あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯

2021年08月31日 13時09分32秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


二・二六事件慰霊像 
「 二十二士之墓 」 開眼供養法要


栗原安秀中尉達の寄書き 

あを雲の涯
目次
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・ 二十二烈士

村中孝次 ・妻 静子との最後の面会 
・ 磯部浅一 ・ 妻 登美子との最後の面会 
・ 
磯部浅一 ・ 家族への遺書
磯部浅一、登美子の墓 

相澤三郎 『 仕えはたして今かへるわれ 』 (一)
相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二) 


・ 北一輝 ・ 妻 鈴子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 妻 初子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 家族との最後の面会 
・ 西田税 「 家族との今生の別れに 」 
・ 西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」 
・ 西田税 ・ 悲母の憤怒 
西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 
・ 西田税 ・ 遺書 「 同盟叛兮吾可殉 同盟誅兮吾可殉 」

「 昔から七生報国というけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」 
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」 
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ 」

・・・西田税


二・二六事件慰霊像

2021年08月30日 05時28分43秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

計画以来
三年余の歳月を経過して、
宿願の建立を果し、
その当日を迎えた。
慰霊像除幕式
昭和四十年二月二十六日、
事件三十年目の思出の当日は快晴に恵まれ、
屋外の行事であるだけに、関係者の喜びは一入でありました。
正午前から続々と参列者を迎え、
殊に地方から上京された方々は早くから到着され、
関係者と懐かしく歓談される姿があちこちに見受けられました。
開会までの時間を渋谷公会堂地下食堂の控室に休憩して頂き、
定刻十分前に係員の誘導で除幕式現場に参集しました。
現地は二面を道路に接する角地であり、
道路綿から直立する二米の側壁の上の敷地に、七米の台座、
その上に四米の像が安置されている構造でありますので、
道路以外に余地のない地形のため、地元警察と数次の打合せの結果、
特に道路使用の許可を受け、参列者一同道路を埋めて着席しました。
総数約七百名余にのぼる方々の御参会を仰ぎ得ましたことは望外の感激でありました。
紅白の幔幕まんまくをめぐらし、多数の献花、花輪に飾られた式場の中央には、
地上十四米の慰霊像が、紅白の皮幕をかぶり 晴の除幕を待ち、
台座の中央正面には、
曹洞宗管長、高階王龍仙禅師に御願いして書いて頂いた
『 慰霊 』 の文字が刻まれた大理石の像銘を囲んで、仏心会の生花が飾られ、
台座の左に延びる側壁には日の丸の国旗が張られ、
約二坪の前庭には皇居の御庭から移し植えられた梅の樹が、
早くも白い花をほころばせて こよない雰囲気をただよわせていました。
定刻一時半、導師賢崇寺住職、藤田俊訓師及 二伴僧の他に
九州唐津からの善興寺住職 朝日一誠師、
浦賀からの東福寺住職山田勝剛師を加えた五師が、
一団髙い前庭正面に着席され、
司会の末松太平氏によって開会致しました。
先づ、
国家 君が代を全員起立のうちに斉唱し、
仏心会 河野司代表の挨拶の後、
愈々全員の見上げる緊張のうちに、
栗原安秀中尉の母堂克子さんの手によって 除幕の紐が引かれました。
一瞬 サット落ちる紅白の幕、
温容をたたえ右手をあげた慰霊観音像の姿が、
万雷の拍手と歓声のうちに その全容を現わしました。
洵に感激高潮の一瞬でありました。

続いて
建立代表者、河野司氏により、啓白文が像前に奏上され、
次いで
開眼供養の読経が厳かに誦しょうせられました。
藤田導師による香語は
雨雪風霜三十年  昨非今是世論遷
虚空現出慰霊像  恩怨倶亡月皎然
事件以来三十年、終始一貫変ることなく、
諸霊を護り抜いて今日を将来して下さった藤田師の高徳が、
この香語の中にこめられた思いであります。
続いて事件殉難諸霊の三十回忌法要に移り、読経のうちに焼香に入りました。
仏心会遺族十三家、及殉難警察官遺族代表土井スミ子未亡人、
関係殉難者代表宇治野みき子未亡人を始めとした遺族の焼香に続き、
参列の荒木貞夫、石原広一郎、寺島健、三浦義一、橋本徹馬、木村武雄氏を初めとして
多数の参列者の焼香がいつまでも続きました。
立ちこめる香煙のうちに、
最後に殉難者五十士の名が読上げられ、
約一時間に亘る行事がここに滞りなく終了致しました。
末松太平氏の閉式の挨拶をもって式を閉じましたが、
最後には千に近い参列者を迎え、時余に及ぶ屋外の行事にも拘らず、
終始粛然と取営まれましたことは、洵に感激の外なく、
通りすがりの多数の市民のうちにも立止って合掌される姿も見られて嬉しい限りでした。
尚、歩道から道路を埋めつくした参列者と一般通行人や自動車の整理のために、
渋谷署からの交通係十数名の応援によって、
懸念された交通整理も終始整然と処理されたことも、喜びでありました。


祈念慰霊像竣工祝賀披露会
除幕式を終了し、参列者一同は隣接の渋谷公会堂の地下大食堂に移っていただきました。
正二時半、末松太平氏の開会の辞にはじまりましたが、
三百名以上を収容する階上も一杯の参加者で埋りました。
河野仏心会代表が完成までの経過と御支援に対する感謝の挨拶を述べたあと、
参列者を代表し、荒木貞夫、石原広一郎両氏の懇篤なる祝詞と時局に対する熱烈な所見が述べられ
満場の人々に深い感銘を与えられ、
故人を偲ぶことも切なるものがありました。
荒木さんは九十歳に、石原さんは八十歳に近い御老齢にも拘らず、
烈々たる憂国の御熱弁には ただ頭が下がる思いでした。
終って工事関係者、設計の川元良一先生、彫刻の三国慶一先生
及び、工事請負の鈴木工務所にそれぞれ感謝状の贈呈があり、
その労に感謝を表しました。
続いて塚田新潟、竹内青森 両県知事を初め 全国各地よりの多数の祝電の披露があり、
最後に建立準備事務所の事務局を代表し小早川秀浩氏より募金経過及概況を報告し、
今後共一層の御支援を懇請するところがありました。
このあと鈴木岳楠師社中による吟詠が行なわれ、これで披露会を閉じました。

終って隣室に訪けられた祝宴場に移り、
それぞれ宴卓を囲んで祝盃をあげ、歓談と追憶の一時を送りました。
全国各地からこの日のために上京、
参列された方は、
九州の朝日、八木、江口、高村氏、四国の平石氏、北陸の越村、明石氏、
新潟の登石氏、大阪の木積、広田氏、愛知の三浦、佐藤氏、
静岡の七夕氏、秋田の石沢氏、青森の大久保氏 等の多数を数えましたことは一入感謝に堪えません。
又 遺族は全国から殆ど上京し参列致しました。
こうして遠来の人々や、旧知の方々を囲んだ歓談、
懐旧談はいつ果てるとも思えぬ楽しい宴席でしたが、五時近く意義深い一切の行事を終えました。
最後に、
この行事の戦後を通じ、準備、運営其他に御協力いただいた多数の皆様には
この稿をかり厚く御礼申上げます
・・・「 建立経過報告書 」 から

 昭和49年 ( 1974 年 ) 11月23 日 ( 土 ) 吾撮影
慰霊像碑文
台座の側面に はめこんだ黒い大理石にこの像の由緒書の碑文が彫込んであった。
歩道に直面して 通行人の足をとめていた。
日展書道審査員、花田峰堂氏の書である

碑文
昭和十一年二月二六日未明、
東京衛戍の歩兵第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企図していた野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹶って重臣を襲撃し、
総理大臣官邸、陸軍省、警視庁 等を占拠した。
斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監はこの襲撃に遭って斃れ、
鈴木侍従長は重傷を負い 岡田総理大臣、牧野内大臣は危く難を免れた。
此の間 重臣警備の任に当たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に対する処置は 四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが、
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に集結した。
世にこれを二・二六事件という。
昭和維新の企図懐えて主謀者中、野中、河野 両大尉は自決、
香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により、
東京陸軍刑務所に於て刑死した。
この地は その陸軍刑務所の一隅であり、
刑死した十九名とこれに先立つ 永田事件の相沢三郎中佐のが刑死した処刑場の一角である。
この因縁の地を選び 刑死した二十名と自決二名に加え、
重臣、警察官 この他 事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、
且つは 事件の意義を永く記念すべく、
広く有志の浄財を集め、
事件三十年記念の日を期して 慰霊像建立を発願し、
今ここに その竣工を見た。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
昭和四十年二月二十六日
仏心会代表
河野司 誌

( 碑文 原案は末松太平氏 )
野司 著  ある遺族の二・二六事件 から


「 二十二士之墓 」 開眼供養法要

2021年08月28日 14時33分23秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)



«昭和27年 ( 1952年 ) »
仏心会々報 ( 再十三号)
報告事項
1  二十二霊分骨埋葬式の件
七月十一日午後四時、賢崇寺に於て読経の後、
梅雨そば降る合間に滞りなく御埋葬を了し、新しい墓所に永遠の眠りにつかれました。
参列者
原、垂井、丹生、西田、白井、河野、外に宇治野時参氏。
2  「 二十二士の墓 」 完成の件
連日の雨のため工事進捗せず焦慮しましたが、
雨を冒して強行の結果、当日の一二日朝完成を見まして安心致しました。
自然石の台石、墓碑の調和、寛治もく、
曹洞宗管長禅師の御染筆も一入はえて、二十二士に相応しい落着いた姿です。
3  十七回忌法要及 「 二十二士之墓 」 開眼供養法要の件
七月十二日午後二時より執営みました。
降り続いた雨も幸ひ当日は降りみ降らずみの雨もよひの天候でしたが、
午後からはどうやらあがり、
午前中から会員の方々初め御関係の方々の御応援を得て万全の準備を整えました。
一時頃から御参列の方々相次ぎ 定刻には百五十名に近い多数の御参会をみました。
戦災後の狭い仮本堂に溢れ出る盛況の中に、
二時十分 一同着席、
次の順序で荘厳な御法事が始りました。
司会には 大蔵栄一氏が当って下さいました。
一、導師入場  藤田住職以下三名の導師入場。
二、開式の辞  大蔵栄一氏 開式を告ぐ。
三、読経  藤田師の法語につぐ読経 厳粛に流れる。
四、祭文  施主体表 河野司氏祭文を奏す。
五、弔詞  当時の同志代表し 末松太平氏 切々たる弔詞を朗読さる。
六、弔電弔詞疲労  大蔵栄一氏披露。
七、読経  再び読経に入り 最後に二十二霊の俗名、戒名が呼上げられ 一同粛然合掌、
      厳粛の気 堂内に溢れる。
八、仏心会代表 栗原氏に続いて遺族一同焼香、次いで 参列者に移り、
      真崎甚三郎元大将を始め全員の焼香を終る。
九、遺族挨拶  遺族を代表し栗原氏立たれ声涙共に下る感激の挨拶を述べらる。
      遺族席の嗚咽しきりに、堂内の緊迫頂上に達した洵に劇的な幕切れであった。
一〇、導師退場、閉式。

次いで書院にて小憩の後、一同境内墓地の式場に移る。

「 二十二士之墓 」 開眼供養法要
三時間半墓前の準備も整ひ、一同境内の新墓所に参集し、
黒白の幔幕まんまくを廻らし墓前の供花も清楚に、厳粛な環境裡に開式しました。
参列者からの御希望で、
先づ、国家を斉唱し、二十二士霊に相応しい雰囲気を醸しだすうちに、
藤田導師による読経と開眼式が厳かに執営まれました。
報道陣のカメラマンが入交る間に焼香に移り、初めて墓前に頬づく遺族達の感激は一入に深く、
一六年間の宿願を果し得た欣びは隠しきれないものが見られました。
あの時以来、初めて姿を見せられた老齢の真崎大将は
感慨深い面持ちで粛然と二十二士霊への焼香を捧げられる姿は特に印象的でした。
続いて 故人との関係が深かった方々、立場を同じくされた同志の人々、
理解と同情に溢れた方々が次々と墓前に額づかれ、その数百五十名を数へました。
かうして 意義深い法要を終りましたが、
地下の二十二士霊は、嘸かし満足して永遠の眠りにつかれたことと信じます。

多数の参列者の方々の姿が山門を去られたあと、
静かになった墓前に、藤田師を中心に栗原さんをかこんで感激の写真を撮った。
張りつめたこの日までの緊張が一度崩れた思いで、栗原さんと手を握り合って涙にくれた。
ありがとう、ありがとうと ただそれだけを繰返して、
私の手を握りしめた栗原さんの目からとめどなく涙が落ちた。
判り過ぎるほど判る その心境は、
私も同じで いつまでも墓前に立ちつくす二人のうしろに、
静かに藤田住職が寄り添っておられた。
泣き出しそうだった曇り空から ぽつぽつと小雨がこぼれだし、
夕色こめる賢崇寺の森に、記念すべき十二日の行事の幕が静かにおりて行った。

