あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

栗原安秀 『 維新革命 』

2017年10月31日 14時24分45秒 | 栗原安秀

磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、
統制を乱すとか云って、如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、
進んで呉れないかと云ふ事が残念です。
栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、
なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。
今度、相沢さんの事だって青年将校がやるべきです。
それに何ですか青年将校は、
私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。
唯、自分がよく考えてやります。
自分の力で必ずやります。
然し、希望して止まぬ事は、
来年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、
私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出来ます。
栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、
私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は剣にかけても許しません。
私は必ずやるから磯部さん、その積りで盡力して下さい。

・・・『 栗原中尉の決意 』 


栗原安秀  クリハラ ヤスヒデ
『 維新革命 』
目次

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・ 昭和維新 ・栗原安秀中尉 

栗原中尉 ・ 救國埼玉挺身隊事件 
栗原中尉 ・ 幹部候補生教育の状態 
・ 
栗原中尉 「 教育方針は革命の二字につきる 」 
・ 栗原安秀の為人 
・ 
「 お前は自分の兵器を手入れすればよい 」 
・ ヤルヤル中尉 1 
・ ヤルヤル中尉 2 

・ 栗原中尉と十一月二十日事件
栗原中尉と斎藤瀏少将 「 愈々 正面衝突になりました 」
・ 篠田喬栄上等兵 ・ 相澤中佐事件前夜 「 明日は早いよ、大きな事件が起こるぞ 」

相澤中佐の公判の事及び私用等もあったので、
先輩の第一聯隊の中隊長である山口一太郎大尉を私宅に訪問しましたが、
此際相澤中佐の公判状況等を話した末に話がたまたま青年将校の事に及びました。
そして山口大尉は
「 何うも栗原さんかが隊内で盛んに飛廻っているらしい。
此分では何かやり兼ねない風があるが夫れでいいか」 
と云ふ意味の話があったので、私は 
「 そう云ふ事は困るし大体今の時機はそう云ふ時機でない、
 もっとも栗原君は平素そう云ふ事が癖の様になってゐるから
真意は判らないけれ共取返しの付かぬ様になっても困るから私が会って一度話して見やう 」 
と言ひ 
「 御会ひになったら一度私の家に来る様に言伝して欲しい 」 
と云ひ、別れて帰ったのでありました。
其の翌日は栗原君が来るだろうと思って待って居りましたが遂に同君は来ず待ち呆けに会った訳でありました。
其翌日でありましたから確か二月十八日、九日頃の午後聯隊内山口大尉から電話があり
「 栗原君に言伝したが行く必要ないと言ってゐるので 依頼は果したが何うにもならんから自分は知らんぞ 」 
と云ふ話でした。
其処で私は、「 夫れなら栗原君に電話口に出て貰ひたい 」 
と頼み、確か暫らくすると待ってゐる栗原君が出たと思ひます。
それで私は同君に 「 話したい事があるから来ないか 」 と言ひますと栗原君は、
「 行く必要ないと思ふ 別に話はありません 」 
と云ふ事でした。
私も同君の返事が意外に強いので内心一寸驚きましたが、 
「 君の方に話がなくてもこちらに話があるのだだから兎に角一度来て呉れ 」 
と話して電話を切ったのでした。
其のために栗原君は私の宅にやって来ましたので私から、
「 最近盛に君達はやって居る様だが何う云ふのだ 」 と聞きますと栗原君は、
「 貴方には関係ない 」 と云ふ意味の事を申し、
「 貴方には貴方の役割と云ふものがあろうし、 自分達には自分達の役割があるのだから話す必要はありません。
 公判の進行と維新運動とは別だと思ふ、貴兄には何も迷惑は掛けない積りである。
私共は満洲に行く前に是非目的を達したいと思って居る。
皆此の決心が非常に強くなってゐる、自分達の都合から云へば今月中が一番良い。
公判公判と云ふがそう期待が掛けられますか 」
と云ふ様な事を云って居りました。
私は此時
「 満洲に行くからやらなければならないと云ふ事は間違ひである。
 公判とは別だと云ふ事は其通りかも知れんが、それかと云って公判を放任したり 別だと云って、
そういう事にのぼせたりして軽挙妄動する事は以ての外である。
今はそう云った君等の考の様な事をする時機ではない。
まして今月中になどと云ふ事はいかん。引込みが付かなくなるではないか。
飛び廻って見ても案外人は動かないいし、動いた様に見えても表面一時的であって、
実は余儀なくそういう風な態度を執る時が多いのであって、結局いざと云ふ時には何もならんものだ。
斯ふ云ふ事は其の中の社会状勢の進展が自ら決定するものである。
殊に大っぴらに色々の事を言動する君の癖があるから却って引込みが付かないと共に、
最初からつまらぬ災を受けるのか落ちだ 良く考へ直して貰ひたい。
又僕等に迷惑を掛けぬと云ふが、僕個人としてはそんな事は問題ではないけれども、
最近の状勢では君等が何かすれば一般は直ちに僕等の関係を想像する、結局は同じ事だ 」
と云ふ様な事を話したのであります。
すると栗原君は
「 私共の事は心配して戴かなくとも良い、
 貴方が色々考へて居られる一般の大勢、指導、連絡ある方面の状態は貴方の希望する様にはなって居らないのですか、
矢張り貴方にも迷惑は掛かりますか 」
と云ふ様な事を云はれました。
其処で私は更に
「 僕の関係は未だ未だ前途遼遠である、僕は先を永く考へてゐるのである、
 兎に角無関係だと云っても夫れは御互丈の事で外からはそうは見ないのだし、
結局今変な事をすれば何もかも駄目になって仕舞ふ 」
と云ふ様な事を話したのでありますが、同君は
「 貴方からそう云ふ様な事を云はれるのは一番困る、まあ考へて見ませう 」
と云ふ様な言葉を残して結局は話も纏らず別れたのでありました
・・・西田税 警視庁第壱回聴取書・・・西田税 1 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」 
・・・西田税、栗原安秀 ・ 二月十八日の会見 『 今度コソハ中止シナイ 』 

電話のベルがけたたましく鳴った。
時計は六時半を回ったところだった。
「 私ども青年将校はいよいよ蹶起し、今払暁、岡田啓介、齋藤寛、高橋是清、鈴木貫太郎、渡辺錠太郎を襲撃し、
 岡田、齋藤、高橋、渡辺を斃し、鈴木に重傷を負わせました。」
「 西園寺公望、牧野伸顕は成否不明。」
「 おじさん、速やかに出馬して、軍上層部に折衝し事態収拾に努力して下さい 」
栗原の声ははずんでいたが、興奮しているようには聞こえなかった。
「 とうとうやったぞ 」
父の声に起き上がってきた史とて、眠れはしなかった。
「 クリコたちがやりましたか 」
と 言って一瞬立ちすくんだ。
やがて庇に積もり始めた雪を見やり、
やっと膨らみかけた腹部をさすって安堵の表情を 瀏に向けた。

齋藤の車が首相官邸に近づくと、
街路に機銃を据え、銃手が雪の上に伏せたまま哨戒線を張っている情景が見える。
車は歩哨に止められ、
銃剣を持ったままの兵が寄ってきて窓から覗き込みながら誰何した。
「 誰だ 」
銃を構えて、刺突の姿勢をとった歩哨に向かって、言った。
「 予備役陸軍少将、齋藤瀏だ 」
そう言ってから、ポケットの蓋を帰すと貼付してある郵便切手を見せた。
「 お通りください 」 歩哨の敬礼に、
「 ご苦労 」 と 返した齋藤は首相官邸の門柱を通過した。
 車おりてその押しつけし銃尖に
 わが名のりつつ雪の上に立つ
・・・ 斎藤瀏少将 「 とうとうやったぞ 」

白きうさぎ
雪の山より出でて来て
殺されたれば眼を開き居り
斉藤史
・ 斉藤史の二・二六事件 1 「 ねこまた 」 
・ 斉藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」
斎藤史の二・二六事件 3 「 天皇陛下万歳 」
・ ある日より 現神は人間となりたまひ
・ 野の中に すがたゆたけき 一樹あり  風も月日も 枝に抱きて
 

・ 「 芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」

 栗原安秀中尉の四日間 1
栗原安秀中尉の四日間 2
 
栗原安秀中尉の四日間 3 

栗原部隊
 ・「 若い男前の将校 」
 ・林八郎少尉 「中は俺がやる 」
 ・「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」
 ・林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』
 ・朝日新聞社襲撃
 ・朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』
 ・朝日新聞襲撃 ・緒方竹虎
 ・栗原中尉の専属運転手
 ・貧乏徳利 「 兵隊さんの心は解って居ます 」
 ・村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」
 ・磯部浅一 「 おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」
 ・池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一人とたいと思ひます 」
 ・栗原部隊の最期
 ・尾島健次郎曹長 「 たしかに岡田は、あの下にいたんですよ 」
 ・栗原中尉の仇討計画

・ 徳川義親侯爵 『 身分一際ヲ捨テ強行參内をシヨウト思フ 』

最期の陳述 ・ 栗原安秀 「 呑舟の魚は網にかからず 」 
・ 栗原中尉 『 維新革命家として余の所感 』
あを雲の涯 (九) 栗原安秀 
・ 「 栗原死すとも、維新は死せず 」 
・ 昭和11年7月12日 (九) 栗原安秀中尉 
・ 栗原安秀 潑 和田日出吉 宛

策的ノ判決タル真ニ瞭然タルモノアリ。
既ニ獄内ニ禁錮シ、外界ト遮断ス、何故に然ルヤ
余輩ノ一挙タル明に時勢進展ノ枢軸トナリ、
現状打破ノ勢滔々タル時コレガ先駆タル士ヲ遇するに極刑ヲ以テシ、
而シテ粛軍ノ意ヲ得タリトナス
嗚呼、何ゾソノ横暴ナル、吾人徒ニ血笑スルノミ、
古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟
余ハ 悲憤、血涙、呼号セント欲ス。
余輩ハカクノ如キ不当ナル刑ヲ受クル能ハズ。
而モ戮セラル、余ハ血笑セリ。
同志ヲ他日コレガ報ヲナセ、余輩を虐殺セシ幕僚を惨殺セヨ。
彼等ノ流血ヲシテ余ノ頸血ニ代ラシメヨ。
彼等の糞頭ヲ余ノ霊前ニ供エヨ
余ハ冥セザルナリ、余ハ成仏セザル也。

・・・維新革命家として余の所感


栗原安秀 潑 和田日出吉 宛

2017年10月30日 15時14分52秒 | 栗原安秀

二・二六事件の朝
当時の 「 中外商業新聞 」 の 和田日出吉が
首相官邸に乗込んで栗原中尉と会っている
  
栗原安秀

和田 一応これで襲撃が終わったというが、後はどうするつもりなのか
栗原 どうにかなるよ、
    僕たちはただ国家改造のガンをとり除いたのだから、後はさっぱりするよ
和田 君たちはどんな内閣を望んでいるのか、
    そうあって欲しいという希望や期待があるだろう
栗原 いろいろあるが、小畑や柳川がいる
和田 真崎大将はどうなんだ
栗原 それはずっと後じやないかね、
    とに角 今度出来るのは、出来たところでケレンスキー内閣だよ、
    本物はそのあとに出る
 

その后 お変りはありませんでしたでせう。
貴兄とはあまり古いおつき合ひではなかつたのですが、
お別れに際し 非常に懐しく感し 一筆差上けたわけです。
維新到顕一蹶、尤も時運轉国の一捨石となれば 幸甚、僕はそう確信してゐますよ。
貴兄とゆつくり呑む暇がなかつたのは残念でしたね、
その中にゆつくり僕の方へゐらつしやい。
蓮の葉の上てゆつくりとお話しをしませう。
森田さんは元気と思ひます、宜しくお傳へ下さい。
しみじみと人生を考へた呑氣な四月を送つたことを感謝せねばなりますまい。
鞏固なる信念と 勝利者たる誇りと 人生の秘奥の獲得と
この三つを持つて左様ならするのは至極愉快です
今年二十九才 とに角 なしたところは貴方の御推察通りてす
たとへ如何なる毀誉褒貶きよほうへんかあらうとも
時代飛躍の一助になつたことを喜ひます・
社會の溌溂たる動きを引き起したことを自ら信じませう
あまり長く書いても仕様かありませんから これで失礼
御元気にお暮し下さい  幸福を祈ります
七月六日  栗原安秀
和田日出吉様


