あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

赤子の微衷 (三) 後事を托された人達

2019年11月18日 06時02分32秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)

「 東京はいま、激しく揺れ動いています。
その後の状況は全く不明ですが、
成功するか惨敗するか、そのわかれ目に苦闘している毎日であるように思われます。
戒厳令が布かれたといううわさもありますが、明確ではありません。
明治維新の前例が示すように、地方の雄藩が藩論を統一して幕府を倒したごとく、
まず 連隊長を中心に連隊の藩論を統一し、
それを師団に及ぼし、地方部隊の総意として中央部を推進することが、
われわれにのこされた唯一の道であると思いますが、連隊長はどう思いますか 」
私は、連隊長に誠意を披露して、意見を思う存分開陳した。
「 その通りだとは思うがなァ・・・・」
・・・大蔵栄一大尉の四日間 2

赤子の微衷 (三)
後亊を托された人達
目次

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・ 
佐々木二郎大尉の四日間 

・ 
末松太平大尉の四日間 1 
・ 末松太平大尉の四日間 2 
・ 
末松太平大尉の四日間 3 

・ 
大蔵栄一大尉の四日間 1 
・ 
大蔵栄一大尉の四日間 2 
・ 大蔵栄一大尉の四日間 3 
・ 
大蔵栄一大尉の四日間 4 

蹶起部隊は警備部隊の一部として警備地区を与えられ、左翼の蠢動に備えて治安に任じている、
安藤隊は幸楽にいるというニュースを得て、それを皆に伝えた。
それでは安藤大尉に電報を打って、第八師団の状況を通知してやろうではないか、
地方の同志はどうしているだろうと案じているだろうから・・・・と、
誰が提案するまでもなく、その場の空気で相談が持ちあがり
「 師団はわれわれとともに行動する体制にあり 」
の 電報を打った。
・・・末松太平大尉の四日間 1


佐々木二郎大尉の四日間

2019年11月15日 17時15分18秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


佐々木二郎 

昭和十年の暮れ、大蔵大尉が戸山学校より中隊長として帰隊した。
正月、私の宅で二人で碁を打った。
「 磯部は落ちついているかな 」
と きいた。
急進論の磯部を抑える一人と思っている大蔵が東京にいなくなるからだ。
「 ウン、磯部と栗原がいつもヤルヤルというのに、おれや西田らが反対するのでダラ幹呼ばわりしやがった。
おれも腹にすえかねたが、今度おれの送別会のとき側に来て
『 大蔵さん、今まで嫌なことをいって相済まぬ。ヤッテはいかぬとわかっているが、
年寄りの相澤さんがヤッタので、若いわれわれは心中 相済まぬ思いで一杯でした。
その相反する思いが胸のなかで渦巻き、やるぞやるぞといったのです。
公判で逐次事件の真相も世間にわかるでしょうし、私の心も落ち着きました。
羅南に帰ったら、佐々木が心配しているから宜しくいって下さい 』
と 謝ったのでおれも氷解したよ 」
と いうことで私も安心した。

磯部浅一   
リンク→
もう待ちきれん 
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相澤事件の真因は私にはわかっていなかった。
士官学校事件や総監更迭問題に誘発されたという表面上のことは一応わかるが、
中佐という地位年輩から考えて もっと根がありそうに思えた。
明治以降、陸主海従
、海主陸従、北進論、南進論 など いろいろの説を聞くが、
日露戦役後確固たる国策があったのか疑問に思っていた。
この疑問は現在でも残っている。
第一次大戦でドイツは敗れた。
陸の露と海の英米を相手にしたからだ。
現在の日本もそれに似た危険があるのではないかと思った。
満州国ができた現在、これを安定した状態にもって行くことが国策の第一義的なもので、
この点は北一輝の日支同盟 日米経済提携の考え方は的を射ていると思った。
英米との対決は大陸に確固たる基礎ができた後でよいと、私なりに考えていた。
このような考えから鵜沢弁護人に対し、
左官級の人が ただ単に巷説を信じて行動するようなことは考えられぬ。
相澤中佐の思想動機を深く掘り下げて、将来に禍根を残さないようにして頂きたい旨を書き、
末尾に各隊の同意した将校が名前を自署した。

昭和十年の暮、朝鮮軍司令官に小磯国昭中将が就任した。
昭和十一年一月か二月初めに、羅南に来て将校全員を雪中演習場に集めて訓示があった。
『 葛山鴻爪 』 によると 四月になっているが誤りではなかろうか。
四月では私は拘禁されているからだ。
訓示のなかで、「 革新の先頭に立つ・・・・」 の 言葉があった。
その帰途、中川範治少尉が、
「 佐々木大尉殿、軍司令官の話をどう思いますか 」
「 今日のような席で革新の先頭に立つとかいうようなことは、
 軍司令官の言葉としてはどうかと思う。 そんなことはわれわれ尉官級のいうことだ。
軍司令官の立場は自己の施策の上に表していくべきで、今日の情勢下では少々若い者に迎合的だよ 」
「 なるほどそうですね。ヨシ今から軍司令官の宿へ行って来る 」
といって彼は立ち去った。
行ったか行かなかったか、その後 ききもしなかったが、
『葛山鴻爪 』 では 訓示の中に革新云々の文句はないが、
後で数名の若い将校が不審の点を聞きに来たので、説明したら納得して帰ったとある。

二月、相澤公判は一世の視聴を集め、鵜沢博士も本腰を入れたごとく、
膿も出るだろうが陸軍部内もこれを契機に明るい方に行くだろうと思った。
三月の異動で、私は満洲国博克図の鉄道守備隊副官の内命を受けた。
副官なんて性に合わぬ仕事だが、満州ならば少し研究の価値もあろうと自ら慰めた。
以後、中隊長としての申し送りの事務の整理をはじめ、転任の準備を進めた。
二十五日、相澤公判に証人として真崎大将出廷、ある期待をもっていたが証言拒否して何事もない。
肩透かしをくったと感じと、用心深い人だと思った。
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二十六日、
任地赴任の経路、家族同伴の問題など調査のため経理室に行くと、
先年現地除隊した中隊の下士官Aが来合せ、
「 佐々木大尉殿、今朝 東京で青年将校が軍隊を率い首相官邸を襲撃しました 」
と 知らせてくれた。
私は大蔵大尉から磯部が落ちついたことを聞いていたので、 「 そうか 」 と 聞き流して室を出た。
週番指令室の前を通りかかって、大蔵が司令であるのを思い出し、立ち寄って今の話をした。
さすがに東京の事情に精しい大蔵は他にやるものはないと判断したらしく。
「 そうか、一緒に連隊長のところへ行こう 」
連隊長は、
「 ちょうどよかった。呼ぼうと思っていた 」
と、いって事件の概要を話してくれた。
私はなぜ蹶起したか、その理由がわからなかった。
相澤事件では軍内部のことだし、
しかも公判によって真相はこれからという段階だから、契機となすには条件が未熟である。
これで磯部は死ぬという思いが胸中を挽かすめた。
リンク →  大蔵栄一大尉の四日間 1 
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二十七日、
大蔵大尉が尉官会を開こうというので同意して午後集会所に集まった。
十月事件のとき、権勢欲の強い幕僚は成功したら勲章をやるといったので、
青年将校はその不純を嫌い、反対に自決して闕下に罪を謝すべきだといったと聞いていたので、
今頃は部隊は原隊に復帰していると思っていた。
「 今日 東京で大事件が勃発した。軍としては大失態である。
 しかし やった連中は同じ士官学校を出て、真面目に日本の現状を憂い将来を案じてのことと思う。
趣旨は国体の真姿顕現という。
満州事変以来軍の進出を喜ばない連中は、この軍の失態に乗じて攻勢に出ると思う。
われわれはこれに動かされてはならない。この態度を連隊長にいって安心して頂こう  」
と 私はいった。
大蔵もほぼ同じ様に、連隊から師団にもいって貰うといった。
皆同意して今夜連隊長宅を訪問することになった。
帰宅して夕食をすませると、偕行社から服の仮縫いにやって来た。
満州転任のため、注文をしていたのだ。
仮縫いをしているときに朝山が来訪した。
今日の尉官会の話をすると、
「 それはよいなー。おれの方も連隊長に話そう 」
朝山も事件は既に終息していると思っていた。
仮縫いや朝山来訪のため、その夜 連隊長宅に行けなかった。
リンク →  大蔵栄一大尉の四日間 2 
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二十八日、
将校集会所で大蔵大尉が、
「 連隊長が東京に行って様子を見て来いというので、二十九日清津から船で行く 」
と。
「 最初 連隊長は個人の資格で行けというので、それはおかしい。
様子がわからなければ師団参謀をやればよいでしょうというと、君が一番東京の事情に詳しいからだ。
師団長も了解済みですかときくと ウン という。
しかし途中で掴まりますよというと、安野憲兵分隊長を呼んだ。
やはり関釜連絡船は駄目だ。
しかし、二十九日に出る清津---新潟航路の船ならば、乗船時に私の手で警戒を解くというので
二十九日の船に決まった。
週番指令は軍医を呼んで風邪にして勤務を葛西大尉と交代、
旅費百円は経理部から出してくれた 」
と いうことであった。
私の官舎は憲兵隊の近くにあったので、二十七日、八日の帰途憲兵隊に立ち寄り、
安野分隊長より 「 軍政府樹立か 」 「 後継首相は誰か 」 とかいったような東京からの情報を聞いたが、
行動隊が未だ 頑張っている話は全然なかった。
このことは今考えてもおもしろいことで、人間の思考に何か盲点があることを感じた。
リンク → 大蔵栄一大尉の四日間 3 
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二十九日の朝、
朝山、大蔵が来て、
「 ラジオで大命に抗したので討伐を始めるといっているが、一体状況はどうなっているのか 」
三人でいろいろ話し合ったが、
焦点は
「 なぜ大命に抗したか 」
「 これに対し何をするか 」
の 二点であった。
私は行動隊が未だ撤退しなかったのには驚いた。
記述のごとくその当日、原隊に復帰しているものと思い込んでいたからだ。
このことは日記に書いていたので後日押収され、私に有利な材料となったと思う。
大命に抗する連中でないのに、その結果が出たとすれば、
① 大命が下達されなかったか
② 偽りの大命と彼らが思ったか
の 二つだと判断した。
そこで 皇軍相撃つの悲劇を救う手段として、
師団の無線を使って われわれの名前で彼らに連絡することだ、
と 意見一致して 師団長を訪ねた。
順序として当該連隊長を通じて意見具申すべきだがその時間的余裕がないので、
七三の連隊長と野砲の連隊長を呼んで貰い、
その前で師団長に対し、
記述の旨を大蔵大尉がまず述べた。
 師団長  鈴木美通中将
「 師団無線を君らの名で打つことは 」
と、鈴木美通中将は難色を示した。
「 日本軍同志相撃つという大事を救うのは、名前は個人でも、することは公のことです。
 われわれの名前があれば 彼らは信用するかも知れぬからです。
操典にいう百方手段を尽くすときです 」
聞いていた柳下重治参謀長は、
「 君たちのいうことは道理だ。閣下、これは打ったがよいと思います 」
と いった。
私は師団対抗演習で数日行動をともにし、
また記述の連隊長との間のいざこざといい、
この人はなかなか腹もあり頭も柔軟な立派な人だと思った。
文案を私に作れと参謀長がいうので、
別室で考えたが、東京における経緯が少しもわからないので、
記述の判断から、
「 理由のいかんを問わず大命に従い奉るべし 」
と 書いて、三人の名を認めた。
昼頃、連隊本部から、師団が打電した旨知らせてきた。
しかしこの電文は、戒厳司令部から彼らに伝えるまえに、事件は終息したと予審のときにわかった。
同日の夜、連隊長宅に大蔵と三人で話しているとき、
池田中尉より、
八師団の将校から
「 八師決意いつにても可、待機 」
の 電報が来たことを聞き、
「 連隊長殿、まだ何が起こるかわかりませんよ 」
と いった。
このことが後の取り調べで、私が連隊長に暴言を吐いたことになっていた。
大蔵も上京を止めたので、連隊長は
「 ありがとう、ありがとう 」
と 涙を流して喜んだらしい。
しかし この大蔵の上京の件も、
大蔵が部隊にいると何を仕出かすかわからぬので、
東京に追いやる考えだったと証言しているのを、東京の法廷ではじめて知った。
リンク → 大蔵栄一大尉の四日間 4
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佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から


