あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大蔵榮一 『 軍刀をガチャつかせるだけですね 』

2021年12月03日 08時12分15秒 | 大蔵榮一

もう待ち切れん、
われわれはいつまで待つんですか。
躊躇すべきときではないと思います。
思い切って起ち上がれば暗い日本が一ぺんに明るくなるぞ、
どうだろうみんなそう思わんか
と、磯部がまず口火を切った。
そうですよ、磯部さんのいう通りです。
私は ちかごろ幕的に齋藤実、牧野伸顕、西園寺公望、池田成彬など、
奸賊の名前を張りつけて突撃演習を兵たちにやらせているのですが、
兵たちの目のかがやきが違いますよ。
やるなら早いほうがいいと思います」
栗原がまっさきに同意した。
この即時決行論に対してだれも反対の意志表示はなく、
急進論に圧倒されたかたちであった。
村中も香田も安藤も、もともとおとなしい人たちで、
真っ向から反対するたちの人ではなかった。
オレは反対だなァ 
私は、きっぱりと反対意見を出した。
・・・もう待ちきれん 

ある夜
西田宅で私と彼と二人だけの懇談のときであった。
「 君は武力行使をどう思っているのか 」
と、彼が突然質問を発した。
「 無暴に行使すべきではないと思います 」
「 だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい 」
「 僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある 」
「 それは出来ない相談ではないと思っている 」
「 蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
 その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ 」
「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」
「 そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
 最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね 」
・・・軍刀をガチャつかせるだけですね 


大蔵栄一  オオクラ エイイチ
『 軍刀をガチャつかせるだけですね 』
目次
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・ 昭和維新 ・大蔵榮一大尉

・ 大蔵榮一 ・ 大岸頼好との出逢い 「 反吐を吐くことは、いいことですね 」 
大岸頼好の士官学校綱領批判 
大岸頼好の統帥論 
・ 中村義明 ロマンス実る 

・ 「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」 
・ 「 大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか 」 
・ 相澤中佐の中耳炎さわぎ 


後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」 
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して来い 」 
・ 絆 ・ 西田税と末松太平

・ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
・ もう待ちきれん 
・ 
« 青山三丁目のアジト » 
林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」 
・ 村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」
「 相澤さんが永田少将をやったよ 」 
・ 軍刀をガチャつかせるだけですね
・ 大蔵榮一 「 回想 ・西田税 」 

西田税 ・ 金屏風への落書 
末松の慶事、万歳!! 

赤子の微衷
・ 大蔵榮一大尉の四日間 1 
・ 大蔵榮一大尉の四日間 2 
・ 大蔵榮一大尉の四日間 3 
・ 
大蔵榮一大尉の四日間 4 

・ 反駁 ・大蔵榮一 

・ 処刑前夜・・・時ならぬうたげ 
・ 澁川善助の観音経 
・ 長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ! 

・ 磯部淺一の嘆願書と獄中手記をめぐって 
・ 
江藤五郎中尉の死 

・ 暗黒裁判と大御心 
身を挺した一挙は必ずや天皇様に御嘉納いただける

しばらくでした。いつこられたんですか。
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか
奥さんが知っています
承知しました
いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい
・・・今日本で一番悪い奴はだれですか 


江藤五郎中尉の死

2021年02月22日 14時19分57秒 | 大蔵榮一

江藤五郎中尉 無罪、
江藤は私の監房のまえにきて立ちすくんだまま、しばらく立ち去りかねていたが、
看守にうながされて、私の目の前から消えて行ってしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
江藤中尉の自殺的戦死
想像した楽しい再会の日は江藤五郎の場合、ついにおとずれることなく、
このときの別れが永遠の決別になり、江藤は大陸に帰らぬ客となってしまったのだ。

江藤は無罪で釈放されたものの、
彼を待っていたものは、停職という行政処分であった。
代々木原頭で大量に銃殺された同志のことを思うと、
停職中の江藤は怏々 おうおう として楽しまなかったらしい。
やがて日支事変が勃発するやただちに復職を命ぜられ、
原隊である丸亀の第十二聯隊に復帰し、
そのまま呉淞 ウースン の敵前上陸を敢行して、まっ先に悲壮な戦死をとげた。

