あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

維新は天皇大権により発動されるもの

2020年04月20日 18時49分37秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

青年将校は、
その維新達成のためにどんな方法をもって、ことをすすめようとしていたのか。
その彼らは、二・二六に蹶起し、重臣を暗殺し、軍に維新断行を迫った。
このため、彼らは武力革命を信念としていた、
と 一般に理解されている。
だが、それはかならずしも正しい理解ではない。
彼らはその革命に武力の発動を否定しなかったが、その根本は平和革命にあったし、
何よりも彼ら自らが革命の主体となるのではなく、軍を革命化することであった。
すなわち、彼らの昭和維新実現の方途として、二つの注目すべき態度があった。
その一つは、当面、軍を維新化することであり、
その二は、武力的、権力的な行き方に批判的であったことである。

昭和九年春頃、
東京にあって青年将校運動の中核的存在として、活躍していたのは、
当時、陸軍大学校に在学していた村中孝次大尉と、
野砲兵第一連隊の主計大尉だった磯部浅一であった。
   
村中孝次          磯部浅一 
この村中は、その年の三月に、同期生有志にあてて通信を贈っているが、
その中に、
「 維新とは軍民の魂の覚醒で、これを基礎とする国家組織制度の変革をいう。
則ち、国民の各人が建国の理想、進化発達した時世をよく理解し、
国家の現実中、建国の理想にもとり時代の進運にともなわない部分をただすにある。
組織制度の改造は全部でなく、国民意識の覚醒が第一であり、
これを基礎として、新しい組織制度が結集されるのである 」
「 吾等は日本の維新は、
 天皇大権の御発動によってのみ行われるべきものであるとの、国体観に立つものである。
したがって、
上は至上を至上と敬し奉り、
下は国民階層とくに維新機運の熟成を図るに努め、
かつ、同志相戒めて、国民の艱難かんなんを自身に負い来ったのである 」
「 維新の本義は国内正義の拡充確立にある。
われらは派閥をつくり党派を立てんとするものではない。
建国の大精神に挙国一体たることを維新への道と心得、
自己ならびに自己の周囲に対する道義の拡大強化を、
維新実現の基調と信ずるが故に、
皇威宣揚、億兆安撫を志す同志間に、培われつつある同心偕行の一体観を拡大して、
皇国全体に及ぼさんと念願するものなり 」
と書いている。

リンク→村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信 

すなわち、彼によれば、
維新とは精神革命であり、
しかもその全国維新は天皇大権により発動されるもの、
これがため、
まず、軍が維新への一体化を期さなくてはならないとしていたのである。
だから、
この年の秋、十月、陸軍省が公表した 『 国防の本義と其強化の提唱 』 という
パンフレットには彼らはたいへんな感激を示している。
( リンク→ 
村中孝次 『 国防の本義と其教化の提唱について 』 
ちょうどその頃は青年将校と中央部幕僚とが対立し、
青年将校は、ひどく中央部幕僚に反感を示し あたかも仇敵視していたのであるが、
そうした感情をこえて村中は、
「 陸軍が公式に経済機構の変革を宣明したのは、建国未曾有のこと、
 昭和維新の気運は画期的進展を見たりというべし。
われわれは徹底的に陸軍当局の信念、方針を支持し、拡大し強化するを要す 」
と 同期生有志に書き送っているが、
それは彼がかねて希望する
軍の維新体勢への途が開かれたと信じたからである。

ところが、
彼らが陸軍の態度に大きな期待をもってこれを支援しようとしていたやさき、
思いがけなくも
十一月事件という一部幕僚の陰謀のワナにかかり投獄されたのであるが、
(  昭和九年、村中孝次、磯部浅一らによる クーデター計画があるとして拘禁されるが 証拠不十分で不起訴処分 )
リンク  ↓
・ 所謂 十一月二十日事件 
十一月二十日事件の経過
・ 
法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」

そこでの予審調書には、
「 まず軍部が国体原理に覚醒し国体の真姿顕現を目標として、
 所謂維新的に挙軍一体の実をあぐるとともに、軍隊教育を通し、
かつ、軍部を枢軸として全国民の覚醒を促し、全国的に国家改造機運を醸成し、
軍部を中心主体とする挙国一致の改造内閣を成立せしめ、
因って以て国家改造の途に進まんと企図した 」
と 記録されているし、
さらに、
村中は自分たちの検挙に策動した者を獄中より誣告罪で告訴しているが、
その告訴理由の中で、
「 十月事件以来、小官らは次の方針を以て終始し来れり。
 即ち、至誠天に通ずる左の如き各種の手段方法を講じ、大号令の御発動を希う。
第一、陰謀的策動を排し、左右、上下を貫通し陸海両軍を維新的に結成し、軍を維新の中核に向って推進す。
第二、軍隊教育を通じ、かつ軍隊運動を槓桿こうかんとして、全国的に維新気風を醸成す。
第三、各種の国家問題、社会事象を捕捉し、これを維新的に解決し国内情勢を推進し、
 維新発程、すなわち大号令の渙発を容易ならしむ 」
といい、これが具体策としては、
「 小官らは刻下の方策として、
現陸相林大将を首班に、真崎、荒木両大将をその羽翼とし、
陸海軍を提携一本とせる軍部中心主義とする挙国内閣の出現を願望とし、
大権発動の下に、軍民一致の一大国民運動により国家改造の目的を達せんとす 」
( 昭和十年二月七日獄中より提出した告訴理由書 )
このように、
彼らも直接行動を絶対に否定するものではなく、
「 国家、国民を感格せしむるだけの非常の大時機 」
「 尋常の人事をつくしてなお及ばない 」
場合には、奸賊討滅のために法の前に刑死する覚悟で立つというのである。
だから、
彼らの武力行使は、真に切羽つまった国家の危局には、
あえて捨身の一挙により革命の先端を開くことを予期していたわけである
が、二・二六蹶起がこれにあたるものであったかどうか

