あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和・私の記憶 『 二・二六との出逢い 』

2023年02月24日 18時12分52秒 | 昭和 ・ 私の記憶

私の
二 ・二六
との出逢い

昭和49年1月21日(月)
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に、
先輩につられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた。 
そして、居並ぶ書籍の中から、なにげなしに目にとまったのが
『 天皇制の歴史心理 』
それは、偶然の如くか それとも必然なりしか
私は 「 天皇 」 と 出遭ったのである。

「 天は、自分にこの本を読ませようとしている 」

『 天皇制の歴史心理 』  ・・1974年1月21日
『 天皇制 』  ・・1974年1月25日
『 我々にとって天皇とは何か 』  ・・1974年1月25日
『 内なる天皇制 』  ・・1974年2月2日

「天皇とは日本人の意志の統合である」
「大御心は一視同仁にあらせられ、名もなき民の赤心と通ずるもの」 
「赤心の赤子たる日本人」 
「日本人の赤心は必ずや天に通ずるもの」 
云々、と
「 天皇 」 から始まり
さらに 日本人とは如何 に展開して行く
そして、

昭和49年 ( 1974年 ) 2月12日
『 二 ・二六 』 との確かな出逢い
・・玆に始る
私、19歳 ( 1954年生まれ )

・・・ リンク → 男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)
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↓  出逢いの記録        『 書籍 』        著者         購入年月日
『 二 ・二六事件と下級兵士 』  東海林吉郎 ・・1974年2月12日
『 二 ・二六事件と下士官兵 』  山岡明 ・・1974年2月14日
『 二 ・二六事件への挽歌 』  大蔵栄一 ・・1974年2月25日    ★★★
『 花ざかりの森 ・憂国 』  三島由紀夫 ・・1974年2月28日
『 二 ・二六事件獄中手記 ・遺書 』  河野司 ・・1974年3月4日    ★★★
『 二 ・二六事件 』  高橋正衛 ・・1974年3月16日
『 日本国家主義運動史Ⅰ・Ⅱ 』  木下半治 ・・1974年4月2日
『 現代日本思想大系 超国家主義 』  橋川文三 ・・1974年4月2日   
『 二 ・二六事件の原点 』  芦澤紀之 ・・1974年6月4日
『 昭和史発掘 六~十三 』  松本清張 ・・1974年6月22日
『 二 ・二六と青年将校 』  松沢哲成 ・・1974年6月22日
『 英霊の聲 』  三島由紀夫 ・・1974年7月1日    ★★
『 妻たちの二 ・二六事件 』 澤地久枝 ・・1974年7月30日
『 奔馬 』  三島由紀夫 ・・1974年8月8日
『 秩父宮と  二 ・二六 』  芦澤紀之 ・・1974年8月19日
『 私の昭和史 』
  末松太平 ・・1974年9月7日    ★★★
『 天皇制の支配原理 』  ・・1974年9月29日
『 一億人の昭和50年史 』  毎日グラフ  ・・1974年11月30日
『 東京12チャンネル 私の昭和史 』  ・・1974年12月7日
『 順逆の昭和史 』  高宮太平 ・・1974年12月7日
『 軍閥 二 ・二六事件から敗戦まで 』  大谷敬二郎 ・・1974年12月7日
『 二 ・二六事件 』 大谷敬二郎 ・・1974年12月24日   


『 現代史資料 5  国家主義運動 2  』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月9日    ★★
『 現代史資料 23  国家主義運動 3 』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月9日    ★★
『 現代史資料 4  国家主義運動 1  』  今井清一 / 高橋正衛 ・・1975年2月23日    ★★
『 二 ・二六事件秘録 (一) 』  小学館 ・・1975年3月10日   
『 一億人の昭和史 2⃣ 二 ・二六事件と日中戦争 』  毎日新聞社 ・・1975年5月25日    
『 ドキュメント日本人3  反逆者 』 
 村上一郎 ・・1975年8月9日    
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『 私の二 ・二六事件 』  河野司 ・・1976年3月3日
『 二 ・二六事件秘録 (二) 』  小学館 ・・1976年3月19日   
『 二 ・二六事件秘録 (三) 』  小学館 ・・1976年3月19日   
『 二 ・二六事件秘録 (四) 』  小学館 ・・1976年6月26日   
『 現代のエスプリ ・二 ・二六事件 』  利根川裕 ・・1976年10月26日   
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『 香椎戒厳司令官秘録二 ・二六事件 』  香椎研一 ・・1980年3月6日
『 二 ・二
六事件秘話  』  河野司 ・・1983年3月23日
『 西田税  二 ・二六への軌跡 』  須山幸雄 ・・1992年   
↑  出逢いの記録        『 書籍 』        著者         購入年月日
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以降、記録 ( 年月日 ) 不明        『 書籍 』        著者         数値は発刊年
事件参加将兵の著書
『 生きている二 ・二六 』  池田俊彦  1982   
『 その後の二 ・二六 獄中交遊録 』  池田俊彦  1997
『 二 ・二六事件蹶起将校 最後の手記 』  山本又  2013
『 二 ・二六事件と郷土兵 』  埼玉県史刊行協力会  1981   
『 雪未だ降りやまず 』  埼玉県史刊行協力会  1982    
『 罪は刑にあらず ある下士官の二 ・二六事件 』  福本理本  1986

青年将校の著書
『 軍隊と戦後のなかで 』  末松太平  1980   
『 恋闕 』  黒崎貞明  1980   
『 一革新将校の半生と磯部浅一 』  佐々木二郎  1981   
『 同期の雪 』  小林友一  1981

参加将校の遺族/関係者の著書
『 二 ・二六事件 』  河野司  1957
『 湯河原襲撃 』  河野司  1965
『 遠景近景 』  斎藤史  1980
『 ある遺族の二 ・二六事件 』  河野司  1982
『 天皇と二 ・二六事件 』  河野司  1985
『 一青年将校 』  高橋治郎  1986
『 機関銃下の首相官邸 』  迫水久常  1986
『 本庄繁日記  本庄繁  1989
『 二 ・二六事件青年将校 安田優と兄 ・薫の遺稿 』  社会運動史研究会  2013

事件に関係する憲兵の著書
『 二 ・二六事件の謎 』  大谷敬二郎  1975
『 ある情報将校の記録 』  塚本誠  1979
『 昭和憲兵史 』  大谷敬二郎   1987
『 首相官邸の血しぶき 』  青柳利之  1987
『 ある憲兵の記録  朝日新聞山形支局   二・二六事件異聞 』

事件を扱った著書
『 天皇と叛乱将校 』  橋本徹馬  1954    
『 北一輝論 』  村上一郎  1970
『 暁の戒厳令 』  芦澤紀之  1975
『 二 ・二六事件 = 研究資料Ⅰ』  松本清張 / 藤井康栄  1976
『 天皇 』  児島襄  1981
『 二 ・二六事件青春群像 』  須山幸雄  1981
『 二 ・二六事件の兵隊 』  須賀長市  1983
『 二 ・二六事件の礎 安藤輝三  』  奥田鑛  1985
『 二 ・二六事件 = 研究資料 Ⅱ 』  松本清張 / 藤井康栄  1986
『 二 ・二六事件  全三巻 』  松本清張  1986
『 磯部浅一と二 ・二六事件 』  山崎國紀  1989
『 叛徒 』  平澤是曠  1992
『 盗聴 二 ・二六 』  中田整一  2010
『 ワレ皇居ヲ占拠セリ 』  仲乗匠  1995
『 昭和維新の朝 』  工藤美代子  2008
『 禁断 二・二六事件 』  鬼頭春樹  2012
『 実録 相沢事件  二 二六への導火線 』  鬼頭春樹  2013
『 昭和天皇に背いた伏見宮元帥 』  生出寿  2016

『 昭和史探索 ・3  われらが遺言 ・50年目の2 ・26事件 』  半藤一利 編  1986
『 目撃者が語る昭和史第4巻 二 ・二六事件 』  義井博編  1989
『 目撃者が語る昭和史第2巻 昭和恐慌 』  山崎博編  1989
『 NHK歴史への招待  二 ・二六事件 』  日本放送出版協会  1989
『 実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)  叛乱!  二 ・二六事件 ❶  雪の章  あとがき  山口一太郎大尉のこと 』  元東京日日新聞記者  石橋恒喜
『 実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)  叛乱!  二 ・二六事件 ❸  霧の章  あとがき  今、想う 二 ・二六事件への総括 』  元東京日日新聞記者  石橋恒喜

