あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

統帥權と軍人精神

2022年10月11日 05時05分13秒 | ロンドン條約問題

天皇統帥
陸軍はその政治への武器として統帥権を乱用したといわれる。
さきの軍部大臣武官制もまた本来軍統帥確保のための制度であったが、
これが悪用されて政治を左右していた。

一体、統帥権とか皇軍の権威と言われたものは何だったのか、
これを明らかにすることなくしては、
当時の軍の実体を捕捉しがたい。
そこで私はここで一応これらの点に触れておきたい。
勿論、それは学術的な統帥権の解説ではない。
当時、軍の中にいて軍を観察していた一憲兵の所見であるにすぎない。


軍人勅諭  』
軍人が 朝夕に 奉誦した

日本軍では明治天皇の下賜された 『 軍人勅諭 』 をその精神的支柱としていた。
軍人達が朝な夕なに奉誦する 『 軍人勅諭 』 は彼等の日常実践上の軌範であり、
その一挙一道はすべてこの 『 軍人勅諭 』 にもとらないよう要求されていた。
だから 『 軍人勅諭 』 は軍人精神、軍隊精神の骨髄であり血肉でもあった。
軍人にとっては 『 軍人勅諭 』 こそ
古今を通じて謬あやまりのない、永遠不滅の聖典であった。
この 『 軍人勅諭 』 は、
「 わが国の軍隊は世々天皇の統率し給ふところにぞある 」
との御言葉に始まっているが、その中に、
「 --夫れ兵馬の大権は 朕が統ぶる所なれば
 其司々を 臣下には任すなれ、

 其大綱は 朕親ら之を攬り肯て 臣下に委すべきものにあらず。
子々孫々に至るまで篤く斯旨を伝へ、
天子は文武の大権を掌握するの義を存して
再中世以降の如き失態なからしむことを望むなり。

朕は大元帥なるぞ、
されば朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ
其親は特に深かるべき

と宣示されていた。
そこでは兵馬の大権 即ち 統帥大権は
永遠に天皇自ら総攬せらるるものであり、
天皇は軍の大元帥として軍を率い、
しかもその関係は
頭首と股肱という有機的一体化されたものであった。
ここに軍人の天皇統帥に対する異常な感激が生れる。
その頃の天皇は国民の信仰であり万世一系の現人神であった。
この尊厳無比、絶対的ともいうべき天皇の股肱として、
その統帥に服する軍人にとっては栄誉この上もないことだった。
ことにこの天皇統帥を承行する将校たちの統帥大権のうけとり方は、まさに異常なものがあった。
さきの 『 軍人勅諭 』 の礼節の章には、
「上官の命を承ることこれ直に朕の命令なりと心得よ 」
ともあった。
国体を信じ天皇信仰にこり固っている将校にとっては、
その統帥指揮は神聖にして侵すべからざるものであったのである。
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相澤中佐
信念問はれて   
至尊絶對の一言
・・・ 昭和11年1月29日  公判 
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永田中将を斬殺した相澤中佐は尊王絶対を叫びつづけていた。
尊王絶対とは天皇絶対であり
絶対たるべき天皇の統帥大権もまた絶対神聖なるものであった。
その絶対たるべき統帥大権が侵されたと信じたから
彼は軍務局長を殺害してもその罪を意識しなかったのである。
この公判で弁護人となった鵜沢聡明博士は公判進行の途中、
本事件を単に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に、関連を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、
実にその深刻にして真摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・

・・・リンク→注目すべき鵜沢博士の所論 

と事件の核心について語ったし、 
また二月二十四日の法廷では、
「 私は統帥権干犯問題に関しましては、世間では行政権と混同して、
 却って被告が干犯したのではないかとの観方をさえしている向きがあるかに考えられるのでありますが、
わが国の統帥の本義なるものは欧州のそれとは全く趣を異にしているのであります 」
と述べていた。
鵜沢博士もこの事件につき込んでみて軍人の信仰に近い迄の天皇統帥への感情を知ったのである。
・・・リンク→ 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

また、二 ・二六事件首謀者の一人
磯部浅一 
『 
 獄中日記 』 に 
天皇の玉体に危害を加へんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもつて立つ、
この場合剣をもつて賊を斬ることは赤子の道である、
天皇大権は玉体と不二一体のものである、
されば大権の干犯者 ( 統帥権干犯 ) に対して、
純忠無二なる真日本人が激とし、この賊を討つことは当然のことではないか
 」
・・・獄中日記 (二)  八月九日   ( ・・・リンク→ 獄中手記 )
と書いている。
これが暴論であるかどうかはここでは問題ではない。
彼ら急進的な将校はこう信じていたのである。
彼らの国体信念では天皇の統帥大権を侵すものは
斬奸することは当然としていたのである。 

リンク→ 尊皇討奸 ・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」

すべての軍人がこのような狂信ではないにしても
国体を信じ天皇統帥の神聖と尊厳を身に沁み込ませていたことは事実であった。
たしかに天皇統帥は軍の生命であり血脈であった。
この生命の脅威を感ずるとき、急進将校は立ち上がって大権を犯した者へ反撃を加えた。
それが五 ・一五 であり、相澤事件であり、二 ・二六事件であった。