昭和十六年夏のことであった。
私が刑を終わって出獄したのが昭和十四年四月二十九日であったから、
出獄して二年目ということになる。
そのとき私は、神戸の同成貿易株式会社に関係していた。
これは、ひと口でいうと陸軍省防衛課と隠密裡に連絡を持った。
諜報機関としての性格を兼ねた商社であった。
・・・略・・・
ある日、新入社員がはいってきた。
その社員の姓名を、私はいま忘れているが、その男の郷里は丸亀であった。
「 君、兵役の経験は・・・・?」
私は丸亀ときいてなつかしかったので、早速質問してみた。
「 第十二聯隊の軍曹でした 」
「 戦争の経験は・・・・?」
「 呉淞に敵前上陸をして、中支を転戦して参りました 」
「 十二聯隊には江藤五郎中尉がいたはずだが、君、知らんかね 」
「 私と同じ大隊でしたから、江藤中尉殿のことはよく知っています 」
「 呉淞で戦死したそうだが、そのときの様子を知ってたらきかせてくれんか 」
「 中尉殿は、私の眼の前で戦死されましたのでよく知っています。
あれは、呉淞に上陸した直後でした。
大隊長は聯隊本部に行って留守、われわれは敵陣地を前に遮蔽物を利用して、
伏せたまま攻撃命令の下るのを待っていました。
そのとき、突然 江藤中尉殿が、何を思ったか ただひとり抜刀して、
敵陣地めがけて突進していったんです・・・・」
「 ・・・・」
「 全く アッという間の出来事でした。
正面に陣取っていた敵の機関銃がいっせいに火をふいたと思った瞬間、
中尉殿の全身はたちまち蜂の巣のように機関銃弾を受けて、その場にばったり倒れて即死しました。
死体はすぐ くぼ地に引き込みましたが、その顔は、むしろ笑っているような顔でした。
そこに大隊長が帰ってきて、江藤中尉殿の死体をみるや、
『 このバカ者が、何と早まったことをしてくれたんだッ、おまえはバカだッ、バカだッ 』
と叫びながら、死体にとりすがるようにしてワッと泣き崩れました 」
私はこの話をきいて、
衛戍刑務所で私の前から消え去っていった江藤の、涙ぐんだ悲しそうな顔を思い出していた。
「 江藤中尉殿の死は、まったく自殺としか思えませんでした 」
と、彼は話を結んだ。
「 そうだったのか・・・・」
私は、感慨無量であった。
熱血漢江藤五郎は鹿児島の産で、熊本幼年学校の第二十八期生であるから、
私より六年後輩である。
彼の死は、だれの目にも自殺と思われたほど悲壮であったらしい。
私もまた彼の死は自殺であったと思う。

江藤にまつわる思い出はつきない。
昭和十年六月、戸山学校在学中、長岡幹事の
「 ここにがんぜないひとりの子供がいる、命令、殺してこいッ 」
という問題に対して、
「 ハイッ、殺しません 」 
と、平然とうそぶいたときの人を食った江藤の顔。
・・・
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して来い 」 
私が林銑十郎陸軍大臣と一騎打ちをするから誰かついてこい、といったとき、
ノコノコついてきて 大臣官邸でスヤスヤと居眠りをした無邪気な顔、
・・・林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」 

刑務所で別れるときの悲しそうな顔。
江藤のいろいろの顔が走馬灯の如く、私の目の底に浮かんだ。
私は隊長と同じように
「 江藤の馬鹿野郎ッ・・・・」
と 大声を出してさけびたかった。


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌  から


処刑前夜・・・時ならぬうたげ

2021年02月12日 11時48分34秒 | 大蔵榮一

処刑前夜・・・時ならぬうたげ

栗原中尉が
鞭声粛々・・・・
と 声を張り上げて 「 川中島 」 を吟じた。
みな謹聴するかのように静かになった。

終わると
拍手が起こった。

栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、
いまの詩吟だけはうまかったぞ

と 中橋中尉がどなった。

一人が軍歌を歌いはじめると、
それがいつか合唱に変わっていた。
私は彼等が楽しく宴会でもやっているのではないかと、
錯覚するのがしばしばであった。
錯覚しながらも私の両眼には涙がにじんでいた。
澁川善助
遠くの方から
「 観音経 」
を誦ずる声が、腹わたにしみいるようにきこえてくる。
騒音を縫ってくる朗々たる誦経は、耳をすませば澁川善助のなつかしい声だ。

昭和九年九月、( 二十八日 )
いまから数えて一年十か月まえ、千駄ヶ谷の寓居において私の母が急逝したとき、
真っ先に駆けつけてくれた澁川があげてくれたのも 「 観音経 」 で あった。

あのときと いまでは立場を異にして、
澁川が自分自身をふくめて
十七名の死をまえにしての誦経には、悲壮な響きがあった。

夜の白みはじめるころ、
香田大尉の音頭で君が代が斉唱された。
つづいて天皇陛下万歳が三唱された。
・・・・

二・二六事件の挽歌  大蔵栄一 「長恨のわかれ」


「 相澤さんが永田少将をやったよ 」

2018年05月19日 17時23分43秒 | 大蔵榮一

« 昭和10年8月12日 »
翌朝七時ごろ目を覚ました。
台所の方から野菜をきざむ音が、
もうろうとした耳にかすかに聞えてきた。
「 オーイ、靴はおとどけしたろうな 」
私は、寝ながら叫んだ。
「 ハイ、とどけてきました 」
「 相沢さんは、起きていたか 」
「 もうすく゜朝食のようでした 」
「 早いな 」
と 問答を交わしながら、私は寝たばこを一服つけた。
篆字のようにくねって静かに形を変えながら
流れてゆく煙を眺めるともなく眺めているとき、
私はふと不吉な予感に襲われていた。
「 待てよ、ひょっとすると・・・? 」