『 2 ・26事件の謎 』  新人物往来社編  1995
『 2 ・26事件と昭和維新  別冊歴史読本 』  1997
『 図説  2 ・26事件 』  太平洋戦争研究会編  平塚柾緒  2003

< 
註 
私にとって、「 受容れ難いもの 」、「 記憶に薄いもの 」、等々の書籍は掲載せず。

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タクシーはNHKホール前 交叉点に着いた
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない
道路向にパラソルの露店をみつけた
斯の売り子に尋ねてみようと、わざわざ道路をわたったのである
「渋谷区役所は何処ですか」
「後ろですよ」
「後ろ ?」
なんと私は、渋谷区役所を背負っていたのである
私の脳裡には、目的の位置はしっかり焼付いている
渋谷区役所の隣りが渋谷公会堂、更に渋谷税務署と続く
渋谷公会堂での、コンサートに由り 大勢の若者が集まっていたのである
・・
目的地は直ぐそこ哉、気が逸る
そして

「ああ・・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑場跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年 (1974年 ) 8月7日(水)
二十歳の私 
昭和維新の神達と 初めて直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史との、記念すべき感動の 出逢いであった。


昭和・私の記憶 『 西田税との出逢い 』

2023年02月22日 04時39分31秒 | 昭和 ・ 私の記憶

   
出逢い
私の
二 ・二六事件との確かな出逢いは、
昭和49年 ( 1974年 )
2月12日、東海林吉郎著 『 
二 ・二六と下級兵士 』 
2月14日、山岡明著 『 二・二六事件と下士官兵 』  から始まり、
続いて、昭和49年 ( 1974年 ) 3月4日、
河野司編 『 
二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 より、二十二士を知る。
 
西田税 
斯の写真との出遭いは衝撃であった
これぞ 日本人
私の理想とする、日本人の面構え
それは真まさに、『 国士 』
・・・と、
私は 斯の写真に
私のDNAの中に存する、
『 国士 』 への憧憬をみた
・・・一つの写真との出遭い 

さらに、昭和49年 ( 1974年 ) 4月2日、
『 現代日本思想体系 超国家主義 』 で
『 西田税  夢眼私論 』 と出逢った。
それは、衝撃的なものであった。

無眼私論
青年将校運動の指導者 西田税が、大正11年 ( 1922年 ) 春、

21歳の青年期、病床で記した感想録である。
「 西田税の乃公自作の真理 」 は、
52年後の 昭和49年 ( 1974年 )4月、
19歳の私に届いた。

「 吾意 得たり 」
これが、私の実感であった。
そして、19歳の私は
「 祖父の想い 」 として、これをを継承しようと誓った。
 ・・・リンク→ 祖父 の 遺伝子 

翌年の昭和50年 ( 1975年 ) 8月9日、
西田税自伝 『 戦雲を麾く 』 を知る。
茲で私は、西田税を
心懐の中心とし
たのである。
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先覚者 ・青年将校運動のリーダー達

それぞれの

西田税との出逢い



大蔵栄一
革新の気秘めて、桜会出席 
大正の末期から昭和の初頭にかけて、世の中は大動乱の胎動を始めていた。
経済的には政友会、民政党と政権が替わるごとに 金輸出禁止政策から金解禁政策へと、
ネコの目のように変わった。

大恐慌は国民に上に重くのしかかった。
かてて加えて 天候の異状は大冷害となって、東北地方の農民をいよいよ窮地に追い込んだ。
未曾有の農業恐慌が起こる。
政界では疑獄 ( 汚職 ) の続出で、貧官汚吏の高官どもが私欲をほしいままにした。
大正七年のロシア革命の成功は、日本にも もとより無縁ではなく、
この思想は不景気、恐慌の下にあえぐ国民の間にも浸透していく。
外交問題では 昭和五年のロンドン軍縮条約のごとく英米の圧迫によってわが海軍艦艇の保有量の制限を強いられ、
数量の削減、制限を受けざるを得なくなった。
国民は不安の声をあげ、怨嗟えんさの叫びは大きくウズを巻き始めた。
この海軍軍縮の条約締結は統帥権干犯の事実ありとして、
時の総理大臣浜口雄幸が東京駅頭で十九歳の青年佐郷屋留雄により襲撃されるという不祥事件をひき起すにいたる。
・・・・世の中は大きく揺れはじめていた。

私が初めて 『 桜会 』 ( 橋本欣五郎中佐らを中心とした軍内の革新団体 ) に出席したのは、
昭和六年五月ごろであった。
最初だれに誘われて行ったのか、今では全く記憶にない。
約五十名が偕行社に集まっていた。
参謀肩章を吊った佐官連中や、陸軍省あたりの中堅将校と思われる 『 天保銭 』 ( 陸大出 ) のお歴々が、
キラ星の如く並んだありさまは、私には偉観であった。
橋本欣五郎中佐 ( 陸士二十三期 ) 樋口季一郎中佐 ( 陸士二十一期 ) など数人によって、
内外時局の緊迫せる状況や、国内革新の必要であることなど、かわるがわる熱弁がふるわれた。
私が菅波三郎中尉に再会したのも、この日である。
菅波は熊本幼年学校の同期生で、このとき鹿児島の四十五聯隊から麻布の三聯隊に転任してきたばかり、
陸士卒業以来六年ぶりであった。
それからは、菅波と私はしげしげと会った。
菅波三郎中尉
北・西田・村中との出会い
この菅波に紹介されて会ったのが西田税 ( 陸士三十四期 ) である。
当時、西田は代々木山谷に居を構えていた。
大正十二年、私が士官候補生として羅南の七十三聯隊に飛ばされたころ、
西田は同じ羅南の騎兵二十七聯隊の新品少尉であった。
熊幼の同期生である親泊朝省 ( 終戦時、家族とともに自刃 ) が騎兵の士官候補生であったので、
私は親泊を通して、西田のことは時々聞いて知っていた。
一度たずねてみたいと思っていたが、士官候補生生活が一か月目には胸膜炎で入院、
その後自宅療養を命ぜられた郷里に返されたので、
ついに会う機会を得ないままこの日に至ったのであるが、菅波の紹介で初めて会ったというわけだ。
村中孝次中尉 
菅波の家で、私は同期生の村中孝次中尉とも会った。
村中とは陸士の本科では同中隊であったし、私が戸山学校で一般学生であったとき、彼は長期学生であった。
小男であるが からだはがっちりしていた。
剣術、体操ともに抜群であるとは、だれもが思えぬような静かなやさ男であった。
彼は旭川二十六聯隊から士官学校予科の区隊長に転任してきていた。
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・・・挿入・・・
観兵の予行と校長宮殿下の訓示と午前中あり。
午後、用弁外出。
直ちに井本、菅波等六名と共に日本改造の闘将北一輝を千駄ヶ谷に訪ねる。
彼の軍隊観を質さんが為
簡素な応接室の椅子の上に安座せし彼は隻眼の小丈夫。
『 日本の現在を如何に見ますか 』
と 反問を発したる後、
宗教、科学、哲学より悪に対する最後まで戦闘精神を説きて我等を酔はしむ。
其の熱と夫その力。
酒脱、豪放、識見、一々敬せざるを得ず。
『 諸君は我日本を改造進展せしむるに最も重大なる責任を有する位置に在ることを光栄とし、
今後大いに努力し給へ 』 。
・・村中孝次  大正十四年 (1925年) 七月二十二日の日記

