あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

澁川善助 『 絶對の境地 』

2023年02月10日 08時07分37秒 | 澁川善助

昨夜 安藤と会ったあの応接室には、十数名の将校が集っていた。
安藤も坂井も鈴木もいた。
勿論 見馴れぬ将校もいた。
わたくしがそこに這入って行くや、
坂井に話す隙もあらばこそ、忽ち数名の者から、
「何うだ、何うだ」
と、質問の矢を浴びてしまった。
これは余り様子が違う。
野中や坂井が誰と交渉したのか、それさえも知らぬわたくしである。
ただ知っているのは奉勅命令のことである。
「奉勅命令が出たんです。お帰りになるんでしょう」
わたくしは慰撫的にそう云った。
これはかれらには意外だったらしい。
「 何が残念だ、奉勅命令が何うしたと云うのだ、余りくだらんことを云うな 」
歩兵第一旅団の副官で、事件に参加した香田大尉がこう叫んだ。
かれらはまだ自分の都合のよい大詔の渙発を期待しているのだ。
奉勅命令については全然知らない。
わたくしは茫然立っているだけであった。
この時
紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。

それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。
全国の農民が、可哀想ではないんですか 」

澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
一座は再び怒号の巷と化した。
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた。
・・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」

澁川は会津若松の出身で、仙台陸軍幼年学校を経て陸士に進んだ ( 三九期 )。
幼年学校では、二期上に村中、一期上に安藤がいた。
彼は、士官学校予科を二番で卒業し、将来を嘱望された。
しかし、本科卒業直前に、士官学校の教育方針を批判したというだけの理由で、退校処分を受けた。
ときの校長は眞崎甚三郎であった。
その後明治大学専門部に学んだが、在学中社会問題、思想問題に関心を抱き、
満川亀太郎らの指導を受けて国家革新運動に奔走するようになった。
昭和九年頃大森一声、西郷隆秀らと、学生を対象とする精神修養団体 「 直心道場 」 を創設し、
塾生の指導に当たる傍ら、道場に置かれた 「 核心社 」 の同人として雑誌 『 核心 』 の発行に携わった。
昭和一〇年一一月相澤中佐が起訴されると、西田税らと共に相澤の救援活動に当たっていた。
同志の澁川評は、
「 直情径行の士で、実行力に富む 」 ( 福井幸 ・第五回予審調書 )
「 昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。
 激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない 」 ( 中橋照夫 ・第一回公判 )
「 一徹に進んで行くかと思うと、途中でいかぬと思えばすぐに引き返し、
 今度は引き返した方向に一徹に進むという急進 ・直角的で、
 樫の木のような性格の持ち主 」 ( 西田税 ・第三回公判 )
と、ほとんど一致する。
彼が明晰な頭脳と鋭い論鋒の持ち主だったことの片鱗は、
裁判長らに宛てた 「 公判進行ニ関スル上申 」 に示されている。
しかし、私が何よりも驚嘆するのは、彼の強固でしぶとい意思についてである。
一例を挙げよう。
後述のように、彼は事件の前日、
偵察先の湯河原に同行していた妻を、連絡のため上京させた。
帰途西田から託された手紙を夫に渡した。
これは、妻も西田もあっさり認めた事実だが、澁川だけはついに最後までしらを切り通した。
取調官が確証を握っている事実について否認し通すことは、通常人にはできない仕業である。
澁川は、兄事していた西田に関する事項については、徹底徹尾諴黙を守っている。
西田を庇った被告人は、もちろん彼だけに止まらない。
村中 ・磯部 ・栗原らは、予審 ・公判を問わず、
極力西田が事件と直接関係のないことを主張した。
とりわけ磯部は、北 ・西田の助命のため、
獄中から百武侍従長その他の要路関係者に対して、
次々と秘密の怪文書を発送している。
しかし、まるで西田が存在しないかのように西田関係について黙秘した者は、澁川を除いてはなかった。
これは、彼の人間研究に見落とすことのできない点である。
リンク
獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」)
獄中からの通信 (6) 「 一切合切の責任を北、西田になすりつけたのであります」 
獄中からの通信 (7) 「 北、西田両氏を助けてあげて下さい 」  )

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二月二三日、澁川は村中から本件の計画を知らされ、
牧野伸顕の所在偵察を依頼されてこれを快諾した。
この時点で、彼は直接行動には加わることなく、外部から蹶起を支援することになっていた。
彼は、即日妻キヌを同伴して湯治却を装い、
佐藤光佑という偽名で湯河原の伊藤屋旅館に投宿し、牧野の動静を探った。
二五日朝、彼は妻を上京させて磯部に情報を届けた。
午後、河野大尉が旅館を訪れ、直接澁川から情報を得ると共に、
牧野が滞在している同旅館別館の周囲の状況を自ら見分した。
澁川は、午後九時頃旅館に戻ったばかりの妻をせき立てて、
旅館には 「 親戚の子どもの具合が急に悪くなったので帰る 」 との口実で、
湯河原発午後一〇時三四分発の終列車 ( 横浜止まり ) で帰京した。 ( 澁川キヌ ・第二回検察官聴取書、稲井静江 ・検察官聴取書 )
妻が旅館に戻ったとき、彼は妻が帰ってくるのを待っていたような様子であり、
トランクなどもきちんと整理とてあったというから、当初から帰京のつもりだったと思われる。
帰京した彼は、終夜歩一 ・歩三の周辺で部隊の様子を窺っていた。
午前四時過ぎに部隊が営門から出発するのを確認した彼は、直ちに電話でこのことを西田に報告している。
事件発生後の澁川は、情報の蒐集と提供、民間右翼に対する協力要請などに走り回っていたが、
二七日旧知の中橋照夫 ( 明治大学生 ) から山形県農民青年同盟の同志らと謀って蹶起する旨を告げられ、
拳銃五挺の入手方を依頼された。
澁川は、歩兵第三二聯隊 ( 山形 ) の浦野大尉への紹介状を渡し、
まず軍隊と連絡を取るようにと助言する一方、栗原に依頼して入手した拳銃五挺し実包二五発を与えた
( さらに栗原を介して銃砲店に実包三〇〇発を注文したが、これは入手できなかった )。
中橋は、出発直前の二八日午前九時頃自宅で警察官に逮捕され、
反乱幇助で起訴されたが、判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定されて禁錮三年に處せられている。
このほか、澁川は、二八日青森の歩兵第五聯隊の末松太平大尉のもとに、
東京の情況説明と地方同志の奮起を促すため、佐藤正三 ( 中央大学専門部学生 ) を派遣している。
このため佐藤は反乱幇助罪で起訴されたが、
判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定され、禁錮一年六月 ・執行猶予四年の刑を受けている。
なお、末松は、革新青年将校の一員であり、澁川の同期生で親交があった。 ( 反乱者を利する罪で禁固四年 )
この事実は、澁川も被告人尋問で率直に認めている。
しかし、判決文からは、なぜかこの事実はすっかり欠落している。
おそらく、法務官のミスと思われる。
二八日午前一〇時頃、
澁川は 「 幸楽 」 にいた安藤大尉を訪れ、そのまま叛乱軍に止まった。
その理由について、
彼は法廷で、
「 外部の弾圧が激しく、検束されるおそれがあったからだ 」
と述べる。
確かに警視庁は、この日から民間関係者の一斉検束に乗り出している。
しかし、情報を得るために安藤に会いに行った澁川が、
急激に悪化した情況のため、戻るに戻れなくなった可能性もないわけではない。
以上の事実関係のもとで澁川を 「 謀議参与者 」 と認めることは、私には疑問がある。
牧野偵察はまさに幇助行為だし、
中橋らに対する行為にしても、彼が独自に行った支援行為にすぎないからである。
しかし、この点はさておいても、極刑の選択はあまりにも酷であった。
軍法会議は、民間の被告人らに対しては、とりわけ厳刑で臨んで居る。
澁川然り、湯河原班の水上然り ( 求刑は懲役一五年 )、北 ・西田また然りであった。
禁錮一五年の求刑を受けた亀川哲也も、判決は無期禁錮であった。
軍部に対する国民の非難を民間人に転嫁しようとする意図が窺える。
・・・北・西田裁判記録  松本一郎  から


澁川善助  シブカワ ゼンスケ
『 絶対の境地 』
目次

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・ 澁川善助 ・ 道程 ( みちのり ) 

・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
・ 澁川善助の士官學校退校理由 

・ 
澁川善助と末松太平 「 東京通い 」 

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕 
・ 
末松の慶事、万歳!! 
・ 澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕 

・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
 皇国維新法案 『 これは一體誰が印刷したんだ 』 
・ 澁川理論の展開 
・ 
相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 

永田軍務局長を斬った時の感想として、
「 私の心の中の覚悟としましては、総て確信による行動であるから、
事の成ると成らざるを問わず、行動を終ればそのまま平然と任地に赴く考えでありました 」
と、澁川がその速記録を見ながら、相澤の心境を語った時、
安藤輝三大尉がクスクス笑い出してしまった。
これは笑うのがあたりまえだ。
一般国民でもかれは精神異常者ではないかと噂したほどであるから。
安藤は澁川と昵懇なので遠慮がないから笑えたので、
一緒に他の者が笑わなかったのは、ただ失礼と思っただけである。
澁川は陸士三十九期の中途退学生である。
「 笑ってはいけません。 安藤さん、あなたは禅を知らないからです 」
澁川が大きな声で叱った。
澁川のこの言葉に、一同は なる程そう云うものかなと、
全面的に納得はゆかぬものの、話はそれで進められた。
・・・
澁川善助 「 あなたは禅を知らないからです 」 

今回の行動に出でたる原因如何。

宇宙の進化、日本國體の進化は、
悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考へるべきものではありません。
斯くの如く分けて考へるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、
当時者たる私には説明の出來ないものであります。
相澤中佐が永田中将を刺殺して後、
台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで

絶對の境地であります
之を不思議に思ったり、刑事上の責任を知らない等と 言ふのは、
凡夫の自己流の考へ方であります。
又 之を以て相澤中佐の境地に当嵌あてはめるのは間違ひであります。
今回の事件は、多少大きい事件でありますから問題にされる様でありますが、
私の気持ちでは當然の事と思って居ります
・・
澁川善助の四日間

昭和維新・澁川善助

・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
・ 澁川善助 ・ 昭和維新情報 
・ 澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

・ 澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 

・ 
澁川善助 『 感想錄 』 
・ あを雲の涯 (六) 澁川善助
・ 澁川善助の観音經 

事件勃発後は主として西田宅におり、
西田の指示により情報の収集と民間団体蹶起の呼びかけ等に専念していたが、
二十八日午前十時頃、幸楽の坂井部隊に入り、
爾来 事件終結まで 坂井隊と行動をともにした。
彼はこれがために 部隊指揮、すなわち 「 群集指揮 」 の責任の故に死刑となった。
澁川は日蓮宗にふかく歸依し、
獄中、常時讀經し、とくに刑死前夜には同志のため祈りつづけていた。
そして七月十二日午前八時三十分
泰然として刑場に臨み、
その刑の執行されんとするや、

「 國民よ、軍部を信頼するな !」
と 絶叫したという。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件 から


澁川善助 ・ 道程 ( みちのり )

2023年02月08日 09時08分59秒 | 澁川善助


澁川善助  

澁川善助  道程 ( みちのり )
明治38年
12月9日   福島県若松市七日町にて
海産物問屋を営む 父利吉 母ヨシの長男として生まれる。
 ・・・・                     会津若松市立第二尋常小学校卒業、
  ・・・・                     福島県立会津中学校第二学年を修業、
                              小中学校を首席でとおす。
大正9年
4月1日       仙台陸軍地方幼年学校を首席で入校す。( 第
24期生 )  入校式で入校宣誓文を読む。
大正12年
4月1日     陸軍士官学校予科第三期生として入校す。
                               歩兵を志願し、大正13年11月21日 歩兵科発表。
大正14年
3月14日   同校卒業。  成績は326人中の2番で、恩賜の銀時計を拝受し、
               摂政殿下裕仁親王の御臨席を仰ぎ、御前講演を 「日露戦役ノ世界的影響 」 という題目で行う。・・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
              卒業後、士官候補生として郷土 ・
若松歩兵第29連隊配属。( 6ヶ月間 )
10月1日   陸軍士官学校本科 入校。( 第39期生 )
                入校して間もない頃 西田税と知合、北一輝著 「日本改造法案大綱 」 を読む。
 士官学校卒業写真
昭和2年
4月            同校を退学、同年5月28日士官候補生を免ぜられる。・・・ 澁川善助の士官學校退校理由 
昭和3年
4月            明治大学専門部政治経済科に入学する。
                  「天皇賛美論」 を書いた遠藤友四郎、大森一声等が主宰する 「 錦旗会 」のメンバーとなる。
9月23日     満川亀太郎を訪問。
昭和4年                 「 興国連盟 」 のメンバーとなる。
年10月          明治大学内に 「 興国同志会 」 を設立する。
昭和5年
9月           満川亀太郎塾頭とする 「 興亜学塾 」 の塾生となる。
昭和6年
3月            明大専門部政治経済科卒業。
4月            明大政治経済学部に入学。
8月26日    全国同志将校の会合 「 郷詩会 」 に出席する。 ・・・郷詩会の会合
昭和7年     西田税等と 「 維新同志会 」 を結成し、全面的に革新運動を展開する。
5月15日    五 ・一五事件、裏で策動する。
年7月        明大を退学する。
7年12月    「 敬天塾 」 の塾生となる。
昭和8年
1月            松平紹光 ・植田勇・竹嶌繼夫らによって会津若松市に設立された 「 皇道維新塾 」 の塾長となる。
4月            「 非国難非非常時 」 の小冊子を発刊する。
4月16日     満州に行く。
                  関東軍特務部と 「 在満決行大綱 」 を作成しクーデター計画を立て、
                 そのことで満州にいた菅波大尉に会う。

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「 在満決行計畫大綱 」 は、何人が何時何処で作成したものか
 此時押収の高検領第□号の証第□ 「 在満決行計畫大綱 」 を示したり
昭和八年五、六月頃、澁川善助が満洲國公主嶺の當時の私の官舎に於て作成したものであります。
如何なる事情で作成されたか
私は昭和五、六年頃は満洲國東邊道の匪賊討伐に從事中で、
 澁川が東京から來る事は知つて居たが其の日時に付て  はよく存じませぬでした。
恰度五 ・一五事件の事に附私に聽きたい點があると云ふ軍法會議側からの通知で、
 昭和八年五月末頃新京に出て参りました。
其時澁川は私に會ふべく通化に這入り、途中で知らずに行き違ひました。
私が新京滞在中、澁川は新京に歸り、
其の頃の或る日 公主嶺の私の官舎に澁川が柳沢一二、山際満寿一を聯れて來ました・・・・・
同夜は殆んど徹夜して此相談を爲し、翌日私、山際、柳沢等は新京に出たが、
其の留守中に澁川が自分の持參した満鐵改組の三案を冩し、
之れに 「 在満決行計畫大綱 」 を自ら書いて添へて全部を私の宅へに置て、本人は奉天に出發しました。
私は其の日歸宅して、此残されたものを入手した次第であります。
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昭和8年

