あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

三月事件 ( 宇垣の變心 )

2018年12月14日 04時32分02秒 | 十月事件

前頁  桜会 ( 国家改造の目論見 )  の 続き

三月事件
(一)  概要
五 ・一五事件に聯座した大川周明の第一審公判調書に依れば、
三月事件の概要に附 大川自身次の如く述べている。
昭和三 ・四年頃から陸軍少壮將校は、議會政治、政党政治に對する非常な反感を持つに至り、
國家の改造を行はんとする思想が起つた。
ロンドン條約に關し、統帥權干犯問題が起つてからは一層激烈になつた。
この時、昭和六年二月三日第五十九帝國議会衆議院豫算總会に於て、
幣原首相代理は政友会代議士 中島知久平の質問に對し失言をなした。
( 註  東京朝日新聞によれば 「 此の前の議會に浜口首相も私も、此のロンドン條約を以て
 日本の國防を危うくするものとは考へないと言ふ意味は申しました。
現に、此の條約は御批准になつて居ります。
御批准になつているといふ事を以て、此のロンドン條約が國防を危くするものでないと
云ふ事は明らかであります 」 といふのであつた ) 
之に依つて衆議院は大混乱に陥り、流血の大亂闘を惹起し、約一週間審議を爲さず、醜径な場面を呈した。
之に依つて國民の輿論は議會の否認に傾きかけた。
一方陸軍側にあつては、參謀本部露班長橋本中佐、支那課長重藤大佐、第二部長建川少將、
軍務局長小磯少將、參謀次長二宮中將等は熱心に、國家の改造の必要ありとして居つた。
此の頃、宇垣陸相が田中義一の後を追って政党に入るとの噂があり、
又民政黨も二分して、宇垣を担ぐ声が起つて居た。
其処で小磯軍務局長、建川第二部長等は大川周明に宇垣陸相の腹を探つて呉れと云つたので
大川は陸相に會つてその眞意を尋ねた。
宇垣陸相は大川に對し自分は、政黨に担がれて乗出す様な考へは微塵もないと云つた。
又日本の政黨政治に對しては憤慨して居り、
その改造に付ても相當徹底した考へを有つて居るが如き意嚮を示し、
自分は軍人として、戰場に於ては何時にても死ぬ事を覺悟しているから、御國の爲なら命を差上げると言ひ、
大川は之に感激して歸つた。
小磯、建川は大川よりこの事をきゝ、其の晩か、翌晩に、杉山次官、二宮次長と四人で宇垣陸相に會つて、
突込んだ話をしたところ、宇垣陸相は大川に話したと同趣旨の話をした。
小磯は大川に報告をなし、宇垣陸相は之迄になく明朗であつたと言ひ、
それでは我々は一緒に改造計畫をやらうではないかと云ふ事になり、此処に相談が成立した。
その計畫は、終局國民が政黨政治に對し愛想を尽かして居るのであるから、
民間に於て大デモンストレーションを起し警官隊と戰つて、
民間側に於て議會を占領する様に爲し、
其の時に軍隊を出動せしめて急速に後始末を爲し、改造を實行しようといふのであつた。
斯様な相談が成立したのは同年 ( 昭和六年 ) 二月下旬で
計畫は三月二十日を期して決行し度いとの事であつたが、
二月下旬頃になり、此の計畫が他に露見する虞を生じた爲、
表面上、陸軍省や參謀本部の聯中は、全部この計畫を中止したことにした。
併しその實、大川と小磯軍務局長が主になって、秘かにその計畫を練り準備を進めて居つた。
ところが三月十日前後になつて小磯少將は之を中止すると言ひ出したので、
大川は意外の感に打たれたが 大川は自分の手に於て既に相當の準備をして居り、
決行の決意さへあれば事を擧げ得る状態にまで進んで居つた爲め、
大いにその措置に苦しみ、萬策尽きたため更に重大なる考へになり、
頭山満翁をその病床に訪問し、之迄の經緯を話して相談したが、
翁は結局仕方がないと言ふ事であつた。
大川は之迄の行き掛り上、同人一人だけでも擧行する考へで居た処、
參謀本部第二部長建川少將は、
大川だけでやるなら自分も心中して、共にやらうと云つてその實を示したので
大川は三月二十日を期して決行の決意で準備を進めた。
三月十八日の朝、大川は親しい間柄の徳川義親侯爵が大川に中止を勧め、
大川がその意を翻さなければ、自分も一緒に飛込んで決行に加はると云つた。
大川は此の切なる勧告を聞いて、陸軍と離れて事をなさねばならぬ以上、