『 国体論及純正社会主義 』 北一輝著
北は ここで  社会を日本の国体と合一させようとする論を試み
その諸言で  「 破邪は顕正に克つ 」 という日蓮的な言葉を使っている
「 吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、
破邪は 即 顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、大義確立して、民心漸く正に帰す。
是れをこれ維新というべく、少なくとも維新の第一歩にして 且 其の根本なり、
討奸と維新と豈二ならんや 」 ・・・獄中手記 『 続丹心録 』
・・と、
元老、重臣らの中の天皇の大御心を妨げる元凶を取除くことが、
「 破邪顕正 」 で 昭和維新に通ずることである。
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北一輝
西田税につれられて、北一輝とも会った。
貴公子然とした風丰ふうぼうから感ぜられる威圧感に、彼独特のものがあった。
「 北さんと相対すると、いつも威圧されるんだ。死んだ方の目だけ睨みつけて話をすると大丈夫だ 」
と、あとで西田から教わったことがある。それほど北の威圧は強烈であった。
彼の左眼は義眼であった。
『 隻眼せきがんの反逆児 』 とか、『 独眼竜の魔王 』 とかいわれるゆえんである。
昭和初期の大衆作家 林不忘は、北が学んだ佐渡中学の校長の子息である。
北家をしばしば訪問しているうち、北のニヒリスト的魔性の一面にヒントを得て書き上げたのが、
『 丹下佐膳 』 であるといわれている。
そのころ北一輝は大久保百人町に住んでいた。
私も大久保に住んでいたので、日曜日にはよくたずねて、『 日本改造法案大綱  』 の疑問点を無遠慮にぶつけたものだ。
「 北さんはいつも法華経を上げているようですが、日蓮宗でしょうか 」
私の質問は子供じみていた。
「 日蓮は、オレの友達だよ 」
北の答えは、簡明直截ちょくせつであった。
私らがこんな答えをするとキザっぽく聞こえるが、北一輝の場合は、気宇壮大に思えるから不思議なのである。
北の言説と青年将校
また、北はいったことがある。
「 幸徳 ( 秋水 ) は、わたしの本 ( 『 国体論及び純正社会主義 』 ) を読み違えてあんなことをしでかしてしまった。
あのとき ( 大逆事件 ) 、私は死刑のグループに入れられていた。
だが明治天皇は、多すぎると仰せられて、お許しにならなかった、
次々に死刑の人数が削られていって、わたしは何回目かに死刑からはずされていた。
それからわたしは、仏間に明治天皇の肖像画を掲げて毎日拝んでいる 」
そういえば、北の仏間には西郷隆盛と明治天皇の大きな額が掲げられてあって、私は何回か拝んだことがある。
 北一輝の祭壇
そのころは北一輝の 『 国体論及び純正社会主義 』 という本は、どこを探しても見当たらない幻の本であった。
もちろん北の家にも、西田の家にもなかった。
ただ西田の家に筆写した大部のものが一時おいてあったのみで、
私は、大いそぎで走り読みすることができた程度で、熟読玩味がんみするわけにはいかなかった。
したがって大半の青年将校は、この 『 国体論及び純正社会主義 』 には眼を通したことも、手に持ったこともなかったはずだ。
大体、北一輝の思想を青年将校たちは深く掘り下げて研究しておらず、
したがって充分咀嚼そしゃくしていなかった---と 指摘する論者 ( 例えば 『 北一輝 』 の著者 長谷川義記 ) がいるが、
私も全くその通りだと思っている。
『 国体論及び純正社会主義 』 を私が読んで得た知識は、皇室に対して不敬の言辞の多いことと、
北のとなえる国体論は天皇機関説には違いないが、西洋流天皇機関説ではなく、
天皇中心の有機体的天皇機関説であることを理解する程度であった。
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ-- 」
この言葉は、皇室に対する不敬の言辞と思われる点をあげて、私がつめよったときの北の返答であった。
北が 『 国体論及び純正社会主義 』 を書いた二十三歳のころと、
私がつめよった四十七、八歳のころとでは、北一輝の思想は基本的には変化はなかったけれども、
天皇に対する信仰の度合いは濃度を大きく増していたのだろう、と私は信じていた。
・・・大蔵栄一著 二 ・二六事件への挽歌 から ・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 2月25 日・・・大蔵栄一と  私の出逢い )

 
末松太平
天剣党以来
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、
青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「五十二が廃止になり、知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
大岸頼好 
「 大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
・・・中略・・・
案内を乞うと、声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、変哲もなかったが、
つづいての、

「 このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。

この最初の訪問のあと、私はもう一度 「 日本亡国論 」 をききたいと思ったので、
次の日曜日にまた大学寮に行った。
この時は草地が気乗りしないふうだったので、予科以来の親友森本赳夫を
「 面白い男がいるよ 」 と いって連れて行った。
が 同じ鳥取県人というせいもあるまいが、森本のほうが私より西田に熱をあげた。
その後間もなく 西田税に連れられて森本と一緒に北一輝を訪問したが、
こんども北一輝に
「 君は孫逸仙に似ている 」
といわれたせいもあったのか、また 森本のほうが北一輝に熱をあげた。
このはじめての北一輝訪問の際は、
朴烈・文子事件の最中で、この事件の中心人物、馬場園という人も同席していた。
北一輝は、
「警視庁がいま躍起になって探している馬場園君です。
大変な猛者のように思っているらしいが、このとおりの優男の紳士ですよ。」
と 私たちに紹介した。
そのあとで、
「 軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。
 おかげで腐敗した政治に染まらなかった。 
いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなたがたです。」
と、キラリと隻眼を光らしていった。
それは意外なことばだった。
いまの自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、
日本を救う唯一の存在であり、特に若いわれわれがその最適格者だといわれたからである。
・・・末松太平著  私の昭和史  天剣党以来 から
末松太平著  私の昭和史・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 9月7日・・・末松太平 と 私の 出逢い )

 
菅波三郎
永遠の同志 西田税  菅波三郎

西田税の名を初めて聞いたのは、大正十二年の晩春。
私が、東京・牛込の市ヶ谷台上、陸軍士官学校予科二年を卒業して、
士官候補生の隊付勤務に就いた時のことである。
私は、鹿児島歩兵第四十五連隊付、当時満州駐剳で遼陽に在り。
同期の親友、親泊朝省は騎兵第二十七聯隊附として、北鮮の羅南に在った。
或日、彼より来信に、
「 貴様に是非紹介したい人物がいる。同じ将校団の西田税という新品少尉。
中々の優れた革新の士だ 」 と書いてあった。
それから、時が流れた。
隊付半年の勤務を終えて、大正十二年十月一日 ( 関東大震災直後 ) 陸士本科に入り、
再び市ヶ谷台上の人となった。
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱  」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、十月、陸軍少尉に任官。
その年 ( 大正十四年 )の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮 に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
・・・リンク
西田税と大学寮 1 『 大学寮 』 
 西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 

西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
間もなく、長居は無用と思ったか 「 出よう 」 と ぶっきらぼうに私を促がして、トットと歩き出す。
導かれた神田の喫茶店はケチな薄暗い店、カレーライスとコーヒーの一杯をおごって貰って、
めざすは千駄谷九〇二番地の北一輝邸。
こんもりと庭樹に囲まれた、物静かなたたずまい。
中古の二階建の洋館で、あとで満川さんに聞いた話だが、
当時 「 虎大尽 」 ( 南洋で虎狩りをしたとかで ) と 異名を取った山本雄三郎の別邸を
「 北一輝氏は国宝的人物だから 」
 と いう
永井柳太郎 ( 当時の民政党の代議士。元文相永井道雄の実父 )
 
の 口ききでタダで借りた家だったんだそうな。
招じられた応接間にカーテンは無く、ソファは上質だが、ガランとしている。
貧乏暮し。 だが、悠々たる雰囲気だった。
その日、三人 ( 北 四十二歳、西田 二十四歳、そして私 二十一歳 ) で 会談した数時間は、まことに貴重なものであった。
帰り際に
「 私を頼るな。私は、いつ斃れるかも分らない。 私は君の魂に火を点ずる役割を持ったのかも知れぬ。
 しかし一度火が点いたら、ひとりで燃えなくちゃ・・・・」
北氏 西田さんと北邸を辞したのは、夜十時に近かったろうか。
大正十四年の年の暮。師走の空は寒い。
・・・須山幸雄著  西田税 二 ・二六への軌跡 ・・・( 昭和57年 ( 1992年 )  ・・・この本 と 私の出逢い )


昭和維新に殉じた人達

2023年02月20日 23時06分42秒 | 昭和維新に殉じた人達

人生は出逢い
昭和49年 (1974年)
19歳の私は、
二・二六事件を知り、昭和維新なるものを知った。
そして、 昭和維新に殉じた人達と出逢った。
その感動たるや、
「 勇躍する、歓喜する、感慨 たとへんにものなしだ 」


