あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中橋部隊

2019年05月20日 18時43分32秒 | 中橋部隊

勝つ方策はあったが、
あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、
身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり
 ・・・
勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし 

宮城占拠計画は、
中橋が一部の門をできれば確保するというにすぎないもので
全面占拠計画などはなかった。
2月22日、青年将校は謀議し、
中橋の任務は
「 為し得れば宮城坂下門に於て奸臣と目する重臣の参内を阻止すること 」 とし、
24日に 「 前記坂下門に於ける重臣阻止の任務を決定 」
そして、その通り実際に警備にあたったが怪しまれて脱出した ・・・筒井清忠


清原 
私の任務はともかくも 屋上に駆け上り、機関銃座をつくり、
そして間近に見える宮城の森の中で、
小さい光による信号が現れるのを待つ事でした。
それが今お話のあった宮城占拠計画なのですね。

その信号があったら、鈴木侍従長を襲撃してからすぐ駆けつけてくるだろう安藤大尉に報告する手筈。
それで大尉達は宮城へ堂々と入って行って占拠する。
維新の成功は、その時決まるわけでしたが・・・・。

常盤  警視庁襲撃に四百名以上が割当られた意味もそこにあるわけなんですね。
磯部、栗原といった急進派が何故、強引に宮城内に入ってこれを占拠し、昭和維新を迫らなかったのかが、大変に疑問に思えるわけです。
清原  天皇に直諫を迫らなかったのか、という意味ですか。
だとすれば、そんなことは考えてもみなかった。と お答するしかありませんね。
というのは、さっきも話に出ました本庄侍従武官長の存在が大事なのです。
本庄さんが天皇に上奏して、その御内意をうけたら、それを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する、
中橋中尉が私に連絡して、我が歩三の大部隊が堂々と宮城に入り、昭和維新を完成する、
これが予め組んだプログラムだったんですよ。
つまり中橋さんは連絡係。
万が一の場合は守衛隊司令官を斃すことは覚悟していたでしょうが。
しかし、基本は統帥命令で動くということです。
天皇から侍従武官長へ、武官長から中橋中尉へと。
「 だから、お前、大丈夫だよ 」 と 言うのが、蹶起直前の安藤大尉の話でした。
池田  だから、吾々は川島陸相に決起趣意書を読上げ、昭和維新をやって下さいとお願いしたんです。
それをうけて陸相が陛下に奏上し、輔弼の責任を果たす、それが正道だと・・・・。
常盤  私は、そう思っとったです。
清原  安藤さんはは少なくともそう判断しておりました。
宮城占拠計画も、つまりそれをやり易くするため、雑音を入れないためのものです。
本庄さんが天皇に奏上し、許しを得て川島陸相や真崎さんをさっさと参内させる。
そうして磯部さんから何まで全部ゾロゾロと宮城内に入る予定です。
ところが、陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。
陸相や真崎さんは、待てど暮らせど 本庄さんから連絡がないから、自分の方からは動かない。
今の大臣の連中と同じです。総理から電話がなければ、自分からは動かない。
本当は積極的に動くべきだった。
・・・
生き残りし者 2 宮城占拠計画 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」 

中橋部隊
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・ 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 1 
中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 2
・ 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 3 
中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 4 
・ 中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 1 
中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 2 
・ 今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」 
今泉少尉 (2) 「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 
・ 
中橋中尉 「 警視庁の蹶起部隊から連絡がある、受信したら報告せよ 」 
・ 「 中橋中尉を捕まえてこい 」 
・ 
田中勝中尉の宮城参拝と中橋基明中尉の宮城赴援隊 

昭和十一年二月二十六日
中橋基明中尉の行動

高橋邸は現在の南青山一丁目、高橋記念公園である。
当時の青山通りには市電が走り、対面は大宮御所だった。
大宮御所には皇宮警察と近衛の守備隊が警護にあたっていた。
中橋はそれを承知で通り 軽機を二梃据えている。
びっくりしたのは先方である。
 
「 午前五時十分頃、細田警手は青山東御殿通用門に勤務中、
高橋蔵相私邸東脇道路より、将校一名・下士官二名が現れ、将校が同立番所に来て、
『 御所に向っては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 』 と 挨拶した。
細田警手は言葉の意味が解らず、行動に注意していたところ、
同将校は引き返し、道路脇で手招きして着剣武装した兵約一個小隊くらいを蔵相私邸に呼び寄せ、
内 十二、三名を能楽堂前電車通りに東面して横隊に並べ、道路を遮断し、軽機二梃を据え、
表町市電停留所にも西面して同様に兵を配置し、他は蔵相邸小扉立番中の巡査を五、六名で取り囲み、
十数名が瞬間にして邸内に突入した 」
・・皇宮警察史
その後、邸内より騒音が聞こえ、銃声が七、八発したと同書にある。
まず鮮やかな手際ではあるが、
わざわざ軽機を目立たせた意図は明白である。
異変の出来を皇宮警察を通じ、守衛隊に知らしめる為に他ならない。
もし 隠密裡にことを達するつもりなら、銃を使用せずとも討ち取れる相手であろう。
高橋蔵相は齢八十二の老人であった。実際、襲撃は完璧に近いものであった。
護衛警官 玉木秀男に軽傷を与え軟禁し、所要時間わずか二十分たらずであった。

「 午前五時十分頃大蔵大臣を斃して門前に集合、爾後突入部隊は中島少尉指揮し首相官邸に向ひ前進す。
自分は途中に停止しありし控兵を引率し宮城に至る途中、伝令を以て日直指令 近歩三の南武正大尉に、
帝都に突発事件発生したる為 非常と認め直に宮城に至る、と 通報しました 」 ・・・中橋基明供述


「 赤坂見附を過ぎ半蔵門に参りました。
其処で中橋中尉は私に 「 門を開けて貰って来い 」 と 命じましたので、
私は皇宮警手に 「 正門の控兵だから開けて呉れ 」 と 申しますと、間もなく門は開きました。
中橋中尉は蔵相邸襲撃とは全然関係ない私の小隊のみを指揮して歩調をとり 堂々とはいり、正門衛兵所に参りました。
中橋中尉は私に対し 「 お前の小隊はこれへ入れ 」 と言ひますので、
其のとおり衛兵控所に兵を入れました 」 ・・・今泉調書

「 『 明治神宮に参拝の途中、突発事件に遭遇したから緊急事態と考え、派遣隊として来た 』
と、中橋中尉が一隊を率いて到着したので、宮城内へ入れた。
司令官に報告して許可を受けるのが本当だろうが、突発事件ということで、緊急を要すると判断、
第七中隊が控兵であるのも知っていたから、何の疑いも持たずに入れた 」 ・・・半蔵門分遣隊長 小谷信太郎特務曹長
桜田豪と午砲台
宮城内に入ると中橋中尉は私に、
「 長野は手旗を持ってすぐ連絡に当れ、警視庁の屋上から蹶起部隊が連絡してくるので、受信したらすぐ報告せよ 」
と 言って別の方面に立去った。
私はすぐ警視庁のよく見える桜田門の附近に立って連絡を待った。
他の隊員は、今泉少尉と共に控所付近において待機に入った模様である。
私は一人 寒い雪の上でジッと連絡を待った。
警視庁の屋上は静かで人影は見えない。占領はどうなっているのか。
しかし いずれ兵隊が現れて手旗信号を振りはじめるものと ジッと見つめていた。
・・・「 警視庁の蹶起部隊から連絡がある、受信したら報告せよ 」


警視庁を占領した歩三の野中大尉は、清原少尉に命じて、
第三中隊の兵約四十名で軽機関銃二箇分隊、小銃二箇分隊を編成して屋上を占領させたが、
その時清原にもう一つの命令を出した。宮城よりの信号を受けよ、というのである。
清原は横に信号用の手旗を持った少数の通信兵を置いて、正面の宮城を睨んで立った。
ところが、いくら待ってもこの信号が見えない。遂に待ちぼうけだった・・・清原康平少尉

守衛隊控所前に休憩した第七中隊の下士官兵は、折から警視庁を包囲している野中部隊を濠越しに遠望した。
「 正門控所の所で中橋中尉が 『 休憩 』 と 言った。一時間以上そこで休憩した。
裏の土手に上ると警視庁を軍隊がバリケードで囲み、兵隊がウヨウヨして居た。
おかしいなあ、何かあったのだろうか、と 思った。
吾々は銃を控所の前に叉銃しておいたが、控所の中に入っても休んだ 」 ・・・伊藤健治一等兵

「 土手に上って外を見た。警視庁は着剣の兵隊に囲まれ、警官は一人も外に出られないありさまだった。
道路の要所要所には有刺鉄線のバリケードが張られ、
砂袋で陣地を作り、その上に重機関銃が据えられ、兵も据銃していた。
何故このようなことをするのだろう、敵は一体誰で、何処に居るのだろうといった疑問を持った 」 ・・・宮本上等兵
 ・
「 午前六時、守衛隊司令官門間少佐の処に到着、直に坂下門警備を願出て午前七時半頃坂下門を警備しました。
門間少佐は何等疑ふことも無く、只少し早過ぎる位に思はれたと判断しました 」 ・・・中橋調書

二月二十六日  雪

一、午前五時五十分 日直士官 大島大尉、
警備司令部より
「 安藤大尉の指揮する約五百名の部隊 重臣達を襲撃中 」 なるの報に接す、
師団は禁闕守備の完璧を期する為非常御近火服務規定に基き直に非常配備に移る。
・・・「 二月二十六日至二月二十九日、近衛師団行動詳報 」
・・・事件後、近衛師団長橋本虎之助中将名で作成した 経過報告書の第一頁に記載

「 まだ夜の明けない頃だった。
今井中尉と二人で何か話合っているとき、高橋さんの屋敷の方向から突然銃声が聞こえた。
今井中尉は、「 空包にしては硬い感じだな。大野伍長、お前行って様子を見て来い 」 と 私に云った。
兵二人を連れて着剣で駈足で銃声のした方向に行ったが、高橋邸前までは二分間ぐらいだった。
高橋邸の前は発煙筒の刺戟的な臭いだ立ち込め、臭くて近寄れなかった。
門の傍に巡査が一人立っていたが、門の左側の柱に血がついていたように思う。
ただならぬ気配に駈足で引返し、今井中尉に 「 大蔵大臣の家がおかしくあります 」 と 報告した。
すると今度は後ろの方で銃声が鳴った。
今度のも空包とは思えない 硬い銃声だった。たぶん斎藤邸ではなかっただろうか。
その前後だったと思うが、今井中尉が、ああやったなと呟いた
それを聞いて私は咄嗟に今井中尉はこの出来事を前から知っていたな、と 感じたので、
確か 「 中尉殿は、知っておられますか 」 と訊いたように覚えている。
そのとき今井さんが何と答えたかははっきりしないが、とにかく詳しいことは別として何か知っているなという感じだった。
その報告をした後が大変だった。今井中尉の命令で、私はすぐ守衛隊司令部に電話した。
中尉が 「 大野伍長、半蔵門にも掛けておくように 」 と 言ったような気がするから半蔵門にも電話したと思う。
電話の内容は 「 変な事態が起こっているから宮城の門の出入りは注意するように。
宮城に入門させるのは警戒するように 」 と 言ったと覚えている。
今井中尉も、方々に電話していたように思う 」 ・・・大野亀一伍長

「 皇宮警手の報告で高橋邸前にいるのが近衛の徽章だと知り、中橋の指揮だと推察して、
直ちに宮城守衛隊に電話連絡させ、自分でも後から電話に出て、守衛隊司令部に
『 中橋中尉が何かやったに違いないから用心されるよう 』 通報した 」 ・・・今井中尉の回想 ・・・電話の相手は司令部の特務曹長

通報が終ってから直ぐ門間司令官より電話が掛り
「 近歩三の日直指令に連絡したところ、
『 中橋中尉は 今朝早く明治神宮参拝に行くと云って兵を連れて出ている。高橋邸に関係は無い筈 』
という返事だ 」 と言う。
次いで又連絡があり、
『 中橋中尉は明治神宮参拝の途次、高橋邸に異常を認め、目下、附近を警戒中 』
の通報を受けた 」 と言う。

「 半蔵門には普段は司令が居ないが、中橋中尉が到着した時、
小谷特務曹長が何かの都合で偶々そこに居合せたのだろう。
半蔵門を開くのは門間司令官の許可をとるのが普通だが、
緊急事態だし、中橋の第七中隊が控兵と分っていたので直ぐ門を開けて入れたのだろう。
中橋は赴援隊長として半蔵門からすんなりと正門衛兵所に到着することが出来た。
その時、門間司令官と私は室内に居た。もう起床している時間だった。
中橋が 『 赴援隊到着しました 』 と 司令官に報告すると、
門間司令官は 『 ああ、よく来てくれた。ご苦労さん 』 と その労をねぎらった。
赴援隊が入ってくるなど滅多に無い経験だった。
私達は中橋に感謝の気持を持ったように記憶している 」 ・・・正門儀仗衛兵司令・中溝猛大尉

「 それから守衛隊司令官門間少佐に到着の事を報告しますと、
少佐は 『 お前は中溝大尉と共に坂下門に行け 』
と 言はれましたので馳せ付け、附近の状況を視察しました。
守衛隊司令官門間少佐に初めて出会った時当然今迄の事件を報告すべきでありましたが、
当時私は気を呑まれまして ドキドキし 前後をよく覚へない様な情況でありましたので、
其の重大事件を報告する事を忘れて居りました。
之れ 私の平素の精神修養の足らない所でありました深く申訳がありませんが、
然し別に悪気があって報告しなかったのでは絶対ありません 」 ・・・今泉調書

「 私と斎藤一郎特務曹長以下約七十五名で坂下門の配備に着くことになった。
坂下門の配備は近衛師団の非常配備の中でも極秘中の極秘で、もちろん私にとっても初めて見るものだった。
規準通りに機関銃を備えつけたりするのを眺めて、ははあ、なるほどな、と 思ったものだ。
普段 皇宮警手がいる部署を、軍隊の物々しい非常配備に変えたわけだ。
そういえば 下士官が重臣の顔写真を持って来ていた。
すごいのが部下に入っていたのに知らぬは小隊長ばかりだったわけだ。
自分の外套には三銭切手がどこかに付いていたが、いつの間にそれを付けたのか記憶に無い。
こうして控兵が坂下門の非常配備に着いたというのは、中橋がその第一目標を成功させたということになる。
中橋のその後の態度が曖昧だったのは、坂下門警備成功の安堵感もあったのではないか 」 ・・・今泉少尉

先に守衛隊司令部には中橋中尉が単独で入り、今泉少尉以下の兵は待機していた。
中橋が一人で行ったのは赴援隊の指揮者として門間司令官に到着を報告に行ったのであって、
今泉は なにぶんの後命があるまで、控所 ( 司令部と同一建物内 ) の儀仗衛兵副司令室に同期の大高少尉を私的に訪ねたようである。
司令部には、司令官室、司令室、副司令室と各個室が奥から手前入口に向って並んでいる。
中橋中尉は司令官室に入って到着の報告をする。今泉少尉は副司令室に入って大高少尉と会う。
「 控所に飛込んで来た今泉は 『 とんでもないことをしてしまった 』 と 言って男泣きに泣いたものだ。
何をしてしまったのか、それだけは分らなかったが、私は 『 やってしまったことは仕方がないではないか 』
と 言って慰めたように憶えている 」 ・・・大高少尉・47期

だから、大高の部屋には彼だけしかいなかった。
それで今泉が同期生の親しさで 「 とんでもないことをしてしまった 」 と大高に半分告白的なことを云って泣いたのであろう。
今泉少尉は、記憶がまるで無いと言う。
一方、司令官室には門間司令官の他に中溝司令も居て中橋の赴援隊到着報告を聞いた。
すぐさま緊急手配にかかることになり、中溝司令はその連絡のため直に司令室から外に出たと思われる。
「 私達はさっそく横の連絡が必要となる。赴援隊が来たからには皇宮警察との配備上の打合せがあり、
緊急配備につかねばならぬ。そのため電話連絡、伝令、巡察による連絡とテンヤワンヤの状況になる。
中橋の到着後、私が何をしていたか記憶にないが、おそらく儀仗衛兵司令として皇宮警察との連絡や緊急配備の指揮をとりに、
衛兵司令部を出たり入ったりしたにちがいない。
巡察もしたかもしれないし、坂下門にも行ったように思う。
何だかひどく忙しかったように思っている 」 ・・・中溝大尉
門間司令官はどうしていたかというと、彼は奥の司令官室に居て、電話で各控所に命令連絡をしたり、
各方面から俄かに掛かって来る電話を受けるなど当面のことに忙殺されていたと思われる。
ところが、中溝大尉と門間少佐は、この時点の行動から、後に一部の誤解を受けることになった。
大高少尉も巡察や連絡に出た。
それは今泉少尉が副司令室を立去った直後で、中溝大尉に命令されたのかもしれない。
「 私は非常手配をする為に司令部を出た。
例えば一人の立哨は二人にしたり、普段の立哨しない場所に衛兵を置いたり処置しなければならなかった。
これでいいかと考えているうちに呉竹寮 ( 照宮居住 ) に配置することを忘れていたと思い出した。
呉竹寮は普段は兵を置いていないが非常事態だから省くわけにはゆかず、
兵が来る迄一時間ほど私がそこに立哨していた。
それから二重橋に兵を配置した。
一箇分隊を宛てることにしたが、二重橋前に出したものか、二重橋裏にしたものか考えたが、二重橋裏に配置した。
こういうことで一時間か一時間半を要した 」 ・・・大高少尉

中橋の到着が六時頃として、
それから十分ぐらいして中溝司令の命で大高がこのような処置をして回るのに

一時間を要したとすれば七時過ぎまでかかり、一時間半とすれば八時近くまでかかったことになる。
大高の留守に、門間司令官は、中橋中尉の希望通り待機していた第七中隊の赴援隊を坂下門の警備に命じた。
これは赴援隊が宮城に入ったときの規則であった。
そこに中橋の狙いがあったのである。
こうして第七中隊の兵は配備に就いていて待機場所からは散っていた。
そのころ守衛隊司令部に掛かって来る外からの電話は事態の輪郭と重大性を刻々と伝えた。
午前七時から八時迄の間といえば、よほど襲撃の模様がはっきりとして来る。
だが、情報では高橋邸を襲撃したのが中橋とはまだ明確に分っていなかった。
高橋蔵相邸襲撃隊は中島莞爾少尉に引率されて首相官邸に引き揚げているので、
当局がこれに眼を奪われたということもあろう。
外線電話は門間司令官と副司令片岡栄特務曹長とが受けていたと思われる。
特務曹長の正門副司令は司令部の事務も担当する。
その下には大隊本部から派遣された書記の曹長又は軍曹が居る。
この時になって門間少佐には、おそらく中橋に対する不安が生じたと思う。
即ち 中橋が革新将校と交際している要注意人物であること、彼が予想外に早く兵を連れて宮城に到着したこと、
等である。
いまにして門間には危惧が生じて来た。
目下坂下門附近で、自分の指揮下に入って第七中隊を指揮している中橋に不安を感じた門間は、
片岡特務曹長に云いつけて中橋を呼び戻しにやらせた。
この時は大高少尉も巡察にでて司令部に居らず、中溝大尉も恐らく連絡に出て、居なかったであろう。
片岡特務曹長は、中橋を求めて坂下門の方に行こうとした。
ところが、中橋は午砲台附近の石垣の土手の上に一人で立っていた
その時の中橋は両手に信号手旗を持って直ぐ真向いの警視庁の方に向かい、
何やら信号めいたものを送ろうとしていた。
特務曹長は中橋の後ろから組みついて両手を押さえこんだ。羽交締めの恰好である。
中橋の挙動の意味は分からないが、警視庁を取り巻いている部隊に何か合図をしていると思って、
とにかく危険と考えて押し止めたのであろう。彼は中橋を引き摺るようにして土手から下ろした。
「 当日早朝、宿直副官の大尉から大久保にいる副官の加納栄造少佐を側車で迎えに行く様に云われ、
同少佐を側車に乗せて大久保の自宅から近衛師団司令部に一旦運び、再び側車で守衛隊司令部に運んだ。
夜が明けて間もない頃だったと思う。少佐の任務はよく分からないが守衛隊の視察だったのではなかろうか。
乾門から入って車寄せを過ぎ、鉄橋 ( 二重橋の奥側の橋 ) の手前で、側車が動かなくなり歩いて行ったが、
その時正面の午砲台にある土手の上で揉み合っている二人の影を見た。
そこからは誰だかよく見えなかったが、一人が手旗で何か信号を送ろうとしているのを、
一人が羽交締めにして抱き止めていた。
近づくと手旗で信号を送ろうとしていたのは中橋中尉で、抱き止めているのは自分と同郷の片岡栄特務曹長と分った。
私達がその傍に行く前に、二人とも土手を下りて守衛隊司令部の中に入って行った 」 ・・・近衛師団司令部付・山崎勇軍曹

守衛隊司令部に連れ戻された中橋はどうしたか。
門間司令官はちょうど巡察から帰った大高少尉に命じて中橋を再び外に出さない様に監視を命じたと思われる。
中橋中尉を入れたのは大高少尉の衛兵副司令の部屋であった。
隣の司令室はおそらく中溝大尉が連絡の為外に出ていて居なかったと思われる。
又 その次の司令官室には門間少佐が居たかもしれないが、
電話による連絡に忙しくて大高の部屋を覗きに来る間がなかったのかも知れぬ。
何れにしても、大高少尉はその個室で単独に中橋と向かい合わなければならなかった。

「 中橋中尉が入って来た時は、門間司令官も中溝司令も居なかった。
居れば私は上官の指示に従えばよいから中橋と直に対決することはない。
中橋は眼を血走らせ、ただならぬ様子だった。
私は三日前に、
「 歩一の林八郎少尉から木島に 『 実力では妨害してもいいが、筆ではやってくれるな 』
という 木島少尉 ( 近歩三・同期 ) の妙な電話を思い出し、

又先程の今泉少尉の口走ったこと、それにひっきりなしに鳴る十本ほどの電話の音で、
中橋中尉が大変なことをやり出したに違いないと覚った。覚ったというよりも推察した。
つまり、中橋中尉は宮城を占領しようとしているに違いないと思ったのだ。
中橋の日頃からの言動と、眼前の異様な態度から、かく判断した 」  ・・・大高少尉
中橋の宮城占領企図・・・大高はそう直感したのである。
「 中橋中尉は現在も同じ聯隊の上官である上に、嘗ての上官でもあった。
その中橋中尉が控兵中隊を率いて赴援隊として宮城に入ったからには、
私としてはその指揮下に入らなければならない。
だが、中橋の云う通りに従っていたら、それこそ大変なことになる。
そうはさせるものかと私は心を奮い立たせた。
上官の命に背くことになっても已むを得ない。自分の判断で行動するのが一番正しいと思った 」
 「 私は、隣の控所に居た兵五、六名を着剣させて連れて来ると、中橋中尉を囲ませた。
これには中橋中尉は意外だったらしいが、
私を睨み付け、どうしてこんなことをするのだ、と 怒気を含んだ声で私を詰問した。
私は、中橋が私のとった処置にだけ怒っていると分ったので、兵に銃から剣をはずさせて控所に引揚げさせた。
然し、もし、あの時中橋の反応や出方次第では、兵に、突け、と 命令するつもりだった。
兵は中橋を刺殺したかもしれない。 兵が部屋に居なくなった後は、中橋中尉と私だけとなった 」
「 中橋中尉と向かい合って、私はなんとなく拳銃を取出した。
中橋は 『 俺も持っているんだ 』 と 拳銃を出した。
私のは中型のモーゼルで、中橋のは大型のブローニングだった。
そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしてきた。発射して間もないことが分った。
何かをやったことは間違いない。私は愈々中橋に疑惑を深めた。
中橋は拳銃を出しただけで私を狙うようなことはしなかった。
私はなにか起りそうなら中橋を射つ構えだった。
中橋をその場で射殺しようとと考えたが、宮城内という意識から決心がつかなかった。
が、もし 中橋が不穏な挙動に出たら、発射するつもりだった。
然し、中橋の指はその前に私に向って引鉄を引いていたかも知れぬ。
そのような睨み合いの状態が暫く続いた。長い時間に思われた 」 ・・・大高少尉

二十六日午前八時半 中橋中尉の位置

「 その時私は何処に居たか はっきりしないが、
確かに大高少尉から、中橋が見えません、と 報告を受けた。
中橋は、便所に行きたい
、と言って出たらしい。
大高が追かけて 『 困ります 』 と 言うと、
中橋は 『 いや、外で門間少佐に断るから 』
と言い捨てて、スタスタと二重橋の方に歩いて行ったらしい。
大高の報告があったので、すぐ歩哨に問合わせると、今、そこを出て行きました、と言う。
歩哨迄は手を打ってなかった 」 ・・・中溝猛大尉

「 中橋中尉が 二重橋を出て行った時に雪がまた降って来た。
追って行った私は中橋を射つ好機だったと思ったが、遂に射たなかった。
退出する中橋中尉は勤務を放棄したのであるから、
そんな者にかかずらうより宮城警護の任務のが大切だと考えた 」 ・・・大高少尉

