あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

栗原部隊

2019年09月30日 16時53分51秒 | 栗原部隊


林八郎少尉 は、二六日の午後
倉友音吉上等兵を供に、銀座の松坂屋に買物に出かけた。
蹶起将校たる白襷をかけ
人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた。
林少尉は、晒布、墨汁、筆 を購入し、首相官邸に帰ると
「 尊皇維新軍 」
と、大書した幟を作って、高々と掲げたのである。
・・・林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』


栗原部隊
目次
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・ 
「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」 
・ 
林八郎少尉 「 中は俺がやる 」 

   
栗原安秀 中尉 
栗原中尉の専属運転手 
・ 
「 若い男前の将校 」 

・ 朝日新聞社襲撃 
・ 朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 
・ 
朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎 

・ 
貧乏徳利 「 兵隊さんの心は解つて居ます 」 

・ 
池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます 」 
・ 磯部浅一 「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」 
・ 村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」 
・ 
栗原部隊の最期 

・ 
尾島健次郎曹長 「 たしかに岡田は、あの下にいたんですよ 」 
・ 栗原中尉の仇討計画 

「 戦いは終わった。
残念ながら昭和維新の達成はできなかった。
お前たちは四日間よく奮闘してくれて感謝にたえない。
第一師団は近々渡満の大命が降下する予定だが、
むこうへ行ったら皇国のために大いに働いてもらいたい。
俺はここで皆と別れるが
お前たちのことは決して忘れることはない。
呉々もお前たちの武運長久を祈る 」

あいさつがおわると
全員ワッと泣きながら栗原中尉の側にかけ寄り、
口々に 「 栗原中尉殿 」 と叫びながら、かわるがわる中尉の手を握りしめた。
それは二度と会うことのできない栗原中尉への永遠の別れであった。
日頃暖かく訓育してくれた立派な教官として、
反面国民が安んじて生活できることを悲願として昭和維新を目論んだ
熱血漢栗原中尉に対する悲しい別離の赤裸な姿でもあった。
下士官も 二年兵も そして初年兵も
ひたすら涙に濡れながら中尉を慕う真に劇的なシーンであった。
・・・栗原部隊の最期 


栗原部隊の最期

2019年09月28日 06時28分27秒 | 栗原部隊


栗原安秀

首相官邸・栗原隊の最期
一、
やがて九時頃 全員集合がかかり 中隊は玄関付近に各教練班別に整列した。

静かに台上にあがった栗原中尉はガックリした表情で訣別の訓示をのべた。
我々は万感胸迫る思いで 一語一句をかみしめるようにして聴き入った。
切々として述べられる中尉の訓示は 真に痛恨悲壮の極みで、
これを承る中隊の兵力二八〇余、寂として声なく、
唯 中尉を慕う想いのみが沸々として溢れ出るばかりだった。
やがて 列兵の中から嗚咽が洩れはじめた。
そして涙が止めどなく流れ出し、いつしか全員の号泣となった。
栗原中尉の人間味にほだされた全員の心は、
ひたすら 栗原中尉のためと それだけが生甲斐であったのである。
兵隊は手ばなしで泣いた。
この時隊員一同は死ぬ覚悟を決めていたのである。

訓示が終わると栗原中尉の万歳が唱えられ、
余韻のただよう中を迎えの参謀に伴われて正門を出ていかれた。

これが栗原中尉との永久の別れになろうとは知る由もなかった。
中尉が去ったあと 私は五体から力が抜けて行くのを自覚した。
やがて入れかわりに鎮圧軍がきて武装解除を命じた。
消沈した我々はいわれるままに
小銃と帯剣を所定の場所に置き丸腰になると
すぐトラックに乗り帰隊、
ここに四日間の事件の幕はおろされた。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 森田耕太郎 『 不審な女たち 』 
二・二六事件と郷土兵 から

二、栗原中尉と林少尉が山王ホテルの方から帰ってきた。
 中尉は紅白のタスキをかけ決意の様子をみせたが、
顔面に悲壮感をみなぎらせ、無言のまま入ってくるとすぐ門扉を閉じさせた。
すると それを待っていたかのように
鎮圧軍が戦車を先頭にして ナダレの如く門の外側まで包囲網を圧縮してきた。
正に袋の鼠である。
栗原中尉は正門近くの庭にリンゴ箱を置きその上に立った。
隊員は期せずして中尉を囲むように集った。
彼は しばらくあふれる涙を拭いていたが
ようやく思いなおして別れのあいさつを述べた。
その時の内容は大体次のようだったと記憶している。

「 戦いは終わった。 残念ながら昭和維新の達成はできなかった。
 お前たちは四日間よく奮闘してくれて感謝にたえない。
第一師団は近々渡満の大命が降下する予定だが、むこうへ行ったら皇国のために大いに働いてもらいたい。
俺はここで皆と別れるが お前たちのことは決して忘れることはない。
呉々もお前たちの武運長久を祈る 」

あいさつがおわると
全員ワッと泣きながら栗原中尉の側にかけ寄り、
口々に 「 栗原中尉殿 」 と叫びながら、かわるがわる中尉の手を握りしめた。
それは二度と会うことのできない栗原中尉への永遠の別れであった。
日頃暖かく訓育してくれた立派な教官として、
反面国民が安んじて生活できることを悲願として昭和維新を目論んだ
熱血漢栗原中尉に対する悲しい別離の赤裸な姿でもあった。
下士官も 二年兵も そして初年兵も
ひたすら涙に濡れながら中尉を慕う真に劇的なシーンであった。
中尉も泣く、林少尉も泣く、
四日間蹶起部隊として営門を出た時の気持とは裏肚に、
その情景はあまりにも悲愁に満ちたエピローグであった。

ここで同席していた桜井参謀の発意によって栗原中尉の万歳を三唱、
終了と同時に下士官以上は桜井参謀に誘導されて正門を出て行った。
これが 我々と栗原中尉、林少尉との永久の訣別となったのである。

間もな く幌つきのトラックが約十輌正門前に到着し、
我々は武装解除の後にこれに乗車、一路帰隊の途についた。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 小高修平 『 首相ではない 』
二・二六事件と郷土兵から