 
大日本帝国憲法

統帥權の確立
大日本帝国憲法 で天皇統帥を規定したものはその第十一條であった。
そして第十二條には軍の編成大権を規定していた。
共に天皇の大権事項ではあったが、
特に統帥大権の輔翼は帷幄機関すなわち統帥部にあるとせられ、一般国務の外にあったのである。
だから統帥権独立の憲法上に持つ意味は、統帥の国務からの独立であった。
軍人はこれを 『軍人勅諭 』 との関連において理解し 強く精神的なものと信じていたが
統帥権の独立という法律的概念はそんなものではなかった。
日本の政体としての天皇統治は、文武の実権を掌握するのはただひとり天皇のみにあった。
天皇は一方において国政 ( 文 ) を他方において軍 ( 武 ) を統帥し、
この文武の両権は互に恪循して相侵すことのないのが、古来からの国の姿であり、
国家の繁栄をもたらすものとせられていた。
したがって、統帥権の独立とは天皇統治の作用としては、
統帥が国務の外にあってその干渉をうけないというのにあったのである。
もともと、「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」 という憲法第十一條は純統帥事項のことで、
この作戦用兵が国務から独立することには、一応異論はなかった。
しかし 「 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 」 という第十二條には問題があった。
この編成大権が国務か統帥かというのである。
しかし憲法の起草者 伊藤公の 「 憲法義解 」 には、
「 本條ハ陸海軍ノ編成及常備兵額亦天皇ノ親裁スル処ナルコトヲ示ス。
 コレ固ヨリ責任大臣ノ輔翼ニ依ルト雖、又帷幄ノ軍令ニ均シク至尊ノ大権ニ属スベクシテ、
議会ノ干渉ヲ須タザルナリ 」
と解説されていた。
それは、この編成大権は国務大臣の輔翼するものだが、同時に帷幄機関の輔翼するもの、
いいかえれば、軍部大臣は国務大臣として内閣の一員ではあるが、
同時に軍令機関として帷幄に参画するものであるというのである。
これが明治憲法の解釈であり、また、ずっと行われてきた政治的慣行であったのである。
ところが、軍部大臣が国務大臣として内閣に列しながら帷幄機関としての性格をもっているということは、
軍部大臣が内閣の外に帷幄上奏権をもつことであり、その限りにおいて、軍部大臣は内閣の統制外にあった。
このことは憲政の発達に伴うて政党政治が勃興してくると、いろいろな障害となってきて、
この統帥権独立は世の論議の的となってきた。
第二次西園寺内閣で陸軍は二箇師団の増設案を政府に要求した。
これは朝鮮に二箇師団を置こうとするものであったが、内閣はこれに応じなかった。
そこで時の陸軍大臣上原勇作は陸軍大臣のもつ帷幄上奏権を使って内閣を経ないで単独辞職をした。
西園寺は陸軍に後任陸相を求めたが断わられ、ためにこの内閣は総辞職をした。
いわば陸軍は増師に反対する西園寺内閣を倒してしまったのである。
それは大正の始めのことであったが、世論は統帥権独立問題で騒然となった。
公法学者を始めとする学界、言論界がこれを取上げ賛否両論を展開したが、
それはその頃勃興しかけた政党政治発展への一大障碍だったからである。
そこで政治家とくに政党政治家は統帥権の独立は国に二つの政府があるものといい、
この二重政府の弊をためようとして、軍部大臣の帷幄機関としての性格を抹殺しようとした。
少なくとも、政党が大命を拝した場合、思うがままに軍部大臣を得ようとした。
これが軍部大臣の現役より予備役--あるいは文官制への動きであった。
たしかに、国政運用の実際としては統帥を含めてこれが一元化されることが円滑だということになるが、
そうすることによって文が武を抑えることになると、天皇親率にひびが入り、
その頃国威伸張の原動力だった一国の武力が、政府の政策の変更によって、たえず不安動揺をつづける虞もあったのである。
しかし、政党の発展と政党政治の円滑を期するためには、この統帥権の独立を抹殺しなければならない。
かの原敬のごときも一歩一歩、この軍の牙城の切崩しに努力した第一人者であったといわれるが、
もともと統帥権の独立は憲法に根拠するものである限り、そのことは容易なことではなかった。

昭和に入っての統帥権論議は、
これ迄しばしば触れてきた浜口内閣のロンドン条約兵力量決定にからむ統帥権干犯であった。
これは明らかに浜口内閣の統帥権干犯で、
少なくともこれまでに慣例のない、政府による国防兵力量の決定をあえてしたのである。
ここでも統帥権論議は喧々ごうごうたるものがあったが、浜口首相はこれがため一刺客に撃たれたのであった。
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佐郷屋留雄
リンク
統帥権と帷幄上奏 
鈴木侍従長の帷幄上奏阻止
・ ロンドン条約をめぐって 2 『 西田税と日本国民党 』 
・ ロンドン条約をめぐって 3 『 統帥権干犯問題 』 

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統帥と国務との対立、それは兵政分離の原則によって互いに侵さず侵されずというにあった。
これを軍人軍隊の方からいえば軍人は剣を持つが故に、
世論に惑わず政治に拘らずと 『 軍人勅諭 』の論に厳格であった。
だから軍人が政治に拘わることは強い法度で、大正の軍人には概ねこれが徹底していた。
だが、昭和の暗黒時代に入ると、さきに述べたように政治軍人が横行したし、政党も凋落してきた。
政党が凋落し軍が政治に檯頭してくると、政治に押されていたこの統帥権も、逆に政治を圧伏することになった。
勿論、そこでは近代戦における国防概念の変化、満洲事変以後の戦争状態の連続もあったが、
歴代の政府でこの統帥権に悩まされないものはなかった。


大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から


ロンドン條約問題 『 統帥權干犯 』

2021年10月14日 05時41分25秒 | ロンドン條約問題

昭和四年一月
海軍軍令部長鈴木貫太郎大將は侍從長となり天皇の側近に奉任することになった。
翌 昭和五年浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮條約にからんで、
政府と統帥がその兵力量について對立紛糾したとき、
浜口首相は全權團よりの請訓案をのんで回訓を發しようとし、
天皇に上奏のため拝謁を願い出たのに對し、
加藤軍令部長はこれが反對上奏を行うために、同じように拝謁を願い出た。
ところが鈴木侍從長は
浜口首相の拝謁方を取り計らい 加藤軍令部長の拝謁方はこれを阻止した。
これがため鈴木侍從長の風當りはつよく、
彼は統帥權を干犯したというのでごうごうたる非難にさらされた。
これが彼がニ ・ニ六に斬奸に遭う主たる原因であった。


ロンドン條約問題

『 統帥權干犯 』
目次
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・ 統帥權と軍人精神 

 
ロンドン條約をめぐって 1 『 米國の對日戦略 』
・ ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』 
・ ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』 

・ 
ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』
・ ロンドン條約問題の頃 2 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (1) 』
・ ロンドン條約問題の頃 3 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』
ロンドン條約問題の頃 4 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』 
ロンドン條約問題の頃 5 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』

・ 統帥権と帷幄上奏 
・ 鈴木侍從長の帷幄上奏阻止


 小笠原長生 『 ロンドン條約と西田税 』 



佐郷屋留雄
浜口首相狙撃事件
昭和五年十一月十四日 午前八時五十五分頃

総理大臣浜口雄幸が岡山県下で挙行の陸軍大演習陪観の為 西下すべく、
東京駅に至り乗車ホームに差かった際、
同所に於て之を待受けて居た 佐郷屋留雄 の為め

「 モーゼル 」 式八連発拳銃を以て射撃せられ、
瀕死の重傷を負ひ、遂に翌年 ( 昭和六年 ) 八月二十六日逝去した。
佐郷屋留雄 ( 当時二十三年 ) は大陸積極政策の遂行、共産主義の排撃を綱領とし、
民間右翼団体一方の巨頭である岩田愛之助を盟主とする愛国社に身を寄せて居り、
浜口内閣の緊縮財政政策に依る社会不安を見て、
同内閣の倒閣運動に加つて居たが、

一方ロンドン条約に関し 起つた軟弱外交統帥権干犯の世論に刺戟され、
又 政教社のパンフレツト 「 統帥権問題詳解 」 及び 「 売国的回訓案の暴露 」
等を読み、委託憤激した結果この挙に出たものである。


ロンドン條約をめぐって 1 『 米國の對日戦略 』

2021年10月13日 17時48分57秒 | ロンドン條約問題

日露戦争が終わって、
ポーツマス条約が結ばれたのが
明治三十八年九月五日、
それから四年後の明治四十二年 ( 一九〇九年 ) 三月、
米国において一冊の書物が公刊された。