相沢三郎が、
永田鉄山軍務局長をやるのではないだろうか。
私は昨夜 西田の家の玄関先で、直突の姿勢をとった中佐の姿を思い浮べると、ガバッと蒲団を蹴った。
なぜ今までこの疑問がわからなかつたのか、反省するひまもなく私はあわてた。
「 オイ、めしだ 」
女房を叱咤しながら、私は服装をととのえて家を飛び出した。
相沢中佐はすでに出たあとであった。
私は、玄関に出てきた西田に、昨夜の相沢との別れぎわの一件を話して、
「 相沢さんがやるかも知れん 」
と つけ加えた。
「 とにかく上がってくれ。オレも感じていることがあるから・・・」
私は出勤の時間を気にしながら、応接間に通った。
「ゆうべ君が帰ったあと間もなく寝ることにして、相沢さんは六畳の間で寝たんだ。
オレは書きものがあったので十五分ぐらいおくれて二階に上がろうとすると、
六畳の間の襖が少し開いていたのでのぞいてみたら、
相沢さんが蚊帳の中で蒲団の上にあぐらをかき、軍刀を抜いてじっと中身を見つめていたんだ。
「 何をしているんですか 」
というと、
にっこり笑って刀身を鞘におさめ、
「 お休み 」 と いいながら、
電灯を消して寝てしまったんだ。
 ・・・・それだけではないんだ。
 けさになって家内が蒲団をたたむとき気のついたことだが、新しいシーツにインキのあとがついていたんだ。
われわれが寝たあと、何か書いたにちがいない 」
「 いよいよ怪しいですね 」
「 そうなんだ、オレも心配しているところだ。君はきょう休めないだろうな 」
「 休むわけにはいきません。もう遅れそうですから私はこれで失礼しますが、あとはよろしく頼みます 」
「 磯部君に連絡をとってなんとかするから、君はすぐ行き給え 」
私は、心のこりであったが学校に急いだ。

戸山学校正門


将校集会所
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は 「 もしや相沢中佐が・・・・・? 」
と不安の気持ちが広がってきた。
不安は不安を呼んだ。もう一刻の猶予もならんと、私はこっそり将校集会所を抜け出した。
西田税 に電話して不安の実態をたしかめたかった。
集会所を抜け出した私は、
電話室に行く途中、学校副官高柳浅四郎大尉 ( 陸士三十四期 ) に会った。
「 オイ、やったなァ 」
高柳副官がいった。
私は、相沢中佐が永田軍務局長をやったことを直感した。
「 なにをやったんですか 」
私はとぼけた。
「 相沢さんが永田少将をやったよ 」
と、高柳は興奮気味であった。
「 殺したんですか 」
「 死んだらしいぞ 」
「 あなたは、どうしてそれを知ったんですか 」
「 いま、新聞記者が電話しているのを聞いたばかりだ 」
「 そうですか 」
事変を確認し得た私は、ことさら平気をよそおって自室に帰った。
昨夜からのことが走馬灯のように私の頭の中をかけめぐった。
私はとっさに剣をつかんで、脱兎のごとく校門に向かって走った。
そのとき、私はバッタリ、
セカセカと歩いてくる磯部浅一に会った。
「 ちょうど会えてよかった。相沢さんが永田をやりました 」
「 いま聞いた、それで飛び出したんだ 」
「 私はたった今この目で見てきたんです。陸軍省の中はごったがえしています。
だらしないったら、いえたもんじゃありませんよ。
これから同志四、五人で斬り込めば、陸軍省は簡単に占領できますよ、行こうじゃありませんか 」
「 まさか・・・・そうあせるなよ 」
私は磯部を制しながら、円タクを止めた。
乗車して行先、千駄ヶ谷を命じた。

大蔵栄一
二・二六事件の挽歌  から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この日のことを磯部は、
行動記 第一 で 記している
磯部浅一  

昭和十年八月十二日、
即ち去年の今日、
余は数日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した。
余の住所、新宿ハウスの三階にて
氏は
「 昨日相澤さんがやって来た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、
陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た 」
余は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった。
実は昨夜
村中貞次氏より来電あり、本日午前上野に着くとの事であったので、
村中は仙台に旅行中で不在だったから、小生が出迎へに行く事にしてゐたので、
病後の重いからだを振って上野へ自動車をとばした。
自動車の中でふと考へついたのは、
今朝の西田氏の言だ。
そして相澤中佐が決行なさるかも知れないぞとの連想をした。
さうすると急に何だか相沢さんがやりさうな気がして堪らなくなり、
上野で村中氏に会はなかったのを幸ひに、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
永田局長を乗せた救急車      陸軍省正門                                 陸軍省軍務局長室 ( 二階 )  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自動車を飛ばして陸軍省に行った。
来て見ると大変だ。
省前は自動車で一杯、
軍人があわただしく右往左往してゐる。
たしかに惨劇のあった事を物語るらしいすべての様子。
余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になったので、
よくよく軍人の挙動を見る事が出来た。
往来の軍人が悉くあわててゐる。
どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行ってしまってゐる。
余はつくづくと歎感した。
これが名にし負ふ日本の陸軍省か、
これが皇軍中央部将校連か、
今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら 陸軍省は完全に占領出来るがなあ、
俺が一人で侵入しても相当のドロホウは出来るなあ、
情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、
今にして上下維新されずんば国家の前路を如何せん
と いふ普通の感慨を起すと共に、
ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、
既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。
振ひ立つ様な感慨をおぼえて 直ちに瀬尾氏を訪ね、金三百円? を受領して帰途につく。
戸山学校の大蔵大尉を訪ねたのは十二時前であったが、
この日丁度、新教育総監渡辺錠太郎が学校に来てゐた。
正門で大尉に面会を求めると、そばに憲兵が居てウサンくささうにしてゐた。
これは後に聞いた話だが この時憲兵は、
余が渡辺を殺しに来たらしいと報告をしたとの事である。
陸軍の上下が此の如くあわてふためいてゐるのであるから、
面白いやら をかしいやらで物も云へぬ次第だった。