三、二十九日鎮圧軍の総攻撃があるというので、
 官邸内の椅子や机を窓や出入り口に積み上げ、バリケードを築き、
カーテンを引きさいて全員白ダスキ、白鉢巻きで身をかため戦闘準備につく。
私は二階の正面の窓で小銃を構えた。
すると何時頃だったか議事堂の方から将校がやってきた。
歩哨が 「トマレ!!」 と どなった。
将校はその場に足をひろげ仁王立ちになるや大声で
「俺は陸軍少佐戒厳参謀の桜井だ。天皇陛下の命により武装解除を命ずる」
と 二回くりかえいていった。
ここにおいて 栗原中尉は最早これまでと、
全員を前庭に集合させ徐に訓示をした。
「 永い間上官の命を守ってくれてありがとう。
今度の事はお前たちの知らないことで責任はこの栗原がとる。
この世では再び会うことはあるまい。
満洲に云ったら国のためしっかり御奉公してくれ 」
ここかしこに すすり泣く声がおこる。
栗原中尉も泣く。
やがて泣声は全員の合唱となった。
しばらくして栗原中尉は官邸内に消え、
我々はその場に小銃と帯革をはずし丸腰になってトラックに分乗した。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 小林太三 著
雪未だ降りやまず ( 続・二六事件と郷土兵 )  から

四、翌二十九日、その日は運命の日だった。
 明るくなると戦車が盛んに放送していたが私にはよく聞けなかった。
九時頃 突如 栗原中尉から命令が下った。
「 全員撤収せよ 」
鎮圧軍が包囲する中で撤収とはどういうことなのか、
全員が玄関前の広場に集合すると 栗原中尉がガッカリした表情で訓示をした。
その要旨は、
「戦いは終わった。お前たちはよく頑張ってくれた。
唯今から下士官兵は聯隊に帰れ、満洲に行ったらしっかり奉公せよ」
というのものであった。
すると間もなく鉄帽をつけた桜井戒厳参謀が装甲車でやってきた。
彼は我々の帰隊を誘導するためにきたようである。
そこで武装を解いた全員は栗原中尉との涙の別れを交した後、
表門を開けて外に出ると
何事ぞ鎮圧軍が議事堂工事に置かれた石材の間から銃口を出して
私たちを狙っているではないか。
その距離約三〇米、
しかもLGの射手はゆびを引鉄にかけ完全な戦闘態勢である。
私たちは武装を解き今から聯隊に帰ろうとしているのに、
鎮圧軍側はなお私たちに狙いを定めているとは何の真似だ! 
この時私たち全員は期せずしてムラムラと憤怒に燃え、
キビスを返して邸内に駈けもどり
MGをとって一斉に官邸内に立てこもり戦闘準備に移った。
この時私は二階に上った。
「 貴様らがその態度をとるのなら俺たちだって帰隊を中止して戦うぞ 」
銃隊はこうして再び鎮圧軍と対峙したのである。
ここであわてたのが桜井参謀で折角帰隊に移った私たちを怒らせ、
再び官邸内に入ってしまったのであるから
その驚きは大変なものだった。
ここにおいて銃隊から三年兵の猛者が選ばれて桜井参謀と交渉し、
鎮圧軍の将校と栗原中尉を加えて協議の末、
鎮圧軍側の布陣態勢を解くことを条件として
帰隊することに話がついた。
これで一触即発の危機が去り、
私たちは叉帰り仕たくをしていると
待っていたように輜重一のトラックがきた。
そこで 一コ分隊ずつ乗車し 一路帰隊した。

歩兵第一聯隊機関銃隊 上等兵 内野嘉重 『 断水作戦に備えて 』
  二・二六事件と郷土兵 から


村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」

2019年09月26日 05時23分05秒 | 栗原部隊



革命は血なくしては成らず
幸楽に向かった安藤中隊である。
謀略宣伝が盛んに、今にも包囲軍が攻撃してくるという。
安藤部隊は戦いへの備えを厳しくして、意気軒昂、一触即発である。
私は情況を偵察するため、近くの歩兵営舎の真下に行き、偵察した。
歩哨が立っていた。
兵舎の窓を仰ぎ見てみると、人影はない。
静かである。
人馬の声は聞こえない。
時々、窓に人影が見えた。
まだ攻撃してくる気配はない。
帰って安藤大尉に報告した。
私は連絡警戒のために、まず文相官邸に行こうと幸楽を出発した。
山王ホテルの前に歩哨がいた。
「尊皇」 と唯何してくる。
私は 「討奸」 と答える。
「尊皇討奸」
は同志の合言葉である。
さらに同志の目印として三銭切手を帽子の庇、または脚袢に貼っておくのだ。
三銭切手は高山彦九郎先生の詩の中にある 「 其価三銭 」 から 取ったものだ。
二つの案はともに磯部の案である。
本二八日午前、農相官邸を磯部とともに飛び出し、
新国会議事堂の丁字路の上で、雪の中にこの天真の声を聞く。
天の声だ。
「革命は血なくしては成らず」
天の声、天の声なのか、と三嘆した。
文相官邸に行くと、野中隊がいた。
志気はさかんだった。
常盤少尉が大刀を脇にさして悠然としていた。
磯部に会う。
ともに首相官邸に行った。
栗原、對馬、林、池田がいた。村中もいた。
磯部が言う。
「 村中さん、おとなしくしていれば陸大を出て、今頃は参謀ですなあ 」
村中が答える。
「 勤皇道楽の慣れの果てか 」
一同は アッハッハと大笑いする。 (大西郷の言葉を借用していたので)
栗原が言った。
「 明日の朝は、雪の中で昼寝か 」
「 未来永劫に起きませんな 」
林が答えると、
栗原が返した。
「 起きるよ。この次の世に青年将校として生まれて、また尊皇討奸だ 」
栗原が
「 山本さん、一杯やりませんか 」
と 言う。
見ると、四斗樽の鏡を抜いて、一本の柄杓があった。
一口、二口、三口、冷えた五臓六腑にキューッと沁みわたる。
各々も互いに飲み交わす。