大谷啓二郎著 軍閥 より 


澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

2020年04月16日 15時06分19秒 | 澁川善助


澁川善助
「 本事件ニ參加スルニ至リシ事情竝ニ爾後ノ所感念願 」
豫審中の昭和11年4月8日付で提出した手記
本事件の意義
國ノ亂ルゝヤ匹夫猶責アリ。
況ンヤ至尊ノ股肱トシテ力ヲ國家ノ保護ニ盡シ、我國ノ創生ヲシテ永ク太平ノ福ヲ受ケシメ、
我國ノ威烈ヲシテ大ニ世界ノ光華タラシムベキ重責アル軍人ニ於テヲヤ。
『 朕カ國家ヲ保護シテ上天ノ惠ニ應シ祖宗ノ恩ニ報ヒマイラスル事ヲ得ルモ得サルモ
 汝等軍人カ其職を盡スト盡サ ゝルト由ルソカシ 』
ト深クモ望ませ給ふ 大御心ニ副ヒ奉ルベキモノヲ、奸臣下情ヲ上達セシメズ、
赤子萬民永ク特權閥族ノ政治的、經濟的、法制的、權力的桎梏下ニ呻吟スル現實ヲモ、
國威ニ失墜セントシツツアル危機ヲモ、「 大命ナクバ動カズ 」 ト傍観シテ何ノ忠節ゾヤ。
古來諫爭ヲ求メ給ヒシ御詔勅アリ。
大御心ハ萬世一貫ナリト雖モ、今日下赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ、上聞に達セズ、如何トモスベカラズ。
此ノ奸臣閥族ヲサン除シテ 大御稜威ヲ内外ニ普カラシムル 是レ股肱ノ本分ニアラズシテ何ゾヤ。
實ニ是レ現役軍人ニシテ始メテ可能ナルニ、今日ノ如キ内外ノ危機ニ臨ミテモ、頭首ノ命令ナクバ動キ得ザル股肱、
危険ニ際シテモ反射運動ヲ營ミ得ズ 一々頭脳ノ判断ヲ仰ガザルベカラザル手脚ハ、
身體ヲ保護スベク健全ナル手脚ニ非ズ。
此ノ故コソ、『 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 』 ト詔イシナレ。
億兆を安撫シテ國威ヲ宣揚セントシ給フハ古今不易ノ 大御心ナリ。
股肱タルモノ、此ノ大御心ヲ奉戴シテ國家ヲ保護スベキ絶對ノ責任アリ。
今ヤ未曾有ノ危局ニ直面シツツ、大御心ハ奸臣閥族ニ蔽ワレテ通達セズ。
意見具申モ中途ニ阻マレテ通ゼズ。
萬策効無ク、唯ダ挺身出撃、万惡ノ根元斬除スルノ一途アルノミ。
須ラク以テ中外ニ 大御心ヲ徹底シ、億兆安堵、國威宣揚ノ道ヲ開カザルベカラズト。
今回ノ事件ハ實ニ斯ノ如クニシテ發起シタルモノナリト信ズ。
叙土世界ノ大勢、國内ノ情勢ヲ明察セラレアレバ、本事件ノ原因動機ハ自ラ明カニシテ、
「 蹶起趣意書 」 モ亦自ラ理解セラル ゝ所ナルベシ。
吾人ガ本事件ニ参加シタル原因動機モ亦、以上述ベシ所ニ他ナラズ。
臣子ノ道ヲ同ウシ、報國ノ大義相協ヒタル同志ト共ニ、御維新ノ翼賛ニ微力ヲ致サントシタルモノニシテ、
斷ジテ檢察官ノ豫審請求理由ノ如キモノニハ非ザルナリ。
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・・・挿入・・・

