あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

坂井部隊

2019年08月19日 15時31分53秒 | 坂井部隊

私は部下を連れて小隊長の許に行くと、
高橋少尉、は忙しそうに亦改めて小隊を編成し二列に並列させた。
「教官殿、何処へ行くのですか」 と問ふと
「 第二次渡辺教育総監を襲撃に行くのだ 」
と元気で緊張し切った口調で言った。
私も連れて行って下さいと願ふと、
もう編成が終わつたから駄目だと言ふので、
でも と言ふと
兵隊までが今度は自分達の番だからと言ひ
何回も教官に願ったが駄目だつた。
吾々は遠い処で警戒だけだつたので今度は一つ手柄を立てようと思ってのことなのだが、
丁度この時貨物軍用自動車が三台程来た。
之は市川の野重の自動車だ。
高橋少尉、蛭田、長瀬、梶間、木部等二十人程が自動車に分乗して行く。
・・私も連れて行って下さい

坂井部隊
目次
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・ 
齋藤實内大臣私邸 「 襲撃は成功した 」
お前たちは一人一人が昭和維新の志士であるゾ!」 
・ 
「 私も連れて行って下さいと願ふ 」 
・ 
安田少尉 「 天誅國賊 」 



麥屋清濟少尉・挫折した昭和維新 1 『 私は無期禁錮 』
麥屋清濟少尉・挫折した昭和維新 2 『 リストにある人物が現れたら即時射殺せよ 』
・ 
「 皆御苦労だつた、御機嫌よう 」 

「兵に告ぐ」
勅命が發せられたのである。
既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。
お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、
誠心誠意活動して來たのであろうが、

お前達の上官のした行爲は間違ってゐたのである。
既に敕命天皇陛下の御命令によって
お前達は皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、
それは敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。

正しいことをしてゐると信じてゐたのに、
それが間違って居ったと知ったならば、
徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって

天皇陛下にそむき奉り、
逆賊としての汚名を永久に受ける樣なことがあってはならない。

今からでも決して遲くはないから
直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。
そうしたら今迄の罪も許されるのである。
お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを
心から祈ってゐるのである。
速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。
戒嚴司令官 香椎中將

私達は只々陛下の御為の行動であつて
私達の考へが上に通じないと言ふことは返す返すも残念です
・・・長瀬一 伍長


「 皆御苦労だつた、御機嫌よう 」

2019年08月15日 10時49分19秒 | 坂井部隊

俺達は坂井中尉の許に行き先頭に立ちて平河町に向って行進する。
小原軍曹が路上斥候長で行ったのが今も目に映る。
濠の柳も枯れて水面が青白く、電車通りも人一人通らぬ上を警戒を厳しくして、
山王通りに出てお濠の坂を登り平河町の五叉路上に停止する。
私とMG荒木伍長、の二人が警戒につくことになつた。
LG一コ分隊MG一ケ分隊IG半コ分隊を以てこの道路上を何人も通さぬことにした。

軍人たりとも一歩も入れまじ、若し命に従はぬ時は直に射殺すべしと。
午前七時頃から軍人、一般市民の通勤者、乗合自動車、電車とも全部通行止めとし上司の命を伝へ帰す。
朝明けと共に天候も大分険悪になって来た。
道路上に居る時に雪がチラリチラリと降って来た。
寒さも大分度を増して来たが、何しろ防寒は箱をこわして燃やしているだけだ。
でも人員が多いので交代交代であたたまつた。
通行人達は物珍しげに立止まって見ている。
乗合自動車は折返し折返し運転しているようだ。
タクシーが兵隊に気合ひをかけられ追返されるように戻って行く。
雪も本降りになつて来た。
一時降っては亦小止みになつてはいるが、もう並木は白く花でも咲いていたようだ。
非常呼集で警視庁に向ふ警官も多数来たが他を廻って行かせた。
サイドカーで憲兵の少佐と特務曹長を乗せ上等兵が運転して来たので、
兵隊が 「 止れ 」 で止める。
「 ここは一切 通しません 」 と告げると、
俺は斯々の者であるが中隊長を呼んでこいと言ふので問答していると、恰度好い時に坂井中尉が巡察に来た。
「 本日は此処は通すことはできませんから 」 と言ふ。
「 我々は任務の為に行くのであるから通してくれ 」 と中々激しく口論していた。
兵隊も銃を構へていた。
憲兵も拳銃を構へている。
寸刻の差で行きづまつた状態になつた。
坂井中尉が 
「 あなた方は左様言はれるるが私達もこのように準備がしてあります。
 何時でも御見舞ひ申しますから一つ撃って見ませうか 」
と側に居る野々山二等兵に撃つて見よと命じた。
すると 初年兵さん好機来たりと何も考へず地上に向けて一発ブッ放した。
コンクリの道を少し傷つけ跳弾は石垣にあたり石を砕いて白く残し行方不明になつた。
ビューン の一声を残したまま別に人畜には危害はなかつた。
之に驚いた彼は
「 まさか 」 と思っていた処 実弾を撃ち、また LG、MGに実包が装填してあるのを見て
 早速将校さんは方向変換して帰って行った。
吾々一同 流石 坂井中尉だ などと思ったが?

戒厳令下達
警備の任を負ひて小藤大佐の指揮下に

午前九時頃、
麦屋少尉が巡察に来て、吾々に向つて
「帝都に戒厳令が布かれた。
 そうして吾々の部隊は第一師団長の指揮下に入って小藤大佐の直接指揮を受けることになつた」
とのことを 達せられた。
重ねて 第一中隊は現在の処で警備をすることになつている旨明示した。
この時殺人名簿を持ってきて、
左の者は直に射殺すべし 亦 現在地の通行を許す者等を達せられた。
殺人名は 林大将、南大将、宇垣大将等二十名程度あつたが
然し 我々には善人悪人は解し難いので困った。
将校の命でも 向ふの将校が上官の場合 少し手が出しにくくなつてくるのは人情で仕方あるまい。
雪がまた降って来た。
電車の軌道も凍って通行不能が随分多い。
凍りついた上淡雪のため車がすべつてしまうので平河町の坂路には自動車も大分参ったらしかつた。
寒い二月の末の空気は大寒の冷気を充分に吸ひ込んでいるので肌に沁みる。
朝から立通して雪の中に立哨する兵隊も参った。
交代が来なければ仕様がないなどと私語しているのが聞へる。
降ったり止んだりで昼間でも薄暗く 時間も不明だ。
物入れに手を入れて時計を見るのも億劫だ。
十時頃か、林伍長が部下分隊を引率して交代に来た。
近所の人が、たき木をくれたので火をドンドン燃して気炎を上げ、
別に之と言ふこともないので すぐ申送って中隊の位置に大急ぎで帰った。
主力は隼町の三叉路上に居た。

軒下に叉銃して その叉銃も真白になつて震へているかのように雪が積つていた。
天幕が一張りある。
分会の人が防寒用として建ててくれたといふ。
渡辺、新、青木、蛭田の各軍曹、北島伍長等が炭火を囲んでいた。
将校は何処に居るのかと聞くと、ここを少し行った旅館だといふので すぐ交代して来たことを報告する。
「 窪川分隊は林分隊と交代して来ました 」 
と言ふと 
高橋少尉はやおら顔を上げて
「 御苦労 」
と言った。
本江大隊長を中に坂井中尉 左に高橋少尉が腰をかけていた。
炭火を前に大隊長が
「 別に怪我はせんだつたか 」
と 言はれたので、
「 私の分隊にて怪我人は一名も居りません 」
と 答へて立つていると、
「 まあ 此処へ来てあたらんか 」
と 言はれたので少し手を出して暖をとつた。
坂井中尉も高橋少尉も皆 下に俯して一言も語らず静かだつた。
すぐその場所を引上げて兵隊の処へ来ると、聯隊から昼食を自動車で持つて来た。
新軍曹が給与掛だつたので、分配の役につく。
しかし公平に分配せず早い者勝で、遅く来たMGの方は何も取らぬ位いで相当避難が高かったが、
何とかして腹をつくらせた処に妙味があつた。
食事は四斗樽で持って来た。
綺麗なものだが、軍隊なればこそで、あの入れ物でも食ふが 地方だつたらふと 
身の程をも知らずに夢中でうまいもまずいも知るよゆうなく推して知るべしだ。
大洞特務曹長が兵隊と同乗し外套を持つて来てくれた。
寒さ防ぎの服が来た。
腹も大分ふくらんだ。
大隊長も来て居り 何とも言はないのだから 何となく安心だ。
そして元気もなほつた。
聯隊も出来るだけの援助はするから一生懸命にやつてくれ
などと同類が力づけて言ってくれたのも今、自動車の上の姿が思はれる
雪が本降りになつてきた。
寒さも厳しくなつた。
不惑から何となく不安な境地に立つような気持ちが時々襲ってくる。
淋しい心の中にしみ込んでくるようだ。
寒い雪の中で一晩立通したら聯隊の毛布と寝台が恋しくなつた。


平河町道路上警戒より新議事堂まで

半蔵門の処で第六中隊と共同で警戒して居る時、
丸、高岡両分隊の情況を見ようと
部下一名に外套を持たせて参謀本部の前を通って行くと、
六中隊は吹雪の中で火を燃やして暖を取っていた。
向ひ風の雪が顔に当り 冷たく猛烈に吹きかかるので胸板から足まで白くなつてしまつた。
居る、居る、半蔵門の三叉路上に わら縄を張って通行止めにしている。
丸は三叉路角の大きな電気器具販売店の中で電気爐にあたつていた。
外の兵も同じ。
道路上には通行人が立止つて見物している。
怪我はないかと問ふとみな元気だと三十分位い暖を取り、お茶を御馳走になつて帰る。
高岡は半蔵門の軒下で警戒していた。
粉々として降る雪、帝都の中心地帯は通行止めのため、ひつそりとして降る雪に埋もれて行くようだ。

夕方になり
下士官全員集合の場で今晩はこの付近で村落露営を行ふよう伝達せられ、
中隊全部隼町の三叉路上に集合し、各分隊はそれぞれ付近の民家に宿営することになつた。
私はクリーニング店の洗濯場を借り早く引越す。
炭火を真中にして八人が囲む。
一名づつ歩哨に立たせて一時間交代で過ごす。
一晩一回立哨で済む。
家と外では温度の差が大分あるので立哨から帰ると手足が凍りつくようだ。
厳寒なので可哀相だつた。
軒端の間から大道に流れ出る寒い風が、ピユーと嫌な音を立てて
並木の側に立つ歩哨の顔をツーツとなでる時、
前日から靴下まで濡れた足先が凍っているのでその寒さが一層強く身に沁みるようだ。
アスファルトの道も雪が凍りついて凸凹になり歩くのに油断できない。
まして坂道だ、少しでも中心がはずれたら尻餅をつく。
こんな有様で眠むい一晩を炭火で通した。
主家の妻君が暖い料理を作って兵隊を慰めてくれた。

午前六時、
家の中を片付けて引上げた。
三叉路上で朝食の分配だ。
飯盒を集めて食ふ。
民家でも白米の飯を炊いて握り飯に醤油をかけた味のよい飯をくれた。
感謝せずには居られなかった。
命令により集合、
三叉路角の黒い壁に三階建の土蔵のある大尽の家の軒下で全員休憩、雪を全部取り除く。
中隊、MG小隊は箱木を燃して暖をとるも話は出ない。
将校も出てこない。
情況は不明だが心配は無用だ。
皇軍の将校の指揮下にあるからなどと呑気だ。
出発命令が下った。
丁度私の分隊が天幕を借りたので返しに行き少し遅れた。
何処に行くのか知らず、地図もなくこんな込み入った処は生れて初めてだ。
夢中の内に新議事堂の処へ来た。
中に入ってみると第六中隊の強者が全部来て居る。
安藤大尉は元気だ、何時もニコニコ顔が彼の人相だ。
入口の処に前聯隊長井出大佐と酒井中佐が居た。
中で携帯した炭火をたき、
青木、小原、新、私の者たちが二日もろくに寝ずに馬鹿げなことだなどと横になつて寝たが、
身体中がゾクゾクするのですぐ起きた。