酒を慎むべしという取り決めを解いた。
これは涙の物語である。


現代語訳「二・二六日本革命史」
山本 又 著  
二・二六事件蹶起将校 最後の手記 から 


貧乏徳利 「 兵隊さんの心は解つて居ます 」

2019年09月18日 05時14分45秒 | 栗原部隊

≪ 首相官邸 ≫
一老人、
三、四才ノ幼童ニ古キ手拭デホオカムリヲナシ背負ヒ、自ラモ古キ着物ヲ着、
六十以上ノミスボラシキ労働者風ノ一老人、
其日ノ糧ニモ貧シカルナランニ、
イズコデ求メシカ、貧乏徳利ニ酒一升ヲ持参。
首相官邸ニ来り。
涙ヲ流シ、泣き乍ラ、
兵隊サンノ心ハ解ツテ居マス。
ドーカ之ヲ呑ンデ下サイ。
コノ老人ノ真心ニハ並居ル将士、心ヲ打レザルハナカッタ。
人ヲ動カスモノハ誠デアル。
真ニ至誠デアル。
少シモイツワラズ、カザラズ、心ヲ込メタルコノ一升徳利ニハ、
赤垣源蔵ノ徳利ノ別レナラデ実ニ心カラ感謝シタ。
コノ酒ハ有難ク戴キ、共ニ呑ンダ其味ノウマサヲ、未ダニ忘レラレナイ。
思ヘハ此ノ老人、今達者カ。
幼キ子供ハ無事成長シテオレカ。
何カ方法ガアツタラ、尋ネテ御礼ガシタイ。
姓モ語ラズ、名モ語ラナカツタ。
二・二六ト貧乏徳利、誠ニフサワシイ天意妙。
雪、血、涙。
今ニシテ思ハム徳利ノ別レナリ。
同志酢ニナシ。
同志ノ遺嘱一念貫徹。
コノ貧乏老人ノ貧乏徳利、一片ノ詩ナリ。
對馬曰ク、国民ノ昭和維新万歳ノ声ガキコエル。
山本曰ク、ソーダ、アナタハ心ノ耳デキクカラ声ナキ声ヲ聞ク。
志士ハ声ナキ天真ノ声ヲキク。
コノ事件ハ雪、血涙事件ダ。
對馬、ソーデス。
君ノタメニ流ス血涙デス。
コノ夜同志、君、国ヲ思ヒ国家ノ前途ヲ憂フ。
首相官邸表玄関入口ニ重機関銃ヲスヘ、コノ傍ニ我等同志語ル。
君、国アルヲ知リ、我、身アルヲ知ラズ。


現代語訳「二・二六日本革命史」
山本 又 著
二・二六事件蹶起将校 最後の手記 から 


朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎

2019年09月16日 10時18分47秒 | 栗原部隊

日劇前の布陣
二 ・二六事件当時の想い出話はよく聞かれることだが、
事件後に聞くと色々その気配はあったらしいが、実は我々は全然予感を持たなかった。
ところが当日朝、社会部にいた磯部記者が朝早く 七時頃僕の所に電話をかけて来て、
今暁 軍のクーデターがあって、高橋蔵相、斎藤内大臣、岡田総理等が殺された。
戒厳令が出るかも知れぬから、すぐ来てくださいという。
その時の僕の受けた衝撃は、五 ・一五の時より小さかった。
五 ・一五の時は白昼に総理官邸で総理大臣が銃殺されたということを聞いた時は、
これはえらいことが起こったと思った。
いくらかこういう事件に馴らされていたのだろう。
自動車が来て、新聞社に行ったが、
憲兵司令部の前なんか交通止めで自動車が通れないためにずっと神田の南の方を迂回して社に行った。
行ってすぐ僕は、当時主筆であったが、編集局長室に入って編集幹部と話をしていると、
そこへ何か兵隊が外で非常な大声でがたがたやっているというので、
ベランダに出てみると、日劇の前で円陣を作って、
日比谷の方に銃口を向けて伏射の姿勢をしている。
八時五十分だったと記憶する。
これは何か市街戦が始まって朝日新聞を守ってくれるのじゃないかという気がした。
すると社の守衛の一人が飛んでやって来て、
今、下に反乱軍の将校がやって来て 代表とここで会見したいといっている。
どうしましょうかという。
僕が代表者だから、僕が会おうということになり、同時に大阪に電話をかけた気がする。
「 こういうことで残念だが、これが最後の電話になるかも知れぬ 」
というようなことを大阪側に対していった。はっきりは憶えはないが・・・・。
それからエレベーターで下りて行こうとすると鳥越君が追っかけて来て、大丈夫ですかという。
大丈夫だといって下りて行った。
下りて行くと、エレベーターを出たすぐ前の一段低くなった所に、一人の青年将校が立っている。
目が血走って疲れたような恰好。
右手にピストルを持ち、左に紙を持っている。
僕は初め 前述の磯部君の電話で社に呼び出された時に、
社へ来るまでの自動車の中で
新聞社にもし反乱軍が来て何か書かせようというのなら拒絶しなければならない。
新聞社を破壊するというのなら人命だけは何とか保護せねばならぬ。
しかし出会い頭に やられれば しようがないじゃないか
というようなことを考えておったのであるが、
目の前に立った将校は手に書類を持っているので、
これは何か新聞に宣言書でも強要するのかと思った。
ピストルが危ないから、なるべく身体を近接させた方が無事だと思って、
ほとんど顔がつく位に立って名刺を出して、僕が代表者のこういうものだといった。

朝日につけつけた銃口
そうすると、その若い将校は ひよっと目をそらしてしまって、物をいわないのだ。
僕がそういった時に、ちょっと何というか、会釈したような感じがしたので、
これは大丈夫だなというように感じたことを記憶している。
これを新聞に載せてくれというのかとも予期して行ったところが、そういうこともいわない。
その間に非常に長い沈黙が続いたような気がするが、恐らく十秒か二十秒だろう。
すると急にピストルを上に向けて国賊朝日新聞を叩き壊すのだと叫んだ。
それで射ったかと思ったが、弾が出ない。
そこでちょっと待ってくれ、中には女も子供もいる。
そういうものを一応出すから、待ってくれ、といって、三階に上って行くと、
久野印刷局長や鳥越君が死んだ者が上がって来るとでも思ったか、
びっくりした顔をして、よかったよかったと寄って来た。
それから皆一応近くのニュー・グランドに退避させようじゃないか、
怪我しても詰らぬから、なるべく慌てぬように急がぬように
ニュー・グランドに一つ退避してくれということにして、
大阪にも電話をかけ、こうこうこういう訳だと報告して、
それで社員一同は外へ出てしまった。
僕の部屋は四階にあったが、一番後から僕が下りようとすると、剣付鉄砲の兵隊が上がって来た。
その間を抜けて面に出たが、表は静かだった。
ところが、暫く玄関に立って中の様子を見ている内に 三々五々兵隊が社内から外へ出て来る。
この調子では大したことはないと思っていると、やがてその連中はトラックに乗って行ってしまった。
それから早速僕は社の階段を駈けあがって見ると、電話の机の上に蹶起趣意書が貼りつけてあった。

あとで聞いた話だがこの連中は前の日に朝日新聞に見学に来ているのだ。
しかも屋上で写真を写している。
それから見ると これはただ気紛れに来たのではなく、計画的に来たものと見る外はない。
撮った写真で見て、その将校が中橋基明という中尉であったことがわかった。

それからずっと後になるが、
田中軍吉という大尉が私を訪問して来たことがある。
何かと思って会った所が、
自分も奉勅命令を知っておったということから気違いにされて
代々木の軍刑務所に入れられておったが、今日出て来た。
刑務所の中で 中橋基明中尉に便所で会った時に、
「 お前 いずれ出るんだろうが、
 出たら、朝日新聞に行って緒方という人に はなはだ無作法をしたが、宜しくと言ってくれ 」