栗原中尉 『 維新革命家として余の所感 』

2017年10月28日 05時36分42秒 | 栗原安秀

  
栗原安秀


維新革命家トシテ余ノ所感

昭和十一年七月初夏ノ候、余輩青年將校十数士 怨ヲ呑ミテ銃殺セラル
余輩 ソノ死ニツクヤ從容タルモノアリ、
世人 或ハ コレヲ目ニシテ天命ヲ知リテ刑ニ服シトサン。
断ジテ然ラザル也
余 万斛ノ怨ヲ呑ミ、怒リヲ含ンデ葬レタリ、
我魂魄 コノ地ニ止マリテ悪鬼羅刹トナリ 我敵ヲ馮殺セント欲ス。
陰雨至レバ或ハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン。
コレ余ノ悪霊ナリ。
余ハ 断ジテ成仏セザルナリ、断ジテ刑ニ服セシニ非ル也。
余ハ 虐殺セラルタリ。
余ハ 斬首セラレタルナリ。
嗚呼、天  何故ニカクモ正義ノ士ヲ鏖殺セントスルヤ
ソモソモ今回ノ裁判タル、ソノ残酷ニシテ悲惨ナル、昭和ノ大獄ニ非ズヤ
余輩青年將校ヲ羅織シ来リ コレヲ裁クヤ、余輩ニロクロクタル発言ヲナサシメズ
予審ノ全ク誘導的ニシテ策略的ナル、何故ニカクマデサント欲スルヤ
公判ニ至リテハ僅々一カ月ニシテ終リ、ソノ断ズルヤ酷ナリ
政策的ノ判決タル真ニ瞭然タルモノアリ。
既ニ獄内ニ禁錮シ、外界ト遮断ス、何故に然ルヤ
余輩ノ一挙タル明に時勢進展ノ枢軸トナリ、
現状打破ノ勢滔々タル時コレガ先駆タル士ヲ遇するに極刑ヲ以テシ、
而シテ粛軍ノ意ヲ得タリトナス
嗚呼、何ゾソノ横暴ナル、吾人徒ニ血笑スルノミ、
古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟
余ハ 悲憤、血涙、呼号セント欲ス。
余輩ハカクノ如キ不当ナル刑ヲ受クル能ハズ。
而モ戮セラル、余ハ血笑セリ。
同志ヲ他日コレガ報ヲナセ、余輩を虐殺セシ幕僚を惨殺セヨ。
彼等ノ流血ヲシテ余ノ頸血ニ代ラシメヨ。
彼等の糞頭ヲ余ノ霊前ニ供エヨ
余ハ冥セザルナリ、余ハ成仏セザル也。
同志ヨ須ク決行セバ余輩十数士ノ十倍ヲ鏖殺スベシ。
彼等ハ賊ナリ、乱子ナリ、何ゾ愛憐ヲ加フルの要アランヤ
同志暇アラバ余輩ノ死所ニ来レ。
冥々ナル怨気充満シアルベシ。
余輩ガ怨霊ハ濺血ノ地ニ存シ、人ヲ食殺セン
嗚呼、余輩国家ノ非常ノ秋ヲ座視スルニ忍ビズ、
可憐ナル妻子ヲ捨テ故旧ト別レ、挺身ココニ至レリ。
而モソノ遇セラレルコノ状ナリ、何ゾ何ゾ安心立命スル能ハンヤ
見ヨ、彼等腐敗者流依然トシテ滅ビズンバ
余即チ大地震トナラン、大火災トナラン、又大疫癘、大洪水トモナラン、
而シテ全国全土盡ク荒地トナラン
嗚呼、余輩ノ呼号ヲ聞ケ、
汝等腐敗者流ノ皮肉ニ食ヒ込ムベシ、汝等ノ血液を凝固セシムベシ
同志ヨ、余輩ハ地下ニアリテ猶苦悶シ、地上ニアリテ猶吐血シアリ、
余輩ノ吐キシ血ヲ以テ彼等ノ墓標トナサン。
見ヨ、暗黒ノ夜、青白ノ光ヲハナテルハ吾人ノ忿霊ナリ。
吾人ハ

< 註 >  これは死刑を宣告された後に書かれたものだが、完結していない。
 ここまで書いて栗原中尉は筆を擱き、
看守の平石氏にあまり未練を残すようだからと言って破棄するように託した。
平石氏はこれを預って秘蔵したものである。
河野司編 二 ・二六事件獄中手記 遺書  から
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『 鏖殺 』
ろうさつ   鏖 ・・みなごろし


『 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 』
ずる賢い兎(陸軍にとっての敵)が弱まれば、

それを追いかけた猟犬 ( 青年将校運動 ) は、必要なくなり、
煮て食べられる運命となった


『 栗原中尉の決意 』

2017年10月27日 16時02分51秒 | 栗原安秀


栗原安秀

栗原君は某日 余を訪ねて泣いた。

「 磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云って、
如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、進んで呉れないか
と云ふ事が残念です。
栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、
なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。
今度、相沢さんの事だって青年将校がやるべきです。
それに何ですか青年将校は、私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。
唯、自分がよく考えてやります。
自分の力で必ずやります。
然し、希望して止まぬ事は、
来年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、
私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出来ます。
栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、
私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は剣にかけても許しません。
私は必ずやるから磯部さん、その積りで盡力して下さい 」 と

「 僕は僕の天命に向って最善をつくす、唯誓っておく、
磯部は弱い男ですが、君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる。
私は元来松陰の云った所の、賊を討つのには時機が早いの、晩いのと云ふ事は功利感だ。
悪を斬るのに時機はない、朝でも晩でも何時でもいい。
悪は見つけ次第に討つべきだとの考へが青年将校の中心の考へでなければいけない。
志士が若い内から老成して政治運動をしてゐるのは見られたものではない。
だから私は今後刺客専門の修養をするつもりだ。
大きな事を云って居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ。
お互いに修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、
君と二人だけでやるつもりで準備しよう、
村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、
又 むかふの心中もよくきいてみよう 」
と 語り合ったのである。


磯部浅一 著
行動記  から


栗原中尉 ・ 救國埼玉挺身隊事件

2017年10月26日 14時26分47秒 | 栗原安秀

救國埼玉挺身隊事件 ( 昭和八年十一月十三日検挙 )
の中心人物である吉田豊隆 以下 同志数名の取調に依って、
同事件の背後に西田税と深い関係を有する陸軍青年将校栗原安秀等の
直接破壊行動に依る国家改造運動の存し、
同事件の運動の派生的事件であることが明らかになった。

栗原安秀中尉

急進青年將校を中心とする内亂陰謀事件
(一) 栗原中尉等幹部候補生を同志に獲得す
昭和六年秋の所謂十月事件以來 國家改造を熱望し、
自ら之が實行に當らんとして居った歩兵第一聯隊陸軍歩兵中尉栗原安秀は、
昭和七年十二月
幹部候補生として同聯隊に入營したる山内一郎、高木勇一、中西正之、北島一市 等に對し、
教官として學科教育の際、特權階級政党財閥の不純分子を一掃し
現在の國家及社會組織を破壊して 國家改造を斷行せざるべからず、
自己の幹部候補生教育の方針は 革命の二字に尽く と迄極言し、同人等を共鳴させた。
リンク→ 
栗原中尉 「 教育方針は革命の二字につきる 」 
其後 彼は幹部候補生に對し 聯隊將校室又は自宅に於て
資本主義機構 及 其の擁護機關たる現在の我が政治機構變革の要を説き、
或は レーニン、吉田松陰の批判を試み、
或は 五 ・一五事件が部分的テロであって全般的テロ 即ち 革命の手段と其の軌を異にする所以を説き、
自己の抱懐する革命理論を暗示する等 革命意識を注入向上せしむるに努め、
更に、自己等青年將校の改造運動は
終局 日本國家の政治的機構の全面的破壊 竝にその建直しにあるので、
其の手段としてクーデターを斷行し
憲法を停止し、
樞密院、貴族院諸般の制度を廢止し、
軍の獨裁政府を樹立し、
革命直後の國内混亂を救ひ
最後に革命委員會を組織し
我が國の根本的改造を遂げたる上、
亜細亜革命より世界革命に躍進すべき計畫であることを教示し、
革命の經典として 北一輝著 『 日本改造法案大綱 』 を交付し、彼等の革命參加を勧説した。

斯の如く 栗原中尉は幹部候補生を同志に獲得するに努め
昭和八年五月頃迄に 約二十餘名の同志を得、之を三班に分ち、
山内以下四名もをその首脳者となして一同の結束を堅めしめた。
同年七月十三日頃
栗原中尉の召集によって山内以下四名の首脳者は外十數名の幹部候補生と共に
東京市赤坂区青山五丁目寺院梅窓院に會合した。
近衛歩兵第三聯隊  中橋中尉
歩兵第一聯隊  前田軍曹
同  小島軍曹
も 之に加った。
栗原中尉は同年五月 千葉戰車隊附となって居ったが
會合の同志一同に對しクーデター斷行の近きことを告げ、一同の參加決定を訊し、
決行當日に於ける幹部候補生の武装程度を示し、候補生の攻撃目標は牧野内府邸なることを指示した。

同年九月十七日
栗原中尉は同市赤坂溜池アメリカン・ベーカリーに
前記四名の首脳候補生と外數名の幹部候補生を集め
中橋中尉 前田、小島軍曹も出席し、
栗原中尉は一同に向って 愈々 二三日中に蹶起すべき旨を告げ、
服装の注意を与へ、
更に前記四名は各其の所属中隊より輕機關銃一挺宛を持出すこと、
栗原は戰車を繰出すこと、
中橋中尉は約二個中隊を引率して參加すること、
其の襲撃目標は牧野内府邸、警視廳とすること
等を指示したので 一同之に同意した。
革命建設方針に付て栗原は、
戒嚴令の宣布を爲し 憲法を停止し 軍政府を樹立し、
續いて革命執行委員會を組織し
國内の政治經濟機構の根本的改造に着手する方針なることを告げ
一同の賛同を得た。
同夜
更に栗原は幹部候補生に對し、
同月二十二日午後十二時を期し 營門出發の予定なること、
近歩三の中橋中尉の率いる部隊が乃木坂を上り
一聯隊前にて喇叭を吹奏し 通過するを合図に前田軍曹の指揮を受け參加すべきことを指令した。
山内以下の候補生は歸隊後各自身邊の整理をなし 遺書を認め、其の時期到來するを待って居った。
然るに栗原中尉は同志中時期尚早なりとして阻止する者があった爲め、
遂に決行するに至らずして中止するに至った。

其の後に於ても山内一郎以下四名の首脳部候補生は鞏固なる決意を有し、
屢々 栗原中尉と會合し互に相激励して革命遂行の時期を窺って居った。
同年十一月二十六日 芝区虎の門晩翠軒に會合し、
退營の時期が切迫したので
除隊後も引續き結束して在郷軍人會、青年訓練所にて同志獲得に努むること等を申し合わせた。

(二) 在郷軍人學生をも獲得し蹶起を企つ
日大生 水上源一、拓大學生 吉田豊隆 等は
豫て政党、財閥、特種階級打倒の念慮を抱いて居ったが、
血盟団事件、五 ・一五事件等が相踵いで起るに及んで、
政党財閥特權階級を打破するには到底合法手段に依っては効果なく
直接行動に出づる外途なしと確信するに至り、
同志獲得の目的を以て昭和七年五月各大學々生を糾合して救國學生同盟を結成し、
愛國運動に努めて居った。
偶々 水上の友人 山内一郎が昭和七年十二月一日
幹部候補生として赤坂歩兵第一聯隊に入營したので
同人に對し軍部内の國家改造に志す青年將校との聯絡方を依頼して置いたところ、
山内一郎は教官 栗原中尉より改造運動に付ての急進論を説かれたので直ちに之に賛同し、
進んで栗原中尉に水上源一を紹介し
同年十二月下旬 水上は栗原中尉と同聯隊内にて意見を交換し、
次いで翌八年一月三日
水上の同志 吉田豊隆 外 數名の學生が同聯隊に栗原中尉を訪ね、
革新意見の交換をなし 互いに共鳴し、
救國學生同盟なる急進的學生は軍部内の急進青年將校栗原中尉外多數の同志と提携して
改造運動に進むこととなった。
此処に於て 學生連は活潑に同志の獲得に努め、
吉田豊隆は同年三月拓大卒業後熊谷市の自宅に歸り 専ら同地方に於ける同志の獲得に努め、
十月下旬頃迄に救國埼玉挺身隊事件に參加した同志 浅見知治、上野常次郎外數名を同志として獲得した。