最後に、当日の祭文と弔詞を書き残して置く。

祭文
仏心会を代表し 謹んで二十二士柱の御霊に申上げます。
本日十五士の十七回忌を迎へ 併せて 二十二士の合同墓碑の建立を見るに当りまして
こんなに多数の人々が皆様の前に集まって居ります。
十六年の越し方を回想し 只々感慨の無量を禁じ得ません。
皆様もきっと喜んで下さると思ひます。
顧みますれば、あの日以来 私達が皆様に御約束しましたことは、
何とかして皆様を一つのお墓に葬ってあげたい、そして 安らかに眠って頂きたいといふことでした。
それは あの朝、刑場に臨むに当って、
「 俺達は 撃たれたら直ぐ陛下の御側に集まろう 」
と 誓ひ合って、
聖寿の万歳を三唱し、従容として死に就かれたと聞きました。
然し 本当の皆様の心状は、
死んでも 死にきれない死であったことを 私達はよく知って居たからです。
御分骨を持寄って、温い賢崇寺の懐ろに御預り頂いたのもそのためでした。
そしていつの日か必ず雪冤えんの日を期しつつ 毎月此処に集まっては御冥福を祈り続けて参りました。
其間に幾度か合同埋葬の企図も進めましたが、
常に空しく挫折して 今日に及びました。
しかし乍ら
本日の十七回忌を機として、
ささやか乍らも墓所を撰し、
墓碑を建て、
始めて皆様への御約束を果す事が出来ました。
感激これに過ぎませんと共に、物心両面に寄せられました沢山の方々の御懇情に対しては、
洵に感銘に堪えません。
皆様も必ずや喜んで下さったことと信じます。
此の次は 皆様の上にかけられました いまわしい汚名を解きほぐすことです。
私達はこのために更に努力を重ねますことを御約束致します。
在天の皆様、
どうか安らかに御眠り下さい。
茲に謹んで御冥福を祈ります。
昭和二十七年七月十二日
仏心会代表  河野司

弔詞
謹んで二十二士の御霊に申します。
二十二士の御霊よ、
あなたがたが先立たれましてより早くも十七年の歳月は流れました。
その過ぎ去った世の様を顧れば、
ことごとく あなたがたが憂えられた如き成行でありました。
思はぬことの起るが世の習ひとは云へ、
意志をつぐべく遺されたものの怠りを自責するのであります。
昔、盟友の墓前に空しく哭こくした人がありました、
われ等また同じ思ひを抱いて今 墓前に立つのであります。
十七年前のあの頃は、殊に雨が多く、
人々はあなたがたの志を悲しんで涙雨といっていました。
ことしもあの時と同様、雨が多く当時を偲ぶこと一入であります。
その雨もようやくあがった今日、
ゆかりの人々あまた墓前につどい、
あなたがたの冥福を祈る次第であります。
又 幽現一如と申せば ここを幽現交流の場として
改めて意志をつがんことを誓ふのであります。
二十二士の御霊よ
願はくば われ等の微衷をくみ給へ。
昭和二十七年七月十二日
一同代表  末松太平

河野司 著  ある遺族の二・二六事件 から


西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 20時39分29秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 

西田税の墓 「 義光院機猷税堂腰居士 」 

要津山法城寺、西田税の霊はここに眠っている。
山陰本線の要衝である鳥取県米子市の中心部からやや東寄りに勝田 (かんだ) 山という小丘陵がある。
その丘の上に禅寺があり、てらの浦の地つづきの墓地の中ほどに、西田家の塋域えいいきがある。
「 西田家先祖累代之墓 」
側面に 「 大正十四年十一月、西田税建之 」
と 刻まれた大理石の小さな墓石の下に、西田税は葬られている。
大正十四年といえば陸軍騎兵少尉の軍籍を去り、革命の戦士として世にたとうと決意した年である。
税はこの時二十五歳、
来るべき非業の死を予想して自らの手で墓石を建てたものであろう。
これから十二年の間、激しい革命への導火線に、自ら点火しつづけて、
ついに 昭和十二年八月十九日、三十七歳の壮齢で刑死するのである。
ちちのみの父らまち給ふ風きよき  勝田ケ丘のおくつき所
処刑される二日前の八月十七日 「 最後によめる歌八首 」 のなかに残した遺詠である。
すでに生きながら涅槃の境に達したと思われる西田の脳裡に、
はるかなつかしい郷里の祖先の霊の眠る勝田ケ丘の塋域が、忽焉として浮かび上ってきたものであろう。
「 義光院機猷税堂居士 」 

と刻まれた西田の位牌が、
法城寺の持仏堂の奥まった一郭、西田家先祖代々の位牌にまじって安置されているが、
俗名も歿年月日も行年も彫られていない。
「 逆賊 」 という汚名のもとに銃殺された刑死者として、
刑死直後おそらく自分たちの手で作ったであろう位牌に、
母や弟が世間をはばかってわざと俗名や歿年月日を彫らなかったものであろうか。
あれから四十年も経っている。
敗戦の年からすでに三十二年、人心も世相も大きく変わっているのに、
遺族の人々の心の中には、まだ晴れやらぬ憤怨の思いが、たえずくすぶりつづけているためでもあろうか。

法城寺の門前に煙草や筆墨を売っている山口菊代という六十すぎの老婦人は、
当時を思いだしてこう語ってくれた。
「 私しゃね、ここでこうしてもう五十年近くも、前を通る葬式をみているが、
税さんの葬式みたいな淋しい葬式はしらないね。
後にも先にも、あんなあわれな葬式はほかになかったね。
税さんのおっ母さんは、武家の奥方のようなキリリッと気性の勝った人だったが、
税さんの葬式の時にはね、そのおっ母さんが税さんのお骨を抱いてね、
怒ったように口を堅くむすんで、まっ正面をにらみすえたまま歩いて行きなさる。
あとは四五人、兄弟とごく近しい親戚だけお供をしていましたよ。
忘れもしない暑い日でね、八月の末か九月初めだったでしょうよ。
見ていてあわれであわれで、まだ嫁にきて間もない私だったけど、物かげで泣いたのを覚えていますよ。
国賊だ、逆賊だといったって、死ねばみな仏じゃないかと、死んだ主人と話しあって、
涙をふいたのを覚えていますよ 」

当時の国民は陸軍の宣伝どおり、逆賊だ、アカだと信じこまされていたし、
新聞もそのような悪人の印象を与えるような表現をしていた、
ましてや温順で消極的なこの地方の人々である、
うっかり西田家に顔をだしたり、まして葬式に供などしたら警察や憲兵ににらまれて、
うるさくつきまとわれる、と恐れられていたからであろう。
西田税の生家はいまもある。
法城寺から歩いて五分ほどの、せまい町並の一角に、いまも仏具商を営んでいる。
「 あの頃、私たちが肩身の狭い思いをした事は、忘れようとしても忘れられません。
夜 どこからかとなく石が飛んできて、何度ガラス戸を割られたか知れません。
『 アカだ、アカの家だ 』 と、大声で罵られたことも幾度かありました 」
でも、米子分駐の憲兵さんは、夜分それとなく巡回して護衛してくれました 」
税の弟、博の未亡人 西田愛は生前私にこう語ってくれた。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
西田税 ニ ・ニ六事への軌跡 から

 
ふる里の 加茂の河辺の川柳
まさをに萌えむ 朝げこひしも


西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 12時07分05秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

西田税の墓

昭和五十六年六月、山陰旅行を機に米子の西田税氏の墓所を訪れた。
松江の湘南学園、岡崎功氏と同行し、
税氏の姪、西田真理子さんの案内で法勝寺境内の西田家墓所に立った。
「 西田家之墓 」 他二つの墓石のある墓所の中央に、
五寸角の木標が建っていて、それが税氏の墓標であった。
意外であった。
四十五年を経た今日、既に半ばくちけた木の墓標の下に眠る仮葬の姿に、
理解し難い複雑な心境で、花たてもない漂前を清めて生花を供えた。
墓標の正面には
「 義光院機猷ゆう税堂居士 」
と 書かれ、
左側面に
「 昭和十一年二月二十六日東京事件ニ連座、尊皇義軍ノ首魁トシテ殉職 」
と あり、
右側正面には、
「 昭和十二年八月十九日旧七月七日、没、俗名 西田税、行年三十七歳 」
と 書かれてあるが、
既に十年余を経たと思われる墓標の姿には 涙をさそった。
真横に建つ 「 西田家之墓 」 には、「西田税建之 」 と 刻まれている。
自分が建立した西田家の墓に入れず、
今だに仮の姿で眠る税氏を思い、
岡崎氏と淋しく目を見合わせたことであった。

西田家は古くから寺の下通りの博労町に仏具店を営んだ家で、
税氏が軍人となったあとの家業は弟が継いで盛業していた。
戦後弟夫妻の没後は娘、真理子さんが、
高校の先生の傍ら現在でも続けられている仏具店である。
この米子の弟一家と税氏の関係は複雑であったようだ。
税氏が軍人となって故郷を去ってから、
病気のため陸軍少尉で退官し東京へ出て北一輝に師事し維新運動に挺身し、
幾つかの事件にも関与し、
この間に結ばれた初子夫人との生活は、古い商家の米子の本家とは、
あまりにかけ離れたものであつたと思う。
かくて、初子夫人も米子の土地を踏まず、
税夫妻と米子の本家との間は円滑でなかったようだ。
こうしたことが税氏の死後四十五年の今日、
なお目前にする墓標であるとすれば、
故人の冥福いつの日かと断腸の思いを残して辞した。

松江に帰る車の中で、
岡崎氏は同じ山陰の同志として、
大先輩西田税国士慰霊のために、
あの墓標の文字をそのままに立派なお墓を建てたい、
それは私たちの責任であると情熱を傾けて語られた。
私としても ご遺族の方々にご協力して、
その日の来ることを熱願してやまない。

正真正銘の一心同体であった 税氏夫人初子さんも
五十六年正月、
一人淋しく逝かれた。
しかし遺骨は税氏のもとには帰らなかった。
悲しいことである。
「 西田税之墓 」
建立の日には、
晴れて同穴、
冥福を祈念するものである。

河野司 著 ( 昭和57年 ( 1982年 ) )
ある遺族の二・二六事件  から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
( 五輪塔・・昭和61年 ( 1986年 ) 9月 建立 )
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」 


中橋基明 『 義を見てせざるは勇無きなり 』

2021年08月26日 12時13分28秒 | 中橋基明

「諸君!チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、
新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、
市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、
必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!
みなさん!
必要なのは粛軍!
それゆえ我々は蹶起したのです!」

・・・中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。
・・・万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた


中橋基明  ナカハシ モトアキ
『 義を見てせざるは勇無きなり 』
参加の動機は如何との法務官の問に、そう答えた

目次
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・ 昭和維新 ・中橋基明中尉
・ 中橋基明中尉の四日間 

中橋中尉は抜刀して号令をかけた
「 気を付け 前列三歩前へ 番号 右向け右 前へ進め 」

こうして前列の者が第一小隊となって出発した
途中シャム公使館のくらがりで停止、
第一小隊だけに実包が配られた

中橋中尉は実包を私ながら小さな声で
「 国賊高橋是清を倒せ 」 と号令した
・・・近衛歩兵第三聯隊七中 隊龍前新也二等兵

  雪未だ降りやまず(続二・二六事件と郷土兵)から

中橋基明中尉 「 吾、宮城を占拠す 」 
・ 朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 
・ 朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎 
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
・ 最期の陳述 ・ 中橋基明 「 大義のために法を破ったものであります 」 

吾人は決して社会民主革命を行ひしに非ず。
国体叛逆を行ひしに非ず。
国の御稜威を犯せし者を払ひしのみ。
事件間、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、
明らかに維新にならんとして反転せるなり、
奸臣の為に汚名を着せられ且つ清算せれるるなり。
正しく残念なり。
我々を民主革命者と称し、我々を清算せる幕僚共は昭和維新と称するなり。
秩父宮殿下、歩三に居られし当時、
国家改造法案も良く御研究になり、改造に関しては良く理解せられ、
此度蹶起せる坂井中尉に対しては御殿において
「 蹶起の際は一中隊を引率して迎へに来い 」 と仰せられしなり。
之を以てしても民主革命ならざる事を知り得るなり。
国体擁護の為に蹶起せるものを惨殺して後に何が残るや、
来るべきは共産革命に非ざるやを心配するものなり。
日蘇会戦の場合果して勝算ありや、内外に敵を受けて如何となす。
吾人が成仏せんが為には昭和維新あるのみ。
「日本国家改造法案」は共産革命ならず。
真意を読取るを要す。
吾人は北、西田に引きづられしに非ず、
現在の弊風を目視し之を改革せんとするには、
軍人の外非ざるを以て行ひしなり。
« 註 » 
文中、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、というのは安藤輝三大尉のことである。
また、秩父宮殿下が坂井直中尉に対して 「 蹶起の際は一中隊引率して迎へに来い 」 と謂われたとあるが、
坂井中尉は これについて何も書く残していないので、確める術はない。
殿下との連絡将校であった坂井中尉がふと話したことが、おそらく中橋中尉に強く印象づけられたのであろう。