という言伝を受けたから来たということであった。
この田中軍吉も大東亜戦争の後で支那戦犯になって南支で銃殺されたと聞いている。
(文芸春秋 / S ・ 30 ・ 10 ・ 5 臨時増刊 )

目撃者が語る昭和史  2・26事件

新人物往来社
当時朝日新聞主筆  緒方竹虎  著  反乱将校との対決  から


朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』

2019年09月15日 10時13分33秒 | 栗原部隊

有楽町日劇に隣接する朝日新聞本社ビル。
真偽とりまぜた情報は刻々と入ってくる。
岡田首相、高橋蔵相、渡辺教育総監、牧野前内大臣、
鈴木侍従長、斎藤内大臣をはじめ西園寺公、若槻男も危い
新聞社は深刻な表情につつまれ、デスクの前の記者たちは青白く緊張していた。
「 アッ、また雪がふってきた 」
一人の年若い給仕が窓から首を突き出して、
ふり出してきた牡丹雪を眺めていたが、
「 おやッ、兵隊がトラックで通りますよ 」 という。
「 何処かに警戒に行くのだろう 」
と 誰かが答えた。
「 オヤ! 社の前で止まった、社の前で 」
さきの給仕が頓狂な声をあげながら走り出した。
----社の玄関前に機関銃を据えている。
日劇や数寄屋橋の方向に銃口を向けている。
----将校が日劇の前にいる人をピストルを向けて追っ払っている。
----将校が社の玄関に来て朝日の代表に会いたいというので、今 緒方さんが下におりた。
『 いよいよ来たな 』
と 記者たちは、さっと心にさすものを感じて慄然とした。


この朝九時すぎ
朝日新聞社を襲ったのは首相官邸を襲撃した栗原中尉の一隊だった。
栗原中尉、中橋中尉、中島、池田の両少尉らに指揮された下士官兵五十名は、
乗用車一、トラック二台に分乗して朝日新聞社にのりつけた。
げしゃすると同時に機関銃を配置して外部の警戒にあたった。
まず 社の代表に面会を求めた。
この代表者として中橋に応対したのが緒方竹虎主筆だった。
この間の事情について緒方氏は次のように手記している。
「 ---編集局長室に入って編集幹部と話をしていると、
そこへ何か兵隊が外で非常な大声でガタガタやっているいうので、
ベランダに出て見ると日劇の前で円陣を作って日比谷の方に銃を向けて伏射の姿勢をしている。
これは何か市街戦が始まって朝日新聞を守ってくれるのじゃないかという気がした。
すると社の守衛の一人が飛んで来て、
今、下に反乱軍の将校がやって来て代表とここで会見したいといっている、
どうしましょうかという。
僕が代表だから会おうというので、エレベーターを下りていった。
エレベーターを出た直ぐ前の一段低くなったところに、一人の青年将校が立っている。
目が血走って疲れたような恰好、右手にピストルを持ち左手に紙を持っている。
----ピストルが危ないから
なるべく身体を近接させた方が無事だと思って 殆ど顔がつく位に立って名刺を出して
僕が代表者のこういうものだといった。
すると、その若い将校は ひょっと目をそらしてしまって物をいわないのだ。
----その間に非常に長い沈黙が続いたような気がするが 恐らく十秒か二十秒だったろう。
すると、急にピストルを上に向けて
『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 と叫んだ。
それで射ったのかと思ったが弾が出ない。
そこで ちょっと待ってくれ、中には女も子供もいる、そういうものを一応出すから待ってくれといって三階に上がった。
----皆をニューグランドに退避させることにした。
僕の部屋は四階にあったが一番後から僕が下りようとすると兵隊が上がってきた。
その間を抜けて面に出たが 暫くすると三々五々兵隊が社内から外に出て来る。
彼等はトラックに乗って行ってしまった。
それから早速僕は社の階段を駈け上って見ると電話の机の上には決起趣意書が貼りつけてあった 」
( 文春 特ダネ読本 )
こんな情景で朝日新聞社の襲撃といってもたいしたことはなかったが、
社員の総退出のあと、どっと闖入 ちんにゅう した兵隊たちは印刷局におどりこんで
活字ケースを片端しから ひっくりかえし 一時間ばかりで引きあげた。
これがため朝日新聞は一時その発行を不能にされた。

朝日新聞社を襲った彼らは 更に東京日日新聞、時事、国民、報知の各社、
電報通信社を回って蹶起趣意書の掲載を要求して引きあげた。
ここで注意すべきことは、なぜ朝日新聞社だけがこんな被害をうけたかということである。
それは当時の朝日新聞が最も自由主義的色彩がつよく、
反軍的でつねに陸軍の政治態度、革新態度に批判的であったから、
青年将校の憤激を買っていたからである。

大谷啓二郎著 二・二六事件  から


朝日新聞社襲撃

2019年09月14日 21時09分46秒 | 栗原部隊

間もなく正面玄関に四斗樽が運びこまれ、全員で乾杯し成功を祝った。
私は酒が入ったため、昨夜からの不眠がたたり忽ち寝こんでしまった。
どの位眠ったか、いきなり起されて、出勤だから支度せよといわれた。
急いで、分隊を掌握して外に出るとそこに乗用車とトラックが二輌きていた。

準備が完了すると我々はトラックに乗車した。
携行した兵器は重機一、軽機二と記憶している。
乗用車には将校が乗った。
栗原中尉、池田少尉の他外部からきた三名の計五名だ。
この時の兵力は約六〇名である。
目標が告げられた。
有楽町の朝日新聞だ。
間もなく出発、雪が降って来た。
車輛は街並をぬって進む。
車上の兵士は無表情である。

午前8時55分頃  東京朝日新聞社 → 日本電報通信社 午前・・頃 → 報知新聞社 午前9時30分
→ 東京日日新聞社 午前9時35分 → 国民新聞社 午前9時40分 → 時事新聞社 午前9時50分

やがてトラックは数寄屋橋のたもとで停止し 私たち分隊は下車、重機をすえて警備につく。
目的地が目の前なので、万一を考慮し交通遮断の挙に出たのである。
主力はそのまま進み 社前で全員が下車、忽ち社屋を包囲した。
将校たちは兵約二〇名をつれて堂々と乗りこんで行った。
私は警備かたがた主力の様子を見守っていると
間もなく上衣とズボンを持った下着姿の社員たちがゾロゾロ出てきて
雪の降る中に一列に並ばされたのを目撃した。
寒さと恐怖で全員ブルブル震えている。
気の毒だが私たちは眺めているばかりだった。
そのうち三階の窓ぎわに兵隊たちがチラチラするのが見えた。
時々手を振って合図している者もいた。
そしてザワザワした音が聞こえてきた。
何をやっているのか判らないが、部屋の中を飛廻っているようだ。
後で聞くと活字ケースを引出して次々にひっくり反してきたという。

