あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

井上日召 『 血盟団 』

2021年09月23日 05時52分05秒 | 井上日召

井上は西田が大学寮以来改造運動に従事すること十余年、
其の間彼が尽くした貢献は大なるものがある。
自己に生活の資を得る途のない彼が
有資産者、俸給生活者の如く
公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ当然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。
・・・血盟団・井上日召と西田税 1 『提携』 


井上日召  イノウエ アキラ
『 血盟団 』

目次
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・ 
井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後
血盟団・井上日召と西田税 1 『提携』
・ 
血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』
・ 血盟団・井上日召と西田税 3 『十月事件に参加』
・ 血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』

・ 井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後 
井上日召 ・ 五、一五事件 前後 

日本愛国革新本義 ( 未完 ) 

井上一統及海軍側に依つて行はれた血盟団事件、五・一五事件は
この流れを其儘延長せしめたのであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に程度を変化し、
従来提携し来つた井上一統及海軍側の勧誘に応ぜず、
満州事変により国際情勢緊迫の際
国内改造を計る時期に非ずと称して蹶起を肯ぜざるに至つた。
その結果、井上一統海軍側同志は
斯く陸軍側の豹変したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、
遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。
・・・血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』


血盟団・井上日召と西田税 1 『提携』

2021年09月21日 18時56分05秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く 
陸軍側其の他との提携に努む
井上は昭和五年十月 藤井斉 の依頼に応じ海軍側同志の連絡機関として活躍するため、
護国堂を去り上京したのであつた。
愈々上京するに当って、護国堂時代 井上を盟主と仰ぐに至つた青年や海軍将校連は
同志檜山誠次方二階に於て井上の送別会を催した。
海軍側の藤井斉、鈴木四郎、伊藤亀城、大庭春雄、
大洗青年組古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、以下数名が出席した。
井上は此時自分の意中を述べて、東京では革命革命と口では云つて居るが、
皆命を惜しんで自分の国家のため捨石にならうとする者かない。
国家に対して真の大慈悲心を抱く者が始めて革命の捨石になる事が出来ると語つて居り、
一同は無言の裡に革命のため井上と生死を共にすることを堅く誓つたとの事である。
井上は初めは気の長い宗教的方法に依る国家改造を考へて居つたのであるが
ロンドン条約以後改造運動者は一九三六年前に改造を成就せねばならないと云ふ声が高くなり、
井上も藤井と交はるに至り 之に同意し 次第に急速な手段を考究するに至り、
上京せんとするこの頃に至つてはテロ手段に依つて革新の烽火を挙げ、
支配階級に生命の危険を感ぜしめて其の自覚を促し
一方陸軍海軍民間側の革新分子が彼等の後を継いで革新の実を挙げることを期待して居つたのである。

彼が暗殺手段を採用した理由として
第一、同志が少ない
第二、資金が皆無だ
第三、武器兵力が無い
第四、言論機関が改造派の敵である
第五、国家の現状は一日も早く烽火を挙げねばならない
等を数へて居る。
斯くして井上は宗教的熱意を以て改造を志す数名の青年を率い、
同じく国家改造の熱意に燃える海軍士官一派と握手して愈々中央に乗り出して来た。

井上は直ちに金鶏会館に止宿した。
筑波旅行によつて有力たる闘士として望をかけて居つた金鶏寮止宿の上杉門下七生社同人四元義隆、
池袋正釟郎と接触し、之を同志に獲得した。

一方井上は大学寮以来藤井等海軍側同志が親しくして居つた西田税に近付き、
中央に於ける改造運動の情報を探り、又 北一輝、満川亀太郎、大川周明等にも面会し
北、大川の大同団結を計らうとした。
改造運営の要所要所に手を延ばし情勢を探り、藤井斉等地方にある海軍側同志に之を通報して居た。

同年 ( 昭和五年 ) 十二月
大村航空隊に在つた藤井斉より 九州に於ける革新分子の会合があるから来いとの通信があり、
井上は四元義隆と共に西下した。
十二月二十七日午後より翌日にかけて福岡県香椎温泉に於て
海軍側  藤井斉    三上卓    村上功    鈴木四郎    太田武    古賀忠一    古賀清志    村山格之
陸軍側  菅波三郎
民間側  大久保政夫 ( 九大生 )    上村章 ( 福高生 )    山口半之丞 ( 福岡県社会課 )
            井上富雄 ( 天草郡小学校訓導 )    外九大生某
            井上昭    四元義隆
の会合に出席した。
その内容は之より組織を持たうと云ふ程度に過ぎず 井上は頗る失望したが、
海軍側三上卓、陸軍側菅波三郎等有力なる人々と親しくなつた。
更に 四元と共に同人の郷里鹿児島迄行き、菅波中尉と懇談を遂げ親密の関係となつた。
又大村に於て藤井の紹介により陸軍士官東少尉外数名と会つた。
其帰途 呉鎮守府、横須賀鎮守府に立寄り 藤井の統制下にある海軍士官多数と面会し、
真の同志たるべき者を探し求め、相当の収穫を得て翌六年二月帰京した。
当時井上の観察する処では陸軍側革新分子は九州に於ては菅波中尉 東少尉が中心であり
而も其運動は相当古くよりのものであり、
東北に於ては仙台の教導学校より青森聯隊に転じた大岸頼好中尉が
海軍側に於ける藤井斉の如き立場に居る有力なる中心人物であつた。
而も之等陸軍側三名は孰れも藤井斉と連絡を有して居り、菅波中尉 東少尉とは九州旅行により井上は懇親となり、
大岸中尉とは其以前 金鶏会館に於て藤井斉の紹介により相識の間柄となつて居た。
斯くの如くにして井上は藤井との連絡によつて陸軍側の青年将校の中心人物菅波、東、大岸等と相知ったのであつたが、
未だ同志として心より提携するには至らなかつた。

井上が九州旅行より帰ると間もなく同年 ( 昭和六年 ) 三、四月頃
陸軍側上層部に所謂三月事件なるクーデターに依る国家改造の計画があつた事が風説として一般にも伝へられた。
これは一般民間側改造運動者にも相当の刺戟となつた。
井上は上京後早々から西田税 に近付いて彼の許に集まる情報を聞いて居つたが
三月事件の情勢を西田其他より聞いて愈々改造運動に着手せねばならぬと考へた。
彼は藤井よりの依頼もあつたので民間側の巨頭である北一輝、大川周明との仲直りも策した。
井上はこの以前北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を読み、北の非凡な頭脳の所有者であるを知り、
前田虎雄と共に訪ね、自分等も国家改造のため尽力し度き意思を持つ者である事を伝へた。
北は井上等に満川亀太郎を紹介し、満川は更に井上等に大川周明を紹介した事があり、
井上は北、満川、大川とも面識があつたのでその大同団結を計らうとしたが、
西田税が北の幕下であり 大川を口を極めて避難したので、
井上は此の様な情勢にては北、大川の提携は不可能であることを知った。
即ちこの両者は相対立する関係にあるので北、西田と結べは大川と提携し得ず、
大川と結べば北・西田とは対立することを知った。
井上は同志として握手している藤井斉一統が西田と親しい間柄であるので、
大川と結べは遂には藤井等をも失ふに至るであらうことを考慮し、
西田と提携し西田を擁して国家改造に進むことを決意した。
そして井上は西田に近付き提携して改造に進むに至つた。

当時西田は日本国民党より脱退を余儀なくされ、
一方陸軍側 菅波、大岸等とも天剣党事件以来往復をして居らず、寧ろ不遇の状態であつた。
民間側改造運動 津久井一派の如きは西田を大いに非難して居る有様であつたが、
井上は西田が大学寮以来改造運動に従事すること十余年、
其の間彼が尽くした貢献は大なるものがある。
自己に生活の資を得る途のない彼が
有資産者、俸給生活者の如く公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ当然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。

現代史資料4  国家主義運動1  から
次ページ  
血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』 に 続く


血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』

2021年09月19日 14時39分30秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

 
第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く
日本青年会館に於ける全国的 海・陸・民間同志の会合
一方 海軍側同志は三月事件以来益々急進的となり、
昭和六年四月
呉より古賀清志、村山格之、村上功、大庭春雄 外数名、
横須賀より 伊藤亀城、山岸宏
等が上京して金鶏会館に集り、当時群馬県に帰省して居た井上及四元を呼び寄せ、
池袋も加はつて会合を開き、井上等に決行を促した。
井上は同年 ( 昭和六年 ) 八月 支配階級の巨頭連が避暑地に集つた際 五人の同志を以て暗殺し様と提案し
其軍資金及武器として拳銃の調達方を海軍側に求めた。
井上の真意は海軍側同志の決意の程度を試すことにあつたのでこの計画は実行されなかつた。

同年 ( 昭和六年 ) 七月末頃 陸軍の一部に於て満洲に事を起し 同時に国内改造を行ふためクーデターを企てて居る
と云ふ情報が入つて来た。
井上は此の計画は真の日本的のものに非ずして政権奪取をもくろむ覇道的のものであると観察し、
西田に向つて此の計画は一命を賭しても打破る意思であることを告げた。
西田は驚き北一輝にも相談して見るから待て と云つて之を押し止め、
結局 西田が、井上及西田一派の革新勢力を代表し、十月事件の首謀者である橋本中佐等と交渉することとなつた。
井上は十月事件の計画に同志と共に飛込んで、暗殺其の他の役割を分担することに依つて発言権を獲得し、
軍部側の計画をリードして、その指導精神を真の日本精神に基くものになさうと画策した。
そこで、西田と相談の結果、両者の統制下に在る革新分子を会合せしめて結束を堅くし、
十月事件の計画に対処する為め、
同年 ( 昭和六年 ) 八月二十六日 青山の日本青年会館に於て郷詩社の名目を以て会合を催した。
当日参会した者は三、四十名と云はれて居るが其の中には
陸軍側  菅波三郎  大岸頼好    東昇    若松満則    野田又男    對馬勝雄  末松太平
海軍側  藤井斉    鈴木四郎    三上卓    古賀清志    村上功    村山格之    伊藤亀城    太田武
民間側 西田税 
            井上昭    古内栄司    小沼正    菱沼五郎    黒沢大二    堀川英雄    黒沢金吾    四元義隆
            橘孝三郎    後藤圀彦
等が居り 井上等の知らない西田一統の者も居つた。
其会合に於ては西田が司会者となり
「 愈々時期も切迫して来たから我々の運動も今後はしつかりした統制を必要とする 」
と申し
中央本部を決定し更に各地方毎に同志が集り 責任者を定め発表した。
それによると
1
中央本部を西田方に置き
 西田と井上 其他中央に居る菅波等が協議の上
 外部に関する連絡情報の蒐集、対策の決定をなし、地方責任者との連絡を執ること
2
海軍側に於ては
 全般及九州責任者  藤井斉
 横須賀地方  山岸宏
 第一艦隊  村上功
 第二艦隊  古賀清志
陸軍側に於ては
 関東地方  菅波三郎
 東北地方  大岸頼好
 九州地方  東昇
 四国中国地方  小川三郎
 朝鮮地方  片岡太郎
民間側に於ては
 愛郷塾責任者  橘孝三郎
 大洗責任者  古内栄司
を 各地方責任者と決定し
3
地方組織に付ては
陸海軍部が中心となり民間との連絡及中央との連絡を執ること等を決定した。

此の会合は全国会議であつて 此の会議の準備として各地の革新同志の会合が催され、
夫々必要事項を協議し、代表者を出した模様である。
九州方面に於ては七月下旬藤井斉より 八月下旬艦隊が横須賀入港を期して、
東京に於て陸海民間の同志の全国会合を開催する予定であるから、
その準備として九州に於ける陸海軍同志の意嚮を決定する必要があると同志に通知を発し、
八月八日 福岡市西方寺前町料亭気儘館に於て会合を行つて居る。
その時の出席者は
海軍側  藤井斉    鈴木四郎    林正義    三上卓
陸軍側  菅波三郎    小川三郎    若松満則    江崎    栗原 (鹿児島)
            竹中英雄    楢木茂    東昇    片岡太郎    小河原清衛
等で、
各地の情勢、同志獲得の情況、民間同志との連絡等に付 報告があり
次に各地方責任者、全九州責任者、各地方に於ける組織運動の促進、
連絡、中央進出の準備に付 協議決定する処があつた。
全九州責任者--陸軍側  若松満則
  --地方責任者--佐賀地方  江崎
  --鹿児島地方--西原
  --福岡地方--小河原
  --四国地方--小川
  --朝鮮地方--片岡
  --長崎地方--東
海軍側  藤井斉
以上の如くにして日本青年会館に於て行はれた全国会議は
組織統制等を決定したのみで簡単に終了した。
一度軍艦に乗組めば数か月間航海生活を送り、
同志一同が顔を揃へる機会の少ない海軍側同志は、
陸軍側と異なり単刀直入、急速に決行することを希望して居たので
此の会合に不平不満が多かった。
井上は海軍側同志のこの不平を察知し、其後連日の如く、
井上の妻名義で借受けて居つた本郷区西片町の家等に於て海軍側と会合した。

