゛、青森県下へ踏み込んで、大一番に見聞した三本木町、七戸町附近 及び、
浦野館村一帯の飢餓地の惨状を述べなければならない。
ここは、上北郡内で、例の太平洋横断機の飛び出した淋代海岸もその一部であるが、
私が踏み入ったのは、この海岸より八甲田山の方へ六、七里入った平野の村であった。
岩手県には僅か三、四寸の雪も、この地方へ来ると、七、八寸から一尺ほどに積もっていて、
遙か北の空を区切っている八甲田山は、麓まで真っ白に輝いていた。
三本木町までは軽便があったが、それから七戸町、浦野館村へ行くには乗合自動車しかなかった。
しかし私は村々を一つ一つ見て歩くために、一人の百姓青年を道案内に頼み、
ズボンには巻ゲートルをつけて、歩ける所まで歩き、歩けなくなったら、
どっかの百姓家へ泊めて貰う覚悟で、ぼつぼつと歩き出した。
それが十二月二十九日の朝である。
私は歩きながら青年と話した。
「 斯の地方は南部馬の名産地である筈だが、今年の値はどうでした?」
「 てんで問題になりゃせんでした 」
と、青年は投げ棄てるように答えた。
「 二歳子のいっとういい馬がたまに百五十円ぐらいに売れたが、
これでも、飼いば料を引いたら儲かる所はありません。あとはたいてい一頭五十円ぐらいで、
ひでえのは、たった三十円ぐらいですから、みんな、一頭について百円あまり損をしたです 」
「 養蚕ようさんはどうです 」
「 やっぱり問題になりゃせん。
一貫目一円だの一円二十銭だのでは、桑代の三分の一にもなりゃせんから 」
「 それじゃ、外に金を取る方法がありませんね 」
「 この辺では、なんにもありません。
山地じゃありませんから、炭焼きも出来ないし、海には遠いですから漁は出来ないし、
だから、金といったら米を売るしかないですが、
その米が三部作以下ですから、売るどころか、もうそろそろ食いつくしてしまったです。
仕方がないので、どこの家でも、じゃが芋を餅にして食っていますが、
それもあと一ト月もしたら無くなってしまいます。
それで金はなし、外米も買えないとなれば、その時はどうなることか。
いくら百姓が馬鹿でも、いよいよ何んにも食えなくなったら、黙って死にゃしまい、
と 俺達若者は言ってるです 」
「 県庁の方から、救済金や米が来ないですか 」
「 まだなんにも来ません。たとえそれが来たとこで、やっと生かして貰えるのが関の山で、
これから先の百姓の暮らしが根っから救われるわけじゃないから、
先のことを考えりゃ、みんな真っ暗な気持ちです 」
私は、この旅の帰途、私の郷里の百姓の友人の口からも、これと同じような意味のことを聞き、
百姓の生活に対して、絶望的な気持ちしか抱いていないのは、
ひとりこの青森県下の兇作地の青年ばかりではないと思ったのであった。
しかし、この飢餓地の青年の口からこれを聞いたとき、
私は、この旅に出る時に知りたいと思った一つの疑問
---百姓達の胸の奥に潜んでいる考えの一つを伺い得たとおもったのであった。
このあたりの自然は大陸的で、朗らかであった。
尺余の雪が一面に光り、タバコ色の落葉松の梢が美しく連なり、
その彼方には、銀色の八甲田山がなだらかに走っていて、私は、思わず言葉に出した。
「 しかし、このあたりの景色はいいねえ!」
すると、その青年は、こう言ったのである。
「 でも、このあたりの畑も、今年はひどい不作でした 」
百姓達にとっては、美しい自然の風景は、
同時に食物を豊かに実らす土地でなければならないのだ。
その土地が、全く食物を実らすことが出来なくなれば、美しい自然も風景もあったものではないのだ。
---私は、ここでも黙るより外なかったのである。

