あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

安藤輝三 『 万斛の恨み 』

2022年12月07日 08時13分28秒 | 安藤輝三

長瀬ら昭和九年一月に入隊した初年兵たちは、
その年の七月、
富士裾野において第二期教育の総仕上げを行った。
そして、七月下旬、
滝ケ原演習場一帯において、聯隊長による第二期検閲が実施されたのである。
聯隊長は、山下奉文大佐の後任の井出宜時大佐であった。
また検閲補助官として、聯隊附中佐以下、各本部付の将校が任命され、
安藤もその中の一人として参加した。
・・・・
長瀬一等兵は、
この時期すでに下士官候補者を命ぜられていたが、演習間は中隊に復帰していた。
中隊命令によって将校斥候の一員に選ばれた長瀬は、三里塚附近の敵小部隊を駆逐し、
その背後の敵主陣地一帯を偵察するために、
約一個分隊の兵員に混じって中隊地の終結を出発した。
敵に発見されないように、地形地物を利用し、隠密に三里塚高地の側背に迫った長瀬ら一隊は、
着剣して一挙に突撃を敢行した。
長瀬は、錆止のため銃剣の着脱溝に、日頃から油布の小片を入れておいたのである。
それが思わぬ禍となって、
突撃後五〇メートルぐらい走った時に、銃剣が落失したことに気が付いたのであった。
失敗った! と 思った彼は、慌てて引き返し、必死で銃剣の捜索にかかった。
すでに長瀬らの隊は、敵陣地偵察のため遙か前方にすすんでおり、協力を頼むことも出来ない。
銃剣を落したと思われる一帯は、灌木と雑草が茂っていて、長瀬一人での捜索はなかなか大変だ。
しかも日没まであと一時間もない。
長瀬は、眼の前が真暗になった。
銃剣紛失は重大問題である。みつからなければ重営倉は間違いない。
もち論、下士官候補者もやめさせられるだろう。
それは自分だけでなく、班長や教官や中隊長までにも大変な迷惑をかけることになる。
話によると過去銃剣を紛失いたために、自殺した兵隊も出たという。
長瀬は、半分泣きべそをかきながら、遮二無二草原の中を匐はらばいまわった。
時折、富士特有の霧が視界をさえぎり、時間もどんどん経過して行くが、全く手がかりがない。
気丈な長瀬も、すっかり気落ちし、広い原野の中で茫然自失していた。
その時、長瀬の耳に、
「 おい !  そこの兵隊・・・・・・・どうしたんだ!  」
と 怒鳴るような声が聞こえた。
長瀬が振り返ってみると、審判官の白い腕章をつけた乗馬の将校が、自分の方を見ている。
「 第二中隊、長瀬一等兵 !  突撃の最中に銃剣を落失し、ただ今捜索中であります ! 」
と 長瀬は大声で報告した。
「 そうか、それはいかんなあ。よし・・・・俺も一緒に探そう・・・・」
と、その将校は馬から飛び降り、馬を近くの灌木の根っこに繋いだ。
そして長瀬の行動半径を聞くと、指揮刀を抜いて、逐次草を薙ぎ払いながら捜索を始めた。
長瀬は勇気百倍、突撃を開始した地点から、捜索をやり直した。
しかし広い草原の中で、一本の銃剣を探し当てるのは、まさに至難の業と言えた。
辺りはだんだんと薄暗くなってくる。長瀬の気持は焦るばかりだ。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
突然とんでもない方向から、
「 あった !  あったぞ ! 」
と 叫び声が聞こえた。
その将校が、白く輝く剣身を高く挙げて、ニッコリ笑っているではないか。
途端に、長瀬の顔は涙でクチャクチャになった。
そして夢中で、将校の方に駈け寄った。
長瀬は、渡された銃剣を抱き締めて、大声で泣いた。
それは言いようのない感動であった。
「 よかったなあ・・・・では俺は急ぐから、これで失敬する 」
とひとこと言った将校は、再び馬に乗って東の方に走り去った。
長瀬は名前を聞く暇がなかったのだ。
ただ、丸ぶちの眼鏡をかけた、長身の優しそうな中尉だったという印象だけが残った。
長瀬は、中尉の後姿に両手を合わせて拝んだ。
そして茫然とした意識の中で、仏の姿を見いだしたように感じた。
・・・長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 

二十二日の朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、

磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ
と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
・・・第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」


安藤輝三 
アンドウ テルゾウ
『 万斛の恨み 』
目次

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貧困のどん底 
・ 
打てば響く鐘の音のように 
・ 「 おい、早くあの兵を連れ戻せ 」 
長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 
・ 「 曹長になったら、俺の中隊に来ないか 」 
・ 「 中隊長のために死のうと思っただけです 」 

第九 「 安藤がヤレナイという 」

・ 竜土軒の激論
 
西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」
・ 西田税、安藤輝三 ・ 二月二十日の会見 『 貴方ヲ殺シテデモ前進スル 』 

・ 昭和維新 ・安藤輝三大尉  
・ 安藤輝三大尉の四日間 
・ 命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」 

 
安藤部隊 ←クリック  ↓目次 )

 ・中隊長安藤大尉と第六中隊
 ・中村軍曹 「 昭和維新建設成功の日 近きを喜びつゝあり 」
 ・歩哨戦 「 止まれ!」
 ・第六中隊 『 志気団結 』

 ・堂込曹長 「 奸賊 覚悟しろ!」
 ・鈴木侍従長 「 マアマア、話せば判るから、話せば判るから 」
 ・奥山軍曹 「 まだ温かい、近くにひそんでいるに違いない 」
 ・安藤大尉 「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」
 ・命令 「 独断部隊ハ小藤部隊トシテ歩一ノR大隊長ノ指揮下ニ這入ル 」
 ・破壊孔かに光指す
 ・命令 「 我が部隊はコレヨリ麹町地区警備隊長小藤大佐の指揮下に入る 」
 ・「 一体これから先、どうするつもりか 」
 ・地区隊から占拠部隊へ
 ・幸楽での演説 「 できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる 」
 ・下士官の演説 ・ 群衆の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」
 ・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている 」
 ・町田専蔵 ・ 皇軍相撃を身を以て防止することを決意す
 ・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」
 ・小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」
 ・安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」
 ・「世間が何といおうが、皆の行動は正しかったのだ 」
 ・「中隊長殿、死なないで下さい!」
 ・「 農村もとうとう救えなかった 」
 ・「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」
 ・伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1  
 ・伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 2

・ 万斛の想い 「 先ずは、幕僚を斃すべきだった 」

あを雲の涯 (五) 安藤輝三

・ 「 前嶋君 君達にあひ度かつた 」 
・ 
「 君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら 」

・ 昭和11年7月12日 (五) 安藤輝三大尉 

『 安王会 』 第六中隊下士官兵の安藤中隊長

二月二十六日の朝、運命の日を迎えたのであります。
私は、なんの迷いも ためらいもなく、黙って中隊長のあとに随いて行きました。
ただ、私は中隊長のために死のうと思っただけで、他には何も考えませんでした。
それは私だけではありません。
出動した全中隊員が同じ気持ちだったと思います。
安藤中隊長は、私にとって神様でありました。
いや、今でも私の神様なのです 

・・・「 中隊長のために死のうと思っただけです 」 ・・渡辺鉄五郎一等兵


安藤大尉、『 昭和維新 』を幹部候補生に訓示す

2018年02月25日 04時55分20秒 | 安藤輝三

 
安藤輝三
大尉

昭和7年5月15日
五 ・ 一五事件

5月17日
安藤中尉幹部候補生たちに昭和維新に関する考え方を話す。
「 諸君は、既に新聞やラヂオで、一昨日の事件に関して知っていることと思う。
実はこのことは前もって予測されていたことであった。
我々にも参加を求められていたのだ。
しかし、私は時期尚早であり、陸軍関係同志の結束が出来ていないという理由で、
参加を拒否すると同時に、暴発を阻止するために出来るだけの説得を行った。
それも空しく、海軍の一部 中 ・ 少尉が蹶起し、在学中の士官候補生五名までが、
学校を飛び出して暴走してしまった。まことに残念で堪らない。
今日は、今回の事件に関連して、自分の考えを話しておきたいと思う。
その前に、昭和維新の尊い人柱になられた犬養首相の霊に対して黙禱を捧げたい。
首相は腐敗堕落した政党政治家の中にあって、数少ない清貧気骨の士であったことだけは、
知っておいて欲しい 」

