あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

38 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一) 1 『 二・二六事件と北・西田の検挙、捜査の概要 』

2016年09月30日 09時06分45秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

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一  はじめに ( ・・・目次頁に 記載 )
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
二 ・二六事件とは、昭和一一年 ( 一九三六年 ) 二月二六日早暁陸軍の下級将校等二十数名が中心となって、
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊及び歩兵第三聯隊の一部兵力など約一、五〇〇名を出動させ、
大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、敎育總監渡邊錠太郎等を殺害し、侍従長鈴木貫太郎等に重傷を負わせた上、
同月二九日までの間 總理大臣官邸、陸軍省、警視庁など
霞が関一隊を占拠して陸軍大臣に政治改革を迫ったクーデター未遂事件をいう。
川島義之陸軍大臣等陸軍首脳部は、事件勃発直後は右往左往して収集能力を失った観さえあったが、
やがて反乱将校に対する天皇の激しい怒りを受けて武力鎮圧を決意し、
戦車二二台を含む約二万三、〇〇〇名の部隊で叛乱軍を包囲し、
一時は両軍一触即発の情態となった。
しかし、二九日に至って反乱軍兵士は次々と帰順して武装解除を受け、
また反乱将校は自決あるいは逮捕されて事件は解決を見た。

北一輝こと北輝次郎は、
明治三八年 ( 一九〇五年 ) 二三歳のとき
大著 『 国体論及び純正社会主義 』 を自費出版して天才とまで賞揚されたが、
やがて中国革命同盟会に入党し、辛亥革命前後の十数年間一身を中国革命の渦中に投じ、
死生の間を往来した。
大正八年 ( 一九一八年 ) 上海において 『 国家改造案原理大綱 』 ( 後に若干の修正を加えた上、
 『 日本改造法案大綱 』 と改めた ) を執筆した後、大川周明に乞われて帰国した。
爾来北は、後に袂を分かった大川と並んで国家社会主義運動の指導者として隠然たる勢力を保った。
もっとも、北が直接青年将校を指導した事実は見当たらないが、
『 日本改造法案大綱 』 は革新的青年将校のバイブルであった。
北は法華経に傾倒し、とくに晩年は読経三昧の日々を送っていた。

西田税は、病身のため陸軍騎兵少尉を退官した後右翼運動に没頭し、北に私淑するようになった。
軍人出身のため青年将校との交際が深く、北から版権を譲渡された 『 日本改造法案大綱 』 の出版 ・頒布などを通じて、
若い将校達に影響力を持っていた。
昭和六年の五 ・一五事件の際には、裏切り者扱いをされて右翼の一青年から拳銃で狙撃され、
五発が命中したが、奇跡的に一命を取り留めた。
入院中の北の親身も及ばぬ介抱ぶりは、西田をしていたく感激せしめ、
爾来両者は親子のような情愛で結ばれていたという。
西田は、二月二〇日頃安藤大尉、栗原中尉等から事件を起すことを告げられ、その頃これを北に伝えた。
両名とも事前に事件の発生を知っていたが、計画に積極的にかかわった事実は見当たらない。
しかし、事件が勃発してからは、両名は電話で栗原等に対して、激励したり、助言を与えるなどの行動をとる一方、
海軍上層部に対して、反乱将校等に有利な事態の収拾を働きかけるなどの工作を行っている。
東京憲兵隊は、北と西田を事件の背後関係者とにらみ、二月二八日午後三時頃北方を襲い、
北の日記などを押収した上、北を憲兵隊に連行した。
・・・(1)
この日記は、後に昭和一一年押第一二号の一として証拠とされている
西田は間一髪で検挙を免れ、逃避行を続けたが、三月四日早朝警視庁係官に検挙された。
この両名の身柄拘束は、刑事訴訟法あるいは陸軍軍法会議法に規定された強制処分によるものではない。
後にみるように、両名に対する勾引状 ・勾留状は四月になって発付されている。
西田は、それまでの青年將校との深い関係から、事件発生により官憲から身柄を拘束されることを恐れ、
二五日夜から自宅を出て北邸などに身を潜ませていたくらいであった。
しかし、北は、自らの身柄拘束は西田の身代わりとしての一時的なものと考えていた節があり、
当初は自己の運命について楽観的であったようである。
・・・(2)
後掲の北の昭和一一年七月三日付第二回予審訊問調書第四問答参照。

三  捜査の概要
1  捜査経過一覧
東京陸軍軍法会議の審判は、起訴に対応して、
第一公判廷が将校班、第二公判廷が下士官班 ( 甲 )、
第三公判廷が同じく下士官班 ( 乙 )、
第四公判廷が兵班、
そして第五公判廷が常人の五つの公判廷に分けて行われた。
また、湯河原の牧野内府襲撃隊の審判は、第四公判廷で、兵班とは別に審理 ・裁判されている。
特設軍法会議である東京陸軍軍法会議設置の経緯、その法的問題点、裁判の進行状況などについては、
拙稿 「 東京陸軍軍法会議についての法的考察 」 を参照されたい。
・・・(1)
『 獨協大学法学部総説二五周年記念論文集 』 ( 一九九二年、第一法規出版 ) 271頁以下
一件記録から窺える北 ・西田の検挙から公訴提起に至るまでの取調ベその他の経緯を年表的に整理してみると、
次のとおりである。
なお、参考のために、東京陸軍軍法会議の発足、反乱将校の裁判経過などかっこ書きで折り込んでみた。
二 ・二八  北、東京憲兵隊に連行 ・留置
( 二 ・二九  反乱将校ら逮捕さる ・事件鎮圧 )
三 ・二  北にたいする東京憲兵隊本部陸軍司法警察官 ( 以下憲兵と記載する ) 第一回聴取書 ( 鈴木磯治郎憲兵曹長 )
・・・(2)
北と西田の憲兵調書は、すでに林茂外編 『 二 ・二六事件秘録 』 第一巻 ( 一九七一年、小学館 ) に収録されている。
本調書は、同275頁にある。以下 「 秘録 」 と略記して引用する。
三 ・三  北に対する憲兵第二回聴取書 ( 福本亀治憲兵少佐 )
・・・(3) 「 秘録 」 第一巻277頁に収録
三 ・四  西田、警視庁に連行 ・留置
( 三 ・四  東京陸軍軍法会議設置に関する昭和一一年緊急勅令第二一号公布 。即日施行 )
三 ・六  北に対する憲兵第三回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(4) 「 秘録 」 第一巻280頁に収録
三 ・八  北に対する憲兵第四回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(5) 「 秘録 」 第一巻283頁に収録
三 ・八  西田に対する警視庁特別高等部特別高等係司法警察官 ( 以下警察官と記載する ) 第一回聴取書 ( 関口照里警部補 )
三 ・九  北に対する検察官第一回聴取書 (竹澤卯一陸軍法務官 )
三 ・九  西田に対する警察官第二回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一〇  西田に対する警察官第三回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一三  北に対する憲兵第五回聴取書 ( 福本亀治憲兵少佐 )
・・・(6) 「 秘録 」 第一巻284頁に収録 
三 ・一五  北に対する憲兵第六回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(7) 「 秘録 」 第一巻289頁に収録 
三 ・一五  北に対する検察官第二回聴取書 (竹澤陸軍法務官 )
三 ・一五  西田、東京憲兵隊に移送
三 ・一六  西田に対する憲兵第一回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(8) 「 秘録 」 第一巻345頁に収録 
三 ・一七  北に対する警察官第一回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一七  西田に対する憲兵第二回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(9) 「 秘録 」 第一巻352頁に収録 
三 ・一八  北に対するの警察官第二回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一八  西田に対する憲兵第三回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(10) 「 秘録 」 第一巻356頁に収録 
三 ・一九  北に対する警察官第三回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・二〇  北に対する警察官第四回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・二〇  西田に対する憲兵第四回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(11) 「 秘録 」 第一巻360頁に収録 
三 ・二一  北に対する警察官第五回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・二二  西田に対する憲兵第五回聴取書 ( 大谷敬二郎憲兵大尉 )
・・・(12) 「 秘録 」 第一巻362頁に収録 
四 ・一一  北、東京憲兵隊に移送
四 ・一一  西田に対する憲兵第六回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(13) 「 秘録 」 第一巻367頁に収録 
四 ・一四  西田、東京陸軍軍法会議検察官に送致
四 ・一四  西田につき、予審官に対して強制処分請求
四 ・一五  北、東京陸軍軍法会議検察官に送致
四 ・一六  西田につき、勾引状執行
四 ・一六  西田に対する予審官訊問調書 ( 新井朋重陸軍法務官 )
四 ・一六  西田につき、勾留状発付 ・執行 ( 勾留場所、東京衛戍刑務所 )
四 ・一七  北につき、予審官に対して強制処分請求
四 ・一七  北につき、勾引状執行
四 ・一七  北に対する予審官訊問調書 ( 津村幹三陸軍法務官 )
四 ・一七  西田につき、勾留状発付 ・執行 ( 勾留場所、東京衛戍刑務所 )
四 ・一七  北に対する憲兵第七回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(14) 「 秘録 」 第一巻294頁に収録 
( 四 ・二八  将校班、第一回公判 )
五 ・四  北 ・西田両名につき、予審請求命令 ( 陸軍大臣寺内壽一 )
五 ・五  北 ・西田両名につき、予審請求 ( 検察官匂坂春平陸軍法務官 )
五 ・二八  西田に対する予審官第一回訊問調書 ( 伊藤章信陸軍法務官 )
六 ・二  西田に対する予審官第二回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
( 六 ・四   将校班、論告 ・求刑 )
( 六 ・五  将校班、結審 )
六 ・六  西田に対する予審官第三回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
六 ・一二  西田に対する予審官第四回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
六 ・二〇  北に対する予審官第一回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
六 ・二六  西田に対する予審官第五回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
七 ・三  北に対する予審官第二回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
( 七 ・五  反乱実行者に対する判決宣告 )
七 ・七  西田に対する予審官第六回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
七 ・九  北に対する予審官第三回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
七 ・九  新井予審官から検察官に対して、北 ・西田の予審終了通知
( 七 ・一二  村中孝次 ・磯部淺一を除く一五名について、死刑執行 )
七 ・二四  匂坂検察官から陸軍大臣に対して、北 ・西田の予審終了報告
・・・(15) 「 匂坂資料 」 Ⅲ ( 一九九〇年 ) 130頁、134頁に収録
七 ・二四  北 ・西田につき公訴提起命令 ( 寺内陸軍大臣 )・・・(16) 「 匂坂資料 」 Ⅲ 133頁、136頁に収録
七 ・二四  北 ・西田につき各別に公訴提起 ( 匂坂検察官 )

2  身柄拘束状況
以上のように、北は憲兵隊によって検挙 ・留置され、取調べを受けた後、
一旦警視庁に移されて特高の取調べを受けた上、再度憲兵隊に移送されている。
もっとも、記録上は警視庁への移送の日時が明らかではないが、取調べの状況から考えると、
三月一六日あるいは一七日のいずれかであろう。
なお、勾引状には、執行の場所を東京憲兵隊本部、執行の日時を昭和一一年四月一六日午後四時五〇分、
引致の日時を四月一七日午後六時三〇分と記載されているが、
検察官の予審官に対する強制処分の請求が四月一七日であり、勾引状発付日も四月一七日であるから、
右執行日の記載は四月一七日の誤記と認められる。

これに対して西田は、憲兵の手を間一髪で免れて北方を脱出し、
シナイに潜伏していたところを警視庁係官に検挙され、警視庁に留置されて特高の取調べを受けた後、
憲兵隊に移送されている。

北 ・西田に対する勾引状執行前の身柄拘束 ( 北五〇日間、西田四四日間 ) は、
刑事訴訟法あるいは陸軍軍法会議の規定に基づく強制処分ではない。
おそらく、行政執行法一条の 「 公安ヲ害スルノ虞アル者 」 に対する予防検束を利用してのことと思われる。
しかし、このような検束は、旧憲法下においても違法と解されていたはずであった。
すなわち、第一に、通説は、犯罪捜査のための行政検束は許されないとしていた。
第二に、名文上翌日の日没までの間許されるにすぎない行政検束を、
同一の理由によって反覆継続することは、当然違法であった。
そして第三に、憲兵は、行政警察の職務を行う権限を有しないと解されていたのである。
・・・(17)
第一、第二の点につき、美濃部達吉 『 日本行政法 』 下巻 ( 一九四〇年、有斐閣 ) 154頁、第三の点につき、同書55頁
それにもかかわらず、このような違法な行政検束が捜査のために多様され、
裁判官すらもそれを怪しまなかったのが当時の警察 ・裁判の実務であった。
ここでは、問題点を指摘するに止める。

3  憲兵の送致事実
(一)  北関係
北についての昭和一一年四月一五日付
陸軍司法警察官陸軍憲兵少佐福本亀治名義の
東京陸軍軍法会議検察官宛の送致書 ( 東憲警第二八八号 ) は、次のとおりである。
罪名としては叛乱罪となっているが、後述の公訴状記載の犯罪事実と比較すると、
記載内容のトーンは低く、北に対してむしろ好意的である。
事実、昭和一一年三月一五日付憲兵曹長鈴木磯治郎作成の仮領置品目録 ( 北所有の日記第四冊など五点を領置したもの )
には、「 右北輝次郎叛乱幇助被告事件ニ付証拠品トシテ仮ニ之ヲ領置ス 」 と記載されており ( 傍点筆者 )、
憲兵隊としては北は幇助罪とみていたことが窺える。
一  犯罪事実
  被告人北輝次郎ハ、
  明治四十年頃、支那革命党ニ加入シテ支那革命ニ參加シ
大正四年頃 「 革命ノ支那及日本ノ外交革命 」、
大正八年頃、 「 國家改造法案原理大綱 」 ヲ著述シテ國家改造的思想ノ普及ニ努メ來タレルモノナルガ、
其思想的指導下ニアル西田税ヲ通シ
叛亂被告人タル村中孝次、磯部淺一、栗原安秀等ト屢々會合意見ノ交換ヲナシ、
其思想的啓蒙ニ任ジタル事實アリ。
  被告人北輝次郎ハ、
  昭和十一年二月十五日頃西田税ヨリ、相澤公判ニ於テ弁護人側ヨリ申請スル證人ヲ裁判長ガ脚下スルガ如キ場合ニハ、
青年將校ハ或ハ蹶起スルヤモ計ラレザル事態急迫ノ情勢ヲ聞知シ、
二月二十日頃西田税ヨリ、愈々青年將校蹶起ニ決シタル旨及二月二十二、三日頃
襲撃目標等蹶起計畫ノ内容竝目的ヲ聞知シ、更ニ二十五日夜ニ至リテ愈々
翌二十六日朝決行スルコト
龜川哲也ヨリ資金トシテ千五百円丈ケ都合シテ貰ツタコト
ヲ聞知シタルガ、
二月二十六日西田税ノ來訪ニ依リテ詳細ナル蹶起部隊ノ行動内容ヲ知リ、
且西田税ノ依頼ニ依リ西田ヲ其自宅廷内ニ隠匿シ、且西田ト共ニ反亂部隊ノ首脳者タル栗原、安藤ニ電話司令セリ。
(  ・・・リンク→ 昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 、・・・リンク→拵えられた憲兵調書  )
  被告人北輝次郎ハ、
  二月二十七日朝ニ至リ、蹶起軍ノ収拾ハ時日ノ遷延ト共ニ益々不利ナリト考ヘ、
時局ノ収拾ハ青年將校ヲ有利ニ保護スルモノヽ内閣ナラザルベカラス
トシ、在首相官邸ノ栗原安秀及陸相官邸ノ村中孝次ヲ電話ニ呼出シ、西田ト共ニ
人無シ、勇將眞崎アリ、國家正義軍ノ爲メ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ。
軍事參議官全部ノ意見一致トシテ、眞崎ヲ推薦スル如クセヨ。
切腹ハ不可、遣リカケタ上ハ徹底的ニヤレ。
等ノ司令ヲ与ヘタル外、
西田税、亀川哲也、薩摩雄次等ト 叛亂部隊ノ目的達成上有利ナル軍政内閣ヲ樹立シテ事態ノ収拾スル如ク協議シ、
西田、薩摩等ヲシテ夫々加藤大將、小笠原中將、南郷少将、有馬大將等ニ運動セシメ、
以テ叛亂部隊ト内外相呼應シ、反亂罪ヲ敢行シタルモノナリ。
二  犯罪ノ原因動機
本人ハ、曾テ自己ノ著述セル日本改造法案ニ據ル國家改造的思想ノ影響下ニアリ、
且 日常ニ自己ガ全幅ノ信頼ヲナシアル同志青年將校ガ中心トナリ、
日本改造法案内容ノ建設ヲ目的トシテ蹶起シタルニ對シ、同情シタルニ據ル。
三  証拠  ( 省略 )
四  前科  ( 省略 )

