あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一 ・ 獄中手記

2017年07月21日 12時36分14秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記

死刑の判決うけた七月五日から
同志十七名一棟の拘禁舎に集められた
刑の執行前十一日迄は吾々は大内山の御光を願った
そして必ず正義が勝つ
吾々をムザムザ殺すと云ふ様な事は 或は ないだらふと 信じようとつとめた
そして毎日猛烈な祈りをした、誰も彼も死ぬものか、

死んでたまるものか、
殺されてたまるものか
千発玉を受けても断じて死なぬ
等々と激烈な言葉によつてヒシヒシとせまる死魔に対抗した、
刑の執行迄の数日間はそれはそれは血をしぼる様な苦しいフンイキであつた
國の為どうしても吾々の正義を貫かねばならぬ
吾々が殺されると云ふことは
吾々の正義が殺されると云ふことだと
皆な沖天の憤激を以て神をシカリ 仏をうらんだのであつた


磯部淺一 
獄中手記

目次

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・ 
獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 」 
・ 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
・ 
獄中手記 (3) 磯部菱誌 七月廿五日 「 天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや 」 

・ 
獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」 
・ 獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい 
・ 獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 
・ 獄中手記 (三) の二 ・ 北、西田両氏の功績 
・ 獄中手記 (三) の三 ・ 北、西田両氏と青年将校との関係 
・ 獄中手記 (三) の四 ・ 尊皇討奸事件 (二・二六) と 北、西田両氏との関係 
・ 獄中手記 (三) の五 ・ 大臣告示、戒厳命令と北、西田氏 
・ 獄中手記 (三) の六 ・ 結言 「 軍は既定の方針によつて殺す 」

北、西田両氏を助けてあげて下さい
決してアキラメてはなりません、
私は、神仏冥々の加護が北、西田両氏の上に
としてかかってゐることを確信して居ります。
両氏を見殺しにする様な日本國でも神々でもないと信ずるのです。
この確信のもとに、いささかの意見を陳べます。
これを参考として、
皆様の御交際方面の國士有士を總動員して、
御活動の上、両氏を御助け下さることを祈ります。


河野司編 二・二六事件獄中手記遺書 / 二・二六事件 (別巻) から


獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 」

2017年07月20日 12時06分22秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
七月十二日朝
同志十五名は
従容或は 憤激或は 激怒様々な心
を もつて刑についた
余と村兄とは何の理由か全く不明のまゝ
あとに残されて十五名の次々に赴くのを
銃声によつてきゝつゝ
血涙をのまねばならぬ不幸をみた

1、
死刑の判決うけた七月五日から
同志十七名一棟の拘禁舎に集められた
刑の執行前十一日迄は吾々は大内山の御光を願った
そして必ず正義が勝つ
吾々をムザムザ殺すと云ふ様な事は 或は ないだらふと 信じようとつとめた
そして毎日猛烈な祈りをした、
誰も彼も死ぬものか、
2、
死んでたまるものか、
殺されてたまるものか
千發玉を受けても断じて死なぬ
等々と激烈な言葉によつてヒシヒシとせまる死魔に対抗した、
刑の執行迄の數日間はそれはそれは血をしぼる様な苦しいフンイキであつた
國の爲どうしても吾々の正義を貫かねばならぬ
吾々が殺されると云ふことは
吾々の正義が殺されると云ふことだと
皆な沖天の憤激を以て神をシカリ 仏をうらんだのであつた
面会に來て呉れる父母兄弟の顔を見 言葉に接する
益々生きなければならなくなつた
それは 親兄弟が大変に圧迫をされていると云ふことがわかつたからだ
國の爲にも親兄弟の為にも どうしても生きのびて 出所して 吾々の正義を明かにせねばならぬと考へ出したのだ
同志の中にはもうスッカリアキラメテ静かに死期を待ってゐる者もあつたが
余、安、香、等は断じて死なぬ 必ず勝つと云って他の同志を激励した
そして吾々に残ってゐることは祈りである
祈りによつて國を救ふことがまだ残ってゐるから
十七名の同志の心を一つにして
天地の神に祈りをしようと云って 朝 昼 晩 ひまさえあれば祈りをさゝげた
その至誠が天に通したのか十日の朝から天気がよくなつて来た
十一日も青天であつた
益益猛烈な祈りを捧げた
一方悪魔タイ散のノロヒもした
十一日の午後になつて
入浴をさせられ 新しいゴク衣を着せられいよいよ明日の死を知った
私と村兄は十一日午後
理由も云はれず他の獄舎にうつされて同志とはなれてしまつた、

十二日朝は君が代を同志がうたつた
万才をとなへた
必ず仇をとるぞと云ってはげましあつてゐた、
暑いから湯河原へ一週間程行って出直して来ようと云ふものもあつた
いやいや殺されたらすぐ 宮城にかけつけよう
陛下の御側へ集って一切の事情を明白に申上よう等云ってゐるのをきいた

最後の瞬間迄同志は元気、正義、頑張り を貫きとほした、
看守諸君も同志の偉さ 美しさをたゝへてくれた
      ○
余は神様の力を信じている
この手記が神様の力によつて正義の士の手に渡ることを信じてゐる
だから吾々が蹶起して以来
処刑される日迄の事のアラマシを思ひのまゝに記しておく
一言断っておくのは 何しろ明日銃殺されるかも知れぬ命だ
だから此の手記は順序立てゝ系統をつけて記するわけにゆかぬ
一日一日が序論であり
結論でなければならぬはめにおかれてゐると云ふことである
読者に於て判読して下さることを願ふ

一、世間では二、二六事件と呼んでいるが これは決して吾人のつけた事件名ではない
 又 吾人が満足している名称でもない
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので
余は甚だしく二、二六の名称をいむものだ
名称から享ける印象も決してばかにならぬから
余は予審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に鞏調しておいた
 然らは余等は如何なる名称を欲するか
と 云へは義軍事件と云ふ名称を欲する
否欲するではない
事件そのものが義軍の義擧なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ
余は豫審公判に於ても常に義軍の名称を以て対した、
そもそも義軍の名称は事件發起前
二月二十二日栗原宅に於て同志の間の話題にのぼつた事だ
私はその会合の席に於て云った
「 吾人は維新の義軍であるから普通戦用語の合言葉では物足らぬ 
四十七士の山川では物足らぬ
どうしても同志のモットウを合言葉として下士官兵に迄徹底させる必要がある 」 と
そしたら村兄が尊皇絶対はどうだと云ふから
私は
「 それなら尊皇討奸にしよう そしたら尊王の為の義挙なる意味がハッキリする 」
と 云ったら一同大いにサンセイして即座に合言葉が出来た
この合言葉は事件そのものも意味すること勿論である
従って二月事件はその蹶起の真精神から云って尊王義軍事件と云ふを最も適当とする
略して義軍事件でもいゝ
おもしろい事には
二月二十七日北さんの霊感に國家正義軍云々と云ふのが現れた
私はこの電ワをきいた時は思はす
「 不思ギですね 吾々は昨日来尊王義軍と云っています
正義軍と現われましたか 不思議ですね 」
と 云って密かに自ら正義の軍 尊皇の義軍なることをほこり
神様も正義と云はれるなら何おか、はばからん
吾人は國家の義軍なりと云ふ信念が強くなつた
吾々同志が鉄の如き結束をして軍の威武にも奉勅命令にもタイ然として対し
正義大義を唱へつづけ得たのは國家の正義軍なりとの信念が強かったからだ
然るに ワケノワカラヌ憲兵や法ム官等が
二、二六事件等変てコな名をつけた事は如何にも残念だ
事件当時 義軍の将兵は尊皇討奸の合言葉を以て天下に呼号した
実に尊王討奸の語を知らぬものは
現役大将たりとも國務總理たりとも占領台上の出入は出来なかったのだ
兵卒が自動車上の将軍を剣をギして止め合言葉を要求している、
将軍、尊王討奸を知ず百方弁解すれども
兵は頑として通過を不許さる状態は実に此コカシコに現出し厳粛な場面であつた、
この如き歩哨線へ同志が行って尊王と呼ぶど兵が討奸と答へる 
そして兵が
「 大尉殿 シツカリヤリマセウ、何ツ 此処は大将でも中将でも入れるものですか 
上官が何ダ 文句を云ったら討ち殺シマス 」
等 云って堂々たる態度で
この歩哨卒等は義軍なる事を信し
國家の爲尊皇の為めなる強い固い信念にもえていた
富貴も淫する能ず威武も屈する不能ず 唯義の爲めに義を持してゆづらないのであつた、
余は日本人は弱いと思つた
特に将校、上級将校はよわいと思った
尊王義軍兵の銃剣の前にビクビクしてゐるのを見てコレデハ日本がくさる筈だと思った
こんな弱い将校上級将校だから必ず
富貴に淫し 威武に屈して 正義を守ることを忘れ不義にダラクしてしまふのだとツクツク感じた
然し日本人は正義を体感すると その日暮らしの水呑み百姓でも非常につよくなる
大義を知るとムヤミヤタラに強くなるのが日本人だと痛感した、
然り義の上に立つ者は最強也
吾々同志将兵が強かったのは義の上に立つたからだ
大義を身に体して行動したからだ
この意味から云って余は二、二六事件と云ふ名称を甚だしく忌む
吾々は二、二六と云ふ年月の為に蹶起せるには非す
大義の爲めに蹶起せるものだ
天下正論の士 宜しく解セラレヨ。

二、義軍事件を裁く鍵は大臣告示、と 戒厳軍隊に入ッタ事と 奉勅命令との 三ツで足りる

イ、奉勅命令について
( 事件を解くには第一番に奉勅命令は如何なるものであつたかを明かにせねばならぬ )

十一年三月一日
宮内省の発令で大命に抗したりとの理由により同志将校は免官になつた、
吾人は大命に抗したりや、吾人は断じて大命に抗していない
大体、命令に抗するとは命令が下達されることを前提とする
下達されない命令に抗する筈はない
奉勅命令は絶対に下達されなかつた、従って吾人は大命に抗していない
奉勅命令が下達されそうだと云ふことは二月廿八日になつて明かになつた
それで二十八日午後陸相官邸に集まった
村、香、栗等諸君はもう一度統帥系統を通して 陛下の大御心を御たづね申上げよう 
どうも奉勅命令は天皇機関説命令らしい
下つているのかどうかすこぶるあやしい
と云ふことを議したのだ
余は二十七日夜半農相官邸にとまり
場合によつては 九段坂の偕行社 軍人会館をおそつて
不純幕僚を焼き殺してやらふと考へてゐたので
相當に反對派の策動に注意していたら
清浦の参内を一木湯浅がそ止した事
林、寺内、植の三将軍が香椎を二十七日夜半訪ね
その結果 余等を彈圧する事になつた旨
を 知ったので怒り心頭に發して
戒厳司令官と一騎打のつもりで司令部へ 二十八日朝行った
所がどうしても会見させない
午前中待ったが会わせない
石原、満井に会ひ両氏より兵を引いてくれと交々たのまれ
両氏共声涙共に発して余を説いた
特に石氏は戒厳司令官は
奉勅命令を実施せぬわけにはゆかぬと云ふ断乎たる決心だから兵を引いてくれ
男と男の腹ではないかと云って
涙して余の手を握ってたのまれた
余は
「 それは何とも云へぬ 同志の軍は余が指キ官にはあらず
然し余は余に出来るだけの努力はする
唯余個人は断じて引かぬ 一人になりても賊をたほす 」
と 云ひて辞し 
陸相官邸に来りて見れば
前記三氏 ( 栗、村、香 ) 等は 鈴木、山下、にとかれている
余は此処にて
斷じて引いてはいけないことを提唱した、
それで前記の栗君の も一度大御心を御伺ひしたいといふ意見が出たのだ
若し陛下が死せよと云はれるなら自決しようと云ふ意見であつた
彼レ是れしている間に堀第一D長が来て勅命は下る状況にある
兵を引いてくれと切願した、
爲めに大体兵を引かふ 
吾人は自決しようと云ふことに定つた、
余は自決なんぞ馬鹿な事があるかと云ひて反対し
唯陛下の大御心を伺ふと云ふことはこの場の方法として可なりと云ふ意見を持した
自決ときいた清原があわてゝ安ドの所へ相談に行ったら安は非常にいかり
引かない
戦ふ、
今にも敵は攻撃して来そうになつてゐるのに引けるかと云ふて応じない
村兄、安の所へゆき敵状を見てビックリし とびかへり、
余に 磯部やらふ と云ふので余は ヤロウ と答へ 
戦闘準ビをすべく農相邸へかへる
右の様な次第なる故
遂に奉勅命令は下達されず未だに奉勅命令が如何なるものかつまびらかにしない
此くして二月廿九日朝迄吾等は頑張った
吾人があんまり頑張ったので むかふも腹を立てゝ目がくらみ 処チを失ひ
奉勅命令を下達することも忘れ 唯包囲を固くすることのみをやつたのだ
日本一の大切な勅命が行エ不明になつたのだ
戒厳司令部では下達したと云ひ 吾等は下達を受けずと云ふ故に。
二十八日夜 
安の所へ第一D参謀桜井少佐が奉勅命令を持参したるも歩哨にサエギラレて安は見ず
山本又君 少佐を安の所へ案内せんとしたるも出来ず
山本君のみは奉勅命令を見たりと云ふ
二十九日朝ラジヲにて奉勅命令の下達されたるを知りたるが最初なり、
それ迄は決して命の下達されたるを知らず

要するに吾等は
二十七日朝戒厳軍隊として守備を命ぜられたるものデアルカラ
奉勅命令を下すならば
一D長一R長を経て下すべきであるのに
ワケもワカラヌ有造無造がヤレ勅命だ
やれさがれと色々様々な事を云ふので
トウトウワケがワカラなくなつたのだ

小藤に云はすと
「 アイツ等は正規の軍隊ではない反軍だ、ダカラ命令下達も系統を経てヤル等の必要はない 」
と 云ふだらふ 否 彼は左様に云ってゐる
だが何と云ったとて駄目だ
戒厳部隊に入ってゐるのだから

奉勅命令については色々のコマカイイキサツがあると思ふが
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は斷じて抗してゐない
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ國賊云云の宣伝文は不届キ至極である
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒厳群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる、
勅命には抗してゐない
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。

以上で賊軍でないことは明々白々になつた筈だ
賊軍でないならば本来の義軍である筈ではないか

ロ、大臣告示について
( 大臣告示は蹶起後半日を経過せる二十六日午后陸相官邸に於て発表シタルモノダ )

二十六日午后 山下少将宮中より退下 官邸に来り吾等を集め大臣告示をロウ読シタ
いまソノ大意を記する
1、諸子の蹶起の眞意は國體の眞姿顯現なることを認メル
2、天聽に達した
3、國體明徴については参ギ官一同恐クにタエヌ
4、各閣僚も一層ヒキョウの誠を致す
5、コレ以上は大御心にマツ

