あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

道程 ( みちのり ) 3 みちのり ( 昭和8年、9年 )

2021年06月13日 05時19分10秒 | 道程 ( みちのり )


道程 ( みちのり ) 3
みちのり ( 昭和8年、9年 )

前頁 ( 昭和元年~昭和 7年 )  の続き

昭和8年 ( 1933年 )
1月  竹嶌継夫中尉、満洲より帰還 松平大尉、植田大尉と共に皇道維新塾を造る・・・村中、磯部、澁川との出逢い
1月1日  山口大尉、陸軍省へ荒木貞夫大将を訪ねる ・・・昭和八年元旦 
1月30日  ヒトラー、政権をとる
2月10日  相澤中佐、同志遠藤幸道大尉の慰霊祭に参加す ・・・中佐の片影・其二 『 如何としても忘れることの出来ないありがたいお方 』 
2月24日  国際聯盟脱退
3月  磯部、陸軍経理学校を卒業 二等主計になり原隊の朝鮮大邱第八十聯隊に帰還
3月28日  佐藤正三、西田税を初訪問 ・・澁川善助、對馬勝雄が居合わす
4月16日  澁川善助、渡満す
5月  佐々木二郎中尉、歩兵学校へ派遣  北一輝と会う ・・・大佐殿は満州事変という糞をたれた 
この頃・・・澁川善助、菅波三郎、『 在満決行計畫大綱 』 作成す
6月半ば  相澤中佐、北一輝宅へ  大蔵栄一も ・・・「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」
7月10日  神兵隊事件摘発
盛夏頃  青山三丁目のアジトに 村中、香田、安藤、磯部、栗原、大蔵、集う ・・・もう待ちきれん 
8月  磯部、近衛歩兵第四聯隊附に
9月10日  荒木陸相、高橋蔵相に重大提言
11月6日  幕僚と青年将校、九段上の富士見荘での会合 ・・・「 軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか 」 
11月13日  救国埼玉埼玉挺身隊事件 ・・・栗原中尉 ・ 救國埼玉挺身隊事件 
11月16日  幕僚と青年将校、偕行社での会合 ・・・「 軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか 」 
 福井特別大演習
11月末頃  西田税、池田純久少佐と激論 ・・・統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 
12月  相澤中佐、福山歩兵第四十一聯隊へ転任
12月23日 皇太子誕生の号砲・・・磯部浅一、斎戒沐浴する ・・・« 青山三丁目のアジト »
12月27日  林正義元海軍中尉、和歌山の大岸頼好を訪る
12月31日  大岸頼好、東京青山の磯部宅へ ・・・大蔵、安藤、林正義、他 多数集合・・・蹶起を慰留す< 註1 >
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< 註1 >
昭和九年の正月、休暇を利用して、市川 ( 芳男 ) らに約束した通り上京した。
こうして明石 ( 賢二 )、市川と私 ( 黒崎貞明 ) の三人は在京の革新将校の自宅を訪問して、早期の蹶起を要請した。
しかし私たちの意見に賛同してくれたのは栗原中尉ただ一人で、
北一輝、西田税をはじめ、村中孝次、安藤輝三、大蔵栄一、香田清貞らの各大尉は、
いずれも 「 時期尚早、軽挙妄動するな 」 の一点張りでわれわれをなだめるという始末であった。
「 五 ・一五事件の二の舞いでは駄目だ。次にわれわれが何事かをやるとすれば、 それはわれわれの最後のものとなる。
 ただ死ねばよいというものではない。この理が分からなければもはや絶好する以外にはない 」 というのである。
こうなっては取りつくしまもなく、三人はただスゴスゴと原隊に帰る以外にはなかった。
・・・中略・・・
昭和九年の正月、早期決行をうながすため東京の各先輩同志を歴訪した時のことが浮かんでくる。
「 よし。やろう。 捨て石は多数いらぬ。今、革新の必要を叫んで死ぬことは、犬死にになるとは思わぬ」
 と、唯一人賛成してくれたのが栗原中尉。
「 天の時、地の利、時の勢いというものがある。犬死にをしてくれるな 」
 と、涙声とともに諫めてくれたのは安藤大尉。
「 少なくない同志が次々と捨て石になってバラバラになったら、われわれの希求する革新は、ただ狂人の夢となるばかりだ。
 なるほど、明治の維新も幾百幾千の狂人の屍の上に成り立ったことはみとめる。
しかしそれは討幕の旗印を京都から得たからだ。
現在の日本は曲がりなりにも聖明のもとに法治国として存在し、幕府はないのだ。
この時にわれわれの微忠を示すことは至難のことである。
険悪な国防情勢のなかで、一刻も速やかに皇国の真姿を顕現せんと願うわれわれの赤心は、貴公らに決してひけはとらぬ。
死ぬときは一緒だ。
俺は理屈に弱い。 が不退転の決意は誰にも劣らぬと思っている。今のところは、原隊にかえってよい兵を練成してくれ 」
と、抱きしめてくれた村中大尉。
人間の安藤、理論の村中といわれた この二人に説得された私たちは、遂に決行をあきらめた。
その夜は北さんの配慮で、大蔵さんに連れられて神楽坂の料亭で痛飲した。