(二)  西田関係
西田についての昭和一一年四月一四日付
東京憲兵隊本部陸軍司法警察官憲兵少佐福本亀治名義の
東京陸軍軍法会議検察官宛の送致書 ( 東憲警第二五五号 )は、次のとおりである。
北に対する送致書と比較するとき、憲兵の西田に対する敵意が感じられる。
一  犯罪事実
  被告人西田税ハ、
  大正八年陸軍中央幼年學校當時ヨリ國家革新意識ヲ抱持シ、
陸軍士官學校在學中既ニ浪人北輝次郎、満川亀太郎等ト交遊シ、
北著日本改造法案、支那革命外史ヲ耽讀シテ其ノ主張ニ共鳴シ、
愈々國家革新意識ヲ強持スルニ至リタルガ、
大正十四年陸軍騎兵少尉トシテ騎兵第五聯隊ニ在隊中、肋膜肺尖ニ依リテ現職ヲ退クヤ、
満川亀太郎、大川周明、安岡正篤等ノ要望ニ依リテ上京シ、
行地社同人トナリテ右翼運動ニ參加シ、主トシテ軍人方面ニ對シ日本改造法案ノ指導原理トシテ
國家革新啓蒙運動ニ進出スルニ至リタルガ、爾來
(1)  大正十五年ニハ、星光同盟ニ據ツテ在郷軍人ヲ中心トスル勞働運動ノ擴大強化ニ努メ、
  又所謂宮内省怪文書事件ヲ惹起シテ、時ノ牧野宮内大臣、關屋宮内次官ニ辭職ヲ強要シ、
(2)  昭和二年ニハ士林莊ナル看板ヲ掲ゲテ陸軍士官學校生徒ニ接近シ、
  當時ノ藤井齊海軍少尉ト共ニ天劔党規約ヲ陸軍士官學校卒業生徒ニ配布シテ所謂天劔党事件ヲ惹起シ、
(3)  昭和四年ニハ、愛國團體ト共ニ所謂不戰條約問題、金解禁問題ヲ翳シテ政府糾彈運動ノ急先鋒トナリ、
  自ラ日本國民党ノ統制委員長トナリテ中谷武世ノ愛國大衆党、津久井龍雄ノ急進愛國党ト共ニ革新的政治運動ニ進出シ、
(4)  昭和五年、六年ノハ、ロンドン條約問題ヲ中心トシテ其ノ輿論喚起ニ奔走スル外、
  満蒙問題ニ關心ヲ有シ、同問題ヲ中心トシテ陸軍青年將校ニ接近スルニ至レリ。

2  被告人西田税ハ、
(1)  昭和六年ニ於ケル所謂十月事件ニ對シテハ、
同年八月頃當時ノ橋本砲兵中佐ヨリ該事件ノ計畫内容ヲ打明ケラレテ海軍側ニ對スル工作ノ依頼ヲ受クルヤ、
陸海軍兩者ノ間ニ介在シテ同志ノ獲得斡旋ニ努力セリ。
昭和七年ニ於ケル所謂血盟團事件竝所謂五 ・一五事件ニ對シテハ、
陸海軍將校ト聯絡ヲ保持シ、且 其内容計畫ヲ知悉シ乍ラ 其行動參加ヲ逃避セル爲、
川崎長光ノ爲メ射撃セラレタリ。
爾來依然トシテ陸軍士官學校生徒 及 一部青年將校ニ對スル國家革命的啓蒙運動ヲ繼續シ、
是等青年將校 及 生徒ヲ自宅ニ會合セシメテ思想的教唆ニ努メ、
所謂十一月事件ノ惹起ヲ見ルニ至リタルガ、村中孝次、磯部淺一ガ同事件ニ關聯シテ定職處分ニ附セラレ、
次デ肅軍ニカンスル意見書出版ニ依リテ免官トナルヤ、
被告人ハ村中、磯部等ト共ニ益々青年將校等ノ國家革新意識ノ擴大強化ニ努メ、
眞崎敎育總監更迭問題、永田事件ノ勃發スルヤ、
之等問題ヲ巧ニ捕ヘテ青年將校等ノ國家革新運動ヲ使唆煽動シ、
相澤公判ヲ中心トシテ公判闘爭 竝 該公判ヲ契機トスル昭和維新ノ斷行ヲ煽動シ、
傍ラ 「 大眼目 」 ノ發行ヲ指導シテ國家革新運動ニ邁進シ居タルガ、
是等思想的使唆ニ依リ青年將校ノ動向ハ相澤公判ヲ中心トシテ益々尖鋭化スルニ至レリ。
   被告人西田税ハ、
(1)  相澤公判ノ進行ト第一師團渡満ノ決定ニ伴ヒ、一部青年將校ノ言動惡化シ、
或ハ其渡満前ニ於テ蹶起スルニ非ザルカヲ察知シ居タル際、
二月十一日頃磯部淺一 ( 元一等主計 ) ヨリ蹶起ノ暗示ヲ受ケ、
二月十六日頃村中孝次 ( 元歩兵大尉 ) ヨリ第一師団渡満前ニ於テ決行スルノ計畫アル旨聞知シ、
二月十七、八日頃栗原安秀 ( 元歩兵中尉 ) ヨリ愈々蹶起ニ決シタル旨 竝 決行内容 襲撃目標等ヲ聞知シ、
二月二十日頃安藤輝三 ( 元歩兵大尉 ) ヨリ二十二日ヨリ山口大尉ノ週番中ニ決行スル旨、
二月二十四日夜磯部淺一ヨリノ置手紙ニ據リテ愈々二月二十六日未明ニ於テ蹶起スル旨、承知シ、
二月二十五日夜亀川哲也宅ニ於テ、村中孝次、亀川哲也、被告人三人協議ヲ重ネ、
蹶起資金トシテ亀川哲也ヨリ村中孝次宛千五百円交付ヲ斡旋關与シ、
被告人ハ別ニ亀川哲也ヨリ百円ノ交附ヲ受ケタルガ、
村中孝次ノ辭去後亀川哲也ト共ニ蹶起部隊ノ蹶起後ニ於ケル外郭運動方法ヲ協議シ、
(2)  二月二十六日事件當日朝ハ、部隊出動ノ確否ヲ確メル爲 豫テ承知シアル部隊行動ノ經路ヲ巡回シ、
  其ノ決行ヲ確認スルヤ、在巣鴨木村病院ニ入院中ナル岩田富美夫ヲ訪レ、
首相官邸ニ在リタル栗原安秀ニ電話聯絡シ、同日午後北輝次郎宅を訪レテ同邸内ニ潜伏シ、
北輝次郎ト共ニ叛亂部隊内ニ在ル叛亂中心人物タル栗原安秀、安藤輝三、村中孝次等ニ對シ、
事態収拾ニ附 眞崎大將ニ一任セヨ
軍事參議官ノ力ヲ借リテ目的ノ貫徹ヲ期セヨ
ヤリカケタ事デアルカラ最後迄ヤレ
等叛亂部隊ニ對スル行動ヲ電話司令シ、又北宅ニ村中孝次ヲ招致シテ直接指令シタル外、
亀川哲也、薩摩雄次等ト共ニ加藤海軍大將、小笠原海軍中將、南郷海軍少將、有馬海軍大將、
山本海軍大將其他ニ對シ叛亂部隊ノ行動収拾ニ有利ナル軍政内閣ノ樹立 竝 昭和維新ノ斷行ヲ運動シ、
以テ叛亂將校ト共ニ内外相呼應シテ叛亂罪ヲ敢行シタルモノナリ。
二  犯罪ノ原因動機
被告人ハ、所謂事件ブローカーニシテ日本改造法案ノ著者タル北輝次郎に私淑シ、
兩人ハ思想的 竝 私生活的ニ恰モ親子ノ如キ關係ヲ有シ、常ニ北輝次郎ヨリノ補助ニ依リテ生活シアルモノナルガ、
北ノ命ニ依リテ日本改造法案ノ出版ヲ担任シ、其社會革命的建設内容ヲ以テ理想社會ナリト確信シ、
該法案ノ内容ヲ指導原理トシテ主トシテ青年將校ノ啓蒙運動ニ専念シ來リルガ、
從來被告人ニ依リテ指導啓蒙セラレタル青年將校等ガ非合法的革新運動ノ擧ニ出デントスルヤ、
被告人ハ常ニ事件ヨリ巧ニ逃避シテ法網ヲ脱シ居タルガ、
遂ニ今次ノ叛亂決行ニ際シ其ノ逃避不可能ナルコトヲ知ルニ至リテ
叛亂部隊ノ外郭ニ位置シ、内外相呼應シテ叛亂ノ目的ヲ達セントシタルニ因ル。
三  証拠    ( 省略 )
四  前科    ( 省略 )
五  捜査着手ノ年月日    昭和十一年三月八日

4  予審請求事実 ・公訴事実
(一)  予審請求事実
北 ・西田に対する予審請求は、
いずれも昭和一一年五月五日検察官匂坂春平名義で、各別になされている。
両名に対する予審請求書記載の犯罪事実はほとんど同文であるが、次のとおりである。
(1)  北關係
  被告人ハ夙ニ我國ノ政治經濟等諸般ノ制度ニ一大變革ヲ加フルノ必要ヲ痛感シ、
大正八年日本改造法案大綱ヲ著シ、爾來西田税等ト謀リ 國家革新思想ノ普及ニ努メ、
昭和七年頃ヨリ逐次菅波三郎、大蔵榮一、安藤輝三、村中孝次、栗原安秀、磯部淺一 等 一部青年將校ト其ノ意ヲ通ジ、
兵力ヲ使用シテ大官、重臣、財閥、政党等ヲ打倒シ、
帝都ヲ擾亂シテ之ヲ戒嚴令下ニ導キ、以テ國家革新ノ實ヲ擧ゲンコトヲ企圖シ、
昭和八年頃ヨリ右青年將校等ト互ニ相團結シ、爾來主トシテ西田税ヲ通ジ村中孝次、磯部淺一、澁川善助、香田清貞、
安藤輝三、栗原安秀等ヲ指導シ、之ガ實行計畫ヲ樹立セシムルト共ニ、
同志團結ノ強化擴大ヲ圖リ、以テ之ガ機運ノ促進ニ努メタル上、村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、磯部淺一等ヲシテ
昭和十一年二月二十六日未明兵力ヲ使用シ、内閣總理大臣官邸其ノ他大官重臣ノ官私邸ヲ襲撃シ、
大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、敎育總監渡邊錠太郎等ヲ殺害シ、侍從長鈴木貫太郎等ニ重輕傷ヲ加ヘ、
以テ麹町區西南部一帯ノ地域ヲ占據シテ國權ニ反抗セシメ、更ニ其ノ目的貫徹ノ爲西田税ト謀リ、
自ラ村中孝次、栗原安秀等叛亂軍幹部ニ對シ、速ニ事態ノ収拾ヲ眞崎大將ニ一任スベキ旨等
所要ノ對上層部工作ニ附指令スルト共ニ、西田税、亀川哲也、薩摩雄次等ト提携シ、
海軍大將加藤寛治、同中將小笠原長生等ニ對シ其ノ政治的工作ノ援助ヲ求ムル等、
諸般ノ策動ヲ爲シタルモノナリ。
(2)  西田關係
被告人ハ夙ニ我國ノ政治經濟等諸般ノ制度ニ一大變革ヲ加フルノ必要ヲ痛感シ、
北輝次郎ト共ニ同人著日本改造法案大綱ニ則リ國家革新思想ノ普及ニ努メ、
昭和六年頃ヨリ逐次菅波三郎、大蔵榮一、村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、磯部淺一 等 一部青年將校ト其ノ意ヲ通ジ、
兵力ヲ使用シテ大官、重臣、財閥、政党等ヲ打倒シ、帝都を擾亂シテ之ヲ戒嚴令下ニ導キ、
以テ國家革新ノ實ヲ擧ゲンコトヲ企圖シ、昭和八年頃ヨリ右青年將校等ト互ニ相團結シ、
爾來北ト謀リ村中孝次、磯部淺一、澁川善助、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀等ヲ指導シ、
之ガ實行計畫ヲ樹立セシムルト共ニ、同志團結ノ強化擴大ヲ圖リ、以テ之ガ機運ノ促進ニ努メタル上、
村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、磯部淺一等ヲシテ同十一年二月二十六日未明兵力ヲ使用、
内閣總理大臣官邸其ノ他大官重臣ノ官私邸ヲ襲撃シ、
大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、敎育總監渡邊錠太郎等ヲ殺害シ、侍従長鈴木貫太郎等ニ重輕傷ヲ加ヘ、
以テ麹町區西南部一帯ノ地域ヲ占據シテ國權ニ反抗セシメ、更ニ其ノ目的貫徹ノ爲北輝次郎ト謀リ、
自ラ村中孝次、栗原安秀等叛亂軍幹部ニ對シ、眞崎大將ヲ内閣首班ニ推戴シ、
斷乎トシテ初志ニ邁進スベキ旨等ヲ指令スルト共ニ、薩摩雄次等ト提携シ、
海軍大將加藤寛治、同中將小笠原長生等ニ對シ其ノ政治的工作ノ援助ヲ求ムル等、
諸般ノ策動ヲ爲シタルモノナリ。

(二)  公訴事実
北 ・西田に対する起訴は、いずれも昭和一一年四月二四日匂坂検察官の名義で、各別になされた。
公訴状記載の犯罪事実は、陸軍大臣に対する予審終了報告書 ( 匂坂検察官名義 ) 記載の犯罪史実と同文である。
各公訴状には、昭和一一年四月二七日付の東京陸軍軍法会議裁判部の受付印が押捺されている。
予審終了報告と公訴事実は、すでに 「 匂坂資料 」 で紹介されているので、ここでの引用は省略する。
・・・(18)  北につき 「 匂坂資料 」 Ⅲ130頁、西田につき同書134頁


38 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一) 2 『 北の起訴前の供述 検察官、警察官聴取書1』

2016年09月28日 19時12分26秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四  北の起訴前の供述
1  はじめに
公訴提起前、すなわち捜査段階と予審
・・・(1)
予審は旧刑事訴訟法では起訴後の手続きであったが ( 旧刑訴二八八条、二九五条 )、
陸軍軍法会議法では起訴前の手続きとなっていた ( 三〇八条、三二一条 )

における北の供述を録取した書面としては、憲兵作成の聴取書七通、検察官作成の聴取書に通、
特高係警察官作成の聴取書五通、そして予審官作成の訊問調書四通 ( うち一通は勾留訊問調書 )がある。
ここに聴取書とは、捜査官が犯罪捜査に当たって関係者の任意の供述わ録取した書面をいい、
訊問調書とは、法令による強制処分としての訊問に対する供述を録取した書面をいう。
もっとも、陸軍軍法会議法 ( 海軍軍法会議法も同じ ) は、旧刑事訴訟法三四三条のように法令によって作成した
訊問調書以外の供述録取書の証拠能力を制限する規定を設けておらず、
したがって捜査官作成の聴取書も無条件で証拠として用いられることができたから、
証拠法上両者をとくに区別する実益はない。
北の憲兵聴取書は、前述のようにすでにその全部が公開されているので、
ここでは、その経過を記すに止める。
・・・(2) 「 秘録 」 第一巻 275頁以下
北は、第一回から第四回までの聴取書では、西田をかばい、事件についての質問をとぼけた調子でかわしている。
取調官福本憲兵少佐は、第三回聴取書で、
北が財閥解体を主張しながら三井財閥から年間二万円もの生活費を受けている点を追及するが、
これに対しても北は次のような人を食った答をしている。
「 ・・・・財閥ヲ否定シテ居ルト云ツテモ彼レト是レトハ別問題デ、恰モ明治維新當時ノ桂小五郎、西郷吉之助ガ
 藩侯ノ禄ヲ貰ツテ居タノト基本質ニ於テ大差ハ無イト思ヒマス 」
三月一三日付の第五回聴取書では、かなり核心に触れた供述を始めているが、
それでも二六日以前には事件が起こることを知らなかったというそれまでの態度を貫いている。
この調書の中で、取調官の、二七日午後安藤大尉を電話に呼び出して、
「 給与はよいか、〇はあるか 」 と尋ねたことがあるかという問いは、
匂坂資料で明らかにされた電話傍受を踏まえての質問であり、興味深い。
もっとも北は、現下にこれを否定しており、なぜか取調官もこの点をさらには追及しておらず、真相は不明である。
・・・(3) 「 匂坂資料 」Ⅱ( 一九八九年 ) 619頁
これによると、北は、こうらくにいた安藤大尉に憲兵隊司令部と称して電話し、
「 給養はあるか 」 「 金はあるか 」 「 大丈夫か 」 などと質問したことになっている。
ただし、盗聴の日時は不明である。
 (  ・・・リンク→ 昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 、・・・リンク→拵えられた憲兵調書  )
北は、三月一五日付の第六回聴取書に至って、これまでの西田をかばうための偽りを述べていたことを認め、
申し訳ないと供述する。
こうして、本格的な取調べのバトンは警視庁の特高係に渡されることになる。
なお、憲兵の第七回調書は、北の国家改造思想と運動の経緯に関するものである。
 
