述懐
神州男子坐大義
盲虎信脚不堪看
誰知萬里一條鐡
一劍己離起雨情
1 相澤中佐の片影
目次
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一、中佐の略歴 ・・・中佐の略歴
二、中佐の片影
其一 尾崎英雄氏 ( 当番兵 ) ・・・中佐の片影・其一 『 中佐殿は人一倍愛と武勇な心であつた 』
其二 遠藤美樹氏 ( 戦死者の弟 ) ・・・中佐の片影・其二 『 如何としても忘れることの出来ないありがたいお方 』
其三 小田島橘氏 ( 戦死者の兄 ) ・・・中佐の片影・其三 『 日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ 』
其四 大野虎六氏 ( 退役陸軍大佐 ) ・・・中佐の片影・其四 『 尽忠至誠一点のまじりけない人 』
其五 今泉富与嬢 ( 慶応大学看護婦 ) ・・・中佐の片影・其五 『 神様が相澤様を御選びになられました 』
其六 佐藤光永氏 ( 大日本赤子会理事、中佐の竹馬の友 ) ・・・中佐の片影・其六 『 よくよくの事情があつたに違ひありません 』
其七 福定 無外老師 談 ( 中佐の下宿せし輪王寺住職 ) ・・・中佐の片影・其七 『 止むに止まれぬ精神の発露である 』
其八 某氏 ( 中佐の親友 ) ・・・中佐の片影・其八 『 正に相澤殿の一挙一道は菩薩業と確信罷在る 』
其九 某氏 ( 中佐の親友 ) ・・・中佐の片影・其九 『 熟慮断行の人 』
第十 一青年 ( 福山市 ) ・・・中佐の片影・其十 『 天子様の御地位は安全ですか 』
其十一 K生 ・・・中佐の片影・其十一 『 あの人ならば断じて私心ではない 』
其十二 R生 ・・・中佐の片影・其十二 『 ああ言ふ人が日本民族のほんとうの姿 』
其十三 ○○中尉 ・・・中佐の片影・其十三 『 大隊長は変わりものだヨ 』
其十四 ○○大尉 ・・・中佐の片影・其十四 『 鮮血一滴洗邦家 千古賊名甘受還 』
其十五 ××大尉 ・・・中佐の片影・其十五 『 純一無雑の心 』
其十六 □□中尉 ・・・中佐の片影・其十六 『 馬鹿ツ、それでも見習士官か !! 』
其十七 △△少佐 ・・・中佐の片影・其十七 『 中佐殿は御令息の御重態をも省みず演習に参加せられた 』
其十八 ○中尉 ・・・中佐の片影・其十八 『 厳乎たる正しき人 』
其十九 ××少尉 ・・・中佐の片影・其十九 『 現代の典型的武人 』
其二十 ○○曹長 ・・・中佐の片影・其二十 『 部下を決して叱られません 』
其二十一 △△中佐 ・・・中佐の片影・其二十一 『 不義と見れば権勢を恐れず敢然排除する人であつた 』
其二十二 ○○中佐 ・・・中佐の片影・其二十二 『 腹の勉強を忘れるなよ 』
三、中佐最近の書信
◇ 中佐が子女を教養するに如何に眞率熱心であるかを窺ひ
且つそ聲の一端を伝へる爲め、これを蒐録する。
1、八月十四日 ( 宣子殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・八月十四日 『 母の至情を心肝に銘じ毎日励むこと 』
2、九月二十日 ( 静子殿、正彦殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・九月二十日 『 私の心持をちやんと承知して居ることを何よりうれしく思ふ 』
3、九月二十七日 ( 宣子殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・九月二十七日 『 うがひ もよいですよ 』
4、十月十六日 ( 正彦殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・十月十六日 『 少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ 』
5、十一月一日 (道子殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・十一月一日 『 尊い人になりなさい 』
四、雑録 ・・・雑録 『 腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな 』
2 相澤中佐遺詠
本冊はさきに配布した 『 相澤中佐の片影 』 の後半である。
本冊を配布しやうとした矢先 偶々 二 ・二六事件が起つたので
今更どうかとも考へ手許に保留しつつ右事件の推移を逐つた。
東京事件も今や建設期に入つている今日本冊の如き一見閑文字に過ぎる
のみならず十日の菊過ぎるの感もあるので 配布を見合はせやうかとも考へはしたが、
然し前半のみで後半をお届けしないことは余りに尻切れ蜻蛉すぎるので
不満足ながらともかくお届けすることにした。
今次 東京事件の遠因の一が相澤中佐の行動 並に その公判に在つたことを想ふとき
何らかの意味で御参考の一助にもなり得ることもあらうかと考へつつ。
一、〔 ○○中佐談 〕 ・・・相澤中佐遺影 一、〔 ○○中佐談 〕
二、 ○○中佐談 ・・・相澤中佐遺影 二、○○中佐談
三、風格雑録
皇天人を選んで過りなし。
相澤中佐の為人寔に神の如く、
此の人にして此の事あるを察せずんば
永田事件の眞相を味識することは出來ない。
以下各方面の談話、信書等を編錄して中佐の風格を窺ふことにする。
・・・相澤中佐遺影 三、風格雑録 (一)
・・・相澤中佐遺影 三、風格雑録 (ニ)
相澤三郎
二 ・二六事件 (一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
中佐の略歴
中佐は仙台市光善通六番地故相澤兵之助の長男に生れた。
父君は仙台伊達藩士で、裁判所書記として宮城県石巻、福島県白河、若松、郡山、仙台市等に歴任奉職し、
退職後岩手県一ノ關、仙台市、福島県相馬中村等に公証役場を開いて來て中村で歿せられた。
五、六歳の頃中佐は父君に従つて、郡山市 ( 當時町 ) 郊外の一小庵寺に起居して居た。
其頃父君は旧藩の先輩同輩で維新の際に死んだ人々の故事を仔細に調査し、
其の埋れた弧忠を留め彰すべく、全く獨力で附近の遺跡に石碑を建てられたと言ふ。
常々中佐に語つて言はれた。
「 わしは仙台の藩士で、御維新の時には小義に因はれて官軍に抗し申譯ないことをした。
お前はどうか何時迄も天皇陛下に忠義を盡し、此の父の代りをも努めて呉れ。
これがわしの遺言じや 」 と。
父君は忠君愛國の至誠厚き方で、明治神宮造営中、松を献上せんとして上京し、