中橋中尉が
二重橋を渡って宮城を脱出したのは
午前八時半頃である。

「 午前八時半迄は守衛隊司令部に居りました。
内外の情況が全く不明なるを以て、連絡の目的にて単身宮城を出て陸相官邸に行きました 」 ・・・中橋調書

・ 
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 


中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 1

2019年05月19日 17時26分24秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊 中隊長代理
中橋基明中尉 ( 2 8 )
 
中橋中尉の昭和維新を、
鬼頭春樹 氏が、その著書 『 禁断 二・二六事件 』 で、
恰も再現ドラマの如く物語る

 
昭和十一年二月十九日 ( 水 )
中橋基明中尉 ( 28 ) は、この近歩三の兵舎三階の自席で一人机に向かっていた。
深夜のことだ。
部下の下士官兵たちはすでに就寝している。
「 ともかく昨日云われた計画は書き上げなくては ・・・」
中橋はうつむき一心に図面に向かう。
図面の下地はすでに出来ていて、
中央官衙かんがと主要道路の位置が、
東は宮城周辺から 西は青山御所に到る範囲で書き込まれている。
親友の歩一機関銃隊 栗原中尉が、歩一第七中隊長の山口大尉が作図したものを持って来たのだった。
山口は技術将校出身で地図の作図が得意だ。
その原図に中橋は手書きで線を書き加えて行く。
一本の線は、皇太后の住む大宮御所の界隈、
赤坂表町電停附近から、青山通りを直進し、三宅坂の交差点を左折、皇族が使用する半蔵門へと導かれる。
さらに半蔵門から宮城に入ると線は南下し、宮城の通用門、坂下門に到った。
さらにもう一本の線が三宅坂の陸軍省と参謀本部、あわせて省部と呼ばれる建物、
その裏手にある陸相官邸、すこし離れた場所に在る首相官邸、
それらから束ねられ、桜田門を通って坂下門へと伸びるのだった。
その線は宮城に入ると、宮内省庁舎を迂回し、宮殿の奥まった玄関、東車寄へと導かれた。
それら二本の線が交わる坂下門には大きな枠が書き込まれる。
「 これはダルマが赤坂表町の私邸にいる場合だ。
永田町の公邸の場合は別だが この図で充分理解できるだろう。
要は橋頭堡になる坂下門だ。
これを 「 坂下門秘密作戦 」 と しよう、S 作戦 だ 」
中橋は昨日から極端に口を利かなくなった。
駒場にある栗原中尉の自宅で謀議に加わってからのことだ。
そこで磯部浅一 ( 元一等主計 ) に命ぜられたことが 全身を氷の様に凍結させていた。

坂下門秘密作戦 を 公文書で唯一記録している 『 皇宮警察史 』 は、中橋の行動を 実に大胆極りなし と記す。
中橋の母方遠縁には江藤新平が起こした佐賀の乱で大隊長を務めた中橋一郎がいた。
今の中橋と同じ二八歳で戦死する。
それゆえ自分には叛逆の血が流れていると日頃から意識していた。
だが今回は場所が場所なのだ。
まかり間違えば、統帥権者の大元帥に弓を引くことになりかねない。
その重い意味が近衛将校の胸につかえた。
「 宮城で陛下に蹶起の本義を帷幄上奏いあくじょうそうするのだ。
だめなら自害してお詫びするまでのこと。
これは大元帥陛下に弓を引くことではない・・・」
自らそう言い聞かせると書き上げた見取り図に表題を記す。
「 S作戦--宮城武力上奏隊計画図 」

十八日 ( 火 ) の夜、重大なる謀議が歩一機関銃隊、栗原中尉の自宅で行われた。
この日に磯部が栗原と中橋に極秘の軍事作戦を提起する。
そして土曜日 ( 二十二日 ) には、この計画を聞いた歩三、安藤大尉が蹶起への参加を遂に決意するに到る。
まさに蹶起のターニングポイントとなる決定打だった。
憲兵が家の周囲を監視している。
目黒区駒場、帝都電鉄線の一高前駅で降りて徒歩十分、
松見坂に近い場所に栗原安秀 ( 27 ) は夫人と住んでいた。
軍人の父が建てた家の敷地内に別棟がある。
謀議には恰好の場だった。
この謀議には中橋基明は遅れて顔を出したのだ。
聯隊の夜間演習から駆けつけていたから軍服姿だ。
九時をとうに過ぎている。
「 S作戦 」 計画を深夜の兵舎で書き上げる前日のことだ。
村中孝次 ( 32 ) と安藤輝三 ( 31 ) がさきほどまでいたらしいが、既に辞去したあとだった。
磯部浅一 ( 30 ) だけが居残っている。
中橋以外は 「 鳥末 」 で 一杯やって流れて来ていたのだ。
「 クリ も モト も 聞いてくれ。安藤にとっては、結局、軍事作戦がすべてなんだ 」
「 安藤はどういう部隊行動をとれば、陛下の大御心を確認できるかと聞いているんだ。
あいつらしい現実主義だ。ダテに中隊長をやってはいない 」
安藤は慎重論をとる理由を先程こう説明していたのだ。
「 村中さんや磯部と違って我々は部隊の兵を連れ出すんだ。
同志であっても道連れにするからには大義名分がいる。それは蹶起が陛下の大御心に叶うことだ。
でない限り軍を私することになり、下士官兵を犬死させることになる。
五・一五事件のような将校だけのテロとは違うんだ、そこの苦渋をひとつ判ってくれ。 」
村中と磯部はこのとき 軍人ではなかった。
それゆえ 部下がいない と安藤が云う。
昨年八月に陸軍を追放され、免官処分になっていたからだ。
「 粛軍に関する意見書 」 を大量に配布したことから、軍内の統制の紊乱 に問われた。
免官処分は現代で云えば懲戒免職にあたり、退職金も恩給も支給されない。
見かねた同志の明石少尉が音頭をとって、給料の二%を生活保障として送金とカンパを募る。
後には歩一香田大尉に引継がれ、二人で二百円 ( 現在の貨幣価値で六十万円 ) 程度を毎月募金していた。
これで二人の行動と生活は賄まかなわれる。
 磯部浅一  帷幄上奏
磯部が右手を使い古しの度の強し丸眼鏡の鉄棒にやる。
得意顔で喋るときのクセだ。
「 オレの秘策を云うぞ!
蹶起の第一段階が終わった直後に宮城に武力で上奏隊を侵入させるんだ。
陛下の前で蹶起の本義を帷幄上奏するのだ。
陸相やお偉方の大将どもを人質に取れば、だれも妨害は出来まい。
陛下がお聞き取り戴けないなら宮殿で腹を切ればいい。
絨毯を血の川で染めてやる 」
磯部はツバを飛ばしながら興奮した口調で一気にまくしたてた。
栗原と中橋は顔が青ざめている。一言もなかった。
磯部は相変わらず不敵な笑いを浮かべて続ける。
そして声を落とした。
「 いいか、聞け。ここからがポイントだ!
蹶起の朝にモトの中隊が予め控兵に上番するんだ。
その上で仮面を被って 非常事態を知り、赴援隊として警備に駆けつけた と宮城に侵入する。
云ってみれば蹶起軍を秘匿する偽装赴援隊だ。
そして坂下門にモトが非常警備に赴いた頃を見計らって、オレたちが車列を組んで押し入るんだ。
車列はお偉方の護衛の名目で武装する。
主力は近衛兵だ。
クリ の機関銃隊も加わる。
武装兵が近衛なら宮城での警護の大義名分も立つ。
第二段階の帷幄上奏に成算があれば、安藤の歩三も起つ。
よーし、これで決まったぞ!」
蹶起軍が武力を背景に宮城に押し入り、天皇に上奏するという構想に、
栗原と中橋の二人は、その社会的波及の重大さを帝国軍人将校として瞬時に理解していた。
沈黙が流れる。
腕を組んだ磯部が中橋の顔を凝視する。
磯部は近歩四の経理経験もあり近衛の事情通だった。
「 モト、貴様の中隊が来週の火曜 ( 二十五日 ) から水曜に控兵に上番することを、いまから画策できるか 」
「 それは出来ないことではありませんが・・・・ただ・・」
中橋の答えは歯切れが悪いものだった。
「 我が中隊は すでに高橋蔵相を襲撃する事が決まっていますが・・・・」
と 云いたかったのであろう。
押し黙ってしまった二人を見ながら磯部は満足げに云い渡す。
「 この計画は誰にも云うな。お前たちはオレの指図で動くんだ。間違うととんでもないことになるぞ。
くどいようだが御守衛控えの勤務割の件、頼んだぞ。その結果で蹶起日は柔軟に考えよう 」
磯部は肩をいからせて帰って行った。
中橋が深夜に近歩三聯隊で宮城近辺の地図を作成していたことは、
安田正特務曹長が証言している。 ・・・ 「 中橋中尉を捕まえてこい 」 
では、中橋はいつ磯部から 「 S作戦 」 の指示を受けたのか。
判決文では 二十二日 ( 土 ) 栗原宅での謀議で蹶起の基本的な構図が初めて決まったとされる。
この場に中橋がいたかどうかは別として、それはいわば決定の場であって、
磯部からのアウトラインが提示されたのは、もっと前であろう。
それ以前で二人が顔を合わせるのは、公にされている限りでは十八日 ( 火 ) の栗原宅の謀議しかない。
公判調書では 被告も之に出席したのではなかったか と問われ、
午後十時頃、栗原中尉宅に行き、栗原から大体のことを聞いただけ と中橋は答えている。
そうとは思えない。
磯部が栗原宅に一人居残り、そこへ中橋が遅れてやってきたのではあるまいか。
磯部が帰ったあと、直に中橋も栗原宅を辞去する。
渋谷から赤坂一ツ木の聯隊まで市電に乗るため、人気のない道をトボトボ歩く。
後ろから憲兵がついてきた。
「 危険な任務を一緒に遂行できる同志が はたして聯隊内にいるだろうか。
宮城内に押し入る部隊行動をたった一人で指揮できる訳がない。
しかも蔵相の襲撃も合わせてとなると・・・・」
古巣とはいえ近衛師団に着任してわずか一ヶ月の中橋には、その目算が立たなかった。

雪の日の早朝に企てられた 「 S作戦 」 の基本的な性格は、
宮城の占拠ではなく 軍事力を背景にした宮城への帷幄上奏であったと思われる。
明治憲法第十一条、統帥権の規定の一角に帷幄上奏が位置する。
この古めかしい言葉は、
閣議決定を経ることなく 陸軍参謀本部や海軍軍令部が統帥権者である天皇に直接上奏する行為を謂う。
但し 帷幄の文字は明治憲法法条文にはない、参謀本部条例や軍令部令にあるにすぎない。
皇宮警察史には 「 S作戦 」 が明確に記されている。
「 中橋中尉は、高橋蔵相邸を襲撃したのち、二箇小隊を率い、守備隊の応援と称して宮城に入り、
坂下門に配備して、参内する重臣等を同所に於いて阻止し、反乱軍の上奏隊の宮城入門を誘導し、
且 援助しようとしたのである 」
ここには重臣の参内の阻止とともに、
帷幄上奏隊を支援誘導する目的があったことが明確に語られている。
但し 当初計画では全体で二箇小隊が宮城に入る作戦だったが、
実現したのは、中橋中尉指揮の一箇小隊六十二名だけであった。
だが 「 S 作戦 」 の真実は、軍法会議で秘匿され封印されてしまった。
軍法会議の隠蔽を裏付ける証言がある。
近衛文麿のブレーンとして知られ、新聞記者を経て戦後は政治評論家として活躍した岩淵辰雄は
二・二六事件は、これまでの事件の中で、最も不可解とした上で、
戦時中、昭和二十年四月の憲兵隊係官との会話を戦後になって次の様に記す。
「 二・二六事件をどう思うか 」 と云うから知らないといったら、
「 それは判らないだろう、世間に発表したのは、あれは拵こしらえたものだから、
ほんとうの真相を知っている者はないはずだ 」
これは恐らく不用意に云ったことだろうが、このちょっとした断片によって窺知きちし得らるるように、
二・二六事件としてこれまで世間に公にされたことが、実は 陸軍の首脳と憲兵隊とで捏造され、
歪曲されたもので、ほんとうの真相ではなかったのである。 ・・岩淵辰雄 『 敗るゝ日まで 』
ここには軍事法廷で、軍権力の手で組織的に真実が捏造され、歪曲され、隠蔽封印されたことが、
憲兵隊の口から仄めかされている。
そうした 拵えたシナリオを具体化する場として 暗黒裁判 が要請されるのだ。
三月四日に天皇臨席のもと 枢密院で、
緊急勅令 「 東京陸軍軍法会議に関する件 」 が可決成立、即時交付施行される。
こうして東京陸軍軍法会議が二・二六事件の軍法会議として成立する。
これは陸軍軍法会議法が定める 「 特設軍法会議 」 にあたった。
本来、この規定が適用されるのは戦時中や戒厳令が布かれている地域など、
あくまで応急で臨時の法廷を想定した特別措置にすぎなかった。
その形式を借りて二・二六事件は裁かれる。
軍法制史家、北博昭はこれを 見做し特設軍法会議と呼ぶ。
こうしてドサクサに紛れて 暗黒裁判 を行う基盤が整ったのだった。
その意図は明白だ。
「 その行為たるや憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭に悖り、国体を汚し、
その明徴を傷つくるものにして、深くこれを憂慮す 」 ・・本庄日記
という、天皇の意志を背景に、全てを闇に葬り去ろうとしたのだ。
特設軍法会議では弁護人もなく非公開、一審のみで公訴上告はおろか裁判官の忌避も認められない。
「 軍法会議は暗いものだった。そこには軍司法の権威はなかった。
歪曲された軍に屈従する軍法の醜態であった 」 ・・大谷啓二郎 『 二・二六事件の謎 』
ある判士によれば、心構えとして こう指示された。
「 一つだけ記憶に残っているのは、判士は予審調書をシッカリ読め ということでした 」 ・・保坂正康 『 昭和陸軍の研究 』
判士たちは旅館に籠り、倉庫の山積みになっていた調書を読むことに没頭したという。
つまり 軍首脳陣が 拵えたシナリオ によって予審調書がすでに作成されており、
その指し示す方向性に従って判士たちが行動することが要請されたと云えよう。

「 五月四日の公判の時だ。決まりきった審理が進行することに堪えかねて澁川善助が叫んだ。
『 裁判長殿、裁判官は吾々を始めから反乱罪と云ふ型の中に入れようとして調べて居られるが、
それは何たる事ですか。そんな出鱈目な事をすると云ふことは、陛下の御徳をも汚すものです 』 ・・磯部浅一 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
藤井法務官が 「 澁川、おまえは引っ込んでろ 」 と 怒鳴る。
被告席は騒然となった。
對馬立ちて裁判長に発言の許可を得て 『 こんな裁判は早く片付けて下さい 』 と云ふ。
安田立ちて 『 どうせ決まっている公判なんか早くやめて下さい 』 と云ふ。
軍事法廷で蹶起将校たちが蹶起目的を明確にした上で、
その本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏する 「 S作戦 」を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を国民に向けてアピールすることが危惧されたからだ。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、
軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねないではないか。
こうした危惧を払拭するために 拵えたシナリオ はこうだ。
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
但し この軍事法廷の性格は、甚だ複雑である。

二二日 ( 土 )、この日の中橋は非番だった。
中橋は 四谷区花園町に隠れ家を借りていた。
靖国通りから入った花園神社に程近い場所だ。
実家は世田谷区太子堂だが陸大受験のためと称してアパートを借りる。
いつもは一ツ木にある聯隊の将校室に寝泊りし、時折ここ 「 青葉荘 」 に籠る。
蹶起の準備だとは誰も思わない。
中尉時代に陸大を受験することは普通のことだから、周囲を騙しおおせていた。
昨日の夕刻、近歩三の将校室で中橋は第五中隊の中隊長から耳打ちされていた。
「 来週のご守衛控えだが、貴様の中隊に二五日の上番頼むぞ。いいな 」
中橋の画策が巧くいったのだった。
すぐさま栗原のもとへ走る。
一ツ木から六本木まで歩いても十分とかからない。
「 モト、やったぞ。天佑だ!」
栗原の声は弾んでいた。
上番が二五日 ( 火 ) 朝十時で、二十六日朝十時までの二十四時間の待機勤務だ。
正式な発表は週明け月曜日二十四日の午後だが、週末金曜には内定する慣行だった。

「 任務の一つは高橋蔵相の襲撃。
一つは宮城ご守衛控兵と偽った坂下門の警備だ。
このため中隊を二つに分け、それぞれに小隊長を割り振らなくてはならない。
第一小隊の蔵相襲撃は誰でもできるが、第二小隊の坂下門は近衛将校でなくてはならない。
軍装も控兵は通常の演習服とは違う。
第一小隊長はクリ に任せて砲工学校の中島莞爾少尉が務めることになっている。
オレの故郷と同じ佐賀出身で、明後日には近歩三の兵舎に来る手筈だ。
だが近衛の方はオレが決めるしかない。
これが定まらないと坂下門の偽装赴援隊は成り立たない、蹶起目前だというのに・・・」
近衛聯隊には同志将校がいない。
栗原からの電話が鳴る。
「 喜べ、テルさんが蹶起するぞ!」
栗原が押し殺した声で、しかし強く云いきる。
「 そうだ、今、イソさんから連絡が入った。
昨晩に続いて今朝、テルさんの自宅を訪れたら、
『 安心して呉れ、オレはやる、本当に安心して呉れ 』 ・・磯部浅一第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 
と 云ってイソさんの両手を握ったそうだ。やっと歩三が加わるんだ 」
安藤はこの日から週番指令を務める。
まさにその朝、蹶起することを決心するのだった。
中橋中隊が控兵に上番したことが功を奏した。
安藤はかねてから蹶起の建設的な側面にこだわる。
「 従来よりこの種の直接行動の成功しないのは、
ただ単に不義を撃つ、即ち君側の奸を除くという点のみで考え、
除いて而して後、如何なる建設をなすべきかという点は考えず、
むしろかかる事を企図する所謂大権私議に亘り、
吾々の同志としては猥みだりに口にすべきものではないとの気分横溢し、
要するに単純に君側の奸を除けばよい、その後のことは残っている正しい人が輔弼し奉ると考え、
その点に関する工作を無視したためであると思います 」 ・・松本一郎 『 二・二六事件裁判の研究 』
こうして安藤の二つの理由から 蹶起に成算ありと この朝、ギリギリで判断したのだった。
「 クリ、蹶起はいつになるんだ 」
「 控兵が下番になる二十六日の十時までに蹶起しないと折角のチャンスが水の泡になる 」
「 だとすると、下番になる二十六日の早朝か 」
「 そうだな。イソさんが急遽、今晩七時にオレの家で謀議をしたいと云って来ている。
そこで大枠が決まるはずだ。貴様は例によって遅れて来い。いいな、待っているぞ 」
周囲を意識してのことだろう、栗原の押し殺した声を聞きながら中橋は自分に言い聞かせる。
「 焦ってはならない、これからだ。歩三が動けば蹶起はまったく違う様相になる 」
誰の眼にも歩一や近歩だけで蹶起したとしても、単にゲリラ的なものに終ってしまうことが見てとれた。
歩三が参加しなければ、たかが五百名程度の部隊にすぎない。
とても襲撃先を継続して占拠するだけの人員とは成り得ない。
そこで組織的な規模の蹶起を実現するために、歩三の将校団には執拗な働きかけが行われたのだった。
それがやっと成就したのだ。
「 半蔵門から蔵相私邸や公邸まで何分位かかるか。下見をしておかなくては・・・」
赴援隊が宮城に入るのは半蔵門からと定まっていた。
だが蹶起当日、蔵相が赤坂表町の私邸にはいるのか、
それとも永田町の公邸にいるのか、この見極めが難しかった。
それ次第で半蔵門に至る所要時間が異なるのだ。
この夜七時から栗原宅で行われた謀議で蹶起の基本的な構図が初めて決まる。
出席者は 磯部、村中、河野、栗原だけで
歩三関係者がいなかったから、厳密に云えば、内定と言うべきかもしれない。
蹶起は二十六日 ( 水 ) 午前五時。襲撃占拠先の目標も決まる。
この時点では八ヶ所の同時多発襲撃占拠だった。
総理大臣官邸、内大臣私邸、蔵相公邸 或は私邸、侍従長官邸、警視庁、前内大臣滞在先、
陸相官邸、そして後にとりやめとなる元老西園寺の坐漁荘。
使用兵力は歩一、歩三を中心に近歩三、
それに砲工学校や所沢飛行学校、豊橋教導学校などから 約一六百名が参加。他に民間人が数名。
合言葉は 尊王討奸、 符号で帽子の裏に三銭切手を貼ることなどが決められる。
ちなみに判決文はこの謀議の場には中橋がいなかったとするが、
大谷啓二郎 『 昭和憲兵史 』 は いた筈だとしている。
松本一郎 『 二・二六事件裁判の研究 』 では、夜九時頃に遅れて参加し、決定事項を栗原から聞いたとする。
何れにせよ 「 S作戦 」 は歩一と歩三との連繋で行われた。
従って歩三関係者がいないこの夜には、議論が尽くせたとは思えない。
恐らくは二十四日 ( 月 ) の歩一での謀議で再度提起されたことだろう。
そしていささか揉めるのだった・・・・。
中橋基明を見る陸軍部内の眼は冷ややかなものだった。
蹶起に参加した現役軍人二十名を記載した身元調査票の氏名欄の脇に裁判官の手書きで書き込みがある。
『 陰性華美口舌能 』
ここには裁判官の嫌悪感が隠さず暴露されている。
殆んど同じ表現が東京地検の史料にもある。
『 性陰険にして明朗を欠き 口舌に巧にして外容の華美を好むこと甚だしく、
性行陰にして浮薄にして自尊心強く何事も自己一人の功績のごとく他人に誇る傾ありき 』

二十三日 ( 日 ) は終日激しい雪だった。
激しい雪は夕刻になっても止まなかった。
磯部浅一は終日、 「S作戦 」 について思いを巡らす。
四時半、し約千駄ヶ谷二丁目にある自宅に来客があった。
客は市川国府台の野戦重砲兵第七聯隊第四中隊、田中勝中尉 ( 25 )。
江戸川区小岩町の田中宅に突然、電報が届いたのは一時半前のことだった。
『 四時マデニ自宅ニテ待ツ イソ 』 ・・第17回公判調書
玄関には寒椿が一輪挿しで逝けてる。
ここ千駄ヶ谷に初めて妻と二人だけで所帯を構えた。
大田てじょん分屯隊時代に、現地の料亭で苦界へ身を沈める直前の日本人女性を救い、妻として以来だ。
既に七年が経過していたが、まだ内縁関係で、入籍は獄中時となる。
この日、夫人は出かけて 居なかった。
「 田中、来週水曜日に蹶起だ。朝五時に各所を襲撃するぞ 」
磯部と田中は同郷だ。
小学校教員だった田中の母が磯部の恩師だった関係から友情が深まる。
「 いよいよですね 」
「 おい カツ、トラックと乗用車を何台くらい出せる 」
カツこと田中に要請されたのは輸送任務だ。
野重七は砲兵聯隊。
馬では引けない重量級の榴弾砲、加納砲など最新鋭の野戦重砲を装備していたから、
機動性を売り物に自動化が進む。蹶起軍がこの部隊から車輌を調達するには、まさに好適だった。
「 乗用車が二台、軍用トラックが四台かなァ 」
「 運転手付きということだな 」
「 もちろんですけど、イソさん、首相官邸の車庫には、公用車の外車が唸っているらしいですよ 。
これも戦利品でどうです 」
「 トラックに重機関銃を積むのは大変か 」
「 まあ十分では無理ですが、二十分あれば可能でしょう 」
「 その時は人員が何人になる 」
磯部の質問は具体的だった。
「 軽機なら三十人は乗れますがね。重機だと二十人かな。どこか襲撃に使うんですか 」
「 まあね、今晩この後 歩三で謀議をするが、杉並の上萩窪で二次襲撃を考えている。
その場合、トラックで赤坂離宮から移動することになる 」
早朝の青梅街道を突っ走れば、三十分で行くだろう。
「 たったそれだけなのか・・・」
「 カツ、大事な話があるが、今日は話すにはまだ早い。
蹶起の日取りはこの後、歩三の週番指令室で謀議があってそこで正式に決まる。
そうなれば二十五日の夜、二十三時半、テルの週番指令室に来てくれ。
そこで詳細を話そう。貴様には重要任務を考えている 」
磯部浅一が蹶起軍総指揮官という訳でもない。免官になった民間人ゆえ、部下がいない。
徒手空拳だった。
強いて云えば田中中尉だけが指揮命令系統にあたる。
磯部は一時は田中と二人だけででも蹶起を考えたほどの気安い仲だ。
トラックに重機関銃を装備した兵士を乗せ、ヒット・アンド・ラン を各所で繰り返す。
それが磯部の考える蹶起でのゲリラ的遊撃戦術だった。
近衛兵が乗れば宮城内でも作戦が可能だ。
その唯一の部下とも云える田中に、磯部は 「 S作戦 」 の最重要任務を割り当てるのだった。
磯部は軍服に着替えると、田中と連れ立って自宅をあとにする。
雪が激しく降り注いでいた。風が強くなってくる。
門前の物陰にいた二人の憲兵が附く、いつものことだった。五時を少し回っていた。
省線の代々木駅に向かう田中と別れると、通りで円タクを拾う、行き先は歩三の週番指令室だ。
「 七時からの謀議の前にテルにだけは云っておかなくてはならないことがある・・・」

