あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

45 二・二六事件行動隊裁判研究 (一) 『 第一章 序説 』

2016年04月30日 11時43分32秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
一  問題の存在
二  旧陸軍の組織と規律
第二章  反乱の謀議
一  反乱の誘因
二  謀議の成立
第三章  出動命令
一  歩兵第三聯隊
二  歩兵第一聯隊
三  近衛歩兵第三聯隊
第四章  反乱行為の概要
一  反乱罪の成立
二  二月二六日午前
三  二月二六日午後
四  二月二七日
五  二月二八日
六  二月二九日 ( 以上本号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  追訴
第六章  公判審理
第七章  判決
第八章  結語  ( 以上四七号 )
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第一章  序説
一  問題の存在
一  本稿は昭和一一年二月二六日のいわゆる二 ・二六事件における、
  東京の反乱実行部隊に対する軍法会議公判記録 ( 東京地方検察庁保管 ) に基づいて、
反乱行為の経過を明らかにし、かつ、これに対する軍法会議裁判の問題点を検討しようとするものである。
本稿のタイトルは、東京陸軍軍法会議の裁判記録が、反乱実行部隊を 「 行動隊 」 と呼んでいることによる。
二 ・二六事件を管轄する特設軍法会議としての東京陸軍軍法会議には、
第一から第五までの五つの公判廷が設けられた。
・・・(1)
東京陸軍軍法会議設置の経緯とその構成については、
拙稿 「 東京陸軍軍法会議についての法的考察 」 獨協大学法学部創設二五周年記念論文集 ( 一九九二年、第一法規出版 ) 285頁以下参照

行動隊の被告人らは、将校班 ・下士官甲班 ・下士官乙班 ・兵班 ・湯河原班の五グループに分けられ、
将校班は第一、下士官甲班 ( 以下、単に甲班と略記することがある ) は第二、
下士官乙班 ( 以下、単に甲班と略記することがある ) は第三、兵班と湯河原班は別々に第四公判廷において、
それぞれ分離して審理 ・裁判された。
しかし、兵班の裁判記録は、関係者のプライバシー保護のために未だに閲覧を許されないので、
本稿では、将校班及び下士官甲 ・乙両班の各裁判記録と、被告人らに対する判決書を検討するにとどまらざるを得なかった。
・・・(2)
二 ・二六事件における下士官 ・兵の問題については、つとに大木 ( 現姓藤井 ) 康栄氏が詳細な研究結果を発表されている。
大木康栄 「 二 ・二六事件の下士官兵 」 季刊現代史四号224頁参照 ( 一九七四年 )
兵班の公判の状況を知る手がかりとしては、裁判を傍聴した憲兵の東京憲兵隊長に対する 「 二 ・二六事件公判状況の件報告 」
と題する書類がある。
林茂ほか編 『 二 ・二六事件秘録 』 ( 以下、秘録と略記する ) 第三巻208頁以下 ( 一九七一年、小学館 )
なお、埼玉県編 『 二 ・二六事件と郷土兵 』 ( 一九八一年、埼玉県 )、埼玉県民部史編纂室篇
『 雪未だ降りやまず 続 二 ・二六事件と郷土兵 』( 一九八二年、埼玉県史刊行協力会 ) には、

事件に参加した下士官 ・兵の手記が数多く集められている
二 ・二六事件は、
天皇を頂点としたヒエラルキイ機構のもと、一糸乱れぬ統制を誇ったはずのわが国の軍隊が、
上部機構の意思に反して、特定の政治的目的のために組織ぐるみで動いたという、
わが国の政治、経済、軍事史上 空前絶後の事件であった。
命じ一一年には、近衛鎮台砲兵が反乱を起こした、いわゆる竹橋事件があったが、
これは西南の役の恩賞を不満とする事件であって、政治的目的の事件ではない。
また昭和七年には、海軍士官と陸軍士官候補生が参加した いわゆる五 ・一五事件が発生したが、
これは 「 軍隊 」 としての組織的行動ではなく、軍人が個人的に参加したテロ事件に過ぎなかった。
これらに対して、二 ・二六事件は、一、五〇〇近い兵力を動員して政治権力の中枢に迫ったクーデタ未遂事件であり、
既発の類似事件とは本質的に性質を異にしていた。
したがって、この事件において、首謀者たちが軍隊の組織をフルに利用して兵士たちを傘下に取り込んでいった過程は、
今日なお研究対象としての価値を失っていないと思われる。
さらにまた、軍法会議公判の経過をみると、弁護人不在で非公開の裁判のため、
あからさまにそれが論議されることはなかったものの、興味深い法律問題と事実認定上の問題が浮かび上がってくる。
本稿では、このような観点から行動隊の行動経過とこれに対する法的処理について、考察を試みたいと考えている。
二  事件を計画し、実行した蹶起将校らの建前では、
  これに参加した下士官 ・兵も、蹶起の趣旨に賛同した 「 同志 」 であった。
たとえば、リーダーの一人 村中孝次は、将校班の第三回公判において、
歩兵第一聯隊第十一中隊の中隊長代理丹生中尉が下士官に蹶起への参加を呼びかけた際の状況について、
次のように述べている。
「 其時ノ下士官ノ意氣ハ非常ニ熾烈デ、進ンデ私共ノ蹶起ニ参加スルト云ヒマシタ。
 中ニハ是非参加ヲ願出タ者モアリマシタガ、残留サセラレタ様デアリマシタ。
( 中略 )
私共ハ、平素命令ニヨル兵力使用ハ絶対反対シテ來マシタガ、コノ丹生中隊ノ状態ヲ見テ、
明カニ同志トシテ蹶起スルノデアルトイフ感ジヲ持チ、力強ク思ヒマシタ 」
第四回公判で、村中は裁判長と次のような押し問答をする。
「 問  被告ハ下士官兵モ同志トシテ起ツタモノデアルト云ツテ居ルガ果シテ左様カ
 答  下士官兵モ同志トシテ立ツタモノデアリマシテ、此ノ點 五 ・一五事件ト同ジデアリマス。
問  夫レデハ、今回ノ蹶起ハ、統帥命令ノ関係ヲ離レテ、同志トシテ下士官兵モ動イタト云フノカ
答  左様デアリマス。同志ノ集団デアリマシテ、軍隊トシテデハアリマセン 」
問  ソレデハ被告ハ、下士官兵ト雖モ命令ヲ以テ行動シタノデハナイカラ、  同ジ罪ヲ負ハネバナラヌト云フノカ
答  私共ノ行動ハ、屢々述ベタ通リ義軍ノ義挙デアリマシテ、惡イコトデハアリマセン。
  今ノ立場トナツテ、或ル一部ノ者ガ下士官兵ヲ庇フ爲、命令デ動カシタト云フ者ガアルカモ知レマセンガ、
私ハ命令デ動カシタトハ思ツテ居リマセン 」
確かに、下士官 ・兵の中にも、将校らと思想を同じくする者が存在した。
湯河原の牧野内大臣襲撃に参加した宇治野時參軍曹と黒澤鶴一 一等兵 ( 共に歩兵第一聯隊 ) は、
その典型的な例である。
・・・(3)
宇治野と黒澤の思想については、拙稿 「 二 ・二六事件湯河原班裁判研究 」 獨協法学43号39頁、41頁参照
しかし、事件で動員された主要部隊の兵力は、
歩兵第三聯隊が下士官 ( 准士官 ・見習医官を含む。以下も同じ ) 六五名 ・兵八六四名、
歩兵第一聯隊が下士官二四名 ・兵四二八名、
近衛歩兵第三聯隊が下士官三名 ・兵五七名、
以上合計下士官九二名 ・兵一、三四九名に達するが、
兵のうちの一、〇二七名 ( 七六% ) は、実に事件の一ケ月前に入隊したばかりの初年兵であった。
・・・(4)
原秀男ほか編 『 検察秘録 二 ・二六事件 』 ( 以下匂坂資料と略記する ) Ⅱ 154頁 ( 一九八九年、角川書店 ) に収録された 「 叛乱部隊参加者一覧表 」 による
いかに、精神教育に励んだとしても、この短期間に一、〇〇〇名もの初年兵に対して、
君側の奸を排除し、天皇親政を実現しようという、いわゆる昭和維新の思想を植えつけ得るはずはない。
彼らは、毎日の軍隊生活に適応するのが精一杯で、小銃の使い方さえまだおぼつかない新兵だったのである。
近衛歩兵第三聯隊の中橋基明中尉は、自らが中隊長代理を務める第七中隊の約半数を率いて事件に参加しているが、
彼はその年の一月一一日に同中隊へ着任したばかりであった。
これでは、いかに中橋が有能であっても、思想教育を徹底することは無理である。
後述のように、彼は齋藤特務曹長の助けを借りることによって、中隊を動かすことができた。
また、二九日早朝には、彼の隙を見て、中隊全員が戦列から離脱してしまった。
このような兵たちを 「 同志 」 と呼ぶことには、無理がある。
村中の主張は、後に正真正銘の 「 同志 」 であるはずの将校からも裏切られる。
清原康平少尉 ( 歩兵第三聯隊第三中隊週番士官 ) は、第一六回公判における尋問の冒頭で、
「 私ハ蹶起将校ト立場ヲ異ニシテ居リマスノデ、同志ト云フ言葉ヲ用ヒマセン 」
と断った上、事件への参加は週番司令安藤大尉の命令によるものであり、また中隊の下士官兵を参加させたのは、
週番士官としての命令によったと述べ、
鈴木金次郎小異( 同聯隊第十中隊週番士官 ) も同様の供述をしている ( 第一七回公判 )。
蹶起将校の中核の一人であった安藤輝三大尉 ( 同聯隊第六中隊長 ) は、
身銭を切っても兵隊の面倒をみるという部下思いの人物で、兵隊たちの尊敬と信頼を一身に集めていた。
( ・・・リンク →『 安王会 』 第六中隊下士官兵の安藤中隊長 )
しかし、その安藤でさえも、事件当日兵に対しては、靖国神社参拝という名目で出動を命じている。
もっとも彼は、「 靖国神社に向かって行くと言った。
行くべき方向を示したのみで、参拝に行くとは言っていない 」 と述べる ( 第二回公判 )。
しかし、安藤が兵たちに向かって、鈴木侍従長を殺しに行くことに同意するかと尋ねた事実がない以上、
これは彼の強弁に過ぎない。
また、前述の中橋中尉は、出発に当たって、兵には明治神宮参拝と称している。
後に、下士官の中からでさえも、「 将校にだまされた 」 と恨む者が出てくるゆえんである。
( 荒木直太朗 ・憲兵調書、奥山粂治 ・乙班第八回公判等 )
いかに村中が強弁しようとも、下士官 ・兵のすべてを 「 同志 」 と呼ぶことはできない。
とくにこのことは、兵についてあてはまる。
連日の激しい訓練で死んだように眠っていた彼らは、非常呼集でたたき起され、
何が何か判らないまま営外に連れ出されている。
とても自らの置かれた状況を、的確に判断できる状態ではなかった。
そもそも軍隊とは、そのような状況判断を兵士に許す場ではない。
彼らは、上官の一方的な命令によって動かされる、将棋の駒のような存在に過ぎないのである。
そこで、この軍隊における命令と服従の関係を法的にどう考えるべきか、
また、違法な命令に対しても服従義務があるのか、という問題が提起される。
これは、下士官判 ・兵班の裁判官を悩ました法律問題であった。
三  では、将校の一方的な命令が下達されれば、兵はいつ、いかなる場合であっても、
命ぜられるままロボットさながら行動するものであろうか、答えは、否である。
兵営生活で兵士を直接掌握しているのは、将校ではなく下士官であった。
その下士官を動かさない限り、実際には兵は動かない。
旧陸軍の現役兵の大半は、明治二二年法律第一号徴兵令、
次いで昭和二年法律第四七号兵役法によって徴集された青年男子であった。
彼らは、二十歳になると徴兵検査を受けさせられ、兵役に耐えられない病弱の者を除いては、
二年間の兵役を義務づけられた ( 国民皆兵 )。
この国民兵を直接掌握し、一人前の兵士に仕立て上げる役割を担ったのは、
二四時間彼らと生活を共にし、その行動を規律する下士官であった。
将校 ( 士官 ) は、兵隊を指揮 ・統率し、命令を下す権限を有するが、直接彼らと生活を共にすることはない。
したがって、建前はともかく、事実上兵隊の生活 ・行動を支配するのは下士官であった。
いかに将校が命令しても、媒介者たる下士官が動かない限りは、実際に兵隊を動かすことはできなかったといわれている。
この意味で、二 ・二六事件で下士官の果した役割は、きわめて大きかったといえる。
そこで問題となるのが、蹶起将校と参加下士官の関係である。
もちろん、下士官にとっても将校は上官であるから、その命令は重い。
しかし、下士官も幹部の一員であり、兵と違って状況判断の能力を備えている。
しかも、彼らの中には、駆け出しの将校よりもはるかに軍隊経験の豊富な者が少なくない。
したがって、形式的な命令服従の関係だけでは将校と下士官との関係を律することはできない。
命令は、下士官にとっても納得できる内容のものでなければならず、
さらに何よりも、将校と下士官の間に人間的、心情的な連帯意識が通っていなければならない。
安藤は、この点について、第一二回公判で次のように述べる。
「 ・・・・コノ下士官ニ對スル命令モ形式デアリマシテ、実質ハ同志デアリマス。
 私ハ、コノ形式ガ命令デ実質ガ同志デアルト云フノガ、軍隊ノ理想的ナルモノト考ヘテ居リマス。
コノ意味ニ於テ本件決行ニ付テハ、下士官兵モ同志デアルト自惚レテ居タノデアリマス 」
反乱参加下士官九四名 ( 近衛師団司令部の大江曹長と湯河原襲撃の宇治野軍曹を含む ) 中 七五名 ( 八〇% ) が起訴されたことは、
検察官がこの将校 ・下士官間の同志的心情を重視したことによるものであろう。
予審官の尋問調書をみると、参加下士官に対する取調べの最大のポイントは、
反乱参加が自主的な意思決定によるものであったかどうかという点にあったことが窺える。
もちろん、将校、とくに中隊長のような直属上官と下士官が、上命下服の関係にあることも無視することはできない。
後述のように、旧軍隊では、上官の命令はすなわち天皇の命令として、
これに絶対に服従することが求められていた。
法廷に立たされた下士官たちの多くは、反乱参加が命令によるものであったことを強調し、
ときには裁判官と激しい議論を交わしている。
このようにして、下士官班の裁判では、被告人の事件への参加が命令によるものだったのか、
それとも、自主的な参加だったのかという問題が、事実認定上の最大の争点となったのである。