林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」

2018年04月06日 05時37分28秒 | 大蔵榮一

偕行社における青年将校の会合が、
陸軍当局から各部隊長に通達されるに至ったことは明瞭であった。
その根源は軍務局長永田少将にあると判断した。

これよりさき、昭和十年五月ごろ、
軍務局長永田鉄山少将は、陸軍大臣林銑十郎大将と朝鮮、満洲の視察旅行に出かけた。
視察旅行とは表面的理由で、
実際は朝鮮で宇垣総督に会い、満洲で南司令官に会って、八月の定期異動における人事問題、
とくに真崎教育総監を罷免することの打ち合わせ旅行であるとのうわさが流れた。

満洲公主嶺に飛行機隊付として勤務していた河野寿大尉
(  陸士四十期、二・二六事件で湯河原襲撃のあと自決  ) が、
二人の旅行日程が公主嶺飛行隊の飛行機を使用して北満に飛ぶ予定になっていてのを幸いとし、
河野大尉自身で操縦し、故意に空中分解の事故をおこして、おのれもろとも二人を葬り去ろうと決意したものの、
幸か不幸か予定変更で目的を達することができなかった。
・・・・・との情報は、ちょうどそのころ、満洲旅行を試みていた村中がもたらしたものであった。
十一月二十日事件このかた、
軍の私ら青年将校に対する弾圧が逐次強化されつつあったことは、あらゆる角度から検討して間違いのない事実であった。

ある夜、私ら数名のものが西田の家に集まった。
その席上、だれいうともなく林大臣に対する批判が持ち上がった。
そもそも荒木前大臣との更迭のいきさつからいっても、
林大臣の現在のような煮え切らぬ態度は合点のいかぬことばかりだ。
いったい大臣が何を考え、何をなさんとしているのか。
大臣の心境を叩いてみる必要があるのではないかということになった。
「 ヨーシ、オレがこれから行って一騎打ちを試みてみよう 」
と、私は立ち上がった。
「 よかろう、やってくれ、頼むぞ 」
みんないっせいに賛成した。
「 だれか一人、審判としてきてくれ 」
私は一同を見回した。
「 私が行きましょう 」
といって立ち上がったのは
丸亀から来た将校学生、江藤五郎中尉であった。

私と江藤五郎とが陸相官邸に着いたのは午後八時ごろであった。
さっそく刺を通じたところ大臣は在邸していた。
「 閣下、今晩は閣下に二、三おうかがいすることがあって参りました 」
大臣が応接間に姿を現わして着座するや、
私はいきなり主題に触れた。
「 まず軍の統制について閣下の方針をおうかがいいたします 」
私のこの漠然とした、どちらかといえば抽象的と思われる質問に対して、
林大臣は大きなテーブルの灰皿の横に置いてあったマッチを取り上げた。
そのマッチ箱の中から数本の軸をとり出して、まず三本の軸を縦に行儀よく並べた。
「 これが皇道派としよう 」
といいながら、
次に二十センチぐらい離して同じように三本の軸を縦に並べた。
「 これを統制派としよう 」
といいながら、
今度はマッチの軸遊びかと錯覚させられるような手さばきで、
皇道派の列と統制派の列とのまん中に三本の軸を縦に並べた。
「 オレは皇道派にも偏せず、統制派にも偏せず、そのまん中の道を中庸をとって進む 」
と、大臣はまん中のマッチの軸の列を指した。
大臣自らが軍内を二分するような、皇道派・統制派を口にするとは、全く度し難いと私は思った。
「 閣下、皇道派とか統制派とか、
軍を二分するようないまわしい言辞を大臣閣下から承わることは、まことに心外に存じます。
でありますが それはそれとしまして、皇道派と称せらるる方々の考えていること、やっていることと、
統制派と称せらるる方々の考えていること、やってることの、どちらが正しいと大臣閣下は思っていられますか 」
「 それは皇道派の方が正しいと思っている 」
「正しいことと、そうでないこととの中間は決して中庸ではないと思います。
閣下、正しいと思っている皇道派の先頭をなぜ進まないのですか。
むしろそうする方が中庸の道にかなっているのではありませんか。
さきほど承わりました閣下の歩まんとされる中庸のみ道は、どっちつかずの妥協の道で、
かえって国軍を混乱におとし入れることになるのではないでしょうか。
閣下、いかが思われますか 」
「 ・・・・・ 」

大臣の返答はなかった。
私はこれ以上大臣と話し合う気持ちにはなれなかった。
「 おい江藤、失礼しよう 」
と、江藤の方を見たとき、江藤中尉はソファーの中にからだを沈めて気持ちよさそうにスヤスヤと眠っていた。
あきれた奴だ、審判という大事な役目も果たさずに・・・・・とその図々しさにあいた口がふさがらなかったが、
その図々しさがまた たのもしいかぎりであった。
私と江藤が大臣官邸を辞したときは、訪問してからものの三十分もたっていなかった。