「 諸君も知っての通り、日本経済は大正末期から慢性的な不況に喘あえいでいる。
そこへ、昭和二年三月に突如として金融大恐慌が起きた。
全国の各銀行は、預金者による取付騒ぎで大混乱を呈した。
中でも台湾銀行、十五銀行を始め 十指に余る銀行が閉鎖された。
その結果、有名な鈴木商店や川崎造船所を筆頭に、大小の企業が軒並みに倒産した。
そして、日本の産業機構は潰滅的な打撃を蒙り、国民生活を奈落の底に陥しいれた。
これは日本の経済史上未曾有の大事件であり、国民は顔色を失って不安におののいた。
少年時代だった諸君も、強烈な印象を残しているであろう。
しかも天は、さらに容赦なく過酷な試練を国民に与えた。
それは、全国的な農村地帯の旱魃 かんばつ であり、冷害であった。
中でも東北地方と関東北部における被害は甚大で、その惨状は目を覆うものがあった。
それは五年後の今もまだ深刻に尾を曳いているのだ。
諸君のほとんどが、農村漁村の出身であり、その大半は小作農の子弟であるので、
今さら具体的な説明は不必要であろう。
諸君は、自分の意志と親の諒解に基づいて、今後長く陸軍の俸禄を食むことを決意した。
然し、君等の所属する中隊の戦友で少なからぬものの家庭が、
掛けがえのない働き手を国にとられて、困り果てているのだ。
そして、その戦友たちは月々支給される僅かな手当のほとんどを、家への送金にまわしている。
それでも足らずに、若い姉や妹たちが、次々と遊里に身を売られて行く現状である。
それなのに、権力の座にある政治家、役人、高級軍人たちの大半は、
敢てその現実から目をそらし、自己の私利私欲のみに走って、
庶民の窮状を拱手傍観している有様だ。
果してこんなことで良いのか。
良識ある国民が、この状況に胸を痛め、情勢の抜本的転換を希求するのは当然である。
すなわち、庶民の大半が昭和維新の断行を、ひそかに望んでいると言ってよい。
去年の九月に、関東軍が満洲事変を起したのも、国民の憤懣の爆発がこれを導いたと言って差し支えない。
また、これと軌を一にして、
国内では血盟団による一人一殺のテロ行動をはじめ、各種の警世革新の事件が起きた。
それが、一昨日の一部軍人たちによる襲撃事件につながったのだ。
五月十五日の事件は、政党政治に対する強烈な警鐘であり、
昭和維新に対する引き鉄 がね になったことは言うまでも無い。
しかしその実態は、少数決死の遊撃隊員が敵本陣に奇襲をかけて、
敵の大将の寝首を掻いただけで、全体的な効果はさして大きくない。
ただし、敵陣営を畏怖させ、味方の志気を鼓舞した点では、心理的成功と言って差し支えないだろう。
彼らは、昭和維新の前衛であって、本体ではない。
本隊であり、主力決戦を行うのは、我々陸軍を中心とした同志だと確信している。
しかし、我々の準備はまだ出来ていないし、時機も熟していない。
我々が蹶起するときは、成算が完全に樹った時機である。
そして、やる以上は、是が非でも昭和維新を完遂させねばならんのだ。
しかも、出来るかぎり血を流さずに成功させる方法を、真剣に考えなければならぬ。
その時機は、数年を待たずして必ず到来するだろう。
その時こそ決戦であり、日本中がひっくりかえることになるだろう。
今回は、残念ながら修行中の士官候補生たちが、陸軍を飛び出して官軍革新陣営の傘下で行動した。
生徒の身分として、まことに早まったことをしてくれた。
これは我々先輩に大きな責任があり、痛切に反省しているところだ。
そして、諸君もまた勉学修業の途上にある。
教導学校を卒業するまでは、絶対に軽挙妄動してはならない。
君らの中には、血の気の多いものが少なくないが、くれぐれも自重して欲しい。
諸君が下士官として任官したのち、私がみずから納得して蹶起する時に、参加するか否かは自由である。
その時は、その時で十分に話し合おう。
ただ、私は、昭和維新が青年将校だけで遂行できるとは思っていない。
軍の重石 おもし である下士官が主体となって動かないと、絶対成功しないと思っている。
こういう話は、課外時間に自由な立場で話し合うべき問題だ。
さあ、肝心の勉学訓練をおざなりにしては天罰を受けるぞ・・・・。
事件関係の話はこれまで 」


打てば響く鐘の音のように

2017年12月14日 04時36分16秒 | 安藤輝三


菅波三郎中尉  安藤輝三中尉
ある日、
歩兵第三聯隊の機関銃中隊将校室にいた菅波三郎中尉は、
営門をせわしげに出て行く一人の将校が窓越しに目についた。
そういえば先刻より幾度か往来している。
当時、機関銃中隊は営門に最も近いところにあったので、
見るとはなしによく見えたのである。
翌日、昼の将校集合所で、
菅波はこの将校が第十一中隊の安藤輝三中尉であることを知って
たちまち好感を抱いた。
ところが、安藤の外出が、
除隊して失業中の兵の就職運動であったことを知って、菅波は驚きかつ感激した。
菅波は隊付将校としての責任と負担を乗越えて、
旧部下のために尽力する安藤の親身な真剣さに心打たれたのである。
菅波中尉は鹿児島から着任したとき、
歩三には家族的雰囲気や親密さに欠けるものがあるとみていたが、
菅波は安藤の情味的な人柄に魅せられ、
この将校こそ昭和維新への同志として欠くべからざる人物と確信した。
数日後、夕食後に、
聯隊内独身者将校の宿舎ある安藤中尉の部屋を、初めて菅波中尉が訪れた。
安藤中尉の部屋には調度品らしいものは何一つなく、
部屋の隅に使い古された机がぽつんと無造作におかれ、
机上のコップに一輪の白い花がさしてあった。
およそ殺風景な男っぽい部屋だけに、
菅波にはこの一輪の白い花が、
主人公の人柄を偲ばせているような気がして、
「 花は一輪に限りますね 」
と 菅波がいうと、安藤は、
「 兵隊がさしてくれたんですよ 」
と 朴訥とした口調でいかにもうれしそうな表情をみせた。
菅波は再び安藤の人柄を思い知らされたような気がした。
それは 部下を愛しつつ 絶対の信頼を寄せる青年士官の素朴な姿であった。
菅波は安藤の言葉にますます信頼できる人物と確信した。
菅波はようやく重い口を開いた。
「 いまの世の中をどう思いますか 」
「 とにかく、生きてゆくのに大変なようです 」
安藤は就職運動の困難さを顧みるように 実感をこめて応えた。
こういう場合、安藤のような性格の男は、どう応えても自分の言葉に空虚なものを感じてしまう。
菅波は軽くうなずきながら、諄々と語り始めた。
それは晩夏の夕に、日本の将来と政治の腐敗を憂えて、津々と流れる菅波節である。
こういうときの菅波の話術は抜群のうまさを発揮する。
ロンドン海軍会議後以降の国際情勢、ソ連極東軍の重圧、蒋介石国民政府による中国の統一、
これに対して国内の政党政治の腐敗、軍上層部の堕落、民衆の生活苦など、
菅波の爽やかな弁舌には尽きるところがない。
安藤は 打てば響くように感動の色を面に漂わせた。
菅波は最後に国家改造論で締めくくって話が終った。
安藤は菅波の人柄とその思想にすっかり魅せられた。
菅波流にいえば、彼が安藤の魂に火をつけ、あとは安藤が自ら燃えていったことになる。
安藤は少しでも早く歩三の将校団を啓蒙することを主張したが、
菅波はいまだ時期尚早ととて、人を選ぶには時間がかかることを強調した。
菅波らしい慎重さである。
時に菅波三郎中尉二十七歳、
安藤輝三中尉二十六歳の若さであった。

・・・リンク→ 
貧困のどん底 
暁の戒厳令  芦澤紀之 著 から


『 安王会 』 第六中隊下士官兵の安藤中隊長

2017年10月17日 18時38分03秒 | 安藤輝三

事件直後に発足した 「 中隊長を偲ぶ会 」
毎年二月になると、埼玉県の大宮の近くで一つの戦友会が開かれる。
今は亡き中隊長の大きな写真を上座に飾り、和気あいあいと語り合う。
お互いの消息を確かめ合い、何時間かを昔の若者に返る。
最後には中隊歌を歌い、記念撮影をして、散開となる。
どこでもあるような戦友会・・・・。
しかし彼らには特異な体験があった。
二・二六事件のときに歩兵第三聯隊第六中隊に属し、
安藤輝三大尉とともに山王ホテルに立てこもった中間たちなのだ。