大蔵栄一大尉の四日間 1

2019年11月14日 17時12分33秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)

 
大蔵栄一

おい、顔が真っ青だぞ

二月二十六日は、静かに明けた。
どんより曇った朝であった。
各隊の週番士官の、異状なし という報告を週番指令室で受けた。
朝食を終わったころ、
佐々木二郎大尉がひょっこり週番指令室にはいってきた。


佐々木二郎大尉 

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それまではいつもの通りおだやかな週番指令室であったが、
佐々木の一言で、俄然空気はかき乱された。
「 東京では、今朝、高橋の だるま ( 高橋是清蔵相 ) が やられたらしいな、
 あんたは、だれがやったか想像はつかんですか 」
「 高橋だけか 」
「 どうもそうらしい 」
「 貴様ッ、どうしてそれを知ったんだ?」
「 いま、経理室で地方人が、けさラジオで聞いたと話していたのを聞いたばかりだ 」
高橋蔵相ひとりだけというので、私はひそかに安心した。
「 まさか、連中が事を起こしたのではないだろうな・・・・?」
佐々木は東京の同志に、一抹の不安があるようだ。
「 高橋ひとりだけらしいから、磯部らではないことは明確だ、安心せエ 」
私は、東京の同志のしわざではないことを断言した。
五 ・一五のときといい、今度の場合といい、私の判断はいつも甘いようだ。
それも内容に精通しすぎていた結果が、かえって甘い判断となったのだろうか。
「 じゃ、だれがやったんだろう?」
「 院外団か何かのしわざじゃないかな、よくわからんが・・・・」
佐々木は、まだ心配そうであった。
「 もう 連隊長はきておられるだろう、連隊長には一応早く耳に入れていた方がいいだろう。
 貴様、聞いた通り報告しておけよ 」
「 そうだなァ 」
と、佐々木は部屋を出て行った。
出て行ったと思った佐々木が、すぐ引き返してきた。
「 連隊長が、あんたもいっしょにつれてこいといっている、すぐきてくれ 」
私は佐々木につれられて、連隊長室にはいった。
「 ちょうどいい、二人いっしょに聞いてくれ。
 いま東京に起きた大事件の状況が、情報として一部はいったばかりだ 」
と、連隊長は息をのんだ。
「 今早朝、在京部隊の一部が蹶起して、大官を襲撃した。
 即死せるもの 岡田首相、高橋蔵相、渡辺教育総監、鈴木侍従長 ( 貫太郎 )、
などで、その他まだあるようであるが不明。
蹶起部隊を指揮せるもの、野中大尉、香田大尉、栗原中尉、村中、磯部などで、
警視庁や麹町地区を占拠しているらしい。 その他はよくわからない 」
連隊長の顔は悲痛にゆがんでいるが、よく思い切ってやってくれた、
という感激の色がほのかに動いていた。
「 ・・・・」
私は無言のまま連隊長を見つめるのみであった。
無茶をやったという不安と
、よくぞやったという喜びと感激、すべてがごっちゃになった。
いまだかつて味わったことのない、感情の坩堝の中に投げ込まれたような気持ちであった。
連隊長の部屋をどうして出たかもわからぬくらい大きなショックであった。
週番指令室に帰ったとき、佐々木大尉が
「 大蔵さん、あんたの顔が一瞬真っ青になったぞ 」
と いった。
最初は耳を疑ったけれども、事実東京では大事件が惹起しているのだ。
連隊長の話では相当の大部隊が動かされているらしい。
だが、その後の推移は全く不明であった。
連隊長に聞いてもわからないし、
師団司令部でも東京との連絡がとだえているとのことであった。


朝山小二郎大尉
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午後になって、
野砲第二十五連隊から朝山大尉がかけつけてきた。
佐々木大尉と三人で鳩首きゅうしゅ協議をしたが、手のほどこしようもなかった。
とにかく、目下の急務として各連隊ごとの意見をまとめて維新的に統一し、
逐次それを師団に及ぼす以外に方法はない、
という結論を得て、
各自全力を傾注しようということになった。
その後、憲兵分隊長安野少尉がたずねてきたが、東京の情勢は依然として不明であった。
東京の異変は、またたく間に全連隊に広まった。
とくに若い将校連を異常に刺激したようであった。
連隊内の空気は、連隊長をはじめ 多くの人たちによって、
拍手喝采とはいかないまでも
「 よくぞやった 」
という気持ちで迎えられていた。


流血、邦家を浄め得るか
昭和十一年二月二十六日、
この日は私にとって生涯忘れ難い一日となった。
驚天動地の東京の大混乱は、私の眼底に彷彿として現じては消えた。
同志の颯爽たる姿を一人一人思い浮かべては、その成功を祈りつづけた。
とくに朝、連隊長から事件の概要を聞いたさい、
指揮官の名前の中で一番最初に野中四郎大尉があげられたときの私の驚きは、
全身の血潮が一度にひいてしまうようであった。
  野中四郎 
前述したように、野中大尉はあらゆる会合にほとんど顔を出したことのない人であった。
その野中大尉が蹶起したことは、
この事件のスケールの大きさを、誰よりも私に実感させるのであった。