『 豫審請求 』
昭和11年3月8日、
檢察官陸軍法務官匂坂春平が陸軍大臣川島義之に対し 『 捜査報告書進達 』 を為し、

豫審を請求するべきものと思料するとした。
同日、匂坂春平から豫審官に対して 『 豫審請求 』 が提出された。
犯罪事實
被告人等は我國現下の情勢を目して重臣、軍閥、財閥、官僚、政黨等が國體の本義を忘れ
私權自恣、苟且とう安を事とし國政を紊り 國威を失墜せしめ、
爲に内外共に眞に重大危局に直面せるものと斷じて、速に政治竝經濟機構を變革し 庶政を更新せんことを企圖し、
屢々各所に會合して之が實行に關する計畫を進め 相團結して私に兵力を用い
内閣總理大臣邸等を襲撃し 内閣總理大臣岡田啓介、其の他の重臣、顯官を殺害し、
武力を以て枢要中央官廳等を占拠し、公然國權に反抗すると共に、
帝都を動亂化せしめて之を戒嚴令下に導き、其の意圖せんことを謀り、
昭和十一年二月二十六日午前五時を期して事を擧ぐるに決し、各自の任務部署を定めたり。
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世界ノ大勢ト皇國ノ使命、當面ノ急務
今日人類文明ノ進展ハ、東西兩洋ノ文化ガ融合棄揚セラレテ、
世界的新文明ノ樹立セラルベキ機運ニ際會シ、而シテ之ガ根幹中核ヲ爲スベキ使命ハ嚴トシテ皇國ニ存ス。
即チ遠ク肇國ノ神勅、建國ノ大詔ニ因由アリ、
歴史ノ進展ト伴ニ東洋文化ノ眞髄ヲ培養シ、幕末以来西洋文化ノ精粋ヲ輸入吸収シ、機縁漸ク成熟シ來レルモノ、
今ヤ一切ノ残滓ヲ清掃シ、世界的新文明ヲ建立シ、
建國ノ大理想實現ノ一段階ヲ進ムベク、既ニ其序幕ハ、満州建國、國際連盟脱退、軍縮條約廢棄等ニ終レリ。
『 世界新文明ノ内容ハ茲ニ細論セズ。
 維新セラレタル皇國ノ法爾自然ノ發展ニヨリ建立セラルベキモノ、
宗教・哲學・倫理・諸科學ヲ一貫セル指導原理、
政治・經濟・文教・軍事・外交・諸制百般ヲ一貫セル國体原理ヲ基調トスル
齊世度世ノ方策ノ世界的開展ニ随ツテ精華ヲ聞クベシ。』
而モ、列強ハ弱肉強食ノ個人主義、自由主義、資本主義的世界制覇乃至ハ
同ジク利己小我ニ發スル權力主義、獨裁主義、共産主義的世界統一ノ方策ニ基キテ、
日本ノ國是ヲ破砕阻止スベク萬般ノ準備ニ汲々タリ。
皇國ノ當面ノ急務ハ、國内ニ充塞シテ國体ヲ埋没シ、大御心ヲ歪曲シ奉リ、民生ヲ残賊シ、
以テ皇運ヲ式微セシメツアル旧弊陋廃ヲ一掃シ、
建國ノ大國是、明治維新ノ大精神ヲ奉ジテ上下一心、世界的破邪顕正ノ聖戰ヲ戰イ捷チ、
四海ノ億兆ヲ安撫スベク、有形無形一切ノ態勢ヲ整備スルニアリ。
現代ニ生ヲ享ケタル皇國々民ハ須ラク、茲ニ粛絶荘厳ナル世界的使命ニ奮起セザルベカラズ。
此ノ使命ニ立チテノミ行動モ生活モ意義アリ。
私欲ヲ放下シテ古今東西ヲ通観セバ自ラ茲ニ覺醒承當スベキナリ。

國内ノ情勢
顧レバ國内ハ欧米輸入文化ノ餘弊―個人主義、自由主義ニ立脚セル制度機構ノ餘弊漸ク累積シ、
此ノ制度機構ヲ渇仰導入シ之ニ依存シテ其權勢ヲ扶植シ來リ、
其地位ヲ維持シツアル階層ハ恰モ横雲ノ如ク、仁慈ノ 大御心ヲ遮リテ下萬民ニ徹底セシメズ、
下赤子ノ實情ヲ 御上ニ通達セシメズシテ、内ハ國民其堵ニ安ンズル能ハズ、
往々不逞ノ徒輩ヲスラ生ジ、外ハ欧米ニ追随シテ屡々國威ヲ失墜セントス。
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キハ紘ヲ掩イテ宇ト爲サン 』
 ト宣シ給エル建國ノ大詔モ、
『 萬里ノ波濤ヲ拓開シ四海ノ億兆ヲ安撫セン 』
 ト詔イシ維新ノ 御宸翰モ、
『 天下一人其所ヲ得ザルモノアラバ是朕ガ罪ナレバ 』
 ト仰セヒシモ、
『 罪シアラバ、我ヲ咎メヨ 天津神民ハ我身ノ生ミシ子ナレバ 』
 トノ 御製モ、殆ド形容詞視セラレタルカ。
殊ニ軍人ニハ、
『 汝等皆其職ヲ守リ朕ト一心ナリテ力ヲ國家ノ保護ニ盡サバ
 我國ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我國ノ威烈ハ大ニ世界ノ光華トモナリヌベシ 』
 ト望マセ給ヒシモ、現に我國ノ蒼生ハ窮苦ニ喘ギ、我國ノ威烈ハ亜細亜ノ民ヲスラ怨嗟セシメツ ゝアリ。
是レ軍人亦宇内ノ大勢ニ鑑ミズ時世ノ進運ニ伴ハズ、
政治ノ云爲ニ拘泥シ、世論ノ是非ニ迷惑シ、報國盡忠ノ大義ヲ忽苟ニシアルガ故ニ他ナラズ。
斯ノ如キハ皆是レ畏クモ 至尊ノ御式微ナリ。
蒼生を困窮セシメテ何ゾ宝祚ノ御隆昌アランヤ。
内ニ奉戴ノ至誠ナキ外形ノミノ尊崇ハ斷ジテ忠節ニ非ズ。
君臣父子ノ如キ至情ヲ没却セル尊厳ハ實ニ是レ非常ノ危険ヲ胚胎セシメ奉ルモノナリ。
政治ノ腐敗、經濟ノ不均衡、文教ノ弛緩、外交ノ失敗、軍備ノ不整等其事ヨリモ、
斯ノ如キ情態ヲ危機ト覺ラザル、知リテ奮起セザルコソ、更ニ危險ナリ。
現ニ蘇・英・米・支・其他列國ガ、如何カシテ日本ノ方圖ヲ覆滅セント、孜々トシテ準備畫策ニ努メツ ゝアルトキ、
我國ガ現狀ノ趨く儘ニ推移センカ、建國ノ大理想モ國史ノ成跡モ忽チニシテ一空ニ歸シ去ルベシ。
・・・以上、手記から
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『 我國ノ軍隊ハ、世々 天皇ノ統率シ給フ所ニソアル。
昔 神武天皇、躬ツカラ大伴物部ノ兵トモヲ率キ、