方々物色されたが適當なのが見當らなかつた爲め、
遂に仙台の自宅の庭の松を搬送して奉納されたことがあつた。
現在宝物殿の傍に常盤の色を誇つているのがそれである。
( 大正七年四月十九日、東京夕刊新報第三面上段記事抄録 )
◇ 三間半の笠松を明治神宮へ仙台から = 護衛して來て奉献した相澤翁
一昨十七日午後三時頃府下代々木なる明治神宮へ見事な笠松の巨木を献上した老人がある。
それは仙台市に住む相澤兵之助 ( 六六 ) 氏と言ひ、
鐵路を輸送して來ることとて折角奉献するものを傷つけたくないと言ふので、
老ひの身も厭はず遥々國の仙台から附き添つて來た苦心は空しからず、
代々木に到着の檢分して見ると何処に一つの傷もなかつたので其のまま献上を濟ませたが、
該笠松は歳二百年青葉城の庭木であつたのを重臣が拝領して相澤氏が譲り受けたもので、
大きさ三間半と言ふ見事な世にも希れな逸品との事である。
扨さて相澤氏が此の献上の際 かく特に深い注意を拂つた動機はと言ふに、
過日伊勢の某氏から献上した十一本の眞榊は名木のみを取揃へたと言ふに眞赤な僞物ばかりで
大木を利用しその根へ指して榊の枝を植え附けたイカ物なる事が發見され、
献上した某氏は植木屋任せにして置いた結果、とんでもないものを献上して了つたと後悔したとか言ふので、
國民の赤誠を表し奉るべき場所柄をも省みずかかる不正卑劣な植木屋風情の行爲は憎んでも余りあるが、
奉献者の誠意にも尚欠くる処があるのではないかと、扨こそこの擧に出でたものだと言ふが ?事である。
因に同神宮に同日までの献木は八万六千本に及んださうな。
中佐の母君まき子刀自は仙台藩士羽田善助氏の女。
武家育ちの女丈夫とも言ふべき方で、その家庭教育も極めて武士的教育であつた。
中佐は明治二十二年九月九日丁度満月の昇る頃、
福島県白河町の裁判官官舎で呱々の声を挙げたのであつた。
幼少の頃は極めて従順で殆んど喧嘩をしたことがなく、
弱虫と言はれる程であつたがよく両親の教訓を守り評判の親孝行であつた。
令姉二人、令弟一人、 ( 令兄一人は夭死ようし ) あるが、姉弟仲は極めて睦しかつた。
幼年學校入學後潜んで居た剛毅な性格が出て來て家人も驚かれたと言ふ。
中佐が任官の時、母堂は和歌一首を送つて励まされた。
天地のめぐみのつゆのかぎりなき 學びて國と君につくせよ
一ノ關中學校第二学年から仙台陸軍幼年學校に入學して陸軍に入り、
明治四十三年新義州守備隊で任官し、幾許もなく原隊たる仙台歩兵第二十九聯隊に歸還、
中尉時代に約二年間臺灣歩兵第一聯隊附となり、宜蘭守備隊に勤務した。
大正十年大尉に進級して、原隊歩兵第二十九聯隊に帰り、大隊副官を勤めた。
同年暮戸山學校劍術教官として轉出、同十五年熊本歩兵第十三聯隊中隊長に補せられた。
昭和二年東京歩兵第一聯隊附となり、日本体育会体操學校服務を命ぜられ、
同五年陸軍士官學校劍術教官に補せられた。
昭和六年少佐に進級し、青森歩兵第五聯隊大隊長に補せらる。
昭和六年秋の十月事件、五 ・一五事件當時はこの大隊長時代であつた。
昭和七年秋田歩兵第十七聯隊大隊長に轉補、
同八月中佐に進級して福山歩兵第四十一聯隊に補せられ、
十年八月臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せらるるまで同隊に勤務していたのである。
次頁 中佐の片影・其一 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其一 尾崎英雄 氏 ( 當番兵 )
自分は中佐殿の當番として半年毎日御宅へ公用に出て居りました。
尾崎として一番感じたことは軍隊で一番大切な不言實行のお方であり、
礼儀の正しいお方と毎日思つて居りました。
それは一寸したことでも當番としての自分が用事を行ふと
親しい御顔で有難う有難うと何度も礼を言はれたり、
又通勤に乗られる馬も乗られるのは朝だけで、歸られる時は何時も歩いて歸られて居りました。
それはお前等も忙しいから自分の事が十分に出來るやうにとの感謝に堪へぬ御心からです。
又御旅行の時など驛まで馬で送つて自分が歸る時、
自動車など多く通るから馬が荒れると危ないと言はれて、
自分が恐縮してお斷りしたのを、
無理に中佐殿は私が乗る馬の銜くつわをしつかり御持ちになつて下さいました。
部下を思ふ御心から上官が人前でも而も平気で親切にこんなことまでも行つて下さつたのです。
又演習に行かれても 「 歩くお前は疲れるだらう 」 と言はれて、
何度も何度も休んで行かれたり、よく兵隊の事に気をつけて下さる方でした。
又夕方御宅に公用に行く時、雨など降つている日には 「 本日は天気が惡いから來ぬでもよい 」
と云つて休ませたり、その部下を愛する御心は口筆に言はれない色々なことが多くあります。
今度のことに就きましても私は唯々中佐殿の御武運の強からんことを神にお願ひする次第であります。
何か後先となり讀みにくい事ではありませうが、
私の言ひ度いことは 中佐殿は人一倍愛と武勇な心であつた ことを書き度いのでしたが、
演習で疲れて何やかやで思ふように書けませんでした。
次頁 中佐の片影・其二 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其二 遠藤美樹 氏 ( 戰死者の弟 )
私が中佐にお目にかかつたのは二度です。
昭和八年一月五日 山海関西関に於きまして戰死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました。
他人としては当町分會長長谷川大尉、小學校長五十嵐氏が入つて居ました。
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身體、襟章は十七、じつと下を凝視してゐるのが私の目に入りました。
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました。
私には今でもはっきり其の姿が見えます。
膝をしつかり合わせて、拳をしっかり握つて、下を凝視して居られた姿が。
その方が相澤少佐殿でした。
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです。
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて獨りブリッジに倚りかかって居られたさうです。
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に 「 乗せて下さい 」 と云はれて來られたのださうです。