忙殺された一日が終わって、夜のとばりのおろされるころ、
連隊内はうしおがひくように静かになった。
私は、はじめてひとり週番指令室に黙想する機会を得た。
『 一滴鮮血邦家 』、だれかの句が脳裏に浮かんだ。
果たして流された尊い鮮血によって、国家が洗い浄められるであろうか。
何としてもこの非常事態を契機として、日本がほんとうの日本に立ち直るために、
この際、徹底的に出すべき膿を出してしまうべきであろう、
一歩もひくことは許されない。
ここは東京を遠く離れた北鮮羅南という辺境の地だ。
単身飛び出して馳せ参ずることは、とうていできそうもない相談である。
この地でのこの事態に対処するためにはどうしたらいいのか。
私は、とつおいつ熟慮を重ねた。
本朝来、東京の一挙に対して、連隊の空気は決して悪くない。
むしろ好感をもって迎えている気配が濃厚である。
東京の蹶起が不幸にして一歩を誤らんか、日本の命運は、逆賭げきとすべからざるものがある。
これを阻止しようとする勢力もまた、決して侮るべからざるものがあるはずだ。
その後の状況は一切不明であるが、躊躇すべきときではない。
全国に散らばっている同志に電報で檄を飛ばすのだ。
それによって各地方ごとに いわば藩論を統一して、東京をつき上げるのだ。
この地方の支援によって、東京の一挙を成功に導き、維新への巨歩を踏み出してもらいたい。
私は祈るような気持ちで次のような電文を書いた。
「 ( 前略 ) 軍人といわず民といわず、むらがりきたるやからに対しては、
徹底的殲滅せんめつを敢行せざるべからざる 」
次に私は 連隊を維新的に統一するために、
明朝、尉官会をまず開催すべきであると思って、
その趣意書を書いた。
その文章は いま記憶にないが、概略次のような趣旨であった。
「 今や、帝都において大動乱が巻き起こされている。
 この動乱は、権勢欲からする不純なクーデターではない。
新生日本の誕生のための陣痛と見るべきである。
この一挙を躊躇逡巡しゅんじゅんによって一空せんか、
わが国の前途まことに憂惧すべきものがある。
・・・・ここで われわれ辺境の守備に任じているものの特に意を用うべきは、
混乱化している日本の弱点に乗じて、国境を窺わんとするソ連の動向である。
あるいは杞憂に終わるかも知れない。
だが、われわれとしては、
この非常の秋に際して緊褌一番きんこんいちばん、国の内外を凝視して、
悔いを千歳に残すごとき過誤なきを期さねばならぬ。
それがために尉官一同一堂に会し、諸情勢を検討討議し、
連隊長を中心に連隊の結束を固めること、また 意義なきことではなかろう  」
書き終わったのは夜十二時ごろであった。

大蔵栄一 著
最後の青年将校
二・二六事件への挽歌
から
次頁 
 大蔵栄一大尉の四日間 2
へ 続く


大蔵栄一大尉の四日間 2

2019年11月12日 17時10分11秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


大蔵栄一

《 二十七日 》

聯隊長に誠心の開陳
二十七日になっても、東京の状況は依然として不明であった。
ラジオはかたくななほど沈黙を守っていた。
私は朝起きてににげなく机の上を見ると、昨夜書いた原稿が二枚、無造作に置いてあった。
改めて読み直した。
読み直してみて全国の同志に打電すべきであるか、その適否を静かに考えた。
あるいは、逆効果を生ずる可能性のあるを思って中止にすることにした、
その原稿をポケットにねじ込んだ。
まず、尉官会開催によって連隊の結束一筋に押し進めるため、
私は、ころあいを見はからって、
最古参である浜地喜代太大尉 ( 陸士三十二期 ) をたずねたが、
不在であったため、三十三期生の伊藤晃大尉に会った。
「 本日尉官会を開催したいと思いますが、その趣旨はこれです 」
私は、昨夜書いた趣意書を示した。
「 浜地大尉を探しましたが、見当たらぬのでとりあえずあなたに・・・・」
「 わかった、僕は賛成だ。ひるごろまでには浜地大尉もつかまると思うので、
 僕から浜地大尉に相談してみよう  」
ひる少しまえ、浜地、伊藤 両大尉がやってきた。
「 実は尉官会のことなんだがね、聯隊長に相談してみたんだが、
聯隊長は状況の推移をもう少し見てからでも遅くないだろう、といわれるので、しばらく見送ったらと思うんだ 」
浜地大尉がいった。
「 尉官会開催をなんで聯隊長に相談しなければならんですか 」
私は、浜地大尉の処置が面白くなかった。
「 時期が時期だからね、一応聯隊長の了解を得たほうがいいと思ったんだ 」
ここにも優柔不断な明哲保身の責任分散的悪質が、顔をのぞかせていた。
「 そうですか、わかりました。じゃあ、あっさり私の提案は撤回しましょう  」
私は、浜地大尉の手から趣意書をとり上げて、上衣のポケットにねじ込んだ。
聯隊長にという権威のカサの中に逃げ込んでおのれの責任の所在をぼやかさうとする、
事なかれ主義の弊風に対しては、いずれゆっくり挑みかからねばならぬ問題であった。
午後二時ころ、私は聯隊長に呼ばれた。
「 君、まあ掛けろよ 」
聯隊長は、笑みを浮かべながら、私にイスをすすめた。
「 ちょっと暇になったから、君から東京の事情をとっくり聞こうと思ってね・・・・」

まず私は、十一月二十日事件から相澤事件など かいつまんで説明した。
今度の事件は、全く寝耳に水であったことも話した。
今度の事件で軍は一歩も退いてはならぬこと、
今までの軍内の内紛的いざこざはすべて一擲いってきして、
開かれた突破口を拡大して一挙に維新へ持ち込むことが、現在軍のとるべき唯一の道であること、
などをこまごまと語った。
「 東京はいま、激しく揺れ動いています。
 その後の状況は全く不明ですが、成功するか惨敗するか、
そのわかれ目に苦闘している毎日であるように思われます。
戒厳令が布かれたといううわさもありますが、明確ではありません。
明治維新の前例が示すように、地方の雄藩が藩論を統一して幕府を倒したごとく、
まず 聯隊長を中心に連隊の藩論を統一し、
それを師団に及ぼし、地方部隊の総意として中央部を推進することが、
われわれにのこされた唯一の道であると思いますが、聯隊長はどう思いますか 」
私は、聯隊長に誠意を披露して、意見を思う存分開陳した。
「 その通りだとは思うがなァ・・・・」
聯隊長は、賛成のような賛成しかねるような、どっちともつかぬ あいまいな態度であった。

約二時間を経過したところであった。
稲垣少尉 ( 陸士四十七期 ) が、ノックもせずに飛び込んできた。
「 大尉殿、全部集会所に集まっていますから、すぐきて東京の事情など話して下さい 」
「 本日の尉官会は中止したんだぞ 」
「 それはわかっています。尉官会は中止されたけれども、中少尉会をやることにしたんです。
みんな集まって待っていますから・・・・」
「 ヨーシ、行こう  」
私は聯隊長に一礼して、稲垣少尉に続いて将校集会所に急いだ。
集会所には中少尉のほかに
大野勤之助大尉、葛西大尉、佐々木大尉など数名の大尉も顔を見せており、
私は、聯隊長と話し合ったことを、かいつまんで話した。
とくに国境守備の任にある われわれとしては、ソ連の動向を考慮して、
強固な結束のもと、盤石の構えを忘れてはならぬことを強調した。
私は 約三十分間話し合った後、週番指令としての仕事があるので、
将校集会所を出て週番指令室に帰った。
あとできくと、中少尉会解散後、数名のものが聯隊長官舎に押しかけて、
聯隊長といろいろ話し合ったそうであるが、私はその内容はついにきく機会がなかった。

大蔵栄一 著
最後の青年将校
二・二六事件への挽歌
から
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大蔵栄一大尉の四日間 3 へ 続く


大蔵栄一大尉の四日間 3

2019年11月11日 16時15分35秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)

 
大蔵栄一

《 二十八日 》

独断で東京へ行ってくれ
翌二十八日の午後二時頃であった。
私は、連隊長室に呼ばれた。
聯隊長はきのうと同じように、にこやかに私を迎えた。
「 君に頼みがあるんだ、まあ かけ給え 」
「 なんでしょう・・・・?」
「 実は 東京からの情報が、その後全く得られないんだ。
 師団の無電でもキャッチできなくて師団長閣下も困っておられる。
そこでだ、君に上京してもらって、東京の状況をさぐってもらいたいんだ 」
「 私に上京せよとおっしゃるのですか 」
「 そうだ、こうなったら公的の機関にたよるわけにはいかん、
 君の上京によって刻々得た情報を知らせてもらいたいんだ 」
「 師団長閣下もご承知ですか 」
「 閣下も了承ずみだ 」
「 じゃ、おことわりします 」
「 どうしてだ?」
「 師団の要求であれば師団参謀のやるべきことで、私の出る幕ではありません 」
「 本来ならばその通りだ。
 だが、東京の事情に詳しい君が、この際 最適と思うからお願いするわけだ 」
「 そうですか、それじゃあひきうけましょう 」
私は納得した。
「 命令を出すわけにはいかないんだ。君の独断で行ってもらいたいんだ 」
「 どういうことですか・・・・変ですね 」
「 別にどういうことではないのだが、そうする方がいいという判断からだ 」
聯隊長はいいにくそうであった。
「 独断で行くということは、いいかえれば、時期が時期ですから脱走することじゃないですか、
 旅行証明のない限り羅南で乗車することすらできんでしょう。
かりに汽車に乗って釜山まで行ったとしても、関釜連絡船で捕まってしまいますよ。
東京に行着くなど絶対に不可能です。 ちょっと考えただけでわかることじゃありませんか 」
私は、聯隊長の無神経さに驚いた。
天保銭を胸につけた連隊長も、こんなことは全く無知であった。
「 そうだなァ・・・・ちょっと待て 」
といって、聯隊長の憲兵分隊に電話をかけて分隊長を招致した。
かけつけてきた安野憲兵少尉に事情を訴えて意見を求めた。
「 大尉殿のいわれる通りです。 独断で上京などとは全く無茶です。
 師団長閣下がご了承の上であれば、明日午後三時、清津から新潟航路の船が出航しますから、
この路線を利用すればまだ可能性があるでしょう。
そのときは、憲兵分隊としては出港の前後一時間、警戒を解きましょう。
といっても、東京まで行きつくかどうか、保証のかぎりではありませんですよ 」
「 なにぶんよろしく頼む 」
と、聯隊長はかすかに頭を下げた。
私は変だと思いながらも、東京に出て見たいという気持ちも動いて、聯隊の要請に応ずる決意をした。
「 週番勤務をどうしますか 」
「 そうだ、木村軍医正を呼ぼう 」
聯隊長は、さっそく軍医正を呼んで、形式的な診断の結果、風邪ということにして葛西大尉と交代した。
「 旅費の手持ちがありませんが・・・・」
「 いくらぐらいあったらいい・・・・?」
「 百円もあればいいと思います 」
聯隊長の指示によって、経理部からその百円が直ちにとどけられた。