2  検察官聴取書
(一)  昭和一一年三月九日付第一回聴取書
検察官として北を取調べたのは、竹沢卯一陸軍法務官であった。
竹沢検察官は、第一回聴取書において、北が 『 国家改造法案大綱 』 を書いた動機、
同書に記載された国家改造の具体的方策などについて釈明を求め、
事件発生前後の行動について糾し、また三井財閥その他の北の資金源を追及する。
この段階では、北は事件への関わりを全面的には認めていないが、
青年将校等の行動を肯定することを明言する。
以下、聴取書の内容部分を抄録する。
「 御敎示ニ依リマスト、其ノ方ノ國家改造法案ナルモノガ今回ノ事件ニ重大影響アリト云フコトデアリマスガ、
 ソレニ就イテ申上ゲマス。
私ガアノ國家改造法案ヲ大正八年ニ書キマシタノハ、其ノ年世界大戰ハ ベルサーユ會議デ平和ニナリマシテ、
唯一人此後世界ニ第二ノ大戰ガアルト云フコトヲ考ヘルモノモナク、
從ツテ各種ノ改造論、革命論ハ日本全體ヲ風靡シテ居ルノヲ見マシテ、
私ハコノ日本ノ將來、即チ世界大戰 ( 第二 ) ノ場合ニ日本ガ大戰爭ノ中途又ハ戰爭ノ勝利ノ刹那等ニ於テ、
露獨ノ如ク國内ヨリ抱懐スル様ナ結果ニナリマシテハ日本ノ滅亡ナリト考ヘ、
依ツテ第二世界大戰爭ノ來ラザル以前ニ於テ、日本ノ國家組織ガ共産党其ノ他ニ乗ゼラレザル様
最モ合理的ナル改造ヲ完成シ置ク必要アリト考ヘ、私ノ國家改造法案ノ根本目的ハソレデアリマス。
又其ノ事ハ全巻ニ渉ツテ明記シテアリマス。
從ツテ、此ノ三、四年來世界ノ形勢ガ第二世界大戰ノ免ルベカラザル形勢ニ進ミツツアルコトハ
何人モ認識スル様になり、國防ノ任ニ當ツテ居ル陸海軍ノ諸君ガ更ニ私ノ旧著ヲ持チ出シテ再檢討シマシテ、
世界ノ形勢ニ對シテ益々國内改造ノ急ヲ考ヘルモノガ少數カ多數カハ存ジマセヌガ有リマスコトハ、
サモアルベキコトト存ジマス。
( 中略 )
御敎示ニ依リマスト、其ノ方ノ指導デアル、其ノ方ニ對スル崇拝デアルト云フ御言葉ガアリマスガ、
私ノ改造法案ハ前項申上ゲタ點ヲ強調シテ覺醒ヲ日本ノ上下ニ求メタモノデアリマス。
私ハ夜明ノ鐘ヲ突イタ坊サンデアリマス。
坊サンガ鐘ヲ突イタカラ大キナ太陽ガ出タノデハアリマセヌ。
私トシマシテモ此ノ世ノ指導者ト云フ様ナ傲慢ナ、不遜ナ考ヘハ少シモ持ツテ居リマセヌ。
ソレハ、改造法案ヲ御覧ニナリマシテ御判カリデアリマス 」
「  ( 改造法案の戒嚴令について ) ・・・・若シ此ノ改造ヲ行フ爲ニ何等擾亂ガナイト云フ見通シアルトキハ、
 戒嚴令ハ必要デハアリマセヌ。
私ガ大正八年ノ昔ニアレヲ書イタ當時ハ、共産又ハ共産党ニ近キ勢力ガ日本ニ漲ツテ居リマシタカラ、
ソレニ對スル當然ノ用意トシテ書キマシタ。
併シ、ソレ以後日本ノ共産党ハ數回ニ亘リ 彈壓サレ居リマスカラ、
其ノ意味ノ警戒カラモ戒嚴令ハ今日ハ必要デナイカモ知レマセヌ。」
そして、この調書の最後は、次のような問答で締めくくられている。
問  其ノ方ハ、蹶起將校等ノ行動ハ正義ノ行動ト認ムルノカ。
答  左様デス。
問  其ノ方ハ、蹶起軍ノ行動ハ兵馬ノ大權ヲ干犯スルモノト思ハヌカ。
答  今ハ大權干犯ト認メラルルカ怎ウカハ存ジマセヌガ、後デ自然ニ解決セラレ、
  彼等ノ行動ハ大義名分ニ依ル行動デアツタト認メラルルニ至ルコトト思ヒマス。
問  後デ自然ニ解決セラルルトハ如何。
答  將來、蹶起軍ノ理想が達セラルルコトガアルト思ヒマスカラ、
ソノ時ハ前申シマシタ通リ大義名分ニ依ル行動デアツタト認メラルルニ至ルト云フ意味デス。

(ニ)  昭和一一年三月一五日付第二回聴取書
検察官は、この調書の中で、日記第四冊の 「 靈告 」 の意味について追及している。
・・・(4)
北の靈告については、宮本盛太郎編 『 北一輝の人間像 』 ( 一九七六年、有斐閣 )、
松本健一 『 北一輝 靈告日記 』 ( 一九八七年、第三文明社 ) 参照

「 靈告 」 とは、神がかりの情態になった北夫人に降りた神仏のお告げを、北が解釈し、文字にしたものである。
主要な靈告についての北の説明は次のとおりであり、検察官の追求を巧みにかわしている。
( 番号は、便宜上筆者において付した )
①  二月二一日の 「 山岡鉄太郎物申す/稜威尊し/兵馬大権干犯如何 」 等について
「 今日ニナツテ考へ見ルト、今日ノ事變ノ起キルコトト失敗スルコトヲ豫言セラレタモノト思ヒマス。」
②  二月二四日の 「 大内山光射ス/暗雲無シ 」 等について
「 今考ヘマスト、今回ノ事變ニ宮城ニ何事モ起ラナカツタ事ヲ示サレタト思ヒ□□シマス。」
③  二月二十六日夜半一時半の
「 革命軍正義軍ノ文字 竝ビ現ハレ革命軍ノ上ニ二本棒ヲ引キ消シ正義軍ト示サル 」 について
「 自分デソノ當時考ヘマシタノハ、
 今回起サレタ行動軍ハ、
昭和維新ナドト云フ様ナ社會組織ノ根本的改革ヲ意味スル革命軍トイフ様ナ性質ノモノデハナク、
單ニ正義ヲ現ハス爲ニ立ツタモノデアルト云フ様ニ私ハ解釋シテオリマス。」
④  二月二七日朝の
「 人無シ勇將眞崎在リ 國家正義軍ノ爲メ號令シ 正義軍速ニ一任セヨ 」 について
「 二十六日ニ軍事參議官ノ人々カ青年將校ノ居ル總理官邸ニ來ラレマシタ時、
 青年將校ハ臺灣ノ柳川ヲ以テ次ノ内閣ノ首班ニシテ貰ヒタイト云フコトヲ申上ゲテ
双方モノ別レトナリタルコトヲ知リマシタノデ、私ハ、二七日ノ朝一心ニナツテ神佛ニ祈リマシタ。
ソノ危險ナル時間ヲ一日モ早ク収拾スルコトヲ祈願シマシタ。
ソノ時ニ如斯文字ヲ以テ示サレ・・・・」
⑤  二月二八日の 「 神佛集ヒ賞讃賞讃 オオイ嬉シサノ餘リ涙込ミ上ゲカ 義軍勝テ兜ノ緒ヲ締メヨ/義軍先發、
八万大菩薩、飯綱大権現道光ス 大海ノ波打ツ如シ 」 について
「 右ニ書イテアルコトハ、將來判カルコトガアルカモ知レマセンガ、現在ハ判カリマセヌ。」

3  警察官聴取書
(一)  はじめに
警視庁における北の聴取書は全部で五通あるが、
取調官はすべて特別高等部と特別高等係に勤務していた関口照里警部補である。
北は、関口警部補の取調ベに対して、初めて事件とのかかわり合いを詳細に語っている。
後述の第一回聴取書で、北は告白の動機を明かにしているが、取調べる者と取調ベられる者との間に心が通いあったことも、
あずかって力があったように思われる。
・・・(5)
安部源基 『 昭和動乱の真相 』 ( 一九七七年、原書房 ) 202頁以下
同書によると、北は取調べが終わってから、関口警部補ら取調官に色紙を贈つている。
北・西田の警察官聴取書は、これまでも断片的に紹介されたことがあったが、その全文が明るみに出たことはなかった。
・・・(6)
例えば、田中惣五郎 『 北一輝 』 ( 一九五九年 ・未来社、後に増補版一九七一年 ・三一書房 ) は、
北と西田の警察官聴取書を引用している。未来社版480頁 ・三一書房版343頁等参照
事件との関係を初めて詳細に述べるこれら聴取書は、後述の予審調書の基礎を作っており、重要である。
(ニ) 昭和一一年三月一七日付第一回聴取書
( ・・・リンク→ 
北一輝 (警調書1) 『 是はもう大勢である 押へることも何うする事も出來ない 』 )
北は、この聴取書の中で、型どおりの経歴 ・家庭状況 ・生活状況等について述べた後、
二月二十六日以前に事件の発生を知っていたことを初めて認めて、次のように述べる。
「 一、今回ノ事件ニ關シマシテハ
 私ハ最初憲兵隊ノ取調ベ又陸軍法務官ノ取調ベニ對シテ、
此ノ事件ハ事前ニ承知シテ居ラナイト云フ事ヲ申立テテ來マシタガ、
其理由ハ、私トシテ無責任ナ法ノ制裁ヲ免レタイト云フ事の爲ニ隠蔽シタノデハアリマセン。
私ニ對シ事件ヲ話シマシタノハ西田デアリマシテ西田ハ度々私ニ對シ、
「 貴方ハ此事ヲ事前ニ私カラ聞キ知ラナイ事ニシテ置イテ下サイ。 貴方ニ迷惑ガ及ブトイケマセンカラ。」
ト云フ事ヲ堅ク申シテ居リマシタノデ、
西田ガ如何ナル事ヲ申立テマシタカ判ラナイ以前ニ於テ西田ヨリ先立ツテ、
私ノ方カラ申立テル事ハ、西田ノ情誼ニ對スル途デモアリマセント考ヘマシテ、
或ル時機迄西田カラ聞カサレタ點丈ケヲ隠蔽致シマシテ、
事前ニ西田カラ聞知シテ居ラナカツタト申シタ次第デアリマス。
然ルニ コチラニ參リマシテ
西田ガ多クノ青年將校ガ斯ク犠牲ニナリマシタ上ハ自分ノ責任トシテ法ノ制裁ヲ受ケルベキモノト考ヘ
逐一事情ヲ陳述シマシタ事ヲ聞キマシテ 誠ニ當然ノ事ト存ジ、
私モ西田ヨリ事前ニ關知シテ居ツタ事ヲ申上ゲ包ミナク私ノ西田ヨリ聞カサレタ部分等ヲモ申上ゲ、
其他一切私ノ關与シタル點等ニ就キテモ事實有リノ儘ニ申上ゲタイト存ジマス。

一、先ズ事件前ノ事ト致シマシテハ、
私ハ西田一人ノミカラ聞知シタ事デアリマス。

最初第一ニ私ガ西田カラ聞キマシタノハ 本年二月十五日前後ト思ヒマスガ、
西田ハ當時相澤公判ニ全力ヲ傾注シテ居リマシテ 多ク相澤公判ニ關スル話ヲシテ居リマシタガ、
此ノ時 西田ガ申シマスニハ
公判廷ニ於テ弁護人側ヨリ申請スル證人ヲ裁判長ガ却下スル場合ニハ
 青年將校ハ或ハ蹶起スルカモ知レヌ様ナ風ニ見エル
ト 一言申シマシタ。
其後 二月二十日頃ト思ヒマスガ西田ガ參リマシテ
愈々青年將校ハ蹶起スル ト 申シマシテ、其ノ急ニ蹶起スル理由トシテ、
一師團ガ愈々満洲ニ派遣サレル事ニナッタノデ二年間モ東京ニ居ナクナル、
自分等 ( 青年將校達 ) ガ居ナクナルト 重臣ブロック其他ノ惡イ勢力ガ再ビ勢ヲ盛リ返シテ來ル、
自分等 ( 青年將校達 ) モ満洲ニ行ッテ一命ヲ捨テルノダカラ、
セメテ君側ノ奸臣等ヲ一掃シテ 昭和維新ノ捨石ニナリ度イト云フ氣持チデアル ト云フ事ヲ話マシタ。
ソシテ西田ガ云フニハ
之ハモウ大勢デアル 今迄ノ様ニ吾々ノ一人二人ノ力デ押ヘルコトモ 何ウスル事モ出來ルモノデハナイ
ト云フ意味ノ事ヲ私ニ申シ聞かセマシタ。
其時私ハ 尤モノ事デアルカラ或ハ蹶起スルデアラウカトモ思ヒ、
又ハ サウナラナイノデハナイカトモ考ヘ、半信半疑ノ様ナ心持デ聞イテ居リマシタ。

次ニ 二月二十二、三日頃ト思ヒマス、西田ガ參リマシテ
愈々決行スルコトニナッタ、
襲撃目標ハ 岡田總理 齋藤内府 高橋蔵相 渡邊敎育總監 鈴木侍從長
牧野伸顕 西園寺公 ヲ殺ルト青年將校ノ方デ決定シマシタ。
西園寺公ハ豊橋ノ聯隊デ殺ル事ニナッテ居リマス
ト 云フ事ヲ話シマシタ。
尚 話ガ續キマシテ
皆ハ池田成彬ヲ殺ルト云ッテ居リマスガ自分 ( 西田 ) トシテノ考ヘハ
 三井ノ主人公、三菱ノ主人公ヲ殺ル方ガ至當ト思ッテ居ルガ、
主人公等ハ今邸内ニ居ルカ何カ 又邸内ノ様子モサグッテイナイノデ今色々考ヘテ居ル
ト 申シマシタ。
伊澤多喜男、後藤文夫等モ色々ト考ヘテ居ル ( 考ヘテ居ルト云フノハ、未ダ決定ハシナイガ、
 人選中ト云フ様ナ意味ニ私ハ解釋シマシタ )
トノ話シデシタ。
其処デ私ハ申シマシタ。
青年將校デ既ニ決定シタ事ハ自分ハ何モ言ハナイガ、
井澤多喜男ノ如キハ齋藤、牧野 等ト云フ大木ニヨッテ生キテ居ル寄生木ニ過ギナイト思フ
夫レ等 大木ノ重臣ヲ倒シテ仕舞ヘバ 寄生木ノアレ等ハ モウ惡イ事ヲスル力モ無クナルノデアラウ
殊ニ後藤文夫ノ様な二、三流ノ者迄モ殺スニハ及バンデハナイカ
ト 申シ、ワタシハ
已ムヲ得ザル者以外ハ成ルベク多クノ人ヲ殺サナイト云フ方針ヲ以テシナイトイケマセンヨ
ト 申シマシタ。
西田ハ返事ヲシマセンデシタガ 非常ニ考ヘ深イ顔ヲシテ私ノ申ス事ヲ聞イテ居リマシタ。
確カ其ノ翌日ト記憶シテヲリマス、
西田ガ參リマシテ決行スル事ニ就テ話ガアリマシタガ 多ク雑談的ニ話ヲシマシタ。
其ノ中ニ記憶シテ居リマスコトハ、
山口大尉 ( 山口一太郎 「 本庄侍従武官長ノ女婿 」 ) ガ週番ニナッテイルノデ、
聯隊長代理ヲヤルノデ、出動部隊ノ行動ハ妨害サレナイデアラウト 云フ様ナ話モアリマシタシ、
又 栗原中尉 安藤大尉 香田大尉等 私ノ知ッテ居ルヒトノ出動スル事モ話シマシタシ、
又 村中君、磯部君等ノ參加出動スル事も話シマシタ。
又 牧野ガ湯河原温泉ニ居ル事ガカニナツタ事ヲ話シ、夫レニハ東京ノ部隊カラ出動シテ行ク事もヲモ話シマシタ。
又 何中隊、何中隊ガ出ルト云フ様ナ事モ話シマシタガ、
私ハ軍事上ノ知識ガアリマセンノデ 私ハ只 大部隊ノ出動スルト云フ事ト、
前記ノ將校等ガ出動スルト云フ事丈ケヲ記憶シテヲリマス。
其ノ時西田ハ 眞崎内閣、柳川陸相 ト云フ様ナ処が
皆モ希望シテイルシ、
自分 ( 西田 ) モ夫レガ良イト思って居ルト私ニ申シマシタ。
私ハ
荒木 眞崎ハ矢張一體ニナラントイケナインデハナイカ
ト 問フテ見マシタ。
西田ハ
荒木ハ前ノ時 ( 陸相ノ時 ) ニ 軍内ノ肅正モ出來ズ、
只言論許リデ最早試驗濟ミト云フ様ニ皆ハ考ヘテ居ル様デス
荒木ハ関東軍司令官ニナルノガ、荒木ノ 「 ロシア 」 知識 其他人物カラ見テ
一番荒木ノ爲ニモ、國家ノ爲ニモ良カロウト考ヘテ居ル
ト 申シマシタ。
又 事件勃發ト同時ニ山口大尉カラ本庄武官長ニ知ラセル事ニナッテ居ル ト云フ事モ私ハ聞カサレマシタ。
又此ノ時カ前日カ判リマセンガ、
今度ノ事ハ軍人以外ノ民間人ハ一切參加シナイ事ニナツテ居マスト云フ話モアリマシタシ、
二月ノ二十日以後二、三日ノ間デ日ハ記憶ハアリマセンガ、西田カラ
小笠原長生子ニ會ひマシテ
 相澤公判ノ事ナドヲ詳シク御話シテ 或ハ青年將校ガ蹶起スル事ガアルカモ知レマセント話シテ來タ
ト私ニ申シマシタ。

其後二月ノ二十五日夜八、九時頃ト思ヒマスガ、西田ガ參リマシテ、千坂海軍中將邸ニオ通夜ニ行カウト思フト申シマシテ
貴方ノ香奠ガ未ダヤツテナケレバ 私が ( 西田 ) 持ツテ行コウト思フガ何ウデストノ話デシタ
私ハ 葬儀ガ終ツテ靜カニナツテカラ私ガ改メテオ悔ミニ行カウト思ツテ居ルカラ、
今日ハ宜シイト話シマシタ
其ノ時西田ハ、明朝決行スル事ヲ私ニ話シ