安藤輝三
写真の中の安藤中隊長は、事件当時の国会議事堂の外套の立ち姿だった。
戦友会の名は 「 安王会 」。
「 安 」 は 安藤大尉の頭文字、「 王 」 は 山王ホテルからとったという。
二・二六事件の起きた翌年の昭和十二年に発足した。
当時の 「 安王会 」 の幹事の一人だった板垣秀男氏の回想は、
あの立像の安藤大尉の写真の原版から始まる。
板垣氏の兄が読売新聞社に安藤大尉の写真を貰いに行った。
その原版を北満の戦地にいた板垣氏に送った。
歩三の第六中隊は事件後の五月から北満のチチハルに派遣されていた。
板垣氏はしせめ九年兵たち ( 昭和九年に徴兵検査され昭和十年一月に入隊した事件当時の二年兵 ) は、
この写真を見て懐かしい思いにかられた。
昭和十二年二月、九年兵は現役の期間が終わるので、北満から歩三の原隊に帰還した。
この輸送途中に、「 安王会 」 を作ろうという話が出た。
板垣氏が中心となって、東京出身者と埼玉県出身者から二名づつ幹事となり会則を作った。
歩三部隊への入隊者は、浦和、川口など埼玉県の一部と、足立、葛飾などの北東京から召集された。
そこで 東京、埼玉からの幹事の選出となった。
「 安王会 」 会則は七項目あり、「 安王会 」 の名称、昭和九年兵の集り、会費は年一円、
春秋に二回集り親睦を図ろうなどというものだった。
当時の会員四十名の記名もある。
第一回は二月ころ? 浅草の 「 いろは 」 で開催された。
しかし後は続かなかった。
臨時招集が相次ぎ、集れる者がいなくなったのである。
発起人の一人の板垣秀男氏も十月には北支へと派遣されて行った。
それから三十年も過ぎた戦後の第一回の会合が、
昭和四十四年、羽生市の金子春雄私宅で、十二名で行われた。
どういう経過で会を持てたのかは、多くの者が他界していて不明である。
第二回は大宮、第三回は上尾市内、このころは九年兵だけの集りだった。
熊谷のロイヤルホテルでの第四回目には板垣氏も出席した。
集ったのは二十九名、このときに板垣氏が提案した。
「 戦後も大分たったから会の名称 「 安王会 」 を 変えないか?」
たちまち全員の反対にあったという。
その後、十年兵 ( 昭和十一年の入隊 ) や 八年兵 ( 同九年入隊 )、下士官も加わり、
仏心会 ( 二・二六事件の遺族の会 ) 会長の河野司氏も何回か訪れた。
「 二十二士の墓  のある麻布賢崇寺での法要にも必ず出席した。
賢崇寺で会を開催したこともある。
けれども近年、会員の老齢化が進み、集まれる者が少なくなった。
この辺で解散しようということになった。
平成八年四月十二日、安藤大尉の未亡人房子さんが亡くなった。
房子夫人は会を蔭から支えていた。
房子夫人の追悼もかね、六月四日の伊香保温泉旅館での会合を最後に、
「 安王会 」 は 解散することになった。
集れた者十二名、一番若い人も八十歳を越えていた。
「 あれ ( 二・二六事件 ) から六十年も経ちましたからねえ 」
板垣氏は感慨深げに話した。

安藤中隊長の部下としての誇り
こんなにも長い間 慕われた中隊長安藤輝三は、
下士官兵には一体どんな人物だったのだろう。
「 安王会 」 の人々に聞いてみた。
全員が 「 温情 」 と答えた。
「 進級の遅れを慰められた 」
「 親が病気のときに臨時外出を許された 」
「 職業や家族のことを聞いてくれた 」
「 訓練の後のねぎらいが優しかった 」
「 なにか惹きつける人間味があった 」
・・・。
そして 最後に必ず、
「 立派な中隊長の部下であつたことを誇りに思う 」
と つけ加えた。
それでは安藤中隊長の革新思想についてどんなふうに感じていたのだろう。
彼らは安藤大尉が話のときに画いた絵の話をした。
黒板に太陽が上で、真ん中に黒雲、その下に草の芽を画く。
太陽が天皇で、その光を遮っている黒雲が、元老、重臣、軍閥などである。
芽が国民である。
この黒雲を取り除かねば、芽が育たない。
国民は苦しむばかりだ。
中隊長は国家の現状をこの絵で説明した。
相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を惨殺した後には、その動機、背景なども話した。
皆、拳を握りしめながら、熱心に聞き入ったという。
第二小隊長だった 堂込喜市元曹長 ( 事件後、佐々木と改名 ) は 安藤大尉の影響を強く受けていた。
事件の五、六年前の安藤中尉だったころから二人は歩三の営内暮らしだったので、
安藤は下士官室に来ては、軍縮問題、日ソ関係、農村問題などを話した。
堂込曹長は昭和維新は必要であると思ったという。
「 私は安藤中隊長に傾倒していましたから
革新思想はもとより、安藤大尉のいうことはすべて間違いないと思っていましたよ 」
彼は生前そう話した。
下士官や二年兵はともかく、常識では初年兵たちが、革新思想を理解していたとは信じがたい。
二・二六事件参加の六中隊の人員が次のようであるからだ、
将校一、下士官十一、二年兵四六、初年兵一〇一、計一五九名。
この中で初年兵が一番多い。
第一師団の満洲派遣が決まっての徴集だからだ。
彼らは一月十日に入隊したばかりで、決行日までたった一カ月半しか経っていない。
彼らに革新思想を植え付けるには、あまりにも時間が短すぎる。
二・二六事件の最後は決起軍に状況が不利になり、賊兵と呼ばれた。
この中で最後まで安藤中隊長と山王ホテルで抵抗しつづけたその団結心は、
どこから来たものなのだろう。
この疑問に 「 安王会 」の人々は 「 そうでしょうねえ 」 と 微笑むばかりだ。
理解できないのも無理はない・・・。
そう思わせる笑顔なのだ。
そこで もう一度、六中隊の下士官兵たちから見た二・二六事件り要点を探ってみることにした。

事件下の下士官兵の行動
蹶起前夜、点呼終了後、階段下の広場で中隊長の訓話が行なわれた。
安藤大尉は黒板に富士山を画き、次に白黒で塗りつぶした。
「 今の国民は一部の上層部の暗雲によって閉されようとしている。
今こそこの暗雲を払いのけ、国体を護らなければならない 」
大谷武雄二等兵は、このとき何かが起こるのではないかと予感した。
この語九時ごろ、下士官たちは中隊長室に集められた。
蹶起の時刻、襲撃場所、人名、配置、合言葉など詳しい説明があった。
奥山粂治軍曹 ( 後、中島と改名 ) は、
「 いよいよ来るときが来たのだ、命令を拒むことなど不可能なのだ 」
と 判断した。
兵隊たちはというと、前夜兵営内がざわついて不審には思ったが、何も知らなかった。
二十六日未明、非常呼集で起され、舎前にて実包装填、
『 靖国神社参拝 』 の 号令で 三時半ごろ営門を出たが、まだ疑っていなかった。
大谷二等兵が蹶起を知ったのは、首相官邸脇にさしかかったとき、
「 他の聯隊の仲間がここを襲撃し、六中隊も鈴木侍従長を襲う 」
と 奥山分隊長から聞いたときだった。
一時間後、鈴木邸到着、その門前で安藤中隊長から初めて鈴木貫太郎侍従長襲撃の命令を受けた。
「 敵は目前にあり 」
岩崎英作二等兵は、出動の目的を知りおどろいたという。
鈴木邸に進入、奥山軍曹が押入に隠れていた鈴木侍従長を見つけた。
後方から永田曹長が一発、堂込曹長が二発ピストルで射った。
弾は左肩と股に当り侍従長は倒れた。
後から安藤大尉が入って来て止めを差そうとしたのだが、鈴木たか夫人が懇願した。
「 それだけは私に任せてください 」
安藤大尉は軍刀を収め、捧げ銃つつを命じ 引上げた。
鈴木侍従長は一命をとりとめた。
「 あのピストルは安藤大尉から渡されていました。
上を向く くせがあって、下に向けたらそれてしまった。
私は心臓を狙ったのですがねえ 」
堂込曹長の話である。
六時ごろ、安藤隊は三宅坂一帯の警備に入り、交通を遮断した。
首都の機能はマヒ状態になった。
その夜は雪の中で露営しての警備が続いた。
二十七日、
安藤隊は正午過ぎ 三宅坂の警備を解き、新国会議事堂前に移動した。
ここは工事中で入れなかった。
路上で休憩した。
聯隊から暖かい飯が届き 喜んだ。
午後七時ごろ、
料亭 「 幸楽 」 に 移った。
玄関前の広場には群集が 「 昭和維新万歳 」 と 叫んでいた。
二日ぶりの休養で ほっとしたのも束の間、
二十八日の朝には、形勢は逆転していた。
いつの間にか蹶起部隊は反乱部隊となり、「 幸楽 」 の外には鎮圧軍が戦車を先頭にとり巻いていた。
よく見ると歩三の残留部隊だ。
昨日歓呼の声で出迎えた群集もこわごわと遠巻きに事態を見ている。
午前六時半に 「 原隊に復帰せよ 」 という奉勅命令が出ているが、正式には下達されていない。
もちろん下士官兵は知らない。
午前六時ごろ、五中隊の小林美文中尉が来て
「 まもなく総攻撃が開始される 」 と いった。
午後一時ころには、同志の村中孝次大尉が 「 もはや自決以外には道はない 」 といって来た。
安藤大尉は 「 俺は最後までやる 」 と 突っぱねた。
安藤大尉は蒼白となり、戦闘準備を宣し、皆 白襷掛けになった。