聯隊長と打ち合わせを終わって、私は佐々木大尉に会った。
上京することになったいきさつを話して、留守中のことを頼んだ。
「 そりゃいい、東京に行ったら みんなによろしく頼むぞ。
 あとのことは心配するな、それにしても聯隊長がよく思い切ったもんだなァ・・・」
と、佐々木は喜びながらも、何となしに割り切れぬ様子であった。
夜、私はどてらのままふとんにもぐり込んで寝たが、東京のことを思うとなかなか寝つかれなかった。
ラジオを枕もとにおいてかけっぱなしにしていたが、事件に関しては依然沈黙を守りつづけていた。

大蔵栄一 著
最後の青年将校
二・二六事件への挽歌
から

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大蔵栄一大尉の四日間 4

2019年11月10日 16時07分38秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)

 
大蔵栄一

暁のショック、撤兵勧告打電へ

夜、私はどてらのまま ふとんにもぐり込んで寝たが、
東京のことを思うとなかなか寝つかれなかった。
ラジオも枕もとにおいて かけっぱなしにしていたが、
事件に関しては依然沈黙を守りつづけていた。

《 二十九日 》
とうとう夜を徹してしまった。
二十九日の東の空が白くなりはじめたころ、私はついうとうととていた。
「 ・・・・戒厳司令部発表 」
突然、私の耳に響いた。
一瞬、私は身のひきしまるのを覚えた。
全身を針のように緊張させて、ラジオに食いつかんばかりに身構えた。
ラジオから飛び出す言葉は、ことごとく予想に反したむごい言葉ばかりであった。
『 叛乱軍 』 という言葉がまず意外であった。
『 大命 に抗し 』 て なお頑強に麹町一帯の台上にがんばっているとか、
攻撃軍は逐次包囲網をちぢめつつ、
皇軍相撃の最悪の事態もやむを得ない様相の迫りつつある状況を、
アナウンサーは悲痛な声をしぼり上げて放送し続けた。
『 兵に告ぐ 』 の 一文が、切々として読み上げられた。
私は耳を覆いたいような衝動にかられた。
何かの間違いではないだろうか。
しかし現実は悲しい現実として受け取る以外に方法のない、刻々の放送である。
「 村中よ、香田よ、安藤よ、磯部よ、貴様らは何を血迷ってまで 大命に抗しようとするのだ・・・・」
私は彼らの悲痛な心情を察しながらも、彼らの行動に対して、少なからぬ憤りを覚えた。
この血迷った同志に対して、私は彼らの心友として、最後の忠言を叩きつけてやりたかった。
だが、雲烟うんえん万里を隔てたこの羅南の地からは、どうすることもできなかった。
いらだたしい私の耳に、ラジオから流れる無情の声は、次から次に響いた。
「 今からでも決して遅くない・・・・軍旗の下に復帰せよ・・・・」
「 ・・・・お前たちの父兄はもちろんのこと、国民全体もそれを心から祈っておる・・・・」
私は、もう聞くに耐えなかった。
悲惨な結末に打ちひしがれた私が
ラジオのスイッチをひねろうとして手をのばした、その瞬間であった。
「 最後の忠告の方法はある・・・・」
ラジオから得たヒントは、師団司令部の無電を利用することであった。
大命に抗してまでも闘い続ける理由はない、大命は絶対でなければならぬ。
いかなる理由があってもそれは理由にならぬ。
一刻も猶予すべきではないと決心した私は、どてらのままスリッパをつっかけて、雪の道を走った。
軍服に着替える時間がおしかったのである。
野砲の朝山大尉の官舎を叩き、二人で佐々木大尉を誘った。
みちみちの私の得たヒントによって、最後の忠言を蹶起の友に伝えようと諮はかった。
二人とも文句なしに賛同した。

まず 師団副官の星野騎兵少佐の門を叩いた。
副官に、私たちの意図を師団長に伝えていただくことをお願いした。
「 ヨーシわかった。さっそく伝えよう 」
師団副官は、二つ返事で承諾した。
「 このことは聯隊長を通じてお願いすべきでありますが、 こと緊急を要しますので独断でやってきました。
 できますならば同時に七三の連隊長瀬川大佐と、野砲二十五連隊長とを招致していただいて、
同席してもらえれば有難いと思います 」
私は、聯隊長同席の方が話がスムーズに運ぶと思った。
鈴木美通師団長、柳下重治参謀長、両聯隊長が、師団長官邸に集まるのに、そうたいして時間を要しなかった。
私は、まず上述の理由を述べて、師団無電の使用をお願いした。
 師団長 鈴木美通中将
「 だからオレが日ごろからいわんことではなかったんだ。・・・・無茶やりおって・・・・」
 師団長は、かんですてるようにいって、その態度はすこぶる冷淡であった。
私は、この期に及んで、何という愚劣な奴だと師団長鈴木中将がにくらしかった。
「 閣下、三人の申し出はいいことではありませんか、
  尽くすべき手段を尽くすことは、この際躊躇すべきではないと思います。
三人の希望を入れようじゃありませんか 」
柳下参謀長の一言で、師団長も不承不承ではあったが承諾した。
『 理由のいかんを問わず直ちに兵をひけ 』
発信人は私ら三人として、受信者は香田清貞大尉とした。
香田清貞大尉を受信人とした理由は、村中はすでに軍服を脱いでいたし、
野中四郎大尉は最古参ではあったがあまり表面に出ていなかったし、
私の同期生でもなかったので、香田大尉がまず無難であろうという簡単な理由からであった。
この電文に第十九師団参謀長から、
『 右の電報を香田大尉に手交されたし 』
との電文をつけて、戒厳司令部参謀長安井藤治中将宛に打電することになった。
この無電が、彼らの手に渡って私らの意のあるところが通ずれば有難いし、
もしこの無電が間に合わずに騒ぎがおさまっていればそれも有難いと、私は思った。
いずれにしても皇軍相撃の不祥事の起こらないことを祈って師団長官邸を辞した。
朝山、佐々木と別れて家路をたどったが、
東京の同志のことを思うと私の足どりは重かった。

大蔵栄一 著
最後の青年将校
二・二六事件への挽歌 から
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末松太平大尉の四日間 1

2019年11月05日 16時04分19秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


末松太平 
二月二十六日の朝、
私は出勤したらスロープに出かける前に、
連隊本部に寄って連隊副官と八甲田登山行軍の打ち合わせをしようと考えながら官舎を出た。
雪が根雪になると、私は連隊への往復もスキーでしていた。
兵営へのコースは、大抵の将校がそうしているように、私も近道をして通用門にとっていた。
営門に通じる道から通用門に出る道に折れる角に馴染みの床屋がある。
いつものとおり、その床屋の角を折れようとした。
すると床屋の主人が、待ちかまえていたもののように、おもてに飛び出してきい私を呼び止めた。
「 ことしのスキー皇軍の人数は決まりましたでしょうか。
酸湯からの使いのものが、わかったら教えてくれといっていましたが・・・・」
酸湯というのは八甲田山の山のふところにある温泉場で、この床屋はそれの連絡場所になっている。
毎年のスキー行軍は酸湯で二泊する。
ことしも、やはりそのつもりにしていた。
行軍部隊の人数を知りたいのは、前もって米、みそ、醤油のたぐいを準備しておく都合があるからである。
人数に見合ったそれらのものを、
毎年山案内に立てる八甲田の仙人鹿内辰五郎老人のいる麓の横内部落から、
担ぎあげておかなければならない。
「 ちょうど今日、その人数を決定しようと思っているところだ。
帰りに、はっきりした数を教えます。」
そういいおいて、私はいったん止めたスキーをまた滑らした。
雪をはらったスキーを板張の壁に立てかけていると、当番兵がはいってきて
連隊本部の電話室からの連絡事項を伝えた。
東奥日報社の竹内俊吉から電話があって、隊長がみえたらすぐ電話してくれということだったと。
外部との電話は、連隊本部の電話室までいかなければ通じない。
近ごろあまり会っていない竹内俊吉が、朝っぱらからなんの用があって電話したのだろう、
久しぶりに会いたいとでもいうのだろうか・・・・別に大した用でもあるまいと思ったので、
電話室の当番兵に竹内俊吉を呼び出すようにいいつけておいて、
連隊本部事務室にはいり、連隊副官とスキー行軍の打ち合わせをはじめた。
二言三言いいかわしたところに電話当番兵が、竹内俊吉が電話に出たことを知らせにきた。
打ち合わせを中断して、電話室にはいり、受話器をとりあげると、
昂奮気味の竹内俊吉の声が伝わってきた。
これが私が二・二六事件を知った最初である。
稲田元中将がいっている 「 青森の同志には以心伝心ですぐ事情は伝わっている。」
などといったようなものではない。
竹内俊吉
竹内俊吉の第一声は 「 野中四郎大尉を知っていますか 」 だった。
私は野中四郎大尉を知らなかった。
知らないと答えると 「 では、安藤大尉は・・・・。」 と きいた。
それはよく知っていると答えると、はじめて歩兵第一連隊、三連隊の千数百名の部隊が決起したことをいい、
これは 五 ・一五とちがって大規模のようだ、
今までにわかったところでは岡田首相、斎藤内相、渡辺大将・・・・と 殺された人の名前をあげ、
つづいて 「 決起趣意書がありますよ、読みあげてもいいが・・・・面倒だな 」
で ちょっとことばを切って 「 一度社にきませんか、もっといろんなことがわかっていますよ 」
と いったから、私は 「 あとでいきます 」 と 約束した。
そこでどちらかともなく電話を切った。