中國
( ナカツクニ ) ノ マツロハヌモノトモヲ討チ平ゲ給ヒ 
高御座ニ即カセラレテ天下シロシメシ給ヒシヨリ、二千五百有餘年ヲ經ス。

此間世ノ様ノ移リ換ルニ随ヒテ、兵制ノ沿革モ亦屢々ナリキ。
古ハ 天皇躬ツカラ軍隊ヲ率ヒ給フ御制ニテ、時アリテハ、皇后皇太子ノ代ラセ給フコトモアリツレト、
大凡兵權ヲ臣下ニ委ネ給フコトナカリキ 』
『 夫れ兵馬ノ 大權ハ、 朕カ統フル所ナレハ、其司々ヲコソ臣下ニ任スナレ、
其ノ大綱ハ朕親之を攬り、肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス 』
『 朕ハ汝等軍人ノ 大元帥ナルソ、
サレハ 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ、汝等ハ 朕ヲ頭首ト仰キテソ、其親ハ特ニ深カルヘキ。
朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ應シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマキラスル事ヲ得ルモ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡サルトニ由ルソカシ。
我國ノ稜威振ハサレコトアラハ、汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、
我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ、 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ盡サハ、
我國ノ創生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光輝トモナリヌヘシ 』
皇軍の本義
「 陸海軍々人ニ賜リタル御勅諭 」  明治十五年一月四日

即ち 『天皇親率ノ下』 「朕ト一心ニナリテ」 『皇基を恢弘シ國威ヲ宣揚スル』 こと、之皇軍の本たり。
処でここに注意を喚起しておかなければならぬことは、
皇軍が 『 天皇親率ノ下 』 に在るの大權は、
斷じて憲法第十一條の 『 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 』 なる 統帥大權の定めあるに基けるに非ず。
憲法十一條の該規定は、却って皇軍の在るべき本義を法的に御宣示し給へるに過ぎざるものなり。
皇軍は憲法にその規定があらうがなからうが來的に 「 天皇親率ノ下」 に在るの軍隊である、
といふことを明確に理解すべきことである。
何となれば、皇軍は、その本質を根本的に究きつめれば、
畏こくも 「 修理個成 」 な御実践、御まつらひ給ふ 陛下の御稜威そのものなればなり。
「 朕ト一心ニナリテ 」 が不動絶對皇國軍人の根本精神で、
「 一將一兵の進止は、即ち 「 股肱 」 おのもおのもがそれぞれの地位立場より 
大元帥陛下にまつろひ志嚮歸一する 「 朕ト一心ニナリテ 」 であり、
あらねばならぬを本義するは、別言を以てせば一將一兵の進止そのものが即 大元帥陛下の御進止、
御稜威であり、あらねばならぬを本義とするは、實に然るが故の必然事である。
而して、ここに 「 上官ノ命ヲ承ルコト實ニ直ニ 朕か命ヲ承ルナリト心得ヨ 」 との大御論の大生命である。
かくて又ここに皇軍の 「 上元帥ヨリ下一卒ニ至ルマテ其間に官職ノ階級アリテ従属スル 」 
は、威壓支配のためのものに非ずして 「 股肱 」 おのもおのもの。
大元帥陛下に まつろひ 志嚮歸一し奉るの體制であり、命令服從は、
その實、即ち 「 國民はひとつ心にまもりけり遠つみおやの神のをしへを 」 なる 「 一ノ誠心 」
上下一体の まつろひ のものたるの所似があるのである。
* 以上の義よりにして、「 軍制學教程 」 第四章--統帥權の條章中に述べられてゐる。
「 天皇に直隷スル指揮官ノ部下ニ在ル各級ノ指揮官ハ各々其部下ヲ統率シ間接ニ、
大元帥ニ隷属ス、統帥權作用ノ系統右ノ如クナルヲ以テ上官ノ命令ハ即チ
大命ヲ代表スル モノニシテ絶對服従ヲ 要求 ス 」 といふ点は最だ不徹底、
特に傍点を附した點の表現は、寧ろ皇軍の本義を歪曲せるものといふべきなり。
之を要するに皇軍の生命は、 天皇の御親帥 「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」 そのものである。
故に従ってこの大義の--世上伝ふる偕上民主幕府的統帥大權の非議は、即皇軍そのものの否認であり、
この大義に徹せず皇軍の統帥を謂ふは、恐懼皇軍の統制を私にする 御親帥本義の冒瀆である。
以上以て職るべし、現人神にして天下億兆の 大御親にまします 「 天皇親率ノ下 」
「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス 」 る、
即ち皇國體の眞姿--一君萬民、君民一體の大家族體國家上大御親、絶對、下萬民赤子、平等、
其処には一物一民も私有支配する私なく、從って天下億兆皆其処を得、
萬民一魂一體只管に 君が御稜威の弥榮を仰ぎまつろひ志嚮歸一する皇國体の本義を愈々明徴にし、
皇國を在るべき本來の世界民生の 「 光華 」 「 國といふふくのかがみ 」 世界の 御父帥表國たらしめ、
八紘一宇、世界修理固成の神業に直進するを、その本分となす皇軍は、正に之れ神軍たり。
* 斷じて皇軍は、かの共産主義共の云ふ、
或る階級的支配のための階級軍に非らざるは勿論、「 國民の軍隊 」 ともいふべきものに非ずして、
絶對に天下億兆の大御親にまします全體者 「 天皇の軍隊 」 である。
故に又皇國には、「 武士トモノ棟梁 」、「 軍閥 」 の在る可からざるは勿論、
嚴密には今日一般に謂はれてゐる 「 軍部 」 なるものの在ることなし。
皇軍の本義、本質たるや即ち斯の如しである。

