あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」

2021年01月06日 11時31分53秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


末松太平 

村中孝次と磯部浅一は、
十五士とは同じ棟の獄舎にいたのだが、
処刑を翌日にひかえた十一日の夜、突如ひきはなされて別棟に移され、
一緒に死ぬはずだった十五士の初七日を獄中で迎えたのである。
私は十二日の朝、
赤煉瓦を通っていった処刑者の数が、あとで考えるとどうしても合わないことに気がついた。
香田大尉を先頭に第一の組が通って、渋川、水上をしんがりにして第三の組が終ると、
あとは一人も行ったものはなかった。
どうしても二人足りない。
どうも村中、磯部の姿をみなかったようである。
見落とすはずはない。
格子に顔をめりこませるようにして、みつめていたのだから。
翌日であったかに巡回している看守にきいてみた。
「 別の道からも行ったのかね。どうも人数が足りなかったようだが。」
「 さあ、どうですかね。」
別の道というのは西側の通路である。
 
磯部浅一
それから数日後のことである。
ぼんやり赤煉瓦道をながめていて、おやっと思った。
磯部が歩いている。
顔こそ垂れ布でかくしているが、まぎれもなく磯部である。
亡霊をみたような気がした。
その磯部が村中と、まもなく私の房から芝生の庭一つ隔てた南側の棟の真向いの房に移ってきた。
それは夜のことだった。
外が暗いので、電灯のあかりで、互になかの様子がわかる。
磯部は房にはいるやいきなり、こちらに向いた格子にとりつき、
角柱のあいだから顔をのぞかして大声で私に呼びかけた。
「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった。」
私は手を振ってだけ応答した。
それからしばらくは、夜になって互いの見通しが利くようになると、
磯部はきまって一度は坐ったままの姿勢で、白い歯をみせて笑いながら、
私に向かって手を振ってみせた。
私もそのたびに手を振ってこたえた。
看守のなかには、磯部には困ったものだ、というものもいた。
それは磯部が大声で私に話しかけたり、手で合図したりすることをさしていた。
同時にそれは磯部に応答する私をも間接にたしなめているわけだった。
が、それもひととき。
やがて磯部は、手を振ることを私が待っていてもしなくなった。
昼となく夜となく、揮毫や筆記で忙しくしているようだった。
ときどき 「 村中さあん、あれはどういう字でしたかなア 」 と 間のびした声で、
同じように揮毫に精をだしているらしい村中に字をきいていた。
揮毫の合間に、蹶起について磯部が村中に話しかけていることもあった。
「 村中さあん、もっと思い切って殺せば、できたですなア 」
それに村中はぼそぼそと答えていたが、
磯部とちがって小さい声なので全然ききとれなかった。

 山口大尉
このころのある朝突然、村中、磯部と同じ棟にいた山口一太郎大尉の房から、
軍人勅諭を奉読する声が朗々ときこえてきた。
無期の刑を受けた山口大尉が、民間の獄に下っていく日だった。
そのながい勅諭前文を奉読する声が絶えたかと思うと、
まもなく芝生の庭に山口大尉は長身を現わし、村中、磯部の房に近より別れをつげると、
大股に赤煉瓦道の方へ姿を消した。
八月にはいって間のないころのことだったようである。
それから何日もたたぬうち村中、磯部は私たちと同じ棟に移ってきた。
私たちは東側にもとのようにかたまっており、間にいくつかの空房を置いて、西側に二人はかたまった。