又 宮岡捨次なる者は昭和七年十月二十一日豫備召集に依って歩兵第一聯隊に入營し、
栗原安秀がその教官中隊長となった。
栗原は宮岡等豫備兵に學科の講義を爲したが、
其の内容は國體論及五 ・一五事件の批判等を試みたもので、
我が國 建國以來の大化の改新、明治維新等に於ける軍隊の動向が如何に決定的な力を有して居ったかを説き、
更に之と五 ・一五事件を結び付けて、五 ・一五事件は昭和維新の斥候戰であり、
踵いで來るべきものは本隊の衝突である。
我我青年將校は一致團結して此の昭和維新の爲め 邁進しつゝあるが故に、
在郷軍人も共に蹶起すべきである 等、革命意識を注入鼓舞するに努めたので
宮岡は深く之に共鳴し、召集解除となり歸郷後 栗原中尉と聯絡し、
其の指導の下に埼玉県入間郡の郷里に於ける在郷軍人青年等に働き掛け、數名の同志を獲得した。
更に昭和八年七月 此の運動に専念するため家出して上京し 水上源一及栗原中尉の下宿に寄寓し、
更に同年八月末より熊谷市に於て活動中の吉田豊隆宅に赴いて同人と提携して同志の獲得に努めつつ
時期の到來するを待って居った。

叙上如くにして栗原中尉を中心として民間側、學生組、水上源一、吉田豊隆 以下數数在郷軍人、
宮岡捨次 以下多數一團となり、
栗原中尉を介して軍部内の急進分子と歩調を揃へつゝ 改造運動を進めて居ったので
是等の同志は屡々 栗原中尉と歩兵第一聯隊將校室、神田區今川小路三ノ五 水上源一宅の他
數ヶ所に於て會合を重ね、同市の結束、各自 信念の鍛錬、組織の擴大、鞏化、警備、
決行方法の研究等をなしつ々あったが、
同年七月中旬 水上源一は千葉市に於て千葉戰車隊附となって居った栗原中尉と會合し、
 決行の際に於ては
(イ)  目標として西園寺公望、牧野伸顕、齊藤實、若槻礼次郎、鈴木喜三郎、郷誠之助、岩崎小弥太、
  木村寿弥太、警視廳、新聞社、日本銀行等を撰び
(ロ)  軍部側は西園寺公望、牧野伸顕、齊藤實、警視廳の襲撃を担當し、
  其の餘の目標襲撃は民間側に於て担當すること
(ハ)  各部隊に軍隊より輕機關銃一挺宛を付し、民間側同志は抜刀にて目標に突進すること、
  尚 千葉戰車隊より若干台の戰車を出動せしむること
等を協議し、水上は歸京後 其の旨を吉田豊隆、宮岡捨次 其他の同志に報告し
九月十八日頃 栗原中尉より同月二十二日の夜半を期し、
 軍部民間一齊に蹶起すべき司令が發せられ、水上源一を通して各同志に傳達せられた。
即ち 栗原中尉は近歩三の中橋中尉、歩一の前田軍曹、幹部候補生山内一郎 以下二十余名等にも
同様の手筈を打合せ、夫々準備をなし、
民間側は水上源一を通じ學生組、在郷軍人の同志に同様の司令を下し 決行をなすべく決定した。
然るに
栗原中尉の同志中より時期尚早の理由を以て決行中止を主張する者を生じた爲め
その計畫は中止となった。
併し その結束は其の儘保たれ、
同年十一月九日水上源一 方に栗原中尉以下が會合し、近く決行することゝし、
民間同志は便衣隊の役割に當ることとなし、
其の部隊編成、指揮者に關し
埼玉入間班  指揮者 宮岡捨次
同熊谷班  指揮者 吉田豊隆  參謀 浅見知治  同 市川国助
拓大A班  指揮者 澤田一敏
同B班  指揮者 白石司  參謀 小林正夫
日大A班  指揮者 水上源一
同B班  指揮者 宮城銈之助  參謀 吉沢学
土工班  指揮者 森永喜一郎
行商班  指揮者 小幡武夫
と 決定し其の陣容を整へ
尚決行の際の準備行動として
(イ)  四月初旬 水上源一、吉田豊隆は白石司を帯同して静岡県興津町に至って
  西園寺公望の坐漁荘の周囲を徘徊して地形及警備の狀態を偵察し
(ロ)  五月中、水上源一、白石司の兩名は東京市本郷區駒込 若槻礼次郎の邸宅附近に至り
  同様の偵察をなし
(ハ)  十月下旬新たに目標人物として安達謙蔵、中野正剛を加ふるに至ったので
  水上源一は其の頃二日間に亙り横浜市の八聖殿、東京市麻布區内の安達の本邸
及 代々木の中野邸の附近に赴いて偵察を爲した。

(三) 急進派青年將校の一團
右内亂陰謀事件は 昭和九年一月浦和地方裁判所檢事正より特別權限に属する事件として
大審院檢事總長に移送せられ、同檢事局に於て記錄捜査を遂げ
尚 陸軍現役軍人に對する取調方を陸軍檢察官に依嘱し 取調を遂げたるも
其の首魁と目すべき栗原安秀 其の他の陸軍軍人等に於て
暴動を起し 本計畫を實行するの眞意の有無に付いて尚疑ふべき點あり、
また是以上捜査を進むるの機に熟せざるものと認むるを以て
爾後の推移を嚴重に監視するとの理由を以て 同年六月中止處分に附せられた。
右内亂陰謀事件に於て檢事聴取書中の記載より共謀若しくは首魁者としての
嫌疑濃厚であった者は
歩兵第一聯隊中尉  栗原安秀
近衛歩兵第三聯隊  中橋基明中尉
歩兵第一聯隊  佐藤中尉
同  香田中尉
同  丹生中尉
同  中村中尉
同  小島軍曹
同  前田軍曹
であるが 其の取調中
宮岡捨次が栗原中尉方に同居中 同中尉の手帳より同志の連絡網を示すものと目せらるゝ
記載を秘かに書き取り蔵匿し居れりとの記述によってその蔵匿箇所を捜索して發見した
押収物によれば 数十名の將校の氏名の記載を見るのである。
次にその全文を記載する。
1L  香田中尉  佐藤中尉  栗原中尉  中村少尉  佐藤少尉  丹羽少尉  下重主計
3L  寺生大尉  安藤中尉  新井少尉  坂井少尉  冷泉中尉
1GL  高村中尉  三宅中尉
2GL  近藤中尉  竹下少尉
3GL  中橋中尉  淺井少尉  弦木少尉
1A  小田島中尉
KA  中牟田中尉
戸校  大蔵中尉  鶴見中尉  村岡大尉  藤崎中尉
陸大  村中中尉
騎校  松田中尉  光田中尉
電一  磯部中尉
4GL  小林少尉
近四  磯部中尉
工校  成富中尉
歩校  福島中尉  竹中中尉  堤中尉  島藤中尉
仙台教導  野中中尉  内堀中尉  草地中尉
山形 横地少佐
秋田17L  相澤少佐
61L  大岸中尉  田中中尉
奈良  吉井大尉  松浦少尉
福山  池田中尉
福岡  堤丸中尉
小倉  後藤中尉
静岡  坂本中尉  宮原中尉
松山  佐野少佐  柴大尉
豊橋  對馬中尉  間瀬中尉  金子中尉  鈴木中尉  村井中尉  芳野中尉
金沢  栗原中尉  池田中尉
名古屋  青山中尉  村瀬中尉  三浦中尉  山田中尉
徳島  野田中尉  田邊中尉
丸亀  小川中尉  江藤少尉
佐世保  藤野中尉
久留米  中村中尉
朝鮮  朝山中尉  谷村中尉  森田中尉  福永中尉  片岡中尉  岩崎中尉
鹿児島  栗原中尉
満洲  城所中尉  菅波中尉  末松中尉  津島中尉  町田中尉  堤中尉  浦野中尉
台湾  若松中尉  山田中尉
高田  大関少尉
仙台  外山中尉  星中尉
館山  上出大尉  浅永中尉  森中尉  安中尉  高橋中尉
横須賀  島崎少佐  岩沢中尉
霞ヶ浦  寺井大尉  坂谷中尉 
間島惣兵衛 杉並區天沼
伊東乙男  本所東駒形三ノ二
大塚松太郎  本郷區根津八重垣町五二
滝沢孝治 麹町區・・・
佐野愛作 下名栗四四
下士官 歩一 一五 四九 八
救學同盟 20 4 4  埼玉靑 ?
歩校 六  仙 六  熊谷者
神代村塾 30
芳流会 30
北一輝 四谷四八
西田税 青山七四九
岩田富美男 大化会五九七 牛込五二五
山口一太郎 大塚三七四八
小畑敏四郎 高輪六〇四七
黒木 銀座三六八八
秦中将 丸ノ内八二七
眞崎 四谷二二三三
宮岡の説明に依れば
L は歩兵連隊  G は近衛  A は野砲を示す  KA は亡失
名簿中少尉は概ね五 ・一五事件關係者と同期生
歩一の丹羽は丹生の誤り、館山の浅永は浅水の誤 (特別弁護人)
右は同志として相許す關係にある者の氏名であるか、
或は栗原中尉り任意に革新的意見の持主として選択したものであるや、
これを斷定し得ないが
一、程度の問題はあれ、革新分子の一群たることを推知し得ること
二、横斷的に結束し陸軍部内の上層有力者及民間革新運動者の巨頭を含んで居ること
三、二 ・二六事件の關係者を網羅して居ること
等は極めて注目すべき點で所謂皇道派若しくは國體原理派と稱せられる革新的思想に於て
相通ずる所ある青年將校の一群なることが想像せらるるのである。

栗原中尉に心服し 各所を往復して居った宮岡捨次は、
救國埼玉挺身隊事件に於て證人として次の如く陳述して居る。
「 栗原中尉は青年將校の代表として民間同志と聯絡をとって氣運の醸成に努めて居ったのであるが、
昭和八年七月下旬頃 愈々同年九月に同志蹶起して大事決行と定めた。
栗原中尉は同志青年將校の急進分子であるが他に自重論者が多く、
栗原中尉は之に不満で民間側と提携して九月蹶起を決意した。
処が間もなく同志の澁川善助がそれを知って西田税 に告げた爲め、
西田税は水上源一を呼び付け 輕擧盲動を避けて自重せよと説いた爲め、九月蹶起は挫折した。
栗原等は其の後 益々同志の獲得に努め大々的に蹶起する方針の下に進むこととなった。
九月二十二日水上源一方に栗原以下同志が會合し、栗原より延期した理由を述べ、
同志の者は尚此際大いに結束する様戒め、西田税の作った天劔党趣意書を讀み聞かせ、
自分も此の趣意に依って進む者であることを一同に告げた。」
・・・リンク→  天劔党事件 (2) 天劔党規約 

栗原安秀中尉、中橋基明中尉は對馬勝雄中尉と陸士第四十一期同期生で
孰れも二 ・二六事件にて死刑に処せられたのであるが、
昭和六年の秋の所謂十月事件當時未だ歩兵少尉にて
同事件に刺戟せられ革新思想を抱くに至ったもので、
十月事件の際 橋本中佐一派の首脳部の勧誘に應じ渦中に入って居ったが、
同事件進行中 次第に橋本中佐一派より離れて
末松太平、菅波三郎等 天劍党以來の革新的將校と結ぶに至り、
尉官級にして隊附の革新的青年將校の一團を形成し
所謂皇道派 又は 國體原理派と呼ばるゝ一系統をなすに至った。
其の一派の多くは西田税と親しく交際し、
自ら西田を通じ 北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 がその多數に信奉せられて居った。
是等 所謂皇道派青年將校は一定の指導原理、革命方針によって集り、
截然たる組織を持つ團體とは趣を異にするものであったが、
十月事件以來十月事件の首脳部を爲した幕僚將校と對立し、
その指導原理を覇道なりとして自らを皇道又は國體原理に基くものとして居り、
幕僚將校と親交ある民間側大川系と鋭く對立する北、西田系と親しくして居る點等に於て自ら一派をなして居った。
是等青年將校の一團は國内改造を目的として進むものであり乍ら、
十月事件後 荒木陸相の出現後 俄に自重論を採るに至ったことは叙上の如くであるが、
其の一部に於ては栗原等急進分子が自重的態度を慊らずとして
急速に決行することを主張して居ったのであった。
栗原、中橋 兩中尉を中心とする本内亂陰謀事件の如きは
其の間の事情を示すものとして注目せられたのであった。