尚この全国会議に上京した三上卓は
上京前佐世保にて藤井斉より 同人が同月 ( 八月 ) 初旬 大連に飛行した際
笠木良明 の 煎入りで同地の承認から買入れたと云ふ
拳銃八挺、弾丸やく八百発を東京に運搬方を依頼せられ、
之を持参して上京し井上昭に渡したのであった。
又 井上が同年一月頃九州旅行の際 東昇陸軍少尉より拳銃一挺、実包若干をに入手して居り、
其後四月頃伊藤亀城が大連に巡航した際
同地の鉄砲商より購入したブローニング拳銃一挺実包百発が井上の手に渡って居り、
八月当時既に井上の手には拳銃十挺実包多数が集められ、
井上一統及海軍側は唯好機の到来するのを待つのみであつた。

現代史資料4  国家主義運動1  から
次ページ 
血盟団・井上日召と西田税 3 『十月事件に参加』 に続く
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藤井齊  『 昭和6年8月26日の日記 』
午後、外苑日本青年會館に郷詩社の名にて會合あり。
海の一統、陸の一統 ・・大岸君の東北、その他は九州代表の東 來れるのみ
井氏の一統、菅波、野田、橘孝三郎、古賀清、高橋北雄、澁川善助、
初對面は對馬、高橋と秋田聯隊の少尉 金子信孝と四人なり

こゝに組織を造り 中央本部は代々木に置き、西田氏之に當り、
井氏を助け遊撃隊として井氏の一統はあたることゝせり
こゝに最も急進的なる革命家の一團三十余名の團結はなれり
新宿に行きて酒を飲みつゝ一同歓談し、その中に胸襟を叩き割って相結べり
野田又 宅に黒澤、菱沼、古賀 と東 と行って泊まる
・・・『 検察秘録 五 ・一五事件 』 から


血盟団・井上日召と西田税 3 『十月事件に参加』

2021年09月17日 14時02分32秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く 
十月事件に参加し、一挙に革新の実を挙げんとす
八月二十六日の全国会議後、
海軍同志は一年に一、二回しか顔を揃える事が出来ないので
この好機に一挙に革新の烽火を挙げ 革新の緒に就くべく、連日の如く井上を中心として会合し、
情報を求め、各方面の情勢を探つて居つた。
当時は既に 陸軍の一部に於て満洲問題と関連して国内改造を計画中である
との情報は頻々として井上等の耳に入って居たので
同月 ( 八月 ) 三十一日
井上は藤井斉に一策を授け、同人を大学寮以来親しい間柄であつた大川周明の許に行かしめ、
西田 等と無関係を装ひ、十月事件の計画に参加を申込ませ、計画を探知せしめた。
藤井の報告は藤井が同志として海軍同志全部と共に大川一派に加盟する約束をしたところ
大川は其の画策しいてる計画を話した。
それに依ると
「 十月頃満洲に於て事を起こし 日支関係を悪化せしめ、対支貿易を阻害し 経済界を逼迫せしめ、
之を契機として内地の民衆を煽動し、東京、大阪に暴動を起さしめ
次で 翌年二月 国民大会を東京に於て開き 議会襲撃を決行し クーデターを行ふ予定である 」
との事であつたが、
井上はこれを聞き その計画が出鱈目である点を指摘し、
傍で藤井の報告を聞いて居た海軍同志 及 小沼、四元 等に自己の信念を暴露し、
自分のやらうとする革命は仕事でなくて道である。
政権を奪取するのではない。
革命のために動乱を起こし無辜むこの人間を殺す如きは言語道断であると云つて之を非難した。

同年 ( 昭和六年 ) 九月十八日満洲事変勃発し、
続いて陸軍の一派がクーデターを計画中であることが明瞭に井上等の情報網に入った。
北京駐在の長勇少佐が脱走して上京し活躍して居り、橋本中佐一派が首脳者となつて、
露骨に活動して居ることが井上、西田に接近して居る青年将校より筒抜けに漏れて来た。
井上の観察した所に依れば
「 十月事件は橋本欣五郎中佐が首脳者になつて居るが、いち中佐であれ丈露骨な活動は出来ない。
必ず陸軍の一大潮流が事件の背景をなしている。
大川周明一派が橋本と親しく、この事件に関与しているが、
橋本中佐の考へでは必ずしも民間側の勢力を大川一派のみに限って居る訳ではない。
大川周明は牧野伸顕伯と古くより関係を有して居り、
十月事件に付ても牧野と何らかの関係を付けて居て、上部工作を牧野によつて期待して居る。
従つて大川等の計画案には牧野伸顕を襲撃目標中に加へて居れらない 」
と 云ふのであつた。

井上は西田を表面に立て、橋本中佐と連絡せしむる一方、
藤井其の他 肝胆相照した同志を諸方面に動かして情報を取り活動した。

陸軍の青年将校が皆 血判をして満州事変の徹底的解決を要求し、
自分等の要求が容れられねば一致結束して立つ
と云つた風の決議文を 総理大臣、陸軍大臣、参謀総長に提出したとの情報が入った。
又 何個中隊出動することになつた。
某々将校も参加した等の情報が盛に入る様になり、
陸軍の改造潮流は何人を以ても制止出来ない様な状況となつて来た。
井上は自身その中に飛入つて、是を正しい方向に導かうと考へ、
西田を通じ、其の計画の一部を分担するに至つた。
初め十月事件の計画は大部隊の出動を予定して居らなかつたものの如くで、
井上一党は遊撃隊として目標人物の暗殺を引受け、井上側に於て其の目標の選定をなすこととした。
井上は
1  田中邦雄、田倉利之に西園寺公を
2  四元義隆、久木田祐弘に牧野伸顕を
3  池袋正釟郎、小沼正に一木喜徳郎を
4  古内栄司に鈴木貫太郎を
各担当せしめ、
田中、田倉 両名には拳銃各一挺を交付して京都滞在中の西園寺公を暗殺さすため同地に赴かしめた。

古内は計画が進んだ十月五日小学校訓導を辞して上京し井上の許に参じた。
井上の許に橋本中佐より五百円が資金として来たが 勿論之丈では不足で
井上は資金に窮していた為め学生連の田中を西田税方の食客兼玄関番に住込ましめ、
その下宿料を古内の生活費に流用せしめた。

当時海軍側同志にも井上より通知が発せられ 一同待機の状態にあり、
古賀清志、山岸宏の二名は上京し、
古賀は井上の許にあり、
山岸は上京に際し乗艦より拳銃十一挺、弾丸二百発、軍刀日本刀各一本を携帯し、
井上の通知により菅波三郎中尉の止宿するアパートに至つて決行を待つて居た。

然るに計画は其の後変更せられ、
大部隊の出動による一斉襲撃を採ることとなり、個人的暗殺は実行せられないこととなつた。
井上等の観察する処によれば
牧野に依つて上部工作を期待し、暗殺目標より同人を除いて居つた大川が、
井上、西田側に於て牧野を目標人物に入れ、大川自身の計画を齟齬する案に変更したため、
大いに苦慮し、更に案の変更をなしたものである
と 云ふのである。

菅波一派の青年将校は橋本中佐派と提携し共に決行することとなつて居つた。
併し次第に大川、橋本等の行動に批判的となつて行き、
神楽坂の梅林に於て菅波が橋本に喰って掛り
橋本一派の小原重厚大尉のため首締めに逢ふ椿事以後は気拙い仲となつて行つた。
菅波は十月の前にあつた青山の青年会館の会合の少し前迄は西田税とは意見の相違から交際を絶つて居つた。
大岸頼好は寧ろ大川周明と近かつたので、
十月事件直前迄は是等 菅波、大岸の一派は西田と近いものではなかつたのであるが、
藤井斉の関係により井上と親しくなり 更に井上の斡旋により以前の関係が復活し
西田、菅波、大岸等が親しい関係になつたのである。
而して、十月事件により菅波一統の隊付青年将校は橋本一派の幕僚将校と間隙を生じ、
又 菅波一統に近い西田と、橋本一派に近い大川周明とが非常に不仲となつたので、
菅波一統と西田とは加速度を以て近付いた。

十月十七日 早暁 十月事件首脳者は憲兵隊に検束せられ計画は挫折に終つた。
西田一統は、井上の観察の如く、大川が牧野と通じて居り
暗殺目標より除去されて居た牧野が西田、井上一派の主張により目標人物に加へられたのに困惑し、
牧野の手により弾圧せしめたと宣伝し、
大川一派は西田等を計画の一部に参加せしめたのは表面的で真の同志としてではなく
計画遂行後は西田は処刑を免れないこととなつて居たので、
西田税は之を察知して、北一輝と謀り 宮内省方面に売込んだのであると主張した。

現代史資料4  国家主義運動1 から
・・次ページ 血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』 に 続く


血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』

2021年09月15日 08時24分54秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く
十月事件挫折後、西田 、菅波一統 陸軍側同志 俄に態度を改む
併し、十月事件は暗から暗へ葬られ、
首脳者となつて大活躍をした橋本中佐以下十数名が
重謹慎処分の名義で最高二十日間位 各地の憲兵分隊長官舎に分宿せしめられ、
其後地方に転勤を命ぜられたに止り、其他の関係者に対しては何の処分もなされなかつた。
従つて十月事件総ての準備を終り 一命を抛なげうつて事に当らうと待機して居つた井上一統、
海軍側同志 及 西田、菅波一統に於ては十月事件の挫折により何等打撃を受けかつた。
彼等は孰れも古くより国家改造を計画しその貫徹に進んで来たのであるが、
十月事件当時は偶々陸軍の大勢力が動く形成にあつたため、之に便乗しようとしたに過ぎず、
その挫折に依つて古くよりの決心に何等動揺を来さず、
却つて其の後は十月事件の如き他の計画に便乗するに非ずして、
彼等が手動的立場に於て事を挙ぐべき順序となつたのである。
井上一統及海軍側に依つて行はれた血盟団事件、五・一五事件はこの流れを其儘延長せしめたのであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に程度を変化し、従来提携し来つた井上一統及海軍側の勧誘に応ぜず、
満州事変により国際情勢緊迫の際 国内改造を計る時期に非ずと称して蹶起を肯ぜざるに至つた。
その結果、井上一統海軍側同志は斯く陸軍側の豹変したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、
遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。