次頁 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 2 
に 続く


中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 2

2019年05月18日 06時15分59秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊 中隊長代理
中橋基明中尉 ( 2 8 )
 
中橋中尉の昭和維新を、
鬼頭春樹 氏が、その著書 『 禁断 二・二六事件 』 で、
恰も再現ドラマの如く物語る
前頁 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 1 の  続き

「 秩父宮殿下に話をすることにした。無論、蹶起後だ 」
安藤が驚いて手を止め、磯部の顔を凝視した。
「 森伝が清浦奎吾のじいさんを引っ張り出す。
熱海から出て来て陛下に拝謁するが、主目標は皇太后だ。
大宮御所の参殿拝謁して、蹶起の趣旨を丁寧にお伝えする。宮城の上奏隊のこともだ。
いずれ弘前から秩父宮殿下は上京されるだろう。当然、皇太后に会われる。
そのときに効果を発揮する上部工作の一環だ 」
「 イソ、仮に宮中での帷幄上奏が巧くいかないと、どうするつもりだ 」
「 腹を切るまでだ、それははっきりしている 」
「 イソ、歩三が宮城内に入る可能性があるのか 」
「 近衛兵なら宮城に入る要人の警護で説明できる。
歩三となると武力を背景にした威圧侵入の側面が強くなる。
オレが考えているのは、あくまで上奏隊の護衛で、宮城占拠隊ではない 」
「 坂下門は何時まで確保するんだ 」
「 宮城に入る橋頭堡だ、できるだけ長く確保したい。
そのときはモトの部隊に実弾配備が必要になるかもしれない。
坂下門だけは占拠の色彩が強くなるが、近衛師団がどう出るかとも関係する。
モトの中隊だけで近歩の全部隊を相手にはとても太刀打ちできない。
その時は歩三に援軍を頼むことになるが、状況に応じて臨機応変に考えるしかあるまい 」
「 イソ、秩父宮殿下の役割はどうなんだ 」
安藤は心配そうな口ぶりで尋ねる。
安藤が中隊長を務める歩三第六中隊は最強の団結力と謳われた。
安藤は部下を掌握する為、中隊に新兵が入ると百数十人の顔写真を手に、
名前と身上が一致するまで徹底的に覚え込むのだ。
剣術列伝から拾った 『 必死三昧、天下無敵 』 を看板にした中隊は 殿下中隊 と呼ばれていた。
秩父宮がながく在籍していたからだ。
「 テル、殿下が上京なさるのは蹶起から数日後だ。
それまでに陛下が御維新に同意なされば、殿下が上京され、それに賛同なさる闕て表明の参内となる。
これが理想だ。青山御所から参内なさる凱旋警護をテルの第六中隊に頼むことになるだろう 」
「 陛下が同意なさらないときは ? 」
「 腹を切るまでだが、殿下が陛下を説得しようとおっしゃれば話は別だ。
その場合は蹶起軍が全力を挙げて殿下を擁して・・・」

二月二十四日 ( 月 ) 夜七時、謀議が歩一の週番指令室で進められた。
蹶起を目前に謀議が連日持たれる。
何れも憲兵隊の監視を逃れるため、聯隊内で歩一と歩三で交互に行われた。
この日はとりわけ重要だ。なぜならこの場で蹶起が二十六日 ( 水 ) に確定したからだ。
それまでは二十五日 ( 火 )。
変更は二十四日の午後、中橋中隊が御守衛控兵に上番することが正式に決まったためだ。
この上番は 二十一日 ( 金 ) には内定し、
従って その翌日の二二日、夜の栗原宅の謀議で蹶起日も二六日に内定するのだが、
そのときは歩三関係者がいなかった。
子の事情を中橋は述べる。
「 二月二十六日と選定したのは二月二十四日頃、始めは二二日に二五日と決定しましたが、
二十四日になって二十六日に変更しました 」 ・・憲兵隊訊問調書
但し、ずれた理由は訊問調書では伏せられる。
二十四日の歩一での謀議に出席したのは、磯部、村中、香田、野中、栗原。
週番指令の主、山口一太郎大尉は席を外していた。
「 蹶起日を明後日の水曜、二六日にするとして、今日は帷幄上奏隊の作戦について話す 」
磯部--栗原--中橋で秘かに機密作戦は練られたのだ。
「 クリ、まず貴様の案を喋ってくれ。地図にすると判りやすいんだが、機密保持上口頭で説明する。
いささか複雑だから、皆よく聴いてくれ 」
「 この作戦は S作戦 と秘匿してよびます。 
総指揮官はイソさん。
作戦部隊を大別すれば、
坂下門の警備小隊と坂下門から参内する帷幄上奏隊、この二隊に分かれます。
このため モトが率いる近歩三の一箇中隊一二〇名を、
坂下門の警備に当たる第二小隊と、帷幄上奏隊に加わる第一小隊に分割します。
双方に少尉級の指揮官を配備します。
第一小隊は砲工学校の中島莞爾少尉、第二小隊は未定ですが、近歩からモトが選抜する段取りです 」
三名が固唾を呑んで栗原の説明に聞き入る。
「 第一小隊はモトも加わり、まず高橋蔵相を殺ります。
中島少尉はすでに本日の午後、モトとの打合せを終えました。
当日の早暁、蔵相が赤坂表町の私邸にいるのか、永田町の公邸にいるのか現時点では不明ですが、
中島が明日にでも下見調査します。
どちらにせよ一ツ木の兵営から あまり距離的には違いはなく、
五時決行には五時十五分前に出陣すれば充分です。
この小隊は襲撃が終ると、いったん首相官邸の私の隊に移動合流させます。
ここで野重七のカツが編成する軍用トラック数台に分乗待機、運転手はカツが容易する手筈です。
首相官邸襲撃を終えた歩一機関銃隊が重機関銃を三~四挺装備し、これに加わります。
帷幄上奏隊を警護する第一小隊はつまり近歩と歩一の連合隊です。
ですが あくまで近衛兵が中心に編成されていますから、
上奏隊を宮城内で護衛警護するという大義名分が成り立ちます 」
「 一方、陸相官邸では乗用車で上奏隊を編成します。
陸相をはじめとする陸軍首脳と蹶起将校代表が乗車します。
メンバーは、イソさん、タカさん、香田さん。
乗用車はこれもカツが調達します。不足の場合は首相官邸の公用車を使用します 」
「 一方の第二小隊ですが、第一小隊の戦闘服とは異なり控兵の軍装です。
第一小隊と共に兵舎を出ますが、蔵相襲撃が終了するまで近くで待機します。
私邸の場合はシャム公使館ないし薬研坂附近、公邸の場合は新議事堂附近が想定されます。
蔵相襲撃終了後、第二小隊はモトの指揮で速やかに半蔵門に到ります。
モトの下見では徒歩所要時間は二〇分程度。
『 明治神宮参拝に偶々非常事態を知り、緊急警備に駆けつけた 』
と 赴援隊の仮面を被るのです。
半蔵門から宮城に入り上道灌濠の守衛隊司令部を経て、坂下門の非常警備任務に就きます。
控兵将校は坂下門担当と細則にあり 規則に適います。
ここを橋頭堡に上奏隊車列の参内を待つことになります 」
村中が勢い込んで質問する。
「 宮城内に入った赴援隊と待機している上奏隊との連絡はどうするんだ 」
「 第二小隊が坂下門の緊急警備に就けば、宮城堤から警視庁屋上望楼に 『 坂下門準備完了 』 の連絡が行きます。
発行信号か手旗信号です。
野中さんの歩兵第七中隊が警視庁側で受信すること、伝令を三宅坂三叉路附近の安藤隊を経由して、
陸相官邸のイソさんと首相官邸の小官に送ります。
連絡を受け次第、首相官邸で待機している連合警備隊は陸相官邸に移動します。
さらに陸相官邸で準備が出来次第、今度は伝令が警視庁に走り、宮城に向けて 『 上奏隊準備完了 』 の信号を送ります。
その上で警備隊に前後を護衛された上奏隊の車列が陸相官邸を出発、
車列は第二小隊が固める坂下門を経て、宮殿の東車寄に到るという訳です 」
栗原は此処まで一気に説明して磯部の顔を見た。
磯部は満足げに頷く。だが 村中も香田も野中も皆、無言でこわばった表情が崩れない。
「 そんなに巧く騙だませるだろうか。『 偽装赴援隊 』 は、ひとつ躓けば破綻するのではないか・・・・ 」
『 実に大胆極まれなし 』 と 皇宮警察史 が記している通りだろう。
問題は高橋蔵相を殺害した中橋中尉が、怪しまれず すんなり宮城に侵入できるかどうかだ。
仮に中橋が蔵相襲撃に加わっていないのであれば、リスクは少ない。
だが 両手が血で穢れていることを はたして隠し遂おおせるだろうか。
さらに 『 偽装赴援隊 』 が坂下門緊急警備に就けたとして、
それを宮城の外部にいる蹶起軍にスムーズに伝達できるかどうかだ。
まさか坂下門の外で上奏隊が待っている訳には行かない。
宮城守衛隊の目を盗んで蹶起軍同士が密かに連絡を取り合うことができるのか。
国家非常事態にあって、誰の眼にも勝算は際どいと云わざるを得ない。
「 クリ、カツの用意する軍用トラックの台数だが 」
「 近歩三の兵が約六十名、それに歩一機関銃隊から十五名ほど、
トラック一台に二十名程度が乗車するとして、三~四台は欲しいですね。
無論、運転手付です。 いざとなれば小官も努めます 」
戦車中隊の経験がある栗原は大型車の運転免許を持っていた。
磯部が補足する。
「 カツにはサイドカーもあると助かると云ってある。
場合によっては宮城と陸相官邸の間を連絡将校が往復することになるかもしれないからな 」

その時だ、野中四郎大尉 ( 32 ) が おもむろに口を開いた。
「 第二小隊の装備だが、控兵は実弾を持参するのか 」
「 近衛の細則には、赴援隊は実弾を装備せずとあります。従って非常呼集の際には小銃なりに実弾を込めれば、
兵たちが事前に怪しみ、偽りの任務が露呈する恐れがあります 」
野中の質問が続く。
「 じゃ、警備隊のそうびだが、重機は実弾を装備するのか 」
「 当然です、邪魔が入れば撃ちまくります。宮城であろうが、どこであろうが同じです 」
野中の表情がサッと変った。
「 おいおい、磯部、乱暴にもほどがある、武力を背景に宮城に上奏隊を送るなど 以ての外だ。
況や 皇軍が宮城で相撃の事態に到るなど全く論外、それでは陛下に弓を引くことになるではないか。
我々の蹶起目的はあくまで昭和維新の捨石になることじゃないのか。
陛下の大権を侵してまで、あれこれ奉ることが主眼ではなかった筈だ、オレは承服しかねる 」
こんな血相を変えた野中を誰も見た事が無かった。
厳格な軍人家庭に育ち、寡黙、謹厳、真面目一徹。
若き日は将校寄宿舎で一人黙々と草むしりに従事する。若い将校達からは 陰で 野中型 と呼ばれていたほどだ。
子の軍人からすれば、宮中に実弾を装備した部隊がトラックで突っ込むという発想は、
まことに畏れ多いことに違いなかった。
今度は磯部が大声で吠え始めた。
「 俺達は 革命をやるんじゃないのか。
弾の入っていない鉄砲なんて、子供のオママゴトじゃあるまいし。
陛下に弓を引くことなんか、北先生だって考えちゃいない、あくまで陛下を奉る革命なんだ。
だが蹶起を鎮圧する動きがあれば、宮城だろうが、三宅坂だろうが、反撃せざるを得ない。
相撃なぞ革命の常識だろう。えッ そうだろう 」
野中に香田が同意し、磯部には栗原が加担する。村中は黙って聞いて居た。

蹶起将校たちのエートスを分析すると、一つは天皇主義、もう一つは改造主義 と分かれる。
天皇主義にあっては、
蹶起はあくまで昭和維新への捨石となる集団テロリズムの様相を帯びる。断じて政治的クーデターではない。
軍人は政治に関わらず。従って軍事行動後の上部工作は禁じ手となる。
大権私議にあたり、蹶起軍を考えるべき領域ではない。況や社会の構造的変革など至尊強要で論外。
直接行動で君側の奸賊を芟除せんじょする目的さえ達せられれば、後は大御心にひたすら俟つことが求められる。
いつでも潔く自刃する覚悟が必要だ。
これを作家、三島由紀夫は ロマン主義美学の視点から 『 道義的革命 』 と 称賛した。
野中四郎、香田清貞、河野壽、丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎
改造主義では、
北一輝 『 日本改造法案大綱 』 を根拠に、支配層の政界財閥軍閥から権力の奪取奉還を図る。
蹶起とは天皇を奉じての民主化をめざすクーデターだ。
ここでの天皇は明治維新に於ける 「 玉 」 の観念に近い。
ここでは要人の襲撃と中央官衙かんがの武力占拠の第一段階が終われば、
蹶起の意志要求を天皇始め権力者に伝える第二段階の政治工作が当然帰結となる。
政治的な変革にあたっては、天皇に改造法案が優先する。
たとえ奉勅命令であても内容が昭和維新成就にマイナスであれば、認める事は出来ない。
磯部浅一、安藤輝三、渋川善助、竹嶌継夫、栗原安秀、對馬勝雄、中橋基明、田中勝、安田優
むろんこの分類は理念型であって、現実の一人の青年将校の中には両者が混在している。
村中孝次は二つの立場を微妙に揺れていた。

その村中が静かに口を開いた。
「 警備隊の重機は空包装備でいいじゃないか。
その代わり多量に携行しよう。
宮城内なら近衛の部隊も実弾を装備していないんだから、空砲の威嚇射撃で充分効果を発揮するだろう 」
磯部がしぶしぶ応じる。さらに野中が念を押した。
「 磯部 武力上奏隊の武力を外してくれ。いいな 」
こうして対立した謀議の翌日、歩一弾薬庫から重機の空包が、なんと約六千発も持ち出された。
憲兵隊第一回訊問調書で栗原中尉は部下に運び出させた弾薬を証言する。
小銃実包  約 三万発 ( 二十箱 )
重機関銃実包  約 四千発
重機関銃空包  約 六千発
拳銃実包  約 三千発 ( 一箱 )
小銃弾は軽機関銃にも流用出来た。
したがって数は合せて三万発と厖大になる。
栗原は軽機を六挺 用意した。
林少尉に命じて歩一の他の中隊から借りださせる。
問題は重機関銃だ。重機は九二式、七・七ミリ弾を装備した最新高性能機だが、
この夜の謀議を反映して実弾より空砲弾が圧倒的に多い。
重機では実弾を装填するか、空砲を撃つかによって、異なる銃身を準備しなくてはならない。
その結果、栗原は重機を九挺も持ち出すが 内 三挺は空砲銃身の装備だった。
重要なことは、この空包の数値は憲兵隊訊問調書
或は 調書を基にした 「 叛乱部隊襲撃占拠一覧表 」にしか記載がない事だ。
戒厳司令部 「 叛乱軍携行弾薬調査一覧表 」 には、機関銃の空包弾数は記載がない。
これは裁判資料の基本と見られるが、他の裁判史料にも一切ない。
なぜなら この数値には 「 S作戦 」 を解明するカギがあるからだ。
空包弾の意味を辿れば、宮城を部隊にした秘密作戦があぶり出される。
蹶起軍は単に重臣の参内を坂下門で阻止しようとしただけではない。
蹶起目的に アカ の要求と当時は云われかねない変革課題を掲げ、
帷幄上奏の非常手段にまで及ぼうとしたのだ。
加えて皇族を起用した政治工作まで企図する。
秘密作戦が明らかになれば拵えたシナリオで隠蔽した真実が露呈してしまう。
だが 憲兵隊訊問調書が作成されたのは事件直後で、栗原の場合で云えば三月一日。
興奮が覚めやらぬ中だったから、事実関係が比較的率直に反映したとみられる。

次頁 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 3
に 続く


中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 3

2019年05月17日 17時17分47秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊 中隊長代理
中橋基明中尉 ( 2 8 )
 
中橋中尉の昭和維新を、
鬼頭春樹 氏が、その著書 『 禁断 二・二六事件 』 で、
恰も再現ドラマの如く物語る

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中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 2 の 続き

《 二十五日 》
「 まず高橋是清の顔写真 だ 」
夜七時を過ぎている。
中橋中尉は夜間照明に照らしだされた神田の写真展のショーウインドーを覗いて回っていた。
蹶起を目前に気が急ぐ。
襲撃迄あと一〇時間しかない。
気温が下がり、吐く息が一段と白くなる。
高橋蔵相の顔は達磨さんの愛称で庶民にも親しまれていた。
御守衛控え将校の勤務割を利用して坂下門で偽装赴援の警護にあたらなくてはならない。
仮に重臣が来た時、顔が判らなければ判断が出来まい。
だが満洲から戻って二ヶ月しか経っていない中橋に重臣の識別は自信がなかった。
その眼はショーウィンドーに飾られた重臣たちのポートレートに吸い寄せられていく。
総理大臣、岡田啓介。大蔵大臣、高橋是清。内大臣、斎藤實。侍従長、鈴木貫太郎。
 
いずれも勲章を付けた正装姿のカラー写真だった。
「 腐敗した政党政治じゃ日本の改造は出来ない。まず直接行動で君側の奸を斬るんだ。
その上で陛下を奉じて昭和維新を実現する。農民の窮状は直接行動でなければ救えない 」
夜十一時には歩一栗原中尉のもとで武器弾薬を受領する手筈になっていた。
さらに 「 S 作戦 」の詰めが残されている。
この時に到ってもまだ第二小隊長が決まらない。
信頼できる同志が近衛にいないからだ。

歩一第十一中隊の二階にある将校室に煌々と明かりが灯る。
栗原中尉の機関銃隊で軍服に着替えた村中、磯部、山本の三名が、夜九時ここに集合したのだった。
香田と丹生が既にそこに居た。
中隊長代理の丹生誠忠中尉 ( 27 ) を中心に、陸相官邸での上層部工作に関して詰めの作業を行うためだった。
村中が殴り書きした 「 陸軍大臣への要望事項 」 なるメモを香田に見せる。
香田が二、三意見を述べると、その個所を修正し、今度は磯部に見せる。
磯部の意見を汲んで、最後は香田が通信紙に清書した。
これだけは手書きである。
なぜ印刷していないのかは、今となっては判らない。
この史料にはミステリーがある。いんぺいされた 「 S 作戦 」 を開錠する小さな鍵が隠されている。
軍法会議で証拠品として採用された 「 押第四号 」 にはこうある。 ・・第七回公判調書
一、陸軍大臣の断乎たる決意に因り速に事態を収拾して維新に邁進すること
二、皇軍相撃の不祥事を絶対に惹起せしめざるため
      速に憲兵司令官をして憲兵の妄動を戒め事態を明確に認識するまで静観せしめ、
      又 東京警備司令官、近衛師団長、第一師団長をして皇軍相撃を絶対に避けしむること
三、南大将、宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将は軍の統帥破壊の元兇なるを以て速にこれを逮捕すること
四、根本大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐は軍中央部にありて軍閥的行動をなし来りたる中心人物なるを以てこれを除くこと
五、ロシア威圧のため荒木大将を関東軍司令官たせしむること
六、同志大岸頼好、菅波三郎、小川三郎、大蔵栄一、朝山小二郎、佐々木二郎、末松太平、江藤五郎、
      若松満則を即時東京に招致してその意見を聴き事態収拾に善処すること
七、前各号の実行せられ事態の安定を見るまで突出部隊を現占拠位置より絶対に移動せしめざること
この七項目を見せられて、だれしも首を捻ひねるに違いない。
実際、青年将校の要望事項を読むと些いささかなさけなくなる。
「 天皇親政 」 の下に一君万民主義を理想とした国家改造を掲げて蹶起したのではなかったのか。
ところが頭を捻りたくなるような内容が書かれている。
「 武藤章や片倉衷を省部から追い出せ 」とか、統制派の中堅官僚や軍閥の中心人物を名指しして批判するような、
内輪揉めの要求ばかり 」 ・・『 昭和--戦争と天皇と三島由紀夫 』
ところが 茲に全くニュアンスを異にする史料がある。
内田信也鉄道大臣 ( 55 ) が五項目にようやくしたものだ。
蹶起当日の午後二時半、宮中では臨時政府会議が西溜りの間で開催された。
本来は閣議が想定されていたのだが、襲撃に怯えた小原法相の参内到着が遅れたため、閣議は延期され、
次善の策が講じられる。
この場で一木枢密院議長と閣僚たちを前に、川島義之陸相が早朝からの情況報告を行う。
そこで述べられた 「 蹶起軍の陸相への要望事項 」 を出席者の一人 内田鉄相がメモしたものだ。
一、昭和維新を断行すること
二、之がためには先づ 軍自らが革新の實を挙げ、宇垣朝鮮総督、南大将、小磯中将、建川中将を罷免すること
三、速やかに国体明徴の上に立つ政府を樹立すること
四、即時戒厳令を布くこと
五、陸相は直ちに用意の近衛兵に守られて参内し、我々の意思を天聴に達すること  ・・内田信也 『 風雲五十年 』
このメモには、蹶起軍の政治的要求が骨太に述べられている。
昭和維新、新政府樹立、戒厳令公布、上奏隊などのキーワードが並び、蹶起軍のバックボーンが明確に語られている。
とりわけ第五項に帷幄上奏とは明記されてはいないが、
陸相は直ちに用意の近衛兵に守られて参内し と あることが眼を引く。
内田メモには 「 S作戦 」 が顔を覗かせている。
 
歩三週番指令室は巨大な現代建築の一階、表門を入ってすぐ左手にある。
夜十一時五十分、歩一から五百メートルしか離れていない歩三では、
刷り上がったばかりの決起趣意書を手に、重要な謀議がおこなわれようとしていた。
「 S作戦 」 の最終確認だ。
出席者は週番指令の安藤の他に五名。
磯部、野中、栗原、田中、中橋が顔を揃えた。田中は謀議が終るとすぐ市川の駐屯地に戻る。
そこを三時過ぎには車列が出発、寝てはいられなかった。
すべての蹶起将校がそうだ。
不眠不休の行動は二十五日から始まる。
この日、満三十一歳の誕生日を迎えた安藤大尉が当番兵の前島清上等兵 ( 21 ) に云い渡す。
「 誰も部屋に入れるな。貴様はドアの前で立哨警戒せよ 」
蹶起を目前にした謀議だ。
時間が切迫していることに加えて 「 S作戦 」 の機密が輪をかける。
磯部が一枚のガリ版メモを配布した。
これだけは山本に任せず磯部自らがガリ版を切る。
「 S作戦 」 のスケジュールだ。後に回収され痕跡はどこにも残されていない。
以下の時刻であったと推定される。
・五時    同時蹶起
・六時  各部隊、陸相官邸に襲撃結果報告
・六時三十分  偽装赴援隊、坂下門の非常警備、直ちに信号発信
・六時四十五分  首相官邸で警備隊編制
・六時五十分    陸相官邸に上奏隊参加者集合、ただちに信号発信
・七時    上奏隊および警備隊が陸相官邸出発、坂下門より参内
磯部がリードする。
「 作戦のスケジュールを想定してみた。大勝負は七時とみる。タイミングを逸すると勝機を逃す。
是非とも七時には陸相官邸から宮城へ帷幄上奏隊の車列を出発させたい。
その前提でのスケジュールだ。モト、高橋のダルマはどこにいるんだ 」
「 蔵相は赤坂私邸にいることが中島少尉の下見で判明しています。
従って二つの小隊は、近歩の営舎を五時少々前に出れば間に合います 」
磯部が中橋に矢継ぎ早に確認を求める。
「 モト、宮城の第二小隊から警視庁屋上への連絡は手旗信号か 」
「 手旗信号が基本ですが、悪天候の場合は懐中電灯のモールス符号に切り替えます 」
「 符丁は 」
春が来た が準備完了。 春が来ない が準備不了・・・・」
「 オイ、 とはどういう意味だ 」
堅物で知られる警視庁担当の野中大尉が突っ込む。
困惑の顔の中橋に代り、栗原がごまかす。
「 春は古来、時節到来、首尾上々と云うことです 」
野中が職業軍人らしく確認した。
「 警視庁を占拠したらすぐ望楼に通信兵を上げる。宮城堤とは直線距離で七百メートルだ。
発行信号でも手旗信号でも問題はない。清原少尉に指揮させる。
受けた通信文をテルの中隊に伝令で送るんだな。
陸相官邸での車列の準備が出来たら、今度は警視庁から宮城に信号を送る。これは ? 」
中橋が答える。 「 春が出る と お願いします 」
先に見た内田メモにある 『 用意の近衛兵 』 とは、
蔵相を襲撃したあと、一旦 首相官邸に引揚げ、待機していた砲工学校の中島少尉指揮の中橋中隊を指すのだ。
第一小隊六十名の近衛兵であり、
これに栗原中尉の歩一機関銃隊十五名が加わった七十五名ほどの連合警備隊である。
磯部がここで次のメモを配布した。
眼もには計十九名が二つのグループに分かれて書かれていた。
一同ジッと名簿に見入る。
『 陸相官邸表門通過を許すべき者の人名表 』 ・・北博昭 『 二・二六事件全検証 』
・七時まで
陸軍次官・古荘幹郎中将、斎藤瀏予備役少将、東京警備司令官・香椎浩平中将、
憲兵司令部総務部長・矢野機少将、近衛師団長・橋本虎之助中将、第一師団長・堀丈夫中将、
歩一連隊長・小藤惠大佐、歩一第七中隊長・山口一太郎大尉、陸軍省軍事調査部長・山下奉文少将
・七時後
侍従武官長・本庄繁大将、軍事参議官・荒木貞夫大将、同・真崎甚三郎大将、陸軍省軍務局長・今井清中将、
陸大校長・小畑敏四郎少将、参謀本部第二部長・岡村寧次少将、軍務局軍事課長・村上啓作大佐、
軍務局兵務課長・西村琢磨大佐、内閣調査局調査官・鈴木貞一大佐、陸大教官・満井佐吉中佐
「 上奏隊が陸相官邸を七時に出発すると想定して、この上奏隊に参加する将官の候補が第一グループだ。
第二グループは上奏隊には参加しないが我々のシンパになりそうな連中だ 」
従来この「 人名表 」 に書かれた 七時 の意味は、全く注目されていない。
これは実は上奏隊が陸相官邸を出発する予定時刻から来るものだった。
第一グループは天皇に帷幄上奏する際、人質に取って役立ちそうな人材、
荒木や真崎、本庄が第二グループなのは、天皇への信頼度が低いため。
斉藤予備役少将が第一グループに入っているのは、栗原の強い推挙からだった。
矢野は痛風と糖尿病で療養中の岩佐司令官の代理役。
侍従武官を経験したことがあり、宮中に明るいひとが買われる。
田中中尉が確認を求める。
「 上奏隊に加わるお偉方は乗用車で運ぶんだね 」
野中が躊躇しながら質問する。
「 で、宮城で上奏したあとはどうなるんだ 」
「 そんなこと 出たとこ勝負ですよ 」
「 心配しても詮無い、うまくいかなけりゃ腹を切るまでのことです 」
野中は何か云いたそうな顔つきだったが沈黙する。
実は磯部は肝心な情報を伏せていた。
さきほど西田が営門を通り、栗原の将校室に短時間やって来たのだ。
席ね衛兵司令によれば、歩一の営門で敬礼しなかったことから誰何され、
名刺を差し出す羽目になり、痕跡が残ったのだ。
「 伏見宮と加藤海軍大将が参内するのは五時過ぎ、蹶起直後で決定した 」
加藤大将が時刻を決めて小笠原中将に伝え、それが西田に入る。
磯部のスレジュールは、その大前提で組まれていた。
だが皇族が絡むこと故、同志の前でも伏せられたのだった。
歩三での最終謀議は終る。
日付は代わって二十六日に入っていた。蹶起迄四時間を切る。