中隊長とともに死ぬ覚悟
三時ごろ、山岸伍長が郵便葉書を各人三枚ずつ配った。
「 家族に遺書を書け 」 という。
« 愈々時期切迫し、生か死かの境に立つ。勝てば官軍 敗ければ賊軍だ。
これより戦いに行く。勿論必死三昧の気だ。 では ごきげんよう。元気で戦います »・・市瀬操一・二等兵
「 必死三昧 」 は 日蓮主義だった安藤がつけた六中隊の標語だった。
« 我々は今 昭和革新の一員として鈴木大将を討ち、反対者は徹底的に之を討つべく決心の勢いほ以て
奮闘します。皆様によろしく »・・大谷武雄・初年兵
大谷氏の留守宅は母親一人だったが、この葉書を受取って動転してしまったという。
« 生還を期せず (血書) »・・相沢伍長
« 自分達第六中隊は幸楽を出発する前に貴家の父母兄弟に一通差上げます。
自分達の仲間歩三、歩一、近歩三 各東京部隊は二十六日朝五時をきして政治家を夜襲しました。
自分達満洲に出発する前、国賊を皆殺して満洲で戦う覚悟であります。
自分達中隊長初め国の皆様に国賊と言われるか又勤皇と言われるか、
今議会(?) に 来て居るのであります。
自分達を射つ為に佐倉の五十七聯隊が出発して居り 今三聯隊に来て居るそうであります。
自分達は中隊長殿初め国賊と言われたら皆脈を切って死ぬ覚悟であります。
自分達が真でから母国の皆様によくわかると思います。
自分達もこの東京で死ぬ覚悟でありますから、もし生きて居ましたら 御書面差上げます。
父母兄弟御身大切に。さようなら »・・木下岩吉・初年兵
血書の相沢伍長は下士官だから覚悟していようが、木下二等兵の手紙は切ない。
国賊の汚名を着た場合は、安藤中隊長ともども、脈を切って果てようというのだから。
ここでは初年兵も覚悟をきめ、正義に死ぬと思っている。

その深夜、安藤隊は山王ホテルに密かに移動した。
山王ホテルに移ると窓に銃座を作り交戦の準備に入った。
二十九日、
朝から投降を勧めるスピーカーが鳴り出した。
飛行機がビラを撒いた。
「 下士官兵ニ告グ---今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。
抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 」
兵士たちは初めて奉勅命令が下ったことを知った。
鎮圧軍の戦車にも投降を勧める幕が貼られている。
蹶起隊の兵士たちの間で同様が起きていた。
遂に蹶起将校たちも 「 兵を帰そう 」 と いい出した。
しかし
「 今ここで兵を帰せば兵達が賊兵の汚名を着ることになる 」
と 安藤大尉はあくまで引くことに同意しなかった。
参加将校たちは、高官の説得に応じ、下士官兵たちを次々と原隊に帰えし出した。
正午過ぎには山王ホテルにの安藤隊のみとなった。
四面楚歌、こんな状態の中の下士官兵と安藤中隊との信頼関係は、依然として変わりない。
村中孝次はこう記している。
「 二月二十八日、歩三将校間に於て、安藤大尉を刺殺すべしと決議し、
この報 安藤中隊に伝わるや、部下下士官兵は安藤大尉を擁して、他の者を一切近づけしめず、
為に余も安藤に接近し得ざりしこと前述の如くなりき 」・・村中孝次遺書
この情報は二十八日夜、歩三の森田大尉が、秩父宮の令旨を伝えるときに持ってきたものだ。
下士官兵たちにどの程度伝わったかはわからない。
しかし安藤隊は中隊長に説得に来る者を兵士たちは追返した。
同志将校でさえ、安藤中隊には容易に近づけなかった。

戦後も変らない安藤大尉への思慕
しかしながら 決起軍の敗色の状況はいかんともしがたい、
安藤中隊だけではどうにもならない。
「 最早これまで 」
安藤大尉は全員を集め 復隊への訓示を始めた。
そこへ歩三の大隊長伊集院謙信少佐が来た。
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
「 はい、一緒にに死にます 」
安藤は無造作にピストルを取り出した。
とっさに当番兵だった前島清上等兵が、腕にぶら下った。
同志の磯部浅一も後ろから抱き止めた。
「 俺を死なせてくれ。俺は負けは厭だ。裁かれるのは厭だ。自らで裁くのだ 」
安藤は怒号した。
磯部はこのときの情景を、獄中書簡 『 行動記 』 に 書いている。
「 大隊長も亦、『 俺も自決する 安藤のような立派な奴を死なせねばならんのが残念だ 』
と いいつつ号泣する。
『 おい、前島上等兵、お前が かつて中隊長を叱ってくれた事がある。
中隊長殿、いつ蹶起するのです、此の侭でおいたら農村はいつ迄たっても救えませんと言ったねぇ、
農村は救えないなあ、俺が死んだら お前達は堂込曹長と永田曹長を助けて、
どうしても維新をやりとげよ、二人の曹長は立派な人間だ、いいか、いいか 』
『 曹長、君達は僕に最後迄ついて来て呉れた。有難う、後を頼む 』
と 言えば、群がる兵士等が 『 中隊長殿、死なないで下さい 』 と 泣き叫ぶ 」
磯部は将兵一体の団結に感動して、
あれ丈 部下から慕われるという事は、安藤の偉大な人格が然らしめたのだ、
と、記している。

午後二時ごろ、安藤大尉はホテル前の広場に整列を命じた。
安藤中隊長は最後の訓示を与えた。
彼は部下に礼をいい、このような結果になったことを謝り、満洲に行っても頑張れと励ました。
最後に全員で中隊歌の合唱になった。
中隊長は静かに隊列の後ろに歩いて行った。
後方でピストルの音がした。
中隊長が倒れていた。
皆駆け寄った。
額に中隊旗をかけた。
たちまち血で赤く染まった。
兵隊の一人がこの様子を近くで見ていた師団参謀に向って
「 お前たちが中隊長を殺したのだ 」
と 泣き叫びながら突っ込んだ。
参謀は逃げ去った。
安藤大尉の傷は左の顎からこめかみに至る盲管銃創で、命に別状なかった。
救急車が来て、奥山軍曹、門脇軍曹、当番兵の前島上等兵が付添い、
第一陸軍病院に向った。
これが六中隊の兵士が見た中隊長の最後の姿だった。
六中隊は永田、堂込の小隊長に引率され、軍歌を歌いながら原隊に戻った。
武装解除を求められたが、小隊長が拒否した。
彼らは中隊長がいなくなっても、その統率力は変りなかった。
なぜ彼らの武装を解かせられなかったのか?
不思議がると板垣氏はいった。
「 恐かったのですよ 」
安藤輝三という一人の中隊長の熱情と覇気が、
六中隊の下士官兵の一人一人に浸透していたことを、信じざるを得なかった。

歩三の聯隊に帰ると、夕食後、下士官以外はすぐに近歩三の兵舎に移された。
翌日取調べを受けた後、原隊に帰された。
帰隊後も不参加者との隔離がつづき、行動範囲も制限され、参加者は軍帽を被り、
不参加者は略帽という既定まで設けられた。
毎日精神訓話で感想文を書かさせられた。
五月、チチハルに派遣されたが、渡満前の帰宅も集団外出だった。
上野までは聯隊の下士官、上のからは在郷軍人の引率で自宅に帰り、
夕刻までには駅に戻る、という監視つきだった。
翌年二月、九年兵が満期除隊すると、初年兵が入ってきて、十年兵が戦力の中心になった。
八月、九月と北支に転戦がつづき、多くの戦死者を出した。
二・二六事件の汚名を返上するのだ、と 上官たちから前線に出されることが多かった。

一方下士官は営倉に入れられ、代々木の衛戍刑務所に送られた。
七月五日、裁判が開かれ、判決がいい渡された。
六中隊では、永田露、堂込喜市の両曹長が二年の実刑、渡辺春吉、門脇信夫、奥山粂治、
中村靖、小川正義の五人の軍曹と、山田政男、大木作蔵の両伍長が、
執行猶予つきの二年の刑に処せられた。
彼らは兵役から除かれたのに刑期が終わると、また 召集され、格下げになり、
苦労の連続を味わされた。
六中隊の下士官では四名が改名した。
それでも安藤中隊長に対する思慕は変らない。
当時としては何かが起こるに違いない、と思うほど世の中が不況で貧乏だった、と 感じている。