二日目の日も早く過ぎた。
雪は止んだが五、六寸積もった。
夕刻聯隊から夕飯が自動車で届けられた。
今度は心配することなく充分持つて来た。
皆遺漏なきよう寒さに震へ乍ら食ふ。
時に午後五時なり。
堂込曹長が何かを読んでいたので聞くと蹶起趣意書だ。
お前達は持つていないのかと言ふので、
ありません と答へると渡されたので兵隊の前で読んだが、
頭の程度が違ふので読むのに骨が折れ抜かさないと読めない。
堂込曹長に頼むと曹長も私と略々同等で中途で切上げたが中々の名分だ。
野中大尉が週番司令の時 書いたとのことである。


山王幸楽より陸相官舎に立ち入るまで
雪の中に居ること半日、又二日目の夜が来た。
午後七時半頃高橋少尉から幣一名連れて坂井中尉の許に行けと命ぜられ急いで行くと、
坂井中尉と堂込曹長、渡辺曹長が居た。
全部集合すると五人は自動車で暗い道を山王の幸楽料理店に行った。
新しい綺麗な家作りだ。
部隊収容のため到着迄に宿舎割をするように言はれ 準備をする。
第一中隊と第六中隊の部屋を決め、
第一中隊は1、2小隊、MGに割り、ついでに入浴場を見て歩く。
三十分程で本体到着、軍靴を脱いで上にあがる。
久しぶりにたたみの上に横になる。
部屋が綺麗なので驚く者あり、射撃した銃を全部手入れする。
大勢だから早く終わる。
入浴に入る。
小さい風呂だつたが大部分入った。
イイ気持ちだが安心、不安の感が常に交錯する。
外套を着て早く寝ると坂井中尉が来て全員を起す。
午後十時頃だらうと思ふ。
兵隊も目をこすりながら起きる。
座つていると中尉が
「今回我々が決行したことは本当に良いことであつて、
陛下の赤子の手足と頼ませらるる軍人の任務である。
建国以来の健軍の本義に立脚して最も軍人として名誉とする処 
亦 最もの手柄であると信ずる。
実に我々の心を汲んで
軍上層部では吾々の行動に賛成し好意を持て居てくれるから心配はない。
今後も将校の言ふ通り奮闘するように」
と 簡単に切上げて帰った。
これを聞いて兵隊も安心したのか横になると高イビキで皆寝た。
ガス暖爐の側で良い気持ちで寝る、暖い、昼の疲れも忘れて死んだようだ。
十一時頃また坂井中尉がきて兵隊を起す。
内田伍長は半分眠つているのかフラリフラリとして居る。
「我々の意見具申は真崎大将に総理大臣になつてもらい
政治を正して祭政一致を図る意志である」
と 言ふことを話してすぐ帰った。
何しろ畳の上を恋しく思ひ、二晩も寝られないのだから眠いことこの上もない。
話など明日にして下さいと云ひたい程
心身共に真綿のようになつていたのが今も思ひだされる。
コクリ、コクリと遠慮せず無ざまた゜。
でも下を俯しているので見苦しさは少ない。
早く帰ればよいと思っている。
兎に角下士官兵は可哀相だ。
寝台が恋しくなつてきた矢先、朝迄ゆつくり休む考へで一杯だ。
雪は未だ止まず、降ったり止んだりしている。

二十八日午前九時頃、命令で出発準備、
その間に差入れの晒しや国旗に尊皇討奸などと書いた。
赤いサラシが第六中隊、
第一中隊は白の晒で坂井部隊等記入したが
意気実に盛んなものだつた。
玄関より一度に繰出す事が出来ない為に六中隊のあと一中隊が出た。
入口前の車廻し付近は両中隊の兵で一杯になり身動きも出来ない程だ。
情況が悪くなつたのか面会室に安藤大尉、坂井中尉、高橋少尉、安田等の将校が集まり
忙しそうに緊張した面で外方との連絡を取っていた。
やがて将校も玄関の所に出て来た。
互に交す言葉から
次第に事件の拡大と共に吾々の方が不利になつてきたらしいことが感ぜられた。
話の様子では吾々は反乱軍として攻撃を受ける立場になつているらしい。
その二、三の理由はこうだ。
町の角々や重要道路上には土嚢が置かれ鉄条網が張られており、
相手方服装は防弾服、戦闘帽に鉄帽で警戒至極、
吾々とは全く異つた行動をとつていることだ。
でも そんなことに気をもむような気の小さい者は居ない。
(我々は将校の命令によつて一切の行動をとれば問題はないんだ) 
位いにしか考へていないのだ。
馬鹿なものは下士官に兵 
一生長生きの口で呑気に腰を据えて時期の到来を待っているだけだ。
俺の首切問題など他人事、
明日をも知れない命を最後迄歩兵軍曹を継続せしめようとは
少し気が太いように思はれたが仕方がない。
今考へれば当時の心境は実に果報者だつた、
須く人生は斯くの如くありたいものだと つくづく思ひ出される。
結果が悪ければ全員二重橋の前で腹を切り 
陛下に御詫びすればそれで一切終わりだなどと、大勢の前で気炎を上げる兵も居た。
坂井中尉が悲痛な面で下士官兵に向ひ
「最早吾々の行動に付けは一切批判は下さぬ、
勝てば官軍 負ければ賊の明治維新の大西郷の言葉のとうりだ、
将校各位の腹は決まった。
下士官兵も最早如何にせん方なし。只
々上官指揮下にありて行動するのみ。他に手段なし」
と言ふような説明があつた。
時に大寒の風に吹き枯れた 二月二十八日午前十一時、
それより正午の間幸楽の門前には大勢の市民集り
成行き如何と恐る恐る立止って見て居る。
天候も又雪空となり降り出してきた。
朝食が遅れたが各人に折詰が一つづつ渡った。
昼時になれば気になつてくる。
命令によつて頂戴す。
立食は寒く喉も通らぬ位いだ。

正午過ぎ 歩兵第一聯隊長(相沢中佐の判士だつた)小藤大佐が来られた。
安藤大尉と道路端で立話を始めた。
大尉が近歩その他の部隊が我々を攻撃する由にて、
道路に鉄条網を構築し服装等も違へて吾々の方に向って警戒をなしている由、
皇軍相撃と言ふことは私達の考へ及ばぬことでありますがと、
随分強烈な言論を以て大佐を攻め立てた。
大佐は心配相な顔をして小声で安藤大尉を落付かせている。
兵隊は大声で盛んに軍歌を歌ひ志気を上げている。
寸前の大過を知らずに安心立命も何のその、
大悟徹底していたことは相当なものだつた。

坂井中尉、高橋少尉が
自動車に乗って参謀本部、陸相官邸附近を偵察するとのこと、
私と青木軍曹が随行し四人乗りて行く。
降る白雪が顔に当って冷たいが勇ましい。
帰ってくるとすぐ出発だ。
第一中隊は参謀本部に向つて行進する。
無人の境を行くが如くはこのことか、
電車も自動車も通らぬ町を部隊は参謀本部の前に行く。
私の分隊は参謀本部と林野局と議事堂の四叉路上で警戒にあたつた。

夕方も雪風で冷たく肌に沁み込む。
内田伍長と二人で協同しての警戒だ。
議事堂の作業場の材料を持ってきて燃して暖を取る。
不安もなければ何も判らない。
何の目的で警戒しているかも明瞭にし知らぬ。

午後七時過ぎ、
林伍長、青木軍曹が交代に来る。
折角燃へ初めた木材を全部申送って帰る。
陸相官邸には中隊の警戒出動の残員が電気コンロで暖まっていた。
生れて初めて 陸軍大臣にでもなつたような気分で官邸に入る。
俺の家の税金も幾分かかつているだから少し位いはと思っていた。
然し 家の中は綺麗だ。
立派な椅子と絨緞を張った床面、土足で歩くのが勿論気の毒な位いだ。
兵隊は遠慮せずに皆腰をおろしている。
家の作り部屋の内部も国の財産の一つだけに立派になつている。
洋画が二、三点懸っている。
また昼の疲れが出て早くも椅子に寄りかかって白河夜船の姿になり、
楽しい夢の国に行ったような気持ちだ。
四叉路上にMGの鳥羽が重機二銃を陣地に据えて寝ている。
防寒具は外套だけ、感心なものだと思った。
官邸のの入口に来ると、鉄門の処に久保田上等兵が衛兵のような気分で、
営内にでも居る時のようにして濡れた薪木を吹き吹き燃している。
三日三晩夢中で過ごしたのに、
参謀本部に通ずる道路には丸分隊が警戒しているとの知らせだつた。

午後十時頃 大分静かになつてきた。
寒さもなく生れて初めて入る綺麗な家に一晩を明かし幸福この上もない位ひ、
邯鄲(カンタン)の夢淡しとか、
あのままあの世へでも行ってしまつたらこんな苦労もなかつたらう
と、思へば思ふ程 当時の思ひ出が限りなく胸を突きあげる。
至る処 忙しいような埋められるような気分が漂ふ。
後から氷でも負はされるような感じで、
心中の良心も判断力も失った現在、只々体を休ませたい。
毛布の上にゆつくりと、それのみを望みつつ静かになり行く夜の更けるにつれて、
知らず知らず眼を閉じて遊楽の夢を追ふ心地で、
二十八日の夜を椅子にもたれ翌朝までゆつくり休む。


帰隊
二十九日午前三時頃、
坂井中尉と高橋少尉が切迫しきつた時のような面で悲壮な声で、
邸内に居る各分隊に出動準備を下令した。
全員庭に集合すると各小隊、分隊毎に任務を付与された。
私の分隊は鉄門の内側にLGを据え直接防禦にあたる任務だ。
未だ二月、閏年最後の日、
大寒の真中、朝の三時外套を着ただけ、
数日来の降雪で靴の中まで濡れ冷たくなつているのだ。
靴下の交換もなく寒さが全身に沁みる。
物置等に燃料を探しに行き炭を見つけてくる。
すぐ作業にかかる。
少したつと表通りに陣地を変換した。
南北の警戒陣が良く見へる。
北の四叉路には鳥羽軍装がMGにて警戒している。
すぐ隣の参謀本部と陸相官邸の間の小路に林伍長が警戒している。
澁川善助氏来りて
「 情況が切迫してきたから市街戦を慮つて陣地を構築した方が良いでせう 」
と言ふので
箱、布団、雪等でLGの伏射の陣地を作る。

時払暁近くなれば
東空白々となり 寒さ益々加はる。
炭火も少し程あれば何分か寒さも内端に感ず。
気分やわらげば話も出て何時か寒さを忘れて朝を迎ふ。
曇天なるも雪は止み朝早くから、
ラヂオで何やら放送していたが風の音で内容が判らぬ。
随分長く放送して居るようだ。

    ----○-----○----
(罫線外)

戒嚴司令部發表

(罫線内)
「兵に告ぐ」
敕命が發せられたのである。
既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。
お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、
誠心誠意活動して來たのであろうが、

お前達の上官のした行爲は間違ってゐたのである。
既に敕命天皇陛下の御命令によって
お前達は皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、
それは敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。

正しいことをしてゐると信じてゐたのに、
それが間違って居ったと知ったならば、
徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって

天皇陛下にそむき奉り、
逆賊としての汚名を永久に受ける樣なことがあってはならない。

今からでも決して遲くはないから
直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。
そうしたら今迄の罪も許されるのである。
お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを
心から祈ってゐるのである。
速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。
戒嚴司令官 香椎中將
    ----○-----○----