又 豊橋部隊ノ都合上西園寺ハ止メニシマシタ  ト 申シ
又 龜川カラ千五百圓丈ケ都合シテ貰ッタ  ト 申シ、
如何ニ金ガイラント云ッテモヤハリ少シハイルノダカラ  ト申シマシタ。
其ノ時モ前日來ノ事ヲ繰返シテ
貴方ハ私カラ何モ聞カナイ事ニナツテ居ルノデスカラ 其ノ積リデ居テ下サイ
ト 固ク申シテ行キマシタ。
西田カラ私ニ話サレタ事ハ此レ丈ケデアリマス。
尚 村中カラ 二月ノ二十二、三日頃ト思ヒマスガ、村中ガヤッテ來マシテ
吾々ハ愈々決行シマス
ト 只一言申シマシタ
私ハ西田カラ聞イテ居リマシタノデ 何モ村中ニ質問モ致シマセズ、
村中モ西田ヲ押シ除ケテ私ニ色々云フ様ナ事ガアリマセンノデ 外ノ話ヲシテスグ歸リマシタ。
以上ガ事件前ノ全部デアリマス。」


(三)  昭和一一年三月一八日付第二回聴取書
 ( ・・・リンク→北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』 )
北は、この聴取書の中で、事件発生後の北の行動と事件に対する自らの心情を詳しく語っている。
とくに、青年将校の蹶起が事前に十分な根回しもなく、
いわば暴発的に起こったものであったことを知ったときの 心の動揺を述べる部分は、印象的である。

「 一、西田カラ愈々青年將校ガ決行スルト聞カサレタ當時ノ心境ハ、
 私ハ一師團ガ満洲ニ派遣サレルト云フ特殊ノ事情カラ暴發スルモノデアルト観マシテ、
之ハ他人ガ如何トモスル事ガ出來ナイ、
就テハ 青年將校ノ目的トスル君側ノ奸臣ヲ一掃スル事丈ケハ成功サセ度イト考ヘ、
心カラ目的ノ成就ヲ祈ッテ居リマシタ。
尚 コレヲキツカケトシテ陸軍ノ肅正ヲ考ヘテ居ルト聞キマス眞崎等ガ出テ陸軍ノ肅正ヲ圖リ、
次イデ各方面ニ亘ッテ昭和維新ノ第一歩ヲ踏ミ出スノデハナイカト云フ期待ヲモ持チマシタ。
又 私ハ 萬事西田ノスル事デアリマスカラ、
中堅將校又ハ其上層ノ將軍等ニ聯絡モ執ッテアルモノト思ヒマシタノデ、
上層部トノ關係ニ就イテハ自分カラ何ナッテ居ルカハ聞カズ、
只當時西田ニ青年將校ノ態度ハドンナカト私カラ問ヒマシタ。
西田ハ  皆極メテ冷靜デス  ト 答ヘマシタ。
私ハ  夫レデハ宜シイ  ト 申シマシタ。
之ハ 私ガ青年將校達ノ成功ヲ祈ッテ居ル關係上 アセッタリナドシテ居テハ困ルト考ヘ 尋ネテ見タノデアリマス。
一、事件發生後ノ事ト致シマシテ
( 中略 )
午後四時頃カト思ヒマス、西田ガ參リマシタ。
此時赤澤モ一緒ニ來タカモ知レマセンガ、私ノ部屋ニハ這入リマセンノデ
西田一人デ來タノダト思ッテ居リマシタ
話シタ事ハ 大體襲撃目的ヲ達シタ事ヲ話シマシテ、尚私ハ ( 西田 ) 此処ニ居リタイト申シマシタノデ、
私モ西田ノ事ハ心配デモアリマスシ 即時ニ承知シマシタ。
間モナク薩摩モ參リマシテ 三人同部屋ニ居リマシタ。
ソシテ薩摩ハ午後七時カ八時頃ノ間ニ歸ッタノデスガ、
此ノ間ノ話シトシマシテハ 西田ト色々話シテ居リマシタ様デ 此ノ日ハ世間モ大騒ギノ話デ持チ切ツテ居ルモノデスカラ、
話題ハ夫レヲ中心トシタ事デアッタト記憶シテ居リマス。
薩摩ガ歸リマシテカラ西田ト私二人ニナリマシテ  今迄私ガ聞イテ居ル話ニ依リマスト、
今度ノ蹶起ニ際シテ豫メ具體的ニ陸軍ノ中堅層及上層ニ何等カノ了解聯絡ガ無カッタ様ニ聞エマシタノデ
私ハ西田ニ向ッテ、
眞崎、荒木、其他 満井中佐、石原大佐、小畑、鈴木貞等ト 事前ニ十分ノ話合ヲシテ無カッタノカ
ト 問ヒ質シマシタ。西田ハ
一人ニモ話シテ有リマセン ト答ヘマシタ。
一方 同日首相官邸ノ青年將校等ニ軍事參議官全部ガ參リマシテ、
參議官ノ方ヨリ非常ノ感激ヲ以テ青年將校ニ對シ、
「 吾々軍事參議官一同ハ諸君ト共ニ死ヲ賭シテ昭和維新ニ前進仕様 」 ト
申シタノニ對シ、青年將校側ハ
「 臺灣ノ柳川ヲ以テ次ノ總理トセラルル事ヲ希望スル 」
ト 申シタト云フ事ヲ西田カラ聞キマシタノデ
之デハ全然具體的ノ了解連聯絡ノ無カッタト云フ事ヲ知リ確メタノデ、
私ハ心ノ中ニ 「 仕舞ッタ 」 ト云フ心配ヲ生ジテ 多ク沈黙ニナリ、
此ノ善後處置ヲ如何ニスベキカニ、只一人心ヲ砕イテ居リマシタ。
( 中略 )
二月二十七日ハ
私ハ昨日軍事參議官ガ青年將校ニ對シテ、諸君ト一致シテ昭和維新ニ前進仕様ト云フ申シ
出ニ對シテ
青年將校側ガ柳川ヲ持チ出シタト云フ事ハ、
考ヘ方ニ依レバ列座ノ軍事參議官全部ニ對スル不信任ノ意志ヲ明白ニ表示シタモノトナリマスノデ、
之ハ年少若気ノ重大ナル過失ト考ヘ、
事變前 眞崎説ト云フ事ヲ西田カラ聞カサレテアツタノトモ相違シマスノデ、
其ノ点許リヲ苦慮致シマシテ、
朝床ノ中デ眼ヲ醒マシマシテモ此ノ善後處置ヲ如何ニスベキカヲ考ヘテ許リ居リマシタ。
此ノ朝 自分(北)ハ愈々決心ヲ致シマシテ 此ノ儘ニシテ置ケバ行動隊ヲ見殺シニスル丈ケデアル、
時局ヲ収拾スル事ガ何ヨリモ急務デアル、
随ッテ時局収拾ハ青年將校ヲ有利ニ保護スルモノノ内閣デナケレバナラヌト考ヘマシタ。
氣ノ起ッテ居ル人々ニカウイフ事ハ申セマセンカラ
西田ニ電話ヲ掛ケサセテ青年將校ノ誰カヲ電話口ニ出テ貰フ事ニシマシタ。
確カ栗原中尉ト思ヒマス、
電話口ニ出マシタノデ私ハ次ノ様ニ話シマシタ。
「 ヤア暫ク、愈々ヤリマシタネ、
就テハ 君等ハ昨日臺灣ノ柳川ヲ總理ニ希望シテ居ルト云フ事ヲ軍事參議官ノ方々ニ申シタサウダガ、
東京ト臺灣デハ餘リ話シガ遠スギルデハナイカ、
何事モ第一善ヲ求メルト云フ事ハ カウイフ場合ニ考フ可キデハアリマセン、
眞崎デモ良イデハナイカ、眞崎ニ時局ヲ収拾シテ貰フ事ニ 先ヅ君等青年將校全部ノ意見ヲ一致サセナサイ。
サウシテ君等ノ意見一致トシテ軍事參議官ニ申出デ
軍事参議官ノ方モ亦軍事參議官全部ノ意見一致トシテ眞崎ヲ推薦スル事ニスレバ、即チ陸軍上下一致ト云フ事ニナル。
君等ハ軍事參議官ノ意見一致ト同時ニ眞崎ニ一任シテ一切ノ要求ハ致サナイ事ニシナサイ。
ソシテ 呉レ呉レモ大權私議ニナラナイ様ニ軍事參議官ニオ願ヒスル様ニシナサイ 」
更ニ私ハ念ヲ押シテ、
「 良ク私ノ云フ意味ガ判リマシタカ、
意味ヲ間違ヘナイ様ニ 他ノ諸君ト速カニ相談ヲシテ 意見ヲ一致サセナサイ 」
電話ノ要旨ハ以上ノ通リデ、午前十時過ギト思ヒマス。
尚ホ 西田ト村中トノ電話デ話シテ居ルノヲ機會ニ 私ガ電話ニ出マシテ
村中ニ向ッテモ、栗原ニ申シタト同一ノ言葉ヲ以テ青年將校ノ意見一致ヲ急速ニスル様ニ説キ勧メマシタ。
此時、栗原モ、村中モ
皆ト相談シテ直チニ其様ニ致シマス
ト云フ返事デアリマシタ。
後チ午後四時カ五時頃ト思ヒマス、西田ト村中ト電話デ話シテ居リマシテ、
其ノ電話ガ午前私ガ掛ケマシタ返事デアリマシタノデ、
西田ガ私ニ、尚直接電話ニ掛ッテ聞ク様ニ申シマシタノデ、
私ガ村中カラ聞キマシタノハ、次ギノ通リデアリマス。
「 先程軍事參議官ハ全部ハ見エマセンデシタガ、西、眞崎、阿部 ノ三大將ガ見エマシタノデ、
吾々一同ノ一致セル意見トシテ、此ノ際眞崎閣下ノ出馬ヲ煩ハシテ 眞崎閣下ニ總テヲ一任シタイト思ヒマス。
何ウゾ軍事參議官閣下等モ御意見一致ヲ以テ 眞崎閣下ニ時局収拾ヲ御一任セラルル様御願致シマス。
何ウゾ御決定ノ上ハ 直チニ陛下ニ奏上シテ、其ノ實現ヲ期スル様ニオ願ヒ申シマス
ト申シタ処、西大將、阿部大將、ハ 即時ニ
夫レハ結構ナ事ダ、君等ガサウ話ガ判ッテ自分等ニ一任シテ呉レルナラバ 誠ニ結構ナ事デアル
早速歸ッテ皆トモ相談シテ返事ヲ仕様、ト 云フ事デアリマシタ。
ソシテ 少シ不平ノ様ナ語気ヲ以ツテ眞崎閣下ハ、兎ニ角君等ハ兵ヲ引く事ガ先ダト云ヒマシタ 」
之ガ村中ノ電話デアリマス。
其時私ハ、
其ノ返事ヲ一刻モ早ク聞キ度イカラ、返事次第知ラセテ呉レ
ト 申シテ電話ヲ切リマシタ。
( 中略 )
夜十時頃ト思ヒマスガ 薩摩君ガ參リマシタ
私、西田、薩摩の三人一座シテ、其時私ガ薩摩ニ申シマシタ、
「 青年將校ハ眞崎ヲ立テテ一任スルト云フ事ニ漸ク意見ガ纏ッタ。
未ダ軍事參議官カラノ返事が無イサウデアルガ、要スルニ今回ノ事ハ陸軍カラ出シタ火事デアルカラ、
陸軍ノ參議官丈ケデハ少シ苦シイ処デアルダラウト思フ
( 夫レハ 只私ノ想像トシテ 返事ノ遅レテ居ルノガサウイフ關係デハナイカト思ヒ巡ラシテイタノデス )
就テハ第三者ノ立場ニアル海軍側カラ、時局収拾ヲ眞崎ニ一任仕様ト申シ出テ呉レレバ、
陸軍ノ意見ヲ一致セシムルノニ好都合デアラフト思フ。
デ 直グニ 加藤大將ニ 青年將校ノ意見ノ一致シタ事ヲ知ラセテ、海軍側カラノ御骨折ヲ願ツテ呉レ 」
ト 私ハ薩摩ニ申シマシタ。
薩摩ハ直チニ卓上ノ電話ヲ取ッテ右ノ意味ヲ加藤大將ニ申シマシタ。
( 中略 )
二十八日中ハ
私ハ唯軍事參議官カラ青年將校ニ對シテ返事ガアルノ許リヲ待ッテ居リマシタ。
西田ニ對シテ午前、午後三回ニ亘ッテ返事ノ來タカ否カヲ問ヒ合ワセテ貰ヒマシタガ、
返事ガアリマセン ト云フ事デアリマシタ。
私ハ 他ノ勢力ノ動キ始メタカ、何ウカト云フ事モ知ラズ、
唯陸軍ガ上下一致シテ眞崎ヲ奏請スル様ニナルデアラウ事ヲ信ジ、
青年將校ノ身ノ上モ夫レニ依ッテ有利ニ庇護サレル事ヲ期待シテ居リマシタ。
従ッテ色々ノ風評ノ如ク陸軍同士ガ相撃ツ様ナ不祥事モ起ラナイ事ヲ信ジテ
比較的心痛ナク、午後迄只返事ヲ待ツテ居リマシタ。
( 中略 )
要スルニ 二十八日中ハ 眞崎内閣説ニ軍事參議官モ意見一致スルモノト信ジ、
海軍側ノ助言モ亦有効ニ結果スルモノト信ジ、
随ッテ一任スルト云ッタ以上ハ 出動部隊モ兵ヲ引イテ
時局ガ危險狀態ヨリ免ルルモノト許リ確信致シテ時間ヲ經過シテ居リマシタ。

( ・・・リンク→・ 北一輝 (警調書3) 『 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません 』 ) 3/19
( ・・・リンク→・ 北一輝 (警調書4) 『 柳川では遠い 』 ) 3/20  3/21
( ・・・リンク→・ 北一輝 (憲調書) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』 )


38 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一) 3 『 北の起訴前の供述 警察官聴取書2 』

2016年09月26日 06時02分36秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四  北の起訴前の供述

・・・前頁 警察官聴取書 1の 続き
(四)  昭和一一年三月一九日付第三回聴取書
( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書3) 『 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません 』
北は、この聴取書で、彼の 「 社會ニ對スル認識及國内改造ニ關スル方針 」 を説明している。
これは、『 國家改造法案大綱 』 に盛られた彼の思想を敷衍するものである。
以下、主要な個所を抜き書きする

「 日本ノ對外的立場ヲ見マス時 又 欧洲ニ於ケル世界大二大戰ノ氣運ガ醸成サレテ居ルノヲ見マス時、
日本ハ
遠カラザル中ニ對外戰爭ヲ免レザルモノト覺悟シナケレバナリマセン。
此ノ時 戰爭中又ハ戰爭ノ末期ニ於テ、
前例ロシヤ帝國、獨逸帝國ノ如ク國内ノ内部崩壊ヲ
來ス様ナコトガアリマシテハ、
三千年ノ光榮アル獨立モ一空ニ歸スル事トナリマス。
此点ハ四、五年來漸ク世ノ先覺者ノ方々ガ認識シテ 深ク憂慮シテ居ル処デアリマス。
其処デ
私ハ、最近深ク考ヘマスルノハ、
日本ノ對外戰爭ヲ決行スル以前ニ於テ 先ズ合理的ニ國内ノ改造ヲ仕遂ゲテ置キ度イト云フ事デアリマス。
國内ノ改造方針トシテハ、金權政治ヲ一掃スル事、
即チ御三家始メ三百諸侯ノ所有シテ居ル冨ヲ國家ニ所有ヲ移シテ、國家ノ經營ト爲シ、
其ノ利益ヲ國家ニ歸属セシムル事ヲ第一ト致シマス。
( 中略 )
又私ハ 人性自然ノ自由ヲ要求スル根本点ニ立脚シテ、私有財産制度ノ欠クベカラザル必要ヲ主張シテ居リマス。
( 中略 )
故ニ 私ノ抱懐スル改造意見トシテハ 日本現在ニ存スル、
一、二百萬圓以上ノ私有財産を ( 随ッテ其ノ生産機関ヲ ) 國家ノ所有ニ移ス事丈ケデアリマシテ、
中産者以下ニハ一點ノ動揺モ与ヘナイノヲ眼目トシテ居リマス。
( 中略 )
日本皇室ハ言フ迄モナク國民ノ大神デアリ、國民ハ此ノ大神ノ氏子デアリマス。
大神ノ神徳ニ依リテ國民ガ其ノ生活ヲ享楽出來ルモノデアル以上、
當然皇室ノ御經費ハ國民ノ租税ノ奉納ヲ以テスベキモノデアリマシテ、
皇室ガ別ニ私有財産ヲ持タレテ別途ニ収入ヲ計ラルクリカエシ事ハ 國體ノ原理上甚ダ矛盾スル処ト信ジテ居リマス。
( 中略 )
私ハ 皇室費トシテ 数千萬又ハ一億圓ヲ毎年國民ノ租税ヨリ、
又ハ國庫ノ収入ヨリ奉納シテ御費用ニ充テ、皇室財産ハ國家ニ下附スベキモノト考ヘテ居リマス。
此ノ皇室財産ノ國家下附ト云フ事ガ 私ノ改造意見實行ノ基點ヲ爲スモノデアリマス。」

(五)  昭和一一年三月二〇日付第四回聴取書
( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書4) 『 柳川では遠い 』
一  この聴取書の前半では、「 今回ノ事件ニ關スル打合セ内容及役割ノ分担等 」 について、
  これまでの北の供述のまとめがなされている。
北は、次のように幇助の事実を自認する。
二十七日ニナリ、私ハ自發的ニ電話ヲ以テ、栗原又ハ村中ヲ呼出シ、眞崎説ニ一致シテ一任スル事ヲ極力勧告致シマシタ。
又 薩摩ニ頼ンデ、加藤寛治、小笠原長生氏等ノ盡力デ 海軍側カラ青年將校ノ眞崎説ニ意見一致シタ事ヲ基としテ
眞崎内閣ノ出現ヲ以テ當面ノ時局ヲ収拾
セラルル様 働イテ貰ツタノデアリマス。」