こうして朝日新聞社の襲撃は一時間足らずで終了し 再びトラックに乗車した。
帰路、東京日日、時事新聞等報道機関に立寄り
蹶起趣意書を手交し 夕刊に掲載することを要求し首相官邸に引上げた。

歩兵第一聯隊機関銃隊  伍長 栗田良作 著 『 銃撃戦下の首相官邸 』
二・二六事件と郷土兵 から


林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』

2019年09月12日 21時29分32秒 | 栗原部隊

林八郎少尉 は、
二六日の午後
倉友音吉上等兵を供に、
銀座の松坂屋に買物に出かけた
蹶起将校たる白襷をかけ
人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた
林少尉は、
晒布、墨汁、筆 を購入し、
首相官邸に帰ると
「 尊皇維新軍 」
と、大書した幟を作って、
高々と掲げたのである 


「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」

2019年09月10日 20時41分06秒 | 栗原部隊

昭和十一年二月二十六日早朝、
東京日日新聞 ( 現・毎日新聞 ) の宿直部屋の電話が、けたたましい音を発して、ベルを鳴らした。
「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」
すごく早口の、カスレて興奮した声。
やっと聞き取れるくらいで、問い返す暇もなく電話は切れてしまった。
腕時計の針は四時半を過ぎていた。
身支度をして一番早く社を飛び出したのは、写真部の白井と社会部の鈴木だった。
両人の乗った車は雪がやんで一面銀世界の日比谷交叉点を過ぎ、堀端に沿って社旗をはためかせて走って行った。
すると警視庁の前あたりだったろうか。
十人ばかりの兵隊が銃剣のついた銃を小脇にかまえて人垣をなしていた。
何くわぬ恰好で 「 新聞社だ!」 と 怒鳴って通り抜けようとしたがダメだった。
「 止まれ!」
ピストルをかざした軍曹らしい兵隊が車のそばへ来て、
「 新聞社もクソもない!帰れ 」
その目を見るとすごく真剣だった。
ここで初めて 「 大事件 」 の恐怖の一端を感じた。
鈴木、白井 ともども、異様な雰囲気から、
「 これは大変だ。革命だ 」
と すぐに車をUターンさせて帰社。
軍の蜂起による大官殺害の悲報は相次いで入り、社内は騒然としていた 。

白井写真部員に次いで、中村写真部員が単独で社を飛び出した。
その時は警視庁前には兵隊がいなかったので、霞ヶ関を回って永田町の首相官邸に近づいて車を降りた。
≪ 首相官邸 ≫
目の前にいた歩哨に 「 えらい人に会わせてくれ 」 という。
すると その歩哨は中村のうしろから、銃剣を突き付けながら案内してくれた。
官邸の中にいたのは後でわかったことだが、栗原中尉、安藤大尉、野中大尉だった。
中村は気さくな性質から、
緊張した雰囲気の中で 「 タバコを切らしたので、一本いただけませんか 」

と、野中大尉に申し出た。
すると野中がゴールデンバットを出したので、
中村は 「 チェリーを吸いつけているので、チェリーがありましたら 」

というと、野中は 「 栗原!」 と 彼を呼んだ。
すると栗原中尉が来て、ポケットからチェリーを出してくれた。
そのタバコを吸いながら、官邸の前庭で将兵と一緒に焚火にあたっていると、
「 これから陸相官邸に行くから自動車を貸せ。お前案内しろ 」 という。
同乗して走行中に栗原はポケットから新聞の切り抜きを出し、
岡田首相の新聞写真を見せて、

「 今、これを殺してきた 」
と いった。

陸相官邸へ行くと、
ちょうど撃たれた将校 ( 片倉少佐?) が運び出されるところだった。

陸相官邸から警視庁を回って首相官邸へ帰ると、栗原が 「 記事を書け 」 という。
中村は 「 それより君たちが各新聞社を回ったらどうだ 」 と
いって、官邸の外に待たせてあった社の車に乗って、逃げる様にして社へ帰った。


 
銃剣下で撮影
この日が夕刊勤務だったので社へは十時出勤。
九時二十分頃 渋谷から東京駅行きのバスに乗った。
虎ノ門からバスは左折して霞ヶ関へ来ると、
外務省と内務省の間の道路に沿って、剣つきの銃を小脇にかまえた兵隊が二メートル間隔に並んで、交通を遮断している。
バスは仕方なく右折して桜田門通りに出て、堀端を右折して有楽町へ出た。
陸軍の演習にしてはおかしいと思いながら、社の編集局へ入ると大変な騒ぎだ。
「 青年将校が叛乱を起した 」 「 首相が殺された 」 という。
「 新聞はいつ出るかわからない 」 と編集局の空気は異様だ。
しかし遅かれ早かれ新聞が出るとき、叛乱軍の実態を撮っておこうと写真部を出ようとすると、
「 弾丸たまの入った鉄砲を持っているんだぞ。無茶をするなよ!」
と、デスクの声が響いた。

警視庁が占拠されているというので行ってみた。
正面入口にはだれもいない。
勝手知った階段を上がって最上階の廊下から、こっそりと中庭をのぞいてみた。
約四百人、叉銃さじゅうした一団の兵士もいれば、重機関銃に弾薬箱も見える。
そっと窓ガラスを上げてカメラのレンズを出し、それらの状況を四枚、五枚と場所を変えて撮った。
不思議なことに警察官の姿は見えなかった。

二十九日の夕方だった。
溜池から六本木へ、そして原隊へ帰る叛乱軍の一隊が、福吉町あたりを行進していた。
銃を肩に歩いて行く姿を見ると、軍靴が重く引きずられるようだ。
敗残兵のような寂しげな姿が印象的だった。

毎日新聞写真部員  佐藤振寿
『 戒厳令下の四日間 』
決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から


林八郎少尉 「 中は俺がやる 」

2019年09月06日 21時36分22秒 | 栗原部隊

官邸の中の様子を見ようと、私は玄関から中に入っていった。
中は暗く、所々兵隊らしい者の歩く足音がした。
私は不意の襲撃に備えて拳銃を構えながら、静かに進んでいった。
玄関横の警官の部屋と思われる部屋には、
裏門の方に向けて低い窓が作られてあって、そこに枕が二つ並んでいた。
先程 討入の時、撃たれたのは此処からだと判った。
廊下を進み、部屋を一つ一つ見てまわった。
二、三回、兵と顔を合せた。
私が再び玄関に戻ってくると、林とばったり出合った。
林は私に
「 貴様は外部をしっかり固めていてくれ。中は俺がやる 」
と 言って中へ入っていった。


