あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾發言

2018年05月23日 06時06分57秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

相澤公判
第一師團軍法會議
罪名  陸軍刑法による 用兵器上官暴行罪、一般刑法の殺人罪および傷害罪
長官  師團長柳川平助中將
判士  歩兵第一旅團長佐藤正三少將、歩兵第一聯隊長小藤恵大佐、
判士  野砲兵第一聯隊長木谷資俊大佐、戰車第二聯隊長木村民蔵大佐、
判士  本郷連隊區司令部付若松平治中佐
判士  杉原法務官
裁判長  佐藤少将
檢察官  第一師團法務部長  島田朋三郎法務官
特別辯護人  陸軍大学兵學教官満井佐吉中佐
辯護人  法曹界の重鎭 鵜沢總明博士

法廷の周辺には憲兵が武装いかめしく立ちならび、
その警戒の嚴重さは、一種のものものしい雰囲氣が流れていた。
新聞社は司令部の構内にテントを張り、電話をひきこんで取材に大わらわになっていた。
法廷内特別傍聽人席には、
小栗警視總監、安倍特高部長などの民間がわをはじめ、
相澤の同期生代表參謀本部庶務課長牟田口大佐などの將校たちがぎっしりつまり、
東京警備司令官香椎浩平中將、山下奉文軍事調査部長、大山法務局長などは、
一段高い法務官席のうしろの椅子にずらりと竝んでいた。


« 相澤公判 »
第一回公判
昭和11年1月28日、午前10時 開廷
この前日
特別辯護人満井中佐は、公判をまえにして、
「 私は 獄中の相澤中佐とたびたび面會し、意見をかわした結果、
中佐の心情はよくわかりました。
豫審調書でみると、犯行の動機が怪文書に刺激されたようになっていて、
中佐の意志があいまいになっているようです。
もし、公判がわれわれの辯護を制壓するようなことがあれば、
私は中佐にかわって國家革新の大目的のため、全力をつくして戰う覺悟です。
場合によっては職を賭すようなことになるかもしれません 」
と 語り、その決意のほどを誇示していた。

満井佐吉 

満井の爆弾發言
定刻十時、判士長は開廷を宣し、かたのごとく相澤に対し人定訊問を行った。
相澤は陸軍中佐の軍服を着用していた。
この訊問が終ると、判士長は島田檢察官に起訴狀の朗讀を促した。
そのとき突如、満井中佐が立ち上って、
「 判士長! 」
と 大聲で發言を求め、本公判の進行に關し特別辯護人として重大提言があるという。
判士長がこれを許可すると、満井中佐は三つの爆彈動議を出した。
豫審のやり直しをせよ、というのである。
「 第一、
本被告事件の豫審調書、公訴狀は甚だ不明瞭なものである。
皇軍の本質にもとづいて公人的行爲と私的行爲とは、
これを區別しなければならぬにもかかわらず、事件は公人の資格で行ったのか、
私人の資格でやったものであるのか、
犯行の主體たる被告を審理していないので、この點甚だ不明瞭である。
第二、
本件の行動に關する被告の審理はできているが、その原因動機たる社會的事實、
すなわち軍の統帥が元老、重臣、財閥、官僚等によって攪亂せられたる事實については、
なんらの審理もしていない。
第三、
被害者たる永田中將の卒去の時刻が不明瞭である。
すなわち、當日陸軍省の公表によれば 午後四時半卒去せりとある。
軍医の檢案にもとづく島田檢察官の報告によれば、數刻を出でずして卒去せりとある。
はたして陸軍省の發表通りとせば被告は重傷を負わし その後に死に到らしめたことになり、
檢察官の報告によれば殺傷したことになっている。
この點に重大な疑義を有するもので、誤りは陸軍大臣にあるか、島田檢察官にあるか、
軍医は確實に診察したであろうから、おそらくは檢察官のいうところがほんとうであろう。
時の陸軍大臣、首相、宮相が永田中將卒去後にもかかわらず、
僞って陛下を欺き奉って位階の奏請をなしたものと考える。
---以上 この重大事件をめぐって、
陸相、宮相の處置と島田檢察官との間に重大なる くい違いがあることは、
影響するところ大であるから、判士長は十分に考慮されたい。
したがって この間の眞實を究明するまで、この公判は中止されるのが至當である 」