二  旧陸軍の組織と規律
本稿では、事件における下士官 ・兵の行動を理解するための一助として、
平時における旧陸軍の組織と、旧陸軍で強調された命令服従の原則について概観することとする。
1  旧陸軍の組織
  陸軍の平時における最大の単位は、師団である。
  師団とは、独立して行動し、作戦できる最小の戦略単位をいう。
昭和一一年 ( 一九三六年 )改訂の陸軍平時編成によると、一師団は歩兵四聯隊 ( 二聯隊で一歩兵旅団を編成 )、
騎兵一聯隊、砲兵一聯隊、その他の支援部隊で編制されるのが通常であり、兵員数は約一万二、〇〇〇名であった。
師団の数は一七で、全国各地 ( 朝鮮を含む ) に配備され、ほかに台湾に駐屯する台湾軍、満洲国に駐屯する関東軍などがあった。
ちなみに、当時関東軍には、日本内地の二個師団が交代で派遣されることになっており、
昭和一一年三月には第一師団が渡満した。
この第一師団ま満洲派遣計画が二 ・二六事件の引き金となったことは後にみるとおりである。
東京に置かれた師団には、天皇親衛隊ともいうべき近衛師団と、第一師団があった。
近衛師団管下の歩兵聯隊には、近衛歩兵第一ないし第四聯隊があり、
いずれも東京市内に駐屯し、交代で皇居の護衛に就いた。
第一師団管下の歩兵四個聯隊のうち、東京市内に配備された部隊は、
歩兵第一聯隊 ( 赤坂、現在の防衛庁所在地 ) と歩兵第三聯隊 ( 麻布、現在の東京大学生産技術研究所の所在地 ) であった。
聯隊とは、その兵種本来の戦闘能力を発揮させるための戦術単位である。
兵営は、通常聯隊単位で設置されていた。
前記陸軍平時編成によると、歩兵聯隊 ( 聯隊長の階級は、通常大佐 ) は、
三大隊 ( 大隊長は、通常少佐 ) と歩兵砲隊で編制され、
各大隊は三中隊と機関銃隊で構成される。
一個中隊は一六〇名、機関銃隊は一〇四名の編成であり、
歩兵一個聯隊は合計一、九九六名の編成と定められていた。
ただ本件発生当時、第一師団は翌月に迫った満洲派遣に焦点を合わせて、
とくに機関銃隊の兵員を増やしていたようであり、歩兵第一、第三聯隊ともその数は二〇八名を超えている。
二  中隊とは、中隊長を中心とする基礎的な戦闘単位であり、
  下士官 ・兵は、この中隊単位で生活を共にし、かつ、教育訓練を受ける。
陸軍軍隊における連隊長以下の各官の職責と
兵営内の生活 ( これを内務班といった ) を規律する軍隊内務書 ( 昭和九年軍令陸第九号 )
の綱領三には、「 兵営ハ苦楽ヲ共ニシ、死生ヲ同ウスル軍人ノ家庭 」 と記しているが、
より具体的には、この中隊こそが 「 軍人ノ家庭 」 であった。
中隊長には、通常大尉の階級にある者が任ぜられる。
中隊長は 「 中隊ヲ統率シ、軍紀ヲ振作シ、風紀ヲ粛正シ、部下教育訓練 」 の責任を負う ( 軍隊内務書二一 )。
すなわち、中隊長は、戦闘員である下士官 ・兵を直接掌握する責任と権限を有しており、
下士官兵 ・兵からいえば、中隊長が直近の直属上官である。
これに対して、連隊長 ・大隊長は、下士官 ・兵の直属上官ではあるが、その関係は間接的であり、
下士官 ・兵への指揮は中隊長に対する命令を経由して行われる。
「 中隊長が連隊長の命令に服従する意味がないばあいには、聯隊はその中隊の一兵をも自己の意志にしたがわせる力がない 」
のである。
ここに、後にみるように、反乱軍に参加した下士官 ・兵が、直属上官たる連隊長 ・大隊長の原隊復帰の説得に応じなかった一因があった。
中隊には、中隊長のスタッフとして、数名の中隊付少尉がおり、中隊長を輔佐して兵の教育訓練に当った。
彼らは、兵たちから教官と呼ばれていた。
しかし、いわばラインとして中隊長の命令を受けて日常業務に従事し、
かつ、兵を直接指導監督する下級幹部は、准士官と下士官であった。
中隊には、通常二名の准士官と、十数名の下士官が配属されていた。
准士官とは、特務曹長の階級にある者であり ( 後に准尉と改称された )、下士官には、曹長、軍曹、伍長の三階級があった。
准士官と曹長は、中隊の総括的な日常業務 ( 庶務 ・人事 ・経理 ・兵器管理など ) を担当した。
中隊の兵は、約三〇名の単位で数個の内務班を構成する。
本件発生当時の歩兵第一、第三聯隊では、各中隊に五つの内務班があった。
各内務班には数名の軍曹 ・伍長が配備され、先任軍曹が班長となった。
兵は、この内務班単位で起居し、班長と班付下士官の指導の下で教育訓練を受けた。
もっとも、下士官の居室は、兵とは別に設けられていた。
三  下士官 ・兵は二四時間営内に居住しているが ( ただし、古参の曹長は、許可を得て得て営外に居住することができた )
  連隊長を始めとする将校 ・准士官は、営外に居住している。
これら営外居住者は、通常は一般のサラリーマンと同様に、朝定時に出勤して夕方定時に退庁する。
したがって、夜は幹部が不在となるが、これをカバーするための制度が、営内に宿直する週番司令と週番士官の制度であった。
週番は、通常土曜日の正午に交代した。
もっとも、都合によって、一時的に日直制度がとられる場合もあった。
事件当時の近衛歩兵第三聯隊 ( 以下、近歩三 と略称する ) がその例である。
週番司令は、聯隊内の秩序維持の総責任者である。
週番司令には、緊急を要する事項で連隊長の指示を仰ぐ余裕がないときは、自らこれを処断する権限が与えられていた。
( 軍隊内務書第一〇〇 )
「 夜の連隊長 」 と称せられたゆえんである。
週番司令には、大尉が交代で勤務についた。
後にみるように、事件当日の歩兵第一聯隊 ( 以下、歩一 と略称する ) の週番司令は、
栗原中尉の要請で他と交代して週番勤務についた革新派シンパの山口一太郎大尉である。( 反乱幇助罪に問われ、無期禁錮の刑を受けた )
山口は、聯隊内に不審な動きがあるとの報告をすべて握りつぶし、反乱部隊の出動を黙認した。
他方、歩兵第三聯隊 ( 以下、歩三と略称する ) の週番司令は、首謀者の一人安藤輝三であった。
安藤は、週番司令の権限を最大限に利用した。
週番司令命令によって、厳重な管理の下に置かれていた弾薬庫から実包多数を搬出 ・分配させ、
かつ、部隊を出動させていたのである。
各中隊には一名の週番士官が置かれた。
週番士官は、週番司令の指揮を受け、中隊週番下士官 ( 一名 ) を指揮して、各中隊の秩序の維持に当たった。
週番士官には中隊付の中少尉と特務曹長が、また週番下士官には中隊付の軍曹 ・伍長が、いずれも交代で勤務した。
反乱に参加した部隊は、ごく一部の例外を除けば、蹶起将校が中隊長または中隊長代理の職にあるか、
あるいは事件前夜に週番士官をつとめていた中隊であった。
すなわち、後者の場合は、中隊長の夜間不在に乗じて、週番士官がその命令権を代行して部隊を出動させたのである。
歩一の山口週番司令が、栗原の要請を容れての交代服務であったことは、前述した。
歩三の清原少尉は、安藤大尉の指示によって、事件前日に他と交代して週番士官となっている。
また、近歩三の中橋中尉は、事件前日の夕刻、自ら日直士官を筒井特務曹長と交代して引き受け、同人を帰宅させた。( 清原 ・予審調書 )
これは、出動に反対しかねない筒井を敬遠するための策であった。

2  命令と服従
軍隊の目的は戦闘である。
軍の力を最大限に発揮し、戦闘で勝利をえるためには、
人力の限界を超えた極限状況下においてさえも、一糸乱れぬ統制が必要である。
このため旧軍では、軍の規律、すなわち軍紀をきわめて重視した。
上官の命令に対する服従を、軍紀の基礎に置いた。
一定の目的を持った社会的集団において、上司の職務上の命令に対して部下の服従義務が要求されることは、
むしろ当然の事理である。
旧官吏服務規律 ( 明治二〇年勅令第三九号 ) 二条も、
「 官吏ハ其職務ニ附本屬長官ノ命令ヲ遵守スベシ。但其命令ニ對シ意見ョ述ルコトヲ得 」
と規定していた。
しかし、官吏が上司の命令に従わない場合は、鳥海事由となるに過ぎなかった。
これに対して、軍刑法では、戦時 ・平時を問わず上官の命令に反抗し、またはこれに服従しない行為を抗命罪として規定し、
厳しく処断したのである。( 陸軍刑法五七、五八条、海軍刑法五五、五六条 )
旧軍隊における服従の原理の原点は、天皇制軍隊の基本理念を樹立した明治一五年の軍人勅諭に見出される。
同勅諭は次のように述べる。
「 凡軍人には、上元帥より下一卒に至るまでその間に官職の階級ありて統屬するのみならず、
 同列同級とても停年に新旧あれば、新任の者は旧任の者に服従すべきものぞ。
下級の者は上官の命を承ること、實は直に朕が命を承る義なりと心得よ 」
軍隊内務書の綱領五は、軍紀と服従について次のように規定する。
軍紀ハ軍隊ノ命脉ナリ。故ニ軍隊ハ常ニ軍紀ヲ振作スルヲ要ス。( 中略 ) 
 服従ハ軍紀ヲ維持スルノ要道タリ。
故ニ至誠上官ニ服従シ、其ノ命令ハ絶対ニ之ヲ励行シ、習性ト成ルニ至ラシムルヲ要ス。( 後略 ) 」
次いで、同書第二章服従の一部を紹介しておこう。
第六  部下タル者其上官ニ服従スルハ、如何ナル場合ヲ問ハズ必ズ厳重ナルベシ。
  部下ニ非ザル受令者ノ命令者ニ對スル場合モ亦之ニ同ジ。
第七  隷屬ノ關係ヲ有セザル上級先任者ト下級新任者トノ間ニ於テモ、各職務ニ妨ナキ限リ服従ノ道ヲ守ルベシ。
第八  命令ハ謹デ之ヲ守リ、直ニ之ヲ行ウベシ。決シテ其当不当ヲ論ジ、其原因理由等ヲ質問スルヲ許サズ。( 後略 )
第九  軍隊ヲ裨益スルニ足ルト信ズル所ハ、上官ヲ補佐スルノ至情ヲ以テ進デ之ヲ上官ニ開陳スルハ、
  各級ノ軍人、特ニ幹部ノ責務トス。然レドモ其ノ開陳ニ當リテハ、秩序ヲ紊ルガ如キコトアルベカラズ。
  又、一度上官ノ決定シタル事項ニ對シテハ、仮令意見ヲ異ニスルトキト雖、常ニ己ヲ虚クシテ、専心上官ノ意図ヲ達スルコトヲ勉ムベシ 」
この服従の倫理は、後にみるように、下士官 ・兵の裁判において、被告人側の最大の抗弁事由として主張される。
また、右の軍隊内務書第九にいう上官への意見の開陳を 「 意見具申 」 と称していたが、
将校の出動命令に対して、被告人が適切な意見具申をしたかどうかも、一つの争点とされた。


45 二・二六事件行動隊裁判研究 (一) 『 第二章 反乱の謀議 』

2016年04月28日 18時52分41秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
一  問題の存在
二  旧陸軍の組織と規律
第二章  反乱の謀議
一  反乱の誘因
二  謀議の成立
第三章  出動命令
一  歩兵第三聯隊
二  歩兵第一聯隊
三  近衛歩兵第三聯隊
第四章  反乱行為の概要
一  反乱罪の成立
二  二月二六日午前
三  二月二六日午後
四  二月二七日
五  二月二八日
六  二月二九日 ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  追訴
第六章  公判審理
第七章  判決
第八章  結語  ( 以上四七号 )
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第二章  反乱の謀議
一  反乱の誘因
二 ・二六事件の歴史的背景は、
昭和五年 ( 一九三〇年 ) のロンドン海軍軍縮条約
( 海軍軍令部の反対を押して条約を締結したため、統帥権干犯が問題となり、浜口首相暗殺事件を惹起した )、
同六年の三月事件 ( 宇垣一成陸軍大臣を首相にしようとする陸軍幕僚中心のクーデター計画 )、
同年の一〇月事件 ( 陸軍幕僚を中心とする兵力を使用してのクーデター計画で、その構想は二 ・二六事件をはるかに上回っていた )
にまで遡らなければならない。これら遠因については記述を省略するが、
事件の直接的な誘因としては、一一月二〇日事件と眞崎教育総監更迭事件とを挙げることができるであろう。
また、首謀者らを決意せしめた直接的契機に、相澤事件と第一師団の満洲派遣問題がある。