戦後、生き残った者は、敗戦国日本復興のため働きつづけた。
志半ばで処刑された安藤中隊長を偲ぶ会は、戦後だけでも二八回続いた。
「 あの人たちはたいしたもんですよ 」
安藤房子さんは そう話していた。
解散時の 「 安王会 」 会員三十六名、
日本を震撼させた四日間をともにした仲間たちは、「 安王会 」 は 一応解散したが、
お互いに 連絡し合って懇親の場を持ち合おう、 と 話しているという。

小池泰子 著
安藤中隊長を慕い続ける 「 安王会 」
別冊歴史読本  2・26事件と昭和維新  1977年  から


「 前嶋君 君達にあひ度かつた 」

2017年10月16日 19時03分58秒 | 安藤輝三

前島君 あひたかった
五月
予定どおり第一師団の渡満がはじまった。
しかし私は新任の中隊長野村哲大尉から、
「 お前は安藤大尉の当番兵だったので、
これからもいろいろと整理することもあるだろうし、
本人の留守宅とも連絡がもたれるので留守隊に残れ 」
と いわれ渡満組から除外された。
こうして あわただしい渡満が終わると聯隊内はひっそりとして
毎日が味気ないものに変わった。
しかし その頃進められていた事件関係者の軍法会議が気がかりでならなかった。
願くば 安藤大尉が有期刑であってくれと神に祈った。
しかし結果は死刑であった。
そして一週間後の七月十二日刑務所内で銃殺されたのである。

忘れもしないその前夜、
私は週番指令に呼ばれ
「 安藤大尉がお前に会いたがっている、
行きたければ公用外出を許可するがどうか 」
と 意向をきかれた。
私個人としては希望はあったし
刑の執行の近いことも薄々知っていたので一度は応ずる気持になったが反面、
軍が仕掛けたワナかもしれぬと警戒心が高まり
遂に面会を取止めた。
若し週番指令が真に良心的にいってくれたものなら
安藤大尉にはまことに申訳ないことだが、
その頃の私は自分以外に信用できる者がいなかったのである。
だから 重ねて
「 大丈夫だ、心配は無用だ、早く行ってやれ 」
そういわれたとしても 決して私は腰をあげるつもりはなかった。
処刑後数日たったある日、
私は中隊に残された安藤大尉の遺品をもって自宅にうかがった。
当時大尉は世田ケ谷に住んでいた。
部屋に通され夫人と面談したとき、
夫人は つくろってはいたものの傷心の気配がありありと見られた。
まことに愁傷の限りで私も泣きたい思いであった。
私は そこで持参した遺品と共に安藤大尉から預かっていた絶筆
( 通信紙五、六枚に書かれたもの )
を 渡した。
次いで 山王ホテル前広場で自決を図った時の模様や負傷の様子など、
こと細かくお話すると 夫人は一つ一つうなずきながら聞いておられた。
絶筆は手元に寄せて
一枚一枚読まれた上で納められたが
今も大切に保管されていることであろう。
ひととおり私の話が終わると
今度は夫人が私に巻紙にした書を差出した。
そして主人から前島さんに渡すようにいわれましたといった。


それは 安藤大尉の遺書で、獄中で書いたものであった。
しかも 二つのうち一つの方は死刑執行の前夜にみとめたものである。
あの日 大尉が私に会いたいといっておられたのは
定めしこの遺書を直接渡したかったのではあるまいか。
ああ 何と悲痛な絶筆であろうか。
私しの目にはいつしか涙があふれ、止めどなく流れ落ちた。
フト遺書の中に安藤大尉の姿が浮かび出てニッコリ笑いかけたように思われた。
今更に安藤大尉の人徳の深さに敬服するばかりである。
私はこの遺書を表装し家宝として大切に保存している。
以後私は留守隊で軍務に励み、十一月三十日除隊した。
その後十四年四月に応召となり浦和連隊区司令部に勤務し終戦を迎えた。
その時の階級は准尉であった。

考えてみると 昭和初期は動乱の世であって、
その中に勃発した 二・二六事件は 私しにとって終生忘れることのできない事件で、
今も昨日のことのように鮮烈な映像となって消えることはない。
私は安藤大尉に仕えたことを誇りに思っている。
何故なら 軍人として厳格な半面、温情味を備えた性格は
誰からも尊敬され慕われた立派な人格だったからである。
だから第六中隊の団結は固く 何事も積極的だった。
聯隊内の武術競技にしても異常なまでの張切りで優勝したのも当然のことであった。
こうした信望の厚い安藤大尉を 二・二六事件に走らせた要因は何であったか。
しかも同志として蹶起した青年将校は皆 有能の士ばかりであったが、揃って銃殺されてしまった。
まことに惜みても余りある人達ばかりであった。
かつて兵営の屋上で毎夜の如く高唱した昭和維新の歌は蓋し世相を痛烈に喝破したものであるが、
同時に国政に対する警鐘でもあった。
だが時流は反対方向へと進み無謀にも世界を相手に宣戦を布告し遂に惨敗を喫した。
まことにかえすがえすも痛憤を覚える歴史の一齣である。

何故事件後国家の指導者たちは
二・二六事件を反省しなかったのであろうか。
私は時折
そう思うのである

『 農村もとうとう救えなかった 』 2 に  ・・本文の前編
二・二六事件と郷土兵 安藤大尉と私 前島清 著 から


「 君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら 」

2017年10月15日 18時59分37秒 | 安藤輝三


後田は、昭和九年兵である。
歩三・六中隊の上等兵で、
安藤中隊長の当番兵であった。

金剛不懐身
為後田清君
昭和十一年七月十日  安藤生

後田君君達にあひ度かった
諸君に宜しく幸多かれ
さらばさらばさよなら
昭和十一年七月十一日夜  安藤輝三

事件の のち、第一師団が守備隊として渡満したとき、
私はいきませんでした。
人事係のひとが、
「 お前は安藤大尉と特につながりが深かったから、残って、
様子を見届けるようにしたほうがいいだろう  」
と いって、留守隊のほうにまわしてくれたのです。
そして 七月十一日の夜、
私は週番司令に呼ばれました。
「 安藤大尉がお前に会いたがっているという電話連絡が、
看守を通じて聯隊にあった、お前、いきたいか 」
と いうのです。
「 もちろん参ります、週番司令がいってもいいとおっしゃるなら 」
と 答えましたが、
結局、いけませんでした。
「 気持ちはよくわかるが、いかないほうがいいだろう、
お前は行動をともにしたから、注意されている、
会いにいったということになっら、今後、にらまれて、困るだろう、
週番司令としては、やるわけにはいかん 」
と いう。
週番司令がそういうからには、それに従うよりほかありません。
自分の思いのままに行動できないことが、口惜しくてなりませんでした。
死刑の判決があったことは、新聞などでわかっていましたが、
まだ判決があったばかりなので、
まさか翌朝、処刑されるとは、想像もしなかったものです。
安藤さんにはそれがわかっていて、
そのため会いたがっていたとは、もちろん知る由もありません。
この二つの遺された書をみるたびに、
処刑の前夜、安藤さんが私の現れるのを、どれほど待ち望んでいたか、
それがしみじみとわかって、いまだに胸にこみあげてくるものがあります。
おそらく私が面会にいったなら、七月十日、
と 日づけのあるほうを、渡してくれるつもりだったのでしょう。
しかし、看守は電話してくれたが、私は現れない。
待って、待って、待ちわびて、
七月十一日夜、
と 日づけのあるのを、書いたのだと思います。
君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら
これをみると、たまらなくなってくるのです。
私は一度も面会にいっていませんが、
というよりも、面会などいけませんでしたが、
安藤さんはなにかの方法で、
私が留守隊に残っているのを知っていたのでしょう。


長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」

2017年10月14日 18時47分38秒 | 安藤輝三

第二中隊所属の長瀬一伍長も、安藤に心酔し、命を賭けた男の一人であった。
彼は、二・二六事件勃発に際し、
安藤の蹶起を知るや、その慰留にもかかわらず、自分の中隊の下士官・兵十八名とともに、行動部隊に参加した。
全体的な編成上、安藤中隊に入ることが出来なかったが、坂井直中尉の指揮する第一中隊主力に合流し、
内大臣齋藤実邸及び教育総監渡辺錠太郎邸の襲撃に加わったのである。
事件後、軍法会議での厳しい審問に際しても、断じて信念を曲げず、
銃殺刑に処せられた安藤大尉に殉ずるように、
歩三関係下士官としての最高刑である禁錮十三年の実刑に服した。
予審裁判で係官が彼に対し、安藤観を聞いた時、彼は大声でもって
「 身を殺し、以て仁を為す 」
と禅問答のような発言をして、係官を驚かした。
また、本法廷で裁判長から、
「 もし、このような事件が再び起きた場合は、お前はどうするか・・・」
と 尋ねられた時、
「 もち論、再び銃を執って参加し、奸賊どもを誅戮します 」
と 然と言い放ったことは、今でも同席した戦友たちの語り草になっている。