題して 『 無智の勇気 』  著者はホーマー ・リーという人である。
これがたちまち評判になって、ついに数十版を重ねるほどになり米国から英国にひろがり、
ヨーロッパ諸国にも宣伝された。
明治四十四年二月、わが陸軍省でもこれを入手して大臣官房で翻訳し
「 日米必戦論 」 と題して秘密出版し 「 部外秘 」 扱いとして関係者に配布した。
その要は、上編では戦争をひき起す諸原因から説き起し、
将来日米の二大強国の衝突は避けられない必然性があると論じ、
下編では米国の陸海軍の脆弱さと日本の陸海軍の優秀さをいくつかの事例をあげて立証し、
もし この現状で日本と戦えば米国はたちまちにして太平洋沿岸の諸州を失うであろう、
と警告している。
「 太平洋の地図を案ずるに、日本が将来戦争を以て、其地位を鞏固ならしめ、
其主権を確立せんが為に戦う国は、蓋けだし米国以外にこれあらざるなり 」
と 予告し、もし、日本と戦うようになったら、
米国海軍は日本海軍の敵ではない
「 或る午後の数時間に於て、忽ち全滅に帰するや知るべからざるなり 」
と例証をあげて米国海軍の欠点を指摘している。
太平洋の制海権をうばった日本は、
三ヵ月以内に米国の太平洋岸に向って四十万の軍隊を輸送する能力があり、
実戦の経験豊かな有能な指揮官に率いられた勇猛な日本の陸軍は、
ほとんど抵抗らしい抵抗をうけないでシアトル、ポートアイランド、サンフランシスコ、ロスアンゼルス
を占領するであろう。
日本の陸軍が一たび太平洋沿岸を占拠せんか、米軍の反撃はほとんど不可能である。
ロッキー山脈と西部の大草原は、東方からの攻撃に対して絶好の城壁となるであろう。
ましてや米国の訓練不足の常備軍や、戦意のない民兵では、
とうてい歯がたたないだろうと述べている。

今日の眼から見れば奇想天外な空論であり、滑稽この上もないタワ言だと笑い飛ばされるだろうが、
当時の米国の有識者の間では相当深刻に受けとめられたことがうかがえる。
著者によれば、これが起草されたのはポーツマス条約が締結された直後であるという。
日露戦争における日本陸海軍の不思議な強さ、死をかえりみぬ戦いぶりが、
米国の心ある人々に不気味な圧迫感、恐怖感を与えたと想像される。
当時の米国大統領セオドル ・ルーズベルトは、ポーツマス講和会議の開催中の八月二十九日の書簡で
「 余は従来 日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきでなくなった 」
( 朝日新聞社刊 『 太平洋戦争への道 』 第一巻 P一一 ) と 述べているし、
二年後の明治四十年七月にはフィリッピン駐留の米軍司令官に暗号電報を送って、
日本軍の急襲に備える指令を与えている。
さらにルーズベルトは翌四十一年十月、戦艦十六隻からなる大艦隊を日本に親善訪問させているが、
艦隊司令官にはあらゆる万一の危険に備えるよう内命を与えている事から考えて、
日本に対する武力示威の行動であったことはたしかである。 ( 高木惣吉著 『 私観太平洋戦争 』 P六四 
)
これら日露戦争の米国指導層の対日態度を見ると、いかに彼らが好戦国日本という強いイメージをもち、
対日不信感 あるいは 対日恐怖感を抱いていたかがよくわかる。
こうした米国の新しい 「 黄禍論 」 に、さらに拍車をかけたのが、大隈内閣による対華21ヶ条の要求である。
大正四年一月 わが大隈重信内閣は、中華民国の袁世凱政府に対し日華新条約の提議を行った。
内容が五項二十一条から成っていたので、世上これを二十一ヶ条の要求といった。
老獪な袁世凱の引き延し策に、わが政府は五月七日最後通牒をつきつけ、
五月二十五日ついに日華新条約を締結させた。
当時の日本としては明治以来の懸案で、山東半島還付をきっかけに解決をはかろうとした新条約であったが、
これが英米両国を異常に刺戟した。
ことに米国では、中華民国を幼い共和国と認め、日本はそれを脅かす軍国主義の侵略国であると喧伝された。
こうした米国における対日恐怖感、あるいは対日不信感は米国民の感情として定着し、
その後の日米交渉の底流となってゆくのである。

第一次世界大戦が終って見ると、日本は押しも押されもせぬ東洋の強大国として、
ゆるぎない地歩を確立していた。
しかも、大戦後の世界の関心は東洋に移った。
当然 日本と中華民国の問題が、その後の国際問題の中心にならざるを得ない。
これに備えて、米国は大正八年 ( 一九一九 ) ハワイに強力な八八艦隊を配備し、
英国はシンガポール軍港を強化している。
翌九年十月ごろ、米国海軍のホープと折紙をつけられた ヤーネル、パイ、フロスト という三人の将校によって、
対日渡洋作戦の教範が作製された。 ( 高木惣吉著 『 私観太平洋戦争 』 P六五 )
わが海軍でも有力な艦隊----八八艦隊の整備は明治以来の夢であった。
いく度かの挫折をくりかえした後、
大正九年七月 原敬内閣の下で海相加藤友三郎の努力で議会を通過し、
七年後の大正十六年に完成する運びとなった。
こうして日、英、米 三大国の間に激しい建艦競争が演じられることになったが、
長い間の大戦を戦いぬいた各国にとって、過大な軍艦費の捻出は大変な苦痛であった。
こうした世界の大勢をたくみにとらえて開かれたのが、
大正十年 ( 一九二一 ) の ワシントン海軍軍縮会議である。
この会議の結果、
主力艦の保有について米国の主張する五、五、三 の比率を、
わが国も承認せざるを得なくなった。
英米の一〇に対して、わが国はその六割という劣勢である。
これに対し海軍の一部には強い反対もあったが、
海軍大臣加藤友三郎の威望で、これらの反対論者を沈黙させた。
加藤は資源の上からも、経済的な立場からも、米国に依存している日本にとって
強い海軍は必要だが、絶対に米国と戦ってはならない
と広い視野にたった説得で、海軍部内を納得させた。
さらに米国は軍備縮小と東洋問題は不可分であるとして、日本と中華民国の問題を議題とした。
その結果、米国のかねての持論どおりに日英同盟を破棄して、代りに日、英、米、仏の四ヶ国条約を締結し、
中華民国の主権尊重と門戸開放、機会均等を盛りこんだ九ヶ国条約の調印にも成功した。
この結果、わが国の大陸発展政策は出鼻をくじかれて後退を余儀なくされ、
米国は思い通りに日本への捲き返し政策は功を奏した。
さらに昭和二年 ( 一九二七 ) これも米国の首唱で、ジュネーブ会議を開き補助艦制限問題を討議したが、
英米の意見の食い違いから、この会議は不成立に終った。

昭和四年 ( 一九二九 ) 三月、米国大統領に就任したフーバーが、
新たに英国首相となったマクドナルドに呼びかけ、
両者合意の上でロンドン軍縮会議を日本に提案してきた。
その年 七月 内閣を組織した民政党の浜口雄幸は、
その政策の一に軍備縮小と緊縮財政をかかげていただけに、会議の開催には同感である旨を回答した。
首席全権に前首相若槻礼次郎、全権大使に海相財部彪たけし
イギリス大使 松平恒雄、ベルギー大使 永井末三らが選任され、
昭和五年一月 英京ロンドンで補助艦制限会議が開かれることになった。
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ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
   