三時頃、中橋は中島莞爾少尉 ( 23 ) と共に今泉義道少尉 ( 21 ) の個室を訪ねる。
鎌倉の実家から通う今泉は、雪で帰りそびれて将校室でなにも知らず眠っていた。
「 おい今泉、起きるんだ。今泉少尉起きろ 」
今泉と中島は佐賀出身で同郷だった。
今泉、いよいよやるぞ、昭和維新の断行だ、午前四時半になったら中隊に非常呼集をかける。
俺達二人は高橋是清蔵相を襲撃、襲撃隊は中島が引率して首相官邸に向う。
俺は中隊の半分を率いて宮城に入る。
恰度今日はこの中隊が赴援隊控中隊に当っている。
そこで貴公だが、俺達が襲撃している間、控中隊を引率し待機していてもらいたい。
実は貴公は中島を知っているそうだな、
中島の奴、貴公に内緒で中隊全部を連れ出したら面目を失うだろう。
知らせてやるのが武士の情というものだ、と ぬかすからな。
まあ それはそれとして、出発迄に未だ二時間ばかり間がある。
俺は貴公に無理に行けとはいわん。行く、行かぬは貴公の判断に委す。
行く以上は貴公に赴援中隊の副指令として参加してもらう 」

こう云い渡すと中橋は部屋を出た。
「 もし今泉が断れば、第二小隊は下士官の斉藤特務曹長に頼むしかない。
斉藤とは昭和八年の救国埼玉挺身隊事件以来、維新を語り合った仲だ。
だがそのとき今泉をどうするか、放っておけば蹶起はおろか 「 S作戦 」 の機密までが露呈する危険性がある。
かと云って今泉を殺すとなると覚悟が・・・・。
「 中尉殿、両親に遺書を書きました。お供させていただきます 」・・今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」 

宮城の暗闇で非常ベルが鳴り続けた。
午前四時四十分、蹶起の最初の兆候が、こともあろうに宮城でキャッチされる。
近衛師団宮城守衛隊司令部では仮眠中の当番将校以下全員が飛び起きた。
常夜灯が申し訳程度に照らし出す暗がりでは、ベルはまるで暁の静寂を切り裂く悲鳴音のように聞こえたことだろう。
近歩三の二箇中隊二百四十名が騒然となった。控兵に上番していた中橋と同じ聯隊だ。
現場は二十メートルおきに外灯が並ぶ宮城前広場。
その玉砂利が敷かれた車輌進入禁止区域に軍用車輌五台がいきなり侵入したのだった。
乗用車一台、トラック三台、サイドカーが一台。
馬場先門から直進した車列は、二重橋 ( 正面鉄橋 ) に到る手前の正門石橋直下で停止した。
これを目撃した正門警備にあたる守衛隊歩哨が直ちに非常ボタンを押す。
平時では宮城の警備は宮内省警察部が主体だが、ボタンを押したのは近衛兵だった。
従って近衛師団の警備網に異常が伝達される。

不法侵入した車輌部隊の指揮官は野重第七第四中隊、田中勝中尉 ( 25 )。
十三名の下士官兵を乗せた計五台は、夜間自動車行軍をかねて靖国神社に参拝 と称して、
市川の駐屯地を三時十五分に出る。
車列は途中、小岩にある田中宅に立寄った。
拳銃と軍刀、そしてキャラメル多数を夫人から受取る。夫人は身重だった。惜別の意味があったろう。
その遅れを意識して猛スピードで都心に向かったのだが、逆に早く着きすぎてしまう。
陸相官邸五時の待合せまで時間をつぶすため、まず靖国神社に詣で、
次に宮城前広場に参拝しようとして 立入禁止区域に乗り入れたのだった。
之には当然、S作戦 の下検分の意味もある。
非常ベルに驚いた仮眠中の近衛師団将校や皇宮警察警手が正門守衛所にあたふたと駆けつけた。
総勢十二名にも上ったと  『 皇宮警察史 』 は記す。
「 衛兵所まで同行願おうか・・・・」
近衛の守衛隊当直だった小坂少尉が、田中中尉の星が二つの階級章にチラリと目を遣りながら丁重に誘う。
行先は上道灌濠に近い正門儀仗衛兵所だった。
守衛隊司令部と同じ建物の一階に入っている。
「 いや 単に訓練中の宮城参拝です。地理に不案内でご迷惑をおかけしました 」
田中は所属を名乗った上で素直に詫びを入れて一件落着だった。
この時刻 まだ宮城では雪が降りだしてはいない。
麻布の歩三、歩一では未明から粉雪が舞っていた。首相官邸でも同様だ。
田中は一段と高い土手堤に建てられた衛兵所にいた。
目の前に伏見櫓の白壁が黒々とシルエットで聳え、その向こうに御常御殿が見えた。
すでに蹶起部隊は非常呼集を終え、歩三、歩一、近歩三の各営門を出ていた。
「 ようし 三宅坂だ、いよいよ五時の蹶起だ、陸相官邸に行くぞ 」

赤坂区赤坂表町は瀟洒しょうさいな屋敷町だ。
午前四時四十五分。
近衛歩兵第三聯隊第七中隊、中橋中尉は
百二十三名を率いて表町三丁目の高橋蔵相私邸附近に到着する。
静かに粉雪が舞っていた。
渋谷から青山、赤坂見附を経て築地に到る市電通りの 「 赤坂表町 」電停の南側に、
この高い黒塀で囲まれた広大な敷地の邸宅があった。
北側には貞明皇太后が居住する大宮御所がある。
一ツ木町の近歩三の営門から歩いて五分とかからない。
憲兵隊訊問調書と判決文では営門を出た時期が五分違うが誤差の範囲内であろう。
 
中橋中隊の行動は敏速だった。
軽機関銃を警戒のため市電通りに配置したあと、
五時十分、第一小隊、砲工学校の中島莞爾少尉が容易した縄梯子で高橋邸の高い塀を乗り越える。
表門と東の塀の二ヶ所から突入隊が敷地になだれ込む。
服装は行動しやすい演習服。
まず内玄関を破壊し、直ちに室内に二十名の兵が乱入。
ところが広い屋敷内で勝手が判らず、二階に上る階段がどこをどう探しても見つからない。
各所で兵と家人が衝突し、右往左往混乱の極みを迎えてしまう。
中橋が 恐怖の念を起さしめ手出しをせざる如く するため、拳銃で三発 廊下に向けて威嚇発射し、ようやく収まるのだった。
同時に二階への階段も見つかり駆け上がる。二階奥の寝室までまっしぐら。
高橋蔵相は寝ていたと謂う説と 起きていたと謂う説がある。
判決文は前者、松本清張 『 昭和史発掘 』 での家人の証言は後者である。
庶民にもダルマの愛称で親しまれた高橋是清蔵相 ( 81 ) は蒲団の上に座り大きな目を向く。
「 無礼者、なにしにきたか 」
「 天誅 」
と 唯一言 叫んだ中橋が拳銃を即座に四発発射する。
同時に中島が軍刀で右肩に切り込み、返す刀で胸を突き刺す。
蔵相は何か唸ったように中島には聞こえたが静かに倒れた。
アッという間の出来事だった。
蔵相の次女、真喜子 ( 26 ) が階下にいた。
二階からドヤドヤと軍人が降りて来る。
指揮官の中橋は真喜子を肉親と認めると、立ち止まり無言で最敬礼する。
と 見るや 赤マントを翻し風の如く去って行った。
突入から引揚げ迄襲撃は十五分足らずで終わる。
中橋は撤退の際、門前に催涙弾を投げ捨てて行く。
煙と叫び声が交錯するなかを、口と鼻をハンカチで押さえた警官の手で非常線が張られた。
中橋は呼子笛を鳴らし、第一小隊六十名の蔵相襲撃隊を門前に集結させると、
中島少尉に小隊を率いて首相官邸の栗原隊に一旦合流するよう命じる。
肩で息をしていた中橋は上着のボタンを外す。
一息つくと暗闇のなか少し離れたシャム公使館脇へと急ぐ。
そこには第二小隊長、今泉義道少尉以下の六十二名が待機中だ。蔵相を襲撃する間、小休止を命じてある。
その際、空包しか渡さず、目的は明治神宮への参拝だと称した。服装は第二軍装。
この場所では蔵相邸内からの射撃音は聞こえないはずだった。
つまり第二小隊の兵士たちには襲撃蹶起は伏せられる。
中橋は第二小隊にこう云い渡すのだった。
「 非常事件が起きたから参拝は取止め、宮城へ控兵として行く 」
さあ、次は半蔵門だ。

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中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 4

2019年05月15日 08時28分33秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊 中隊長代理
中橋基明中尉 ( 2 8 )
 
中橋中尉の昭和維新を、
鬼頭春樹 氏が、その著書 『 禁断 二・二六事件 』 で、
恰も再現ドラマの如く物語る

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「 非常 」 
トラックの荷台から田中勝中尉が大きな声で叫ぶ。
五時二十分だった。
「 取り込み手が空いていないので敬礼ができないが、失礼する 」 という軍隊用語だ。
市電通りで追い越して行く野重七のトラック部隊を見送った中橋中尉。
「 あれだ。あのトラックに明治神宮参拝から帰る途中に遭遇して、
非常事態が発生したことを初めて知った事にすればいい 」
中橋は六十二名の第二小隊と共に半蔵門をめざしている、その途上で遭遇したのだ。
田中は宮城参拝からすぐ陸相官邸に回ったが五分早く到着。
一方の歩一第十一中隊、丹生中尉指揮の占拠部隊が五分遅れたため、落ち合うことが出来なかった。
異変が生じたのではないかと危惧した田中は、確認の為麻布六本木の歩一に急行する。
山口週番指令から、既に第十一中隊が出撃したことを聞くと、
すぐさま陸相官邸にとって返した、まさにその途中だった。
中橋は策をめぐらす。
半蔵門にいたる途中の五時半、伝令を赤坂一ツ木の聯隊本部に送るのだった。
週番司令はこの朝、南武正大尉である。
周到な計算だった。
『 明治神宮参拝途中、突然事件を知り、非常と認めて第七中隊は直ちに宮城へ赴く 』
巧妙且危うい 赴援隊のシナリオが実行に移されるのだ。
純粋な応援部隊の仮面を被り、宮城には赴援隊一箇小隊を率いて馳せ参じる。
だが蔵相襲撃の血で穢れた手を一時は隠し遂せたとしても、いずれは確実にバレる。
問題はそのバレるまでの時間だった。
いち早く露見すれば、事は挫折頓挫する。
「 S作戦 」 は砂上の楼閣に終り、中橋は奈落に墜落しよう。
だが時間が稼げれば、坂下門に軍事的な橋頭堡を築くことが出来る。
宮城と警視庁が密かに連絡を取り合い、
陸相官邸を出た蹶起軍車列が坂下門に到着するまで持ち堪えさえすれば
「 S作戦 」 は 成就する。
両者の分かれ目はきわどい、歯車が一つ狂えば 全てが失われる。
こうして蹶起軍はサイコロに賭けた。
皇宮警察史が実に大胆極まりなし と記すように、大胆な博打バクチを打つのだった。
日の出時刻が近くなってきた。出撃の時チラホラと降っていた雪は止む。
だが新雪も重なり路上の積雪が行軍を阻んでいた。
雪の下は凍ってアイスバーンのように滑る。
所によっては吹き溜まり状態で兵士たちは足をとられた。
なかには用意周到に靴に荒縄を巻き付け、滑り止めにしていた兵がいた。
歩三第十中隊の加庭伍長勤務上等兵はそれを証言する。・・加庭勝治上等兵 「 赤坂見附の演説 」

夜明け前の半蔵門はシルエットで閉ざされていた。
六時少し前、中橋中尉は第二小隊と共に半蔵門外に到着する。
お堀端の雪と石垣が墨絵のように淡い対比を見せていた。
斉藤一郎特務曹長 ( 32 ) が 一人 門に近づき立哨ポストの皇宮警守に告げた。
「 近衛歩兵第三聯隊第七中隊、赴援隊一箇小隊六十二名、
明治神宮参拝のため非常呼集をなし行軍中、蔵相邸附近に於て非常事件の起れるを知り、
直ちに控兵として転進到着せり、聯隊週番司令には報告済みである。直ちに開門願いたい 」
警守は緊張した面持ちで立哨ボックスに入り、裏手の半蔵門分遺所当直に電話で判断を仰ぐ。
「 御門を潜るのがまず先決だ。宮城に入らなければ何事も始まらない。
二十分前に送った伝令の報告が、すでに宮城内の守衛隊司令官には届いているはずだ。
従って警戒心は与えてはいまい。だが どこでなにか不手際が生じていないとも限らない。
半蔵門は開門の機会が極めて少ない。主に皇族の出入りに使用されているからだ。
半蔵門を入り一直線に進めば内苑門を経て天皇の私的な空間である御常御殿に最短距離で到る。
また宮中三殿や生物学御研究など重要な施設にも近い。
乾門や坂下門が一般人にも開放され往来の頻度が激しいのとは対照的だ。
ほどなく皇宮警守が受話器を置くと、一言部下に命じる。
五時五十三分、半蔵門の扉が静かに開かれた。
六十二名の小隊は積雪を踏みしめながら、宮城のなかに吸い込まれて行く。
「 どうか変な者を入門させないよう十分注意して下さい 」 ・・皇宮警察史
この時点では半蔵門は常時一名の警守が二名に増加されたにすぎない。
後に非常配備転換されると、近衛師団の下士官兵九名、重機関銃一、軽機関銃一と厳重を極めた。
重機が配置されたのは半蔵門と竹下門だけ、蹶起軍占拠区域に接するだけに最重要ポイントとされたのであろう。
中橋は覚悟を決めていた。
「 ここまで来たからには運を天に任せてやるしかない。赴援隊は規則上も当を得ている。
際どいバクチだが捨身で身を委ねるしかない。
オドオドするな、たった一人の戦いだが堂々とするんだ、仮面を一人被り、偽りの表情を演じるんだ・・・・」
宮城の外周を巡る土手沿いの小道がある。
部隊は桜田濠を見下ろし、一列縦隊で進む。物音と云えば兵の息遣いだけ。
日の出を前にあたりは薄明かりとなって来る。
外気は零下十度に近く 隊列に真っ白な湯気が立ち上がった。
小隊は五分足らずで上道灌濠に突き当たる、この濠を越えた所に守衛隊司令部があった。
未明に野重七の田中中尉が釈明をした場所だ。
この朝、当直で宮城内警備にあたっていた近歩三の二箇小隊が詰め、
正門をはじめ乾門や坂下門などの警備に赴いていた。
司令官は門間かどま健太郎少佐 ( 40 ) 中橋の控兵もこの指揮下に入る。
兵力で見れば中橋が統率する控兵はわずか一箇小隊、宮城守衛隊全体の五分の一にすぎない。
半蔵門文遺所から連絡を受け、門間司令官と中溝正門儀仗衛兵司令が二階の司令室で待っていた。
中橋赴援隊長が一人入る。
六時を少し回った頃、颯爽とした態度だった。
「 第七中隊長 中橋中尉以下一箇小隊、緊急事態発生のため御守衛赴援隊として到着致しました 」
「 あー、ご苦労さん、よく来てくれた。それにしても早かったなア 」
「 明治神宮参拝からの帰り、偶々市電通り赤坂表町電停附近で蹶起部隊の自動車隊と遭遇したためです。
そこから転進し、馳せ参じました 」
門間の表情には警戒感がない。中橋の挙動がなにより自身に満ちていた。
そして司令官は中橋をよく知らない。同じ聯隊であるが演習帰りに一度だけ話を交わした程度だった。
この時、中橋の上衣のボタンが二つ外れていたという。
二番目と三番目。
蔵相襲撃後、シャム公使館脇に向かう途中で途中で休息した際、かけ忘れていたのだった。
門間が仮にこれを指摘出来たら、中橋は周章狼狽したに違いない。
血で穢れた両手を見せてしまうことに繋がったのだから・・・・。
この時門間は気になる情報を得ていた。
青山の大宮御所警備に就いている司令、今井一郎中尉からの電話報告だ。
「 蔵相私邸の襲撃部隊が近歩の徽章をつけていた 」
これは中橋の不覚だった。
蔵相私邸の襲撃に当っては周辺に御所があり 海外公館も多い事から、
累を他に及ぼさぬよう細心の注意をと盟友の栗原中尉が中橋に念を押していた。
このため中橋は襲撃に先立って、わざわざ市電通りを挟んだ大宮御所に自ら赴き、
「 御所に向かっては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 」 ・・皇宮警察史
と告げる。
この時中橋は軍帽徽章を大宮御所を守衛する皇宮警察官に確認されてしまったのだ。
近衛師団の軍帽には特徴がある。
陸軍軍帽はシンプルな星 ( 五芒星 ) が徽章なのだが、近衛だけはその周りを桜のつぼみと葉が取り囲んでいた。

一目で見分けが付く。
門間は 「 まさか 」 と 考え、直に東京警備司令部に問い合わせるよう命じた。
東京警備司令部は首都警備にあたる軍隊組織で戒厳令が布かれると、戒厳司令部に移行する。
宿直の深井軍曹の答えから、警視庁や首相官邸などの襲撃部隊は第一師団の歩一と歩三と判明した。
近歩三聯隊本部の週番司令、南大尉からは、
「 中橋中隊は明治神宮参拝のため兵を連れて出ているが、
さきほど連絡があり、異常事態に遭遇して附近を警戒中 」 との情報を得る。
このため今井の報告は実際に当人が目撃した訳ではなく、
歩三と近歩三を取り違えた誤報と見做して納得したのだった。
だが 仮に中橋が今井中尉の名を聞いたら平常心を失ったに違いない。
何故なら嘗ての中橋の直属の部下だったからだ。
昭和八年の救国埼玉青年挺身隊事件では見習士官の今井に事件への参加を強要するが断られ、
結局、事件そのものが未遂に終わる。
その経験から今井は今回の仕業も中橋に違いないと直感的に見抜いていたのだった。
何も知らない門間は、
「 非常時には赴援隊将校は坂下門の警備に赴いてもらう決りだ。
当方もいま 宮城内の警備再点検を大至急行なっている。
方針が固まる迄、小休止してくれ給え 」
中橋は内心 シメタ と叫ぶ。
正門衛兵所を出ながら 屯たむろしている小隊に大声で命令した。
その時 六時を過ぎていた。

守衛隊司令部の裏手には宮城堤が拡がる。
ここから直下の桜田濠越しに警視庁が目と鼻の先に望めた。
なにも知らされていない中橋中隊の兵たちがひそひそと話し合う。
「 すごいなア、いったい何が始まるんだ。敵はどこにいるんだ・・・」
新兵が驚くのも無理はない。薄明かりの眼前にパノラマ大異変が拡がっていたからだ。
折から警視庁を占拠した歩三・野中大尉指揮五百名の大部隊が路上に有刺鉄線のバリケードを築いている。
砂袋で陣地を構築、重機関銃をその上に配置する。
重量は三脚も含めると八十キロを超えた。
視線を右に転じれば、陸軍省、参謀本部の一体となった建物 ( 省部 ) を占拠した
歩一・丹生中尉指揮二百名が厳重な警備を布いている。
さらに右翼の三宅坂三叉路には、歩三・安藤大尉以下二百名の部隊が慌ただしく動き回る。
侍従長官邸の襲撃を終えて まさに到着した直後だ。
この土手からは帝都中枢官衙を占拠した蹶起部隊の姿が立体的に把握できた。
中橋は背嚢からチョコレートを取出すと口に含む。
「 予定通りだ。次は坂下門の緊急警備に就いた時点で、警視庁の屋上望楼と連絡を取り合うことだ。
それさえ巧くけばいい 」

その頃、磯部浅一は昂揚感の絶頂にあった。
陸相官邸の正門に立って三宅坂一帯を睥睨へいげいしている。
三宅坂とは昭和初期にあっては陸軍省官衙の代名詞と云えた。
その中枢を歩一、十一中隊・丹生誠忠中尉 ( 27 ) 指揮百七十名の部隊が完全に掌握占拠している。
陸軍省と参謀本部、その裏手にある陸相官邸は蹶起部隊の手中にあった。
その蹶起軍ヘッドクォーターに、六時頃には各襲撃隊から次々と凱旋報告がもたらされた。
「 高橋是清襲撃の中島帰来し、完全に目的を達したと報ず。続いて首相官邸よりも岡田をやったとの報、
さらに坂井部隊より麦屋が急ぎ来り、斉藤を見事やったと告ぐ。
・・中略・・
安藤は部下中隊の先頭に立ちて、颯爽として来る。
「 やったか!」 と 問へば 「 やった、やった 」 と答える 」 ・・磯部浅一第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 
そのたびに万歳が雪化粧した台地にこだました。
磯部の感情はいやがうえにも高ぶった。
そして蹶起将校全員の胸中に中橋の姿が去来する。
「 予定では宮城に入った時刻だ。巧く運んでいるだろうか 」
蹶起から一時間が経過、焦点は第二段階の政治工作に移る。
蹶起軍と宮中との攻防が始まろうとしていた。

六時十五分、宮殿御政務室から百メートルしかはなれていない守衛隊司令官室。
門間少佐は中橋中尉に重々しく命じる。
「 近衛歩兵第三聯隊第七中隊は宮城守衛赴援隊として坂下門の非常警備配置に就け 」
中橋は内心 哄笑こうしょうした。
「 やったぞ、予定通りだ 」
有事に在っては宮城では御門の警備に近衛師団があたる。
その非常配備転換がまさに各門で行われようとしていた。
坂下門周辺も俄かに殺気立った雰囲気に包まれる。
慌ただしく土嚢と軽機関銃二梃が運ばれた。
中橋中尉が小隊を直接指揮し、今泉少尉と共に坂下門へ赴く。
「 私は小隊を率い坂下門に急行した。下士官の連中がテキパキと兵隊を区署し歩哨線を張り、
門の両側の土手上に二梃の軽機関銃を配置した。
私も以前、宮城の非常警備配置について演習したことはあったが、下士官の的確な処置には感心した 」 ・・今泉義道
配備が完了したのは、六時半前後。
重臣の顔写真が密かに下士官に配られた。中橋はこの期に及んで周到冷静だった。
「 約一箇小隊の兵を率いて東渡り廊下、坂下に到り、うち 二箇分隊を蓮池門跡の配備につけ、
一分隊位を皇宮警備部前にとめて坂下門に向けさせたのち・・・・」 ・・皇宮警察史
万一、近衛師団の他の聯隊から宮城で攻撃を受けてもいいよう、坂下門の前後を固めたのだ。
その上で 全ての要人の出入りを坂下門に限定させ、中橋中隊が出入りをチェック、実質的に宮城を封鎖する。
そこへ帷幄上奏隊が到着する・・・・此がシナリオ。
「 坂下門到着後は前記の如く宮城への出入者を坂下門に限定せむと画策する等、
「 実に大胆極りなしと云うべく、直接同中尉と接したる佐野警部塔り その感想を聴取するに、
幾分、顔色勝れなく如く感ぜられたるも極めて冷静にして上の如き大罪を犯せる者とは信じ得ざる情態なりし 」
とのこと 」・・二・二六事件に関する警備記録
「 ようし、愈々 警視庁への連絡だ。 これさえ巧く行けば昭和維新は成就する 」