結局成功を見ずして處分を免れる事は出來ない。
徳川侯をそのどん底に迄引ずる事は忍びないと考へ、三月十八日夜其の計畫を中止した。
その爲、建川少將も中止し、計畫は挫折に終つた。
(二)  計畫
前記田中少佐の執筆と言はれる手記 竝 大川周明の秘書格 中島信一の供述するところに依れば
三月事件のクーデター計畫は次の如くであったと言はれる。
1  二月中、大規模に無産三派聯合の内閣糾弾の大演説會を開催し、
 大いに倒閣の気勢を上げ 且つ 議會に向つて、デモンストレーションを行ひ、
本格的に決行する場合の偵察的準備を行ふ。
2  三月労働法案上程の日に、大川周明の計畫に依り民間側左翼、右翼一萬人の動員を行ひ、
 八方より議會に對しデモを行ひ、政 ・民 兩党本部、首相官邸を爆破する。
各隊の先頭には計畫に諒解ある幹部を配し、統制をとり、各隊に抜刀隊を置き、
必然的に豫期せられる警官隊の阻止を排除する。
但し爆弾は爆性大なるも、殺傷効力尠きものを使用す。
3  軍隊は非常集合を行ひ、議會を保護するとなして之を包囲し、内外一切の交通を遮斷する。
 豫め將校 ( 主として櫻會の者 ) を各道路に配し、各隊に配しある幹部は之を實行す。
4  此の状勢に於て、某中將 ( 氏名は最後迄秘密にせられ明かでないが 一説には眞崎中將と言ふ )
 は小磯、建川少将の何れかが一名及び數名の将將校を率い議場に入り、
各大臣に対し
「 國民は今や現内閣を信任せず。 宇垣大将を首相とする内閣をのみ信頼す。
 今や国國家は重大なる時期に会す。宜しく善處せらるべし 」
と宣言し、總辭職を決行せしむ。
5  幣原代理以下辭表を提出せしむ。
6  大命は宇垣大將に降下する如く、豫め準備せる所に從ひ策動す。
 ( 閑院宮殿下及西園寺公への使者を決定す )
大川周明は民間側の動員を引受け、所謂右翼團體方面は
清水行之助    狩野 敏    を、
又 無産政党側へは  松延繁次 を通じ各種の工作を施し、
無産党側に於ては社會民衆党の  赤松克磨  に對し働きかけたと云はれる。
 宇垣一成  二宮治重 
資金は最初、宇垣陸相、二宮參謀次長が積極的に賛意を表し、
陸軍側に於て機密費より三十萬圓を出す事になつて居たが、数千圓を出した後、
首脳部が變心したので此の方面よりの資金は出ない事になり、
大川周明と親密の間柄にあつた徳川義親侯より運動資金が出たと云はれて居り、
その額に付ては三十七万円であったとの説がある。
破壊手段に用ゆる爆弾は、橋本中佐が千葉歩兵學校に赴き、同校長に交渉し、
同歩兵學校の名義で演習用の擬砲彈を豫分に注文させ、一部を橋本中佐の方に廻す事にし、
歩兵學校長は丸の内昭和ビル内  火工株式会社  に擬砲弾彈の注文を發し、
其の中 三百發を橋本中佐が直接、同會社より引渡を受け、參謀本部に持ち歸つて隠匿して置いた。
三月十二、三日頃 中島信一は參謀本部に行き、
橋本中佐と一緒に、二個の紙包みになつて居る三百發の擬砲彈を持ち出し、
自動車で新橋駅に行き、同駅ホームに於て大川の腹心 清水行之助の配下 樋口某に渡した。
その擬砲彈は直系一寸五分位の球形のもので、四發が一連となつて居り、
之を使用すれば實戰に於て、一個中隊四門の大砲が連續發射せらるものと殆んど同じ音響を發し、
爆發するとき、約一間くらいの高さに煙塵を上げると云ふ事である。
之は大川の手により、民間、左 右 両派のデモに使用する計畫であつた。
三月事件中止後、其のまま清水行之助の手に保管せられ軍部よりは中島信一を通じ返還を迫ったが、
なかなか清水の方で返さず、遂に翌昭和七年一月頃、荒木陸相時代となり、
根本博中佐が直接清水に交渉し、返還を受けたと云ふ事である。
(三)  挫折
以上の資料に依れば挫折の原因は、次の如くであると言はれる。
1  宇垣陸相の變心
 宇垣陸相は始め大川に對し、天下の大勢を論じ、一生一度の御奉公をしたい旨の事を言ひ、
政党の腐敗から國民が自暴自棄になつて行くから 此の際立たうと思ふ、
君もその時は一緒に死んで呉れと云つて改造運動に乗り出す意志を仄めかし、
小磯、建川等にも同様の意志を示し乍ら其後、政界の有力なる方面から、
宇垣陸相を首班とする内閣樹立の政治的陰謀を持ち掛けられ、之に乗つて、