ところで私は、
この青年の言おうとしていることを、
もっと率直に露骨に叫んでいるのを、七戸町のある暗いめし屋で聞いたのである。
それは、五十ぐらいか、それとも六十の老爺か、
長い間の生活の寒風に曝された顔は、末の皮のように荒れて硬くなっていた。
彼の前には、二本ばかりの徳利が置かれてあった。
そして相応に酔っていた。
「 それでも酒も飲める男もいるのだ 」
私は、そう思いながら、きもちよくその男を見ていたのだが、
その男は、木の瘤こぶのような拳をふり上げながら、
めし屋の主婦を相手に叫んでいるのだ。
この地方の言葉を言っているので、私には解からない所が非常に多かったが、
しかし大体は聞き取れた。
「 いいか、おかみさん、
二年半育てた馬が ただの三十五両だよ。
それも、この七月に渡して その金がまだ入らねえだ。
仕方ねえから、今日は、
馬を取りかえして来べえと思って出かけて行ったところが、
それはかんべんしてくれろ、馬を持って行かれてしまっては、
わし等親子四人が干ぼしになるだ  と言われただ。
相手は馬車曳きだからな。
それでも、五両札一枚だして、今年はこれで我慢してくれろ、と 拝むだねえか、
なア、おかみさん。
そこでわしは 言っただよ。
ようし、こうなっちゃ、お互い様だ。
干ぼしになって死ぬ時ア 一緒に死ぬべえ、
と 言って、
その五両札へ二両のお釣を置いて帰って来ただが、
おかみさん、
去年は豊年で、それでもやっぱり飢饉と同じことだった。
つまり、豊年飢饉てえ奴だというが、
わしもこの年になって初めて聞いたばかりでねえ、初めて出会った。
なア こういうことア 一度起こったら 毎年起こって、
それが年々悪くなるばかりだ。
そうなりゃ、豊年もくそもねえじゃねえか。
・・・・そこへ持って来て、今年は飢饉の飢饉、
これでは来年は、百姓奴等は、
干ぼしになって 飢え死んで 野たれ死んで、
それでも足りなくて、首をくくって死ぬ、ということになるだア。
べら棒め・・・・なあ、おかみさん、
わしも一人の息子を満洲の兵隊へ出しているだが、
こないだも手紙で言ってやっただ、
国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死をしろ、
とな。
そうすりゃ。
なア おかみさん、
なんぼか 一時金が下って、
わしらの一家も この冬ぐらいは生き伸びるだからな。
娘を持っているものは 娘を売ることが出来るだが、
わしは、
息子しか持たねえから、
そうして 息子を売ろうと考えてるだよ・・・・」
 ・・・リンク→ 後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」


満洲の戦場から還る英霊の大半は農村の働き手たちだつた。
戦争は凶作の農村に二重の追い討ちをかけた
その男は、
これらの言葉を土間の土に向って、
一つずつ
叩きつけるように
叫んだのであった。

次頁 東北大飢饉 (三) 「 切手の不足税6銭の金がないばかりに 」 に 続く


東北大飢饉 (三) 「 切手の不足税6錢の金がないばかりに 」

2017年11月12日 09時10分34秒 | 後顧の憂い


昭和六年  木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)


飢餓地帯を歩く

ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日

( 中央公論 S ・7 ・2 )

「 西部戦線異状なし 」
の中に、
地上で戦争をする兵士にとっては、大地は、地べたは、土は、母の懐である。
大地のみが守護してくれる。
その大地の有り難さを知るものは、
戦場に於ける兵士以外の者には全く解からないものだ、
という意味のことが書いてあるが、
百姓達に言わすれば、
百姓達にとっても、大地は、土は、母の懐であるのだ。
一切であるのだ。
土の有り難さを知るものは、百姓以外の者には全く解からないものなのだ。
その大地が、その土が、
今年は、一切の食物を実らせなかったのである。
母の懐は、死人の懐と化してしまったのである。