二  公判では、蹶起青年将校その他事件関係者たちとの交友関係について説明する。
  その中で、北は、青年将校たちと会談したときの話の内容について、次のように述べる。
「 私ノ性質トシテ 理論メイタ事ヤ議論ヲ上下スルト云フ様ナ事ハ非常ニ嫌ヒナノデ、愉快ニ多ク漫談ヲシテ別レル程度デ、
 若シ改造案ニ對シテ質問ナドノ出ル場合ハ、ソンナ面倒ナ話ハ西田君ヤ諸君デ研究シテ呉レト云フ位ニシテ、
多ク話題ヲ他ニ轉ジタノデアリマス。只 其ノ時ニ私ガ關心ヲ持ツテ居ル對外策ナドニ就テ話ノアツタ場合ハ、
私モ相當処見ヲ述ベタ事ハアリマス。」

主な事件関係者との交友関係についての北の供述の要旨は、次のとおりである。
 ( 番号は、筆者が付したものである )
①  西田について
  大正十一年頃が初めての面識であった。
同一五年に日本改造法案大綱を西田に与えてから深い関係となり、前後一〇年間は生活費の大部分を私が出している。
「 所謂五 ・一五事件デ西田ガ一命ヲ拾ヒマシテカラハ、両者ノ間全ク親子ノ様ナ心持チデ居ツタ 」 という。
②  村中について
  西田の入院中に面識を得た。一〇回くらい来訪している。
③  磯部について
  二、三年前に西田に連れられて來訪した。 四、五回位会つただけである。
④  澁川について
  士官学校退学後に西田が連れて来て会った。
最近は、相澤事件公判を傍聴したというので、村中と二人で一回來た。
⑤  山口大尉について
  五 ・一五事件のとき西田の病院で会った。
それ以来ときどき来遊していたが、
昨年十月私が中野に轉宅して遠くなったので、来ていない。
もっとも、年始に澁川と来て、酒を飲んで帰ったことがある。
⑥  
安藤について
  五 ・一五事件のとき西田の病院で会った。西田と二、三回來たくらいである。
⑦  栗原について
  五 ・一五事件のときに、病院か私宅で度々会った。
「 非常ニ急進無謀ノ事ヲ考ヘル男デスカラ、私カラ特ニ注意シタ事ガ記憶ニ殘ツテ居リマス。」
⑧  香田について

  二、三回来訪したくらいである。

(六)  昭和一一年三月二一日付第五回聴取書
( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書4) 『 柳川では遠い 』
一  この聴取書の前半では、高級将校との交友関係について供述する。
  その要旨は次のとおりである。
①  荒木大将について
  荒木が東京憲兵隊司令官のとき一度会っただけである。
②  本庄武官長について
  本庄が上海駐在武官 ( 少佐 ) 当時に親交があった。
武官長になったときにお祝いの手紙を出したが、会ったことはない。
③  眞崎大将について    一度も会っていない。
④  建川中将について    十月事件の最中に、直接会って苦言を呈したことがある。
⑤  石原、満井中佐について    一度も会っていない。
⑥  橋本中佐について    十月事件のときに一時間ほど会った。
⑦  小磯中将、柳川中将、山岡、小畑について    一度も会ったことはない。
二  この聴取書は、関口警部補の取調べを締めくくるものとして、
  次のような北の心境についての記述でおわっている。
一、終リニ
私ノ心境ハ
 私ハ如何ナル國内ノ改造計畫デモ國際間ヲ靜穏ノ状態ニ置ク事ヲ基本ト考ヘテ居リマスノデ、
陸軍ノ對露方針ガ昨年ノ前期ノ如ク 『 ロシヤ 』 ト結ンデ北支那ニ殺到スル如キ事ハ國策ヲ根本カラ覆スモノト考ヘ、
寧ロ支那ト手ヲ握ツテ 『 ロシヤ 』 ニ當ルベキモノト考ヘ、
即チ  陸軍ノ後半期ノ方針変更ニハ聊いささカ微力ヲ盡クシタ積リデアリマス。
昨年七月 『 對支投資ニ於ケル日米財団ノ提唱 』 ト云フ建白書ハ
自分トシテハ 日支ノ同盟的提携ニ米國ノ財力ヲ加ヘテ日支 及日米間ヲ絶對平和ニ置ク事ヲ目的トシタモノデ、
一面支那ニ於テハ私ノ二十年來ノ盟友張群氏ノ如キガ外交部長ノ地位ニ就イタノデ、
自分ハ此ノ三月ニハ久振リニ支那ニ渡ラウト準備ヲシテ居タノデアリマス。
實川時治郎、中野正剛氏等ガ支那ニ行キマシタ機會ニ
單ナル紹介以上ニツキ進ンダ話合ヲシテ來ル様取計ヒマシタノモ、其ノ爲メデアリマスシ、
昨年秋、重光外務次官ト私トモ長時間協議致シマシタシ、
又 廣田外相ト永井柳太郎君トノ間ニモ私ノ渡支ノ時機ニ就イテ相談モアリマシタ位デアリマス。
年末年始トナリ、次デ總選擧ナドガアリマシタノデ此三月ト云フ事ヲ豫定シテ居リマシタ。
私ハ戰敗カラ起ル革命ト云フ様ナ事ハ 『 ロシヤ 』 獨逸ノ如キ前例ヲ見テ居リマスノデ、
何ヨリモ前ニ、日米間、日支間ヲ調整シテ置ク事ガ最急務ト考ヘマシテ、
西田ヤ青年將校等ニ關係ナク、私獨自ノ行動ヲ執ツテ居ツタ次第デアリマス。
幸カ不幸カ二月二十日頃カラ青年將校ガ蹶起スル事ヲ西田カラ聞キマシテ、
私ノ内心ニ持ツテ居ル先ヅ國際間ノ調整ヨリ始ムベシト云フ方針トハ全然相違モシテ居リマスシ、
且ツ 何人ガ見テモ時機デナイ事ガ判リマスシ、
私一人心中デ以外ノ返事ニ遭遇シタト云フ様ナ感ジヲ持ツテ居リマシタ。
然シ 満洲派遣ト云フ特殊ノ事情カラ突發スルモノデアル以上、
私ノ微力ハ勿論、何人モ人力ヲ以テシテ押エ得ル勢ヒデナイト考ヘ、
西田の報告に對して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。
殊ニ五 ・一五事件以前カラ 其ノ以後モ何回トナク勃發シ様トスルヤウナ場合ノ時
常ニ私ガ中止勧告ヲシテ來タノニ拘ラズ、今回ニ至ツテ人力致シ方ナシトシテ承認ヲ与ヘマシタノハ、
愈々責任ノ重大ナル事ヲ感ズル次第デアリマス。
從ツテ 私ハ
此事ニ依リテ改造法案ノ實現ガ直チニ可能ノモノデアルト云フガ如キ安易ナ楽観ナドハ持ツテ居マセン事ハ勿論デシタ。
只 行動スル青年將校等ノ攻撃目標丈ケガ不成功ニ終ラナケレバ幸デアルト云フ點丈ケヲ考ヘテ居リマシタ。
之ハ理屈デハナク私ノ人情當然ノ事デアリマス。
即チ 二十七日ニナリマシテ、私ガ直接青年將校ニ電話シテ、眞崎ニ一任セヨト云フ事ヲ勧告シマシタノモ、
只時局ノ擴大ヲ防止シタイト云フ意味ノ外ニ、
青年將校ノ身ノ上ヲ心配スル事ガ主タル目的デ
眞崎内閣ナラバ青年將校ヲムザムザト犠牲ニスル様ナ事モアルマイト考ヘタカラデアリマス。
此ノ點ハ、山口、龜川、西田等ガ眞崎内閣説ヲ考ヘタト云フノト動機モ目的モ全然違ツテ居ルト存ジマス。
私ハ眞崎内閣デアラウト、柳川内閣デアラウト
其ノ内閣ニ依ツテ私ノ國家改造案ノ根本原則ガ實現サレルデアラウナドト夢想ヲシテハ居リマセン。
私ハ 其ノ人々等ノ軍人トシテノ価値ハ尊敬シテ居リマスガ、
改造意見ニ就テ 私同様又ハ夫レニ近イ經綸ヲ持ツテ居ルト云フ事ヲ聞イタ事モアリマセンシ、
又 一昨年秋ノ有名ナ 陸軍パンフレット ヲ見マシテモ、 ( ・・・「 国防の本義と其強化の提唱 」 )
私ノ 
改造意見ノ如キモノデアルカ何ウカハ一嚮察知出來マセンノデ、
私トシテハ其ノ様ナ架空ナ期待ヲ持ツ道理モアリマセン。
要スルニ行動隊ノ青年將校ノ一部ニ改造法案ノ信奉者ガアリマシタトシテモ、
此ノ事件ノ發生原因ハ相澤公判及満洲派遣ト云フ特殊ナ事情ガアリマシテ、
急激ニ國内改造 即チ昭和維新斷行ト云フ事にナツタノデアリマス。
今日私トシマシテハ事件ノ最初ガ突然ノ事デアリ、
又二月二十八日以後ハ憲兵隊ニ拘束サレテ居リマシタノデ、
只希望トシテ待ツ所ハ
コウ云フ大キナ騒ギノ原因ノ一部ヲ爲シテ居ルト云フ私ノ國家改造案ガ、
更ラニ眞面目ニ社會ノ各方面ニ再檢討サレテ、其實現ノ可能性及容易性ガ認識セラレマスナラバ、
不幸中ノ至幸デアルト存ジテ居リマス。
即チ 如何ナル建築ニモ人柱を要スルト聞キマスガ、
青年將校 及 無力ナル私共ガ人柱ニナル事ニ依テ
大帝國ノ建設ヲ見ルコトガ近キ將來ニ迫ツタノデハナイカ等ト 獨リ色々ト考ヘテ居りマス。
以上 何回カ申上ゲタ事ニ依ツテ 私ノ關係シタ事及心持チハ全部申述ベタト思ヒマス。」

( ・・・リンク→・ 北一輝 (憲調書) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』 )


38 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一) 4 『 北の起訴前の供述 予審訊問調書 』

2016年09月24日 14時28分10秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

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四  北の起訴前の供述
4  予審訊問調書  

(一)  はじめに
予審官の北に対する被告人訊問調書は、全部で四通作成されている。
・・・(7) 軍法会議では、公訴提起前の被疑者も 「 被告人 」 と称していた
しかし、そのうちの一通は勾留訊問の際の簡単なものであり、
記録上は 「 第〇回調書 」 という際の数にカウントされていないので、本稿でもその例によることにする。
三回にわたって北を訊問した予審官は、伊藤章信陸軍法務官であり、
訊問に立ち会って調書を作成した録事は、鈴木又三郎陸軍録事であった。
伊藤は、その後 北等の公判を担当した裁判官でもある。
常設軍法会議においては、公判裁判官が予審に関与した場合は除斥事由に該当するが ( 陸軍軍法会議法八一条七号 )、
東京陸軍軍法会議は特設軍法会議とされたために排斥規定の適用が排除され ( 同法八六条 )、
このような、およそ訴訟法の常識に反する裁判官の任命も可能であった。
なお、訊問調書は問答形式で作成されており、問答ごとに番号が付されている。

(ニ)  昭和一一年四月一七日付被告人訊問調書 ( 勾留訊問調書 )
この調書は、予審官 ( 陸軍法務官津村幹三 ) の勾留訊問 ( 陸軍軍法会議法一四六条三項本文 ) に当って作成されたもので、
次のような簡単なものである。
( 第一ないし第三問答省略 )
四  問  反亂被告事件ニ附檢察官ヨリ強制處分ノ請求アリ、
  檢察官ニ對スル陸軍司法警察官ノ被告事件ノ送致書中ノ犯罪事實ハ斯様ニアルガ如何。
玆ニ於テ豫審官ハ、陸軍司法警察官ノ送致書中ノ犯罪事實ヲ讀聞ケタリ。
 答  罪ノ輕重ノ如キコトハ少シモ私ハ考ヘテ居リマセヌガ、事實ヲ有リノ儘ニ認メテ貰ヒ度イト思ヒマス。
之レガ爲ニ、意見ハ後日御取調ノ節詳細申述ベマス。

