あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

丹生誠忠 『 正義の爲、身命を賭して働く 』

2021年12月13日 05時40分32秒 | 丹生誠忠

あんぱんで餓えをしのぐ
宿舎に帰り 夜が明けかかったころ、
警察のお巡りさんが立退きの命令を伝えて、
「 いよいよ危ないから、手回りの物を持って気をつけて立退くように 」
と 回って来ました。
それで皆が手荷物をまとめ始め、避難の準備にかかりました。
それにしても、やっぱりどちらにひいきするということはありませんが、
自分のところに来た人は、初めは良い悪いということは判りませんでしたが、
一日でも二日でもお世話・・・・と言ってもべつにありませんが、
いっしょの所にいますと、何だか情が移ると申しますか、
ホテルにいらっした方のほうがいいような気がしましたし、
丹生さんからもいろいろお話をうかがって、
この方たちの考え方も判りましたので、みんな比較的安心していました。
私も人間が少々変っていますので、
もし戦争が始ったら機関銃やなんか撃つのを見てみたい、
などと思ったものです。
それよりも、誰もいなくなっては、兵隊さんたちはホテルの様子も判らないし、
どうも食事も満足に出来ないのではないかと心配になりました。
二十八日の夜なんかは丹生さんが、ご自分のお金でアンパン等を買って、
部下の皆さんにあげていらっしゃいました。
ホテルの方からも、ちょいちょいおやつを出しましたが、
書付にいちいち、几帳面にサインをなさって、
「もし 軍隊の方で払わないといったら、家に取りに行ってくれ 」
と おっしゃって、ロール巻とかカステラなどを、二回ばかり作りました。
一人前五銭ぐらいというので、その程度で二回お出ししました。
・・・伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1 

石原大佐と鈴木貞一大佐その他数人の参謀将校が憲兵を
引連れて部屋の中にやってきた。
そして石原大佐は 我々を見るなり 物凄い剣幕で、憲兵に向って逮捕しろと命じた。
その時、我々の知らない砲兵の大佐が石原大佐をおしとどめて、
おだやかな表情で、
「 皆さんを収容します。」 と 言った。
或いは 保護検束すると言ったのかその時の言葉をはっきりと覚えていない。
憲兵は一斉に行動を起した。
我々に手錠をかけたのである。
丹生中尉が悲憤やる方ない声で
「 手錠までかけなくても良いではないか 」
と 抗議したが、
そのような講義はすべて黙殺され、
ただ冷たい空気が流れて逮捕はすすめられた。
・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 


丹生誠忠  ニウ マサタダ
『 正義の爲、身命を賭して働く 』
目次

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行為に対し決して後悔はして居りません。
神様と同一心境にて為したるものと思って居ります
只正しき事は何百年何万年経っても、
正しき行いなりと信じて居ります

昭和維新 ・丹生誠忠中尉 

・ 丹生誠忠中尉の四日間 
・ 「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 
・ 丹生誠忠中尉 「 昭和維新は失敗におわった。 まことに殘念である 」 
・ 
丹生部隊の最期 

ものの一分とも待たぬうちに、何処からともなく丹生中尉が姿を現した。
かれは士官学校の同期生だが、
十月事件にも関係せずこうした事をする人間とは、わたくしは殆ど思わなかった。
「 やあ、どうだい 」
同期生の気安さで、二人はこんな挨拶から始まった。
自分は部下中隊を指揮して福吉町に来ているが、
それは行動部隊を敵として来ているのではなく、同じ第一師団長の隷下にある旨を告げ、
なお今後も連絡を密にする必要があると語った。
そして最期に冗談を混えてこう云った。
「 貴様らは随分贅沢だな。ホテルや料理屋に宿営して・・・・・」
「 まあそう云うなよ。地区隊命令でこうやっているのだから・・・・」
「 それは知っている。俺の方は電話局だよ 」
「 うんそうか、気の毒だな。共産党の蜂起に備えているんだが、左翼は何もできまい 」
先刻安藤の所で何気なしに聞いていたが、かれらは共産党の蜂起に備え、
警備を命ぜられていたのである。
これは事件関係の将校以下殆ど全員がそう信じていたのである。
・・・区隊から占拠部隊へ