1  一一月二〇日事件
  一一月二〇日事件とは、
幕僚を中心とするいわゆる統制派と、隊付青年将校を中心とするいわゆる皇道派との対立が深まるなか、
士官学校中隊長の職にあった辻正信大尉が、
同校の生徒 ( 士官候補生 )をスパイに使って集めた情報により、
皇道派の中心人物であった村中孝次大尉 ( 当時陸軍大学校学生 )、磯部淺一 一等主計 ( 大尉相当官、当時野砲兵第一聯隊付 )
らが在京の青年将校 ・士官候補生らを使ってクーデターを計画しているとして、
昭和九年 ( 一九三四年 ) 一一月二〇日に関係者を検挙した事件である。
村中 ・磯部は、この事件は参謀本部の片倉少佐 ・辻大尉らのでっち上げであるとして、
語句ちゅうから片倉らを誣告罪で告訴し、徹底的に争った。
しかし、これを受けて陸軍は、辻を指せんする一方、軍紀を紊したとして村中らを定職処分に付した。
不公正な処分に痛憤した村中 ・磯部は、同年七月、ことの顚末を明かにし、、
かつ三月事件 ・十月事件の内容などを暴露する 「 粛軍に関する意見書 」 と題するパンフレットを作り、
・・・(1)  『 現代史資料4  国家主義運動1 』 609頁 ( 一九六三年、みすず書房 ) に収録されている
これを各方面に配布して、軍当局の責任を追及した。
激昂した陸軍首脳部は、同年八月 村中 ・磯部を懲戒免官とし、二人を陸軍から追放した。
この事件が、村中 ・磯部の統制派に対する憎しみをたぎらせる結果となったことはいうまでもない。
手負いの猪のような二人は、後に二 ・二六事件の舞台回しの役をつとめることになる。
また磯部は、二月二十六日午前一〇時頃陸軍大臣官邸で、
宿敵片倉の東部を拳銃で狙撃し、同人に重傷を負わせている。

2  眞崎教育総監更迭事件
眞崎教育総監更迭事件とは、
昭和一〇年七月、青年将校に人望があり、皇道派の頭領的存在であった
眞崎甚三郎陸軍大将を教育総監更職から罷免した事件のことである。
「 陸軍省  参謀本部  教育総監部  関係業務担任規定 」 の細則に、
「 将官ノ人事ニ附内奏スル場合ハ、参謀総長及教育総監ニ協議ス 」 という一項があった。
・・・(2) 『 現代史資料23  国家主義運動3 』 の資料解説 22頁 ( 一九七四年、みすず書房 ) による
これを、陸軍三長官会議という。
ときの陸軍大臣林銑十郎は、提案人事に同意しない眞崎に対して辞任を求めた。
しかし、眞崎がこれに応じなかったため、林は閑院宮参謀総長の同意の下にその更迭を強行した。
眞崎更迭は軍の内外に衝撃を与えたが、
中でも敬愛する眞崎を閑職 ( 軍事参議官 ) に追いやられた皇道派青年将校へのショックは大きかった。
彼らはこの人事を、ロンドン軍縮条約に続く統帥権干犯事件として問題にした。
教育総監の同意を得ないまま天皇に更迭を奏請した行為は、統帥権の侵害に当たるというのである。
陸軍省官制 ( 明治四一年勅令第三一四号 ) 一条には、
「 陸軍大臣ハ陸軍軍政ヲ管理シ、陸軍軍人軍属ヲ統督シ、所轄諸部ヲ監督ス 」 とある。
陸軍大臣が全陸軍の人事権を掌握することは明白であり、三長官の 「 協議 」 の内規を、
参謀総長と教育総監に将官人事についての拒否権を認めた趣旨に解することはできない。
又、人事権の発動を統帥権の範囲に含めて論ずることにも、疑問がある。
人事は軍政上の問題であって、軍令上の問題ではないからである。
しかし、統帥権という聖域を犯されたとして逆上した青年将校たちには、このような法的論理は通用しなかった。
後に蹶起将校らが作った 「 見当リ次第斬殺スベキ人名表 」 のトップには、林の名が挙げられている。
ところが、その林よりももっと憎まれた人物がいた。
それは、グズで無能力の林陸相を操り、この人事を強行させたと思われた、影の実力者永田鉄山少将である。
永田は統制派の中心人物で、当時陸軍省軍務局長の要職にあった。
軍務局長とは、軍の政策立案その他の重要事項すべてを所轄する省内の最重要ポストであるが、
その歴任者の中でもとくに永田は、革新官僚とも交流のある内政外交に通じた陸軍きっての逸材で、
生来の陸軍大臣を嘱望されていた。

3  相澤事件
昭和一〇ねん八月一二日午前九時過ぎ、永田は陸軍省軍務局長室で執務中、
陸軍歩兵中佐相澤三郎に斬殺された。いわゆる相澤事件である。
相澤は満四五歳、同月一日付で福山の歩兵第四一聯隊付から台湾軍への転属を命ぜられた皇道派の将校である。
永田を、「 尽忠至誠ノ眞崎大将ヲシテ教育総監交代ヲ陸相ヲシテ奏上セシメタル如キ、大逆ナル犯罪ヲ犯シ 」
陸軍の破壊者と信じての犯行であった。( 第三回予審調書 ) ・・・(3) 匂坂資料 Ⅳ 313頁
村中孝次によると、相澤は 「 至誠神ノ如シト云フベキ純一無雑ノ人 」 であったという。・・・(4) 匂坂資料Ⅳ 403頁
しかし、永田を教育総監更迭の張本人と断ずる根拠については、相澤は
「 前述ノ二文書 ・・・(5) 「 軍閥重臣閥の大逆不逞 」ハ前傾 『 現代史資料4 』 673頁、 「 教育総監更迭事情要点 」 ハ同書678頁
 ( 筆者注、村中作成の 「 教育総監更迭事情要点 」 と題する文書と、出所不明の 「 軍閥重臣閥の大逆不逞 」 と題する文書をいう )
ニ永田閣下ガ南大将ト策謀シテ眞崎総監罷免ヲ林大臣ニ進言シ、其ノ結果林大臣が眞崎総監罷免ヲ上奏サレタ様ニ書イテアツタノヲ見テ、
永田閣下ハ色々策謀ヲスル人ダカラ、右文書ニ書イテアル如ク、南大将ト策謀シテ林大臣ニ進言シタノハ事実デアロウト推測致シタノデアリマシテ、
之ト云フ確証ハ持ツテ 」 いなかった。( 相澤 ・第一一回予審調書 ) ・・・(6) 匂坂資料 Ⅳ 503頁

相澤は、永田を殺害した後買い物をして、台湾に赴任するつもりであったというが、
これが常識的に理解できない心理状態である。
相澤を逮捕した憲兵は、「 同中佐 ( 筆者注、相澤を指す ) ニ對シ、軍務局長ニ何カ暴行シマセヌデシタカト訊ネマスト、
暴行トハ何カト立腹ノ態度デ、アレハ天ガヤツタノダ、陸軍省ノ門迄ハ相澤ノ行動ダガ、
其後ニ於ル省内ノ行動ハ神様ノ行動ダ、天ニ代リ誅戮ちゅうりくスルト云フ意味ノ、歌ノ様ナモノヲ申シマシタ 」 と述べている。
( 小坂慶助 ・検察官聴取書 ) ・・・(7) 匂坂資料 Ⅳ393頁
この異常な言動からすると、相澤に刑事責任を問うためには、精神鑑定の必要があったように思われる。
相澤は、昭和一〇年一一月二日 用兵器上官暴行、殺人、傷害事件として第一師団軍法会議に起訴され、
翌一二年一月二八日第一回公判が開かれた。
相澤事件が皇道派青年将校に強烈な刺激を与えたことは、いうまでもない。
彼らは、公判を傍聴して相澤に無言の激励を送るだけでなく、
活発な公判闘争を展開して事件の真相を暴き、粛軍の実を挙げようと企てた。
西田税、澁川善助、村中孝次の三人であるが、青年将校への働きかけは村中と澁川が担当した。
彼らは、麻布驅新竜土町のレストラン竜土軒で、数回にわたり青年将校を対象とする相澤中佐公判状況報告会を開いた。
席上、栗原安秀中尉が、われわれは相澤中佐の屍を越えて躍進すると煽動したこともあったという。
・・・(8) 秘録第一巻450頁 ( 一九七一年、小学館 )
・・・・・・・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問  安藤大尉より、大眼目を受領した時に、何の目的で受け取ったか。
答  安藤大尉より、之を下士官に見せて呉れないかと申されましたので、軽い気持ちで引受けたので有ります。
問  大眼目を受取った時の其の許の感じは如何
答  内容が相澤中佐の公判でありましたので、なるべく多くの人に見せたらよいと考えました丈であります。
問  相澤中佐公判状況報告会に出席したのは相違なきや
答  麻布驅新竜土町竜土軒には、報告会があつた時弐回出席したのは事実であります。
問  該会合に出席せる人員及其ノ人名は如何
答  人員及氏名は次のとおりであります。
  村中孝次、磯部淺一、澁川善助、野中大尉、安藤大尉、坂井中尉、栗原中尉 ( 歩一 )、林少尉 ( 歩一 )、池田少尉 ( 歩一 )、
  高橋少尉、常盤少尉、清原少尉、堀内大尉、鈴木少尉、新井中尉、阿部少尉、近歩三中橋中尉、所沢飛行学校河野大尉、
  歩一丹生中尉、と私でありますが、出席人名の区別は一回と二回の区別が判然として居りませぬ。
問  相澤中佐の公判状況報告会は何んの目的を以て出席したるや
答  安藤大尉に奨められましたので、公判の情況を聞くこと、
  一つには集会する人々の抱いて居る思想の状態をも知って置く必要があると考へまして、
良い機会だと思つて出席する事にしたのでありますが、私は同志である等では全然ありませんが、
野中大尉や安藤大尉とは、思想方面の事を抜きにして、親しかったのでありまして、
同情的立場でありましたが決して同誌ではありません。
問  同情的立場とは如何なることか
答  安藤大尉は私が士官候補生時代に見習士官で居られて、相当面倒を見て戴きました事もあり、
又安藤大尉の思想を離れて見ますと、私心がなく純真であり、真面目の方でありますので、
私は安藤大尉が思想的に動かれたことでも、或は其れが正しいのではあるまいかと考へて居りましたので、
今回の事件があるまでは、其点で私が同情的立場であつたのであります。
問  同情的立場と言ふことは、直接参加せざるも、内部整理の役目に任じて居たのではないか
答  そんな事は絶対にありません
問  相澤中佐公判状況報告会に臨席して如何なる感じを抱きたるや
答  私は相澤中佐の行為は、新聞等で見ました当時は悪いと考へて居りましたが、
  公判廷で述べられた内容では、永田中将を殺した後、台湾に赴任せられんとして居られた等と聞きましたので、
吾々常人では想像することが出来ない事をする人があつて、相当修養の出来た人だとも考へて見たこともありました。
問  竜土軒では公判状況以外には何も話がなかつたか。
答  別段他にはなかつた様に思ひます。栗原中尉は、二月四日と記憶して居りますが、
  吾々は相澤中佐の屍を超えて躍進するとかの意味のことを言つて居りました
・・・昭和十一年三月六日 小林美文  第一回憲兵聴取書・・・秘録第一巻450頁 ( 一九七一年、小学館 )
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相澤事件は、青年将校らの精神を著しく昂揚させた。
しかし、当初特別弁護人満井佐吉中佐によってはなばなしく展開された公判闘争も、重要証人の尋問の頃からは、
裁判長の傍聴禁止措置によってすっかりその勢いを失った。
公判闘争に対する青年将校らの失望感が強まると同時に、急進派の磯部、栗原らのボルテージは高まる一方であった。
新井勲によると、
二月一二日夜の竜土軒での公判状況報告会終了後に、村中 ・磯部 ・安藤 ・新井の四人が会合したが、
その席上、軍隊による直接行動を迫る村中 ・磯部と、これに反対する安藤 ・新井が激論を戦わしたという。
・・・(9) 新井勲 『 日本を震撼させた四日間 』 108頁 ( 一九八六年、文芸春秋、文春文庫 ) ( ・・・リンク →竜土軒の激論 )
これに対して西田税は、二月一四、五日頃村中が来て、
「 聯隊の将校の中には、自分が相澤公判に専念していることに快く思わぬ向きがあり、評判が悪い 」
とこぼしたと供述している。( 西田第二回公判 )
しかし村中は、後述のように、すでに前年の一二月には蹶起を決意していることからみると、
西田に対するこの愚痴は、西田から蹶起を制止されることを警戒してのカモフラージュとみるべきであろう。
その当時満洲 ( 現中国東北部 ) に駐留する関東軍には、内地の二個師団が交代で派遣されていた。
昭和一〇年一二月、第一師団の派遣が内定し、その時期は翌年三月とされた。
この情報は、同師団所属の急進派青年将校 ( その多くは歩一、歩三に集中していた ) に衝撃を与えた。
満洲に派遣されれば、二年間は東京を離れることになり、その間は彼らの政治的活動を休止しなければならない。
また、満州駐留中に、ソ連と戦火を交えることになるかもしれない。
来るべき対ソ戦に備えるため、政治を一新して国防を充実したい彼らは、
一刻の猶予も許されないという、せっぱ詰まった心理状態に追い込まれて行った。
こうして、渡満前に行動を起こすべきだとする急進派の意見が、次第に勢いを強めてくる。
この間の事情について、村中は次のように述べている。( 第二回公判 )
「 問  今回ノ蹶起決行ニツイテハ、何日頃カラ決心シタノカ
 答  昨年十二月、第一師団ガ満洲ニ派遣サレルトイフ報ガ傳ハリマシタノデ、
  第一師団ノ渡満前ニ、主トシテ在京ノ同志ニヨツテ急ニ事ヲ擧ゲナケレバナラヌト考ヘ、
 其時決心シタノデアリマス。
問  ソノ頃被告ハ、誰カニ自分ノ決心ヲ打明ケタカ
答  昨年十二月頃ハ、未ダ一人デ心ノ中ニ収メテ居リマシタガ、本年一月ニナツテ、初メテソノ意思ヲ磯部淺一ニ話シタノデアリマス。
  又、香田大尉ニモ同様ソノ意思ヲ打明ケマシタ処、二人トモ私ト同意見デアリマシタ。
問  夫レカラ逐次安藤大尉、栗原中尉ト連絡ヲトツタノカ
答  左様デアリマス。ソレラノ者ニ、個人的ニ漠然ト、第一師団渡満前ニ蹶起スル旨ヲ話シタノデアリマス。 ( 後略 )
それまでは蹶起に慎重な態度をとっていた村中までも、危機感に煽られた形で第一師団渡満前の決行を決意したのであった。
この意味で、第一師団の満洲派遣は、二 ・二六事件の起爆剤であった。