この席上 同志は 村、香、對、磯、野中、 
軍中央部側 次官古莊、山下、鈴木、西村、満井、であつた。

この告示をきいて余は 行動を認メタルヤ否ヤ につき疑問を生じたので
山下氏に対し 
義軍の義挙を認メタルモノなりや、義軍なることを認めたるものなりや 
と質問せり
對馬君、行動を認メタルナリヤトノ質問をしたり
山下氏確答をせざりしも 
行動を認めたるものなりとの体度アリアリと見えたり、
又行動は認めずと云ふ断定は山下氏はしなかつた
この告示をきいて次官以下居並ぶ中央幕僚将校はシュウビを開いた
一同ホットした安心の態がアリアリと見えた
そこで西村大佐は直ちに警備司令部にゆき 行動部隊は現地に置く可く交渉をすることを快諾し
次官は宮中に至り 大臣にその旨を連絡することになつた、
大臣告示によりこの場に居た十数名の将校が等しく受けた感じは
ホットした安心の気と
ヨシソレデヨシ事がウマク運ブゾ
と 云った感じであつて
決して重苦しい悪感ではなかつた
又 決して後になつて云ふ如き
大臣告示によつて青年将校を説得すると云ふ様な気で山下氏は告示をロウ読せず
又 吾々同志は斷じて説得とは思はなかつた
説得と思ったらその場でケンカになつてゐる
行動を認めるのかなど変な、やさしい質問はしない
そんな事はいゝとしてあの告示の文面をみてみるかいゝ
どこに一語でも説得の文句があるか
吾々をよく云って居る所ばかりではないか
参議官一同は恐クし、各閣僚も今後ヒキョウの誠を致すと云ってゐるではないか
吾々は明かに大臣によつて認められた、
而も吾々の要求した所の行動を認めるか否かと云ふ点については
明かに行動を認めると云ふ印刷物が部隊の将校の方へ配布された、
吾人が義軍であることは真に明々白々の事実となつた、
二十六日から二十七日にかけて吾々は実にユカイであつた
戦時警備令下の軍隊に入り続いて戒厳部隊に入り
戒厳命令を受け
いよいよ吾々の尊皇討奸の義挙を認め
維新に入ることが明かになつたので皆な大いに安心をし
これからは維新戒厳軍隊の一将校として動くのだと称して
一同非常にゆかいに安心してゐた
所が大臣告示が変化した、
吾々が二十九日収容されると同時に変化し出した、
先づ最初に告示は陸軍として出したものではないと云ふことを云ひだした、
そして曰く、
あれは陸軍大臣個人として出したのだとつけ加へた、
そんな馬鹿な話があるか 大臣告示と銘打って出したものが
陸軍として出したものでないとか 川島個人のものだとか云ふ理クツがどこにあるか
予審廷でサンザン同志によつて突込まれたあげくの果て
弱って今度は大臣告示は軍事参議官の説得案だと云ひ出した、
どこ迄も逃げをはるのだ
そんな馬鹿な話しがあるか
あの文面のどこに説得の意があるか
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行動を認むとさへ記した印刷物を配布した位ひではないか
行動を認める説得と云ふものがあるか
吾人は放火殺人をしてゐるのだ
その行動を認めると云ふのだ
祖の行動を認めて尚どこを説得すると云ふのだ
行動を認めると云ふことは全部を認めると云ふことではないか
全部を認めたらどこにも説得の部分は残らぬではないか
宮中に於て行動を認めると云ふ文句の行動を眞意に訂正したと云ふのだ
ところが訂正しない前に香椎司令官は狂喜して電ワをしたと云ふ
此処か面白い所だ
即ち、最初はたしかに全参議官が行動を認めたので吾人はそれだけでいゝのだ
あとで如何に訂正しようとそんな事は問題にならん、
吾人の放火、殺人、の行動を第一番に、最初に軍の長老が認めたのだ、
吾人の行動直後に於て認めたのだ
第一印象は常に正しい
軍の長老連の第一印象は吾人の行動を正義と認めた、それだけでいゝではないか
軍事参議官が先頭第一にチュウチョせずに認めたと云ふ事実はもうどうにも動かせぬではないか
も少し突込んで云ってやらふか、
此処に絶世の美人がある
この美人に認められたらもうしめたものだと思ふ殺人犯の男が平素ねらつていた
或夜 戸を破って侵入し美人を説いてとうとうウンと云はせた
美人はその男の行動を認めた、
所があとになつて矢かましい問題になつたら
美人は色々と理由をつけてアノ時はいやだつたのだとか
何とか云ひ出したがもう追つかない  女は男の種をやどしてゐた、
これでやめておかふか、もつと云ってやらふか、後世の馬鹿にはまだ判然しないだらふ、
陸軍及陸軍大臣、及軍事参議官等が何と云ひのがれをしても駄目だ 
ちや(ん)と國賊? 反軍の種を宿しているではないか 
[ 註、吾人は反徒でも國賊でもないが若し彼等の云ふが如くならば ]・・・欄外記入
その罪の子が生れ出るのがコワイので
軍首脳部はヨツテタカツテ ダタイをしようとして色々のインチキな薬をつかつたのだ
説得案と云ふインチキ薬が奉勅命令と云ふ薬の次のダタイ薬に過ぎぬのだ
大臣告示は断じて説得案にあらず
然し軍は大臣告示を説得案にしなければ自分の身がたまらなかつた事は事実だと云へる
大臣告示は吾人の行動を認めたる告達文にして説得案にあらずと云ふことを明かにする為めに
もう一言云っておかふ、
[ 吾人の行為か若し國賊反徒の行為ならば ]・・・欄外記入
その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ
認めてはならぬものだ
吾人を打ち殺さねばならぬものだ
直ちに大臣は全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しすべきだ、
大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか
間髪を入れず討つ可きではないか
然るにかゝわらず 却って 先頭第一に行動を認めてゐるではないか
直ちに討つ可きを討たざるのみかその行動を認めたと云ふことは
吾人を説得する所か反対に吾人の行為にサンセイし、
吾人の行為をよろこんだとしか考へられないではないか、
断じて云ふ 大臣告示は説得案にあらず
大臣告示は二種ある
その一は
諸子の行動は國体ノ眞姿顯現なることを認む と云ふもの
他の一は
諸子蹶起の眞意は國體の眞姿顯現なることを認む と云ふのだ
而して行動の句を用ひたるものは最初に出来たものだ
眞意と直したのは 植田ケン吉の意見により訂正したものだ、
行動を蹶起の眞意と訂正して見た所で 「 認む 」 と 云ふことがある以上 吾人は認められたのだ
吾人の行動を認められたのだ
蹶起の眞意を認められたのだ
蹶起の眞意を認めると云ふことは直ちに行動を認めると云ふことではないか
全軍事参議官が認めたので警備司令官たる香椎は狂喜したのだ
ヨウシ来タ と思って直ちに部下に電命して大臣告示を印刷した、
香椎は正直な男だ その時の狂喜振りを告白している、
二月廿六日宮中に於て軍事参ギ官会同席上の様子をよく知っている香椎であるから
二十六日夜戦時警備令下の軍隊に何等のチュウチョなく義軍を編入したのだ
二十六日宮中於て参ギ官が吾人の行為を認めず説得すべしと云ふ意見であつたならば、
如何に香椎一人が吾人に同情してゐても決して戦時警備令下の軍隊に編入することはしない筈だ

ハ、戒厳軍隊に編入されたること
( 戒厳軍に入った事によつて、吾人は完全にその行動を認められたのだ )

二月廿七日 吾人は戒厳軍隊に編入され /・・・リンク→命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
午前中早くも第一師戒命によつて 麹町警備隊となり 小藤大佐の指揮下に入った
戒厳は 天皇の宣告されるものだ
その軍隊に編入されたと云ふことは 御上が義軍の義挙を許された
御認めになつたと云ふことだ、それは明伯だ
鈴木貞一大佐も二十七日
余に対して次の如く云った、
「 戒厳軍隊に入ったと云ふことは君等の行動を認めると云ふ最大唯一の証ではないか 」 と
所が軍の不逞幕僚は
「 戒厳軍隊に入ったのは行動を認めたから入れたのではない、
あれは謀略命令だ 即ち反軍を静まらせる為めに入れたのだ 」 と云ふのだ
行動を認めないで入れたと云ふのだ
反軍であることを知りつゝ入れたと云ふのだ 
反軍を陛下の軍隊の中に入れて警備を命ずるとはそも如何なる理由か、
又 反軍を誰が戒厳軍の中に入れたのだ
軍首脳部が入れたと云ふのか 幕僚が入れたと云ふのか 
反軍なることを知りつゝ勝手に陛下の軍隊の中に之を入れたらそれこそ
統帥権の干犯ではないか
軍首脳部軍幕僚は挙って統帥権を干犯した國賊ではないか
臣下か勝手に反軍を天皇宣告の戒厳軍の中に入れると云こと
程重大な國體問題があるか
統帥権問題があるか、
彼等は謀略命令だと云ふ、
これをきく時吾人は怒り、怒り、激怒にたえぬ
どこ迄彼等は 天皇をバカにしてゐるのだ
戒厳命令だぞ
天皇宣告の戒厳だぞ
一體命令に謀略と云ふことがあるか
若し命令に謀略があるならば軍隊は破カイスル
友軍を謀るために命令を下す
反軍は命令によつてだまし討ちをされるのだ
命令は寸分のカケヒキのない所がいゝのだ 
カケヒキがないから之が励行をドコ迄もせまる事が出来、
之れに背反した時には斷乎刑罰することも出来るので 命令は森厳峻厳だ
決してカケヒキ、謀略のある可きではない、
若し戒厳命令 統帥命令 にカケヒキがありとせば、
陛下はカケヒキある命令を下し國民をだまし討ち遊ばされる事になるのだ
軍部上下の不逞漢どもよ、汝等はどこ迄陛下をないがしろにすればいゝのだ
汝等は謀略命令でもすむだらふが陛下はどうなるのだ
汝等が謀略命令と称する時陛下はどうなるのだ
余は怒りの情を表す方法を知らぬ程に汝等を怒るものだ、
汝等が勝手な事を云ふ為めに
天皇陛下は全くの機関、否、
ロボットとしての御存在にすぎなくなつてしまつてゐるではないか。

吾人は奉勅命令に抗してはゐない
故に賊と云はゝる筈なし
吾人の行動精神は 蹶起直後 陸軍首脳部によつて認められ大臣告示を得た、
続いて戒厳軍隊に編入されて戒厳命令により警備に任じた
以上の事を考へみたならは吾人が反軍でない事は明かである 
反乱罪にとはるゝ筈はないのだ
然るに軍部は気が狂ったのか 
大臣告示は説得案と云ひ
戒厳軍隊に入れて警備命令を発し警備をさせた事は謀略だと云って
無二無三に吾々を反乱罪にかけてしまつた

次頁  獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 に 続く


獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」

2017年07月19日 12時01分28秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
三、
豫審について
入所後数日を経て直ちに豫審がはじまつた、
豫審官は決して正しい調へをしようとしなかつた、
自分の考へてゐることに 余を引き入れて
豫審調書を作成しようとした態度がありありと見えた
それで余はコレデハタマラヌと考へたので
「 一體吾々は義軍であるか否か
 即ち吾人の行爲は認められたか否かと云ふことを調査せずに
徒らに行動事實をしらべて何になるか
吾人は反軍ではない反乱罪にとはるゝ道理はないのに
反乱罪の調査ばかりすると云ふのは以ての外だ 」
との意をのべたら予審官は
「 君等の行爲は軍中央部に認められる以前に於て反乱だ 」
と 極く簡短に答へて シキリに行動事実だけを調べようとするのであつた、
[ 註 君等の行動ハ軍中央部ニ認メラルヽ前ニ於テ既ニ叛乱ダト云ケレドモ
ソレ程明瞭ナル反軍ニナゼアノ如き大臣告示ヲ出シタカ
又戒嚴軍ニ入レ警備ヲ命ジタカト云フコトハ公判ニ於テ陳述セリ]・・・欄外記入
又 余は行動事実なんか大した問題ではない
それよりも思想信念原因動キ社会状勢をよくよく調へる必要がある
と 云ふことも云ったが 豫審官はすべて聞き流してしまつた。
大急ぎで行動事実だけを調べた
余は思った、軍部にも人がある 必ず上々に処置するだらふ、
豫審の調べがズサンなのは或は不起訴にするのであるかも知れぬと考へた
それで豫審官に対してはすこぶる好感を以て對した
此の豫審官は必ず吾人の精神をわかつてくれると信じた鞏
一度信じてみると一から十迄疑ふ可き所はなくなつた、益々豫審官が立派に見えた
流石に國法を守る人には正義の士がいると云ふ鞏い信頼さへ出て来た、
その為に云ひたい事も云はずに予審を終わってしまつた
だから余の豫審調書はズサン極まるものであつた、
四月になつてから安ド、中島、トキワと共に運動入浴を許される様になつた、
安ドは馬鹿に楽観して、
四月二十九日の天長節には大詔渙發と共に大赦があつて必ず出所出来るとさへ云ってゐる
余はそれ程には思はなかつたが、マア近いうちに出られるだらふと考へた
これは後にわかつた事だが 
二月廿八日 安ドは維新大詔の草案を村上軍事課長から見せられた事実があつた、 /・・・リンク→ 維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」 
その為でもあつたらふ安ドは 天長節に出られる 
出たら幸楽で祝賀会をやると云って朗らかにしている、
四月の二十日前後に下士官が少し出所したらしかつたのを知って
益々私も天長節には出られると考へる様になつた

四月の廿四、五日頃公訴提起の通知があつてビツクリした、
不起訴になるだらふと云ふ予測がはずれ(た) ばかりでなく
あのズサンな豫審の調べで公判を開くと云ふのだからビツクリしたのだ
藤井と云ふ法ム官(裁判官)からよばれて豫審で云ひたりない所を云へと云はれたが
題目だけを云っただけで もうそれでイイと云って法ム官の方できこうとしなかつた
余は藤井にむかつて
「 一体あんなズサンな調べて公判をひらくとは不とどきだ
 しかも公判は非公開、弁ゴ人は附せず 何と云ふ暴擧だ 」
と 云ったら藤井曰く
「 豫審よりも公判が主だから公判で何も彼も云へばいゝ
裁判官たる法務官は検察官とはちがつて全然公平な立場で裁くものだ 」
と 云ふて 余をいささか安心させた
何も知らぬ余は公判でウンと戦へると考へた 
そして私かに全勝を期してユカイでたまらなかつた、
知らぬが仏だ、
公判に於てアレ程の言論封サをされることも知らずによろこんでゐるのだから。

七月十八日、
本日は十五同志の初七日なり
浴場に至り 傍なる死刑場を見て涙せり
十五士が次、次と射たれたる刑場の土は鮮血を濺ぎて眞に赤土
断腸ノ思なり
夜に入り 陰雨猛雨交々として来る、
雷電激して閃光気味悪し
遠く近く電鳴続く
鬼哭啾々タリ
村兄は讀経をす
余は 寺内、石本等不臣の徒に復讐す可くノロヒノ祈りをなす、
ノロヒなり、ノロヒなり、
 

四、公判について
有史未曾有の公判は天長節の前日 四月二十八日に開かれた
当日は大したる訊問なく氏名点呼をしたるのみであつた
事件以来満二ヶ月振りにて全同志一同に集りたるに皆元気だ、
會ふことが出來ので公判の重大事など忘れてよろこんだ、
禁をおかしてコソコソと笑ヒツヽ同志が話す様は今考へると涙なくしては見られぬ状況であつた、
ホントにウレシかつた、
親よりも兄弟よりも親愛せる同志に
二ヶ月振でシカも場所し法庭で鉄鎖につながれた身で会ったのだ
ウレシイ筈である
村、安、余、栗等はコソコソと公判の対策を打ち合せした
流石に同志はえらい 皆期せずして一致していた、
1、奉勅命令の下達サレザルコトヲ主張スルコト
 大命に抗シタルニ非ずと云ふことを第一に主張スルコト
2、大臣告示を受けたことを主張シ行動を認められたる旨を充分に陳ベルコト
3、戒嚴軍に編入し警備命令をうけて守備をした事を主張スルコト
要点は右の三条であった、

(左 に公判庭内外の警戒振りを附記す )
二十三名の同志が鉄サにつながれて
嚴重なる警戒の中を公判庭に出入りする様は何とも云へぬ気がした、
当日の警戒は十重ハタ重の厳重さで公判庭の周囲は有シ鐡条モウをハリ、
道路の要点にロクサイを設け
1g mg ( 軽機関銃、重機関銃 ) を 配チし土のうを積みてスツカリ防禦陣地をツクツテイタ、

余はこの様をみてコレデハ公判は或は変な事になるのではないか
余の餘期せる如き有利なる進展はしないのではないかと考へた
然し同志の志気にも關するので
「 アア陸軍も遂に吾等にまけたのだ  コノ警戒は吾人の勝利を意味するものだ 
 吾人は完全に勝ツ、 公判で勝利を十分の十に確定ヅケルのだ 」
と 云って平然、否 欣然としてゐた、實際ソンナ気も多分にした、
余は例の負ケヌ気を出シテ 何ニ今にみろ 軍部をデングリかへしてやるぞと意気込んだ
五月一日 第二回の公判日
先づ 公訴事実を検察官がよんだ、
後、村兄呼び出されて訊問台に立つ、
裁判官藤井法ム官が村兄に向ヒ公訴事實につき異議あらば云へと云ふ
村兄曰く
1、國權に抗しとあるが吾人は國權に抗せず
2、勅命に抗したる旨あるも勅命には抗せず等 二、三の反バクをなしたるのち、
後刻熟考の上意見を云はしてくれと申入れをなす
裁判官は一応、応諾し直ちに事実シン理に入る、
原因、動キ、思想、信念等は抜きにして事実シン理に入るのだ 暴も甚しい
余は休ケイ時間に村兄に耳うちして
「 事実の陳述をやめて原因動キをのべる事を主とされよ、
而して 彼の公判即決主義を打破せよ
公判はユツクリと充分に陳述せざれば不可である、

裁判官の云ふとほりにするとヒドイ目にアフゾ
彼等は公判を短時日にやつて少数者の極刑主義をとるのだから 吾人はソノ裏をかくを要する、
成る可く彼等のキキタガル行動事実の陳述をアトニして
原因、動キ、思想信念を永々とのべ公判日時のセン延をハカル事、
又 少数者の極刑主義をとるにちがひないから 
吾人は多数を処刑セネハナラヌ様にスルコト
ソシテ遂ニハ手ガツケラレナイ程ニ拡ゲテユクコト
コレガ爲メニハドウシテモ先ヅ第一ニ日時ノ遷延をハカラネバイケナイ
ソシテ村兄は先頭第一の訊問ダカラ敵の情況ヲモ偵察シツヽ陳述シテホシイ、
尚同志教育の必要モアルカラ成ル可くクワシク ユツクリと陳述シテホシイ
同志教育ト云フノハ國家内外の客観情勢を同志によく知らして腹ゴシラヘをさせるのだ 」
との 意をのべた
村兄 余の意見をとり陳述をス、
腹痛と称して休ケイを願ふと 裁判官は何ダカウロタへる様な様子をする、

村兄の第二回訊問の日などは
裁官タマリカネテ頻りに事実シンリに入らんとして 原因動キ等をアトマワシにさせんとす、
一般に裁官等 維新の意義も革命の哲学も知らぬ故に
コチラの陳述がワカラヌらしく小首をかたむけて不審がることシバシバデある、
余は村兄に維新の意義 革命の哲学を説けと云ひて次の意見を具申す
「 維新とは大義を明かにすることだ
日本的革命の哲学は皇權の奪取奉還である、
即ち兵馬大權が元老重臣軍閥等によつて侵されてゐるのを
大義にめざめたる文武の忠臣良ヒツが奪取奉還する事を維新と云ふのだ
政治大權が政ト財バツによつて侵されたるを
自覚國民 自主(民主)國民が奪取奉還することを維新と云ふのだ
この点を説明してやらぬと裁官は全くワカラヌラシイ 
特に 統帥権の干犯者を斬って皇権を奪取奉還せる義軍事件の中心精神を説かれよ、」 と
村兄余の意見をとり 堂々の論を吐く、
法ム官藤井の態度ヨカラズ
村兄叮重に
「 裁判官殿 大変公判を御急ぎの様ですがこの公判は國家的重大事です
コノ公判の裁き方により日本が維新にもなり 又 維新が逆転もするのです
どうぞこのことを御高察下さつて充分なる御調べをねがひます、
私共は反乱をしたのではありません、
のに 最初から反徒としての御調べでありますなら 昨日陳述した事を全部取り消します
私共は弁ゴ人も付けられておりません 又 公判は非公開です
陳述の材料を得ることも出来なければ天下の正論に訴へる事も出来ないのですから
どうぞ御願ひします 充分に陳述をさして下さい
特別弁ゴ人として陳述も自らせねばならぬ次第ですから御諒察を願ひます、
陸軍は私共を、弾圧することによつて窮地に立ちます
国家は正義派愛國者を彈圧することによつて外侮外患をまねきます、
察するに共産露國あたりは日本に対して企図して行動をはじめたのではないかと思ひます
本公判は如何なる意味から申しても眞に國家の重大事です 
軽々に片づけることは斷じて許せないことです
どうか御願ひしますから充分に陳述さして下さい
私は公判前四、五日間下痢しておりまして
身体も弱いのですから休ケイをさしていたゞかねば元気が出ず陳述も思ふ様出来ません、」
と 至誠を吐ロした嘆願する
裁判長石本は充分に陳述をさせると云ひたるも一向に訊問要領は改めてくれない
無茶苦茶な彈圧訊問だ
同志は怒り出した、
天皇の法庭はけがされた、法治国日本とはコレカ、天皇の御徳をキヅツケる奴等だ、
コの彈圧圧制は何タル暴擧ぞ、
吾々口口に怒を発した、
澁君アタリは涙して怒って
遂ひに裁判長に向って異議を申入れた、