右の如き経過のみを以てすれば、
血盟団被告等が西田を非難する如く西田、北等は革命ブローカーに過ぎずして、
真に革命に殪れる覚悟なきものと推断し得るのであるが、
其後 西田、菅波一統の革新の激流は
救国青年埼玉挺身隊事件、十一月事件、永田軍務局長殺害事件に其の物凄き片鱗を示し、
遂に二・二六事件の大爆発となつて自らも殪れて行つたのである。
これより観れば 北、西田等を以て真の革命精神なきブローカー輩と断ずる事は出来ない。
然らば如何なる原因が十月事件直後 西田、菅波一統をして
従来急進的であつた態度を俄かに漸進的にせしめ 一歩退却せしめたのであらうか。
満州事変により国際関係の悪化を顧慮した点もあらう。
西田等は革命は一生一度しか行ひ得ざるものであることを堅く念頭に置いた点も事実であらう。
併し 俄かに陸軍側の態度を変じたのは
十月事件後間もなく内閣更迭により荒木陸相の出現した事が最も大きな原因と考へざるを得ない。
武力を有する陸軍の一部が国内の政治機構を一挙に変革せんとした
十月事件の影響は国家の各方面に大なる刺戟となつた。
当時内務大臣の職に在り国内治安の責に任じて居た安達謙蔵は
十一月九日大演習のため西下する車中で次の如き時局談を語つた。
「 世界的に共通な財界の不況に加へて満洲事変の突発があり、
真に未曾有の重大事局に際会したのであるから 政友会と聯立内閣を組織して協力一致 この国家の難局に処すべし
とする所謂聯立組閣運動がある事は聞いて居る。
政党が国内的政争を中止して一致国難に当ることは、現下の如き真に息詰る様な重大事局に当面している際には
考へられる事で、吾輩もこの考へ方に反対するものではない。」 ( 東朝十一月十日 )
ここに協力内閣問題が表面化し
政友会久原房之介、民政党富田幸次郎を各中心とする政友民政の一派により聯立内閣の組織が策動されたが、
若槻首相の周囲竝現状維持の各閣僚は之に反対し 十二月一日若槻内閣の総辞職となり
翌日十二日政友会総裁犬養毅に後継内閣の大命が降下し 犬養内閣の出現となつた。
陸軍大臣は南次郎より荒木貞夫となり、海軍大臣は安保清種より大角岑生となつた。
荒木新陸相は古くより行はれて居た軍内粛正----閥打倒----の運動の一有力者であり
又 三月事件 十月事件以来急速に激化しつつある国家改造運動の理解者であつたので
彼は殆ど全軍の与望を担つて現はれた。
犬養内閣発足
荒木陸相は熊本第六師団長当時より皇道精神の発揮にを力説し閥族の跋扈ばっこする軍内の実情を憂ひて
一切の私を去り皇軍本来の精神に帰り各自の生活を道義化すべき事を主張した。
又 好んで若い将校を引見し 心よく談笑したので、革新的意識を持つ青年将校は荒木将軍に心服して居た。
殊に青年将校の中心人物 菅波三郎は元来鹿児島歩兵第四十五聯隊に居り、
当時熊本第六師団長であつた荒木将軍より優秀なる青年将校として知遇を受けて居った。
又 荒木が教育総監本部長として中央に乗出すや間もなく、
荒木は菅波の如き精勤し優秀なる青年将校を陸大に入学せしめ度い意向にて
昭和六年八月麻布歩兵第三聯隊に転隊せしめたる ( 菅波述 ) 因縁もあり、
荒木陸相の出現は青年将校一派にとつて時節到来を感ぜしめずには置かなかつたであらう。
革新的青年将校の一団は荒木陸相の出現を契機として自己革命を遂行し、
彼等の所謂粛軍を行ひ部内全般を一貫した革新的大勢力たらしめ、
然る後 国内改造に向はんとしたものと見られる。
三月事件、十月事件は青年将校に一種の下剋上的風潮を植え付け 上層部必ずしも頼むに足らずとなすに至つたし、
又 両事件の失敗は青年将校より見れば 指導精神の問題にあつた。
茲に於て 彼らは真の国体原理より発したる革新思想を以て先づ部内の粛正を遂げねばならぬとなし、
又 彼等の心服する新陸相に依つてこれを成し遂げようとしたものと見られる。
而してここに始めて彼等が俄かに国内改造に向つて一歩後退の情況を呈し 部内革命に突進し
遂に陸軍部内に暗流が激成され 永田軍務局長殺害事件、二・二六事件を生むに至つた根源を理解し得るのである。


井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担当し、
革命の為め一命を捨てる覚悟をしたので、十月事件の挫折によつてもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し 陸海民間の聯合を組織して蹶起しようとして居つた。
同年 ( 昭和六年 ) 十二月二十八日、当時井上は十月初頃より、
当時の東京府豊多摩郡代々木幡町代々木上原百八十六番地 成事 権藤善太郎 方附近の
同人管理する所謂権藤空家に居つたのであるが
冬の休暇で状況して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一統と権藤方に於て忘年会を開いた。
出席者は
海軍側  村上功    沢田邲    古賀清志    伊藤亀城    浜勇治    中村義男
陸軍側  菅波三郎    栗原安秀    大蔵栄一    佐藤某
民間側  井上昭    古内栄司    池袋正釟郎    四元義隆    田中邦雄    久木田祐弘
            西田税
            権藤成卿
等で単純なる顔合せに過ぎなかつた。
然るに 其の直後 同月 ( 十二月 ) 三十一日
西田税の発議で陸海民間の同志のみで会合することとなり、
府下 下高井戸料亭松仙閣に於て会合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田清貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年会には出席せず 其直後揃つて上京し
而も 従来の関係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず何の挨拶もなかつた。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事かを画策して居る。
即ち 西田、菅波が自分より離れて了つたことを直感したと称している。
その上 宴会に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜井上は泥酔した。
正月になり菅波から古内等に井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る
と 排斥的な注意があつた。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて来た。
井上は非常に苦しみ、
同志に対し これ迄指導的立場に在つて、今斯様な状態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する青年達や海軍側同志は
陸軍側の離れつつあるのを偏へに西田の所為となして西田に対し強い反感を抱いた。

現代史資料4  国家主義運動1  から


井上日召 ・ 五、一五事件 前後

2018年02月15日 19時02分31秒 | 井上日召

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である
    
 
井上日召            古賀清志海軍中尉   中村義雄海軍中尉

井上日召の活動を記してある
現代史資料4 国家主義運動 1 から

第二部  血盟団、五 ・ 一五、神兵隊事件
第二章  五 ・ 一五事件
第一節  第二陣海軍側の暗躍
(一)  古賀、中村 両海軍中尉 日召と聯絡しつつ陣容整備に努む。
一月三十一日の權藤空家に於ける最後の會合により、
民間側同志が先づ立って第一陣として一人一殺主義による暗殺をなし、
海軍側は第二陣として同志の凱旋を俟って菅波一統の陸軍側を引摺って陸海軍聯合軍を組織し、
大々的蹶起をなすことに決定し、井上昭は第一陣の暗殺には直接參加せず、
背後にあって聯絡統制の任務を担當すると同時に海軍側同志を指導し、
後續部隊の陣容整備の任に當たることになった。

井上は權藤空家に居って第一陣の民間側同志の統制聯絡に當たり乍ら、
同時に藤井齊 上海出征後、
中央に近い霞ヶ浦航空隊に居り 海軍側同志の聯絡に當って居た海軍中尉古賀清志、同 中村義雄の兩名と
屡々會合し、海軍側同志の結束 及 情勢の探索に努めて居った。
古賀、中村兩海軍中尉は毎土曜、日曜に上京し、井上、古内等と聯絡し、
其の指導を受けて各方面を奔走し、陸軍側、民間側の情勢を探って之を井上に報告して居った。

二月三日頃、
古賀は一月三十一日の會合の結果を、上海に出征中の藤井齊、村山格之 及 海軍側同志に通報した。
二月六日、古賀、中村は航空隊敎官より藤井の戰死の報を聞き、
直ちに上京して權藤空家に行き、井上 ・ 古内 ・ 四元等に会ひ、之を報告した。
其の後 井上より大川周明が何事か畫策中であるから其の計畫を探り出來るならば之と合體を計るか
或は大川周明が三月事件當時爆弾 ・ 拳銃當多數を入手し保管して居る筈だから
之を此方の計畫に提出して貰ふ様、とにかく大川を訪問し形勢を探ることを指令せられた。

二月七日
古 ・ 中村は大川を訪問し、同人が拳銃を所持し居るのを探り、権藤空家に戻り井上に之を報告した。

二月九日、
小沼正が井上前蔵相を暗殺したので、井上は危険を察し、
天行会道場に身を潜め 古賀 ・ 中村に暫く上京を見合はせる様 通知し 両名は上京を止めて居った。

二月二十八日頃、
井上の旨を受けた浜勇治海軍大尉より中村 ・ 古賀に対し上京せよとの通知が発せられ、
それに応じ 三月二十日、古賀、中村は上京し
浜方の二階に於て血盟団の古内栄司、田中邦雄の両名が官憲の目を逃れて来て居るのに相会し
彼等より其後の形勢を聞いたが、
更に古賀は天行会道場に赴き 井上昭に会ひ、井上より
「 小沼正に続き同志の誰かから第二弾が発せられるれば全線暴露の危険がある。
直ちに西田税 の処へ行き軍部同志が集団蹶起する様に交渉して呉れ、
集団 『 テロ 』 は東京会館、華族会館、工業倶楽部等に支配階級が集った時期を見て、
之に対し敢行することにしたい 。
更に 明日 大川周明の所へ行き 既に第一陣を撃ったから同人の一派に於ても起つ準備をする様に勧めて呉れ 」
との
依頼を受けた。
古賀は天行会を出て、西田方を訪れ、
折良く同所に集合していた西田税、菅波三郎、栗原安秀、安藤輝三、大蔵栄一 等の陸軍青年将校一同に対し
「 第二弾が鳴ったから 我々の全線が暴露するかも知れぬから、
此際軍部同志が結束して例へば、東京会館、華族会館、工業倶楽部等に目標人物の集合した時機を見て
之を襲撃するやうにしたい。
尤も陸軍の方では実力部隊に居る者は本隊として残って貰はねばならぬが、
其の他の者は 此の襲撃に加って貰ひ度い 」 と告げた。
併し 種々議論が出て賛否何れとも定まらなかった。

翌二十一日
古賀は大川を訪ね、計画の大略を話し、之に誘致しようとした。
大川は政党財閥を倒し、軍政府を樹立する決心であるが必ずしも 「 クーデター 」 の様な非合法に依る必要はない。
などと云って判然たる意嚮を示さなかった。
其の正午頃、
地方から第一次二月十一日決行の計画を聞いて上京して居った同志、黒岩勇予備海軍少尉と井上と面接せしめるために、
上野公園前料亭 「 揚出 」 で会合が催された。
会したものは、井上昭、頭山秀三、浜勇治、黒岩勇、古賀清志、中村義雄であった。
頭山秀三は既に井上と深く結ばれ準同志の間柄であったので、井上は頭山を一同に紹介した。
古賀は井上に西田、大川方の模様を話した。

二月二十七日、
古賀、中村は上京し、天行会道場に行ったが、井上は不在であったので西田を訪問した。
西田方には西田、菅波、大蔵、安藤 等の一等が居ったが、
青年将校連は古賀に、自分等は近く上海に出征するから帰る迄待って呉れと言ひ棄てて帰った。
其の後を引受けて西田等を中心とする一統に起って貰ひ度いと話した。
併し 判然たる答はなかった。

翌二十八日
古賀、中村両名は大川周明を訪問し、愈々決行が迫ったことを話し、拳銃の都合を依頼した。
大川は之を承諾したので両名は直ぐに天行会道場に行き、井上に西田、大川訪問の報告をした。
当時古賀等の許に上海出勤中の村山格之海軍少尉から、手榴弾二十個入手したとの通知があり、
拳銃のみ揃へば武器は十分になるのであった。・
三月五日午後、
古賀、中村は上京したが、途中新聞号外によって菱沼五郎の団琢磨暗殺の事を知った。
上京し直ちに天行会道場に行き井上に会った。
井上と談合の結果、菱沼の第二弾により警戒は厳重になり、個人テロは至難の形勢になったから、
今後は残った民間同志と海軍側と聯合して、集団 「 テロ 」 を決行することに大体意見一致し、
大川周明一派に共同して起つ様交渉することとし、古賀、中村は井上と別れたが、これが最後の連絡となった。

翌六日、
古賀、中村は大川を訪問しようとしたが、浜大尉より危険であるからとて止められ、
両名は其の儘 霞ヶ浦に帰隊した。

其の後 井上の潜伏して居った天行会道場二階は警察官隊に包囲せられ
且つ権藤成卿 始め知人が取調を受ける様になり、井上は到底逃れざるを自覚し、割腹自殺の決意をなした。
此の時、本間憲一郎、天野辰雄は自決を思ひ止らせ、後事を引受けて
三月十一日、井上を自首せしめた。

(二)  日召自首後蹶起を急ぐ
一方、海軍側の古賀、中村両中尉は井上の自首を聞いて、最初の計画通り第二陣の決行を決心した。
この時 両中尉は井上と従来連絡のあった
一、橘孝三郎の愛郷塾一派
二、陸軍士官候補生の一団
三、血盟団の残党
を糾合し、海軍側との聯合軍を組織し、一方
四、大川周明
五、本間憲一郎
六、頭山秀三
の援助を求め、出来得べくんば西田税、菅波三郎一党の陸軍側をも蹶起せしめ、
一大集団テロを敢行しようと決意した。
此等の諸勢力と井上昭一派との関係は次の如くであった。

一、橘孝三郎の愛郷塾一派
橘は茨木県水戸市外常盤村に於て兄弟村を経営し、愛郷塾を開き、農本主義に基く天地主義を唱へ、
農村を救済し延いで国家を救済する事を目的としていた。
昭和五年 同県郡珂郡渡村小学校に於て、農村問題の講演をなしたる際、
同小学校の訓導であった古内栄司と相識り、其後交際を続けた。
古内は井上昭と同志の間柄であるので、
昭和六年五月頃、古内の勧めで東京牛込区の林正一方にて橘は井上と懇談を遂げ、爾来 深い関係を持つに至った。
井上は橘の思想に全く同感であるが、橘の性格が学者肌であり、革命家には適しない処から、
橘に井上の破壊後に建設方面を担当させようと考えて居った。
然し 井上は、橘に破壊後の建設に当り、発言する資格権利を持たせようとして、
海軍側其他の同志に対し、同志としての取扱をして見せた。