その最大の原因は、上の表に示す如く、
五月の稲の植え付け時から、九月の稲の実る節まで、僅か数日を除いた他の百数十日は、
ただの一日も平年の温度には達しなかったためであった。
ばかりか、八月、九月には、二度までも、非常な厳寒と降雹こうはくとに見舞われた。
水稲も、畑の作物も、僅かにその茎を育てたきり、
ついに満足な実を入れる暇がなかったのであった。
そうして 十月が来れば、いやでもこの地方には冬が来る。
十一月となれば 雪が降り出す。
昨年の豊年飢饉のために、さなきだに、この社会を恨み嘆いていた百姓達は、
この年の飢饉襲来に依って、完全に自暴自棄の絶望状態に陥し込まれてしまったのである。
彼等は、宿命論者となって、大自然の無情を儚はかなむと同時に、
一方では、被圧迫者の立場から、
現在の都会中心制度、都会商工業制度から来る搾取階級の無法を恨み呪うようになってしまった。
だが、斯く考える力を持ち、
それを実行に現わそうとする意志を持つ農村の若き人々に対しては、
私達は、或る未来と希望とを期待することが出来るが、
それすら持つことの出来ない純朴な老人、母親などを見るとき、
私は、ただ、暗涙を流すより外はなかったのである。

私は、七戸町のめし屋を出ると、
案内の青年の後についてこの附近の最兇作地の浦野舘村へ向かって歩き出した。
まだ午後二時頃であったが、空一面に墨色の雲が蔽いひろがって、夕暮のように暗い。
しかも田圃の中の道路は、馬車と乗合自動車とにこね上げられて、雪と泥との河である。
七割の納税不能者を持つというこの村では、道路の修繕費など、一文も出ないので、
この通りの泥道であるというのだ。
私はこの泥道で、
七戸町へ買いものに言って来たという一人の百姓の母親と道づれになった。
母親は、二つぐらいの子供を、かくまきで包み背負い、
手には、買いものの風呂敷包みを持っていた。
そうしてその足には、大きな藁靴わらくつをはいていた。
それはまるで、竹串へ八ツ頭芋を刺したようであった。
泥にまみれたまま、わら屑くずが、雀の巣のようにほうけ出し、
藁靴というよりは ただのわら屑を足のまわりに纏わりつけたという風であった。
長野県でも、新潟県でも、雪靴というのを見たが、
それはもっと手際よく作ってあったのを思い比べて見て、
私は、この地方の百姓達の不器用さ、というよりは、
こんな藁靴にも非常に幼稚な原始性を発見して驚いたのである。
背中の子供の手には、赤い風船が一つ、竹棒の先にふわふわしていた。
私はこれを見てまた思わず、ほろりとした気持ちになった。
で、私は、言葉をかけたのである。
「 ずいぶん寒いですね 」
事実、私の短靴の中の足も雪氷に濡れて、ちぎれそうだったのだ。
「 へえ・・・・」
と、母親は答えて、
どこまで行くのか、と 方言で聞いた。
「 浦野舘まで行くつもりです 」
と 私が答えると、
浦野舘に親類でもあるのかという。
ない、と 答えると、
それじゃ、宿屋はなし、どこへ泊るつもりかと訊き返すので、
私は、
「 百姓家へ泊らして貰うつもりです 」
と 答えて見た。
すると、その母親は、かぼちゃのめしで、囲炉裏端へごろ寝してもいいのなら、
私の家へ泊るがいい、
と言ってくれた。
私は、喜んで答えた。
「 それで結構です。是非泊めていただきます 」
そこで私は、
そこまで私のカバンを持ちながら道案内をして来てくれた三本木の青年に帰って貰うことにした。
そのお礼として五十銭銀貨二つを出すと、その一つだけを取り、
あとはどうしても取らない。
ここにもこの地方人の純朴さが現れていた。
二つの銀貨を渡すために、長い間、泥道の中に彳たたずまなければならなかった。