ニ・ニ六事件慰霊像
1974年.8月7日


時は滔々と流れ、

時代は進化した 令和元年 (2019年) 而今、
65歳の私は、斯の人達との出逢いを忘れないでいる。
それは 生涯 忘れることはない
茲に、吾心懐に存する斯の人達 への 吾想いを印す。


西田税              北一輝            相澤三郎中佐
 
野中四郎大尉    香田淸貞大尉      村中孝次           磯部淺一       安藤輝三大尉    澁川善助      河野壽大尉
 
竹嶌継夫中尉        栗原安秀中尉    對馬勝雄中尉     中橋基明中尉     丹生誠忠 中尉      坂井直中尉        田中勝中尉
 
高橋太郎少尉  安田優少尉    中島莞爾少尉  林八郎少尉        水上源一

昭和維新に殉じた人達
目次
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一、  昭和維新に殉じた人達 1 ・ 先覺者 
 くさわけ・西田税
・ 明治武士 ・ 相澤三郎中佐
・ カリスマ ・ 北一輝

・ 青年將校運動のリーダー
 菅波三郎 大尉
 大蔵栄一 大尉
 末松太平 大尉   
 大岸頼好 大尉

別格 ・ 上部工作に奔走した人達
 山口一太郎 大尉
 満井佐吉 中佐

二、
昭和維新に殉じた人達 2 ・ 蹶起した人達
十九烈士
 野中四郎 大尉
 香田淸貞 大尉
 村中孝次 
 磯部淺一
 安藤輝三 大尉
 澁川善助
 河野壽 大尉
 竹嶌繼夫 中尉
 栗原安秀 中尉
 對馬勝雄 中尉
 中橋基明 中尉
 丹生誠忠 中尉
 坂井直 中尉
 田中勝 中尉
 高橋太郎 少尉
 安田優 少尉 
 中島莞爾 少尉
 林八郎 少尉
 水上源一

 参加将校

 山本又予備少尉
 池田俊彦少尉  
 常盤稔少尉 
 清原康平少尉  
 鈴木金次郎少尉
 麥屋清濟少尉 
 今泉義道少尉

下士官兵

江藤五郎中尉の死


昭和・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』

2023年02月18日 05時12分48秒 | 昭和 ・ 私の記憶

二月二十六日からの推移、
すべてがうまく行っているかの情報がわたくしの耳にも届きます。

信じられなくて、身を抓るような気持ちでございました。
西田は有利な収拾へ事を運ぶのが自分の役割と考え、
北夫人におりた霊告を青年将校たちへ電話で伝え、
軍長老へ斡旋の依頼を試みたようでございます。

この電話が憲兵隊によってすべて盗聴されていたのでした。
実力行使の成果を実らせ刈取るために、北先生も西田も、相談に乗り、意見を伝えました。
それが死刑に該当するかどうかは別のことで、事件と全く無関係とは申しません。
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 


昭和54年 ( 1979年 ) 2月26日
NHKで
『 戒厳指令  交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
が、放送された。

NHKが 『 二 ・二六事件 』 を 如何にみているのか、
そして、全国民に何を如何 伝えるのかそこが肝心
・・と、期待を以て視たのである。


私が 放映画像を撮影したもの
当日の吾日記  ( 日付カレンダーは翌月 3月 )

2、26事件43年
未 認知されない悲劇
栗原さん、安藤さんの声をテレビで聴く
43年前の声が今 吾にとどく
神達が日本人でありし日の声が吾にとどく
北一輝の声も 西田夫人の声も亦 42日目
・・・1979.2.26の 吾日記

録音テープ
( 親友 ・長野に依頼した )

しかし
「 やっぱり、
正しく 評価が為されていない 」
私の期待は、はずれてしまつた。

昭和11年2月28日
幸楽に於いて安藤大尉は謂った
私は楠正成に成る
蹶起した心懐は、70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 
・・と


事件から43年経つても猶ほ
安藤大尉の魂は、
暗雲漂う大東京の空を彷徨う ・・・・


NHK
戒厳指令
『 交信ヲ傍受セヨ 』  
二 ・二六事件秘録

 西田税
栗原君が首相官邸に居ると云ふので栗原君に電話を掛け、
先づ私から 
「 何うした 」
と云ひますと栗原君は
「 今官邸に居ますが元気である。岡田はやつたが自分の処は非常に苦心した 」
と云ふ様な話があり、 
私は
「 雪も降って寒いし、皆食べ物は如何してゐるか、夫れが心配だ 」
と云ひますと栗原君は
「 食物は聯隊の方から持つて来て呉れるから心配はない。
一遍見に来ませんか。 
そうすればちゃんと中に這入れる様にします。
溜池の方から来れば言ひ付けて置く 」
との事でした。
私は
「 僕は行き度くない 」
と話して電話を切ったと思ひます。

・・・リンク→西田税 2 「 僕は行き度くない 」 

栗原中尉 -- 西田はつ

    
「 もしもし栗原です。どうでございますか 」
「 はあ 」
「 何んでございますか ・・・・ 」

「 うふふ。ちよっと、電話では はばかりますが・・・」
「 スガナミさん、来とるんですか。何処へ・・・・」

「 はあ、さっきお電話があったんですけどね 」

「 ふうん、それは僕が迎えに行ってもいいです 」
「 遠くへですか・・・・」
「 ええ 」

「 あ、もし ×××× 」
「 あちらへは・・・・」

「 もし連絡がありましたらね、首相官邸を目標に来て下さい 」
「 そうでございますか 」

「 ええ、そしてね、合言葉はね、尊皇斬奸 」
「 はア・・・・」
「 尊皇斬奸 」
「 ああ、そうでございますか 」
「 それでね、クリハラ中尉に面会といえば大丈夫です 」
「 ああ、そうですか 」
「 首相官邸に来られて 」
「 ああ、そうでございますか 」
 
「 すく案内しますから、お一人でいらっしゃいますか・・・・」
「 はあ、そうです 」
「 はあ 」
「 承知しました 」
「 はあ、御願します 」
---ガチャーン
「 日にちはどうもハッキリしませんが、『 菅波の妻何ですが 』 って女の方から お電話をいただきました。
私その時、『 菅波三郎さんですか 』 ってことをね、電話の盗聴ということも考えられますから、
三朗さんって言葉は出しませんで、ただ 『 御主人と御一緒にですか 』 ってことを私は申し上げたんです。
女の方が、『 はあ、そうですが 』 っておっしゃったもんですから、私は上京なすったとばかり思って、連絡しました。
そうしましたら、そうではなかったらしゅうございますね 」 ・・・西田はつ
「 家内です。上京した家内が東京駅から・・・・。私も上京したかったんですが、御存知のとおり憲兵に貼りつかれていてね 」 ・・・菅波三郎 



« 安藤大尉の演説 »
・・・・昨夜来から幸楽前に押しかけた群衆は益々その数を増し、
夜になっても帰る様子がなく、安藤大尉の話を望む声が強まってきた。
そこで大尉が玄関前に姿を現すと 一斉に群衆が万歳を叫んだ。
まさに天地が亀裂せんばかりの響きである。
大尉は静かに話し始めた。

諸氏も知っているとおり、
さきの満州事変、上海事変等で死んだ兵士は気の毒だがみな犬死だった
これは軍閥や財閥の野望の犠牲であったからである
これらの悪者は一刻も早く倒さねばならない
その目的で我々は皆さんにかわって実施したまでである
今からお願いしたいことは、
我々の心を受けて大いに後押ししてもらいたい
以上おわり
大尉が姿を消すと
衆はやっと承知したかのように万歳を叫び徐々に帰りはじめた。
・・・リンク→幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 

北一輝 -- 安藤大尉
電話は2月28日午後11時50分にかけられている

-- 
見ていただいたビデオでは、はっきり聞こえませんが、
料亭幸楽は赤坂の昔のホテルニュージャパンがあったところ、
そこの周囲を28,000人くらいの軍隊、8,000人ほどの警察官、
東京の消防団などが取り囲んでおり、
そういう中での電話です。
また、ゴーっという音も聞こえるのです。
後で分かったのですが、これは 戦車の音です。
よく聞こえないと安藤が言っているのはそんな中の電話ということ です。