・ 
中橋基明 『 感想 』 
・ 
中橋基明 『 随筆 』 
あを雲の涯 (十一) 中橋基明 
・ 昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉 


昭和一一年七月一二日(日)早朝 死刑が執行される
中橋基明中尉のみは
一発、二発で落命せず、三発目にして落命した、
全身血達磨であったと謂う 
笑ひ声もきこえる。
その声たるや誠にいん惨である。
悪鬼がゲラゲラと笑う声にも比較できぬ声だ。
澄み切った非常なる怒りと恨みと憤激とから来る涙のはての笑声だ。
カラカラしたちっともウルオイのない澄み切った笑声だ。
うれしくてたまらぬ時の涙よりもっともっとひどい、形容の出来ぬ悲しみの極の笑だ
・・・磯部浅一 ・  獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」 


栗原安秀中尉達の寄書き

2021年08月26日 05時03分53秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

自衛論
一、自然ノ法則
萬物ノ生存スルヤ絶ヘス四周ヨリ侵碍セラルヽヲ以テ自ラコレカ防衛ノ術を有ス
自然界ニ於テ常ニ現象セラルヽ自營本能ハコレニシテ生物ノ天賦ノ權利トス、
故ニ一朝コレヲ失ハンカ忽チニシテ強敵ヨリ殘賊セラレ衰滅スルモノトス
人類モ亦コノ法則ヲ有スルハ當然ナリ
二、私人ノ權利
人ノ社會を形成スルヤ一定ノ規範ニヨリソノ生命名誉權利ヲ保證セラル、
サレトコノ保證ノ突差ノ間實施セラレサル時ハ自ラ防衛セラルヘカラス、
コレ法律ニ於テ正當防衛ノ認メラルヽトコロナリ
三、國家ノ權利
國家ハ常ニ外周ノ他國ト内部ヨリスル自潰作用ヨリ脅威セラル、
即チ内部ニ對シテハ法律ヲ以テ外部ニ對シテハ開戰ノ權利ヲ以テ防衛ノ手段トス、
而シテコレ行使ノ骨幹ハ國家ノ威力軍人ノ任務ノ國家ヲ保護スルニアリトナス所以ハコヽニアリ
四、國體擁護ノ爲ノ軍人ノ公人トシテノ任務
公人トシテノ軍人ハ國體ヲ破壊シ又ハ破壊セントシ者ニ對し當然の權利トシテコレヲ斃サヽルヘカラス、
コレ國家ノ爲正當ナル手段ナレハナリ、
即チカクノ如キ場合ヲ正當防衛ナリト主張スル所以ナリ


栗原安秀中尉達の寄書

國  國體論  建國ノ歴史顯現  國體論
獨斷蹶起  歴史的  安  國體論
破壞  護  栗原 
立證  自衛的
壓迫

顯  否定
惡素質
特殊性

五、余等ノ蹶起ノ大ナル獨斷ナリト主張スル理由、
若シ統帥權干犯者  天皇機關説論者等ノ國體破
壊者ノ法律ニヨリ罰セラルヽコトナク 寧ロソノ法律ニヨリ保
護セラレアル時ハ國内的ニ法律ノ權力ナキ□故最終ノ
手段トシテハ軍隊アルノミナリ、   即チコレカ攻撃ハ大ナル
獨斷専行トナストコロナリ、要ハ國體破壊ノ事實ヲ
立證セハ可ナルヘシ、
六  維新ニ於ケル自衛的内容
人間社會ニ於テモ下層者ノ上層者ヨリ絶ヘス各種ノ壓
迫ヲ受ケツヽアルハ現實的事實トス、  而シテコリカ累□積
ノ遂ニ下層者ノ自衛的爆發トナルハ革命ノ原則ニシテ
民族自體ノ一種ノ自衛作用ナリ、
日本ニオケル維新ノコノ種意義内容ヲ包持シアルハ否

定シ難キモ、顯者ナル事實トシテ維新ノ主因ヲナスハ即チ
國體破壊者ニ對スル國家ノ淨化作用ニシテ維新ハ
又國家ノ自衛ナリトモ云フ得ヘシ、
カクノ如ク國家自體カ時勢ノ進運ニ伴ヒ逐次生シキタル
矛盾、惡質素ヲ否定排除シツヽ進化スル點ニ日本ノ
國體ノ特殊性アリ、    而シテコレカ作用ノ主タル原動力
ヲナス者ハ即チ軍人 ( 正シキ力 ) トナス。

國體論、
神代ノ意義、   考古學的  人種學的  人間の常識  民族理想ノ集約
建國ノ歴史、    神武創業ノ□□
國家ノ進化、    社會進化ノ法則、世界民族ノ原則  氏□□  ローマ法皇權  國民□□ノ進化
萬世一系ノ天皇、    萬世一系ノ理想  明治維新  帝と絶對者  □□□□□
日本臣民、    克ク忠  克ク孝  先賢□□
維新ノ意義、    大化ノ改新  建武ノ中興  明治維新  昭和維新
國家ノ理想、    一君萬民  君臣一體  義ハ君臣  情ハ父子
皇道ノ世界宣布    日本ノ皇化ニウルホス、

河野司 著  二 ・二六事件秘話  から


中橋基明 『 感想 』

2021年08月25日 05時07分57秒 | 中橋基明


中橋基明

感想

明治維新の志士をしのびて
國史を繙ひもときて 特に感を深こうするものは中大兄皇子の入鹿を大極殿に誅せし事、
次に和気清麿の精忠、次に南朝の忠臣、次に明治維新を中心とせる志士の活躍なりとす
就中 明治維新の志士に就て其傳記等を讀むに萬感交々至り、
痛く盡忠報告の念を湧起せしめらる、
此度蹶起し一死以て邦に報ゆるてふ精神は正しく維新志士より受けしもの、
蓋し莫大なるものあり
即ち 志士の難を破りし第一にして足らず、
或は刑場の露と消え 或は獄裡に憤死し 或は戰場に斃れ 或は毒刃に衂じく
或は孤島に呻吟し 或は天涯に漂泊する等 其趾惨又惨、其憂悶の情如何ばかりなりしぞ、
仰で訴へんと欲するも訴ふべきの天なし、俯して哭せんと欲するも容るべきの地なし、
徒に恨を呑んで不歸の鬼と化するあらんのみなりしなり、嗚呼
されど、果せる哉 其熱誠は空しからず、
凝結して一大変動を生じ大政復古---四海統一、制度齊整、文物燦燃、
玆に光輝燦然たる明治聖代は現出しぬ、
昔日鬱屈を呑んで地に入りし之等英霊、僅かに瞑目するを得たり、
其鞠躬盡瘁、忠烈義勇を天下に發揮し、
多年積威の覇府を倒し天日を既倒に挽回し維新の新天地を作る、其功や蔽ふべからず、
東奔西走するや妻子を捨て父母を離れ、総てを犠牲として王事に勤労す、
亦吾人の範たり
志士の折にふれて、或は時世として詠める歌の多き中、
いささか吾人の胸中と一脈相通るものを述べ、彼を称え己の蹶起前後の心事に及ばん
古來、和歌は其人の胸中を率直簡潔に表現せるものにして、
以て詠者の憂國の至情を知り得て余あり、言々句句深く肺腑を衝く、
之を讀み之を口誦む者誰か勤王の志を抱からん、
之等志士は明治に至りて皆贈位せられ、以て其微忠を認められしなり、
以下若干、特に感を深うせしものを記さんとす

大和の義擧に參加せる伴林光平の詠める
  時のまに茨からたち刈のけて  埋れし御代の道ひらきせん
げに昭和の御代にも茨、からたちの多きを感嘆せずんばあらず、
同じく義擧に參加せる乾十郎の歌に
  いましめの縄は血汐に染まるとも  赤きこころはなどかはるべき
正しく悲壮なり、
天忠組として蹶起せるも李らず、朝議亦変更せられ、遂に四周より攻撃を受くるに至る、
遂には十津川の人民も寝返りを打ち、勅命なりとて之を誘ひ討つ、
天忠組の一人 水郡善之祐の謂へる
「 行けば敵丸に斃れ留れば餓死せん、
均しく死なんか雑兵の手に斃れ狼猪の口腹を飽さんよりは從容自首し、
我党義擧の由來を声明し、
以て天下後世の人をして大義名分の爲めに一身を犠牲に供したることを知らしめんに如かず 」
と言へり、
而して大和の義擧、
則ち天忠組の志士は當時大部殺されたりしも明治の大御代に至りて皆其精神を認められたり、
一方勅命として行動せし十津川の民其他各藩の攻撃軍は別に後世勤王と認めず、
これ等の事實は彼の吾人の蹶起せし時と相似たる点の甚だ多きを見るなり、
義擧に加はりし伴林光平は實に賭し五十二なりしとぞ

生野銀山の義擧に加はれる河上弥一郎の詠める
  おくれなば梅も桜も劣るらん  さきがけてこそ色も香もあれ
  議論より實を行なへなまけ武士  くにの大事をよそに見る馬鹿
同じく參加せる伊藤竜太郎の詠める
  事なきをいのるは人の常なれど  やむにやまれぬ今の世の中
其意気や誠に壮なり、
殊に 河上弥一郎の死せる其歳僅か二十一、
良く其名を後世に止めたり、
吾既に三十、人生の半ばを過ぎぬ、
などか命の惜しかるらん
桜田門の変に參加せる鯉淵要人の詠みし
  ひとすぢに國の御爲と思ひ立つ  身は武蔵野の露と消ゆとも
同じく参加せる齋藤監物の詠める
  國の爲つもる思ひも天津日に  とけてうれしき今朝の淡雪
岡部三十郎の桜田の成功を知りて詠める
  願ふより嬉しと思ふ  今朝の雪
桜田に奮戰せし彼の鯉淵は年五十一なり、
大和義擧の伴林光平と共に合せ考ふる時、吾人は徒に坐するに忍びず、
正に懦夫をして奮起せしむ、
即義により節に殉じて毫も死生を顧みざること期せしむ

顧みれば 二月二十六日より 三日間、
淡雪頻りに降りしきるあの時を思ひ、桜田の擧を思ひ、
亦同じき場所にありて實に感慨無量なるものあり、澤島信三郎の詠める
  よしあしは人のおもひにまかしつつ  御國の仇に死する大丈夫
  ながらへて浮世のはしを思ふより  いさぎよくふめ死出の旅路を
  木枯らしに散れる木葉の有りてこそ  霜ふる秋としる人ぞしる
生死褒貶ほうへん度外視せる之等の男々しき決意を見て、
吾人の心境も亦近しと感ずるなり
僧信海の獄に入りし時に詠める
  まごころを盡さん時と思ふには  うきに逢ふ身を嬉しかりける
増田仁右衛門の獄中の述懐に
  君が爲め盡ししかひも難波江の  よしもあしきと替る世の中
これ等が歌を口誦む時、今日轉た感慨無量なるものあり
青木新三郎の詠める
  朝夕に君がみためと思ふより  外に心はたもたざりしを
國司信濃の詠める辭世に
  よしよし世を去るとても我心  御國の爲に猶盡さばや
毛利登人の辭世の歌に叉り
  すめらぎの道しるき代をねがふ哉  我身は苔の下に住むとも
大和國之助の同じく
  國の爲世の為何か惜しからん  君にささぐるやまと心は
松島剛蔵の同じく
  君が爲盡す心のすぐなるは  空行く月やひとり知るらん
井出孫太郎の詠める
  捨小舟よる瀬の湖の差引きは  きみが心にまかせはててん
福岡総助の詠める
  やがて見よ曇らぬ月は九重の  みやこの空にすみ渡るらん

之等の歌は吾人の今日の心境にさも似たり、
此処に始めて維新の志士の心境を審に體験するを得たり、
以上の志士にして多くは獄中に斬らる、
されど其志聊かも屈する処なく、死するも勤王の念慮を失はず、
正を持して空しく消えし亦惜しからずや
高橋庄左衛門の絶命の歌にあり
  今更に何をか言はんいはずとも  盡す心は神や知るらん
年十九にして勤王に殉ず、
其玉砕の跡や正に大和魂の華なれや、男子すべからく瓦全を恥づべし、
齷齪あくせくとして全を求むるは世にも多きも、吾人の執らざる処たり
明治大帝、彼の高橋に従四位を贈らる、蓋し異教なりと謂ふべきも又故なきに非ざるなり
下野甚平の詠める
  身は苔の下に朽つとも五月雨の  露とは消えし大和だましひ
其烈々たるジン盡忠、心誰がたたへざらん、亦吾人の範たり
彼の水戸藩の志士武田正生は如何なりしぞ、
終始勤王の爲に盡し、
家族の男子を悉く率い水戸の變に会し、
正を持して奮闘せしも遂に幕兵の攻撃する処となれり、
力戰の後、遂に京師に上り闕下に伏して素志を訴へんとして水戸城を斷念し、
障碍を排除しつつ進軍せしも力竭き金沢藩に捕へられ斬せられて水戸に梟きょうせらる、
武田が平常の行爲たるや實に勤王そのものにして、水戸の變に於ても藩の奸党を攻撃中、
幕兵の攻撃を受くるに至りしなり、
其終始を踏みて遂に梟きょうせらる、明治の聖代に正四位を贈らるると雖、
彼が心事を思ひて一鞠の涙なき能はず、天を仰いで嘆息せずんばあらず
白石内蔵進の詠める
  魁けて散れややまとの桜花  よしやうき名は世にのこるとも
此の儀性的精神ありて志士は己を空しうして國に殉ぜしにあらずや、
亦吾人の範たり、
名もいらず 地位も金も總ては吾人に不要のものなり、
只君國の二字あるのみ
維新の志士は大部は正を持して屈せず、
獄に栲こうせられ 或は憤死し斬に処せられ 或は梟きょうせられ 其屍は徒に刑場に放棄せられたり、
而して之に至るに讒言ざんげんせられ、誣告せられ、蜚語を鞏いられ、註計に陥入れられ、
或は忌避せられしもの其の大部なりとす、
事全く無根なりとても直に官禄を褫うばい脱し 禁錮し 或は遠島となる、
何ぞ其の悲惨暴戻なる、明治維新の偉大なる程それ程、
裏面には大なる志士の血の叫びあるなり、犠牲の存在するなり、
維新亦志士の血の結晶なりと言ふも過言にはあらじ