さて、その青年と別れると、
私は、子供をおぶった母親の後について、その日の暮れ方、
どろどろの足を、その家の土間へ踏み入れたのであった。
この家の周囲には、雪に蔽われた田圃と畑とが、荒寥こうりょうとしてひろがっていた。
その庭には、藁塚が四つ五つ、円い塔を作っており、
家の周囲には、雪除けの藁の垣が張りめぐらされていた。
軒の下には、一尺あまりの氷柱がずらりと寒い色にぶら下り、
まったくその下には、めしの中へ入れて食べるための大根の葉、もろこしの穂などが
縄にしばられ、幾重にも釣り下げられてあった。
家の中は、料金不払いで 電灯も消されたとかで、炉の焚火で僅かに照らしている。
炉端の一方には真っ黒な屏風が立てられ、
それに子供の着物やおしめがじっとりと掛けられていた。
そうしてその屏風のうしろには、一枚の障子もなくて、ふだんの居間があり、
めしを食う所であり、また寝る場所でもあった。
そうしてまた、これと向かい合った板仕切りの向こう側は厩うまやであった。
それは、中に六尺幅の土間を挟むだけで、彼等が寝たりめしを食ったりする所と、
九尺とは離れていないのであった。
しかもその板仕切りは、隙間だらけなので、黒い馬の姿の輪郭がはっきりと見えていた。
この地方の百姓達には、馬もまた家族の一員である。
だからこそ、南南部の名に依って知られている良馬がでるのであろうが、
これほどまで人と馬とが近々と寝起きしているとは、私はそれまで知らなかったのである。

                イメージ・・昭和六年青森
蚤虱のみしらみ  馬の尿する  枕もと
これは、芭蕉の 「 奥の細道 」 の中の一句であるが、
私はこの夜、
この炉端にごろり寝しながら、この句を思い出し、
この地方の百姓の生活ぶりは、
元禄の芭蕉の時代も、昭和の我々の時代も、
少しも変わっていないのだ、と 思わずにはいられなかったのである。

さて、その炉端には、当家の主人が、ぼんやりと焚火を見詰めていた。
いつ剃りを当てたのか解からない髯面の中に、目だけを白く光らしている。
しかし主人は、私を連れて来たわけを主婦から訊くと、
その白い目を細めてこころよく迎えてくれたのである。
私は泥靴を脱いで、炉の火に氷のような足をかざした。
炉にかけた鍋の中には、何かぐつぐつ煮えている。
それは、めしの時に食べたが、くだけ米に、かぼちゃのうらなりを混ぜたものであった。
うらなり南瓜は、平年には、田圃へ棄ててしまうものである。
ぐしゃぐしゃで、味もさっけないものであった。

主人は、方言を出来るだけ標準語に直しながら、ぼつりぼつりと話し出した。
話すことは勿論暗いことばかりであった。
同じ村内に、たった六銭の金がないばかりで、
満洲に出征している息子からの手紙を見損なったという老父のあることも話した。
「 切手の不足税六銭が払えないばかりに
手紙は元へかえされちまったのだそうです。
それで、親爺さんは、涙を流しながら言ってだです。
どっちりと重い手紙でした。
いろんなことが書いてあったに違えねえだ。
わしはそれを手に取って、
よくさわって見て、
倅の心持ちを読み取ったです、
と 言ってやした。
ほんとうの話かどうか、何でも満洲の兵隊は、
一人について、歯ブラシが二十本も渡ったり、
キャラメルが十ずつも配られたりするちゅうが、
こちらの国の家では、
六銭の金にも不自由している始末ですからな 」
これに似た哀話が、中郡和徳村のうる出征軍人の家族にもあった。
それは、その軍人の妹が病死したが、
葬式を出す金がまるでないばかりか、
それを満洲の兄へ知らせる手紙を送ることも出来なかった。
満洲の兄は、このことを、ある新聞の記事に依って知り、
一人声を忍ばせて泣いていた。
それが、隊長の目にとまり、二十円の葬式費を隊の名で送り届けて来たので、
やっと葬式を済ますことが出来たというのであった。