国を思ふ心に萌えるそくりようの
心の奥ぞ神や知るらん
・・・リンク→反駁 ・ 長瀬一伍長 「 百年の計を得んが為には、今は悪い事をしても良いと思ひました 」

『 被告人長瀬ハ、入営前ヨリ国体ノ研究ヲ志シ、且ツ居常維新志士ノ言行ヲ敬愛シアリシガ、
入営後 昭和九年七月頃、安藤輝三ヲ知ルニ及ビ、深キソノ人格ヲ敬慕シ、
同人ノ指導ト相俟ツテ、遂ニ国体ノ顕現ノ爲ニハ、一身ヲ犠牲ニシテ、
直接行動ヲ為スモ 敢テ辞セザルノ信念ヲ固ムルニ至り・・・・』
・・長瀬一の判決文の冒頭

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長瀬は、大正二年十月、埼玉県北足立郡三橋村で生まれた。
生来、頭脳明晰で、積極進取な長瀬は、県立浦和中学校に入学するや、
抜群の成績を示し、終始クラスの主席を押し通したという。
中学を卒業すると、当然一流の上級学校に進学すると見られていたが、
日頃から尊敬していた吉田松陰や明治維新の志士たちの影響を強く受けていた長瀬は、
自ら独学の道を選ぶことになった。
すなわち、親たちの希望に反して、国学書を読み漁ったり、その道の大家に直接師事するなど、
生なまの国体研究と人間修練に乗り出したのである。
その三年後の昭和九年、現役兵として歩兵第三聯隊第二中隊に入隊することになった。
そしてその年の七月、宿世の因縁ともいうべき安藤輝三という男と、奇しき結び付きを持つに至った。
 
安藤輝三

長瀬ら昭和九年一月に入隊した初年兵たちは、
その年の七月、
富士裾野において第二期教育の総仕上げを行った。
そして、七月下旬、
滝ケ原演習場一帯において、聯隊長による第二期検閲が実施されたのである。
聯隊長は、山下奉文大佐の後任の井出宜時大佐であった。
また検閲補助官として、聯隊附中佐以下、各本部付の将校が任命され、
安藤もその中の一人として参加した。
・・・・
長瀬一等兵は、
この時期すでに下士官候補者を命ぜられていたが、演習間は中隊に復帰していた。
中隊命令によって将校斥候の一員に選ばれた長瀬は、三里塚附近の敵小部隊を駆逐し、
その背後の敵主陣地一帯を偵察するために、
約一個分隊の兵員に混じって中隊地の終結を出発した。
敵に発見されないように、地形地物を利用し、隠密に三里塚高地の側背に迫った長瀬ら一隊は、
着剣して一挙に突撃を敢行した。
長瀬は、錆止のため銃剣の着脱溝に、日頃から油布の小片を入れておいたのである。
それが思わぬ禍となって、
突撃後五〇メートルぐらい走った時に、銃剣が落失したことに気が付いたのであった。
失敗った! と 思った彼は、慌てて引き返し、必死で銃剣の捜索にかかった。
すでに長瀬らの隊は、敵陣地偵察のため遙か前方にすすんでおり、協力を頼むことも出来ない。
銃剣を落したと思われる一帯は、灌木と雑草が茂っていて、長瀬一人での捜索はなかなか大変だ。
しかも日没まであと一時間もない。
長瀬は、眼の前が真暗になった。
銃剣紛失は重大問題である。みつからなければ重営倉は間違いない。
もち論、下士官候補者もやめさせられるだろう。
それは自分だけでなく、班長や教官や中隊長までにも大変な迷惑をかけることになる。
話によると過去銃剣を紛失いたために、自殺した兵隊も出たという。
長瀬は、半分泣きべそをかきながら、遮二無二草原の中を匐はらばいまわった。
時折、富士特有の霧が視界をさえぎり、時間もどんどん経過して行くが、全く手がかりがない。
気丈な長瀬も、すっかり気落ちし、広い原野の中で茫然自失していた。
その時、長瀬の耳に、
「 おい !  そこの兵隊・・・・・・・どうしたんだ!  」
と 怒鳴るような声が聞こえた。
長瀬が振り返ってみると、審判官の白い腕章をつけた乗馬の将校が、自分の方を見ている。
「 第二中隊、長瀬一等兵 !  突撃の最中に銃剣を落失し、ただ今捜索中であります ! 」
と 長瀬は大声で報告した。
「 そうか、それはいかんなあ。よし・・・・俺も一緒に探そう・・・・」
と、その将校は馬から飛び降り、馬を近くの灌木の根っこに繋いだ。
そして長瀬の行動半径を聞くと、指揮刀を抜いて、逐次草を薙ぎ払いながら捜索を始めた。
長瀬は勇気百倍、突撃を開始した地点から、捜索をやり直した。
しかし広い草原の中で、一本の銃剣を探し当てるのは、まさに至難の業と言えた。
辺りはだんだんと薄暗くなってくる。長瀬の気持は焦るばかりだ。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
突然とんでもない方向から、
「 あった !  あったぞ ! 」
と 叫び声が聞こえた。
その将校が、白く輝く剣身を高く挙げて、ニッコリ笑っているではないか。
途端に、長瀬の顔は涙でクチャクチャになった。
そして夢中で、将校の方に駈け寄った。
長瀬は、渡された銃剣を抱き締めて、大声で泣いた。
それは言いようのない感動であった。
「 よかったなあ・・・・では俺は急ぐから、これで失敬する 」
とひとこと言った将校は、再び馬に乗って東の方に走り去った。
長瀬は名前を聞く暇がなかったのだ。
ただ、丸ぶちの眼鏡をかけた、長身の優しそうな中尉だったという印象だけが残った。
長瀬は、中尉の後姿に両手を合わせて拝んだ。
そして茫然とした意識の中で、仏の姿を見いだしたように感じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 歩兵第参聯隊 営舎

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昭和十一年二月二十五日夜、
長瀬伍長は一人で第六中隊長室に呼ばれた。
その頃、長瀬は渡満前の兵を訓練するために寝食を忘れて頑張っていたが、
一方で昭和維新決行のただならぬ雰囲気を、肌で感じとっていたのである。
安藤大尉が遂に蹶起に踏切ったという情報も、すでに耳に入っていた。
「 安藤さんが起つ時は、俺も起つ 」
という 長瀬の気持ちには、全く迷いがない。
部屋の中に入ると、安藤は立ち上がって、長瀬を迎えた。
中には、もう一人の将校が静かに椅子に坐っていた。
一瞬張りつめた空気を感じとった長瀬は、何かあるなと思った。
そして、弓にたとえれば、「 会 」 から 「 離れ 」 に 移る直前の気魄とでもいうか、
そんな雰囲気を敏感にさとった。
安藤は、在室の将校を指して、
「こちらは、所沢飛行学校の河野寿航空兵大尉だ・・・・」
と 紹介したあと、
「 我々は明朝蹶起するが、貴公は残って勉強せよ 」
と 言った。
長瀬は弾かれたように、
「 私も出ます・・・・」
と 答えた。
「 君は優秀な人材だ。今度は残って陸士予科の受験勉強に専念してくれ。
 そして必ず立派な将校になるんだ。俺は後事を託したい。
我々は第一線部隊として突っ込むが、君らを第二線部隊として控置して置きたいのだ。
どうかこの気持を分ってくれ・・・・」
と 安藤は長瀬の眼を食い入るように見ながら頼んだ。
それは、死を決して湊川に出陣してゆく楠正成が、
我が子 正行を呼寄せて諭した時の心境とでも言うべきか・・・。
長瀬の心は、すでに富士裾野で安藤に会った時から決まっているのである。
しかし、安藤の気持ちを尊重して、
「 お気持ちはよく解ります。どうか暫く考えさせて下さい。ではご武運を祈ります・・・・」
と 答え、安藤の手を固く握り締めた。
長瀬の眼の異様な輝きを、見てとった安藤は、
「 そうか・・・・君の気持ちは変りそうもないな。
 やむを得ん・・・・その時は、坂井の指示を受けてくれ。くれぐれも武運を祈るぞ 」
と、長瀬の手を強く握り返した。