八甲田登山行軍の打ち合わせどころではなくなった。
かくしておくことではなかった。
もう一度私は、連隊本部事務室にはいると、
連隊長代理の谷口中佐に竹内俊吉からきいたとおりを告げた。
連隊長の小野大佐は前に述べたように、この日は朝から、渡辺教育総監辞職勧告文の件で、
師団長に呼ばれ弘前に出頭していた。
私の話をきき終わった谷口中佐は、
「 うむ、こんどこそ 五 ・一五の二の舞になってはならないね。  徹底的にやらなければ・・・・」
と いった。
谷口中佐のこのとっさのことばに、内心、私はおどろいた。
谷口中佐は、連隊に長くいた砂川中佐にかわって転任してきたばかりだった。
砂川中佐は五連隊の生活が長かっただけに、大岸大尉、相澤中佐以来の革新派にもまれ、
否諾なしに、この道の玄人にさせられており、人間的にある程度の理解も持っていた。
が、谷口中佐は、いわばこの道の素人のはず、
その谷口中佐がこういった反応を示そうとは予期しなかっただけに、
内心おどろきとともに、意外の幸先のよさを感じた。
竹内俊吉から東京の蹶起をきいてから、谷口中佐にそれを告げるまでのあいだも、
告げながらも、私は別にどうしようという、はっきりとした考えを持っていなかった。
地方部隊が東京の蹶起に呼応して起つということの非現実的であることは、村中大尉と前に話しあっている。
東京に飛び出すということは五 ・一五事件での相澤中佐で試験ずみで、途中で阻止されるに決まっている。
単なる衝動的行為にすぎない。
それに澁川と約束したこともあった。
いまとなっては、それにこだわってもおられないが、
和歌山、すなわち大岸大尉との一致した行動でない以上、たとえ東京が起っても協力しないといったことである。
ただ、ひょっとすると大岸大尉や菅波大尉も上京していて、相沢公判の前途に見切りをつけ、
これまでの方針を一擲いってきして最後の腹を決めたのではあるまいかと、推測されないこともない、
大岸大尉、菅波大尉らも、証人として呼ばれるかも知れないことが新聞にも出ていた。
若し 大岸大尉、菅波大尉らが出てきての蹶起であれば最後の決戦である。
もうあとさきを分別臭く考えてはおれない。
がむしゃらに一騒動おこさねばなるまい。
が 地方新聞からきいたばかりの情報では、その辺のことはまだわからない。
決心もつかない。
また 最後の決戦であれば前以て、青森になんの連絡もなしに蹶起するはずはない。
情況不明なときは微動もすべきでないと思った。
が、こういった、もっともらしい分別めいたことに、思いをめぐらすこと自体が、
平素に似ない臆病、卑怯のようで、われとわが身を責めもする。

二 ・二六事件がああいった経過をたどろうとは予想もできなかった私は、
このとき斬奸行動だけで行動そのものは終わったものと決めてかかっていた。
あとは、その結果を如何に発展させるかにあるとのみ考えていた。
もともと政権奪取の野望はないのだから、斬奸行動後は、聖慮如何をまって、爾後の処置を決すればいいのである。
ということは、聖慮如何によっては、奸とはいえ、陛下の重臣には違いなく、
それを斃したのであるから、その罪を謝して首謀者は自決することである。
そこに上部工作なるものが微妙に作用するのであるが、
かねての覚悟は事成るも成らぬも死であって、生きて直接政権奪取を目的としないところに、
十月事件に対する批判もあり、自らをファッシズムと区別する矜持きんじがあったのである。
微妙に作用する上部工作が、しかしどの程度にすすんでいての蹶起なのかは、
このときの私には、確実な判断の基礎はなかった。
が、こういった微妙な駈引にこだわらず、己れの屍の上に築かれる維新を信じて、
首謀者はもう潔く自決してしまったかも知れない。
こういった錯綜する私の思考に、とりあえずの方向づけをしたのが
五 ・一五の二の舞になってはならないといった谷口中佐のとっさのことばだった。
蹶起した同志の犠牲を無駄にしてはならない。
鉄は赤いうちに打たねばならない。
これを契機に間をおかず、徹底維新の推進に努力しなければならない。

連隊本部の事務室に間もなく亀居大尉、志村中尉が顔を出した。
連隊旗手の小岩井少尉が気を利かして呼んだのだ。
ストーブのまわりで、谷口中佐をかこんでわれわれは考えこんでいた。
このとき谷口中佐は、
「 渡辺大将は殺されて当然だ。
特別大演習のとき、陛下に対して不敬を冒したことがある。
僕らは陸大の学生で陪観していたが、それを目撃して、渡辺大将をやっつけろと憤激したものだった。」
ともいった。
谷口中佐の積極性は一面には私を安心させるとともに、他面には私をがっかりさせた。
とっさに、こう簡単に革新家になれるのであったら、なにも長いあいだ非合法ぶって、
革新の維新のと憂身をやつすこともなかったと思ったから。
協議するでもない、しないでもないストーブ会議は、自然に一つの結論を生んだ。
それはやはり谷口中佐がはじめにいった五・一五の二の舞にならないよう軍中央部を督励することであり、
それを師団長を通じて推進すべく師団長に意見具申しようということだった。
これを契機に軍が主体となって維新を断行してほしいということである。
しかもそれを、連隊長、旅団長と統帥の順序をふんでしようというのである。
議長格を自分で買ってでているような谷口中佐は、それはいい考えだといって議決した。
このため亀居大尉と志村中尉が、弘前の旅団司令部に出張することになった。
そこで先ず連隊長の小野大佐の同意を得るためだった。
これは公的な連隊命令だった。
こういった格好になっては私はかえって、でしゃばらないほうがいいように思ったし、
それに東奥日報社にいって、もっとくわしく情報を得なければならないと思っていたので、
意識して連隊に残ることにした。
亀居大尉、志村中尉の二人が出発したあとで、ちょっと東奥日報社にいって、
もっと詳しい情報をきいてくると私がいうと、谷口中佐は改まって、
「 連隊命令でいってきたまえ。昼の会食のとき将校団に説明してもらうから。」
といった。
これまでも公的になった。

このころは雪が深くてバスも通らず、東奥日報社までの相当の道のりは、歩くほかなかった。
東奥日報社の近くまでいくと、汽車に乗りおくれたといって、
亀居、志村の二人が引きかえしてくるのに出合った。
駅で待っていても仕方がないから、東奥日報社に寄って、そのごの情報を得ようというのだった。
それで三人一緒で竹内俊吉を訪ねた。
満州事変での従軍記者などもいて、竹内俊吉のほかにも東奥日報社には、
顔馴染みになっている若い記者が沢山いた。
その記者たちが、私たちをとりまいて、
こんどこそなんとか維新に持っていかなければ・・・・と
口々に目をかがやかしていったのだった。
東北農村の疲弊を膚に感じている記者たちでもあった。
竹内俊吉はまっさきに、書き取ってあった決起趣意書を私に渡した。
師団長にもみせる必要上、それをさらにもう一部書き取ってもらった。
参加将校の大部分の名前もわかった。
私の知らない名前が多かった。
大岸大尉や菅波大尉の名前はなかった。
竹内俊吉は
「 澁川さんはどうでしょうね 」
と きいた。
澁川の名前はまだなかった。
竹内俊吉は澁川だけをよく知っていた。
いつであったか澁川が青森にきたとき、青森県の農村の事情を知りたいというので、
竹内俊吉や澁谷悠蔵を紹介したことがある。
私が連隊にいっている留守に澁川は竹内俊吉らに会いにいった。