 頭脳明晰であると共に
 
「 五尺の小身これ胆 」 と称されし同期生随一の豪傑
   リンク→憲兵・青柳利之軍曹 「 駆けつける 」

林は
私と日本間の玄関で会った後、
屋内に入り、
抜刀して暗い廊下を進み、
電話室か浴室の前あたりに来たとき、矢庭に警官に後から組みつかれた。
ややもみ合っているうちに腰を落して、
左手で警官の襟を掴んで背負い投げをし、
右手の軍刀で斬った。
さらに、
もう一人の警官が身体をひるがえして離れようとする所を、
突きの一手を以て倒したという。
その時、近くの中庭に人がいるという報告を受け、
どうしますかとの問いに、
林は即座に射撃を命じた。
この中庭で撃たれた老人が、
首相の義弟で秘書をしている松尾陸軍大佐で、
後刻、岡田首相と誤認せられた方である。

・・・挿入・・・
「ようやくあたりが明るくなってきた。
もう六時かも知れぬ。
私たちはその後日本間の廊下附近で警戒にあたっていたが、
そこへ林少尉がやってきた。
するとその背後から警官が近ずいてきた。
私はどうするのかと見ていると
警官がいきなり林少尉に飛びつき羽がい締めをかけた。
少尉は不意の攻撃に面喰い懸命に振りほどこうともがいたが、
警官の体は一向に離れる様子がみえない。
少尉は顔を青くしてワメいたが数秒沈黙した後 背負投げを打った。
技は見事に決まり、
警官の体が ドウ と 前にノメリ 一本決まったかと思った時
警官はスックと立上がった。
相手もその道の達人のようだ。
すると林少尉は
間一髪 軍刀でバサッと袈裟切りを浴びせ 一刀の元に斬倒した。
まことに見事な腕前であった。
後刻十時頃
玄関付近で打合せをしていた林少尉が、
近くの机にもたれて待機していた私たちをみつけてツカツカとやってきて
銘刀長船に刃こぼれを残念だとこぼした。
話によると
警官を斬った時、力があまり障子のレールに刃があたったそうで
刃先が大きくえぐれているのを見せてくれた。」
歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵・森田耕太郎 
   二・二六事件と郷土兵 から

    ・・・○・・・○・・・

林に組み付いた警官は土井清松という柔道四段、剣道二段の猛者で、
林はこれとの果し合いに興奮していたのであろう。
暗がりの中、
何処から警官が現れるかも分らない状況の下で、
相手をよく確かめる余裕もなく 松尾大佐を射たしめてしまったのだ。
生命のぎりぎりの瀬戸際では、冷静な時には考えられぬことが起るものである。
私が屋内を廻って出たのと、
林が再び屋内に入ったのと時間のずれは一分位であったと考える。
まさにこの一分の差で
私と警官が出合うことなく、そして林が乱闘を演ずることになったのだ。
土井、村上の両警官が、首相を一時、浴室に隠している時に私がその前の廊下を通り過ぎ、
しばらくして警官が出て来た時に林とぶつかったのだ。
運命のいたずらと言うべきであろうか。


池田俊彦 著
生きている二・二六  から


栗原中尉の専属運転手

2019年09月04日 04時22分52秒 | 栗原部隊

首相官邸を襲撃
二月二十五日、午後十一時ごろ栗田班長に起され、班員約二、三十名とともに弾薬庫に連れていかれました。
小銃とМG ( 機関銃 ) の 各実弾を銃隊事務所に運び入れましたが、何のためか初年兵の私には知るよしもありません。
班に帰りますと、今晩非常呼集があるといわれ、そのまま就寝しました。
栗原安秀
二十六日午前三時過ぎになって非常呼集がかかり、全員営庭に整列、そこで、弾薬を受取り、
「 尊皇 」 「 討奸 」 の合言葉などの伝達があったのち、出発しました。
行き先は首相官邸です。
隊列は営門を出て六本木を左に折れ、溜池より特許庁わきの坂を登り首相官邸横に止まりました。
午前五時を期して一斉に襲撃です。
私の第一分隊は非常門から進入、日本間近くの庭園に散開しました。
栗田分隊長より 「 班長が撃てとて命令するまでは発砲するな 」 と 言われ、伏せて待ちました。
やがて官邸警備の警官が発砲してきたので撃ち合いとなったのです。
二年兵は庭石の景りポンポン撃っています。
目の前 七、八メートルの所で、拳銃を撃っていた警官が銃弾を受けて倒れ、長い呻き声のあと、亡くなってしまいました。
日本間のほうからは、怒号とともにパチパチと激しい撃ち合いの音がします。
私たち隊員の中にも負傷者が出たもようです。
空が白み始めたころ、銃声も止み、目的達成の連絡がありました。
待ちかまえていた私たちは、ドッと日本間になだれ込み、六、七名の者と力を合せ、
中庭で死んでいる首相の遺体を寝室へ運びました。
頭のほうは重いので何人かで持ち、私は足のほうへまわりました。
首相は大柄なので、ずい分重い人だなと思ったことを覚えています。
運んでいるとき、首相の寝巻きの裾がはだけて下着が見えました。
このとき、ふと、首相ではないような、別人のような気がしました。
この私の勘が的中していたことが、あとになってわかりました。
このとき、当の首相は女中部屋の押し入れの中に隠れ続け、翌日、弔問客にまぎれて脱出したのでした。
しかし、栗原中尉と林少尉が日本間にかけてあった首相の写真と遺体とを見比べ、
間違いなしと言われてその場はすみました。

栗原中尉の専属運転手
その後私は表玄関の警備につきましたが、栗田分隊長の命令で負傷者を若松町の陸軍第一病院へ運ぶことになりました。
今では ほとんどが免許を持っていますが、当時は銃隊では私だけでした。
官邸備え付けの車を借用することとなり、早速車庫に行きました。
キャデラック、パッカード、ナッシュ、ハドソン、エセックスなど運転したことのない外車ばかりです。
その中からまずパッカードを選びました。
病院へ負傷者を運んだところ、軍医が負傷者の銃創を見て 「 どうしたんだ、何かあったのか 」 と 言いました。
私は 「 そのうちにわかるでしょう 」 と 軽く返事をしただけでした。
あわただしく病院と官邸とを四往復して、負傷者の入院を完了させました。
それが終ると、今度は栗原中尉のお供で四日間専属運転手を務めました。
栗原中尉には、教官として演習後講話を受けていました。
国家の現状 ( 東北地方農民の窮状 ) 、相沢事件など常に国政を憂えての精神訓話でした。
中尉は軍人精神の厳しいなかにも温情溢れる、兵隊あこがれの青年将校でしたから、
専属運転手の大役を仰せつかったことは、非常に光栄でした。
行き先は首相官邸、陸相官邸、警視庁、幸楽、山王ホテル、九段の軍人会館、憲兵隊司令部などでした。
いたるところで歩哨線を通過、その際 「 尊皇 」 「 討奸 」 の 合言葉を交わしました。
無理に通ればズドンと一発くるからです。
車は首相官邸のものですから、内閣のマークはついていましたが、蹶起部隊の印はなかったので、
間違えられてズドンとやられるかもしれないと、いつもハラハラしていました。
その緊張が二十九日まで続きました。
出勤してから四日目の二十九日、尊皇義勇軍として活躍したわれわれは反乱軍ということになり、
奉勅命令を受けて武装を解き、原隊に復帰することになったのです。
官邸の広場で栗原中尉の最後の訓示を聞くことになりました。
「 昭和維新は成らず、教官 ( 栗原中尉のこと ) は負けた。
満洲に行っての活躍と、みんなの武運長久を祈る。
今後も教官の意思を継いでくれ 」
この言葉に一同は声をあげて泣きました。
私は特に身近でお仕えしておりましたので、感無量でした。
民百姓の苦しみを救う道は消えた、と 栗原中尉のガックリと肩を落として去っていく後ろ姿を、
私は泣きながらあとを追って見送りました。