西田の家に帰ってみると、
みな私の帰りを待っていた。
私は大臣との問答の一部始終を話して、
陸軍大臣林銑十郎大将は風采に似合わぬ凡庸の最たるものである、
と 結論づけた。


大蔵栄一 
二・二六事件への挽歌 から 


「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」

2018年01月13日 03時52分16秒 | 大蔵榮一

ある夜
西田宅で私と彼と二人だけの懇談のときであった。
西田税 
君は武力行使をどう思っているのか
と、彼が突然質問を発した。

無暴に行使すべきではないと思います。
だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい。

僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある。
それは出来ない相談ではないと思っている。
蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ。

軍刀をガチャつかせるだけですね。

そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね。

私もそう思います。だが、若い連中に無血が理想だなんてことを、
少しでもにおわしたら、それこそ大変ですよ。

もちろんそうだ。しかし、そういう考えを胸中奥深く秘めて、
僕は若い連中に対処したいと思っている。

大蔵栄一  ・・から


此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して来い 」

2017年12月24日 11時51分48秒 | 大蔵榮一

昭和十年六月三日の土曜日、
学校では授業の終わったころ、
「 本日午後一時、将校全員第一講堂に集合すべし 」
という校長命令が出た。
教官はもちろん軍楽隊、主計、軍医、学生に至るまで、
将校と名のつくものは全員集合という命令は、
近ごろ異例のものであった。
「 なにごとだろう ? 」
「 よほど重大なことだろう ? 」
と、だれも想像し得ない命令だったので、
みんな小首をかしげながら集合した。

全員集合し終わったとき、
深沢友彦校長が長岡幹事を従えて第一講堂にはいってきた。
幹事、長岡大佐は小わきに相当分厚い書類をかかえていた。
よく見ると 『 正規類集 』 らしい。
『 正規類集 』 というのは
陸軍のあらゆる制度、規則を集めたものである。
校長は演壇に進んだ。
「 ただいまから幹事に重大なことを説明してもらうから、
諸君は謹聴してもらいたい 」
校長に代わって、幹事が演壇に立った。
小わきにかかえた 『 正規類集 』
をおもむろに大机の片隅においた。

「 オレは中隊長、諸君は小隊長と仮定する。
問題、ここに一人のがんぜない子供がいる。
命令 『 殺してこい 』、
諸君はどうするか 」
開口一番、長岡幹事は厳然として問題を出した。
全員水を打ったように静かになった。
幹事はしばらく全員を見回していた。
「 栗原中尉、どうするか 」
栗原凱二中尉は
陸士四十一期生で、
金沢歩兵第七聯隊から派遣されていた将校学生である。
第一次上海事変で金鵄勲章を頂いている豪の者だ。
「 ハイ、殺しません 」
と、きっぱり答えた。
「 その隣、江藤中尉 」
「 ハイ、殺しません 」
と、これまたきっぱり答えた。
江藤五郎中尉は、
陸士四十三期生で
丸亀歩兵第十二聯隊から派遣されていた将校学生である。
栗原中尉も江藤中尉も、ともに ブラックリストにのせられている革新青年将校で、
青年将校の会合などには常に出席していた組であった。
私は、問題の内容と、名ざされた二人が栗原と江藤であったので、
幹事のいわんとするところが那辺なへんにあるのか、おおむね察することができた。
明日曜日の偕行社における会合に出席することを阻止しようとする意図に違いない、
と判断した。
「 だからおまえらは間違っているのだ 」
と、幹事は二人をたしなめた。
「 上官の命令はいかなる命令であっても、直ちに従うというのが原理だ。
このことについては、
かつて関東大震災のとき甘粕 ( 正彦 ) 憲兵大尉の命令で、
その部下鴨下上等兵が大杉栄の甥を殺したことがあったが、
その折り陸軍省、参謀本部、教育総監部から代表を出して、
統帥ということに関して徹底的に検討を加えて得られた結論は、
いかなる命令といえども
上官の命令には直ちに服従しなければならぬということであったのだ。
そのために鴨下上等兵の犯した殺人罪は、
上官の命令に従ったのであるから無罪ということになったのだ。
すでにそういう結論が出ている。
たとえ がんぜない子供であっても、上官の命令であれば殺すのがほんとうだ。
栗原中尉にしても江藤中尉にしても、『 殺さぬ 』 という答えは間違っている 」
私はこの幹事のいうことには、真っ向から反対であった。
しかも形而上の問題を多く含んでいる統帥を論じようとするのに、
『 正規類集 』 のような形而下の規則一点張りの書類を目の前において、
統帥を云々しようとする態度は、私には納得できないものがあった。
「 幹事殿、質問があります 」
私は、立ち上がった。
「 幹事殿はただいま
『 いかなる命令といえども上官の命令には従わなければならぬ 』
といわれましたが、
まことそのお言葉には間違いありませんか 」
私は念を押した。
「 間違いはない、その通りだ 」
「 しからばこんどは、私が問題を出します。
私は師団長で、あなたは聯隊長と仮定します。
問題。
『 長岡聯隊長は部下聯隊を率いて、宮城を占領すべし 』
この問題ははなはだおそれ多い問題ですが、
日本の歴史をひもといてみますと、
そういう事実は何回となく繰り返されています。
今後も絶対にないとは保証できないことであります。
幹事殿はこの場合どうなさいますか。
いかなる命令といえども従わなければならぬならば、
当然占領すべきと思われますが、どうなさいますか 」
「 それは別だ 」
幹事は顔のまえで両手を大きく交差して振りながら、例外を認めた。
「 じゃ、一歩をゆずりましょう。
日ソ開戦中だと仮定します。
ここにもしソ連軍に渡ったら、日本を敗戦にみちびくような重要な機密書類があります。
問題。
『 聯隊長、この機密書類をソ連に五十万円で売ってこい、師団長命令だ 』
幹事殿、どうなさいますか 」
「 売りに行く 」
と幹事は、小さな声で答えた。
私は、この幹事の答えをきいて、少なからぬ憤りを覚えた。
「 幹事殿、私は幹事殿と全く違った考えであります。
師団長がかりにそういうばかな命令を出したとしたら、
私はまず師団長き気が狂ったのではないかを確めます。
もし正気でいっているのであれば、軍隊内務書に示されている通り、
その誤りを訂ただすために意見具申をして、その誤りをやめてもらいます。
それでもなおきかなければ、師団長を一刀両断にします。
そして、喜んで上官殺害の罪に服したいと思います 」
私は、私の言葉にだんだん熱を帯びてくるのを、
自分ながら制することはできなかった。
「 幹事殿は、ただいま、
命令とあらばあえて国を売るようなことでも平気でやるといわれましたが、
これは驚くべきことで、許し難い行為といわなければなりません。
それはかたちだけの命令服従であって、決して真の服従ではないと思います。
いいかえればそれは単なる盲従で、かえって統帥を破壊するものであります。
わが国の統帥は、そんなかたちだけのものではありません。
命令を下す上官は、その態度においていささかの私心も許されません。
すべてを天皇に帰一したかたちにおいて命令は下るべきであります。
命令を受ける部下もまた、
天皇に帰一したかたちにおいてその命令に従うべきであります。
幹事殿が問題として出されました 『 ここにがんぜない子供がいる。殺してこい 』
という命令には、私は断じて無批判に服従すべきではないと思います。
したがって
栗原中尉、江藤中尉の答えは、不用意にこれを間違いと断することはできません。
私はむしろ、彼らの答えは正しいと思います 」
このような私の反論に対して、
長岡幹事はあくまで省部の形式的結論をたてにとって、
約一時間にわたって私との間に激論を戦わせた。
「 おまえはオレのいわんとすることが、まるでわかっていない 」
と、幹事は頭ごなしに私の反論を押えようとした。
「 そうです。私は幹事殿のいわれることは全くわかりません 」
と、私も負けてはいなかった。