・・・
皇魂 2


「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」

2020年04月10日 18時45分50秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的


「 青年将校は、北、西田の思想に指導せられて 日本改造法案 を実現するために蹶起したのだ 」
  と 云ったり、
「真崎内閣を作るためにやったのだ」
 等の 不届至極の事を云って、ちっとも蹶起の真精神を理解しようとはせずに、
彼等の勝手なる推断によって青年将校は殺されてしまひました。
北、西田氏も亦同様に殺され様としています。
青年将校は改造法案を実現する為に蹶起したものでもなく、
真崎内閣をつくるために立ったのでもありません。

蹶起の真精神は
大権を犯し国体をみだる君側の重臣を討って大権を守り、
国体を守らんとしたのです。

ロンドン条約以来統帥大権干犯されること二度に及び、
天皇機関説を信奉する学匪、官匪が宮中、府中にはびこって
天皇の御位置をあやうくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
そもそも 維新と云ふことは皇権を恢復奉還することであって、
陸軍省あたりの幕僚の云ふ政治経済機構の改造そのものではありません。

青年将校の考へは 一言にして云へば
「 皇権を奪取 (徳川一門の手より、重臣元老の手より) 奉還して大義を明らかにすれば、
 国体の光は自然に明徴になり、国体を明徴にすれば 直ちに国の政・経・文教全てが改まるのである。
これが維新である 」
と 云ふのです。
考え方が一般の改造論者とひどく相違しています。
法務官などは此精神がわからぬものですから、
「 オイ、御前達は改造の具体案をもっているか。何ッ、もっていないッ。 
 そんな馬鹿な事があるか。
具体案もなくて維新とは何だッ。
日本改造法案が御前達の具体案だらう。何ッ、ちがいますう。
嘘だ、御前達の具体案は改造法案にきまっている。
あれを実現しようとしたのだ。サウダ、サウダ 」
こんな調子で予審を終り、
公判になって、民主革命を強行し、・・・・を押しつけられたのです。

藤田東湖の
「 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 」

これが維新の真精神でありまして、
青年将校蹶起の真精神であるのです。
維新とは具体案でもなく、
建設計画でもなく、
又、案と計画を実現すること、そのことでもありません。

維新の意義と青年将校の真精神とがわかれば、改造法案を実現する為めや、
真崎内閣をつくる為に蹶起したのではない事は明瞭です。
統帥権干犯の賊を討つ為に、軍隊の一部が非常なる独断行動したのです。
私共の主張に対して、彼等は統帥権は干犯されず、と云ひます。
けれどもロンドン条約と真崎更迭の事件は、二つとも明かに統帥権干犯です。
法律上干犯でないと彼等は云ひますが、
法律に於て統帥権干犯に関する規定がどこにあるのですか。
又、統帥権干犯などと云ふものは、法律の限界外で行はれる事であって、
法律家の法律眼を以ては見定めることは出来ないのです。
これを見定め得るものは、
愛国心の非常に強く、尊皇精神の非常に高い人達だけであります。
統帥権干犯を直接の動因として蹶起した吾々に対して、
統帥権は干犯されていないとし、
北の改造法案を実現する為に反乱を起こしたのだとして
罪を他になすりつける軍部の態度は、卑怯ではありませんか。


磯部淺一  獄中手記(三) 四、尊皇討奸事件(二・二六)と北、西田両氏トノ関係
1 青年将校蹶起の動因
二・二六事件秘録 (別巻) より


蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった

2020年04月04日 17時50分54秒 | 池田俊彦

この事件はクーデターなのか。
それとも それ以外の何物なのか。
そこが判然としないために、各種の誤解が起こってくるものと思う。
我々の首脳部の人々は、
底辺の国民の声をきくこともなく、
民生をそのままにして

自己の勢力を確立しようとする反維新勢力を武力を以て排除し、
真の国体を顕現しようとした。
そして我々に理解を持つ軍中枢部の人々を動かし、
昭和維新を実現すべき維新内閣を組織する首相を陛下に奏請して、
その御裁下を得て
維新実現の一歩を踏み出すことにあったのである。

もしクーデターであるならば、
もっと大規模な行動が全国的になされねばならず、
或る論者の言う如く、
宮中府中を占拠し、全国の軍及警察網を握り、
完全に維新軍の独裁を確立しなければならなかった。
それには事前の工作はもっと徹底的に行われるべきであった。
民衆も動員されなければならなかった。
しかし あの時の情勢はそこまで切迫していなかったのである。
磯部さんは敗れてから このような考えを持ったかも知れないが、
蹶起の時はそのような計画ではなかった。
唯、奸を斬り、軍を被冒して、
天皇陛下の御稜威みいつの下に
維新政府を発足せしめるだけのものであった。

あれは クーデターなどではなく、
村中氏の丹心録にあるように、
昭和維新の端緒を開くにあったのである。

しかしながら、
武力を以て時の政権を倒し、新しい政権を樹立し、
社会制度の改革の企図を持つものをすべて クーデターと呼び 革命と呼ぶならば、
これも日本的一種のクーデターと言えるであろう。


池田俊彦
生きている二・二六   から


「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」

2020年04月02日 18時54分01秒 | 池田俊彦

和十一年という波瀾の年にあの事件は勃発した。
そして撲滅した。
世論はこれを糾弾した。
しかしどうすれば良かったのであろうか。
過去の非を論ずることは容易い。
しかし当時の事実を見極めることは難しい。
何もしないでいることが出来たであろうか。
あの時国を思う青年がどうすれば良かったのか。
誰も本当の解決をしてくれる者はいなかったのだ。

栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった。
封建的な残滓を一掃して、
国民全体が、天皇陛下を戴く明るい安らかな生活が出来る、
自由な世の中を夢に画いていたのだ。
何よりも革新への情熱が優先していた。
林八郎もこれに触れて激発した。
私はあの時の情熱を忘れない。
そして 高橋太郎少尉が死の直前に
弟治郎氏への思いをこめて書いた遺書の一節を。