二・二六の礎 安藤輝三  奥田鑛一郎 著から


「 曹長になったら、俺の中隊に来ないか 」

2017年10月13日 18時24分31秒 | 安藤輝三


堂込喜市
明治四十年九月、鹿児島県薩摩郡川内町で生れた。
高等小学校卒業後、十八歳になると自ら進んで陸軍現役兵へ志願し、
昭和二年一月、鹿児島の歩兵第四十五聯隊に入隊する。
当時の初年兵教官は田中要少尉で、堂込の頭脳明晰、積極果敢な人柄を愛し、
下士官候補者になることを熱心に奨めた。
堂込はその期待に応えて、初年兵の第一期教育終了後、下士官候補者になり、
翌年春、熊本の陸軍教導学校に入校した。
そして、優秀な成績で卒業、伍長に任官して原隊に復帰した。
約二年間、第七中隊付下士官として、教育助教や内務班班長の仕事に精一杯の努力をした。
彼は頭もきれるが、銃剣術や射撃の技術は抜群で、中隊長からの信頼は非常に厚かった。
当然、同年兵のトップで軍曹に進級していいる。
そのころ陸軍では、帝都防衛の部隊に、剛健な九州男児の気風を吹き込むため、
在九州部隊の若手将校や下士官を東京部隊に転任させて、
人事の交流刷新を図ることが偶に行われていた。
堂込はその人事の一環として、
昭和六年一月、東京麻布の歩兵第三聯隊 第一中隊に転任して来たのである。
中隊長の沢大尉は非常に喜び、堂込を中隊の武技訓練係に任命して、
銃剣術と射撃の専門指導に当らせた。

堂込が着任してまず驚いたのは、
兵舎そのものがホテル並みのモダンな建物であったことである。
これは、関東大震災で旧兵舎が、殆んど完全に倒壊したので、
陸軍としては珍しく近代建築技術の粋を集めて、設計し建築したものであった。
地上三階、地下一階、鉄筋コンクリート製の中一線準正方形の巨大な一つの建物の中に、
全聯隊がまとまって入っているのである。
聯隊・大隊本部、各中隊の兵舎、戦備倉庫、食堂、浴場、炊事場、酒保、将校集会所、
准士官、下士官集会所、その他総ての付属施設が、悉く一つの建物の中に収容されているのだ。
しかも 便所は水洗式、暖房はスチームという、一般の部隊では想像もつかない近代施設であった。
堂込がいた鹿児島聯隊を含め、全国の駐屯部隊のほとんどが、
明治時代に造られた木像モルタル製の旧式建物を使っていた。
そして、通常二個中隊ずつの独立兵舎が、営庭を囲んで配置され、
聯・大隊本部や各管理施設もそれぞれ独立した建物に入っていたのである。


三聯隊の徴募区は主として埼玉県で、下士官・兵のほとんどが同県内の農村出身であった。
そのため、都会兵にありがちな脆弱ぜいじゃくさはないが、素朴な反面、九州人のような覇気に欠けている。
堂込のような気性のはげしい薩摩隼人としては、その点がもどかしくてならない。
特に銃剣術などをやってみると、気合が足りないし、闘争心において非常に見劣りがする。
堂込は、さっそく薩摩流の烈しい鍛練法に切換え、中隊の銃剣術の叩き直しにかかった。
第一中隊に、俄然堂込旋風が巻き起こった。
中隊長に頼んで、毎朝の点呼は、特別のもの以外は全員、銃剣術の防具をつけ木銃を持って、
営庭に整列させて行うことにした。
そして点呼終了後の約四十分間に、徹底した間稽古を実施するのだ。
またその指導法が、今まで見られなかった凄まじさである。
堂込の烈しい鍛練の甲斐があって、第一中隊の銃剣術はめきめき上達し、
半年後には第一大隊を完全に制覇するようになった。
個人の技術においても、実力二段以上と言われる堂込の右に出る者は、少なくとも大隊中で見当らなかった。
ところが、聯隊では堂込の強敵がいた。
それは第十一中隊の安藤中尉である。
中隊単位の実力も、残念ながら第十一中隊の方が、第一中隊より少し優ってゐる様に思われた。
安藤中尉は、戸山学校の長期学生として鍛えられた剣道及び銃剣術の達人である。
一応三段の免状を持っているが、その実力は四段以上と言われているのだ。
しかも、安藤はまだ独身で営内の将校宿舎で起居していたため、
気性喇叭と同時に、自らも防具をつけて跳び出し、舎前で中隊の兵を待ち受けるのが習慣になっていた。
そして日朝点呼が終わると、中隊の下士官、兵を連れて、兵営の西南側にある青山墓地の空地に行く。
そこで安藤式間稽古を実施するのである。
堂込の鍛え方が剛なら、安藤の指導法は柔であり、伸び伸びとしていた。
堂込の鹿児島示現流の勇猛果敢型に対し、安藤は槍衛と体操を取り入れた融通無碍むげ型である。
第一中隊と第十一中隊は大隊が異なるので、相互に手合せする機会がなかなかなかった。
しかし、負けん気の強い堂込は、いつか機会を見て他流試合を申し込む気でいた。
銃剣術・イメージ
暫く経ったある朝、
堂込は第一中隊の猛者もさたちを率いて、青山墓地の第十一中隊の間稽古場に乗込み、
試合を申し込んだのである。
安藤は快諾した。
まず兵同士、下士官同士で試合を行ったが、残念ながら六対四で第十一中隊の勝ちとなった。
そして最後に、安藤隊堂込の大将同士の一騎打ちとなった。
一方は変幻自在の達人、他方は豪遊無双の剣豪である。
その対決はまことに見ものであった。
審判は、堂込が連れて来た 第一中隊週番士官の小林美文少尉に頼んだ。
両中隊の下士官、兵たちは固唾かたずをのんで見守っている。
二人は、木銃を構えると、睨み合ったままほとんど動かない。
安藤はなかなか間合いに入ろうとしないので、堂込はうかつに跳び込めないのだ。
一瞬、安藤の体が宙を跳んだかと思うと、剣線が電光のように堂込の胸もとに走った。
堂込は相討ちを狙って、鋭く剣先を下胴に突きいれたが、すでに遅かった。
エイッ!
トオーッ!
の 裂帛れっぱくの気合いが響き、二つの肉体がぶつかった。
「 安藤さんの上胴! 」
と 小林少尉の審判が下る。
続いて二本目も、安藤がとった。
堂込は、漸く三本目をとったが、これもほとんど相討ちと往ってかった。
「 中尉殿、参りました。柔よく剛を制すで完敗です。
それにしても素晴らしい跳躍力ですね・・・・今後ともご教授をお願いいたします 」
「 さすがは薩摩武士、気合は凄いもんだ。まずその気魄に圧倒されたよ・・・・こちらこそ、よろしく頼む 」
「 歩三にこんなに強い将校がおられるとは、夢にも思いませんでした。
しかも我々の遠く及ばないお腕前とお見受けしました。最後の一本も、私の負けでしたが、
面目をたてててただきまして恐縮です。
口惜しいが、技倆の差はどうすることも出来ません 」
「 いや三本目は完敗だ。気先攻勢の剣には参ったよ。
君のはまさに実践的銃剣術で、真剣で渡り合ったら、相討ちでも俺の方が息の根を止められただろう。
結局、試合なんて演技に過ぎんよ。実戦において、一撃で敵を斃す必殺技こそ、我々は身につけるべきだ。
俺も良い剣友を見つけて幸せだ。
もちろん剣だけでなく、人間同士の練磨の面でも、くれぐれもよろしく頼む・・・・」
安藤は、堂込の手を固く握り締めた。
堂込もまた感動に震える手で、強く握り返した。
審判をつとめた小林少尉が、じっと二人を見つめている。
彼は安藤より二期後輩の陸士四十期で、安藤に心酔しているものの一人であった。

安藤輝三
昭和九年八月に大尉に進級した安藤は、翌十年一月に第六中隊長に命ぜられた。
この第六中隊は、昭和六年十二月から同七年九月まで、
秩父宮雍仁親王が中隊長を勤められた栄光ある中隊である。
その後は、殿下中隊の名に恥じない人格に秀れた中隊長が歴任することになり、
安藤もまた全聯隊の輿望を担って第六中隊長に選任せられたのだ。
その頃、曹長進級が内定していた堂込を、廊下で呼び止めた安藤が、
「 おい堂込、お前、曹長進級の内命があったそうだな・・・・おめでとう。
ところで曹長になったら、俺の中隊に来ないか・・・・」
「 そう願えれば、まさに男児の本懐であります 」
と 堂込が答えると、
「 そうか、良かった。さっそく第一大隊長を口説いて、是が非でもお前を貰い受けてみせるぞ・・・・」
と 安藤は、嬉しそうに言った。
聯隊内の人事移動で、大隊のちがう下士官が、他の大隊の中隊付になることは異例なことであったが、
安藤の執念と熱意な根負けした大隊長は、遂に堂込の引き抜きに同意したのであった。
そして堂込曹長の第六中隊付は正式に発令され、堂込は安藤中隊長直属の部下になったのである。
堂込は長い間、この日の来るのを待ち望んでいたのだ。