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました。
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした。
唯一言
「 遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない 」
とポツリポツリおっしゃいました。
それから白石町分會長長谷川大尉と話し出されました。
大體こんな内容でした。
遠藤さんはすばらしく偉い人だ。
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ。
と 力をこめておつしゃいました。
分會長は仕方なく相槌を打つて居たやうでした。
話はたまたま多聞師團長の事に移りました。
( 其の頃は第二師團が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師團長を招待し、胸像を贈呈する予定になつて居ました )
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「 多聞師團長に胸像をやるよりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ 」
と口を極めて申されました。
それから私に 「 遠藤さんの骨を持たせて冩眞をとらせてくれ 」 と申されました。
私は喜んで承知しました。
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました。
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな聲を上げて泣き出されました。
私は、愕然としました。
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます。
しばらく續きました。
私も泣いて了ひました。
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、
「 お葬式の時には參ります 」 と 申されてお歸りになりました。
之が最初にお目にかかった時の印象でございます。
葬式の時は、現地戰術で參れないと言ふ御懇篤な御書面がありました。
同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事變戰歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に參目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました。
中佐は非常にお喜びになり、
( 其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした )
丁度會議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました。
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました。
そのときこんなことをおつしゃいました。
「 あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした 」
「 遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる。
遠藤さんのお考へは實に立派なものだった。今其の内容を話すことは出來ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの爲めに同志が記念碑を建てます 」 と
お別れの間近に中佐殿は
「 どれ、遠藤さんに報告しやうかな 」 と言はれて奥に入られたので
私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の冩眞がかざつてありました。
私も拝みましたが私は泣いて了ひました。
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって來てたまりません。
それから御子様三人を連れられて無理に送つて下さいました。
發車致しました。
挨拶致しました。
しばらく経經つて窓から顔を出すと中佐殿は未だ立つて居られます。
又敬礼されました。
私はびつくりして頭を下げました。
胸は一杯でした。
しばらくは泣いてゐました。
これが二度目でした。
八月に進級御礼の挨拶を戴きました。
私は中佐殿にお目にかかつたのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出來ません。
兄の冩眞を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます。
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します。
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません。
私は中佐殿を維新の志士の如き方と思つて居りました。
熱烈なる御精神。
あの温容。
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません。
この手紙は一日兄の霊前に供へました。
何卒國家の爲に中佐殿御決行の精神を社會に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます。
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出來ません。
表現するに適當な言葉がありません。
只 如何としても忘れることの出來ないありがたいお方 としか申すことが出來ません。
次頁 中佐の片影・其三 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其三 小田島皓橘 氏 ( 戰死者の兄 )
相澤中佐殿の件に就きて生等も甚だ吃驚罷在候。
如何なればああした直接行動に出でられ候や 判斷に苦しむものに御座候。
嘗つて弟戰死壯候節、
最初に秋田より 片道二時間余の行程を大吹雪を冒してお訪ね被下しは相澤中佐殿に候ひき。