左から
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥

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わが国では、
この会議はワシントン条約で決定した国防上の不利を是正すべき機会であるというので
外務、大蔵、陸海軍の当局者が協議し、
財政と国防の両面から
一、大型巡洋艦は対米七割
一、潜水艦は現有量を保持する
一、総括的に対米比率七割
の 三大原則を決定した。
しかし、会議は初めから難航した。
英米のニ国はすでに了解ずみであったから問題はない。
中心は日本対米国の折衝であった。

さまざまな曲折を経て、松平恒雄と米国のリードの間で会議が重ねられ、
三月十二日 総括的な比率を対米六割九分七厘五毛、対英六割七分九厘の日米妥協案に合意した。
三月十五日 請訓電に接した政府と海軍では、この妥協案をめぐって検討を重ねた。
海軍大臣不在のため、その職務は浜口首相が兼任しており、次官は海軍中将山梨勝之進であった。
内閣はもちろん賛成で、海軍省の関係者はこの妥協案み止むを得ないものとして賛意を表したが、
軍令部は猛烈に反対した。
軍令部長は海軍大将 加藤寛治、次長は海軍中将 末次信正であった。
「 加藤は直情径行型の熱血漢で、末次は機略に長じた策謀家であった 」 ・・( 朝日新聞社刊 『 太平洋戦争への道 』 第一巻 P一一 )
と 評されているから、末次が陰で策略をめぐらしていたかも知れないが、
この日米妥協案をめぐって空前の紛糾が渦巻き、昭和動乱史の糸口になるのである。
政府と軍令部の紛争は、結局、前海相の岡田啓介のとりなしで
四月一日 政府は交渉妥協の回訓を発するが、問題はそれで終らなかった。
この頃から 「 統帥権干犯 」 という聞きなれぬ言葉で、各右翼団体が政府を攻撃するようになった。
政党政治家である首相浜口雄幸が軍令部長の許諾を得ないで、軍縮条約に調印するよう 回訓を発したことは、
天皇大権の一つである統帥権を犯したというのである。
このため浜口は刺客に襲われて重傷を負い、それがもとで翌六年八月 ついに病歿する。


須山幸雄 著 ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


統帥權と帷幄上奏

2021年10月10日 14時54分15秒 | ロンドン條約問題

統帥權と帷幄上奏
( 金子 子爵 陳述 )

統帥權と帷幄上奏
浜口首相は議会に於て
兵力量即定備兵額に付ては軍部の意見を斟酌しんしゃくして
政府に於て之を決定したり
と 答弁したり 
其論拠とする所は
或る学者が当時頻りに昌道する所説
即ち
憲法第十一條は天皇は大元帥として陸海の軍を統帥する
ものにして
同第十二條は天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む
と あれども
是は国務にして政府に於て定むべきもの
との説に左右せられたるが如し
是れ全く憲法の精神を誤解したるより生じたる議論なり
 草案
今 玆に明治二十一年憲法制定当時の事情と記録に依り之を説明せん
憲法の原案には
第十二條  天皇は陸海軍を統帥す
                陸海軍の編制は勅令を以て之を定む
とありたるが
同二十一年六月二十二日の枢密院の御前会議に於て
大山陸軍大臣発議し 山形内務大臣賛成し
「 勅令 」 を修正して 「 勅裁 」 とする動議を提出せられたり
其理由は
旧来陸海軍の編成に関しては
勅裁を以て定めらるるものと
勅令を以て定めらるるもの
との二種あり故に
若し一概に勅令を以て定むるものとすれば彼是扞挌して 現行の取扱上に意外の変更を来すべしと
尚ほ其旨趣を敷衍すれば勅令は内閣に於て自由に之を決定することを得るものなれども
陸海軍の編制に至りては天皇の大権に属し 帷幄上奏案の親裁に依り定むべきものなり
決して普通の勅令の如く政府に於て自由に決定すること能はざるものなり
加之当時井上書記官長が本條起草の旨趣を説明したる所に依れば
第十二條は第一項第二項に分割したれども均しく天皇の大権に属するものなりと
而して此修正案は可決せられて憲法全体と共に議定せられたり
然れども国家の大典を鄭重にする為め 更に内閣の再調査に付せられ
黒田総理大臣は勅令を奉して已むを得ざる修正を加へ
上奏裁可を得て同二十二年一月十六日 再び枢密院の審査会議を開かれ
陛下臨御ありて伊藤議長は左の修正案を朗読す
第十一條    天皇は陸海軍を統帥す
第十二條    天皇は陸海軍の編制を定む
此の二條は前の第十二條
を別条に分割して
「 陸海軍の編制は勅裁を以て之を定む 」
とありしを
「 天皇は陸海軍の編制
を定む 」
と 修正して陸海軍の編制に関する天皇の大権を明確に列記したるものなり
然れども其旨趣に於ては少しも差異軽重あることなし
況んや 陸海軍の編制に付ては
当初より政府に於て決定するが如き意味は毫も論及せられたることなし
此会議に於て内閣より提出したる修正案は異議なく決定せられたれども
伊東議長は尚ほ深思熟考し 同二十二年一月二十九日 更に会議を開き左の宣言をなしたり
憲法再度の修正案は過日既に議決を経たけれども 未だ上奏せず
よく憲法を制定するは国家の為に容易ならざる大事たり
最も慎重にせざるべからず 則ち既に再応の審議を経て決定したる案を取て之を洋文に翻訳し
又 内見を許されたる法律専門家の学者にも示して 更に研究を尽したるに尚ほ不備の点あることを発見したり
今若し単に会議の式に拘泥して之を不問に置かば後日に向つて勅定の憲法に瑕瑾かきんを胎するものなり
依て重て修正の案を提出す
憲法に一たび発布せられたる上は固より多少の議論は免れざるべし
唯不用意にして欠点を胎すが如きは慎て 之を避けざるべからず
憲法は他の法律と同じからず
一国の表面に顕はるる所にして 最も学者の論議を容れ易し
其学説は反射して国民の上に大なる影響を及ぼすべく戦々兢々たらざるべからず
即ち玆に再議を煩わずらはさんとする所以にして 又憲法制定の事を鄭重にする所以なり
よりて再議の諸修正案を可決したる後 議長は左の修正案を朗読せり