そして翌日、市川や明石とともにスゴスゴ原隊に帰ったのだった。
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった  ・・・黒崎貞明著  恋闕 から
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昭和9年 ( 1934年 )
正月休み  大岸大尉、上京 大蔵栄一大尉宅へ ・・・大岸頼好の統帥論 

1月11日  水上源一、日本靑年党ヲ設立す ・・十年八月郷軍同志會ヲ設立
1月22日  荒木陸相辞任、林陸相に ・・・林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」
2月8日  大御心 ・・・「 農民亦自ら楽天地あり 」
2月18日  村中大尉、同期生に通信 ・・・村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信 
3月  中橋中尉、豊橋歩兵第十八聯隊に転属、満洲派遣さる
3月  村中孝次、香田、大尉に進級  香田、歩兵第一聯隊第十一中隊長に
3月  相澤中佐、中耳炎で慶應病院入院手術 ・・・相澤中佐の中耳炎さわぎ 
3月  末松太平中尉、満洲より凱旋上京 ・・・「年寄りから、先ですよ」  ・・
改造方案は金科玉条なのか  
3月5日  永田鉄山軍務局長に就任
5月  永田軍務局長、林銑十郎陸軍大臣、朝鮮、満洲を旅行す
7月  長瀬一伍長と安藤中尉、富士裾野の出逢い ・・・長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 
8月  磯部、一等主計 ( 大尉相当 ) に進級  野砲兵第一聯隊附に
10月  末松大尉、千葉の歩兵学校へ学生として派遣さる
 
10月1日  陸軍パンフレット 国防の本義と其強化の提唱 ・・・村中孝次 『 国防の本義と其教化の提唱について 』 
10月6日  林銑十郎陸相、パンフレット問題で釈明す
10月23日  片岡太郎区隊長、武藤与一他三名の候補生に方便
10月24日  辻正信中隊長、佐藤候補生にスパイを指示
10月28日  西田税宅へ 皆が寄る ・・・村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」
11月3日 ( 明治節 )  佐藤、武藤、村中宅へ
11月11日 (日)  佐藤候補生、村中宅へ  方便
 群馬、栃木、埼玉 特別大演習
11月中頃  末松大尉、村中に蹶起の時期を訪ねる ・・・村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」 
11月17日 (土)  新宿宝亭で宴会  ・・・村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」 ・・・栗原中尉と十一月二十日事件 
11月18日 (日) 佐藤候補生、三人の候補生と共に村中宅へ
11月20日  十一月二十日事件 ( 陸軍士官学校事件 )  村中、磯部、片岡、逮捕さる
12月末頃  末松太平大尉、辻正信大尉と面会・・・辻正信大尉 
12月31日 相澤中佐、大岸大尉、末松大尉、仙台へ   ・・・「 永田鉄山のことですか 」 
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  娘身売り 10月                     欠食児童 岩手県笹村11月

左  9月14日岩手県  凶作民 『 六萬余の窮民に衣類足袋を配給 』
右  10月22日 山形娘身売り 1 『 賣られる最上娘 』 

  
左  娘身売り 11月  
娘身売り 2 『 娘を賣る 悲慘な二戸郡 』
右  12月1日   十四娘を賣つた金四十圓の家と化す
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次頁  ( 昭和10年 ) に 続く