あを雲の涯 (十二) 丹生誠忠 
・ 昭和11年7月12日 (十二) 丹生誠忠中尉 

丹生の死刑がきまったのち、
彼から ぜひ会いたいと連絡があったので、
私は代々木の陸軍刑務所に面会にいった。
彼はすっかり覚悟もできていたようで、頼もしい姿であったが、
「 岡田の伯父さんが生きておられたことをずっとあとできいて、私はホッとしました。
冥途への道の障りが一つ減った感じです。
どうぞ長生きしてくださるように伝えてください 」
と いった。
私は許されるなら彼に抱きつきたい衝動を感じた。
・・・岡田の伯父さんが生きておられたことをできいて、私はホッとしました 


岡田の伯父さんが生きておられたことをできいて、私はホッとしました

2021年08月21日 11時08分21秒 | 丹生誠忠

叛乱軍のなかで、
陸軍省、陸軍大臣官邸を襲撃した部隊の指揮官は、
丹生誠忠中尉であった。
これは私の母の妹の子、すなわち私にとっては従弟にあたる。
従弟のなかでもその父親は岡田総理とも親しい海軍大佐であった。
親ゆずりの性質のよい、立派な青年だった。
私たちはもちろん彼が叛乱軍に投じていようとは夢にも思わなかった。

丹生誠忠中尉
二月二十六日午後、
私が宮内省にいっているとき、彼は官舎に電話をかけてきて、
妻の万亀を呼びだして、
万亀子さん、ずいぶん驚いたでしょう。
しかし、もうこれ以上なにもおこりませんから安心してください。
お父さんには、ほんとうに申訳ないと思っています
と いってきた。
妻は
「 あなた いまどこにいるの 」
と きくと
「 陸軍省にいる 」
とのことだった。
そのころはまさか丹生が叛乱軍の一味とは思いもかけないし、
陸軍省が占領されていることも想像さえしなかったので、
妻は彼をこちらの味方と思い、
早く官邸を占領している兵隊たちを追払ってほしい
と いったそうである。
丹生は、
「 久常さんや あなたや お伯母さんには
なんら危害を加えることはないから大丈夫ですよ 」
といって 電話がきれた。
このときのことをいまでも妻は、
「 あのときもし、私がお父さんは生きていらっしゃるのだから、
なんとか助けだしてよといったら、どうなっていたかと思うと、思うだけでもぞっとしてしまう 」
という。
相手は近い親類だし 味方とばかり思っているときなのだから、
この話をしなかったということのほうが、むしろ不思議である。

この丹生中尉は、その年の正月、私の官舎に年始にきた。
そのとき官邸に伯父さん ( 岡田総理のこと ) が いらっしゃるならお目にかかってゆくというので、
官邸の方にやって総理にあわせた。
総理は機嫌よく会った。
そのあと官邸をみたいというので、官邸の人が案内してまわり、
総理の居住区たる日本間から総理の事務所のある本館への通路などをみてまわった事実がある。
事件後 これは彼が官邸のなかを偵察にきたのだといわれたが、
そのときはもちろん想像もしていなかった。
しかし、さすがに事件当日は彼は官邸をさけて陸軍省を担当したのは、
その心持が判るような気がする。
 
岡田啓介総理大臣
二月二十八日 岡田総理がやっとの思いで参内した日の夜おそく、
総理は私に
「 丹生が叛乱軍のなかにいるんだな 」
と いうので、
私が
「 どうも申訳のないことです 」
と 答えると、
「 懲戒免官が発命されてしまっては仕方ないな 」
と 哀しげにいったときの総理の人情味を印象ふかく覚えている。

同じ年の七月、丹生の死刑がきまったのち、
彼から ぜひ会いたいと連絡があったので、
私は代々木の陸軍刑務所に面会にいった。
彼はすっかり覚悟もできていたようで、頼もしい姿であったが、
「 岡田の伯父さんが生きておられたことをずっとあとできいて、私はホッとしました。
冥途への道の障りが一つ減った感じです。
どうぞ長生きしてくださるように伝えてください 」
と いった。
私は許されるなら彼に抱きつきたい衝動を感じた。

栗原中尉
そのとき丹生は、栗原中尉にも会っていってくださいというので私は会った。
栗原中尉は私に
「 迫水秘書官、私はあなたにほんとうに見事にだまされました。
このことをあなたに申し上げたいと思っていました。
はじめ総理生存のことをきいたときには、
あなたのことを思い出してある感じを禁じ得ませんでしたが、
いまでは罪が一つでも少なかったことを喜んでいます 」
と いった。
私は恩怨をこえた、
人間としての複雑な感慨に打たれつつ刑務所の門をでた。

迫水久常 著  機関銃下の首相官邸 から