昭和六年八月の青山青年会館の郷詩会の会合に、橘 及 愛郷塾教師 後藤圀彦を出席せしめた。
又 彼等を海軍側同志に紹介した。
橘は井上の同志たることは相違なかったが、破壊行動の同志ではなかった。
井上は、橘に、破壊は自分等が担当するから建設に当って呉れ
建設に必要なる貴兄は決して破壊方面に関与してはならない、と
言って居った。
従って橘は、血盟団事件に付ては関与して居らなかった。
然し斯かる微妙なる関係を知らなかった海軍側古賀清志等は、橘を井上の同志として取扱ひ、
第二陣の計画に参加せしめた。

昭和七年三月中旬、
古賀海軍中尉は愛郷塾に行き、橘に計画を打明け、参加を求めた。
橘は予て国家の現状を革新し、農村を瀕死の状態より救はねばならぬと考へて居ったので、直ちに之に応諾した。
塾の教師後藤圀彦 及 自己の妹婿で同塾の教師をして居た林正三に打明け、
両名等も革新的思想に燃えていたので、直ちに承諾し、愛郷塾生より適任者を選び、
愛郷塾一派が参加するに至った。

二、血盟団の残党
井上昭の護国堂時代その影響を受け、革新思想を持つに至った大洗附近の青年は多数あった。
血盟団事件に連座し、収容せられた以外にも急進的分子が数名残って居った。
古賀清志が第二陣の計画を樹て、三月中旬愛郷塾を訪ね、橘を参加せしめた際、
橘はこれ等大洗青年の数名をも動員することになり、
三月二十五日 後藤邦彦はその一味の堀川秀雄を同郡湊町の実家に訪ね、
井上昭一味の検挙された模様や、古賀中尉の第二陣の計画を話した。
堀川は直ちに之に参加を約し、井上残党の川崎長光、黒沢金吾、照沼操と共に、この四名の参加が決定した。

奥田秀夫は父が朝鮮咸鏡北海清津府に居住し、漁業を営む関係上少年時代を清津に於て過し、
当時清津にあって皇室中心主義を奉じ、敬愛学舎と云ふ私塾を立て、
少年に精神教育を施していた四元義正、其弟 四元義隆や その友人の池袋正釟郎と親しい間柄であった。
四元義隆、池袋正釟郎が七稿を出て東大に入学し、金鶏学院に居る頃、奥田は上京し、
明大に入学して居たので金鶏学院に四元等を訪ね、同時に其処で井上昭と接触し、
革命精神を吹き込まれた。
血盟団計画には奥田も参加し、木村久寿弥太の暗殺を引受け、偵察をして居った。
血盟団員の検挙が開始されるや、
彼は当時東京市外野方町四五三番地林新太郎方に下宿して居た四元義正方に逃避し、
官憲の追跡を逃れて居た。

古賀、中村両中尉が第二陣の計画を進めていた三月十二日、
中村中尉が浜勇治大尉の所で池袋に会った。
其後池袋は、自分は警視庁から召喚状が来ているので明日 出頭する。
此で全部検挙せられるのだから、後はよろしく頼む。
陸軍側も大蔵中尉あたりが中心だから極力引摺って呉れ、
尚 一味の中、奥田秀夫のみは警視庁に判らずに居るから決行の際は参加せしめて呉れ
と云ひ置いて行った。
それで中村中尉は三月二十日、林方を訪ね、奥田に会ひ、計画を打明け 同人を参加せしめた。
尚 当時奥田の親しいクラスメートに中橋照夫がある。
中橋は当時奥田と行動を共にして居り、五・一五事件によって強い革新的信念を持つに至り、
後に 二・二六事件に関係するに至った。

三、陸軍士官候補生 ( 附池松武志 ) の一団
士官候補生 後藤英範、篠原市之助、石関栄、中島忠利、吉原政巳、西川武敏、八木春雄、菅 勤、
野村三郎、金清 豊、坂元兼一 及 元士官候補生 池松武志は、
昭和六年十月  夫々所属部隊より派遣せられて、陸軍士官学校本科に入校した第四十四期生であるが、
入校早々 十月事件に際会し、
先輩将校の計画であったので極めて簡単に参加を約した。
当時はこれ等の外にも数十名参加の予定であった。
その後間もなく一同は
歩兵第三聯隊菅波三郎中尉が歩三に転隊前長く所属して居った鹿児島聯隊より派遣せられて居た後藤英範より、
菅波中尉が革新的人物なることを聞き、休日毎に菅波の下宿を訪ねる様になった。
十月事件の体験と、菅波の啓蒙に因り、第四十四期生は国体問題、社会問題に関心を高め、
此方面の有識者の所説を訊ねる様になった。
同年 昭和六年十一月頃から権藤成卿を一同が訪ね、その談論講義を聞くこととなった。
そして権藤方で井上昭とも知り合ひ、其後数回井上昭を訪ね、十月事件失敗の真相を尋ねた。
右の如くにして、一同の革新的気分は一層強められて行き、一同は井上昭の人物に敬服するに至った。

同年 昭和六年十二月、
第四十四期生の一人、米津三郎候補生が、
社会問題に付て論じた一文を執筆し謄写版にて印刷し、配布した事件が発覚し、
学校当局は翌七年一月二十五日、
米津三郎、池松武志 等 関係者を退学処分に付した。
その大略は
日本国家の政策は、日本の経済の盛衰が農業にかかっている関係上、農村本位たるべし。
綱領として現在の経済機構は不合理であるから、凡ての生産機関を国営となすべく、
其の過渡期に於ては戒厳令を布き、戦時給付の状態となすべきである。
と言ふのであった。
この処分問題や、其後起った井上一派の暗殺事件は、一同の革新気分を弥が上に高からしめた。

一方 井上昭は第二陣計画をなすに当り、
古賀、中村両中尉に、
この士官候補生の一団のあること 竝 井上と或る連絡のあったことを告げて自首したのであった。

三月十三日、
古賀、中村 両海軍中尉は天行会道場に頭山秀三を訪問し、井上昭自首の経過を聞いた。
両名は更に、大蔵栄一陸軍中尉宅を訪ね、大蔵、安藤輝三 陸軍中尉に、
井上等の後続部隊として蹶起方を促したが、満足な返答を得ることが出来なかったので、
古賀は安藤に、第四十四期生と会へる様連絡して呉れと頼んだ。
安藤は
候補生は焦って居って困るから煽動して呉れるな、
兎に角、二十日に歩三の自分の処で、陸軍側同志の会合があるが、
それに候補生が出ることになっているから、其時来て呉れ
と告げた。

三月二十日、
中村海軍中尉は歩三に行って、
陸軍側、安藤輝三中尉 ( 歩三 )、大蔵栄一中尉 ( 戸山教官
)、朝山小次郎中尉 ( 野戦砲工学校分遣中 )
村中孝次中尉 ( 陸士予科第一中隊第一区隊長 )、佐藤中尉 ( 歩三 )、
相澤三郎少佐 ( 千葉歩兵学校分遣中 )、士官候補生代表 坂元兼一
に面会し、陸軍側の蹶起を極力進めた。
併し 陸軍側は自重論を執って応じなかった。
坂元候補生は両者の説を聞いて居って、海軍側の決意に感動し、中村海軍中尉を別室に呼んで、
参加の意思のあることを打明け、明日同期生一同が面会することを約束した。
・・・リンク→ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」

三月二十一日、
春季皇霊祭当日、東京市外大久保町百人町一七八番地 藤田儀治所有の家屋に於て、
古賀清志海軍中尉と、第四十四期候補生 後藤英範外十名
退校処分後一旦帰国したが当時上京して居た池松武志とが面談した。
古賀は陸軍将校は自重に傾き、ともに計ることが出来なくなったから、候補生の合同参加を要望した。
一同は之を快諾し、候補生等は従来、菅波等の統制下にあったのであるが
茲に海軍側と合体することになり、遂に其の参加を見るに至った。

四、大川周明  ・・・略
五、本間憲一郎
六、頭山秀三  ・・・略

(三)  古賀、中村 等の活躍
古賀、中村 両海軍中尉は、井上が十一日自首し、血盟団が全部検挙せられた後を承けて、
以上の諸関係勢力に向って直ちに働きかけた。
三月十三日午前
古賀、中村は、牛込区戸山町の大蔵栄一中尉宅を訪問した。
大蔵中尉は戸山学校教官 ( 体操 ) で、細事に頓着せぬ性格で菅波一統に属していたが、
井上昭一派とも近く、血盟団の古内栄司は二月下旬、官憲の追跡を逃れる一面、
大蔵中尉と密接な関係を結び、第二陣ら獲得しようとして大蔵中尉方に潜伏し、
三月十一日朝 同所から検挙せられたのであった。
古賀、中村 両名は大蔵方に行き、血盟団の池袋正釟郎と落合ひ、
大蔵栄一、及び 来合せた安藤輝三中尉に、口を極めて共に蹶起せんことを勧めた。
併し、大蔵、安藤は判然としなかった。
そこで古賀は、安藤中尉に、士官候補生に会へる様にして呉れ、と頼み
安藤は、
次の日曜日二十日に麻布歩兵第三聯隊の自分の許にて、
陸軍側の会合があってそこへ士官候補生が来ることになっている。
併し、候補生は焦っているから煽動的なことは言って呉れるな、
と云って会見の機会を作ってやった。

古賀、中村は其夕刻 天行会道場に行き、
頭山秀三に会ひ、井上昭の自首の模様を聞いた。
そして頭山に、自分等が近く起つことになっているから貴方も一緒に蹶起するやうに願ひ度い、
士官候補生も共に起つ見込みがある。
手榴弾は手に入っているから、拳銃を都合して呉れと頼んだ。
頭山は大いに喜んで拳銃も機関銃もある。拳銃三十挺位は準備出来る。
自分でも極力同志を動員するやうに計画を立て地方を廻って見ようと申した。

三月二十日 ( ・・・リンク→ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
)
中村上京し、歩兵第三聯隊に行き、前記の如く士官候補生と提携することが出来た。
同日古賀は愛郷塾に行き、橘孝三郎 及 後藤圀彦に計画を打明け、さんかを求め両名の承諾を得た。
中村は大蔵方を出て長野朗を訪ね様として、明治神宮表参道同潤会アパートの菅波の留守宅を訪ね、
菅波の留守を預って居った、渋川善助、池松武志に教へられ長野方を訪れ、同人の改造意見等を尋ねた。
更に 中村は其夕刻
池袋正釟郎より十三日上京の際、血盟団で四元の連絡下にあり警視庁に判らずに居る奥田秀夫の住所を聞いて居ったので、
市外野方町新井四五三林新太郎かた四元義正 ( 義隆の兄 ) の許に居った奥田を訪ね、
同人を参加せしむることにした。

三月二十一日、
東京市外大久保百人町 ( 現淀橋区百人町三丁目三七八番地 ) 藤田儀治所有貸家に於て、
後藤英範等十名の士官候補生 及 池松武志と古賀、中村 両名が会合し、
古賀等より其の所信 及 計画を披露し参加を求めたところ、
士官候補生 及 池松 等は即座に快諾し 其の提携が成った。
当時陸軍青年将校の一団は、自重的態度に決して居ったので、
従来菅波の統制下にあった候補生が、海軍側に走るのを制止しようとして居った。
この会合のあることを察していた大蔵栄一中尉は、この会談の済んだ頃同所に来たが、
此時は既に海軍側及候補生等は、陸軍側の自重的態度を慊あきたらずとして、
是と全く絶縁して決行する決意を固めた時であったので、
大蔵中尉にこの会合の結果を秘して別れた。
尚 池松は此日迄、菅波が上海出征の動員業務のため帰宅せぬ様になったので、
其の留守を預っていたのであったが、此の提携が成立して直ぐ、菅波の留守宅を失踪して、
菅波一統に住所を秘して海軍側に連絡しつつ、襲撃準備のため首相官邸の偵察を始めた。

三月二十三日、
本間憲一郎自宅 ( 茨木県土浦町真鍋大一、二二三番地築山塾 ) より電話があって、
古賀は築山塾に行った。
本間は頭山秀三より話を聞いた。
拳銃は自分が都合するから、あまり頭山秀三を表面に出さない様にして呉れ、
と頭山満翁に累の及ぶことのない様注意した。