宮城の南、桜田濠の土手に沿った松並木で奇妙な行動が見られた。
推定時刻は六時四十五分。
将校マントを羽織った一人の軍人が立ち、桜田門の警視庁方向に身体を傾け、なにやら腕を動かしている。
松並木の木々はいずれも樹齢が古く、三宅坂の方向から桜田濠越しに見ればうっそうとした森を形成していた。
その枝々に見え隠れして男の姿があるのだった。
傍らには兵士が一人控える。
マントの男の右手には太く長い懐中電灯があった。
そのスイッチを入れたり、消したりしながら、前方を一心に見つめている。
羽織ったマントのボタンを掛けず、袖も通さないラフなスタイルだが、顔の表情はこわばっていた。
ツー、トン、トン、トン、ツー、トン、ツー、ツー、トン  モールス符号の発光信号通信。
符号マニアの中橋中尉にとってはお手の物だ。
かねて警視庁側の歩三と打合せの符牒は 『 春が来た 』
「 当中隊は坂下門の非常警備に就いた。準備は整う。速やかに陸相官邸より坂下門を経由、
警備隊付の上奏隊を送られたし 」
中橋は傍らの長野峯吉一等兵 ( 21 ) には手旗信号を備えさせていた。
六時十六分の日の出を過ぎて少しでも太陽が出て来るなら、手旗信号を用いるつもりだったのだ。
だが天候は回復しない。むしろますます気温が下がり靄もやが出てきた。
濠の周辺の暖かく湿った空気が冷気で急激に冷やさたためだ。
直線距離でわずか七百メートル。
ふだんなら目と鼻の先に見える警視庁の五階建ての建物がボンヤリ煙っていた。
さらにその上に聳える望楼に至っては輪郭すらおぼつかない。
こうして実際に宮城の土手の上に立ってみると、大声を出して直接伝えたい衝動に駆られる。
それほど近距離なのだ。
だが仮に視界が利き、望楼が黙視出来たとすれば、中橋はこのとき驚くべき光景を目にしたはずだ。
誰もいない無人の屋上を・・・・。
『 野中部隊が警視庁屋上から中橋中尉へ、宮中の號砲臺の上から 手旗信号を遣ることになっており、
中橋が遣ったが、野中大尉は遣らなかったようです 』 ・・栗原中尉
中橋からの警視庁への信号が、仮に成功していれば、
次には 『 春が来る 』 の緊急信号が警視庁側から 宮城に来ることになっていた。
『 警備隊付き上奏隊が陸相官邸を出発する 』 の意味だ。
なにも知らされなかった長野一等兵は事件後、憲兵隊に呼び出され執拗な取調が数度にわたる。
「その内容というのが、私が宮城内で担当した連絡任務で時間、位置など克明に聞かれたので、
私は正直に連絡のなかったことを説明したところ、ようやく放免された。
思うに警視庁屋上からの連絡は、重大な意味が かかっていたようである 」
・・長野峯吉 中橋中尉 「 警視庁の蹶起部隊から連絡がある、受信したら報告せよ 」 
この長野の憲兵隊訊問調書も亦 抹消されている。

首相官邸には六時五十分、田中勝中尉の自動車隊が勢ぞろいする。
「 S作戦 」 に従事する車列だ。
トラック三台、乗用車三台、サイドカー一台。
トラック三台には歩一機関銃隊と近歩三近衛兵の連合警備隊が分乗する。
歩一が持ち出した空包銃身の重機三挺と空包弾千発、それに実弾入りの小銃を装備した。
乗用車三台には陸相など幹部と磯部、村中、香田ら蹶起軍将校からなる上奏隊が分乗する。
うち二台は首相官邸の公用車だった。
パッカード・エイトにキャデラック。当時は軍用トラックでさえ輸入されていた時代だ。
これらの外車の運転は歩一機関銃隊、横道二等兵と栗原中尉自らがかってでる。
サイドカーには坂下門から中橋中尉が乗る手はずだ。
これは田中中尉が運転する。
この車も市川の部隊から調達したものだった。
こうして帷幄上奏隊と警備隊の車列の準備が整う。
陸相官邸には栗原が心配顔で駆けつける。上奏隊車列の予定出発時刻七時が迫っていたからだ。
磯部の袖を引き、机やイス、ロッカーなどでバリケードが構築され迷路のようになった廊下に連れ出す。
床は泥だらけだった。
栗原が磯部に切羽詰まった真剣な表情で聞く。
「 坂下門からの連絡はまだか 」
「 うーん、気がかりなんだが・・・」
「 警備隊の編成は終っているんだ。早く上奏隊を出発させないと間に合わない 」
栗原は、岡田首相を殺害したと信じ、次の上奏隊のことで頭がいっぱいだ。
磯部が頷うなずく。
「 判った、俺がちょっと警視庁に行って見て来る。サイドカーで行く 」
「 じゃあ、俺は首相官邸で待機して待ってる 」
磯部が乗ったサイドカーが勢いよく発進する。サイドカーには小さな旗がはためいていた。
尊王討奸と墨汁で書かれる。運転席に田中勝中尉が乗った。
磯部浅一は座席で旗を見ながら思案していた。
「 いざとなれば、川島陸相と斎藤少将だけでも連れて上奏隊を出発させよう。
人質の数が多ければいいというものでもない・・・・」

野次馬が遠巻きにし、騒然とする警視庁にサイドカーが到着する。七時五分頃か。
「 岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、斎藤内大臣に天誅が下りました、昭和維新は間近です 」
田中中尉が野中大尉を見つけ報告する。
「 おおそうか 」
野中は啜っていた汁粉の椀を持って微笑んだ。隣の磯部の顔を見て少し表情を曇らせる。
「 野中さん、坂下門からは何も云ってきませんか 」
「 望楼で清原が待機しているが、何も来ないな。ともかく天候が悪くて見通しが利かない 」
当初予定では中橋小隊は遅くとも七時には警視庁望楼に信号を送れるはずだった。
しかし七時を回ったというのに、待てど暮らせど信号が来たと云う伝令は磯部に来ない。
「 天候が悪い場合は、発光信号ですね 」
「 いつもであれば苦労しないんだが、靄がひどいからね 」
普段の天候であれば、警視庁望楼からは桜田濠越しに宮城の森が手に取るように望めた。
「 坂下門で何か起きたのかな 」
「 心配なんで、さっき常盤を坂下門まで偵察に行かせたんだが・・・」
野中中隊に属した常盤稔少尉 ( 21 ) は、戦後こう証言する。
「 兵隊を連れて坂下門まで偵察に行ってますよ。
清原が信号を待っているが、いつまでたっても信号がない、これはおかしいと云うので、
野中大尉が 「 坂下門まで行って、何とか連絡して来い 」 と 云うんですよ。それで行った。
行ったが、坂下門には皇宮警察がのんびりいるだけで、知っている顔は一人もいない。これじゃ連絡のとりようがない 」
常盤少尉が坂下門に着いたのは六時十五分頃、非常警備体制に切り替わる十分前と推定される。
・・・もともと大権私議にこだわっている男だ。 「 S作戦 」 の実現には熱意はない。
陸士で二年先輩でなければ、怒鳴りあげるところだが・・・
「 屋上望楼の部隊をそろそろ降ろそうかと思っている 」
この時点で何も知らない磯部は七時過ぎ 警視庁を後にする

「 うん? あいつは土手の上でなにをしているんだ 」
宮城では七時を過ぎ風が出て視界が晴れて来た。
守衛隊正門儀仗副司令、片岡栄特務曹長は、司令官・門間少佐から中橋を探して来る様に命ぜられる。
「 連行しろ 」 という言葉にはただならぬ気配が感じられた。
めざす中橋中尉は坂下門附近にはいるだろうと漠然と考える。
坂下門では今泉少尉以下の一箇小隊が非常警備に就いていたからだ。
だが片岡は全く予期せぬ光景に遭遇する。
なんと中橋は司令部裏手の土手堤にいた。
その両手には信号用手旗が握られている。
眼と鼻の先には警視庁の四階建て庁舎とその屋上望楼が聳え立つ。
靄が消え七百メートル先の建物が目視できた。
赤マントの男は、先程見通しの利かない中で送信したモーレス信号が警視庁に届いていないことを懸念して、
手旗信号で再送信しようとしたのだ。傍らには誰もいない。
片岡は中橋の背後に静かに迫ると、無言で後ろから羽交い絞めにした。
二人はもつれ合う。すんでのところで土手から転げ落ちそうになる。
片岡はこの上官に手荒なことは避けたかった。逆上されてなにが起きても不思議ではない。
「 中尉殿、門間司令官がお呼びです。直ちに司令官室に出頭願います 」
努めて平静を装って同行を促す。
これには目撃者がいた。
「 近衛師団司令部の山崎勇軍曹は、加納営造少佐をサイドカーに乗せて皇居内に入った所で、
積雪のためサイドカーが動かなくなり、已む無く歩くことを余儀なくされた。
その時、土手の上で揉み合う二人を見たのだった。
近づくと、手旗は中橋中尉、羽交い絞めにしていたのは同郷の片岡特務曹長だった 」 ・・藤井康栄 『 松本清張の残像 』
門間司令官へ中橋拘束の指令が飛んだのは七時と推定される。
近歩三、園山光蔵聯隊長が一ツ木の聯隊本部に出仕したのが六時五十分。
営舎で点呼をとらせると、中橋中隊の二箇小隊百二十三名が行方不明だった。
憲兵隊、連隊副官、週番司令などの断片的な情報を綜合するうちに、
一箇小隊が既に赴援隊として宮城に入った事が判明する。
こともあろうに 今まさに坂下門で非常警備に就いているという衝撃が近衛師団首脳を襲った。
穢れた両手がとうとう二時間後にバレたのだ。
そして蹶起軍の究極目的である 「 S作戦 」 も亦 近衛師団に掌握される。
六時二十五分、本庄侍従武官長から橋本師団長への連絡が端緒となった。
直ちに近衛師団と皇宮警察は宮城警備で緊急打合せを持つ。
「 叛乱部隊が上奏隊を宮城に侵入させる計画ありとの情報に接し、
内藤皇宮警察部長と中溝猛正門儀仗衛兵司令がその対策を協議の結果、
「 目的・同期の如何を問わず、手段・方法に於いて不法なる以上、
守衛隊と皇宮警察部は協力して、断固これを阻止すべし 」
との方針を確立し、部下一同に伝達した 」 ・・皇宮警察史
まさにその頃、中橋小隊は坂下門の非常警備配置を完了する。
その三十分後、今度は中橋拘束の司令が飛び、手旗信号中の中橋は司令部に連行された。
こうして蹶起軍は坂下門の橋頭堡を失うのだった。
蹶起軍が坂下門を確保したのは
二月二十六日 ( 水 ) 午前六時二十五分~七時五分までの四十分間だけのことになる。

片岡特務曹長に伴われて宮城守衛隊司令部に連行された中橋中尉は平然としていた。
お得意のポーカーフェイスだ。ポケットからチョコレートを取出す。口に含んで気を落ち着かせた。
「 司令官室に呼び 更に事情を応答せしむも事情判明せず、犯行せること等全く云わず。
又 態度少しも変わらずチョコレートを衣嚢より出し、「 大変だったでせう。之でもお上がり下さい 」
と 半分に割りて呉れ、煙草に火をつけられ等し、他意無きように見受けたり 」 ・・東京地検所蔵の裁判史料
「 判りました、はい、直ちに処置します 」
門間司令官は師団司令部の橋本師団長の副官から かかってきた電話を切ると、中橋を怒鳴りつけた。
「 貴様ッ よくも騙したな  高橋蔵相を殺ったのは貴様だな 」
中橋は無言で門間を睨みつける。
いきなり腰にしたブローニング拳銃をドサッとテープルの上に投げつけた。
大型拳銃、その銃口からプーンと硝煙の臭いが鼻を突く。蔵相殺害の痕跡を雄弁に示していた。
「 少佐殿、お察しの通り。未明、我ら同志は昭和維新を断行すべく蹶起した。
我が中隊の任務は坂下門を固め、君側の奸臣どもを陛下から遮断することにある。
更に同志の帷幄上奏隊が参内することを警護する。
ついてはこれ以降、少佐殿の指揮権を小官にお譲り願おう 」
中橋の挙動には気迫殺気が感じられた。
門間がとっさに腰にした拳銃に手を掛ける。中橋が首を振った。
「 誤解なきよう、上官殿を傷つけることは、もとより小官の本意ではない 」
すると中橋は拳銃の弾倉から弾を抜き出し始めた。バラバラと机に散らばった実弾が五発。
同時に司令官室内の電話が一斉に鳴り始めていた。
門間の表情が歪み、言葉が訥弁になって行く。
「 陛下のお側をお守りすべき・・ご守衛隊が畏れ多くも・・・陛下に弓を引くとは、貴様・・」
「 陛下のお命を狙おうなど大逆の企ては毛頭ない。ただひたすら大御心を曇らせている奸側の重臣共を芟除せんじょ奉り、
殿下を奉じて一君万民の国家改造を行う、それが昭和維新だ 」
「 なにお・・小賢しい・・陛下の大権を・・私議し統帥権を干犯・・、逆賊め血迷ったか 」
「 逆賊かどうかは、大御心がご判断をなさることだ。貴殿のような軍閥の手先に用はない 」
門間が昂奮気味なのに比べ、中橋の言葉はあくまで冷静だ。
そのときだ。
赤マントが一瞬翻り、中橋は内ポケットに手を入れるや、忍ばせていた短刀を引き抜く。
すかさず木机の上にダーンと突き立てた。
白い刃が突き刺さり、振動で小刻みに揺れる。
「 再度云う、指揮権を小官に足かに お譲り願おう 」
司令官の表情がさらに大きく歪む。
「 ワーオー 」
言葉にならない奇声が門間の口からほとばしった。
ただならぬ気配を聞きつけて、守衛隊の将校、下士官たちが司令官室に駆けつける。
「 逆賊、中橋を監禁しろ。眼を離すな 」
七時二十分のことだ。
湯浅宮相が天皇に、「 後継内閣を置かず 」 と上奏する十分前、
真崎が公用車で陸相官邸に到着する三十分前のことだ。
蹶起から二時間二十分、とうとう危険なバクチに敗れたのだった。
警視庁望楼との信号交信が通じない中で、高橋蔵相襲撃に中橋中隊が携っていたことが露見する。
中橋はガックリと頭を垂れると、両側から抱えられて副司令官室に連行された。
残された門間司令官は取り乱していた。
近衛師団のお膝元、宮城で叛乱が発覚したのだ。
「 中橋の身柄をどうする・・坂下門の控兵小隊をどうする・・ともかく宮城を蹶起軍から防衛しなくてはならない・・
だが実弾が無い・・兵の数も足りない・・師団司令部に緊急報告しなくては・・
うかうかしていると、坂下門に蹶起軍上奏隊が大挙襲来する・・・」
門間司令官の上申を受け、橋本近衛師団長は宮城守衛隊の増強を直ちに指示した。

「 ちょっと出て来る 」
七時五十五分頃だ。中橋中尉は赤マントのまま立ち上がった。
宮城守衛隊司令部の副司令官室。監視役を仰せつかっていた大高政楽少尉は戸惑う。
「 困ります中尉殿、司令官が帰るまで待って下さい 」
「 司令官には俺が断る、心配ない 」
中橋は足早に部屋を出る。
大高は司令官室に飛び込むが誰もいない。
司令部を出て中橋の後を追うと、すでに二重橋 ( 正面鉄橋 ) の上で立ち止まり、
警視庁の方向に何か手で合図を送っていた。
しかし視界が利かない。諦めたのか歩きだし去って行く。
正門から出る際、緊張があった。
「 宮城正門より出門したるが如く  出門に際し、
守衛隊勤務中の某少尉 同門より出門するを拒否せむとするや
中橋中尉は隠し持ちたる拳銃を同少尉に擬して威嚇して出門し、
反乱軍の本体たる首相官邸に赴きたるものの如し 」
中橋は門間司令官との対決の際、机上に置いたブローニングの他に、
皇宮警察によれば、さらに拳銃を隠し持っていたというのだ。
いつの間にか雪が降りだしていた。
中橋は警視庁を経て参謀本部前まで来たところで、
八時四十分頃、偶然、栗原の朝日新聞襲撃の車列と遭遇、そのまま加わるのだった。

リンク

・ 朝日新聞社襲撃 
・ 朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 
・ 
朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎 
中橋中尉 「 ワレ皇居を占拠セリ 」 


中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 1

2019年05月14日 16時47分11秒 | 中橋部隊


午前四時五十分、
中橋は衛兵司令に 「 明治神宮参拝 」 を告げ、なんなく営門を出た。
時を同じくして、宮城には異変が出来していた。
四時五十五分、
突如西方より現われた側車付自動二輪車率いる自動貨車四輌が、二重橋の車止めを突破。
宮城に非常配備の警報が走った。
野戦重砲兵第七聯隊の同志、田中勝中尉の行進である。
それは午前五時の一斉蹶起の先陣を斬る派手な陽動作戦だった。
もちろん中橋の赴任隊出動の口実を作るためであった。

中橋隊は薬研坂上まで来ていた。
赤坂台の近歩三営舎から、青山市電通りに面した高橋邸まで五分とかかるまい。
まだ五時前である。
明治神宮への道なら乃木坂を上がるところだが、兵たちがはっきり異常を知ったのは、この時であった。
まず 第一小隊に実包各五発が支給され、守備隊の服装をした第二小隊にも空砲各五発が配られた。
規則では 赴援隊は別命ないかぎり一切弾薬を携行しないことになっているのである。
なぜなら、控兵出動の要件である宮城の非常は、あくまで火事等を想定したもので、
まさか暴徒の襲撃などのためではなかったからである。
だから兵はともかく下士官ならその異常はすぐにわかったはずである。
かすかな動揺が起った。
それを抑えたのは斎藤ら中橋の命を受けた古参の下士官たちである。
中橋から斉藤へ、斉藤から箕輪三郎、宗形安の両軍曹へ、高橋襲撃は伝達されていたのであった。
中橋が目指す目標は、赤坂区表町三ノ十、大蔵大臣高橋是清私邸である。
一隊は目標の手前、シャム公使館前で歩を停めた。
途中一ヶ所の派出所を迂回したためか、ちょうど五時、一斉蹶起の時刻であった。
中橋はここで第二小隊を公使館脇の小道に待機させる。
そこからは高橋邸が見えない場所である。
突入隊の行動を察知されないための配慮だったろうが、銃撃がおこればただちに知れる距離だった。
そして第一小隊全員に
「 これより 国賊高橋を仆たおす 」
と 告げた。・・3月30日調書
もちろん 第二小隊には一切告げられなかった。
中橋は自ら先頭に立って目前の高橋邸に走り、一気に突入した。
このあたりの果敢な動きは、さすが実戦のたまものだろう。
その手並みの鮮やかさに、若い少尉の今泉はなかば感嘆して言う。
「 ・・・・シャム公使館の処にて第二小隊を残し、中橋は先頭に立ちて第一小隊を指揮し、
 間もなく高橋邸に入りて凶行を演じ、早くも公使館前に隊を引率し来りて
『 只今 高橋邸に異変あり、直ちに控兵として宮城に向かう 』
と 云いて 先頭に立ち第二小隊を指揮して・・・・」・・事件当日関係勤務者調書
が、その中橋の俊敏な行動の裏には、隊内をも欺かねばならない苦しい立場があったのである。
第二小隊はあくまで正規の職責を以て、堂々と入城させねばならないのだった。
そのためには高橋蔵相邸での銃声が、中橋自身によるものと思われてはならないのである。
さらに中橋は隊外に対しても迷彩をほどこす。
高橋邸は現在の南青山一丁目、高橋記念公園である。
当時の青山通りには市電が走り、対面は大宮御所だった。
大宮御所には皇宮警察と近衛の守備隊が警護にあたっていた。
中橋はそれを承知で通り 軽機を二梃据えている。
びっくりしたのは先方である。
「 午前五時十分頃、細田警手は青山東御殿通用門に勤務中、
 高橋蔵相私邸東脇道路より、将校一名・下士官二名が現れ、将校が同立番所に来て、
『 御所に向っては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 』
と 挨拶した。
細田警手は言葉の意味が解らず、行動に注意していたところ、
同将校は引き返し、道路脇で手招きして着剣武装した兵約一個小隊くらいを蔵相私邸に呼び寄せ、
内 十二、三名を能楽堂前電車通りに東面して横隊に並べ、道路を遮断し、軽機二梃を据え、
表町市電停留所にも西面して同様に兵を配置し、他は蔵相邸小扉立番中の巡査を五、六名で取り囲み、
十数名が瞬間にして邸内に突入した 」 ・・皇宮警察史
その後、邸内より騒音が聞こえ、銃声が七、八発したと同書にある。
まず鮮やかな手際ではあるが、
わざわざ軽機を目立たせた意図は明白である。
異変の出来を皇宮警察を通じ、守衛隊に知らしめる為に他ならない。
もし 隠密裡にことを達するつもりなら、銃を使用せずとも討ち取れる相手であろう。
高橋蔵相は齢八十二の老人であった。
実際、襲撃は完璧に近いものであった。
護衛警官 玉木秀男に軽傷を与え軟禁し、所要時間わずか二十分たらずであった。
・・・中略・・・
しかし 初っ端、そこで中橋に、すでに不運は兆していた。
その日の大宮御所衛兵司令が、前出の今井一郎中尉だったのである。
松下はその一隊が星に桜の徽章きしょうであることを聞くや、すぐに中橋に想到したのである。
その頃、守衛隊司令部では田中勝中尉のデモストレーションに一旦は非常配備をとったが、
田中の宮城遥拝のためという釈明で一件は落着していた。
しかし、休む間もなく大宮御所の松下からの通報に接し 色めきだった。
午前六時前、こんどこそ まごうことなき異変の出来だった。
それから約二時間、いよいよ中橋の宮城での暗闘が始まろうとしていた。

「 午前五時二十分頃、大宮御所衛兵司令今井中尉より高橋蔵相私邸に暴漢襲撃し、
殺傷事件を惹起せるを以て非常配備を取りし旨 報告ありしを以て
宮城各衛兵に非常配備を下令し、且 今井中尉に事件の詳細報告 ( 加害者不明なりし為 ) を命ずると共に
各関係方面に報告、通報す 」 ・・3月25日近衛師団報告書
その騒ぎの真っ只中に、まさに張本人の中橋が登場するのである。