「 もしもし 」
「 はい 」

「 どなたですか・・・・」
「 キタ 」
「 えッ・・・・」

「 キタ 」
---雑音---
「 はあ 」
---雑音---
「 えッ・・・・」
「 ××だいじょうぶですか・・・・」

「 はたが騒がしすぎて、聞こえないんですがね 」
「 ×××××× 」

「 えッ・・・・」
---雑音---
「 もしもし 」
「 ×××××× 」
「 ええ、ちょっとまわりがやかましすぎて、聞こえないんですがねがね 」
 
「×××× 」
「 ××をですか・・・・ 」
「 ええ 」

「 ××ほぼ順調に行っております 」
・・・・・・・
「 えッ・・・・」

「 ほぼ順調にやって
おります」
「 ×××× 」
「 えッ・・・・」
・・・・・・
「 ×××× 」
「 カネ、カネ 」

「 ×××ですか・・・・」
「 カネ、カネ 」
「 えッ・・・・」

「 マル、マル、カネはいらんかね・・・・」
「 なに・・・・」
「 カネ 」
「 カネですか・・・・」
「 ええ

 
「 ええ、まだだいじょうぶです 」
「 だいじょうぶ。あのね 」

「 ええ 」
「 心配ないね 」
「 ええ 」
「 じゃあ 」

---ガチャーン

北一輝、西田税の強引な裁判の有力な証拠にさせられたのが電話で ある。
北一輝の判決文を読んでも十数か所に電話による激励という ことが出てくる。
青年将校たちの処刑が発表された昭和11年7月 5日の新聞には、
戒厳令下ですから軍が書かせたものですが、電 話による激励という大見出しが出ている。
電話は徹底的にマークされた。
・・・
北を取り調べた憲兵は当時の東京憲兵隊の特高課長の福本亀次という男です。
この人は中野学校を作った男です。
彼が北を調べて彼の 尋問調書が残っている。
それによると、その方は2月27日午後、
安藤に金はあるか、給与はよいかと電話をかけたことはないか
とい う一問一答の調書が残っている。
何故2月27日が出てきたのだろ う、
2月27日ならばすべて辻褄は合う、北が逮捕される前ですから。
これは明らかにでっち上げの調書だと思った。
北はこれに対し て、そんな電話は勿論かけたことがないし、
金はあるかとか給与は どうかとか、そんなことは全く知りませんと述べている。
そういう 疑問点が出てきて非常に辻褄が合わない。
その電話は2月28日の 午後11時50分にかけられている。
北はその前に逮捕されている。
福本の調書では、2月27日午後に北が安藤に電話したことになっ ている。
憲兵隊としてはそれで辻褄は合う。
・・・
2月28日午後11時50分、
憲兵司令部から 北を騙 かたって安藤に電話してきた男は
ほぼ、100%とはいえないが、98% くらいは 金子憲兵 に間違いないと思っています。
北をいかにして罪に陥れるかいろんな謀略がなされた証拠だろうと思います。
北を裁 いた裁判官に聞いても、
精々叛乱幇助罪で禁固3年くらいというの が妥当といい、北の裁判は1年延びた。
5人の裁判官の意見が割れ、また、北を死刑にすることに裁判長が反対したからである。

・・・リンク→
拵えられた憲兵調書 

亀川哲也 -- 栗原中尉
  -- 

亀川哲也は、
同月二十七日午前三時頃、
陸軍歩兵中佐満井佐吉より、電話により帝国ホテルに来訪を求められ直ちに同所に赴き、
同中佐により村中孝次に対し撤退勧告を依頼せられ、
間もなく同ホテルに来着したる村中孝次と会見し、蹶起部隊がこれ以上占拠を持続するときは
却つて不利なる結果を招くべしと説明し、その撤退を勧告したる際、
同人より蹶起部隊を戒厳部隊に編入し、原位置を警備する様取計われ度旨要望せらるるや、
満井中佐と共にその実現に努力する旨約束し、
次で同日午前八時頃、北輝次郎方に西田税を訪ねて、
帝国ホテルの会合、西園寺公に対する軍部内閣の進言 及び真崎大将訪問等、
二十六日以彼が活動の結果得たる諸情報を伝へたるが、( ・・・リンク→帝国ホテルの会合 )
同月二十八日に至り、俄然情勢の変化に伴ひ身辺の危険を察知するや、
各種の証拠湮手段を講じたる上、同日午後十時頃従来の親交をたどり 東京市芝区白金今里町十八番地
久原房之助方に潜入し爾来同人の庇護の下に同家に隠避しいたるが ・・・軍法会議判決文から


「もしもし栗原ですが 」
「 あのね 」
「 うん 」

「 もしかする
とね 」
「 うん 」
「 今払暁
ふつぎょう ね 」
「 うん 」
「 攻撃してくるかもしれませんよ 」
「 はあ 」

「 それでね、大活動おこそうと思ってね 」
「 はあ 」
「 連絡とろうと思ったけど、連絡とれなかったんだ 」
「 はあ 」
「 とにかく、内閣はね 」
「 はあ 」

「 いったい誰・・・・、真崎でなけゃ、どうしてもいかんのかい 」

「 とにかくね---略---もうあれですな、妥協の余地はないようですね 」
「 うん 」

「 向こうもとにんく奉勅命令で来るんでしょうから 」
「 うん 」
「 そういう状況でいか・・・・」
「 うん、そうだ 」
「 はあ 」
「 それでね 」
「 はあ 」

「 君のほうの希望はだな 」
「 はあ 」
「 いったい誰だい・・・・」
「 さあ×××× 」
「 総理大臣はマザキの他に誰かあるのかい・・・・」
「 今んところありませんね 」
「 ほう 」
「 はあ 」
「 それで、まだなんとかやるけどね 」
「 マザキを代えることができないくらいなら他の者もできないですよ 」
「 うん 」
「 はあ 」
「 例えばカワイとかね 」
「 は、は、は、」
「 ヤナガワとか 」
「 ヤナガワならいいですけどね 」
「 うん 」
「 あとは駄目 」
「 そいでね 」
「 はあ 」
「 実はその、それがわかったらだな 」
「 はあ 」
「 すぐサイオンジ公もね 」
「 はあ 」
「 トクガワもね 」
「 はあ 」
「 みんな活動をはじめてね 」
「 はあ、サイオンジも来てるんですか・・・・」
「 サイオンジのところへとんで行くことになったんだ 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 間に合わんでしょうね 」
「 うん、間に合わないと思う 」
「 もし、そういうこと××××××徹底的でしょうから 」
「 うん 」
「×××××× 」
「 うん 」
「 ま、これでお別れですな 」
「 うん、それでね 」
「 はあ 」
「 何とか、まだやるけどね 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 ま、お達者で 」
「 うん 」
「 これが最後でござい×× 」
「 うん 」
「 それでは、皆さんによろしく言って下さい 」
「 うんうん、じゃ 」
「 それでは 」
「 はい 」
---ガチャーン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二月二十八日の夕方でしたかしら、
私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」
と おっしゃってね。
それですぐに主人にそれを話しましたら、
もう一度電話をかけてみろと言いまして、
首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。

・・・西田はつ 

  徳川義親侯
二十八日夜、
( 栗原中尉から ) 決別の電話が来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 栗原です。・・・・長い間お世話になり御迷惑をかけましたが、これでお訣れ致します。
 ・・・・おばさま、史子さんにもよろしく 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「 ---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい--- 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 徳川三百年、皇威を蔑らし奉つた、その罪の深きに関らず、わが徳川一族は、寵遇を辱くし、
 国民の最高位にあるは、私の恐懼措かざる処、この際一行に代り、参内し、罪を閣下に謝さんと思ふ。
 蹶起将校代表者一名を同行したし。素より私は、爵位勲等を奉還する。
 代表者も亦豫め自決の覚悟を願ふ。至急右代表者を私の許によこされたし・・・』 ・・・徳川義親侯爵
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
電話については、これよりだいぶん前に、彼の方から、
「 盗聴されているかも知れません---」
と 連絡されて居り、
わたくしたちは、何処がそれをしているのか、警視庁ででもあるのか
・・と 思っていましたが、
交信を傍受し、
しかも 録音を取っていたのは戒厳司令部であったと知ったのは
昭和五十四年二月二十六日放送の NHKの番組によってでございました
・・・リンク→ 齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」 

 濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は
 泥土か夜明けか知らぬ  ・・齋藤史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