「 裁判長殿 裁判官ハ吾々を始めから反乱罪と云ふ型の中に入れようとして
しらべて居られるがそれは何だる事ですか
そんな出タラメな事をすると云ふことは 陛下の御徳をけがすものです 」
と 云って突込んだ
所が 藤井法ム官は怒声一番
澁川御前は引込んでいろ、今はお前にキイテゐるのではない
引込んでゐろ 
と 云って澁川の言を頭から圧しようとする、
同志は歯をくいしばつて悲憤する
對馬立ちて 裁判長に發言の許可を得て
コンナ裁判は早く片ヅケて下さい
と 云ふ
安田立ちて
どうせきまつてゐる公判なんか早くヤメテ下さい
と 云ふ、
澁川又願わんとしたるも裁判長石本さへぎりて発言を許さず
余は黙して怒りを圧してゐた、
安ドも余程シャクにさわりたる様子、
休ケイ時間になつたら皆のものが一時に憤激を發した、
安ドの如きは
エエツシヤクにさわる とびついて行って斬ってやりたい、と云ふ
丹生 又憤る、
公判庭はワイワイのさわぎダ
余ハ シャクにさわつて文句が出なかった、
どうしてこれから公判に對シタライヽカ ドウシタラ同志の志を明かに出来るか
そして我等はタスカルカと云ふことを考へ出して非常にユウウツになつた、
裁官は事實シン理を急く
村、事實陳述をなす事となる
二月廿日前後より事件間の事を陳述す
要点は前記三項 ( 奉勅命令、告示、戒嚴軍編入 ) についてである
亀川宅に於て受取りたる千五百円の金及西田氏の事については意地悪く訊問する、
最後に國體観につき陳述せんとしたるに 
藤井は 「 長くかゝるか 簡單にやれ 」 等 云ひて時間を与へようとせす
村、「 時間は相當にないと云ひ切れぬ、國體観思想信念は大切だから云はしてほしい 」
と 云ひたるも遂にガエンぜず
あとから時間をあたえると云ひて 村に対する訊問を中止した、
余の計畫では村の陳述を五月一杯位ひやつてもらいたいと考へおりしに
僅か二日半十時間そこそこで終ってしまつた
村の陳述中に石本裁判長が下士官兵は同志なりや否や
同志なれは統帥權の關係から云って統帥を乱したと云ふことになるが如何との訊問をした、
村は下士官兵は全部同志なりと答へた、
又 日本改造方案は如何に考へるや 共鳴せりや否やと問ふ、
村、共鳴せり、字句には誤解され易き所あれども眞精神は正しいものなりと答へた、
村につゞいて余が訊問される事となつた、

余は初めからケンカのつもりで出た、
年齢 出生地等型の如き訊問をおわりたるのち裁判官に質問と称して
「 一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ
 吾々に対する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要点を陳べてゐない 又 事実と相違せる点も多々ある
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは乱暴ではないか
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは
吾等は三月一日発表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい
國賊であるか否かを重点としてもう一度ヨク豫審でしらべてもらひたい
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か
義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに
國賊なりとの斷定の下に、
國賊即反徒 反乱罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ 」
と 陳べた、
所が裁判官も一寸ヘドモドした様子であつたが
無礼なる藤井は
「 然らば公判を受けぬと云ふのか 受けぬならこちらで推理決定す 」 と 云ふ
コレヲキヽ 余は云ふ可きを知らない
すべてが制圧的である、
彼等の規定の方針に従へようとして訊問をする、純然たる反徒としての取り調べ振りである
余は読いて公訴事実の反バクに入る、
1、國權の發動を阻止し
 と あるか 余等は國權の發動を阻止したるに非ず
國權があまりに乱れてゐるので之れに憤慨し之れを乱し侵したものを斬ったのだ
2、奉勅命令に抗したかの文句があるが 吾人は斷じて大命に抗せず
吾人は蹶起の主旨に於てすでに陛下に引(弓)を引くものに非ず
3、大臣告示、戒嚴令 等に関する事がスコブルボンヤリと記してあるのは不審ダ
4、兵、下士官をダマシテ連れ出した様にあるが
 兵下士は同志也、ダマシテ連れ出シタルニハアラズ
維新を願ふものは将校よりも下士官兵だ、

今や革新運動の主体は下士官兵だ
5、斬殺したる人物が如何なる人物かハッキとしてゐない 
即ち陛下の大權を干犯した所の國奸を斬つたのだと云ふことが
ハツキリしてゐないので普通の殺人、放火、反乱としか見えない、

要するに公訴事實は吾人の眞精神を蹂リンしてゐて
単に行動事實のみを蝶々と述べてゐる

吾人の行為はその眞精神の中に光輝があるのだから
眞精神を抜きにした公訴事實は無価値である、

と 陳へる、

余はこの夜 藤井法ム官に喚ばれて公判ニ関シ若干ノ説明を受けた、
藤井は昼間公判庭に於て 「 公判を受けない気か 」 との暴言に対し余に了解を求めた、
余は 「 アンナ公判では受けないも同様でハナイカ 」 と 云ふた、
藤井は語を和らげて
「 裁判官は絶対に公平なものだ 被告と検察官との中間に立ちて公平に審判をする
ものであるのだから公判庭に於て充分に裁判官に陳述せよ
裁判長も至極公正な人格者なれば被告の志をよく了解せん 」
と 云ひて一面余をなだめんとする風であつた、
余は本事件、本公判の重大性をといて藤井等裁官の反省と奮起とを願った、
翌日より公判庭に於ける空気は多少変化した
彈圧的でなくなつたかの感を抱いた
余は事実シン理に入らんとする藤井の作戰を極力さけて 思想信念を説いた
特に力を入れたるは日本改造法案大綱の説明であつた、
「 日本改造法案は絶対正しい
日本の國體を具体化した場合には政治經済外交軍事は改造法案云へる如くなる可きであつて
國體の眞姿顯現とは実に日本改造法案の實現にあると云って過言でない
然し余は今は直ちに法案を実施しようと云ふのではない、
法案について世間に誤解され易い点 三、四を説明する
1、民主主義と云ふことについて
日本は明治以後國民の人權を認められて中世の如き奴隷國民ではなくなつた、
忠誠王侯貴族に切り棄て御免めにされた水呑ミ百姓が
今は一國の總理大臣と法庭で争へる程の國民人權を認められたのだ
この意味に於て明治以降の日本は天皇を中心とせる民主國になつたのだ
天皇を中心とせる
と云ふことに注意してもらいたい
どこ迄も天皇が中心である
北氏の云ふ所の民主とはデモクラシー民主でもなく共産民主でもない
國家社会主義でもなく講だん社会主義でもないことは
北氏自らが國體論の諸言中に所謂民主主義を痛撃してゐるのを以てもわかる
改造法案を一貫する思想は實に天皇中心主義である
明治以降の日本は天皇を政治的の中心とせる云云と云ひ
天皇大權の発動により國家改造にうつる云云、
天皇は全國に戒嚴を宣し云云 等々
すべて天皇が國民の中心であらせられる可きを鞏調している
民主と云ふことは自主と云ふこと
自覺と云ふこと
奴隷に非ざる自覚國民と云ふことである
更に語をかへて云へば立權と云ふことに過ぎぬ
明治以後の日本は天皇を政治的中心とせる立権國であると云ふ迄の事である
何故に民主云ふ字を特に北氏が用ひたかと云うと
大正年間アノ滔々タル社会主義民主主義をタタク為に
「 何にッ外國の直訳民主、社会主義か何ダ 日本はすでに明治維新以後立權國となり
天皇を中心とせる民主國になつてゐるではないか 何をアワテテ新シガルのだ 」
と 云ふ意味で
所謂 直訳民主社会主義をたゝく爲に民主と云ふ字をワザと用ひたのだ
北氏の高い心境に平素少しでもふれるとハッキリする、
北氏は非常な信仰生活をしてゐる
その信仰から日本は神國であると云ふことを口癖の様に云ふ、
この一言で充分にわかるではないか

2、天皇は国民の総代表 国家の根性 について
天皇は國民の總代表と云ふことを外國の大統領の如くに考へるのはどうかしている
法案の註の一に日本天皇は外國の如き投票当選による總代表ではない
日本はかゝる國體にもあらずと明言している
且つ國家の總代表が投票当選によるものと或る特異なる一人(日本の如き)のものと比して
日本天皇は國民の神格的信任の上に立たれる所の絶対の存在であることを云ってゐる
日本に於ては天皇か國民の總代表で誰も天皇に代ることは出来ないのだ
中世に於ては 國民の代表か徳川大君であつたり足利義満であつたりした
此の如きは絶対に日本の國體に入れないと云ふことを斷言したのだ
改造法案を讀む者がこの点をよく讀んでいないので常に変な誤解をする

3、國體に三段の進化があると云ふこと
これは云ふ迄もない
國體には三段の進化がある
軍人勅ユの前文に明かに三段の進化を詔せられている
國體とは三種神器そのもののみではない
法的には主權の所在を國體と云ふのだ
中世に於て主權の所在は武家にあつた、
軍人勅ユに 「 政治の大權も又その手に落ち 」 と 詔せられているではないか
これは明かに武門が政治大權を握り天皇は皇權を喪失しておられた事を意味するのだ

余が思想信念を述べたが 裁官の旧世紀的頭脳にはピンと来ぬらしい
藤井はシキリと事実シンリに入らんとする
余はアク迄頑張ツテ事件の原因動キ等を述べんとしたか
ふじいのシツヨウな事実シンリ追及にまけて 二日目にとうとう行動事實の陳述をするに至る
行動事実は豫審に於て云へる所と大差なきを以て小時間にておわる
余 最後に事件の重大性をのべ結論とせんとしたが裁官がえんぜずして
余の陳述は竜頭蛇尾におわる
無念のあまり獄舎にかへりて數時間もだえた、
大臣告示、奉勅命令、戒嚴令に関する事も充分に云ふことが出来ずに終った
事は同志に対してすまぬと云ふ心がムラムラと起きて残念でタマラズ
涙も出ヌ 苦シイモダエで二日バカリ食事がとれなかつた、
余についで、香田、栗、丹生、林、池田、中橋、中島、安ド、坂井、高橋、安田、トキワ、ムギヤ、
鈴木、清原、對馬、竹嶌、田中、山本、澁、今泉の順序に訊問あり
大體各人半日(二時間半)か一日足らすの陳述にて終り事実シンリのみを訊問せられた、
國體観については聞かうとはしないで
イキナリ北一輝の改造法案に共鳴せるや否やをたづね
その返答にて思想動向の全般を推理してしまつたのだ
余はコレハイケナイ事になるぞ
日本改造法案及北、西田氏になんくせをつけるつもりだと考へざるを得なかった、
熱血至誠の丈夫 澁氏の如きは
全身の赤誠をしぼりて裁官に訴へたるも 
裁官等は馬鹿にした態度さへ示し
中にはアクビをしヨソ見をなして 澁の高論大説至誠一貫の語は聞カウとはしない
特に航空兵大尉の裁官の態度最も悪し
山本又君は其の宗教信仰より國難を説いて
立正安國論を讀めと裁官に向つて叫びたるも裁官ワカラズ一笑に付し、去ツタ
對馬 國法の意義を説かんとしたるも
法ム官 國法の説明を被告よりキクの要なしと云ひて叱る、
検察官タル小男不快の法官は對馬の言葉尻をとらへて法庭を侮辱するかと叱る
余はとびついて行ってノドにくひついてやりたい憤激をおぼえた
法庭を侮辱するのは吾人に非ずして彼等ならずや
陛下の法庭に於て白昼公然と司法権のワイ曲が行はれてゐるではないか
司法大権を彼等が自ら天皇の名に於て侵してゐるではないか
彼等の態度は何ダ 
アクビをし 居ねむりをし 終始顔をいじり (顔面シンケイ痛の少佐官)
(居ねムリは肥大せる少サ裁官) 等々出タラメのかぎりをしてゐるではないか
藤井の如き 吾々をカラカウ様な言動をさへした、
坂井に対しては 斎トを四八発も射ちたるはザンコクなりと叱り
高橋に対して渡邊を十七発も射ちたる上 軍刀にて斬りたるはザンコクなりと云ひ叱り
若い純心な同志をしてイタミ入ラセ様とするのだ
公判の公正もクソもあつたものではない
裁官の訊問方法極めて冷コクなる為
鈴木、清原の両人ハ遂ヒニ同志に非ずと云ひ
同志の思想をナジリ 且 國家の現状を止むを得ざる當然として是認し 
財バツ政党等を讃えるの奇異なる陳述をした
清原の如きは磯部村中にだまされたとの意をもらし
鈴木も又 磯部にダマサレタとの意を陳べた
余も他の同志も悲憤したが 如何とも致し方がなかつた、
池田、林、トキワの如き堂々たる信念を以て軍首脳部をナジリ 國家の現状を憂ふるもありたるに
清鈴ハ正反対のことを陳へるに至った、
然し全般から見て同志は実に偉大だ  特に若い同志に偉大な人物が多い
安田の如きは熱叫 軍の態度を攻撃した彼の最後の一言
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
は 昭和維新を語る後世の徒の銘記すべき名言と云はねばならぬ
安田はサイトに第一彈をアビセ 渡邊をオソヒ 一人二敵をタホシタル勇豪の同志、
剣に於ける彼の勇は言論にも勇であつた、
余は 彼の言をきゝ 余の云ひたきことを全部云ひツクシテ呉れたるを深謝した、

全同志等シク 兵教育ニヨツテ國家改造の必要を痛感せるを陳べ  
ソノ兵下士の家庭を思ひ
窮乏國民の家庭を思ひ
國家の前途を憂ふるの情誠に痛切なるものあり
流石専横の裁官も謹聴せざるを得ざる状況があつたのはイサヽカの喜びであつた、
然シ 一人僅か二、三時間の陳述では
二月廿六日以後三、四日間の事を陳べるにヤウヤクであつて
原因動キ社会状情思想信念等は殆ドノベル事が出来なかつた
人間の生、死、を決定する重大裁判、
國家の興廃を定める重大公判 國体の擁ゴをすべき重大弁論が二、三時間でキメラレるのだ
残コクではないか
暴擧ではないか
コンナ裁判なら徳川時代の方がまだよほどましだ
法治國日本は徳川時代 否 それ以前の無法律戦國時代に逆進してしまつたのだ
同志は公判日には顔を合はして悲憤した、安政の大獄よりひどいぞ、
軍部は吾人をヤミカラヤミに葬らふとしてゐるぞ
負けてはならぬ、どうしても勝たねばならぬ
正義をとほさねばならぬと憤りを極度にあらはした、殺しはしないだらふなあ
まさか殺しわすまいと云ふ あわい安心を求めようとするのだがどうしても殺されそうだ。
同志は次第に深刻な表状をし出した。

五、求刑について
山本又、今泉を除き他は全部死刑
山本十五年、今泉七年
一同無言、
同志に話しかけられると、
何に 死はもとより平気だ と云って 強ひて笑はんとするが その顔はゆがんでゐる
こんな表情を余は生来始めて見た
余も亦歪める笑をもらした、
泣きたい様な怒りたい様な笑ひだ
自分で自分の歪んだ表情、顔面の筋肉が不自然に動くのがわかつた、イヤナ気持ダ
無念ダ
シャクニサワル 
が復讐のしようがない

論告は特に出タラ目ダ
民主革命を強行せんとしとあるに至っては一同慄然とした、
吾人の行動を民主革命と称するのだ
國体を理解し得ない維新を解し得ぬ輩がよつて、たかつて吾人に泥をなすりつけるのだ
余は思った
よろしい 貴様等がそれ程低劣な輩ならば余は民主革命でも何でもいゝ
民主革命と云ふ名称におそれはしない
たゞうらむらくは國法を守る法域の士が民主も君主も維新も革命もわからず
國體も歴史も天皇も 皇室も 國民も 國奸もわからぬ程の者であるのに
憶面もなく陛下の法庭に立ちて吾々を裁くといふことだ。
獣類が人間を裁くのだと云へば最も適切である
吾人の如き忠漢、義士、が思想も信仰もない唯暴力だけを有する野獣の群にさばかれるのだ
うらみ多き事ではないか
進化せざる時代、社会に先覚者が その犠牲となるのだ
惜しむ可しと云はずにはおれまい
このヒドイ求刑を受け(た)のに余はまだ相當の安心をもつてゐた、
安心と云ふのは求刑を極度にヒドクして
判決に於て寛大なるを示し軍部は吾人及維新國民に恩を賣らんとするのだらふ、
と云ふ観察だ
この観察は日時がたつ程正しいと思へる様になつた、
他の同志はも早死を観念してゐるのに余は独り楽観して栗あたりから
磯兄は永生きをする
殺されるのがきまつてゐるのにそんな楽観出来る様な人は
たしかに永生きをする等と云ひて冷やかされた、
栗から 磯部さんあんたは不思議な人だ
あんたに会ふと何だか死なぬ様な気がする等と云はれたこともある
余は七月下旬には出所出来る
出所したら一杯飲まう等云ひて栗、中島、をよろこばしたものだ、
軍部や元老重臣が吾々を殺さうとした所で日本には陛下がおられる
陛下は神様だ、

決して正義の士をムザムザ殺される様な事はない
又 日本は神國だ
神様が余等を守って下さる

と云ふ余の平素の信念がムクムク起って来て
決して死刑される気がしなくなつたのだ

六、判決(七月五日)
死刑十七名、
無期五名、
山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ
余は蹶起同志及全國同志に対して
スマヌと云ふ気が強く差し込んで来て食事がとれなくなつた、
特に安ドに対しては誠にすまぬ
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない、
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた為めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると
夜昼苦痛で居たゝまらなかつた
余は只管に祈りを捧げた
然し何の効顕もなく十二日朝 同志は虐殺、されたのだ


附記
1、求刑の前に証コ証人調べがあつた、
 各証人 特に川島、山下、古莊、村上各官等事件当時の態度を一変して
俄然吾々を反徒賊軍視シタ証言をしてゐる
特に川島の如きは大臣告示を自ら出しておいきながら 
あの告示は説得の案なりと称して無意義のものにしてしまつてゐる
村上の維新大詔案もウヤムヤにて そんなものではないとの 証言
山下はヌラリと逃げて知らぬ顔の半兵衛をきめこんでゐる
眞崎も相當ニズルク逃げをはつてゐる、
眞崎は吾々に対しハヂの上ヌリをスルなとさへ云ってゐる
軍部上級将校のヒ怯なるは憤激にあまりあつた、
又 戒厳司令部の機密作戦日誌には謀略の為 戒嚴軍隊に編入した旨を記してゐる、
まるでウソばかりの証言だ  ・・・ 『 二・二六事件機密作戦日誌 1 』『 二・二六事件機密作戦日誌 2 』
コレデハ吾々もたすかりツコないと全同志は考へた、