佐藤判士長は 直ちにこの動議を脚下したが、
しかし そこには、この裁判の前途の多難とその重大さを思わせるものがあり、
人々の心を暗くしていた。
いうまでもなく、この裁判は維新か、非維新かの法廷闘爭であった。
相澤事件を通じて、軍を中心とする現狀維持勢力を徹底的にあばくこと、
すなわち、それは相澤犯行の原因動機が、果して巷説を盲信したものであったのか、
あるいは、眞に眞崎敎育總監の罷免に、統帥大權の干犯があえてなされたものか、
この事實を明らかにすることによって、
元老、重臣、財閥、新官僚と これにつながる軍の統制派
---南大將、林大將、永田少將らを中心とする幕僚群のみにくさを天下に暴露し、
その不逞を根底において叩くことになるからである。
もはや、そこでは、相澤の量刑を輕減することではなくて、
相澤を押し立てて、彼らのいう維新の戰いを展開するものであったのだ。

このあと
島田檢察官は立って公訴狀を讀上げ、
杉原法務官は判士長にかわって被告に對し尋問を開始した。
「 さきほどの檢察官の申し述べた公訴事實は認めるか 」
「 だいたい認めますが---永田閣下に刃を向けたのはそのとおりでありますが、
 根本にわたることについては、腑に落ちない點があります。
原因については詳細お取り調べを願います 」
それから、位階學歴、家庭健康、趣味信仰などについて訊問がつづけられたが、
その訊問が國家革新の思想に及ぶと、
中佐は聲を一段と張り上げ、
「 相澤の申し上げることに、革新などという言葉をあてはめられるのは、全く誤りであります。
 天子様のまします國に國家革新などということがありえよう筈はありません。
まず この點をはっきりきめてかかります 」
とて、政黨、財閥の積弊を痛嘆し、
ついで 靑年將校運動の本質は、上下一致の精神的合一をなんとかつくり上げたい、
それのみを念願するものだといい、
「 靑年將校が國家革新のためには、直接行動もあえて辭せぬ、
 などと 簡單に申されるのには、全く心外のいたりであります。
靑年將校の日夜切磋琢磨する實情を見れば、日本の國民として涙にむせばぬものがありましょうか 」
と 叫ぶように述べたてた。
なお、この第一日において注目をひいたことは、
彼が趣味を問われて 參禅修養と答えたことから、禅について問いただされ、
「 自分は東久邇宮のお伴をして仙台の松島瑞巌寺に行ったとき、
 殿下は中隊附將校に、
『 禅は國家のためにやるべきものだ 』 と 仰せられましたので、
これに感じて禅をやるようになりました。
自分は仙台市で有名な輪王寺の無外和尚の門を叩いたところ、
とうてい辛抱できるものではないから、と 斷られました、が、志を曲げず、
和尚にたのみこんで 輪王寺に止宿し、
約三年間、軍務の余暇をさいて參禅して自己を解脱し、一心御奉公の修養をつづけたのであります 」
と、修業の固さのほどを明かにした。
最後に、裁判長が、
「 仙台の和尚とは、いまなお交渉があるのか 」
と たずねると、
相澤は急に顔を伏せて泣きだした。
そして 涙聲で、
「 決行後、二回、面會に來られました 」
「 一番、心に殘った敎えはなにか 」
相澤は、キッとなって、
「 尊皇絶對であります。
 あらゆるものは尊皇絶對でなければなりません。
軍人は今こそ幾分なりとも懺悔して、天皇の赤子にかえれ 」
と、大聲をあげた。
公判第一日、
この事件に異常の關心をもってつめかけた傍聴のひとびとは、
相澤の人となりを目の当たりにみ、且つ、この裁判の前途の重大さをひしひしと感じ、
あらためて、陸軍部内の見えざる暗流、葛藤の實在を信じ、
ひとしく眉をひそめ、軍のために痛嘆した。

二・二六事件  大谷敬二郎  から


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