憂國の至情よりする改造運動より變心し、政權獲得の後には、改造を計る考へとなつて、
小磯、大川等との接近を避け、計畫より脱退したと云はれる。
そして此の事が後年宇垣に対する右翼竝軍部より執拗な排斥を受くる一原因と云はれる。
2  陸軍部内に於ける時期尚早論
 陸軍部内に於て三月事件に対し、時期尚早論を以て反對したのは
當時陸軍省補任課長歩兵大佐  岡村寧次    当時同省軍事課長歩兵大佐  永田鐵山
當時麻布歩兵第三聯隊長歩兵大佐  山下奉文    當時歩兵中佐  鈴木貞一
等であつた。
彼らは國内改造には反對では無く、三月事件計畫者と同じく、
その必要を認めて居つたのであつたが、満蒙問題を主眼とする對外事情から見て、
國内改造を行ふ前に満洲問題を急速積極に解決すべしと云ふのであつた。
当時の満洲問題は如何なる状態にあつたか。
我國の関東州租借期限は日露戰爭の結果、露國から引繼いだものであつて
その本體となる西暦一八九八年露支條約に依れば、満二十五箇年と定められ、
一九三四年に満期となるのであつた。
其後 世界大戰中、加藤高明外相に依つて、
日支間に所謂、二十一ケ條の條約が大正四年に締結せられ、
その租借期限は九十九ケ年に延長せられたのであつたが、支那はベルサイユ會議以來、
この二十一ケ條の條約を日本の暴力に依る條約であるという理由で口を極めて避難し、
米國の支持を恃んで二十一ケ條の廢棄迄主張した。
米國を始め一般諸外國の空氣は、支那に對する同情に傾いて居り、
又一方日本自國に於ても彼の平和主義者、自由主義者は、
支那全權の日本に對する侵略呼ばはりに内心喝采を爲す有様であつた。
支那は二十一ケ條の條約を廢棄し、一九三四年即昭和九年に至り、
期限終了と同時に、露支條約に賣戻しの約定のあるのを楯に取り、
米國より借款をして満鐵、関東州を自國の手に収めんと主張し
二十一ケ條の破棄    旅大回収    満鐵買収
の三スローガンを掲げ、盛んに排日の氣勢を上げ始めた。
しかも此の一九三四年には、日本の海軍がロンドン條約等に依つて最も弱勢となるべき時期であつたので
我國防の責任者である軍部は、此の状勢に最も敏感であり、最も憂慮して居つた。
時期尚早論者は。斯る状勢にある満洲問題を國内改造問題に先んじて一九三四年以前に解決すべく、
その以前に於て國内改造を行ふは不當であると言ふのであつた。
3  尚 注意を惹くのは三月事件の首謀者、中心的人物は主として參謀本部であり、
 尚早論者は主として陸軍省側であつた。
その間の提携連絡が完全で無かつたかの如く思はれる点である。
(四)  影響
三月事件は竜頭蛇尾に終つたがその影響は大なるものがあつた。
1  陸軍少壮階級が此の事件に依り、先輩の將官階級に至る迄政党政治に反對であり、
 革新的氣分を有して居る事を判然と知つた事。
2  將官階級は革新的意識を有しては居るが年配、境遇より實行は不可能である。
 彼等に依つての改造は今後も期待出來ない。
國家改造は若い連中が老人を引摺る事あるのみだ。
自分等が決行し、責任が及ばなければ、
老人連中は必ず自分等に従つて来るものであるといふ考へを少壮の革新的陸軍將校に与へ、
運動の中心が漸次若い將校に移つて行つた事、
及び其の改造手段に付一つの前例を若い將校に与へた事。
等であつて之等は、歴史的重大な意義を有して居る。
尚、此の事件に附ては全然責任者を出して居らない事も見逃してはならない。
又一般の改造運動に大刺戟を与へた事は勿論である。
櫻會の急進的分子にとつては、昭和五年秋九月結成以來國内改造を計つて居た際、
上部より三月事件に參加を求められたのであつて、
換言すれば上部は自分等を利用し、中途に於て之を捨てたと云ふ考へを抱かされた。
それ等急進分子の革新熱は、三月事件の中止に依つて反つてその熱度を高め、
十月事件を生むに至つたと見られる。

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である 
現代史資料4  国家主義運動1  から

次頁 
十月事件 ( 錦旗革命 ) に続く


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