高橋邸襲撃を終えた中橋は、突入隊を中島少尉、大江曹長、箕輪、宗形 両軍曹に託して首相官邸に向かわし、
こんどは赴援隊の第二小隊を今泉、斎藤と共に率いて青山通りに出、半蔵門に向かうのだが、
すぐに田中の自動車隊に遭遇する。
「 ・・・蔵相邸表に出ると、陸軍砲兵中尉田中勝が自動車四台を率いて通り抜け、
私に 『 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 』 と 云い、
田中中尉が 『 非常!』 と 叫んでいたという事で、
突発事態に遭遇したと認め 第七中隊は直ちに宮城に赴く 」 ・・・3月15日 中橋調書
「 非常 」 というのは敬礼をできない時に使う軍人用語である
午前六時やや前、守衛隊司令部に今井中尉から情報が入った。
「 前記 今井中尉より皇宮警察の通報に依れば
 蔵相を襲撃せるは、近歩三 中橋中尉の指揮する一部隊なりとのことを報告す。
依って直に近歩三 日直指令 南大尉に電話連絡せしに、
未だ承知しあらざりしを以て巡察の派遣を依頼す 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
その報に、しかし司令官門間は、
「 大変なことをしてくれた。然し 今井中尉 又は衛兵が実見せるにあらざる故 疑わず、
まさか近衛将校がそんな事をと 思えり 」・・・3月25日近衛師団報告書
と 考え、その場に来た伝令に、中橋の人格問題だと口止めする気配りを見せている。
そして中橋がその日の控兵隊長であることを知りつつも、
よもや当人が宮城に来るとは予期しなかったとも供述している。
が、その頃 中橋はすでに半蔵門に到着していた。
中橋もまた自分が疑われているとは思わなかったにちがいない。
この迅速な判断は、たぶん今井中尉の個人的な中橋観、二年前の事件に由来した私情だったと思われる。
「  『 司令殿、唯今 皇宮警察から電話があり、高橋蔵相私邸に近衛の徽章をつけた兵隊たちが来て、
何かやっているとのことであります 』 と言う。
私の頭には三年前栗原中尉と中橋中尉によって実行されようとしたクーデター計画が蘇って来た。
高橋邸に来ているのは、中橋中尉に違いない。
と すると 宮城が危ない 」 ・・今井一郎記
正確には、中橋隊が半蔵門に到着したのは午前五時五十分頃である。
皇宮警察が立番する門前に約二個小隊の兵が来て、
特務曹長が警手の許に駆けつけ
「 近衛三聯隊中橋中尉以下二個小隊が正門守衛隊の応援に来た 」
旨を申し立てたのである。
特務曹長といえば斉藤一郎である。
その斉藤があえて二個小隊と告げたのは、今泉少尉が同道していたからだろうか。
つまり自分と今泉、二人の小隊長がいると判断されると察しての機転だったのだろう。
そこにちょうど来合せた半蔵門衛兵司令が応対した。
小谷信太郎特務曹長である。
すでに小谷はその少し前に、守衛隊司令部より 「 何かあったらしい。警戒を厳重にすべし 」
との命令を受け、半蔵門を三人哨にしていたから、
控兵の到着になんら不審を抱かずに門内に入れた。
その際 中橋は
「 非常配備をとらなければならぬ状勢になったから、控兵を連れて来たり 」
と 平然と告げている。
さらに傍らの皇宮警察にも
「 どうか変な者を入門させないよう十分注意して下さい 」
と 激励している。 ・・皇宮警察史
二月二十六日の日の出は六時十六分。
暁闇の中、中橋の一隊は、深々と積もった雪の宮城の風情をたのしむでもなく、
正門脇の守衛隊司令部をめざし玉砂利を踏んで行った。
中橋隊の守衛隊司令部到着は六時頃である。
「 午前六時頃 控兵たる第七中隊長代理中橋中尉、今泉少尉、斎藤特務曹長 以下六十二名到着し
中橋中尉は左記要旨の報告を為す。
其時 帯刀者は軍刀を佩はいし 中橋中尉は上衣の第二 第三釦を脱しありたり 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
中橋は小隊に待機を命じ、今泉、斉藤を伴い司令部にはいった。
この時 司令室には門間司令官と中溝猛儀仗衛兵司令がいた。
ただちに中橋が赴援隊到着の報告をする。
まず中橋にとっては最初の勝負どころである。
オシャレで有名な中橋が上衣の釦をかけ忘れていたというから、その緊張ぶりがわかる。
「 明治神宮参拝の為 非常呼集を為し 行軍中蔵相附近に於て非常事件の起れるを知り
直ちに控兵として転進到着せり・・・3月25日近衛師団報告書
門間はすでに、大宮御所の今井から蔵相襲撃の暴徒が中橋との報告を受けていた。
しかし、その到着前に聯隊日直指令に中橋隊の動向を照会し、
「 帝都に突発事件生じたる為 非常と認め直ちに宮城に到る 」
旨の中橋からの伝令があったことを確認。
さらに状況把握のため師団司令部へ派遣していた友安曹長が戻り、
暴徒は歩三の安藤以下だとの情報を受けていた。

門間の報告 ( ・・・3月25日近衛師団報告書 )
「 近歩三にては なかりしや を確め その様な事聞かずとの返事を得、
之は歩三と近歩三との間違いならんと思えり 」
さらに中橋隊到着に際しては、
「 やはり間違いなりと ホッとすると共に、たいそう早く来たものなりと思えり・・・・
近衛将校として犯行者が控兵を率いて来るべし 等とは全く思わず・・・・
中橋の到着時は稍々やや気き込みありしと上衣の第一第二釦の外れある位にて
態度には格別不審も抱かず只速に坂下門を警備に行くことを申言せり 」
門間の供述を信ずれば、守衛隊司令官としての門間はいかにも呑気である。
たしかに近衛将校がそんな大それたことを、という思いはわかるが、
前後の状勢から一応懐疑の眼を向けてもよさそうなものである。
しかし、門間は中橋の申言に応じて中橋小隊を坂下門の警備に当たらせる。
「 事態切迫せるを以て直に中橋中尉の指揮する一小隊を以て坂下門の警備に任せしめ、
他の一小隊は今泉少尉の指揮を以て予備となす 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
この坂下門の警備は、規則によって赴援隊出動の際の定位置だったから、
ひとまず中橋の申言は妥当なものであった。
ここで中橋の勝負は勝ちである。
結局、中橋はほぼ予定通りの時間に坂下門を押さえることに成功した。
その時間は、前後関係から六時十五分頃であろうか。
遅くも六時二十五分前だったのは 『 皇宮警察史 』 によって 明らかである。
「 近衛守衛隊においても、六時二十五分 坂下門内外に 将校一名、兵五名を配置し・・・」

その頃、桜田濠を隔てた警視庁の屋上に無数に光る男達の双眸そうぼうがあった。

歩兵第三中隊付少尉 清原康平率いる約四十名、彼等は九百メートル離れた坂下門を一心に見つめていた。
宮城に入った中橋隊から、 「 占拠成功 」 の信号が送られてくるのを、今や遅しと待っていたのである。
清原を含む警視庁占拠部隊は、歩三第七中隊長 野中四郎大尉以下総勢五百名、蹶起部隊中最大の陣容だった。
将校四人を配し、重機関銃八挺、軽機関銃十数挺、実包四万発、優に一個大隊に匹敵するものである。
いかにも目標が警視庁とはいえ、当時は警官の拳銃携帯も限られており、
深夜は当直がわずかばかりで、とうてい完全武装の軍隊の相手になるような敵ではなかった。
野中ら将校が多数留意したのは、柔道の有段者など選抜して組織した新撰組と呼ばれた帝都特別警備隊だが、
重機を備えた大隊と対峙しうる戦力ではなかった。
もちろん それを承知で大部隊を投入したのは明らかである。
目的は眼前に黒々と横たわる宮城への進駐にあった。
警視庁をその拠点としたのは戦術上から一石三鳥の上策だった。
まず、蹶起初動の時点で敵対勢力となる可能性のある警官の本拠を扼やくして、その力を封殺する。
第二に 警視庁舎は宮城に至近な建物で、しかも屋上の望楼は手旗信号の交信に最適である。
第三に 庁裏の空き地に大部隊を収容でき、進駐まで隠密裡に待機させることができる。
ここに野中隊の下士官だった福島理本の覚書がある。
それには蹶起当夜の歩三の状況、野中大尉の蹶起趣旨などが克明に記されているが、
野中の言として注目すべき個所がある。
「 天佑有り、先日の大雪にて垣根 ( 警視庁裏の空地の柵 ) 破れ居れり 」
実際、警視庁を無血占拠した野中は、事前の申合せ通り 兵の大部をこの空き地に待機させている。
そのため五百の大兵力は秘匿され、また坂下門へもっとも出動しやすい態勢が得られた。
指揮官の野中に 「 天佑 」 と 云わせたのは、警視庁占拠に伏在する目的を考えてのことだったのである。
その宮城の中橋からの信号を野中から命じられた清原は、占拠後ただちに屋上望楼に上った。

時刻は六時頃であった。
「 ・・・・野中大尉が警視庁と折衝の結果、同庁の明渡しを受け、
私は第三中隊の一部 ( 約四十名 ) を以て

( 軽機関銃二ケ分隊、小銃二ケ分隊 ) 警視庁屋上を占拠すべき命を受け、
直に占領しました 」 ・・3月2日 清原調書
そしてさらに清原は、
戦後になってからこの時の任務の真相について語っている。
「 私の任務は兎も角も屋上に駆け昇り、機関銃座を作り、そして間近に見える宮城の森の中で、
小さい光に依る信号が現れるのを待つ事でした 」
「本庄侍従武官長が天皇に上奏して
その御内意をうけたらそれを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する。
わが歩兵第三聯隊が堂々と宮城に入り昭和維新を完成する。
これがあらかじめ組んだプログラムですよ」。
「宮城に入った赴援部隊が実弾をもたなかったというのもそれです。」
「(中略)所が陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。
陸相や真崎さんは、待てど暮らせど本庄さんから連絡がないから、自分の方から動けない。」
「 天皇の怒りが全ての計画をホゴにしたことはあきらかです。」 ・・文芸春秋 昭和61年三月号


坂下門に着いた中橋がまず命じたのは兵の配備であった。
門内正面に歩哨四名、坂下門右側土手堤に歩哨二名、同左側土手堤一名、
さらに門外前方にも歩哨二名を配した。
又、斉藤特務曹長指揮の二箇分隊を蓮池門跡に配置している。
これは近歩一、二聯隊への万一の備えとみるべきであろう。
近歩一、二の二つの聯隊は宮城の北端に隣接した現在の北の丸公園に所在していたが、
当然非常の際は位置からいって、直ちに出動すべき部隊である。
かりにその二個連隊が討伐に出動すれば、もちろん中橋の小隊など鎧袖がいしゅう一触であった。
が、中橋にその懸念はまずなかったと見ていい。
なぜなら近歩一、二聯隊が宮城に入城するには乾門いぬいもんを通る。
だから、乾門と御所との間にある蓮池門跡に兵を配せば、御所を背後にすることが出来る。
近衛が御所に向かって発砲することは、まずあり得ないことを同じ近衛の将校中橋が知らない訳はない。
又、近歩一、二とて独断で出動することはあり得ない。
宮城内のことだから、先ず侍従武官府から参謀本部へ、その命令を以て初めて動くのが軍の統帥系統である。
そこにも侍従武官長本庄への期待があった。
が、ともかく中橋は念の為か、二箇分隊を配置した。
そして残部の一箇分隊を皇宮警察前に駐め、中橋自らが直接指揮をとった。

皇宮警察は宮内省管轄の皇室警備隊で、昭和九年度の数字だが全国総数五百九名を数えていた。
そのうち四百四十四名が在京部員で、宮城にはその半数があった。
しかし、銃保有率は二割六分強という弱体で、やはり軍隊の敵ではなかった。
ただその本部は内坂下門前 ( 東渡廊下坂下 ) にあり、坂下門には九十一名が詰める第一分遺所があった。
又 互いの立場上、近衛とはつねに紛議の絶えない関係だっただけに、
中橋にとってはむしろ油断のならない相手だったのである。

ついで中橋は、兵たちに重臣、大官の参内阻止を命じた。
「 軍人は陸相官邸、文官は首相官邸へ連行する 」 ・・3月30日 中橋調書
との命令である。
そして 供述にはないが、同志との申合せにしたがい
「 尊王討奸 」 の合言葉 と 「 三銭切手 」 が 通行証であることを告げたにちがいない。
これで中橋の坂下門警備の準備完了である。

中隊長代理の中橋には、傍らに常に伝令と通信兵がいた。
伝令は金森一郎一等兵、通信兵は長野峯吉一等兵であった。
長野は入場直後、宮城午砲台で警視庁屋上からの手旗信号を受信するよう中橋から命じられている。
「 宮城に入ってすぐ中隊長に呼ばれ、お前は午砲台に上がって、
警視庁の屋上からの通信を受けろ。あり次第 すぐに報告せよ。
と 命ぜられ、それから三時間くらい眼をこらしていました。
その日は雪模様でしたが、
とにかく警視庁は お濠を挟んで目の前ですから、なんとか識別できる状況でした 」 ・・長野峯吉談
しかし、長野を午砲台に残したのは中橋の失敗だった。
当初の計画では宮城からの発信は午砲台だったようだが、
実情は坂下門に着いた中橋が午砲台の長野に発信させるのは容易ではなかった。
交信の条件としては距離にして約半分の午砲台が勝るが、
一旦 坂下門に定置した中橋が午砲台へ連絡する手立てがないのである。
又、長野が中橋から命じられたような警視庁からの発信もなかった。
不思議な事である。
警視庁の屋上へ上がった清原少尉も亦、受信を命じられたのみである。
どちらかが発信しなければ受信できないのは道理だ。
とくに中橋としては逸早く坂下門占拠の報を警視庁へ、さして栗原へ伝えなければならない。
おそらく、中橋は 先づ坂下門のどこかから自ら発信を試みただろう。
あるいは 実弟武明から無理矢理 借り出した新型懐中電灯を使ったかもしれない。
だが、受信の応答は得られない。たしかに、受けるべき清原にも届いていない。
二月の払暁ふつぎょう、しかも 雪模様の曇天で
手旗にせよ、発行にせよ、かなり交信条件は悪いといわねばなるまい。
中橋らは当然その日の日の出時間を六時十六分と確認していたにちがいないが、
あいにくの天気であった。
しかし、このことは重大である。
交信不能で済むことではもちろんない。
又、隊のことなる歩兵通信の難しさは常識だったから、万一の場合はいたずらに届かぬ信号を送るよりも、
わずか一kmにみたない相手だ、伝令を走らすことを準備していたろう。
実戦経験を持つ中橋にそんな初歩的な判断がつかぬはずはない。
中橋は伝令 金森を走らせたにちがいないのだが、金森一郎は今日すでにない。
随い 仮作する
中橋の命を受けて通信紙を持った金森は警視庁へ走った。
坂下門から警視庁はせいぜい五分とかからない。
野中がそれを受けた時間は遅くとも七時半前である。
それには傍証がある。
八時前、宮城からの受信の任に当たっていた清原は、
目的を達しないまま野中の命により 警視庁屋上から隊員ごと降ろされている。
絶大な天皇信奉者だった野中は、急遽与えられたこの宮城に関する一連の任務になお、
ためらいがあったのかもしれない。
計画は承知していたものの、進駐には慎重な姿勢を堅持したのではないか。
それは野中にとって最後の手段でよかった。
突発直後のことである。
彼我双方とも 一挙の帰趨きすうがつかめない時点での先走りにも思えたのではないか。
これについて清原少尉は明言する。
「 私は宮城の中で点滅するはずの信号を、いまかいまかと待っていた。
その信号こそ、中橋中尉による宮城占拠の成功を知らせるものだった。
信号があり次第、安藤大尉が兵を率いて宮城に入り、昭和維新はそのとき成るはずだった 」 ・・文芸春秋 昭和46年6月号
仮に宮城進駐の指揮官が安藤だったにせよ、
三宅坂に待機する安藤へ宮城内の中橋が直接伝達することは かえって迂遠である。
位置の定まらぬ路上の安藤隊を捜す愚を犯すとは思えないからである。
何れにしても野中は占拠成功の報を手にした、これは確かな事である。
しかし、野中は動かなかった。

次頁 
 中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 2  に  続く
仲乗 匠 著 「 ワレ皇居を占拠セリ 」 から


中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 2

2019年05月13日 05時02分11秒 | 中橋部隊


前頁  中橋中尉 「 ワレ皇居を占拠セリ 」 1 の  続き


この警視庁への坂下門占拠成功の報は、二つの意味で極めて重要だったと推察される。
一つは、前記の通り、まず坂下門を占拠し、その後、安藤隊を坂下門から城内に誘導する。
そのため、交信しやすい警視庁を連絡の中継点とした。
或は 野中の大部隊は主に坂下門外に展開して門内外の危急に備える役割だったのではないだろうか。
いかに栗原、中橋が強行派としても城内に重機関銃を据えることは無かったと思われる。
又、野中という人間を一考すれば、宮城内での非常行動には適さないことくらいは認識していた筈である。
その点 安藤なら信が置ける。
だから計画の推進には、どうしても誘導する中橋隊と主力となる強力な部隊の参加が必要だったのである。
安藤隊は安藤の不屈の意志、隊の団結など蹶起部隊中最強だったことは、誰もが認める処であった。
侍従長襲撃後、安藤隊が三宅坂三叉路に到着したのは、既に六時前のことである。

そして いま一つの目的は、蹶起軍幹部と川島陸相との会見に間に合わす事である。
磯部、村中、香田ら先任者を含めた丹生中尉指揮の歩一第十一中隊は、
四時二十分営舎を出発、溜池から首相官邸を通り過ぎ、陸相官邸に着いたのは五時をややまわった頃である。
その際、首相官邸をたんとうした栗原の一隊が、既に官邸の占拠を終えているのを磯部は確認している。
まず玄関で、香田と村中が護衛憲兵に、
「 国家の一大事につき、至急大臣にお会いしたい 」 と告げ、香田が名刺を出す。
始めから陸相に危害を加える意図はなく、あくまで善処を懇請するためだから、
礼は尽くさねばならぬ。
しかし、川島は風邪ぎみと称して、なかなか現れない。
このくだりについては、磯部も詳細に その 「 行動記 」 に 記している。
川島が軍服に身を構えて彼等の前に現れたのは六時半過ぎ、
香田が直に「 蹶起趣意書 」を 読み、永田町一帯の地図を拡げ現在の状況を説明し始めた。
磯部は焦燥を感じていたに違いない。
その何よりのポイントとなる坂下門、そして宮城進駐の報告が未だなのである。
やがて栗原がその場に駆けつけた。
計画では宮城の中橋から警視庁へ、そして首相官邸の栗原へ報告がもたらされ、
陸相官邸には栗原が自ら出向く段取りだったのではないか。
しかし、栗原は磯部に首を横に振る。
ここで、宮城占拠を川島に告げれば、彼等が携えて来た要望事項のすべてを川島は呑まざるえないのである。
つまり、磯部、栗原はその陸相との最初の会見までに、宮城占拠 若しくは坂下門占拠の事実が欲しかったのである。
時間的には間に合う手筈だったのだ。
が、待てども彼等が切望した占拠成功の報は、遂に届くことは無かった。

蹶起初動のその時点で、彼等の宮城占拠にただならぬ眼を向けていたもう一つの男達があった。
陸相官邸から目と鼻の先に在る海軍省の一室である。
その日、海軍は午前五時半事件勃発の第一報を受け、直に海軍として対応を協議している。
海相大角岑生大将、軍務局長豊田副武中将、軍令部の次長島田繁太郎らの決定の骨子は、
一、帝都に在って天下の号令する天皇の地位を守護する
二、宮城防衛に徹する
などであった。
陸軍の混乱ぶりから比べると、極めて冷静な状況分析だといえる。
ただ一点、玉座の確保だけが海軍の重点だったのである。
すぐさま 横須賀鎮守府から軽巡 「 木曽 」 が芝浦沖へ急派され、
非常の場合 艦上に玉座を移すことさえ考えられていたのである。
しかし、結果的にはその海軍の英断も、無に帰した。
けっして海軍の杞憂ではなかった彼等の宮城占拠計画は、全て順調に進んでいたのだが、
それが潰えたのは、唯一つ 思いもよらない理由からであった。
次の一文が何より その占拠失敗の原因を物語っている。

三月十五日付 栗原調書である。
「 野中部隊ガ警視庁屋上カラ
 中橋中尉ハ宮中ノ午砲台ノ上カラ 手旗信号ヲ送ルコトニナッテ居リ

中橋ハ送ツタガ 野中大尉ハ送ラナカツタ様デス
野中大尉ハ自殺サレタソウデスガ 自殺スル程アツテ常ニ決心ガ動揺して居タ様ニ見受ケマシタ 」
すでに自決した先任の同志に対する言辞として、なんたる冷淡さであろう。
謹厳実直で人格者として信望のあった野中へのこの誹謗は、異常のものである。
宮城占拠計画の立案者と思われる栗原にとって、野中の不断はとうてい許し難いものであったのだ。
まして敗残の将となった事後、思わず口をついて出たという雰囲気が一層、凄味を感じさせる供述である。

野中は決起趣意書の代表とされた同志の最先任将校であった。
陸士三六期、幼年学校から進んだ陸軍軍人で、陸軍少将野中勝明の四男である。
中橋同様、将官の家庭で育まれたが 「 野中型 」 と評されるほどの真面目さで、
その国体観も熱烈だったという。
逡巡する安藤に
「 ここで起たなければ、かえって天誅が下る 」
と 諭し、安藤に断を迫ったともいわれている。
その野中が警視庁隊の指揮官になったいきさつは不詳だが、
平素の言動からして宮城占拠については若干の抵抗があったと思われる。
福島理本によれば、
宮城に入った中橋隊を 「 錦旗護衛隊 」 と 読んでいたというが、
その意図を知りつつも 断行できず時を逸したのが実情ではなかっただろうか。
できるなら威圧にとどめ、実行は回避したかったのが本心だったと看て取れる。
安藤隊への連絡も同様に、末代までの汚名を着せるに忍びなかったのだろう。
その野中の裡では蹶起が、そのまま革命ではなかったのである。
二月二十九日、野中は蹶起軍の帰順直前、陸相官邸で一人自決する。
その死に不審を抱く同志もいたが、さきの栗原のような冷やかな視線もあった。
敗色濃厚となった彼等の中で野中を責める空気が無かったとはいえなかろう。
だが、栗原、中橋の宮城占拠計画が野中の逡巡にあって失敗したとしても、
こうまで栗原が野中を責めるのはあたらない。
野中は中橋隊の控兵上番を 「 天佑 」 だと信じていたような純真な軍人だった。
みずから率いた兵たちにも、絶対に銃口を宮城に向けるなと厳命していたように、
野中には野中の信念があったからである。

いつまで経っても、進駐すべき味方は来ない。
目標とした重臣連も一向に現れない。
なぜならその頃既に、皇宮警察は湯浅宮内大臣に諮はかり宮城各門大扉を閉め、
代わりに関係者を各門小扉から参内するようはからっていたのである。

ではいったい、中橋がその参内を阻止しようとしていた重臣、大官の顔ぶれはどういうものだったろうか。
同志との計画で襲撃の対象となった者を除くと、湯浅宮内大臣をはじめとする全閣僚、
木戸幸一内大臣秘書官長、一木枢密院議長、軍人では杉山元参謀次長、軍事参議官寺内寿一大将などであろう。
なかでも君側第二グループと目された湯浅、木戸などが最重要人物だったろう。
ところが、その朝早く、木戸は坂下門から参内している。
「 ・・・溜池を回って日比谷から坂下門へ行ったら、また剣付鉄砲をこっちに向けているんだ。
 また入れないかなと思ったら、これは近衛の兵隊だったわけだ。
宮内省の車だとわかっているんで、問題なく入れた 」 ・・勝田龍夫 「 重臣たちの昭和史 」 木戸幸一談
その記述の前後から推して、
時間は六時半前、近衛が警備について居た訳だから中橋隊である。
時間的には中橋が坂下門到着後、忙しく兵の部署を指図していた比にたる。
まさに間一髪、わずかな間隙を縫ったけである。
この木戸の参内はあまりにも大きな結果をもたらすことになった。
参内した木戸は解体したにひとしい内閣を、湯浅内大臣の名で召集し、
内大臣代理に一木枢密院議長をあて、内閣に代わって宮中に政治の核を作り、
難を逃れた後藤文夫農相を首相臨時代理とすることで、
蹶起将校や真崎ら皇道派高官の後継首班をめぐる政治的意図を粉砕したのである。
その木戸を援護したのは、ほかならぬ天皇であった。
終始鎮圧を求めた天皇だったが、混乱の極にあった政体を収拾したのは天皇ではなく、
木戸の政治手腕といってよかった。
中橋にとっては、木戸を坂下門で討ち洩らしたのは、だからこそ明暗を分ける大きな失態となった。
完全に中橋は玉を擁することに失敗したのである。
が、中橋も、木戸も幸か不幸か、互いにそのニアミスを気付かずに終わった。

湯浅、広幡はいずれも中橋らの想像を超えた連絡網に与かって、逸早く参内して常侍官室で木戸を迎えている。
中橋はその実情を知る由もない。
しかし、待ち時間はとりあえず午前十時まで、残すところ三時間にみたない。
坂下門を占拠したものの、所期の目的は何ひとつ果たせない焦燥が中橋の裡にあった。

中橋は予定外の行動に出た。
眼前の皇宮警察本部に注文をつけに出向いたのである。
「 ( 中橋中尉は ) 警察部玄関内に待機していた篠原警手に対し、上司への面会を申し入れた。
そこで市原警手部長が面接し、要件を尋ねたところ、
『 近歩三の中橋中尉であるが、宮城の出入は坂下門に限定致したい 』
と 申し述べたので、その報告を受けた佐野警部が再び中尉に応接し、
『 宮城全般の出入は皇宮警察部に於て決定すべきものゆえ、趣旨は本部に伝えておく 』
と 返答した 」 ・・皇宮警察史
その二人の応酬を、ちょうど皇宮警察部長との協議を終えて出て来た中溝大尉が聞きつけ、
不審を抱いた。
中溝は
「 叛乱部隊が上奏隊を宮城に侵入させる計画あり 」
という情報を得た皇宮警察と、その対策を協議しての帰りだった。
この 「 上奏隊 」 こそ、
中橋が誘導すべき外部の同志のことだったかもしれないが、
その阻止を決したばかりの中溝が、偶然中橋の挙動不審を察知することになったのは皮肉な巡り合わせであった。
その後、中溝はその場から中橋を守衛隊司令部へ連行した。