志士たるや其年齢の上下を問はず、
弱冠より古希に亙るいやしくも勤王の志ある者總て蹶起せるなり、
身命喪とり顧ず、
されど一般に三十歳以下の者多く國事に斃れたり、
橋本佐内然り 吉田松陰然り 藤田小四郎然り、彼等にして天寿を全うせば如何ばかりならん、
國家の爲に無念と言ふべし、
楠公父子の盡忠を當時誰か知りしぞ、賊臣として埋るる事数百年、亦何をか言はん、
吉田松陰の間部閣老を刺さんとして言へる
「 もし運拙く 却て我身を失ふとも
天下の義旗打挙り 闕に赴くの首唱となり
千載の公憤を發し義を取り仁をなす道理なれば いかで命を惜まんや 」 と、
今日 明治維新の志士を偲びて萬感交々至る、
玆に思ひ出づる儘に記す

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から


中橋基明『 随筆 』

2021年08月24日 05時17分47秒 | 中橋基明

随筆
塞翁が馬
「 人間萬事塞翁馬 」 といふ古語があるが、

世の中は 全く此の通りだと思ふ、
自分の思ふ通りになつた 嬉しいと思って居ると、
それが不幸の原因となつてくる、
實際 世の中の事は儘にならぬ、
自分の今迄の生立を考へると正しく 「 塞翁が馬 」 である、
幸福は不幸の原因となり、
之が亦幸福の原因となつて居る、
結局人間は幸福を願ふ事が余りに強烈であり過ぎるのぢやないかと思ふ、
そして 不幸だ不幸だと思ひつつ不愉快に日を送る、
実に無駄な話である、
それから又幸福だと言つて決して之に酔つてはいけない、
幸福の裏に不幸が待構へて居る事を考へ、
戒心と過度とを失はない事が必要である

世の中に大した不自由もなく生活して居ると、

特に現代の如き社會に居る時、
人は恩と言ふものを忘れ勝である、
特に浮薄なる外來思想の輸入は益々之を増長せしめて居る、
吾人の受けて居る恩は君、國、父、師の恩のみではない、
而して
これのみにても とやかく説明をしなければ分らない徒輩がだんだん多くなつて來たのは残念であるが、
一つは世間が甚だ功利主義に流れ、
平穏で便利な 且 忘恩的な施設に基因するが、
之等を駆りて不自由な不便な境遇に入れる時、
始めて衆生の恩をつくづく感ずる事である、
自分一人自主独行して居ると思つたら大間違ひである、
吾人は一粒の米にも 百姓馳走の恩を感ずる、
まして 日常吾人をそだててくれる萬象、すべてに恩を感ぜざるを得ないのである、
太陽の無心にして無上の寄進に対しては、つくづく感謝の念を起すことである、
人間は慣れてはいけない、 絶えず 深く 己に反省しつつ 世を送る事が必要である、
しかる時 この己一個に対する衆生の恩をひしひしと感ずる事が出來るのである

「 生者必減 」 即ち 死は此の世に生を享くる者にとりて不可能の事である、

いくらもがいても時の大きな歩みは 吾人をして一歩々々死に追ひつめて居る、
この様にして 死は一日々々と近づく、
又 何時突発的の事が必要つて不意に死ぬかも知れない、
かう思ふと實に人生は たよりなくなる、 どうしたら良いか、
即ち 生き甲斐のある様にするにはどうしたら良いか、
此の生き甲斐は決して幸福を追ふ者には与へられない、
生き甲斐とは 言換へれば 死に甲斐でもある、
一つは 大きな事業をなし終へた時には もう死んでも良いと思ふ、
之が生き甲斐でもある、
只 食つて生きて 其の中に死んで行くと言ふ様な生活では とても死と言ふものを超越することは出來ない、
其の日の境遇に満足し 反省し 充實した生活をしてこそ、
亦 生き甲斐があると言へる、 人間の慾は果てしない、
之を追つたら満足することは決して無いだらう、 結局慾を追ふ内に死の中へ飛び込む事になる、
人間はよろしく笑を含んで死んで行ける境地にまで進むを要する、
死に甲斐のある様な生活をする、 死は即ち 生の完成である
善悪
時代と言ふものは面白い、
絶えず大きな歩みを進めて居る、
そして世間に善惡の物差を示して居る、
由來、 時代と言ふものは先覚者を迫害する 若干 例を述べると次の様である クリストは十字架の露と消え、
ソクラテスは毒殺せられ、 我國に於ては日蓮上人は様々な迫害を受けた、
宗教でさへも之である、 だから宗教の勃興した中世紀の西洋に於ては 科學者は極刑に遭つて居る、
之等の事實は現代に當てはめて考へると不思議に感じさへする、
これは結局、 時代の物差の寸法の異りから生ずる善惡の境界によつて生ずるのである、
今日の惡い事も 將來善くなると言ふ事を、
誰が斷言しても之を反對する事は出來ぬだらう、
時代と言ふものは得て気まぐれではある、
時代よ、
すべてに寛大であれ
感謝
じつと考へると、自分の身の上を考へると、

吾人は感謝の念が強く湧き起るのをおぼえる、
かうやつて三十年の長い間 此の世の中に生を享けて來た事を考へると、
之迄に あらゆるものから受けた恩を思ふと、実に無限大で無数である、
之等に対して只 合掌したい気持である、
只 「 ありがたうよ 」 「 ありがたうよ 」 と、萬遍となく 口の中にくりかへさざるを得ない、
實に有難い極みである、
之を思ふと涙さへ出る、
感謝の念である、
世の中一切に對する感謝の念である
名も知らぬ 真白き虫を室に見つけて 
---七・六
御仏の使なるらん
眞白なる 

小さき虫の室に居りたる
名も知らぬ
小さき眞白の虫を取り
窓辺にそつと はなちやりけり
御使の役を果して虫は今
何処ともなく飛去りうせぬ
中橋基明 

有難き事
昭和九年二月
皇太后陛下の高尾御稜へ行啓になられし際、
供奉將校として服務せり、
還御の際に御召列車中に於て 拝謁を仰せ付けられ、
畏くも 御語を賜はれり
今日の勤務御苦労様でした
實にこの世に生を享けてはじめての最大の光榮なりき
昭和九年四月 満洲派遣に際し 両陛下に拝謁を仰せ付けられ、
皇后陛下より 畏くも御語を賜れり
御體を大切に
實に有難き極なり

以上の二の有難き事どもを記し残す
謹みて 天皇陛下 皇后陛下 皇太后陛下 に 對し奉り、
此世に生を享けし事の感謝感激の意を表し奉る
謹みて而 父の恩 母の恩
此の広大無辺の兩恩の前に、靜に瞑目合掌す
不肖  孝未だ全からず、
十分に副ひ得ざりしを遺憾とす
天を仰ぎ 地に俯し 深く感謝の念に燃ゆ、
庶幾くば 多幸ならん事を祈上ぐ
天皇陛下萬々歳
昭和十一年七月十一日終之

絶筆
只今最後の御勅諭を奉讀し奉る。
盡忠報告の至誠は益々勃々たり、心境鏡の如し
七月十二日午前五時

永別
五月雨の 明け往ゆく空の 星のごと
  笑を含みて 我はゆくなり
いざともに まだ見ぬ道を 進みなん
  御空の月日 しるく照せよ
身は竝に 消えゆくとも永く 我が霊は
  残りて國に なほ盡さなん
國のため いたせし赤き 誠心は
  風のたよりに 傳へらるらん
身は此処に 消ゆくとも永く 我が霊は
  残りて國に なほ盡さなん
憂き事の かゝらばかゝれ 此の我が身
 鏡に清き 心やうつらめ
春寒み 梅と散りなば 小春日の
 菊の花咲く 時も來つらん
三十歳の はかなき夢は 醒めんとて
 雲足重く 五月雨の降る
身を捨てゝ 千代を祈らぬ 益荒夫も
 此の世の幸は これ祈りつゝ
今更に 何をか言はん 五月雨に
 唯濁りなき 世をぞ祈れる
今此処に 世をば思ふと すべなきも
 なほ心にする 黒き浮き雲
大宮の 御階の塵を 払ひしも
 なほぞ残れる 心地こそすれ
降りしきる 五月雨やがて 晴れゆきて
 宮居の空は 澄みわたるらん
昭和拾一年七月十一日  中橋基明

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から


高橋太郎 『 後顧の憂い 』

2021年08月23日 19時39分39秒 | 高橋太郎

「姉ハ・・・・・・」
ポツリ ポツリ家庭ノ事情ニツイテ物語ッテ居タ彼ハ
此処デハタト口ヲツグンダ
ソシテチラリト自分ノ顔ヲ見上ゲタガ
直ニ伏セテシマッタ
見上ゲタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙ガタマッテ居タ
固ク膝ノ上ニ握ラレタ両コブシノ上ニハ、二ツ三ツノ涙ガ光ッテ居ル
モウヨイ、コレ以上聞ク必要ハナイ

國防ノ第一線  日夜  生死ノ境ニアリナカラ
戰友ノ金ヲ盗ツテ故郷ノ母ニ送ツタ兵カアル
之ヲ發見シタ上官ハ  唯彼ヲ抱イテ聲ヲ擧ゲテ泣イタト云フ
神ハ人ヲヤスクスルヲ本誓トス  天下ノ萬民ハミナ神物ナリ
赤子萬民ヲ苦シムル輩ハ  是レ神ノ敵ナリ  許スベカラズ
・・・後顧の憂い 「 姉は・・・」

高橋太郎 ・ 最後の写真 
・ 「 今日も会えたなあ 」 


高橋太郎  タカハシ タロウ
『 後顧の憂い 』
目次

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・ 昭和維新 ・ 高橋太郎少尉

・ 高橋太郎少尉の四日間 1
『 私ハ昭和維新實現ノ爲一身ヲ犠牲ニシ決行シヤウト決心シマシタ 』 
 
・ 高橋太郎少尉の四日間 2 『 生死ハ一如ナリ 』 
・ 最期の陳述 ・ 高橋太郎 「 蹶起の目的は國體護持にあります 」 
・ 高橋太郎 『 斷片 』 

・ 高橋太郎 『 感想錄 』 
・ あを雲の涯 (十五) 高橋太郎 
・ 昭和11年7月12日 (十五) 高橋太郎少尉 

「 愈々決行ノ時ハ迫ツタソ 」
ツカツカト入リ来リテ耳語ささやク坂井中尉ノ異様ニ緊張セル顔
無言ノ握手
「 來ルヘキ時ハ來タ 」 唯一語
悲シミニアラス  喜ヒニアラス  胸ニコミアクル如キ壓迫感
黙々トシテ見合ハス眼ニキラメク決意ノ色
悲壮トイハンカ  壯絶 
二月二十二日昼食後ノ第一中隊將校室ノ一情景 
・・・断片 ・ 二月二十二日の思ヒ出