午前七時過ぎ
陸軍省勤務の某大尉、
丈は五尺四、五寸、細面で目の大きい髪をはやした人が来て
奉勅命令が下ったから
皆早く聯隊に帰ってくれ、少しでも早ければそれだけ安心だ、
皇軍相撃といふことは大問題である、
我々は露国と戦ふ時が来るのだからその時 死んで御国の為に尽してくれ、
頼むから帰ってくれと親切に忠告してくれた。
然し 私達が将校に無断で帰ることは出来ない。
奉勅命令が下れば将校は知っているでせう、そうすれば将校も聯隊に帰るでせう、
と言って信じなかつた。
つくづく当時の世の中の状況が不明であつたのが欠点で
下士官兵全員の考へがこんなことだから
今日のような境遇に彷徨(ホウコウ)して居たのだらうと思ひ出される。
大尉はしんぱいそうな顔をして帰った。
また陸相官邸も静かになつたが 坂井中尉等将校は何処に行ったのか姿が見へない。
渡辺曹長と新軍曹、長瀬伍長、私、内田伍長等が居た。

午前八時頃
一機の偵察機が参謀本部上空を飛翔し
低空からパラパラと白赤の小紙片を撒布した。
ビラは方々に散り陸相官邸にも二枚程落ちた。
目をとおすと
一から七、八項まであつて、
奉勅命令が下ったから早く帰れ、
父母兄弟が早く帰順するようにと泣いている、
下士官兵に罪はないから早く帰れ
今からでも遅くはない、
云々と言ふ帰順を勧めるビラだ。
 ←飛行機より撒かれたビラ
何だこれは、奉勅命令が下ったと?
俺達の行動は悪いのかなど、蹶起した時のように異様な衝撃と共に逆賊の言葉が頭の中を駈廻つた。
さては将校に煽動され今まで甘言と上官といふ立場を利用し、
また平素下士官兵の行動に関し放任していたのは 今日あるを予め知らしめたに過ぎたのだ、と直感、
最早これまで 「 毒を食はば皿まで 」 と 下士官兵の心境は定まったが、
さき程来た将校がまた来て、
忙しそうに早く帰れ、早ければそれだけ良いことだ、
皇軍相撃はよくない、ビラを見ただらう、早く帰ってくれ、
それに兵隊の着剣、実包装填をとりはずせと分隊長に言った。
「 でも 之は将校の命ですから取るのはもう少し待つて下さい、
私達は坂井、高橋、麦屋 中少尉殿の指揮下にあります、
この方々の命令なら直に応じますので帰るまで待つて下さい、
その間相手方が射撃しても 私達は将校の命がないかぎり応戦いたしませんから安心して下さい」
と 返答する。
渡辺曹長は如何すべきか相当悩んでいた。
長瀬伍長が大尉の袖を取り
「 私達は只々陛下の御為の行動であつて
私達の考へが上に通じないと言ふことは返す返すも残念です」
と言上し 名刺を貰った。

世は正に暗闇だ、
しかし帰隊すれば何でもないとのことに一縷(イチル)の安心を持ち 心失呆然として将校を待った。
参謀本部の佐官二名、大尉一名が元歩MG隊長だつた榊原大尉と共に来て、
取れ剣と弾抜けを伝へた。
私達が如何にすべきか思案していると
榊原大尉がLGの尾頭底を取り複座発条をはずしたので、
とり返したりして右往左往しながら取れ剣、弾抜きをしていると、
坂井、高橋、麦屋の三名が真青な顔に悲愴な色を漂はせて、官邸に入って来た。
当時私は表門の処に居たが間もなく全員東側の道路上に集合を命ぜられ、
伝令を各陣地に走らせた。
全部引上げて来たが皆どうなるのか心配顔であつた。

時に午前九時半頃である。
林伍長の分隊が来ない。不明である。
整列すると小隊長の号令で坂井中尉に敬礼、
答礼した中尉は
「 皆御苦労だつた、御機嫌よう 」
の 一言を述べた。
小隊長に敬礼すると 同様
「 皆御苦労、御機嫌よう 」
と 述べ
官邸の中に入って行った。

雪未だ降りやまず
(続二・二六事件と郷土兵)
元歩兵第三聯隊第一中隊付軍曹 窪川保雄 筆
二・二六事件の記 から
(註・・・原文はカナ書きの文、読み易くするためひらがなとした


麥屋清濟少尉・挫折した昭和維新 1 『 私は無期禁錮 』

2019年08月11日 05時53分15秒 | 坂井部隊


麥屋清濟少尉

「 政治は時の主権者に従う 」
という言葉がある。
私が二 ・二六事件に参加した頃の国政は、
真に公正な指導原理を欠いた国策が行なわれていて、
およそ国民を対象とした政治など抹殺され、所謂 国民不在の政治が行われていた時代であった。
この世情を もう少し分析してみると、先づ、
国政をあずかる政党のうち主体となる 民政、政友の二大保守党が
共に腐敗堕落し 国民不在の政治を行っていたことが指摘される。
その例を挙げると、
対外的にはロンドン海軍軍縮会議で屈辱的な提案に妥協し、これを批准 (昭和五年) したことであり、
国内的には金解禁  (昭和五~六年) の実施で深刻な不景気を招来し 国民は塗炭の苦汁を飲まされ、
加えて東北地方を襲った冷害 (昭和九年)
及び 同年九月、関西方面に発生した大風害 (室戸台風)
   
身売りする娘                         室戸台風・大阪 四天王寺

など 一連の天災によって日本は未曾有の危機に直面した。
このため庶民は極度の生活困難に陥り、納税すら思うにまかせず、
教員の給料は遅払いとなり、東北地方八戸附近では娘の身売りがおこり、
工場では女工哀史が頻発する有様で、歩三でも東京近在の出身者は日曜ごとに家に帰り、
夕方まで家業の手伝いや引売り (豆腐屋) を 行なって帰隊するという状況であった。
私の村も同様で、食糧は兎も角、経済危機で村民は農閑期 (十月~四月迄約半年) 働きたくとも
当時職場はなく、止むなく遊んでもいられないので山仕事に出掛けるという有様で
金銭収入の途は殆どなかった。
たまたま時局匡救事業の一環として講じられた救済事業 (土木工事) も 村民が殺到したため
私用人数が制限され、余程の幸運がない限り人夫にも出られないという、
因に日当は五十銭であった。
このため学童が持ってゆく弁当はさつま藷が上の部で、
それさえもなく欠食する児童が大半であった。
まことに赤貧洗うが如し といった
現実そのままの姿に慄然たるものを覚えずにはいられなかった。
  
・・・ 後顧の憂い 
この窮状を早く何とかせよ、
仁徳天皇は民のカマドから立登る煙を眺めて政治を行ったというが、
現在でも天皇の政治は そうあるべきである。
それができないのは天皇のとりまきが悪いからだ。
徒に寄生虫的役割りを慣行するだけで国内に目を向けていないからである。
一方 陸軍部内では国内の苦境を他所に二つの主義がぶつかり合い
甲論乙馭の白熱化した場裡を展開中であった。
即ち 満洲以外に侵攻を企図する大陸侵攻作戦主義と、
満洲国政充実とを結び国内改革を推進し 共栄圏を作ろうとする、
いずれも未曾有の大構想であった。
そこで両者は己れの主義主張を貫徹すべく相手を屈服させることと、
国内の世論を短期間のうちに統一する必要に迫られていた。
このように国民の生活は日毎逼迫ひっぱくの度を強め 破綻に近づきつつある時、
陸軍は陸軍独自の一大野望をかかげて実行に移さんとする体制をほのめかしていた。
« これでは日本は滅亡する、一刻も早く国民生活の安定化をはかることが急務だ。
現下の国政は社会態勢の改善以外にない。
これを早急にしかも円滑に処理するには国体真姿の顕現であり、
大御心による政治以外には その打開策はない。
即ち 天皇に政治大権、軍制大権、経済大権等枢要の大権を奉還して
住みよい国造りをすることである。
満洲国の充実政策も、これなら併行して実施可能と思われる。
明治維新は日本の血の中から生まれた。 昭和維新も正にそれと同じである »
日本の国防と兵をあずかる下級青年将校たちの信念はこのような考えを抱き
憂国精神に燃えていたのである。
この考えは当時全国青年将校の一般的与論でもあった。
尚、在京師団では青年将校達による中少尉会が時折開催され、
日本の現状打開策が毎回討議され、
その都度上申書を作成し上層部に提出したが、残念ながら憤慨の域を脱することはなかった。
それは差出された上申書は全部握り潰しになったからで、その理由を一言でいえば
「 どうにもならぬ 」 というのが 本音のようであった。
やがてそこに持上ったのが北一輝の著書 「 日本改造方案大綱 」 で
青年将校の中にこれに共鳴する者が出てきた。
次いで 陸軍部に教育総監真崎甚三郎大将更迭問題がおこった。(昭和十年八月)
これに対し青年将校たちは、国民の生活難を無視して徒に大陸侵攻の野望に立つ陸相、
永田軍務局長を頂点とする幕僚一連の謀略により
皇道派の中心的存在の真崎大将を転出させたことに怒りを爆発、
その指しがねが統制派の軍務局長永田陸軍少将であるときめつけ、
この更迭に対し反対を唱えだした。
この憤懣はやがて相澤事件 (昭和十年八月十二日) となって爆発し、
永田局長は斬殺されるに至った。
その後 開廷された軍法会議の動向は、これまた全国青年将校の注目の的になり、
青年将校運動を更に高揚させた。

以上 要約して述べたが、
これが二・二六事件の勃発の背景で如何に国内が混乱していたか 推察できるであろう。
而して これを天皇親政の政治に戻し、
国民が安心して生活できることを目的として蹶起したのが二・二六事件である。
この場合主謀者が尉官級であったのは、
陸軍の権力主義を持たぬ純粋性が尉官級の他に求められなかったからである。
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・・・中略・・・ 次頁 
麦屋清済少尉・挫折した昭和維新 2 『 リストにある人物が現れたら即時射殺せよ 』
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裁判は三月五日から七月五日までの間、数回出廷して行われたが、
この裁判は弁護なしの一審制で控訴を認めず、非公開、傍聴人なし
という 東京衛戍特設陸軍軍法会議というものであった。
やがて六月四日 求刑がいい渡された。
勿論死刑である。
今までの裁判過程では当然予想された結果だ。
国家がどうなろうと、
それを憂いて蹶起した精神が正しかろうと、