救國埼玉挺身隊事件
本件の中心人物 吉田豊隆は拓殖大学在學中同校に教鞭を執って居った大川周明、安岡正篤、
満川亀太郎等の感化に依り 國家革新思想を抱くに至り、
昭和七年五月十五日 日大生 水上源一 等と謀り 救國學生同盟を結成し愛國に從事し、
又 右同盟の事業として神代村塾を設け 學生闘士の養成に努めた。
又 拓大内の同志を糾合して皇國青年芳流会を組織する等 活動を續けて居った。
昭和八年一月同志水上源一の紹介により西田税 及歩兵第一聯隊歩兵中尉栗原安秀と識り、
栗原中尉の非合法手段を辭せざる國家改造論に共鳴し共に大事を決行せんことを盟約した。
同年算がっ拓大卒業後郷里熊谷に歸り 同志の獲得に努め、
淺見知治、市川國助、上野常次郎、井口幾造、杉田幸作、水野綏茂、等を同志たらしめ、
一方中央の栗原中尉、水上源一等と聯絡して
栗原中尉を中心とするクーデターに依る國家改造の
重大計畫に参畫して居った。
同年九月二十二日 愈々蹶起することとなり之が準備をなしたが
栗原中尉等が之を延期したるため、焦慮の末 熊谷班のみを以て單獨蹶起を決意し、
同年十一月十四日 川越市鶴川座に於て開催せらるゝ立憲政友會関東大會に出席の豫定なる
鈴木喜三郎總裁以下領袖を暗殺することに決定、
二連猟銃一挺 日本刀匕首等の武器を集め、鶴川座前空家を借り受け、
同志一同此処に潜伏し、鈴木總裁以下を邀撃せんとなして居ったが
同大會前日 計畫が洩れて一同檢擧せられた。
裁判の結果は次の如くである
殺人予備
懲役二年(求刑二年)  吉田豊隆 犯行当年二五
同 一年六月(同一年八月)  淺見知治 同二五
同 一年六月(同一年八月)  市川国助 同二四
同 一年(同一年三月)  上野常次郎 同二六
同 一年(同一年三月)  杉田幸作 同二四
同 一年(同一年)  水野綏茂 同二七
同 一年(同一年)  井口幾造 同四二

れは
「 思想研究資料特輯第五十三号 」
( 昭和十四年二月、司法省刑事局 )
昭和十三年度思想特別研究員としての、東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の抜粋である
・・現代史資料4     国家主義運動1  から 
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十月事件ガ暴露シ、幹部ガ其ノ筋ニ引張ラレルト、
栗原其ノ他ノ青年将校ハ、我々ノ手デ実行シヤウト非常ニ強硬ナ意見ヲ吐キマシタノデ、私ト菅波トデ抑ヘマシタ。
其ノ後其ノ様ナ口振リノアツタ時、又ハ多少動キガ見ヘタ時、抑ヘタ事ガ二、三回アリマス。
所謂埼玉挺身隊事件ノ時、或種ノ行動ニ移ラムトシタノヲ抑ヘタノデ、
栗原及其ノ時會ツタ水上源一等ハ手ヲ引キ、参加シナカツタノデアリマスガ、
私ノ手ノ届カナカツタ埼玉ノ連中ガ飛出シテアノ事件ヲ起シタノデアリマス。
私ハ、軍人ガ軍部以外ノ若イ者ニ接触スルノハ危険ダカラ、接触シナイ様ニセヨト言聞カセテ居リマシタ。
次ニ、昭和九年齋藤内閣ガ総辞職シ岡田内閣成立前頃、
色々噂ノアツタ宇垣朝鮮総督ガ東京ニ居リマシタガ、
戦車隊ニ在勤中デアツタ栗原ハ、
何十台カノ戦車ヲ指揮シ大森附近ニ宿営シテ居リ、
「 此機ニ西園寺、牧野、齋藤、岡田其ノ他ノ重臣達ヲ襲撃スルト云ツテ居リ、
 栗原ノ如キハ逆上シテ了ツテ抑ヘテモ肯カナイガ、何トカ方法ハナイダラウカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ大蔵大尉ガ告ゲテ來マシタノデ、
私ハ栗原、香田、磯部等数名ヲ私方ニ呼付ケテ、
「 君等ハ何ヲヤラウトシテ居ルノカ、捨身デヤル気カ 」
ト申シテ尋ネマスト、
大蔵ガ話シタ様ナ計劃ヲシテ居ルト云フ事デアリマシタカラ、
私ハ、
「 アレ程言ツテアルノニ、何カト云フト直グ逆上シテ飛出サウトスル。
 君等ノ純情ハ純情トシテ、總テヲ犠牲ニシテ夫レデヨイノカ 」
ト言ツテ叱リ附ケマスト、
其ノ者等ハ相談シテ遂ニ中止ヲ約シテ歸リマシタ。
其ノ時私ハ、
「 君等ハ二度ト其ノ様ナ事ヲ考ヘテハイカヌ 」
ト認メテ置キマシタ。
其ノ程度ニハ及びマセヌガ、
軍人ハ矢鱈ニ武力一点張デ進ム風ガアルノデ、気分ダケトハ思ヒマシタガ、
栗原ダケハ頭モ良ク氣モ早ク、強硬派ノ代表人物デアルカラ、
栗原サヘイイ工合ニ誘導シテ行ケバ宜イト思ヒ、
同人ニ對シテハ終始直接行動ニ出ナイ様、説聞カセテ居リマシタ。
直接行動ニ出ルト云フ事ニナレバ、自分ノ頭デ構図ヲ劃ク譯デアリマスガ、
栗原ハアチコチノ先輩ノ人ヲ知ツテ居タ爲、色々ノ事ヲ考ヘテ居ツタ様デアリマス。
私ハ栗原ノ性格ヲ或程度知ツテ居マスノデ、時ニ応ジテ説イテ居リマシタ。
栗原モ、私ガ言聞カス時ニハ、ヨク判ツテクレテ居タノデアリマス。
・・・西田税  第二回公判 から


栗原中尉 ・ 幹部候補生教育の状態

2017年10月25日 15時30分14秒 | 栗原安秀


栗原安秀

歩兵第一聯隊幹部候補生教育ノ狀態
教官 陸軍歩兵中尉  栗原安秀
一、既成概念打破
金力ニ依り單に形式的ノ肩章ヲ与ヘラレルモノガ 幹候 ( 一年志願兵 ) デアルガ如クニ
一般ニ解釋セラレテ居ツタ是ノ概念ヲ一掃スルベク
特ニ激烈ナ訓練ヲ施シ 流石 將校教育ノ實際ハ苦闘ノモノデアル事ヲ的確ニ認識セシム
二、過度ノ訓練
本年ハ特ニ思想的ノ混亂ニヨリ 近キ招來ニ事變アルヤモ知レズ
各自ニ於テモ此ノ時ニ堂々善処出來得ル丈ケノ自信ヲ此ノ訓練中ニ於テ養成スル
三、思想的ニモ最モ尖鋭ナル教育ヲ施ス
天皇陛下ヲ中心トスル國家社會主義ノ建設
錦旗革命ノ必要
對満洲政策ノ誤謬ごびゅう
現在満洲ニ於ケル政治的指導者ノ實質ハ極度ノ腐敗デアル
當地ニ於テ第一線ニアル同志ヨリ此ノ眞相ガ頻々ト到來スル依テ 吾々ハ是ノ改革ヲ必要トスル
大官聯ノ堕落
齋藤首相ノ不敬
牧野其他ノ公位者ノ良心ノ磨滅
天皇陛下ノ御年ノ御若イヲ寧ロ利用シテ居ル現在ノ高位高官聯ノ大半ハ
賣國奴ニモ等シキ行爲ヲ爲シテ恥ズル所ヲ知ラズ
議會ノ不淨
若シ 現在ノ儘 議會政治ガ續行セラレルモノデアレバ
世界一トモ誇ル議事堂ハ全ク無意味ノ存在デアル須ラク
各階級ヲ通ジテ眞ニ國家ヲ憂フル青年ノ部隊トスルナラバ議事堂ノ存在ハ必要デアルガ
然ラザレバ破壊して了ヘ
暗殺ハ最高ノ道徳デアル
プロレタリヤ意識
今日ノ老人ブルジョア政治デハ全ク無益ノモノデアル 必ズ青年ニ依ル溌溂タル指導者ヲ確得スベシ
吾々同志ハ結成シテ居ル
而シテ此ノ指導者ヲ得ル最近ノ道ハ軍部ノ力ニヨル一ニ青年將校ノ気魄ニ待ツノミ。

現代史資料4
国家主義運動1
から


栗原中尉 「 教育方針は革命の二字につきる 」

2017年10月24日 15時11分02秒 | 栗原安秀


栗原安秀

自分は資本主義の打倒、政治機構の變革、
すなわち昭和維新の斷行をもって、
幹部候補生の指導方針とする。
自分の教育方針は革命の二字につきる

「 思想的にもっとも尖鋭な教育を施す 」
天皇陛下ヲ中心トスル國家社會主義ノ建設
錦旗革命ノ必要
議會ノ不淨
暗殺ハ最高ノ道徳デアル
プロレタリア意識

昭和八年九月頃、
栗原は幹部候補生數名と共に、クーデター決起を準備していた、
所謂埼玉挺身隊事件
「 われわれはクーデターを斷行し、ただちに憲法を停止する。
同志西田税を通じ宮中の同志に聯絡、
陛下に戒嚴令の必要を上奏し、
その宣布を求める。
戒嚴令と同時に、國内の混亂を鎮壓し、
國家改造の行動を開始するため、
荒木陸相を首班とする軍政府を樹立し、軍の獨裁政治を布く。
この軍政府は革命に附随する混亂を鎮めるための過渡的政治機構である。
荒木の軍政府は、われわれが革命達成のためのロボットとして用いるものだから、
ごく短期間にすぎない。
荒木は妥協的だから、われわれの革命目的を遂行させうるかどうかは疑わしい。
そこで、人心が収まった機會に、
第二次革命として荒木を倒し、
同志と革命委員會を組織し、
國内の政治經濟機構の根本的改造に着手する。
西田や自分らもこの委員会につらなる。
國力充實の後に、
革命政府は世界革命の第一段階として、ソヴィエトロシアに宣戰を布告。
皇道宣布によって世界統一を企てるものだ 」


ヤルヤル中尉 1

2017年10月23日 13時50分16秒 | 栗原安秀


栗原安秀

栗原は
いつも ガタガタしている

とは、同志間の定評であった。
一、
昭和六年十月事件には部隊側は幕僚派が憲兵隊に軟禁せられてからも、
なお突出しようと栗原らは準備に余念なかったが、西田税 、菅波三郎らによって抑止せられた。
二、
昭和八年十一月の埼玉挺身隊事件に際して栗原は在郷軍人、学生らを煽動し
事件の拡大をはかったが、同志たちの説得によって中止せしめらる。
三、
昭和九年栗原は戦車第二聯隊に勤務中、
戦車十数台を引率、行軍途中大森附近宿営予定に際し、実包その他を準備し、
西園寺、牧野らの元老重臣を襲撃しようと準備していたのを大蔵栄一らが知り、
阻止説得にあたったがきかず、西田税 の説得でようやく中止した。
四、
昭和十年六月、満洲国皇帝来朝の機会を狙い 事をあげようと秘かに檄を飛ばしたが、
同志の賛成を得られず中止。
・・・
このように彼はいつも 「 やる、やる 」 といい、
かえって同志達の嘲笑を買っていたが、
昭和十年八月の相澤事件の突出にはつよいショックをうけた。
これまでの不実行を恥じたのであろう。
この事件のあと、栗原は磯部にしみじみと、こう語った。
「 磯部さん、 あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云って、
如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、
進んで呉れないか と云ふ事が残念です。
栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、
なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。
今度、相沢さんの事だって青年将校がやるべきです。
それなのに 何ですか青年将校は、私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。
唯、自分がよく考えてやります。
自分の力で必ずやります。
然し、希望して止まぬ事は、
来年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、
私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出来ます。
栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、
私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は剣にかけても許しません。
私は必ずやるから 磯部さん、 その積りで盡力して下さい 」 ・・・第二 「 栗原中尉の決意 」 