二  謀議の成立
一  軍隊を率いての直接行動、すなわち反乱の謀議が形を整え始めたのは、昭和十一年二月に入ってからであつた。
  磯部の供述によると、一月初旬頃までは、磯部と河野を中心とする若干名の同志によるテロを考えていたが、
そのような単独行動をとれば必ず他の同志にも迷惑がかかるであろうということを考え、村中、栗原らと協議することにしたという。( 将校班第五回公判 )
この磯部の呼びかけによる会合が二月一〇日夜、歩兵第三聯隊将校集会所で行われた。
出席者は、安藤輝三大尉 ( 歩三 )、河野壽大尉 ( 飛行学校学生 )、栗原安秀中尉 ( 歩一 )、中橋基明中尉 ( 近歩三 )
それに村中と磯部という顔ぶれであった。
この席で、第一師団渡満前に在京同志で蹶起すべきだという話が出たが、具体的な討議には至らず、
安藤もとくに反対する様子はなかった。( 村中 ・第二回公判 )
このとき河野は、牧野伸顕は自分が単独でやると宣言し、一六日には単身拳銃を携えて湯河原に赴き、
牧野の宿舎を探索している。
しかし、その所在を突き止めることができなかったため、これは空振りに終わった。( 河野 ・憲兵調書 )
このころ、栗原は歩一第七中隊長の山口一太郎大尉に会って、二月二二日からの週番司令になるよう、
手配方を依頼している。( 栗原 ・第八回公判 )
週番司令が同志かシンパでないと、計画を探知され、出動を阻止されるおそれがあるからである。
歩一の勤務割当表によると、二月二二日から二九日までの司令は日高友一郎大尉 ( 第五中隊長 ) の予定であり、
山口は二九日から三月六日までの勤務となっていた。
山口は、栗原の申し出によって蹶起が間近に迫ったことを悟ったが、何も聞かずにこれを引き受けた。
彼は聯隊本部の中島軍曹のところに出向いて、三月上旬に引っ越しをするから週番を変えてもらいたいと頼み込み、
日高との入れ替えが決まった。( 中島義房 ・憲兵調書 )

二  一八日夜栗原の自宅に、村中 ・磯部 ・安藤 ・栗原が集まった。
  この席で、来週中の決行が提案されたが、意外にも安藤がこれに強く反対した。
時期尚早であり、成算の見込みがないというのである。
安藤は歩三の革新将校の中心人物であり、下士官 ・兵の信望も厚い。
彼が動かなければ、歩三の動員兵力は計画の半分にも満たなくなってしまう。
結局この日は、襲撃の目標 ・方法などについて一応の案が討議されたものの、
決行日時 ・動員兵力等細目の決定には至らず、安藤には同志の出動を黙認してもらうことにして散会した。( 磯部 ・第五回公判 )
一九日、磯部は前夜の話し合いの結果を踏まえて豊橋に行き、豊橋陸軍教導学校勤務の對馬勝男中尉に会い、
豊橋在住の同志で興津の別邸に隠樓する元老西園寺公望を襲撃することを依頼し、
その承諾を得た。( 磯部 ・前同公判 )
二一日夜と翌日二二日朝、磯部は二度にわたり安藤をその自宅に訪ねて、蹶起への参加を説得した。
安藤は、その数日前先輩の野中四郎大尉 ( 歩三第七中隊 ) に決起参加を断った旨を報告したところ、
野中から、
「 なぜ断った、今蹶起しなければ、かえってわれわれに天誅が下るのだ 」
と強く叱責され、恥しい思いをさせられて悩んでいた。
安藤が土壇場まで来て参加を渋った理由の一つに、それまで彼を信頼し、引き立ててくれた連隊長はじめ歩三将校団に対するもんだいがあった。
井出連隊長 ( 当時 ) は、その前年の一月、一部に安藤の急進性を危ぶむ声があったにもかかわらず、
彼を第六中隊長に任命する手続きをとっている。
第六中隊は、かつて秩父宮が中隊長を努めたことのある名誉ある中隊であった。( いわゆる殿下中隊 )
この人事の背景には、安藤の士官候補生時代の教官であり、彼を信ずることの厚かった秩父宮の口添えと、
誠実な人柄の安藤に対する歩三将校団の指示があったという。
井出はこの人事を上申するに当たって、安藤から、「 誓って直接行動は致しません 」 との制約を取り付けている。
このような経緯から、安藤は、
「 中隊長トシテ在職中ハ、イカナル理由アルモ直接行動ハトルコトノデキナイ立場 」 に置かれていたのである。
・・・(10) 
予審官の尋問が終わった後、安藤が予審官に提出したと思われる 「 決行前後ノ事情竝立場心境等ニツキ陳述ノ補足 」 と
題する自筆の書面が、記録に編綴されている。
彼はこの書面で決行直前まで参加の勧誘に応じられなかった苦衷を明かにした上、次のように結ぶ。
彼の誠実な人間性を窺わせる文章と思われるので、ここに紹介しておく。
「 此ノ期ニ及ンデ此ノ如キ心境ト立場トヲ申シ述ベルコシハ、心臆シタカノ如ク取ラレ、
 マコトニ心苦シイコトデハアリマスガ、前述ノ諸上官、恩師、先輩、同僚ト云フ方々ニ對シ、
今回ノ蹶起ニ方リ私ノ煩悶はんもんシタ心裡、其ノ方々ニ對スル手前上最後迄消極的、逃避的ナ態度ヲシカ取リ得ナカツタ點ヲ、
何ラカノ機会ニ知ツテ頂キ度イ。
然ラザルトキハ、『 純真ニシテ生一本、単純ナ人間 』 トシテ迎ヘラレ、信用サレテヰタ私ガ、
腹ニ一物アツテ虚偽、欺瞞、単純ヲ装ツテ最後マデ瞞着シテキタト云フ誤解ヲ下ニ、
三十年間正シキ道ヲ踏ンデ來タ私ノ人間トシテノ価値ガ失ハレテシマフ。
此ノ點ガ最モ心殘リナルガ故ニ、維新史上ニ於ケル自分ノ抹殺サレルコトヲモ忍ンデ、
此処ニ申シ述ベル次第デアリマス 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、その安藤も、ついに二二日朝、「 同志一体感カラ、ソノ時判然サンカニ決心 」 するに至った。( 安藤 ・第一二回公判 )

三  ニ二日午後四時頃、磯部と村中は野中宅を訪れ、状況を説明したところ、野中は参加を快諾した。( 村中 ・第二回公判 )
  二二日夜、栗原の自宅で、村中 ・磯部・河野 ・栗原による会合が開かれた。
安藤は、この日から週番勤務のため、出席していない。
磯部から安藤参加の報を聞いた栗原らは、おそらく快哉を叫んだことと思われる。
安藤の参加によって兵力の目鼻もつき、蹶起の日時 ・襲撃の目標などがほぼ確定した。
その概要は、次のとおりである。( 以下、村中の第二回公判における供述による )
①  二月二十六日午前五時を期して一斉に蹶起すること
②  栗原は一隊を指揮して首相官邸を襲撃し、岡田内閣総理大臣を殺害すること
③  中橋は一隊を指揮して高橋蔵相私邸を襲撃し、同人を殺害した後、できれば坂下門を警護し、奸臣と目される重臣の参内を阻止すること
④  坂井は一隊を指揮して齋藤内大臣私邸を襲撃し、同人を殺害すること
⑤  安藤は一隊を指揮して鈴木侍従長官邸を襲撃し、同人を殺害すること
⑥  河野は一隊を指揮して湯河原に滞在中の牧野前内大臣を襲撃し、同人を殺害すること
⑦  野中は一隊を指揮して警視庁を襲撃 ・占拠し、警察権の発動を阻止すること
⑧  丹生は一隊を指揮して陸軍省 ・参謀本部 ・陸相官邸を占拠し、村中 ・磯部 ・香田らは陸相に面会して事態収拾につき善処方を要望すること
⑨  田中は野戦重砲兵第七聯隊の自動車数台をもって、兵員の輸送業務に従事すること
⑩  對馬ら豊橋部隊は、興津の西園寺別邸を襲撃し、同人を殺害すること
⑪  村中は香田 ・澁川 ・安田・中島に、磯部は安藤 ・田中 ・山本に、栗原は對馬 ・中橋と歩一の蹶起将校に、安藤は歩三の蹶起将校に、各連絡を取ること
⑫  合言葉は 「 尊皇討奸 」 とし、同志の標識は三銭切手とすること
以上が、この日決定された主要な事項であった。
蹶起日時の決定理由は、村中の供述などを総合すると次のとおりである。
近歩三が二月二九日から野営演習に出発の予定であり、又第一師団の部隊も三月上旬から演習に出かける。
さらに、二月二二日から歩一では山口が、歩三では安藤が週番司令に当っているが、
その山口は二七日から野営演習に出発する。
このような事情から、「 襲撃準備及ビ兵力出動上ノ便宜等ヲ考慮シテ、二十六日午前五時ニ決行スルコトニ決定 」 した。
まさに、可能な範囲内ぎりぎりでの選択であった。
襲撃目標選定の理由について、村中は次のように述べる。
「 国体破壊の元凶 ・統帥権干犯の不義を討ち取るのが趣旨であった。
 具体的には、次のとおり。
西園寺公は、
内閣首班に関する奏請が當を得なかったため、国政を非に導いた。
とくに、統帥権干犯のロンドン条約に関係した齋藤 ・岡田を首相として奏請した責任は重大である。
牧野前内大臣は、
ロンドン条約当時における統帥権干犯に直接関係し、伏見宮の奏上を阻止した。
齋藤内大臣は条約派の巨頭であり、眞崎教育総監更迭につき林陸相を鞭撻し、軍の統帥に容喙ようかいした。
牧野と結託して、重臣ブロックの中心として国政を誤った人物である。
鈴木侍従長は、
条約派の巨頭であり、君側にあって聖明を蔽っている。
岡田総理大臣は、
条約派の一人であって、無為無策にして国政を誤る。
とくに、天皇機関説問題に関する国体明徴においても、その処置は不当である。
高橋大蔵大臣は、
正当の巨頭として参謀本部廃止論を唱え、皇軍親承の基礎を危くする人物である。
また、現在の経済機構を維持しようとして、国防を危殆に瀕せしめている。」
二三日、栗原は夫人を連れて豊橋に赴き、前日の決定事項を對馬と竹嶌に伝達し、その夜は豊橋に泊まった。
その際彼は、小銃用実包二、〇〇〇発を持参し、竹嶌の下宿に運んでいる。
これは、栗原が一年ほど前から実弾演習の都度へそくって、自宅に隠匿していたものである。
夫人を同伴したのは、憲兵の目をごまかすためであった。( 栗原 ・第八回公判 )
・・・(11)
旅行に誘われ、うきうきとして栗原に随行した夫人であったが、
豊橋に着くや否や、来客によって次の間に追いやられたり、
夫から宿に置きざりにされたりした。
彼女は、憤懣やるかたのない当時の気持ちを次のように述べている。( 栗原玉枝 ・検察官聴取書 )
「 私ハ一人寂シク取殘サレ、何ノ爲ニ豊橋マデ來タノカ譯ガ判ラズ、腹立タシク感ジテ居リマシタ。
其ノ内ニ安秀ハ帰ツテ來テ寝ミマシタガ、明朝ハ早ク帰京スルノダト申シマスノデ、益々憤慨致シマシタ 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四  二三日朝、村中は前日まで旅団現地戦術のため出張中だった香田の自宅を訪れ、
  前日の決定事項を伝えた。
その夜、歩三の週番指令室に安藤 ・野中 ・香田・村中 ・磯部が集り、
前日決定した計画内容を再確認し、これを更に詰める協議がなされた。
この席で、新たに、襲撃目標に渡邊教育総監を追加することが決められ、
坂井部隊のうちの高橋 ・安田両少尉が、齋藤邸襲撃後に一部兵員を指揮して担当することとされた。( 磯部 ・第五回公判 )
渡邊の襲撃は、彼が天皇機関説信奉者であり、教育総監として不適任という理由によるものであった。( 村中 ・第二回公判 )
反乱計画は、この日の謀議によって完全に固まった。
二四日夜、歩一の週番指令室に村中 ・磯部 ・野中 ・香田 ・栗原が集合して、最後の打ち合わせを行った。
なお、この日の中橋は、中橋中隊が二六日当日り御守衛控隊の当番に当たっていることを知り、
午後二時頃歩一に行ってこれを栗原に伝えている。( 中橋 ・第一一回公判 )
控隊とは、非常事態に備えての宮城警備の予備隊である。
栗原はこれを聞いて、天祐と喜んだという。
異常事態発生を理由に、中橋が控隊を指揮して出動し、宮城に入る口実が与えられたからである。


45 二・二六事件行動隊裁判研究 (一) 『 第三章 出動命令 』

2016年04月26日 19時06分39秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
一  問題の存在
二  旧陸軍の組織と規律
第二章  反乱の謀議
一  反乱の誘因
二  謀議の成立
第三章  出動命令
一  歩兵第三聯隊
二  歩兵第一聯隊
三  近衛歩兵第三聯隊
第四章  反乱行為の概要
一  反乱罪の成立
二  二月二六日午前
三  二月二六日午後
四  二月二七日
五  二月二八日
六  二月二九日 ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  追訴
第六章  公判審理
第七章  判決
第八章  結語  ( 以上四七号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第三章  出動命令
一  歩兵第三聯隊
反乱部隊中最大の兵力を動員した歩三における中心人物は、
二月二二日 ( 土曜日 ) の午後から週番司令の任についた安藤輝三大尉 ( 陸士三八期 ) である。
歩三での反乱は、この安藤週番司令を軸として展開される。
安藤は、二月二五日夜聯隊の兵器委員助手新正雄軍曹 ( 第一中隊 ) を呼び、
週番司令として弾薬を出せと命じ、各部隊に分配させている。
記録によると、安藤が不法に持ち出させた弾薬は、
小銃実包四八、九六〇発、重機実包八、六二〇発、拳銃実包二、六七四発などであった。