大蔵栄一 
二・二六事件への挽歌  か


身を挺した一挙は必ずや天皇様に御嘉納いただける

2017年12月23日 11時51分48秒 | 大蔵榮一

そのころのいわゆる青年将校は
『 革新 』 ということに関心を持つ者と、無関心の者とに大別することができた。
関心を持つ者がまた、
非合法もあえて辞せずとする者と、あくまで合法的にと主張する者とに分かれていた。
当局が一部将校だとか急進派将校といって、目のかたきにし、
弾圧の対象としていたのがこの非合法組であったことはいうまでもない。
非合法組の中にも単独直接行動は是認するけれども、
部隊を使用することは絶対反対する態度を持するものもいた。
状況やむを得ぬ場合は部隊使用もあえて辞さないグループが、
『 二 ・二六事件 』 を決行した連中であった。
その場合、統帥権を干犯することは百も承知の上であった。
だが、この行為はいわゆる西欧流のレボリューションではない。・・・政治革命
権力強奪的私心が微塵もあってはいけないことを、お互いの心に誓い合っていたのだ。
国家の悪に対して身を挺することによって、
その悪を排除し、日本本来の真姿顕現に向かって直往すれば、
その真心は必ず天地神明にはもちろん、
天皇さまにもご嘉納していただけることを念願しての一挙であったはずだ。
ご一新への念願成就の暁は、闕下にひれ伏して罪を乞い、
国法を破った責任において、死はもとより覚悟のまえであった。
破壊のあとの建設案など考えないのは当然である。
部隊の大小にかかわらず、斬奸の兵を率いて独断専行するとき、
それが明らかに統帥権を踏みにじった行為であることは、間違いのない事実ではないか。
・・・
松本清張は 「 統帥権とは天皇の 『 意志 』 である 」 と定義しているが、
これには私も全く同感である。
だが、ここで考えなければならぬことは、天皇の 『 意志 』 の内容についてである。
敗戦前の日本においては、
高御座たかみくらにつかせられた天皇の 『 意志 』 は
単なる喜怒哀楽に左右される自然人としての 『 意志 』 ではなく、
皇祖皇宗の遺訓、すなわち天地を貫く大本たいほんに則った 『 意志 』 でなければならぬということだ。
だが、天皇は万能の神ではない。
人間本能にもとづいて喜怒もあれば哀楽もある、自然人としての誤りをおかすことも、
当然あってしかるべきものであろう。
その過誤を最小限にとどめようと日夜聖賢の道を学び、
帝王の学を見につけるため努力を積み重ねられる天皇のために、
欠くことのできないのは輔弼の責めに任ずる側近の人達である。
明治の時代は若き天子を擁して西郷隆盛の実直があり、山岡鉄太郎の剛毅があって、
あるときは面をおかして直諫の苦言を奉り、過ちの改められない限り一歩も退かなかった、
という見事な諍臣ぶりに、われわれ明治に生を受けたものは、深い感銘を覚えたのであった。
昭和の時代は、果してどうだったであろうか。
大正から昭和にかけて、天皇の側近にはいつの間にか古今を大観する達人、
天地を貫く剛直の士が、影をひそめてしまった。
しも万民の苦しみをよそに、
側近はひたすら天皇を大内山の奥深くあがめ奉ることにのみ専念これつとめていた。
『 諫臣なき国は亡ぶ 』 と昔よりいわれたように、
忠諫の士が遠ざけられて、佞臣ねいしんの跋扈するところ、
大内山には暗雲がただよい、ために天日はおのずから仰ぎ難くなる。
『 二 ・二六事件 』 は、私によれば、
この暗雲を払い天日を仰がんとする、忠諫の一挙であったのだ。