・・・これが、栗原の本心だったのだ
泣いて磯部に心中を語ったという。

栗原は同志達が相澤公判の動向に一喜一憂しているのを尻目に、
着々と歩一、さらに歩三の若い者たちに働きかけ、武力発動に専念していたのだった。
この場合、部隊のあれだけの動員力は、一に栗原の負うところであり、
たとえ歩三の安藤が立たなくとも、歩一、歩三を動員してみせる自信があったのだろう。
したがって、まれにみる闘志を発揮し みずから首相官邸の襲撃と占拠を志していた。
首相官邸の占拠こそ維新の旗印を掲げる絶好の目標であったからだ。
かくて 蹶起後は首相官邸の占拠に執着し維新発祥の地としていたと思われる。
解散説得にも絶対に応ぜず、維新の聖地として首相官邸に頑張っていた。

首相官邸には絶えず激励の訪問者も多く、
また その門前に来て万歳を叫ぶ市民もあった。
形勢逆転して包囲軍の攻撃が予想されても、なお彼は最後の成功を信じていた。
ここには彼等の成功を信じさせる情報も入っていた。
例えば
二十八日 決死抗戦に移ったが その日の夕刻には徳川義親侯が田中国重大将と共に、
青年将校を同道して宮中に参内するという旨が斎藤瀏少将より伝えられた
( これは 栗原が西田税 の意見により断っている )
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・・・挿入・・・
  徳川義親侯

二十八日夜、
( 栗原中尉から ) 決別の電話が来ました。
彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「 ---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい--- 」
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、
父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
・・・ 斎藤史 ・・・昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 ・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

亦 、その夜には、
「 宮中では皇族会議において維新断行との案が通過した、我々は昭和維新の礎となるのだ 」
「 今日 皇族会議があった。軍令部長宮を中心に海軍首脳も協議し、海軍の意向をとりまとめている 」
・・といった情報が流されていたのだ。
ともかくも 栗原は維新革命家を自任しているだけに闘志は旺盛だったが、
二十九日朝に至って、屈服によって下士官兵を助けて後日の再起に備えようとして、
部下と訣別した。

事が敗れては、もはや彼は自らの死を覚悟していたが、その大量死刑には強いショックをうけた。
死の直前 書いたという
「 維新革命家としての所感 」    ・・・リンク→あを雲の涯 (九) 栗原安秀 
と 題する一文は、まさに鬼気迫るものがある。 
・・・大谷敬二郎著  二・二六事件 から


ヤルヤル中尉 2

2017年10月22日 14時18分48秒 | 栗原安秀


栗原安秀

習志野の戦車隊にいた栗原中尉は、

日本での極寒地、旭川の雪原で行われる戦車演習に参加するため、
北海道に渡るついでに立寄ったのだった。
独身官舎の若い連中は、寄り集まって、青森市内の料亭で栗原を歓待したが、
このとき意外に思ったのは、栗原が結局は空騒ぎに終りはしたものの、
千葉に手ぐすねひいて二三十人が待機していたいきさつを、全然知らなかったことである。
「 へえ、そんなことがあったんですか。惜しかったなァ。どうして私に教えてくれなかったんですか。」
「 やらねばいかん 」 を 人の顔さえみればいう栗原中尉だった。
西田夫人などは、これを栗原さんの朝晩のご挨拶だといって笑っていた。
このときも若い連中の前で、つい この
「 やらねばいかん 」 が 飛び出した。
それでひやかし半分に私が
「 やらねばいかん、やらねばいかんというが、東京は何もやりはしないではないか 」
と、千葉での空騒ぎのことをふれたのだった。
・・・
栗原中尉が、このときはじめて、千葉の空騒ぎを知ったときいて私は
「 ああ、そういえば、あのころ栗原の姿をあまり見かけなかったな 」 と、
大蔵大尉のうちの 「 革新教室 」 でも、
西田税 のうちでも、ひよっとすると 「 宝亭の会合 」 でも、
私が歩兵学校在学中は、ほとんど栗原に会っていないことが思い出された。
「 やらねばいかん 」 の ことばだけが、
栗原の存在を、私に意識させていただけのようだった。

« 宝亭の会合 ・・末松太平 »
いよいよ鶴見中尉らの歩兵砲学生が千葉をさる時期が迫ったころだった。
東京から歩兵砲学生の送別会を開きたいから新宿の宝亭に集まるようにといってきた。
当日宝亭の大広間に集まったのは相当の人数だった。
正面の席には 早淵中佐、満井中佐らの先輩格も坐っていた。
歩兵学校グループはこの送別会にでることに、あまり気乗りしていなかった。
いまさら宴会でもあるまいといった気持だった。
偶然丸亀から小川中尉、江藤少尉、金沢から市川少尉が上京していて、これに出席していた。
酒がほどよくまわったところで 市川少尉が立ちあがって、
東京は何をぐずぐずしているか、早く蹶起せよ、と 元気のいいところをみせた。
それに呼応するかのように、満井中佐が、
東京の若い将校は意気地がない、僕がなん度蹶起する準備をしたか知れないのに、誰もついてこない、
と これまた市川少尉に輪をかけたように元気のいいところをみせた。
歩兵学校グループは一カ所にかたまって、ただ黙々と酒を飲み料理をつついていた。
そこだけが真空をつくっていた。
座が乱れたところで、私は真空のなかから満井佐吉の前に出向いて、
さっきいったことは本気ですかと聞いた。
満井中佐は本気であることを強調し、力説しはじめた。
みなまで聞かず、それが本気なら、そのうちお訪ねして、ゆっくりうけたまわります、
といって私は満井佐吉の力説から退避した。
二三日して私は約束どおり満井佐吉を自宅に訪ねた。
満井中佐は、滔々と革新を急がねばならない理由をのべたてたあと、
「 実行計画なんて簡単なものだ。二時間もあれば十分だ。
起とうと思えば今日いますぐでも起てるのだが、誰も僕に強力するものがいない。」
といった。
「 何人ぐらい協力者がいりますか。」
「 なあに、何人もいらないよ。」
「 では すぐやりませんか。協力者はいますよ。私の手もとに三十人ばかり、
五・一五の二の舞いでもいいからやろうていってきかない将校がいます。
千葉の歩兵学校ですから、急がないと、もうすぐ主力が帰ってしまいます。」
半分本気で半分はったりだった。
が 満井中佐は急にあわてだして、
「 ちょっと約束したことがあって、これから外出しなければならない。」
と いって椅子から立ち上った。
歩兵砲学生は卒業式をすますと、未練げもなく、爾後の互いの連絡を約して、
さっさと帰っていった。


末松太平 著 
私の昭和史  から


栗原安秀の為人

2017年10月21日 13時47分46秒 | 栗原安秀


栗原安秀中尉

陸士在学中より国家革新を抱き西田税に師事す。
«栗原中尉の為人»
池田俊彦
「 今の議会は支配階級の民衆搾取のための手段と化している。
そこからは新しい力は生まれない。
第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずはないし、 真の根本的改革は出来ない。
我々は力を以てこれを倒さなければならない。
いかにも多数決で事を決し、国民の意志の上に国民の心を体して行っている政治のようであっても、
それは、結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。
起爆薬としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することが出来るのだ。
このことは対話では為し遂げることは出来ない。
強力な武力的変革によってのみ為し得られるのだ。
我々はその尖兵である。
変革の運動は始まったばかりで、最初から一定の理想像を期待できるほど 世の中は甘く出来ていない。
新しい未来は闘争を通じてしか生まれない・・『 生きている二・二六 』

斎藤史
ある日、史は栗原が 『 資本論 』 を 持っているのを見つけ
「 これ、きみが読むの 」 と 問い詰めたことがあった。
息子が思想書を読んでいるのを心配した栗原の父が、齋藤に相談に来ることがあったが、 史は知っていた。
彼の部下に先鋭な左翼の一人が入隊してきた。
その部下は、三重県にいた頃、栗原にとっても、史にとっても、同級生で、 同じ軍人の子であった。
栗原が嘗ての同級生を部下にして、それを黙って見過ごすことができなかった。
彼もその思想のことを知ろうとして 左翼関係の本を読み始めた。
折からの日本の政治の腐敗、貧因、農村の疲弊を目の前に見て、彼の思索は激しく揺れた。
それは、彼の真面目さがそうさせていったのだと史は思った・・『 遠景 夜景 』

斎藤瀏
「 自分の部下には農村出が多く、満洲事変で両手、両足を失い、辛くも命を保ち得た兵が、
生家に帰ってみたら、一家の没落を支えるため、最愛の妹が遊女になっており、
それに自分は何も出来ず、樽の中に据えられて、食べるのも着るのも人手によらねばならない。
なぜ 自分は生き残ったか、そしてこの眼で貧しい家の生活、両親の苦労を見ねばならぬのか、
なぜ死ななかったか、と 悔む在郷兵のことを涙ながらに語った 」・・『 二・二六 』

和田日出吉
「 私は夜、週番士官として兵隊の寝室を回ることがあるが、
そのときなど、よく寝台で泣いている兵隊がいる。
事情を聞くと、自分は壮丁として兵隊に出たため、家では食べる米もなくて困っておる。
自分の妹まで今度は吉原の女郎に売られるそうである、
というふうな こういう状態で、兵に対して前線に行って戦えとは言えないし、私も全く同感である 」
と、苦渋の顔で語った・・『 語りつぐ昭和史 』

辻井俊明 ( 栗原の部下 )
「 今 我々若い者が起って日本を救わなければ国家は亡びる、
ソ連の赤化攻撃の前に民族が亡びるか、欧米に侵略されて殖民地になるであろう。
昭和維新の捨て石となって、八千万の貧困の民を救うのだ 」
と 涙をたたえて兵を説いた・・『 西田税--二・二六への軌跡 』・・・平澤是曠 著  叛徒 から

篠田上等兵
「 一等卒のとき、栗原中尉の当番兵として、千葉の大演習に参加した。
長雨にたたられたつらい大演習であった。
このとき、他の将校たちは当番兵に、肌着を取替えれば肌着を、靴下を取替えれば靴下と、
その他全部洗濯させたが、栗原中尉は、
「 お前は自分の兵器を手入すればよい 」
と 言って、 靴下一足洗濯させたことはなかった。」・・東海林吉郎著 二・二六と下級兵士

軍の首脳部が責任を負いきれなくなったため
奉勅命令をもって、我々に叛徒の汚名を着せたものであるから、
陸軍で責任を負いきれないというならば、我々は喜んでその処刑をうけるものである。 ・・栗原中尉・・公判陳述


「 お前は自分の兵器を手入れすればよい 」

2017年10月20日 17時24分41秒 | 栗原安秀

 
歩一機関銃隊

中尉の部下だった人から直接きいた話であるが、
ある時演習があって、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐えられずに居酒屋へ飛びこんでコップ酒をあおっていた。
そこへ通りかかった大隊長に詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、
その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言わず、
全員の前で、その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換えさせるよう、
営倉は寒いから温かい衣類を持って行かせるように命じた。
それからなお三日つづいた演習のあいだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかった。
存分の働きはしていたが、いかにも顔色はすぐれなかった。
あとで従兵の口から真相がわかったが、上等兵の重営倉の三晩のあいだ、中尉は一睡もせず、
軍服のまま、香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹していたのだそうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙をながして、栗原中尉のためなら命をささげようと誓い、
事実、この兵は二・二六事件に欣然と参加したそうだ

三島由紀夫 著 蘭陵王 から


栗原安秀

一等兵のとき、
栗原中尉の当番兵として、千葉の大演習に参加した。
長雨にたたられたつらい大演習であった。
このとき、ほかの将校たちは当番兵に、
肌着をとり変えれば肌着を、靴下をとり変えれば靴下と、その他全部洗濯させたが、
栗原中尉は
「 お前は自分の兵器を手入れすればよい 」
と いって、
靴下一足させたことはなかった。
・・・栗原中尉に心酔したる 篠田上等兵 談