そんなことは裁判には関係はなかったのである。
要は統帥権を干犯し 国軍を私兵化して人を殺害したことに焦点が置かれていたのだった。
しかも
天皇までが 激怒され 即時鎮圧を下令されたとか、
あまりのことに二の句も出ない有様だ。
だから法廷において 村中、磯部の両名は激しい口調で憂国の赤誠心をブチまけ、
国政の腐敗をなじり、軍閥によって陸軍は崩壊すること、
更に偏見とも思われる大御心を叱責したのである。
また 安田少尉は刑死寸前、大音声を張上げ
「 国民よ、軍部を信頼するなかれ 」
と 叫んだそうである。
これには深い意義がある。
軍部とはこの場合 上層部を指しているが、
本人をして ここまで云わしめたのは並大抵の憤激ではなかったものと推察できる。
事件の結果は真にうたた慟哭どうこくの一語に尽きた。
七月五日 判決がおりた。
私は無期禁錮刑に決まった。
私は意外な気持ちで判決を聞いていたが、この時死刑をいい渡されたのは現役将校十三名、
地方人四名 計十七名でその次に私がランクされていた。
死刑の執行は一週間後の七月十二日 朝七時から三回に分けて行われた。
刑場は所内の西北の隅に特設され、銃殺による処刑方式であった。
その朝 点呼が終り、しばらくすると彼等は五人ずつ一列になり、
先任者が号令をかけ 歩調をとりながら刑場に向っていった。
行進に移ると 誰の口からともなく 「 昭和維新の歌 」 が はじめられた。
汨羅の淵に波騒ぎ  巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば  義憤に燃えて血潮湧く
歌声は悲壮感がこもり 私の胸にも突きささる思いであった。
死んで行く彼等の心境は真に歌詩そのものである。
私はだんだんちいさくなってゆく歌声を追いながら ひたすら彼等の冥福を祈り続けた。
こうして三つの組が一時間の間に私の目の前を通過していったが、
それっきり戻ってはこなかった。
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リンク→天皇陛下万歳 
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その後 私の身柄は小菅刑務所に移され、思想犯として服役に入った。
無期刑なので気を長くもって服するようにつとめるうち、
翌十二年、立太子式による恩赦に浴し刑期が二十年に決定した。
その頃だったと思うが 井出前聯隊長が面会にこられた。
既に少将となり敦賀の旅団長として赴任するとかで立寄られたが、
相変わらず肉親のような気がして久しく忘れていた嬉しさを味わった。
また 同じ頃 石原大佐もきてくれた。
彼も中将に昇進していて京都の留守師団長になっていた。
「 皆と一緒に昭和維新をやりたかった。君たちばかりに気の毒をかけたな 」
と 何か不遇をかこつ様子をチラつかせていた。
だが 何もかも 後の祭りである。
坐して刑に服するばかりでしかない私なのである。
次いで昭和十五年、二六〇〇年記念の恩赦で五年減刑となり一五年となった。
昭和十六年には太平洋戦争が勃発し、
泥沼化した支那事変から更に滅亡への方向に突入していった。
かつて我々を弾圧した統制派が皇道派を駆逐して権力の座につき、
軍閥政治を抬頭させ、思うがままの大芝居を打ち、破局への道を進み出したに他ならぬ。
十七年になると帝都には度々空襲警報が発令されるようになり、
刑務所内にも消防隊が組織された。
私は所長から消防団長を任命されたので゛思想犯をもって消火班を編成、
ポンプの操法、消火訓練など重ね 万一に備えた。
この思想犯の中には共産党の佐野学がいて、彼は消火訓練になかなか積極的であった。
こんなことから私は柳川看守長と以前にもまして仲良くなった。
その年の十二月三十一日、はからずも特赦の発令で私を含め三名が仮出所となった。
これは入所中改悛の情が顕著であったというのが理由だそうである。
早速 仮出獄証書を受領し刑務所の裏口からソッと出て、その夜は看守の合宿所に一泊、
翌日 指示された司法省刑事局の太田書記官の所に出頭し あいさつすると、彼は
「長い間御苦労だった。仮出所は国の命令によるものである。
これから静養して身体を丈夫にしてもらいたい。
今後君たちの振り方については別命がある筈だから承知しておいてもらいたい。
下命があった時は同輩と同じぐらいの待遇が与えられるから安心せよ。
それまでしっかり休養しているように 」
と いった。
別命とは何か、私はその時 特攻隊か特務機関あたりに行くのではないかと直感した。
こうして私は久し振りに家に帰ってきた。
仮出所のため刑期が明けるまでは身の所在を明確にする義務があり、
家をあける時は必ず地元警察に届出または連絡することになっていた。
戦争は愈々激しくなり南方では玉砕が相次ぎ 敗色が濃厚になってきた。
そうした中で私はひっそりと農業をやり蚕を飼いながら別命を待った。
しかし日本各地が空襲を受けるに至り日毎主要都市が消滅し、
やがて終戦となったが遂に何の音沙汰もなかった。
そしてその年の十月十七日、
東久邇宮内閣の時 大赦が発令され、私はようやく青天白日の身に戻ることができた。

あれから既に四十数年が経過し
二・二六事件は日本歴史の一頁におさまろうとしている時代になった。
私は当時を想起するたびに、
誰にもできなかった最大の仕事をやったという誇りが湧いてくる。
終戦後は地方の政治にも関与し、養蚕組合長にもなったが、
大きな仕事はやはり二十代で終わったのだと思っている。
あの安田少尉が事件連座の将校を代表しての大音声の血の叫びは見事に的中した。
即ち事件後軍閥は我々の思想とは正反対に、我々を踏台として展開し、
日中戦争---太平洋戦争へと突進したものの戰勢李らず、
昭和二十年、
広島 長崎の原爆投下を最後に八月十五日 敗戦の聖勅はくだり 遂に降伏するに至った。

・・・敗戦の日

かくて 天皇は人間天皇となり、軍は壊滅、主権は在民となり、
社会福祉の充実、言論、政治、結社、宗教は自由となり、
皇族の臣籍降下、華族制度の廃止、

寺社仏閣等特権階級の追放等、
現実的大御心の政治経済という国家は日本人の血に求めることはできなかったが、
外国の手によって所謂 昭和維新が達成されたのはあまりにも皮肉である。
昨日を憶い 今日を考える時、
人知れず無量無限の感に打たれる次第である。
やはりこれが生甲斐ということであろう。

二・二六事件と郷土兵 (  昭和56年・・1981年 )
歩兵第三聯隊第一中隊付 麦屋清済少尉 「挫折した昭和維新の回想」 から 


麥屋清濟少尉・挫折した昭和維新 2 『 リストにある人物が現れたら即時射殺せよ 』

2019年08月10日 11時19分42秒 | 坂井部隊


麥屋清濟少尉

前頁 
麦屋清済少尉・挫折した昭和維新 1 『 私は無期禁錮 』 ( 中略部分 ) の 続き

その頃私は三カ月の教育を修了して陸軍歩兵学校から帰隊した。

その時の聯隊長は井出宣時大佐で、帰隊直後本部の貴賓室で令旨の伝達が行なわれた。
これが所謂 「 粛軍の令書 」 で 陸軍騒擾危機を目前にして全軍を対象として下達されたものである。
当時 歩一、歩三には革新思想を抱く青年将校が多数あって、
青年将校運動の中心的存在として益々激化する事態にあった。
そこで 井出聯隊長は令旨の伝達があった数日後 (八月か九月頃と記憶) ひそかに私を呼び、
聯隊内の青年将校運動をスパイせよとの密令を下達した。
聯隊長としてはこのことについて大変心配されていてスパイの適任者を私に求めたのである。
私は受諾したものの同志を裏切ることはできないので、一度も報告したことはなかった。
そのうち第一師団の渡満が内定すると井出大佐は参謀本部軍事課長に栄転され、
後任にはハルピン特務機関長の渋谷三郎大佐が赴任してきた。
十二月二日付である。
渋谷聯隊長も、恐らく情報を把んでいるので青年将校運動には着任早々から頭を痛めていたことと思う。
当時青年将校の秘密会合は聯隊近くの竜土軒というフランス風の小料理屋が使用され、
私も二回ほど出席したが、昭和十一年に入ると謀議はいよいよ核心に入り白熱化した。
中でも蹶起にあたり問題となったのが下士官兵を参加させるか否かの重大事項で、
一部には将校だけで決行すべきだと主張する者もあったが
結論では兵を同行することに意見が一致した。
この理由は要するに---
大御心を実現するには軍隊をもって実施するのが当然である。
政道を正し、天皇道にするためには下士官兵をもあわせて一丸とならなければならない。
それ故 私兵化と見られようが天皇のために行動するのであるから
統帥権の干犯にはならない
---と するもので、この統一見解によって下士官兵の出動がきまったのである。
なお蹶起はあくまで君側の奸を除き昭和維新を断行するのが目的であって、
あとは天皇の命をまつという、かつての他国に発生したクーデターとは全く異質の蹶起である
ことを関係将校は皆承知していた。


蹶起部隊進撃経路

斎藤実内府邸襲撃要図
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かくして 二月二十六日未明蹶起し、
第一中隊は第二中隊の参加兵を併せ指揮し、
午前五時 斉藤内府邸を襲撃した。
この時の私の任務は 最初誘導将校で、
現地到着後は突撃隊指揮官になる予定であった。
しかし赤坂附近にきた時、急に任務が変更された。
それは警官の姿が漸次目立ちはじめたので邸宅周辺の警戒配備、
殊に赤坂見附方向警視庁新撰組の出動に対応するMG二コ分隊の配置という
重要任務が生じたからで、これを配備した後、突入することになったのである。
そこで早速状況判断の上MG陣地を決定し配備をすませた後
私邸に行き、邸外に待機中の一コ分隊を指揮して邸内に進入した。
屋内に入り奥深くまで進み階上にあがろうとした途端、
階上からけたたましいLGの音が響いてきた。
同時に婦人の声と共に悲痛なうめき声が聞こえた。
やがて階下に降りてきた坂井中尉は
「 状況終わりッ!」
と 叫び
重ねて
「 中隊は赤坂離宮北十字路に集結せよ 」
と 命令した。
全員が正門前に整列すると
坂井中尉は拳銃と共に鮮血滴る右手を薄闇の天高く掲げ
「 奸賊齋藤実を只今打ち取った。昭和維新は日の出に輝く、日本国万歳!」
と 大音声を放った。
兵もこれに呼応し 万歳 を叫ぶ。
それからすぐ赤坂見附を目標に行進に移った。
私は先頭に立っていたが、この時全員はなお戦闘体制のままであった。
途中、市川野重隊の田中中尉指揮する軍用トラックに会い、
ここで中隊の編成替を行い、
高橋少尉、安田少尉 ( 砲工学校)  が 約一コ小隊を指揮してトラックに分乗、
荻窪の渡辺教育総監の襲撃に向った。

あたりがようやく薄あかりになったので
私の方は急いで赤坂見附の交叉点に行く。
到着と同時に
見附台上に歩哨線を張り、
警備と交通遮断の任務についた。
この時、磯部、村中の両名から
「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」
という 強硬な指示を受けた。
以後 警備中私の所に見えた主なる人物は次のとうりである。
1 赤坂憲兵分隊長--同行した花田運転士(憲兵上等兵)
    はその後熊谷憲兵分隊長となった人である。
2 山崎大尉--後にアッツ島で玉砕した人だが、
    彼は指揮刀をさげ単身で私の所にきて
    物凄い見幕で食ってかかり、そのまま歩哨線を突破していった。
3 石原大佐--チエックリストにある人物である。
    彼は悠々と胸を張り歩哨線を突破しようとした。
    この時新品少尉云々といったが 後の言葉は覚えていない。
    只、維新をやるから通せといった事だけが印象深く頭に残っている。
そこで私は
「大佐殿、ここを通らないで軍人会館に行って下さい、
大佐殿のために御願いします。ここを通れば射殺せねばなりません。
しかし小官にはどうしても射殺できぬ苦しみがあります。 どうぞお察しください 」
と いうと
大佐は止むを得ん
と いって私の歩哨線を避けて行かれた。
 石原莞爾大佐  陸軍大臣告示
午後三時三十分、待望していた陸軍大臣告示がでた。
我々の蹶起の趣旨が天聴に達したことは、この行動が正しいものと御認め下されたものと
部隊将兵は感涙にむせびながら喜びあった。
この告示はひとり我々ばかりではなく、全陸軍にも伝達され、
陸軍省では早くも維新大詔の起草に着手し、
全国の大多数の将校は昭和維新の実現を期待する態度へと傾きかけた程であった。
我がこと成れり、
これで日本は再び安定した社会秩序が確立されるであろう。
今更に昭和維新断行の偉大さを反芻はんすうせずにはいられなかった。
こうして蹶起部隊は二十七日以後戒厳令施行に伴い、戒厳司令部命令をもって
歩兵第一聯隊小藤大佐の隷下にはいり、麹町附近の警備にあたるべしとの命令に従い
行動することになった。
この間 事件発生と時を同じくして、
村中大尉、磯部主計大尉、歩兵第一旅団香田大尉は