1  第一中隊
一  その週、第一中隊 ( 中隊長矢野正俊大尉 ) の週番士官は、隊付の坂井直中尉 ( 陸士四四期 ) であった。
  坂井は、士官候補生時代に菅波三郎中尉 ( 当時 ) の薫陶を受け、その後は安藤の指導を受けた急進派の一人であった。
彼は第一大隊副官代理の職にあったので、兵たちとのつながりは薄かったが、
隊付将校の高橋太郎少尉 ( 陸士四六期、聯隊騎手 ) と麥屋清濟少尉 ( 特別志願将校 ) に対しては、
日頃から革新思想を吹き込んでいた。
坂井は、二月九日結婚したばかりであった。
ちかく大事の決行を予想しながら結婚したことについて、彼は次のように述べる。
「 私ハ、現在ノ様ナ結果ニナルトハ、夢想ダニシナカツタノデス。
 宛モ部隊ガ出動スル以上ハ必勝ヲ確信シテ居リマシタ。
私共ハ、吾々ガ破壊行為ヲ以テ維新ノ契機ヲ作リサヘスレバ、
上層部ノ方々モ之ニ應ジテ建設的ナ方向ニ努力シテ呉レルモノト期待シテ居タノニ、
斯ノ結果トナツタ事ヨリ考ヘルト、私共ガ上層部の人々ニ對スル認識ガ不足デアツタト斷ズルヨリ他ハアリクセン 」
( 第二回予審調書 )
幼稚とさえもいえるくらいの楽観的な状況判断が、若い彼らを気軽に蹶起に駆り立てたのである。
二月一九日午後七時頃、村中孝次が坂井の家を訪れた。
彼は、坂井の士官学校予科時代、所属中隊の区隊長であった。
村中は坂井に、近く在京同志によって昭和維新を斷行すると告げて参加を勧誘し、坂井の快諾を得た。
このとき村中は、坂井の襲撃目標が齋藤内大臣であることを伝えたものと思われる。
というのは、二二日の午後坂井は高橋に対して、齋藤襲撃を予告し、身の回りを整えておくようにと指示しているからである。
二  二三日の日夕点呼 ( 午後八時 ) 終了後、坂井が週番士官としての報告に週番指令室へ赴いたところ、
  前述の安藤 ・野中らの協議の場に出くわした。
その場で安藤は坂井に、
二十六日午前五時を期して蹶起すること、
君の部隊は齋藤内大臣と渡邊教育総監の襲撃を担任することになったので、研究しておくこと、
砲工学校の安田少尉も君の部隊に加えること、
安田は渡邊邸の附近に居住しており、状況に明るいから、渡邊襲撃は安田に任せること
などを支持した。
これを受けて坂井は、翌二四日麥屋に、近く奸臣を襲うから軍刀と拳銃を準備するように促した。
そして、二五日夕刻高橋 ・麥屋に対して、二十六日午前〇時週番司令の命により非常呼集を行い、
午前五時に決行することを告げ、両名から参加の同意を取り付けた。
なお坂井は、二四日夜高橋 ・麥屋を従えて齋藤内大臣私邸の周囲を偵察し、
続いて単独で、内大臣官邸の状況を偵察している。
  坂井は、二五日午後七時四〇分頃週番指令室に招致され、安藤から、俺が全責任を負うと付言された上で、
  週番司令命令を受領した。
その内容は、
第一、第二中隊、機関銃隊四個分隊を指揮して齋藤内大臣を襲撃し、
その後高橋、安田両少尉に軽機二分隊を付して、渡邊教育総監を襲撃させよ、
というものであった。
坂井は、他中隊である第二中隊の兵を使用することは統帥系統を紊すのではないかと考え、
安藤に意見具申をして、下士官のうち参加希望者のみを引率することにした。( 坂井・予審調書 )
午後八時五〇分頃、坂井は第一中隊の下士官全員を将校室に集め、
午後一二時に歩一 ・歩三 ・近歩三全部が非常呼集を行い、奸賊をやっつける、
第一中隊は週番司令の命により齋藤内大臣と渡邊教育総監を襲撃する、後に時間はあるからよく休んでおけ、
と指示した。
寝耳に水の下士官たちは、先任の末吉常吉曹長を中心に協議したが、結論が出ない。
午後一二時一〇分頃、下士官全員は高橋から呼ばれて集合し、携帯口糧 ・弾薬などを受領し、
午前一時近くに兵を起して出動準備を命じた。
下士官たちの反応は、
週番司令の命令だから仕方がないと思う者、
将校のいうことだから悪いことではないと考えた者、
三個中隊も出るのだから間違いないだろうと思った者
などさまざまだったが 「 命令 」 に異議をを唱える者は一人もいなかった。
しかし、末吉曹長と中島政二軍曹は、固有の中隊長がいるのに坂井中尉が出動を命じるのは、統帥関係からいっておかしいと考え、
炊事場裏り柵を乗り越えて脱走し、青山北の屋の中隊長宅に注進に及んだ。( 末吉、中島 ・検察官聴取書 )
このようにして第一中隊 ( 将校三、下士官八、兵一四三 ) は、第二中隊と配属された鳥羽軍曹が率いる機関銃隊四個分隊の兵を加え、
午前三時五〇分舎前に成立した。
部隊は、坂井の訓示を受けた上、四時一〇分隊伍を組んで営門を出発し、四谷區仲町の内大臣齋藤實の私邸に向かった。
部隊には、前述の安田少尉 ( 野砲兵第七聯隊、陸軍砲工学校分遣中 ・陸士四六期 ) が同行している。

2  第二中隊
  第二中隊 ( 中隊長梶山健大尉 ) には、
  以前坂井が思想的に指導した渡邊清作と、
昭和九年以来安藤から指導を受け、彼に心酔している長瀬一伍長がいた。
坂井は、二五日午後一二時頃この二人ほか数名の第二中隊下士官を、第一中隊下士官を集めたところに呼び寄せ、
昭和維新を断行し、齋藤 ・渡邊を襲撃することを告げた上、第二中隊は將校がいないから、
下士官だけが坂井の指揮で行動することになるが、決心はどうかと尋ねた。
渡邊によると、「 私ハ各部隊ガ出動シ、国賊ヲ殺シテ陛下ノオ心ヲ安ンジ奉ルナラバ結構ダト考へ、
参加ノ決意ヲナシ、他ノ下士官一同ト共ニ、同行シマスト申上ゲマシタ 」 という。( 予審調書 )
また長瀬は、坂井の命令に服した理由として、
別に命令服従の関係にはないが、私は一同志としてその指揮下に入ったのである
と述べている。( 予審調書 )
一本釣りをされるだけあって、第二中隊の下士官たちの意識は高かったようである。

二  中隊に戻った渡邊たちは、信頼できる二年兵一二名を他の兵たちに気づかれないように起こし、
  静粛裡に武装を整えさせた。
兵の同行については、坂井と下士官の言い分が少し違っている。
坂井によると、下士官の方から、信頼する兵を連れていきたいという要望があったので許したというが ( 坂井 ・予審調書 )、
蛭田正夫軍曹によると、「 第二中隊ハ將校ガイナイカラ、軽機ト射手ヲ出せ 」 と命じられたという。( 蛭田 ・予審調書 )。
っとも、小原竹次郎軍曹は、必要ならば二年兵を連れて行けと言われたと述べているから、( 小原 ・予審調書 )
ここらが真実かもしれない。
いずれにせよ第二中隊からは、下士官六名と兵一二名が、第一中隊に合流する形で参加した。
一同は出発直前中隊の廊下に整列し、週番士官小澤特務曹長を起こし、渡邊が代表して、
「 非常呼集ガ掛カリマシタカラ、行ツテ參リマス 」 と申告している。
そして、寝ぼけまなこの小澤と、「 何処ヘ行クノカ 」 「 ワカリマセン 」 という珍問答を交わして出発した。( 長瀬 ・予審調書 )

3  第三中隊
  第三中隊 ( 中隊長森田利八大尉 ) の隊付将校に清原康平がいた。
  彼は前年九月に少尉に任官したいわゆる新品少尉で ( 陸士四七期 )、坂井と同様に二月九日に結婚したばかりであった。
清原は士官候補生の頃から革新思想に染まっており、任官後は安藤の感化を受けていたが、
未だ確固たる信念を抱くまでには至っていなかった。
二二日午後、清原は、乱暴な言動のために日頃何かと注意を受け、
苦手としていた坂井から、昭和維新を斷行するから第三中隊も出よとハッパをかけられ、
その勢いに呑まれてこれを承知してしまった。
しかし、悩んだ彼は信頼する安藤のもとへ相談に行った。
安藤は彼に北一輝の日本改造法案大綱を与えている。
二十四、清原は安藤に呼ばれ、今週中に昭和維新をやるかも知れないから、
第三中隊の週番士官に交代 ・服務するように求められた。
彼はこれを承諾し、猪俣特務曹長と交代して、二五日午前九時三〇分から週番勤務についた。
二五日午前一〇時頃週番指令室へ申告に赴いた清原は、安藤から、
「 明二十六日昭和維新を斷行スルガ、週番司令ノ命令ヲ出スカラ第三中隊モ出ヨ。 今度ノコトハ鼻歌ヲ唄ツテ居テモ出來ル 」
「 歩一ノ栗原中尉及村中、磯部カラ初メ相談ヲ受ケタトキハ斷ツタガ、熟考シテ之ニ参加スルコトニシタノダ。
  オ前モ一緒ニ行動セヨ 」
という指示を受けた。
清原は安藤に心服していたのと、週番司令の命令といわれたことから、蹶起への参加を決意した。( 清原 ・予審調書 )
午後二時頃、清原は野中大尉から、第三 ・第七 ・第十中隊は野中の指揮で警視庁を襲撃 ・占拠することを告げられた。

  二五日午後八時頃、清原は安藤から、午後一二時に非常呼集を命ぜられ、服装 ・携行品等についての指示を受けた。
  中隊に戻った彼は、下士官一〇名を集め、昭和維新断行のこと、襲撃目標は警視庁であることなどを告げた。
彼は、「 下士官ニ對シ、蹶起ノ趣意ヲ説明シタトカ、同志トシテ参加サセタモノデハアリマセン。全ク命令ニ據ルモノデアリマス 」
と述べている。( 第一六回公判 )
下士官にはこの命令に疑問を持ち、中隊長 ・大隊長 ・連隊長は、この行動をご存知かと尋ねた者もあった。
これに対して清原は、高圧的に次のように答えている。
「 オ前たちハ心配スル事ハナイ。週番士官ハ週番司令ノ命令ニヨルノデアル。
 オ前達ハ、週番士官デアル自分ノ命令ニヨツテ指揮スル。
聯隊内ニオイテハ、隊長不在ノトキハ週番士官ガ指揮シ、中隊ニオイテハ、隊長不在ノトキハ週番士官ガオ前達ヲ指揮スル。
コノ計劃ヲ他人ニ洩ラスト、雄前達ニ對シテトル手段 ・処置ヲ選バヌ 」 ( 関根武雄 ・予審調書 )

三  こうして第三中隊 ( 将校一、下士官一〇、兵一四一 ) は、午前四時機関銃隊一個分隊を含めて舎前に整列し、
  四時二五分頃野中大尉の指揮で、第七 ・第十 ・第三中隊の序列で出発した。
営門では、見送りの柳下中尉 ( 機関銃隊週番士官 ) が泣いていた。
清原はそれを見て、「 自分ハ部下ト一緒ニ行動出来ルノハ有難イ 」 と思ったという。( 将校班第一六回公判 )

4  第六中隊
  第六中隊の中隊長は、週番司令の安藤自身である。
  二五日の午後八時過ぎ、安藤は帰宅した営外居住の永田露曹長を非常呼集の名目で呼び寄せた。
安藤は、午後九時頃下士官全員を集めて、
「 いよいよ昭和維新を斷行する。第六中隊は鈴木侍従長を討つ。
 皆には気の毒だが迷惑はかけないから、命令と思って実行してくれ。
任務については不平を漏らしてはならぬ 」
と告げ、第一小隊長を永田曹長、大ニ小隊長を堂込曹長とする編成を示し、
「 第一小隊は通用門から、大ニ小隊は表門からそれぞれ侍従長官邸に侵入せよ。
兵には靖国神社参拝と伝えよ 」 
と指示した。
安藤は公判で次のように述べる。
「 コノ下士官ニ對スル命令モ形式デアリマシテ、実質ハ同志デアリマス。
 私ハコノ形式ガ命令デ実質ガ同志デアルト自惚レテ居タノデアリマス。
下士官ガ其ノ内容ヲ知ツテ居ルカラ罪ニナルト云フ様ナ考ヘデ以テ審判サレルコトハ、遺憾デアリマス。
命令ノ形式ヲ以テ達セラレタルコトニ服従シタコトガ罪ニナルト云フノハ、皇軍ヲ破壊スルモノデハナイカト思ヒマス。」 ( 将校班第一二回公判 )
二  永田は、鈴木を討つ理由を聞こうとして 「 意見具申ガアリマス 」 と申し出たが、
  「 今ハ忙シクテ聞イテ居ラレナイ 」 とはねつけられてしまった。( 永田 ・乙班第六回公判 )
奥山軍曹は、あまりにも穏やかでない安藤の言葉に震えていると、「 奥山、大丈夫カ 」 と声を掛けられ、
思わず 「 大丈夫、行キマス 」 と答えたという。( 奥山粂治 ・同班第八回公判 )
永田と堂込は、部屋に戻って困ったなと話し合ったが、
意見具申も聞いてもらえないし、命令だから従うほかはないという結論になった。
永田はそのときの心境を、
「 軍隊とは残酷なものだ、こんなときは、身体の具合でも悪くなってくれたらいいがとさえ思った 」
と述べている。( 予審調書 )
進退に窮した門脇軍曹は、大急ぎで軍人勅諭、讀法、軍隊内務書を開いて研究した。
しかし、どこにも答えが見つからず、結局命令に服従するしかないと考えたという。( 門脇信夫 ・予審調書 )
相澤治策伍長は、法廷で 「 命令であれば、悪いことでも自分はやる 」 と述べ、
法務官と次のような押し問答をしている。( 同班第八回公判 )
「 問  ソウスルト、連隊長ヲ殺セ、大隊長ヲ殺セ、ト云ハルレバ何ウカ
 答  其ノ命令ニ對シテ不服ヲ云フナト云ハルレバ、連隊長デアラウガ、大隊長デアラウガ殺シマス。
  良カラウガ惡カラウガ、命令ニハ變リハナイト思ヒマス。
問  強盗シテ來イト中隊長ニ云ハレタ場合、之ラ對シ不服ヲ云フナト云ハレタナラバ、何ウスルカ
答  ヤリマス
また、大木伍長は、やむなく中隊長について行ったと述べたところ、彼が出動中に認めた手紙に、
「 尊皇討奸 軍の分隊長として、死を賭して戦っている 」 とあることを指摘され、法務官から、
「 心にもないことを手紙に書くはずはないではないか 」 「 それでも被告人は軍人精神を持っているのか 」
と叱責されている。( 前同班公判 )