11月          「 救國埼玉挺身隊事件 」 で検挙される。 ・・翌年1月14日釈放。
昭和9年
1月        大森一声を道場長とする 「直心道場 」 に所属し、「 核心 」 の同人となる。
20日      絹子と結婚す。
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( 西田と ) 一緒になりましたのは、
大正十五年でございますが、ずいぶん古い話でございますね。
ある資料に、澁川善助さんが
「 命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ 」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。 ・・・天劔党事件 (1) 概要
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
澁川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その澁川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
・・・西田はつ
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10月      「 統天塾事件 」 に関与したとの咎で
             「 鉄砲火薬類取締法施行規則違反 」 で検挙される。・・翌年7月末釈放。
・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕
・・・ 末松の慶事、万歳!!
澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕
昭和10年
8月以降     
国体明徴運動に奔走す
る。 
                 「 相澤中佐事件 」 の裁判に向け奔走する。
12月31日  中村義明宅で忘年会 ・・・
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 
                 大岸頼好大尉等に蹶起に加わることを迫る。
昭和11年
1月26日   石原莞爾大佐を訪ねる。
2月23日    牧野伸顕を偵察するために湯河原へ行く。
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

2月25日    帰京。
・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
2月26日    二・二六事件勃発 外部工作を担当す。・・・澁川善助 ・ 昭和維新情報 
2月28日    12時頃、安藤大尉の居る 赤坂見附山王下料理店 「 幸楽 」 に身を投じる。
                 以降、坂井部隊と行動を共にする。
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うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
「 西田 さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、
それで私と押し問答しましたときに渋川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、
いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、
原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。
原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。
それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです。
あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。
それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。
・・・西田はつ
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澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
・ 
澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 

2月29日    陸相官邸で憲兵により施縄される。・・・ 「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 
7月5日    謀議参与及び群集指揮の罪で死刑判決 ・・・二・二六事件 『 判決 』
7月12日   午前8時34分刑執行

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 


澁川善助 『 感想錄 』

2021年11月10日 15時33分47秒 | 澁川善助


澁川善助

感想錄

六月二十八日 ( 日 )  朝來雨降ル
昨二十七日午後、筆記帳ト鉛筆トヲ貸与シテ感想ヲ書クコトヲ許サレ、
更ニ本日午前、半紙ト筆トヲ支給セラル。
満腔ノ喜悦、衷心ノ感謝。
 世の人の賊と呼ばへる我等にも
  君のめぐみは  かかる嬉しさ
ニ筆記具ヲ賜ハリタルコトノミナランヤ。
我ガ今日斯クアル所以ノモノ悉ク、大君ノ御仁慈ナリ。
之ヲ体セラレタル有司諸君ノ御蔭ナリ。
四恩ノ廣大深遠ナルナリ。
此ノ限リ無キ恩恵ニ浴シツツ、何等之ニ報イ得ザルノミカハ、
却テ些イササカモ意ニ敵ハザル事アレバ、忽チ憤慍タル無慚無恥。  咄。
去ル五日、檢察官ノ論告ノ趣旨ガ、全ク道ヲ知ラズ、國體を弁ヘズ、御維新ヲ解セズ、
武士タルノ道義ニ通ゼザル所以を駁論シ、本公判ガ甚ダ不公正ニ行ハレ、
御聖徳ヲ傷クルコト甚ダシキモノアリ。
皇國ノ前途憂慮ニ堪ヘザルコトヲ論ジ、
大義ヲ明ニシ人心ヲ正スニ非ンバ斷ジテ皇道ハ興起セラレズ、
法律至上主義ヤ統制主義ハ、
遂ニ億兆ヲ安ンジ皇國ノ使命ヲ遂行セシムル所以ノモノニ非ルコトヲ述ベタリ。
歸リ來ツテ心氣爽快、一首アリ。
 盡すべき限り盡して今我も
  天駆り行く心持こそすれ
其後、自ラ以爲ラク、
「 不是ナリ。不可ナリ。未ダ盡シ終リタルニアラズ。氣分ニ酔フベカラズ 」 ト。
四恩ハ廣大深遠ナリ、宿世、久遠劫來ノ因縁ナリ。
四弘誓願亦、超世、盡未來際ノ大願ナラザルベカラズ。
 四つの恩報い果せぬ嘆きこそ
  此の身に盡きぬ憾なりけり

六月二十九日 ( 月 )  降雨
三日続イテノ雨天ナリ。
昨夕枇杷ビワノ差入アリ。
本日午後マタ菓子ト桜桃ノ差入アリ。嬉シク忝カタジケナシ。
末ダ發信ヲ許サレズ。安否ヲ報ジ兩親ヲ慰ムル術ナシ。
直兄ヨリ、今月十日父上ノ御上京相成リシコトヲ知ラセタル書信ヲ受ケ、
發信ヲ願出タルモ許サレズ。
如何トモ詮方ナカリキ。
又、相澤中佐殿ノ奥様ヨリ大好物ノおはぎト中食ノ御菜ヲ丹青シテ御差入下サレシ時モ、
御礼申上グベキ方法ナカリキ。
一日モ早ク發信、面會ヲ許サレンコトヲ祈ル。
今日既ニ論告モ済ミテ三週間以上ヲ過ギタルナリ。
何ノ爲メノ警戒ナリヤ。
我等ノ家郷知人ハ末ダシモ、下士官兵ノ家族縁故ハ如何ニ打案ジツツアルカ、
全ク気ノ毒に堪ヘズ。
早ク眞相ガ闡明セラレテ、
上ハ御宸襟ヲ安ンジ奉リ、下ハ國民ノ不安ヲ除キ得ル日ノ來ランコトヲ祈ル。
親ヲ思フ心ニマサル親心ト、雨ニツケ風ニツケ打案ジ給ヒシモノヲ此度ハマタ、
如何バカリカ打驚カセ給ヒ、身モ世モアラズ思召シ給ヒシナラン。
皇國ノ御爲メトハ言ヒナガラ、何トモカトモ申譯ナキ次第ナリ。
 親心思へば悲し君のため
  國のためとて勇み來つれど
今頃は何に祈りてゐますらむ
 なぐさめむすべなきぞ悲しき
己が名のとはの汚れはいとはねど
 親はらからの心思へば
遮莫 、一人出家スレバ九族天ニ生ルト、我ガ幼キ頃、母上ノ語リ聽カセ給ヒケル。
今此ノ身命ヲ無上道ニ捧ゲタル、タダ此ノ功徳普ク一切ニ及ボシテ、
父母ノ恩、大君ノ恩、三宝ノ恩、衆生ノ恩ノ万分ノ一ニモ報ゼン哉。
願此功徳、普及一切、宝祚無疆、國運隆盛、億兆安堵、家門繁榮、道友精進、
如意吉祥、我与衆生、皆成佛道。
絹子ハ殊ニ不憫ナリ。
苦勞ト心痛ノミサセテ、喜ブ様ノコトハ何一ツ シテヤラザリキ。
済マヌ。
諦メテ辛抱シテクレヨ。
 雨降れば淋しからめと己が身は
  濡れそぼちつゝ訪ひくれしかも
 現し世に契りし縁浅けれど
  心盡しはとはに忘れず

六月三十日 ( 火 )   雨、午後降リ止メド梅雨模様ナリ。
金鳥飛ビ、玉兎走リテ既ニ半歳。
閑葛藤。
擧國大疑ニ逢著シアルナリ。
自ラハ光陰空シク度ルベカラズ。
「 若シ菩提心ヲ発シテ後六趣四生ニ輪轉スト雖モ、其輪轉ノ因縁菩提ノ行願トナルナリ 」 ト。
又曰く、
「 幾經辛酸志始堅 」 ト。
逆運ニ逢フ毎ニ、古人不欺我ヲ知ル。
過日、小笠原長生子著 「 聖將東郷平八郎傳 」 ヲ讀ム。
中ニ元帥ノ信仰ヲ述ベ、至誠ヲ記ス。
 天与正義    神感至誠    ( 元帥ノ揮毫アリ )
 おろかなる心につくすまことをば
  みそなはしてよ天つちの神    ( 元帥ガ東宮御學問所總裁ヲ拝命セラレシ時ノ作ナリ )
是アル哉、是アル哉。斯道ハ造次顚沛須由モ離ルベカラズ。萬里一条鐵。
 死ぬよりもよし生くるもよしの道なれど
  唯だしのばるゝ皇國の行末
此ノ歌、右元帥傳讀了後ニ得シ所、末ダ安ンゼザルモノアルヲ昧マスベカラズ。
否 安ンジ能ハザルナリ。
 死ぬよりもよし生くるもよしの道なれど
  貫き徹せ大和魂
 堪対暮雲帰未合    遠山無限碧層層
健康診斷アリ。體重十五貫八五〇

七月一日 ( 水 )  日中ハ降ラズ、夜ニ入リテ雨
先月二十六日 野外運動ヲ爲サシメラレタル以來、四日ブリノ屋外運動ナリ。
論告ノアルマデハ四人宛約二、三十分許サレタルモノナルガ、
論告以來、二人宛トナリ時間モ十五分位トナル。
入浴モ二人宛トナル。
看守モ四人ニ二人着キタルノミナリシガ、爾來二人ニ三人着ク様にナレリ。
監房ノ立番モ一人ナリシモノガ、二人ヅツ勤務スルコトトナレリ。
手拭モ引上ゲラレテ 「 ハンカチ 」 様ノモノガ渡サレタリ。
「 規則ナリ 」 トノコト。 御苦労千万ナリ。

相澤中佐殿ノ御宅ヨリ、林檎ヲ御差入レ下サル。
朔日ナルニヨリ昼食ハ赤飯ナリ。朔ト望ト赤飯ナリ。嬉シキモノナリ。
何カ變化アレバ嬉シキナリ。
祝祭日ニハ大福カ栗饅頭ガ附キ、祝日ニハ更ニ林檎ガ一箇附クナリ。
頻リニ餅菓子ガ食ヒタク、願出ヅレバ許サルル様ニ規定ニアルヲ以テ、
購求ヲ願出タルコト幾度ナルヤヲ知ラザリシガ、遂ニ許サレズ。
差入レガ許サルルニ至リシヲ以テ、今度コソ食ヘルカト期待シタルニ、饀類ハ許サレザルナリト。
食意地卑シキニ似タレド、妙ナ心地ス。 咦。ワラウ
 坂本箕山著 「忠臣と孝子 」 ヲ讀ム。
    ( 大正五年十二月念入、蘇峰学入ノ賛辞アリ、東京小石川サムライ書房發行 )
  内容、楠公父子、曽我兄弟、春日局、中江藤樹、赤穂浪士、山県大弐、高山彦九郎、
   林子平、蒲生君平、塩原太助、
 史實ヲヨク調ベタル良書ナリ。
 古人ノ風格事蹟ヲ概見スルニ足ル、但著者ノ識見ハ余リ高カラズ。

七月二日 ( 木 )  終日雨降ル
「 忠臣と孝子 」  楠公父子ノ章ヲ讀ム。
楠公父子ニ關シテハ既ニ幾度学ビ、幾度聽キ、幾度讀ミタルヤモ知ラズ。
而モ其度毎ニ感激新ニ痛烈ナリ。
楠公父子ノ誠忠、今更ニ言擧ゲセズ。
實ニ返ス口惜シキハ、楠公ヲ始メ幾多ノ中心アリナガラ、其ノ劃策ヲ阻ムモノアリテ、
逆ニ中興ノ業、失敗ニ帰シテ國體埋没、
足利時代、戰國時代、織豊ヲ経テ徳川時代ニ及ビ数百年ノ間、
大義名分ヲ紊リ、皇道を陵夷セシムルニ至リタルコトナリ。( 大塔宮ノ御英霊今如何 )
 嗚呼、今日、皇國ノ状態果シテ如何、前途果シテ如何。
 歴史ハ教訓タラシメザルベカラズ、後世ノ戒トセザルベカラズ。
 徒ニ粉飾曲論シテ先人流血ノ遺訓洪範ヲ空ウスベカラザルナリ。
   生死可憐雲変更  迷途覺路夢中行
   唯留一事醒猶期  ( 深草閑居夜雨声 )
 夜雨ノ聲シキリナリ。

七月三日 ( 金 )  朝來雨模様ナリシガ、午後久シブリニテ日光ヲ仰グ
蘇峰学人著、近世日本國民史 「 松平定信時代 」 ヲ讀ム。
今ノ時勢ニ照シテ面白シ。
田沼意次ノ秕政。幕府ノ権威失墜、( 奢侈ニヨル財政窮迫、人心ノ頽廃タイハイ
、幕臣殆ド忠誠心ヲ失フ。
 賄賂公行、官職訴訟ハ私セラル。)
金力アル町人ノ擡頭、勤皇思想ノ具體運動化 ( 竹内式部、山県大弐、寛政ノ三奇士 ) 海邊ノ不安。
定信ガ將軍家斉ニ上リタル 「 封事 」 見ルベシ。現代ニモ適切ナルナシ。
異學ノ禁制ハ更ニ研究ヲ要ス。
思想ノ統一、教化ノ統一ハ、從來ノ諸思潮、諸學説ヲ綜合棄揚スルニ足ルベキ指導原理ニ立タザルベカラズ。
古今東西ヲ大観シ、永遠ノ見透ヲツケテ、而テ時節因縁ニ適合セシメザルベカラズ。
政策上時宜的ニ權力沙汰ニテ行ヘバ將來ニ害ヲ残スベシ。
紫野栗山ノ意見ハ、聽クニ足ルベシト雖モ、未ダ十全ナリトハ評シ難シ。
課シテ道ノ本源ヲ明ラメ居タリヤ否ヤ。
定信ハ幕府本位ニ施政シタルニ過ギザルコト亦、時勢上已ムヲ得ザルベシ。
然レドモ無窮無疆ニ皇運ヲ扶翼シ奉ランガ為メニハ、其ノ努ムル所、
亦 無窮無疆ニ有益ナラザルベカラズ。
自ニモ違ハズ他ニモ違ハズ、過去現在ニモ違ハズ、一切時一切処ニ有益ナラザルベカラズ。
此クノ如ク願ハズ、此クノ如ク努メザルモノハ、至忠至孝ト謂フベカラズ。
古人曰ク
「 上ハ皇室ヲ尊ビ、中ハ政化ヲ輔ケ、下ハ萬民ヲ安ンズル、豈 夫レ容易ナリトセンヤ。
須ラク自ラ刻苦勉励シ、勇猛精進シテ一旦心地開明シ、物我冥合シ、理事貫通シ、智光渙発セシムベシ。
若シ未ダナラバ、決シテ人慾ノ私ニ克ツコト能ハズ。
縦ヒ七尺ノ才幹アツテ、智能人ニ超エ、才芸世ニ秀ヅルトモ、
唯是レ少シク文字ヲ解シ、小枝ヲ弄ロウスル底テイノ凡夫ノミ。
何ゾ世ヲ益シ、人ヲ利スルノ實徳アランヤ 」 ト。
苟モ天業ヲ恢弘シ、無窮ノ皇運ヲ扶翼シ奉ラントセバ、須ラク三世十方ヲ一貫セル金剛不壊ノ根底ニ立ツベシ。
難易ノ感ヲ爲スナカレ。 至道無難唯嫌楝択。