めし時になると、主人はまたこう言った。
「 まだこれでも、もみ殻を取ってくだけ米ですから、どうやら咽喉が通るが、
そのうちに、くだけ米もなくなるので、
こんどは、もみ殻の着いたままを、かぼちゃじゃが芋に混ぜて食べるのです。
これは平年には、馬が食うものだが、今年は、わし達が馬になるのです 」
ところで、このような食物で、幾月となく生きつないで行くうちに、
栄養不良から、先ず子供の健康が害されることは明らかであった。
これは、この数日後に、青森県庁のの農務課長の口から聞いたことであるが、
現に凶作地の小学校の健康は甚だしく害されつつあることが、
県の巡回医師に依って発見されたとてうことであった。
で、食糧の最も欠乏する三月、四月に入って、なおも現状のまま放置しとくならば、
栄養不良に依る子供の死亡率が激増するのではないか、ということであった。

夕めしが済むと、灯はなし、もう寝るより外はなかった。
主人と主婦と子供とは、炉端の屏風のかげに、ぼろ布を重ね縫ったような布団にくるまって寝た。
私は、一枚のかけ布団をかけ、それへかしわ
にくるまって寝た。
私は、寝ながら訊いて見た。
「 こちらでは、お子さんは一人ですか?」
すると、主婦が、
「 なアに、もう一人、今年十七になるのがあるがです 」
と 答えた。
その娘は、今、どこにいるのか、
私はそれを聞いて見たかったが、
ここではもうそれを聞くのが余りに残酷に思われて来た。
で、黙っていると主人が、溜息をつくようにして言った。
「 その娘こは、今、東京の方へ行っています。
この村からは、紡績へ出る娘がずいぶん多いですが、
わしの娘は、五年の年期で、売り飛ばしてしまったです 」
これには 私は相槌も打てなかった。

僅か二、三円の手付金で、一人の娘が売られて行くと、東京の新聞にあったが、
それは新聞のよたであった。
いかに純朴な百姓とうえども、それほど愚かではない。
しかし、百円から三百円ぐらいの金で、一人の娘が、
あるいは私娼に、あるいは公娼に売られて行く例はザラにあるのであった。
私はその実例を、蟹田村の近くのある村落で見たのである。

次頁 東北大飢饉 (四) 「 人間を食うのは昔の人ばかりではない 」 に 続く


東北大飢饉 (四) 「 人間を食うのは昔の人ばかりではない 」

2017年11月11日 09時02分56秒 | 後顧の憂い


昭和六年  木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)

飢餓地帯を歩く

ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日

( 中央公論 S ・7 ・ 2 )

僅か二、三円の手付金で、一人の娘が売られて行くと、
東京の新聞にあったが、 それは新聞のよたであった。
いかに純朴な百姓とうえども、それほど愚かではない。
しかし、百円から三百円ぐらいの金で、一
人の娘が、
あるいは私娼に、
あるいは公娼に売られて行く例はザラにあるのであった。
私はその実例を、蟹田村の近くのある村落で見たのである。