時の陸軍大臣川島大将を陸相官邸に詰問し 昭和維新断行を告げ、
速やかに宮中参内して事態の収拾に全力を尽すよう要請した。
その具体的かつ早急実施の昭和維新要項は次のとおりである。
真の大御心による国家の建設
a 軍制大権、政治大権、経済大権の即時奉還。
b 財閥の解体---これがため資産百万円以上の財産を凍結し生活におののく国民を救済する。
c 軍需産業、独占企業の国家管理。
d 皇族一親等以外の臣籍降下。
e 華族制度の改廃、功績に応じ一代制とする。
f 寺内、林、小磯各大将及び片倉少佐の即時罷免。
だが 我々の要旨とは裏腹に事態は漸次逆方向に推移し、
二十八日になると午前八時に奉勅命令が出された。
この内容は蹶起部隊の原隊復帰を命じたものであったが、
どういうわけか我々には伝達されなかった。
この辺の事情は謎となっているので私にもよく解らないが、途中で握り潰されたものと思われる。
その理由を述べれば、部内の一部に反対者がいたからで、
それは当時第一師団長の堀丈夫中将が部下歩一、歩三の将兵を見殺しにできず、
そのため部下と運命を共にするとの考えに移行したためとみられる。
そこで第一師団は先ず 全力をあげて近衛師団を攻撃する構想をたて、
これを巡って二十八日から二十九日朝まで、
鎮圧軍内部は混乱と錯綜が渦を巻き想像を絶するものがあったという。
この事は 当時我が方に情報として入手もしていたし、後の公判にも出てきたので確かな事実だ。
また 陸軍大臣告示を出しておきながら二日後には反乱軍ときめつけては
蹶起部隊を激昂させ事態収拾はかえって困難になる。
それを承知で伝達する使者など、引受け手がいないというのが筋のようであった。
だから我々には正式な命令など最後まで接することはなかったのである。
それよりも陸軍上層部の考えは、事態がこのようになっては
最早や蹶起部隊全将校に自決してもらう以外になく、
それが国民に対して軍の威信を保持する最良の方法だと割切っていたようだ。
午後になると益々周囲が物々しくなり、各地から上京してきた部隊が我々を包囲し
今にも攻撃してくる気配を示してきた。
今や我々は完全に色分けされ、彼等は鎮圧軍、当方は反乱軍と化したのである。
奉勅命令を知らぬ我が方は相手があまりの高圧的な態度に出てきたため怒りがこみあげ、
やるならやってみろと全員戦死を覚悟で陣地についた。

緊張した一夜を明かし二十九日朝を迎えると、各所からスピーカーが鳴り出し
上空からは飛行機が盛んにビラを撒布した。
最早や 抵抗の余地はなくなった。
順逆の理は度外視され、奉勅命令に従う他に道はない。
これに反抗すれば逆賊になるだけだ。
もう何もかも終りである。
昭和維新がガタガタと崩れてゆく。
私の警備地区たる三宅坂一帯、陸相官邸を中心に布陣した蹶起部隊の最後の秋はきた。
この場に臨み宮城を背にした陣形の中で我々三人の将校は、
各要所の歩哨線で君ケ代のラッパ吹奏し宮城に向って最後の捧げ銃を行った。
こみあげる涙は止めどなくこぼれた。
嗚呼、非理法権・・・・。
午前八時、
今まで人の往来が頻繁だった三宅通り、赤坂見附一帯は、人っ子一人の姿もなく、
昼間だというのに静寂が漂い無気味な気配に覆われた。
道路に面したドイツ大使館のラジオだけが鳴響き、
鎮圧軍の攻撃体制が着々と完了してゆくのがキャッチできた。
彼等は徐々に前進してきた。
しかし皇軍相撃がどうしてできよう。
もしどちらかが発砲したらどうなるか、それこそ生地獄の修羅場が現出するであろう。
しかし天は銃声を取りあげた。
一発の銃火もなく 敵も味方も皆熱い涙に濡れていた。

九時頃 遂に断がくだり、
第一、第二中隊の下士官兵を帰隊させ、我々坂井、高橋、麦屋の三将校は
元 歩兵第三聯隊長山下奉文少将に抱かれるようにして陸相官邸に連行された。
当時陸軍はここで我々を自決させる計画であった。
そのため参謀本譜の附近には我々の屍を収める棺桶が用意してあるのが望見された。
我々もまた遺書をしたため潔く自決する覚悟をかためていたことはいうまでもない。
もう逃げもかくれもしない、従容として死につくつもりであったが、
あまりにも急ぎ立てるので遂に怒りがこみ上げてきた。
この時ここに閉じ込められた将校は十四、五名で皆自決するつもりでいたが誰というとなく
死ぬのはあと廻しにしようと決心をひるがえした。
( 軍は我々の意向を抹殺してこの事件を闇に葬るつもりである。
ここで死んでは犬死になる。そして反乱軍の汚名を甘受したことになる )
そこで多分栗原中尉だと思うが 「 勅使の誤差遣を仰いで然る後自決しよう 」 という意見が出され
全員これを了承した。
早速居合わせた高官連中に依頼し宮中に侍従武官を通して取次いでもらった。
数刻後 我々のもとへ返信が伝えられたが 期待すべきものではなく、
« 勅使などもっての外だ、死ぬなら勝手に死ね »
という 冷水の如き言葉であった。
ここで我々の決心もはっきり決まり 自決を中止した。
隣室では何やら激論が交わされているらしく、大声が漏れてきた。
夕刻五時頃 岡村大佐が顔を出し一人一人の心境を訊問した。
最初は林少尉だったが 「 大御心のまま 」 と 答え 以下同様の答を返した。

この日 自決したのは野中大尉 唯一名であった。
残る我々は以後 軍法会議において堂々と所信を述べ
現状の腐敗堕落と昭和維新断行への憂国の情を天下に知らしめるため刑務所に入った。
収容されたのは代々木陸軍衛戍刑務所の独房で、
私の入った房はかつて幕末の志士橋本佐内が幽閉されていた部屋であった。
ここで私は口頭命令に接し二月二十七日付で免官になった。
その頃実家には憲兵が行き、位階に関する発令書等を全部引上げていったそうである。

・・・前頁
麦屋清済少尉・挫折した昭和維新 1 『 私は無期禁錮 』 の 中略部分以降へと 続く

二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第一中隊付 麦屋清済少尉 「挫折した昭和維新の回想」 から


安田少尉 「 天誅国賊 」

2019年08月08日 09時00分34秒 | 坂井部隊

《 斎藤内大臣 襲撃 》
私は当時第五班に所属し、初年兵教育の助手として毎日訓練にはげんでいた。
二月二十六日、
多分零時頃だったと思う、
就寝中いきなり窪川班長に起された。
「 すぐ軽機を組み立ててくれ、それから一装用の軍服を着用するのだ 」
私はかねてから渡満の話を聞いていたので、
愈々出動命令が下ったのかなと思いながら 云われるとおりに従った。
軽機は普通訓練用の銃身を装備して演習に使用していたが、
今から実戦用の銃身と交換せよというのである。
持ってきた銃身はグリスで格納されているので、この油をふきとり スピンドルを塗って交換する手順となる。
私は手早くに作業を進め組立てを終わった。
三時頃になると非常呼集がかかった。
班内は あわただしさの中で全員が軍装を整え、持込まれた弾薬と食糧を受取ると そそくさと舎前に整列した。
やがて大隊副官の坂井中尉がきて命令をくだした。
「 只今より中隊の指揮は坂井が執る。
命令---命により これから昭和維新を断行する、よって国賊に対して天誅を加える。
合言葉、尊皇=討奸 」
私は はじめ何のことか判らなかったが、
多分帝都に暴動が起こったので鎮圧のために出動するのではないかと推考した。
しかし 昭和維新ということが何であるのか、説明がなかったのでなんのことか判らなかった。
もう一つ、中隊兵力が殆ど出動するのに中隊長矢野大尉の姿が見えず、
関係の薄い坂井中尉が指揮をとるのは変だが 鎮圧を急ぐため、このような応急手段をとったのかもしれぬ・・・
私は自分なりの解釈をしながら坂井中尉の訓示を聞いた。
( この時 末吉曹長、中島軍曹の二名はすでに逃亡していた )
ここで出動にあたっての編成が組まれ、
私はさきの軽機を携行して初年兵ばかり約一〇名を従え軽機分隊となり、その分隊長となった。
なお今後は将校と行動を共にするよう命令を受けた。


やがて三時三〇分
積雪の営庭を出発し粛々として乃木坂をくだっていった。
雪がまた降り出し あたりは白銀一色に覆われ、猫の子一匹見えず街並は静寂そのものであった。
約一時間も行進した頃 隊列はフト停止した。
場所は四ツ谷仲町附近である。
そして隊列が自動的に崩れ 予め示された警戒位置に向って一斉に散開した。

何と襲撃目標は斎藤内府邸であった。
散開したあとに残った兵力は概ね二〇名弱、これが襲撃班だ。
私もその中の一人、
将校は坂井中尉、高橋少尉 それに砲工学校から参加した安田少尉の三名、
麦屋少尉は警戒分隊への指示でまだ見えない。
五時
正門から襲撃開始、
数名が塀を乗り越えて中から門扉を開き、主力を邸内に誘導すると
約一〇名くらいの護衛警官があわてて仕度しているのに遭遇した。
これを忽ち包囲し、
「 静かにしろ、邸の周囲には二千名の軍隊が包囲しているのだ、抵抗は無駄だ!」
というと 警官は観念したように腰をおろし命令に従った。
だが この内数名だけはどこかへ逃走したようであった。
襲撃隊は当初二手に別れたが 急に一団となり建物の裏手から突入をはかった。
先づ 雨戸をこじあけようとしたがビクともしないので小銃の床尾鈑で叩きこわして内部に進入、
そこは女中部屋で女どもが物音に驚き震えているのが見えた。
そこへ書生らしい若い男が出てきて 「 何の用ですか 」 と いった。
「 斎藤内府に用事があってきた。部屋に案内してもらいたい 」
すると書生は素直に返事をして二階の寝室に案内した。
その後に坂井中尉、高橋少尉、安田少尉、林伍長、そして私の五名が続いた。
部屋の前までくると我々の足音に目をさました夫人が、
ソッと戸を開けたが我々の物々しい姿に驚き戸を閉めた。
しかし多勢の力には抗すべくもなく戸は難なく開かれた。
部屋の中には電灯がともり明るかった。
一歩部屋の中に踏み込むと夫人は我々の前に手をあげて立ち塞がり
「 待って下さい 」
と 叫び進入を拒んだ。
しかし我々は耳をかすこともなく夫人を払いのけ奥の寝室の戸を開けると、
そこに目指す斎藤内府が立っていた。
それを見た一団は一斉に近迫したとみるや
先づ安田少尉が
「 天誅国賊 」
と 叫び拳銃を発射した。
その距離僅か一米、弾丸は正確に心臓に命中、内府は二、三歩後退するような恰好で倒れた。
すると夫人が横から飛び出し 内府の身に馬乗りになって抱きかかえ、
「 殺すなら私を殺せ 」
と 半狂乱になって絶叫した。
夫人は渾身の力で内府をかばい、しっかりと抱きしめているので引離すことができない。
これ以上は銃弾を浴びないように防ぐ姿に一瞬たじろいだが
目的を達するため拳銃を差入れるようにして次々に発射、私も軽機で十五発発射した。
頃合いをみて 安田少尉が軍刀で止めを刺し 斎藤内府襲撃は終了した。
時に午前五時十五分である。