七月四日 ( 土 )  薄日、午後曇
午後、菓子ト果物ノ差入アリ。
所謂 「 ケーキ 」 ナルモノ、見ルダニ贅澤ナル感ヲ催モヨオス。
而モ大シテ甘マカラズ。
定信ノ儉約奨励ハ此ノ方面ニモ適用サレテ可ナリ。
然レドモ儉約ハ文化 ( 浮華軽佻ナルモノヲ云フニアラズ ) ノ逆轉ナルベカラズ。
此ノ邊ノ消息ハ二宮尊徳翁ノ 「 分度、推譲 」 ノ教ニ倚ルベシトス。

夕方、裁判宣告申渡ノ為メ、明五日午前九時ヨリ開廷ノ通知アリ。
理髪ヲ行フ。之ガ最後ノ理髪ナルベシ。
叛亂幇助トカ、事件關係民間被告ノ公判モ未ダ開カレザル模様ナレバ、
判決ハ当分遅ルルモノト思ヒ居タルニ案外早カリキ。
早ク結末ノツキタル方、禄々トシテ何等皇國ニ
貢献スル所モナク日時ヲ過スヨリ有難シ。

是楝擇是明白

七月五日 ( 日 ) 朝來曇天、公判ノ頃暫時日照ス
 今日こそは判決の日ぞ待てる日ぞ
  目醒めて嬉しく 獨り ほゝゑむ
朝課恙ツツガナク濟マセテ心樂シ。
着物、羽織、袴皆夏物ガ差入アリ。
出廷ノ用意整ヘテ心氣爽快。」 ( 以下六日朝記 )
宣告ハ予期ノ如ク死刑。村中、香田、磯部、安藤、
栗原、對馬、竹嶌、中橋、坂井、田中、丹生、中島、安田、高橋、林 及 余ノ十六名ナリ。
水上君も死刑ニテ十七名ナリ。
池田、常盤、清原、鈴木、麥屋ハ無期禁錮。山本ハ禁錮十年。今泉ガ禁錮四年ナリ。
理由ハ甚ダ大義ヲ昧マス如キモノ、皇國ノ前途深憂の至ナリ。
タヾ身命ヲ無上道ニ捧げたる功徳ヲ普ク一切ニ及ボシテ、
寶祚無窮、國運隆昌、億兆安堵  云々ト願ハマクノミ。
 百千たび此の土に生れ皇國に仇なす醜を伏し救はん
漸く發信ヲ許サル。手紙書キ始ムレバ、身内ノ コト偲バレテ、
不覺ノ涙禁ジ得ズ。
維摩詰大士ノ、
「 衆生病ムガ故ニ我レモ亦病ム。衆生病癒ユレバ我ガ病無シ 」
ト 傳ヘル宜ナル哉。
絹子ヨリノ手紙、留保セラレタルモノ三通始メテ見セラル。
父上ガ 「 君國の御爲メナリ 」 ト御力附ケ下サレシ由、
又、如何ナルコトモ覺悟シアリト申シ來レリ。
又、明示神宮ト靖國神社ノ御守ヲ戴キテ同封シ、
普門品偈 及ビ高王十句観音經ヲ写經シテ同封シアリ。
「 衆生病癒ユレバ、我ガ病無シ 」 何ヨリノ安心ナリ。
家ヘ、道場ヘ、五之町ヘ、絹子ヘ、直兄ヘ、又 相澤中佐殿ノ奥様へ、
取敢ヘズ手紙差上ゲント書キ続ク。
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陸軍衛戍刑務所  ・・ 監房の詳細不明
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七月六日 ( 日 )  朝細雨、本降リトナリ終日止マズ
家ヘト道場ヘノ手紙ノ草稿ハ、昨夕提出、他ハ今朝提出。
相澤様ヘノ分ハ後ニナル。
一週間ブリデ入浴。
昨夕監房ノ入れ換アリテ、隣ニハ中島君 ( 一六房 ) 来ル。
ソノ向フガ磯部サン ( 一五房 ) 、林君 ( 一四房 )、田中君 ( 一三房 )、安藤サン ( 一二房 )、
丹生君 ( 一一房 )、栗原君 ( 一〇房 )、香田サン ( 九房 )、對馬君 ( 八房 )、坂井君 ( 七房 )、
中橋君 ( 六房 )、竹嶌君 ( 五房 )、高橋君 ( 四房 )、水上君 ( 三房 )、村中さん ( 二房 )、
安田君 ( 一房 )。
中島君ト入浴ス。久シブリナリ。
午後ヨリ夜ニかけて手紙ノ清書、中々忙シク、ユツクリ坐ル暇モナシ。
夜雨ノ聲シキリナリ。
新聞ニハ未ダ發表セラレザル由、手紙ノ方ガ先ニ着イテ欲シ。
新聞ヲ先ニ見レバ身内ハ更ニ嘆クナルベシ。

七月七日 ( 火 )  晴
ヤツト面會ヲ許サル。
午前、松平大尉殿、三品大尉殿、慰問ニオイデ下サル。
午前、郷里ヨリ、文彦様 ( 手紙ト行違ヒ )、浩司、恵三 ( 父上ハ本夕刻御着京ノ筈ト ) ト静江様、
久尚様、直様、邦武ト絹子モ揃ツテ来ル。
文彦様モ浩司モ昨日來タリシガ、面會許サレザリシ由。
身内以外デハ、大垣要之助氏御一緒ナリキ。
「 渡邊御夫婦モ今朝ヨリ御待チニテ何度モ願ハレシモ許サレズ。
小松孝彰君モ來タリシモ許サレズ 」 トノコト、自分ヨリモ再三願ヒ出デタレド許サレズ。
大垣氏ガ代表ノ意味ナリト。
祖父上様始メ皆々様モ覺悟シテ居テ下サレタル由、何ヨリ有難キコト。
父上様ノ御寫眞、母上様、叔母様方、芳子、緑、子供達ガ一緒ニ写レル寫眞トヲ見セクレタリ。
姪ノます子ノ顔ハ初メテ見シナリ。
小松君ガ余ノ肖像ヲ画キタルヲ見セラル。却テ迷惑。
「 天下一人其ノ所ヲ得ザル者アル間ハ、斷じて法要、祭祀等ノ行ハレザルベキコト。
墓ハ造ラズ、磐梯山ノ噴火孔ニ投入シテ貰フコトトス 」
画仙紙ヲ入レテ揮毫ヲ頼マル。仕事ナリ。
メロン、干菓子ノ差入レアリ。
三十分限リニテモノ足リズ。何時マデモ話シタシト思フ。
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ニ ・ニ六事件 ・判決 ・・昭和十一年七月五日 
相澤中佐事件 ・判決・・昭和十一年五月七日

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今朝号外ニテ判決理由等發表サレタル由。
相澤中佐殿ハ、六月三十日上告棄却トナリ、既ニ、七月三日死刑執行セラレナサレシ由。
誠忠無比ノ中佐殿ヲ遂ニ死刑ニナシタルカ。
噫、皇國ノ前途暗澹タルベシ。
絹子モ御通夜ニ參りたる由。
荒木 ( 貞夫 ) 大將、眞崎 ( 甚三郎 ) 大將モ通夜ニ見エタリト。
如何ノ心事ヲ以テカ、霊前ニ對シタル。 知ル人ゾ知ル。咄。咄。咄。
相澤様ヘノ手紙ヲ出スノガ遅レタルモ妙ナ因縁ナリ、書改メテ出ス。
要部ヲ削除セシメラル、戸田精一兄ヘモ手紙ヲ出ス。

七月八日 ( 水 )  晴
午前、父上様ト文助様ト絹子ト來ル、純男君モ共ナリキ。
父上様ノ御言葉ハ何ヨリノ慰問ナリキ。
祖父上様ハ涙一ツ御流シニナラヌカラ心配スルナト、何ヨリノ安心ナリ。
家ノ方々ガ理解シテ下サレルガ何ヨリモ嬉シ。
絹子ノ將來ノコトヲ御願ヒス。
ヨク相談シテ一番ヨイ様ニスルカラ安心セヨト。
切ニ祈ル將來ノ不安ナカラシメラレンコトヲ。
絹子ガ相澤様ノ御遺族、村中兄ノ御遺族ト御一緒ノ寫眞ニ入レテ戴キタルヲ見セタリ。
昨日ノ寫眞ト共に差入レサス。
本日、經典ヲ差入レンコトヲ命
ジ、加瀬法兄ニ相談スル様言ヒシニ、
御會ヒシタル所、法兄ヨリ、洞上日課諷經要集、妙法蓮華經、正法眼蔵、坐禅ノ秘訣 ( 原田老師ノ御近者 )、
日常ノ看経等賜ハリシ由、且ツ宜シクトノコト、感佩感激。
墨汁、筆、干菓子、果物、水飴等澤山差入レアリ。
おはぎモ入レントシタレド遂ニ許サレズト。

午後、中村藤三郎様、大垣氏、小松、玉井、鈴木君、春三叔父、浩告、來ル。
一雄モ來ル由。
外ノ者ガ我等ヲモウ死ヌモノト観念シテ、
或ハ悲シンデ泣キ、或ハ悔シ恨ミ泣キ、或ハ烈士扱ヒシツツアルハ
我等トシテハ甚ダ不本意ナリ。
悲シマルル、クヤシガラルルハ、我等モクヤシク、肉身ノ方々、知友ノ心情ヲ思ヒテ悲シケレド、
其以上ニ至尊ノ御名ヲ以テ今、日本國ニ斯クノ如キ不義ガ行ハレントスルコトガ、
何トシテカ止メ奉リ得ザルヤトノ氣持スルナリ。
烈士扱等ハ真平ナリ。
我等ハ芝居ノ役者ニアラズ。人気ヲ頓着スルモノニアラズ。
我等ハ、今斯クノ如キ不義ガ行ハレルコトヲ何トモナシ得ザル不忠者ナリ、
意氣地ナシナリ。
我等ハ小供ダマシノ如キ烈士扱ヒヤ法要祭典ハ眞平ナリ。
天下一人其ノ堵ニ安ンゼザル者アラバ我等ハ罪人ナリ。
永久ニ逆賊にて可ナリ。
ソノ方ガ神佛ニ恥ヂザルナリ。
ナマジヒニ祭典等行ハレテハ不愉快ナリ。
夕ヨリ夜ニカケテ、皆残念々々ト語ル。
死ンデモ死ニ切レヌト云フ。
士官學校ノ寝室ノ如キ感アリ。 楽シ。

七月九日 ( 木 )  晴、午頃ヨリ急ニ雨トナル
郷里ヨリ手紙ヲ見タル故、マダ会ヘルトテ、母上様、賢二叔父様上京ナサレ、
浩次、一雄ト共ニ面会ニ見エタリ。
久三叔父様モ御上京ヲ思ハレシモ御忙シク不可能トテ、祖父上様ノ御寫眞、
賢二叔父様ト久三叔父様ト御一緒ノ御寫眞ヲ、母上御手ヅカラ御示シ下サレタリ。
又御經典ヲ持ツテ來テ下サレ、又着物肌着ノ類モ御持參下サレタリ。
母上様ハ御身體モ御弱リニナリシニ、夜汽車ニ揺ラレテ御出デ下サレタリ。
賢二叔父様モ涙ヲ浮ベテオイデナサル。
何一ツ親ニ報ゼズ、家ニ報ジ得ザリキ。詑ブル言葉ニモ苦シム。
君國ニ忠ナルハ親ニ孝ナル所以ト。
然シ實感トシテ、親ニモ家ニモ相濟マヌナリ。
相濟マナクナラシメラレタルナリ。
母上、叔父上ノ御言葉ニ有難シ。
絹子ノ事モ心配スルナト。

宍戸大尉殿ヨリ御名刺アリ。
書シテ曰ク 「 笑つて往かれよ 」 ト。

何事カ、斷ジテ笑ツテ死セズ。
斯クノ如キ事ガ行ハルルコトヲ笑ツテ死ヌガ如キハ不忠ナリ。
我等ハ之が笑ヘル程無道念ニアラズ。
自分ダケ満足セバ可ナリト思フガ如キハ菩提心ニ背ク。
我等ハ國士ニ祭上ゲラルルヲ欲セザルナリ。
面會所にても一寸挨拶ス。
引續キテ親戚大勢オイデ下サル。
五之町ノ母上様、澁川紀様、大森ノ叔母様、久尚夫婦、英昌坊、直様、絹子、恵三、光三君、直通君等。
菊治様御夫婦。皆様ニ御目ニカカレテ嬉シ。御祖母様、八重子、俊子モ宜シクトノコト。

教誨師ニ会ハサレ、御來迎佛を拝セシメラル。
只ダ三宝ヲ供養シ來ル。
差入ノ御菓子ト桃トヲ供養ス。
浄土宗カ眞宗カノ僧侶ラシ。
話シテモ自己逃避主義ニテ、自未得度他ガオワカリニナラヌラシ。
何カ書イテト言ハルルヲ以テ、
「 応以阿修羅身得度者則現阿修羅者而為説法 」
ト書シ来ル。

禎助君ガ面會ニ來ル。

入浴セシメラル。 中島君ト共ナリキ。
皆ト話ス。皆、天下一人其ノ堵ニ安ンゼザル者アル限リハ斷ジテ成佛セズト云ヒ、
一切ノ祭典、贈位等絶対ニ受ケズト云ヒ合フ。

七十ニナラルル御老父ガ、「 子供を確リ教育スルモノヂヤナイト思ツタ 」 ト涙ヲ落サレタル由。
又、兄上ノ奥様ヲ其ノ里カラ 國賊ノ家ニハ嫁セシメ置ケズトテ引取ラレタリト。