物静かなる中にドッシリとした眞の武士とも申上ぐべき方と拝し候が、
果して後に新聞にて拝見仕るに武道の練達者との御事成程とうなづかれ申候。
相澤中佐殿と拙家何等の縁故も御座なく候に、
他の何人も未だ來らざる前、
大吹雪をついて二時間半の遠路をわざわざと
軍務御多望の折柄御來訪被下し御芳志に感謝申上げ候に、
「 自分の時間が六時間近くありましたから 」
「 エライ方の御霊を拝し度くて 」 と御言葉僅かに申されて、
何んの御接待を致す暇もなく御出發被遊候。
後 小生 聯隊に御礼言上に參上せし時も
極く物静かにして礼を厚くして御迎へ被下、 いたく恐縮仕候事御座候ひき。
其の後も一度、
弟の墓地新築せるを聞かせられ、又わざわざ墓參に御光來被下、
武人の温情に小生等一同感激仕り、
郷党人も亦 「 日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ 」
と、郷軍分會員と共に称し申候ひし程に御座候。
かかる物靜な眞の武人とも申上ぐべき中佐殿が、何故ああした行動に出でられしか
・・・・中略・・・・
眞に事此処に至り見るに中佐殿としても決して無謀なること
( 事實無謀なるもその信念に於て ) とは考へられず、
生等の關知し得ぬ処の何事かに義憤を感ぜられて、
爲すべからざる行動を敢えて爲されねばならざりしか、
その眞情到底普通人の考へ及ぶ処に非ずと存ぜられ候。
出來申せしことは如何とも致方御座なく候も、
あの風格をお慕ひ申上ぐる生等として出來うべくんば
否是非々々寛大の御処置を望むものに御座候。
次頁 中佐の片影・其四 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其四 大野虎六 氏 ( 退役陸軍大佐 )
相澤さんの御人格は私が申すまでもなく
相澤さんに接せられた人は皆よく御存じであらうが、
全く盡忠至誠一點のまじりけない人でした。
今度のこともその事の善し惡しは私は申すまでもないが、
相澤さんがそれによつて期待された所と云ひ、その動機と云ひ、全く立派なもので
此の事件のあつた後と雖も私の相澤さんを信じていることには微塵も變りはありません。
私は病床にあつて何事も爲し得ないが、
唯 相澤さんの期待された所を一日も早く實現せられんことを祈つて居る次第です。
同氏は更に、
私は相澤さんと同隊に居つたこともなく、相澤さんはあの通りで、
自己宣伝と言ふことの少しもない人であるから御性格はよく判つて居て、
その行動となると一向に知らんので、これは極く一端に過ぎないと前提して、
次の様に語られた。
嘗て此の附近で見まはりの不寝番をやつたことがあるが、
一戸一人と云ふ譯で相澤さんは自分躬ら出られた。
現役の將校で百姓と一緒に夜警に出るなどは相澤さんならではやう出來んことだと思ひます。
この先に私の同期生で豫備役少將の○○と云ふ人が住んで居ますが、
相澤さんは先輩と云ふので轉任の挨拶に行かれたのでせう。
その時本人は古服古ズボンの汚いなりで畠いぢりをして居たのに對して
誠に嚴然たる態度で、まるで見習士官か何かが直属上官に申告でもする様に挨拶されたので、
こちらは何んとしてよいか誠に恐縮に堪へなかつたと語つて居ました。
相澤さんは周囲に迷惑をかけないやうに極力注意されて鋳たうで、
これは事件後に思ひ當つたのですが、
何時も上京すると挨拶に立寄られたのが暫くは一向にお見えにならなかつたのです。
次頁 中佐の片影・其五に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其五 今泉富与 嬢 ( 慶応大學看護婦 )
相澤様のやうなお方に
お側近くお仕へ出來ましたことはほんたうに嬉しく、一生の光榮であり、
又今後の力でもあると存じて居ります。
御病床にあらせられながら、辱けなき事には存じますが、
大君のため、
御國のための御事より
他にあらせられなかった相澤様が只今の御心の内、御察し申上げられます。
よく御重態でいらせられし頃、
「 今泉、私はベッドの上で死にたくない。
戰地で死ぬのだから、お前もその氣でしっかりやってくれ 」
と仰せになりました。
私も不束乍ら神に祈誓をなし、どうしても御恢復あらせられる様にと御仕へ致しました。
御食事を遊ばすにも決して神に御挨拶なくしては召あがられしことなく、
君の爲めに御働きになる 武勇の士であり乍ら、
數にも入らぬ私共への御やさしき御言葉、誠に誠に今にも頂きし御言葉は生活の力でございます。
かかる義勇の御方なればこそ、
神様が相澤様を御選びになられましたのかも存じませんが、
世上の風評を御あび遊ばさるる御心中如何ばかりで居らせらるるかを御推察申上げます。
唯々この上は神に祈り居る私で御座ゐます。
次頁 中佐の片影・其六 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其六 佐藤光永 氏 ( 大日本赤子會理事、中佐の竹馬の友 )
相澤君の少年時代は温順な思慮深い性質でした。
御宅は役場の前辺りにありましたが、
御家庭は嚴格な様子で歸宅すればいつも両親に丁寧に挨拶されい居りました。
御両親には好く仕へられ、御姉弟仲も睦じかつた様です。
學校の成績もずつとよい方でした。
たしか四年生か五年生の頃でしたらう。
鎮守の八幡様の裏山に坂上田村麿を祀つた祠がありますが
その奥は何かお姫様の崇があるとか言ふ傳説で人の立入を禁ぜられて居りました。
そこへ私共三四人が入つて見やうとしました時、相澤君は皆を引き留めて
「 昔からしてはならぬと禁ぜられていることを犯しては、惡いことはあつても善いことがある筈はない 」
と言ふ意味のことを言つたことがありました。
子供の當時から既に思慮深かつたことが今でも想ひ出されます。
その相澤君が今度のやうなことを決行したのは、よくよくの事情があつたに違ひありません。
その事情の善し惡しは知らず、唯 君國の爲めと言ふ一念が根本であつたことだけは毛頭疑ひません。
近頃は自分の立身出世の爲め、自分の立場をよくする爲めならばどんなことでもする。
人を陥れても構はぬと言ふ一般の世相でそれが殊に上のものに多い。
軍人の中に於てさへ私共が顔を背けさせられる様な人々の多い時に、
自己の一切を賭して大事を決行されたと言ふことは なんとも敬服に堪へず、
誠に有難いことに感ぜられます。
私も八年この方大日本赤子會の運動に一切を捧げて來ましたが、
その間に不愉快なこと、憤慨に堪へないことが尠くなかつただけ一層痛切に相澤君の心境に感ぜられます。