そこは、青森市から、乗合自動車で三時間ほど、陸奥湾を右に見ながら、
泥と雪の道を走らねばならなかった。
このあたりも、殆ど無収穫の地であった。
しかし、百姓達の多くは、一方では漁夫でもあったので、いわし、たら の漁をして、
今のところ どうやら生きつづけているというのであった。
が、それも一月一杯で、二月以後は、当分無漁となる。
しかも、今までは年々、北海道から何百人とまとめて、漁夫を刈り出しに来たが、
今年はてんで来ないという。
ここでも、二月以後の生活は全く絶望であるというのである。
私は暗い思いで、揺られていた。
それは一月二日の午後で、
一旦止んだ雪が、また さんさんと降り出して来た。
降り出すと、海面は、一面の灰色に鎖され、行く手の道も、半丁先は見えないほどであった。
「 ひょっとしたら、吹雪になるだ 」
と、私の隣の男が言っていたが、
果たして、六里ほど進んだところで、雪は、渦を巻いて走り飛び出した。
と、私のうしろに坐っていた老人が言った。
「 飢饉の上に、三日も吹雪いたら、この辺の百姓は、干死んでしまうだ。
天明年間の飢饉年には、三万人からの人が干死んで、
生き残った者共は、人間の肉、そいつも十七、八の娘の肉がうまいというので、
それが干死ぬのを待って食ったという話だが、うっかりすると、今年もそんなことになるだ。
明治三十五年と、大正二年の飢饉は わしもよく知ってるだが、
どっちも今年ほどじゃなかった。
今年のような飢饉が来るというのも、いよいよ世が末になった証拠だ 」
「 だからさ、どうせ干死ぬなら、
せめて一度でも、米のめしをげんなりするほど食って見てえと思ってるだ 」
「 一度でも食えりゃ まだいいだ。
岩手の山奥じゃ、
茶碗一ぱいの米のめしを、家から家へ持ち回して、目で見るだけで喜んでいるちゅうだ。
それほどだから、病人が出来ると、枕元へその米のめしを置いとけば、
病気が治るとせえ 言ってるちゅうだ。
米を作る百姓が、米のめしを拝むことしか出来ねえとは、全く嘘のような話だよ 」

自動車は吹雪をついて走っている。
人々はそれで黙ったが、この時 うしろの方で、パンという音がした。
「 畜生、とうとうパンクしちめえやがった 」
運転手は、パンクを予期してたもののようにそう言って、車を止めた。
宿屋のある蟹田村まではまだ一理半ほどある。
この吹雪の中を歩いて行けるはずはなし、車の中のものは、私を合わせて四人、
道路に面したある百姓家の中へ避難したのであった。
家の中の暗さ惨めさは、浦野舘村の百姓家と変わりがなかった。
私達は、上がり框の炉端へ、足を踏み入れて火にあたった。
しばらくすると、風が少し静まった。
二人の男は、五、六丁先が自分の家だからと言って、穏かになりかけた吹雪の中を出て行った。
残ったのは、私と、五十歳ほどの老婆である。
その老婆は、蟹田村からさらに一里近く山手に入った小国村のものであった。
私はこの老婆と、その一夜を炉端で明かしたのだが、
老婆は、私を相手にさまざまの身の上話をした末に、
「 実は今日は、娘を、青森市の ごけ屋 ( 私娼の家 ) へ 置いて来たのです 」
という意味を、方言で話し出したのであった。
何故 娘をそんな所へ置いて来たか、それを今さら尋ねる必要はない。
私はまたも暗い思いで黙っていると、
老婆は、一人言のようにぼそぼそと、こんな意味のことも言った。
「 わしの村は、稲田一反歩から二斗ばかしか取れなかった。
それで、みんな外米を買って食べているが、それを買うには金が先だ。
その金を取るには、炭を焼くしかないが、その炭を焼くには炭材を買わねばならぬ。
というのは、青森県下の山林の七割までは官有林で、一俵の炭を焼くにも、
その官有林の木を現金で払い下げねばならぬ、
という始末で、わしらの村の百姓達も、今、ほとほと途方に暮れている・・・・」
この老婆は、見かけに依らず、青森県下の山林の七割までは官有林だということを知っており、
それに対して一つの意見を持っていたのであった。
また老婆は、こういう意味のことも言った。
「 この辺の百姓はまだ布団というものに寝られるので結構だ。
これから西の方の、北津軽郡の車力村、稲垣村、西津軽郡の相内、内潟、武田の村々の百姓達は、
布団の名のつくものは、一枚も持っていない。
みんなワラの中へ寝るのだ。
一番したに稲のワラを敷き、その上に、ネシキというむしろのように織った菅を敷き、
百姓達はその上にじかに寝る。
そして、上には十三潟から取れる水藻で作ったネゴ ( やっぱりむしろのように織ったもの ) を 掛けるのだ。
割に暖かいが、がそごそと、いや 全く、綿布団とは大変な違いだ 」
私は、岩手の山間の百姓達の生活が、生蕃人ほどの元始的であることに驚いたのであったが、
青森の百姓達も、これほどなのかと、再び驚かずにはいられなかった。
その前日、やっぱりワラの中に寝る百姓達の話をした男が、
「 飢饉は飢饉として 救わねばならぬが、
同時に、この機会に、岩手、青森の百姓達の生活が、
この年まで、いかに原始的な惨めな生活に虐げられて来ているかを曝露して、
都会の消費生活の目を覚ましてやらねばならぬ。
昭和の御代に粟や稗を常食とし、ワラの中に寝起きしている日本人がいるのだ
という事実を、為政当局者の眼前へ さらけ出して見せねばならぬ!」
と、叫んだのであったが、
私も、この老婆の話を聞きながらも、
全くそうだと思わずにはいられなかった。