(三)  昭和一一年六月二〇日付第一回被告人尋問調書
この尋問では、北の革新思想の内容から始まって、北と事件との関係全般について訊問がなされているが、
とくに北 ・西田と青年将校との関係、北が事件の発生を予知した経緯、
事件発生後蹶起将校に対して、事態収拾につき眞崎大将への一任を助言した真意、
二月二七日夜の村中孝次との会見の目的等について、他の被告人の供述とも照合しながら、
鋭い追及がなされている。
なお、青年将校らに対する論告は六月四日であったが、将校班のほとんど全員に死刑が求刑されたことは、
当時北の耳に入っていたはずである。
以下、重要な問答を抄録する。
( 第一ないし第三問答省略 )
四  問  被告人ニ對スル被告事件ハ斯様ニ爲ツテ居ルガ、之ニ附陳述スル事アリヤ
  此時豫審官ハ豫審請求書記載ノ犯罪事實ヲ讀聞ケタリ
 答  事實ト相違スル點ガアリマスガ、要スルニ事實ヲ有リノ儘ニ認メテ頂キ度イト思ヒマス。
  罪ノ輕重ハ問フ所デアリマセヌ。
( 第五、第六問答省略 )
七  問  被告人ハ、現在ニ於テモ、國家改造論トシテ、日本改造法案ニ示ス内容ト同一ノ思想ヲ懐イテ居ルカ
 答  私ハ、二本ノ國内改造ノ必要ヲ痛感シ、
國家改造法案原理大綱ヲ執筆シタ當時ノ日本ノ客観的情勢ト、
其ノ後ニ於ケル情勢トハ漸次變ツテ來テ居リ、
又執筆當時頃ハ憲法其ノ他ノ參考書類モ手許ニ無カツタ次第デアリマスカラ、
現在ニ於テハ其ノ内容ニ付若干訂正シタイ所モアリマスガ、
根本ノ指導原理トシテハ變更ノ要ヲ認メテ居リマセヌ。
八  問  最近ニ於ケル青年將校ノ思想動向ヲ如何ニ観テ居ツタカ
 答  實ハ 私ハ或動機カラ法華經ノ讀誦ニ専念シ、信仰生活ヲ以テ日ヲ送リ、
  世間ト遠ザカツテ居リマシタノデ、青年將校等ハ私方ニ餘リ出入セズ、
彼等ト直接會フ機會ハ尠ナクナリ、又西田税ハ同人ガ五 ・一五事件ノ際狙撃セラレテ以來ハ、
私ガ西田ヲ心配スル以上ニ西田ハ私ノ身ノ上ヲ心配シテ、
餘リ人ニ會ツテ話ヲシナイ方ガ宜イト申シテ居ツタ様ナ譯デアリマシタノデ、
最近ニ於ケル青年將校ノ思想動向ニ付テハ、十分ナル認識ハ無カツタノデアリマス。
九  問  信仰生活ニ入ツタ動機ヲ述ベヨ
 答  私ノ現在ノ妻鈴ハ、私ガ上海ニ滞在中ニ馴染ニナツタモノデアリマスガ、
  同人ハ宿屋ノ縁續キノモノデアリマシタガ、其ノ身ノ上ハ非常ニ不幸ナ女デ、
夫ニ別レ、子供モアルト云フ狀況デアリマシタ。
其ノ當時、非常ニ不思議ナ事ガアリマシタ。
夫レハ、宋敎仁ガ暗殺せられて一週間計リ後ニ、
夜中私ノ横ニ寝テ居ツタ現在ノ妻 ( 當時女中 ) ガ突然奇聲ヲ發シ、
驚イテ眼が醒メタ処、眼前ニ宋敎仁ノ姿ガ現ハレタ事ガアリマシタ。
私ハ心ノ迷ヒナリト思ツテ居リマシタガ、
其ノ後退去命令ニ依リ東京ニ歸還シタ際一緒ニ聯レテ歸リマシタ処、
東京ニ來テカラ二年間程度 毎晩ノ如ク泣キ狂ヒ、或ハ呼吸ガ停リ、或ハ着物ヲ喰ヒサクナドノ狂態ヲ演ジ、
私ハ郷土ノ 「 ヒステリー 」 位ニ考ヘ、時々ハ腕力デ押ヘ附ケル等ノ事ヲシテ居リマシタガ、
其ノ後近所ニ霊媒者ガアリ、法華經ヲ讀誦シテ病気ヲ癒スト云フ事ヲ聞キ、
夫レヲ呼ンデ讀誦シテ貰ヒマシタ処、顔面痙攣けいれんシ、額ヨリ汗ヲ流シ、
腰ヲ押ヘテ苦シミ、宋敎仁ガ私ニ言ヒ殘シテ置キタイ事ガ澤山アツタノデ、
其ノ霊魂ガ妻ノ身體ニ乗り移ツテ居ツタノデアルト云フ事ガ判リマシタ。
其ノ後妻ハ以前ノ様ナ狂態ヲ演ジナイ様ニナリマシタガ、
法華經ノ靈驗アルコトヲ覺リ、爾來法華經讀誦ニ専念シ、信仰生活ニ入ツタノデアリマス。
其ノ後不思議ナ靈感ヲ感ズル様ニナリマシタ。
一〇  問  如何ナル場合ニ靈感ヲ感ズルノカ
 答  法華經ヲ一心ニ讀誦シテ居ルト、妻ニ或靈が乗リ移ツテ不思議ナ事ヲ告ゲルノデアリマスガ、
  最初ハ何カノ亡靈ノ処策ト考ヘテ其ノ儘意ニ介シマセンデシタガ、
後ニナツテ不思議ニ的中スル事ヲ發見シ、神靈ノ御告ゲデアルト思ヒ、
書キ殘シテ置ク事ニ致シテ居リマス。
初メノ間ハ言葉デ告ゲテ居リマシタガ、六、七年前頃ヨリ文字ガ現ハレテ見エルト申ス様ニナリマシタ。
要スルニ、或神靈ガ無智文盲ナ妻ノ身ニ乗リ移リ、私ヲ導イテ下サルモノト思ヒ、
毎日法華經ノ讀誦ヲ怠ツタ事ハアリマセヌ。
一一  問  今回ノ事件ヲ事前ニ於テ知ツタ狀況ヲ述ベヨ
 答  前に申シマシタ如ク、青年將校等ハ西田ト直接ノ交渉ハアリマシタガ、
  私方ヘ出入スル者ハ尠ナカツタノデ、私が事前ニ今回ノ事件ヲ知ツタノハ主トシテ西田ノ報告ニ依リマシタ。
本年二月中旬頃西田ガ私方ニ來タ際、相澤公判ノ進行狀況ヲ話シタ末、
公判廷ニ於テ弁護人側ヨリ申請スル證人ヲ裁判長ガ脚下スレバ、
青年將校ハ蹶起スルカモ知レヌ程ニ不穏ナ狀況デアルト申シマシタ。
其ノ後同月二十日頃西田ガ來マシテ、愈々青年將校ガ蹶起スルラシイト申シ、
其ノ理由トシテ、青年將校等ハ近ク満洲ニ派遣セラレ二年間ハ留守ニナル、
其ノ間ニ重臣 「 ブロック 」 が勢力ヲ盛リ返シ、軍部ヲ撹亂スルデアラウカラ、
満洲ニ行ク前ニ君側ノ奸ヲ除キ、昭和維新ノ捨石ト爲ル覺悟ヲ以テ決行スルノデアルトノコトヲ申シマシタ。
又 西田ハ 青年將校等ノ氣持が此処迄進ンデ居ル事ハ大勢デアツテ、
最早一人、二人ノ力デハ之ヲ抑止スルコトハ出來ナイコトニナツテ居ルト申シマシタノデ、
私ハ只 「 ソウカ 」 ト言ヒ、聞キ置イタダケデ特ニ意見ハ申シマセヌデシタ。
其ノ後西田ハ毎日ノ様ニ私方ニ來マシタガ、來ル度毎ニ蹶起ノ内容、襲撃目標等ヲ話シマシタ。
二月二十二、三日頃西田が來タ時、
襲撃目標ハ、岡田首相/齋藤内府/高橋蔵相/渡邊敎育總監/鈴木侍從長/牧野前内府/西園寺公
デアルコトヲ青年將校等ガ決定シタコト、
西園寺公ノ襲撃ハ豊橋ノ同志ガ担任シ、其ノ他ノ襲撃ハ東京在住ノ同志ガ担任セルコト、
後藤文夫/一木喜徳郎/伊澤多喜男/池田成彬/三井、三菱ノ主人公
等モ襲撃目標トシテ考ヘラレテ居ルガ、未ダ決定シテ居ラヌコト、
等ヲ話シマシタ。
夫レニ對シ私ハ、
「 既ニ青年將校ニ於テ決定シ居ル事ニ對シテハ兎ヤ角言ハナイガ、
 二流三流ノ所ヲ襲撃目標トシテ考ヘタリ、彼是考ヘルノハ、徒ラニ多クノ人ヲ殺ス事ニナルカラ、
常カラ言フ通リ最小限度ニ止メテ ナルベク多クノ人を殺サナイ方針デ進ンダ方ガ宜イデハナイカ 」
ト申シテ置キマシタ。
其ノ他、同月二十五日頃迄ノ間ニ、逐次西田カラ聞イタ所ニ依ルト、
一、二月二十二日ヨリ山口大尉ガ週番ニ勤務スルコトニナツテ居ルノデ、其ノ週番中ニ蹶起スルコト
一、村中、磯部、香田、安藤、栗原等ガ參加出動スルコト
一、牧野前内府ハ湯河原温泉ニ滞在中デアルカラ、東京部隊カラ出動スルコト、
  尚、西田ガ五 ・一五事件ノ際重傷ヲ受ケ、
  入院治療後湯河原温泉ニ轉地療養ニ行キ、宿泊シタ旅館ニ牧野ガ滞在シ居ルトノコトデ、
  不思議ナ廻リ合セダト話シテ居リタルコト、
一、宮城ノ入口ヲ封鎖スルコト、
一、多數ノ兵員ガ出動スルコト、
一、軍人以外ノ民間側同志ハ、一切參加シナイコトニナツテ居ルコト、
一、亀川哲也ガ資金トシテ千五百圓調達シテクレタコト、
一、後繼内閣ハ、軍首脳部ヲ中心トスル強力内閣デ、眞崎首相、柳川陸相と云フ所ガ皆ノ希望シテ居ル點ナルコト、
等ノコトデアリ、
尚以上ノ事ハ事前ニ於テハ誰ニモ話サヌ事ニナツテ居ルカラ、
西田ヨリ聞イタト云フ事ハ、
誰ニモ言ハヌ様ニ秘密ニシテ置イテクレトノ事デアリマシタ。
私ハ西田ニ對シ、
「 眞崎、荒木ハ一體デナイトイケナイノデハナイカ 」
 ト 聞キマシタラ、
西田ハ暫ク首ヲ傾ケテ居リマシタガ、
「 荒木ハ、曩さきニ陸相ノ時軍内ノ肅正モ出来ズ最早試驗濟ノ人デアルカラ、
 青年將校等ハ信頼シテ居ラヌ、荒木ハ関東軍司令官トナルノガ最モ適任デアルト考ヘラレテ居ル 」
ト申シテ居リマシタ。
私ハ 西田カラ右ノ事ヲ聞キ、蹶起後ノ事態収拾ニ附陸軍上層部 及 中堅將校方面ニ、
事前ニ聯絡提携ガ出來テ居ルノカ不明デアリマシタノデ、
其ノ點ヲ西田ニ尋ネマシタ処、西田ハ
「 ソンナ聯絡ハ出來テ居ラヌ様デアル 」
ト申シマシタノデ、
心ノ中デハ左様ナ事デハ蹶起シタ場合、面白クナイ結果ヲ生ジハシナイカト一抹ノ不安ヲ抱キマシタガ、
秘密保持ノ爲聯絡シテ置カヌノカ、
或ハ蹶起スレバ當然相呼應シテ彼等ノ希望ヲ達成シテクレル目途ガツイテ居ルノデ 敢テ聯絡シナイノカ、
彼等ノ意思ガ判斷出來カネタノデ、私ハ突込ンデ尋ネル事モシマセヌデシタ。
尚 西田ニ對シ、
「 君ハ何ウスルノカ 」
ト尋ネルト、西田ハ悲痛ナ顔色ヲシテ、
「 今度ハ私ヲ止メナイデ下サイ 」
ト申シマシタ。
五 ・一五事件ノ時、
其ノ一ケ月半程度前ニ私ガ西田ニ忠告シテ、彼等ノ仲間カラ手ヲ引ク様ニシタ爲、
西田ハ遂ニ裏切者ト見ラレテ川崎長光カラ狙撃セラレ、重傷ヲ受ケタノデアリマス。
爾來西田ハ、同志カラハ官憲ノ 「 スパイ 」 ノ如ク見ラレ、
此事ヲ非常ニ心苦シク感ジテ居ツタ様デアリマシタ。
其ノ後ハ、西田が起タヌカラ青年將校ガ蹶起シナイノデアル、
西田サヘ倒セバ青年將校ハ蹶起スルト云フ風ニ同志カラ一般ニ思ハレテ居ツタ様デアリ、
西田ハ妙ナ立場ニ置カレテ苦シンデ居リマシタ事ハ、私モ承知シテ居リマシタノデ、
西田ハ右ノ如ク 「 今度ハ止メナイデクレ 」 ト悲壯ナ言ヲ發シタ時、
私ハ胸ヲ打タレタ様ニ感慨無量トナリ、非常ニ可愛サウナ気持ニナリマシタ。
此氣持ハ 西田ト私トノ關係ヲヨク知ツテ居ル者デナケレバ、諒解の出來難イ點デアリマス。
私ハ 只 「 サウカ 」 ト言ツテ彼ノ申出ヲ承認セザルヲ得ナカツタノデアリマス。
ソシテ 西田ハ遂ニ青年將校ノ大勢ニ動カサレテ、
彼等ト合流シテ行カザルヲ得ナイコトニナツタカト考ヘ、
斯様ニナツタ上ハ、私モ只西田ノ行動ニ從ツテ、
唯々諾々トシテ西田ニ從ツテ行ツテヤルヨリ外ナシト覺悟ヲキメタノデアリマス。
一二  問  村中孝次カラモ、事前ニ於テ蹶起の事ヲ聞イタノデナイカ
  此時豫審官ハ、村中孝次第三回豫審訊問調書第三十一乃至第三十七問答ヲ讀聞ケタリ
答  村中孝次カラハ、事前ニ或程度ノ事ヲ聞イテ居リマシタガ、
  只今御讀聞ケニナツタ様ナ詳シイ事ハ、村中ヨリ直接聞イタ記憶ガナイ様ニ思ヒマス。
私ノ記憶ニ殘ツテ居ル事ハ、
一、二月二十四日前後頃村中ガ來テ、青年將校ガ不穏ノ形勢ガアルト申シ、
  師団ノ渡満前ニ東京の青年將校同志ガ蹶起シテ、君側ノ奸ヲ討ツ事ニナツタコト、
一、其ノ後更ニ來テ、兵馬ノ大權干犯者ヲ討チ、君側ノ奸ヲ除ク事ガ御稜威ヲ現ハス途デアルカラ、
  此方針デヤルト申シタノデ、私ハ、
 「 夫レナラバ、其ノ範囲内ダケデヤレバヨイダラウ、餘リ範囲を擴メルト、洪水デ堤防ガ崩レタ様ニナツテ、
  事態収拾ノ途ガツカヌコトニナルカラ 」
 ト 注意シ、□□ノ範囲ヲナルベク擴大セヌ様ニセヨト云フ意味ノ事ヲ注意シタコト、
一、蹶起後ハ、陸軍省、參謀本部等麹町附近一帯ヲ占據シ、
  陸軍大臣ニ軍内肅正ニ關スル意見ヲ述べル筈デアルコトヲ申シタノデ、私ハ、
 「 君等ノ主張シテ居ル所ヲ貫徹スル意味ニ於テ、ヨク考ヘテヤツタラ宜カラウ 」
 ト申シタコト、
一、二月二十四日頃來テ明治陛下御尊像前デ法華經ヲ讀誦シタ際、妻ニ靈告ガアリ、
  大内山ニ光射ス 暗雲無シ
 ト現ハレタノデ、青年將校蹶起ノ目的モ天聽ニ達シ、比較的純心ノ人々デ内閣ヲ組織スルニ至ルモノト思ヒ、
 「 豫テ皇室ノ事ヲ御心配申上ゲテ居ツタガ、之デ大ニ安心シタ 」
 ト 村中ニ言ヒマシタコト、
一、同日村中ガ野中大尉ノ書イタ 「 蹶起ニ關スル決意 」 ト題スルモノヲ見セタノデ、
  私ハ夫レヲ一讀シ、野中大尉ニハ一度モ面會シタコトガナイガ、其ノ至誠ガ紙面に躍動シテ居ルノヲ感ジ、
 實ニ名文デアルト思ヒマシタノデ、
「 名文ト云フモノハ至誠カラデナイト出來ナイモノデアル 」
 ト感歎ノ辭ヲ漏シタコト、
一、同日村中ノ申出ニ依リ、二階ノ一室ヲ貸シテ遣ツタ所、
  同人ハ其ノ室デ正午頃迄何カ仕事ヲシテ居ツタ様デアリマシタガ、
 其ノ後昼食ヲトモニシテカラ歸ツテ行ツタコト、
等デアリマシタガ、蹶起シタ以上ハ、最後ノ一兵ニナル迄戰ハネバ駄目ダト云フ意見ヲ申シタ記憶ハアリマセヌ。
其ノ様ナ事ハ、西田ヲ差置イテ村中ト直接話ス様ナコトハナイト思ヒマス。
一三  問  二月二十四日村中ガ被告人方ニ來テ二階ノ一室ニ閉籠リ、正午頃迄何カシテ居ツタト云フ事デアルガ、
  夫レハ蹶起趣意書ヲ起案シテ居ツタノデハナイカ

 答  村中ガ一寸一室ヲ貸シテクレト申シタノデ、隣室ヲ使ヘト申シテ私ハ直グ階下ニ降リタノデ、
  其ノ後同人ガ何ヲシテ居ツタカ知ツテ居リマセヌ。
一四 問  蹶起趣意書を起案スルニ附、村中ヨリ意見ヲ求メラレタノデハナイカ
 答  其ノ様ナ相談ヲ受ケタコトハアリマセヌ。
  只 野中大尉ガ書イタト云フ 「 蹶起ニ關スル決意 」 ト題スルモノヲ見セテ貰ツテ、
其ノ時感歎シタ事ハ、前ニ申上ゲタ通リデアリマス。
一五  問  二月二十五日夜、被告人方ニ西田税ガ來テ宿泊シタトノコトデアルガ、其ノ時ノ狀況ヲ述ベヨ
 答  ( 前略 ) 西田ヨリ電話デ ( 中略 ) 
  「 今夜自家ニ居ツテハ都合ノ惡イ事ガアルカラ、先生ノ所ニ行ツテ泊リタイガ、差支ナイカ 」
 と申シマシタノデ、斷ル譯ニモ行カズ、
「 來ルナラ來テモ宜シイ 」 ト答ヘマシタ処、同日午後十一時頃西田が獨リデ私方ニ參リマシタ。
ソコデ、階下ノ卓上電話ノアル室ヲ西田ノ居室ト定メ、同室カ其ノ隣室カデ暫く同人ト話シマシタ。
其ノ時西田ハ、
一、愈々明朝決行スルコト、
一、龜川ガ千五百圓資金ヲ調達シテクレタコト、
三、西園寺公襲撃ハ都合デ取止メタガ、之ハ元老デエライカラ止メタノデナイト云フコト、
等ヲ話シ、非常ニ沈痛ナ顔色ヲ爲シ、
「 居テモ立ツテモ居レナイ様ナ氣ガスルカラ、此家ヘ來タ 」
ト 申シ、餘リ話シタクナイ様ナ様子デアリマシタノデ、
西田トシテハ無理カラヌ事ト思ヒ、私モ餘リ話ヲシナイ様ニシテ居リ、
其ノ後寝室ニ引上ゲマシタ。 
( 第一六、第一七問答省略 )
一八  問  二月二十六日ノ行動ヲ述ベヨ