次頁 中佐の片影・其七 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其七 福定 無外老師 談 ( 中佐の下宿せし輪王寺の住職 )
一、相澤さんは少中尉の頃三ケ年に亘り ( 満二年余 ) 輪王寺で修行し、
全く禅僧と同様につとめられたが、それは普通人には到底出來ぬ刻苦精励であつた。
性質は生一本で純粋で幼少からの破邪顯正の道念を禅宗の修行で益々固められた。
今度の事件も實にこの二十歳余の青年將校時代からの純情、破邪の理念に燃えての事と思ふ。
「 一寛せる相澤君の態度である 」 と。
二、常に腐敗せる我が國の現狀を嘆じて居た。
軍隊さへも士気が弛緩し、その結果は國家の危殆であると憂へて居た。
仙台に来れば必ず訪ねて来來、又屢々文通もあつたが、憂國の至情は常に溢れて居た。
特に二、三年この方やるせなき心持を述べて居た。
( 「 その點わしも同感であつた 」 と 老師は特に附け加へて言はれた。)
三、この國の非常時を如何にして打開せんと日夜心を痛めて居たことは明瞭である。
今度のことは止むに止まれぬ精神の發露である と思ふ。
單身根源を切つて軍の清純を期せんとするものであつて、初めから身を捨てている。
自己の前途、立身出世のみを望む現在の大部分の人間には解し難い行爲であるかも知れぬが、
相澤の今度の行爲はわしにはよく判る。 決して狂ひではない。
事の善惡は今論ぜられぬが、
相澤があの行動を爲すに至るまでには多くの幾多の熱慮が重ねられたらう。
決して輕擧ではない。
世間でとやかく云ふやうだが、賣名でもない、妄信でもないと信ずる。
相澤の生一本な性質とあの純情とを以て現今の腐敗を見る時、
止むに止まれぬものがあったに相違ない。
わしは相澤を信じている。
確固不動の信念に依り生死を超越して君國に盡さんとするのが相澤の一貫せる性質である。
尚 同期の人々にも相澤の立派な精神を知る人があると思ふ、
決してわし一人のみの過信ではないと思ふ。
次頁 中佐の片影・其八に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其八 某氏 ( 中佐の親友 )
一、相澤中佐は聯隊から僧坊起臥きがを不可とせられたので、
無外和尚の法友、当時の東北帝国大學總長北条時敬氏宅に寄寓することになつた。
( 北条氏は後學習院長に任じ千年物故された )
當時北条氏宅に黒川恵寛氏が家庭教師として寄寓しつつ東北帝大に通つて居たが、
同氏が肺を患ふや二人で自炊生活を始め、喀血しても同じ部屋で寝起し、食事を共にしていた。
同氏が帰郷の已むなきに至るや身廻り一切の世話をして無事歸郷させた。
黒川氏は現に京都市吉田に医師を開業して居られ中佐とはずつと親交があつた。
中佐は収容後、無外老師の健康勝れざるを知つて黒川氏に頼んで薬を届けさせた。
中佐夫人宛同氏最近の書翰の一節に曰く、
「 輪王寺老師の御儀拝承いたし候、本日早速仙台宛護送薬致置候
御了意被下度候、大兄ま御心境御美しく候、今は唯心靜かに悟道御精進願はしく、
為皇國切に御自愛被下度 」
二、少中尉時代から部下を可愛がること非常なものであつた。
職務以外は概ね粗末な綿服に小倉袴の朴々たるいでたちでよく旧部下の家庭を訪問した。
中尉時代台湾赴任の途次、福島県石城海岸に旧部下を訪れ、偶々大漁祝ひがあり、
大漁祝ひの印半纏 はんてんと鰹節をもらつて来たことがあつたが
半纏は今でも大事な記念としてしまつてある。
三、朝鮮新義州守備隊附の少尉時代、中佐の當番兵であつた猪狩定与氏が
自作の 「 麦こがし 」 と酒とを収容中の中佐に差上げやうと思ひ上京して來て、
浅草の某交番の巡査に差入れの方法を尋ねたところ、
中佐を表する巡査の言が余りにも無礼であるのに
同氏は沸然怒をなして方に殴り付けやうとまで思つたが、
此際却つて中佐に惡影響を及ぼすかも知れぬと
思ひ止まつて旧番地を思ひ出して鷺の宮の留守宅に訪ねた。
數々の思ひ出話しにその夜を留守宅に語り明かし歸郷したが、
歸郷後自作の白米一俵と馬鈴薯などを送つて留守宅を慰めた。
猪狩氏の話の一節に次の様な思ひ出がある。
「 中佐の部下の兵が肺肝で在隊中死亡したが、
その時中佐は死に至るまで肉身の弟か子供を看病するが如く附添つて、
湯灌ゆかんや輕帷子を着せるまで、一切手づから行ひ、河原で火葬した時も自分で火を點け、
骨から灰まで自分でさらつて郷里に送り届けた。 兵戰友、友達一同感激せざるものがなかつた。」
四、尚猪狩氏の書信に次の様に述べている。
前略、小生相澤殿とは朝鮮新義州守備隊に於て種々御懇篤なる御教鞭を賜はり、
其の後も屢々御訓戒を戴き常に生神として敬恭致候、
今回図らずも駭報に接し只々恐懼に堪へ申さず候
相澤殿御風格たるや、小生申上ぐる迄もなく、
神聖至純誠神の如きに平素心の守として崇拝致し居り、
正に相澤殿の一挙一道は菩薩業と確信罷在る処に御座候、
御窮窟なる公判に當り及ばず乍ら御高恩の萬分の一に酬ひ度く神に念じ居り候、 ( 下略 )
五、事件が新聞に報道せられて、相澤中佐の決行と判明した日、
福山市在住石川某が留守宅に訪ねて來て、夫人に向つて、
「 此の聯隊では相澤さんこそ軍人らしいお方と思つて居ましたが、
矢張り私の考へは間違ひませんでした。
正月でしたか私が酒に酔つて往來で中佐に無礼を働きかけましたら、
ヂロリと見てにつこり笑つて黙つて行き過ぎられましたが、あの眼光は今でも忘れることが出來ません。
今度のこともあの眼光が然らしめたものに違ひないと思ひます。
私はやくざ見たいなものですが何んなりと御世話申上げさせて頂きたうございます。」
次頁 中佐の片影・其九に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其九 某氏 ( 中佐の親友 )
一、中佐は御子様を非常に可愛がつて居られました。
やさしい率直な気分が満ち溢れて居ました。
其半面無口な武士的凛然たる冒すべからざる威嚴を包蔵せられて居ました。
二、當時中佐の部下であつた伊藤上等兵から聽いた直話ですが、
中佐は部下を可愛がられたことは非常なもので゛、部下も亦慈父の如くに慕ひ服従して居た由。
殊に演習の場合、出發に当つては
「 これから出陣するのだ。眞の戰場と心得て生命がけでやれ 」
と訓示され、その厳格さは苛酷に思ふ程軍紀を重んぜられたが、
帰營に當つては
「 これから凱旋するのだ。戰勝つて歸るのだから皆元気よく歸れ 」
と常に思ひ切つた慰労會をなされた由。
尚 よく御土産を留守者に買つて來られた由です。
三、當地の憲兵分隊○○曹長の直話ですが ( これは永田事件以前屢々聽かされた話です )