愕然タリ 悲報至ル
「單は我ヲ攻撃ス 」 ト
耳ヲ疑ウテ問フ  再三再四  確報タルヲ信セサルヲ得ス
嗚呼倐忽しゅっこつ變化  今ノ今マテ我等カ赤忠成リヌト喜ビ合ヒ居タル
同志一瞬ノ後ニコノ悲報を得ントハ
夢カ 否 幻カ、否 事實タル如何セン
同志ノ將兵寂トシテ聲ナシ
積雪ニ注ク熱涙潸々さんさん  「 噫 萬事終リヌ 」 意決セリ
警備線上ニ斃レンノミ
麹町地區警備ハ是レ我カ任務  撃ツモノアラハ線上ニ死セン
部下ノ兵 擧こぞリテ共ニ死ナント乞フ
或ハ血書ヲ以テ曰く  「 一緒ニ死ニマス 」 ト
感極リヌ  答フルニ聲ナク感涙ニムセフノミ
千四百ノ同志 粛トシテ死地に就カントス
維時昭和十一年二月二十八日夜半
皇城ニ向カヒテ整列抜刀一閃 捧銃  君ガ代ノラッパモ稍
モスレバ途絶エントス
指揮スルモノノ眼ニモ涙  指揮セラルヽモノヽ眼ニモ涙  落雪粉々タリ
熱涙ニトク  悲ト言ハンカ壯  壯ト言ハンカ悲
悲絶壯絶  天モ泣ケ 他モ泣ケ  鬼神モ泣カン大忠誠心
皇國ノ隆昌ハ我ラ靑年ノ骸ノ上ニ立ツ
神風吹ク
ク本ノ國ノ人々ヨ  涙ニ光ルハ志士ノ眼ノミカ
噫コノ秋  赤血ノ上ニウチタテヨ昭和ノ維新  皇國體眞姿ノ顯現
・・・感想録 ・六月二十九日


( 二月二十九日朝 陸相官邸ノ一室 )
既ニ遺書モ書キ終リヌ
今ニオイテ書クヘキコトモナシ
「 天皇陛下萬歳 」 ト 記ス
紫煙ニ味フ一プクノチェリー  正ニ値千金
窓越シニ拝ス大内山ノ邊リ  斷雲片々
「 坂井サン  大内山ノ上カ段々明ルクナリマスヨ 」
「 噫  將ニ大内山ノ暗雲一掃端光ミナキラントスカ 」
互ニ見合ハス顔ニ思ハス浮フ微笑 
・・・断片 ・ 四月二十一日


高橋太郎 『 感想錄 』

2021年08月23日 05時24分26秒 | 高橋太郎

収監された将校たちが、正規に執筆を許されたのは、六月二十七日からで、
 その日から太郎は、 「 感想録 」 と 題した手記をのこしている。
この 「 感想録 」 は、「 断片 」 で
人間たるまた難き哉
と嘆じた人間の弱さや、
 本能的な悩みは完全に消え、悲しみ、悔い、迷い、不安、動揺のあとはない。
死を凝視つつ、二十三年の人生を筆一本に託した、まさしく魂の記録である。
人のまさに死なんとするや、その言うこと善し  と 故語にあるが、太郎の思想を総括したものとして、
 熟読吟味するに価しよう。
衣服といっしょに汗の臭いを消すためと思って差し入れたオーデコロンを、
 彼は刑場に臨むさい、死に装束にふりかけるとともに、
 この手記にもかけたのであろうか。
・・・高橋治郎著 『 一青年将校 』 から


高橋太郎


感想錄に我魂を留む


敬親  原  好様の膝下に
愛弟  高橋治郎殿机下へ
高橋太郎

生前我れに眞実なりし人々に分けられ度し ( 宛名の如し )
書状を潑せし分は除く

我が体につけし香水の香を留む


感想録    一
我今 死ノ宣告ヲ目前ニ感想ヲ錄ス
文固もとヨリ拙  思想固ヨリ幼  記スル所唯我カ肺肝ノミ  心外無別法トカ
文外心ニキカンコトヲ
昭和十一年六月二十七日   高橋太郎

六月二十七日
地位モ富モ衣モ住モ 否 生命ヲモ一切ノ自己ヲ 擲なげうチシ今 眞ノ自己ヲ得タリ
一切ヲ棄テヽ得タル永遠不滅ノ生命尊キ哉
人ハ是神物  而シテ煩悩ノ汚物  自己本来空  何処ニカ自己アラン
アル無キ自己ニトラワレ  必滅ノ生命ニ執シ  神物タルベキ身ヲ徒ニ煩悩ヲ魔界ニ投ス   悲シイ哉
一切ノ欲  一切ノ執念ヲ抛なげうテ犬死一番  大活現成ト永遠不滅ノ神霊ヲ体現スヘシ
自他一如  万物是レ我  生死亦一如タリ  何ソソレ徒ニ生に執シ死ヲ怖ル
獄中端坐百日  稍ソノ意ヲ得  心気闊然  身心トモニ悠然タリ
生死ノ際ヲ知ラス  宇宙ハ是レ一個ノ霊体  天行ノ健ナル
春來レハ花咲キ鳥ウタヒ  秋ニハ百課熟ス  皆神意タリ
嚴トシテ始終一貫ス
けだシ萬物生成化育ハ神ノ本誓ナリ
人ハ萬物ノ霊長タリ
其行亦神ノ本誓ニ違たがハス  天地生成化育ニ參スルヲ以テ心トス
萬物ハ神ニ歸一シ 而モソノ相獨立ス  且ソノ
間相關ノ理嚴タリ
萬物ニ長タル人意識存ス  
しかるニコノ意識アルガ故ニ  ソノ根元神霊ヲ忘レ  其本誓ヲ知ラス
徒ニ自己意識ノ虜トナリテ欲界ニ呻吟ス  遂ニハ等シク霊ノ分派タリ
一体タルベキ他ト相争ウニ至ル  是レ恰あたかモ手足爭フノ愚ニ類ス
カクシテ
浮キ世ノ波風ヲ喞かこツ。
一度悟リテ本來ノ眞姿
ヲ体現センカ  一切ノ苦悩去リテ光風露月  自他一如
専心天職ニ励ミ利他即利己  眞ニソノ生ヲ楽シムヲ得ヘシ  愚ナル哉
アルヘカラサル自己ヲ求メテ悩ミ苦シムノ徒  自己一切ヲ抛ツベシ
カクシテコソ永遠不滅ノ自己ヲ得ン

六月二十八日
降リシキル雨ヲオカシテノ差入レ  コトニ元ノ女中ノ親切ニ感涙ス
今そ知る人の心の温かさ  雨にぬれにしいささかの果實
しきりなる雨を冒して差入れの  果實に偲ぶ厚きなさけよ
雨ハ人ノ心ヲ沈寂ス  我モマタ人タルヲ如何セン
さみだれや囚ひとやの中に唯一人  降りしきる雨に湿るや我が思
正ハ正シキガユエニ正シ  何ゾ人言ニマタンヤ
我アエテ正義ヲ稱とな
俗言ニ拘ハラス  神佛外ニ存サス  我ニ存ス  神ニモ訴エサルナリ
神佛ヲ頼ミテ安シト為爲スハ未ダシ  況ンヤ
世評ヲヤ  大丈夫ハ須すべからク絶對ノ正義ニ安ンセヨ
法華經ニ曰ク
己こそ己のよるべ  己を置きて誰によるべぞ  よくととのへし己にこそ誠得難きよるべをぞ得ん
明鏡止水
曇リナク輝ケル鏡  止マリテ清キ水
ソハ一物モ貯ヘス一點ノ私ノ心ナク
萬象ヲウツシテソノ眞ヲ現ハサストイウコトナシ
一見看破シテ余スナシ
噫  得難キ哉  コノ境
獨房端坐
念亦念  想亦想  不思量ノ境ヲ得ントシテ遂ニ能ワズ  心緒亂レテ麻ノ如シ
一念克服セバ直チニ現ス  百念終日戰イテ更ニ得ス
無念無想  禅ニ曰ク  
「 不思量ヲ思量セヨ非思量 」  獨房ノ終日コレ好個ノ道場
生死
死ヲ諦観シテ遂ニ知ル生ノ深奥
生ヲ知リ  生ニ徹底シテ得ン死ノ深奥  生モ一時  死モ亦一時
是一日ニ昼夜アリ 一年四季巡ルニ異ナラス
生死一如  死生一貫  天地ノ化育ニ参セン哉
徒ラニ生ヲ輕ンシ死ヲ願フモ不可  生ニ執着シ死ヲ怖ルヽモ亦不可
死生唯命  人力ノ如何スヘキニアラス
吾人ハ須ク現在ニ最善タルヘシ

小我ニ執シテ衆苦至リ衆悪生ス
自ラ諸々ノ苦ヲツカミテ放タズ  而シテ喞かこツ  「 嗚呼人生ハ苦界ナリ 」 ト
哀レナル哉  小我ノ徒  壺中ノ菓子ヲツカミテ手ノ抜ケサルヲ歎クト同斷
ツカミタルヲ放テ  然ラハ手ハ易トシテ抜ケン
小我ヲ去レ 然ラハ忽チニシテ衆苦散スヘシ

心境
み光を蔽へる雲を打ち払ひ  真眞


六月二十九日

熱涙 ( 思ヒ出 )
愕然タリ悲報至ル  「單は我ヲ攻撃ス 」 ト
耳ヲ疑ウテ問フ  再三再四、確報タルヲ信セサルヲ得ス
嗚呼倐忽しゅっこつ変化  今ノ今マテ我等カ赤忠成リヌト喜ビ合ヒ居タル
同志一瞬ノ後ニコノ悲報を得ントハ
夢カ 否 幻カ、否 事実タル如何セン
同志ノ將兵寂トシテ声ナシ
積雪ニ注ク熱涙潸々さんさん  「 噫萬事終リヌ 」 意決セリ
警備線上ニ斃レンノミ
麹町地区警備ハ是レ我カ任務  撃ツモノアラハ線上ニ死セン
部下ノ兵 擧こぞリテ共ニ死ナント乞フ
或ハ血書ヲ以テ曰く  「 一緒ニ死ニマス 」 ト
感極リヌ  答フルニ声ナク感涙ニムセフノミ
千四百ノ同志 粛トシテ死地に就カントス
維時昭和十一年二月二十八日夜半
皇城ニ向カヒテ整列抜刀一閃 捧銃  君ガ代ノラッパモ稍
モスレバ途絶エントス
指揮スルモノノ眼ニモ涙  指揮セラルヽモノヽ眼ニモ涙  落雪粉々タリ
熱涙ニトク  悲ト言ハンカ壮  壮ト言ハンカ悲
悲絶壮絶  天モ泣ケ 他モ泣ケ  鬼神モ泣カン大忠誠心
皇國ノ隆昌ハ我ラ青年の骸ノ上ニ立ツ
神風吹ク
く本ノ國ノ人々ヨ  涙ニ光ルハ志士ノ眼ノミカ
噫コノ秋  赤血ノ上ニウチタテヨ昭和ノ維新  皇國体眞姿ノ顯現
友情
契友豊兄ノ差シ入レニ接ス  懐中ノ情ニ堪ヘス
不遇ニ泣くノ時コノ友情切々トシテ感ヤマス。
思ヘハ今日ハ卒業ノ栄日  直チニ来ル彼カ真情
悲シイ哉  未いまダ相会スルヲ得ス
僅カニ
差シ入レノ数品ニソノ情ヲ思フノミ
病身願ハクハ自重自愛  モッテ邦家ノ干城タランコトヲ
逆境ニ際シテ始メテ知ル親ノ恩愛  友ノ至情  有難キカナ
友ノ卒業ニ際シ  二年前ノ我カ姿ヲ偲フ
はれの日やつどいし昔偲びつつ  友のなさけに眼うるみぬ
二歳のむかしにかへりわが友の  はれの盛儀を祝ひまつらん
手には筆  腰には剣ともどもに  学びしむかし偲ぶけふの日
死ノ諦観
死ヲ諦観シ生ノ尊サヲ知リ始メテ思フ  今日マデノ我カ過シ来リシ無益ナル生ノ費
噫  惜シムモ詮ナシ 悔ユルモ及ハス
「 子孝行セント思ヘド親既ニナシ 」 トカ 今更ニ痛感セラルヽコトナリ
時ハ金ナリト  然ラズ  時ハ正ニ命ナリ
一呼吸一呼吸コソ死ヘノ近ヅキト知ラバ、誰カ無駄ニ過スヲ得ンヤ
人多クハコノ理ヲ知ラズシテ酔生夢死ス
死ヘノ転換ニ際シ此ノ世ニ生ヲ受ケシ本誓ニ省ミ 聊カノ悔ナク
奮躍モッテ死ノ境涯ニ突進シ得ルモノ幾人カアラン
死ノ諦観ハ断ジテ悲観  消極ニアラズ
是レ
実ニ現在ニ最善ヲ盡サズンバ已マサル積極的躍動ノ根元ナリ
吉田松陰先生  獄中ニ論語ヲ講ジテ刑死ノ直前ニイタルト
噫  眞ニ生死ヲ知ルト云フベシ
石丈禅師  一日作ラザレバ一日喰ハズト  是レマタ然リ

六月三十日
真情
「 少シバカリデスガ  カワイソウナ人ヲ救フ一助トシテ下サイ 」
ト書カレタ無名ノ封書ニ入レラレタ一円ノ金  人々ハ唯コノ眞情ノ前ニ頭ヲ下ゲルノダ。
現代ハ新聞ニ名を出ス為ノ救済寄付ガ多イノデハナカラウカ
必然ノ死ヲ顧ミズ 唯君國ノ為  友軍ノ攻撃進捗ノ為  鉄条網ニ突進シタ肉弾三勇士
人ハ唯コノ大犠牲心ニ涙ヲソヽグノダ
君國ヲ思フノ以外總テヲ超脱シタ境涯 此ニ
百世  人ヲシテ立タシムル源ガアルノダ
カウシタナラバ人ガホメテクレルダロウト思ウ心ニハ
既ニ人ガ認メテクレナケレバ善ト雖モナサヌトイフ心ヲ裏書キシテヰル
總テヲ誠心ニ問ヘ  他人ヲ対象トスル勿レ