2、余は公判の陳述おわりたる六月下旬頃
荒木、眞、川島、阿部、古莊、香椎、戒嚴参謀長、山下、村上、鈴木、橋本、馬奈木、堀第一D
小藤、西村等十五を反乱幇助罪にて告発した、
コレ等十五名は余等が死刑になれば等シク刑せらる可き程の有力なる幇助をしてゐる
余が告発したる理由ハ軍閥を倒したき為メデアツタ
コノ十五名を刑スルコトになれは軍内はカナエの沸く如くなる
コレニ依ツテ軍閥は互ひに喧嘩をはじめ自ら倒れるに到る、
今の世に軍閥を倒さずに維新と云ふことはあり得ない
余は既成軍部は軍閥以外の何物でもないと信じてゐる、荒木、眞崎も南も林も軍閥だ
而して中央部の幕僚は軍閥のタマゴだ
軍隊の将校は軍閥の出店につとめる店員だ、
決して陛下の軍人ではないと確信してゐる故に、この機会に軍閥を完全に倒したかつたのだ、
三月事件は村兄に相談した上村兄より告発する
その他十月、及昭和八年十月事件等をバク露して軍閥の互戦交争を策した、
従って眞崎の口添へで森氏より受けたる一月二十八日の五百円事件も自らバクロした
コレをバクロすれば森氏にメイワクのかゝる事をしつてゐた、
森氏には余は個人的に世話になつてゐるので情に於てシノビナかつたけれど
革命に涙は禁物と云ふ眞理はすでに二月二十八日午后
陸相官邸で実感したので涙をフルツテ眞崎、森の関係をバクロした
コノ爲めに森氏眞崎は共に入所し余は両人に対し対決せねばならない羽目になつた、
眞崎とは七月十日に対決した、
眞崎は余に國士になれと云ひて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であつた、
余は國士になるを欲しない、
如何に極悪非道と思はれてもいゝから主義を貫徹したいのだ
だから眞崎の言は馬鹿らしくきこえた、
余は眞崎に云った、
大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ、
閣下はその間の事情を知ってゐる筈だから
純眞なる青年将校の爲に告示発表当時 戒嚴編入当時の眞相を明かにして下さい
これによつて同志は救はれるのです
閣下は逃げを張ってはいけない、
青年将校は閣下を唯一のたよりにしてゐるのだ
故に軍内部の事情を青年将校の爲めにバクロして下さいと願って簡短に引きあげさせられた、
豫審官? たる藤井は余の論鋒をおそれてオロオロしてゐた、
余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるゝのもムリはない
3、検察官(沢田氏、畑氏)の言動より察するに、
 余の告発したる十五名は遂次に入所せざるべからざるに到る模様なり
又 三月事件もシンリ中らしい、
參謀本部では命令には謀略はないと云ふ意見が出て来て これが爲め法務部はコマツテイルラシイ、
然り 命令には謀略なしと云ふが眞理である
コレハ面白イ事になつて来たと秘かによろこんだ
西、北氏は判決文中から民主革命を強行云云の文句がなくなつたから
或は助かるかも知れなぬが幕僚は西、北の首をねらつてゐるらしいとの事、
深痛々々

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獄中手記 (3) 磯部菱誌 七月廿五日 「 天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや 」

2017年07月18日 11時53分47秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
磯部菱誌

七月廿五日
赤誠純忠之十五士が射たれて二週目になつた
余は一日も早く十五同志の後を追はんと願っておるが
未だなかなかに刑せられそうにない
日々断腸の思ひがする
牢獄の夏は残酷である
玆数日の酷熱は恐らく死刑よりも苦痛であらふ

一、
Ⓐ  余は先日より起床後一時間 午前中一時間半 午後一時間半 夜一時間 その他
 暇ある毎に 法ケ経
一念一信に読経するは同志の志、余の志を一日も早く貫徹せんと思ふからだ
二、
余は断じて後世ゴセの安穏をいのらない
一信一念に維新を祈るのだ
余の祈りは神様から見ると少しく無理であるかもしれない
それは
「 神國をうがゝふ悪魔退散 君側の奸拂ひ給へ
牧ノ、西寺、湯浅、鈴貫、寺内、梅津、磯貝、外軍部幕僚、裁判長石本寅三裁判官一同、
検察官豫審官等を討たせ給へ
彼等の首を見る迄は一寸も退き申さぬぞ
日本の神々は正義を守る可きに何と云ふ事だ
正義を守らず 正義の士を虐殺し却つて不義を
助けるとは何たるざまぞ
菱海の云ふことをきかぬならば 必ず罰があたり申すぞ
神様ともあらふものが菱海に罰をあてられたらいゝつらのかわで御座らふ、
一時も早く菱海の申条を
きゝとどけ國奸、君側の姦等の首を見せ給へ
若しそれが出来ぬなら 相澤三郎 野中四郎殿等
十八志士の首をかへして呉れ 」
と云ふ稀代なる祈りをしてゐるのだ。
尋常人には余の祈りはおかしいだらふ、然し余は真剣なのだ
祈の最中に涙が両眼からタラタラと落ちる、
無念でたまらぬから声をはげまして神々を叱りとばしてゐるのだ。
日本國の神々ともあらふものが 此の如き余の切烈なる祈りをきゝもしないで何処へ避暑に行くつたか
どこで酒色におぼれて御座るのか一向に霊験が見えぬ
≪ 今や日本は危機だ
 日本ノ國土、人民が危機だと云ふのみでは余の云ふ日本の危機とは日本の
正義の事だ
神州天地正大の気が危キに瀕してゐると云ふのだ
日本の天地から神州の正気
が去つたら日本は亡びるのだ  神神は何をしてゐるのだ ≫・・・欄外記入
余は神様などにたのんで見た所でなかなか云ふことをきいて下さりそうにもないから
自分が神様になつて所信を貫くことにした、必ず所信を貫いてみせる、
死ぬるものか  殺されるものか、十八士を虐殺したる奴輩の首は必ずとつてみせる
Ⓑ  眞崎、荒木、阿部、川島、香椎、戒厳参謀長(安井藤治少将) 山下 古莊(幹部陸軍次官)、
 
堀 小藤 村上
 鈴木 馬奈木 西村 橋本(虎之助近衛師団長)等 十五名を告発したる理由の補足
一、余は軍首脳部のする所の義軍事件の処置を次の如く情況判断し対策を考へた
「 首脳部は少数将校の嚴刑主義をとるだらふ
之に対するに余等は首脳部の裏をかき 成る可く多数の関係者をワザと引き合ひに出して
軍首脳部をして手も足もつけられない様に事件を拡大したらいゝだらふ
又特に十月、三月事件等を全部テキ発すれば軍首脳部はその原則たる少数将校の嚴刑主義を
破られて仕方なく 維新大詔喚発 大赦奏請と云ふ方針によつて義軍事件に結末をつけるだらふ 」
右の如き余の状況判断は的中した
首脳部は先づ兵、下士官の寛刑をしようとして三、四、月頃から
豫審官 検察官をして吾々将校を誘導訊問にかけ兵、下士に罪のなき様に陳述させた、
余はコレはこまつたと思ひ  安ド 栗原に注意して
「 公判に於ては兵、下士も同罪なることを主張せねばいけない
此の際涙は禁物だ
ウカウカ涙を出していると幕僚のワナにかかるぞ
千四百名の将兵共に刑せらるる可く主張したら必ず勝てるから左様しよう 」
と云ふことを相談した
一方余は眞崎等十五名の半同志的理解者を涙をふるつて告発するの挙に出ようと考へた、
兵、下士千四百を刑し
眞、川、香椎等の軍上層部も同罪なりと云ふことになれば吾々は必ず勝てると考へた
眞崎以下十五名がヒキョウな態度をとらずに大臣告示、
戒嚴令等に関して
吾人に有利なる態度を勇敢にとつて呉れればいいが
然らざ時は吾々は非常に不利になるから
どうしても十五名をトリコにして刑ム所へ入れておかないと軍部は策謀陰謀の府だから
どこから如何なる手がまわつて彼等十五名がにげをはり吾人に不利なる態度をとるかもしれないと
心配したので告発の決心をした、一時十五名を入所させてもそれは決して悪ではない
千四百が國賊の名をとられる(ぬ)為 そして多数同志将校を救う為には余が心を鬼にして、
極悪人となつて十五先輩を入所そせる方法をとるより外に道がないのだつた。
所が十五先輩の入所前に、
しかも兵の大多数はつみを許されて渡満してしまつた後に
吾々だけきりハナサレて公判になつた
且つ公判になつておどろいた
十五先輩は云ふに云はれぬヒキョウな態度で皆尻に帆かけてにげのびて却って
吾吾の悪口を云ってゐる、
下士、兵はどんどんと転向させられてしまつてゐる、
余の策戦は全く目茶々々にやぶられてしまつてゐるのだ
そこで余は考へた  コレハボヤボヤしてゐると一たまりもなくやられるぞ
成る可く早く眞崎一人でも入所させて吾人等の先頭にたてゝ戦をせねばいけないぞと
余の云ふ戦とは、眞崎を先頭にたゝて、告示、戒厳令に関する事をたてにとり、
 告示、戒嚴令等をウヤムヤにして
吾等を彈圧せんとする軍内勢力との戰の事だ
それが為に余は眞崎、川島、香椎の入所を待つたがとうとう入所せず
却って十五同志が先に殺されてしまつた
余は眞崎、川島、香椎が入所して苦しまぎれに大臣告示と戒厳令はウソではない
インチキ物ではない
青年将校の行動を認めたのだ
と云はざるを得ない様に戰闘指導をして行つて 
吾人を弾圧せんとする勢力と合法的一大決戦を
なし 之によつて維新に進入せんとしたのだ
大体右の如き理由であるから眞崎、以下十五先輩に必ずしも悪意あるものではない
以上の理由が告発の最大なる理由だ
既述せる軍閥の交争を策するの意もたしかにあるが
 これは純呼たる革命的な意味から見たもので
あって必ずしも告発の最大理由とは云へぬ
今になつてこうへると眞崎は気の毒だ、軍内の反眞崎派は手を打ってよろこんでゐるだらふ、
余はそれがシャクにさわる
軍閥の態度がシャクにさわるのだ
余は維新を考へて眞崎等を涙をのんで告発した
然るに軍閥は維新と云ふことは少しも考へないで反眞崎なるが故によろこぶのだ
余の心とは天地の開きがある
C、
天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや  
嗚呼
秩父宮殿下は青年将校は自決するが可
最後を美しくせよと仰せられたりや
嗚呼
天下一人も吾人の志を知るものなく
吾人のいのちを尊重し且つ救助せんとしたるもののなかりしや
陛下に死諫する忠臣出でて吾人の忠義を上奏するの士はなかりしや
六十になつても七十になつても命のおしい将軍ばかりか川島腹を切らざるや
嗚呼
青年将校の精神は可なるも
行動はわるし 刑せずてはかなふまじと云ふのは荒木、眞崎も然りき、満井佐吉すら然りき、
吾人に同情し吾人に理解ある士が
最初に於て精神はよきも行動を全部認めてはいかん
一応は刑を受く可きだなど称して
一歩 否一分を譲歩したる為に今や精神もわるし行動もわるし
全部認める事は出来ずと云ふことになり千歩万里の譲歩となれり
「 絶對に我が國體に容れざる 」
と云ふ判決文を
國體不理解者 反國體者 天皇機関説的國體観信奉者等によりて奉られたる吾等は
日本人として不幸の最大なるものならずや
吾人は今や完全なる反乱者となれり國賊なれり
その初め
精神を認められ行動をも認められたる國家の尊皇義軍が
一分の譲歩否一厘の譲歩をしたる為に
遂ひに百歩千歩の敗退を見、忠臣より國賊に義軍より反徒にテン落したり
吾人に同情し吾人に理解あるの士が一分の否一厘の後押しをして呉れたら
國家は昭和十一年に國賊反徒を出さざりしものを

D、國法は無力なり  権力者の前には無力なり
吾人が最後にたのみのつなとしたる軍司法權による公正なる裁判も
あたら軍幕僚の高等政策彼等が
生きん為めのヒ密政策の爲めに
蹂リンしつくされて吾人等は十五の首をさらされたり、
今や國民は明かに知る可し
「 權力者の前には國法は無力なり、
庶民階級が権力者特權階級に向って正義を争ふ戰場は法廷には
あらざることを知れ 」
全日本の窮乏國民は一致して特權者を討て討幕を断行せよ
然れどもその戰場を法廷にもとむるなかれ
その武器を合法的弁論に求むるなかれ、
戰場は何処に
武器は如何にと云うことを思慮してあやまるなかれ、
余は行かん
全日本の窮乏國民は神に祈れ而して自ら神たれ
神となりて天命をうけよ
天命を奉じて暴動と化せ、武器は暴動なり殺人なり放火なり
戰場は金殿玉ロウの立ちならぶ特権者の住宅地なり
愛國的大日本國民は天命を奉じて道徳的大逆殺を敢行せよ
然らずんば日本は遂ひに救はれざるべし
國民よ
無力なる國法を重じ國權に從ひて何時迄いん忍する者ぞ
いん忍は正義者の道なりや否や、余は斷じて云ふ
いん忍して無法、暴慢なる國法國權に屈従するは神州正義人のなすべき所にあらず
神州神人は暴慢なる國法と國權と人と物とを討ち滅し焼きつくす爲めの天祖の使徒ならずや
何ぞいん忍ひ屈怯懦なる
愛國、忠誠、自主自覚國民は直ちに暴動の武器を以て權力者を討滅
蹶起せよ
これは忠義の最高道なり。

E、第三者の妄評を打つ、
二月事件は計畫ズサン也、実施の方法不可なり等妄評をする無礼千万者がいる
余は次の一言を以て無礼者に答へておく、
汝等シカク良好なる計畫ありしならば 何故に吾人の蹶起する以前に於て斷然決行せざりや と
又 曰く
事を過るは一、二、急進者の為なりと
汝等がそれ程急進者の事を過るを熟知しありしならば何故に決死自重を唱へざるや、
多くの汝等は急進派にも自重派にもあらざる最もインジユン怯ダなる
ホラガ峠の腰抜武士にあらずや  と

F、愛國團体は軍部を打つ事を忘れるべからず
軍部を打たざる右翼國体は右翼團体なりと雖も愛國團体にはあらず
愛國團体にして軍部を攻撃せざる團体は或は愛國ならんも維新團体にはあらず
余はつとに云へり
軍部は左幕勢力の最後の鞏固なる敵なりと、この哲理を解せず維新を云ふべからず
既成軍部は軍閥なり 軍閥なり
軍閥以外の何物にもあらず
軍閥を打たずして維新ありや
二十万の現役軍隊は断じて皇軍にあらず
數万の将校は断じて皇軍にあらず
いはんや数千の中央部軍人は断じて皇軍にあらず
彼等は皆軍閥なり軍閥の亜流なり
末流なり
支流なり
軍閥を討倒せざる維新はなし、
此の書が成る可く早く極秘裏に同志の手から手に渡りゆく事を切願する
大岸(頼好)、菅波(三郎)、山田洋(静岡) 村松憲兵(名古屋) 野北佑常 小川三郎、江藤五郎 明石寛二 市川(芳男)
松平(紹光) 柴(有時) 若松満則 竹中英雄 後藤四郎等
小笠原長生閣下 末次(信正)閣下、荒木閣下 本庄(繁)閣下 眞崎勝次閣下 小畑敏四郎閣下、柳川(平助)閣下

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磯部浅一 ・ 獄中手記 に 戻る


獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」

2017年07月17日 11時45分04秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一
獄中手記(一)
北、西田両氏の如き人を殺す様な日本には最早、少しの正義も残っておりません。
日本國に少しでも正義が存在しており、一人でも正義の士が厳存して居るならば、
必ず両氏はたすかるものと信じます。
私は日夜両氏の助かる様、精魂をつくして御祈りをしています。
必ず両氏は助かります。
どうぞ此の確信のもとに百万の御手段を御とり下さる様にねがひます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三月一日報道   湯浅倉平   寺内壽一陸相
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一体何故、北、西田両氏を殺す様な次第になつたかを探究してみませう。
寺内が重臣とケツ托して極刑方針で進んでゐるからであることは表面の現象です。
二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、
而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて
「 最後迄やれ 」 と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞とんじです。
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば、
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです。
即ち、
アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は國賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて 「 大命に抗したり 」 の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。 さァ事が面倒になつた。
今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるので どうにもかうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
①  大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
②  戒厳命令は謀略なり、
 との申合せをして、
㋑  奉勅命令は下達した と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺  大命に抗したり と云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財の責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです
この基礎作業は寺内がしたのではなくて、川島を中心とする当時の軍首脳部がしたのです。
二月事件を明かにするには、どうしても此の軍部の大インチキをバクロせねば駄目です。
「 大命に抗したり 」 「 國賊なり 」 と云ふ黒い幕で蔽はれたまま、
如何にこちらが大臣告示と戒厳命令を主張しても一切はむだです、
泥棒が忠義仁義を説く様なものです。
北、西田両氏を救ふには、此の点を充分に考へて作戰を立てねばならんと思ひます。
即ち軍部の云ふ分である所の
「 青年将校を煽動し勅命に抗せしめたるは北、西田なり 」
 に対して、こちらはアク迄も
「 奉勅命令は下達せられず、下達せざる命令に抗すると云ふ理窟なし、
 抗せざる青年将校に対し 抗したりと発表せる軍部と重臣の、陛下と國民に対する責任を問ふ 」
と攻撃してゆかねばならぬと思ひます。
「 奉勅命令に抗したりや否やと云ふ問題は、司法問題としては大した事はない、
それよりも 反乱をしたと云ふことが大事な問題だ、だから奉勅命令については、
吾々(法ム官)は力コブを入れてしらべる必要はない。
吾々の必要なのは反乱の事実だ」 と云ふのが、法務官の云ひ分でありました。
然しコレハ軍部の極めてズルイ遁辞とんじです。
奉勅命令を問題にされると、軍部はタマラない立場におかれるからです。
すべての道はローマに通ずではありませんが、すべての問題は奉勅命令のインチキから発してゐるのです。
ですから、その出発点のインチキを先ず第一に攻撃せねばなりません。
これが為には川島、香椎、山下、村上等を 俎上にのぼせねばなりません。
これを俎上にのぼすことが、寺内を危地に陥し、湯浅を落すことになるのです。
世間でも、刑務所内の同志でも、唯感情的に寺内をウランだりしてゐる風がありますが、
唯寺内だけをウランでも駄目です。
奉勅命令と大臣告示と警備命令(戒厳命令)をシッカリと認識して、
二月事件当時にさかのぼって堂々と理論的に攻撃し、
國民の正義心に訴へて軍部そのものをヤッツケる事をせねばならんのではありますまいか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
或る法ム官が私に
「 青年将校はエライ、こんな人達を殺すのは惜しい。
 実は下士官兵を罰しない事にしたので、青年将校を殺さねばならなくなった」
と もらしました。 然り然りです。
川島、眞崎、香椎、山下等を罰しない事にして北、西田を殺さんとしてゐるのですぞ。