三月二十六日、
古賀は愛郷塾を訪れ連絡した。
三月二十七日、
古賀、中村は大川周明を訪問し、愈々四月中旬から五月中旬迄の間に於て一斉に起つことを話す。
大川は拳銃軍資金を都合することを約束した。
中村は其帰途、天行会に行ったが頭山秀三は病気にて面会出来ず、本間より古賀に対すると同じ話があった。
一方古賀は、士官学校附近の三省舎に於て、坂元候補生に会ひ、
更に後藤候補生の下宿に行き、後藤、中島 両候補生に会ひ所要の連絡を執った。

三月二十八日、九日頃
古賀、中村は其の下宿、土浦町大和町 来栖万之助方にて第一次計画を樹てた。
それに依れば
会員を六組に分ち
第一弾に於て、首相官邸、牧野内府邸、華族会館、工業倶楽部、政友会本部、民政党本部
の六箇所を襲撃し
第二弾に於て三組に分ち
一組は、東郷元帥邸に到り 同元帥を宮中に御伴する。
二組は、権藤成卿を荒木陸相官邸に連れて行く。
三組は、刑務所を襲ひ 血盟団被告を奪還する。
ことと東郷元帥を推戴し、戒厳政府を出現せしめ、
権藤の主催する自治主義を基礎として国家改造を行ふと云ふのであった。

四月一日、
愛郷塾後藤圀彦に右計画を打明けた。
四月三日、
古賀上京して大川周明方を訪ね、大川より拳銃五挺実包百二十五発と軍資金千五百円を貰ひ受けた。
それより古賀、中村は三省舎に行き、坂元候補生に会ひ 第一次計画を話し各候補生の配置を定め置くことを依頼した。
更に 池松武志と連絡し、池松に襲撃個所の偵察方を命じ、
其後毎週火曜日夕刻、土浦町山水閣にて連絡することを定めた。
池松、奥田は、其後偵察に努め、鳥観図等を作り、山水閣にて毎週一、二回連絡を続けた。

四月四日、
古賀は同志村山格之 ( 上海 )、林正義 ( 佐世保 )、山岸宏 ( 鎮海 )、村山功 ( 舞鶴 ) に計画を通報した。

四月十日、
古賀、中村は近く臨時議会開催せらるとの報を聞いて、計画を変更し議会襲撃を計画した。
池松に議事堂の偵察を命じ橘に依頼し、風見代議士より傍聴券を貰ふこととした。

四月十六日、
古賀は愛郷塾を訪問し、橘に第二次計画を話し、傍聴券の件を依頼した。

四月十七日、
古賀上京、頭山方に行き本間より拳銃三挺実包若干を貰ひ受けた。

四月二十一日頃、
村山格之突然土浦に来た。
古賀、中村は村山より佐世保の林正義の下に手榴弾が到着したことを聞き、村山より拳銃一挺実包百五十発貰ひ受けた。
此の日頃、西田税が此の計画を探索し、他に洩らすらしき様子があるとして、
古賀、中村は橘、後藤と相談し、川崎長光をして西田を暗殺せしめることに決定した。
尚 此の日頃、本間憲一郎宅にて同人より、拳銃二挺実包若干貰ひ受けた。

四月二十三日、
電報あり、古賀は横須賀水交社に行き 山岸と会ひ、同人が血盟団関係にて軍法会議の取調を受けたことを聞き、
至急決行を決心した。

四月二十七日頃、
古賀、中村は議会開会中は、士官候補生が富士山山麓に野営に行くことが判り、
五月十五日、首相官邸にてチャップリンの歓迎会開催の予定であるから、
其の席上を襲撃することに変更した ( 第三次計画 )

四月二十九日、
古賀上京、大川周明り軍資金二千円貰ひ受け、五月十五日決行を話した。
黒岩勇を佐世保に派遣し、鈴木四郎、古賀忠一、林正義、三上卓に連絡せしむることとした。
此の日頃、チャップリンの件は、不正確なことが判り、古賀、中村は第四時計画を樹てた。
これに依れば次の如くである。
「 第一段、  全隊を三組に分ち、首相官邸、牧野邸、工業倶楽部を襲撃する。
第二弾、  一、二組は憲兵隊に自首し、三組 ( 工業倶楽部 ) は東郷元帥を宮中に参内せしめること。
別動隊として、愛郷塾は変電所を襲撃し、東京市内を暗黒化する。
川崎長光は西田税を暗殺すること。
斯くして軍政府樹立した暁は、大川と通ずる陸軍同志、長野朗を中心とする農民一派、
大川、頭山系の民間革命家其他一般愛国団体が、此の軍政府を支持することを予想する。」

其後同志間の往復頻繁に行はれていた。
尚 血盟団事件の取調に依り、海軍側同志の身辺も漸次危険となって、
既に浜大尉は三月初より取調を受けて居り、村山格之は上海より呼び返され、禁足を命ぜられる状態で、
海軍側では非常に決行を急いで居った。

五月六日、
佐世保より手榴弾二十一個を持って帰京して居った黒岩勇り、
北豊郡王子町下十条 田代平方に於て、愛郷塾一派の同志林正三に変電所襲撃用手榴弾六個が交付された。

五月八日、
豊多摩郡淡谷町神宮通り一丁目二十番地 蕎麦屋方 万盛庵に於て、
古賀、黒岩、山岸、村山等海軍側と士官候補生と会合し、五月十五日決行と決定した。

五月十三日、
茨木県土浦町山水閣に於て、古賀、中村、池松、奥田、後藤圀彦が会合し 最後の計画を協定した ( 第五次 )

五月十五日午後五時半、遂にこの計画に依って一斉蜂起した。

第二節  犯罪事実の概要
以下省略


井上日召 ・ 郷詩會の會合 前後

2018年02月03日 18時56分55秒 | 井上日召

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である

井上日召の活動を記してある
現代史資料4 国家主義運動 1 から

第二部  血盟團、五 ・ 一五、神兵隊事件
第一章  血團事件
第一節  日召事井上昭と其の同志
(一)  生立ちと放浪時代・・・略
(二)  修養時代・・・略
(三)  護國堂時代・・・略
(四)  井上と海軍側との提携成る・・・略
(五)  上京・・・略

第二節  計畫熟し民間側第一陣を引受く
(一)  陸軍側其の他との提携に務む
井上日召は 昭和五年十月
藤井齊の依頼に應じ海軍同志の聯絡機關として活躍するため、
護國堂を去り上京したのであった。
護國堂時代 井上を盟主と仰ぐに至った靑年や海軍將校聯は 同志檜山誠次方二階於て井上の送別會を催した。
海軍側の藤井齊、鈴木四郎、伊東亀城、大庭春雄、大洗靑年組古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、
以下數名が出席した。
井上は此の時自分の意中を述べて、東京では革命革命と口では云って居るが、
皆 命を惜んで自分の國家のため捨石にならうとする者がない。
國家に對して眞の大慈悲心を懐く者が始めて革命の捨石になる事が出來ると語って居り、
一同は無言の裡に革命のため井上と生死を共にすることを堅く誓ったとの事である。
井上は初めは気の長い宗教的方法に依る国家改造を考へて居ったのであるが
ロンドン條約以後改造運動者は一九三六年前に改造を成就せねばならないと云ふ聲が高くなり、
井上も藤井と交はるに至り 之に同感し次第に急速な手段を考究するに至り、
上京せんとするこの頃に至ってはテロ手段に依って革新の烽火を擧げ、
支配階級に生命の危險を感ぜしめて 其の自覺を促し
一方陸海軍民間側の革新分子が彼等の後を繼いで革新實を擧げることを期待して居ったのである。
彼が暗殺手段を採用した理由として
第一、同志が少ない
第二、資金が皆無だ
第三、武器兵力が無い
第四、言論機關が改造派の敵である
第五、國家の現狀は一日も早く烽火を擧げねばならない
等を數へて居る。
斯くして井上は宗教的熱意を以て改造を志す數名の靑年を率い、
同じく國家改造に燃える海軍士官一派と握手して 愈々中央に乗出して來た。
井上は直ちに金鶏會館に止宿した。
筑波旅行によって有力たる闘士として望をかけて居った金鶏寮止宿の上杉門下七生社同人四元義隆、池袋正釟郎と接触し、
之を同志に獲得した。
一方 井上は大學寮以來藤井海軍側同志が親しくして居った西田税に近附き、
中央に於ける改造運動の情報を探り、又 北一輝、満川亀太郎、大川周明にも面會し北、大川の大同團結を計らうとした。
改造陣営の要所要所に手を延ばし情報を探り、藤井齊地方にある海軍同志に之を通報して居た。
同年十二月 大村航空隊に在った藤井齊より九州に於ける革新分子の會合があるから來いとの通信があり、
井上は四元義隆と共に西下した。
昭和五年 十二月二十七日午後より翌日にかけて福岡県香椎温泉に於て
海軍側  藤井齊  三上卓  村上功  鈴木四郎  太田武  古賀忠一  古賀清志  村山格之
陸軍側  菅波三郎
民間側  大久保政夫 ( 九大生 )  上村章 ( 福高生 )  山口半之丞 (福岡県社會課)  井上富雄 ( 天草郡小學校訓導 )
             井上昭  四元義隆
の會合に出席した。
その内容は之より組織を持たうと云ふ程度に過ぎず井上は頗る失望したが、
海軍側三上卓、陸軍側菅波三郎等有力なる人々と親しくなった。
更に四元と共に同人の郷里鹿児島に行き、菅波中尉と懇談を遂げ親密の關系となった。
又 大村に於て藤井の紹介により陸軍士官東少尉外數名と會った。
其 歸途 呉鎭守府、横須賀鎭守府に立寄り藤井の統制下にある海軍士官多數と面會し、
其の同志たるべき者を探し求め、相當の収穫を得て 翌年六年二月歸京した。
當時井上の観察する処では陸軍側革新分子は九州に於ては菅波中尉 東少尉が中心であり
而も運動は相當古くよりのものであり、
東北に於ては仙台の教導學校より靑森聯隊に轉じた大岸頼好中尉が
海軍側に於ける藤井齊の如き立場に居る有力なる中心人物であった。
而も之等 陸軍側三名は孰れも藤井齊と聯絡を有して居り、
菅波中尉 東少尉とは九州旅行により井上は懇親となり、
大岸中尉とは其以前金鶏会館に於て藤井齊の紹介により相識の間柄となって居った。
斯くの如くにして井上は藤井との聯絡によって
陸軍側の靑年將校の中心人物 菅波、東、大岸等と相知ったのであったが、
未だ同志として心より提携するには至らなかった。
井上が九州旅行により歸ると間もなく同年三、四月頃
陸軍側上層部に所謂三月事件なるクーデターに依る國家改造の計畫があった事が風説として一般に傳へられた。
これは一般民間側改造運動者にも相當の刺戟となった。
井上は上京後 早々から西田税に近付いて彼の処に集まる情報を聞いて居ったが
三月事件の情勢を西田其他より聞いて愈々改造に着手せねばならぬと考へた。
彼は藤井よりの依頼もあったので民間側の巨頭である 北一輝、大川周明との仲直りを策した。
井上はこの以前 北一輝の 『 日本改造法案大綱  』 を讀み、
北の非凡な頭脳の所有者であるを知り、前田虎雄と共に訪ね、
自分等も國家改造のため盡力し度きを持つ意思を持つ者である事を傳へた。
北は井上等に満川亀太郎を紹介し、満川は更に井上等に大川周明を紹介した事があり、
井上は北、満川、大川とも面識があったのでその大同團結を計らうとしたが、
西田税が北の幕下であり大川を口を極めて非難したので、
井上は此の様な情勢にては北、大川の提携は不可能であることを知った。
即ち この兩者は相對立する關係にあるので 北、西田と結べば大川と提携し得ず、
大川と結べば北、西田とは對立することを知った。
井上は同志として握手している藤井齊一統が西田と親しい間柄であるので、
大川と結べば遂には藤井等をも質に至るであらうことを顧慮し、
西田と提携し西田を擁して國家改造に進むことを決意した。
そして井上は西田に近附き提携して改造に進むに至った。
當時 西田は日本國民黨より脱退を餘儀なくされ、
一方陸軍側菅波、大岸等とも天劔党事件以來往復をして居らず、寧ろ不遇の狀態であった。
民間側改造運動者 津久井一派の如きは西田を大いに非難して居る有様であったが、
井上は西田が大學寮以來改造運動に從事すること十余年、其の間彼が盡した貢献は大なるものがある。
自己の生活の資を得る途のない彼が有資産者、俸給生活者の如く公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ當然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。