第十二條  天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む
議長其理由を説明して曰く
常備兵額は編制中に包含せざるが為め之を明記して後日の争議を絶つの意なり
現に英国の如きは其の兵額を毎年議するの例なり
本邦に於ては之を天皇の大権に帰して国会に其権を与へざるの意なり
故に明に之を本条に示す
仍て本條は異議なく可決せられたり
是に依て之を見れば日本憲法は
陸海軍の編制及び常備兵額 即ち兵力量の決定は
明かに天皇の大権に属して
政府に於て決定するものにあらざることを確定せり
是れ神武天皇以来の国体にして万世に渉り変換せらるべきものにあらざるなり
然るに源頼朝が幕府を鎌倉に創設して兵馬の権を占有せし以来
7百年間天皇の大権は幕府に移りて徳川氏の末期に至る
是れ勤皇の公卿諸侯士民が王政復古を絶叫し終に明治の維新に於て日本の国体を恢復し
天皇の大権を再び皇室に帰せしめ
次て明治二十二年二月十一日の紀元節に憲法発布の聖代を見るに至りたり
是を以て我帝国の憲法は
彼の欧州君主国に於て人民が君主に迫りて憲法を制定せしめたるものと同一に論ずべきものにあらざるなり
余が明治二十三年官命を奉じ 欧米立憲国の制度を視察したる時
英国オックスフォード大学に於て憲法学の泰斗たいとダイセー、アンソンの両教授と会合し
日本憲法を論議したる時 彼両人は第十一條 第十二條の如き規定は日本の如き歴史ある国に於て
こう斯く帝王の兵馬の大権を完全に確定することを得たるなりとて賞讃したり
英国オックスフォード大学憲法教授 「 ダイセー 」 の意見
君主政体を永く維持せんと欲せば 帝王の大権をして強大ならしめざるを得ず
同大学憲法教授 「 アンソン 」 の意見
日本国憲法の精神は天皇の大権をして悉く天皇に帰せしめ 君主をして万機を統宰せしむるに在り
是れ独逸 英国の憲法の精神も亦 此の主義より外ならざるなり
さて 陸海軍に関する天皇の大権は玆其原則確定し
其実施遂行の機関として参謀本部、海軍軍令部、軍事参議院制定せられたり
今其規定に依れば参謀本部は国防及用兵の事を掌り
参謀総長は天皇に直隷して帷幄の軍務に参画し 国防及用兵に関する計画を掌る
又 軍令部は国防及用兵の事を掌り
軍令部長は天皇に直隷して帷幄機務に参ず
又 軍事参議院は帷幄の下に在りて 重要軍務の諮問に応ずとあり
是に依て 之を見れば
国防及用兵の軍務は天皇の直轄する所にして 国務と分割画定せられたり
尚ほ之を詳かに説明すれば
天皇の大権の下に国家重要の機関二つあり
一つは 国務輔弼の内閣にして
他の一つは 国防用兵を掌る参謀本部、海軍軍令部なり
此の二つの機関が両立対峙したる結果、
或は軍部は国防及用兵の事を計画し 帷幄上奏に依り親裁を経たる後
之を内閣総理大臣に移牒し 其遂行を要求する場合ありて
内閣と衝突し終に内閣と軍部との確執を惹起するやも計り難し
是を以て海軍大臣武官制度を設け 軍人たる大臣は常に参謀総長 軍令部長と強調し
軍事の機務に付ては意見の一致を得て帷幄上奏をなす慣例を実行し来りたり
是れ文武のニ機関が分立対峙したるにも係らず 円満協調して軍務を遂行することは
泰西立憲君主国に見ることは能はざる良慣例なり
今 其例証は数多くあれども 尤も重要なるものを挙ぐれば

明治四十年二月一日 山県元帥の伏奏により
参謀総長 軍令部長が国防方針、所要兵力の件を策案して上奏し
同時に
「 国防方針は政策に関係あるを以て総理大臣に御下問審議せしめられ
尚ほ所要兵力の件を之を閲覧せしめられ度 」
旨を上奏したり依て
西園寺総理大臣は聖旨を奉し 審議して
国防の完成は国家必要の事なれば財源に鑒かんがみて 之が遂行に努めんと覆奏したり
於是 陛下は山県、大山、野津、伊藤の元帥に御諮詢しじゅんありて
其奉答の後 親裁あらせられ
侍従武官長を以て其旨を総長及部長 竝に 陸海軍大臣に伝達せしめられたり

又 大正七年五月国防方針補修、国防に要する兵力改定に関する件は参謀総長 及 軍令部長に於て策定し
陸海軍大臣と協議し 陸海軍の元帥に内示して総長 及 部長より上奏し
且つ口頭を以て
「 帝国の国防方針、補修は
政策に密接の関係を有するを以て
内閣総理大臣に御下問ありて審議せしめられ度
尚ほ 国防に要する兵力は総理大臣に閲覧せしめられ度 」
と 上奏したり
依て寺内総理大臣は聖旨を奉し 審議して覆奏す
是 陛下は元帥府に御諮問あり
其覆奏の後 総長及部長を召し裁可あらせられて
其旨を総理大臣に御沙汰あり
又 陸海軍大臣に伝達せしめられたり

又 大正十一年十二月 国防方針、国防に要する兵力及用兵綱領に関する改定の件は
参謀総長及軍令部長に於て策案し 陸海軍大臣と協議し 陸海軍の元帥に内示して
総長及軍令部長より上奏し 
且つ
「 元帥府に御諮問、国防方針は内閣総理大臣に御下問、
審議せしめられ、兵力改定は総理大臣に閲覧せしめられ度 」
と 上奏したり
於是 陛下は元帥府に御諮問ありて其覆奏の後 加藤総理大臣 ( 友三郎 ) に 御下問あり
又 閲覧せしめらる
而して総理大臣覆奏の後 総長及部長を召して裁可あらせられ
其旨を総理大臣に御沙汰あり
又 総長及部長より 陸海軍大臣に移牒す

是に依て之を見れば
国防及兵力量に関する件は参謀総長及軍令部長に於て策案し
帷幄上奏に依り親裁を仰ぐを常例とす
然れども其政策に関するものは総長及部長の上奏により 総理大臣に御下問 又は閲覧を命ぜられ
其覆奏ありたる後 陛下に於て親裁あらせらるること数十年来の慣例にして
未だ曾て政府に於て兵力量を決定したることなく
若し之れありとせば 憲法の精神に背き 又 天皇の大権を干犯するものと断定せざるを得ざるなり

是れ明治二十三年の憲法実施以来の慣例にして
内閣と軍部の間に於て未だ曾て扞挌衝突したることなかりしが
偶々今年の特別議会に於て浜口総理大臣が議員の質問に倫敦条約に調印したる兵力量は
「 軍部の意見を斟酌しんしゃくし 政府に於て決定したり 」
と 答弁したることにより 端なく議論喧囂、終に天皇大権の干犯問題を惹起するに至りたり
是れ全く 浜口総理大臣が憲法制定当時の事実と憲法の精神を知らざるの致す所なり
然るに其後 六月に至り海軍の参議官会議に於て
「 海軍兵力に関する事項は従来の慣行に依り 之を処理すべく
此の場合に於ては海軍大臣 軍令部長 間に意見一致しあるべきものとす 」
と決議し 上奏裁可を得て海軍大臣より 内閣総理大臣に通知したり
於是 浜口総理大臣は議会に於ける態度 及 答弁を一変し 枢密院に於て委員の質問に対し
「 兵力量の決定に付ては軍令部長の同意を得たり 」
と 強弁して 参議官会議の決定に齟齬せざる様努めたり
然るに意見の斟酌と同意とは其意味に於て大なる差異あることを質問せられたるに対しては
不得要領の答弁をなし
又 然らば何が故に議会に於て斟酌と云はず 軍令部長の同意を得たりと答弁せざるかと詰問せらるれば
同意を得たりと答弁せば軍機に関するが故に之を避けたり と曖昧なる答弁をなしたり
あわし 浜口首相が議会と枢密院との答弁に於て善後矛盾したることは何人も疑はざる所にして
是れ 全く浜口首相が大権干犯の罪を惧おそれたるに依るならん
今 仮りに 軍令部長の同意を得たりとしても政府は兵力量を決定する機能なきことは
憲法第十二條 及 軍令部条例の正文に明記せられたり
而して 其規定 及 従来の慣例に依れば
兵力量に関する件は部長の帷幄上奏に依り
陛下の御親裁ありたる後
内閣総理大臣に御沙汰ありて
政府に於て決定すべきものにあらざるなり