私は連隊へ、亀居、志村は弘前へと別行動をとるときになって、
亀井大尉は、師団長へり意見具申は、やはり貴様がいかなければ駄目だ、一緒にいこうといった。
が、私は谷口中佐との公的約束を破るわけにいかないので、あとからいくことにして一応連隊に帰った。
将校集会所では昼の会食は終わっていたが、私の帰ってくるのを待っていて解散せずにいた。
私が将校集会所にはいると、谷口中佐が一同に、これから末松大尉に説明させると告げた。
私は先ず 『 決起趣意書 』 を 読みあげ、つづいて、これまでに知りえた情報をかいつまんで話した。
そのあとで谷口中佐の許可を得て弘前に向かった。
旅団司令部の副官室では、小野連隊長と亀井大尉、志村中尉が一つのテーブルをかこんで、
寄り合って腰をかけていた。
志村中尉が 先ず 「 うまくいきました 」 と いった。
くわしく意見具申の模様をきくと、私のすることは残っていなかった。
そのまま一緒に帰ろうとすると、連隊長が折角きたのだから、旅団長に挨拶だけでもしたがよかろうといった。
旅団長は飯野庄三郎少将だった。
旅団長は上機嫌で私を迎え、
「 うむ、こんどの君らのやり方は満点だ。いつもこのようにすればいいんだ。年寄りは語るに足らんと思っちゃいかんよ。」
と いった。
いつものように・・・・といったのは、このようにしなかったことによって、私が処罰されたことをいってるわけだった。
私がこれに 「 はア、はア 」 と 返辞だけして部屋を引きさがろうとすると
「 どうだ、師団長閣下に会っていかないか 」
と すすめた。
「 いいえ、もう亀居、志村の両名が申し上げて同意を得ているということですから、
私から重ねてなにも申し上げることはありません。」
と 私が辞退すると、
「 師団長閣下がよろこばれるから、会っていったがいい。うむ、すうするがいい。」
と ひとりぎめして旅団長は、さっさと先に立って師団司令部に向かった。
私は体格のいい旅団長の背中をみながらついていった。
 師団長・下元熊弥中将
上機嫌の旅団長とは対照的に、師団長のほうは沈痛な顔だった。
私にはいつもなら、からかい気味に話しかけてくる師団長だったが、
このときはそういったそぶりはみせなかった。
「 君らの考えはわかった。師団長としてもこの際 徹底した粛軍を陸軍大臣に具申しておいた。これがその電文の控えだ。」
と いって、電文の控えがいちばん上になっている書類綴を、私の前に差出した。
正確には覚えていないが、それは大要 次のようなことだった。
『 一時は不穏の形勢りたるも、目下団下一般に平静なり。 これを契機に徹底粛軍に邁進されたし 』
「 粛軍 」 は 「 維新 」 であるべきだとは思ったが、
それは先ず伏せて旅団長に、
「 一時不穏の形勢・・・・という、ここのところは、われわれのことを指しているように思われますが、もしそうであれば心外です。
 われわれはあくまで統帥の秩序はまもっているつもりですから。」
と いった。
「 それはそうだが、このままのほうがいいよ。軍当局を刺激することになるからね。」
と 旅団長はいった。
谷口中佐といい、旅団長といい、すっかり私のお株をとったように積極的である。
私と旅団長が電文の控えを中心に、ごそごそ話しあっているのをどうとったか師団長は、
「 それでいいだろう。とにかく師団長にまかしておきたまえ。悪いようにはしないから 」
と いって、いくぶん、いつもの親しみのある笑いをはじめてみせた。
その電文の控えを何気なくめくると、その下に陸軍大臣から師団長に宛てた、
今回の東京のことは軍首脳部において善処しているから、貴官は団下を厳重に統率されたし、
と いった意味の電文につづき、問題の 『 大臣告示 』 が 写し取ってあった。
それは次のようなものであるが、当時これを明確に記憶していたわけではない。
陸軍大臣告示
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む
三、国体の真姿顕現 ( 弊風を含む ) に 就ては恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり
五、之れ以上は一に大御心に俟つ
師団長の陸軍大臣宛ての電文に、師団の状況が述べてあるのは、
陸軍大臣の電文に応えたものであり、旅団長の、すっかり気を許したような上機嫌、積極性は、
この、『 大臣告示 』 のせいだなと、了解がついた。
この 『大臣告示 』 は あとでは説得の手段にすぎない無価値のものということになるのであるが、
このときこれを文字通り読んでの印象では、陸軍首脳部は一致して蹶起の趣旨も行動も認めたことになるし、
之れ以上は一に大御心に俟つ ということも、従来の慣例からいえば決定したようなものであるから、
蹶起部隊の目的である昭和維新の第一関門が、
これによって開かれると思って差支えないように受け取れた。
とすれば、われわれの意見具申に師団長、旅団長が同意するもしないもなかった。
陸軍大臣のほうから前触れがきていたのだから。
旅団長の意外な積極性はともかく、師団長のこのときの処置も、ひきつづいての処置も、
この 『 大臣告示 』 に 大きく左右されていたにちがいない。
が、私は虫が知らしたとでもいうのか、このとき不思議にこの 『 大臣告示 』 に 不安を感じた。
特に第五項の 之れ以上は一に大御心に俟つ に 不安を感じた。
しかし、不安は感じながらも、維新の前途にかすかな希望を、これによって持ったことは事実だし、
これで蹶起した同志は自決しなくてもすみそうだという、安心を抱いたことも事実である。
旅団長は、私が 『 陸軍大臣 』 を 丹念にみているのを、
どうだ、こういういいものがきているのだよ
と、いわぬばかりに、のぞきこんでいた。
師団長室を出ようとすると、師団長は、
「 秩父宮殿下に御上京についておうかがいしたところ、
高松宮に連絡してみて、その模様によって、御上京するかしないか
を お決めになるということだった 」
と つけ加えた。
亀井大尉と志村中尉が意見具申をしたとき、志村中尉が、とっさの思案で、
殿下の御上京の件にふれたのに対し、師団長は、いいことを注意してくれた、
早速おうかがいしてみようといったということだったが、これはその結果を知らしてくれたわけだった。
本庄侍従武官長の 「 手記 」 の 第二日 ( 二月二十七日 ) の部分に
『 弘前に御勤務中の秩父宮殿下には、此日御上京あらせらるることとなりしが、
高松宮殿下 大宮駅まで御出迎あらせられ、帝都の状況を御通知あらせられたる後、
相伴われ先ず真直ぐに参内あらせられたり 』
と あるのと合致している。
第八師団司令部
意見具申を終わって、連隊長とわれわれ三人が、弘前を発ったのは日暮れどきだった。
車中 連隊長は、今日の出張の目的だった渡辺教育総監辞職勧告文の件につき話してくれた。
こういった際にも、一応この件の打ち合わせは行われたようだった。
「 全国からの辞職勧告文は大変な量だったそうだ。
しかし教育総監は一通もそれを読んでいず、副官が逐一 部隊宛送り返したということだ。」
連隊長は笑いながら、こういった。
私の苦心の勧告文も全く意味をなさなかった。
青森駅から夜道を官舎まで歩いた。
連隊長は別れぎわに、亀居大尉だけを呼んで、何か注意していた。
意見具申もとおったことだし、君は最古参だから、若いものをよく取鎮めるように・・・・
と いったと、あとで亀居大尉がいっていた。

ハモニカ長屋の独身官舎、そのとっつきの小岩井少尉の部屋に、青年将校が全員集まって、
今日の意見具申の結果如何にと待ちかまえていた。
私は大尉になってから独身官舎を出ていたので、一たん自分の官舎に帰り、出直して独身官舎に出向いた。
亀居大尉は先にきていた。
意見具申の結果はあらまし披露されていて 一同は、一先ず やるだけのことはやったという気持ちで、
くつろいでいた。
私は私なりに、『 大臣告示 』 その他の師団長室での状況を話し、
一同に安心を与えたが、それを話しながら、実は内心絶えず不安につきまとわれていた。
軍内の実情が、そうやすやすと、蹶起将校の意志をとおすとは思えなかったから。
維新と表裏する粛軍ということも、文字は同じでも、その内容は両極端であるはず。
人生万事 撥釣瓶はねつるべである。
上がるものがあれば下がるものがある。
粛軍によって上がるものが一方にあれば、それに対応して下がるものがなけれはならない。
その下がるものが、なんの抵抗もせず、引きさがるだろうか。
粛軍の錦の御旗は、これを押し立てる勢力の所在によって、現われる結果は正反対である。
北、西田、それに 『 日本改造法案大綱 』 が、こんどの蹶起にどれだけの関連を持っているかによっても、
錦の御旗の所在がかわる。
北、西田に対しては、『 日本改造法案大綱 』 とともに、
先入観的に、青年将校を支持する軍首脳のなかにさえ、反撥があるときいている。
力の均衡が微妙に動揺する場合には、蹶起に反対して現状を維持しようとするものは、
これを勢力挽回の好餅に利用するだろう。
大岸大尉が別に 『 皇国維新法案 』 を起案し 印刷した苦心は、
この辺の消息を知っておればこそだった。
大岸大尉がこれの原稿を、はじめて私に提示したとき、それを手中にもてあそびながら、
将軍連は 『 改造法案 』 がきらいだからなア ・・・・と つぶやいていた。
しかしこのとき、北、西田、『 日本改造法案大綱 』 と蹶起部隊との関連については、
なんらの情報に接していなかった。
一同は東京の蹶起についていろいろはなしていた。
連隊の下士官たちも気合が かかっているという話もしていた。
そのとき誰であったかが、東奥日報社に電話して
蹶起部隊は警備部隊の一部として警備地区を与えられ、左翼の蠢動に備えて治安に任じている、
安藤隊は幸楽にいるというニュースを得て、それを皆に伝えた。
それでは安藤大尉に電報を打って、第八師団の状況を通知してやろうではないか、
地方の同志はどうしているだろうと案じているだろうから・・・・と、
誰が提案するまでもなく、その場の空気で相談が持ちあがり
「 師団はわれわれとともに行動する体制にあり 」
の 電報を打った。
あとで考えれば、甚だ非常識な電文であり、処置であるが、
そのときは前後の関係から、格別奇異なことには感じなかった。
この電報を打ったことから気がついたように、
陸軍三長官宛 「 今回の蹶起を契機に維新に邁進されたし 」
といった意味の電報を、師団長の許可を得て打とうという相談がまとまり、
明朝私が、そのため師団長の許にいくことになった。