書ヲ書ク。

七月十日 ( 金 )  曇雨、夕ヨリ晴ル
忙シクテ之以後ハ書ケナカツタ。然シ大抵会ツテ話シタコトデ盡キテ居ル。

七月十二日 ( 日 )  朝、晴
今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ツテ夜ニ入ツテハツキリ解ツタ。
一同ノ爲メ 力ノ及ブ限リ讀經シ 祝詞ヲ上ゲタ。
疲レタ。
今朝モ思フ存分祈ツタ。
揮毫キゴウハ時間ガ足リナクテ十分出來ナカツタ。
徹夜シテ書イタガ、家ヘノ分、各人宛ノハ出來ナカツタ。
「 為報四恩 」 ヲ家ノ分ニシテ下サレバヨイト思ヒマス。
済ミマセンデシタ。
最後マテ親同胞ニ盡スコトガ出來マセンデシタ。
遺言は平常話シ、今度オ目ニカカツテ申上ゲマシタカラ別ニアリマセン。
一同
君ケ代合唱
天皇陛下  萬歳三唱
大日本帝國 ( 皇國 ) 萬歳三唱
シマシタ。
祖父上様ノ御寫眞ヲ拝見シ、御兩親始メ皆々様、
御親戚ノ方々ニモオ目ニカカレテ嬉シウ御座イマシタ。
皆様、御機嫌ヤウ。
私共モ皆元氣デス。
浩次、恵三、代リニ孝行盡シテクレ。
絹子 元氣で辛抱強ク暮セ、
祖父上様や父上様、母上様ニヨクオ仕ヘシテオクレ。
五之町ノ皆様、御許シ下サイ。
此ノ日記 ( 感想録 ) ハ絹子ニ保存サセテ下サイ。
 百千たび此の土に生れ皇國に
  仇なす醜も伏しすくはむ


河野司著 二 ・ニ六事件  獄中手記遺書  から


澁川善助の晴れ姿

2021年11月09日 17時18分10秒 | 澁川善助

うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
西田 さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、
それで私と押し問答しましたときに渋川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、
いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、
原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。
原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。

それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです。
あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。
それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。
・・・西田はつ

『 日本を震撼させた四日間 』 ( 新井勲 ) の中で、
二十八日午後二時ごろ新井中尉が幸楽に安藤大尉を訪ねたとき、
そこに 紺の背広の澁川がいて
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
とさけんでいたという場面をひいた。
・・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」

「 ・・・二十六日朝、志人荘仲間が電話で知らせてくれた。
すぐに西田宅に行くと渋川だけがいた。

澁川から事件の詳しい説明を聞かされ、協力を求められた。
澁川は つかまるまで上が黒で、下はモーニング用のシマのズボンをはいていた。
上衣も略式の礼服用だった 」 ・・・中橋照夫
幸楽に現れた澁川は単なる背広ではなく、略式の礼服だった 。
以前に、結婚式に出るからといって会津の実家から持ってきたものらしい。
軍服で馳せつけることのできなかった澁川の 「 晴れ姿 」 だったという人もある 。


澁川善助
二十八日午後以来
澁川さんが私の部隊に附かれてまして、
最後迄色々御世話になりました・・・坂井直憲兵調書

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澁川善助といえば、
二十三日に湯河原に行って夫婦で伊藤屋に泊まり、別館に滞在中の牧野伸顕の動静を偵察、
「 同月二十五日コレ亦偵察ノタメ来リタル亡河野壽ト連絡シタル上状況シ 」 ( 判決文 )
西田税の片腕である。

澁川は二十六日未明には、歩三兵営の前にひそみ部隊の出動を見届け、これを西田に連絡したという説がある。
それ以来、澁川の様子が分らなかったが、二十八日忽然として決行部隊の中に現れたのである。

「 澁川さんが私たちのいる 『 幸楽 』 にきたのは二十八日の午後で、白布を持ってきてくれたので記憶している。
 澁川さんはいつも背広姿で、そのときもそうだった 」 ・・歩三第六中隊堂込喜市元曹長
その夕方には幸楽から陸相官邸に回っている。

陸相官邸を警備していた歩三・一中隊 金森勝雄元二等兵 ( 斎藤邸襲撃参加 ) の話。
「 二十八日夕方、陸相官邸の塀のところに立哨していると、背広姿でソフト帽をかぶった男がきた。
 帽子のツバに三銭切手を貼っていたので通した。だれともなく、あれが澁川さんだといったので、そうかと思った 」

同じく官邸警備の同隊 春山安雄元上等兵 ( 斎藤、渡辺邸襲撃参加 ) の話。
「 その男は官邸の二階に上がり、そこかにあった白鞘の日本刀をとって、窓のカーテンを帯にして腰に巻き、
 刀をそれにさして 坂井 ( 直 ) 中尉や高橋 ( 太郎 ) 少尉を叱咤激励していた。

上官のような振舞だったので、高橋少尉に、だれですかと訊くと  『 澁川だ 』 といった 」

澁川は陸相官邸から再び幸楽に戻っている。
安藤隊はその夜のうちに幸楽から山王ホテルに移動するのだが、澁川もいっしょにいる。
「 山王ホテルに伊集院少佐 ( 歩三第一大隊長 ) が安藤大尉を説得に来たときも、澁川はその場にいた 」 ・・( 堂込元曹長 )

澁川は決行には直接加わらなかったが、占拠中の安藤部隊にとびこみ、最後までいた民間人である。
それも二十八日の午後、情勢の非を見て、士気を鼓舞するために はせ参じたのだろう。
彼も西田税の云うことばかり聞いてはおられなくなったに違いない。
その日の午後二時ごろ、幸楽で野中大尉が 「 兵隊が可哀想だから 」 すべてを包囲側に委まかそうといったとき、
澁川は 「 兵隊が可哀想ですって--。全国の農民が可哀想ではないんですか 」
と 野中に噛みつくようにいい、「 おれが悪かった 」 と野中を謝らせたという。
・・( 『 日本を震撼させた四日間 』 )  澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」


松本清張著  ニ ・ニ六事件 第二巻
第十一章  奉勅命令 から


澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」

2021年11月08日 10時24分04秒 | 澁川善助

澁川善助
澁川善助は
会津若松市の大きな海産物問屋の長男で、
陸軍士官学校予科卒業のときは恩賜の銀時計をもらった。 ・・・リンク → 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戦役の世界的影響 」 
本科在学中に上官と衝突して退校、 ・・・リンク → 澁川善助の士官学校退校理由
明治大学法科に入り、卒業後は満川亀太郎の興亜学塾や敬天熟などに関係、
西田税 らを知るようになった。
「 埼玉青年挺身隊事件 」 では、栗原中尉や水上源一の線で取調べをうけたこともある。
・・・リンク → 救國埼玉挺身隊事件
昭和九年に統天熟 ( 塾頭、藤村又彦。大同倶楽部の分派 ) の百田勝が高樹町郵便局に拳銃をもって押入った、
この拳銃は澁川が貸したものだという理由で起訴され、保釈中は大森一声の直心道場に起居し、
妻もそこに呼びよせていた。・・・リンク →澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」
相澤公判では、村中孝次とともに機関誌 「 大眼目 」 に公判の経過を執筆、
また青年将校の会合にも出席して公判報告をしていた。・・・リンク→ 竜土軒の激論

事件の起こる前まで 村中といっしょに 「 文書戦 」 に従っていた澁川だが、
二十三日には磯部に頼まれて、湯河原の牧野偵察に行っているから、彼には決行近しの予感はあったろう。
また、そのころは西田にも決行が分っていたので、彼は西田からも聞いたであろう。
こうして村中、磯部、西田らの中にいた渋川が、単に牧野偵察だけではなく、
「 決行に呼応して外部の右翼団体の蹶起を計画していた 」
と 当局が考えたのは、きわめて当然のことであった。
判決に見る澁川の行動は、
≪ 事件勃発後ハ外部ニ在リ 被告人等 ( 決行将校ら ) ノ企図ヲ達成セシメムガタメ、
同月二十七日夜東京市麹町区九脱一丁目 中橋照夫方ニ於テ同人ト相謀リ、
カネテ同人ト気脈ヲ通ジイタル山形県農民青年同盟 長谷川清十郎等ヲシテ
被告人等ニ呼応シ 事ヲ挙ゲシムルコトニ決定シ、
コレガタメ、同人ニ拳銃五梃、同実包二十五発ト山形在住某将校宛ノ紹介状ヲ与ヘ、
更ニ栗原安秀ニ依頼シ、東京市四谷区某銃砲店ヨリ右拳銃用実包三百発ヲ入手セムトシタルモ
事発覚シテ目的ヲ遂ゲズ、
同月二十六日以後 歩兵大尉松平紹光等ト連絡シ、外部情報ノ蒐集ニ努メ、
コレヲ被告人等ノ部隊ニ通報シイタルガ、
同月二十八日 安藤輝三ノ部隊ニ投ジ、同隊ノ士気ヲ鼓舞激励シ・・・・≫
と なっている。
問題は前段の起訴事実で、二十七日に山形県農民青年同盟員をして、
はるか山県の地で東京の決行に呼応して拳銃などで蜂起させることが可能だったかどうかである。
・・・中略・・・
澁川善助の実家、会津若松の海産物問屋は手びろく商売をし、雇人も三、四十人ぐらいいた。
長男の善助が軍人を志し、しかも士官学校を退学処分にされ、東京で運動していたから、
父親は生きていたが、次弟があとをつぐようになっていた。
澁川夫婦は実家の送金をうけていた。
「 兄は経済的にはたしかに家の厄介者だつたが、肉親としては、父ばかりでなく、
皆、思想的な面では反対しなかった。
士官学校を退めたあと東京から家に帰ってくるのはせいぜい年に一度か二度だった。
帰ってきても二日か三日居る程度で、すぐに東京へ引返すか、弘前か青森に行った。
青森聯隊には同期生の末松太平さんがいた。
兄は几帳面な人で、机の上の物でも、すべてきちんと平行しておいていなければ気が済まなかった。
使用人には親切だったが、こわがられ、兄が帰ってくるとみんなシュンとなっていた 」
・・・善助の次弟 澁川善次氏 談

澁川善助の妻、絹子さんの直話。

「 結婚したのは昭和九年です。
主人とは六つ違いでした。
式は明治神宮で挙げ、神宮前にある同潤会のアパートに新居を構えました。
壁に蔦つたの這っているアパートでしたが、村中孝次さんも同じアパートから陸大に通っていたと思います。
わたしどものところには人の出入りが多く、経済的には会津の主人の実家に迷惑をかけました。
送金してもらって、私たちの生活費だけでなく、同志の方たちの面倒もみていたのです。
会津の方たちには、ほんとによくしていただきました。
そして何かの事件があったのちに直心道場に移ったのでございます 」
その事件とは埼玉青年挺身隊事件のことらしく、
九年九月、西田税が善助の母に出した手紙のなかに、
善助が同事件に連座して警察に留置されたことが書かれている。
「 事件の何カ月前、主人と渋谷に出かけたことがあります。
そのとき、当時としてはまだ珍しかった月賦屋が眼につき、主人と家具類など買いました。
主人はもちろん月々払うつもりだったにちがいありません。
とすると、月賦を払い終らないうちに事件が起こった、だから主人は事件が起きることは知らなかった、
考えてもいなかったのではないか、という気もいたします 」
だが、これは別の見方もある。
「 澁川は同志に金を与えて自分は貧乏だったので、ほしい家具も買えなかった。

たまたま通りがかりに 月賦屋があるのを見て、月払いという便利な方法で品物を買ったのではないか、
それほど彼は同志の面倒を見なければならない立場にあった 」
というのである。 ・・・澁川の知人で、のち福島県磐梯町長の桑原敬氏談

湯河原偵察
「 二月二十三日、
主人は突然これから温泉につれていくからすぐ支度しなさい、という。
こんな雪の日でなくとも、といいましたが、
思いついたのだから、すぐに支度せよ、というのです。
それも、なるべく派手な着物をきろ、という注文です。
もちろん事件に関係あることは知りません。
雪の中を足駄をはいて行ったのをおぼえています。
湯河原の宿につくと、
その晩は、先に寝ろということので、
書きものをしている主人をそのままにして先にやすみました。
翌朝、これを西田さんに届けろと封書を渡されました。
内容は分かりませんし、聞かせもしません。
わたくしが駅に行くまで尾行がついていたようですが,汽車の中には居ませんでした。
東京に着き、西田さんのお宅に行ったのは午前十時頃だったと思いますが、
そこには磯部さんなどたくさんの人が集っていました。
西田さんは封書をよみ、すぐ返事を書いてわたくしに渡し、
折返しこれを澁川君に届けてもらいたい、絶対になくさないようにときびしくいわれました。
わたくしはそれほど切迫したものとは考えず、
足駄で行ったものだから湯河原では不便で仕方なく、
いったん直心道場に戻り、身のまわりを整えた上で湯河原に向いました。
湯河原で手紙を主人に渡すと、お前は廊下に立っていろと見張りを命じられました。
その晩は湯河原に泊まり、
翌二十五日、いったん裏山に上ったのち、主人と車で東京に向かいましたが、
横浜で軍服姿の人が待っていて、いっしょに旅館に入りました。
そこでもまた廊下に立っているように云われ、なんとなく廊下をうろついていたのをおぼえています。
それからいっしょに旅館を出て横浜駅に行き、
そこで主人と別れて、わたくし一人で汽車で東京に戻りました。
直心道場に着いたのは夜中でした。
主人とはそれきり、刑務所で面会が許されるまでは会わなかったことになります。
主人から電話があったのは二十六日のまだ夜の明けきらない前でした。
大変なことが起ったといって道場が騒がしくなったので、
何か知らせがあるのかもしれないと思い、わたくしが電話のそばに付いていたのです。
間もなくその電話です。
『 当分帰らない 』 と主人がいいますので、
『 どうしてですか 』 とたずねますと、
『 あとで分る 』 と答えただけでした。
事件のことについてはわたくしは最後まで主人に教えてもらえずじまいでした。
それからニ、三日して情勢が変り、憲兵がきて家宅捜索を受け、
病人 ( 三角友幾のこと ) と 女のわたくし以外の道場の人はみんな連れて行かれました。
憲兵の家宅捜索は家の隅から隅まででしたが、
それより前、わたくしは重要だと思われる書類をとっさに、
道場の大きな風呂の煙突の中にさしこんでかくしておきました。
ところが三月になってわたくしも警察に引張られ、一週間くらい留置所に入ったのですが、
その間に、帰された道場の者が風呂を焚いたため、
煙突の中にかくしておいた書類が灰になってしまいました。
そのことを、面会が許されてから主人に申しますと、
『 灰になってよかった 』 といっておりました。
警察で調べられたとき、西田さんと主人との間を往復した手紙運びのことは訊かれませんでした。
警察にはまだ分ってなかったと思います。
おもに主人が道場でどのようなことをしていたかといったようなことをきかれました。
主人と湯河原に行ったことはもちろん警察に分っていましたが、
わたくしが連れて行ってもらっただけだというと、それ以上には追及されませんでした。
警察では、主人が今生の別れにわたくしを温泉に連れていったのだろうと受けとっていたようでございます 」
リンク→澁川善助 ・ 湯河原偵察
・・・中略・・・
ここで思い当るのは澁川の手紙をよんだ西田が絹子さんに渡した澁川宛の封書のことである。
これを持って湯河原に引返した絹子さんは、内容を読んでいないから分るべくもないが、
おそらく早く東京に戻ってこいという西田の指令だったろう。
西田としては腹心の澁川にそんな突走り方をされては困るのである。
だが、澁川としては前からの行きがかりで牧野偵察は河野大尉に連絡する必要があったので、
横浜の出会いということになったのではあるまいか。
「 二十四日ごろ、私が西田を訪ねると、
『 決行には最後まで反対するがダメかもしれない。そのときは澁川を軍人としてもらっていきます』
と 彼はいった 」 ・・・大森一声
隊付将校だけの 「 蹶起 」 を目前にして、
民間人と軍人の接点にあった西田は、
自分と同様、もと軍人の澁川を自分の手もとにひき戻すため、
「 軍人として ( こっちに ) もらう 」
といったのだろう。