三、四  附記しておきます
一、所謂奉勅命令はとうとう下達されませんでした。
 私は今でもその命令の内容をよく知らない位です。
日本一の大事な命令が、とうとう下達されないで 始末つたのです。
二月二十九日午后、私共が陸軍省に集まった時、
幕僚等が不遜な態度をとって国賊呼ばはりをしましたので、
たまりかねて
「 何ダッ、吾々が何時 奉勅命令に反抗したか、
 奉勅命令は下達されもしないではないか、下達されない命令に抗するも何もあるか」
と云ひましたら、
一中佐が
「 アッ それはしまつた。下達されなかつたのか。これはしたり 」
と云って色をかへたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二、無能無知なる法ム官(検察官)が吾々に対する論告の時、
 日本改造法案には皇室財産を没収するとかいてあるから國體に容れずと称し、又、
私有財産百万円限度は結局私有財産を認めない共産主義に落ちるのだと曲言しました。
私は 「 皇室財産没収ニ非ズ、下附ナリ 」 「 私有財産ハ確認セザルベカラズ 」
と著者は断言してゐる等等と云ひて、改造法案については、法ム官の不明をヒドクナジリましたが、
彼等は言を曲げて、曲げて、ヒンマゲて、西田、北両氏をオトシ入れようとしたのです。
三、法務官等は法案をソシャクする頭をもつてゐません。
 幕僚は一ガイに法案を民主主義だと云ひハルノデス。
そのクセ彼等の戰時統制経済思想は、反國體的なおそる可き思想なのです。
ですから、どうしても思想的に一大鉄槌を幕僚等に加へる必要があるのです。
四、満井中佐    求刑十年。
 大蔵大イ         同八年。
ササ木大イ       同七年。
末松大イ        同七年  (志村、杉野中尉、六年、五年)
福井幸、加藤春海、杉田氏等各々五、六年とかの事です。
菅波大尉は公判中ですが、どうもアヤシイです。
ひどい事になりはせんかと思ひます。
五、目下、眞崎御大はサキ阪? (匂坂春平)法務官(少将相当)と対戦中らしく、数日前は相当にひどく激論したらしくあります。
 眞崎の云ひ分は
『 我輩は責任なしと云はざれども、
 我輩より当時の陸軍大臣以下の当局者の責任の方を先にしらべる可きた。
大臣告示に関しては川島はじめ軍の長老たる 全軍事参議官 の責任ではないか、
寺内も当然に責任を負ふ可き也 』
と なかなかいいところを突いてゐる様です。
真崎御大があく迄 全軍事参議官の責任を主張して進めば、寺内だつてたまらなくなるのです。
もう一息です。
遺憾な事は、刑ム所内の戦は如何に有利でも、すべて暗に葬られてしまふことです。
六、眞崎御大がどこ迄も川島及全軍事参議官の責任を突いて進んでゆけば、
 川島は
「 大臣告示に於いて青年将校の精神行動を認めたのだ 」
と 云はざるを得なくなる筈です。
川島がたつたこの一言をはけば、すべては我が勝利になるのです。
寺内は川島の此の一言によつてたほれます。
何故なれば、大臣告示は青年将校を認めたものであるのに、認めたるものに非ず、
単に説得案なりとして、死刑をしてしまったのですから。
然らば川島に此の重大なる一言をはかせる為には、如何にすればよいかとの問題が残ります。
それは、
①  眞崎にアクく迄も川島の責任をとはすこと。
②  川島を告発すること ( 有力なる政治家及有力なる軍人=例へば眞崎勝治少将 )。
右の事がうまくゆけば北、西田両氏は全くの無罪になるのですがね。
七、寺内と共に湯浅 ( 当時の宮相 ) をたたかねばいけないと思ひます。
 それには次の様な方法もよいと思ひます。
宮内大臣は三月一日、青年将校を 「 大命に抗したり 」 と云ふ理由で免官にしました。
所が公判でよくしらべられた結果、「 大命に抗したのではない 」
と言ふことが明らかになつてゐるのです。
大命に抗せざるものを抗したりとして、上御一人をアザムキたる専断を攻撃すべきと思ひます。
この事が特に重要である理由は、
北、西田が青年将校を煽動して大命に抗せしめたのだと云ふのが、
敵の云ひ分であるからです。
戒厳司令部から三宅坂附近を警戒せよと命令されてゐたから、最後迄頑張ってゐたのです。
しかし最後迄、所謂奉勅命令は下達されなかったのです。
軍部の奴は自分が奉勅命令を下達しなかったことは、たなにあげて北、西田が煽動したと云ふのです。
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大臣告示               陸軍大臣より                  軍隊に関する告示                奉勅命令
…リンク→大臣告示
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八、所謂 謀略命令 について。
 軍部が青年将校の行動を認めた事は確かです。
認めたからこそ、三宅坂附近一帯の地区を警備させる戒厳命令を下したのです。
然るに奴等は、戒厳命令は青年将校の行動を認めたから下したのではない。
青年将校を静まらせる為に謀略的に命令を下したのだと云ふのです。
命令に謀略があると云ふならば、皇軍は全くみだれてしまふのです。
すべての命令がカケヒキを有してゐるならば、命令の権威はなくなり、命令に服従するものはなくなります。
これは恐るべき皇軍の破カイです。
軍を毒するは青年将校に非ずして、軍中央部の奴等ではありませんか。
しかも おそれ多くも天皇宣告の戒厳、
その戒厳の戒厳命令が
軍隊をダマス為に下されて居たと云ふことになると由々しき國体上の問題です。
即ち 陛下の命令は謀略である、國民をダマスものであると云ふことになるではありませんか。
軍中央部の國賊的幕僚共は、自分の身をのがれる為に謀略命令などと勝手なことを云って、
つみを 上陛下になすりつけてゐるではありませんか。
青年将校が統帥権干犯の賊を討つたのだと主張しました所、
奴等は統帥権は干犯サレテゐないと云ひました。
何ぞ知らんや、謀略命令と云ふことそのことが統帥権の干犯され、
みだれてゐる一つの証コではありませんか。
所謂謀略命令については統帥権問題で軍部をタタキつける事がいいと思ひます。

九、反乱罪について。
私は
「 吾人は反乱をしたのではない、
 蹶起の初めから をわり迄 義軍であつたのに反乱罪にとはれる道理なし。
義軍であることは、告示に於て認め、戒厳部隊に入れられた事によつて明かになり、
警備を命ぜられた事によつていよいよ明々白々ではないか 」
と 強弁しました。
所が法ム官の奴等は、
「 君等のシタ事は大臣告示が下る以前に於て反乱である 」
と 云ふのです。
これはおもしろいではありませんか、
私は次の様に云って笑ってやりました。
「 左様ですか、これは益々おもしろい。
 大臣告示が下達される以前に於て國賊反徒であると云ふことがそれ程明瞭であるのに、
なぜ告示を下し、警備命令を与へたのです。
國賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀総長ですか、
戒厳司令官ですか、國賊を皇軍の中に 陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯ではないか」
と、
そしたら法ム官の奴は、
「 何しろ中央部の腹がきまらんからねェ、君 」 と云ってウヤムヤに退却をしました。
この事は公判廷に於ては特に強くやりました。
所が裁判長の奴、私がチチブの宮様の事を云ふたことにカコツケて、
「 言葉がスギル 」 と云ふて叱りつけるのです。
奴等は道理に於てはグウの音も出ないのですが、権力をカサにきてムリを通すのです。

一〇、維新大詔案について
維新大詔案は二月廿八日、幸楽へ村上大佐が持参して見せました。
そもそもこの大詔案は荒木陸相当時に出来、
それを林大臣に申し渡して現在に及んだものらしくあります。
この事は眞崎大将が証言してゐます。
然るに、此の大詔案に関して村上大佐 は、維新大詔案は自分は知らない。
( 当時の軍首脳部の相談により定まつたる言ひのがれならん )
自分の知ってゐるのは軍人が政治運動に関係するのがよくないから、
大詔を仰ぎたいと思ってゐたので、
それの事を間違へたのだらうと云ふ様な、みえすいたうそを云ってゐます。
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村上啓作大佐 
…リンク→維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」 
…リンク→…リンク→大臣告示
 

・・・リンク→ あを雲の涯 (五) 安藤輝三
・・・
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一一、大臣告示について。
大臣告示が宮中に於て出来た時の情況は、
大体先般大沢先生のところへ出しておいた書きものの中にあるとほりです。
二た通りあるのですが、
「 諸子の行動は國體の眞姿顯現にあるものと認む 」 と云ふのが第一案です。
所が奴らは色々ごまかす爲に、大臣告示は三ツ出ていると云ふことを云ひ出して、
告示などは無価値なりと云ひのがれをしてゐるのです、用心々々。
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最後に申しますことは、
眞崎が不起訴になると北、西田両氏の為にはすこぶる不利です。
川島が告発され起訴されたら、両氏が無罪になる所に迄事件が発展すると云ふことです。
私は信じてゐます。 どうぞ両先生のことをたのみます。
私のヤッタ事、ヤリツツあることは、手段としては下手なことであるかもしれません、
( 眞崎告発については同志からも色々のことを云はれました、誤解もされました )
が、両氏をすくひたい一心です。
衷情御くみとり下さつて、此の文を参考にして下さい。

朝野の愛國者の方方 御願ひ申上げます。
維新の敵 軍閥を倒して下さい。
既成軍部は軍閥以外の何物でもありません。
寺内も杉山も川島も荒木もその他一切の軍人は悉く軍閥の家の徒です。
どうぞ彼等を根こそぎ倒して眞の維新を實現さして下さい。
私はどこ迄もやります。

日本には天皇陛下が居られるのでせうか。
今はおられないのでせうか。
私はこの疑問がどうしても解けません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北、西田両氏の如き真正の士と
同志青年将校の様な真個の愛国者をなぜ、

現人神であらせられる天皇陛下が御見分になることが出來ぬのでせうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陛下はなぜ
寺内の如き、湯浅の如き、鈴貫の如きをのみ
御愛しみになり、御信じになり、

塗炭に苦しむ国民と、忠諫に泣く愛國者を御いつくしみにならないのでせうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は断じて死にません。
川島と香椎と而して全軍部を國賊にするか、死せる十八同志の生命をかへしてもらふか、
二つの中一つをとらぬ内は断じて死にません。
屁古たれるものですか、どこ迄もやります。

大日本の為にどんな事があっても、
二先生と菅波三郎君を殺してはなりません。

どうぞどうぞたのみます
二先生方の為なら私はどんな事でもします。
どんなぎせいにでもなりますから、先生方をたのみます。

軍部の奴は自分が奉勅命令を下達しなかつたことはたなにあげて、北、西田が煽動したと云ふのです。

極秘    ( 用心に用心をして下さい )
千駄ヶ谷の奥さんから北昤吉先生、サツマ先生、岩田富美夫先生の御目に入る様にして下さい。
万々一ばれた時には不明の人が留守に中に部屋へ入れていたと云つて、
云ひのがれるのだよ。 ( 読後焼却 )


次頁  獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい  に続く 


獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい

2017年07月16日 11時40分48秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
獄中手記(二)


極秘 ( 用心に用心して下さい )
千駄ヶ谷の奥さん(西田税夫人)から、北昤吉先生、サツマ(薩摩雄次)先生、
岩田富美夫先生の御目に入る様にして下さい。
万々一、ばれた時には
不明の人が留守中に部屋に入れてゐたと云って云ひのがれるのだよ
(読後焼却)

北、西田両氏を助けてあげて下さい

決してアキラメてはなりません、
私は、神仏冥々の加護が北、西田両氏の上に炳あきらかとしてかかってゐることを確信して居ります。
両氏を見殺しにする様な日本國でも神々でもないと信ずるのです。
この確信のもとに、いささかの意見を陳べます。
これを参考として、
皆様の御交際方面の國士有士を總動員して、
御活動の上、両氏を御助け下さることを祈ります。
イ、
北、西田両氏は二月事件には直接の関係はちつともありません。
この事は青年将校一同も、その予審及び公判に於て極力主張しましたので、
殆んど全部の法務官が之を認めてゐるのです。
一部の法務官は北、西田の立場は最も同情すべき立場だと云って、
少なからぬ同情をさへしてゐたのです。
然るに両氏に死刑を求刑する様な事になつたのは、
軍の幕僚どもが権力のかげにかくれて、どさくさまぎれて殺してしまえと行って、横車を押してゐるからです。
或る法務官は私に、北、西田が事件に直接の関係のない事は明かだが、
軍は既定の方針にしたがって両氏を殺すのだと云ふ意をもらしました。
まるで無茶です。
神聖公平なる可き陛下の裁判権を軍がサン奪して、
軍の独断独裁によつて陛下の赤子を無実のつみで殺してしまふのです。

こんなわけですから、
何とかしてこの軍の横暴を公表バク露して、天下の正義に訴へて、
北、西田両氏を救ふ方法をとつていただきたいのです。
軍の横暴をバク露することは、今の軍部の最もいたみとする所です。
ロ、
右の言論戦と同時に、隠密に、或は公然にする所の政治的工作によつて、
上御一人の上聞に達する様に御盡力下さる事が最も肝要な事と存じます。
今となっては、上御一人に直接に御すがりするより他に道はないと思ひます。
( 既に充分に手を御つくしになつて居られる事と信じますから、くどくど敷く申上げません )
ハ、
第三に申上げることは、反問苦肉の策であるかもしれませんが、一つの方法と信じます。
それは、川島前陸相、香椎中将、(事件当時の戒厳司令官)、堀中将(事件当時の第一師団長)
山下少将(事件当時の陸軍調査部長)、村上大佐(事件当時の軍事課長)、
小藤大佐(第一聯隊長)、眞崎大将、の七氏を叛乱幇助罪で告発することです。
この告発がゆうりょくな政治家によつてなされた場合には、
寺内軍政権は非常なる動揺を生じます。
私は既に去る六月、前記の諸官及他の数氏合せて、十五名を告発して居ます。
私の告発によって、軍がどれ程窮地に立ってゐるか不明ですが、
二、三方面から、私に告発取り下げを勧告した所をみると、相当に軍はこまってゐると思ひます。
私の告発理由は同志、特に北、西田両氏を救ふにあつたのです。

多くの青年将校を、死刑にせねばならない様な羽目に落し入れたのは、
寺内は勿論ですが、筆頭に揚ぐ可き人物は、川島陸相外前記の人です。
これ等の人が軍の当局者として、
三月一日発表した所の 「 青年将校大命に抗したり 」 の 一事が、
爾後に生ずるすべての問題の解決のかぎになつてしまつたのです。
即ち、明らかに青年将校の行動を認めたる大臣告示を説得案なりと変化させ、
又 青年将校の行動を認めた上で下達した戒厳令を、
謀略命令なりと遁辞とんじを設けさせる、に至らしめたのは、
すべて川島を頭にする軍幕僚が宮内省方面と結託してなしたる所の
「 大命に抗したり 」 の 発表に因を発してゐます。
既に青年将校 大命に抗したりと云ふ発表をした以上は、
大臣告示と戒厳命令は共に、青年将校の行動を認めたるものに非ずとせねば、
軍全体が青年将校と共に國賊にならねばならぬ羽目になつてしまつたのです。
これはたまらんと気のついた軍部はアワテ、フタメイテ遁げ始めました。
川島も、荒木も、山下も香椎も堀も小藤も村上も、
アワテ切って遁げてしまつて、
つみを青年将校と改造法案と北、西田両氏になすりつけてしまつたのです。
実際、前記諸氏の証人としての証言をみますと、全くひどいですよ。
スッカリ青年将校になすりつけてゐます。
比較的硬骨な眞崎すら、弱音をはいてしまつてゐるのです。
これでは青年将校は勿論、北、西田両氏迄殺される様になると推察致しました私は、
私共の求刑前に於て川島、眞崎、香椎等の十五名を告発し、
これによつて寺内軍政権を恐喝したわけです。
寺内軍政権は、初めは眞崎等個人をにくむのに賤しいいやしい私情によつて、
勢ひ込んで眞崎を収容しましたが、
眞崎を起訴するとあまりに事の重大化するのをおそれて、今や非常に困ってゐると考へます。
眞崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将星にルイを及ぼし、
軍そのものが國賊になるので、眞崎の起訴を遷延しておいて、
その間にスッカリ罪を北、西田になすりつけてしまつて処刑し、
軍は國賊の汚名からのがれ、一切の責をまぬかれようとしてゐるのです。
軍部の腹の底は北、西田、青年将校を先づ処刑してしまつて、
誰も文句を云ふものがなくなつた時、眞崎を不起訴にし、
川島、香椎等々の将軍 否 軍全部を國賊の汚名からのがれさせようとしてゐるのです。
この軍部の裏をかいて
「 川島、香椎、堀、山下、村上等は青年将校と同罪なり、
 大臣告示及戒厳命令に関係ある全軍事参議官も亦同様ならざるべからず 」
と 攻めたて、軍部そのものを國賊にしてしまふことが絶対に必要です。
之が為に先づ、川島等を告発しそれと同時に天下の正論に訴へてゆくと、
此処に必ずや北、西田両氏を救ふ事の出来る新生面が生ずるを信じます。
国家の爲めに軍のインチキをバク露打破して、両氏を御救ひ下さい。
一寸考へると川島、山下、香椎、眞崎等を告発によつて、
結局困って来るのは寺内等現軍首脳部です。
一度び告発問題がやかましくなったら、
必ずや寺内軍政権はたほれねばならなくなると確信します。
寺内の倒れることは、湯浅等重臣の足場がぐらつく事ともなりませう。
こくはつの方法時期その後の作戦等は考究を要しませうが、
勝勢村中を証人とし、証拠書類は大臣告示、戒厳命令、奉勅命令だけで充分です。
私は今 眞崎に対し、
川島、香椎、山下、堀、小藤、村上及び事件当時の戒厳参謀長を告発せよと云ふことを、
シキリにすすめてゐるのです。
眞崎はまだ決心がつきませんが、何とかして眞崎に決心してもらいたいと努力してゐます。
私としては北、西田両氏を助ける為には、どんな事でもしますけれども、
刑ム所内でしてゐることは一向に表面化されないで、暗かに暗に葬られてしまひます。
それで、川島等の告発問題にしましても、
どうしても外部のどなたかに重複してやつてもらはねば効果がないのです。
こんなわけですから、
小生の意中を御くみとりの上、何とかして両氏を悪魔の毒牙からうばひかへしてあげて下さい。
私はこの数ヶ月、北、西田両氏初め多くの同志の事を思って毎夜苦んでゐます。
北、西田両氏さへ助かれば、少しなりとも笑って死ねるのです。
どうぞどうぞ、たのみます、たのみます。