その間守衛隊司令部では、諸方から入る情報に門間が中橋に対する疑念を深めていた。
七時十五分には憲兵中尉が司令部へ連絡に来たが、依然、暴徒の特定はできず、
ただ一挙の規模のおおきなことのみが関知された。
が、その後の門間はついに決断し 中橋を司令部に呼んだ。
この点 さき皇宮警察史の記述とくい違いがある。
「 所項に依り 中橋中尉の言動に疑問を感ずること深くなりし故、
坂下門が大官の主要道路なるを以て、万一を慮り 正門衛兵司令中溝大尉をして、
中橋中尉を司令部に招致せしめ今泉少尉と交代せしむ。
中橋中尉は約三十分後帰来したるを以て、司令官 及 正門司令の補助として司令部にあらしめ、
司令官の許可なく他出を禁じ、部下将校 及 書紀をして行動に注意せしむ 」  ・・・3月25日近衛師団報告書
又、その時の心境として門間は、
「 今より考えれば第六感と云うべきか、中橋の到着前後の時間関係 及 坂下門警備を主張せし事等に
何となく疑念を深めたり 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
と 自賛しているが、中橋招致に関する皇宮警察との食い違いを思いあわせ、門間の態度は釈然としない。
近衛師団の経過報告書の経過を追うと 中橋が司令部に来たのは、七時半頃と推測される。
これ以降 中橋は坂下門から離れ、代わりに今泉少尉が同門の警備について。
これまでの史料ではこの時から中橋が坂下門に向かったことになっていたわけである。
勿論今泉は同志ではなく、中橋の目的も聞かされていない。
だから、それだけに何も目的を達していない中橋が、
単に門間に呼ばれたからといっておとなしく占拠した持場を離れるのは不可解である。
むしろ 『 皇宮警察史 』 の記述通り、中溝に無理矢理連れてこられたという方が呑み込みやすい。
もし 門間の招致に素直に応じたとすると、その中橋には警戒心より期待感があったのではなかろうか。
中橋はまだ自信を失ってはいない。
全て計画通りことは進んでいる。
野中の逡巡を中橋は夢想だにしていなかったろう。
一向に野中、安藤の増援が来ないのは、事態が好転し その必要がなくなったからではないか、
確かに中橋から見ればその可能性も十分あったのである。

ここでもう一度、中橋が宮城に、守衛隊司令部に来着した時を考えてみよう。
当事者から聴取して作成された近衛師団報告書に虚偽はなかったのだろうか。
たとえば、次のような証言もある。
「 ・・・中橋は宮城内に進駐すると、守衛隊指揮官の門間少佐を威圧して、
指揮権を渡すように強要したという・・・
『 今晩、歩一、歩三の我等同志は、一斉に蹶起して昭和維新革命を決行した
我が中隊は坂下門の守備を固めることによって、君側の奸臣どもを側近から遮断せんとするのである。
これ以後、指揮権をお譲り願いたい・・・・』 石橋常喜 『 昭和の反乱 下巻 』
これは東京日日新聞の陸軍番記者で青年将校に近かった著者が、
陸軍省新聞班の松村秀逸少佐から聞いた秘話だという。
いかにも、宮城に入った中橋が演じそうな場面である。
懐柔説得か、武力制圧か、中橋の選択肢はそれしかない。
ともかく守衛隊を沈黙させるのが第一義であることはいうまでもない。
だから、初めに中橋が門間に同調を求めた事も、あながちない事ではなかろう。
たとえば武官府への連絡等を依頼するくらいはあったのではないか。
武官府には本庄がいる。
省部の幹部将校ですら、一挙の帰順が読めず、
血を浴びて来た蹶起将校らの顔色をうかがう者が多かった勃発直後のことである。
一挙がもし成功すれば、彼等の行く手を遮った者の将来はない。
保身に汲々とするのは軍人社会でも同様である。
近衛師団報告書を通して、門間の応対を直ちに嚥下えんげできないのは、
中橋の説得にあって日和見したのではないか、と 思われるからである。
だから、その門間を通して本庄との連絡がついたという場合も想定できる。
本庄への期待はまだ中橋の中に生きていた。
或は本庄を通じて進めていた筈の宮廷工作が成功したという、最良のシナリオを夢想したかもしれない。
それは中橋一人の夢想ではなかった。
「 午前六時半頃、師団副官可能少佐より、弾薬分配は別命あるまで待つべく、
兵器の使用は努めて差控ふべき事、及 派遣隊を増派の旨通報あり 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
まだその時、中橋の赴援隊は蹶起軍とは認定されていない。
にもかかわらず、その衝突を事前に制御する命令である。
うがった見方をすれば侍従武官府、すなわち本庄の指示とも思われる発令である。
その合意は上部の判断が出るまで、そっとしておけということである。
その判断が中橋らに傾けば、もちろん宮城占拠も必要なく、守備隊、さらに前陸軍が味方となるのである。

その頃宮中では、本庄も亦懸命の努力を重ねていた。
天皇は本庄の参内以前、午前五時半に事件を知った。
襲撃された侍従武官長鈴木貫太郎夫人からの通報であった。
当時侍従甘露寺受長から伝え聞いた天皇は、
「 とうとうやったか・・・・」 ・・甘露寺受長 『 天皇様 』
と 一言いったきりだったと云う。
その後 直に陸軍大元帥の軍服を着用し、政務室に入る。
通常天皇は海軍服で政務をとるのが慣例だったが。
本庄が政務室に入ったのは六時過ぎのことである。
この時が本庄の勝負である。
「 参内早々 御政務室にて拝謁、
 天機を奉伺し、容易ならざる事件発生し恐懼に堪へざる次第を申し上げる と

天皇は
『 早く事件を終熄せしめ、禍を転じて福と為せ 』 
と 非常に深憂の様子であった 」 ・・「 本庄日記 」
とある。
天皇は事件を まず 「 禍 」 と 捉えていたのである。
従って、以後本庄の苦衷は四日間に及んでいくのだが、
「 本庄日記 」 の記述は
はっきりと天皇が本庄や蹶起将校らとは敵対する立場だったことを示している。

然し、本庄にしても天皇が斯くも明確に自らの所信を開陳し、
執拗にその実行を迫るとは予期し得なかったのではなかろうか。

その本庄に幕末の岩倉具視ほどの気魄はありようもなかった。

中橋が司令部に着くのと前後して、近歩一から派遣隊が到着した。
これも規則にある正規の増援部隊である。
赴援隊でも足りない場合に、更に近衛師団から急派される。
歩兵二箇小隊、高射機関銃隊、軽機四分隊である。
その配置に騒然とする中、中橋は一人司令室に入った。
門間は一人であった。
まずその門間の供述。
「 素直に帰りし故、顔を見し時は一寸安心せり。
・・・・更に事情を応答せしも事情判明せず。犯行せんこと等 全く云わず、又態度少しも変わらず・・・」 ・・・3月25日近衛師団報告書
既にこの行間からは、門間が中橋の犯行を承知していたことが看取できるが、門間はシラをきっている。
「 中橋はチョコレートを衣ノウより出し、 『 大変だったでせう、之でもお上がりください 』 と 半分に割りて呉れ、
煙草に火をつけらん等し、他意なき様 見受けたり 」 ・・・3月25日近衛師団報告書
さすがに創作とは思えぬ情景だが、いかにも上官を馬鹿にしたような中橋の様子がありありとわかる。
自らの誘いに動揺する門間の小心を中橋は笑う。
だが、それ以後のやりとりは一切報告書にはない。
それっきりだった筈はないのだが、訊問した近衛師団が削除したか、たとえば中橋の最後の説得など
師団に不都合な内容だったことが推察される。
松村少佐の談にあったように、銃を取出して強要するような場面があったかもしれない。
その二人の面談は長くて十分位であった。
門間が巡察に出たからである。
これも甚だ不自然な動きだが、それ以後中橋は司令部の一室に軟禁される。
そして その挙動がおかしくなるのは、七時十五分頃からである。

「 この頃、中橋中尉は無断正門方向に巡察に到らんとするを発見し、
呼び戻せしが爾後屡々増派 ( サイドカー ) の来否を問ひ、
或は 軍刀を抜き 拳銃を取出す等の挙動ありしのみならず、
部下の兵に手旗を以て警視庁方面と信号せしめんとするが如きことありしを以て、
第七中隊通信手一等兵長野峯吉 及 伝令一等兵金森一郎 両名にして『 連絡を取るから来い 』 と 命じ、
正門衛兵所南側堤防に上がり、中橋中尉は何事か大声に叫びしも応答なし。

又 通信手は相手に手旗なく、使用せず、之を発見せし片岡特務曹長は、
直に手旗を取上げ、且 中橋中尉を連れ戻せり・・・」 ・・・3月25日近衛師団報告書
中橋がしきりに気にしていたという、増派のサイドカーとは武官府からのものか、
師団司令部からのものか、何れにしても上部工作への期待を示すものである。
外部の同志との連絡は全くなく、状況も判らない中橋だったが、最善の門間との最後の面談で、
武官府からの報告として ある程度府中の動向を知ったのかもしれない。
「 陛下がこの上なくご不興にあらせられる 」
くらいの話が門間の口から洩れたのではないか。
でなければ、軟禁された中橋の狂態と見える挙動が理解しにくい。
この時点から中橋は、蹶起そのものの挫折を覚悟したのではなかろうか。
その後事件中四日間の中橋の沈黙が、それを暗示しているようでもある。
中橋が銃殺の前に遺した最後の言葉、実弟武明の人生を変えたともいえる。
「 天皇陛下に対し奉り、けっして弓を引いたのではありません 」
という 弁明も、それなら首肯できる。
近衛将校の中橋は、緒戦の成功に嬉々としている他の同志の中で、
一人一挙の失敗を遠くに見ていたのである。

既に守衛隊、門間の肝も決り、門間は中橋に代る赴援隊長を近歩三連隊副官に要請、
事実上中橋隊はここに解体した。
そして次第に動揺の色濃い中橋の監視を大高少尉に命じた。
大高は中橋を衛兵司令室へ誘う。
中橋にとって大高は、渡満以前からの部下である。が、ここでの大高は違っていた。
「 私は、隣の控室にいた兵五、六名に着剣させて連れて来ると、中橋を囲ませた。
これには中橋中尉も意外だったらしいが、私を睨みつけ、『 どうしてこんなことをするのだ 』
と、怒気を含んだ声で私を詰問した 」 ・・松本清張 『 二・二六事件 』 大高政楽談
この殺気だった対応は、目の血走った中橋を見て、その宮城占拠意図を大高が直感したからなのだが、
中橋の反発を受けて 兵を戻すと、さらに一対一の緊迫が続く、
「 中橋中尉と対い合って、私はなんとなく拳銃を取出した。
中橋は 『 俺も持っているんだ 』 と 拳銃を出した。
私のは中型のモーゼルで、中橋のは大型のブローニングだった。
そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしてきた。
発射して間もないことが分かった。
何かをやったことは間違いない。
私はいよいよ中橋に疑惑を深めた 」
その時大高は、中橋が不穏な挙動に出たら射殺するつもりだったとも告白している。
しかし、中橋が拳銃をサックに収めると、張り詰めた緊張が溶け、その一瞬の弛緩に浸かった大高の隙をついて、
中橋は部屋を出て行った。
大高が慌てて中橋を追おうと司令部から出ると、ちょうど入れ替わりに一台のサイドカーがやって来た。
中橋がしきりに気にしていたサイドカーだったが、それには彼の代りに派遣された赴援隊長が乗っていた。
中橋の直属上官、近歩三第二大隊長代理 田中軍吉大尉であった。
あの垂井邸に弔問に来た将校である。
或は 中橋が待っていたのは、その田中の来着だったかもしれない。
最期の段に田中が吉報を携えて駆けつけてくれることを。
午前八時十分、宮城にまた雪が落ちてきた。
サイドカーから降り立った田中の眼に、その雪の中を二重橋を渡って行く悄然とした中橋の姿が映ったものか、どうか。
「 此の頃、中橋は既に司令部を脱出せるが如く。
田中大尉は之を追跡し、警視庁附近叛乱軍中迄入りしも発見せざりし旨、後刻報告を受く。
本件 中橋の脱出の時間関係、記憶正確ならず 」
近衛師団報告書の最後の項に記された、門間の供述である。

< 皇宮警察署長内藤三郎の談 >
二月二十六日午前八時三十分頃、本庄武官長より侍従職専属 紫警視に対し電話あり
「 若し 行動隊が来たならば、皇宮警察署の方にて折衝せず、守衛隊の将校を以て当らしめられたし。
行動隊の将校が無理に入ると云った時には、不祥事件を避ける為に、之等の将校をこちらへ連れて来い 」


仲乗 匠 著 「 ワレ皇居を占拠セリ 」 から
リンク→中橋中尉 帷幄上奏隊 1


「 中橋中尉を捕まえてこい 」

2019年05月10日 15時27分16秒 | 中橋部隊

その頃私は赤坂タンゴ町に住居を構え、そこから聯隊に通勤していた。
私の所属は第五中隊だったが命により、聯隊本部で教育係としての任務に励んでいた。
二月下旬頃 郷里から父が上京してきたので、
二十六日に東京見物に案内する予定をたて、父に満足してもらおうといろいろ計画を練っていた。

当日を迎えた朝方、どこからか銃声が聞こえてきた。
今頃何をやっているのかと思いながら見物の支度をしていると、
〇七・○○頃、着剣した小銃を持った当番兵が息せき切って飛んできた。
「 安田特務曹長殿! 急用あって参りました。
連隊長殿がお呼びであります。
すぐ 出勤せよとのことでお迎えに参りました 」
当番兵は積雪の中を駈足できたらしく、肩で息をしていた。
軍隊の事だから勿論理由など伝言はなかった。
私は急ぎ軍服に着替え 当番兵と共に家を出た。
折角楽しみにしていた父には申しわけないが、東京見物は中止である。
聯隊に到着すると本部前には宮城に行く守衛隊要員 ( 兵力一箇小隊六十名内外 ) が整列していた。
私はすぐ連隊長の処に行き挨拶すると、
今暁当聯隊の第七中隊が歩一、歩三の兵力と共に蹶起して、
高橋蔵相ほか各所を襲撃し大事件が発生したため帝都に非常体制が布かれた。
よって当聯隊は宮城に増加衛兵を差出すこととなった、
という驚くべき事実を聞かされた。
そのため私は整列している守衛隊要員の指揮官を命ぜられ 直に宮城に向けて出発した。
この時私は途中で蹶起部隊との遭遇を予想し、
五、六名の者を尖兵として約三百米前方に配して行進した。

宮城に入るには半蔵門からであるがその近くまでくると尖兵が戻ってきた。
蹶起部隊が道路を封鎖していて通過できないという。
そこで私は飛んで行ってその歩哨たちを見ると、彼等は今朝出動した蹶起部隊の兵隊たちであった。
私が近寄ると一斉にLGや小銃を向け 「 通行禁止 」 を宣告した。
私は相手を刺戟させないような態度をとりながら
「 毎日同じ釜の飯を食っている我々ではないか、
本官らは命令で宮城警備にきたので、どうしても入らなければならない。
陛下の護衛をするのだから通してもらいたい 」
と 説き伏せ、
すぐ宮城内に入り、護衛所に行き 到着したことを申告した。

当日の守衛隊司令官は第三大隊長の門間少佐であった。

すると司令官は私達を待っていたかのようにすぐ命令を下達した。
「 今しがた中橋中尉が一箇小隊を連れて坂下門に向かったから、お前達の兵力で中橋中尉を捕まえてこい 」
私は理由を聞く暇もなくすぐ行動に移り坂下門に赴いたところ、
その附近にいた衛兵から中橋中尉は五分前単身で二重橋から出て行ったことを知らされた。
彼は二重橋の角の所から新国会議事堂方向に対して、手旗でなにやら通信を送っていたそうである。
中橋中尉は第七中隊長で蹶起部隊の指揮官でもある。
彼が一体何を企図していたのか、その時 フト十日程前のことが思い浮かんだ。
その日の私は守衛隊勤務で中橋中尉と行動を共にした。
その夜控室にいた時 中橋中尉が 「 お前先に寝ろ 」 と さかんに私に就寝を勧めた。
通常であれば階級の上の者から休むのだがその日は逆であった。
私は変だなあと思いながら云われるままに先に就寝したところ、
中尉は徐ろに用紙を机上に拡げ地図を書きだした。
宮城附近の道路、建物等を書いている様子である。
何の目的で作成しているのか。
その頃青年将校の一団が何やら企んでいることを薄々灰聞してはいたものの、
それとこれとに関連があるとは夢にも思わなかった。
それが今日になってそれらの謎が解けた。
そして事件は根の深い重大な性格を帯びていたことも意識した。
私は衛兵所に引き返し 司令官にその旨を報告した後、衛兵勤務についた。
勤務は異常なく終り、二十七日 〇八・○○頃交代し聯隊に帰った。
天候がまた雪になり 一帯は白銀一色となった。

二・二六事件と郷土兵
近衛歩兵第三聯隊第五中隊 特務曹長・安田 正 「 藤田男爵邸の思い出 」 から


中橋中尉 「 警視庁の蹶起部隊から連絡がある、受信したら報告せよ 」

2019年05月08日 15時05分17秒 | 中橋部隊

私は当時 第三内務班 ( 班長 山崎称三軍曹 ) に所属する二年兵で特技は通信であった。
二月二十六日午前四時頃、非常呼集がかかったので急に軍装を整えて整列した。
すると矢継早やに編成が下達され私は第二小隊となった。
この時の編成は 概ね
第一、第二 及び LG班が第一小隊、第三、第四班が第二小隊に編成されたように記憶している。
この時 中隊長中橋基明中尉は私に対し、
「 長野は通信だから俺と行動を共にせい 」
と 言った。
そのため第二小隊ではあったが指揮班の一員として中尉の側で行動することになった。
やがて三〇分後に出発したが 目的も行き先も云われず 我々は命令のままに動き出したのである。
中橋中尉という人は、着任後、日も浅かったためか兵隊との会話は殆んどなく、
命令、指示以外はあまり口を利かぬ、所謂 軍人タイプの性格だったようだ。
だから親しみが薄く何か冷たい感じがもたれた。
従って今回の非常呼集でも 何の訓示もせず、編成を終った頃合を見て、いきなり、
「 気ヲツケーッ、右向ケー右、前ニー進メッ 」
の 号令をかけたのであろう。
営門を出ると右に折れ 間もなく停止した。
そこはシャム公使館の近くで暗い場所だった。
すると第一小隊だけに実弾が配られ、その場で、 ” 弾込メ ” が 行われた。
次いで、中橋中尉は第二小隊長今泉少尉に命令を下した。
「 第二小隊は別命あるまで現在地で待機すべし 」
こうして 第一小隊は中橋中尉の指揮で前進し、大蔵大臣私邸の正門前に至った。
出動の目的は実は高橋蔵相の襲撃であった。
中尉は早速 軽機分隊を正門の両側に配置し、私もその付近で待機、
中尉は少人数を指揮して邸内に突入した。
すると 五分ぐらいで全員が出てきた。
成功だという。
中尉は小隊を集結させると直ちに第二小隊の待機する場所に戻ってきた。
「 出発 !!」
中橋中尉は第二小隊を引きつれて今度は宮城に向った。
ここで第一小隊は別行動となり、後日の話では首相官邸に行き歩一の栗原中隊と合流したそうである。
宮城に向った第二小隊は今泉少尉以下 約七〇名で、二列縦隊で行進した。
六時頃半蔵門に到着、直ちに宮城に入った。
これは近衛の将校の指揮する部隊であればいつでも通行できるように定められていたからである。


宮城内に入ると中橋中尉は私に、
「 長野は手旗を持ってすぐ連絡に当れ、
警視庁の屋上から蹶起部隊が連絡してくるので、受信したらすぐ報告せよ 」
と 言って別の方面に立去った。
私はすぐ警視庁のよく見える桜田門の附近に立って連絡を待った。
他の隊員は、今泉少尉と共に控所付近において待機に入った模様である。
私は一人 寒い雪の上でジッと連絡を待った。

警視庁の屋上は静かで人影は見えない。
占領はどうなっているのか、
しかし いずれ兵隊が現れて手旗信号を振りはじめるものと ジッと見つめていた。
一時間--二時間そして 三時間たったが遂に兵隊の姿が見えず、連絡はどこからも来なかった。
あまり時間が長引くので、私はその旨を報告しようと控所に戻ったところ、中橋中尉の姿はなかった。
今泉少尉も不在である。
戦友に聞いたが判らないという。
私はいずれ二人は戻ってくるだろうとしばらく待機することにした。
戦友たちの間では何やら真剣な顔で話合いが行われていたので、首を突っ込んでみると、
今都内で大事件が展開中だという情報である。
各所で重臣が襲撃され血祭りにあげられたという由々しき話に唯々驚くばかりであった。
昼頃 任務が終ったといわれ、斎藤特務曹長の指揮で隊列を整えて聯隊に引き上げた。

兵舎に入ってくつろいでいると、夕方六時頃呼集がかかり、再び軍装して舎前に整列した。
編成が組まれると一人宛六〇発の実弾が配られた。
今度は鎮圧軍として出動することになったのである。
これは聯隊に対し出動命令が下ったためである。
我々が警備に就いた処は 四谷附近で近くに他の部隊もきていた。
夜はホテルのような所に泊り 交代で警備についたが、この間、少しずつ警備地区が変わったように記憶している。
警備中は特別変ったこともなく、二十九日になって状況が平穏になるのを待って昼頃帰隊した。

事件が終り 一週間くらい経った後、私は憲兵隊に二、三度呼び出されて取調を受けた。
その内容というのが、私が宮城内で担当した連絡任務で時間、位置など克明に聞かれたので
私は正直に連絡のなかったことを説明したところ、ようやく放免された。
思うに警視庁屋上からの連絡は、重大な意味がかかっていたようである。

以後中隊は平常の日課にもどり、戒厳司令部などの衛兵勤務にも服した後、
六月一日 帰休除隊となり、次いで十一月頃 二週間にわたる秋季演習参加し 晴れて満期除隊となった。
昭和十五年六月応召、
以後中支--仏印を経て開戦と同時にマレー作戦に参加、
シンガポール陥落後は北スマトラに移駐、一時ビルマにも行ったりしてコタラジヤで終戦を迎えた。
当時の所属は宮部隊であり 階級は軍曹であった。

私は曾ての二・二六事件を想起するたびに、
当時国政をあずかっていた者は 一体何をしていたのかといいたくなる。
極言すれば怠慢の一語に尽きたのだと思う。
又、軍部は軍閥を作って国民の苦しみをよそに大陸進攻を目論んでいた。
このような憂うべき事態から 速かに本来の姿に戻すべく蹶起した青年将校の精神は、
昭和維新以外の何物でもなく立派であったと思う。

二・二六事件と郷土兵
近衛歩兵第三聯隊第七中隊 一等兵・長野峯吉 「 警視庁からの連絡なし 」 から


田中勝中尉の宮城参拝と中橋基明中尉の宮城赴援隊

2019年05月06日 05時36分26秒 | 中橋部隊


   田中 勝

陸士在学中 第44期 の五 ・一五への突出は、大きな刺激をうけた。
任官して市川野戦重七付となったが、
そこには維新革命を志す河野寿中尉があり、薫陶をうけ啓蒙される。
同郷の先輩 磯部とは特に親交をもっていた。


「 私が同志とともに事を挙げるに至りましたことは
平素抱懐しております昭和維新翼賛のため、 かねてから決意しておりましたし、
かつ、本年二月二十三日 磯部より 
私あて "本日午後四時磯部宅に来れ" との電報に接し、
同人宅に至り 今回決行の日時を聞き これに参加することに決意しました」 (訊問調書)
その参加とは 部隊輸送連絡のために車輛を出動させることであった。
「 何ら不安の念はなかったばかりでなく、わが国体の真姿を顕現するために喜びに満ちておりました。
現在といえども更に心境に変化はきたしておりません。
私の国体観念より 皇軍の状況、軍閥、幕幕僚、元老重臣、財閥、政党、諸新聞等は
常に大御心を掩い君民を離間する奸賊と信じ、
これを徹底的に排除せねば 悠久なるわが国体を衰亡に導くものなりと思い、
一刻の猶予も許さざる現況に直面して 敢然起ちて決行したものであります」 (訊問調書)
事件中は 首相官邸にあって車輛統制に当っていた。
・・・・大谷敬二郎 二・二六事件 から

宮城の暗闇で非常ベルが鳴り続けた。
午前四時四十分、
蹶起の最初の兆候が、こともあろうに宮城でキャッチされる。
近衛師団宮城守衛隊司令部では仮眠中の当番将校以下全員が飛び起きた。
常夜灯が申し訳程度に照らし出す暗がりでは、ベルはまるで暁の静寂を切り裂く悲鳴音のように聞こえたことだろう。
近歩三の二箇中隊二百四十名が騒然となった。
控兵に上番していた中橋と同じ聯隊だ。
現場は二十メートルおきに外灯が並ぶ宮城前広場。
その玉砂利が敷かれた車輌進入禁止区域に軍用車輌五台がいきなり侵入したのだった。
乗用車一台、トラック三台、サイドカーが一台。
馬場先門から直進した車列は、二重橋 ( 正面鉄橋 ) に到る手前の正門石橋直下で停止した。
これを目撃した正門警備にあたる守衛隊歩哨が直ちに非常ボタンを押す。
平時では宮城の警備は宮内省警察部が主体だが、ボタンを押したのは近衛兵だった。
従って近衛師団の警備網に異常が伝達される。
不法侵入した車輌部隊の指揮官は
野重第七第四中隊、田中勝中尉 ( 25 )。
十三名の下士官兵を乗せた計五台は、
夜間自動車行軍をかねて靖国神社に参拝 と称して、市川の駐屯地を三時十五分に出る。
車列は途中、小岩にある田中宅に立寄った。
拳銃と軍刀、そしてキャラメル多数を夫人から受取る。夫人は身重だった。惜別の意味があったろう。
その遅れを意識して猛スピードで都心に向かったのだが、逆に早く着きすぎてしまう。
陸相官邸五時の待合せまで時間をつぶすため、まず靖国神社に詣で、
次に宮城前広場に参拝しようとして 立入禁止区域に乗り入れたのだった。
之には当然、S作戦 の下検分の意味もある。
非常ベルに驚いた仮眠中の近衛師団将校や皇宮警察警手が正門守衛所にあたふたと駆けつけた。
総勢十二名にも上ったと  『 皇宮警察史 』 は記す。
「 衛兵所まで同行願おうか・・・・」
近衛の守衛隊当直だった小坂少尉が、田中中尉の星が二つの階級章にチラリと目を遣りながら丁重に誘う。
行先は上道灌濠に近い正門儀仗衛兵所だった。
守衛隊司令部と同じ建物の一階に入っている。
「 いや 単に訓練中の宮城参拝です。地理に不案内でご迷惑をおかけしました 」
田中は所属を名乗った上で素直に詫びを入れて一件落着だった。
この時刻 まだ宮城では雪が降りだしてはいない。
麻布の歩三、歩一では未明から粉雪が舞っていた。首相官邸でも同様だ。
田中は一段と高い土手堤に建てられた衛兵所にいた。
目の前に伏見櫓の白壁が黒々とシルエットで聳え、その向こうに御常御殿が見えた。
すでに蹶起部隊は非常呼集を終え、歩三、歩一、近歩三の各営門を出ていた。
「 ようし 三宅坂だ、いよいよ五時の蹶起だ、陸相官邸に行くぞ 」
・・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から