(二)  日本靑年會館に於ける全國的 海 ・陸 ・ 民間同志の會合  昭和六年八月二十六日
一方海軍側同志は三月事件以來益々急進的となり、
昭和六年四月  伊東亀城、山岸宏 等が上京して金鶏會館に集り、
當時群馬県に歸省して居た井上及び四元を呼び寄せ、池袋も加はって會合を開き、井上等に決行を促した。
井上は同年八月支配階級の巨頭連が避暑地に集った際 五人の同志を以て暗殺し様と提案し
其軍資金 及 武器として拳銃の調達方を海軍側に求めた。
井上の眞意は海軍側同志の決意の程度を試すことにあったのでこの計畫は實行されなかった。
同年七月末頃
陸軍の一部に於て満洲に事を起し同時に國内改造を行ふためクーデターを企てゝ居ると云ふ情報が入って來た。
井上は此の計画は眞の日本的のものに非ずして 政權奪取をもくろむ覇道的のものであると観察し、
西田に向って此の計畫は一命を賭しても打破る意志であることを告げた。
西田は驚き 北一輝にも相談して見るから待てと云って之を押し止め、
結局西田が、井上 及 西田一派の革新勢力を代表し、十月事件の首脳者である橋本中佐等と交渉することとなった。
井上は十月事件の計畫に同志と共に飛込んで、暗殺其の他の役割を分担することに依って發言權を獲得し、
軍部側の計畫をリードして、その指導精神を眞の日本精神に基くものになさうと畫策した。
そこで、西田と相談の結果、兩者の統制下な在る革新分子を會合せしめて結束を固くし、
十月事件の計畫に對処する爲、同年八月二十六日 靑山の日本靑年會館に於て
郷詩社の名目を以て會合を催した。
當日參會した者は 三、四十名と云はれて居るが 其の中には
陸軍側  菅波三郎  大岸頼好  東昇  若松満則  野田又男  對馬勝雄
海軍側  藤井齊  鈴木四郎  三上卓  古賀清志  村上功  村山格之  伊東亀城  太田武
民間側  西田税
            井上昭  古内栄司  小沼正  菱沼五郎  黒澤大二  堀川秀雄  黒澤金吾  四元義隆
            橘孝三郎  後藤圀彦
等が居り  井上等の知らない西田一派の者も居った。
其會合に於ては西田が司會者となり
「 愈々 時期も切迫して來たから我々の運動も今後はしっかりした統制を必要とする 」
と 申し 中央本部を決定し 更に各地方毎に同志が集り 責任者を定め發表した。
それによると
1 中央本部を西田方に置き 西田と井上其他中央に居る菅波等が協議の上
  外部に關する聯絡情報の蒐集、對策の決定をなし、地方責任者との聯絡を執ること
2 海軍側に於ては
 全般及九州責任者  藤井齊
 横須賀地方  山岸宏
 第一艦隊  村上功
 第二艦隊  古賀清志
陸軍側に於ては
 関東地方  菅波三郎
 東北地方  大岸頼好
 九州地方  東昇
 四国地方  小川三郎
 朝鮮地方  片岡太郎
民間側に於ては
 愛郷塾責任者  橘孝三郎
 大洗責任者  古内栄司
を 各地方責任者と決定し
3  地方組織に付ては陸海軍部が中心となり民間との聯絡及中央との聯絡を執ること等を決定した。
此の會合は全國會議であって此の會議の準備として各地の革新同志の會合が催され、
夫々必要事項を協議し、代表者を出した模様である。
九州方面に於ては七月下旬藤井齊より 八月下旬艦隊が横須賀入港を期して、
東京に於て陸海民間同志の全國會合を開催する餘定であるから、
その準備として九州に於ける陸海軍同志の意嚮を決定する必要があると同志に通知を發し、
八月八日 福岡市西方寺前町料亭氣儘館に於て會合を行って居る。
その時の出席者は
海軍側  藤井齊  鈴木四郎  林正義  三上卓
陸軍側  菅波三郎  小川三郎  若松満則  江崎  栗原 (鹿児島)  竹中英雄  樽木茂  東昇  片岡太郎  小河原清衛
等で、各地の情勢、同志獲得の情況、民間同志との聯絡等に付 報告があり
次に各地方責任者、全九州責任者、各地方に於ける組織運動の促進、聯絡、
中央進出の準備に付 協議決定する処があった。
陸軍側  全九州責任者  若松満則
            地方責任者  佐賀地方--江崎  鹿児島地方--西原  福岡地方--小河原  
                              四国地方--小川  朝鮮地方--片岡  長崎地方--東
海軍側  全九州責任者  藤井齊
以上の如くにして日本靑年會館に於て行はれた全國會議は組織統制等を決定したのみで簡單に終了した。
一度軍艦に乗組めば數ヶ月間航海生活を送り、同志一同が顔を揃える機會の少ない海軍側同志は、
陸軍側と異なり單刀直入、急速に決行することを希望して居たので此の會合に不平不満が多かった。
井上は海軍側同志のこの不平を察知し、同夜 新宿宝亭に於て宴會を開き彼等の不平不満を慰撫し、
其後連日の如く、井上の妻名義で借受けて居った本郷區西片町の家等に於て海軍側と會合した。
尚この全國會議に上京した三上卓は
上京直前佐世保にて藤井齊より同人が四月 (八月) 初旬 大連に飛行した際
笠木良明の煎入りで同地の證人から買入れたと云ふ拳銃八挺、彈丸約八百發を東京に運搬方を依頼せられ、
之を持參して上京し 井上昭に渡したのであった。
又 井上が同年一月頃九州旅行の際 東昇陸軍少尉より拳銃一挺、實包若干を入手して居り、
其後 四月頃 伊東亀城が大連に巡航した際
同地の鐵砲商より購入したブローニング拳銃一挺実包百發が井上の手に渡っており、
八月当時既に井上の手には拳銃十挺 實包多數が集められ、
井上一統 及 海軍側は唯好機の到来するのを待つのみであった。
末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合

・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」


(三)  十月事件に參加し、一擧に革新の實を擧げんとす
八月二十六日の全國會議後、海軍同志は一年に一、二回しか顔を揃へる事が出来ないので
この
好機に一擧革新の烽火を擧げ 革新の緒に就くべく、
連日の如く井上を中心として會合し、情報を求め、各方面の情勢を探って居った。
當時は既に陸軍の一部に於て満洲問題と關連して國内改造を計畫中である
との情報は頻品として井上等の耳に入って居たので 同月三十一日 井上は藤井齊に一策を授け、
同人を大學寮以来親しい間柄であった大川周明の許に行かしめ、
西田等と無關係を装ひ、十月事件の計畫に參加を申込ませ、計畫を探知せしめた。
藤井の報告は藤井が同志として海軍同志全部と共に大川一派に加盟する約束をしたところ
大川は其の畫策している計畫を話した。
それによると
「 十月頃満洲に於て事を起し 日支關係を惡化せしめ、對支貿易を阻害し 經濟界を逼迫せしめ、
之を契機として内地の民衆を煽動し、東京、大阪に暴動を起さしめ
次で 翌年二月國民大會を東京に於て開き 議會襲撃を決行し クーデターを行ふ豫定である 」
との事であったが、井上はこれを聞きその計畫が出鱈目である點を指摘し、
傍で藤井の報告を聞いていた海軍同志 及 小沼、四元等に自己の信念を吐露し、
自分のやらうとする革命は仕事でなくて道である。
政權を奪取するのではない。
革命のために動亂を起し無事の人間を殺す如きは言語道斷であると云って之を非難した。
同年 昭和六年九月十八日 満州事變勃發し、
續いて陸軍の一派がクーデターを計畫中であることが明瞭に井上等の情報網に入った。
北京駐在の長勇少佐が脱走して上京し活躍して居り、橋本中佐一派が主脳者となって、
露骨に活動して居ることが井上、西田に接近して居る靑年將校により筒抜けに漏れて來た。
井上の観察した所に依れば
「 十月事件は橋本欣五郎中佐が首脳者になって居るが、一中佐であれ丈露骨な活動は出來ない。
必ず陸軍の一大潮流が事件の背景をなしている。
大川周明一派が橋本と親しく、この事件に關与しているが、
橋本中佐の考へでは 必ずしも民間側の勢力を大川一派のみに限って居る譯ではない。
大川周明は牧野伸顕と古くより關係を有して居り、十月事件に付ても牧野と何等かの關係を付けて居て、
上部工作を牧野によって期待して居る。
從って大川等の計畫案には牧野伸顕を襲撃目標中に加へて居らない 」
と云ふのであった。

 小沼正談
・・・リンク→ 藤井中尉、血盟団 小沼正、国家改造を誓う


井上は西田を表面に立て、橋本中佐と聯絡せしむる一方、
藤井其他 肝胆相照した同志を諸方面に動かして情報を取り活動した。
陸軍の靑年士官が皆血判をして満洲事變の徹底的解決を要求し、
自分等の要求が容れられねば一致結束して立つと云った風の決議文を總理大臣、陸軍大臣、
參謀總長に提出したとの情報が入った。
又 何個中隊出動することになった。某々將校も參加した等の情報が盛に入る様になり、
陸軍の改造潮流は何人を以ても制止出來ない様な狀況となって来た。
井上は自身その中に飛入って、是を正しい方向に導かうと考へ、
西田を通じ、其の計畫の一部を分担するに至った。
初め十月事件の計畫は大部隊の出動を豫定して居らなかったものの如くで、
井上一党は遊撃隊として目標人物の暗殺を引受け、井上側に於て其の目標の選定をなすこととした。
井上は、
1  田中邦雄、田倉利之に西園寺公を
2  四元義隆、久木田祐弘に牧野伸顕を
3  池袋正釟郎、小沼正に一木喜徳郎を
4  古内栄司に鈴木貫太郎を
各担当せしめ、
田中、田倉兩名には拳銃各一挺を交付して京都滞在中の西園寺公を暗殺さすため同地に赴かしめた。
古内は計畫が進んだ十月五日 小學校訓導を辭職して上京し井上の許に參じた。
井上の許に橋本中佐より五百圓が資金として來たが 勿論之丈では不足で井上は資金に窮していた爲
學生組の田中を西田税方の食客兼玄關番に住込ましめ、その下宿料を古内の生活費に流用せしめた。
當時海軍側同志にも井上より通知が發せられ一同待機の狀態にあり、
山岸宏の二名は上京し、古賀は井上の許にあり、山岸は上京に際し乗艦より拳銃十一挺、
彈丸二百發、軍刀日本刀各一本を携帯し、
井上の通知により菅波三郎中尉の止宿するアパートに至って決行を待って居た。
然るに計畫は其の後變更せられ、大部分の出動による一齊襲撃を採ることとなり、
個人的暗殺は實行せられないこととなった。
井上等の観察する処によれば
牧野に依って上部工作を期待し、暗殺目標より同人を除いて居った大川が、
井上、西田側に於て牧野を目標人物に入れ、大川自身の計畫を齟齬する案に變更したため、
大いに苦慮し、更に案の變更をなしたもの と云ふのである。
菅波一派の靑年將校は橋本中佐派と提携し共に決行することとなって居った。
併し 次第に大川、橋本等の行動に批判的となって行き、
神楽坂の梅林に於て菅波が橋本に喰って掛り
橋本一派の小原重厚大尉のため首締に逢ふ椿事以後は気拙い仲となって行った。
・・・リンク→「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
菅波は十月事件の前にあった靑山日本靑年會館の會合の少し前迄は西田税とは意見の相違から交際を絶って居った。
大岸頼好は寧ろ大川周明と近かったので、
十月事件直前迄は是等菅波、大岸の一派は西田と近いものではなかったのである。
藤井齊の關係により井上と親しくなり更に井上の斡旋により以前の關係が復活し
西田、菅波、大岸等が親しい關係となったのである。
而して、十月事件により菅波一統の隊付靑年將校は橋本一派の幕僚將校と間隙を生じ、
又 菅波一統に近い西田と、橋本一派に近い大川とが非常に不仲となったので、
菅波一統と西田とは加速度を以て近付いた。
十月十七日早暁 十月首脳者は憲兵隊に檢擧せられ計畫は挫折に終わった。

西田一統は、井上の観察の如く、大川が牧野と通じて居り暗殺目標より除去されて居た牧野が
西田、井上一派の主張により目標人物に加へられたのに困惑し、牧野の手により弾圧せしめたと宣伝し、
大川一派は西田等を計の畫の一部に參加せしめたのは表面的で眞の同志としてではなく
計畫遂行後は西田は處刑を免れないこととなって居たので、
西田税は之を察知して、北一輝と謀り 宮内省方面に賣込んだのであると主張した。