①  一言附記しておきます事は
眞崎を不起訴にする様に運動してゐる御連中がたくさんゐる様ですが、
私はこれに対して非常に反感をもちます。
眞崎はたしかに吾々に対して同情して、好意的に努力して呉れた人です。
ですから、眞崎個人に対して感謝もしますけれども、
吾々同志が義士か國賊かと云ふ問題を決定する為には、
眞崎が義士か国賊か、川島その他首脳部の諸官が國賊か否か、
而して眞崎と如何にも関係深かかりしかを決定せねばならぬのです。
吾々が國賊ならば、眞崎と川島とその周囲の人は國賊である筈です。
彼等が法の制裁をうけないならば、吾人も當然法の制裁を受けない筈です。
二月事件に戒厳命令を発しでもなく、大臣告示を発したるにもあらざる
北、西田両氏の如きは、
當然も當然も当然すぎる程に制裁のケン外にある筈です。
吾々青年将校は北さんの戒厳命令により、
或 西田氏の大臣告示によつて行動したのではないのですぞ。
陸軍の親玉からもらつた命令によつて動作したのに、命令を発した人は罰せられずに、
命令を受けた人が殺されたり、全く命令や告示の圏外にあつた人が死刑を求刑されるのです。
こんなトンチンカンベラボウな話はありません。
どうしても話のすぢ道を通す為には、
眞崎を起訴し、川島、香椎、堀、山下、村上等が起訴され、
勅裁経て陸軍大将の裁判長を定めて黒白を明かにせねばならんのです。
而してこれをすることは、実に寺内等を窮地に追ひ込む第一彈になるのです。
然るに眞崎の不起訴を策動する人物の如きは、同志を犬死にさせたり、
見殺しにさせたりする所の不とどき至極の奴輩です。
②  大蔵大尉以下数名の同志は、
 不起訴になることにきまつてゐて、前日夕方迄は出所の準備をしてゐたのですが、
陸軍省の幕僚が横車をおしてムリヤリに起訴してしまひました。
③  香椎、川島等五名の者は、
 予審にかけることに決定してゐて、法務官は刑務所に収容する様になるだらふと云ってゐたのに、
何時の間にやらウヤムヤにしてしまつたのです。
朝野の愛國者の方々、御願ひ申上げます。
維新の敵軍閥を倒して下さい
既成軍部は軍閥以外の何物でもありません。
寺内も杉山も川島も荒木も、その他一切の軍人は悉く軍閥の家の徒です。
どうぞ彼等を根こそぎに倒して眞の維新を實現させて下さい。
私はどこ迄もやります。

次頁 獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 に続く
二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編から


獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想

2017年07月15日 11時37分44秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
一、北、西田両氏の思想

法務官が ( 新井法務官が七月十一日、安田優君に云ったのです )
「 北、西田は二月事件に直接の関係は無いのだが、
 軍は既定の方針に従つて両人を殺してしまふのだ 」

と 云ふことを申しました。
軍部が彼らの自我を通さんが為に、
ムリヤリに理窟をつけて 陛下の赤子を勝手に殺すのです。
出鱈目とも無茶とも云不言葉がありません。
軍の既定方針とは何でせうか。

かねてより軍部は、北、西田を軍の攪乱者と云ひふらし、
( 陸軍省より全軍に布告したることあり )
又両人の思想は民主主義であって國體に容れないと宣伝し
( 昭和八年十月頃、憲法司令部發行の思想イ報に於て全軍に宣伝したり )、
アリトアラユル手をつかって両氏をたたきつけて来ました。
然るに、改造運動に於ける両氏の思想的地位はローコとして抜くことが出来ず、
却って陸軍省アタリのインチキ改造思想を圧倒してまいりました。
青年将校は常に時代の先覚者でありますでありますから、
若くて鋭敏な頭脳と、私心がなくて、ものを正視する能力とを有する全國青年将校が、
陸軍中央部あたりの云ふ改造思想と北、西田両氏の思想信念との比較をして、
その正しきものに共鳴したのは当然の帰結であつたのです。
此くして、全軍の青年将校は國體の正しき理解のもとに、
建國精神に基く國軍の粛正と國家の維新とを實践するに至りました。
そしてその結果、青年の火の如き熱情は軍隊に於ては下士官兵の愛國心に点火し、
私心劣情の上長に向っては非違を諫争し、中央首脳部に向つては正論を持して献言する等、
なかなかに止めることの出來ぬ勢ひを呈して来たのであります。
斯の時代の潮流に押しつけられて苦しまねばならぬものは、
無能なる上長と前世紀的頭脳の上級軍人と、
徒らに洋行がへりを鼻にかける中央部幕僚とであつたのであります。
彼等は口を揃へて、軍の統制と云ふことを云ひ出したのです、( 永田鉄山君は最も努力した一人 )
所が月に新たにして 日に新たなることを求める青年等は、
彼等の云ふ逆進的統制に服することは出來ませんでした。
それで軍内は益々ガタガタビシビシして来ました。
彼等の多くはカイゼル時代のドイツ軍人の型を眞似、
それに近代的ヒットラーの思想傾向を以て、遮二無二統制をしようとしたので、
國體顯現に生命を賭する青年将校とは、どうしても一点相容れぬ所があつたわけであります。
此に於て、彼等は所謂抜本塞源を軍の方針として、
北、西田両氏をつけねらふ様になつたのです。
法務官の所謂 「 軍の既定方針に従って殺す 」 云々は、
永田時代に統制派幕僚等が作為した勝手極まる独斷的方針で、斷じて皇軍の方針でなく、
皇軍の御統率者たる 天皇陛下の御聖旨にもとづく軍の方針ではないのです。

ヒットラー流ドイツ式統制の幕僚等が、
眞の愛國者、國體精神の體現者たる両氏を 「 皇軍の方針 」 の 名の下に殺さうとしてゐるのです。
( 看守長の監視ウルサク、思う様に筆進マズ )
彼等は、改造法案は民主主義だ、國體に容れない、等々愚劣極まる評をしておりますが、
両氏の思想は断じて正しく、
歴史の進化哲学に立脚せる社会改造説、日本精神の近代的表現、
大乗仏教の政治的展開であって、
改造法案の如きは実に日本國體にピッタリと一致しております。
否 我が國體そのものを國家組織として、政經機構として表現したものが、日本改造法案であるのです。
決して、外來の社会主義思想でなく、
又 米国に露國に見る如き民主、共産思想でもないのです。
北氏は著書 「 國體論 」 に 於て
『 本書の力を用ひたる所は所謂講壇社会主義と云ひ、 國家社会主義と称せられる鵺的(ヌエテキ)思想の軀逐なり 』
と 云ひ、
『 著者の社会主義は固よりマルクスの社会主義と云ふものにあらず、
又 その民主主義は固よりルソーの民主主義と云ふものに非ず 』
と 云ひ、
先覚者的大信念を以て 「 國家、國民主義なり 」 と 斷じております。
而して國民主義については、
「 國家の部分をなす個人が、其の權威を認識さるることなく、國民主義なるものなく 」
「 權威なき個人の礎石をもつて築かれたる社会は奴隷の集合である 」
と 云ひて、
自覚せる國民、自主的国國を以て國家がつくらねばならぬと強調しています。
又 その國家主義については、
「 世界聯邦論は聯合すべき國家の倫理的独立を単位としてのことなり 」
と 云ひて、
人類進化の單位をどこ迄も國家として、徒らなる世界鞏調主義をたたきつけてゐるのです。
更に改造法案に於ては、
「 若し此の日本改造法案大綱に示されたる原理が、國家の權利を神聖化するをみて、
マルクスの階級闘争説を奉じて對抗し、或は個人の財産権を神聖化するを見て、
クロポトキンの相互扶助説を戴きて誹議せんと試むる者あるならば、
それは明らかにマルクスとクロポトキンの方が著者よりも馬鹿だから、てんで問題にならないぞ 」
と 云って、
欧米思想の中軸たり近代改造思想の根拠たる二つのものに対し
烈々たる愛國的情熱を以て國家の權利の神聖を叫んでおります。
又曰く
「 國内に於ける無産階級の闘争を容認しつつ、
独り國際的無産者の戦争を侵略主義なり軍國主義なりと考ふる欧米社会主義者は、根本思想の自己矛盾なり 」
「 國際間に於ける無産者たる日本は、彼等(英露)の独占より奪取する開戦の権利なきや 」
等飽く迄 直訳社会主義、民主主義、共産主義等の非日本的なるものと戦ひ、
日本精神の新たなる発揚、日本国体の真姿を顕現せんとしてゐるのです。
北氏が改造法案の結論に於て、
「 國境を撤去したる世界の平和を考ふる各種の主義は、全世界に与へられたる現実の理想ではない。
現実の理想は何れの國家が世界の大小國家の上に君臨するかと云ふにある。
日本は直訳社会主義、民主主義、共産主義などの愚論にまよってゐてはならぬ 」
と 云ひ、
神の如き権威を以て
「 日本民族は主権の原始的意義、統治権の上の最高の統治権が國際的に復活して、
各國家を統治する最高國家の出現を覚悟すべし 」
と 云って居る所は、
正に我建國の理想たる八紘一宇の大精神を、現日本に実現せんとする高い愛國心のあらわれであるのです。

以上述べました通りに、
北氏の思想は決して所謂民主々義思想ではないのです。
然るに思想的に無智無能なる幕僚、法ム官などは、民主と云ふ字が改造法案にあるから民主主義だと云ひ、
北、西田の思想に影響されてゐるから、
青年将校は民主革命を強行せんとしたの
だと 云ひ張って どうしても私共の真精神を受け付け様としないのです。
ですから、青年将校に対する求刑論告文は 北、西田等の思想によつて民主革命を強行せんとし云々、となつてゐるのです。
私共は此の論告をきいて痛憤し、悲涙をしぼりました。
公判廷に於て弁論の僅かなる機会をあたらへられた時、
同志一同は民主革命を強行せんとしたのではない、と言ふ陳述の為に必死になりました。
眞に必死に訴へ、願ひ、しました。( 閣下どうか御察し下さい )

ロンドン条約以来、統帥権の干犯されること二度に及んでゐるので、
たまりかねて、大義の為、股肱としての絶對道を進んだ純粋な青年将校の行動を、
民主革命強行の六字で片付けられた時の悲憤は、ほんとうに言葉にあらはせません。
此の時から、既に陸軍は、軍部の責任たる青年将校の蹶起を北、西田両氏の罪也として、
両氏に一切の罪、責任等をなすりつけて死刑にする方針をたててゐたのです。
私共の必死の弁駁(ベンバク)によつて、
渋々民主革命強行の字句を取り除きました所の判決文に於ては矢張り、
北、西田氏を殺す為に、
「 絶対に我が國體に容れざる思想 」
と 云ふ文句を頑として入れてゐるのです。
そして彼等は、改造法案の私有財産限度は、
段々限度を低下すると共産主義になるから國體に容れないと云ひ、
皇室財産を没収すると書いてあるから國體に容れぬと云ひ、
天皇が國體の總代表と書いてあるから國體に容れぬと云ひ、ことごとく故意に曲解し、
無理に理窟つけ、甚だしきは嘘八百を云って判決をしてしまつたのです。

私有財産については、北氏は
「 私有財産をむるは、一切のそれを許さざらんことを終局の目的とする諸種の社会革命説と、
社会及人生の理解を根本より異にするを以て也 」
と 言ひ、
「 私有財産を尊重せざる社会主義は、如何なる議論を長論大著に構成するにせよ、
要するに原始的共産時代の回顧のみ 」
と 言ひ、
「 私有財産を確認するが故に、尠しも(スコシモ)平等的共産主義に傾向せず 」
と 云ひ
「 此の日本改造法案を一貫する原理は、國民の財産所有權を否定する者に非ずして、
全國民に其の所有権を保障し享楽せしめんとするにあり 」
等、至る所に、重ね重ねて、私有財産を確認せねばいけないと云ふことを云っております。
又、その限度については、
「 最小限度の生活基準に立脚せる諸多の社会改造説に対して、
最高限度り活動権域を規定したる根本精神を了解すべし 」
と云って、限度を低下さしてはいけない。
此の限度は國富と共に向上させる可き性質のものであることを明言して居ります。
法務官等の云ふ、限度を低下すると共産主義になる等は、
出鱈目も甚だしい悪意の作り事であります。
皇室財産については没収等云ふ字句は断じてないのです。
下附と明記して居ります。

「 天皇は國民の總代表たり 」
と 云ふことが國體に容れない、と云ふ我帝國陸軍の法務官及び幕僚は、
國民の總代表が何人あつたら國体に容れると云ふのでせうか。
徳川家康がいいのか、源頼朝がいいのでせうか、或は米國の如き投票当選者がいいのでせうか。
北氏は、大日本國民の總代表は天壌無窮に絶對に天皇であらせられるのに、
中世に於ては頼朝、尊氏の徒が、近世に於ては徳川一門が國家を代表して居た。
此の如きは我が國體に容れざる許すべからざる事である。
明治維新以後の日本に於ては、中世の如き失態を繰返してはならぬ。
又、近年欧米の社会革命論を鵜呑みにした連中が、無政府主義をとなへ、
天皇制の否認をなしなどして居るが、そんな馬鹿気た事に取り合ってはならぬ、
と いましめてゐます。
「 國民の總代表が投票当選者たる制度の國家が、或特異なる一人たる制度の國(日本の如き)
より優越なりと考ふるデモクラシイは、全く科学的根拠なし。
国家は各々其國民精神と建國歴史を異にす 」
と云って、法案著述当時の滔々たるデモクラシイ思想に痛棒を喰はしています。
又、「 米國の投票神權説は、当時の帝王神權説を反對方面より表現したる低能哲学なり、
日本は斯る建國にも非ず、又斯る低能哲学に支配されたる時代もなし 」
と云って、投票当選による元首制を一笑に付してゐるのです。
恐らく法ム官は、總代表即投票と考へたのでせうが、然りとせば、軽卒無脳(能)のそしりをまぬかれません。
又、國体に進化があるなどと云ふことはけしからんと云ふのが彼等の云ひ分ですが、
これはあまりに馬鹿気たことで、殆んど議論にもなりませんから、説明をやめておきます。

要するに、北氏の思想は、決して所謂社会主義でも民主主義の思想でもありません。
髙い國家主義、國民主義の思想であります。
而して天皇 皇室に對し奉つては熱烈な信仰をもつております。
実に日本改造法案全巻を貫通する思想は、皇室中心尊皇絶対の思想で、これは著者の大信念であるのです。
北氏が法案の諸言に於て、
「 天皇大權の發動を奏請し、天皇を奉じて國家改造の根基を完うせざるべからず 」
と云ひ、又、巻頭第一頁に於て、
「 天皇は・・・・天皇大權の發動により三年間憲法を停止し、両院を解散し全國に戒嚴令を布く 」
と云って居るのは、
日本の改造は外國のそれと根本的にちがひ、
常に天皇の大号令によつてなされるべきであることを明確にし、
諸種の改造論者と雑多な革命論に対して、一大宣告をしてゐるのです。

國家改造議会の條に於て、
「 國家改造議会は天皇の宣布したる國家改造の根本方針を討論することを得ず 」
と云ってゐるのも、巻八の末尾に於て
「 天皇に指揮せられたる全日本國民の運動によつて改造をせねばならぬ 」
と云ってゐるのも、凡て北氏の信念であります。
氏の日常 「 自分は祈りによつて國家を救ふのだ 」 「 日本は神國である 」
「 天皇の御稜威に刃向ふものは亡ぶ 」 等等の言々句々は、
すべて天皇に対する神格的信仰のあらわれであります。

昭和六年十月事件以来の軍部幕僚の一團の如き
「 軍が戒嚴令を布いて改造するのだ 」
「 改造は中央部で計畫実施するから青年将校は引込んでおれ 」
「 陛下が許されねば短刀をつきつけてでも云ふことをきかせるのだ 」
等の言辞を平然として吐く下劣不逞なる軍中央部の改造軍人と、北氏の思想とを比較してみたら、
何れが國體に容れるか、何れが非か是か、容易に理解出来ることです。

軍が二月事件の公判を、暗闇の中に葬らふとしてゐるのは、
北氏の正しき思想信念と青年将校の熱烈な愛國心とによって、
従来軍中央部で吐きつづけた不逞極まる各種の放言と、
國體に容れざる彼等の改造論を たたきつぶされるのがおそろしいのが有力な理由であります。
重ねて申します。
北、西田両氏の思想は断じて正しいものであります。