  第六中隊 ( 将校一、下士官一一、兵一四七 ) は、
上村軍曹指揮の機関銃隊四個分隊を含めて、
  午前三時三〇分頃舎前に整列を終わった。
部隊は、安藤の 「 靖国神社に向かって前進 」 という号令の下に、
その実は麹町区三番町の鈴木侍従長官邸に向って出発した。

5  第七中隊
  第七中隊の中隊長は、逡巡する安藤を叱咤した野中四郎大尉である。
  彼は陸士三六期生、反乱将校中の最古参者であり、「 蹶起趣意書 」 の名義人でもあった。
野中は反乱の陰謀に参画しているから、改めて安藤が指示 ・連絡をする必要はない、
ただ、隊付将校の常盤稔少尉 ( 陸士四七期、新品少尉 ) は、士官候補生時代から安藤が指導した革新派の一人であるから、
彼に呼びかける必要があった。
二四日午後三時頃、常盤は野中と安藤に呼ばれた、
常盤は二人から、二六日早朝蹶起し、野中は警視庁を、安藤は鈴木侍従長をそれぞれ襲撃することを告げられた。
常盤はその場では態度を保留したが、一晩考えた末、参加を決意した。
彼は予審官に対して、その理由として、平素から野中と安藤の人格に敬服しており、
この日とたちの傍ならいつでも死ねると覚悟ができたからだ、と答ている。( 予審調書 )

  野中は、二五日午後一時頃中隊付の桑原特務曹長 ( 週番士官 )、須藤特務曹長、堀曹長を呼び、
  相澤中佐に続いて昭和維新を斷行しなければならないことを熱心に説いた。
桑原は涙が出るほど感動し、「 自分についてくるか 」 と言われてその意気に感じ、即座にこれを承諾した。
このときの話は、日頃温和なの中に似ない激烈な口調だったので、三人は中隊長が何かダイジヲ計画していることを察知したという。( 桑原雄三郎 ・予審調書 )
午後二時頃、野中は常盤、清原 ( 第三中隊週番士官 ) 及び鈴木 ( 第十中隊週番士官 ) を読んで、
第三 ・第七 ・第十中隊は野中の指揮により、警察権の発動を阻止するため警視庁を占拠することを告げ、必要な指示を与えた。
午後九時頃、野中は中隊の准士官 ・下士官全員を集め、蹶起の趣旨と警視庁を襲撃することを告げ、
あわせて、「 これは命令ではない 」 「 命令とすれば、私兵化することになる。同志としてやってもらいたい 」
「 一兵に至るまで同志として取り扱う。兵に対しても、班長からその趣旨をよく説明せよ 」
「 行きたくない者は行かなくてよい 」 などと、懇々と説明した。( 桑原、堀宗一、田島粂次、関根安司ら 甲班第七回公判、
富田正三、園田長太郎、遠藤猛雄ら ・同班第八回公判 )
その途中で、鈴木少尉に率いられた第十中隊の下士官たちが会合に加わった。
中隊長の決意に深く感動した桑原特務曹長は、「 催眠術ニカカツタ様ニナリ 」 参加を決意した。
下士官たちは、最初は黙っていたが、野中から一人ひとり指名されて意向を聞かれると、
次々に全員が参加を承諾した。( 堀口秀暉 ・同班第七回、齋藤太郎 ・同班第八回 各公判 )
ただ、須藤文夫特務曹長は参加を拒み、桑原と週番士官を交代して隊に残った。

  二十六日午前二時頃、下士官が内務班をまわって静かに兵を起し、出動準備に取りかかった。
  常盤少尉が各般を巡回して、「 今度ハ本物ダカラシツカリ頼ムゾ 」 と云うと、
兵たちは皆にこにこしていたという。( 常盤 ・将校班第一六回公判 )
午前三時五〇分頃、第七中隊 ( 将校二、准士官一、下士官一一、兵一四二 ) は、
機関銃隊から配属された立石曹長指揮の六個分隊の兵を加えて舎前に整列した。
午前四時二五分頃、部隊は野中の指揮の下、警視庁襲撃部隊の先頭を切って営門を出て行った。

6  第十中隊
  第十中隊では、中隊長の嶋田信平大尉が歩兵学校へ分遣中のため、
新井勲中尉 ( 陸士四三期 ) が中隊長代理として隊を取り仕切っていた。
新井は見習士官時代に菅波三郎中尉 ( 当時 ) の薫陶を受け、爾来自他共に認める革新将校の一人であった。
しかし、前章で述べたように、彼は二月一二日の夜、直接行動を迫る村中 ・磯部に激しく反対している。
そのため安藤は、彼をさておいて、週番士官鈴木金次郎 ( 陸士四七期、新品少尉 ) を籠絡して、第十中隊を出動せしめたのである。
不在の間に部下を連れ出された各中隊長が、安藤に対して烈火のごとく怒ったのは当然である。
しかし、新井の場合はそれまで安藤に同志的心情を抱いていただけに、むしろ裏切られたという思いの方が強かったのではないだろうか。
しかも竜土軒の会合では、安藤も新井と共に蹶起に反対の立場をとっていたのである。
さだめし屈折した感情に苛まれたであろう彼は、後に反乱軍と鎮圧軍の板挟みとなり、
軍隊を率いて配置の地を離れたとして辱職の罪 ( 陸軍刑法四三条 ) に問われ、禁錮六年の刑に処せられている。
鈴木は、新井に連れられて相澤公判の報告会に難解か出席しているが、
思想的には問題のない温厚で従順な隊付将校であった。
新井は、「 鈴木が事件ニ参加するとは、夢想だにしなかった 」 と書いている。
・・・(3)  新井勲 ・前掲書 131頁
その鈴木が、二二日午後安藤週番司令のもとに週番士官の申告に行くと、安藤から、
「 貴様もやっと俺の部下になった。かねて話をしていた昭和維新を斷行する。週番司令命令を出すから腹を決めておけ 」
と云われた。
驚いた彼が、週番司令にそのような権限があるのですかと尋ねると、
「 非常ノ場合ダカラ出來ル。心配ハ要ラヌ。今度ノコトハ鼻歌ヲ唄ツテ居テモデキルコトダ。
 万一間違ヘバ俺ガ全責任ヲ負フ 」
という返事が返ってきた。( 鈴木 ・予審調書 )
二五日、大久保の射場で兵を訓練していた鈴木は、安藤の招致で急ぎ聯隊に戻り、
「 二六日早朝断行する。第十中隊は野中大尉の指揮に入る。同大尉の區署を受けよ 」
という命令を受けた。
鈴木が、新井中隊長に参加するかどうかを聞いてくるといったところ、
「 新井ハ心配シテイルカラダメダ、イクナ 」 と静止されてしまった。
次いで、野中から警視庁を占拠する手順を指示された鈴木は、なおも心配で同期生の常盤に相談すると、
「 一カ八カ遣ルノダ、二十三年モ生キタカラ、モウヨイデハナイカ 」 といわれ、
「 命ヲ惜シンデイル様ニ思ハレルノガ嫌デ黙ツテ 」 しまった。
一旦射場に戻った鈴木は、帰隊後さらに同期生の清原に相談したところ、
同人も参加するというのでようやく決意したという。( 鈴木 ・将校班第一七回公判 )
予審官に対しては次のように述べている。
「 当時ノ私の心境ハ、安藤大尉カラ鼻歌ヲ唄ツテ居テモ容易ニ昭和維新ガ斷行出來ル様ニ云ハレタノデ、
 簡単ニ考ヘテ居タノデ、演習ニデモ行ク様ナ気持デアリマシタ 」 ( 予審調書 )
安藤の巧みな誘導に引っかかった鈴木は、深刻に考えもせず、安易に参加を承諾したのではないだろうか。
そうでなければ、いかに安藤から口止めされようと、直属上官でしかも革新派の新井中尉に相談しないはずはない。

  鈴木は二五日午後九時頃中隊の下士官を集め、今夜非常呼集があることを告げ、服装 ・携行品などについて指示を与えた。
  彼は、蹶起については詳しく触れず、詳細は野中大尉から聞くようにと云って、一同を第七中隊の将校室に同行した。
下士官たちは、そこで前述の野中の話を聞き、「 同志として 」 蹶起に参加を求められていることと、
自分達の攻撃目標は警視庁であることなどを初めて知った。
下士官の中で意識が高かったのは、伊高花吉軍曹である。
彼は、二月中旬昭和維新を斷行しなければならぬしいう安藤の意見を聞き、これに共鳴していた。
安藤は彼の初年兵時代の教官であった。
伊高は予審官に対して、われわれは重臣ブロックを打ち攘うために蹶起したと述べている。( 予審調書 )
伊高が鈴木 ・野中の誘いに進んで応じたことはいうまでもない。
その他の下士官たちも、命令によってではなく、「 同志として 」 決起に加わることを承諾した。
新井軍曹のごときは、風邪で二四日午後から就寝していたが、二六日午前二時頃出動準備の物音で目覚め、
兵たちが悲壮な覚悟で出動することを知ると、一旦引き受けた週番下士官の任務を返上して、
「 政府が悪いなら退治してやる 」 つもりで参加を決意した。( 新井維平 ・予審調書 )
また、伊澤軍曹は、これは大変なことになると思って悩んだが、信頼する鈴木少尉が決心したし、
兵もでるのであれば、武士道からしても出なければならないと考えて決意したという。(井澤正治 ・甲班第九回公判 )

  兵たちは、二十六日午前〇時三〇分頃確内務班長から静かに起こされ出動準備を命じられた。
  第四班長の福島伍長は、野中から 「 同志として出てくれ 」 「 自分と同じ考えの者は、自分の指揮下に入ってくれ 」
とくれぐれもいわれたので、とくにこのことを兵に伝え、その意思を確かめたで参加させたという。( 福島理本 ・予審調書 )
第十中隊 ( 将校一、下士官九、兵一三二 ) は、午前三時五〇分頃機関銃隊隊一個分隊を含めて舎前に整列し、
四時二五分頃 野中の指揮の下、第七中隊に続いて警視庁に向って出発した。

7  機関銃隊
  機関銃隊とは、当時の歩兵部隊としては重要な火器の重機関銃 ( 射程距離約四、〇〇〇メートル、発射速度毎分四五〇発 )
  を擁する舞台である。
この隊を動員できれば、反乱軍の戦力は倍増する。
しかし、同隊 ( 機関銃隊内堀大尉 ) の週番士官は、革新派とは無縁の柳下良二中尉 ( 陸士四五期 ) であり、
参加の同意を取り付けることは期待できなかった。
そこで安藤は一計を案じた。
二六日午前〇時過ぎ頃、安藤は一人柳下を週番指令室に招致し、
週番司令として、相澤公判の進行に
伴い帝都に不穏の情勢があるから警備につく、
機関銃隊は一六分隊を編成し、これを野中部隊に八、坂井 ・安藤部隊に各四宛分属せしめよ、
と指示した。
しかしこの命令がでたらめなことは誰にでも判る。
治安維持のための出動は、東京警備司令官の命令によらなければならない。
そのような非常事態に、連隊長を始めとする幹部将校が、一人も聯隊に来ていないはずはない。
さらにまた、聯隊が暴徒に襲われたような緊急事態であればともかく、市内警備のために週番司令が出動を命じるのは明らかに越権である。
命令の真偽を疑った柳下が黙ったまま立っていると、安藤は高飛車に、
「 週番司令ノ命令ヲ週番士官ガ受クルコトハ、何等懸念スルコトハナイ。直ニ行ツテ処置セヨ 」
と決めつけた。
萎縮してしまった柳下は、直に隊に戻って下士官を集め、出動準備を命ずる一方、銃隊長の自宅に使いを走らせた。( 柳下 ・予審調書 )
安藤は、命令を与えたときの柳下について、「 悲壮ナ顔色ヲ爲シ、涙ヲポロポロ出シテ煩悶はんもんシタ状態 」 であり、
事態を直感したと思うと供述している。( 安藤 ・予審調書 )
実は、柳下は二三日午後坂井から、情勢が逼迫しているのでいつ兵力を出さねばならぬかも判らぬが、
その場合には機関銃隊も参加するかどうか打診され、返答に窮したことがあった。
柳下は、その日の夕方これを内堀銃隊長に相談したところ、
「 そんなバカな事態はない。もしもそのような要求があったときは、速やかに自分に報告せよ。
 自分の不在中は一兵たりとも出してはならぬ 」
と厳しく云われていたのであった。( 柳下 ・第二回予審調書 )
しかし、頼みの綱の銃隊長は、二四日から豊橋に出張中で不在であった。
万事休した柳下は、すべてをことの成り行きに任せてしまった。
すでに彼は出動準備の過程で、野中部隊が警視庁へ、坂井部隊が齋藤内大臣邸へ向かうことなどを察知していた。( 柳下 ・第二回公判 )
「 お前たちだけを見殺しにはしないから、しっかりやってこい 」
と部下を励ました柳下は ( 長島武雄 ・予審調書 )、営門で出動する舞部隊を
涙ながらに見送っている。