七月一日
聖人ノ聖人タルヤ善ヲナス  渇者ノ水ニ赳クカ如ク  饑者ノ食ニ赳クカ如ク  
然ルヲ期セズシテ然ルニ至ルノミ
君子ハ善ヲ為サント志シテ善ニ至ル  凡人ハ名ヲ求メテ善ヲ為ス
現代人ノ人多ク利ヲ見テ動ク  正義ヲ叫ヒ善ヲ称ス
求ムル所利己  ソレ唯己ヲ利スル一手段ノミ  悲シムベシ
正義ガ常ニ正義トシテ通用スル時  之ヲ眞の聖代と云フ
乱世ニハ強者ハ常ニ正義  弱者ハ常ニ不義
現代ハ小才子ノ天下カ
大楠公二百年逆賊ノ名ニウヅモル  然レドモ正義タルヲ如何セン
一世ニ栄華ヲ誇リシ尊氏豈忠臣タランヤ
諸行無常  万物易ス  唯君臣ト父子ノ義ノミカハラズ
皇統ハ一貫無窮  一君万民ノ皇國体ハ厳トシテ万世不易 
絶対ノ大義タラザルベカラズ  是レ日本ノ日本タル所以
大日本ハ神國ナリ
今ヤ大義地ニ陥チントスルモ  神霊昭鑑  上ニ存ス
遠カラズシテ大義再ヒ興リ  皇國体ノ眞姿  厳トシテ輝クト時来ラン
其國旗カ象徴スル如ク  尊キ赤血ノ上ニ建設セラレタル日本ノ國
ソハ國民  殊ニ青年ニ眞赤ナ血潮カ流レテアラン限リ  日本ノ稜威ハ厳乎  海内ヲ照スベシ
尊キ哉神國日本
生死厳頭ニ立チテ頭ヲ回ラスノ輩ハ  共ニ語ルベカラズ
事ニ処シテ熟慮断行セヨト
然リ  サレド未だ盡つくサズ  死生ノ大事ハ熟慮  唯平生ノ覚悟ニ在リ
事ニ当タル  断行アルノミ
平生ノ覚悟ナクシテ如何テ死生ノ大事ヲ決シ得ベキ
生死厳頭ニ立チテ従容自若  敢テ顧ミサルノ人  コレ眞に熟慮断行セリト云フヘシ

七月二日
「 姉ハ・・・・」
ポツリポツリ 家庭ノ事情ニツイテ物語ツテ居タ彼ハ  ココテハタト口ヲツグンタ
ソシテ
チラツト自分ノ顔ヲ見上ケタカ、直ニ伏セテシマッタ
見上ケタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙タマツテ居タ
固ク膝ノ上ニ握ラレタ両コブシノ上ニハ  二ツ三ツノ涙ガ光ツテ居ル
モフヨイ  コレ以上聞ク必要ハナイ
暗然、拱手歎息、初年兵身上調査ニ繰返サレル情景
世俗ト断ツタ台上五年ノ武窓生活  コノ純情ソノモノヽ青年ニ  実社会ノ荒波ハ余リニ深刻タツタ
育クマレタ國体観ト社会ノ実相トノ大矛盾  疑惑  煩悶  初年兵教育ニタヅサハル青年将校ノ胸ニハ
カウシタ煩悶カ絶エス繰返サレテ行ク  而モコノ矛盾ハ愈々深刻化シテ行ク
カウシテ彼等ノ腸ハ九回シ  眼ハ義憤ノ涙ニ光ルノダ
共ニ國家ノ現状ニ泣イタ可憐ナ兵ハ今  北満第一線ニ重任ニイソシンデ居リコトダラフ
雨降ル夜半  只彼等ノ幸ヲ祈ル
食フヤ食ハズノ家族ヲ後ニ  國防ノ第一線ニ命ヲ致スツワモノ、ソノ心中ハ如何バカリカ
コノ
心情ニ泣ク人幾人カアル  コノ人々ニ注ク涙カアツタナラハ
國家ノ現状ヲコノママニシテハ置ケナイ筈タ  殊ニ為政ノ重職ニ立ツ人ハ
國防ノ第一線  日夜  生死ノ境ニアリナカラ
戦友ノ金ヲ盗ツテ故郷ノ母ニ送ツタ兵カアル

之ヲ発見シタ上官ハ
唯彼ヲ抱イテ声ヲ挙ゲテ泣イタト云フ

神ハ人ヲヤスクスルヲ本誓トス
天下ノ万民ハミナ神物ナリ

赤子万民ヲ苦シムル輩ハ
是レ神ノ敵ナリ
許スベカラズ

七月三日
滔々タル西洋崇拝思想  遂ニ国ヲ誤ルニ至ル
中古ニ於ケル慕華思想  即チ支那ヲ中華ト仰キ  我ヲ東夷ト卑下シテ得々トシテ居タアノ流ト同断
朝鮮役  秀吉ヲ日本國王に封スト云フ  所謂冊封使ノ渡来ヲ以テ
交和ノ唯一ノ条件トセル当時ノ外交者  之ヲ敢テ怪シマサリシ当時ノ風潮
外国ノ意ヲ迎フルニ汲々トシテ自國ノ國防ヲ危クシテ  テントシテ顧ミサル現代ノ外交
今モ昔モ変ラヌ日本人ノ最大欠点タ
外国ノ長ヲ學ヒ  之ヲ取入レルハ大イニ可  盲目的模倣  盲目的崇拝ノ不可ヲ云フノタ
本ヲ失ツタ模倣程危イコトハナイ
清濁併セ呑ムトイフ  大イニ然リ
併シ大海ノ満々タルヲ以テ始メテ然ルヲ得ルノタ
水溜マリノ様ナモノハ  朱ヲ入レヽバ赤クナリ  墨ヲ流セハ黒クナルモノ
根本ノ國体ヲ忘レ  大海ニ比スヘキ日本精神ヲ空ニシテ
徒に西洋思想ニ支配サレテ居ル現代凡百ノ國難来ハ当然テハナカラフカ
自己ヲ無ニシテ外國ノ意ヲ迎ヘルニ汲々タル  之ヲ國際協調ト稱ス
國際協調トハ外國ノ奴隷トナルノ謂いい
根本ノ樹立ナキ模倣  ソハ大海ニ漂フ一小舟ノミ
風ノマニマニ波ノマニマニ  朝ニハ東シ  夕ニハ西ス
カクシテ
奈落ニ沈ム己カ運命ヲ知ラス   哀シイ哉
久シフリニ戸外運動二十分間  惜シムラクハ陽光ニ接スルナシ
遙カニ広告気球一ツ  僅カニ外界ヲ偲フ
売出しの気球にゝほふ娑婆の風
練兵場ノ辺リ輕機ノ音シキリ
脳裡ヲカスムル昨日ノ思ヒ出  兵ノ顔詮ナシ

監房風景
就寝ノ鐘ガ朗カニ響キワタル
各々大神宮ヲ遙拝スルノテアラフ  柏手ノ音ガシキリニキコエル
ソレニ  
題目念仏ヲ唱ヘル声カカスカニ和スル
何トナク敬虔けいけんナ気持チカ胸ニ迫ル
就寝直前ノ一情景
鐘がなる柏手の音お念仏
我亦情ノ人  家ヲ忘ルヽ能ハス
看守ノ靴音ニ思ハス醒ムル夜半  眼ニ映ルハ我カ親以上ノ親タル伯母ノ温容、弟ノ顔
サメテ
果敢ナキ夢中ノ悦楽  アア
あな楽し弟の声夢のうち

七月四日  判決の前日
いまははやあらしの前の花一りん
歎くなよ盛りなかばに散るはなよ  散りし後に実は結ぶなり
幸あれと祈るひとやのあけくれよ  我が家人の上を思ひて
七重八重花は咲けどもやまぶきの  実を結ばねば咲く甲斐もなし
  
明治天皇御製
目に見えぬ神の心にかようこそ  人の心のまことなりけれ
心誠ナラハ神感応シ  神活現ス
物質ハ心ノ鉄鎖ナリ
拮抗ナリ
心一度此ノ境を超脱セハ神相通ス
幽明敢テ分タズ  実ニ感覚的存在は泡沫ノ如シ
我今如何ニ在リトモ  最愛ノ人々ト神相通シ  離ルヽガ如クニシテ常ニ共ニ在リ
幽明境ヲ異ニスルト雖モ何ソカハラン
逝ク河ノ流レハ元ノ水ニアラズ  而モ流レ注キテツキサル水
流レ去リ流レ来ル  水ノ姿カ即チ河ナリ
水ノ流レ去リテ帰リ来ラサルヲ歎クモ愚  流レツキサル流レニ心ヲ安ンセヨ  人世亦然リ
すべからク現実ヲ達観シ  相対ヲ通シテ絶対ニ帰依セヨ


七月五日

午前十一時前数分  死刑ノ宣告ヲ受ク
流石憂國盡忠ノ志士  一同微笑ヲ相交ハシテ訣別トス
いささカノ動スルナシ
房ニ帰リテ端坐  大安心ヲ得タリ
早速家人ヘ報知ノ手紙ヲ記ス
家人ノ心ヲ推測スレバ
うたた 感無量  文言ニ迷ウヲ如何セン 
瞑目
判決
名断ナリ
我等カ赤忠ヲ認メソノ罪ヲタヽク  余スナシ
喜ヒテ死ス
願ハクハ國法ノ絶對ニ基キ  コノ事件ノ原因動機ヲ明察セラレ  皇國ノ暗雲ヲ一掃セラレンコトヲ
皇國ヲ蔽おおヘル雲トサシチカヘテ死スルコソ所期ノ本懐
既ニ死スヘカリシ命ヲ今日マデツナキシコト 一 ニソノ意、此ニ在リ
コノ暗雲ヲ掃フコソ永久此クノ如キ不祥事ヲ絶滅セシムル唯一ノ道ナリ

辞世
大君の御代をかしこみ千代八千代
万歳  万歳  万々歳
元陸單歩兵少尉 
高橋太郎

歩兵第三聯隊將校團各位ヘ
忠誠心ヲ貫カントシテ遂ニ大事ヲ誤リ
榮アル軍旗ノ歴史ヲケカシ奉リ候段  大罪万死ニ当ルヘク
更ニ上官各位ヲ始トシ奉リ  下士官兵ニ至ル迄多大ノ御迷惑ヲ掛ケ奉リ
只恐懼ニ堪ヘサル次第ニ御座候  此ニ一死以テ御詫ノシルシト致シ候
思ヘハ昭和七年  士官候補生トシテ入隊以來將校團ノ温キ御慈育ト御薫陶ノ下ニ
光榮アル四年ノ歳月ヲ過シ候
當時ノ思ヒ出今更ニ懐シク有難ク感ゼラレ候
セメテモノコノ光榮アル思ヒ出ヲ胸ニ逝クコトヲ御許シ下サレ度候
日々演習ノ銃声ヲ耳ニシツヽ五ケ月ノ監房生活ハ只思、聯隊ノ上ニ御座候
殊ニ五月中旬満洲出征ヲ送る萬歳ノ叫ヒ遥カニ耳ニセシ時ハ萬感無量
涙ノ溢ルヽヲ止ムルニ由ナク、合掌以テ各位ノ御武運長久ヲ祈リ奉リシ次第ニ御座候
現在總テヲ超脱シテ心平カ  生死ヲ超ヘテ君國ノ大御爲ヲ祈リ候
魂ハ永遠ニ青山ノ聖地ニ止リ  日夕聯隊ノ守護タランコトヲ期シ居リ候
各位愈々御精穆、軍務ニ御鞅掌ノ程祈上奉リ候
此ノ世ヲ去ルニノソミ大罪ヲ詫、且ハ生前ノ御厚恩ヲ謝シ奉リ候
敬具
昭和十一年七月
元陸軍歩兵少尉
高橋太郎


遺書
夜来ノ雨ニ洗ハレ木々ノ緑愈々いよいよ色濃シ
十有七ノ鮮血ニヌグハレ皇國体ノ眞姿皎々トシテ輝カン
鮮血ト涙トニ洗ハルヽ皇國ノ前途燦あきらかタリ尊キ哉
うつし世に二十四歳の春過ぎぬ  笑って散らん若ざくら花
み光を蔽へる雲をうち拂ひ  眞如にすめる今ぞのどけし
昭和十一年七月八日
元陸軍歩兵少尉
高橋太郎書

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から
高橋治郎 著  一青年将校 終わりなき二・二六事件  から