令和四年 ( 2022年 ) の而今
NHK  『 戒厳指令  交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
は YouTube で視ることができる。
昭和11年 ( 1936年 ) 、事件から43年、
昭和54年 ( 1979年 ) から、更に43年経った令和四年 ( 2022年 )
事件から86年経つ。
「 70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 」
との、安藤大尉の想いは虚し。

二月二十六日北方ノ電話ニ故障ガ起キタ時、不思議ニ思ハナカツタカ
先方ヨリ掛ケテ來ルノハ話ガ出來テ、私ノ方ヨリ掛ケルノガ先方ニ通ジナイノデ、
不思議ダトハ思ヒマシタガ、
豈然盗マレテ居ルト迄ハ考ヘマセヌデシタ。
・・・西田税、第三回公判


私の想い、二・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』

2023年02月16日 14時56分58秒 | 昭和 ・ 私の記憶


令和元年 ( 2019年 ) 八月十五日 ( 木 )

NHKは、
全貌二・二六事件  ~最高機密文書で迫る~
と、銘打って  二・二六事件について放送した。
『 私達が知っていたのは、「真相の一断面 に過ぎなかった 」、
「 海軍の極秘文書を発掘した、そこには、数々の新事実が・・・・』
・・と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・極秘文書には、
事件初日にその後の行方を左右するある密約が交わされていたことが記されていた。
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、
決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの記録には、
これまで明らかではなかった陸軍大臣の回答が記されていた。
 川島陸相
陸相の態度、軟弱を詰問したるに
陸相は威儀を正し、
決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す


川島は、決起部隊から 「 軟弱だ 」 と 詰め寄られ、

彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。
「これは随分重要な発言だと思います。
決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、
“昭和維新の断行を約す”
と、約束している。
言葉として。
これを聞いたら、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然で、
それ以降の決起部隊の本当の力になってしまった。
 眞崎大将
この直後、
川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部 ・眞崎甚三郎大将に接触。
「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」

 昭和天皇と鈴木貫太郎
しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、
側近たちを殺害した決起部隊に、厳しい姿勢で臨もうとしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
川島陸相の上奏要領
一、叛亂軍の希望事項は概略のみを上聞する。
二、午前五時頃 齋藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍從長、渡邊教育総監、牧野伯を襲撃したこと。
三、蹶起趣意書は御前で朗讀上聞する。
四、不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
五、陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招來せず、出來るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。
陛下は この事態収拾の方針に關しては 「 宜 し 」 と 仰せ給う

事件勃發當初は蹶起部隊を叛亂軍とは考えず。

その理由は下士官以下は演習と稱して連出されたのものにして、叛亂の意思に出でたるものにあらずして
ただ將校が下士官以下を騙して連出し人殺しをなしたるものと考えいたり。
したがって蹶起部隊全體をもって叛亂軍とは考えず。
またこれを討伐するは同胞相撃となり、兵役關係は勿論、對地方關係等 今後に非常なる惡影響をもたらすものと考えたり。
また 蹶起部隊は命令に服從せざるに至りたるときは叛徒なるも、
蹶起當時においては いまだ叛亂軍と目すべきものにあらずと 今日においても考えあり
・・川島陸相訊問調書

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2日目、2月27日の午後6時半の記録には、
陸軍の幹部が青年将校らについて
「 彼らの言い分にも理あり 」 と 理解を示し、
「 暴徒としては取り扱い居らず 」 と 発言をしたことが記され、
陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえる。
さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、
追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が
天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、
「 何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか 」 と問い、
天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていた。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「 本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり 」
「 近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり 」
決起部隊の首謀者の一人、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

磯部の2期先輩 ( 36期 ) で、親しい間柄だった山下。
山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。
追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部  「 何故に貴官の軍隊は出動したのか 」
山下  「 命令により出動した 」
山下  「 貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか 」
磯部  「 空中に向けて射撃するつもりだ 」
山下  「 我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか 」
磯部  「 断じて反撃する決心だ 」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。
しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、二人の溝は次第に深まっていく。
山下  「 我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか 」
磯部  「 本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず 」
もはやこれまでと悟った山下。
ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。 ・・> 
昭和維新の断行を約束しながら、
青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。
事件の裏側を知り、決起部隊とも繫がりながら、
事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。
そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
・・・以上 放送内容の中から関心部分を ネットから引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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磯部浅一、獄中手記
 ・・・
行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 ・・参照 
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私の想いを記す
「 私達が知っていたのは、真相の一断面 に過ぎなかった、

海軍の極秘文書を発掘した、そこには、数々の新事実が記されていた、
そして、これにより 全貌が明らかになった 」・・と 云う。
NHKが 此をどのような意図を持って拵えたかは分からない。
なにも、新しい事実の発見が、必ずや真相の解明に繫がるとは限るまい。
海軍の極秘文書によって発掘された新事実が、
これまで囁かれていたものを裏付ける材料とはなりても、
公式記録だから 正しいもの、真実のもの、と、そのまま丸呑みは出来ない。
あくまで海軍が海軍の立場に基いて記した 記録もの なのである。
それは、海軍の都合で記されたるもので、やっぱり これも亦陸軍のものと同様 拵えたもの、
二・二六事件の一断面に過ぎないのである。
だからと云って、私は之を否定などしない。事実として ちゃんと受容れる。
いつも はがゆく想うは、斯の時代の日本人 ( 何も軍人である蹶起将校だけとは限らない )
の 精神の検証がなされないこと、
これなくして、如何して真実に辿り着けようか。
斯の時代の日本精神を知らぬ私も亦同様である。


「 昭和維新は大御心に副はず 」
大御心は正義を體現する
而して、赤誠の正義は大御心に副う  のである
しかし、己が行動は必ずや大御心に副うものと信じ 蹶起した靑年將校に、
大御心は正義を體現することはなかった
否  正義を體現する大御心は 存在しなかったのだ
靑年將校の正義は、大御心に副う  べくもなかったのである

昔から七生報國というけれど、
わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。
こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい ・・・西田税

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「 ニ ・ニ六事件って何でしようか 」
「 正義の味方だ 」
「 なぜ人を殺したのですか 」
「 それは立場だ 」
平成二年 ( 1990年 )
今泉章利氏 ( 今泉義道少尉の御子息 ) の問に、
末松太平はそう答えた ・・・と謂う


大御心
・ 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
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・ 
天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、 そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません

伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

《 眞崎大将は 》
川島陸相に会うと、
テーブルに置かれた 蹶起趣意書 と 要望事項 の紙片 を押さえて云った。

「 こうなったら仕方ないだろう・・・これでいこうじゃないか 」
川島陸相は頷き、天皇に拝謁すると、
事件の経過を報告すると 共に 蹶起趣意書  を 読みあげた。
天皇の表情は、陸相の朗読がすすむにつれて嶮けわしさを増し、
陸相の言葉が終わると、
なにゆえに そのようなものを読みきかせるのか
と 語気鋭く下問した。
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《 川島陸相が 》
「 蹶起部隊の行為は
 明かに天皇の名においてのみ行動すべき統帥の本義にもとり、

亦 大官殺害も不祥事ではあるが、
陛下ならびに国家につくす至情に基いている、

彼らのその心情を理解いただきたいため ・・・」
と 答えると
今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり
国体の精華を傷つくるものと認む

天皇はきっぱりと断言され、
思わず陸相が はっと頭を下げると
その首筋をさらに鋭く天皇の言葉が痛打した。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス
斯ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ恕ゆるスベキモノアリヤ
天皇は
一刻も早く、事件を鎮定せよ
と 川島陸相に命じ、
陸相が恐懼して さらに拝礼するのをみると、

速やかに暴徒を鎮圧せよ
と、 はっきり蹶起部隊を 暴徒 と断定する意向をしめした。
・・・なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか

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川島は、午前九時に参内し、天皇のまえに進みでた。
ここで事件の概容を伝え、あまつさえ 「 蹶起趣意書 」 を 読んだ。
そしてこうなったら強力内閣をつくらなければならないと述べた。
この陸相は、事件を鎮圧するのでなはなく、
この流れに沿って、新たな内閣の性格まで口にしている。