松本清張著  ニ ・ニ六事件 第二巻
第十一章  奉勅命令 から


澁川善助と末松太平 「 東京通い 」

2021年11月07日 20時48分06秒 | 澁川善助

・・・東京に出ると、も一度西田税のうちに寄った。
そこで澁川と落合、たまたま中耳炎で慶應病院に入院していた相澤中佐を一緒に見舞った。
・・リンク
「年寄りから、先ですよ」 
 相澤中佐の中耳炎さわぎ 

相澤中佐は中佐に進級して福山の連隊付になっていた。
慶應病院から、も一度西田税のうちに寄ったが、私はもう 『 改造法案 』 のことは口にださなかった。
ただしばらく歓談して澁川と一緒に知人のうちに引きあげた。
知人のうちには数日いた。
西田税のうちにはもう顔を出さなかった。
澁川は毎日この知人の家に訪ねてきた。
泊まっていく日もあった。
北さんの家にいかないかと澁川に誘われたが別に会いたくもなかったので断った。
それより是非いかなければならないところがあった。
五 ・一五事件関係の士官候補生を訪ねることだった。
一日私は澁川の案内で、彼らが収監されていた豊多摩刑務所を訪ねた。
澁川は度々来ているとみえ、勝手をよく知っていた。
面会の手続きも渋川がしてくれた。
彼らは一つの部屋で軍隊用の水筒の紐をつくっていた。
仕事部屋は獄舎というよりは小学校の教室みたいに明るかった。
が獄衣に冷飯草履の彼らの姿を前にして、漫然と将校の地位にとどまっていることが恥じられた。
しかし、それは同時に次の闘いへの決意を新たにする刺激だった。
澁川は篠原市之助あたりから本の差入をねだられていた。
経済学の勉強をしたいというものへは
「 じゃ、こんど経済学論を入れてあげよう。 これを先ず読むんだね 」
といっていた。
澁川らしく、これまでなにくれと彼らの面倒をみてきているようだった。
刑務所を出ると澁川は笑っていった。
「 今日は貴様と一緒だったから、いつもとちがって刑務所側の待遇がよかったよ。
面会室も特別だったし、将校はやはりちがうね。」
この同じ豊多摩刑務所に、あとで彼らと入れかわりに私は三年収監されることになるのだが、
そのとき面会にきた元の連隊長小野大佐と会ったのも特別の部屋だった。
が澁川はもうそのころは、この世にいなかった。
・・・中略・・・
二十日の旅を終えて帰りついた青森は、軍国の春につづいた自然の春も盛りをすぎて、
独身官舎の庭の桜の木にも、二分三分の花が散り残っているだけで、
それが吹き出た若葉とまじりあっていた。
・・・中略・・・
 
    末松太平 と 澁川善助
澁川は兵営に近い官舎街の一隅にある独身官舎の私の部屋にニ三日滞在した。
昼は私は連隊に出勤するので、澁川はひとり残って、私の書棚から本をひっぱり出して読んだりしていた。
ある日帰ってみると、相馬御風の 『 良寛と一茶 』  を読んでいた。
それには最初のほうに良寛の歌の 
「 いるほどは風が持てくる落葉かな 」
の校証がしてあった。
「 いるほどは 」 は一書には 「 焚くほどは 」 とあるなどと。
私はあとでニ ・ニ六事件の公判に立ち合った看守から、
澁川が法廷で生活費のことをきかれたとき、憤然としながら、しかしことばだけは静かに、
「 いるほどは風が持てくる落葉かな 」
とだけ答えたと、きいた。
夜は旅情を慰めようと、独身官舎の若い将校一同と、料亭に案内したりもした。
酒席の歌一つ知らない澁川は、
そのとき楽譜で練習した唱歌のように、それだけに正調で都々逸を歌った。
澁川が、こんど末松が帰ったら、都々逸を歌ってきかせると猛練習をしているとは、
満洲にいたときから、誰からかの便りで知っていた。
それを初公開したわけだった。

あいたさこらへて末まつからにゃ
  どんな苦労もいとやせぬ

この文句の都々逸だった。
これはもちろん澁川の作った文句ではない。
むかしから粋筋で歌われているものである。
東京都和歌山との板挟みになって、その調整に身の細るおもいをした澁川の感慨が、
末待つを末松にかけて、この文句を練習用に歌わせていたのである。
澁川は途中、秋田、山形の民間同志と会って帰るといって奥羽線廻りで青森を発った。
あとで澁川のことを、若い芸者が 「 変な人だ 」 といっていた。
芸者に澁川がしきりに敬語をつかったからだった。

澁川が大岸大尉の 『 皇国維新法案 』 を印刷したものを、風呂敷一杯重そうに提げて、
また青森にやってきたのは、このときから一ヶ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、大岸大尉から、和歌山で 「 人には見せられないもの 」
と大事がっていた 『 皇国維新法案  』 の草稿を、どう心境に変化がきたのか、
至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を渋川に伝えたが、それが出来上がったから、と持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした。」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
ニ ・ニ六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
ニ ・ニ六事件があった年の正月、私は東京に出ていたが、
そのとき渋川が 『 皇国維新法案 』 が西田税にみつかって、これは誰が印刷したんだと激怒したといっていた。
「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と 澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、へえ、そんなものかなあ、と意外に思った。
ともあれ、ニ ・ニ六事件直前に、まだこんな未解決な問題が、残されていたのである。
ニ ・ニ六事件で私が調べられているとき、
予審官が 「 ときに 『 皇国維新法案 』 というのがありますね。あれは誰が書いたのですか 」
ときいた。
私は一瞬だまった。
それにとんちゃくせず、予審官はつづけて
「 澁川は自分で書いたといっているが、そうですか 」
ときいた。
「 そうです 」
と私は答えた。

実のところ折角澁川が後生大事に持ってきてくれた 『 皇国維新法案  』 ではあったが、
それに対する私の関心はもう薄れていた。
いや、 『 皇国維新法案 』 に対してだけでなく、
改造法案 』 をも含めて、
建設案というものに興味を失っていた。
もともと破壊消防夫である。
焼跡の建造物の恰好が、どうならなくてはならないなどの論議に首をつっこむ柄でもないし、
また場合でもないと思うようになっていた。
凱旋を再度の出征と意気込んで、内地に帰ってきた気持ちは はぐらかされたみたいで、
二十日の旅をした経験では、どこもその接合点を見出し得なかった。
「 どうだ、大同団結がどうの、改革案がどうのと、
四の五のしちめんどうくさいことにかかずらわっていても仕様があるまい。
結局は誰か一人が犠牲になって、日本の一番の害を除けばいいだろう。
十月事件みたいに大勢よってたかって騒ぐことはないよ。
おれが一人て゛やるから、貴様東京でお膳立てしないか。」
と私は澁川に提案した。
澁川は同意した。
「 ところで一番の害は誰かね 。」
「 やはり牧野伸顕だ。」
「 いまでもやはり牧野か。ではそれを誰にも相談せず、二人だけでやろう 。」
当時青森発夜の七時の急行にのると、翌朝七時半に上野につき、
その急行はまた夜の七時に上野を発ち、翌朝七時半に青森についた。
土曜日に隊務を終って夜青森を発ち、日曜日の朝東京につき、
なにごともなければ、その日の夜の急行にのれば月曜日の朝青森につくから、
なに食わぬ顔で連隊に出勤することができる。
目的達成が可能ならば、月曜日は、火曜日水曜日ぐらいになっても、
病気で引籠っているとかなんとかで、とりつくろえる。
若し ニ、三日の欠勤があやしいと連隊が気がついて騒ぐころは東京では事は終わっている。
とりつくろい役は独身官舎仲間の志村、杉野中尉にだけはうちあけておいて、
やってもらえばいい。
---こんな段取りを私は考えていた。
はっきりした日にちは記憶にない。
澁川が東京に帰りついたころあいを見て、土曜日の夜行で、ぶらりと東京へ向かった。
とにかく実践だ、押しかけることだと思った。
志村に 「 じゃ、ちょっといってくる 」 と声をかけた。
志村は 「 一人だけでやっちゃいやですよ。 電報を打つことですな 」 といった。
もう羽織はいらなかった。
和服で袴をつけ、臍へその下あたりに、満洲以来愛用のモーゼル二号と、
別に予備の弾丸を塡めた替弾巣を一緒にしてハンカチに包み、しまいこんだ。
車輛編成は、後のほうに二等寝台があり、あいだに食堂車を挟んで並の二等車一輛がつなかっていた。
帰りは後先が逆になったが、この二等車がこののちしばらく私の専用車になった。
車輛番号は青森の連隊番号と同じ 「 5 」 だった。縁起がいいと思った。
この二等車はいつも空いていた。
二人分はいつもとれたし、時には四人分占領できた。
体を曲げれば寝台車同様の効能はあった。
格別の感慨はなかった。
利根川の鉄橋を渡るとき、藤田東湖がこの川を三十二回渡ったというが、
そのレコードを破っても、決行するまでは東京通いをつづけようと、ふと思っただけだった。

東京へつくとかねて打合せしてあった知人のうちで、澁川と会った。
もちろん他に誰とも会わなかった。
澁川は私の顔を見るとすぐ、おとなしく帰ってくれ、といった。
そういわれると、お膳立てはまかしてあので、もうこのことにはふれず家の人をまじえて澁川と、
蛮トラ代議士と途中一緒になったはなしなど、雑談して夜の七時までの暇をつぶした。
途中汽車のなかで、夜明け、目をさますと、
質屋のおやじのような、ずんぐりした男が知らぬ間に前の座席に座っていた。
途中どこかで乗りこんだらしかった。
私が体をおこすと 「 よくお寝やすみでしたね 」 と話しかけてきた。
別れぎわに東京で暇だったら遊びに来てくれ、と名刺をくれた。
衆議院議員中野寅吉とあった。
こんな代議士を私は知らなかった。
私が懐ろから出した名刺を見て知人は 「これは蛮トラといって議会の名物男ですよ 」 といって笑った。

月曜日の朝青森に帰ると、独身官舎に寄り、軍服に着換え連隊にでた。
志村、杉野以外は誰にも気付かれなかった。

土曜日になるのを待ってまた出掛けた。
このとき澁川はいった。
ひとりでお膳立ては無理なので、近衛の飯淵少尉だけに強力を頼んで、
一緒に牧野の動静を探っている。
牧野の邸にふみこむのはまずい、途中待ち伏せする方法がいいと思う。
牧野の車が邸をでて曲り角で一時停車するところがある。
そのとき自動車のステップに足をかけ、運転席の窓から拳銃を差しこんで撃つのがいい。
自動車の窓ガラスは防弾ガラスだろうが、いつも運転席の窓があいている。
離れてからでは撃ち損じるから、この方法がいい---。
私は拳銃には自信がなかった。
熱河の承徳にいたとき、潮河の上流の河原で、よく拳銃の練習をした。
銃工長が弾丸はいくらでも補給した。
「 中尉殿は拳銃を練習する必要があるでしょう 」 といいながら。
西部劇のヒーローにもあやかった。
が所詮拳銃は私にとっては飛び道具ではなかった。
ちっとも上達しなかった。
拳銃は必中を期すなら、相手の体にくっつけて撃つもの、というのが結論だった。
ステップに足をかけ、運転席の窓から、できるだけ長く手をのばして、
牧野の体に近づけて引鉄を引く自分の動作を頭に描いてみた。

東京通いは、せっせと一ヵ月ばかりつづけた。
四回か五回になった。
そのたびに澁川は私の顔をみるや
「 こんども駄目だ。なにもいわずに帰ってくれ 」
をくりかえすだけだった。
この方法が、ただ澁川を困惑させるだけでなく、愚であることが自分自身わかってきた。
同時に、自分一人が徒に先走っていることにも気がついた。
私は東京通いをやめた。
藤田東湖のレコードは遠くおよばなかった。
あとでわかったが、私が東京通いをしていたことを師団では偵知していた。
翌年の春の随時検閲のときだった。
検閲賀終わると恒例の師団長の招宴があるのだが、
そのとき参謀長の久納大佐は、私のそばに腰をおろし
「 おい、お前が毎週東京に行っていたことは、ちゃんとおれの耳にはいっているぞ。
お前の行動はみなわかっている。が、まあいい、飲め 」
といって、酒をすすめた。


末松太平著  私の昭和史 
十一月二十日事件 ( その一 )  から


皇国維新法案 『 これは一体誰が印刷したんだ 』

2021年11月06日 05時41分05秒 | 澁川善助


末松太平と 澁川善助
昭和九年
歩兵第五聯隊のテニスコートで

昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』
« 末松太平大尉もこの宴に居た » 
の 続き

夜の白々と明けそめたころ、私は澁川と中村義明の家を出て、西田の家に向かった。
・・・ともかく年末年始にかけては、あと二ヵ月あとに、あれだけの大騒動がもちあがる気配はなに一つなかった。
中村義明のうちでの大岸大尉は、酔って悪たれをついているだけだった。
西田税のうちでは、蒙古王子の嫁探しのことで話に花を咲かしているだけだった。
澁川とは、西田税のうちを出たあと、
一緒に知人のうちより、しばらく話し合ったが、これも蹶起の話はでなかった。
このとき澁川と話し合ったことの第一は、この相澤事件の公判のことだった。
澁川は特別弁護人には満井佐吉中佐を頼んだといっていた。
はじめ石原莞爾大佐に頼んだ。
石原大佐は 「 大いにやってやる 」 と張り切っていたが、途中で難色を示した。
そこで富永良男中佐と思ったが、富永中佐は無天だから保留して、
やはり参謀懸章を吊った天保銭がよかろうと、満井中佐にしたといっていた。
満井中佐については私は、前に記したように十一月二十日事件のころの宝亭の会合のあと、
中佐を私宅に訪ねて、二時間蹶起計画の放言を聞かされた不愉快な記憶があるので、
一考を要する人選であると反対しておいた。
・・・リンク→ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」  
・・・相澤中佐公判 ・ 西田税、渋川善助の戦略
・・・満井佐吉中佐 ・ 特別弁護人に至る経緯 