陛下の赤子たれ 真日本人たれ
兄の仇は世の罪悪なり
罪悪と戦え
兄の味方は貧しき人なり

そして あの七月十二日に我々同志の頭を貫いた銃弾の響きは
私の耳に一生焼付いて消えることはない。

もうひとつ書かねばならぬことがある。
この事件はクーデターなのか。
それともそれ以外の何物なのか。
そこが判然としないために、各種の誤解が起こってくるものと思う。

我々の首脳部の人々は、
底辺の国民の声をきくことなく、民生をそのままにして自己の勢力を確立しようとする
反維新勢力を武力を以て排除し、真の国体を顕現しようとした。
そして我々に理解を持つ軍中枢部の人々を動かし、
昭和維新を実現すべき維新内閣を組織する首相を陛下に奏請して、
その御裁下を得て維新実現の一歩を踏み出すことにあったのである。

このような考え方が、全く現状を見誤り、
時機を見誤り、その方法を誤ったことは否定すべからざるところであるが、
事件の目的はここにあったのである。


生きて
いる二・二六

池田俊彦 著より


憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二・二六事件 』

2020年04月01日 15時00分38秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的


二・二六事件、
あの一世を聳動したこの大事件も、
すでに三十七年の歳月を刻んでいる。
その雪の朝、
「 尊皇討奸 」 の旗印をかかげて蹶起した青年将校たちは、
その討奸の故に、天皇の激怒に触れ 事はただちについえた。
彼らがともに天をいただかざる逆臣と信じた元老、重臣は、
天皇の信任厚き老臣であった。  ここに、この事件の悲劇がある。


その年七月十二日、むし暑い日だった。
代々木の原では、あちこちに点在する兵隊たちが、空砲を空に向けて撃っていた。
銃殺音をまぎらわせるための偽装工作であった。
高い刑務所の塀の内から、絞り出すような天皇陛下万歳の叫び、
軽機の点射音かと思う一斉射撃の銃声、 
この身のひきしまった一瞬、
わたしは今でもこの体験を忘れることができない。

二・二六事件は青年将校の悲劇として、今日多くの人々にうけとられている。
たしかに、彼らは天皇のため、
あるいは国のためと信じて重臣たちを討ちとった。
この天皇への忠誠心は、寸分の濁りもない至純のものだった。
だが、彼らの事は敗れ、
蹶起のあと、わずか百三十四日にして、その多くはもはやこの世の人ではなかった。
天皇への忠誠心に こりかたまっていた彼らは、
叛徒として天皇の名において裁かれ処刑されたのである。

青年将校は国体破壊の元兇として天皇側近の重臣を斬奸した。
この朝、天皇はその寝所において当直侍従甘露寺受長から、
鈴木侍従長の重傷、齋藤内大臣の即死の報告を得られたが、
それは午前五時半すぎであったという。
彼らは午前五時を期して一斉に重臣たちを襲ったが、
その三十分のあと、それはまさに彼らの蹶起の瞬間において、
その凱歌とともに決定的敗北を喫したことになる。
天皇はその側近たちの横死に、はげしい怒りを発したからである。
天皇側近の重臣を殺害することは、
天皇の主体性をきわめて直接的に否定することであり、
天皇の激怒を買うことは、おおよそ、必然に予想しうるところなのに、
彼らは得々として天皇の信頼する重臣を逆賊ときめて、
兵力をもってこれを誅伏したのだ。

天皇絶対を信念とした彼らは、
そのことが天皇の意に叛きその激怒にあっては、
ただ、天皇の御前に懼伏するほかはない。
彼らの 「 尊皇討奸 」 の旗印は、
その尊皇と討奸の現実の矛盾の故に、
その始めから消え去る運命にあったともいえる。
人はこれを二・二六事件の悲劇という。

なるほど、天皇のために聖明を蔽うと信ずる逆臣どもを討ちとったが、
その彼らがとらえた逆臣は、天皇の信頼する老臣であったのだ。
なぜ、このようになったのであろうか。
昭和史の発掘に心血をそそぎ、
二・二六事件の分析追求に顕著な業績を示された、
作家松本清張氏は、
彼らは天皇と天皇制との理解がなかったのだという。
( 朝日新聞読書特集 「 私の身辺昭和史 」 )。
天皇制を構成する元老重臣をたおして天皇制そのものを破壊したので、
その天皇制の中心たる天皇の激怒に触れ、事は不成功におわったというのであろう。
だが、彼らは天皇と天皇制との理解がなかったというほどに思想的無知ではない。
彼らは天皇制そのものを破壊しようとしたものではない。
現に天皇制を構成している側近をしりぞけて、
これに代うるに不世出の人格者の大業翼によって、
天皇の御光があまねく国民に光被されることを望んで、
あえて現在の輔翼者を斬奸したのだ。
ともかくも、彼らは彼らなりに、わが国体観を確立しその国体観にもとづいて、
現重臣たちを国家悪と認識したのだ。
ただ、その重臣たちを討ちとった場合、天皇がこれにいかに反応されるかについて、
彼らがどのように考えたか、この点がわたしはたいへん重要だと思っている。
悪臣であろうが、逆臣であろうが、
現に天皇の側近であることには間違いのない重臣を討滅するのであるから、
それが、天皇の心に副うるものなりや、
あるいは、はなはだ不本意とされるものなりやの判断がなくてはならない。
一体、彼らはこのことに思い至らなかったのだろうか。
いや、
彼らは天皇側近の重臣をたおすことは、
天皇の意に反することあるべきを知っていた。
「 素より一時聖徳に副わざる事あるべきは万々覚悟 」
の上のことであった。
( 村中孝次 「 丹心録 」 )
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・・・挿入・・・
昭和維新の断行とは臣下の口にすべき言にあらず、
吾人は昭和維新の大業聖猷を翼成せんが為、我等軍人たるものの任とすべき、
且 吾人のみに負担し得ることとして、今回の挙は喫緊不可欠たるを窃に感得し、
敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり、
素より一時聖徳に副はざる事あるべきは万々覚悟、
然して此の挙を敢てせざれば何れの日にか此の国難を打開し得んや。