これを聞いた瞬間、
私は自分の初年兵時代のことを思い出していた。
ある日私は、
内務叛で一番恐れられていた古年兵に呼び止められた。
初年兵でこの古年兵のビンタを受けなかったものは、ほとんどいなかった。
しかもその打擲の激しさは、
何かに対する恨みを、初年兵に向って爆発させるといった趣きがあった。
ついに私にもその順番がきたのかと、びくびくしながら古年兵の前にいった。
古年兵は意外に優しい声で、
「 東海林、お前、官舎女郎を知っているか 」
軍隊では、その種の女を官舎に入れているために
「 官舎女郎 」 と 呼ぶのではあるまいか、
と 思ったりもしたが、自信はなかった。
「 知らないであります 」
「 ほんとうに知らないのか 」
「 はい、ほんとうであります 」
「 そうか、教えてやろう 」
そういって、
高橋一等兵が語った 「 官舎女郎 」 とは、将校夫人たちのことであった。
将校の夫人たちは、
定められた仕事のほか、薪割りから風呂焚きはおろか、
家中の掃除、炊事、洗濯まで当番兵に全部させる。
その洗濯も将校のものならいざ知らず、
夫人の肌着、はては赤い腰巻、ズロースの類まで、全部洗わせるのだという。
つまり 将校の夫人たちは、
将校官舎に入り、一日の主婦の仕事は当番兵にさせて、
女郎のように、ただ男と寝るだけ、
それで 「 官舎女郎 」 と いうのだそうである。
おそらく 高橋一等兵は、将校当番の経験があって、
いやというほどその屈辱を味わったにちがいないのである。
地方や師団や聯隊の将校は、
ほとんど官舎に入っていたから、こんな言葉も生まれたものと思われる。
しかし、東京の将校の夫人たちだって、実態はこれと大差はあるまい。
当番兵を下男扱いすることによって、
自ら特権階級として、その虚栄を満足させていたにちがいないのである。
篠田が語った栗原と、
高橋一等兵が語った 「 官舎女郎 」 の 話を比べれば、
そこに栗原が兵士たちからえた信頼、人気といったものの動機がわかる。
だからこそ篠田は、栗原中尉の精神に触れたいと思い
教官の手文庫のなかから革新という表題のついた綴りこみを秘かに借り出して、
被服倉庫のなかで 「 コピー 」 ということにもなるのであろう。
だがこのことは、
一方で兵士たちが軍隊において、いかに非人間的なとり扱いを受けていたか、
その例証にもなる。

二・二六事件と下級兵士 東海林吉郎 著 から


『 安王会 』 第六中隊下士官兵の安藤中隊長

2017年10月17日 18時38分03秒 | 安藤輝三

事件直後に発足した 「 中隊長を偲ぶ会 」
毎年二月になると、埼玉県の大宮の近くで一つの戦友会が開かれる。
今は亡き中隊長の大きな写真を上座に飾り、和気あいあいと語り合う。
お互いの消息を確かめ合い、何時間かを昔の若者に返る。
最後には中隊歌を歌い、記念撮影をして、散開となる。
どこでもあるような戦友会・・・・。
しかし彼らには特異な体験があった。
二・二六事件のときに歩兵第三聯隊第六中隊に属し、
安藤輝三大尉とともに山王ホテルに立てこもった中間たちなのだ。

安藤輝三
写真の中の安藤中隊長は、事件当時の国会議事堂の外套の立ち姿だった。
戦友会の名は 「 安王会 」。
「 安 」 は 安藤大尉の頭文字、「 王 」 は 山王ホテルからとったという。
二・二六事件の起きた翌年の昭和十二年に発足した。
当時の 「 安王会 」 の幹事の一人だった板垣秀男氏の回想は、
あの立像の安藤大尉の写真の原版から始まる。
板垣氏の兄が読売新聞社に安藤大尉の写真を貰いに行った。
その原版を北満の戦地にいた板垣氏に送った。
歩三の第六中隊は事件後の五月から北満のチチハルに派遣されていた。
板垣氏はしせめ九年兵たち ( 昭和九年に徴兵検査され昭和十年一月に入隊した事件当時の二年兵 ) は、
この写真を見て懐かしい思いにかられた。
昭和十二年二月、九年兵は現役の期間が終わるので、北満から歩三の原隊に帰還した。
この輸送途中に、「 安王会 」 を作ろうという話が出た。
板垣氏が中心となって、東京出身者と埼玉県出身者から二名づつ幹事となり会則を作った。
歩三部隊への入隊者は、浦和、川口など埼玉県の一部と、足立、葛飾などの北東京から召集された。
そこで 東京、埼玉からの幹事の選出となった。
「 安王会 」 会則は七項目あり、「 安王会 」 の名称、昭和九年兵の集り、会費は年一円、
春秋に二回集り親睦を図ろうなどというものだった。
当時の会員四十名の記名もある。
第一回は二月ころ? 浅草の 「 いろは 」 で開催された。
しかし後は続かなかった。
臨時招集が相次ぎ、集れる者がいなくなったのである。
発起人の一人の板垣秀男氏も十月には北支へと派遣されて行った。
それから三十年も過ぎた戦後の第一回の会合が、
昭和四十四年、羽生市の金子春雄私宅で、十二名で行われた。
どういう経過で会を持てたのかは、多くの者が他界していて不明である。
第二回は大宮、第三回は上尾市内、このころは九年兵だけの集りだった。
熊谷のロイヤルホテルでの第四回目には板垣氏も出席した。
集ったのは二十九名、このときに板垣氏が提案した。
「 戦後も大分たったから会の名称 「 安王会 」 を 変えないか?」
たちまち全員の反対にあったという。
その後、十年兵 ( 昭和十一年の入隊 ) や 八年兵 ( 同九年入隊 )、下士官も加わり、
仏心会 ( 二・二六事件の遺族の会 ) 会長の河野司氏も何回か訪れた。
「 二十二士の墓  のある麻布賢崇寺での法要にも必ず出席した。
賢崇寺で会を開催したこともある。
けれども近年、会員の老齢化が進み、集まれる者が少なくなった。
この辺で解散しようということになった。
平成八年四月十二日、安藤大尉の未亡人房子さんが亡くなった。
房子夫人は会を蔭から支えていた。
房子夫人の追悼もかね、六月四日の伊香保温泉旅館での会合を最後に、
「 安王会 」 は 解散することになった。
集れた者十二名、一番若い人も八十歳を越えていた。
「 あれ ( 二・二六事件 ) から六十年も経ちましたからねえ 」
板垣氏は感慨深げに話した。

安藤中隊長の部下としての誇り
こんなにも長い間 慕われた中隊長安藤輝三は、
下士官兵には一体どんな人物だったのだろう。
「 安王会 」 の人々に聞いてみた。
全員が 「 温情 」 と答えた。
「 進級の遅れを慰められた 」
「 親が病気のときに臨時外出を許された 」
「 職業や家族のことを聞いてくれた 」
「 訓練の後のねぎらいが優しかった 」
「 なにか惹きつける人間味があった 」
・・・。
そして 最後に必ず、
「 立派な中隊長の部下であつたことを誇りに思う 」
と つけ加えた。
それでは安藤中隊長の革新思想についてどんなふうに感じていたのだろう。
彼らは安藤大尉が話のときに画いた絵の話をした。
黒板に太陽が上で、真ん中に黒雲、その下に草の芽を画く。
太陽が天皇で、その光を遮っている黒雲が、元老、重臣、軍閥などである。
芽が国民である。
この黒雲を取り除かねば、芽が育たない。
国民は苦しむばかりだ。
中隊長は国家の現状をこの絵で説明した。
相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を惨殺した後には、その動機、背景なども話した。
皆、拳を握りしめながら、熱心に聞き入ったという。
第二小隊長だった 堂込喜市元曹長 ( 事件後、佐々木と改名 ) は 安藤大尉の影響を強く受けていた。
事件の五、六年前の安藤中尉だったころから二人は歩三の営内暮らしだったので、
安藤は下士官室に来ては、軍縮問題、日ソ関係、農村問題などを話した。
堂込曹長は昭和維新は必要であると思ったという。
「 私は安藤中隊長に傾倒していましたから
革新思想はもとより、安藤大尉のいうことはすべて間違いないと思っていましたよ 」
彼は生前そう話した。
下士官や二年兵はともかく、常識では初年兵たちが、革新思想を理解していたとは信じがたい。
二・二六事件参加の六中隊の人員が次のようであるからだ、
将校一、下士官十一、二年兵四六、初年兵一〇一、計一五九名。
この中で初年兵が一番多い。
第一師団の満洲派遣が決まっての徴集だからだ。
彼らは一月十日に入隊したばかりで、決行日までたった一カ月半しか経っていない。
彼らに革新思想を植え付けるには、あまりにも時間が短すぎる。
二・二六事件の最後は決起軍に状況が不利になり、賊兵と呼ばれた。
この中で最後まで安藤中隊長と山王ホテルで抵抗しつづけたその団結心は、
どこから来たものなのだろう。
この疑問に 「 安王会 」の人々は 「 そうでしょうねえ 」 と 微笑むばかりだ。
理解できないのも無理はない・・・。
そう思わせる笑顔なのだ。
そこで もう一度、六中隊の下士官兵たちから見た二・二六事件り要点を探ってみることにした。

事件下の下士官兵の行動
蹶起前夜、点呼終了後、階段下の広場で中隊長の訓話が行なわれた。
安藤大尉は黒板に富士山を画き、次に白黒で塗りつぶした。
「 今の国民は一部の上層部の暗雲によって閉されようとしている。
今こそこの暗雲を払いのけ、国体を護らなければならない 」
大谷武雄二等兵は、このとき何かが起こるのではないかと予感した。
この語九時ごろ、下士官たちは中隊長室に集められた。
蹶起の時刻、襲撃場所、人名、配置、合言葉など詳しい説明があった。
奥山粂治軍曹 ( 後、中島と改名 ) は、
「 いよいよ来るときが来たのだ、命令を拒むことなど不可能なのだ 」
と 判断した。
兵隊たちはというと、前夜兵営内がざわついて不審には思ったが、何も知らなかった。
二十六日未明、非常呼集で起され、舎前にて実包装填、
『 靖国神社参拝 』 の 号令で 三時半ごろ営門を出たが、まだ疑っていなかった。
大谷二等兵が蹶起を知ったのは、首相官邸脇にさしかかったとき、
「 他の聯隊の仲間がここを襲撃し、六中隊も鈴木侍従長を襲う 」
と 奥山分隊長から聞いたときだった。
一時間後、鈴木邸到着、その門前で安藤中隊長から初めて鈴木貫太郎侍従長襲撃の命令を受けた。
「 敵は目前にあり 」
岩崎英作二等兵は、出動の目的を知りおどろいたという。
鈴木邸に進入、奥山軍曹が押入に隠れていた鈴木侍従長を見つけた。
後方から永田曹長が一発、堂込曹長が二発ピストルで射った。
弾は左肩と股に当り侍従長は倒れた。
後から安藤大尉が入って来て止めを差そうとしたのだが、鈴木たか夫人が懇願した。
「 それだけは私に任せてください 」
安藤大尉は軍刀を収め、捧げ銃つつを命じ 引上げた。
鈴木侍従長は一命をとりとめた。
「 あのピストルは安藤大尉から渡されていました。
上を向く くせがあって、下に向けたらそれてしまった。
私は心臓を狙ったのですがねえ 」
堂込曹長の話である。
六時ごろ、安藤隊は三宅坂一帯の警備に入り、交通を遮断した。
首都の機能はマヒ状態になった。
その夜は雪の中で露営しての警備が続いた。
二十七日、
安藤隊は正午過ぎ 三宅坂の警備を解き、新国会議事堂前に移動した。
ここは工事中で入れなかった。
路上で休憩した。
聯隊から暖かい飯が届き 喜んだ。
午後七時ごろ、
料亭 「 幸楽 」 に 移った。
玄関前の広場には群集が 「 昭和維新万歳 」 と 叫んでいた。
二日ぶりの休養で ほっとしたのも束の間、
二十八日の朝には、形勢は逆転していた。
いつの間にか蹶起部隊は反乱部隊となり、「 幸楽 」 の外には鎮圧軍が戦車を先頭にとり巻いていた。
よく見ると歩三の残留部隊だ。
昨日歓呼の声で出迎えた群集もこわごわと遠巻きに事態を見ている。
午前六時半に 「 原隊に復帰せよ 」 という奉勅命令が出ているが、正式には下達されていない。
もちろん下士官兵は知らない。
午前六時ごろ、五中隊の小林美文中尉が来て
「 まもなく総攻撃が開始される 」 と いった。
午後一時ころには、同志の村中孝次大尉が 「 もはや自決以外には道はない 」 といって来た。
安藤大尉は 「 俺は最後までやる 」 と 突っぱねた。
安藤大尉は蒼白となり、戦闘準備を宣し、皆 白襷掛けになった。