午前五時
陸軍大臣官舎に参りましたが、同志は誰も見えて居りません。
門が閉ぢて居りました。
其処で同志はどうしたかと思ひ、
自動車隊を引率して陸相官舎を虎ノ門、六本木を経て歩一へ見に出発しました。
歩一営門前で私丈下車、同隊週番司令室に参りましたら山口一太郎大尉が起きて参りまして、
山口大尉に「どうですか」と尋ねましたら、大尉は「ウン」とうなずきました。
私は其儘速く表へ出て、自動車隊を指揮し赤坂の高橋蔵相私宅の前を通り掛りましたら、
同邸表門には、十数名の徒歩兵が機関銃二梃を以て警戒して居たのを目撃し、
陸軍大臣官舎へ午前五時二十五分頃つきました。
蔵相私邸を通り過ぎる時、私は同乗の運転手、助手に
「今日から昭和維新になるぞ喜べ」 と申しました。
途中 閑院宮邸前で、約一ケ中隊の歩兵を追越しました。
之は同志の牽ゆる部隊と思ひます。
指揮官は誰か判りません。
陸軍大臣官邸門前には、丹生中尉が兵約六十名を持って警戒して居りました。
私は独り官舎に這入り磯部に会ひました。 (訊問調書)


高橋邸襲撃を終えた中橋は、
襲撃隊の第一小隊を、中島少尉、大江曹長、箕輪、宗形 両軍曹に託して首相官邸に向かわし、
次に赴援隊の第二小隊を、今泉、斎藤と共に率いて青山通りに出、半蔵門に向かう。
すぐに田中の自動車隊に遭遇する。
「 ・・・蔵相邸表に出ると、陸軍砲兵中尉田中勝が自動車四台を率いて通り抜け、
私に 『 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 』 と 云い、
田中中尉が 『 非常!』 と 叫んでいたという事で、
突発事態に遭遇したと認め 第七中隊は直ちに宮城に赴く 」 (中橋訊問調書)
中橋は第二小隊にこう云い渡すのだった。
「 非常事件が起きたから参拝は取止め、宮城へ控兵として行く 」
さあ、次は半蔵門だ。
・・・・ 仲乗 匠 著 「 ワレ皇居を占拠セリ 」 から

「 非常 」  トラックの荷台から田中勝中尉が大きな声で叫ぶ。
五時二十分だった。
「 取り込み手が空いていないので敬礼ができないが、失礼する 」 という軍隊用語だ。
市電通りで追い越して行く野重七のトラック部隊を見送った中橋中尉。
「 あれだ。あのトラックに明治神宮参拝から帰る途中に遭遇して、
非常事態が発生したことを初めて知った事にすればいい 」
中橋は六十二名の第二小隊と共に半蔵門をめざしている、その途上で遭遇したのだ。
田中は宮城参拝からすぐ陸相官邸に回ったが五分早く到着。
一方の歩一第十一中隊、丹生中尉指揮の占拠部隊が五分遅れたため、落ち合うことが出来なかった。
異変が生じたのではないかと危惧した田中は、確認の為麻布六本木の歩一に急行する。
山口週番指令から、既に第十一中隊が出撃したことを聞くと、
すぐさま陸相官邸にとって返した、まさにその途中だった。
中橋は策をめぐらす。
半蔵門にいたる途中の五時半、伝令を赤坂一ツ木の聯隊本部に送るのだった。
週番司令はこの朝、南武正大尉である。
周到な計算だった。
『 明治神宮参拝途中、突然事件を知り、非常と認めて第七中隊は直ちに宮城へ赴く 』
巧妙且危うい 赴援隊のシナリオが実行に移されるのだ。
純粋な応援部隊の仮面を被り、宮城には赴援隊一箇小隊を率いて馳せ参じる。
・・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から


今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」

2019年05月04日 14時32分33秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊
宮城赴援隊小隊長
今泉義道少尉

元来、近衛師団の歩兵連隊に入隊する壮丁は、
各都道府県知事の推薦によって選ばれた人々であった。
これは禁闕守衛の任務につくための配慮によるものである。
従って、裕福な家庭に育った青年ばかりであろうと想像していたが、身上調書ができ上るにつれて、
過程の事情欄には、小作農、生活貧困が多く、私の心を暗くさせた。
当時の社会記録を繙ひもとく迄もなく 小作農の生活は悲惨そのものであった。
都市労働者は殆どいなかった。
然し彼等には選ばれたものとしての誇りがあり、これは私の唯一の救いであった。
戦場で国家のために喜んで一命を捧げる兵隊を作るためには、先づ何を教えるべきか。
国防の本義と軍人としての死生観を一致させなければ、初年兵教育も単なる技術教育に了る。
仏作って魂の入っていない兵隊ができ上ってしまう。
社会組織の矛盾、経済組織の不合理、政治の貧困さなど、
私は身上調査によって まざまざと現実の問題として受けとめていたのであった。

ああ 吾らが護らんとする祖国・・・教官が教える祖国とはあまりにも遙かなる理想境に過ぎないではないか。
軍人は政治に係ってはならぬ。
軍人には選挙権すらなかった当時のこと。
政治の批判など軍法をもって禁ぜられていた当時のこと。
一人の初年兵教官が真面目に考えれば考える程 兵隊が可哀想になった。
軍隊を構成する底辺の兵士達は徴兵である。
有無をいわせず地主や資本家達、所謂特権階級の利益のために貴い命を捧ぐべし
と 教育する初年兵教官は一体何者ぞ、こんな筈ではなかった。
こんな馬鹿な話があるものか。
ある日 兵隊を引率して青山通りを行軍していたら、電柱にビラが張られていた。
『 ・・・見よ、財閥は私利私慾を恣にして貧富益々懸隔。
政党は党利党略に走って社稷は累卵の危機。
妖雲聖明を覆いて 天日俱に闇し・・・』
私は咽び泣く思いを辛うじて耐えた。

二月上旬、中橋基明中尉が満洲から帰還した第七中隊付となった。
第七中隊長井上勝彦大尉は陸軍大学校の専科学生として入校したので
中橋中尉が中隊長代理となったのである。
私は毎日初年兵と起居を共にし 一緒になって汗まみれ泥まみれになって、
三月上旬 富士の裾野において行われる筈の第三期検閲に備えて訓練に余念がなかった。
ある晩、代々木練兵場で夜間演習中にひっこり中橋中尉が現れた。
私は訓練を中止して中隊長代理に敬礼し型通りの報告をした。
中橋中尉は江戸っ子らしいキビキビした調子で初年兵に訓示した。
「 俺は最近まで満洲のソ連国境の警備隊に勤務していたが、
今夜の諸子の訓練を見ていると、まるで幼稚園の遊戯みたいだ。
もっと真剣になってやれ、夜間の格闘動作などまるでなっとらん。
近く第一師団は渡満することになったが、我々近衛師団の敵は国内にあることを忘れてはならん。
俺は国内の敵をやっつけるために満洲から帰ってきたのだ 」
と 思わず ハッとするような言葉を残して闇の中に消えていった。

二月二十五日、
この日は富士の裾野 滝ケ原廠舎に移動する準備のため、
朝から各種の梱包を作ったり、兵器や被服の手入れ検査などで忙しかった。
聯隊会報によれば
明二十六日は代日休暇、
二十七日午前八時 富士御殿場に向け営門出発の予定となっていた。
夕方になったので私は食事のため将校集会所に行った。
そこで私は同じ中隊付将校棚橋新太郎少尉に出合った。
彼は特別志願将校として年配も私より上であり、当時歩兵学校在学中であったので、
あまり話合う機会もなかった。
「 今泉さん、明日はどうしますか?」
「 正月以来家に帰っていないので、今夜は久振りにおふくろに会いに行こうかと思っています 」
「 時に今泉さん、何か中橋中尉殿からお話をきいていますか?」
そういって彼は何かを探るような目つきをした。
「 いや、別に何も・・・何のことですか 」
「 実はねえ、中橋さんが 近頃 歩一の栗原さん達と何かやるような気配があるというので、
聯隊の連中も大分気にしているようですよ。今泉さんも充分気をつけて下さいよ 」
私は棚橋少尉が妙なことをいうなと思ったが、大して気にも留めなかった。
夕食を済ませて第七中隊の三階にある私の個室に戻った。
窓から東京湾の船の灯がチラチラ見える。
初年兵教育も峠を越した。
一人一人の顔も日焼けの頬に目が美しく光り、口元が引き緊って言語動作もすっかり兵隊らしくなってきた。
可愛い兵士達。
俺は貴様達と一緒に喜び、共に涙し、共に戦場で死ぬのだ。
美しい祖国と愛する人々を護るために。
人間の醜い本性から社会の矛盾は生れるのだけれど、
俺は将来リーダーシップをとるときまで、じっと目をつぶり、差し当りは自分の職責を果たすほか道はない。
「 三浦上等兵入ります!」 の声に 思わず振り返る。
彼は初年兵教育助教の一人で伍長勤務上等兵、
私が見習士官当時から、全く痒い所に手が届くような世話をしてくれた模範兵であった。
「 教官殿、明日は如何なされますか 」
「 そうだな、明日は代日休暇だし、兵隊も疲れているだろうから、
今夜は何もしないでゆっくり休ませてやってくれ。
俺も今夜は一寸家に帰って英気を養ってくる。
留守中のことは宜しく頼む。
生憎手許に酒はないが、郷里から鯣するめを送ってきたからこれでもかじってくれ 」
富士における訓練計画など立案しおしえたのが午後十時を少し過ぎていた。
私は外套をひっかけて営門を出た。
鎌倉の自宅に帰るべく。

近衛歩兵第三聯隊の兵舎は青山の高台にあった。
高台は赤坂見附と溜池を結ぶ平地にぬっと突出し その端に兵舎がある。
兵舎は赤煉瓦三階建で明治十八年に建てられた。
台地の東側は赤坂の一つ木通り、料亭や待合の屋根がすぐ下に並び、
市電通りを隔てて右手に首相官邸、左手に日枝神社の森がほぼ同じ位いの高さに見える。
これが霞ヶ関の高台である。
私は聯隊正門を出てすぐ左に曲り、旅団司令部側の三分坂という恐しく急傾斜な坂を馳け下り
山王下の電車の停留所に佇った。
新橋行きの市電はどうしたものかそっぱりこない。
昭和十一年の冬は不思議に雪が降り出しそうな空模様だった。
北風が将校マントの裾を音をたてて吹き抜けていった。
夜も十一時に近いので流石に人通りはなかった。
赤坂見附から新橋銀座方面に向ってタクシーが時々疾駆してゆくが、手を挙げても停ってくれなかった。
随分待ったようだが実際は十分か十五分位だったかも知れない。
長靴を履いた足の指が痛いように冷えてきた。
横須賀線の終電に乗ったとしても家に着くのは午前一時過ぎだ。
何も今日 帰ると通知している訳ではなし、帰っても飯はないだろう。
市電は一向にくる気配がない。
「 決心変更 」
私は呟いて停留所を離れ、桧町の通りから聯隊に帰ることにした。
未だ店を閉めていない寿司屋の暖簾をくぐる。
「 いらっしゃい!」
ねじり鉢巻の馴染の兄貴が威勢よかった。
「 冷えるねえ、一本頼む 」
トロを肴に一杯やり店を出た。
佩剣を握り長靴の踵につけた拍車をコトコト鳴らしながら三分坂を再び登り、
冷いベッドに潜り込んだのは、二月二十五日夜の十二時に近かった。
×  ×  ×
「 おい! 起きろ!今泉少尉起きろ!」
聯隊の兵舎、第七中隊の三階の居室のドアを激しく叩き、
寝入ったばかりの私の耳許で大きな声がした。
ハッとして目を覚ますと中橋中尉と砲工学校学生で同郷 ( 佐賀 ) の 一年先輩の中島莞爾少尉が
軍装も凛々しく傍に佇っているではないか。
時に昭和十一年二月二十六日午前二時三十分である。
私はガバッと とび起き素早く軍服を着る。
着装し終ると、
「 まあ座れ 」
と 中橋さんがいう。
二人に椅子をすすめて私は小机の向うに腰を下す。
「 今泉、いよいよやるぞ、昭和維新の断行だ、
午前四時半になったら中隊に非常呼集をかける。
俺達二人は高橋是清蔵相を襲撃、襲撃隊は中島が引率して首相官邸に向う。
俺は中隊の半分を率いて宮城に入る。
恰度今日はこの中隊が赴援隊控中隊に当っている。
そこで貴公だが、俺達が襲撃している間、控中隊を引率し待機していてもらいたい。
実は貴公は中島を知っているそうだな、
中島の奴、貴公に内緒で中隊全部を連れ出したら面目を失うだろう。
知らせてやるのが武士の情というものだ。
と ぬかすからな。
まあ それはそれとして、
出発迄に未だ二時間ばかり間がある。
俺は貴公に無理に行けとはいわん。行く、行かぬは貴公の判断に委す。
行く以上は貴公に赴援中隊の副指令として参加してもらう 」
中橋さん達は灰皿を引寄せ煙草を吸った。
「 歩一からは機関銃隊の栗原、それから貴公と同期の林八郎、池田俊彦の両少尉、
歩三は安藤大尉が中心となって一コ大体が出動する。
その他、下志津の野戦重砲から車輌部隊、所沢の飛行学校と豊橋の教導学校からは
同志の将校が参加する。
湯河原の牧野伸顕襲撃隊はもう出発した筈だ。
岡田首相、斎藤内府、鈴木侍従長、渡辺錠太郎教育総監をやるんだ。
首相官邸、警視庁、霞が関一帯を占拠して戒厳令を布告する。
実包は歩一から全部隊に配布した。
まあ ざっとこんな訳だ・・・。
貴公もゆっくり考えてくれ 」
二人はいいおわると悠々と部屋を出て行った。
私は意外に落付いていた。
中橋さん達の態度が優しいのと、自信たっぷりの落着き振りが私の心を打ったのかもしれない。
腕組みをして じっと考えこむ。
軍人として勅諭に悖り、国民として国法を紊すの大罪は固より知っている。
これは正にそれ等を超越した判断による断行なのだ。
ただ存ずるは皎々たる一片の憂国の至情のみ、
壮士征きて亦還らず、成敗蓋いずくんぞ之を論ぜんや・・・だがまてよ、
この挙に参加するならば、総ては完全に終わる。
人生二十有一年、思いもかけぬ大事件の渦中に入るのだが、俺はこれで悔ゆることはないか。
精魂を傾けてやってきた初年兵教育も完結をみずして終わる。
第一その初年兵達が中隊長代理に率いられて事件に参加するのに、
教官たる自分が、知っていながら参加しないことは卑怯ではないか・・・・、
だが、聯隊内でのこのことを知っているのは現在自分だけだ。
軍隊を私用して暴動を惹起こすことについては根本的には反対だ。
・・・・信念に反して行動を共にすることは付和雷同に過ぎない。
中橋さんも命令することはいっていない。
だから行動に加わらなくても命令違反ではない。
中橋さん達は、
社会の矛盾を一挙に解決するためには昭和維新を断行して国体の真姿を顕現せんとして、
既に命を投げ出しているのだ。
事の正否を問わず、罪を闕下に請うて潔く自刄して果てる覚悟であろう。
大御心は現在の社会を善しとされる筈はない。
社会が悪ければ兵隊は弱くなる。
兵隊が弱ければ国防の任は果せない。
軍人の本分も尽せない。

さて、俺は将校として、教官として、国民として、一個の人間として
今の時点で如何に決心すればよいのか。
その時 誰かがドアをノックした。
斎藤特務曹長が完全軍装で入ってきた。
彼は軍刀の柄を左手に握り走るように近寄ってきた。
「 今泉少尉殿 」
口をワナワナ震わせたかと思うと突然大粒の涙をはらはらと流した。
私は思わず立上って彼の手を握りしめた。
「 私は中隊長殿の命令通りやりました。私は死にます。今泉少尉殿! 私は死にます 」
「 よし判った。帰れ、俺も考える 」
窓の遠くに品川湾が見え、浮船の灯がチラチラ瞬いていた。
遠く船の汽笛が聞える。
軍律違反、重罪、初年兵、名誉、自決・・・頭の中には、すごいスピードでしかも鮮やかに、
さまざまな思いが渦を巻いて揺れ動いている。
祖父の顔、父母の顔、兄妹の顔・・・・。
中馬軍曹が私の拳銃を持って入ってきた。
あけ放れたドアから階下にいる兵隊達の静かなどよめきが伝ってきた。
非常呼集がかかったらしい。
今は一刻の遅疑逡巡は許されない。
「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」

二・二六事件と郷土兵  から
 次頁 今泉少尉 (2) 「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 に続く


今泉少尉 (2) 「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」

2019年05月02日 14時27分22秒 | 中橋部隊


近衛歩兵第三聯隊第七中隊
今泉義道少尉
宮城赴援隊小隊長

「 よし決心だ!余は行動を倶にせんとす」
抽出しから通信紙を取出し、色鉛筆の靑を使って大きく 「 遺書 」 を書く。
『 時期尚早なりと雖も、事既に茲に至る。
已むなし、私は部下のために死地に赴きます。
不孝の罪をお許し下さい。
ご両親様 』
書き終えて静かに机上に置いた。
それから私はすぐ御守衛の軍装を整えた。
今日は特に軍刀と拳銃を携帯して中隊の舎前に出た。
暗闇の中には既に兵隊達が整列していた。
中橋中隊長代理は薄暗い中隊入口の門燈を背に、軍刀を抜き厳然として命令をくだした。
「 中隊は只今より、明治神宮方向に前進する。
第一小隊、小隊長斎藤特務曹長、第二小隊、小隊長今泉少尉、
第二小隊はシャム公使館前にて停止し、暫らく待機せよ 」
こうして中隊は〇四・三〇出発、
私の率いる第二小隊はシャム公使館前まで行き
折敷の姿勢で待機に入った。
間もなく高橋邸の方向から鈍い拳銃音が数回きこえた。

やがて中橋中尉と斎藤特務曹長が駈足で戻ってきた。
夜の帳は次第に明けてあかるくなってきたが、鉛色の空からは非常の粉雪がチラチラと降り出した。
中橋中尉は私たちに命令した。
「 帝都に非常事態が発生した。
当小隊は宮城守衛隊赴援隊として、只今より宮城に向い、守衛隊司令官の指揮下に入る 」
第二小隊はすぐ出発した。
赤坂見附より麹町通りに出て半蔵門にさしかかると中隊長は私をふりむいて開扉させるよう指示した。
私は走っていって門の手前で大声で叫んだ。
「 近歩三、第七中隊、赴援隊として到着、開門!」
大きな扉が ギーッと軋んで左右にさっと開いた。
歩調をとり 堂々と半蔵門から宮城に入る。
中橋中尉は駈足で守衛隊司令部に先行。
小隊が正門衛兵所につくと、門間 (少佐) 司令官、大高 (少尉) 副司令などの顔が見えた。
中橋中尉は別命あるまで屋外で待機するように指示し、司令部に入ってしまった。

暫らくすると赴援隊は、宮城警備配備に基づき、坂下門の警備に就くこととなり、
私は小隊を率い坂下門に急行した。
下士官の連中がイキバキと兵隊を区署し歩哨線を張り、門の両側の土手上に二梃の機関銃を配置した。
わたしも以前、宮城の非情警備配備について演習したことがあったが、
下士官の的確な処置には感心した。
雪は粉々として舞い下り、その頃になると既に二十糎以上積っていた。
風はない。
腕時計を見ると早十時を指していた。
聯隊から第六中隊長田中軍吉大尉がサイドカーに乗って到着。
守備部隊の直属上官ではないが、同じ大隊の隣の中隊長である。
「 警戒中異状ありません。
宮内省職員の入門は許可しております。
先刻、杉浦奎吾参内につき、通過させました 」
「 御苦労さん、ついにやったなあ、
詳しい事情はあとで聴くとして、
赴援隊は近衛二の部隊が到着次第交替して聯隊に帰還しろ、門間司令官からの命令だ、
今泉少尉は近衛師団司令部に出頭し、参謀長に今暁の状況を報告の上帰隊し、
園山聯隊長に状況を説明するように。
すぐ出発する、サイドカーの後部座席に乗れ 」
私はあとの指揮を斎藤特務曹長に委せて田中大尉のサイドカーに跨った。
雪が深くスリップしてなかなか疾走できない。

午前十一時、近衛師団司令部参謀室に入る。
数名の参謀を従えた参謀長の前に立つ。
「 近歩三、今泉少尉、報告 !
今暁 四時二十分、第七中隊長代理中橋基明中尉は非常呼集をもって兵営を出発、
半数をもって高橋蔵相を襲撃、襲撃後赴援隊を率い、正門衛兵所に至り、
守衛司令官の命により坂下門の非常警戒に当っております 」
「 中橋中尉は今、何処にいるか ? 」
「 存じません 」
「 貴公は高橋蔵相を殺ったのか 」
「 やりません 」
「 赴援隊は今、何処にいるか 」
「 坂下門の警備を交替して、目下帰隊中と思います 」
卓上電話のけたたましい響き、参謀長の上ずった声、
騒然として人影の右往左往する司令部。
正午、既に三十糎も積ったであろう雪の中を、
田中大尉と私は師団司令部の自動車で聯隊に帰還した。
聯隊長室に入ると軍旗の傍らに憮然として園山聯隊長が立っていた。
「 聯隊長殿 ! 第七中隊は・・・・」
私は慈父に縋るような思いで報告した。
その時聯隊副官があわただしく入ってきて聯隊長に報告した。
「 第七中隊宮城赴援隊、斎藤特務曹長以下七十五名、只今帰営致しました 」
私はそれを聞いた途端張りつめた気持が急に緩んで思わず声をあげて泣いた。
申告をすませた私はそのまま聯隊長室に監禁された。
この部屋には軍旗があり歩哨が立っているのでその監視下に置かれた。

聯隊は二十八日深夜鎮圧軍として出勤し番町小学校付近に展開、
かくして事件は緊迫のうち二十九日を迎え、
奉勅命令によって蹶起部隊は逐次原隊復帰をはじめたので鎮圧軍も囲みを解き
四日間にわたる事件は終了した。

翌三月一日 憲兵大尉がきて私は出勤下の行動をきかれた。
二日には深川憲兵隊につれてゆかれ、
三日には陸軍刑務所に収監された。
身分は将校のままであった。
入所すると型どおりの予審がはじまり、やがて七月五日判決が下り
私は禁錮四年の実刑がいい渡された。
この特別軍法会議は一審制で控訴なしとゆう方式なので、
不服であっても判決に服する意外になかった、
そして私は同日付をもって免官となったのである。
身柄は直ちに豊多摩刑務所に移され刑に服したが、
十三年十一月二十三日仮出所の恩典に浴した。
この時 歩三の柳下良二氏も一緒である。
仮出所にあたり所長は明後日陸軍省に出向せよと云った。
そこで当日出頭すると係員は 「 蒙彊に行け 」 といった。
私は即座に断った。
今更軍のお世話などなりたくない。
軍法会議にかけて処刑し、免官しておきながら再び陸軍の恩を着せようとは人を食った仕草である。
私は今回の事件で陸軍に愛想をつかしているのである。
就職など自分で探してみせる。
今更陸軍などにお願いするものか、入所以来陸軍に不審を抱き、
憎しみを持つに至った私は これから少しでも軍から離れた立場に移りたかったのである。
こうして二カ月後上海に渡り船会社に就職した。

思えば 二・二六事件は日本にとって悲しむべき大事件であった。
当時 二・二六事件のおこる以前にも諸々の事件が続発し 日本の危機が高まっていて、
何とかしなければ・・・・という機運もかなり沸騰していた。
だから考え方によっては二・二六事件は起るべくして起ったともいえるかもしれぬ。
主謀者となって指揮した青年将校たちは常に国情に激憤し
政治への堕落を怒り 遂には事件を引おこすに至ったが、
憂国の至情だけではどうにもならなかったことを思い知らされたのである。
いうならば 機関説天皇と統帥権天皇との対立であって、
いずれを是とし、
いずれを非とするかは
時の指導者がとりしきるものであったからである。
二・二六事件と郷土兵 から