・・・続丹心録 ・ 第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」 
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しかもあえてこれを断行したのは、
いずれは天皇の理解を得ることができると信じていたからである。
彼らによれば、天皇は神であり、至誠至純は神に通ずるものと信念していた。

だが、彼らの天皇観は彼らの観念のうちにあった天皇であって、現実の天皇ではなかった。
現実の天皇の重臣への信頼は絶対に近いものであった。
天皇にとっては、その重臣殺戮は許しがたい暴逆であった。
もはや忠誠心などといえたものではなかった。
ここに、二・二六事件の悲劇がある。

わたしは、すでに 「 二・二六事件の謎 」 という一書を公けにしている。
再びこれについて書くこともないと思っていたが、
頃来、閑を得て、
小学館発行の 「 二・二六事件秘録 」 四巻、
この厖大なる事件資料をつぶさにひもといた。
そこでは、わたし達の関係した多くの憲兵調書が
生々しく集録されていて感慨さらに一入なるものがあった。
が、とくにわたしは青年将校たちの、その短い悲劇の一生に思いを馳せながら、
この悲劇がどこに由来するものかを、あらためて考えてみたくなった。
そして、あくこともなく、丹念に この書に読みふけった。

たしかに、彼らは無念至極であっただろう。
天皇陛下に忠誠を誓い、
天皇陛下のためにこの日本国を立派な姿にしようと蹶起したが、
その彼らの真意は雲の上に通じなかった。
それだけではなかった。
軍の首脳は天皇の御思召しとは逆に、彼らの志を賞揚した。
わが事成れりと喜んだのも束の間、しきりに兵を引けとすすめる。
このインチキを看破できないまま、
「 奉勅命令 」 とかで撤退をすすめることに首をかしげた。
われらの行動が認められて、こうした命令がでるはずがないのに、
奉勅命令、奉勅命令である。
彼らはこうしてもはや、軍首脳部をはじめ、これにしたがう幕僚たちに不満というよりも不信を示した。
だが、奉勅命令は天皇の命令である。
これが出れば従わざるを得ない、それは絶対である。
そこで、これを抑止しようと懸命になった。
だが、その命令はすでに二十七日朝天皇の允裁をうけており、
その抑止方の努力もわずかにこれが実行を延引させるだけの効果しかなかった。
そして、二十八日以来、彼らを包囲した軍隊は、その包囲網を縮小して彼らを激発した。
そして二十九日早暁来の討伐作戦となった。
彼らにとっては、ほんとに何がなんだかわからないことばかりであったが、
払暁以来奉勅命令の下達間違いなしと判断して、続々兵をかえして帰順した。

だが、彼らは奉勅命令に従わなかったとて逆賊扱いにされてしまった。

陸相官邸では、昨日までは青年将校に拍手をおくり、
あるいは青年将校の威迫におそれて機嫌をとり結んでいた幕僚たちが、
にわかに威勢高を示し、 横柄にも捕虜扱いをする。
そして自決を迫る。
こんな状況に追い込まれた彼らは、自決など糞くらえと、
連日の疲労でグッスリね込んでいるところを起こされ、手錠をかけられ投獄されてしまった。

たしかに、彼らに同情すべき多くのものがある。
だが、また、彼らにも考えの及ばなかったこと、若さの故の弱点も多い。
とくに彼らが入獄以来、世の流れに隔絶されていたとはいえ、
一途にかの四日間の情感に生きて、
そこに、この事件についての静かなる反省のないことが惜しまれる。
・・・・

二・二六事件はなぜ挫折したのか、
これを戦術的にいえば、彼らが維新革命家に徹しきれなかったことにあるともいえる。
あれだけの武力を動員しながら、彼らはみずからが革命の母体となることを避け、
まず陸軍をして革新に進ましめ、 その陸軍をもって天皇に維新発動を要請せしめようと企てた。
これがため陸軍首脳の説得に全力をつくしたが、遺憾ながらそれは空ぶりにおわった。

「 吾人は維新の前衛戦を戦いしなり、独断前衛戦を敢行せるものなり。
 もし本体たる陸軍当局がこの独断行動を是認するか、
もしくはこの戦闘に加入するかにより陸軍は明らかに維新に入る。
これに従って国民がこれに賛同せば、これ国民自身の維新なり。
しかして至尊大御心の御発動ありて維新を宣せらるとき日本国家は始めて維新の緒につきしものなり。
余はこれを翼願しこれを目標とし蹶起後において専念この工作に尽力せり 」