《 渡辺教育総監 襲撃 》
部隊は間もなく正門前に集結し 万歳を唱えたあと二手に別れた。
主力は坂井中尉、麦屋少尉の指揮で陸軍省へ、
私たち襲撃班は徒歩で赤坂離宮前に行き、そこからトラックで荻窪に向った。
目標は渡辺教育総監である。
午前七時頃
正門前に到着、そこは総監の私邸であった。
直ちに門を押しあけて邸内に進入、
襲撃は表と裏の両面から実施するため進入しながら二手に別れた。
私は表玄関組である。
早速屋内進入にかかったが玄関の戸締りが厳重で思うように開かない。
そのうち内部から拳銃を射ってきたので忽ち銃撃戦となった。
そこで私も軽機を腰だめにして拳銃音をめがけて連射した。
数分たった頃、 「 裏口があいている 」 という連絡がきたので全員裏口に廻り
安田少尉が先頭を切って屋内にはいった。
我々の襲撃を察知した総監はここから脱出しようとしたのではなかろうか。
安田少尉はツカツカと進んで部屋の戸をガラッとあけると、
そこに夫人が襖を背に、手を拡げて立っていた。
安田少尉が総監の部屋を尋ねるといきなり、
「 あなた方は何のためにきたのですか、用事があるのなら何故玄関から入らないのですか 」
と 大声をあげた。
夫人は勿論総監の居場所など答える筈はない。
しかしその様子で大体察しがついた。
その奥の部屋にいるらしい。
いや、いる筈である。
そこで高橋少尉が夫人を払いのけて襖を開放した。
すると布団の付近から突然拳銃を発射してきた。
正しく総監であった。
その部屋は八畳ぐらいの寝室で、
総監は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しているらしい。
ここでまた応戦の形で銃撃戦が行なわれたが、
相手が一人のために瞬く間に決着がつき
高橋少尉が布団の上から軍刀で止めを刺して引きあげた。
この襲撃も時間にすればせいぜい二十分位だったと思う。

ここで一言したいのは夫人の態度であるが、
襲撃の間、横の方で放心したように立ったまま見ていたようで、
斎藤内府夫人の様に主人をかばうことはしなかった。
もうそのような気概が起こらぬほどショックを受けていたのかもしれない。

襲撃を終わった私たちは再びトラックで都心に戻り、三宅坂附近の警備に入った。
その夜は現地で過ごし
翌二十七日は陸軍省、参謀本部に移り 他の部隊と合流して警備に当った。
この附近には外国公館が多くあるので行動にあたっては絶対に宅地内に入らぬよう細心の注意を払った。
当夜は料亭幸楽に移り仮眠をとった。
その頃から聯隊からの食事が止り空腹が徐々に身をさいなみ始めた。
事態が刻々変化するうち二十八日を迎えた。
私たちはなお籠城を続け 幟を立てて志気を鼓舞した。
玄関入口には民衆がつめかけ喊声をあげて内部に入ろうとしているが、
警官に阻止される状況が続いている。
民衆は我々に味方しているのであろうか。

二十九日になると状況が急変し 将校、下士官の姿が見えず兵隊だけになった。
加えて鎮圧軍の戦車に包囲され 午後一時過ぎ遂に武装解除をうける羽目になった。
最早万策尽き鎮圧軍に降伏するの已むなきに至ったのである。
私たちはやがて丸腰にされ トラックに乗せられ、そのまま原隊に送りかえされた。

歩兵第三聯隊第一中隊 上等兵 中島与兵衛  『私は軽機射手だった』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から


「 私も連れて行って下さいと願ふ 」

2019年08月06日 10時14分26秒 | 坂井部隊

二月二十五日の中隊内の情況----命令下達から出発まで
(二月二十五日午後十時--二十六日午前四時)

雲上りの寒空、二月二十五日、まだ営庭には残雪が木々草々を埋め荒々しく残る。
朔風
(サクフウが梢を打つて凍りつくように、星の光も透き通つて青光に輝いている。
点呼の終った兵舎は消燈の準備も早く就寝の号音によつて一斉に寝台上の人となり
一日の心労を癒す。
時に暗い外の寒風も止まず戸の隙間より入りたる風が冷く足をひやし、上衣を脱いで
寝につくと丸伍長が下士官全員将校室に集合の命令を達した。
起出てみると何となく異様な胸騒ぎがした。
静かな兵舎内は気味の悪い台風襲来前の静けさの如く感ぜられた。
静かな隊内に今にも爆発が起るような雰囲気に包まれ、そしてこの静かさの中に深く
引込まれるような、ふわりふわりとして心が落付かず、かつて覚えたことのない感じだつた。

時計の針が午後十時を指した時、中隊命令簿並に班長手簿を持つて階下におりる。
我々に或は兵に対して平日の行動或は他日の演習のことならんかと集合す。
末吉曹長、中島軍曹、自分、内田伍長、梶間伍長、林伍長、高岡伍長、丸伍長
ドヤドヤと入る。
こちら向きに坂井中尉、麦屋少尉が居た。
坂井中尉が平日に似合ぬ謹み深い眼で緊張した表情で、下士官全員を見守りながら
人員を点検しているようだつた。
机の上には地図や雑本が雑においてあつた。
麦屋少尉も口をしめて軍刀を腰に佩(ハイ)していた。
普段は下士官が将校の前に行った時は、古参者の 「 敬礼 」 の号令で敬礼し、
終わるとすぐ用件の口舌を切るのだが、今夜に限って仲々用件を達しない。
拳銃なども本立ての蔭にあるのが目に付く。
之は只事ではないなあと思っていると
坂井中尉が、底力のある声で命令のような 亦 同意を求めるような口調で話出した。
「愈々 かねてより計画してあつた昭和維新に向って在京部隊が
一斉に立つて邁進することになつた。
歩一の主力、歩三の全部、近歩三の大部分等が先づ決行した後、他の部隊もゾクゾク
之に参加する予定である。
歩三は週番指令の命令により第一中隊は俺が指揮して之に参加する。
第一中隊の襲撃場所は斎藤内大臣邸である。
なほ 続いて第二次も計画されている」
と述べた。
すると両将校の態度が硬化し何とも表情し難い面構えに変った。
その語句の間に、
我々皇軍がこの時に立たなかつたならば帝国はどうなるかはすでに明らかで、
我々の言を待たない処である。
懼れ多くも陛下の囲りを悪い重臣が取巻き、陛下の御陵威を下万民に分かち恵み下すことが
出来ず、之を幸に重臣官僚軍閥財閥等がその袖にかくれて私慾に走り
己が栄華をほしいままにし--(中略)」
中尉は語句を切り思ひついたように 第二中隊の下士官を呼べといつた。
末吉曹長が渡辺曹長を、梶間伍長が長瀬伍長、青木軍曹、北島伍長を呼びに行く。
数分にして渡辺、青木、長瀬の三名が来た、末吉曹長も戻った。
寒さは厳しく全身の身震いは仲々腹に力を入れた位いでは止みそうもない。
その内 坂井中尉が三名に対し同様の話を述べたあと
渡辺曹長に 「 ヤレルカ、ヤレルカ 」 と二回程念を押す。
曹長当惑していたらしいが嫌だとも言へずか、「 ヤレマス 」 と答へた。
之に力を得た中尉は、
地図、雑記帳を出し、下士官を円陣にして各人の担任部署を示された。
次いで大臣邸の地形図、経路を示し、分隊ごとの任務を下達、細部は後刻達するとして打切り、
明朝非常呼集を行ふまでゆつくり休めと言はれ 一同退出した。

俺と丸伍長が話をしていたら 新軍曹が来た。
「 どうだ、行くんだがどうしよう 」
「 何も心配はない、将校の言ふ通り動作すれば間違いなしよ、
もし 間違つたら将校が腹を切りやそれで情況おわりなんだ 」 などと話合い俺は寝た。
丸 と 新 軍曹は泡盛をチビリチビリと飲んでいたが心配している。
俺は別に気にもかけずに寝てしまつた。

午後十一時頃、高橋少尉が下士官室に来て
「 オイ 起きろ、オイ起きろ 」 と揺り起こしたので起出ると、寒い風が身に沁みる。
静かな夜だ、暗い中を不寝番の足音がコツコツと聞こへるのみだ。
下士官全員将校室に行く。
第二中隊からも蛭田などが来た。
最細部について指示が出された。
私は赤坂離宮の北側三叉路上でMG一ケ分隊とLG一ケ分隊をもつて警戒する任務を受けた。
末吉曹長、中島軍曹、新軍曹、内田、梶間、木部、林、丸、高岡の各伍長もそれぞれ任務を与へられた。
突進隊し林伍長の組だ、
物凄い程用意周到至れり尽せりの計画で全身に武者振るいが波を打ち恥かしいくらいだ。
この時、坂井、高橋、麦屋の将校の他に見知らぬ砲兵少尉が一人居て 坂井中尉の紹介で、
高橋少尉と同期の市川野重七聯隊の安田優少尉なるを知る。
我々と心を同じうして国家の為に奉公する方だと言った。
最後に邸に行くまでの道路を地図で見る。
何しろ事が大きいので武者振るいが本心からで止めようと思っても止らない。
人前があるので内務班に帰る。
先づ 二年兵を起してLGの組立てを命じた。
またすぐ将校室に行く。
邸の内外概略の地形を図によつて当時記憶していた処だけを記す。

LGの実包銃身の交換は中島上等兵、福島一等兵、宇田川一等兵の三人が全部を行った。
下士官全員への指示が終わつたので、それぞれ下士官室に帰った。
下士官一同もあまりのことで話するにも力なく不安の内にお互ひに元気付けていた。
時刻は午前二時だ、寒さは更に厳しくなつてきた。
新軍曹は聯隊全部の弾薬分配、中島軍曹は中隊の弾薬受領、丸伍長は糧秣を、
私達は班内に至り非常呼集で全員を起こす。
兵隊は早くも起きて準備する。
第二装被服着用、軍装して背嚢を除く、
LG何コ分隊を編成すべきか知らぬので高橋少尉に聞くと、八コ分隊を編成し内、真銃分隊を
四分隊他は第一弾薬手より以下の分隊を四分隊作るよう達せられた。
中隊は私と丸、林、高岡の四人が分隊長で軍装、編成を一時間後に完了した。

出発命令がなかなか出ず時間があるので兵隊を寝台上に休ませると
満洲へでも行くのだらうかなどと言ふ者も居た。
若し弾を撃つ時は危害防止に注意するよう指示する。
私も拳銃と弾薬十八発を受領し軍装する。
中島軍曹は早くから準備が終わつていた。
兵隊を一人一人検査しなければならぬ。
忙しい、糧秣が分配になる、二食分位だ、雑嚢の中に入れて待機の姿勢に入る、
時間があつても兵隊には出動のことを話 するなと言はれたので
一言もいわないが兵隊は既に知っている感じだ。
時間が四時に近くなつた。
でも中島軍曹が来ない。
弾薬の配給は如何なるのか、気になつて将校室に行ったが解らず、
玄関に行くと弾薬箱が八個あつた。
早速将校に伝へるとすぐ分配せよと言はれたので
LG弾だけを待つて班内に来てLG一コ分隊に対し三六〇発宛分配する。
心が落着かず早くは行かぬものだ。
数の間違いもあるだろう、舎前に出てからといつて全員舎前に出す。
兵隊は雪崩のように玄関前に出た。
もうその頃MGの鳥羽軍装が四コ分隊程指揮して来ていた。