 答  ( 前略 ) 同日西田ガ來テ、軍事參議官全員ト蹶起將校トノ會見顚末ニ附、
一、軍事參議官ハ非常ナ感激ヲ以テ、參議官一同モ若イ者ト共ニ仕事ヲシテ、昭和維新ニ直進シヤウト言ハレタコト、
二、蹶起ノ趣旨ハ天聽ニ達シテアルト云フ、陸軍大臣ノ示達ガアツタコト、
三、青年將校カラハ、臺灣ノ柳川中將ヲ持出シテ、次ノ内閣首班ニシテ貰ヒタイト要求シタコト、
四、荒木大將ハ、サウ云フ事ハ大權私議ニ亘ルト言ツテ小理屈ヲ言ツタト云フコト、
ト云フ事ヲ話シテクレマシタ。
私ハ西田ニ對シ、
「 言葉ノ言ヒ現ハシ方一ツデ、大權私議ニモナルサ 」
ト申シタ処、西田ハ聞キタクナイ様ナ様子デ電話機ヲ握ツテ居リマシタ。
又 軍事參議官ガ非常ナ感激ヲ以テ青年將校等ト會見シヤウトシテ、昭和維新ニ直進シヤウト迄申サレタ事ニ對シ、
青年將校等ガ事態収拾ニ附柳川説ヲ持出シタノハ、眞崎首相、柳川陸相ト云フ豫定ノ話ト相違スルノミナラズ、
軍事參議官一同ニ對する不信任ノ意思表示ヲシタ事ニモナルノデ、
拙イコトヲシタナト思ヒマシタガ、既ニ濟ンダ事デアリマスカラ西田ニハ何トモ言ヒマセヌデシタガ、
私ハ肝ノ中デ、斯様な事デハ今後ノ処置ヲ如何ニシタラ宜イカと、
獨リ心ヲ砕イテ憂ヘテ居リマシタ。 ( 後略 )
( 第一九問答省略 )
二〇  問  二月二十七日ノ行動ヲ述ベヨ
 答  私ハ、二十六日軍事參議官ト青年將校トノ會見ノ際、
  青年將校等ガ柳川説ヲ持出シタノハ却テ軍事參議官ノ顔ヲ潰シタ事ニナリ、
 困ツタ事ニナツタト考ヘ、其ノ事許リ氣ニ懸ツテ心配シテ居リマシタガ、
二十七日朝カラ法華經ヲ讀誦シ、一心ニ其ノ善後策ニ付祈願シテ居リマシタ処、
人無シ勇将眞崎在リ 國家正義軍ノ爲號令シ 正義軍速ニ一任セヨ
ト云フ靈示ガ現ハレタノデ大ニ喜ビ、此事ヲ西田ニ話シ、青年將校ニ傳ヘル様ニ申シマシタ。
同日午前中西田ガ栗原中尉ト電話デ話ヲシタ後ヲ受ケテ、
私ハ同中尉ニ對シ、
「 君達ハ昨日軍事參議官ト會見ノ際、臺灣ノ柳川中將ヲ持出シタサウデアルガ、
 臺灣カラ東京ヘ來ルノニ十日モ二十日モ掛ル、柳川ニ限ツタ事デナイデハナイカ、
又柳川一人ガ完全ナ者デアルカ何ウカ判ラヌデハナイカ、
東京ニ居ル人デモ偉イ人ガアルト思フ、御經ニモ斯ク斯クト出タノデアルカラ、
此際眞崎ニ一任シテハ何ウカ、是非柳川ト云フ事ナレバ、陸相ニデモセバ宜イデハナイカ。
然シ 斯様ニシテクレト差出ガマシク言フ事ハ、大權私議ニ亘ルカラ、
ヨク言葉ノ言ヒ現シ方ヲ考ヘテ、呉々モ大權私議ニ亘ラナイ様ニ、
今一度軍事參議官ニ御願ヒシテ見タラ何ウカ、
仮令ヘバ、此際眞崎ニ時局ヲ収拾シテ貰フ事ニ附
軍事參議官ノ方デ意見一致シテ貰ヒタイト言ヘバ、大權私議ニナラナイデハナイカ。
又、此様ナ場合ニハ、故意ニ分裂ヲ企圖シ、水ヲ注ス者ガアルカラ、ヨイ加減ノ処デ折合ヒ、
軍内上下一致シテ事ヲ運ブ様ニ注意セネバナラヌ、又夫レニハ軍事參議官ノ意見一致ト同時ニ、
君等青年將校全部ノ意見ヲ一致サセテ、事態ノ収拾ヲ眞崎大將ニ一任スベキデアル、
而シテ一任シタ以上ハ總テ白紙デ一任シ、条件ナドハ持出サナイ様ニシナケレバナラヌ、
左様スレバ、君等ノ希望シテ居ル通リ眞崎内閣ガ成立シ、
君等ヲ有利ニ保護シテクレル事ニナルデアラウ 」
ト云ふ趣旨ノ事ヲ約長時間ヲ要シ諄々ト説論致シ、前陳御經ノ文句ヲ書取ラセマシタ処、栗原ハ、
「 ヨク判リマシタ、早速我々青年將校一同ノ意見ヲ纒メテ左様致シマセウ 」
ト申シマシタ。
更ニ私ハ、西田ガ村中孝次ト電話デ話シテ居ル後ヲ受ケテ、
村中ニ對シテモ栗原ニ申シタト同様趣旨ノ事ヲ申シテ、青年將校ニ意見ヲ速ニ纏メル様ニ勧告シマシタ。
同日午後四時カ五時頃村中ヨリ西田ニ電話ガ掛リ、其ノ後ニ私ヲ呼出シ、
「 先程軍事參議官ハ全部見ヘマセンデシタガ、眞崎、阿部、西 三大將ガ見ヘテ青年將校一同ト會見シ、
一、我々青年將校ハ、一致セル意見トシテ、眞崎閣下ニ一任シタキコト、
二、軍事參議官ノ方々モ、意見一致シテ眞崎閣下ニ時局ノ収拾ヲ一任セラルル様御願ヒシタキコト、
三、此際上下一致シテ進ンデ行キタキコト、
四、眞崎閣下ヲ中心トシテ、時局収拾スル事ニ御決定ノ上ハ、速ニ上奏シテ其ノ實現ヲ期スル様ニ御盡力アリタキコト、
等ヲ大權私議ニ亘ラヌ様ニ申シマシタ処、
君等モサウ話ガ判ツテクレレバ誠ニ結構デアル、
早速他ノ參議官ノ方々トモ相談シテ返事ヲスルカラ、ト云ふ事デアツタ 」
ト知ラセテクレマシタ。
又 栗原ヨリ西田ニ電話ガ掛ツタ時、私ガ西田ト代ツテ話シマシタラ、栗原ハ、
「 眞崎、阿部、西ト會見シタガ、阿部ト西ハ我々ノ意見ニ至極同感デアルト言ハレタガ、
 眞崎ハ兎ニ角君等ガ先ニ兵ヲ引ク事ガ大事ダト言ハレタ 」
ト申シ、大變不平ラシイ口振デアリマシタ。
青年將校等ト三大將ノ會見顚末ハ、右ノ如キデアツタ事ヲ知リ、
之デ眞崎大將ガ時局収拾ノ爲乗リ出ス事トナリ、速ニ解決スルモノト考ヘラレマシタノデ、
私ハ非常ニ好都合ニ行ツタト喜ンデ、其ノ後ノ經過ヲ期待シテ居リマシタ。
( 中略 )
午後八時過頃村中孝次ガ軍服姿デ突然顔ヲ出シマシタノデ、
私ハ吃驚きつきょうシマシタガ喜ンデ迎ヘ、西田ニ傳ヘマシタ処、
西田ト亀川ガ來テ四人一座シテ話シマシタ。
私ハ、亀川ト其ノ時初メテ會見シマシタノデ、初對面ノ挨拶ヲシ、
相澤公判ニ附 盡力シテ居ル事ヲ西田カラ聞キ感謝シテ居ル旨ヲ陳ベマシタ後、
村中ハ、
一、陸相官邸デ大臣ト會見シタ顚末、
一、同日三大將ト會見シ、眞崎ニ一任シタ狀況ニ付テハ電話デ話シタ時ト同程度ノ顚末、
一、其他ノ經過ニ附、度々電話デ話シタ通リナルガ、電話ダケデハ物足リナク感ジ、
  一度顔ヲ見タカツタカラ出テ來タコト、
等ヲ陳べ、尚外部ノ方デハ我々ヲ支援同情シテ居ルカ否ヲ尋ネマシタノデ、
私ハ理解ノアル人ハ皆同情シテ居リ、殊ニ海軍側ハ皆同情シテ居ル事ヲ話シテヤリマシタ。
更ニ、村中ハ西田ノ質問ニ對シ、
一、戒嚴部隊ノ隷下ニ編入セラレタコト、
一、給与ハ部隊ヨリ受ケテ居ルコト、
一、皇軍相撃ニナラヌ様ニ、戒嚴司令部ト話合ツテ其ノ諒解ガ成立ツテ居ルコト、
一、今晩ハ各宿泊舎ニ就テ樂ニ給養セヨト言ハレテ居ルコト、
等ヲ申シ、西田ハ之ニ對シ、
「 夫レデハ、君達ハマルデ官軍デハナイカ 」
ト申シテ笑ツテ居リマシタ。
村中ハ約二、三十分間話シタ後歸ツテ行キマシタ。
( 中略 )
同日午前中薩摩雄次ガ來テ、西田ト何カ話ヲシテ行キマシタガ、
更ニ同日夜來タ時、私ハ薩摩ニ、
「 陸軍デ事を起シ陸軍ノ中カラ次ノ内閣ト云フノモ、世間ニ對シ心苦シイ所ガアラウカラ、
 海軍側カラ陸軍ノ眞崎ニ時局ノ収拾ヲ一任シヤウト云フ様ニ申出テ貰ヘバ、
陸軍側トシテハ意見ヲ一致セシメルノニ好都合デアラウト思フカラ、
小笠原中將 加藤大將
ニ話シ、尚陸軍ノ青年將校等ハ眞崎大將ニ一任スル事ニ意見一致シタ事ヲ話シテ、
海軍側カラノ盡力ヲ願ツテクレ 」
ト申シマシタ処、薩摩ハ加藤大將ニ電話ヲ掛ケ、右ノ趣旨ヲ申シテ居リマシタ。
電話ヲ終ツテ薩摩ハ、
「 加藤大將ニ電話ヲ掛ケタ処、同大將邸ニ小笠原中將モ來合セテ居リ、
 此際速ニ時局ヲ収拾スル事ガ必要デアルガ、
青年將校等ガ眞崎ニ一任ト云フ事ニ意見一致シタトスレバ好都合デアルカラ、
小笠原中將ト相談シ盡力スルト云フ返事デアツタ 」
ト申シマシタ。
其ノ後同夜十二時前後頃薩摩ガ更ニ加藤大將ニ電話ヲ掛ケタ際、
同大將ハ、先刻ノ話ニ依リ直ニ軍令部總長宮殿下ニ拝謁シテ、先程ノ意見ヲ申上ゲタ処、
宮殿下ハ早朝參内セラルルコトニナツタト云フ事ガ判リマシタ。
二月二十七日ハ、大體以上ノ様ナ状態デアリマシタ。
( 第二一問答省略 )
二二  問  村中孝次ガ被告人方ヲ訪問シタノハ、
  彼等ノ今後ノ態度ヲ決定スル爲ノ對策ヲ聞ク爲ニ來タノデハナイカ
 答  其ノ様ナ事ハナイト思ヒマス。
  村中ガ來タ時ノ話ニモ、今後ノ對策ヲ協議スル爲ニ來タト認メラルル點ハ尠シモアリマセヌデシタ。
又 其ノ以前ニ電話デ種々話シテ置イタノデ、今更改メテ意見ヲ述ベル事ハ何モナカツタ筈デアリマス。
村中ハ電話デ色々話シタガ、電話デハ物足リナイカラ顔が見タクテ來タト申シテ居リマシタガ、
彼ノ來タ眞意ハ其所ニ在ツタダラウト思ヒマス。
二三  問  村中ハ、蹶起以來ノ行動ヲ話シ、眞崎大將ニ一任ノ件ニ付軍事參議官ト會見シタ顚末ヲ話シタ処、
  被告人ヨリ、
今外部デ大分君等ノ行動ニ同情ヲ持ツ者ガ出テ來テ、大ニ聲援ヲ与ヘテ居ルカラ、
原位置ノ占據ヲ持續スル様ニセヨ
ト 言ハレタト申シテ居ルガ如何
 答  村中ハ、外部ニ於ケル同情支援ノ狀況ヲ知リタガツテ居ツタノデ、
  判ツテ居ル人ハ皆同情シテ居ルト云フ事ヲ話シテ遣リマシタ処、村中ハ、
「 眞崎内閣ニナル事ガハツキリキマツテカラ、原位置ヲ撤退シヤウト思フ 」
ト申シマシタガ、
軍事參議官ト會見シタ結果彼等ノ希望シタ通リノ返事ガアルダラウト思ハレマシタノデ、
「 兎ニ角明日返事ガ來タ上デ、原位置ヲ撤退スル事ニシタラ宜イダラウ 」
ト申シテ遣リマシタ。

(四)  昭和一一年七月三日付第二回被告人訊問調書
予審官ハこの取調べで、とくに北が青年将校らの自決を阻止した動機や北の国内改造方針などを追求して、
北が事件において主導的地位にあったことを認めさせようとしている。
しかし、北は最後までこれに屈服しない。
( 第一問答省略 )
二  問  二月二十八日蹶起将校ト電話聯絡シタ狀況ヲ述ベヨ
 答  同日ハ朝十時頃迄例ノ如ク讀經シテ居リマシタガ、
  私ハ只軍事參議官カラ蹶起將校等ニ對シ返事ノ來ルノヲ待ツテ居リマシタ。
西田ニ對シテ度々返事ノ來タカ否カヲ問合セテ貰ヒマシタガ、返事ガ來ナイトノ事デアリマシタ。
然ルトコロ同日午前中デアツタト思ヒマスガ、西田が私ヲ呼ンデ、
「 今栗原カラ電話ガ掛リ、腹ヲ切ルト申シテ來タ 」
ト告ゲマシタノデ、驚イテ私ハ電話ヲ掛ケ、栗原ニ、
「 一體体何ウシタノダ 」
ト尋ネルト、栗原ハ、
「 山下少將トカ鈴木貞一大佐トカニ勧メラレテ、自決スル事ニナツタ、モウ之デ何モカモ駄目デス 」
トノ事デアリマシタ。私ハ、
「 軍事參議官カラ返事ガアツタカ、返事ノ來ナイ内ニ腹ヲ切ツテ了ヘバ、
 取返シノツカヌ事ニナルデハナイカ、マルデ早野勘平ノ様ナ話デハナイカ 」
ト申シテ自重スル様ニ勧告シマシタガ、同人ハ生返事ヲシテ居リマシタ。
當時私ノ心持ハ、二十七日ニ於ケル三大將トノ會見デ、
陸軍ガ上下一致シテ眞崎ヲ奏請スル事ニナルノデアラウ、
サウナレバ、蹶起將校等ノ爲有利ニ時局ヲ収拾シテクレル事ニナルデアラウト考ヘ、
只管其ノ實現ヲ期待シテ居ツタノデアリマス。
然ルニ栗原カラ突然自決ノ電話ヲ知リ、實ニ思ヒガケナク感ジタノデアリマス。
同日正午過頃ヨリ討伐命令トカ、奉勅命令トカニ依ツテ討伐スルト云フ噂ガ立チマシタノデ、
事態ノ推移ヲ心配シテ居リマシタ。
然シ私ハ、奉勅命令ノ定義ガ判ラナカツタノデ、西田ニ尋ネマシタ処、
「 戒嚴司令官ノ命令即奉勅命令デアル 」
トノ事デアリマシタ。
行動將校等ハ、前日ヨリ戒嚴司令官ノ隷下ニ編入セラレテ官軍ノ様ナ取扱ヲ受ケテ居ルニ拘ラズ、
今更戒嚴司令官ノ命令ニ依リ討伐スルト云フ事ハ解シ難イ點ガアリマシタノデ、
奉勅命令ト云フ事ハ 「 脅カシ 」 ニ過ギナイダラウト思フテ居リマシタ。
スルト同日午後三時過頃村中ヨリ電話ガ掛リ、
西田ガ聞イタ後デ私モ受話器ヲ執リマシタ処、村中ハ、
「 奉勅命令ニ依リ我々ヲ討伐スルトノ事デアルガ、其ノ眞偽ハ不明デアルガ、
 恐ラク脅カシデハナイカト思フ 」
ト申シ、非常ニ興奮シテ居ツタ様デアリマス。
私ハ、軍事參議官カラ返事ガ來タカト尋ネルト、來ナイトノ返事デアリマシタノデ、
「 自決スルト云ふ事ハ最後ノ問題デアル、奉勅命令ハ君ノ言フ通リ恐ラク脅カシデアラウカラ、
 慌テテ自決スルヨリハ寧ロ其ノ眞偽ヲ確メル必要ガアルデハナイカ、
一度蹶起シタ以上ハ、其ノ目的ヲ貫徹スル爲ニ、徹底的ニヤル必要ガアルデハナイカ、
軍事參議官カラハ返事モ未ダ來ナイトノ事デアレバ、
更ニ陸軍ガ上下一致シテ眞崎内閣ガ出現スル様ニ努力スル餘地ガ殘サレテ居ル様ニ思フカラ、
夫レヲヤツテ見タ上デ何ウシテモイケナケレハケ、最後ニ自決スレバヨイデハナイカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ勧告シテヤリマシタガ、
村中ハ、只 「 エー、エー 」 ト生返事ヲシテ要領ヲ得ナイ様デアリマシタガ、最後ニ、
「 ヨク判リマシタガ、我々ハモウ決心ヲシテ居ルノデス 」
ト申シ、「 パチン 」 ト電話ヲ切ツテ了ヒマシタ。
私ハ、未ダ時局ノ収拾モ着カナイノニ彼等ガ腹ヲ切ツテ了ヘバ、今後事態ハ益々惡化シ、
混亂シ、収拾ノツカナイ事ニナルノデハナイカト考ヘ、心配して居リマシタ。
尚、村中ニ對シ電話デ話シタ際、
「 君等ガ死ンデ了ヘバ、我々ハ晏如ト生キテ居レヌデハナイカ 」
ト云フ事モ申シテヤリマシタ。
西田モ亦私ト同様ナ趣旨ヲ栗原ヤ村中等ニ申シテ居リマシタ。
大體以上ノ様ニ記憶シテ居リマス。
三  問  何故自決ヲ阻止シタカ
 答  眞ノ奉勅命令デアレバ勅命ノ儘ニ從フベキコトハ
  申ス迄モアリマセヌガ、當時私ハ前申シタ通リ何カ爲ニスル脅カシデアラウト思ヒ、
其ノ眞偽不明デアリマシタノデ、左様ナ事ニ脅カサレテ慌テテ自決シテ了ヘバ、
跡デ取返シノツカナイ事トナリ、又私ハ、何トカシテ若イ者等ノ爲ニ有利ニ展開サセテ遣リタイト念願シ、
薩摩雄次ヲ通シテ海軍方面ニモ聯絡シテ、陸軍側ヲ支援スル様ニ御願ヒシテ居リマシタノデ、
自決スルノハ未ダ早イト云フテ阻止シタノデアリマス。
又、自決スル前ニ若イ者等ノ爲ニ何トカ目鼻ノツク様ニシテ遣リタイ、
夫レデナケレバ彼等ハ餘リニ可愛サウダト思ヒマシタノデ、
軍上層部ニ御願ヒシテ見ル餘地ガアルノデナイカト話シテ、自決ヲ阻止シタ次第デアリマス。
四  問  其後如何ニシタカ
 答  同日午後六時前後頃突然澤山ノ憲兵ガ來テ、面會ヲ求メマシタノデ、
  當時來合セテ居ツタ薩摩ガ二階ニ案内シ、私ガ會見シマシタ処、
「 西田ガ居ルカ 」
トノ事であり、私ハ、
「 來テ居ラヌ 」
ト申スト、憲兵ハ電話ヲ掛ケタ後、私ニ憲兵隊迄同行ヲ要求シマシタ。
ソコデ私ハ、西田ノ身代リトナツテ暫ク連レテ行カレル覚悟ヲ定メ、夕食ヲ致シ、衣類ヲ着ケ、
薩摩雄次ニ對シ海軍側ニ聯絡シ、今後ノ時局収拾ニ付御願ヒスル様ニ頼ミ、
約三、四十分後憲兵隊ニ同行サレタノデアリマス。
( 第五ないし第七問答省略 )
八  問  二月二十七日村中孝次ヨリ被告人ニ電話ヲ掛ケ、
 「 我々ノ行動ヲ眞崎ニ一任スル事ニスレバヨイカ 」
ト尋ネ、被告人ハ夫レデヨイト答ヘ、其ノ後更ニ村中ニ電話ヲ掛ケ、
行動ヲ一任スルト云フヨリモ更ニ積極的ニ事態ノ収拾ヲ一任スル事ニシテハ何ウカ
ト勧告シタトノ事デアルガ如何
此時予審官ハ、証人村中孝次訊問調書第二十二問答ヲ讀聞ケタリ
 答  其ノ様ナ事ガアツタト思ヒマス。
然シ私ハ、眞崎ニ一任スルカラニハ一切ノ条件ヲ附ケナイデ總テ白紙デ一任シナケレバナラヌ、
從ッテ、行動モ時局ノ収拾モ總テ一任セヨト云フ意味デ話シテ遣ツタト思ヒマス。
當時私ハ、眞崎内閣ガ出來レバ若イ者等ニハ總テガ有利ニナリ、
若イ者等ヲ此儘見殺シニスル事ハアルマイト思ツテ居リマシタノデ、
一刻モ早ク其ノ出現ヲ期待シテ居リマシタ。
九  問  村中孝次ハ事件ニ於テ、一定ノ場所ニ終結シ、上部工作ヲスル事ハ國體観念上疑問ニ思ヒ、
  被告人ニ尋ネタ処、
 「 十月事件ノ様ニ大詔渙發ノ爲陛下ヲ強要シ奉ル事ハ國體観念上許スベカラザル事デアルガ、
左様ナ事ニナラヌ範囲内ニ於テ上部工作ヲスル事ハ差支ナイカラ、
ヤル以上ハ一歩モ退カヌ様ニシテ目的ヲ貫徹セネバナラヌ。」 ト云フ意見デアツタト申シ居ルガ如何
 答  夫レハ二月二十四日村中ガ訪ネテ來タ際、
  村中ノ方デ左様ナ事ヲ申シタノデ、私ハ相槌ヲ打ツテ、
「 ヤルナラ徹底的ニシッカリヤラナイカヌ 」
ト申シテヤツタ様ニ思ヒマス。