この事件を振り返っていつも苦々しく思うことは、われわれ叛乱軍に対する扱いです。
拾ったビラには、原隊に帰れば罪は許されると書いておきながら、
実際は帰隊後、下士官以下全員が取り調べを受け、一部の兵隊を含めた下士官全員は刑務所に送られました。
われわれは放免されたとはいえ、反乱軍の汚名をずっと着せられ続けました。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 横道記武
『 首相の死体に疑問を抱く 』

決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から


「 若い男前の将校 」

2019年09月02日 04時18分08秒 | 栗原部隊

総理の写真
私は昭和十一年、
明治時大学英法学部在学中
徴兵によって歩一機関銃隊に入隊した。
その時 二十五歳であった。
私はそれまで 学生運動に参加したため 赤アカの嫌疑をもたれ、
徴兵検査時には憲兵が終始つきまとっていたのを覚えている
  
栗原安秀
一月十日入営した日、
若い男前の将校がきて 我々新兵と父兄を前に置き、
世の中の腐敗振りを痛烈に批判し、
これを改革しなければ 日本は亡びる と 述べた。
堂々たる演説に一同は舌を巻いたが
歩一には随分思切ったことをいう将校がいるものだ と 思った。
それが 栗原中尉で我々の教官となった人であった。
教官としての栗原中尉は 初年兵に対し面倒見がよく、
訓練の方は常に実践的だった。
MG や 小銃の取扱いもさることながら
実弾射撃を早くから始め、
明日からでも戦闘に参加できることを目的に訓練が進められた。
また 代々木にも随分通ったが、
ここでは演習よりも 精神訓話に重点が置かれ、
全員を車座にして その中で
中尉が現代社会の情勢をはじめ、国民の苦しんでいる原因など
熱のこもった口調で話された。
「 このままでよいと思う者・・・・ウム、誰しも不満のようだ、当然である。
では どうすれば世の中がよくなるか、
悪い奴等を葬るのが改革の早道だ。
即ち 天皇の御威光を遮っている連中を取除くことである。
明治維新によって日本は文明国に生れかわることができた。
それと同じように国民全部が幸福になるには昭和維新が行なわれなくてはならない 」
私は教官の話を聞いているうちに、
彼は近いうちに 何かやるのではないかと直感した。

代々木練兵場の往復はいつも師団司令部の前を通った。
当時 司令部の中に軍法会議が特設されていて、
今をときめく 相澤事件の公判が一月二十八日から進められていたのである。
教官はそのことを承知しているので、
正門近くにくると必ず抜刀して号令をかけるのが常であった。
歩調トレー !
相澤中佐殿ニ対シ 敬礼
カシラーツ、左ー !
郡靴の音と共に 中尉の号令が凛然として響く
「 相澤中佐殿 頑張って下さい。栗原達も近くやりますぞ。」
おそらく中尉はそのように 相澤中佐に呼びかけていたのであろう。
果してその声が 法廷に届いたかどうか、
中尉の相澤中佐を想う気持が痛い程 判るような気がした。

日曜日は休日で 用のない者には外出が許可される。
そんな時 栗原中尉は外出者を集めて次のように訓示した。
「 お前たちは天皇の軍隊であり軍人である。
だから 外出中警官に文句をいわれたら ブッとばせ、
連絡あり次第 俺が馬に乗って応援に行く 」
以上のように
栗原中尉の気質や思想は いしつか私達初年兵にしみこみ、信頼を深めていった。
従って 事件への参加は独り将校だけでなく、
下士官兵も気脈をあわせて立ち上がったとしか考えられない。
中尉は我々の入隊時 勅諭など形式的なものは覚えなくてもよい。
それよりも 何日何時でも 天皇の前で潔よく死ぬ覚悟を堅持してもらいたい
と いったが、これこそ真に憂国の至情というものであろう。
栗原中尉という人は
そういう無駄のない赤誠にあふれた青年将校であった。

« 2月25日 »
二十五日の晩、
点呼後 我々は二装用軍服を着て待機するよう命令された。
班長たちはピストルに実弾を込めて張切っているし
何かが始まる気配がヒシヒシと迫っているようだった。
私はフト、ベッドの上で友達の東郷ヒロシ、松津耕平の二人に手紙を書いた。
< 大事件発生、株暴落 >
この手紙は本人に届いたが、その後憲兵によって没収されたそうである。
« 2月26日 »
二十六日 ○三・三〇 非常呼集がかかった。
私はいよいよ始まったなと直感した。
その後大急ぎで仕度をして宿舎に集合した。
ここで実包を一人 六〇発ずつ受領したあと、栗原中尉から訓示を受けたが、
興奮していたためか 何を話されたか覚えていない。
そして 出動先も判らなかった。
その夜 雪は止んでいたが 前日までの残雪で外は明るかった。
四時過ぎ 出発、
営門を出ると隊列は左折し 赤坂方面に向った。
途中私は 鉄道大臣官邸前のポストに手紙を投函した。
やがて三十分もたった頃 首相官邸に通ずる坂道を上って行った。
いつも演習できた道だ。
すると官邸の非常門と思われるあたりから ビービー という非常ベルの音が聴えてきた。
何のための合図なのか不明である。
隊列は官邸を左に見ながら十字路を通過するとみるや、
先頭の栗原中尉が突然戻ってきて 通用門に近づき 警戒していた警官を無言のうちに制圧、
それを合図に 各部隊は持場に散った。
何事ぞ、
襲撃目標は総理大臣だったのである。
私は機関銃の第六分隊で裏門にまわり その付近の警戒にあたったが、
その時 襲撃隊は早くも屋内に入った模様で銃声が聞こえてきた。
しばらく銃声が響き緊張が続いたが 間もなく静かになった。
私は中の様子を見ようと加藤二等兵と共に警戒しながら家屋に近づくと、
栗原中尉が出てきて
「 日本間にある総理の写真を持ってきてくれ 」
と 命令された。
すでに射殺されている総理と照合するためであった。
そこで私は写真をはずし 栗原中尉の所に持って行くと、
中尉は両方の顔を交互に見ていたが、
その結果間違いないという確認を得たので遺体を日本間に移し安置した。