昭和五年九月十七日 葉山に於て
金子堅太郎識

現代史資料 5  国家主義運動 2  から

参考資料

大日本帝国憲法

1~8条                             6~10条                           11~18条

19~26条                         27~32条                          33~40条


鈴木侍從長の帷幄上奏阻止

2021年10月01日 18時31分48秒 | ロンドン條約問題


 
鈴木貫太郎           加藤寛治

昭和四年一月
海軍軍令部長鈴木貫太郎大将は侍従長となり天皇の側近に奉任することになった。
翌 昭和五年浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約にからんで、
政府と統帥がその兵力量について対立紛糾したとき、
浜口首相は全権団よりの請訓案をのんで回訓を発しようとし、
天皇に上奏のため拝謁を願い出たのに対し、
加藤軍令部長はこれが反対上奏を行うために、同じように拝謁を願い出た。
ところが鈴木侍従長は
浜口首相の拝謁方を取り計らい 加藤軍令部長の拝謁方はこれを阻止した。
これがため鈴木侍従長の風当りはつよく、
彼は統帥権を干犯したというのでごうごうたる非難にさらされた。
これが彼がニ・ニ六に斬奸に遭う主たる原因であった。
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ロンドン軍縮条約
     
左から
ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥

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民間団体の反対運動
ロンドン条約紛糾のおり、
軍事参議官として政府と統帥部との間に介在して
条約取りまとめに奔走した岡田海軍大将の回顧録によると、
「 ---十時頃 ( 筆者註、四月一日 ) になって加藤から
『 きょう上奏のため拝謁を願い出ているが 側近のものに阻止されそうだから、
侍従長からその辺の消息を聞いてみてくれ 』
と わたしにいってきた。
侍従長の官邸へ行って聞いてみると、
『 今月は御日程がすでにいっぱいだから
たぶんむつかしいかろうと思うが上奏を阻止するようなことはしない 』
といっているので、わたしも安心してそのことを加藤に伝えておいた 」
とある。
だが、今日の日程がすでに一杯だということはどういうことか、
統帥部からの上奏ができないほどに忙しい日程であったのか、そうとも思われない。
このあたりに鈴木侍従長の心底がうかがわれるのではないか。
もちろん岡田大将にしても加藤の上奏は反対だった。
「 陛下は円満におさまるようにお望みなのだ、
上奏などをしてご心配をおかけするようなことがあっては申しわけのないことだと思った 」
・・( 『 岡田回顧録 』 )
と 書いている。
加藤の上奏は政府の上奏に対する反対上奏なのである。
政府と統帥部の紛争を天皇に持ちこむのだから恐れ多いというわけだ。
ところが鈴木侍従長の回顧録 ( 『 嵐の侍従長八年 』 ) によると、
「 ある日その条約のことについて浜口君から上奏するという申出があった。
私は早速陛下にご都合を伺い明日何時という御指定があった。
そこへ軍令部長からも何か上奏をお願いするということを、武官長の方にいってきた。
それで先に御指定になった総理大臣の拝謁の後に軍令部長の上奏のことを御指定になった 」
とある。
ここに 「 ある日 」 とは三月三十一日のことである。
浜口の上奏は四月一日に指定になったが、加藤の上奏の指定はそのあとになったというのである。
ところが鈴木の右の回想によると、
三月三十日に山梨勝之海軍次官が侍従長官邸に来訪して、
ロンドン条約にからむ紛糾と混乱を説明し、加藤軍令部長が反対上奏をするらしいと伝え、
翌三十一日になると案の定どちらも上奏を願い出てきた。
「 明日 ( 筆者註、四月一日 ) 君は上奏するということだが、一方では総理からも上奏する。
噂に聞くと君は反対上奏をするということだが、そういうことがあるのか、
と聞くと、加藤は実はその通りだと答えた 」
そこで鈴木は、
「 それは変ではないか、
兵力量の事で軍令部長と総理が違ったことを上奏するのは私には判らない。

兵力量の決定は軍令部長の任務じゃないか、
軍令部長がいかんというたら総理はそれに従わねばならぬ。

自分で決めた兵力量を総理に上奏さしておき、
それをまたいけませんと上奏するのは矛盾のように考えるが、

君はどう思うか。
総理が軍令部長の決めたことを上奏し
軍令部長が反対上奏をしたら陛下はどうなさればよいか。

この問題は上奏し放しとはいかん問題だ。
上奏からもひいて各々の責任問題が生ずる。

よくその辺を考えたらどうか 」
と 加藤に忠告した。
加藤は、
「 なるほどそうだ。よくわかった。
早速これから武官長のところに行ってお取り下げを願う 」

といってかえった、と 鈴木はかいているのである。

そして、これで加藤軍令部長の上奏は中止され、
この問題は一段落ついたのだが、
これが世間に誤伝され加藤の上奏を阻止したと宣伝され、
ことに、政友会が倒閣にこれを使い悪宣伝したので、広くこれが信ぜられている。
そして加藤もこれを訂正しようともしなかった、
とも、鈴木は回想しているのである
ともかく鈴木によれば、
自分の説得で加藤は心よく上奏を取り止めたというのであるが、
これは少々おかしい。
なぜなら、
右の鈴木と加藤との話が三月三十一日だとすると、
四月一日の十時頃に加藤が岡田に上奏が阻止されそうだが確かめてくれなどというわけがない。
すでに上奏を中止することをきめているのだから。
また、これを三十一日の午前十時頃とすれば、
その日の午後にも加藤と鈴木とが話し合ったとして、
ことは一応つじつまが合う。
しかし、また
加藤は鈴木の説得によって反対上奏は中止したが、回訓兵力量は依然不同意を固執していた。
そして六月十日
今秋の大演習の件で拝謁を願い、
大演習の上奏のあと、
「 ロンドン条約の兵力量には軍令部長は同意しない 」
旨をふくめた辞表を読み上げて骸骨を乞い奉っているのである。
( 谷口軍令部長と交代 )
ともかくもこの場合
加藤軍令部長が鈴木の説得にしたがったとしても、
天皇側近に奉仕して軍事や政治の圏外にあるべき侍従長としては、
出すぎた行動であり 軍令部長の行動を制止したことに間違いはない。
その頃の鈴木侍従長の思い上がりは相当のものであったらしく、
やはり 『 岡田回顧録 』 には、
「 五月三日お呼びによって御殿 ( 伏見宮博恭王邸 )へ行った。
鈴木侍従長のことに話が及んで、鈴木も出過ぎているとのお話なんだ。
殿下が拝謁をもとめられるため侍従長にお会いになっており、
鈴木が、
『 潜水艦は主力艦減少の今はさほど入用ではありません。
駆逐艦のほうがよろしいと思います。
兵力量はこんどのロンドン条約でさしつかえありません 』
といったのが殿下の御気にふれたらしく、
『 鈴木は軍令部長になっているもののいい方をした 』
と おっしゃる。
そのうえ拝謁に対し鈴木は
『 陛下に申し上げられるとのことですが、それはもっての外ではあります。
元帥軍事参議官会議は奏請なさっても、たぶんお許しにならぬでしょう 』
といったので、殿下は、
『 お前らが奏上するときは直立不動で申し上げるから意をつくして言上することはできない。
わたしなら雑談的にお話ができるので、十分意をつくすことも可能だ、
だからわたしが申し上げるといっているので、とりちがえては困る 』
と 鈴木をきめつけられたということをお話になった 」
とも書かれている。