高橋太郎 『 斷片 』

2021年08月22日 05時20分46秒 | 高橋太郎

 
高橋太郎
『 斷片 』 と 表題したる
高橋太郎少尉の感懐の断片

昭和11年 ( 1936年 ) 4月19日から、
公判が始まる前々日の4月26日までの手記である

斷片

四月十九日
昨是今非否瞬刻ニウツル己カ心ヲ眺メ
一旦警鐘八千萬同胞ノ理想精神化ヲ夢ミシ我カ短慮ヲアハレム
明鏡止水  忽チニ生スル曇リ  忽チニ起ル風波  嗚呼アサマシキ我カ心
二十四年ノ熟慮  一瞬ノ斷行=不滅ヘノ歸依=死

昨日ノ我ヲ夢ミル未練ノ人ヨ
獄則ノ非礼ヲ憤ルマエニ今日ノ己レニカエレ
無位無官一介ノ囚衣ノ人
終日ノ苦勞 終夜の快眠
終日ノ不勞  終夜ノ不眠ノ悩
六日ノ汗ノ結晶、日曜ノ無上ノ樂シミアリ

爲スコトモナキ退屈ノ聯續ハ人間最大ノ苦悩ト知ル
人ハ多忙ニシテ生甲斐アリ

幼時ノ精神的苦悩
靑少年時代ノ精神的肉體的鍛錬
再ヒ來ル精神的肉體的苦悩
己カ修行ノ足並  人間タル亦難キ哉

万里一條鐵  生命ノ大根元  皇國體。

死生一如ノ境地  生命ノ根元ヘノ歸依

爲スコトモナク考フルコトモツキタル其ノ後ニ必ス起ルモノ  熾烈ナル食欲
食フ爲メニ生クルノ意一理アルヲ知ル
轟ク銃聲忽チニオコル突撃ノ聲  花ノ世ヲヨソニ代々木ハ相變ラス猛訓練ノ巷
渡満ヲ目前ニ第二期中隊敎練ノ編成ナルヘシ
噫我カ敎ヘシ兵ハ如何ニセシカ  思ヒハ巡ル去リニシ日ノ夢

つわものの目指す高根の花ふぶき  ゆめおどろかす突撃の声
「 突撃に進め 」 の 令に過ぎし日の  若き士官の姿浮びぬ
つはものや  花のしたぶきつつの音
よもすがら思ひにふける春の夜  わが敎への子の姿うかべて
さちあれと祈る囚のあけくれよ  わが敎へ子の姿偲びて

四月二十日
一時ノ彼方ニ死ヲ見ツメ ソノ一時ノ尊サ一時ノ全生命
人ハ常ニコノ一時ニ生キタキモノナリ

不勞徒食ノ輩一人ノ増加ハ數百ノ勞苦ヲ増ス  マサニ有怒ノ食ヲ食フノ徒
噫  イツナルカ  全民無欲ノ食ヲ食フノ日=皇國體眞姿ノ顯現

「 何故ニ孝行セサルヘカラサルカ 」 カクノ如キモノニ限リ我利我利ノ徒
「 何故ニ自己ヲ尊フカ 」 トキケ

親ニ發シタル自己  親ニ含マルヽ自己  自己ヲ知レ

「 失礼致シマス 」 鄭重ニ解釋シテ檢査スル看守。
人格無視ト憤リシ監房檢査モソノ不快消ヘ 思ハス 「 御苦勞テシタ 」 ト 謝辭ヲ呈ス
檢査ハ既定ノ如ク嚴重 而モ聊カノ不快ヲ感セシメス  人ハカクアリ度キモノカナ  処生一訓

盛り半ばに散る花に寄す
散る花に思はずよする  なさけかな
あなあはれ盛りもまたで散る花よ  心にくきは春の山風

四月二十一日
死ノ寸刻 ( 二月二十九日朝 陸相官邸ノ一室 )
既ニ遺書モ書キ終リヌ
今ニオイテ書クヘキコトモナシ
「 天皇陛萬萬歳 」 ト 記ス
紫煙ニ味フ一プクノチェリー  正ニ値千金
窓越シニ拝ス大内山ノ邊リ  斷雲片々
「 坂井サン  大内山ノ上カ段々明ルクナリマスヨ 」
「 噫  將ニ大内山ノ暗雲一掃端光ミナキラントスカ 」
互ニ見合ハス顔ニ思ハス浮フ微笑
悔ヒモナク悲シミモナシ
眞ニ死生ヲ超越セル神ノ境地トイワンカ
將ニ死ノ瞬前  死ノ寸刻
誰カ知ル死ノ寸刻ノ境地  今思ヒ出シテソノ心境ニ入ラントスルモ遂ニ能ハス
噫  得難キ體驗  死ノ寸刻

今日  微笑ヲ以テ死ノ宣告ニ処シ得ルノ自信只此処ニ存ス
人ノ死ナントスルヤ ソノ言ハ善シトカ 將ニ此ノ境地ヲ云フヘシ
利害打算 否 總テノ人間臭ヲ脱シ自己意識ヲモ失ヒタルノ境地  宜ナリソノ言ノ善ナル
噫  求メントシテ得ル能ハサル死ノ寸刻ノ境地

うつし世に二十四とせの春なかば  程なく散らんわかざくら花
ふりしきる花のふぶきや  春はゆく

四月二十二日

逝く春を眺めて
今ははや散らんばかりの  さくらかな
ゆく春につきぬ名殘や  みのさだめ

春雨ニ洗ハレテ庭ノ木々ニ生キ生キト緑ニ色ツキ行クヲ見ル
ヤカテ深緑ニ燃ユル初夏ノ候トナルヘシ
ツキヌ
名残ヲ落花ニ止メ 春ハ將ニ逝カントス
囚屋ニ送ル春ノ短カサ  自然ハメクリテヤマス
刻々辿ル死ヘノ道  ヤカテ来ラン身ノサタメ

逝く春に名殘りとどめて思ふかな  程なく散らん殘花一りん

二月二十二日ノ思ヒ出
「 愈々決行ノ時ハ迫ツタソ 」
ツカツカト
入リ來リテ耳語ささやク坂井中尉ノ異様ニ緊張セル顔
無言ノ握手
「 來ルヘキ時ハ來タ 」
唯一語
悲シミニアラス  喜ヒニアラス  胸ニコミアクル如キ壓迫感
黙々トシテ見合ハス眼ニキラメク決意ノ色
悲壮トイハンカ  壯絶  二月二十二日昼食後ノ第一中隊將校室ノ一情景
月更リテ此ニ四月  日ハ同シ二十二日
囚ニマトロム夢ノ思ヒ出
噫  悔ユルモ詮ナキ一瞬ノ運命。

心境
生くるとも死すともなどかかわるまじ  わが大君につくす心は
七八度生き変りてもわれゆかん  わが大君のみいづかしこみ

四月二十三日
噫  二月前ノ今日ソ  降リ積ム雪ヲ冒シテ病院ニ我カ敎ヘ子ヲ見舞ヒ無言ノ訣別ニ涙セシハ
麻布ナル親戚ニ親族相寄リ  我渡満ノ送別ノ宴ヲ張リクレシモ
今宵ハ無量ノ感慨ヲ胸ニ 「 弟ヲ頼ミマス 」 ノ一語。
噫  最後の別宴
氣弱キ弟  母ノ愛を知ラサル可愛相ナ弟  遂ニ天ニモ地ニモ唯一ノ頼リタル兄ヲ失ヒシアワレナ弟
今如何ニセシソ  許セヨ大義親ヲ滅ス
知ラスヤ維新ノ志士梅田先生ノ詩
妻ハ病床ニ臥シ 児ハ飢ニ泣ク・・・今朝死別ト生別ト  唯皇天皇土ノ知ルアルノミト
死生一如  唯大義ヲ知レ
永遠ノ生  大生命ノ帰依
喜ンテ送レ我カ死出ノ首途  勉メヨヤ君國ノ大御爲

幸あれと祈るひとやのあけくれよ
  わが弟のうへを思ひて
うみ山の厚き御恩を身に負ひて
  旅立たん身の心苦しさ
ひたすらにわれを頼りにしはらからと
  この世をへだつ今ぞ悲しき

四月二十四日
浮キ世ヘノ第一信  伯母ヘ被服差入レノ願
萬感胸ニ迫リ書カントシテ書キ得ス
「 只唯御詫申上ルノミ 」 ノ 唯一語
噫  思ヒ浮フ家人ノ顔

四月二十八日午前十時第一回公判出廷ノ通知ニ接ス
死出ノ首途ノ近ツキシヲ思フ
既ニ準備ハ終リヌ  命ヲ待チ奉ルノミ
逝く春に  そぞろにしのぶ  さだめかな
判決ノ一日モ早カレト願フ一方ニ 一日モ遅カレト祈ル心
矛盾セル我カ心ノ動キ  是レ亦本能カ

四月二十五日
春ノ最後カ
總テヲ吹キ払ヒ 洗ヒ 潔メントスルカ如キ烈風猛雨
恰モ春ノ死ノ決戰ノ如シ
春ハカクシテ去リ  深緑ノ初夏ハ徐おもむろニ訪レン
噫  我カ生涯ヲ飾ル昭和十一年ノ春  我カ盛リニシテ
且我カ最後ノ春  逝ク春ヲ獄窓ニ眺メヤルトキ  誰カ一掬ノ涙  一條ノ感慨ナキ能ハサランヤ
噫  春ト共ニ散ル我カ命
うつし世に二十四とせの春すぎて
  笑って散らん  我が桜花

四月二十六日
昨日ノ暴風雨ニ反シテカラリト晴レ渡リタル今日ノ日好  將ニ初夏
昨日マテ僅カニ名殘リヲ止メシ殘花既ニ散ツテ  深緑ノ若葉モユレルカ如シ
二ヶ月前ノ今日  唯只瞑目合掌  幻ノ如キ當時ヲ回想スルノミ
總テハ終リヌ
ヤカテ來ルヘキサタメヲ待タン


< 註 >
以上は高橋少尉が獄中にて認め 平石看守に託したものである。
陸軍の軍用箋に鉛筆で書かれている。
この用箋を用いた遺書は他にない。
正式に手記を許された毛筆と半紙が至急されたのは、六月二十七日であるから、
書かれた日時とともに異例の手記である。

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から
高橋治郎 著  一青年将校 終わりなき二・二六事件  から


岡田の伯父さんが生きておられたことをできいて、私はホッとしました

2021年08月21日 11時08分21秒 | 丹生誠忠

叛乱軍のなかで、
陸軍省、陸軍大臣官邸を襲撃した部隊の指揮官は、
丹生誠忠中尉であった。
これは私の母の妹の子、すなわち私にとっては従弟にあたる。
従弟のなかでもその父親は岡田総理とも親しい海軍大佐であった。
親ゆずりの性質のよい、立派な青年だった。
私たちはもちろん彼が叛乱軍に投じていようとは夢にも思わなかった。

丹生誠忠中尉
二月二十六日午後、
私が宮内省にいっているとき、彼は官舎に電話をかけてきて、
妻の万亀を呼びだして、
万亀子さん、ずいぶん驚いたでしょう。
しかし、もうこれ以上なにもおこりませんから安心してください。
お父さんには、ほんとうに申訳ないと思っています
と いってきた。
妻は
「 あなた いまどこにいるの 」
と きくと
「 陸軍省にいる 」
とのことだった。
そのころはまさか丹生が叛乱軍の一味とは思いもかけないし、
陸軍省が占領されていることも想像さえしなかったので、
妻は彼をこちらの味方と思い、
早く官邸を占領している兵隊たちを追払ってほしい
と いったそうである。
丹生は、
「 久常さんや あなたや お伯母さんには
なんら危害を加えることはないから大丈夫ですよ 」
といって 電話がきれた。
このときのことをいまでも妻は、
「 あのときもし、私がお父さんは生きていらっしゃるのだから、
なんとか助けだしてよといったら、どうなっていたかと思うと、思うだけでもぞっとしてしまう 」
という。
相手は近い親類だし 味方とばかり思っているときなのだから、
この話をしなかったということのほうが、むしろ不思議である。

この丹生中尉は、その年の正月、私の官舎に年始にきた。
そのとき官邸に伯父さん ( 岡田総理のこと ) が いらっしゃるならお目にかかってゆくというので、
官邸の方にやって総理にあわせた。
総理は機嫌よく会った。
そのあと官邸をみたいというので、官邸の人が案内してまわり、
総理の居住区たる日本間から総理の事務所のある本館への通路などをみてまわった事実がある。
事件後 これは彼が官邸のなかを偵察にきたのだといわれたが、
そのときはもちろん想像もしていなかった。
しかし、さすがに事件当日は彼は官邸をさけて陸軍省を担当したのは、
その心持が判るような気がする。
 
岡田啓介総理大臣
二月二十八日 岡田総理がやっとの思いで参内した日の夜おそく、
総理は私に
「 丹生が叛乱軍のなかにいるんだな 」
と いうので、
私が
「 どうも申訳のないことです 」
と 答えると、
「 懲戒免官が発命されてしまっては仕方ないな 」
と 哀しげにいったときの総理の人情味を印象ふかく覚えている。

同じ年の七月、丹生の死刑がきまったのち、
彼から ぜひ会いたいと連絡があったので、
私は代々木の陸軍刑務所に面会にいった。
彼はすっかり覚悟もできていたようで、頼もしい姿であったが、
「 岡田の伯父さんが生きておられたことをずっとあとできいて、私はホッとしました。
冥途への道の障りが一つ減った感じです。
どうぞ長生きしてくださるように伝えてください 」
と いった。
私は許されるなら彼に抱きつきたい衝動を感じた。