以上の如くにして十月二十四日決行を期して居った十月事件は十七日朝首脳者の總檢束により挫折し、
橋本中佐一派は暫く活動不能の狀態になった。

(四) 十月事件挫折後、西田、菅波一統陸軍側同志俄に態度を改む
併し、十月事件は闇から闇へ葬られ、
首脳者となって大活躍をした橋本中佐以下十數名が
重謹慎處分の名儀で最高二十日間各地の憲兵分隊長官舎に分宿せしめられ、
其後地方に轉勤を命ぜられたに止まり、其の他の關係者に對しては何の處分もなされなかった。
從って十月事件當時總ての準備を終り一命を抛なげうって事に當らうと待機して居った井上一統、
海軍側同志 及 西田、菅波一統に於ては十月事件の挫折により何等打撃を受けなかった。
彼等は孰れも古くより國家改造を計畫し その貫徹に進んで來たのであるが、
十月事件當時は偶々陸軍の大勢力が動く形勢にあったため、之に便乗しようとしたに過ぎず、
その挫折に依って古くよりの決心に何等動揺を來さず、
却って其の後は十月事件の如き他の計畫に便乗するに非ずして、
彼等が主導的立場に於て事を擧ぐべき順序となったのである。
井上一統 及 海軍側に依って行はれた血盟團事件、五 ・ 一五事件はこの流れを其儘延長せしめたものであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に態度を變化し、
從來提携し来った井上一統 及 海軍側の勧誘に應ぜず、
満洲事變により國際情勢緊迫の際 國内改造を計るは時期に非ずと稱して蹶起を肯ぜざるに至った。
その結果、井上一統 及 海軍側同志は斯く陸軍側の豹變したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。

右の如き經過のみを以てすれば、
血團被告等が西田を非難する如く西田、北等は革命ブローカーに過ぎずして、
眞に革命に殪たおれる覺悟なきものと推斷し得るものであるが、
其後 西田、菅波一統の革新の激流は救國埼玉挺身隊事件、十一月事件、永田軍務局長殺害事件に
其の物凄き片鱗を示し、遂に二 ・ 二六事件の大爆發となって自ら殪れて行ったのである。
これより観れば北、西田等を以て眞の革命精神なきブローカー輩と斷ずる事は出來ない。
然らば如何なる原因が十月事件直後 西田、菅波一統をして從來急進的であった態度を俄に漸進的にせしめ
一歩退却せしめたのであらうか。
満洲事變により國際關係の惡化を顧慮した點もあらう、
西田等は革命は一生に一度しか行ひ得ざるものであることを固く年頭に置いた點も事實であらう。
併し 俄かに陸軍側の態度を變じたのは十月事件後 間もなく内閣更迭により
荒木陸相の出現した事が最も大きな原因と考へざるを得ない。
武力を有する陸軍の一部が國内の政治機構を一擧に變革せんとした十月事件の影響は國家の各方面に大なる刺戟となった。
當時内務大臣の職に在り國内治安の責に任じて居った足立謙蔵は十一月九日大演習のため西下する車中で
次の如き時局談を語った。
「 世界的に共通な財界の不況に加へて満洲事變の突発があり、
眞に未曾有の重大時局に際會したのであるから 政友會と聯立内閣を組織して強力一致
この國家の難局に処すべしとする所謂 聯立内閣組織運動がある事は聞いて居る。
政党が國内的政爭を中止して一國難に當ることは、
現下の如き眞に息詰まる様な重大時局に當面している際には考へられる事で、
我輩もこの考へ方に反對するものではない。」 ( 東朝十一月十日 )
ここに強力内閣問題が表面化し
政友會 久原房之助、民政党 富田幸次郎を中心とする政友民政の一派により
聯立内閣の組織が策動されたが、
若槻首相の周囲 竝 現狀維持の各閣僚は之に反對し
十二月十一日 若槻内閣の總辭職となり
翌十二日 政友會總裁犬養毅に後継内閣組織の大命が降下し 犬養内閣の出現となった。
陸軍大臣は南次郎より荒木貞夫となり、海軍大臣は安保清種より大角岑生となった。
荒木新陸相は古くより行はれて居た軍内粛正---閥打倒---の運動の一有力者であり
又 三月事件 十月事件以來急速に激化しつつある國家改造運動の理解者であったので
彼は殆ど全軍の与望を担って現れた。

荒木陸相は熊本第六師團長當時より皇道精神の發揮を力説し
閥族の跋扈ばっこする軍内の實情を憂ひて 一切の私を去り皇軍本來の精神に歸り
各自の生活を道義化すべき事を主張した。
又 好んで若い靑年將校を引見し 心よく談笑したので、
革新的意識を持つ靑年將校は荒木將軍に心服して居た。
殊に靑年將校の中心人物 菅波三郎は元來鹿児島歩兵第四十五聯隊に居り、
當時 熊本第六師團長であった荒木將軍より 優秀なる靑年將校として知遇を受けて居った。
又 荒木が敎育總監本部長として中央に乗出すや間も無く、
荒木は菅波の如き隊務に精勤し優秀なる靑年將校を陸大に入學せしめ度い意向にて
昭和六年八月 麻布歩兵第三聯隊に轉隊せしめたる ( 菅波談 ) 因縁もあり、
荒木新陸相の出現は靑年將校一派にとって時局到來を感ぜしめずには置かなかったであらう。

革新的靑年將校の一團は荒木陸相の出現を契機として自己革命を遂行し、
彼等の所謂肅軍を行ひ部内全般を一貫した革新大勢力たらしめ、
然る後 國家改造に向はんとしたものと見られる。
三月事件、十月事件は靑年將校に一種の下克上的風潮を植え付け
上層部必ずしも頼むに足らずとなすに至ったし、
又 兩事件の失敗は靑年將校り見れば指導精神の問題にあった。
茲に於て 彼等は眞の國體原理より發したる革新思想を以て 先づ部内の肅正を遂げねばならぬとし、
又 彼等の心服する新陸相に依ってこれを成し遂げようとしたものと見られる。
而してここに始めて彼等が俄に國内改造に向って一歩後退の狀況を呈し部内革命に突進し
遂に陸軍部内に暗流が激成され
永田軍務局長暗殺事件、二 ・二六事件を生むに至った根源を理解し得るものである。



井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担當し、
革命の爲め一命を捨てる覺悟をしたので、十月事件の挫折によってもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し陸海民間の聯合軍を組織して蹶起しようとして居った。
同年 昭和六年 十二月二十八日、
當時井上は十月初頃より、當時の東京府豊多摩郡代々幡町代々木上原百八十六番地
成卿事 権藤太郎方附近の同人管理する所謂 権藤空家に居ったのであるが
冬の休暇で上京して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一派と権藤方に於て忘年會を開いた。
出席者は
海軍側  村上功  澤田邲  古賀清志  伊東亀城  浜勇治  中村義雄
陸軍側  菅波三郎  栗原安秀  大蔵榮一  佐藤 某
民間側  井上昭  古内栄司  池袋正釟郎  四元義隆  田中邦雄  久木田祐弘
            西田税  権藤成卿
等で單純なる顔合せに過ぎなかった。
然るに其の直後同月三十一日 西田税の發議で陸海民間の同志のみで會合をすることとなり、
府下高井戸料亭松仙閣に於て會合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田淸貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年會には出席せず
其直後揃って上京し 而も從來の關係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず
何の挨拶もなかった。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事か畫策して居る。
即ち西田、菅波が自分より離れて了ったことを直感したと稱している。
その上 宴會に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜 井上は泥酔した。
正月になり 菅波から古内等に
井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る
等と排斥的な注意があった。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて來た。
井上は非常に苦しみ、同志に對しこれ迄指導的立場に在って、今斯様な狀態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ 悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する靑年達海軍側同志は陸軍側の離れつつあるのを
偏へに西田の所爲となして西田に對し強い反感を抱いた。

(五)  海軍、民間側のみにて蹶起することとし、民間側第一線を引き受く
昭和七年一月九日 所謂權藤空家の井上の根城に
海軍側  古賀清志  中村義雄  大庭春雄  伊東亀城
民間側  井上昭  古内栄司  四元義隆  池袋正釟郎  久木田祐弘
等が集った。
彼等の心境は著しく動いて來た。
中にも古賀清志海軍中尉、田中邦雄、四元義隆等は急進派の代表であった。
その席上一回の気持は急に高まり
「 吾々はかかる大業が一擧にして成就するものだ等とは思って居ない。
自分等は起爆薬であり、改造の烽火であるのだ。
偶々十月事件に際会したので出來る事なら一擧に成就したいと云ふ心が動いた迄で、
今日菅波一統の陸軍側が傍観的態度になったからとて、吾々の精神竝に行動に何等の影響がある筈がない。
吾々は飽迄初一念を貫かう 」
との意見に一致して古賀清志の作成した計畫案に基き協議し
一、井上一派民間同志と海軍側同志と合同し 二月十一日紀元節を期し政界財界特權階級の巨頭を暗殺すること
二、藤井其他地方に在る海軍同志にこれを傳へる爲め 四元を派遣すること
を決定し、着々其準備を進めた。
然るに 同月二十八日上海事變勃發し 海軍側同志は藤井以下續いて出征した、
又 二十日頃迄に歸京の豫定であった四元が二十五日を過ぎても歸來せぬのみか、
出發後何の消息もなく、四元の行動を憲兵が尾行し捜査して居ると云ふ情報が井上の許に入った。
それ等の理由から井上等は四元の歸京を待たないで急速に決行することとなった。

同年 昭和七年 一月三十一日 權藤空家に
民間側  井上  古内  池袋  田中  須田
海軍側  古賀清志中尉  中村義雄中尉  大庭春雄少尉
等が集った。
この会合に於て井上は先づ、二つの案を提議した。
第一案  失敗を期し一切の事情理論を超越して直ちに實行する
第二案  陸海軍の凱旋を俟って陸海民間聯合軍を組織して實行する
出席同志全部第一案に賛成し決定を見た。
其処で井上は海軍側と民間側の行動を二分し
先づ 民間側が直ちに實行に移り 一人一殺主義の暗殺を引受る。
海軍側は第二陣として同志の凱旋を俟って陸海聯合軍を作って第二次破壊戰を行ふことを提案した。
此の時 古賀、中村両中尉 大庭少尉は熱心に民間側の實行に參加を希望したが、
井上は之を承認せず、井上の意見に依って民間側は第一陣を、海軍側は第二陣を引受けることに決定した。
井上の理由は
一、武器として拳銃十挺ある
二、行動する民間同志が役十人ある
三、以上の条件で目標二十名の中 五名位 殪たおすことが出來るならば
或は支配階級を反省せしむることが出來るかも知れぬ
併し 一人や二人殪した丈では同志が全滅する丈で改造等は計り得ない。
即ち第一陣は失敗を期して烽火を擧げるのであるから海軍を保留し、
やがて凱旋して帰る陸軍海軍の聯合軍を組織して第二期戰に移るが策を得たものと云ふのであった。
そこで計畫の細目を協定し
一、井上は第一陣の計畫實行の指揮統制に當り、他の同志に於て暗殺實行を担當し、
井上は第二陣の海陸聯合軍の組織に當ると
二、暗殺は機會を見て一人一殺主義をとること
三、直ちに實行に着手し決行は同年二月七日以後とすること
等を決定し、暗殺の目標人物を
政友会  犬養毅 床次竹二郎  鈴木喜三郎
民政党  若槻礼次郎  井上準之助  幣原喜重郎
三井系  池田成彬  檀琢磨
三菱系  木村久寿弥太
特權階級  西園寺公望  牧野伸顕  伊東巳代治  徳川家達
等を選定し、尚 井上し同志に向って、各自の間に於てもその相當人物は語り合はないこと、
目標人物に付ては精密な探索を行ひ充分の確信を得たる後、
井上より拳銃の交付を受けること等 周到な注意を与へ、別室に一人宛呼んで相當する目標人物を指示した。
謀議が終って直ちに僅かの酒や鯣するめを求めて來て、心許りの決別の宴を張った。
この酒宴中西下した四元が帰宅し 之に加り 翌朝計畫を聞き參加した。
尚 同夜參加しなかった小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、田倉利之、森憲二、星子毅 等に付いては
古内栄司、久木田祐弘 等が通知を發し、井上の許に呼んで井上より之を傳へた。
一同欣然 之に參加し、直ちに各部署に付いて目標人物の暗殺準備に取り掛った。
同年二月九日 小沼正に依って第一彈が放たれ、前蔵相井上準之助が殪たおされた。
井上、四元は直ちに権藤空家にあった拳銃を大庭少尉に依頼した浜大尉の許に運搬せしめ
翌朝 同人等は同家を去って、井上は頭山満の家に居った本間憲一郎を頼って行き、
頭山満邸に隣接する三男頭山秀三の經營する天行會道場 二階に潜伏した。
其他の同志 古内、四元等も何れも同志の陸海軍の家等に潜伏した。
同年三月五日 菱沼五郎に依って第二彈が發射され、團琢磨が殪たおされた。
官憲の捜査網は次第に井上等の近くに迫り、
同志は相次いで檢擧せられ、關係者は多數取調を受け 頭山宅を警視廳員が包囲するに至り
第二陣の組織と云ふ重大任務を以て潜伏して居った井上も後事を本間憲一郎、天野辰雄弁護士に依頼して
三月十一日 警視廳