このころから毎日二人の読経の声がきかれるようになった。
北一輝ゆずりの法華経である。
その師匠の北一輝は北側の棟で、私の房からは筋向い、杉野の房の真向いあたりで
前から暇さえあれば渋団扇左手に風を送りながら、右手に経巻を捧げて読経していた。
これは流石に堂にいったもので、声は殺していたであろうのに、
その読経は、芝生の庭を隔てている、私の房の床まで震動をつたえるもののようだった。
これに比べれば後進二人の読経はまだ未熟だった。
が、それが熟達するころは---と 考えると、急に心臓に痛みをおぼえるのだった。
このころ一度村中と風呂場で一緒になった。
好意を持っている看守の咄嗟の機転だった。
村中が風呂からあがって、獄衣を着ようとしているところに、
その看守は私たちを連れこんだのである。
村中はかえって前より肥えていた。
私が
「 村中さん肥えましたね 」
と いっただけだった。
もっとましなことがいいたかったが、いえなかった。
あとは引き受けた、安心してお出でなさい、
とでも いいたいところだったが、それが喉まででていながら、口にだすことができなかった。
果してかりそめの約束をして、それが実行できるかどうか。
生きている人間には気安めや、うそはいえても、
すでに生きながら仏であるものに、いい加減な気安めやうそはいえない。
村中は口辺に笑いをうかべて、
「 ながいね。なかなか出さないんだね。」
と いった。
笑いは口辺にうかべていながら、目は後輩の身柄を案じて、憐憫れんびんにうるんでいた。
それは量り知れない広さだった。
村中は蹶起部隊関係の処刑さえ終われば、
あとの地方からきた同志は、とうぜん出されるべきものと思っていたようである。
獄中手記 『 続丹心録 』 の なかに、このことが強調されている。
「 本事件は在京軍隊同志を中心とし、
最小限度の犠牲を以て、国体破壊の国賊を誅戮せんとせしものなり。
(中略 )
東京、豊橋以外は青年将校の同志といえども何等の連絡をなさず。
( 中略 )
然るに 是等多くの同志に臨むに極刑を以てせんとしつつあり。
暗黒政治、暗黒裁判も言語にぜっするものあり、
不肖 断じてこれを黙過する能はず、
即ち 刑死後直ちに、至尊に咫尺しせき し奉りて、
聖徳を汚すなからんことを歎願し奉らんとするものなり。」
しかし、村中が磯部、北、西田とともに刑死する昭和十二年八月十九日をまたず、
同じ年の一月十八日には、地方からきていた青年将校も相当数、有罪の判決をうけるのである。
私も、その一月十八日に、有罪の判決をうけた組であるが、
それまでのあいだ村中、磯部と同じ屋根の下ですごした。

村中、磯部は一部未決のものの証人として、一方的に死期をのばされたのである。
ともに死ぬはずだった同志から引きはなされ、
私たちが同じ屋根の下から出るまでの半年、
それからさらに半年以上、四季をひとめぐりして再び夏を迎え、
それの終わるころまでのばされ、
結局は規定の処刑の座に就くのである。
大岸頼好は後年折にふれては、このことを
「 ちょっと前例のない残酷な処置だ 」
と いっていた。
しかしそのために 二・二六事件を知る上には、帰朝な資料となっている 「 獄中手記 」 が、
この二人によって残されることになるのである。
二人がせっせと 「 獄中手記 」 を 綴っていたことは、
遠ざかっていたから知りようもなかったが、
いまから思えば読経の絶え間が、これを綴っている時間だったわけである。

二人は時々面会にも出向いてもいた。
そのとき磯部は芝生の庭を はすかいに突切って素通りするのが例だったが、
村中は いつも私たちの房に近く廊下の外を、排水溝に沿ってきて、
窓の外から顔をのぞかしては、「 元気だね 」 などと 声をかけた。
差入れも引きつづき許されていた。
村中は時々それを、看守を通じて分けてくれた。
「 村中さんから・・・・」
看守はあたりを見まわしては、紙につつんだ干菓子などをとどけてくれた。
それを私はさらに志村、杉野、志岐に看守を通じて分けた。
面会はもとより、差入れも許されていなかった私たちは、
看守にみつかって、看守に迷惑がかかってはすまないから、
あわててそれを口につめこまなければならなかった。
「 ああ、うまい。」
板壁一つ隔てた隣の杉野は、その都度こういった。
志岐は、いつのころか隣の房にきていた石原広一郎に悩まされていた。
「パイナッブルの缶詰のにおいがぷんぷんしてたまらんばい。」
石原広一郎は私たちとはちがって特別待遇なのか、差入れが許されていた。
それに志岐がなやまされるわけだったが、
その志岐も、隣の豪勢さには及ばないが、村中のおかげで、
せめてもの対抗ができたというわけだった。
「 供養とは仏に対してするものだ。
それを反対に仏から供養されているんだ。
徒やおろそかに思っちゃ済まんぞ。」
そのころ運動にでては、こう話しあった。

・・末松太平著 私の昭和史 から


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