中隊全員舎前に集合す。
正に午前四時なり。
寒天、星も凍りて光冴ゆ。
編成は第一、第二小隊にして第一小隊長高橋少尉、第二小隊長麦屋少尉、
分隊数はLG四コ分隊、小銃八コ分隊、これを二コ小隊に分けた。
私は第一小隊第五分隊長になつた。
坂井中尉が二段高い処から叫んだ
「吾々全員は今 天皇陛下の為に一身を捧げているが、
目下非常時に直面し世論は真実を知らぬ。
実に寒心に堪え時である。
此の秋にあたり 畏多くも天皇陛下の御陵威を遮り奉る妖雲を打払ひ
大御心を安じ奉ることが、皇軍吾々の本来の務めである。
真の日本国に立ち還らしむるものである。
お前達の教官が二人も行くのだから安心して将校の言ふ通り働いてもらいたい」
等の言葉を以て兵隊に知らしめた。
そして行動間特に合言葉を定め同志の危害を防ぐため
「尊皇・討奸」 三銭切手を持つ者は誰でも通すよう指示された。
準備完了、その時松吉曹長と中島軍曹の姿が見えなくなつていたのに気がつく。
坂井中尉に聞くと両名は先に現地偵察に行ったとのこと、
心外に思ひ高橋少尉にも聞くと同様のことだつた。
そのため別に気にもとめず 中隊長の号令で第一小隊を先頭にMG小隊、第二小隊の順序で出発する。
全員で二百名位いだと思った。

凍りついた道路を踏みしめ歩調も乱れ勝ち、他の中隊も夫々表門を通過、
靴音が寒空に響き良く聞えてくる。
表門には衛兵所の兵と週番副官が見送りに出ているので 之は本当だと思った。
電車通りを直進し青山一丁目より権田原を経て信濃町へ、兵隊も各班長も中々元気だ。
将校の命令なんだ、しかし満洲行を目前に控へて何分安心の気分もあつたが、
これが最後のタバコなどと話しながら駅まできた。
駅から少し行つた処の小路を右折、アスファルト道だが三列でないと通れない。
その上残雪が凍りついて出たり入ったり歩くのに骨が折れる。
腰を落して歩かぬと滑る。心配しいしい行く。
坂だ、町家はまだ早いので何処の家も起きていない。
LGに三脚架をつけてきたので思い。
道が狭くて右へ行ったり左に来たり様々な苦心だ。
聯隊から約四十分位いで到着した。


裏の石垣の下へ歩哨を立てて行けとのことで、内田伍長担任の場所なので渡辺曹長の
指揮で行動するよう計画通り締めた。
吾々の場所はもつと前方なので続いて行進した。
丸伍長が位置につく、鳥羽MG分隊長がつく。
暗い屋敷町の路に靴音だけが薄気味悪く響いて、部隊が大臣邸の前に停止した時は
一言の私語さへも漏れない。
静かの内に 高橋少尉が底力のある声で 「 位置につけ 」 と 命じた。
「 ハイツ 」 返事と共に各部隊が示された場所に駈足で向かった。
途中地形概要も不注意のうちに橋を渡り大きな道の三叉路に出た。
役百米程入ってすぐLGに弾を込め、道路の南側に据へて警戒に入る。
通行者は一切阻止せよとのことで 万遺漏なきよう前方に歩哨一名を出す。
MG、LGが共同作戦出来るよう手順を定める。
出発時分隊長以上に射撃してはならぬと言はれているのだ、分隊長の命に随はない時は
直ちに殺しても良いとのことだつた。
明るい 「 ライト 」 が 猛スピードで来た。
歩哨に立つた兵隊が大声で 「 止れ 」 と二声叫んだところ停止した。
上野駅に急行する者だとのこと、一時停止せしめて置こうと思ったが可哀相なので通す。

そのうちに ドド・・・・・ッと連続音が北の邸の方から聞えて来た。
LGの銃声だ、激しい音だ。
相当やつているなと思っていると巡察が三名程巡警に来た。
歩哨の 「 止れ 」 の声にて 「 何ですか 」 と言ふので演習だよと言ふと
尚も行かんとするから今三十分待つてくれ、その内に用が終わるからと言つて帰す。
離宮の北側警備巡査かと思ふ。
また 東の方から二名来た。
MGの上等兵が追ひ返してしまつた。
分隊長始め兵隊まで本調子になつて来た。
良き敵御座なれと腕まくりして待つていると演習止めラツパが一声二声鳴り、
坂井中尉を先頭に高橋少尉、麦屋少尉、安田少尉が元気に兵を連れて来た。
成功、成功の声も高々に上々の首尾だつたと笑ひ顔で、
腥い血糊の拳銃を持つ手と軍服の袖まで染めて来たのが今でも目に浮かぶ。
夜は未だ明けやらずに淡い闇の膜に包まれて、近くにして人の顔も知れる位い、風も止み
寒さは一段と厳しく星の光も雲に覆われて来た。
部隊が赤坂離宮の処に四列縦隊になり私の分隊が最後尾のため 後方警戒の役目になる。
この場所で天皇陛下万歳を三唱し十五分程度休憩する。
私は部下を連れて小隊長の許に行くと、
高橋少尉、は忙しそうに亦改めて小隊を編成し二列に並列させた。
「教官殿、何処へ行くのですか」 と問ふと
「第二次渡辺教育総監を襲撃に行くのだ」 と元気で緊張し切った口調で言った。
私も連れて行って下さいと願ふと、もう編成が終わつたから駄目だと言ふので、
でも と言ふと 兵隊までが今度は自分達の番だからと言ひ 何回も教官に願ったが駄目だつた。
吾々は遠い処で警戒だけだつたので今度は一つ手柄を立てようと思ってのことなのだが、
丁度この時貨物軍用自動車が三台程来た。
之は市川の野重の自動車だ。
高橋少尉、蛭田、長瀬、梶間、木部等二十人程が自動車に分乗して行く。

俺達は坂井中尉の許に行き先頭に立ちて平河町に向って行進する。
小原軍曹が路上斥候長で行ったのが今も目に映る。
濠の柳も枯れて水面が青白く、電車通りも人一人通らぬ上を警戒を厳しくして、
山王通りに出てお濠の坂を登り平河町の五叉路上に停止する。
私とMG荒木伍長、の二人が警戒につくことになつた。
LG一コ分隊MG一ケ分隊IG半コ分隊を以てこの道路上を何人も通さぬことにした。

軍人たりとも一歩も入れまじ、若し命に従はぬ時は直に射殺すべしと。
午前七時頃から軍人、一般市民の通勤者、乗合自動車、電車とも全部通行止めとし
上司の命を伝へ帰す。
朝明けと共に天候も大分険悪になって来た。
道路上に居る時に雪がチラリチラリと降って来た。
寒さも大分度を増して来たが、何しろ防寒は箱をこわして燃やしているだけだ。
でも人員が多いので交代交代であたたまつた。
通行人達は物珍しげに立止まって見ている。
乗合自動車は折返し折返し運転しているようだ。
タクシーが兵隊に気合ひをかけられ追返されるように戻って行く。
雪も本降りになつて来た。
一時降っては亦小止みになつてはいるが、もう並木は白く花でも咲いていたようだ。
非常呼集で警視庁に向ふ警官も多数来たが他を廻って行かせた。
サイドカーで憲兵の少佐と特務曹長を乗せ上等兵が運転して来たので、
兵隊が 「 止れ 」 で止める。
「 ここは一切 通しません 」 と告げると、
俺は斯々の者であるが中隊長を呼んでこいと言ふので問答していると、
恰度好い時に坂井中尉が巡察に来た。
「 本日は此処は通すことはできませんから 」 と言ふ。
「 我々は任務の為に行くのであるから通してくれ 」 と中々激しく口論していた。
兵隊も銃を構へていた。
憲兵も拳銃を構へている。
寸刻の差で行きづまつた状態になつた。
坂井中尉が 
「 あなた方は左様言はれるるが私達もこのように準備がしてあります。
何時でも御見舞
ひ申しますから一つ撃って見ませうか 」
と側に居る野々山二等兵に撃つて見よと命じた。
すると 初年兵さん好機来たりと何も考へず地上に向けて一発ブッ放した。
コンクリの道を少し傷つけ跳弾は石垣にあたり石を砕いて白く残し行方不明になつた。
ビューン の一声を残したまま別に人畜には危害はなかつた。
之に驚いた彼は
「 まさか 」 と思っていた処 実弾を撃ち、また LG、MGに実包が装填してあるのを見て
早速将校さんは方向変換して帰って行った。
吾々一同 流石 坂井中尉だ などと思ったが?
・・次頁 「 皆御苦労だつた、御機嫌よう 」 に 続く

雪未だ降りやまず
(続二・二六事件と郷土兵)
元歩兵第三聯隊第一中隊付軍曹 窪川保雄 筆
二・二六事件の記 から
(註・・・原文はカナ書きの文、読み易くするためひらがなとした


お前たちは一人一人が昭和維新の志士であるゾ!」

2019年08月04日 08時58分08秒 | 坂井部隊

私は昭和十一年一月十日、現役兵として歩三、機関銃隊へ入隊した。
当時の銃隊長は内堀次郎大尉、教官柳下良二中尉、
所属した第五班の班長が鳥羽徹雄軍曹、班付 荒木直太郎伍長であった。
入隊以来訓練と内務にあけくれ三週間後にはMGの操作方法を習得、
この他 大久保射場で小銃による実弾射撃を一回行うなど、
初年兵としてはかなり早いペースで訓練が進められた。
この間 私には隊外の様子は何も判らず、無我夢中で軍務に専心していたとみて過言ではなかった。

そうした二月二十六日、
多分 〇三・〇〇頃、突然非常呼集がかかった。
班長が一人一人をゆり動かし 「 起きろ!非常呼集だ、すぐ仕度せい 」 と 告げた。
電燈をつけて指示された軍装を整え、次いでMGの銃身を実包銃身に交換した。
間もなく実包が支給されると重ねて編成が下達された。
何とも目まぐるしい中に、準備が着々として進められて行く。
第五班では二個分隊が編成され 私は鳥羽分隊の二番 ( 弾薬装填 ) に指名された。
この時の分隊兵力は七名だったと思う。
通常の場合は馬がつくので長以下十一名なのだが、
今回は銃を四人で持つのと弾薬手が二名でそれだけ人数が省かれたのである。
因にMGの重量は六〇瓩きろぐらむである。
編成と準備が完了すると
第五班の二個分隊は第一中隊に配属され、申告をすませ坂井中尉の指揮下に入った。
我々は以後 第一中隊と行動を共にすることとなる。
坂井中尉は出動兵力を掌握すると力強い声で訓示を行った。
「 目下帝都は相澤事件の公判をめぐり暴動が起こらんとしている。
よって我が部隊はこれを鎮圧するため唯今より出動する 」
かくして 〇四・三〇 出発となった。
夜目にも白い残雪を踏みしめながら部隊は粛々として出て行った。
その時 営門の所に柳下教官が我々を見送っている姿があった。


私の分隊は部隊の最後尾を進んだ。
青山通り--明治記念館--信濃町駅を通過して進んで行く。
その日の明け方の寒気はかなりきびしいものだったと思うし、
MGを持つ腕も重量にこたえた筈だが、
出動という緊張した目的のためか全く感じなかった。
携行した実包は二箱 ( 一箱九連入り ) で 五四〇発である。
やがて大きな屋敷の前にくると隊列がサッと散り 屋敷を包囲した。
これは斎藤内府邸である。