第三節  犯罪事実の概要  ・・・略
第四節  公判竝に判決 ・・・略

第二章  五 ・ 一五事件 ・・・に 続く
・・・リンク→ 井上日召 ・ 五、一五事件 前後 


日本愛國革新本義 ( 未完 )

2017年12月01日 09時12分42秒 | 井上日召

日本愛國革新本義
橘 孝三郎


國土ヲ離レテ國民ナク、國民ヲ離レテ國民社會ナク、國民社會ヲ離レテ人生ナシ。
故ニ國ヲ愛セザルモノハ人ニ非ズ。
日本ハ 尊嚴極ミナキ皇室ヲ中心トシテ
世界ニ比ナキ團結力ヲ有スル日本同胞ノ愛國同胞主義ニヨル日本タラザル可カラズ。
ニ、日本ハ愛國同胞主義ニ生キ、愛國同胞主義ハ國體ニ生ク。
シカモ日本愛國同胞主義ヤ今何処。國體ヤ今何処。
世界ノ大勢、國内ノ實狀、一トシテ國本改造ノ急ヲ告ゲザルモノ無シ。
日本ノ危機タル眞ニ未曾有ト稱セザル可カラズ。
之ヲ救フモノハ何ゾ。
唯愛國革新ノ断行アルノミ。
生命ニ価スルモノハ唯生命ヲ以テノミスベシ。
日本愛國革新者ヨ、日本愛國革新ノ大道ノ爲ニ死ヲ以テ立テ。


どつからどこまでくさり果てゝしまつた。 どつからどこまで困り果てゝしまつた。
全体祖国日本は何処へ行く。 我々はどうなる。
---祖国日本は亡びるといふのか。我々はどうにもかうにもならんといふのか。
なんの、なんの、なんの!!!
日本は更生する。そして我々は立つ。
またかくてのみ救はるべき世界の現状であつたのだ。
みんなして、みんなして、誰もが。
みんなして、みんなして、誰もが。
俺たち日本人みんな誰もが同胞だつたのではないか。
みんな誰もが同胞だつたからこそ生きて来られたのではないか。
そして生きてゆけるのだ。
いつさいをこの本道へ引き戻さねばならん。
そした俺たち日本同胞は日本を同胞として抱きしめて立たねばならん秋がついに来たのだ。
救国済民の大道のために、そして救国済民の大道に捧げたる同志の前に、
この拙き、しかしながら真心の限りを以てものしたる此一書を贈る。
因みに本書は、或る土地での将士の会合に招かれて試みた講演筆記に、
この出版にあたつて、重ねて筆を尽したものであることを、
以前読者のお含みを願つておきたい。
昭和七年五月五日    著者

目次
第一篇  日本愛國革新の絶對性
 第一章  世界の大勢
 第二章  國内の實狀
第二篇  日本行詰の根本原因
 第一章  マルサス主義批判
 第二章  マルクス主義批判
第三章  タチバナ主義的説明
第三篇  日本救濟の大道
 第一章  西洋資本主義唯物文明の超克と日本愛國同胞主義
・・・私は皆様のために御招きにあづかつて、かうして皆様のために、
そしてそれは日本のために、真心から御話が出来るのです。
皆様はかうして昼の激しい御活動で御披露の極み、充分の御休憩を必要としてをられるに拘らず、
深夜かうして私のやうな一介の農民が物語る はしたない然し乍ら真心からの話を真心を以てお聞き取り下さつている。
この真心と真心の世界、此所こそ私は 私共人間の真実世界だと信じてをる。
いや 信じてをるといふのではございません、
此世界を離れたなら、三度の米の飯を離れたと同じやうに
私といふ人間は、魔物でなく、鬼でもない限り、人間として生きてゆけないのであります。
かくして我が愛する祖国日本も又此所に生きているのだと信じてをります。
我々はかうして皆様のやうな軍人方も、私のやうな百姓も、共に日本人たる以上 兄弟だ、
同胞だといふ観念と、さうしてお互に我々は日本人としてかように兄弟として生きている以上
この兄弟意識の上に日本を真心から抱きしめて生きてゆく事によつて
日本がはじめて生きてゆけるのだと信じてをるのであります。
即ち日本は愛国同胞主義によつて生きてるものと申さねばなりません。
同時に皆様のやうな軍人方も、私のやうな百姓も共にかうして日本人として真心を捧げ
且つ受け容れ合つて全く兄弟の如く生きて行ける、
更にお互にかうして日本を憂へ 且つ 愛してその為めに身命を賭し得るやうに日本が出来てをるからこそ
我々はかうしてをられるのだと信じます。
即ち此所に日本の国体の極みなく貴い、且つ 有難い訳合が在るものと信じてをります。
だから私は常に申してをる
「 日本は愛國同胞主義に生き、愛國同胞主義は國體に生きる 」 と。
そしてかやうに私の唱へてをります愛國同胞主義は
必ずや皆様方の真心からなる賛成支持を得るものと信じてをるものであります。

右申し上げました私の題目は、決して歴史社会的実在性を離れました所の、
虚構的空論では毛頭ございません。
此点特に皆様方の御注意置きをお願ひ申したい。
成る程歴史の草創は夢の如くにしてつかまへ所がないに相違ございません。
しかしながら、畏れ多くも我が神武天皇が国を御肇めに相成りました事情を拝察いたしまするに、
彼の西洋諸国に於て普通示されてをるような、所謂征服国家と申しまして、
農耕部民を武力を以て征服いたし、これを奴隷化してこれに経済的給付一切を負はしめ
武力を有するものはその上に君臨して一国家を打ち立てましたのとは根本的に相異つてをるのであります。
却てその正反対を成就なさりましたので、
即ち 長髄彦ながすねひこが農耕部民を切り従へて
征服国家の芽を噴き出さうとしてをつたのを 東征遊ばされて之を打倒し、
奴隷化された農耕部民を開放なされた、
換言すれば国民解放の実を行はせられて、此所に私された覇道化された日本を始めて王道化し、
以来万世一系世界に比なき国体の基礎を定めさせられ給ひしものと解せざるを得ないのであります。
でありませんので、若しも征服国家を神武天皇が打ち立てられたものと仮定いたすならば、
大化の改新をどう考へてよろしいでせうか。
日本歴史にその比較を見出す事の出来ない国民解放、国家改造の大革命が
中大兄皇子即ち天智天皇の御手によつて成就されたなぞといふ事実は考へても見得ない事柄だらうと存じます。
兎角何事にもよらず西洋流にほか物を見ず、物事を考へ得ないやうになつてをる只今の人々には
東洋の、特に日本の上の如き特別な事情が全く解せられないやうに思はれます。
革命或は改造と申せば所謂 弁証法的唯物史観の示すやうな階級性にのみ結びつけて考へ去つて
他あるを知らないものゝやうに見られますが、
かやうな考へ方はとんでもない偏見に人々を陥れて救ふ可からざるものにしてしまうものです。
我々は理屈で現実をしぼり殺してしまふやうな事をしてはなりません。
理屈は現実をほどくためのものでなくてはならんのであります。
余談はさておき、日本に於きましては、国がある支配者によつて危くされますと、
きつと君民一体で愛国革命を遂行し来たのであります。
これが即ち日本の永遠性を確実にして来た根本義であると同時に、
此所に国体の比類なき貴さが光つてをると申さねばならんのであります。
所が目下我々の生活実状はどうなつたでせうか。
日本の現状は何としたものでせうか。
考へて見るまでの事でもなければ語る程の事でもありますまい。
日本もよくも此所まで腐れたものだと思ひます。
実にひどすぎる。
何でも金です。
金の前には同胞意識もなければ、愛国精神もない。
国体の光の如きは何処をどうして了つたのだか、すでに認識の領域をすらかすめないやうに思へます。
申すまでもなく金を得んがためには誰よりも上手に買ひ、誰よりも上手に売らねばなりますまい。
この売買は勿論商品にのみ止まるものではありません。
一切合切何でもかんでも売り得るものは売りとばす、
そしてそれを誰でもが精限り根限りありつたけの力を尽して行つてゆく。
株券や商品なら勿論営利的売買目的に造られてをるのだから当たり前だが、
目下人々は平気で地位を売り名誉を売り節操を売る。
いや同僚を売り 妻子まで売る。
そして遂に国家まで売る。
売国奴の溢れたる事蓋し現状に過ぎたる時代が日本歴史の如何なる時期に見出されるでせうか。
そしてその内状の醜にして 且つ 浅ましきは到底目も当てられない。
一切は金力によつて独占化され、支配者の堕落はその極端に達して万民枯死せんとしてをるの現状は
又我々をして黙視することをゆるさんのです。
---考へるまでの事ではない、語るまでの事ではないと思ひますものゝ、
つい申上げずに止まれなくなる。

此間、車中で純朴その物な村の年寄りの一団と乗合せました。
耳を傾けるともなくそれ等の人々の語り合つてる話に耳傾けて、
私は皇国日本の為心中、泣きに泣かざるを得なかつた事がありました。
その老人達が何を語り合つてるかと申すとこんな話をしていたのです。
「 どうせついでに早く日米戦争でもおつぱじまればいいのに 」
「 ほんとうにさうだ。さうすりあ一景気来るかも知らんからな、
 所でどうだいこんな有様で勝てると思ふかよ。何しろアメリカは大きいぞ。」
「 いやそりゃどうかわからん。しかし日本の軍隊はなんちゅうても強いからのう。」
「 そりあ世界一にきまつてる。しかし、兵隊は世界一強いにしても、第一軍資金がつゞくまい。」
「 うむ・・・・」
「 千本桜でなくとも、とかく戦といふものは腹がへつてはかなはないぞ。」
「 うむ、そりやさうだ。
だが、どうせまけたつて構つたものぢやねえ、一戦争のるかそるかやつゝけることだ。
 勝てば勿論こつちのものだ、思ふ存分金ひつたくる、
まけたつてアメリカならそんなにひどいことをやるまい、
かへつてアメリカにの属国になりゃ楽になるかも知れんぞ 」
私は実にこの純朴な老人の言を聞いて全く自失せざるを得なかったのです。
皆様どうです。
此所まで来ればもう何もかもない、
そいて失礼だが皆様は高禄を食んでいられるから
世の実状に尠からず遠ざかつておいでになるだらうと御推察申上げますが、
前に私は農家経済の解剖を試みまして御説明申上げた所でほぼ御わかりだと信ずるが、
上のやうな恐るべき言を農村の老人の口からまで聞かねばならん事実を
決して根拠なしと申す事は出来ないのです。
衣食住は人間生活の根本です、その如何によつて並の人間は菩薩にもなれば、狼にもなる。
特権階級、政党屋、財閥等、所謂支配層に属するものが
常に売国奴的行為を敢てして居つて眼中国ある事を知らんやうになつてしまつた時、
その下敷となつてる勤労大衆がどうして彼等の指揮の下に彼等の支配せる国を国と思ふ事が出来ませうか。
現にかくいふ私は、彼の日本一なりと称せらるゝ大銀行の大御所なる所の人物が、
自分の伜を英国のイーストンスクールへ出してをるのだが、そいつが其処を卒業するとケンブリツチ当りへはいつて
出るとロンドンの従つて世界金融の市場の心臓なるロンバートストリートへやつて仕込む、
そいつを日本へつれて来て日本の金融界の王座へすえる。
こんな人間を私は私の同胞たる日本人なりとはどう考へたつて考へられんのです。
しかもこの 「 日本人でなし 」 に金をせびらにや日本の正党政治なるものが立つて行けず、
日比谷座で財閥の印袢天を着にや泥芝居がうてんといふに至つては
到底私はこんな政治を日本の政治と思ふわけにはいらんのです。
かくて動かされてをる日本の現状はごらんの通りで、こんな日本を私は日本と思ふわけにはまいらんです。
然るとき私共の納税の義務、兵役の義務なるものゝ訳が分からなくならずにをられませうか。
---語るまでもないと思ふ事柄をつい語らずにをられなくなりましたが・・・・
・・・
 第二章  政治組織
 第三章  經濟組織
 第四章  敎育組織
 第五章  國防組織

現代史資料5  国家主義運動3  から