末松太平著  私の昭和史 から
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末松太平大尉の四日間 2

2019年11月03日 16時00分49秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


末松太平 
《 二十七日 》
翌二十七日、私は連隊長の許可を得て弘前にいった。
前日どおり先ず旅団司令部に寄って旅団長に会い、旅団長の同意を得て旅団長と一緒に師団長に会った。
師団長は電報を打つこと、電文に師団長許可ずみと、書き加えることに同意した。
師団長は前日とちがって、沈痛のかげはなかった。
それにつけいったわけではないが
「 情況がさっぱりわかりませんから、私を東京に偵察に派遣していただけませんか 」
と 気楽に提案してみた。
師団長は 「 そのことなら心配いらない。参謀長を連絡のため東京に派遣することにしている。
君など 東京にやっては何をされるか、わかったものじゃない 」
と いって笑った。
そういわれてみると、是非にともいえなかった。
旅団司令部にひきかえしてくると、
旅団副官が
「 さっき五連隊から電話があって、亀居、志村の二人がここへくるから、
君に帰らずに待っているようにということだった 」
と いった。
なんのためにやってくるのかわからなかった。
師団長許可ずみの電報は、二人を待っているあいだに打った。
二人が私を追っかけてきたのは、陸軍大臣宛の将校団連名の意見書がまとまったからだった。
それはすでに三長官宛に打った電報と同じ趣旨のもので、それをただくわしくしただけだった。
この日は青森県下の各中等学校、高等学校に配属で出ている将校が全員連隊に集まる日だった。
その配属将校たちも含めて、連隊長以下、ほとんど全員が署名していた。
ほとんどといったのは、三名だけ署名を逃げたからである。
私は将校団連名の最後に私の階級と姓名を書き、宛名を書いてしめくくった。
その意見書を はたでみていた旅団副官は
「 五連隊がこうまでしているのに、三十一連隊は何をしているのだろう 」
と、なじるようにいった。
私たちは三十一連隊には働きかけることをしなかった。
阿部中尉や天野少尉では三十一連隊を動かすことは、無理と思ったし、
すでに旅団長自身が同意しているのだから、なにもいまさら三十一連隊の青年将校が、
旅団司令部に押しかけてくることもないと思っていたから。
が、旅団副官から、三十一連隊は何をしているんだ、と いわれてみると、
なるほど、そういうことになると思った。
私は将校団連名の意見書を旅団長にみせた。
旅団長は同意して、また私の先に立って師団長室に向かった。
師団長はちらりとみただけで、これは参謀長に持たしてやるといった。

この日も帰りは夜になった。
青年将校は前夜どおり小岩井少尉の部屋に集まっていた。
そのとき、東奥日報社との電話連絡で、蹶起部隊が陸軍省を占領したという情報がはいった。
なんのためいまごろになって、陸軍省を占領する必要があるのだろうと不審に思った。
昨日からの不安が急にふくらんできた。

《 二十八日 》
翌二十八日は前からの予定どおり、
弘前から出張してきた野砲隊との合同演習が、青森市南方の雪原で実施された。
雪原といっても雪が解ければ、田保畑である。
私はスキー隊を編成して、こま演習に参加した。
この日も夜、青年将校はまた小岩井少尉の部屋に集まっていたが、
そのとき旅団長が 青森駅前の旅館にきていることがわかった。
多分夜行で、参謀長につづいて上京するのだろう、
誰か旅団長に同行して、東京の情況をみてくるといいなどといいながら、
一同ぞろぞろ雪の夜道を、駅前旅館目ざして歩いていった。
私は旅団長に青森にきたのは、そうではないという予感がした。
この日の演習が終わってから東奥日報社に竹内俊吉を訪ねて得た情報は香しくなかった。
東京周辺の各衛戍地から東京に集中している部隊は、
蹶起部隊に対して包囲態勢をとっているとしか思えなかった。
そのとき蹶起部隊の写真もみた。

ビルの屋上に尊皇打奸と読める長旗が、なびいている写真や、
外套を着た将校が群集になにかはなしている写真などがあった。
が、それもいまは虚しいもののように思われたのだった。
旅団長の青森にきた目的は私たちにとって、果たして好ましいことではなかった。
旅団長はここにきて、いまさら態度を豹変させることもできず、
といって青森にきた任務を果たさないわけにいかず困りきっていた。
ただおろおろと、
師団長閣下が君らのことを心配されて、間違った行動にでないよう監督してくれというので、
こうしてやってきた・・・・を くりかえすだけだった。
若い連中は、
なにもいままで間違ったことをしようとしていたわけではないではないか、
それを急にいまになって監視するというのは、どうすうわけか、
などと旅団長に詰問していた。
旅団長は奥歯にもののはさまったようないい逃ればかりしていた。
司令部には東京の情報がはいっているのだ。
『 大臣告示 』 体制が崩れたのだ。
それを旅団長は知っていて、態度を変えてきているのだ。
ただそれを、はっきりいえなくて困っているのだ。
私はそれが読みとれたので一言もことばをさしはさまなかった。
突然、任官したばかりの倉本少尉が
「 旅団長閣下は われわれを裏切った。私は旅団長閣下を殺します 」
と 落ちついた態度でいった。
旅団長は一瞬、のらりくらりのいい逃れをとめて、顔を硬ばらした。
旅団長をいじめてみても仕方のないことだった。
私はこれを機会に一同に、引揚げをうながした。
一同が出口のほうに出ていくのをみすまして、もう一度、旅団長の部屋にいってみると、
旅団長は部屋のなかを、わけもなく、ぐるぐる歩きまわっていた。
私は旅団長閣下に無礼を詫びて一同のあとを追った。
一同に追いつくと、連れだって東奥日報社を訪ねた。
竹内俊吉はまだ社に残っていた。
竹内俊吉の顔にも憂いの色が濃かった。
それだけで万事がわかった。
奉勅命令がでて、蹶起部隊は叛乱部隊と呼ばれ、討伐されそうになっている、
市民はぞくぞく避難している、などと告げる竹内俊吉の声には、
二十六日の朝の弾むような響きはなかった。
蹶起部隊はどうして、ここまで追いつめられ、しかもなお頑張るのだろうか。
はじめから手放しの楽観はしていなかったが、あんな 『 大臣告示 』 が でていながら、
蹶起部隊はどうしてこんな羽目になったのだろうか。
ともかく憂えられるのは皇軍の相撃である。
これはなんとしても喰いとめなければならない。
が、遠い青森からでは手の下しようがない。
東奥日報社を出ると一同黙々と官舎に向かって歩いた。
これまで味わったことのないみじめな気持ちの、青森市内からの帰り路である。
これがふだんであったなら、この時間、このコース、この顔ぶれでは、このまま官舎に帰りはしない。
ちょっとコースをずらして華街である浜町の料亭に寄り、若い妓を集めては、酔いに痴れて、
惚れたのどうのと、ひとしきり陽気にさわいで帰る寸法になったことであろう。
旅団長の宿舎から東奥日報社に寄り、三々五々雪道をたどってきた一同は、
また小岩井少尉の部屋にたまった。
ただ二三人だけが容易に帰ってこなかった。
案じていると、これがかなりむ遅れて、雪をはらって、部屋にきいってきた。
途中善知鳥神社に寄って、皇軍相撃の不祥事のないよう祈願してきたという。
神信心などとはおよそ縁のない連中だけに、ふだんなら、ひやかしてやりたいところだが、
それだけにかえって暗然とさせられる思いだった。
皇軍相撃を防ぐにはどうすればよいか。
思い思いの案が出たが、どうすることもできなかった。
旅団長の宿舎に電話をして、これに対する善処方を依頼したが、電話口に副官が出て、
旅団長は疲れて寝に就いたという。
師団司令部に電話したが、これも参謀が出て、そっけない挨拶だった。
やむなく陸軍大臣宛 「 行動隊を窮地におとしいるべからず 」 とかいった 文面の電報を打った。
窮地に追いやらなければ蹶起部隊も、やぶれかぶれの行動にでまいと思ったからだった。
われわれ全員を東京に派遣してくれれば、皇軍相撃を必ず防いでみせる、
蹶起部隊を説得してみせる、説得功を奏しない場合は、皇軍相撃のあいだに立って、
双方の撃ち交わす弾によって死ぬまでのことと、一同、真剣に考えて、
これを旅団長、師団長に意見具申したのであったが、
もうこのことをわれわれと一緒に考えてくれる旅団長でも師団長でもないことがわかった。
行動隊を窮地に云々の電報は、このときせめてもの気安めに打ったものに過ぎなかった。