第二は天皇機関説問題だった。・・・リンク → 国体明徴と天皇機関説問題
澁川はこれについて、
「 実は北さんの 『 国体論及び純正社会主義 』 が、天皇機関説なんだ。 
 それでおれは北さんにただしてみた。
が、北さんは、あれは書生っぽのとき書いたものだから、というだけで、てんでとりあわないんだ。」
といって、困った顔をしていた。
が私は別になんとも思わなかった。
澁川にいわれてみれば、なるほど見習士官のころ借りて読んだ 『 国体論及び純正社会主義 』 のなかに、
「 天皇は特権ある国民の一人 」 といったような文句のあったことを憶えている。
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註  ・・・実に国家に対してのみ権利義務を有する国民は
天皇の白刃に対して国家より受くべき救済と正当防衛権を有するなり。
 即ち等しく天皇の形態と発言あるも、
今日の天皇は国家の特権ある一分子として国家の目的と利益との下に活動する機関の一なり。
・・・( 『 北一輝著作集 』 第一巻  みすず書房版 二一八頁。)
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あんなところを、天皇機関説というのかな、と思っただけだった。
私は 『 国体論及び純正社会主義 』 にかぎらず、北一輝の著書には、どれを読んでも、
その一行々々には感銘するのだが、
一巻読み終わってのあとは、どういうことが書いてあったのか印象のうすいのが常だった。
澁川とちがって私がなんとも思わなかったということは、
北一輝の著書を読みこなすだけの素養を、私が欠いていたということでもあった。

第三は 『 皇国維新法案 』 のことだった。
その時期を澁川が、十月ごろといったか、この年末年始のころといったか、記憶はあいまいだが、
ともかくそのいずれかのころ、西田税がどこで手にいれたか、『 皇国維新法案 』 を一冊澁川の前につきつけ、
これは一体誰が印刷したんだといって、えらい剣幕で詰よったという。
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「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
 それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、ヘエ、そんなものかなあ、と意外に思った。
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私はそれまで 『 皇国維新法案 』 が、
西田税の目に一度もふれていなかったことを不思議に思うと同時に、
西田税のこれをみての激怒を以外に思った。
私が満洲から帰ってはじめて知った 『 日本改造法案大綱 』 をめぐっての、
東京の西田税と和歌山の大岸大尉との間の確執は、
このときになっても、まだちっともやわらいでいないわけだった。
私が満洲から帰ってすぐ和歌山に大岸大尉を訪ねたとき、
大岸大尉は 『 皇国維新法案 』 の草稿を示しながら、
『 日本改造法案大綱 』 には、骨が粉になっても妥協できない三点があるといっていたが、
それはどういう点だったのか。
『 皇魂 』 に影響を与えていた遠藤友四郎は
『 日本改造法案大綱 』 を、しばしば 「 赤化大憲章 」 と表現していた。
一方には磯部浅一のように、
『 日本改造法案大綱 』 に誤りなし---で一点一画も改変をゆるさないという金科玉条組がいた。
西田税もまた、この金科玉条組に衛られて牙城にたてこもり、一木一石も絶対に動かすべからずと、
それに固守しようとするのだろうか。・・・リンク →
改造方案は金科玉条なのか 
前にもちょっとふれてあるように、もちろんこの間の調節も、なんどかくわだてられている。
このため双方の関係者があつまって、直心道場で数回協議したこともあるようである。
それがとりあえず、直心道場で発刊され、必ずしもそうでなかったのだが、
西田系と目されている 『 核心 』 と、大岸、中村系の 『 皇魂 』 が連繋を密にし、
それぞれの分担をきめて文書活動を統一しようとする形に、あらわれようともした。
しかしこういったくわだても関係者の熱意にもかかわらず、
いろいろ事情があって残念ながら不調に終わったようである。
・・・リンク → 『 二つの皇道派 』 

二 ・二六事件がおこったことによって、こういったことも幾たびか夏草が茂っては枯れ、枯れては茂っているうちに、
つわものどもの夢の跡と化してしまったが、
終戦のとき、国務大臣小畑敏四郎を通じて、東久邇内閣に政策上の進言をしていた大岸大尉は、
たえず 『 日本改造法案大綱 』 を座右において参考にしていた。
が、それはすぎてののちのこと。
ともかく西田税と大岸大尉の確執は同時に、双方をとりまく青年将校間の確執だった。
もちろん、それを意識するものも、しないものもいたし、意識していても大局から、
あっさり割切っているものもいた。
が、どこにともなく、この確執はいまわしく潜在していた。
私はこの確執をとかなければ、全国一致の行動は困難だと思った。
二ヵ月あとのことは知らず私は澁川に、東京でどんなことがおこっても、
和歌山との一致した行動でない以上おれは強力しないよ、といった。
澁川は、貴様はそれでいったがいいよ、といった。
が、そのことばには、おれはそうとばかりもいかない、といった裏が読みとれた。
それは己れを殺して他に尽くしてきた澁川らしい響きをつつんだことばだった。
士官学校の優等生だったころの澁川は、
口も八丁、手も八丁、抜群の頭脳と、赤鬼というあだ名どおりの体軀にものをいわして、
時には強引に横車も押しとおした。
あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら、
行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう。
が、それが士官学校を退校させられると同時に変貌しはじめ、
赤鬼は御上人といわれるまでになった。
それには人に知られぬ修養が積まれていたことだろう。
私は一月三日の軍人勅諭奉読式に間に合うように
二日、澁川の見送りをうけて、上野駅から夜行を発った。
澁川と面と向かって話しあえたのはこれが最後になった。

末松太平著  私の昭和史 ( 下 ) --二 ・二六事件異聞
2013年2月25日発行  から


澁川善助の観音經

2021年11月05日 05時28分02秒 | 澁川善助

栗原中尉が
「 鞭声粛々・・・・ 」
と  声を張り上げて 「 川中島 」 を吟じた。
みな謹聴するかのように静かになった。
終わると 拍手が起こった。
「 栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、いまの詩吟だけはうまかったぞ 」
と  中橋中尉がどなった。
一人が軍歌を歌いはじめると、それがいつか合唱に変わっていた。
私は彼等が楽しく宴会でもやっているのではないかと、錯覚するのがしばしばであった。
錯覚しながらも私の両眼には涙がにじんでいた。
澁川善助
遠くの方から
「 観音經 」
を誦ずる声が、腹わたにしみいるようにきこえてくる。
騒音を縫ってくる朗々たる誦経は、耳をすませば澁川善助のなつかしい声だ。
昭和九年九月、
いまから数えて一年十か月まえ、千駄ヶ谷の寓居において私の母が急逝したとき、
真っ先に駆けつけてくれた澁川があげてくれたのも 「 観音經
あのときと いまでは立場を異にして、
澁川が自分自身をふくめて
十七名の死をまえにしての誦経には、悲壮な響きがあった。

・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ツテ夜ニ入ツテハツキリ解ツタ。
一同ノ爲メ 力ノ及ブ限リ読經シ 祝詞ヲ上ゲタ。
疲レタ。
今朝モ思フ存分祈ツタ。

一同
君ケ代合唱
天皇陛下  萬歳三唱
大日本帝國 ( 皇國 ) 萬歳三唱
シマシタ。
・・・澁川善助 『 感想録 』 ・・・

夜の白みはじめるころ、
香田大尉の音頭で君が代が齊唱された。
つづいて天皇陛下萬歳が三唱された。
・・・大蔵栄一著 
ニ ・ニ六事件への挽歌   処刑前夜・・・時ならぬうたげ  から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


昭和九年
九月二十八日 ( 
昭和九年 ) は、わたしにとって最も悲しい日であった。
まえの日の夕方連隊から帰宅してみると、家の中がひっそりかんとしている。
いつでもあると、私の足音をききつけて子供らが玄関に飛び出してくののに、
その気配がない。
「 ただいま 」
と、声をかけてみたがなんの反響もない。
いまごろ留守にするはずはない。
いかぶりながら部屋にはいってみると、
薄暗くなりかけた部屋の片隅に、老母 ( エイ ) が苦しそうに寝ていた。
その日は近くの鳩森八幡神社のお祭りがあるので、
子供らがせがむまま、妻はお祭り見物に子供らをつれて行ったという。
私は、母の容態が普通でないと直感して、軍服を脱ぐ暇もなく近くの病院に走った。
食事中の院長をせきたてるようにして同道した。
診断の結果は狭心症で絶対安静を要すという。
百方手をつくしてもらったが時期すでに遅く、ついに二十八日午前三時過ぎ永眠した。

死の直前、枕頭ちんとうにすわって様子を凝視していた私は、母の死を感じた。
静かに母の首の下に左手を入れてわずかに抱き上げた。
苦しさに耐えていた母はかすかに半眼を開いた。
「 栄一だね、有難う、とても楽しい一生じゃった 」
私の右手に痙攣けいれんを感じたとき、母の一生は終わった。

ちかくにいた西田夫妻が夜中にもかかわらず、母の死を見送ってくれた。
急を知って駈けつけてくれた澁川は、家に佛壇のないのを見て、
急造の佛壇にお灯明をあげてお經を誦ずるのであった。
澁川の唱える観音經は
老母にとっても私にとっても、何ものにも替え難い、有難いものであった。


大蔵栄一 著 
ニ ・ニ六事件への挽歌  母の死に転機を誓う から


澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」

2021年11月04日 18時55分17秒 | 澁川善助


澁川善助
統天事件に巻添えを食う
昭和十年

(一)
・・・
統天熟事件で未決にはいっていた渋川善助は、
相沢事件の直前に保釈になっていた。
統天事件というのは、
高樹町の郵便局を襲ったギャング事件である。
これの一味容疑者として渋川は収監されたのだった。
容疑は一味の使った拳銃のことからである。
それを前に一度、渋川が分解手入をしてやったことがあった。
兵器のことなら昔とったきねづか。
錆ついている拳銃をみて、つい渋川はテを出し、分解手入をしてやった。
余計にことに、そのことを調べのときしゃべったものがいて、渋川は収監されたのだった。
ただ拳銃の分解手入をしてやったことがあるだけで、
ギャング事件そのものには、渋川は全然無関係だった。
が事件の性質が性質だけに、この収監を渋川は非常に残念がった。
保釈は渋川に好意を持っていた担当検事が転任を機会に、その手続をしてくれたのである。
それが相沢事件の直前だった。
休養するひまもなく渋川は福山に飛び、相沢中佐の留守宅の面倒をみた。

・・・末松太平 著 
私の昭和史  から


(ニ)
ジリジリするような暑い日であった。
鈴木款、藤村又彦らを首謀とする青山高樹町郵便局襲撃のギャング事件が起きたのは、
約二か月まえの六月二十日であった。
運動資金獲得のため郵便局を襲ったものの未遂に終わった。
バッとしない事件だ。
渋川はこの事件にまきぞえを食って逮捕されていたが、出所したことはまだ私はしらなかった。
「 ヤァ、ご苦労さま、いつ出たんだ 」
「 たったいま出たばかりです 」
渋川の顔には少し衰えが見えた。
「 貴様があの事件に関係があったなんて、どうしても考えられんが、引っぱられた理由は何だ・・・・?」
渋川の説明は次のようであった。
さる三月ごろであった。
藤村又彦の統天熟に行ったときであった。
たまたま藤村が拳銃をいじっていた。
よく見るとだいぶ錆ついていたので、渋川は陸士時代の優等生ぶりと世話好きぶりを発揮して、
分解し手入れをしてやった。
ただそれだけのことであった。
藤村らが逮捕され、取調が進んで、いよいよ拳銃の出所を追求されたとき、
藤村は返答に窮して、渋川からもらったと嘘をついてしまった。
そのため約二ヶ月渋川は拘留されてしまった。
だが検事は、渋川の誠実と藤村の虚言を認めて、今日の出所となったわけだ。
「 奴らは卑怯です 」
と、日ごろ温厚な渋川がこんなに激昂した姿を私はまだ見たことがないほど、
彼は心の奥底から憤っていた。

・・・大蔵栄一著 
ニ ・ニ六事件への挽歌  渋川と郵便局ギャング事件 から


澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕

2021年11月03日 13時51分50秒 | 澁川善助

澁川善助   西田税 
拝啓仕候、
鬱陶しき候と相成候処、御全家様御變りはいらせられず候や、
降りて迂生相變らず頑鈍不屈に罷在候。
豫審は今月初め正味一週間ばかりにて調書相濟み候が、
「 後日また調べる 」 とのことにて候ひき、
檢事の話にては間もなく保釋にでもなりさうに受取られ候ひしが、
豫審も撿事調同様、今度の事と直接關係なき事柄にて終始しながら、
更に後日の調有之由に候へば、まだまだ時日を要するものと被存候。
接見禁止も未だ解かれず候、
昨秋第一回の警視廳取調べの後、一ケ月近く何の事もなく
修行に精進罷在しを 十月半より殊更に拘禁して、證拠湮滅の虞あるによりとは、
ちと迎山過ぎて恐入り候へども之も法規とあれば致方なきことながら、
且は大方の恩顧にも背き 且は諸方への義理をも欠き、
而も何にかにと御厄介のみ相かけ 誠に申譯なく 恐縮の至に存居候
然しながら、先の見え透えたることに候へば、
乍恐、もう暫くの静養御許しを願ひ、旁旁またなき體験を十二分に活用仕る覺悟に有之候間
何とぞ御怒被成下度將又御休神被成下度奉懇願候。
過日社詩を繙ひもとき、
「 同元使君春陵行并序 」 を見、更に 「元次山の春陵行 」 に至り
詠嘆之を久うし申候。
北問題好転の様子、喜び居候。
欧州の風雲、米國の關心、囹圄の中にも亦興味以上のものを感ぜしめられ候
時節柄一人御自愛の程奉祈上候
恐々頓首
頑魯生
六月丗日
大祓の日

〔 ペン書。封緘葉書。表、渋谷区千駄ヶ谷四八三  西田税様侍史  裏、中野区新井町三三六  澁川善助
六月丗日認。郵便消印 10 ・7 ・4 〕

現代史資料23  国家主義運動3  から


澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕

2021年11月02日 13時10分39秒 | 澁川善助

澁川善助  →   西田税 
粛啓仕候
初夏溌剌之候 弥弥御雄健に被爲人候御事と奉恐察候、
過日は過分の御差入を賜り 又 荊妻儀色々御厄介に相成候由 有難く御礼申上候、
以御蔭 私儀相変らず頑健に罷在候、
檢事の取調は先月下旬約一週間にて終了、本日一日より予審開始せられ候、
檢事の調は本件に関する部分は極く僅にて大部分は從來の經歴其他にて候ひき。
豫審には裁判所迄出廷仕候爲め久しぶりにて、俗界の風光を眺め申候。
豫審には勧持品を色讀せしめられ居り候、
佛神照覧炳乎、
何とぞ御安心被成下度願上候。」