次頁
獄中手記 (三) の二 ・ 北、西田両氏の功績  に続く


獄中手記 (三) の二 ・ 北、西田両氏の功績

2017年07月14日 11時33分46秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
二、北、西田両氏の功績
両氏は前述しました様な思想信念に立って、
大正、昭和の思想的國難時代に於て、國體擁護の為に献身的努力をして来た人であります。
学界も政党も國務大臣も、共産主義、社会主義の為めに魅了せられて、国家はあげて左方へ盲進せんとしました。
此の時代に於て、熱烈火の如き愛國心と堂々たる國體理論とを以て、
日本主義思想界を指導して左翼理論に挑戦、之を攻撃し打破したのは、北、西田両氏であります。
左翼理論が華やかであつた頃の右翼浪人は、徒らなる暴力團でしかありませんでした。
此の暴力團に思想を与へ、信念を与へ、理論を教へ、実行を奨めたのは実に 「 日本改造法案 」 以外にありません。
軍隊は左翼思想に災いされなかつたかと云へば、決して然らずであります。
私の知ってゐるだけでも、それは怖ろしい程に、軍内は左翼思想でかきまわされました。
幼年学校、士官学校の生徒で、左翼思想にかぶれて退校になつたものは、数多くあります。
将校中からも相当に左傾したものもあります。 下士官兵中にあつたのは勿論です。
初度巡視の師団長でさえ、共産主義にもいい所があるからねェと云ふ訓話をする程でした。
軍隊の上長官あたりの少し小才のきいた者は、
安雑誌の社会主義、共産主義理論をうけうりして、新思想を小鼻にかけたものです。
青年将校の下宿には一様に、
○○社会主義理論と云った様な、洋綴の本が書棚をかざってゐたものです。
大山郁夫、佐野学、鈴木文治等が、演壇に議会に闊歩して、
國民の英雄をもつて歓呼せられた時代ですから、軍隊だけが独り左傾しなかったとは決して云へないのです。
ほんとうに 滔々たる潮流をなして、日本の朝野を洗ひ流さうとさえしました。
此の潮流の中から、軍隊を救ったものは西田氏で其功、亦 大いなるものがあります。
西田氏によつて与へられたる國體信念を以て、多数青年将校が軍隊内に健在勇闘したのです。
特に、統帥権干犯問題の時には、必死的な努力をしております。
軍部大臣ははじめ中央部の軍人の大多数が、浜口内閣に向って一矢もむくゆることをし得ない時に、
民間の一國民に過ぎぬ西田氏が決死的活動をした事は、
その愛國的奮闘に對して、軍部は大いに感謝せねばならぬ筈です。
又、國際聯盟脱退の時、愛國團體の奮起を促し、
元老重臣の重囲に陥つた荒木陸相等、軍部の強硬派を支持して、
終に脱退させたのも 亦 氏等の奮闘の結果でありました。
數へ来たれば実に多くのかくれたる功績を立てております。
政府の役人や軍人とはちがひ、一國民として自由な立場に於てする愛國運動には、
役人仕事では到底出来ない大きな部面があると云ふことを知ってもらへば、
両氏が國家の爲にどれ程大きな功績を立ててゐるかと云ふことがわかると思ひます。

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獄中手記 (三) の三 ・ 北、西田両氏と青年将校との関係

2017年07月13日 11時26分32秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
三、北、西田氏と青年将校トノ関係

軍部の幕僚が
「 北、西田が青年将校を煽動する 」
と 云ふことを、云ひふらしてゐます
。 以つての外の雑言です。
青年将校は煽動される程、馬鹿でも子供でもありません。
青年将校の行動を煽動された結果だとすることは、
其の殉國的行動を気狂ひ沙汰にし、馬鹿扱ひにすることで、
それは純忠な青年将校に甚だしい侮辱を加へるものです。
又 「 青年将校は純真だから煽動される 」 等 申しますが、そんな馬鹿気た理窟はありません。
青年将校は純眞ですから、
幕僚の煽動にも敢然として抗し、
遂に十月事件のインチキを見破りもし、
煽動にも乗らなかったのです。

眞に純眞な者のみは、如何なる煽動にも、如何なる威武にも富貴にも屈しないのです。
どうか此の心理を理解して下さい。
此の心理を理解せずに、煽動の二字で簡単に片付けられてしまふことは、
青年将校と北、西田氏の為に、余りに残酷ではありませんか。

法務官は
「 五 ・一五の海軍被告が、西田は慢性の煽動家だ、西田なんかに煽動されるものか、
と 云ってゐるから、西田は煽動家だ、陸軍の青年将校は煽動されたのだ 」
と 云って、
私共が西田氏の爲めに如何に弁護しても、テンデ受けつけて呉れませんでした。
五 ・一五の海軍被告の云った事は間違っています。
海軍の連中は牧野と密約せる大川氏と関係が深かったので、
陸軍の青年将校も、西田氏も、海軍の諸君にそれとなく注意してゐたのです。
こんな関係でありましたから、
五 ・一五の時には、海軍諸君を引止め様としたのですが、両君の誤解からあんな結果になつてしまつたのです。
その爲めに西田氏は、如何にも煽動家の如く見られてしまひました。
私は海軍被告の云った、西田は慢性の煽動家だと云ふ言葉は、
海軍士官の強固な信念を表してゐると思って、海軍の同志に敬服してゐる点がある位ですのに、
世間では此の言葉を、西田氏の事にばかり取っております。
西田氏の爲に誠に気の毒です。
海軍士官の腹のどん底は、
「 吾々は煽動されて五 ・一五を決行したのではない、信念にもとづいてやったのだ 」
と 云ふことを云ひたかつたのです。
信念に基いてやつた事を煽動されたのだと云はれる時は、
信念の強い人程、怒るのです。
海軍の同志も怒りの余り、西田なんかに煽動されるものかと云ひ、西田は煽動家だと失言したのです。
此の心理を理解して下さい。
吉田松陰も此の心理に帰一することを、獄中記に云つてゐます。
海軍被告の言は決して、法務官の言の如く、西田氏が煽動家であると云ふ意味ではありません。
煽動では純真な人は動きません。
人を動かすのは至誠です。
北、西田両氏は愛國至誠の士です。
青年将校の改造思想は、改造法案によつて植ゑ付けられたと考へ、
官憲は徒らに北、西田氏をねらつて ゐます。
特に陸軍の中央部の連中は、両氏を目の仇にしてゐます。
けれども、青年将校の改造思想は、その本源は改造法案や北、西田氏ではありません。
大正の思想國難時代に、
これではいけない、日本の姿を失ってしまふと云ふ憂國の情が、
忠君愛國の思想をたたき込まれてゐる 士官学校、兵学校、幼年学校の生徒の間に勃然ぼつぜんとして起こったのです。
そして此の憂國の武学生が、任官して兵教育にあたつてみると、
兵の家庭の情況は全く目もあてられない惨憺
さんたんたるものがあつたのです。
何とかせねばならぬと眞面目に考へ出して、國家の状態を見ると、意外にひどい有様です。
政党、財閥、軍閥の限りなき狼藉の為めに、國家はひどく喰ひ荒されてゐる。
これは大変だ、國家を根本的に立て直ほさねば駄目だと気が付いて、
一心に求めている時、日本改造法案 と北、西田氏が在つたのです。
両氏の思想が、我が國体顯現を本義とする高い改造思想であって、
当時流行の左翼思想に対抗して毅然きぜんとしてゐる所が、
愛國青年の求めるものとピッタリと一致したのであります。
左様な次第でありまして、
要するに、青年将校の改造思想は、
時世の刺激をうけて日本人本然の愛國魂が目をさました所から出て来ておるのであります。
ですのに、官憲は改造法案を彈圧禁止することにヤツキになつています。
これは大きな的はずれです。
爲政者が反省せず、時勢を立てかへずに 北、西田を死刑にした所で、どうして日本がおさまりますか。
北、西田を殺したら 将来、青年将校は再び尊皇討奸の剣を振ふことはないだらうと考へることは、ヒドイ 錯誤です。
青年将校と北、西田両氏との関係は、思想的には相通ずるものがありますけれども、
命令、指揮の関係など断じてありません。
ですから、青年将校の言動は悉く愛國青年としての独自のものです。
此の関係を眞に理解してもらひたいものです。
北、西田が青年将校を手なづけて軍を攪乱すると云ふ事を、陸軍では大きな声をして云ひます。
此んなベラ棒な話はありません。
軍を攪乱したのは軍閥ではありませんか。
田中、山梨、宇垣の時代に、陸軍はズタズタにされたのです。
此の状態に憤激して、之を立て直さんとしたのが、青年将校と西田氏等とです。
永田鉄山が林と共に、財閥に軍を売らんとし、重臣に軍を乱されんとしたから、
粛軍の意見 を発表したのです。
眞崎更迭時の統帥権干犯問題は林、永田によつてなされたのです。
三月事件、十月事件等は皆、
軍の中央部幕僚が時の軍首脳者と約束済みで計畫したのではありませんか。
何を以て 北、西田が軍を攪乱すると云ひ、青年将校が軍の統制を乱すと云ふのですか。
北、西田氏と青年将校は、
皇軍をして建軍の本義にかへらしめることに身命を賭してゐる忠良ではありませんか。

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獄中手記 (三) の四 ・ 尊皇討奸事件 (二・二六) と 北、西田両氏との関係

2017年07月12日 11時21分19秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
四、尊皇討奸事件(二・二六)と北、西田両氏トノ関係

1 青年将校蹶起の動因

「 青年将校は北、西田の思想に指導せられて日本改造法案を実現する為めに蹶起したのだ 」
と 云ったり、
「 眞崎内閣をつくる為めにやつたのだ 」
等の不届至極の事を云って、
ちっとも蹶起の眞精神を理解し様とはせずに、
彼等の勝手なる推断によつて青年将校は殺されてしまひました。
北、西田氏も亦同様に殺され様としてゐます。
青年将校は改造法案を実現する為めに蹶起したのでもなく、
眞崎内閣をつくる為めに立ち上つたのでもありません。
蹶起の眞精神は大権を犯し、國體を紊みだる君側の重臣を討つて大権を守り、國體を守らんとしたのです。
ロンドン条約以来、
統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が宮中、府中にはびこつて
天皇の御地位をあやふくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討つたのです。
そもそも維新と云ふことは、
皇権を回復奉還することであって

陸軍省あたりの幕僚の云ふ、政治経済機構の改造そのものではありません。
青年将校の考へは一言にして云へば
「 皇権を奪取 ( 徳川一門の手より、重臣元老の手より ) 奉還して、
大義を明かにすれば、國體の光は自然に明徴になり、
國體が明徴になることは 直ちに国の政、経、文教全てが改まるのである。
これが維新である 」
と 云ふのです。
考へ方が一般の改造論とひどく相違してゐます。

法務官などは、此の精神がわからぬものですから、
「 オイ、お前達は改造の具体案をもつているか。 何ッ、もつて居ないッ。
 そんな馬鹿な事があるか。 具体案もなくて維新とは何ダッ。
日本改造法案がお前達の具体案だらう。
何にッ、ちがひますゥ。 嘘だ、お前達の具体案は改造法案にキマッテイる。
あれを実現しようとしたのだ。サウダ、サウダ 」
こんな調子で予審を終り、公判になつて、
民主革命を強行せんとし・・・・を押しつけられたのです。
藤田東湖の
「 大義を明かにし人心を正せば、皇道爰んぞ興起せざるを憂へん 」
これが維新の真精神でありまして、青年将校蹶起の真精神であるのです。
維新とは具体的案でもなく、
建設計畫でもなく、
又、案と計畫を実現すること、そのことでもありません。
維新の意義と青年将校の眞精神とがわかれば、
改造法案を実現する為めや、眞崎内閣をつくる爲めに蹶起したのではない事は明瞭です。

統帥権干犯の賊を討つ為めに、軍隊の一部が非常なる独斷行動したのです。
私共の主張に対して、彼等は統帥権は干犯されず、と云ひます。
けれどもロンドン条約と眞崎更迭の事件は、二つとも明かに統帥権の干犯です。
法律上干犯でないと彼等は云ひますが、
法律に於て統帥権干犯に関する規定がどこにあるのですか。
又、統帥権干犯などと云ふものは、法律の限界外で行はれる事であつて、
法律家の法律眼を以ては見定めることは出来ないのです。
これを見定め得るものは、
愛國心の非常に強く、尊皇精神の非常に高い人達だけであります。
統帥権干犯を直接の動因として蹶起した吾々に対して、
統帥権は干犯されてゐないとし、

北の改造法案を実現する爲めに反乱を起こしたのだとして
罪を他になすりつける軍部の態度は、卑怯ではありませんか。

2 二月蹶起直前、北、西田氏と青年将校
二月蹶起にあたつて青年将校は、北、西田両氏から指令、指揮など絶対に受けておりません。
思想的影響を受けてゐると彼等は云ひますが、
今日の青年将校は、改造法案を見た事もない人でも維新を語ります。
維新はそれ程、時代の要求を受けてゐるのです。
今日青年将校の多くが改造運動に対して熱意をもつて来たのは、
陸軍省発行の改造パンフレットや切迫せる対外関係等からであります。
ですから、大多数の青年将校は、北氏改造法案から思想的な影響スラ受けておりません。
近年の青年将校の維新運動は、十年前に比し非常に成長して、独立独行することが出来る様になりました。
一人歩きが出来る様になると、他人の世話をいやがる心理は、子供も大人も持ってゐます。
青年将校の運動にも、此の心理がはたらいていゐましたので、
北、西田氏の指令どころか、相談もせずに蹶起したのです。
蹶起の時日については、私が二十四日に西田氏に知らしましたが、
細部の計畫などは私も村中も、断じて両氏には知らしておりません。
法務官は
「 お前は前年から決心して、一人でもやるつもりでゐた、
それ程強烈な決心をもつてゐたのだから、早くから西田に相談したにきまつてゐる 」
と 云って責め立てました。
ところが、この観察は正反對なのです。
一人でやると云ふ決心がほんとにツイタ時には、他人へ相談する必要がなくなるのです。
自分の決心がフラフラして居る時には、他人に相談して、決心の不足を他人から補ふのです。
法務官にはどうしても機微な心理観察が出来ぬらしく、私の云ふことを了解せず、
北、西田と青年将校とは相談をし指令を受けて反乱をしたのだときめてしまつて、両氏を殺さうとするのです。
西田、北とは相談もせず、合議もせず、指令など絶対に受けておりません。
両氏に対しては、両氏の如き人物を吾々と共に犠牲とする様なことがあつては、
國家の爲めに取りかへしがつかぬから話をすまいと云ふのが、
青年将校間の意見であつた事は、嘘でもイツハリでもありません。

3 奉勅命令と北、西田氏との関係
青年将校をして奉勅命令に抗せしめたのは北、西田だと云ふのが、軍司令部の云ひ分です。
フザケタ事を云ふにも程があります。
奉勅命令は下達されません。
絶對に下達されてゐません。
私共は誰一人として、奉勅命令の内容を知っておりません。
下達しない命令に抗する道理はありません。
軍部は勅命を下達しなかった罪をかくす爲に、下達したけれども、
北、西田が青年将校を煽てて奉勅命令に抗せしめたのだと云ふのです。
卑怯千万な遣り方です。
私共が、二月二十九日迄も三宅坂一帯の地区に頑張っていたのは、戒厳命令を受けたからです。
三宅坂一帯の地区の警備を命ずと云ふ命令にもとづいて、現地にゐたのです。
戒厳命令の外に、大臣告示を告達して行動を認むさへ云って居るのではありませんか。
軍が自ら告示を下し、命令を与へて居ることはわすれて、
北、西田が奉勅命令に抗せしめたとは何ですか。
何たる卑怯な態度です。
此の不当に怒る正義の士が、軍部には一人も居ないのです。
よつてタカッテ、ウソをつくり上げて、無実の罪を民間の一浪人になすりつけて、
自分等は罪を逃れ様とする奴が、皇軍の上級将校として陛下の禄を盗んでゐます。
何ですか。
陸軍大将、中、少将が何ですか。
中央部左官が何ですか。

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獄中手記 (三) の五 ・ 大臣告示、戒厳命令と北、西田氏

2017年07月11日 11時13分38秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
五、大臣告示、戒厳命令と北、西田氏

大臣告示、と戒厳命令は、北、西田氏が發したのではないのですぞ。
陸軍の親玉が発したものです。
青年将校は此の告示と戒厳命令によつて、行動したのです。
青年将校が反乱罪にとはれる時、当然に告示と命令を発した者は同罪であらねばならぬ筈です。
然るに此れ等は無罪で、
命令と大臣告示の圏外にある北、西田両氏が死刑になるとは何故ですか。
「 大臣告示は説得案なり 」
と ゐひのがれをして云ますが、あれがどうして説得案ですか。
告示が宮中に於て出来た時の第一草案は、
「 諸子の行動は國體の眞姿顯現にあるものと認む 」
と なつてゐます。
此の第一草案の、行動を認むと云ふのをキイテよろこびの余り、
香椎中将は直ちに司令部に電ワをして、之を布告さしてゐるではありませんか。
軍事参ギ官会ギの此の空気だけを説明すれば、
説得案でない事は明々白々ではありませんか。
現に青年将校は、一人として説得されてゐないのです。
説得される所か ヨクやつて呉れたと云つて、到る所でホメられたのです。
大臣告示が行動を認めたものであると云ふ証拠には、
二十七日早暁に戒厳軍隊として司令官の指揮下に入つたのです。
しかも警備の命令を受けておるではありませんか。
此の厳然たる事実すらも、彼等は曲言してしまつたのです。
曰く
「 戒厳命令は謀略命令なり、青年将校の行動を認めたものに非ず 」 と。
若し云ふ如く、命令に謀略があるとすれば、皇軍は全く崩れてしまひます。
命令は厳として絶対でなくてはなりません。
少しの懸引き(カケヒキ?)も僞りもないのが、命令の本質であらねばなりません。
彼等は云ふでせう。
「 叛乱軍に対しては敵軍に對するものと同じく謀略命令を用ふ 」 と。
よろしい、それほどに反乱軍なることが最初から明瞭なら、
何故二月二十六日午前直ちに賊軍征討の勅命を戴いて、一気に攻撃しなかったのだ。
しかも彼等は、諄々として言つたではないか
「 皇軍相討つことはいけないから 」 と。
皇軍相討つとは、
青年将校の軍隊が皇軍の一方であることを意味するのではありませんか。
皇軍の一方たることを認めながら、
反乱軍として謀略命令を下したのだとは、自己矛盾ではありませんか。
戒厳命令を謀略命令などと云ふことは、断じて承服出来ません。
法務官は
「 君等のやつた事は、大臣告示の下達される以前にやつた事が反乱だ 」
「 だから法務官としては、大臣告示や奉勅命令には大して調べる必要はない、反乱の事実だけ調べればいいのだ 」
と 云ひました。
ヨロシイ。
最初から、叛乱と云ふことがそれ程明かであるのに、反軍を何故戒厳軍隊に入れたのだ。
何人が入れたのだ。
反軍を皇軍の中に勝手に入れたのは何人か。
天皇を瞞し(ダマシ)奉つて、
反軍を勝手に天皇の統率下に入れたと云ふことは、統帥権の干犯ではありませんか。
軍部は統帥権干犯と云ふ大罪を自ら犯しておきながら、その事には少しもふれずに、
北、西田が奉勅命令に抗せしめた。
北、西田が改造法案実現の為めに、青年将校を煽動した。
北、西田が軍を攪乱したと云って、
一切の責任を北、西田におはして之を殺さうとするのです。
閣下、斯くの如き不当に対して、吾々はどこ迄も忍ばねばならぬのでせうか。
北、西田を殺す前に、
川島義之、堀中将、山下少将、村上大佐、香椎中将、小藤大佐、
而して前軍事参議官と杉山参謀次長を刑すべきではありませんか。
特に杉山次長の罪、大なることを御判断下さい。
統帥権の干犯は最初、浜口等の政党人と重臣によつてなされ、
次に林、永田が先頭になつて干犯し、第三回目は陸軍首脳部全員によつてなされました。
此のまま棄てておいたら、
陸軍は遂に徳川執権となり、源征夷大将軍になつて、
陛下を千代田城の奥に幽閉してしまひます。
今こそ國體の危機です。