 

大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌  か


もう待ちきれん

2017年12月17日 19時22分05秒 | 大蔵榮一

  

昭和八年の盛夏のころであった。

ある日曜日、
村中、香田、安藤、磯部、栗原、私など七、八名が
青山の例のアジトに集まった。
この日はとても暑い日で、
私は着物を脱ぎ捨ててふんどし一つになっていた。
おのおの涼を入れながら 車座にすわったが、
部屋の空気は思いなしか重いものがあった。

もう待ち切れん、われわれはいつまで待つんですか。
躊躇すべきときではないと思います。
思い切って起ち上がれば暗い日本が一ぺんに明るくなるぞ、
どうだろうみんなそう思わんか

と、磯部がまず口火を切った。
そうですよ、磯部さんのいう通りです。
私は ちかごろ幕的に齋藤実、牧野伸顕、西園寺公望、池田成彬など、
奸賊の名前を張りつけて突撃演習を兵たちにやらせているのですが、
兵たちの目のかがやきが違いますよ。
やるなら早いほうがいいと思います
栗原がまっさきに同意した。
この即時決行論に対してだれも反対の意志表示はなく、
急進論に圧倒されたかたちであった。
村中も香田も安藤も、もともとおとなしい人たちで、
真っ向から反対するたちの人ではなかった。

オレは反対だなァ 

私は、きっぱりと反対意見を出した。

反対の理由は何ですか
磯部が、眼鏡ごしに睨んだ。

時期尚早だよ

革新に時期はありませんよ。
してい時期をいえば、こちらの準備のできたときが、時期ですよ。
奸賊どもをやっつける力は、いまの準備で充分です。
なんで躊躇するんですか

いや、どうみても時期じゃない

時期のことを云々する奴には、とかく卑怯者か臆病者が多い・・・・

貴様らが、何といおうが反対だ

私は、この場合反対理由をツベコベ述べたって、
かえって水掛け論となって面倒だから、
ただ、時期尚早の一点ばりで押し通した。
緊張した空気はちょっとした刺激ではち切れそうであった。

もし、どうしてもやるというなら、このオレをまず血祭りにあげてからやれ

私のこのタンカで、
さしもの緊張した空気にゆるみの出たのを感じた。
そして、やるともやらんとも結論の出ないまま 終わった。

私は、その足で西田を訪ねた。
西田は、一部始終をきいて真っ向から反対した。

ボクがさっそく手を打つから、君はしばらく黙っていたまえ

西田がどんな手を打ったか私は知らないが、
決行の話はいつか立ち消えになった。
その頃の決行論は、常に流動的であった。
しかし、このときの決行論は、
いつものと違って相当ボルテージの上がったものであった。
だが、凝固するには至らなかった。


大蔵栄一  著 
二・二六事件への挽歌 から 


« 青山三丁目のアジト »

2017年12月16日 03時58分38秒 | 大蔵榮一

« 青山三丁目のアジト »
中橋 (基明) さんのマントの裏は真っ赤でしたね。
元気のいい優しい人でした。
安藤さんは
『 おばさん、いつもお世話になります 』
と いつては、
私の好きなものをよく持ってきてくれました・・・

あの日はちょうど・・・そうです、
昭和八年十二月二十三日でした。
全国民の待ちに待った皇太子さまのご誕生になったときでした。
私は号砲の音をきくと、
すぐ二階に寝ていた磯部さんにそのことを知らせました。
磯部さんはガバッと起き上り
『 そうか 』
と ひとこといってそのまま井戸端に行き、
斎戒沐浴して
二階の床の間に向ってしばらくひれ伏しました。
私は磯部さんの芝居じみた奇矯な態度
――私の目にはそううつりました――
に驚きの目をみはって、
後ろに立ってあきれてじっとみていました。
いまでもはっきり覚えています

こんなこともありました。
西田さんがひょっこりやってきて
『 今度の日曜日、士官候補生が五、六名きますから、うんとご馳走してやって下さい。
私が金を出したことはいっさいいわんこと 』
と いって
お金をおいていったことが、ちょいちょいありました
士官候補生といえば
陸士四十五期生の明石寛二、市川芳男、鶴田靜三、黒田武文、
四十六期生の荒川嘉彰、次木一
らであったろう