襲撃終了後全員車廻し付近に集合して 四斗樽を抜いて乾杯した。
次いで 私は別働隊となり、
栗原中尉と共にトラックで朝日新聞社の襲撃に出発した。
間もなく数寄屋橋を渡った所で我々MG班が下車、将校と小銃班が現地に向った。
我々は橋のたもとにMGをすえて 一般人の渡橋を遮断した。
警戒中数名の民間人がきて
「 演習ですか 」 と 聞いたので 「 これを見れば判るだろう 」 と いって実弾を見せたが、
彼等はそれでもまだ演習だと思っていたようである。
新聞社の襲撃は一時間足らずで終了した。
我々は再びトラックに乗り 各報道機関を巡回した後 官邸に引揚げた。
その日は寒い一日だった。
歩哨以外は適宜暖をとったが、
正門脇の詰所では戸を閉めて木炭を一俵一度に焚いたため
忽ち一酸化炭素の中毒をおこし 気が狂って発砲する騒ぎまでおこった。
« 2月27日 »
翌日 霊柩車がきて遺体を運び出したので、近くにいた我々は清冽して見送った。
将校たちが忙しく出入し 状況が刻々変ってゆく様子がみえる。
栗原中尉は他所に行ったまま 長時間戻ってこないので、
下士官兵は警備体制のままでノンビリしていた。

その夜私が非常門の歩哨に立ったとき、荒木大将がきた。
私は早速
「 誰カッ!」 と誰何した。
すると相手は、
「 お前は何年兵か 」
と 反問したので
「 初年兵であります 」
というと
「 そうか 立派なものだ 」
と いって帰って行った。
当時歩哨線を通過できるものは
合言葉 「 尊皇--討奸 」 及び 体のどこかに 三銭切手を貼布してある者
と されていたのである。

夜 何時頃だったか、
民間人が大八車に 握り飯を山のように積んで持ってきたことがあった。
「 兵隊さん、これが私共の気持です。ゼヒ たべて下さい 」
その人は 泣きながら そういって握り飯を置いていった。
民衆が我々を味方し援助してくれることは 実に有がたいことだ。
我々の蹶起は民衆も認めているのである。
栗原中尉は坂を下った交叉点付近に出向いて 白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた。
民衆がそれにこたえて盛んに拍手と檄を送っている。
民衆にとって我々の蹶起が当然のことのように受け止めているようであった。
« 2月28日 »

二十八日になると
今までの好ましい情勢が一変し 門前市をなした市民の姿が一人も見えなくなった。
そのうち我々は反乱軍となったことを知らされた。
一体これはどうしたことか。
その夜 私と菱谷は 栗原、林 両教官の当番となった。
私はその時、二人の世話をすることができる光栄にからだが震えた。
そして充分に慰めてあげねばならないと決心した。
そこで身辺の護衛には充分気をつかった。
事態は刻々急迫を告げ 道路の向い側にある露路には いつしか鎮圧軍がつめかけていた。
ここで何かのキッカケがあれば忽ち戦闘に発展することは明かだ。
このため銃隊はすでに覚悟を決め、栗原、林 両教官のために死ぬことを誓い合った。
そして 遺書を書き、最後に刺し違いする戦友まで選定した。
« 2月29日 »
明けて二十九日、
戦闘に備えて官邸内に銃座を作り、
我々 MG は 門外において特許局の方から上ってくる鎮圧軍を阻止するように陣地を構えた。
その時 私は射手であった。
私の両側に菱谷と井口が付添い、すぐ後に池田少尉が指揮官として位置した。
「 金子、俺が命令するまで絶対撃ってはいかんぞ、いいか撃つなよ 」
池田少尉は神経をピリピリさせながら私にそういった。
ここで万一 私の親ユビが押鉄を圧したら取返しのつかぬことになるであろう。
緊張が続く。
そのうち二階で 一発銃声が鳴った。
初年兵が緊張のあまり暴発とたらしい。

明るくなった時 戦車がやって来た。
そして目前 十米位いの所で停止した。
飛行機もきた。
盛んにビラをまき、地上ではスピーカーがボリュームをあげ、
繰返し 繰返し 原隊復帰を呼びかけてきた。
「 逆賊とは何たるいい草だ。
我々の蹶起は陛下がお認め下さっているのだ。
今更戒厳司令官の命令など 以ての外だ。
フザケるな。」
中尉はそう云って 詩吟を口ずさんだという。

九時頃突如 栗原中尉が命令を下した。
「 全員撤収 ! 」
遂に最悪事態が到来した。
我々 MG班は陣地を撤去して中に入り、全部の門扉を閉じた。
すると鎮圧軍がいっきょに門前に殺到してきた。
その中にヒゲをつけた少佐参謀がいて 大声で叫びはじめた。
「 ヤメロッ ! 天皇の命令だ。撃つな、たのむ ! 」
彼は 我々が邸内で戦闘をはじめると思ったらしい。
参謀の声が我々の耳に入るたび ムッ となった。
「 天皇の命令がいつ出たのか、そのような命令は一切聴いてはおらん。この野郎ふざけるな 」
とうとう 一部の物が門扉をあけて着剣で飛出した。
すると相手はワッと後退し逃げた。
再び邸内に入って門を閉ざす。
そんなことを何回か繰返した後、徐に銃を置いた。
やがて全員は庭に集合し中尉から訓示をきいた。
その要旨は次のようだった。
「 七度 生れかわって国の為に尽す覚悟、皆も余の意志を継いで奉公されたい 」
中尉は自殺するつもりのようだ
そう察知した我々は中尉を抱きかかえて屋内につれて行った。
そしたら死ぬなら一緒にと皆 男泣きに泣いた。
すると中尉は、
「 俺は自殺などせんぞ、これから軍法会議に出廷して所信を天下に問うつもりだ 」
と いって 自殺を否定した。
やがて栗原中尉の万歳を唱え終ると
下士官以上の幹部は参謀の導きによって自動車で官邸を去っていった。
それから間もなく我々は憲兵によって武装を解かれ、
待機しててたトラックで近歩一に送り込まれた。

歩兵第一聯隊機関銃隊  二等兵 金子良雄 著 『 総理の写真 』
二・二六事件と郷土兵 から