老婆は今迄の話の結論のようにして、こういう意味をいったのである。
「 さっきの話ではないが、
人の肉を食ったのは昔の人ばかりではない。
わし達も、つまりは人を生かそうとすれば 子供の肉を食わねばならぬ。
そして、わしは今、娘を食って生きようとしている 」
私は、思わず老婆の顔を見つめた。
この老婆は、娘を売って来た小金を持っているらしいと、それを頻りと気にした。
そして、傍にいる私まで、
時々警戒するような素振りを見せるには、私も少しばかり参った。

さて、その翌日の夜、
私は、この老婆の娘を訪ねるために青森市の私娼窟へ入っていったのであった。
粉雪が降ってはやみ、降ってはやんでいた。
そして、往来には、雪と氷とがカンカンに凍っていて、私は幾度か滑り倒れそうになった。
そこは、海岸に近い所で陸奥湾から吹き付けて来る寒風が、
寒い往来の空気を、引き裂くように 吹き抜けていた。
私は、この三日前、
浅虫温泉の近くの兇作地、小湊村を歩いている時も、
雪と風とに、からだ中が凍りつくような目に会ったが、しかし、それもこれほどではなかった。
私娼窟---暗黒街へ、その女を訪ねて行くという気持ちも大分私の心を寒くしたせいもあったではあろうが。
私娼窟は、窟の名にふさわしくない。
広いガランとした往来の両側に、うす暗く並んでいた。
たいていは一戸一所にわかれた二階建で、私娼の家としては大き過ぎたが、
それだけに、うらぶれた感じが漂っていた。
多くは、三人か四人の女を置き、それが、入口の小座敷の中にいて、
前をうろつく男達を呼び込んでいた。
いけすかないが、えけしかないと発音するので、場所が場所だけ、ちょっとおかしかった。

ところで、彼女の家はすぐ解かった。
入口に四人の女が立っていた。
私は、彼女の本名を言って、その中から彼女を見出すと、すぐ二階へ上がった。
部屋は、日本中の どの私娼窟の部屋にも共通した恐ろしく荒れすさんだ部屋であった。
彼女は、はじめ、私をひどく警戒したが、
私が母親に会ったことを話すと、それからきゅうに打ち解けた。
しかし、百姓村にのみ育った女だけ、その様子は
---紅や白粉をこてこてと塗りつけているだけ、むしろ滑稽なほど奇怪な感じであった。
「 いつ、ここへ来たの?」
「 もう 十日ばかりになる 」
「 いつから店へ出ているの?」
「 三日前から 」
そんな会話から、彼女は、彼女の母親も話さなかったことを話し出した。
それは彼女の父親に関することであった。
彼女の父親は、村と、青森市とを往復して相当広い商売をしていた。
雑貨の卸商であった。
が、年々の不景気で、にっちもさっちも動きがつかなくなっている所へ、今年の兇作と、
つづいて、銀行の支払い停止とに出会った。
( 今、青森県下の銀行の殆どは、支払い停止である ) で 金の融通が全くきかなくなり、
同時に商売は ばったりと行き詰ってしまった。
父親は最早半分絶望状態になった。
そして、各方面の不義理はそのままにして、単身、青森市へ飛び出して来てしまった。
父親は、埠頭の仲氏となった。
しかし、さなきだに頼み人がない所へ、見ず知らずの父親が入り込んでも、
まるで仕事にありつけなかった。
父親は毎日、雪風に吹かれながら、埠頭の倉庫のかげで、弁当を食うだけのことしかなかった。
そうして、やがてその弁当も持って行けない日が来た。
ある日である、
父親は、空腹のあまり、仲間の弁当を盗んで食った。
それがすぐ発見され、父親は、仲間のものから袋叩きにされた。
そして足腰も立てぬまでに負傷した。
父親は、木賃宿の一室に、一人棄てられたように寝ていた。
「 それから四日目か五日目に、お父つァんは死んだの。
怪我のために死んだのか、干死んでしまったのか、それはだれにも知らない・・・・」
娘は、最後に、津軽弁でこう言ったのである。