中隊長とともに死ぬ覚悟
三時ごろ、山岸伍長が郵便葉書を各人三枚ずつ配った。
「 家族に遺書を書け 」 という。
« 愈々時期切迫し、生か死かの境に立つ。勝てば官軍 敗ければ賊軍だ。
これより戦いに行く。勿論必死三昧の気だ。 では ごきげんよう。元気で戦います »・・市瀬操一・二等兵
「 必死三昧 」 は 日蓮主義だった安藤がつけた六中隊の標語だった。
« 我々は今 昭和革新の一員として鈴木大将を討ち、反対者は徹底的に之を討つべく決心の勢いほ以て
奮闘します。皆様によろしく »・・大谷武雄・初年兵
大谷氏の留守宅は母親一人だったが、この葉書を受取って動転してしまったという。
« 生還を期せず (血書) »・・相沢伍長
« 自分達第六中隊は幸楽を出発する前に貴家の父母兄弟に一通差上げます。
自分達の仲間歩三、歩一、近歩三 各東京部隊は二十六日朝五時をきして政治家を夜襲しました。
自分達満洲に出発する前、国賊を皆殺して満洲で戦う覚悟であります。
自分達中隊長初め国の皆様に国賊と言われるか又勤皇と言われるか、
今議会(?) に 来て居るのであります。
自分達を射つ為に佐倉の五十七聯隊が出発して居り 今三聯隊に来て居るそうであります。
自分達は中隊長殿初め国賊と言われたら皆脈を切って死ぬ覚悟であります。
自分達が真でから母国の皆様によくわかると思います。
自分達もこの東京で死ぬ覚悟でありますから、もし生きて居ましたら 御書面差上げます。
父母兄弟御身大切に。さようなら »・・木下岩吉・初年兵
血書の相沢伍長は下士官だから覚悟していようが、木下二等兵の手紙は切ない。
国賊の汚名を着た場合は、安藤中隊長ともども、脈を切って果てようというのだから。
ここでは初年兵も覚悟をきめ、正義に死ぬと思っている。

その深夜、安藤隊は山王ホテルに密かに移動した。
山王ホテルに移ると窓に銃座を作り交戦の準備に入った。
二十九日、
朝から投降を勧めるスピーカーが鳴り出した。
飛行機がビラを撒いた。
「 下士官兵ニ告グ---今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。
抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 」
兵士たちは初めて奉勅命令が下ったことを知った。
鎮圧軍の戦車にも投降を勧める幕が貼られている。
蹶起隊の兵士たちの間で同様が起きていた。
遂に蹶起将校たちも 「 兵を帰そう 」 と いい出した。
しかし
「 今ここで兵を帰せば兵達が賊兵の汚名を着ることになる 」
と 安藤大尉はあくまで引くことに同意しなかった。
参加将校たちは、高官の説得に応じ、下士官兵たちを次々と原隊に帰えし出した。
正午過ぎには山王ホテルにの安藤隊のみとなった。
四面楚歌、こんな状態の中の下士官兵と安藤中隊との信頼関係は、依然として変わりない。
村中孝次はこう記している。
「 二月二十八日、歩三将校間に於て、安藤大尉を刺殺すべしと決議し、
この報 安藤中隊に伝わるや、部下下士官兵は安藤大尉を擁して、他の者を一切近づけしめず、
為に余も安藤に接近し得ざりしこと前述の如くなりき 」・・村中孝次遺書
この情報は二十八日夜、歩三の森田大尉が、秩父宮の令旨を伝えるときに持ってきたものだ。
下士官兵たちにどの程度伝わったかはわからない。
しかし安藤隊は中隊長に説得に来る者を兵士たちは追返した。
同志将校でさえ、安藤中隊には容易に近づけなかった。

戦後も変らない安藤大尉への思慕
しかしながら 決起軍の敗色の状況はいかんともしがたい、
安藤中隊だけではどうにもならない。
「 最早これまで 」
安藤大尉は全員を集め 復隊への訓示を始めた。
そこへ歩三の大隊長伊集院謙信少佐が来た。
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
「 はい、一緒にに死にます 」
安藤は無造作にピストルを取り出した。
とっさに当番兵だった前島清上等兵が、腕にぶら下った。
同志の磯部浅一も後ろから抱き止めた。
「 俺を死なせてくれ。俺は負けは厭だ。裁かれるのは厭だ。自らで裁くのだ 」
安藤は怒号した。
磯部はこのときの情景を、獄中書簡 『 行動記 』 に 書いている。
「 大隊長も亦、『 俺も自決する 安藤のような立派な奴を死なせねばならんのが残念だ 』
と いいつつ号泣する。
『 おい、前島上等兵、お前が かつて中隊長を叱ってくれた事がある。
中隊長殿、いつ蹶起するのです、此の侭でおいたら農村はいつ迄たっても救えませんと言ったねぇ、
農村は救えないなあ、俺が死んだら お前達は堂込曹長と永田曹長を助けて、
どうしても維新をやりとげよ、二人の曹長は立派な人間だ、いいか、いいか 』
『 曹長、君達は僕に最後迄ついて来て呉れた。有難う、後を頼む 』
と 言えば、群がる兵士等が 『 中隊長殿、死なないで下さい 』 と 泣き叫ぶ 」
磯部は将兵一体の団結に感動して、
あれ丈 部下から慕われるという事は、安藤の偉大な人格が然らしめたのだ、
と、記している。

午後二時ごろ、安藤大尉はホテル前の広場に整列を命じた。
安藤中隊長は最後の訓示を与えた。
彼は部下に礼をいい、このような結果になったことを謝り、満洲に行っても頑張れと励ました。
最後に全員で中隊歌の合唱になった。
中隊長は静かに隊列の後ろに歩いて行った。
後方でピストルの音がした。
中隊長が倒れていた。
皆駆け寄った。
額に中隊旗をかけた。
たちまち血で赤く染まった。
兵隊の一人がこの様子を近くで見ていた師団参謀に向って
「 お前たちが中隊長を殺したのだ 」
と 泣き叫びながら突っ込んだ。
参謀は逃げ去った。
安藤大尉の傷は左の顎からこめかみに至る盲管銃創で、命に別状なかった。
救急車が来て、奥山軍曹、門脇軍曹、当番兵の前島上等兵が付添い、
第一陸軍病院に向った。
これが六中隊の兵士が見た中隊長の最後の姿だった。
六中隊は永田、堂込の小隊長に引率され、軍歌を歌いながら原隊に戻った。
武装解除を求められたが、小隊長が拒否した。
彼らは中隊長がいなくなっても、その統率力は変りなかった。
なぜ彼らの武装を解かせられなかったのか?
不思議がると板垣氏はいった。
「 恐かったのですよ 」
安藤輝三という一人の中隊長の熱情と覇気が、
六中隊の下士官兵の一人一人に浸透していたことを、信じざるを得なかった。

歩三の聯隊に帰ると、夕食後、下士官以外はすぐに近歩三の兵舎に移された。
翌日取調べを受けた後、原隊に帰された。
帰隊後も不参加者との隔離がつづき、行動範囲も制限され、参加者は軍帽を被り、
不参加者は略帽という既定まで設けられた。
毎日精神訓話で感想文を書かさせられた。
五月、チチハルに派遣されたが、渡満前の帰宅も集団外出だった。
上野までは聯隊の下士官、上のからは在郷軍人の引率で自宅に帰り、
夕刻までには駅に戻る、という監視つきだった。
翌年二月、九年兵が満期除隊すると、初年兵が入ってきて、十年兵が戦力の中心になった。
八月、九月と北支に転戦がつづき、多くの戦死者を出した。
二・二六事件の汚名を返上するのだ、と 上官たちから前線に出されることが多かった。

一方下士官は営倉に入れられ、代々木の衛戍刑務所に送られた。
七月五日、裁判が開かれ、判決がいい渡された。
六中隊では、永田露、堂込喜市の両曹長が二年の実刑、渡辺春吉、門脇信夫、奥山粂治、
中村靖、小川正義の五人の軍曹と、山田政男、大木作蔵の両伍長が、
執行猶予つきの二年の刑に処せられた。
彼らは兵役から除かれたのに刑期が終わると、また 召集され、格下げになり、
苦労の連続を味わされた。
六中隊の下士官では四名が改名した。
それでも安藤中隊長に対する思慕は変らない。
当時としては何かが起こるに違いない、と思うほど世の中が不況で貧乏だった、と 感じている。

戦後、生き残った者は、敗戦国日本復興のため働きつづけた。
志半ばで処刑された安藤中隊長を偲ぶ会は、戦後だけでも二八回続いた。
「 あの人たちはたいしたもんですよ 」
安藤房子さんは そう話していた。
解散時の 「 安王会 」 会員三十六名、
日本を震撼させた四日間をともにした仲間たちは、「 安王会 」 は 一応解散したが、
お互いに 連絡し合って懇親の場を持ち合おう、 と 話しているという。

小池泰子 著
安藤中隊長を慕い続ける 「 安王会 」
別冊歴史読本  2・26事件と昭和維新  1977年  から


「 前嶋君 君達にあひ度かつた 」

2017年10月16日 19時03分58秒 | 安藤輝三

前島君 あひたかった
五月
予定どおり第一師団の渡満がはじまった。
しかし私は新任の中隊長野村哲大尉から、
「 お前は安藤大尉の当番兵だったので、
これからもいろいろと整理することもあるだろうし、
本人の留守宅とも連絡がもたれるので留守隊に残れ 」
と いわれ渡満組から除外された。
こうして あわただしい渡満が終わると聯隊内はひっそりとして
毎日が味気ないものに変わった。
しかし その頃進められていた事件関係者の軍法会議が気がかりでならなかった。
願くば 安藤大尉が有期刑であってくれと神に祈った。
しかし結果は死刑であった。
そして一週間後の七月十二日刑務所内で銃殺されたのである。

忘れもしないその前夜、
私は週番指令に呼ばれ
「 安藤大尉がお前に会いたがっている、
行きたければ公用外出を許可するがどうか 」
と 意向をきかれた。
私個人としては希望はあったし
刑の執行の近いことも薄々知っていたので一度は応ずる気持になったが反面、
軍が仕掛けたワナかもしれぬと警戒心が高まり
遂に面会を取止めた。
若し週番指令が真に良心的にいってくれたものなら
安藤大尉にはまことに申訳ないことだが、
その頃の私は自分以外に信用できる者がいなかったのである。
だから 重ねて
「 大丈夫だ、心配は無用だ、早く行ってやれ 」
そういわれたとしても 決して私は腰をあげるつもりはなかった。
処刑後数日たったある日、
私は中隊に残された安藤大尉の遺品をもって自宅にうかがった。
当時大尉は世田ケ谷に住んでいた。
部屋に通され夫人と面談したとき、
夫人は つくろってはいたものの傷心の気配がありありと見られた。
まことに愁傷の限りで私も泣きたい思いであった。
私は そこで持参した遺品と共に安藤大尉から預かっていた絶筆
( 通信紙五、六枚に書かれたもの )
を 渡した。
次いで 山王ホテル前広場で自決を図った時の模様や負傷の様子など、
こと細かくお話すると 夫人は一つ一つうなずきながら聞いておられた。
絶筆は手元に寄せて
一枚一枚読まれた上で納められたが
今も大切に保管されていることであろう。
ひととおり私の話が終わると
今度は夫人が私に巻紙にした書を差出した。
そして主人から前島さんに渡すようにいわれましたといった。


それは 安藤大尉の遺書で、獄中で書いたものであった。
しかも 二つのうち一つの方は死刑執行の前夜にみとめたものである。
あの日 大尉が私に会いたいといっておられたのは
定めしこの遺書を直接渡したかったのではあるまいか。
ああ 何と悲痛な絶筆であろうか。
私しの目にはいつしか涙があふれ、止めどなく流れ落ちた。
フト遺書の中に安藤大尉の姿が浮かび出てニッコリ笑いかけたように思われた。
今更に安藤大尉の人徳の深さに敬服するばかりである。
私はこの遺書を表装し家宝として大切に保存している。
以後私は留守隊で軍務に励み、十一月三十日除隊した。
その後十四年四月に応召となり浦和連隊区司令部に勤務し終戦を迎えた。
その時の階級は准尉であった。

考えてみると 昭和初期は動乱の世であって、
その中に勃発した 二・二六事件は 私しにとって終生忘れることのできない事件で、
今も昨日のことのように鮮烈な映像となって消えることはない。
私は安藤大尉に仕えたことを誇りに思っている。
何故なら 軍人として厳格な半面、温情味を備えた性格は
誰からも尊敬され慕われた立派な人格だったからである。
だから第六中隊の団結は固く 何事も積極的だった。
聯隊内の武術競技にしても異常なまでの張切りで優勝したのも当然のことであった。
こうした信望の厚い安藤大尉を 二・二六事件に走らせた要因は何であったか。
しかも同志として蹶起した青年将校は皆 有能の士ばかりであったが、揃って銃殺されてしまった。
まことに惜みても余りある人達ばかりであった。
かつて兵営の屋上で毎夜の如く高唱した昭和維新の歌は蓋し世相を痛烈に喝破したものであるが、
同時に国政に対する警鐘でもあった。
だが時流は反対方向へと進み無謀にも世界を相手に宣戦を布告し遂に惨敗を喫した。
まことにかえすがえすも痛憤を覚える歴史の一齣である。