栗原中尉
そのとき丹生は、栗原中尉にも会っていってくださいというので私は会った。
栗原中尉は私に
「 迫水秘書官、私はあなたにほんとうに見事にだまされました。
このことをあなたに申し上げたいと思っていました。
はじめ総理生存のことをきいたときには、
あなたのことを思い出してある感じを禁じ得ませんでしたが、
いまでは罪が一つでも少なかったことを喜んでいます 」
と いった。
私は恩怨をこえた、
人間としての複雑な感慨に打たれつつ刑務所の門をでた。

迫水久常 著  機関銃下の首相官邸 から


村中孝次 ・妻 静子との最後の面会

2021年08月19日 14時01分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


村中孝次

昭和12年8月16日

面会人
妻 静子
義弟 宇野 忠
面会時間三十分


村中
どうして来たのか

役所から電報が参りましたから驚いて来ました
村中
そうか  皆元気で居るか

はい 元気です
本を送らうと思ひましたが忠様が来る時 持って来て貰ふ心算でした
村中
約一年も残って 別に大したこともないのだから
もう長くもあるまい

兄様 ( 修一 ) は チチハルに転任しました  副官だそうです
村中
そうか 少佐の副官とは守備隊がな
兎に角 お前達も暑い時だから確り元気出して気を強く持って居らねば駄目だよ
僕は大学に入らず地方に居ったら最早満洲にでも行って 前に死んで居るのだが
永遠の死場所を見つけ出したは幸福だよ
俺も同志の遺族の為に力を尽くしたいと思ったが出来ない
未だ他に残って居る人が多くあるから見捨てはしないよ 心配するな
僕らも理想を持って居たが 全く水の泡になった
時に法子は未だ乳を飲むか

はい 時々飲みます
村中
兄様方は軍人だから安心は出来ないから
忠様がこれからは全責任を持って居て下さい
頼みます

承知しました  一生懸命にやります

私は花を一週に二回宛して居ります
後は何とでもして行きますから御心配ないやうに願ひます
村中
それで僕も安心だ
別に残すことはない
体を大事にしてくれ

よく解りました
では 明日でも出来たら参ります
刑囚に対する面会人の状況  昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
から


家族寫眞  9. 6

昭和12年8月17日

面会人
妻 村中静子
義弟  宇野 正

法子の写真は今日見たよ

そうですか 文子さんが写して下さったのです
皆様が宜しく伝えて下さいと申しました
高崎さんが私の処に御訪ね下さいました 宜しくと申されました
住所はお聴き致しませんでしたが 東京にお住まひと云ふ事です

今度の事変で俺の知って居る者も戦死したと云ふ様な事を新聞で見ないか

別に見受けません

俺と同期の大学の連中はもうそろそろ中央に来る頃だと思ふ

そーですかね
只今 北さん 西田さんの奥様方にお会ひしましたが 貴男に宜しくお伝へ下さいと申されました

そうか 皆様 お達者で何よりだ
法子は親に似て腹の弱い子だから 将来此の点 充分注意して養育して呉れ
法子の歯の方は快くなったか

まだ快くなりません 今少し治療したら護謨を詰める事になって居ります

相沢さんの奥様の病気は快方になったか

もうすっかり良くなりました

そうか
杉田 ( 省吾 ) さんから 暑中見舞が来た
杉並の方に移転したと云ふ事だが 電話まで持って居る様であるが 妻君が何か又商売でも始めただろうか

私も移転された事はお伺ひして居りますが お目にかかったことはありません

其れから お前に云って置くから
楠公父子のあの忠死によって其の名は永遠に伝へられて居る事は お前も承知の通り
又 北、西田 両氏の死に依って日本改造法案は益々普及発展し正価を高める事になる
各々死に依って二・二六事件は永久に忘れられない事だろうし
吾々の持って居た信念も必ず認められる時代が来ると思ふ
去年の事件以来世の中の空気は随分変わって来た様に思はれる
十年後にはもっともっと変わると思ふ
俺の死は満州で戦死すると同様な気持で居る
只 気の毒なのは遺族のお前や法子である
これも仕方がない
私の心を お前は克く知って居るのであるから 堅い信念を持って法子を立派に育てて呉れ
( 此時 妻は泣き出して何とも答へず )
夫れから正君も是からいろいろの苦労もあると思ふが、どうか奮闘して立派な人となって呉れ
義弟
能く解りました。必ず努力致します。

夫れから 役所の方に遺体の引取方を申込んで置け
監獄令で見ると引取人のある時は下附される事になって居るから、兎に角 申込んで置て呉れ。
今年は八月になって非常に暑くなって、まだ暑さも当分続く事だと思ふが
東京は仙台より暑さが激しいから、特に病気に罹らぬ様に注意せよ。

よく気をつけます
何かお望みの差入れものはありませぬか

別に欲しいと思ふものはない
菓子類は沢山あるから入れるな

そーですか
では 失礼します

面会人
独立山砲兵第一聯隊中隊長 陸軍砲兵大尉 宇野 弘 ( 義兄 )
義兄
暫くでした。
静子から電報が来たので只今到着した
村中
よく来られたな
動員中で忙しいだろう
静子に会ったかね
義兄
いや 今迄此処に居たと云ふ事であったが、一足違ひで会へなかった
是から静子の処に行く心算だ
村中
住所は解って居るかね
義兄
今係の人から住所の方は聴いた
実は俺にも近い内に動員令が下ると思ふから、明日は帰る事になって居る
或は之が最後のお別れになるかも知れないが、後のことは心配するなよ
村中
有難ふ
今度は思ひがけなく会へて嬉しかった 此れで結構だ
兄も進級したと云ふ事で喜んで居る
然し 独立守備隊に行って随分長いからな、反乱の弟を持って居るので内地に転任させないかな
義兄
そんな事はあるものか
独立守備隊に行けば、三年以上は転任しない様である
兄はまだ満三年にならないから殊更に長いと云ふ事はないよ
村中
そーか、動員令が下って出征しても貴公は砲兵だから比較的危険は少ないが、
歩兵の方はなかなか危険の事が多いからな。
子供はまだ出来ないか。
義兄
まだだ
村中
成績が悪いな
身体の方はどうだね、顔色は大変にいい様だが。
義兄
砲兵学校に行ってからすっかり達者になった。
村中
砲兵学校の方は恩賜とどうした、逃してしまったか。
義兄
うん 駄目だった
貴公の方は腹の具合はどうだね
村中
俺の方は別に変わりはない、最近は調子が良いよ。
外部の事は何も知らないが時々 「 ラヂオ 」 の 「 ニュース 」 が聴へるし、
召集されてゆく者の見送の人々の万歳万歳の声が手に取る様に聞へるので、大体想像はつくよ。
支那ばかりでなく、ロシアの方が危険だな
貴公などは第一番にウラジオストックあたりにやられはせんかな
義兄
其は解らんさ。
此の前の上海事変の時と違って支那もだんだん戦備が完備して来たからな
村中
俺も前に改正された歩兵操典を研究したが、大分違って来たな。
義兄
うん 違って来た。
北海道の兄さんには何日会ったか。
村中
去年会った儘で今年はまだ会って居らない。
俺の方の親類は余り当てにならないから将来宜しく頼む。
貴公や兄等に俺の様な反乱の弟を持って随分今迄迷惑をかけたと思ふが、将来の事に就ては尚宜しく頼むよ。
義兄
いや 別に迷惑もかかって居らない
将来の事に就ては心配するな
では 俺は先に話した様に非常に忙しい中を隊長に話して来たのだから、
明日は帰るから 此れでお別れになるかも知れぬが、将来の事に就ては安心してくれ。
では お別れする
何か用事があるか
村中
いや 別に用事はない。忙しい所 有難ふ。
刑囚に対する面会人の状況  昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
から


磯部淺一、登美子の墓

2021年08月17日 13時25分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


磯部淺一、登美子の墓

南先住駅のすぐ前に、
明治維新の犠牲志士たちの墓所として、有名な回向院がある。
院内を入るとすぐ右手に橋本佐内の墓があり、
そこを抜けた墓地には
幕末、小塚原刑場で斃れた 吉田松陰、頼三樹三郎
他 多数の樹形志士たちの墓が コの字形に経並んでいる。
この一画に隣接して
「 磯部浅一、登美子之墓 」 がある。
 
側にささやかな
「 二・二六事件 磯部浅一之墓 」
と 書いた木漂が建っている。

山口県の日本海側漁村に生れた磯部の墓が、どうしてここにあるのか。
建てられたのは刑死後三年余といわれるが、
誰が施主となって建立したかは詳かでなく、
事件前後を通じて磯部夫人と最も親しかった西田税夫人の初子さんに訊ねても判らなかった。
私は磯部と陸士同期で、同じ朝鮮に勤務し、同志として親交を重ね、
そのため事件後は陸軍刑務所に収監された 佐々木二郎氏とともに、
定期的に回向院に同行墓参し、お寺の住職とも話し会ったが、
寺側にも記録なく、今ではほとんど訪れる人もなく無縁に近い墓となっていると聞いた。
この時 思い浮べたのは、
登美子夫人の弟で、磯部なきあとを継いで 磯部姓を名乗る須美男氏の存在だった。
仏心会の法要にも姿を見せず、
事件のこと磯部のことにも触れることを避けた人だったが、
文通だけは保たれていた。
近年いろいろのことで親しく相会する機会も生れていたので、
須美男氏に連絡し 初めてこの間の事情を知ることができた。
それによると、
処刑後磯部の遺骨は郷里の山口には分骨だけ送られ、
本骨は夫人のもとに置かれてあったのだが、
昭和十五年に、
磯部が現役時に勤務していた陸軍糧秣本廠の廠長であった 堀内少将の努力で、
維新因縁のこの地を選して 秘かに建墓埋葬されたという。
夫人の病死は十六年三月であるから、まだ生存中であったが、
病身だった夫人の願いでその名も一緒に刻まれたという。

須美男氏は当時まだ学生で、その頃の状況下に処していっさい関知させられなかった。
外国語学校を出て戦争から敗戦、姉の関係姓を名乗っても、磯部家との縁は薄く、
戦後は米軍関係に勤務する須美男氏の足は、回向院にむくこともなく打過ぎたようだ。
既に定年を過ぎ 米軍関係も退いた今日、須美男氏は今度の私との会談のうちに、
これからは回向院の供養にはげみたいと語ってくれた。
しかし自分なきあと無縁になることは避けられない心残りも語った。
思いは私も同じである。
磯部夫妻と最も親しかった西田夫人も佐々木二郎氏も 相次いで昭和五十六年春に逝った。
淋しさを禁じ得ない。

山口県の寒漁村の漁家に生れ、貧困のうちに育った磯部は、
その抜群の才能を惜しんだ有志の支援によって、広島幼年学校から陸士へと将校の道を進んだ。
事件連座の他の将校たちとは異なった環境を経た磯部の性格は、
いつか青年将校運動に没入し、終始その先鋭となって事件蹶起の主役となり、
在獄中の激越な遺書を残したことは故なしとしない。
その革命児、波乱の一生がそのままこの墓所になっていることを感じる。
将来無縁になるであろうこの墓であるが、
吉田松陰をはじめとする明治維新の殉職志士たちに伍して、
奇しくも 昭和維新殉難の唯一人として永遠にこの地に眠ることは、
せめてもの救いであり、叛逆児磯部の本懐とする安らぎの地であるかもしれない。
冥福を祈ってやまない。

河野司 著  ある遺族の二・二六事件  から
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七月十一日、
東京衛戍刑務所で面会して帰宅後、
登美子は住んでいた参宮荘のアパートの管理人に対し、語った
『 磯部は面会の時、夫が死刑に処せらるる事を心配するよりも、
助命の心配する事が本当だと言っておりました。
夫は非常に元気で、
我々は大勝利を得たのだ。吾々は殺される理由はない。
彼等が吾々を殺さなければ、自分が危ないから殺すのだ。
俺は殺されても魂は何時までも生きている。
だから俺が殺されても成仏する様 お経をあげないでくれ。
骨は故郷へ持ち帰らぬよう こちらへ葬ってもらいたい 』
・・特高警察の週報から
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義父は昭和二十六年、七十六歳で他界いたしました。
義父の死後、義父が生前大切にしていた手文庫を開けてみましたら、
磯部さんからの遺書と思われる達筆で書かれた毛筆の封書と、
一通の電報が沢山の書類と一緒に入れてありました。

電文は
『 イマカラユキマス、オセワニナリマシタ、イソベ 』
とあり、発信は渋谷局となっていましたから、
処刑直前に奥さんにでも言いつけて打ったものと思われます。
御生前の凛凛しかった磯部さんの姿を思
い浮かべ、
電文をうつ 奥さんの心中を推しはかって
思わず泣き伏してしまったことを覚えております。
・・松岡とき (松岡喜二郎の長男省吾の妻 )