つまり 蹶起将校や眞崎の使者となっていたのである。
「 陸軍大臣はそんなことまで言わなくていい。
 それより 反乱軍を速やかに鎮圧するほうが先決ではないか 」

天皇のことばに、
川島は自らどうしていいかわからないほど 混乱して退出していった。
・・・俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか
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26日
午後四時頃から閣議が開かれ
陸相から事件報告がなされた。

川島陸相は ここでも協力内閣の必要を強調したが、
閣僚の誰一人として耳を傾けるまのはなかった。
これは、この日の午後、蹶起将校から
「 われわれを義軍と認めよ 」
「 眞崎内閣をつくれ 」
などの要求がなされ、
大臣も強力内閣をつくることに意が動いたが、
統帥部の反対で立ち消えとなった。

するとさらに蹶起将校側から
「 それでは内閣をして国政の大改革を断行することを声明せしめよ 」

との 代案が持ち出され、これをとり上げて大臣が閣僚に要求したのだということであった。
・・・速やかに暴徒を鎮圧せよ


私の想い、二・二六事件 『 頼むべからざるものを頼みとして 』

2023年02月14日 15時15分05秒 | 昭和 ・ 私の記憶

内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
恰モ 第一師團出動ノ大命渙發セラレ、
年來御維新翼賛ヲ誓ヒ殉國捨身ノ奉公ヲ期シ來リシ
帝都衛戍ノ我等同志ハ、
將ニ萬里征途ニ上ラントシテ 而モ願ミテ内ノ世狀ニ憂心轉々禁ズル能ハズ
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中樞ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク爲スベシ
臣子タリ 股肱タルノ絶對道ヲ 今ニシテ盡サザレバ破滅沈淪ヲ翻ヘスニ由ナシ
茲ニ 同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、
奸賊ヲ誅滅シテ 大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顯ニ肝脳ヲ竭シ、
以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス ・・・蹶起趣意書


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

「 自分たちが起って國家の爲に犠牲にならなければ、
 かえって我々に天誅が下るだろう 」・・・野中四郎

「 我々は國家の現狀を憂いて、ただ大君の爲に起ったまでです。
 一寸の私心もありません 」
「 いつか前島に  『 農家の現狀を中隊長殿は知っていますか 』
 と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
かし お前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった 」・・・安藤輝三


昭和の聖代
正義が常に正義として通用する 此 眞の聖代と謂う
正義とは大御心を謂う  
・・・大御心そのものが正義
而して、大御心は正義を體現するもの
玆に、赤誠の正義はきつと大御心に副うのである

「 
なに、陛下だって御不満さ ・・・村中孝次
・・・彼等は
頼むべからざるものを頼みとして
蹶起したのである。

日本の國體は
一天子を中心として 萬民一律に平等差別であるべきものです。

聖天子が 改造を御斷行遊ばすべき 大御心の御決定を致しますれば
即時出來る事であります。
之に反して
大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません。  ・・・北一輝

昔から七生報國というけれど、
わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。

こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい。 ・・・西田税
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< 註 >
「 なに、陛下だって御不満さ 」 
山口一太郎大尉より聞く所に依れば、
陛下は現在の御境遇に関し、
述ぶるに忍びざる内容の嘆きの御言葉を洩らされたる趣拝承す ・・・村中孝次
陛下朝見式に於て賜はりたる勅語の聖旨を実現せんとしたる ・・・香田清貞
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・・・・ ノート  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 ・二六事件 = 昭和維新

昭和維新とは
「 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 」 
・・・藤田東湖
・・・大義とは國體  國體明徴
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スル 」
蹶起の眞精神は、
「 大權を犯し國體を紊る君側の奸を討って大權を守り、國體を守らんとす 」
・・・天皇の御爲に大權を守り、大權干犯したるものを誅陸す
「 天皇の御爲 」 = 臣下の正義、日本人の正義   
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陸軍大臣告示
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ 
・・・國體明徴=國體の 眞姿顯現
國體とは、
一天子を中心として萬民一律に平等無差別であり、
それは天皇と國民の精神的結合を示すものである ・・・村中孝次
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一君萬民、國民一體の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の國民がほんとうに
天皇の下に一體となり
建國の理想に向って前進することである
・・・青年将校
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一君萬民、君民一體の政治とは何か
青年將校が天皇とともに喜びともに悲しむという一體観、
そこでは一君を中心とした國民の結集であり、
そこに君と国國民との間には、なにものをの介在を許さないもので、
國民は無差別、平等に天皇に直參するものであることを表現して
天皇に一切をささげる國民が、
天皇の御聲のままに、翼賛する政治の體制を、理想とする
どうすれば、このような理想形態に導きうるのか
現支配機構を否定するのではなくて、
現支配機構を支える惡者をとりのぞき、                   ・・・君側の奸
これに代って人徳髙い補翼者を天皇の側近におきかえ
同時に全國民に維新への感動を激發すれば ことはなる
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「 我國體は上は萬世一系連綿不變の天皇を奉戴し、
萬世一神の天皇を中心とせる全國民の生命結合なることにゆいて
萬邦無比といわざるべからず。 我國體の眞髄は實にここに存す 」
すなわち、我が國體は天子を中心とする全國民の渾一的生命體であり
天皇と國民とは直通一體たるべく、
したがって、天皇と國民とを分斷する一切は排除せられ、    ・・・君側の奸
國民は天皇の赤子として奉公翼賛にあたるべきもの。


天皇陛下萬歳

2023年02月13日 09時07分32秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。

・・・
万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた

怨み、いかり、殺されても死なぬ、鬼となって生きぬくとは、
これら刑死将校たちのひとしく書きのこしているところである。
もちろん、それは軍当局とくに中央部幕僚に対する、すさまじいまでの痛憤であり、
天皇に対しては、いささかもうらめしい言葉は残していない。
むしろ、天皇による軍裁判によって死刑に処せられながら、
ひたすらに天皇への忠誠を誓い 天皇陛下万歳を唱えて死についている。

・・
万斛の恨み・・・それでもなお 『 天皇陛下万歳 』 

天皇陛下萬歳

目次
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・ 天皇陛下萬歳、萬歳、萬歳 
・ 
林八郎の介錯人・進藤義彦少尉

「 今日も会えたなあ 」 
・ 処刑前夜・・・時ならぬうたげ 
・ 長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ! 
『 やられたら直ぐ 血みどろな姿で陛下の許へ参る 』 

・ 
昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉 
・ 昭和11年3月5日 (七) 河野壽大尉 
・ 
昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 

・・十二日は日本歴史の悲劇であつた
同志は起床すると一同君が代を唱へ、
又 例の澁川の讀經に和して眼目の祈りを捧げた様子で
余と村とは離れたる監房から、わづかにその聲をきくのであつた
朝食を了りてしばらくすると、
萬才萬才の聲がしきりに起る、
悲痛なる最後の聲だ、
うらみの声だ、
血と共にしぼり出す聲だ、
笑ひ聲もきこえる、
その聲たるや誠にイン惨である、
惡鬼がゲラゲラと笑ふ聲にも比較出來ぬ声だ、
澄み切つた非常なる怒りとうらみと憤激とから來る涙のはての笑ひ聲だ、
カラカラした、ちつともウルヲイのない澄み切つた笑聲だ、
うれしくてたらなぬ時の涙より、もつともつとひどい、形容の出來ぬ悲しみの極みの笑だ
余は、泣けるならこんな時は泣いた方が楽だと思ったが、
泣ける所か涙一滴出ぬ、
カラカラした気持ちでボヲーとして、何だか氣がとほくなつて、
氣狂ひの様に意味もなく ゲラゲラと笑ってみたくなつた
午前八時半頃からパンパンパンと急速な銃聲をきく、
その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた
余りに氣が立つてヂットして居れぬので、詩を吟じてみようと思ってやつてみたが、
聲がうまく出ないのでやめて 部屋をグルグルまわつて何かしらブツブツ云ってみた、
御經をとなへる程の心のヨユウも起らぬのであつた
午前中に大體終了した様子だ
午后から夜にかけて、看守諸君がしきりにやつて來て話しもしないで聲を立てて泣いた、
アンマリ軍部のやり方がヒドイと云って泣いた、
皆さんはえらい、たしかに靑年將校は日本中のだれよりもえらいと云って泣いた、
必ず世の中がかわります、キット仇は討ちますと云って泣いた、
コノマヽですむものですか、この次は軍部の上の人が総ナメにやられますと云って泣いた、
中には私の手をにぎつて、
磯部さん、私たちも日本國民です。
貴方達の志を無にはしませんと云って、誓言をする者さへあつた
この狀態が單に一時の興奮だとは考へられぬ、
私は國民の声を看守諸君からきいたのだ、
全日本人の被壓拍階級は、コトゴトク吾々の味方だと云ふことを知って、力強い心持になつた、
その夜から二日二夜は死人の様になつてコンコンと眠った
・・・磯部淺一獄中日記  先月十二日は日本の悲劇であつた