一〇  問  二月二十七日栗原安秀ガ被告人ニ電話ヲ掛ケタ際、被告人ハ、
  「 外部ハ有利ニナツテ居ル、海軍側ハ一致シテ支援シテ居ル様デアルカラ、
  飽ク迄モ目的ヲ貫徹スル様ニセユ 」
ト激励シタトノ事デアルガ如何。
此時豫審官ハ、證人栗原安秀訊問調書第二十一問答ヲ讀聞ケタリ
 答  夫レハ、同日午後四時カ五時頃栗原ト電話デ話シタ時ノ事デハナイカト思ヒマス。
  同人ハ、内部ノ情報ニ附得意ニナツテ色々ノ事ヲ話シテクレマシタノデ、
外部モ刻々有利ニナツテ居ルト云フ事ヲ知ラセテ激励シテヤツタノデアリマス。
一一  問  今回ノ事件ニ參加シタ同志トノ關係ヲ述ベヨ
 答  事件ニ參加シタ将校其ノ他デ私ノ特ニ知ツテ居ルノハ、
 村中孝次 磯部淺一 栗原安秀 香田淸貞 安藤輝三 澁川善助 對馬勝雄
等位ノモノデアリマス。
何レモ國家改造ニ關シ私ノ著述シタ日本改造法案大綱ノ指導原理ヲ把握シ、
信奉シテ居ル者デアルト思ツテ居リマス。
右ノ外今回ノ事件ニ參加シタ中少尉ノ若イ連中ハ、大部分面識ハアリマセヌ。
從ツテ、如何ナル性質思想ヲ持ツテ居ルカ承知シテ居りませぬ。
一二  問  今回ノ事件ノ首脳部ハ誰カ知ツテ居ツタカ
 答  今回ノ事件ノ首脳部ガ何人デアツタカ全然承知シテ居リマセヌガ、
  磯部 栗原 村中 香田 安藤 河野 野中 
等ガ行動隊ノ幹部級トシテヤツタノデハナイカト想像セラレマスガ、事實ハ知リマセヌ。
一三  問  西田ハ事件ニ如何ナル關係ガアルト思ツテ居ツタカ
 答  青年將校ノ動靜ハ西田ヲ通シテ聞イテ居リマシタノデ、
  西田ハ改造法案ヲ介シテ青年將校等ニ對シ指導的立場ニ居リ、其ノ啓蒙ニ努力シテ居リマシタ。
然シ、西田ハ合法的ニ維新運動ヲ進メテ行ク主義デアリ、
直接行動ハ萬已ムヲ得ザル場合ノ外ナルベク之ヲ避ケネバナラヌト申シテ居リ、
私モ亦 西田ニ對シ常ニ其ノ趣旨ノ事ヲ申シテ居リマシタ次第デアリマス。
然ル処、今回西田ト關係深イ同志青年將校等ガ右趣旨ニ反シテ蹶起スベク計畫ヲ進メ、
夫レヲ知ツタ時ハ最早抑ヘ切レナイ情勢ニ進ンデ居つた爲、
西田ハ若イ者ト運命ヲ共ニスベク決心シ、
已ムヲ得ズ彼等ニ引ズラレテ渦中ニ投ズルニ至ツタモノト判斷シマシタ。
其ノ顚末ハ、既ニ申上ゲタ通リデアリマス。
一四  問  今回蹶起シタ同志等ノ思想的中心トシテ、被告人ヤ西田ガ彼等ヲ煽動シ、
  改造法案ノ趣旨ニ則り國家ノ革新ヲ企圖シタモノト認メラルルガ如何
答  軍首脳部其ノ他ニ於テハ、蹶起將校等ノ上ニ西田ガ居リ、
  其ノ上ニ北ガ尻押シシテ居ル位ニ考ヘラレテ居ルカモ知レマセンガ、
其ノ様ナ観方ハ全然誤ツテ居ルト思ヒマス。
私ハ、最初彼等ガ蹶起スル事ヲ聞キ、之ハ統帥權干犯者ヲ討ツ爲ニ軍部關係ノ者カ、
又ハ 軍内デ何人カガ中心トナツテ青年將校ヲ動カシテ居ルモノト推察シマシタ。
ソレ故、之ヲ抑止シタリ何カスルト、五 ・一五事件ニ於ケル西田ノ如ク大變ナ事ニナルト思ヒマシタガ、
夫レカト云ツテ深入スル事モ出來ナイト考ヘテ居リマシタ。
何レニシテモ、此蹶起ニ依リ、從來惡イ事ヲシテ居ツタ君側ノ奸ガ一掃サレ、
陸海軍ノ一致シタ強力内閣ガ出來、久シキニ亘ル 「 ロンドン 」 條約等ノ統帥權干犯問題ガ此機會ニ片ツクト考ヘテ居リマシタガ、
夫レ以上ニ之ヲ契機トシテ直ニ昭和維新ニナルモノトハ全然豫想シテ居ラズ、
又如何ナル内閣ガ出現シテモ直ニ以テ日本改造法案ニ示ス様ナ改革ガ行ハレルモノトハ信ジテ居リマセヌデシタ。
從ツテ 私ヤ西田ガ日本改造法案ノ趣旨ニ依リ國内改造ヲ斷行スル爲、
青年將校等ヲ煽動シ蹶起セシメタト云フ事ハ斷ジテアリマセヌ。
死ンダ森恪氏ガ今日生存シテ居ツタナラバ、私ハ或ハ同氏ヲ通シ大改革ヲ期待シタカモ判リマセヌ。
同氏ハ國内改造ニ附非常ニ進歩的ナ思想ヲ有シ、日本改造法案ノ指導精神ヲ把握シ、
二本ノ改造ハ之ニ依ラネバナラヌト主張シ、私モ當時同氏ニ期待シテ居リマシタガ、
其ノ急逝ヲ見テ失望落胆シ、爾來斷念シ、専ラ信仰生活ニ日ヲ送ツテ居ツタ次第デアリマス。
結局今回ノ事件ニ對スル私ノ關係シタ態度ハ、率直ニ申シマスト、
牧野内府ノ海軍ガ統帥權ノ獨立擁護ノ爲ニ困ラサレ、
更ニ斎藤内府ニナツテモ同様デ陸軍ガ困ラセレルト云フ狀態ナリシ爲、
軍首脳部即親爺等ガ統帥權ノ干犯擾亂ニ困ラサレテ居ルノヲ見ルニ見カネテ、
若イ息子等即青年將校等ガ之ヲ斬拂ウ爲ニ起ツタノデアルト推察シマシタノデ、
蹶起後此純情ナ青年將校ノ精神ヲ生カス爲ニ何ウシタラ宜イカトノ老婆心ヲ生ジ、
夫レニハ青年將校等ニ同情アリ、理解アル人ガ内閣ヲ組織スレバ、
必ズヤ青年將校等ニ對シ有利ニ處分シテクレルデアラウト考ヘ、
事前事後ニ於テ若干ノ支援幇助ヲシテ遣ツタ次第デアリマス。
一五  問  被告人ト眞崎大將トノ關係如何
 答  眞崎大將トハ之迄一回モ會見シテ居リマセヌガ、
  敎育總監更迭問題ヨリ惹ひきイテ相澤事件ガ勃發シテカラ、ヨク人ノ噂ニ上リ、新聞ニ現ハレ、
青年將校ノ崇拝ノ的トナツテ居ル事ヲ知リ、
又事件前ニ西田ヨリ眞崎内閣、柳川陸相ト云フ事ヲ若イ者等ガ希望シテ居ル旨ヲ聞キ、
實行力ノアル將軍デアルト思ツテ居リマシタ。
私ガ二月二十七日直接青年將校ニ電話ヲ掛ケ、眞﨑ニ一任セヨト勧告シタ事モ、
要スルニ時局ノ擴大ヲ防止スルト云フ意味ノ外ニ、純眞ナ青年將校等ノ身上ヲ心配シタ事ガ主タル動機デアリマシタ。
眞﨑内閣ナラバ青年將校等ヲ犠牲ニシ、見殺シニスル様ナ事ハアルマイト考ヘタノデ、
只管眞﨑内閣ノ出現ヲ祈リ、青年將校等ニ言ヲ盡シテ勧告シ、
又海軍側ノ諒解ヲ求メ、其ノ支援ヲ得ル爲努力シタノデアリマス。
一六  問  現下ノ國内情勢ヲ如何ニ観察シテ居ルカ
 答  日本ハ今ヤ經濟的封建制度トモ謂フベキ狀態デアリマス。
  即、三井、三菱、住友等ヲ封建時代ノ御三家ニ比スレバ、
日本ハ經濟生活ニ於テ三百諸侯ノ黄金大名ニ支配サレテ居ル形デアリマス。
故ニ、施政ノ局ニ當ルモノハ、何人デアラウト其ノ内面ハ所謂經濟大名即財閥ノ支援ガナケレバ存立スル事ガ出來マセヌ。
換言スレバ、總テガ金權政治ニナツテ居ルノデアリマス。
此金權政治ハ、政治ノ腐敗堕落ヲ來ス事ハ、歴史ニ示ス通リデアリマス。
最近暗殺其ノ他集團的ノ直接行動ニ依ル陰謀ガ逐次發生シタノハ、
右金權政治ニ依ル支配階級ガ腐敗堕落ノ一端ヲ暴露シ、
大官□□等ニ關スル醜態ナル不正行爲ノ曝露ニ其基因ヲ發シテ居ルノデアリマス。
右ノ如キ國内情勢ニ於テ、一方日本ノ對外關係ヲ見マスニ、
「 ヨーロッパ 」 諸國ハ第二ノ世界大戰ノ機運ガ醸成サレテ居ル様ニ思ハレ、
日本モ亦遠カラズシテ對外戰爭ヲ予想サレテ居ル狀態デアリマス。
而シテ、戰争中又は戰争ノ末頃ニ 「 ロシア 」 帝國、「 ドイツ 」 帝國ガ國内ヨリ崩壊ヲ來シ、
大改革ガ行ハレタ様ニ、
日本モ此儘ノ國内情勢デ對外戰争ニ臨ムニ於テハ、
三千年來光輝アル獨立モ或ハ一空ニ歸スル事ガナキニシモアラズト憂慮セラレルノデアリマス。
此點ハ既ニ最近四、五年來先覺者ニ憂慮セラレ、
日本ハ對外戰争ヲ決行スル前ニ先ヅ以テ國内改造ヲ合理的ニ完成セネバナラヌト考ヘラレルニ至リマシタ。
一七  問  國内改造方針如何
 答  私ノ改造法案ハ、一言ニシテ尽キルト思ヒマス。
  夫レハ、前申シマシタ金權政治ヲ一掃スルコトデアリマス。
日本ノ經濟生活ヲ支配シテ居ル財閥ノ富ヲ國家ニ歸屬シ、私人ノ企業ヲ國家ノ經營ニ移シ、
其ノ利益ヲ國家ニ歸屬セシメル事デアリマス。
其ノ指導方針ハ、日本改造法案大綱ニ示シテ居ル通リデアリマス。
一八  問  改造方針ヲ實現スベキ手段方法ハ如何
 答  日本ノ國體ハ、一天子ヲ中心トシテ万民一律ニ平等無差別デアラネバナリマセヌ。
  政治、經濟、法律 其ノ他ノ制度機構モ、此指導原理ニ出發シタモノデナケレバナリマセヌ。
然ラバ如何ニシテ其ノ改造ヲ實現スルカト申セバ、
聖天子ガ此改造ヲ斷行遊バスベキ大御心ノ決定ヲ致シマスレバ、即時ニ出來ル事デアリマス。
即、總テガ大御心ヨリ出發シタ改造デナケレバナリマセヌ。
臣下ガ大御心ヲ強制シ奉ル如キハ、斷ジテ我國體上許サルベキモノデアリマセヌ。
從ツテ、大御心ガ改造ノ要ナシト御認メニナレバ、百年ノ年月ヲ待ツト雖遂ニ其ノ実現ハ期待出來マセヌ。
之ガ又日本ト諸外國ト異ナル重要ナル點デアリマス。
諸外國ハ、屢々流血ノ惨ヲ見テ革命ヲ斷行シマシタガ、
日本ハ大御心ノ御決定ヲ待ツテ改造ヲ實現スル事ニナリ、極メテ平和裡ニ斷行セラレル譯デアリマス。
ソシテ、日本ハ結局改造法案根本原則ニ則リ、逐次改造ガ實現セラレツツアルノデナイカト観察シテ居マス。
其ノ一例ハ、日本ハ將來満洲ヲ手ニ入レ、西伯利亜ヲ領有シ、支那ヲ保護國トシテ東洋永遠ノ平和ヲ計リ、
其ノ盟主タラネバナラヌト云フ趣旨ヲ書イテ置キマシタガ、
當時ハ軟弱外交時代デ旅大還付等ノ事迄論議セラレタ頃デアリマスカラ、
矯激ナ議論ノ様ニ思ハレ、當路者ニ顧ミラレマセヌデシタガ、
満洲事變勃發ヲ契機トシテ結局私ノ意見ノ様ニ逐次實現サレテ居ルノヲ見テ、
私ハ自ラ慰メラレテ居リマス。
只私ハ、前ニ申シマシタ通リ國内改造運動ニ附テハ手ヲ引イテ、
専ラ信仰生活ニ餘生ヲ送ル事ヲ楽シミトシ、毎日法華經ヲ讀誦シ、
後一年スレバ専ラ祈リノ生活ニ入リ浸ル事ガ出來ルト思ヒ、樂シミニシテ居リマシタ。

(五)  昭和一一年七月九日付第三回被告人訊問調書
  最後の予審調書であって、北の心境を問うものである。
この四日前の七月五日、一七名の被告人に対して死刑の判決が下った。
常人では、テロ行為に直接参加していない澁川善助も死刑に処せられ、
また水上源一は、検察官の求刑が禁錮一五年であったのに死刑を宣告されている。
すでに北は、やがて訪れるべき自らの運命を悟っていたに違いない。
一  
 問  氏名ハ
 答  北輝次郎
二  問  之迄陳述シタ外ニ意見弁解ハナイカ

  此時豫審官ハ、嫌疑ヲ受ケタル原由ヲ告ゲタリ
 答  何モアリマセヌ。
三  問  現在ノ心境如何
 答  之迄度々私ノ態度ニ附キ申シマシタカラ更ニ改メテ申上ゲル事ハアリマセヌガ、
  私ハ蹶起將校等ノ背後ニ居ツテ彼等ヲ躍ラシ、私ノ理想トシテ居ル改造ヲ斷行スル爲ニ色々ノ策動ヲシタノデハナイコトハ、
諒解下サレタ事ト思ヒマスガ、尚念ノ爲ニ其ノ様ナ關係デナカツタ事ヲ斷言シタイト思ヒマス。
要スルニ、直接行動ニハ反對デアルガ、若イ者ガ蹶起シタ以上、
之ヲ其ノ儘傍観シテ居ル譯ニモ行カナイノデ、尠シデモ彼等ノ爲ニ有利ニナレンカト念願シ、
及バズナガラ若干ノ意見モ勧告シ、其ノ他若干ノ努力ヲシテ遣ツタノデアリマス。
此意味ニ於テ、今回私ガ此事件ニ係リ合ヒトナツタ事ハ、西田ガ偶々私方ニ來た爲デアリ、
何事モ前生カラノ因縁デアルト諦メテ居リマス。
其ノ他、申ス事ハアリマセヌ。