・・・続丹心録 ・ 第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」 

だが、なぜに彼らは他力をたのみ、みずから革命の主体たることを忌避したのだろうか。
それは、兵力をもって大権の発動を強要し奉ることは、
彼らにとっては国体の破壊であるとしていたからである。
「 いやしくも兵力を用いて大権の発動を強要し奉るがごとき結果を招来せば
 至尊の尊厳国体の権威を如何せん 」
 (同右)
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・・・挿入・・・
吾人は三月事件、十月事件等の如き 「 クーデター 」 は国体破壊なることを強調し、
諤々として今日迄諫論し来れり。
苟も兵力を用ひて体験の発動を強要し奉るが如き結果を招来せば、
至尊の尊厳、国体の権威を奈何せん、
故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覚悟せる同志の集団ならざるべからず。
一兵に至る迄 不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。
国体護持の為に天剣を揮ひたる相澤中佐の多くが集団せるもの、
即ち相澤大尉より相澤中、少尉、相澤一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。
此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、
故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意図は極微と雖もあらず、
純乎として純なる殉国の赤誠至情に駆られて、国体を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。
吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、
乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の実現を妄想して此挙をなせるものならんや。
吾人は身を以て大義を宣明せしなり。
国体を護持せるものなり。
而してこれやがて維新の振基たり、
維新の第一歩なることは今後に於ける国民精神の変移が如実にこれを実証すべし、
今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。
・・・丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 

軍政府樹立、しかして戒厳宣布これ正に武家政治への逆進なり。
国体観念上吾人の到底同意し能わざるところなり
・・・丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 
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みずから革命の主体となり革命を進めることは、
この国では天皇への強要を意味しそれは国体破壊だというのである。
いわば、彼らのもつ国体観、天皇観がこれを許さなかったのである。
では、その国体観、天皇観とは何か。
「 我国体は上は万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、
万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命結合なることにゆいて
万邦無比といわざるべからず。 我国体の真髄は実にここに存す 」
・・・続丹心録  「 死刑は既定の方針だから 」 
すなわち、我が国体は天子を中心とする全国民の渾一的生命体であり
天皇と国民とは直通一体たるべく、
したがって、天皇と国民とを分断する一切は排除せられ、
国民は天皇の赤子として奉公翼賛にあたるべきもの。

たしかにそれは天皇制国家の理想像であった。
一方、日本国体における天皇は、「 神聖ニシテ侵スベカラズ 」 であったが、
軍人のとらえる天皇は、大元帥としての天皇であった。
軍統帥権者としての天皇は、その統帥に服する軍人にとっては、「 絶対 」 の天皇であった。
「 天皇 」 という一言で将兵一同粛然と姿勢を正すといった軍隊社会では、
もはや天皇は現世における絶対の権威であった。
これが現人神であったのだ。

このことは革新に燃える青年将校といえどもその例外ではない。
いな むしろ天皇信仰の第一人者であった。
したがって、この一挙においても天皇の意思
即ち大御心は青年将校の憶測予断を許さざるものであった。
ただ、陸軍首脳を鞭撻しその首脳者の天皇輔翼によってのみ、
維新への道を開こうとしたにすぎない。
ここでは必然にクーデターに限界があった。
彼らの天皇信仰から発したこの維新革命も、
その天皇信仰の故に、たどりつくべき宿命的障壁をもっていたのだ。

そして事は敗れたが、
その敗戦は彼らのいう殺戮の不徹底でもなければ、
また、鳥羽伏見の戦が蛤御門の戦であったわけでもない。
実にその敗因は彼らの天皇観とその信仰にあったといえよう。
天皇の御為めと、その純真なる天皇観に支えられて蹶起したが、
天皇の名による裁判によって処刑された彼らこそ、
その忠誠心が至純なだけに、歴史の悲劇と断ぜざるを得ない。

ここに安藤輝三の遺書 
「 国体を護らんとして逆徒となる  万斛の恨 涙も涸れる ああ天は 」 
が 悲痛なひびきをもって、われわれに迫ってくるものがある。

わたしが、その頃 代々木の軍刑務所で彼らに会ったのは、
死刑の求刑後、判決の前後のことであった。
そしてその会った人々も、村中、磯部、香田、安藤、對馬、竹嶌などで
刑死したすべてに会ったわけではない。
しかし彼らに対する影像は、いまに至るまではっきり残っていて、
こうしたことを書いていても、
時に、彼らと対談しているような錯覚におちいることがあるほどに、
わたしはこれらの人々につよい愛着を感じている。
私は首謀者たちが、軍に対する不信と、
その不信の故に軍の前途に深い憂慮をもちつづけ死んで行ったことを、
よくその言動によって承知しているし、
また、竹嶌や對馬などがどうして、この道に入り込んだのか、
その思想の成長過程に興味を感じ、
なにくれとなく そうしたことの雑談にふけっていたことの想い出も深いものがある。

これらのことを今日思い浮かべてみて、
考えることは、やはり軍人には軍人特有のな偏向があった。
それは普通人では理解しがたい性向というべきか、
ともかくもこうしたものの上に、国家改造という思想洗礼をうけて、
一途にそれこそ馬車馬のように、自己過信の独走をつづけ、
聞くもの見るもの破壊しなければやまぬといった焦そう、
そうしたものの行きつく先が、この事件の突出であったとも思われる。
ここにこれらの若者たちを指導し薫化する先輩や上長のいなかったことがくやまれる。
とはいえ、これらの思想に魅せられた若者たちの、自分たちこそ忠君愛国のかたまりで、
こうした思想運動に血道をあげない奴は、職業軍人だとあざけりつづけていた。
その独善的態度にも問題はあるが、
やはり、彼らの腹の中に入って彼らとともに事を進めながら、
かたわらにその指導改善をはかるといった人々のいなかったことが、
結局、極端なる愛国軍人をつくり上げ、国を不安のどん底に陥れ、
しかも彼らみずからもまた悲劇の道におちこむ不幸を招いたというほかはない。
これが歴史の流れというのかも知れない。
が、そこに大局的な判断に立ち、
つねに、大胆に、いかなる力をも恐れざる指導者こそ、
いつの世でも、国民をこうした不幸から救うものであることを、
つくづく感ずる次第である。
・・・・
昭和四十八年八月
大谷敬二郎


「 二・二六事件 」 から