MGの方は荒木分隊が裏手に、
私の鳥羽分隊は表門にそれぞれ銃を据えて屋敷の警固にあたった。
私は実弾の封を切って装填をおわると そこへ坂井中尉がきて、
「 銃の方向が違う!銃口は玄関に向けるのだ 」
と いった。
私は驚いた。
屋敷を警固するのではなく襲撃すると聞いて唖然とした。
一体何をしようとするのか、その時になっても私は何も知らなかったのである。
近くでその様子を見ていた表門警備の警官があわててどこかへ逃げていった。
坂井中尉はやがてLGを含む一個分隊を指揮し、鉄の門扉を押しあけて邸内に進入し裏手に廻っていった。
間もなく LGの音が鳴り出した。
我々は状況如何と緊張しながら様子を見守っていると、
約十分ぐらいたって襲撃班が引上げてきた。
先頭に立つ坂井中尉の手には拳銃が握られ手や軍服には血痕がついていた。
坂井中尉は全員に向って、
「 成功!成功!昭和の逆賊 斎藤実の血を見ろ!
この血で日本は今まで暗くされていたのだ。
お前たちは一人一人が昭和維新の志士であるゾ!」

と 拳銃を持つ腕を高くさしあげて大声で叫んだ。

その後部隊は隊形を整えて赤坂離宮の前まで行進した時、そこにトラックが待っていた。
ここで一中隊の兵力約六〇名が乗車し 渡辺教育総監の襲撃に向った。
私の方は そのまま三宅坂の陸軍参謀本部前附近に至り歩哨線を構えた。
これは交通遮断が目的で我々蹶起部隊の都心部の占領をも意味した。
その夜は現地で露営した。
連日寒い日が続いたが、聯隊からの暖かい飯や外套が届けられたので寒さを防ぐことができた。

翌二十七日午後 幸楽に移る。
幸楽というのは料亭で、我々がここに移ってからも炊出しをしてくれたので空腹の心配はなかった。
唯 毎日が緊張と警備の連続でやたらに眠かった。
その日坂井中尉から話があり、
「 秩父宮殿下も我々の行動を理解しておられ、今頃は状況して陛下にお会いしている筈、
その上奏において真崎大将に組閣の大命が下ることになっているので、
それまで徹底的に抗戦しなければならない 」
と いう朗報を承った。

しかし二十八日になってもそれらしい様子が見えず、
夜になると戦車が出動してきて幸楽の建物を包囲するに至った。
話によると軍艦が東京湾に入泊し、艦砲を議事堂の尖端に標定して射撃準備を完了したとか。
事態は容易ならざる方向に傾きつつあることを認知した。
その日に 奉勅命令が下ったのであるが我々は全くしらず、
坂井中尉はそれを知っているのかどうか不明だが、
急に意を決して
「 部隊は唯今より 包囲網を突破して血路をひらき、二重橋前に至り、そこで全員自決する 」
と 告げた。

しかし結局は実現せず私たちは警視庁前にMGをすえたに止まった。
その頃になると鎮圧軍は益々兵力を増強し、我々を完全に包囲し、刻々攻撃に移る構えを示してきた。
私はその様子を眺め 暗い気持ちにとざされた。
入隊以来僅か四十日、ひたすら命令によって動くことしか知らなかった私であったが、
何の為に 二重橋前で自決せねばならぬのか納得できなかった。
緊張の一夜があけた。
その年は閏年で二十九日であった。
よるが白々と明るい頃、遠くの方からスピーカーの声が風に乗って聞えてきた。
更に 〇八・〇〇頃になると飛行機が飛んできてビラを撒き散らした。
『 兵に告ぐ 』・・・『 兵に告ぐ 』・・・
拾ったビラには下士官兵の帰隊勧告がうたわれていた。
しかも我々はいつの間にか反乱軍の汚名を着せられていて
親兄弟が泣いているとの悲しむべきことまで明示されていた。
我々は思わずギクリとして もう一度読み直してみた。
何たることか、我々は尊皇義軍であった筈である。
それが僅か一両日の間に急転反乱軍に落込むとは 一体どうしたことなのか・・・。
忽ち兵隊の間に動揺がおこった。

一〇・〇〇頃 集合がかかり全員は陸相官邸前に整列した。
やがて、やつれた顔をした坂井中尉がきて徐ろに訓示をした。
「 出動以来 皆よくやってくれた。
昭和維新は残念ながら挫折の止むなきに至った。
唯今をもって状況を中止し、
お前たちは原隊へ帰れ、今まで命令を守ってよくやってくれた 」

暫らくして戦車が入ってきた。
«撃つな» と 書いた幕が張りめぐらしてある。
続いて佐倉五十七聯隊の一個大隊が鉄帽をかぶり防弾チョッキを着て威風堂々行進してきて、
我々はその場で屈辱的な武装解除を受け差廻しのトラックで原隊に帰った。

あの二十八日の日、
坂井中尉から宮城前で自決するといわれた時、
私は何故自決しなければならないのか釈然とせず、幾分迷った感があった。
もしあの時 坂井中尉か又は側近にいた幹部から、昭和維新の目的や断行の進め方、
或は 国家の現状といったものを多少なりともうかがっていたら、
坂井部隊としての団結は更に強固となり、
蹶起の失敗によって宮城前で自決することに何の抵抗もなかったのではあるまいか。
また 蹶起における手段及び方法において種々間違った点もあると思うが、
真に国を憂い
陣頭に立って昭和維新を断行した坂井中尉ほか青年将校たちの心情は
まことに立派であった。

歩兵第三聯隊機関銃隊・二等兵 吉沢周作  『銃口は屋内に向けろ』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から


齋藤實内大臣私邸 「 襲撃は成功した 」

2019年08月02日 08時13分29秒 | 坂井部隊


私は昭和十年一月十日現役兵として歩三機関銃隊に入隊し第五内務班に所属した。
班長は鳥羽徹雄軍曹、班付が荒木直太朗伍長であった。
翌十一年 二年兵になると私は初年兵掛助手として毎日訓練の指導に専念するようになった。
教育課程は順調に進み、
二月二十五日には趣向を変えて田園調布方面への行軍演習が実施された。
道路には雪が積っていて靴がすべり帰営した時は全員クタクタになって、
日夕点呼が終わるのを待ってベッドに入った。
すると睡眠中、多分二十六日午前二時半頃、不寝番にゆりおこされた。
「 非常呼集発令、一装用着用で舎前に集合!」
不寝番は次々に兵を起して行ったが不思議とラッパの鳴った気配はない。
仕度をしていると班内に実弾が持込まれ各自に支給がはじまった。
かねてからの計画であった渡満が急きょ始まったのかも知れぬ。
私はそう思いなから軍装して舎前に整列すると間もなく編成が下達され、
私は分隊長に任命され十二、三名の兵力を掌握すると同時に第一中隊に配属を命ぜられた。
この時同じ行動をとった兵力は四個分隊だったと思う。
第一中隊の指揮官は坂井中尉で申告後指揮下に入ったが、
この時中尉は次のようなことをいわれた。
「 唯今帝都は相澤事件の公判をめぐり暴動が起きようとしている。
よって我々はこれを鎮圧するために出動する 」
かくて四時過ぎ部隊は出発した。

路上の残雪が凍り、踏みしめる靴はすべり神経のつかれる行進であった。
隊列は路地裏を縫うように進み、小一時間も過ぎた頃斎藤内府邸の前に到着。
同時に一斉に散開し私邸の周囲に布陣した。

私の分隊は私邸裏門に廻り、
第一中隊の軽機分隊と共に道路上に歩哨を立てて警備についた。
この時の歩哨に与えられた特別守則は、
1  道路の通行を遮断する。
2  命令に背く者は射殺する。
と いうもので 要は絶対通すなということであった。
すると何時頃だったか警官が二名やってきた。
両名とも棒を持っているのでおそらく警視庁の新撰組と思われる。
早速 「 通せ 」 「 通さぬ 」 の問答が始まった。
彼等は一刻も早く登庁を急いでいるので、漸次語気を荒くして威圧の態度を示してきた。
「 君たちは国家の軍人なら俺も国家の警官だ、
今非常呼集がかかったので早く行かねばならん、通さなければ強行突破するぞ 」
警官がそういって強引に通過しようとしたので、軽機分隊の軍曹が突然、
「 射撃準備、目標、目前の警官!」
と 号令した。
すると兵隊が一斉に安全装置をはずし銃口を警官に向けたので、彼等は急にタジタジとして、
遂には 「 帰ります 」 と 口早にいうと 逃げるように引返していった。
若しここで警官があくまで意志を貫徹しようとしたら間違いなく射殺されたであろう。
そのうち私邸の中から拳銃音が三発鳴った。
私はそこで初めてすべての事情を知った。
私たちがここにきたのは私邸の警備ではなく襲撃だったのである。
間もなく撤収が告げられ全員が表門に集った頃、邸内から坂井中尉らの襲撃班が出てきた。
坂井中尉は抜刀のままで、その剣先きには血がついていた。
そして一同を見渡し、
「 襲撃は成功した 」
と 叫んだ。

襲撃後 部隊は駆け足で赤坂見附附近に移動し一斉に歩哨線を構え交通遮断を実施した。
このとき三宅坂に至る道路の封鎖が最重点となった。
すでに夜が明けはじめたが、
また雪になり 銀世界の中に点々と立哨する兵隊の姿だけが黒く浮かんでいる。
やがて陸軍の佐官級の人たちが勤務のために続々とやってきたが皆歩哨線で止められた。
連中は突然のことに驚きながらも 「 すぐ責任者を呼べ 」 と 息巻いた。
その頃 三宅坂附近には安藤部隊が展開していて、
蹶起部隊の兵力はこの青山通り一帯に集中していた。
そこで連絡を受けた安藤大尉がきて連中に返答した。
「 あなた方がどうしても通りたいなら お行きになっても構いません。
ただし 命の保証はいたしません 」
さすがにこの返答にはギクリとしたらしく、連中は今までの態度を崩し引返していった。
その日は 終日警備を続行し、その夜新国会議事堂に移り、
私の分隊は隣接する首相官舎に入って仮眠した。
官舎には人影がないので遠慮なく上りこみ、タバコやコーヒーを探し出し 皆で分け合って飲んだ。

二十七日は警備態勢で過ごし、夕刻幸楽に行った。
ここは料亭で着物を着た大勢の女中さんに迎えられて部屋に入り、会席膳で夕食をとった。
どこかへ旅行しているような気持がした。
食後幹部から婦人には手を出してはいけないとの指示があった。

二十八日
私の分隊は首相官舎で待機した。
その間 演芸会を開催したことを憶えている。
その頃 事態は奉勅命令が下り、蹶起部隊にとって不利な状況を迎えていたのであるが、
私たち兵隊は何も知らず、上官からの命令を待つだけに過ぎなかった。
しかし外部の兵力が刻々増加するのを見て険悪な空気が漂いはじめたのは事実で、
ここにおいて覚悟を決め、私は遺書を書きいつでも投函できるようにポケットに収めた。
その日は 終日緊張しながら官舎ですごした。

二十九日、
朝から外部が騒々しくなり 戦車が目の前を往復しはじめた。
私たちは戦闘に備えて射撃命令の下るのを待った。
戦車が盛んに放送しながらビラを撒いている。
そこでそっと表に出て数枚を拾ってきて皆で読んだところ忽ち愕然たる衝撃をうけた。
事もあろうに私たちはいつの間にか叛乱軍になっていて、
早く原隊に帰らなければ逆賊とみなし討伐するという大変なことが書いてあった。
この時の驚きは今も忘れない。
私たちは心の動揺を抑えながらなおも現場に踏みとどまっていると
九時頃集合がかかり、
そこで坂井中尉から現在までの状況説明と下士官兵の原隊復帰命令を受けた。
逆に目的完遂は成らず発布された勅命に従うことになったのである。
ここで坂井中尉ら将校全員は私たちと別れ、どこかへ去って行った。
残された下士官兵は後片付けをしてから迎えのトラックで原隊に帰った。

歩兵第三聯隊機関銃隊・伍長勤務上等兵 鈴木清  『歩哨線警戒中』
二・二六事件と郷土兵 から