  銃隊付の立石利三郎曹長は、昭和七年頃菅波三郎中尉 ( 当時 ) から革新思想の洗礼を受け、
  その後も安藤の指導を受けた人物であった。
二月二五日午後六時四〇分頃、立石は安藤に呼ばれ、重機関銃の数 ・性能などについて突っ込んだ質問を受け、
さらに銃隊にはお前のような考えを持った者がほかにもいるかなどと尋ねられて、はっと思ったという。( 立石 ・同班第九回公判 )
二十六日午前一時頃、柳下は立石以下の下士官全員を集め、
「 週番司令の命令により、銃隊長に代って命令する。市内の暴動を鎮圧するため、次の区署により出動する。
 第一 ・第二 ・第三班は八個分隊を編成し、立石曹長を長として野中大尉の指揮
を受けよ。
第四班は四個分隊を編成し、松井軍曹 ( 後に上村軍曹に変更 ) を長として安藤大尉の指揮を受けよ。
第五班は四個分隊を編成し、鳥羽軍曹を長として坂井中尉の指揮を受けよ。
第六班は予備とする。
二年兵は全員出動、不足の場合には初年兵を当てよ、午前三時までに準備を完了せよ 」
という命令を出した。( 立石、上村盛満 ・予審調書 )
一個分隊は兵八名で編制され、重機一銃を擁する。
したがって、第三聯隊から出動した重機は、全部で一六銃である。
銃隊の重機は合計で一八銃だったから、そのほとんどが出払ったことになる。
柳下の命令を聞いた立石はおそらくピンと来たであろう。
その後彼は野中に会って警視庁襲撃を告げられ、確実に出動の意図を知った。
だが彼は在京部隊が全部でるというので、あえてこれに参加する気になった。( 立石 ・予審調書 )
しかしその他の下士官たちは、柳下の命令を額面通りに受け取って、出動の準備に取りかかった。

  野中部隊に區署 された八個分隊のうち、六個分隊が第七中隊に、残りが一個分隊ずつ第三 ・第十中隊に欠く配属された。
  第一分隊長の長島伍長は、整列後に立石から警視庁に行くと云われて変だなと思った。
しかし行進の途中で常盤少尉から天誅を加えるのだと聞いて、初めて真相を悟った。( 長島武雄 ・予審調書 )
坂井部隊に配属された鳥羽軍曹は、聯隊を出発するときに、坂井から、
「 国賊齋藤内大臣を暗殺のため前進をめいずる 」 といわれ、変なことをいうと不思議に思いながら出動した。( 鳥羽徹雄 ・予審調書 )
彼は法廷で、
「 自分ハ夫ウ云フ話ヲ聞イタ時ハ、テンデ夢ノ様ニ思ヒ、何ウシテ暴動ガ起キタノカ不審ニ思ヒ、
 或ハ齋藤内府ガ暴動ヲ起シタト思ヒマシタ 」
と述べている。( 同班第五回公判 )
安藤部隊に配属された銃隊員は、前述のように、靖国神社に向かうという安藤の号令で出発した。
途中、陸軍省正門前で小休止が命じられた。
その時一同は安藤から、実は鈴木侍従長の殺害に向かうことを告げられ、暴動鎮圧という命令が嘘であったことを知った。( 上村 ・予審調書 )
機関銃隊から出動した兵力は、合計で下士官九名、兵一四七名であった。

二  歩兵第一聯隊
歩一には、首謀者の一人栗原安秀中尉 ( 陸士四一期、機関銃隊付 ) がいた。
彼は革新派の中でももっとも過激な男で、口癖のように 「 俺はやる 」 と言っていたところから、
「 ヤルヤル中尉 」 というあだ名を貰っていたという。
・・・(4) 松本清張 『 二 ・二六事件 』 第一巻 249頁 ( 一九八六年、武芸春秋 )
歩一の出動は、この栗原を中心に行われた。
1  第十一中隊
  第十一中隊では、昭和一〇年一二月香田清貞大尉 ( 陸士三七期 ) が第一旅団副官に転出した後、
  中隊長の補充がなく、隊付の丹生誠忠中尉 ( 陸士四三期 ) が代理を務めていた。
二月二五日朝、なにも知らずに聯隊に出勤した丹生は、栗原から明朝の決行を告げられた。
彼は、法廷で次のように述べている。
「 私ハ、栗原ヤ香田ト昭和維新運動ニ附テ同志トシテ交ツテ居タモノデアリマスカラ、
 斯ル場合ニハ決意セネバナラヌ立場ニアリマスノデ、参加スルコトニ決心シタノデアリマス 」 ( 将校班第八回公判 )
しかし丹生の心中はもっと複雑だったはずである。
彼は任官当初から栗原と親しく交際し、思想面で影響を受けていたが、直接行動についてはむしろ消極的だった。
二五日夜、香田は栗原に、「 特ニ丹生中尉参加ニ付、大丈夫カト念ヲ押 」 している。( 香田 ・憲兵調書)
蹶起後丹生は栗原から、すまなかったといわれたが、
「 決行シタ以上、斯カル言葉ハ言ツテ貰ヒ度クナイ 」 と答えたという。( 丹生 ・憲兵調書 )
彼は当番に命じて、自宅から軍刀二振を取り寄せた。
一振りでは、怪しまれるといけないと考えたのである。( 前同公判 )
丹生はその前年の四月に結婚したばかりであった。
丹生は襲撃目標とされた岡田啓介首相とは親戚関係にあり、首相秘書官の一人は叔父、一人は従兄であった。
彼は憲兵に、決行がその前日までに自分に知らされなかったのは、
このような関係から秘密が漏れるのを警戒したからではないかと述べている。( 憲兵調書 )
  二五日午後八時頃、丹生は栗原から明朝午前五時に決行すること、
  丹生の任務は、第十一中隊と機関銃隊の一部を指揮して、陸軍省 ・参謀本部 ・陸相官邸周辺を警戒し、
出入りを制限して、村中 ・磯部 ・香田らの上部工作を援護することなどを指示された。
これを受けて丹生は、午後一一時神谷曹長の部屋を訪ね、同人と豊岡、前田両軍曹に対して、
明朝を期していよいよやるのだ、午前二時頃下士官全員を集めよ、と指示している。
二十六日午前二時三〇分頃、丹生は下士官一一名を集め、蹶起趣意書を朗読してこれを各人に配布し、
中隊に与えられた任務を説明し、「 中隊長についてくるかどうか 」 を尋ねた。
その時彼は、
「 責任は俺が持つから安心してついてこい 」
「 全国一斉に起つ。夜が明ければ、山口週番司令が連隊長に報告し、聯隊全員を率いて来る 」
などと述べている。( 神谷光、豊岡久男、横川元次郎 ・乙班第四回公判、中村伊三郎、水澤益、坂本靜 ・同班第五回公判 )
下士官全員は、即座に丹生の勧誘に応じた。
前田仲吉軍曹は、かねてから栗原の指導を受け、埼玉挺身隊事件で検挙されたこともある筋金入りの人物であった。
彼は予審官に対して、
「 最初カラ自分達ノ行為ハ正シイト思ツテ居リマス。
 今デモ正シイコトヲシタト信ジテ居リマスカラ、少シモ後悔スルコトハ有リマセン 」
と公言してはばからなかった。( 予審調書)
しかし、その他の下士官たちにそれ程強い意識があったわけではない。
豊岡久男軍曹は、「 断ると不忠者とか、卑怯者といわれるような気がして承諾した 」 と述べ、( 第四回公判 )
河内禮雄軍曹も、「 中隊長から一緒に来るかと尋ねられた場合、われわの立場として断るわけにはいかない 」 と述べている。( 予審調書 )
もっとも、隊付の板橋三郎見習医官は、中隊の張りつめた空気に動かされ、誘われもしないのに自ら同行を申し出た。( 予審調書 )

  午前三時三〇分、中隊の全員に非常呼集が掛けられた。
  丹生は全員を舎前に整列させ、中隊は昭和維新断行のため蹶起すること、
任務は陸相官邸等の警備、出入者の制限であることなどを指示した。
午前四時三〇分頃、第十一中隊 ( 将校一、見習医官一、下士官一一、兵一五一 ) は、
配属された機関銃隊に個分隊も加え、丹生の指揮の下、機関銃隊の交尾に続行して営門を後にした。
香田清貞大尉、村中孝次、磯部淺一らの首脳部もこれに随行した。

2  機関銃隊
一  機関銃隊 ( 銃隊長小澤政行大尉 ) の週番士官は、林八郎少尉 ( 陸士四七期、新品少尉 ) であった。
  直情径行型の林は、その前年の一二月機関銃隊に配属されて以来、栗原の思想行動に共鳴するようになっていた。
決行の空気は、一週間ほど前から察知していたという。
二四日午後林から、二十六日午前五時を期して首相官邸を襲撃し、首相を殺害することを告げられ、即座に参加を承諾した。
二三日朝、林は同期生の親友池田俊彦 ( 少尉 ・第一中隊付 ) を訪ね、蹶起が間近いことを知らせた。
温厚実直な池田は、革新思想に共感を抱いてはいたが、矯激な栗原の言動にはむしろ批判的であった。
しかし、終日熟慮した彼は、挙軍一致でことが起る以上、自分も参加するしかないと決意し、これを林に告げた。
二五日午後七時頃池田は機関銃隊に行き、栗原に参加することを報告し、機関銃隊員としての區署を受けた。
彼は、兵を連れ出さなかったことについて、次のように述べている。
「 私ノ中隊ハ機関銃隊ミタ様ナ下士官兵ニ御維新ニ参加スル丈ケノ教育ガ出來テ居ナイコトト、
 又中隊長ガコノ運動ヲシナイ人デスカラ迷惑ヲ掛ケテハナラナイト思ヒ、更ニ不成功トナツタ時、
多数ノ兵員ヲ犠牲ニスルト思ツテツレテ行カズ、私一人参加シマシタ 」 ( 憲兵調書 )

  栗原には、実弾を入手するという重要な任務があった。
  弾薬庫の鍵は衛兵司令が厳重に管理し、その開扉と弾出しは、所定の手続きを経て、聯隊兵器委員助手によって行われる。
栗原は、午後八時半頃兵器委員助手の石堂信久軍曹を呼び、銃隊長の許可を得ていると称して弾出しを求めたが断わられた。
弾薬の臨時の授受には、兵器委員浅見中佐の許可が必要とされていたからである。
栗原は、石堂を通じて週番司令山口大尉の許可を求めた。
しかし、山口は栗原たちの蹶起を黙認していたにもかかわらず、弾薬の持出しだけは許さなかった。( 石堂 ・予審調書 )
一二時少し前、栗原は再び石堂を呼びつけ、弾を出すように求めた。
石堂がこれを拒否すると、栗原はいきなり拳銃を突きつけ、「 オ前ガ弾ヲ出サナケレバ、始末ヲシテモ持ツテ行クゾ 」 と迫った。
聖明の危険を感じた石堂は、やむなくこれを承諾し、衛兵所から鍵を受け取って弾薬庫の扉を開け、
同行した林少尉が兵に命じて弾薬を取り出すのを見守った。
持ち出した弾薬は、小銃実包二八、八〇〇発、重機実包三、三七九発、拳銃実包三、二〇〇発などであった。
石堂は、その後部隊の出勤直前まで、銃隊の将校室に監禁されていた。( 石堂 ・予審調書 )
二十六日午前二時三〇分頃、栗原は銃隊付の見習医官二名と下士官全員を集め、
蹶起趣意書を朗読した後、これから日頃話していた昭和維新を斷行するため、
岡田総理大臣を襲撃すると告げ、部隊の編成、服装、携行品、集合時間等を指示し、
直ちに非常呼集をせよと命じた。
彼は、「 命令トイウ言葉ヲ申シタコトハ絶対ニアリマセヌ 」 と言うが、
同時に、「 行動其物ハ明ラカニ命令形式ヲトツタ 」 ことを認めている。( 栗原 ・証人尋問調書 )
この点について、下士官たちは、口々に命令によって強制されたという趣旨の供述をしている。
しかし、彼らにとって栗原は、直属上官たる銃隊長ではなく、銃隊付の一教官に過ぎない。
その栗原が一方的に命令権を振り回すことは考えられない。
また 田嶋曹長が参加を断っているが、もし命令であればこのようなことはあり得なかったであろう。
彼と林は日頃から兵と下士官に対して、熱心に思想教育を行っていた。( 林 ・第一回予審調書、伊藤尚平 ・予審調書 )
その効果があったのではないだろうか。
これらの事情から、栗原が下士官に命令で参加を強制した事実はないとかんがえる。
栗原は、予審官から下士官 ・兵が加わった理由を問われ次のように答えている。
「 下士官 ・兵ハ 私が平素昭和維新ニ関シテ徹底的ニ教育ヲシテ居マスルシ、ソウ申上ゲテハドウカト思ヒマスガ、
 銃隊ノ者ハ皆銃隊長ヨリモ栗原、林ニ絶対ニ信頼ヲ持テ居ルノデスカラ、
個人的ニ摘出シナクトモ期セズシテ皆私達ト行動ヲ共ニスルニ至ツタモノデアリマス。
別ニ命令関係デ強制シテ譯デハアリマセン。
嫌ナモノハ其ノモノノ考ヘ通リ退カシテ、唯我々ノ秘密ヲ洩ラサヌ様ニシテ貰ヘバソレデヨイノデアリマスガ、
銃隊デハ殆ド全員参加シテ居リマス 」 ( 第二回予審調書 )
また栗原は証人尋問調書において、次のようにも述べる。
当時の雰囲気の一端が窺えるのではないだろうか。
「 ・・・実包ヲ持チ、当時ノ準備前後ノ空気、二年兵等ガ意気軒昂タル状況等ヨリ見テ、
 下士官ガ首相襲撃ノ実行ヲ疑ツテイタナドトハ到底判断デキマセヌデシタ 」
もっとも、全員が進んで積極的に参加したものでないことも、もちろんである。
栗原の指示に 「 非常ナ疑惑ト不安 」 を感じていた中川千代八伍長は、原隊に戻りたい一心から、
二七日午後六時半頃首相官邸で、誤って発砲したかのように装い、自ら拳銃で右手掌を撃ち抜いて病院に収容されている。( 中川 ・予審調書 )

