廿八日午前五時過ぎ、奉勅命令が正式に下された。
« 二月二十八日午前六時三十分發令の第一師團命令 ( 一師戒令第三號 ) の 別紙命令が 、
いわゆる奉勅命令である。
即ち
戒嚴司令官ハ三宅坂附近ヲ占據シアル將校以下ヲ徹シ各所屬部隊長ノ隸下ニ復歸セシムベシ
奉勅 參謀總長 戴仁親王 »
即ち、戒嚴司令官に對して發動したるなり。
前記 山本又少尉の來りしは廿八日午前七時廿分頃にして、
叛軍の武装を解除するな、とか、現地の撤去は延期され度し、など要求せり。
予は説得に努め、彼の肯うなずくに及び握手を与へ、尋常の握手にあらざることを告げ、
必ず速に命令に服せよと念を押した。
予は事件突發以來、終始一貫無血の解決に盡瘁じんすいし來きたつたが、
遂に勅命を拝するに及びしは 恐懼に堪へず。
而も此の聖旨さへ叛軍が奉ぜずして流血を見るに至りはせぬ乎かと、
心中頗る穏かならぬものがあつた。
何とかして尚ほも流血を避けて収容する方法もがな、と焦心苦慮を重て居ると、
偶たまたま、
石原作戰課長來り、
進言して曰く、
此際、昭和維新の聖勅を拝しては如何、
其要綱は、
1 國體明徴の徹底
2 兵力増強
3 國民生活の安定
之なり、と
« 昭和維新の聖勅・・詔勅案は陸軍省軍事課長 ・村上啓作大佐らによつて實際に起草され、
蹶起將校 ・安藤輝三らに提示されたが未發に終った。
事件終盤でこの大詔案をめぐつて
あくまでも渙發を求める蹶起側と 「 討伐 」 へ路線を變えた軍との息づまる應酬がつづいた »
此の頃、満井中佐來り、
情報を呈すと稱しながら、昭和維新斷行の必要に關し意見を縷陳るちんす。( ・・・ リンク →満井佐吉 『 28日 戒嚴司令部に於る意見具申 』 )
予は其言動を出過ぎたることなりと考へしも、其大綱を承り置きて引き取らしめたり。
此の席には荒木大將外一、二の軍事參議官ありき。
予は最後の手段として、更に聖勅を仰ぎ奉るべきや否やを一應 陸軍省、參謀本部に相談するに決す。
軍事參議官退席。
大臣 ( 川島陸軍大臣 ) 、次官 ( 古莊幹郎陸軍次官 )、予の室に來る。
予は之れ迄 手を盡して流血の惨を起せば最早萬事休するが、
此の手段は如何、之が唯一つ殘された手段と云へば云へる旨述べ、一案を示す。
即ち、
・
上奏案 ( 未定稿、要旨也 )
現時迄ノ情勢ニ依ルニ、三宅坂附近占據ノ將校以下、事件決行後、
其待望セル昭和維新ヘノ實際的進行遅々トシテ進マザルヲ憂慮シ、
其端緒ヲ見ル迄ハ身命ヲ捧ゲテ君國ニ殉ズルノ決心ヲ堅持シアリ。
爲ニ事體ノ推移ヲ此儘ニ放置スル時ハ、皇軍相撃チ且無辜むこノ臣民、
外國人等ニ對シテモ死傷者ヲ生ズル大不祥事ヲ見ズシテハ
本日拝受セル奉勅命令ノ實行ヤ不可能トナリタルモノト判斷セケレラル。
若シ萬一建國以來ノ皇謨こうぼニ則リ、 « 皇謨・・天皇のはかりごと »
昭和維新ニ發進セシメラルル聖旨ヲ拝スルコトヲ得ルニ於テハ、
流血ナク前記奉勅命令ヲ實行シ、事體ヲ完全ニ収拾シ得ルモノト信ズ。
此カクノ如キコトヲ上聽ニ達スルハ恐懼措オク能ハザルモ、
事態ノ重大性極メテ深刻ニシテ、皇國興廢ノ岐ワカルル秋トキナルニ鑑ミ
臣等謹ミテ聖斷ヲ仰ギ奉ル。
戒厳司令官 香椎浩平
・
次長 ( 杉山元參謀次長 ) 反對す。
之は豫期する処なりき。
次で 大臣は其の意見として
「 陛下に昭和維新を鞏要し奉るは恐懼に堪へず 」と 述べたり。
抑そもそも戒嚴司令官は、
軍政及人事に關しては大臣の區処を受くることゝなり居れり。
本件、大臣が反對するものを單獨上奏することは不可なる故、
之を撤回す。
・
香椎戒厳司令官 秘録 二・二六事件 から