自分は永らく軍隊生活をなして來たし、又職務柄色々營外の生活狀況も調べて居るが、
相澤中佐 ( 當時少佐 ) 程立派な又部下の信頼を集めて居る將校を知らない。
まるで磁石が鐵を吸ひつけるやうなものだ、
青年將校は一種畏怖と畏敬の念を以て仰いでいると。
四、相澤中佐宅の女中は、小生が世話したものであるが、
同女中から來る手紙に依れば、全く慈父のやうに感ぜられ、
非常なる親切と行き届いた世話をされて居たことが時々書かれてありました。
五、中佐殿より戴いた数通の書簡を讀んで見ると、まことに気品の高い一種の霊気に打たれます。
憂國の至情が常に書面に満ち溢れています。
六、私の見た相澤さん。
相澤さんは劍道の修練に依つて絶對無礙むげの世界を悠々自若として歩み得た人である。
国難はいつもこの武道の精神に依つて排除せられて來た。
これを言葉に現はして見ると 「 熟慮斷行 」 である。
由來 日本國民性は熟慮の際は殆んど無表情で多くの侮辱に堪へ、
殆んど忍び難きまで忍んで居るが實行とすると死そのものの中へ驀進ばくしんに飛び込んで活を求める。
死中に活を求めた人。
人間正義のために邪惡と闘ひし人。
武士の品格と體面と教養とを豊かにした人。
等々、私は畏敬の念を以て接している一人である。
次頁 中佐の片影・其十に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十 一青年 ( 福山市 )
あのやうな温厚な人がどうしてあんな重大なことを決行されたか。
これは私達青年にとりて重大な問題であります。
熱烈な皇魂の保持者、
天子様への忠誠をもつて終生の念願とせられて居た中佐殿が今回の義擧は、
余程重大な意義があるやうに思ひます。
否、斷言します。
重大なものが確にある。
重大なものがなくてあの温厚な人がどうして起たれやうか。
私達は三思三省すべき秋です。
「 天子様の御地位は安全ですか 」
「 お國は發展してゐますか 」
「 皇民は安心して生活してゐますか 」
私は相澤中佐殿が私に語られた言葉の二、三を發表します。
「 私が日夜憂へてゐるのはお國の事です 」
「 尊皇心程重大なものはない。尊皇心なきものは日本人ではない 」
「 永田さんは立派な現在の政府の官吏であるかも知れないが、大御心の解らない人だ 」
「 若い人は決して無謀な事をやってはいけない。
前途ある青年は、皇國を守る爲、 天子様の御爲めに生命を大切にして下さい 」
「 全世界の人々は皆天子様の赤子です。赤子お互ひに爭ふことはまちがいです 」
「 軍人の中に尊皇心の欠けてゐる人が居る。
又軍人精神の眞義の解らない人々が居るのが残念でたまらない 」
「 私達の行動は、皇道精神の命ずる処に從って動くのです。
大御心を奉じて行けばよいのです。
唯 天子様への御奉公あるのみです。
全身全霊を以て天子様に忠誠を盡くすのです 」
次頁 中佐の片影・其十一に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十一 K 生
一、少中尉の頃仙台歩兵廿九聯隊に奉職。
時の聯隊長は人格職権經綸に於て、陸軍近代随一と言はるる故村岡長太郎將軍で、
直属中隊長は畏くも現軍事參議官 東久邇宮殿下であらせられた。
當時の人の傳へる所によると、殿下は常に他の人に向ひ
「 うちには相澤が居るから 」
と御漏しになつて居られた位で、畏くも深く信頼遊ばされて居た御模様である。
村岡将軍に對する中佐の各別なる信頼 否 信仰的尊崇も此頃に始つたやうである。
現在でも上京すれば、
宮城、明治神宮に參拝する
と共に殆んど例外なく村岡将軍の墓前に額づくのを常として居る由である。
中佐は特に深く殿下の御高徳に感銘し、
當時より今日に至るまで全身全霊を以て感激に浸つて居たよーやうである。
二、その後 東京で戸山學校教官及學校配属將校として奉職。
野外に於ける劍術練習が未だ一般に實施せられなかつた當時、
既に意を實践場裡に用ひられ、早くも此種の練習に精進を致されていたやうである。
三、大隊長として青森聯隊に奉職。
眞や突如聯隊に出勤し營内くまなく巡視するのを度々とした。
不寝番に當つている兵が何かと報告すると
顎を垂れて物靜かに口の中で何か言ふのを常としていた。
何んと言つたか聞き取れなかつたと言はれているが、
兵達はこみ上げる感激に蔭乍ら泣いたと傳へられている。
四、秋田聯隊奉職中の逸話として次の様なことがある。
聯隊長の内務巡視か何かの折り 中佐も亦聯隊長に随行していた。
或中隊の或班で他の某佐官が兵を集めて
「 兵食を何故に大切にすべきや 」 と兵に問ふた。
兵は種々答へたが大體に於て残飯を賣れば金になる、
その金は又軍隊の經理室に歸つて更に兵食の代りとなり、
加給品となつて美味しいものを与へられる所の金となるから大切にすると言ふ答であつた。
問ふた人も大體同感のやうであつた。
所が中佐は兵に向つて残飯を大切にするのは經濟的理由もあるにはあらうが、
それよりも何よりも大切にする譯は
一粒々々お百姓の精神辛苦の結晶である。だから尊い。
之れを粗末にするのは勿體ない。と諄々説き聞かせた。
五、福山聯隊在任中は、初め兵器委員首座であつたが、
自ら進んで軍曹伍長を相手に銃劍を執つて劍術の猛練習をしたと言ふことである。
五十に近い歳を以てその眞摯熱烈なる態度は
之を知る全國の心ある青年將校に深い反省と感激とを与へて居た。
六、劍道は随分達者であるが段級は持たなかつたやうである。
人は貴方は何段ですかなどと問ふと 「 梯子段の事ですか 」 と冗談を云ふ事もあつた。
然し精練證持ちの達人と試合すると小手先きは兎に角相手になつた人は、
相澤さんにたたかれるとズーンと背骨から足の爪先きまでこたへると言つた居た。
人を斬るのには相手の股ぐらに足を踏み込んで尾骶骨まで斬り下げる積りで打込め、
刀を兩手に握つて突くのが一番確實であると、
常々人に教へ自らも實践的練習に意を用ひられた。
七、仙台市輪王寺住職無外老師からは青年將校時代から色々指導を受けた様である。
仙台に老母を尋ねらるる時など常に老師に參問して居たやうである。
外に松島瑞嚴眞寺の高僧竜老師を慕つて居たやうであるが交通はなかつたらしい。
八、酒はふだん口にもせなかつたが、好ましく親しい人達と一盃傾けた時には
陶然として平素寡黙の唇がほぐれて、天眞爛漫子供の様になることもあつた。
たまたま興到つて愛誦の詩出づ。
生死可憐雲變更 迷途覺路夢中行
唯留一事醒猶期 深草閑居夜雨聲
又、空山開花落万々寿 等々