太平には見舞を出し置き候が最早全快と存候。
小生何としてかチブス菌となりて彼を悩ましに罷まかり候べき、
冤罪慨嘆に不堪候阿々。
勇士佳人をして結婚の半歳を味はしむべき天意とこそ被存申候。
少し萬葉集の相聞歌でも讀ませ度ものに御座候 」

高橋亀吉著 經濟論の革命時代 ( 千倉書房 ) は、
國家理想追及の見地よりは未だ到らざるものに候へども
經濟界の實情に即して現在及將來の動向を指摘せるものとして、
確に情勢の理解に資し得べき明快なる一書と存候、
未だ旧時代の観念を脱し得ずある人には一讀せしめ度ものに御座候 」

先は御礼旁旁近況御報告申上度如斯御座候
何とぞ皆々様に宜しく御鳳聲の程奉懇願候    恐々頓首
六月三日認

〔 ペン書。封緘葉書。表、渋谷区千駄ヶ谷四八三  西田税様侍史  裏、中野区新井町三三六  澁川善助
六月三日認。郵便消印 10 ・6 ・10 〕

現代史資料23  国家主義運動3  から


澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕

2021年11月01日 09時05分10秒 | 澁川善助

澁川善助  →   西田税 
拝復仕候、
収監以來數々の御厚情、今更に擧げて得數へず、謝して得盡さざる所、
ペンを 擬するも憤々悱々述ぶるに辭なし、
是非混濁奇々怪々の折柄、
あらぬ御迷惑もやと打絶えて御無音に罷まかり過し候処、却て雲箋を賜はる、
再讀三読感佩 此の事に御座候

皆々様 弥弥御清穆に被爲人候御趣、
幽閉無能爲の者には是れ承はるが 何よりの悦に有之候乍此上御雄健の程奉祈上候

以御蔭 小生終始至つて頑健に消光罷在り 何不自由なき安楽を相濟まず存居候、
菩提心を発して後は縦ひ六趣四生に輪轉すと雖も 其輪轉の因縁皆菩提の行願となるなり、
と。
全く此度の如きは、御話にもならぬ馬鹿馬鹿しきとばツちりにて、の
當所に參りし當座等胸中鼎かなえの沸く如く、
見聞触知悉く憤悶の種となり狂熱に寝ね兼ねし夜も幾夜か候ひしが、
---不修練未熟、我ながら恥かしき次第、---
一心定まれば却て是れ道場、
其後は只管、他日を期して密々に精修罷在候間乍憚御放念被成下度願上候。
( 食事は官給の麦飯の方 却て腹具合宜しく
書籍も道場より屢屢差入有之 又小遣も十二分に戴き居り、
此の多事多端の際に恰あたかも休暇を得たるが如くに有難く 相濟まず存居る次第に有
之候へば 何とぞ御休神被遊度奉懇願候 )

山巍々水悠々    有人生任生死
花落紛月出皎    歓復快願無窮

時は彼岸の好季節。
心中閑事の無くんば 是れ人生の好時節と。
借問す三百六十五、何れか好日ならざる、
憂患絶えざる底還つて是れ丈夫の好時節。

此の廿七日は、國際聯盟脱退効力發生の日、
大した波瀾も無ささうに被存候が如何。
議會も不日閉會、幾か程の収穫の候ひしや。
彼岸の後半は雪また雨。
日支親善に毛唐の横槍は風か嵐か。
言や 善し 「 光陰莫虚度 」 と、
幽因光陰の遅々を嘆ずるは過にて候か。
取調は未だ始まらず候。

大方諸賢に宜しく御鳳声奉懇願候。
恐々不尽
三月廿四日  午刻
 

〔 ペン書。封緘葉書。表、渋谷区千駄ヶ谷四八三西田税様侍史。裏、中野区新井町三三六  澁川善助
三月廿四日。郵便消印 10 ・8 ・29 〕

現代史資料23  国家主義運動3  から


澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

2020年04月16日 15時06分19秒 | 澁川善助


澁川善助
「 本事件ニ參加スルニ至リシ事情竝ニ爾後ノ所感念願 」
豫審中の昭和11年4月8日付で提出した手記
本事件の意義
國ノ亂ルゝヤ匹夫猶責アリ。
況ンヤ至尊ノ股肱トシテ力ヲ國家ノ保護ニ盡シ、我國ノ創生ヲシテ永ク太平ノ福ヲ受ケシメ、
我國ノ威烈ヲシテ大ニ世界ノ光華タラシムベキ重責アル軍人ニ於テヲヤ。
『 朕カ國家ヲ保護シテ上天ノ惠ニ應シ祖宗ノ恩ニ報ヒマイラスル事ヲ得ルモ得サルモ
 汝等軍人カ其職を盡スト盡サ ゝルト由ルソカシ 』
ト深クモ望ませ給ふ 大御心ニ副ヒ奉ルベキモノヲ、奸臣下情ヲ上達セシメズ、
赤子萬民永ク特權閥族ノ政治的、經濟的、法制的、權力的桎梏下ニ呻吟スル現實ヲモ、
國威ニ失墜セントシツツアル危機ヲモ、「 大命ナクバ動カズ 」 ト傍観シテ何ノ忠節ゾヤ。
古來諫爭ヲ求メ給ヒシ御詔勅アリ。
大御心ハ萬世一貫ナリト雖モ、今日下赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ、上聞に達セズ、如何トモスベカラズ。
此ノ奸臣閥族ヲサン除シテ 大御稜威ヲ内外ニ普カラシムル 是レ股肱ノ本分ニアラズシテ何ゾヤ。
實ニ是レ現役軍人ニシテ始メテ可能ナルニ、今日ノ如キ内外ノ危機ニ臨ミテモ、頭首ノ命令ナクバ動キ得ザル股肱、
危険ニ際シテモ反射運動ヲ營ミ得ズ 一々頭脳ノ判断ヲ仰ガザルベカラザル手脚ハ、
身體ヲ保護スベク健全ナル手脚ニ非ズ。
此ノ故コソ、『 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 』 ト詔イシナレ。
億兆を安撫シテ國威ヲ宣揚セントシ給フハ古今不易ノ 大御心ナリ。
股肱タルモノ、此ノ大御心ヲ奉戴シテ國家ヲ保護スベキ絶對ノ責任アリ。
今ヤ未曾有ノ危局ニ直面シツツ、大御心ハ奸臣閥族ニ蔽ワレテ通達セズ。
意見具申モ中途ニ阻マレテ通ゼズ。
萬策効無ク、唯ダ挺身出撃、万惡ノ根元斬除スルノ一途アルノミ。
須ラク以テ中外ニ 大御心ヲ徹底シ、億兆安堵、國威宣揚ノ道ヲ開カザルベカラズト。
今回ノ事件ハ實ニ斯ノ如クニシテ發起シタルモノナリト信ズ。
叙土世界ノ大勢、國内ノ情勢ヲ明察セラレアレバ、本事件ノ原因動機ハ自ラ明カニシテ、
「 蹶起趣意書 」 モ亦自ラ理解セラル ゝ所ナルベシ。
吾人ガ本事件ニ参加シタル原因動機モ亦、以上述ベシ所ニ他ナラズ。
臣子ノ道ヲ同ウシ、報國ノ大義相協ヒタル同志ト共ニ、御維新ノ翼賛ニ微力ヲ致サントシタルモノニシテ、
斷ジテ檢察官ノ豫審請求理由ノ如キモノニハ非ザルナリ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

『 豫審請求 』
昭和11年3月8日、
檢察官陸軍法務官匂坂春平が陸軍大臣川島義之に対し 『 捜査報告書進達 』 を為し、

豫審を請求するべきものと思料するとした。
同日、匂坂春平から豫審官に対して 『 豫審請求 』 が提出された。
犯罪事實
被告人等は我國現下の情勢を目して重臣、軍閥、財閥、官僚、政黨等が國體の本義を忘れ
私權自恣、苟且とう安を事とし國政を紊り 國威を失墜せしめ、
爲に内外共に眞に重大危局に直面せるものと斷じて、速に政治竝經濟機構を變革し 庶政を更新せんことを企圖し、
屢々各所に會合して之が實行に關する計畫を進め 相團結して私に兵力を用い
内閣總理大臣邸等を襲撃し 内閣總理大臣岡田啓介、其の他の重臣、顯官を殺害し、
武力を以て枢要中央官廳等を占拠し、公然國權に反抗すると共に、
帝都を動亂化せしめて之を戒嚴令下に導き、其の意圖せんことを謀り、
昭和十一年二月二十六日午前五時を期して事を擧ぐるに決し、各自の任務部署を定めたり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

世界ノ大勢ト皇國ノ使命、當面ノ急務
今日人類文明ノ進展ハ、東西兩洋ノ文化ガ融合棄揚セラレテ、
世界的新文明ノ樹立セラルベキ機運ニ際會シ、而シテ之ガ根幹中核ヲ爲スベキ使命ハ嚴トシテ皇國ニ存ス。
即チ遠ク肇國ノ神勅、建國ノ大詔ニ因由アリ、
歴史ノ進展ト伴ニ東洋文化ノ眞髄ヲ培養シ、幕末以来西洋文化ノ精粋ヲ輸入吸収シ、機縁漸ク成熟シ來レルモノ、
今ヤ一切ノ残滓ヲ清掃シ、世界的新文明ヲ建立シ、
建國ノ大理想實現ノ一段階ヲ進ムベク、既ニ其序幕ハ、満州建國、國際連盟脱退、軍縮條約廢棄等ニ終レリ。
『 世界新文明ノ内容ハ茲ニ細論セズ。
 維新セラレタル皇國ノ法爾自然ノ發展ニヨリ建立セラルベキモノ、
宗教・哲學・倫理・諸科學ヲ一貫セル指導原理、
政治・經濟・文教・軍事・外交・諸制百般ヲ一貫セル國体原理ヲ基調トスル
齊世度世ノ方策ノ世界的開展ニ随ツテ精華ヲ聞クベシ。』
而モ、列強ハ弱肉強食ノ個人主義、自由主義、資本主義的世界制覇乃至ハ
同ジク利己小我ニ發スル權力主義、獨裁主義、共産主義的世界統一ノ方策ニ基キテ、
日本ノ國是ヲ破砕阻止スベク萬般ノ準備ニ汲々タリ。
皇國ノ當面ノ急務ハ、國内ニ充塞シテ國体ヲ埋没シ、大御心ヲ歪曲シ奉リ、民生ヲ残賊シ、
以テ皇運ヲ式微セシメツアル旧弊陋廃ヲ一掃シ、
建國ノ大國是、明治維新ノ大精神ヲ奉ジテ上下一心、世界的破邪顕正ノ聖戰ヲ戰イ捷チ、
四海ノ億兆ヲ安撫スベク、有形無形一切ノ態勢ヲ整備スルニアリ。
現代ニ生ヲ享ケタル皇國々民ハ須ラク、茲ニ粛絶荘厳ナル世界的使命ニ奮起セザルベカラズ。
此ノ使命ニ立チテノミ行動モ生活モ意義アリ。
私欲ヲ放下シテ古今東西ヲ通観セバ自ラ茲ニ覺醒承當スベキナリ。

國内ノ情勢
顧レバ國内ハ欧米輸入文化ノ餘弊―個人主義、自由主義ニ立脚セル制度機構ノ餘弊漸ク累積シ、
此ノ制度機構ヲ渇仰導入シ之ニ依存シテ其權勢ヲ扶植シ來リ、
其地位ヲ維持シツアル階層ハ恰モ横雲ノ如ク、仁慈ノ 大御心ヲ遮リテ下萬民ニ徹底セシメズ、
下赤子ノ實情ヲ 御上ニ通達セシメズシテ、内ハ國民其堵ニ安ンズル能ハズ、
往々不逞ノ徒輩ヲスラ生ジ、外ハ欧米ニ追随シテ屡々國威ヲ失墜セントス。
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キハ紘ヲ掩イテ宇ト爲サン 』
 ト宣シ給エル建國ノ大詔モ、
『 萬里ノ波濤ヲ拓開シ四海ノ億兆ヲ安撫セン 』
 ト詔イシ維新ノ 御宸翰モ、
『 天下一人其所ヲ得ザルモノアラバ是朕ガ罪ナレバ 』
 ト仰セヒシモ、
『 罪シアラバ、我ヲ咎メヨ 天津神民ハ我身ノ生ミシ子ナレバ 』
 トノ 御製モ、殆ド形容詞視セラレタルカ。
殊ニ軍人ニハ、
『 汝等皆其職ヲ守リ朕ト一心ナリテ力ヲ國家ノ保護ニ盡サバ
 我國ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我國ノ威烈ハ大ニ世界ノ光華トモナリヌベシ 』
 ト望マセ給ヒシモ、現に我國ノ蒼生ハ窮苦ニ喘ギ、我國ノ威烈ハ亜細亜ノ民ヲスラ怨嗟セシメツ ゝアリ。
是レ軍人亦宇内ノ大勢ニ鑑ミズ時世ノ進運ニ伴ハズ、
政治ノ云爲ニ拘泥シ、世論ノ是非ニ迷惑シ、報國盡忠ノ大義ヲ忽苟ニシアルガ故ニ他ナラズ。
斯ノ如キハ皆是レ畏クモ 至尊ノ御式微ナリ。
蒼生を困窮セシメテ何ゾ宝祚ノ御隆昌アランヤ。
内ニ奉戴ノ至誠ナキ外形ノミノ尊崇ハ斷ジテ忠節ニ非ズ。
君臣父子ノ如キ至情ヲ没却セル尊厳ハ實ニ是レ非常ノ危険ヲ胚胎セシメ奉ルモノナリ。
政治ノ腐敗、經濟ノ不均衡、文教ノ弛緩、外交ノ失敗、軍備ノ不整等其事ヨリモ、
斯ノ如キ情態ヲ危機ト覺ラザル、知リテ奮起セザルコソ、更ニ危險ナリ。
現ニ蘇・英・米・支・其他列國ガ、如何カシテ日本ノ方圖ヲ覆滅セント、孜々トシテ準備畫策ニ努メツ ゝアルトキ、
我國ガ現狀ノ趨く儘ニ推移センカ、建國ノ大理想モ國史ノ成跡モ忽チニシテ一空ニ歸シ去ルベシ。
・・・以上、手記から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『 我國ノ軍隊ハ、世々 天皇ノ統率シ給フ所ニソアル。
昔 神武天皇、躬ツカラ大伴物部ノ兵トモヲ率キ、