二・二六の礎
安藤輝三
奥田鑛一郎 著から


「 中隊長のために死のうと思っただけです 」

2017年10月12日 18時30分58秒 | 安藤輝三


それは、
昭和十一年二月二十三日の日曜日のことであります。
すなわち、
事件の起こる三日前でありました。
第一師団の満洲派遣の準備命令が出てから初めての日曜日であったのと、
初年兵から二年兵になって間もないという解放感も手伝って、
私は外出して思う存分羽根を伸ばしました。
朝から雪が降っていましたが
午前中は大したことなく、私は行きつけの飲み屋の座敷に腰を据え、
昼前からじっくりと酒を飲み始めました。
飲んべえの私は、
日頃から平気なのと、雪の日に飲む酒は格別なので、
この日はなんとなく量を過ごしてしまいました。
午後になると雪はだんだんと勢いを増し、
そのうちに東京は、何十年振りという大雪になってしまいました。
しかし私は 閉め切った座敷にいたので、外の模様には全く気がつかなかったのです。
例によって、帰営時刻を腕時計で確かめながら、時間一杯楽しもうと思い、
いつものつもりでのんびりと盃を重ねていました。
そして、予定の時間がきましたので、帰り支度をして外に出ますと、
さあ大変・・・・・物凄い大雪なのです。
道にはすでに三〇センチ近い雪が積もり、空は激しく吹雪いていました。
雪の中を大急ぎで市電の停留所まで行きましたが、
そこには市電が立往生しており、人々は下車して雪の中を歩いていました。
車掌の話では、東京の市電は完全にストップしているらしいとのことでした。
私は、一度に酔が冷めてしまいました。
もうタクシーで帰る以外方法はありません。
ところが、そのタクシーに、麻布までと言うと、
運転手はとてもとてもと手を振って、相手にしてくれません。
万策尽きた私は、全身から血が引く思いで、雪の中をよろめくように歩いていました。
暫らくすると、一台のタクシーが私の横で急停車し、
中から運転手が大声で、
「 こりゃ大変だ。ぼやぼやしていると、帰営時間に遅れますぜ・・・・。
とにかくお乗りなさい。行けるところまで行きやしょう・・・・」
と 言ってくれました。
私は、地獄に仏と・・・・・大急ぎで車内に跳び込みました。
話を聞くと、その親切な運転手は、
昨年十二月に赤羽の工兵隊を除隊したばかりだそうで、
しかも バリバリの江戸っ子だということでした。
それでも 赤坂の溜池まで来ると、
「 ここから六本木の方へはもう行けません。
この積雪では六本木の坂は到底登りきれませんよ。
兵隊さん・・・・とにかく早く走ってでも、営門にたどりつきなさい・・・・」
と、運転手は気の毒そうに言いました。
私は半分諦めながらも、
必死で溜池----今井町----六本木の道を、雪を掻きわけ走りました。
六本木の坂上に漸く着いた頃は、すでに帰営時刻を過ぎていました。
どんな罰を受けても構わない。
私は夢中で歩兵第三聯隊の営門に向かって走りました。
途中、歩兵第一聯隊の営門前を通ったが、門はすでに固く閉ざされていました。
自分たちの聯隊もまた、
門を閉じているでろうと思ったが、そんなことはどうでもよかったのです。
私はただ、あの親父のいる中隊に帰りたい一心で、遮二無二近づこうとしていました。
ハッと気がつくと、
私は自分の聯隊の営門の前でうずくまっていました。
前を見て、私はまさかと思いました。
閉ざされているはずの営門が、開いているではありませんか。
私は何度も自分の眼を疑いました。
しかし、間違いなく開いているのです。
私は無我夢中で営門を通り抜けました。
衛兵所の前まで来ると、
真白い雪だるまのような人の像が、
仁王立ちになっているのにぶつかったのであります。
それは紛れもなく、私の中隊長でした。
「 アッ・・・・中隊長殿!」
と、私は思わず叫び声をあげ、
その場に棒立ちになりました。
中隊長は手を振って、
「 内務班で、皆が心配して待っているぞ・・・・。とにかく早く中隊に帰るんだ 」
と ひとこと言っただけで、
いつものやさしい眼で私の顔をジーッと見つめました。
そこには、よく帰って来たという安堵の表情が、ありありと滲み出ていました。
中隊の前では、班長の渡辺春吉軍曹と戦友たちが、
泣きそうな顔で雪の中に立ちつくして、私を待っていてくれました。
「 渡辺!中隊長殿はなあ、お前が必ず帰って来ることを信じて、
ああやって営門を開けたまま、一晩中お前を待ち続けるつもりだったのだぞおー 」
と、班長は私の頬ぺたを叩きながら、オイオイ泣きました。
同年兵も、初年兵も唇を噛みしめて泣いていました。
私はあたり構わず声を張り上げて泣き崩れました。
私はその夜毛布の中で、
雪だるまのようになって私を待ち続けてくれた中隊長の姿を追い求めながら、
思いのゆくままで哭きました。
そして、
「 この中隊長(オヤジ)のためなら、
いつでも命を差し出そう。地獄の底までお供するんだ・・・」
と、心に誓いました。
その翌日も、
さらにその翌日も、
中隊長から何の沙汰もありません。
当然のことながら、私は重営倉はおろか、軍法会議までも覚悟していました。
しかし、中隊長は週番司令の責任において、私を不問に付したのでありました。
そして三日後の二月二十六日の朝、運命の日を迎えたのであります。
私は、なんの迷いも ためらいもなく、黙って中隊長のあとに随いて行きました。
ただ、私は中隊長のために死のうと思っただけで、他には何も考えませんでした。
それは私だけではありません。
出動した全中隊員が同じ気持ちだったと思います。
安藤中隊長は、私にとって神様でありました。
いや、今でも私の神様なのです・・・・」

・・・・渡辺鉄五郎 一等兵
二・二六の礎 安藤輝三 奥田鑛一郎 より 


「 おい、早くあの兵を連れ戻せ 」

2017年10月11日 18時06分52秒 | 安藤輝三

 
歩三第六中隊

昭和十一年二月九日、
この日は日曜日だったが、安藤大尉は頼まれて一日だけの週番指令についた。
いわゆる日直勤務である。

当時、第十一中隊の伍長勤務上等兵 市倉徳三郎が、衛兵司令として服務していた。
日曜日の衛兵勤務は下士官が嫌うからである。

≪ 市倉衛兵司令の回想 ≫
夕刻、外出兵の帰営時刻午後五時のぎりぎりの時間に、営門近くまで来て遅れた一人の外出兵があった。
市倉と同じ十一中隊の兵だが、この兵は前年に聯隊内で問題を起し、
八ヶ月の刑期を終えて二ヶ月前に刑務所から帰隊したばかりであった。
普通の兵の場合、帰営時刻に遅れたぐらいなら重営倉ですむが、この兵はいわゆる刑の前科があるので、
再び衛戍刑務所行きは間違いない。
第十一中隊の公用兵二名を連れた週番下士官が、約二十分も前から心配して、
いらいらしながら営門の脇で待っていた。
すると午後五時のラッパが鳴った。
見ると遅れた兵は半ばやけ気味にゆっくり歩いて来る。
週番下士官が悲痛な声をあげる。
「 早駆けだ、早駆け ! 」
週番下士官は何とか時刻にぎりぎりにでも営門に入れようと必死である。
市倉衛兵司令も何とか時間をごまかしても無事に帰営させたいので、はらはらしながら見守っている。
だがついに遅れた。
もう駄目か、と週番下士官の表情が絶望的になった。
すると、突然、
市倉衛兵司令の背後から、
「 おい、そこの兵、今から何処へ行くか、戻れ ! 」
と 大声で怒鳴る者があった。
市倉が振り向くと週番指令の安藤大尉であった。
さらに安藤大尉は、
「 おい、早くあの兵を連れ戻せ 」
と 週番下士官に鋭く命令した。
その下士官は安藤大尉に敬礼すると、待ってましたとばかりに営門を飛び出し、
外出兵の腕をとって強引に安藤大尉の前に連れて来た。
「 なんだ、お前か、相変わらずだな、早く帰れ 」
といって 安藤大尉は何事もなかったように聯隊本部へ去っていった。
市倉衛兵司令が感激と感謝をこめて安藤大尉の後姿に < 敬礼 > と 声を張りあげると、
安藤大尉はその声に振り返りながらニヤリと笑った。

外出してたとえ一分でも帰営に遅れれば、規則上は罰しなければならないのが軍隊というものである。
市倉衛兵司令にすれば、公用でない限り、帰営時刻に遅れた兵を黙って営門を通すわけにはいかない。
だからこそ市倉も中隊の週番下士官も、何とか兵を早く営門の中に入れたかったのである。
こういうことで罪人をつくりたくなかった。
それが軍隊内の情味でもあった。
その意味からも、
夜の連隊長である週番指令のお声がかりで、兵を連れもどせとは、
まことにうまい人情の機微にとんだ含蓄ある命令であった。
( 市倉徳三郎著 「 憂国奇人伝 」 より )
芦澤紀之著 「 暁の戒厳令 」 より
・・・リンク→「 中隊長のために死のうと思っただけです 」