何故事件後国家の指導者たちは
二・二六事件を反省しなかったのであろうか。
私は時折
そう思うのである

『 農村もとうとう救えなかった 』 2 に  ・・本文の前編
二・二六事件と郷土兵 安藤大尉と私 前島清 著 から


「 君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら 」

2017年10月15日 18時59分37秒 | 安藤輝三


後田は、昭和九年兵である。
歩三・六中隊の上等兵で、
安藤中隊長の当番兵であった。

金剛不懐身
為後田清君
昭和十一年七月十日  安藤生

後田君君達にあひ度かった
諸君に宜しく幸多かれ
さらばさらばさよなら
昭和十一年七月十一日夜  安藤輝三

事件の のち、第一師団が守備隊として渡満したとき、
私はいきませんでした。
人事係のひとが、
「 お前は安藤大尉と特につながりが深かったから、残って、
様子を見届けるようにしたほうがいいだろう  」
と いって、留守隊のほうにまわしてくれたのです。
そして 七月十一日の夜、
私は週番司令に呼ばれました。
「 安藤大尉がお前に会いたがっているという電話連絡が、
看守を通じて聯隊にあった、お前、いきたいか 」
と いうのです。
「 もちろん参ります、週番司令がいってもいいとおっしゃるなら 」
と 答えましたが、
結局、いけませんでした。
「 気持ちはよくわかるが、いかないほうがいいだろう、
お前は行動をともにしたから、注意されている、
会いにいったということになっら、今後、にらまれて、困るだろう、
週番司令としては、やるわけにはいかん 」
と いう。
週番司令がそういうからには、それに従うよりほかありません。
自分の思いのままに行動できないことが、口惜しくてなりませんでした。
死刑の判決があったことは、新聞などでわかっていましたが、
まだ判決があったばかりなので、
まさか翌朝、処刑されるとは、想像もしなかったものです。
安藤さんにはそれがわかっていて、
そのため会いたがっていたとは、もちろん知る由もありません。
この二つの遺された書をみるたびに、
処刑の前夜、安藤さんが私の現れるのを、どれほど待ち望んでいたか、
それがしみじみとわかって、いまだに胸にこみあげてくるものがあります。
おそらく私が面会にいったなら、七月十日、
と 日づけのあるほうを、渡してくれるつもりだったのでしょう。
しかし、看守は電話してくれたが、私は現れない。
待って、待って、待ちわびて、
七月十一日夜、
と 日づけのあるのを、書いたのだと思います。
君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら
これをみると、たまらなくなってくるのです。
私は一度も面会にいっていませんが、
というよりも、面会などいけませんでしたが、
安藤さんはなにかの方法で、
私が留守隊に残っているのを知っていたのでしょう。


長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」

2017年10月14日 18時47分38秒 | 安藤輝三

第二中隊所属の長瀬一伍長も、安藤に心酔し、命を賭けた男の一人であった。
彼は、二・二六事件勃発に際し、
安藤の蹶起を知るや、その慰留にもかかわらず、自分の中隊の下士官・兵十八名とともに、行動部隊に参加した。
全体的な編成上、安藤中隊に入ることが出来なかったが、坂井直中尉の指揮する第一中隊主力に合流し、
内大臣齋藤実邸及び教育総監渡辺錠太郎邸の襲撃に加わったのである。
事件後、軍法会議での厳しい審問に際しても、断じて信念を曲げず、
銃殺刑に処せられた安藤大尉に殉ずるように、
歩三関係下士官としての最高刑である禁錮十三年の実刑に服した。
予審裁判で係官が彼に対し、安藤観を聞いた時、彼は大声でもって
「 身を殺し、以て仁を為す 」
と禅問答のような発言をして、係官を驚かした。
また、本法廷で裁判長から、
「 もし、このような事件が再び起きた場合は、お前はどうするか・・・」
と 尋ねられた時、
「 もち論、再び銃を執って参加し、奸賊どもを誅戮します 」
と 然と言い放ったことは、今でも同席した戦友たちの語り草になっている。

国を思ふ心に萌えるそくりようの
心の奥ぞ神や知るらん
・・・リンク→反駁 ・ 長瀬一伍長 「 百年の計を得んが為には、今は悪い事をしても良いと思ひました 」

『 被告人長瀬ハ、入営前ヨリ国体ノ研究ヲ志シ、且ツ居常維新志士ノ言行ヲ敬愛シアリシガ、
入営後 昭和九年七月頃、安藤輝三ヲ知ルニ及ビ、深キソノ人格ヲ敬慕シ、
同人ノ指導ト相俟ツテ、遂ニ国体ノ顕現ノ爲ニハ、一身ヲ犠牲ニシテ、
直接行動ヲ為スモ 敢テ辞セザルノ信念ヲ固ムルニ至り・・・・』
・・長瀬一の判決文の冒頭

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長瀬は、大正二年十月、埼玉県北足立郡三橋村で生まれた。
生来、頭脳明晰で、積極進取な長瀬は、県立浦和中学校に入学するや、
抜群の成績を示し、終始クラスの主席を押し通したという。
中学を卒業すると、当然一流の上級学校に進学すると見られていたが、
日頃から尊敬していた吉田松陰や明治維新の志士たちの影響を強く受けていた長瀬は、
自ら独学の道を選ぶことになった。
すなわち、親たちの希望に反して、国学書を読み漁ったり、その道の大家に直接師事するなど、
生なまの国体研究と人間修練に乗り出したのである。
その三年後の昭和九年、現役兵として歩兵第三聯隊第二中隊に入隊することになった。
そしてその年の七月、宿世の因縁ともいうべき安藤輝三という男と、奇しき結び付きを持つに至った。
 
安藤輝三

長瀬ら昭和九年一月に入隊した初年兵たちは、
その年の七月、
富士裾野において第二期教育の総仕上げを行った。
そして、七月下旬、
滝ケ原演習場一帯において、聯隊長による第二期検閲が実施されたのである。
聯隊長は、山下奉文大佐の後任の井出宜時大佐であった。
また検閲補助官として、聯隊附中佐以下、各本部付の将校が任命され、
安藤もその中の一人として参加した。
・・・・
長瀬一等兵は、
この時期すでに下士官候補者を命ぜられていたが、演習間は中隊に復帰していた。
中隊命令によって将校斥候の一員に選ばれた長瀬は、三里塚附近の敵小部隊を駆逐し、
その背後の敵主陣地一帯を偵察するために、
約一個分隊の兵員に混じって中隊地の終結を出発した。
敵に発見されないように、地形地物を利用し、隠密に三里塚高地の側背に迫った長瀬ら一隊は、
着剣して一挙に突撃を敢行した。
長瀬は、錆止のため銃剣の着脱溝に、日頃から油布の小片を入れておいたのである。
それが思わぬ禍となって、
突撃後五〇メートルぐらい走った時に、銃剣が落失したことに気が付いたのであった。
失敗った! と 思った彼は、慌てて引き返し、必死で銃剣の捜索にかかった。
すでに長瀬らの隊は、敵陣地偵察のため遙か前方にすすんでおり、協力を頼むことも出来ない。
銃剣を落したと思われる一帯は、灌木と雑草が茂っていて、長瀬一人での捜索はなかなか大変だ。
しかも日没まであと一時間もない。
長瀬は、眼の前が真暗になった。
銃剣紛失は重大問題である。みつからなければ重営倉は間違いない。
もち論、下士官候補者もやめさせられるだろう。
それは自分だけでなく、班長や教官や中隊長までにも大変な迷惑をかけることになる。
話によると過去銃剣を紛失いたために、自殺した兵隊も出たという。
長瀬は、半分泣きべそをかきながら、遮二無二草原の中を匐はらばいまわった。
時折、富士特有の霧が視界をさえぎり、時間もどんどん経過して行くが、全く手がかりがない。
気丈な長瀬も、すっかり気落ちし、広い原野の中で茫然自失していた。
その時、長瀬の耳に、
「 おい !  そこの兵隊・・・・・・・どうしたんだ!  」
と 怒鳴るような声が聞こえた。
長瀬が振り返ってみると、審判官の白い腕章をつけた乗馬の将校が、自分の方を見ている。
「 第二中隊、長瀬一等兵 !  突撃の最中に銃剣を落失し、ただ今捜索中であります ! 」
と 長瀬は大声で報告した。
「 そうか、それはいかんなあ。よし・・・・俺も一緒に探そう・・・・」
と、その将校は馬から飛び降り、馬を近くの灌木の根っこに繋いだ。
そして長瀬の行動半径を聞くと、指揮刀を抜いて、逐次草を薙ぎ払いながら捜索を始めた。
長瀬は勇気百倍、突撃を開始した地点から、捜索をやり直した。
しかし広い草原の中で、一本の銃剣を探し当てるのは、まさに至難の業と言えた。
辺りはだんだんと薄暗くなってくる。長瀬の気持は焦るばかりだ。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
突然とんでもない方向から、
「 あった !  あったぞ ! 」
と 叫び声が聞こえた。
その将校が、白く輝く剣身を高く挙げて、ニッコリ笑っているではないか。
途端に、長瀬の顔は涙でクチャクチャになった。
そして夢中で、将校の方に駈け寄った。
長瀬は、渡された銃剣を抱き締めて、大声で泣いた。
それは言いようのない感動であった。
「 よかったなあ・・・・では俺は急ぐから、これで失敬する 」
とひとこと言った将校は、再び馬に乗って東の方に走り去った。
長瀬は名前を聞く暇がなかったのだ。
ただ、丸ぶちの眼鏡をかけた、長身の優しそうな中尉だったという印象だけが残った。
長瀬は、中尉の後姿に両手を合わせて拝んだ。
そして茫然とした意識の中で、仏の姿を見いだしたように感じた。
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 歩兵第参聯隊 営舎

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昭和十一年二月二十五日夜、
長瀬伍長は一人で第六中隊長室に呼ばれた。
その頃、長瀬は渡満前の兵を訓練するために寝食を忘れて頑張っていたが、
一方で昭和維新決行のただならぬ雰囲気を、肌で感じとっていたのである。
安藤大尉が遂に蹶起に踏切ったという情報も、すでに耳に入っていた。
「 安藤さんが起つ時は、俺も起つ 」
という 長瀬の気持ちには、全く迷いがない。
部屋の中に入ると、安藤は立ち上がって、長瀬を迎えた。
中には、もう一人の将校が静かに椅子に坐っていた。
一瞬張りつめた空気を感じとった長瀬は、何かあるなと思った。
そして、弓にたとえれば、「 会 」 から 「 離れ 」 に 移る直前の気魄とでもいうか、
そんな雰囲気を敏感にさとった。
安藤は、在室の将校を指して、
「こちらは、所沢飛行学校の河野寿航空兵大尉だ・・・・」
と 紹介したあと、
「 我々は明朝蹶起するが、貴公は残って勉強せよ 」
と 言った。
長瀬は弾かれたように、
「 私も出ます・・・・」
と 答えた。
「 君は優秀な人材だ。今度は残って陸士予科の受験勉強に専念してくれ。
 そして必ず立派な将校になるんだ。俺は後事を託したい。
我々は第一線部隊として突っ込むが、君らを第二線部隊として控置して置きたいのだ。
どうかこの気持を分ってくれ・・・・」
と 安藤は長瀬の眼を食い入るように見ながら頼んだ。
それは、死を決して湊川に出陣してゆく楠正成が、
我が子 正行を呼寄せて諭した時の心境とでも言うべきか・・・。
長瀬の心は、すでに富士裾野で安藤に会った時から決まっているのである。
しかし、安藤の気持ちを尊重して、
「 お気持ちはよく解ります。どうか暫く考えさせて下さい。ではご武運を祈ります・・・・」
と 答え、安藤の手を固く握り締めた。
長瀬の眼の異様な輝きを、見てとった安藤は、
「 そうか・・・・君の気持ちは変りそうもないな。
 やむを得ん・・・・その時は、坂井の指示を受けてくれ。くれぐれも武運を祈るぞ 」
と、長瀬の手を強く握り返した。

二・二六の礎 安藤輝三  奥田鑛一郎 著から