鈴木侍従長の軍事や政治への干渉ともみられる行動それ自体に問題があったようで、
これが軍人や右翼に与えた刺激は大きかった。
こうして彼は君側の奸臣として暗殺者のリストにのせられていたのだ。

大谷敬二郎著  ニ・ニ六事件 から


小笠原長生『 ロンドン條約と西田税 』

2021年09月10日 05時45分21秒 | ロンドン條約問題

此度の事件に対する私の考と、
事件前後に於ける私の行動に就いて申上げます。
此度の事件の遠因は、
遠く 「 ロンドン 」 條約當時に発端するものと考へますので、
先づ 「 ロンドン 」 條約當時に於ける狀況を述べたいと思ひます。
憲兵聴取書 から

小笠原長生
「 ロンドン 」 條約に就て
當時の狀況は御承知の如く、
統帥權干犯問題を中心として非常なる紛糾を生じたのでありますが、
「 ロンドン 」 條約に就ては當時 東郷元帥も大變反對でありりまして、
若し其條約が成立するときは我國防上の重大なる欠陥を生ずるを以て、
御批准あらせられざる様との御意見でありました。
當時私は東郷元帥を輔けて、御批准あらせられざる様に色々奔走致しました。
當時、海軍大臣事務管理 浜口首相は
軍令部長の同意を得て回訓案が出た様に申して居た様でありますが、
當時の軍令部長は非常に反對でありまして、知らなかったのであります。
加藤軍令部長は此旨上奏の考へを爲して居りましたが 其機を得なかった爲、
特命檢閲に關する奏上の際 其顛末を奏上したので、
財部海軍大臣を御前に召されたと漏れ承つて居ります。
其後、財部海軍大臣が東郷元帥に報告致しました事柄に就き、
東郷元帥より私が呼ばれまして、
其際 元帥の申されますには、
財部が來た、
御上には御批准を御望み被遊たとの事であつたが、自分は左様に思はない、
元帥会議 若しくは軍事參議官會議 并に 夫々の機關を開き、
然る後 御裁斷あらせらるべきものである、
それも無いのに、御上に於て左様に思召さる様な事は無いと思ふ、
若し左様な思召されたとしても、御意見申上げるのが臣下の道である、
自分は左様な事では元帥の役目を果すことが出來ないから、闕下に骸骨を乞ひ奉る、
と 申されましたので、
私は此時から最も重大だと痛感致したので有ります。
其処で、私は閑院宮殿下に申上げ、又、上原元帥に話をして、
東郷元帥は御批准あらせられない様にしたいとの意見を有して居られるから、
元帥会議御諮詢の際は、東郷元帥の意見に賛成せらるゝ様
當時の金谷参謀總長に努力方を依頼し同意をえたのでありますが、
遂に元帥會議に御諮詢あらせられず、軍事參議官會議が開催されましたので、
私は當時統帥權干犯に對して非情に憤慨したのであります。
そして、爾來 「 ロンドン 」 條約に反對し、吾々の主張に同意し協力するものは
悉く同志として頼もしく感ずる様になつたのであります。
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昭和5年 ( 1930年 ) 浜口内閣、ロンドン軍縮条約調印
左から    加藤寛治 カトウ ヒロハル    東郷平八郎    財部 彪 タカラベ タケシ
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加ふるに當時の社會情勢は反軍思想高潮の時代でありまして、
軍部は政府、民間より非常な壓迫を受け、
軍人自らも電車の中等に於て小さくなつて居らなければならぬ情態にありましたが、
他面、政党政治の弊害は凡ゆる方面に於て惡事が行はれ、實に嘆かはしい狀態にありました。
彼の三月事件、十月事件、五 ・一五事件等は、此の環境に於て、
「 ロンドン 」 條約の締結、統帥權の干犯に源を發するものと思ひます。
當時、我々同志たる 反 「 ロンドン 」 條約主張者は、
非常なる壓迫を受けたのでありますが、

當時我々の主張に對し
北一輝、西田税等は民間に於ける諸方面の有力なる參考材料を提供して、

我々の行動を援助して呉れたのであります。
・・・中略・・・
同志の意義
私が同志と申しましたのは、所謂 反 「 ロンドン 」 條約派の謂でありまして、
海軍に於ては所謂艦隊派と稱せらて居りまする鞏硬な國體擁護論者であります。
其主なものは、
加藤寛治大將    有馬良橘大將    千坂海軍中將    南郷海軍少將
末次信正大將    大角岑生大將    山下源太郎大將    山下海軍大佐
等であります。
山下英輔大將は財部大將の従兄弟でありまして、我々とは別個の立場にあるものと考へて居ります。
そして、
西田、北 等は
我々の考へと同一な志士的な思想の持主だと考へて居りました。

 西田税
對西田税關係

西田税と初めて知りましたのは 「 ロンドン 」 條約問題の起つた時でありまして、
當時西田が私の家を訪問し、統帥權干犯問題に就て憤慨して居りました。
そして我々の統帥權擁護運動について、色々有利な參考資料を知らして呉れました。
それ以來度々私宅を訪問して、色々情勢を知らせて呉れて居つたのであります。
西田はいつも私に對し、
社會改造に 非合法手段を用ふる事の不可であること、
青年將校等が時勢に憤慨して尖鋭化するので、常に説得の役目をしていること等話をし、
曾て參謀本部で大川一派に爆弾三百發を渡しているが、
累を閑院宮殿下に及ぼす様な事があつてはならぬから、
速かに回収の方法を講ぜられたき旨申して來ましたので、
此の當時の小磯陸軍次官に話して、回収の処置を講じた事があります。
此等の言から考へて、西田は暴力には全然反對であり、
漸進的社會改造を考へて居る至誠の士であると考へて居りました。
・・・
小笠原長生
憲兵聴取書
昭和十一年四月一日
東京憲兵隊本部
福本亀治憲兵少佐