  機関銃隊 ( 将校二 、見習医官二、下士官八、兵二七六 ) は、舎前で栗原の激越な訓示を受けた後、
  午前四時三〇分頃麹町區永田町の首相官邸を目指して営門を出た。
部隊には、前述の池田少尉のほか、對馬勝雄中尉 ( 豊橋陸軍教導学校付 ・陸士四一期 )、
尾島健次郎特務曹長 ( 歩一 ・歩兵砲隊 ) が加わっていた。
当日の衛兵司令は、第十中隊の関根茂萬伍長勤務上等兵であった。
営内を巡察していた関根は、午前三時四〇分頃機関銃隊の舎前で、兵が実包を持っているのを見た。
驚いた彼は、直ちにこれを山口週番司令に報告したが、山口は何の処置もとる様子がない。
関根が、「 衛兵司令として、黙っているわけにはいきません 」 と言っても、
山口は、「 銃隊の非常呼集だろう 」 と言って取り合わなかった。( 関根 ・予審調書 )
銃隊付の島田利治曹長は、当時週番副官として勤務していた。
島田も、関根から機関銃隊が実包を携帯しているという報告を受けたが、銃隊は平素実包を使用することが多く、
また演習後に射撃訓練をすることがあるので、深く留めなかった。
彼は機関銃隊の出門は夜間演習のためと思って、衛兵に命じて正門を開けさせ、これを見送った。
島田は銃隊に続いて出門した第十一中隊に、
歩一とは関係のない香田大尉と面識のない将校二名が随行しているのに気づいて、多少怪しんだ。
かれは直ちにこれを週番司令に報告したが、
山口から、香田は最近まで第十一中隊長だったのだから見学だろうと言われて納得したという。 ( 島田 ・予審調書 )

三  近衛歩兵第三聯隊
一  近歩三で反乱に加わった部隊は、中橋基明中尉 ( 陸士四一期 ) が中隊長代理を務める第七中隊だけである。
  栗原と同期の中橋は、栗原同様に過激派の一人であった。
彼は昭和九年埼玉挺身隊事件に関連する事件で満洲へ左遷されたが、同一〇年一二月近歩三に復帰の命令を受け、
同一一年一月一一日第七中隊長代理として着任した。
中橋は、二月二二日午後九時頃栗原宅を訪ねた。
この夜栗原宅では、村中 ・磯部 ・河野 ・栗原による最終謀議が行われていた。
かれは此の会合には出席せず、終了後に栗原から決定事項を知らされた。( 中橋 ・将校班第一一回公判 )
近歩三では、二九日から野営演習に行くため、二五日には日直勤務制がとられていた。
第七中隊の日直士官は筒井善吉特務曹長であったが、中橋は午後八時頃 「 野営準備のために隊に泊まるから、日直を代ってやる 」
という口実で筒井を帰宅させ、自ら日直士官となった。( 今泉 ・第二回予審調書 )
体よく邪魔者を追い払ったのである。

二  二五日午後五時三〇分頃、帰宅しようとしていた第七中隊の斎藤一郎特務曹長は中橋から呼び止められ、
話があるから今夜九時頃大江昭雄 ( 曹長、近衛師団司令部勤務 ) を誘って、一緒に来いといわれた。
齋藤と大江は、共に中橋が以前隊付をしていた第六中隊に勤務した関係で中橋と知り合った。
また大江は彼から思想教育を受け、これに共鳴した同志でもあった。
事件を予知した二人が軍装を整えて中隊へ行くと、中橋は明朝同志が一斉に蹶起し、
第七中隊は高橋蔵相襲撃を担任することになってい旨を打ち明け、参加を要請した。
齋藤は近衛の部隊が直接行動をとるのはよくないと諫めたが聞き入れてもらえなかったので、
中橋に対する情誼から行動を共にする決意をした。
また 、「 天皇親裁ヲ明ラカニスル爲ニ重臣ノ奸ヲ倒サナケレバナラナイ 」 と決心した大江は、参加を承諾している。
二十六日午前〇時三〇分頃、齋藤は中隊の下士官三名を集め、中橋の意図を伝え、
「 これは中隊長の命令だ。お前らは心配する必要はない。責任は中隊長にある 」 と決断を迫った。
三人は命令なら仕方がないと思ってこれに同意した。
下士官の一人、箕輪三郎軍曹は法廷で法務官から 「 聯隊長を殺せと言われても殺すか 」 と尋ねられ、
「 其当時ハ不法ノ命令デモ肯クト云フ様ナ気分デアリマシタ 」 と答えている。( 乙班第二回公判 )
中橋は 「 下士官を強要して連れていく気はなかった。自分が言うと自由に進退を決する事ができなくなるだろうと思い、
齋藤を通じて参加の諾否を聞かせたのだ 」 という。
そして彼らはある程度の理解を持って参加したと信じるが、「 今日ノ破目ニ陥ツテハ堅キ信念無キ彼等トシテハ、
 或ハ全然私共ノ強要ノ下ニ引キ摺ラレテ行ツタカノ如ク述ベルカモ知レマセヌ 」 と述べる。( 中橋 ・証人尋問調書 )
しかしこの点については、齋藤の
「 中橋は着任なお日が浅く、下士官にあまり親しみがなかった。先任者である自分を引き入れて勧誘させたのは、
 そのためであろう 」 という供述の方に説得力がある。( 乙班第九回公判 )
齋藤と大江は、中橋に随行して歩兵第一聯隊に行き、栗原から小銃実包一箱 ( 一、四四〇発入 )、
拳銃実包四箱などを受領して、午前一時頃中隊に持ち帰った。

三  第七中隊には、隊付将校として今泉義道少尉 ( 陸士四七期、新品少尉 ) がいた。
  当初中橋は、革新派ではない彼を誘うつもりはなかった。
しかし、中橋は行動を起こす直前に方針を変更した。
その理由について彼は次のように述べている。( 第一回予審調書 )
「 当時私ノ考トシテハ、私ト今泉トハ恰モ宮城守衛将校ニ當ツテ居マシタノデ、
 先ヅ私ト中島莞爾トデ突入隊ヲ率ヒ高橋蔵相殺害ヲ決行シタ上、一旦所属聯隊ニ帰リ、
今泉少尉ト共ニ控兵小隊を引率シ守衛隊司令部ニ行ケバヨイト思ヒマシタガ、
高橋蔵相私邸襲撃後ノ情勢ニ依リ 夫レガ出來ヌカモ知レヌト考ヘタノデ、
最初ヨリ突入隊ト共ニ控兵小隊ヲ院卒シテ行ツタノデアリマス」
彼は午前三時頃蹶起に参加する中島莞爾少尉 ( 鉄道第二聯隊、陸軍砲工学校分遣中 ・陸士四六期 )
と共に今泉を起こし、「 非常呼集をやる、直ぐ御守衛の服装をして外に出ろ、俺は高橋蔵相をやっつける 」 と命じた。
青天の霹靂ともいうべき中橋の言葉に、今泉はしばらく言葉を失った。
彼は部屋に残った一輝先輩の中島に向って、このような大事を今まで知らされこともなく、
急に命じられるのは不愉快だと激しく抗議した。
しかし中島から 「 嫌なら矯正はしない。しかし中隊は全員出て行くぞ 」 といわれ、又、
「 昭和維新の人柱には、成否は眼中にない 」 という中島の信念に感動して中橋に従うことを決意した。( 今泉 ・第一回予審調書 )
・・・(7) 
今泉は憲兵の取調べに対して 「 中橋を殺して兵を助けようと決心し、其機を窺っていたが、ついに決行することができなかった 」 と述べ、
予審官にたいしても当初は同様の供述をしていた。しかし予審官から追及された結果、これが虚言であったことを認め、
「 コノ嘘ヲ今マデ固執シテ居タノデアリマシテ、誠ニ慚愧に堪ヘマセヌ 」 と述べるに至った。( 第一回予審調書 )

四  午前四時頃、中隊全員に明治神宮参拝と称して非常呼集が掛けられた。
  午前四時四五分頃、中隊は中橋の指揮の下に営門を出発した。
中隊には中島少尉と大江曹長が加わっていた。
中隊は非常呼集の時点から二分されており、高橋邸をしゅうげきする突入隊 ( 第一、第三班の兵 ) は軍装で中島少尉が指揮し、
宮城に向かう守衛控兵隊 ( 第二、第四班の兵 ) は御守衛の服装で今泉少尉と齋藤特務曹長が指揮をとった。
中橋は出発に当たって明治神宮参拝と称したのは、控兵隊に襲撃を知らせたくなかったからだと述べている。( 将校班 ・第一一回公判 )
出動した第七中隊のうち、後に反乱軍とされた突入隊の兵力は、将校二、准士官一、下士官二、兵五七名であった。


45 二・二六事件行動隊裁判研究 (一) 『 第四章 反乱行為の概要 』

2016年04月20日 12時40分48秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
一  問題の存在
二  旧陸軍の組織と規律
第二章  反乱の謀議
一  反乱の誘因
二  謀議の成立
第三章  出動命令
一  歩兵第三聯隊
二  歩兵第一聯隊
三  近衛歩兵第三聯隊

第四章  反乱行為の概要
一  反乱罪の成立
二  二月二六日午前
三  二月二六日午後
四  二月二七日
五  二月二八日
六  二月二九日 ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  追訴
第六章  公判審理
第七章  判決
第八章  結語  ( 以上四七号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第四章  反乱行為の概要
一  反乱罪の成立
陸軍刑法 ( 明治四一年法律第四六号 ) 第二五条は、次のように規定していた ( 海軍刑法第二〇条モ同文 )。
第二十五条    党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ爲シタル者ハ左ノ区別ニ從テ処断ス
 一  首魁ハ死刑ニ處ス
 二  謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ爲イタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ處シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
 三  附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
ここに
「 党ヲ結ブ 」 とは団体を結成することをいい、
「 反乱ヲ爲ス 」 とは軍の組織 ・秩序に逆らって敵対行為に出ることをいう。
したがって、法的には、出動部隊が各聯隊の営門を出た時点で、本罪が成立したというべきである。
ただ事件全体を評価するには、その後の各部隊の行動をみるべきことはいうまでもない。
事件の経過はすでに広く世に知られているが、軍法会議の裁判記録によって初めて明るみに出た事実も少なくない。
ここでは、将校班 ・下士官甲班 ・下士官乙班の裁判記録 ( 公判調書と証拠書類 ) と判決書に基づいて、
各部隊の行動経過を追ってみる。 (1) ・・・判決書は主として伊藤隆・北博昭 『 新訂二 ・二六事件  判決と証拠 』 ( 一九九五年、朝日新聞社 ) によった

二  二月二六日午前
1  丹生部隊と首脳部
一  歩一の第十一中隊ヲ主力とする丹生部隊約一七〇名は、午前五時頃麹町区永田町の陸軍大臣官邸に到着した。
  丹生は、主力部隊を同官邸表門に位置させた上、隣接する陸軍省、参謀本部の各門にも武装兵を配置し、
特定人意外の出入を禁止し、かつ陸軍省通信所を占拠して電信電話を停止させた。
陸軍の中枢部を押えることによって、上層部にプレッシャーをかけたのである。
二  武装兵を伴って陸相官邸を訪れた香田 ・村中 ・磯部の首脳部は、川島義之陸軍大臣に面会を申し入れた。
  生命の危険を感じた川島は、風邪で就寝中との口実を構えて会うのを渋ったが、濟さんの催促を受け、
六時四〇分頃ようやく彼等の前に現れた。
川島に対して、香田らは蹶起趣意書を朗読し、事件の情況を説明した後、
「 陸軍大臣ノ断乎タル決意ニ依リ速ニ事態ヲ収拾シテ維新ニ邁進スルコト 」
などを求めた 「 陸軍大臣ニ對シ要望スベキ事項 」 と題する書面を提出し、川島に決断を迫った。
本来であれば、陸軍の長たる川島としては、統帥を紊し、軍を私兵化した香田らを厳しく叱責すべき場面である。
しかし、彼は、正面切って彼らを非難することができず、
「 斯クマデ思ヒ詰メテ頂タナラバ、何故早ク云ツテ呉ナカツタカ 」
と愚痴るのが精一杯であった。
村中は、
「陸相ハ、私共ノ行爲ガ惡イトハ云ハレズ、私共ノ精神ヲ認ロラレタ様デアリマシタ 」
と述べている。( 将校班第三回公判 )
困惑しきった川島は、香田らの求めに応じて、青年将校に信望のあった眞崎甚三郎軍事参議官らを呼んで会談に加えた。
眞﨑が到着したときの様子について、当時表門で連絡に当たっていた磯部は次のように述べる。( 同班第五回公判 )
「 眞崎大将ガ来邸シタノニ會ヒマシタノデ、同大将ニ状況を御承知デスカト云ヒマシタ処、
 同大将ハ非常ニ緊張シタ顔付デ、トウトウヤツタカト云ハレマシタノデ、
私ハ私共ノ蹶起ノ趣意ガ枉ゲラレテハ困ルト思ヒ、同大将ニオ願ヒシマスト云ヒマシタ処、
同大将ハ判ツテ居ルト云ハレテ車ヲ降リテ官邸内ニ入リマシタ 」
川島は、午前一〇時頃報告のため皇居に向かい、香田らは陸相官邸で待機する形となった。

三  二月二六日午後 ( 省略 )
四  二月二七日 ( 省略 )
五  二月二八日 ( 省略 )
六  二月二九日 ( 省略 )