次頁  獄中手記 (三) の六 ・ 結語 「 軍は既定の方針によつて殺す 」  に続く


獄中手記 (三) の六 ・ 結言 「 軍は既定の方針によつて殺す 」

2017年07月10日 10時59分53秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
六、結語

北、西田氏に対する公判は形式 だけであつて
「 軍は既定の方針によつて殺す 」
と 云ふ方針通りに終了し、
今は最早、両氏は一言も正義の主張をすることは出来ません。
事ここに至っては、最早 
天皇陛下の広大なる御仁慈に御すがりするより外には道がないのであります。
どうか閣下等の御力によつて、
事の眞相を上聞に達していただき、両氏の助命をしていただき度いので御座居ます。
頼みます。
頼みます。
意満ちて筆足らず、
申上げたい事の百分の一も云へません。
どうか御判読下さいます様願上げます。
付記
軍部が西田、北両氏を死刑にする理由は、實にわけのわからぬものです。
一、北、西田が青年将校を煽動したりと云ふのです。
 煽動したのは北、西田ではなく三月事件、十月事件であります。
一、北、西田は青年将校に思想的指導をしたと云ふのですが、
 思想的指導はムシロ、陸軍省発表のパンフレット等の方が大きな役目をしたのです。
死刑にする理由がないので、実にわからぬことをこぢつけてゐるのです。
軍部の奴等は自分が奉勅命令を下達しなかつたことをたなに上げ、
北、西田が煽動したと云ふのです。


「獄中手記」 (一)から(三)は、原文手記を複写し、
 所謂「怪文書」として要路関係者に配布したもの

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磯部淺一 ・ 獄中日記

2017年07月05日 15時48分08秒 | 磯部淺一 ・ 獄中日記


磯部淺一 
獄中日記
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獄中日記 (一) 八月一日 「 何にヲッー! 殺されてたまるか 、死ぬものか 」 
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獄中日記 (二) 八月六日 「 天皇陛下の側近は國民を壓する漢奸で一杯でありますゾ 」 
・ 獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」 
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獄中日記 (四) 八月十五日「 俺は一人、惡の神になつて仇を討つのだ 」 
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獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」 

八月十二日
今日は十五同志の命日
先月十二日は日本歴史の悲劇であつた
同志は起床すると一同君が代を唱へ、
又 例の澁川の讀經に和して眼目の祈りを捧げた様子で
余と村とは離れたる監房から、わづかにその聲をきくのであつた
朝食を了りてしばらくすると、
萬才萬才の聲がしきりに起る、
悲痛なる最後の聲だ、
うらみの声だ、
血と共にしぼり出す聲だ、
笑ひ聲もきこえる、
その聲たるや誠にイン惨である、
惡鬼がゲラゲラと笑ふ聲にも比較出來ぬ声だ、
澄み切つた非常なる怒りとうらみと憤激とから來る涙のはての笑ひ聲だ、
カラカラした、ちつともウルヲイのない澄み切つた笑聲だ、
うれしくてたらなぬ時の涙より、もつともつとひどい、形容の出來ぬ悲しみの極みの笑だ
余は、泣けるならこんな時は泣いた方が楽だと思ったが、
泣ける所か涙一滴出ぬ、
カラカラした気持ちでボヲーとして、何だか氣がとほくなつて、
氣狂ひの様に意味もなく ゲラゲラと笑ってみたくなつた
午前八時半頃からパンパンパンと急速な銃聲をきく、
その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた
余りに氣が立つてヂットして居れぬので、詩を吟じてみようと思ってやつてみたが、
聲がうまく出ないのでやめて 部屋をグルグルまわつて何かしらブツブツ云ってみた、
御經をとなへる程の心のヨユウも起らぬのであつた
午前中に大體終了した様子だ
午后から夜にかけて、看守諸君がしきりにやつて來て話しもしないで聲を立てて泣いた、
アンマリ軍部のやり方がヒドイと云って泣いた、
皆さんはえらい、たしかに靑年將校は日本中のだれよりもえらいと云って泣いた、
必ず世の中がかわります、キット仇は討ちますと云って泣いた、
コノマヽですむものですか、この次は軍部の上の人が総ナメにやられますと云って泣いた、
中には私の手をにぎつて、
磯部さん、私たちも日本國民です。
貴方達の志を無にはしませんと云って、誓言をする者さへあつた
この狀態が單に一時の興奮だとは考へられぬ、
私は國民の声を看守諸君からきいたのだ、
全日本人の被壓拍階級は、コトゴトク吾々の味方だと云ふことを知って、力強い心持になつた、
その夜から二日二夜は死人の様になつてコンコンと眠った、
死刑判決以後一週間、
連日の祈とう と興フンに身心綿の如くにつかれたのだ
二月二十六日以來の永い戰闘が一先づ終ったので、つかれの出るのもむりからぬ事だ
宛も本日----
・・・先月十二日は日本の悲劇であつた


獄中日記 (一) 八月一日 「 何にヲッー! 殺されてたまるか 、死ぬものか 」

2017年07月04日 15時45分15秒 | 磯部淺一 ・ 獄中日記


磯部浅一 

七月卅一日
 菱海 誌

明日は十五同志の三七日なり、
余は連日祈りに日を暮す、
唯 こまることは、
十五同志に対しては如何に祈る可きかがわからぬ事なり
成仏せよと祈っても彼等は
「 維新大詔の渙発せられ 天下万民 悉く 堵に安ずるの日迄は成仏せじ 」
と 云ひて死したるを以て、
とても成仏しそうにもなく、
「 成仏するな 迷へ 」 と 云ふ祈りをするわけにもゆかず、
ほんとに困る次第なり、
余は玆に於て稀代なる祈りをする事とせり、
「 諸君強盛の魂に鞭打ちて最一度 二月事件をやり直せ、
 新義軍を編成して再挙し、日本国中の悪人輩を討ち盡せ、焼き払へ、
日本国中に一人でも吾人の思想信念を解せざる悪人輩の在する以上、
決して退譲すること勿れ、
日本国中を火の海にしても信念を貫くけ、
焼け焼け、強火の魂となりて焼き盡せ、焼きても焼きても尚あき足らざれば、
地軸を割りて一擲徴塵にして其の志を貫徹せよ 」 と

夜に入り 電鳴電光盛ん、シュウ雨来る、
一七日の夜と同じく 陰気天地を蔽ふ、
余は本記をなし 村は一念一信読経をなす、
今や、天上維新軍は相澤司令官統率の下に第二維新を企図しあり、
地上軍は速かに態勢を回復し戦備を急がざるべからざるを痛感す


八月一日  菱海入道 誌
何にヲッー!、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、
死ぬることは負ける事だ、
成佛することは、譲歩する事だ、
死ぬものか、成仏するものか
悪鬼となって所信を貫徹するのだ、
ラセツとなって敵類賊カイを滅盡するのだ、
余は祈りが日々に激しくなりつつある、
余の祈りは成佛しない祈りだ、
悪鬼になれる様に祈っているのだ、
優秀無敵なる悪鬼になる可く祈ってゐるのだ、
必ず志をつらぬいて見せる、
余の所信は一部も一厘もまげないぞ、
完全に無敵に貫徹するのだ、
妥協も譲歩もしないぞ

余の所信とは
日本改造方案大綱を一点一角も修正する事なく完全に之を実現することだ
方案は絶對の眞理だ、
余は何人と雖も之を評し、之を毀却ききゃくすることを許さぬ
方案の心理は大乗仏教に真徹するものにあらざれば信ずる事が出來ぬ
然るに 大乗仏教 所か小乗も ジュ道も知らず、神仏の存在さへ知らぬ三文学者、軽薄軍人、道学先生等が、
わけもわからずに批評せんとし 毀たんするのだ。
余は日蓮にはあらざれども 方案を毀る輩を法謗のオン賊と云ひてハバカラヌ
日本の道は日本改造方案以外にはない、
絶對にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の没落の時だ
明かに云っておく、改造方案以外の道は日本を没落せしむるものだ、
如何となれば
官僚、軍幕僚の改造案は國體を破滅する恐る可き内容をもつてゐるし、
一方高天ヶ原への復古革命論者は、ともすれば公武合体的改良を考へている、
共産革命家復古革命かが改造方案以外の道であるからだ
余は多弁を避けて結論だけを云っておく、
日本改造方案は一点一画一角一句 悉く心理だ、
歴史哲学の心理だ、
日本國體の眞表現だ、
大乗仏教の政治的展開だ、
余は方案の爲めには天子呼び來れども舟より下らずだ。

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獄中日記 (二) 八月六日 「 天皇陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ 」

2017年07月04日 05時39分37秒 | 磯部淺一 ・ 獄中日記


磯部浅一 
八月二日
シュウ雨雷鳴盛ン、
明日は相澤中佐の命日だ、
今夜は待夜だ、
中佐は眞個の日本男児であつた

八月三日
中佐の命日、讀經す、
中佐を殺したる日本は今苦しみにたへずして七テン八倒してゐる、
悪人が善人を はかり殺して良心の苛責にたへず、
天地の間にのたうちもだえているのだ、
中佐程の忠臣を殺した奴にそのムクヒが来ないでたまるか、
今にみろ、
今にみろ、

八月四日
北一輝氏、
先生は近代日本の生める唯一最大の偉人だ、
余は歴史上の偉人と云はれる人物に対して大した興味をもたぬ
いやいや興味をもたぬわけではないが、
大してコレハと云ふ人物を見出し得ぬ、
西郷は傑作だが 元治以前の彼は余と容れざる所がある、
大久保、木戸の如きは問題ならぬ、
中世、上古等の人物についてはあまりにかけはなれていのでよくわからぬ、
唯 余が日本歴史中の人物で最も尊敬するは楠公だ、
而して 明治以来の人物中に於ては北先生だ

八月五日
佐幕派の暴政時代、南朝鮮総督、杉山教育總監、西尾次長、寺内大臣
宇佐美侍従武官、鈴貫、牧野、一木、湯浅、西園寺等々、
指を屈するにいとまなし、
今にみろッ
今にみろッ
今にみろッ
今にみろッ
今にみろッ
必ずテンプクしてやるぞ

八月六日
一、天皇陛下 陛下の側近は國民を圧する漢奸で一杯でありますゾ、
 御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、
今に今に大変な事になりますゾ、
二、明治陛下も皇大神宮様も何をして居られるのでありますか、
 天皇陛下をなぜ御助けなさらぬのですか、
三、日本の神々はどれもこれも皆ねむつておられるのですか、
 この日本の大事をよそにしてゐる程のなまけものなら日本の神様ではない、
磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、
そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追ひはらつてしまふのだ、
よくよく菱海の言ふことを胸にきざんでおくがいい、
今にみろ、
今にみろッ

八月七日
明日は同志の四十七日だ、今日もシュウ雨雷鳴アリ

八月八日
同志の四十七日、讀經
一、吾人は別に霊の國家を有す、
 日本國その國權國法を以て吾人を銃殺し、尚飽き足らず骨肉を微塵にし、
遠く國家の外に放擲ほうてきすとも、遂に如何ともすべからざるは霊なり、
吾人は別に霊の國家、神大日本を有す
一、吾人は別の信念の天地を有す、
 日本國の朝野 悉く 吾人を國賊反徒として容れずと雖も、
吾人は別に信念の天地、眞大日本を有す
一、吾人に霊の國家あり、信念の天地あり、現状の日本吾にとりて何かあらん、
 此の不義不法堕落の國家を吾人の眞國家神日本は膺懲せざるべからず
一、大義明かならざるとき國土ありとも眞日本はあらず、
國體亡ぶとき國家ありとも神日本は亡ぶ
一、捕縛投獄死刑、
 嗚呼 吾が肉体は極度に従順なりき、
然れども魂は従はじ、永遠に抗し無窮に闘ひ、尺寸と雖も退譲するものに非ず、
國家の權力を以て圧し、軍の威武を以て迫るとも、
独り不屈の魂魄を止めて大義を絶叫し、破邪討奸せずんば止まず

    ○

余は日本一のスネ者だ、世をあげて軍部のライサンの時代に
「 軍部をたほせ、軍部は維新の最後の鞏固な敵だ、
 青年将校は軍部の青年将校たるべからず、
士官候補生は軍の士官候補生たる勿れ、
革命将校たれ、革命武学生たれ、
革命とは軍閥を討幕することなり、上官にそむけ、軍規を乱せ、
たとひ軍旗の前に於てもひるむなかれ 」
と 云ひて戰ひつづけたのだ、
スネ者、乱暴者の言が的中して、今や吾が同志は一網打盡にやられてゐる、
もう少し早く此のスネモノ菱海の言ふことを信じてゐさへしたら、
青年将校は二月蹶起に於てもつともつと偉大な働きをしていたらふに。

    ○

この次に來る敵は今の同志の中にゐるぞ、
油断するな、似て非なる革命同志によつて眞人物がたほされるぞ
革命家を量る尺度は日本改造方案だ、
方案を不可なりとする輩に対しては斷じて油斷するな、
たとひ協同宣戰をなすともたえず警戒せよ、
而して 協同戰闘の終了後、
直ちに獅子身中の敵を処置することを忘れるな

八月九日
死刑判決理由主文中の
「 絶對に我が國体に容れざる 」 云々は、
如何に考へてみても承服出来ぬ
天皇大權を干犯せる國賊を討つことがなぜ國體に容れぬのだ、
剣を以てしたのが國體に容れずと云ふのか、兵力を以てしたのが然りと云ふのか
天皇の玉體に危害を加へんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもつて立つ、
この場合剣をもつて賊を斬ることは赤子の道である、
天皇大權は玉體と不二一体のものである、
されば大權の干犯者 ( 統帥權干犯 ) に対して、
純忠無二なる眞日本人が激とし、この賊を討つことは当然のことではないか、
その討奸の手段の如きは剣によらふが、彈丸によらふが、
爆撃しようが、多數兵士と共にしようが何等とふ必要がない、
忠誠心の徹底せる戰士は簡短に剣をもつて斬奸するのだ、
忠義心が自利私慾で曇っている奴は理由をつけて逃げるのだ、唯それだけの差だ、
だから斬ることが國體に容れぬとか何とか云ふことには絶對にないのだ、
否々、天皇を侵す賊を斬ることが國體であるのだ、
國體に徹底すると國體を侵すものを斬らねばおれなくなる、
而してこれを斬ることが國體であるのだ、
公判中に右の論法を以て裁判官にせまつた、
ところが彼等は
ロンドン条約も 又 七、一五 も統帥權干犯にあらず、
と 云って逃げるのだ
余は斷乎として云った、
「 二者とも明かに統帥權の干犯である、
現在の不備なる法律の智識を以てしては解釈が出来ぬ、
法官の低級なる國體観を以てしては理解が出来ぬ、
この統帥權干犯の事實を明確に認識し得るものは、
ひとり國體に対する信念信仰の堅固なるもののみである、
余の云ふことはそれだけだが、一言つけ加へておくことがある、
法官は統帥權干犯に非ずと云ふが、何を以て然りとなすか、余は甚だしく疑ふ、
現在の國法は大權干犯を罰する規定すらない所の不備ズサンなるものではないか、
法律眼を以てロンドン条約と七、一五の大權干犯を明かにすることは出来ない筈ではないか、
ついでに云っておく、
本公判すら全く吾人の言論を圧したるヒミツ裁判で、
立權國日本の天皇の名に於てされる公判とは云へないではないか、
軍司法権の歪曲、司法大權の乱用とも云ふ可き事實が、現に行はれつつあるではないか、
統帥權の干犯が行はれなかつたと斷言出来る道理がないではないか」 と
理に於ては充分に余が勝ったのだ、
然し如何にせん、
徳川幕府の公判廷で松陰が大義をといてゐる様なものだ、
いやそれよりもつとひどいのだ、天皇の名をもつて頭からおさへつけるのだ、
天皇陛下にこの情を御知らせ申上げねばいけない、
國體を知らぬ自恣僭上の輩どもが天皇の御徳をけがすこと、今日より甚だしきはない、
この非國體的賊類どもが吾人を呼んで
「 絶対に我が國體に容れず 」 云々と 放言するのだ、
余は法華經の勧持品を身讀體讀した

八月十日
「 私は決して國賊ではありません、
日本第一の忠義者ですから、村長が何と云っても、
區長が何と云っても、署長が何と云っても、地下の衆が何と云っても、
屁もひり合わないで下さい、
今の日本人は性根がくさりきつてゐますから、眞実の忠義がわからないのです、
私共の様な眞實の忠義は今から二十年も五十年もしないと、世間の人にはわかりません 」
守 が学校でいぢめられてゐる様な事はないでせうか、それも心配です
「 叔父は日本一の忠義者だと云ふことを、よくよく守に教へてやつて下さい 」
私の骨がかへつたら、とみ子と相談の上、都合のいい所へ埋めて下さい
「 若し警察や役場の人などがカンシュウ等して、カレコレ文句を云ふ様な事があつたら、
決して頭をさげたらいけません、
若しそれに頭をさげる様でしたら、私は成佛出来ません、
村長であらふと區長であらふと、
磯部浅一の霊骨に対しては
指一本、文句一言云はしては磯部家の祖先と、磯部家の孫末代に対してすまないのです、
葬式などはコソコソとしないで、堂々と大ぴらにやつて下さい、
負けては駄目ですよ、
決して負けてはいけませんぞ、
私の遺骨をたてにとつて、
村長とでも ケイサツとでも 總理大臣とでも 日本國中を相手にしてでも
ケンカをするつもりで葬式をして下さい 」
「 磯部の一家を引きつれて、どこまでも私の忠義を主張して下さい 」
右は家兄へ宛てた手紙の一節だ、
而して括弧内は刑務所長によつて削除されたる所だ、
吾人は今何人に向っても正義を主張することを許されぬ、家兄へ送る手紙、
しかも遺骨に関する事すら許さぬのだ、
刑務所長の曰く
「 コノ文を許すと所長が認めたことになる 」 と、
認めたことになるから許さぬと云ふのは認めぬと云ふことだ、
吾人の正義を否定すると云ふことだ 

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