二 ・二六事件秘録 ( 二 ) から


ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』

2021年09月09日 16時12分43秒 | ロンドン條約問題

ロンドン條約問題
ロンドン軍縮條約と其影響 

ロンドン條約全權委員若槻礼次郎、財部海相等は、
我國防上最小限度に於て、
總噸数に付、對米七割、八吋砲巡洋艦に付對米七割、
潜水艦に付七万八千噸の保有を絶對必要とすると言ふ、
所謂三大原則を以て會議に臨んだ。
英米は之に反對し、會議は幾度か決裂に瀕したが、
三月十四日、若槻全權より我對米七割主張を譲歩する日米妥協案に對し、
政府の賛同を求める請訓の電報が來た。
海軍軍令部は國防上の立場より鞏硬論を主張し、
幣原外相を戴く外務省は、國際協調の立場から妥協を可として譲らなかつた。
浜口首相は遂に、三月十八日の閣議に於て妥協案の支持を決定し、回訓の電報を發し、
三大原則に反せる妥協的協定が四月二十二日成立した。
海軍軍令部は極度に憤慨した。
政府の態度を以て、國防用兵の責任者である軍令部の意見を無視し、
然かも議會に臨んでは事實を曲庇したる弁明を以て、軍部を壓迫せむとするが如きは、
軍令部の權能を計畫的に縮減せむとする意圖であるとなし、此処に統帥權干犯の論が起つた。
此の間、財部海相の処置打倒を欠き、事情益々重大化した。
其れはロンドンから政府へ請訓の電報を打つた直後、海相が軍令部の反對を慮つて、
秘かに自分は會議の決裂を辭する者ではないとの電報を打つたにも拘らず、
他方外務方面へは
「 請訓の程度では軍令部は恐らく鞏硬なる反對を唱えるだらうから
出來るなら案の内容を軍令部に提示することなく適當に糊塗せられ度き 」
旨を打電して居る事實が暴露された事である ( 東京日日 同年五月九日 ) 。
財部海相は軍部の憤慨を苦慮し、
歸途ハルピンに於て
「 議會の開會中にうつかりは此の政爭の渦中に飛び込めぬ 」
と 語つて數日滞在した。
軍令部は政府に對し、統帥權の獨立を將來に保證せよと迫ると共に、
軍事參議官會議の召集を要求した。
五月二十九日
海相官邸に於て同會議が開かれ、
財部海相と加藤寛治軍令部長とは正面衝突をなし、
三時間半に亙る討論が行はれたと報道されている。
六月十日
加藤軍令部長は參内し

「 是の如き兵力量を以て完全なる國防計畫を確立する事には確信が持てぬから職責上辭職したき 」
旨 ( 東京日日 ) を理由として骸骨を乞ひ奉つた。
翌日御聽許に相成り、谷口尚眞大將が代つて任命された。
七月二十三日 東郷元帥は軍事參議官の可決した奉答文を捧呈した。
七月二十四日、樞密院へロンドン條約は御諮詢となり、豫想外の波瀾を起し、
九月十六日 可決せられた。
以上は当時の表面的表れであるが、
其の間 海軍部内のみならず陸軍部内 民間側改造運動者を刺戟した事は甚だしく、
それ等の往復し活躍した事は、眞に目覺しいものがあつた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
左から
ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
民間團體の反對運動
當時民間側に於ける革新陣営は、從來の諸團體の外、
最初の革新政党である所の
日本國民党
愛國勤労党
が 結成せられて居た。

日本國民党は、昭和四年五月 信州松本市に於て、
八幡博堂、鈴木善一 等を中心として結成せられた信州國民党が次第に拡大し、
同年十一月二十六日、
北一輝系の寺田稲次郎、西田税
 及 農本主義の長野朗、津田光造 等の賛同參加を得て成立したものである。
然して後に浪人系の黒竜會其他と合體し、大日本生産党と發展した。

日本國民党に於ては昭和五年九月十日 「 亡國的海軍條約を葬れ 」 と題する檄文を作成し、
樞密顧問官、官界政界の名士、恢弘會、洋洋會員等に配布し、
又 同年 ( 昭和五年 ) 九月十九日附
「 祝盃而して地獄 」 と題し、政府が牧野内府 鈴木侍從長等と通謀し、
樞府に對する策謀を爲したる事を難詰したる檄文、
同月二十九日附
「 軍縮意圖の自己暴露 」 と題した米國上院に於ける海軍軍縮問題の討論審議事項を記載したる文章、
同年 ( 昭和五年 ) 十月十五日附 「 樞府及軍部諸公に与ふる公開狀 」 と題した文章を作成し、
関係各方面に發送した外、同年 ( 昭和五年 ) 九月九日附を以てロンドン條約に關し、
最終的決定的行動に入るべく決死隊組織を爲し、之が動員の指令を下したと宣傳した。
血盟団員
小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、川崎長光は
同党鈴木善一の勧誘に應じ、決死隊員 として當時上京したのである。
又 學生團體にあつてもこれ等の氣運に刺戟され、
學生興国聯盟の中心人物、
加藤春海 ( 帝大 ) 澁川善助、藤村又彦 ( 明大 ) 川俣孔義、平田九郎 ( 拓大 ) 等は反對運動に奔走した。

ロンドン條約問題は
大陸發展、國内改造を目指す革新運動の流れを阻止せんとする
國際協調、國内現狀維持の立場にある政党、財閥 及之と結ぶ特權階級の一大岩石であつた。
幾谷々から流れて来た渓流がこの大岩石の前に落合ひ、
大きな流れとなつてこの巨岩を躍り越えて進んだのであつた。

浜口首相狙撃事件
民間諸團體の表面的な運動は、大きな力で押進む流の波紋に過ぎなかつた。
又 流が岩角に突当つて飛沫を上げた様な事件も起きたのである。

佐郷屋留雄
昭和五年十一月十四日 午前八時五十五分頃
總理大臣浜口雄幸が岡山県下で擧行の陸軍大演習陪観の爲 西下すべく、
東京駅に至り乗車ホームに差
かった際、同所に於て之を待受けて居た 佐郷屋留雄 の爲め
「 モーゼル 」 式八連發拳銃を以て射撃せられ、
瀕死の重傷を負ひ、遂に翌年 ( 昭和六年 ) 八月二十六日逝去した。
佐郷屋留雄 ( 當時二十三年 ) は大陸積極政策の遂行、共産主義の排撃を綱領とし、
民間右翼團體一方の巨頭である岩田愛之助を盟主とする愛國社に身を寄せて居り、
浜口内閣の緊縮財政政策に依る社會不安を見て、同内閣の倒閣運動に加つて居たが、
一方ロンドン條約に關し 起つた軟弱外交統帥權干犯の世論に刺戟され、
又 政教社のパンフレツト 「 統帥權問題詳解 」 及び 「 賣國的回訓案の暴露 」
等を讀み、委託憤激した結果この擧に出たものである。

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部  第四章  ロンドン軍縮条約と其影響 
現代史資料4  国家主義運動1  から

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