私は、
これで筆を擱こう。
餓死線上にうめいている人々をさんざん書いた後に、
こんな話を持ち出すのは、読者も堪らないだろうし、
書く私は なおさら堪らないから。

青森県庁では、いま、あらゆる努力と方法とで、救済方法を講じている。
現に、去年の夏には、県会議員三十三名が、
全部お揃いで上京し 救済金の借り出しに奔走したとかである。
その救済方法は、
先ず、破産しかけている県下の銀行を救済し、
そして、それに依って融資の道を開き、県下の商工業者を救済し、
そうして後、飢饉地帯の百姓達を救済するのだと私は聞いた。
いや、そうじゃない。
直接百姓達へ、金を融通するし、食糧も給与するのだ、とも 聞いた。
夜道には日が暮れないそうだが、
凶作地帯の暗黒は、ただの暗黒ではないのだ。
と いうことは、県当局者も充分ご存じで、その一人は現にこう言ったのである。
「 もし この青森県下に、ただ一人でも、餓死者を出したなら、
それこそ聖代の恥辱である。
我々は絶対に、聖代を恥辱せしめてはならぬ!」
私は、県下の百姓達と共に、この言葉に非常な信頼と期待をかけよう。
( なお、秋田県、北海道の惨状も記すはずであったが、紙面の都合で割愛する。
其惨状は以上に依って推察して頂きたい )
 
都会と農村
目撃者が語る昭和史
昭和恐慌  から


娘身賣り 1 『 賣られる最上娘 』

2017年11月10日 08時26分24秒 | 後顧の憂い


東北の凶作地を見る

賣られる最上娘
哀切 ・ 新庄節        山形縣新庄にて  飯島特派員
「 年明けても歸つてくれるな 」
親達の悲痛な言葉
他郷の人の手に賣られて哀切な 「 新庄節 」 に故郷の山河をしのぶ女の數は決して少くない、
山形縣最上郡はその娘地獄の本塲だがここは縣下でも一の凶作地、
ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稻熱病いねちびょうで全滅してしまつたところもある、
飯米は至るところで不足で、西小國村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに
 賣つた娘の年が明けて歸つて來られてはそれこそえらいことだ、
 何とかして娘の年期を延ばすことなしよう
といふ申合せさへやつたといふ、
縣ではこの凶作で一層娘の 身賣 りが增えるだらうといふので、
身賣防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村々で 「 娘を賣るな 」 と座談會をやつて歩いた
娘一人の身代金は年期四年で五百圓、
然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて實際親の手に渡るのは、せいぜい百五十圓位だ、
可愛い娘を手離しても、百五十圓の金を握りたい、
一つの惡風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

かうして床のない家、床があつても疊たたみのない家々から、
娘がポツリポツリ 藝者に、娼妓しょうぎに、あねひは酌婦に賣られて姿を消してゆく、
倫落の巷を流浪する最上娘もがみむすめの 「 新 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

( 昭和九年十月二十二日 )