節は獨特の調子で音吐は朗々として居た。煙草は用ひなかつた。
九、先輩には非常に律儀深く、長くその徳を湛へて居ると言ふ風であつた。
中にも談たまたま畏くも東久邇宮邸參殿の事などに及ぶ時、
きちんと坐り直して両手を膝の上にのせて掌を組み合せ瞼には涙をためていた。
又村岡将軍、荒木将軍、眞崎将軍には蔭乍ら深く思慕するところがあつた様である。
一〇、他人の惡口は決して口にせなかつた。
恐らく中佐から他人の惡口と不平とを聞いた人はなからう。
他人をほめることはあつた。
例へば石原莞爾に對しては殊の他 私淑期待する所が大きかつたやうである。
陸軍部内の所謂暗流暗闘などの話の時は
常に石原さんが出て來なければと口癖のやうに言つて居た。
又石原さんに市ヶ谷 ( 陸軍士官學校 ) の若い御方を頼みたいなどと言つていた。
一一、或夏墓参のため休暇を得て仙台に行つた時、
歩兵第四聯隊に立ち寄つて石原大佐の聯隊統率振りを見學して痛く感激されたことがある。
歸途東京に下りて二、三の青年將校を集め、
此の統率、教育方針に關して諄々として感激を伝へ、若い將校を啓發されていたが、
突然立上つて市ヶ谷臺の陸軍士官學校に向つた。
未見の人ではあつたが當時新進気鋭の英才を惜しまれ乍ら
自ら進んで中央部を去つて士官學校中隊長になつた某大尉に、
士官學校教育の參考の爲め、歩兵第四聯隊を見學する様に勧める爲であつた。
當日は學校の野外演習であつて中隊長以下代々木原で演習中であると知つた中佐は、
市ヶ谷臺から更に代々木練兵場に歩を運び、
演習を終つて休憩中の同大尉を探し求めて石原聯隊の話をし、
同隊を見學して教育の參考にして貰ひ度いと熱心に励めたのである。
中佐は代々木から歸つて、同大尉が
「 石原大佐の御高名は餘々知つて居たが未だお目にかかつたことがない。
今度是非お目にかかつて御高説を承りたい 」
と言つていたと非常に喜んで居た。
中佐が如何に國軍の爲めに計つて忠であり、
何事につけても眞摯熱烈であることの一斑を察し得やう。
一二、中佐の不平を知らず憎しみを知らぬ心境は、
常に清明朗々たるもののやうに中佐に接する人に思はしめた。
部内の誰れかれに對する所謂怪文書などを見た時は、
不愉快の時の唯一の表現である唇を一文字に閉ぢていた。
他人が何か意見を聞くと
「 九千万どころか世界二十億皆赤子ですよ 」
と答へた。
或る時 當時陸地測量部に居た○○大尉を訪ね、
「 皆んなでなごやかに行くやうに 」 と話されたやうである。
其の時は大變長く待たされてやつと昼食後に會へたらしい。
歸つて來て、私の至誠が足らんので不成功でしたと言つて、
例の日本手拭をポケットから出して眼をふいて居た。
一三、話は前後するが、かの五 ・一五事件の直前 確か三月頃であつたと思ふ。
東京のある隊で海軍側の古賀、中村両中尉と會つた時、
尊い士官候補生は聯れて行つてはいけません。
年寄りから順序ですよと言つて主張したと言ふことである。
之は古賀、中村の容れるところとならず遂にあんなになつて了つた。
丁度十五日には自宅で入浴中であつたと言ふことであるが、
夫人がラヂオで事件が放送されつつあることを告げると、眞裸で飛び出してしづくも拭はず
畳の上に座り込んで濡れ手拭で涙の傳ふ顔を蔽ふて居たが、
こうしては居られぬとその儘軍服を着、取るものも取り敢ず上京の途に就いたが、
途中盛岡駅で憲兵に阻止されて止むなく引き返した。
一四、山海関の戰闘で後輩の一人である遠藤幸道大尉が戰死した時、
中佐は秋田聯隊に勤務していたがこれは余程骨身にしみて悲しかつたやうである。
遺骨が到着する時わざわざ宮城県白石在の遠藤大尉の郷里まで出かけて行つて、
その遺骨の白箱を抱いて慟哭したと言ふことである。
その後或る場所で故人の事が話題に出た時、
初めはずつとうつむいていたが終に聲を擧げて泣かれた。
腸をしぼるやうな慟哭の聲であつた。
一五、平素は非常に物静かで腰の低い人であつた。
後輩であらうが町の人であらうが腰を九十度に屈げて応對する人で、
言葉も非常に物柔かであるし、喜怒の變化は全く表面には表はれぬ人であつた。
ある曹長が雪道で横合から出て來た中佐に道を譲られて眞赤になつたと言ふ逸話もある。
一六、家庭に於ける中佐は非常に子煩悩らしかつた。
子供の不幸もあつたが一人特に病身な子供があつてそれに非常に氣を使つたやうである。
夫人も非常に優れたしつかりものであるやうであるが、
「 横になつておるべきものを縦にしたり、縦になつているべきものを横にしたりさへしなければ
叱言は全くありません 」 を述懐したことがある。
一七、少尉時代仙台歩兵第二十九聯隊に勤務中、初め一家は仙台に居た。
中佐は毎朝早起で薪割りなどをして家事の手傳ひをし、
姉君の用意した朝食を旨さうに食べて、
兵と朝の動作を一緒にやるのが好きだとて早々に出勤するのを常とした。
父君が相馬中村に移住し一家に従はれたので、
中佐は北山輪王寺の僧坊に寄寓するやうになつたが、
日曜毎に早朝中村まで兩親を訪ねた。
兩親の方から祖先の命日に代參を命ぜられて、日中隊務繁忙で夜中參拝して、
爲めに寺僧を驚かせたことが一再ならずあつたと言ふ。
聯隊では皆中佐の孝心に感服して居た。
一八、母刀自は仙台の故家を離れたくないと
近年ずつと在仙し昨年そこで物故されたが、
中佐は出入の挨拶には常に手を畳について頭をすりつけ
「 お母さん行つて參ります 」 と言ふ風であつた。
一九、中佐は非常に讀書もし、師友にも交はり、その養ふ所は深かつたやうであるが、
表面一寸見には頗る粗雑な頭の持主のやうに思はれて居た。
殊に戰術思想は獨佛流の決心、理由、処置と言つたやり方が子戯のやうに思へたらしい。
随つて戰術指導者が防禦の決心を示してその処置を質問しても、
答案は攻撃を敢行すると言つた風な所があつたやうで、
その霊眼には耿々こうこうとして攻撃して必ず勝てると言ふ信念が閃いて居るかに思はれた。
二〇、中佐が昨年中耳炎を患ひ少しよくなると又丹毒にやられ一時全く危篤に陥いつたことがある。
その時僚友特に後輩の看護を受けたことを以て終生不忘の恩義と感じたらしい。
これから後の生命は全く皆さんのものですと漏して居た。
( ・・・リンク →相澤中佐の中耳炎さわぎ 、「年寄りから、先ですよ」 )
二一、中佐は金銭に頗る括淡であつた。
而し普通ならばタクシーで行く所を電車で行くと云ふ風な所もあつた。
けちてはないが、浪費はしないと言ふ風である。
二二、中佐は又よく 「 萬臣蔵胸 」 「萬民心底 」 と云ふ語を使つた。
これは大和魂---日本精神は皆一つであると云ふ表現法であつた。