中國
( ナカツクニ ) ノ マツロハヌモノトモヲ討チ平ゲ給ヒ 
高御座ニ即カセラレテ天下シロシメシ給ヒシヨリ、二千五百有餘年ヲ經ス。

此間世ノ様ノ移リ換ルニ随ヒテ、兵制ノ沿革モ亦屢々ナリキ。
古ハ 天皇躬ツカラ軍隊ヲ率ヒ給フ御制ニテ、時アリテハ、皇后皇太子ノ代ラセ給フコトモアリツレト、
大凡兵權ヲ臣下ニ委ネ給フコトナカリキ 』
『 夫れ兵馬ノ 大權ハ、 朕カ統フル所ナレハ、其司々ヲコソ臣下ニ任スナレ、
其ノ大綱ハ朕親之を攬り、肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス 』
『 朕ハ汝等軍人ノ 大元帥ナルソ、
サレハ 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ、汝等ハ 朕ヲ頭首ト仰キテソ、其親ハ特ニ深カルヘキ。
朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ應シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマキラスル事ヲ得ルモ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡サルトニ由ルソカシ。
我國ノ稜威振ハサレコトアラハ、汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、
我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ、 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ盡サハ、
我國ノ創生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光輝トモナリヌヘシ 』
皇軍の本義
「 陸海軍々人ニ賜リタル御勅諭 」  明治十五年一月四日

即ち 『天皇親率ノ下』 「朕ト一心ニナリテ」 『皇基を恢弘シ國威ヲ宣揚スル』 こと、之皇軍の本たり。
処でここに注意を喚起しておかなければならぬことは、
皇軍が 『 天皇親率ノ下 』 に在るの大權は、
斷じて憲法第十一條の 『 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 』 なる 統帥大權の定めあるに基けるに非ず。
憲法十一條の該規定は、却って皇軍の在るべき本義を法的に御宣示し給へるに過ぎざるものなり。
皇軍は憲法にその規定があらうがなからうが來的に 「 天皇親率ノ下」 に在るの軍隊である、
といふことを明確に理解すべきことである。
何となれば、皇軍は、その本質を根本的に究きつめれば、
畏こくも 「 修理個成 」 な御実践、御まつらひ給ふ 陛下の御稜威そのものなればなり。
「 朕ト一心ニナリテ 」 が不動絶對皇國軍人の根本精神で、
「 一將一兵の進止は、即ち 「 股肱 」 おのもおのもがそれぞれの地位立場より 
大元帥陛下にまつろひ志嚮歸一する 「 朕ト一心ニナリテ 」 であり、
あらねばならぬを本義するは、別言を以てせば一將一兵の進止そのものが即 大元帥陛下の御進止、
御稜威であり、あらねばならぬを本義とするは、實に然るが故の必然事である。
而して、ここに 「 上官ノ命ヲ承ルコト實ニ直ニ 朕か命ヲ承ルナリト心得ヨ 」 との大御論の大生命である。
かくて又ここに皇軍の 「 上元帥ヨリ下一卒ニ至ルマテ其間に官職ノ階級アリテ従属スル 」 
は、威壓支配のためのものに非ずして 「 股肱 」 おのもおのもの。
大元帥陛下に まつろひ 志嚮歸一し奉るの體制であり、命令服從は、
その實、即ち 「 國民はひとつ心にまもりけり遠つみおやの神のをしへを 」 なる 「 一ノ誠心 」
上下一体の まつろひ のものたるの所似があるのである。
* 以上の義よりにして、「 軍制學教程 」 第四章--統帥權の條章中に述べられてゐる。
「 天皇に直隷スル指揮官ノ部下ニ在ル各級ノ指揮官ハ各々其部下ヲ統率シ間接ニ、
大元帥ニ隷属ス、統帥權作用ノ系統右ノ如クナルヲ以テ上官ノ命令ハ即チ
大命ヲ代表スル モノニシテ絶對服従ヲ 要求 ス 」 といふ点は最だ不徹底、
特に傍点を附した點の表現は、寧ろ皇軍の本義を歪曲せるものといふべきなり。
之を要するに皇軍の生命は、 天皇の御親帥 「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」 そのものである。
故に従ってこの大義の--世上伝ふる偕上民主幕府的統帥大權の非議は、即皇軍そのものの否認であり、
この大義に徹せず皇軍の統帥を謂ふは、恐懼皇軍の統制を私にする 御親帥本義の冒瀆である。
以上以て職るべし、現人神にして天下億兆の 大御親にまします 「 天皇親率ノ下 」
「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス 」 る、
即ち皇國體の眞姿--一君萬民、君民一體の大家族體國家上大御親、絶對、下萬民赤子、平等、
其処には一物一民も私有支配する私なく、從って天下億兆皆其処を得、
萬民一魂一體只管に 君が御稜威の弥榮を仰ぎまつろひ志嚮歸一する皇國体の本義を愈々明徴にし、
皇國を在るべき本來の世界民生の 「 光華 」 「 國といふふくのかがみ 」 世界の 御父帥表國たらしめ、
八紘一宇、世界修理固成の神業に直進するを、その本分となす皇軍は、正に之れ神軍たり。
* 斷じて皇軍は、かの共産主義共の云ふ、
或る階級的支配のための階級軍に非らざるは勿論、「 國民の軍隊 」 ともいふべきものに非ずして、
絶對に天下億兆の大御親にまします全體者 「 天皇の軍隊 」 である。
故に又皇國には、「 武士トモノ棟梁 」、「 軍閥 」 の在る可からざるは勿論、
嚴密には今日一般に謂はれてゐる 「 軍部 」 なるものの在ることなし。
皇軍の本義、本質たるや即ち斯の如しである。

・・・
皇魂 2


澁川善助の士官学校退校理由

2017年12月02日 04時52分18秒 | 澁川善助

大正十四年三月
士官候補生として若松二十九聯隊に配属になった。
卒業直前の昭和二年、
澁川は上官と衝突して退校に処せられた。

澁川善助
そのいきさつ
陸軍士官学校で一般教育学の講義をしていた教官に、大村挂厳 ( 後に大正大学学長 ) が いた。
この課目には試験がなかったので他の者は適当に聞き流していたが、
澁川は一人ひどく熱心であった。
あるとき
大村教官が、教育者として具えるべき条件として たいへん厳格な諸箇条を列挙したことがある。
これに感激したのであろう。
澁川は、
その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だ、と 批判したのである。
これが上司に見つかって俄然問題化した。
ところが、澁川はガンとして自説を撤回せず、
とうとう 重謹慎三〇日 ( 軟禁状態で三〇日をすごす )
という、退学をのぞけば最も重い罰に処せられた。
それが解けた日、
悪かったと認めるかどうかの問答が上司との間に交わされた。
だがしかし、いぜんとして澁川は譲らなかった。
それで 再び重謹慎三〇日を言い渡された。
こうして、問題は同期生の間にも拡がっていった。
一部の同期生がこれに同情し同盟休校をしよう、という話になる。
そして、話のけりを末松太平のところへ持っていったのである。
もともと、陸士三十九期生の中に 「 革新 」 思想--北・西田との出会いを持込んだのは、
末松であった。( 大岸頼好の紹介による )
末松が、同期の森本赳夫や草地貞吾などを西田 ・北に会せたところ、
森本はひどく熱をあげた。
森本は、せっせと北、西田通いに励み、「 この男は」 と思う同期生を何人か連れていっては、
北、西田に会せもした。
そのなかには 高村経人、松田き喜久馬、生駒正幸、尾花義正などがいたであろう。
澁川善助もそのひとりであった。
しかも、森本は末松を立てたので、末松はいつのまにか同期生 「 各新党 」 の 首領株になった、という。
この期こそ、特に西田 にとって力強いものであったか、
「 北さんは日本の革命は諦めていたが、君等の出現によって考え直すようになった 」
と、度々述懐していた 西田である。
事実、西田の 『 天剣党規約 』 の、同士録には、現役軍人四七名のうち、
三十九期生は十八名にのぼっている。
がんらい優等生で周囲に取巻きというか ファンをいつも引き連れていた澁川の心のうちに、
いつしか、この 首領 に実行力を誇示したいという気持が芽生えた。
森本は、冷たく局外にいる末松に対し、
「 何か言ってやれ、澁川はお前のことを意識して頑張っているのだぞ 」
と 言った。
だが、末松が忠告したときにはもう手遅れであった。
二度の重謹慎に同情した赤松良太が日記にその真情を細々と記し、
当局に探知されていたからである。
赤松は、ルソーの 『 エミール 』 などを枕読する 軟派中の軟派
として
かねて当局に目をつけられており、処分を受けたこともある人物だった。
澁川の後ろには軟派がいる、ということであっさり退校処分が決定した、と言われている。
最終的に決済するのは校長であるが、
これが一般教養の造脂も深いと当時自他ともに許していた眞崎甚三郎であった。
そのプライドが傷つけられたというのも一因ではなかったか、と 推定されている。
退校問題があって居づらくなったであろうか、大村も亦間もなく教官を辞した。

このような経過があって後
昭和二年夏、
末松と澁川は 「 革新党 」 同志として 無二の親友 になったのである。
中退した澁川は第一高等学校の試験に合格するが内申書不良で落され、
明治大学法科に入学した。
昭和二年、年四月のことである。

昭和九年、青森歩兵第五連隊 テニスコートで
末松などの青年将校たちは、
天剣党事件を機に西田に一種愛想づかしをしてこれから離れ、
末松は青森グループとしていっそう自立的な方向性を模索し始めていった。
他方、民間の中に追われた澁川の心は、
同じ軌跡をたどったという事情も手伝ってか 西田にいっそう傾斜していったのである。
・・・二・二六と青年将校

塩釜につくと先に塩竈神社に詣った。
髙い石段を上がって行くと、上の方から将校の一団が下りてきた。
同期生の航空兵の将校たちだった。
仙台の練兵場を基地に飛行訓練にきているといっていた。
澁川とも互いに久濶を叙していたが、
かつての同期生きっての秀才澁川の西田税よりお古拝領の背広姿と、
これにむきあっている、その他大勢組の軍服姿の一団をながめていて、
なんとなく 澁川をあわれに思った。
・・・末松太平著 私の昭和史


澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」

2017年12月01日 04時43分28秒 | 澁川善助

大正十四年三月、
陸軍士官学校予科を
恩賜の銀時計を拝受して卒業した澁川善助は、
その卒業時に、
皇太子 ( 昭和天皇 ) の御臨席を仰いで
「 日露戦争の世界的影響 」
と 題する
御前講演を行っている。

澁川善助
謹んで
「 日露戰役の世界的影響 」
に ついて申上げます。
日露戰役は、
實に 二十億に近い戰費と、百万の兵員とを以て
國家の生存の爲に國力を傾けての大戰爭でございまして、
當時の日本にとっては 寔まことに尠すくなからぬ負担でありました。
又、東洋諸國には申すまでもなく、
西洋までも政治上に、外交上に、思想上に、
將又はたまた軍事上に 及ぼした影響は意想外に大きなものでありました。
それにも拘らず、
當の日本人が比較的之等の點に想ひ至ることの寡すくないのを
遺憾に思ふ次第でございます。
此の戰役は、日本自身に對しましても、
政治上、社会上、思想上、其の他種々の方面に
多大の影響を与へて居るのでございますが、
それは此ここには省はぶきまして、
唯 諸外國に及ぼしました軍事方面意外の影響のみを概略述べて見ようと思ひます。

第一には、
立憲運動であります。
弱小なる一寸法師が巨大な北極鬼を斃した理由は、
日本が立憲國でありまするに反し、
露西亜がまだ専制國であつたからであると考へられまして、
随所に立憲運動の流行を見たのでございます。
隣國支那に於きましては、
日清戰役後既に立憲運動の萌きざしを見たのでありましたが、
此に及んで政府が進んで憲政の調査に着手し、
明治三十九年、即ち一九〇六年には、將來 國家を開くべきことを宣言致しました。
波斯ペルシャに於きましては、
進歩主義の人々がその運動に功を奏しまして、
一九〇六年に新憲法が布かれたのでありました。
土耳古トルコに於きましても、
日露戰役前から憲政問題の爲に國内汾亂勝がちに見えましたが、
一九〇八年に至って遂に立憲政體が成立し、
更に青年 「トルコ」 党内閣すら出現したのでありまして、
此にも日露戰役の影響を認むるのでございます。
敵國露西亜に對しましては重大な變動を与へました。
即ち 戰役半ばには既に立憲運動が起り、
色々な不祥事を惹き起しました結果、
遂に國會即ち 「デューマ 」 の開設となったのでございます。

第二には、
國民的運動であります。
白色人種に抑壓されて居りました有色人種が、
此の戰役後、その國民的運動を非常に深めた感があるのであります。
印度、埃及エジプト、アフガニスタン等がそれでございます。
日露戰役は、啻ただに日本が露西亜の侵略を制止したるのみならず、
又、東洋に侵入せる白人勢力打破の烽火であるとも申すことが出來まして、
亜細亜開放の戰役に外ならぬのでございました。

第三に申上げますのは、
世界外交史上に及ぼした影響であります。
先づ指を屈すべきは日英同盟であります。
此の同盟は防禦同盟から攻守同盟に改まり、
その包合する範囲も印度にまで擴がりまして、最も高潮に達したのでございます。
次は英露の接近であります。
此は正まさしく欧州外交上に於ける一大變動であると思はれます。
從って英露佛の三國協商が成立致しまして、独墺伊の三國同盟に對抗する有様となりました。
次は独墺兩國の活躍であります。
「 カイゼル 」 ウィルヘルム二世は、奉天大会戰の結果が知れまするや否や、
直ちに軍艦に搭じて佛蘭西の勢力範囲なるモロッコに至りて、
その君主を籠絡して第一回モロッコ事件を惹き起したのであります。
蓋し 「カイゼル 」 は、
露西亜が同盟國佛蘭西の爲に立つこと能はざるを見まして、
かくの如き強硬な對佛政策に出たのでありました。
又、バルカンに於て常に露西亜と相爭って居りました墺太利は、
露西亜の頽勢たいせいに乗じ非常に活動し始めまして、
日露戰役の數年前から軍事的占領をして居りました所の
土耳古トルコ領ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言するに至りましたるも、
此に機械を促へたものでございました。

第四には、
統治者と國民との關係が自然であって、
殊に國民が熱誠な忠義心を以て統治者に仕へ奉ることは、
戰爭の勝利を期する所以で、
又、健全なる國家を作る大原因であると云ふことを知らせたことであります。
之が爲、外人の武士道を研究するものが段々増加しました。
乃木大將の事蹟等も、往々外國の著者に引用せられることとなりました。
又、日本の國運の發展につれて、
欧羅巴の或る極端なる學者は、日本の膨脹を阻止するが爲には、
統治と國民とを疎隔することに注意しなければならぬ、
と 發表して居るものさへも出て來ました。

以上は日露戰役の世界的影響の、
主として政治、外交、思想方面に關する概要でございます。
今や日本の思想界は兎角動揺致しまして、頗る憂慮すべきものがあります。
此の時に当つて、
日本國民が未曾有の眞劍を以て
君國の御爲めに戰ひました日露戰役
並びその世界に及ぼしたる影響を想ひますれば、
うたた感慨の情 切なるものがあるのでございます。
此れにて講演を終へます。