末松太平著 私の昭和史 から
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末松太平大尉の四日間 3

2019年11月02日 15時45分06秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


末松太平 

このときまでか、あるいはこのあと二、三日をふくめてのあいだかに、
ここに書いた意外に、私はもっと東京の情報、噂を得ていたように思う。
それは東奥日報社の竹内俊吉からきいたもののほか、ラジオのニュースや、東京の新聞や、
同志関係のものと思われた 『 維新情報 』 などによって得たのかも知れなかった。
リンク→昭和維新情報
しかし不思議にラジオについての記憶がない。
ラジオは私も持っていなかったし、
ハモニカ長屋の独身官舎の住人中、一人も持っているものがなかったせいかも知れない。
上京された秩父宮殿下が安藤大尉を、なぜいつまでも頑張るのかと、おいさめになったということ、
軍の首脳か幕僚かが、維新の具体案は、と きいたとき
磯部が、これだ、といって 『 日本改造法案大綱 』 を 叩きつけたということ、
青森駅では五連隊が列車を出せといっても、機関手は絶対運転に応じてはならないという指令がでているということ、
県知事が県庁職員を集めて、五連隊が占領しにきても、各自は絶対に職場を放棄しないよう注意したということ
・・・・などは 私の耳にはいっていた。
それが、どういう経路で、誰からきいたのか覚えていないが、
若い将校一人一人が、それ相応にアンテナの役をして、なにやかやと情報を得ては、
それを披露していたようである。

次のことだけは、しかし、たしかに竹内俊吉からきいたことだった。
ある代議士が竹内俊吉をたずね、
君は五連隊の青年将校と仲がいいようだから頼む、おれを殺さないようにいってくれ
と いったという。
また ある市内の有名な金持ちが、
五連隊が襲撃してきたら、金はみな渡すから、命だけは助けてくれるよう君からいっておいてくれ、
と 竹内俊吉に泣きついてきたという。

《 二十九日 》
夜と昼との交替は人の心に区切りをつける。
二十九日の朝は、もうじっとしているよりほかに、方法はないと思った。
皇軍相撃のことも、きっと事なくおさまるにちがいないと思うほかはなかった。
私は連隊に出勤しようと立ちかけた。
すると玄関の戸が静かにあいて、忍び入るように訪ねてきたものがあった。
佐藤昭三だった。
渋川の使いで東京からきたという。
「 渋川さんのいうには、維新はいま一歩のところまできているのだが、あと一押しが足りない。
その一押しは地方の蹶起に待つほかはない。
地方といえば東北では仙台が近いが、やはりなんといっても期待ができるのは青森だから、
蹶起するよう はなしてこい というのできました。」
佐藤昭三は弘前高等学校を卒業して、東京に遊学中の学生だった。
弘前の伊東六十次郎らの東門会グループで、私とは前から顔馴染みになっていた。
渋川が青森への使いに立てるには適材というわけだが、いわゆる狂瀾を既倒に廻らす使命を帯びたにしては、
このときの佐藤は悄然としすぎていた。
「 冗談じゃない。もう行動隊は叛乱部隊といわれて、討伐させられようとしているよ。」
佐藤は流石にきっとなって反駁した。
「 そんかはずはありません。陸軍当局は行動隊を認め、私が東京を発つときは、
うまくいっていました。」
「 じゃ、東奥日報社にいってきいてきたまえ。
ひよっとするともう討伐されているんじゃないかと心配しているところだ。」
佐藤昭三は、これも同じ弘前出身の東門会グループの学生宮本誠三らと、渋川と連絡をとりながら、
ガリ版ずりの 『 維新情報 』 を 作っては、各地方同志に配布する仕事を分担していたという。
「 決起趣意書 」 や 行動隊の好調ぶりを載せたその第一報は、私も受取っていた。
「 一体こんどは第二の五・一五のつもりだったのかね、それとも一挙に維新に持っていくつもりだったのかね。」
「 さあ・・・・。一挙に維新に持っていくほうではないですか・・・・。」
佐藤には自信がないようだった。
「 地方に連絡したのは青森だけ・・・・」
「 和歌山にも連絡したようです。大岸大尉は演習日だから、演習にいくといっていたということです。」
大岸大尉は上京してもいず、予めなんの連絡も受けていないようだった。
佐藤は東奥日報社にいってみましょうと腰を浮かした。
私にとっては、そのごの情報を得るためにも、佐藤が東奥日報社にいってくれることは好都合だった。
憲兵も警察も、ここまできては去就を明らかにして、監視の目を光らしはじめているだろうから、
私が竹内俊吉と連絡することは、出向くことはもちろん、
電話でさえも先方に迷惑のかかる心配があった。
これまでのことがすでにそうだった。
私は竹内俊吉への紹介状を書きながら、これまでのことで迷惑がかかりはしないかも、
きいてくるようにいい添えた。
佐藤が出かける後姿を見送りながら、途中でひょっとすると憲兵にか警察につかまるかも知れないと思った。
私は気がすすまなかったが、佐藤が出かけたあと連隊に出た。
隊長室にはいった私の気配を察して田中曹長が、そっとノックして、命令、会報簿を持ってはいってきた。
「 各中隊の下士官どもが、若い将校が起つなら、おれたちも起たなければなるまいと、
よりより集まって相談していましたが・・・・」
と、命令、会報簿を机の上に置きながら田中曹長は、私の気を引くようにいった。
下士官たちの動静は、独身官舎に集まっていた若い連中から、すでにきいてはいた。
「 なにもしようとは思っていなかったよ。」
田中曹長はあてが外れたとでもいうように 「 はア 」 とだけ返辞して部屋をでた。
三日のあいだ目をとおさずにいた命令、会報簿を点検して判を捺した。
われわれが弘前にいったことは、全部連隊命令になっていた。
将校には誰にも会いたくないので、昼ごろ官舎に帰っていると、
間もなく佐藤昭三が無事戻ってきた。
「 やはり おっしゃるとおり駄目でした。蹶起部隊はぞくぞく帰順しているといっていました。」
力なく佐藤は坐るや、そういった。
「 五連隊と連絡したのは新聞社としての当然のことをしたのだし、
竹内さんも新聞記者として当然のことをしたまでだから、ちっとも迷惑はかからない、
この点 御心配ないよう伝えてくれといっていました。」
気がかりだった竹内俊吉のことは安心していいようだった。
「 ところで君はこれからどうする。」
「 ついでだから、ちょっと実家によって、すぐ東京に引返します。」
「 旅費があるまい。」
「 ありません。やっと往きの汽車賃だけを渋川さんからもらってきました。
渋川さんも金がなく困っていました。」
私はなにがしかの金を持たした。
「 では、末松さんも元気を出して下さい。」
佐藤は来たときとはうってかわって元気な声を出し、微笑をうかべながら、
けなげに私を激励して帰っていった。
私は来るべき運命を覚悟した。
強烈な弾圧の到来である。
佐藤が帰ったあと、不利な証拠物件の焼却にかかった。
といっても大してあるわけではなかった。
郵便物とかぎらず、用済みのものは平素から焼却することを習慣にしていたから。
ただ、これまで全国に配られている、いわゆる怪文書類は、どうせどこかで入手されているにきまっているし、
証拠湮滅を図ったと思わせてもまずいので、わざと残しておいた。
特に 『 皇国維新法案 』 は、配布を見合わすように大岸大尉からいわれたので、
ほとんど手つかずに百部、あるいはもっとあったかも知れないのが、
渋川が持ってきてくれたままになっているのを、そのまま残しておいた。

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佐藤正三は西田税のもとで、
『 大眼目 』 編集仲間と蹶起将校を応援するため 「 昭和維新 」 第一報を作って各地に発送、
引き続いて第二報、第三報の準備をしていた。
雑誌 『 大眼目 』 は万朝報の杉田省吾が編集、渋川善助らが執筆している国家革新派のオピニオン誌である。
三〇〇〇部ほど出していた。
二十七日も佐藤は西田のところで 「 昭和維新 」 を編集していたが、
渋川の指示で、地方を蹶起させるため二十八日青森へ向かった。
まず、歩兵第五聯隊の末松大尉を訪ねた。
しかし、事態は蹶起側に不利に動いていた。
佐藤の使命は失敗した。
東京へ帰った佐藤は三月四日杉並警察署に検挙され、のち目白署に移され、さらにまた杉並署に回された。
その後東京衛戍刑務所に収容されて東京高等軍法会議にかけられ、八月二十日反乱幇助罪で起訴された。
そして、十月二十二日、
東京軍法会議特別裁判公判特別裁判公判に付され、
十一月二日
禁錮四年を求刑され、
昭和十二年一月十八日
反乱罪として禁錮一年半但し執行猶予四年の判決を受けた。
一月十八日午後六時ごろ衛戍刑務所出所、
二十一日午後七時の急行で帰弘の途についた。