二三、世界二十億は皆赤子と言ふ ことも言つていた。
是れが大御心である。
日本人は先づこの大御心が全世界に通じ表はれるやうに天皇陛下にお仕へせねばならぬ。
特に上に立つ人はこの気持ちで輔弼を申上げねばならぬと言つていた。
二四、一般には知られないが民族保健の意見があつた。
それに旧友である在京都の黒川博士の努力に非常に期待して居たやうである。
中佐の意見の内容は日本から肺結核と梅毒とを駆逐せねばならぬ。
これしどうしても國家で徹底的な施設をしなければならぬ。
大御心は色々現はれるのであるが、
此の萬民赤子の保健衛生、民族健康の維持増進には最もよく大御心が現はれ、
之がひしひしと赤子通ずると言ふ意見のやうであつた。
之が爲めには人知れず奔走されて居たやうで、
黒川博士を本庄大將に紹介して民族衛生の話をさせたことがあつたそうである。
二五、中佐は皇國の前途に對して深刻な方針を包蔵して居たらしいが仲々口にはしなかつた。
「 世界億兆皆その処を得るやうに 」 と言ふ表現で千思萬慮の胸中を云ひ現はしていたやうである。
時局の變轉、政局の目まぐるしい廻轉にも頗る考へてはおられたのであらうが仲々口には出さなかつた。
二六、中佐は部下を叱つたことは恐らくあるまいと思ふ。
自分の考へを他人に鞏ひることは決してしなかつた。
私心のない人の特徴とも思はれる。
今次の異変についても旧友の某少佐は
あの人ならば斷じて私心ではない と太鼓判を捺して居る。
意を決して福山を離れる時も常とは変りなかつたらう。
今 囹圄の裡でも恐らく物柔かな態度で終始黙々として居ることであらうと想像される。
聞く所によると臺灣赴任を前にして大部分の荷物を既に發送して居たと言ふことである。
若し事實だとすると、是れが所謂戰術嫌ひの唯一の中佐の戰術であらうと思ふ。
「 能く攻めるものは九天の上にかかる 」
と言ふ風な中佐の霊活なる頭脳の工作であらうと想像される。
二七、中佐の非常にすきな歌謡が二つある。
その一つが大石良雄の山科遊びと、
他の一つは赤垣源蔵徳利の訣れの小唄を吹き込んだ蓄音機の盤である。
その文句は はつきり覺へておらぬが次のやうではなかつたかと思ふ。
山科の浮きさんは 昨日も今日も一力通ひ
女の色香酒の味 敵討ちなど野暮なこと
アヽ酔ふた酔ふた 盃の酒までが ひよいと見えたよ血の色に
アヽ酔ふた酔ふた
次のは
何時も愉快な源蔵が今日は泣き上戸になつて、手酌でクビリクビリと一ツづつのみながら、
他出して居ない兄者の羽織にすがつて訣れを惜しむ。
雪はサラサラ降つている。
と言ふやうな意味の盤であつたと記憶する。
その二枚は今は主なき中佐邸の座敷の一隅に重ねられて居ることと思ふ。
次頁 中佐の片影・其十二 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十二 R 生
所謂永田事件。
今此処に此の事件の眞相を明かにせんとするものでもなく、
相澤中佐の行動の是非を論ずるものでもない。
行動の是非は、神國に於ては只神のみ之を裁斷する。
浅薄低劣なる俗評と一知半解の編者の如きものゝ能くする所ではない。
平素の相澤中佐。
三千年の古、涯しなき葦の原と地平線に連る蒼空を指して
八紘一宇と言ひ放った大八州の民族の國魂を其の儘に見る人格。
玲瓏、明快、清淨、神鏡の國魂を其の儘に具現されたかの如き人格。
佛のやうな慈悲溢るゝ人間味。
或る先輩は歎息した
「 日本人にああ言う人が居るかと思ふと、
否 ああ言ふ人が日本民族のほんとうの姿かと思ふと、
日本人に生れたのが嬉しくなる 」 と
ああ此の相澤中佐。
今や空前の不祥事の惹起者として、
皇軍軍紀の紊亂者として喧々囂々の非難の中に立って居る。
相澤中佐は典型的大和民族である。
傑人偉人と言ふよりは
大和國魂のそのままを昭和の御代に見る魂の人であった。
總ての斷、総ての批評はここより發すべきである。
然らずんば天神地祗に怒るであらう。
次頁 中佐の片影・其十三 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から
相澤三郎中佐
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相澤中佐の片影
( 二 ) 中佐の片影
其十三 ○○中尉
「 大隊長は變わりものだヨ 」
見習士官の帰隊早々申告に行かうとすると、或先輩の注意が言ふて呉れた。
「 御免下さい 」
玄関口に声に応じて大きな筒袖の絣かすりの着物の男が現はれた。
これが大隊長かしらと疑はれるやうな扮装である。
「 見習士官○○只今帰隊、第〇中隊附を命ぜられました。 謹んで申告致します 」
ハチ切れるやうな元気な聲で型の如く申告の辞を述べ終つた見習士官は、
いとも慇懃に畳の上に手をつき頭をすりつける程下げた大隊長の姿に異様な感を抱いた。
上げるかと思ふ大隊長の頭はなかなか上らない。
擧手の手のやり場がなく、下ろさうか下ろすまいかと惑ふた。
暫くして靜かに頭を上げた大隊長はにこやかに
「 誠に御目出度う御座います 」
見習士官は成程變りものだと思ひ乍らお宅を辭した。
五歩、十歩・・・・何十歩か歩いた後 大隊長の最前のいでたちと擧止のピントの合はぬチグハグの中に
言ひ知れぬ未だ嘗て經験したことのない不可解な神秘さを、
踏み出す一歩々々毎に徐ろに感じて來るのであつた。
= 變りもの =
俗人には超俗の人は變りものとしか映らない。
= 偉い方々 =
見習士官三人が大隊長のお宅を訪ねて御馳走に舌鼓を打つて居た。
「 この聯隊には實に立派な方々が揃つて居られる。
○○中尉と言ひ ××中尉と言ひ □□少尉と言ひ 更に偉い方々だ 」
相澤少佐はポツリポツリ こんな風に語られて
「 君達は幸福だ 」
と ニ三回繰返へされた。
酒を呑んでは乱暴すると言ふ○○中尉。
法螺ほらと惡口の名人の××中尉。
射撃場で漫画を描いたり涎よだれを流して居眠りしたりする□□少尉。
何故 『 偉い方々 』 なのだらうか。
この 『 偉い方々 』 がわかり出したのは、見習士官がそれから一年程してからの事だつた。
『 人間の偉さ 』 之が判る程になるにはむづかしいものである。こう感ずる。
或人間の偉さを知りつくす、之は其人間と同等に偉くなければ出來ないことだらう。
謙虚、素朴、慇懃等。この調和體としての 「 人格 」
中尉の言の如く、己の俗なるが故に無限の禅味、調和味を悟り得ざるを憾むものである。
次頁 中佐の片影・其十四 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から