村中さんは、小さなお方でした。
よく和服でおみえになっていたことを覚えています。

刑死されたこの人たちのお墓に、
どうしても、死ぬ前に一度お詣りしたいと思っていました
昭和四十三年四月
アジトの留守居役をしてくれていた
土屋敏さんの談である

西田税の家は、梁山泊の感があった。
この 西田梁山泊 ( 有志の巣窟 / 集りし處 )
が かえって革新運動にマイナスとなるおそれがある。
といった考慮から、
昭和八年春ごろ青山三丁目に一軒の家を借りた。
左翼流にいえばアジトである。
この家は翌年の 『十一月二十日事件』 が起るまで大いに利用したのであるが、
約一か年半の間のアジト的存在は、
この事件とともに閉鎖するのやむなきに至った。


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌
高まりゆく鳴動 から


中村義明 ロマンス実る

2016年11月04日 04時19分35秒 | 大蔵榮一

そういうある日、
私は中村義明の呼び出しを受けて、彼の家をたずねた。
「 蔵さん待っていたぞ、さっそく 『 皇魂 』 に 原稿をかいてくれよ 」
と、中村がいった。
大岸の原稿が演習がいそがしくて間に合わんらしい、
そこで私にその穴埋めをしろというのであった。
このころになると中村は、私を 「 大蔵 」 と呼ばずに 「 蔵さん 」 と呼ぶように打ちとけていた。
「 オレは分筆の徒ではないんだ。首から下だけでご奉公するのがオレの身上だ。
原稿だなんて無茶をいうな 」
「 なんでもいいから書いてくれよ 」
「 書くことと考えることはまっぴらだよ 」
と いった問答を繰り返しているとき、速達郵便がとどいた。
相当部厚い 大岸からの原稿であった。
おかげで私は、にが手の作業から解放されることになった。
「 いじめてやろうと思ったのに、あんたは運のいい人だ。
ときにきょうはひまだろう、今夜は僕に付き合ってくれ、いやとはいわさんからな 」
私はうなずいた。
二人でゆっくり晩飯を終わったのが八時ごろであった。
「 蔵さん、これから外に出よう 」
私は中村に従って外に出た。
彼は麹町通りに出て車を止めた。
「 どこに行くんだ?」
「 黙ってついてきなさい 」
車がどこをどう走ったか見当のつかないうちに、とある薄暗い露地に止った。
「 どこに行くんだ?」
私は、再び質問した。
「 あの家だよ 」
中村が指した方向を見ると、板べいに囲まれた家の二階の部屋であった。
障子に電灯の光が明るかった。
「 あんたはここで待っていてくれ 」
と いいのこして、中村は いそいで板べいを上りはじめた。
「 おいやめろよ、泥棒みたいなまねはよせよ 」
私は小さな声でたしなめた。
中村は私の声に耳をかそうとしないで、
苦心の結果板べいを上りきって部屋の窓までたどりついた。
私は中村の挙動をヒヤヒヤしながら見守るばかりであった。
露地は人っ子ひとり通らない静かな夜だった。
「 だれだッ!!」
下の部屋から大声がどなった。
びっくりした中村は板べいから露地に向かって飛び下りた。
たまたま露地の片隅に積んであった砂の上に飛び下りたので、
中村は砂の中に顔をつっ込んでしまった。
口の中にもだいぶ砂がはいったらしい。
「 ぺッ、ぺッ 」
砂を吐き出す中村のかっこうは見られたものではなかった。
 中村義明
目ざす部屋の中の住人は、中村の意中の人であった。
中村義明が東京に進出してから二、三人の学生と共同炊事をしていたことは、
先に書いた通りであるが、
その中のある学生に一人の姉がいた。
津田英学塾出の才媛さいえんである。
学生時代から少々赤味がかっていた関係で、
いつか中村と話し合う仲になっていた。
というよりも
中村の方がその女性にぞっこん参ってしまったという方が正しいらしい。
その女性に私を引き合わす目的で、
今晩の度はずれた中村の行為となったようだ。
厳寒から堂々と名乗りを上げてアプローチせず、
夜這いじみたかっこうで近づこうとする態度に、
むしろ中村らしい ほほえましさを感じて、
私には好感のもてる閑日月の一コマであった。

この女性はとうとう中村に射止められて、菊
薫る (昭和十年 ) 十月に中村と結婚して、
中村よし と名乗るのであるが、
この夜私は、
みめうるわしき彼女の顔かたちに接するせっかくのチャンスを失したのである。
九月の末、私は中村の訪問を受けた。
「 蔵さん、頼みがあるんだ、
いよいよ結婚しようと思うんだが、
まとまった金はなし、
何とか安く上る方法を考えてくれよ 」
「 九段の軍人会館を使おうじゃないか、
オレが交渉してやろう。
結婚は形式なんてどうでもいい。
問題はあとをうまくやればいいんだ。
で、挙式の予定は何日だ 」
「 十月のはじめがいい 」
「 ヨーシきた、それでいこう 」
結婚式は予定通り十月一日 軍人会館で挙げた。
参列者は新郎側として増田次郎 ( 日本発送電総裁 )、
中村三郎 ( 海南島で銃殺 )、それに私、
新婦側として海野晋吉 ( 弁護士 ) など数名という寂しい挙式であった。
だが、
内容はすこぶる充実したものであった。

大蔵栄一 
二・二六事件への挽歌 から