・ 
昭和11年7月12日 (二) 香田淸貞大尉 
・ 昭和11年7月12日 (五) 安藤輝三大尉 
・ 昭和11年7月12日 (九) 栗原安秀中尉 
・ 
昭和11年7月12日 (十) 對馬勝雄中尉 

・ 昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十二) 丹生誠忠中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十三) 坂井直中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十四) 田中勝中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十五) 高橋太郎少尉 

・ 昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉 
・ 昭和11年7月12日 (十七) 中島莞爾少尉 
・ 昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉 
・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 
・ 
昭和11年7月12日 (十九) 水上源一 

昭和11年7月12日 (番外) 池田俊彦少尉 
・ 昭和11年7月12日 (番外) 佐々木二郎大尉 
・ 黒崎貞明中尉 ・ 獄中風景 
・ 
香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった 
・ 
「当日 親族者二十数名と共に 
午前十一時半代々木練兵場の一角 陸軍刑務所に参り、
まず 両親および嫁の三名は刑務所長塚本定吉氏の懇諭を受け、
午後零時二十分頃 衆と共に裏門より死体安置所に入り、
棺蓋を開いて一同告別を行いました。
前日には元気潑刺たりし彼、今や全く見る影もなし。
眉間に凄惨なる一点の弾痕 眼を開き歯を食い縛りたる無念の形相。
肉親縁者として誰かは泣かざる者がありましょう。
一度に悲鳴の声が起こりました
如山(勇) はこのとき声を励まして死体に向い
秀 国家のためを思い、よく死んでくれた。父は満足している。
家と一家のことに関しては、何も心配を残さず、安心して成仏せよ。」
また 同行の人たちに対しては
「皆さん、昨日までは笑って下さいと申しましたが、今日は思う存分泣いて下さい」 と。

・・・「 栗原死すとも、維新は死せず 」 

村中、磯部は一部未決のものの証人として、一方的に死期をのばされたのである。
ともに死ぬはずだった同志から引きはなされ、
私たちが同じ屋根の下から出るまでの半年、
それからさらに半年以上、四季をひとめぐりして再び夏を迎え、
それの終わるころまでのばされ、
結局は規定の処刑の座に就くのである。
大岸頼好は後年折にふれては、このことを
「 ちょっと前例のない残酷な処置だ 」
いっていた。

・・・ 
「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」 

・ 
昭和12年8月19日 (三) 村中孝次 
・ 
昭和12年8月19日 (四) 磯部淺一 
・ 昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 


叛亂將校達を反逆者として處刑したとき、
 大元帥陛下の帥い給う皇軍 ( すなわち天皇の軍隊 ) は亡んだのである
彼らの銃殺のために撃つたあの銃聲は、
 實は皇軍精神の崩壊を知らしめる響きであつたのである
しかも、その銃には菊の御紋章が入っているのである
大元帥陛下の御紋章の入っている銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶對を信念とした人々を、
 極度の憎しみで射殺したのである
・・・橋本徹馬


西田税 『 このままでは 日本は亡びますよ 』

2023年02月12日 16時24分37秒 | 西田税


西田税の歌である
青雲の涯にいったのかどうかはわからない
ただ
「 天皇陛下万歳 」
の 叫びを私の心に刻みつけて
再び会うことも 話し合うこともできない、
それだけに どこか遥かな遠い涯にいったことだけは事実である
・・末松太平


殺身成仁鐵血群
概世淋漓天劔寒
士林莊外風蕭々
壯士一去皆不還     
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
幽囚未死秋欲暮
染血原頭落陽寒

・・・遺書

「自分としては色々考へる処もあり、到底當分の間そういふ事は同意は出來ない
社會状勢の判斷、自分の希望し努力してゐる事の今日の程度等から見て
實は賛成が出來ないが、
併し諸君の立場を考へれば止むを得ない氣持ちもあるだろう
自分は五 ・一五事件の時にも御承知の様な事になり、幸にして今日生きてゐるので、
自分の生命に就ては別に惜しいとも何とも思ってゐないが、
若い將校達は何れも満洲に行かねばならず、
行けば最近に於ける満洲の狀態から見て對露關係が遂次險惡化して居る折柄、
勿論生きて歸ると云ふ様な事は思ひもよ
らぬであろう
其点から言っても國内の事を色々憂慮して苦労して來られた人達が
此儘で戰地へ行く氣になれないのも無理もないと思ふ
元來私共の原則として何処に居っても御維新の御奉公は出來るし、
満洲に出征するからその前に必ず何かしなければならんと云ふ事は
正しい考へ方ではないと思ふが、
それは理屈であって人情の上からは一概に否定する事も出來ないと思ふ
以前海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後近く上海に出征するのを控へて
御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度いと云ふ手紙を
昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、
私は當時の狀勢等から絶對反對の返事をやった爲
同少佐非常に失望落騰して其儘一月下旬には上海に出征し、
二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります
此の思出は私の一生最も感じ深いもので、
今の諸君の立場に對しても私自身の立場からは理屈以外の色々な點を考へさせられます
結局皆が夫れ程迄決心して居られると云ふなら私としては何共言ひ様がありません
之以上は今一度諸君によく考へて貰ってどちらでも宜しいから
御國の爲になる様な最善の道を撰んで貰いたいと思ふ
私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます
人間は或運命があると思ふので
或程度以上の事は運賦天賦で時の流れに流れて行くより外に途はないと思ひます
どちらでも良いから良く考へて頂き度い 」
・・・西田税 1 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」

西田氏を思ふ、
氏は現代日本の大材である、
士官候補生時代、
早くも國家の前途に憂心を抱き、改革運動の渦中に投じて、
爾來十有五年、
一貫してあらゆる權力、威武、不義、不正とたたかひて たゆむ所がない、
ともすれば權門に阿り威武に屈して、その主義を忘れ、主張を更へ、
恬然 テンゼン たる改革運動の陣営内に於て、氏の如く不屈不惑の士は けだし絶無である
氏の偉大なる所以は、單にその運動に於ける經驗多き先輩なるが爲でもなく、
又 特權階級に向つて膝を屈せざる爲のみでもない、
氏はその骨髄から血管、筋肉、外皮迄、全身全體が革命的であるのだ、
眞聖の革命家である、
この點が何人の追ズイモ許さない所だ
氏の言動、一句一行悉く革命的である、
決して妥協しない、だから敵も多いのである、
しかも氏は、この多數の敵の中にキ然として節を持する、
敵が多ければ多い程 敢然たる態度をとつて寸分の譲歩をしない、
この信念だけは氏以外の同志に見出すことが出來ない、
余は數十数百の同志を失ふとも、
革命日本の爲 氏一人のみは決して失ってはならぬと心痛している
・・・磯部浅一 『  
獄中日記 (四)  八月十九日 』 



西田税  ニシダ ミツギ
『 このままでは日本は亡びますよ 』
目次

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無眼私論 
 ・ 無眼私論 1 「 今仆れるのは 不忠、不孝である 」 
 ・ 無眼私論 2 「 クーデッタ、不淨を清めよ 」 
 ・ 無眼私論 3 「 日本は亡國たらんとす 」 
 ・ 無眼私論 4 「 女は戀するものである 」 
 ・ 無眼私論 5 「 眞人 」
 
西田税 ・戰雲を麾く
 ・ 戰雲を麾く 1 「 救うてやる 」
 ・ 戰雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意氣だ 」
 ・ 戰雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御學友と決定せり 」
 ・ 戰雲を麾く 4 「 私は泣いて馬謖を斬るより他ないと思ひます 」
 ・ 戰雲を麾く 5 「 靑年亜細亜同盟 」
 ・ 戰雲を麾く 6 「 是れこそげに天下一の書なり 」
 ・ 戰雲を麾く 7 「 必ず卿等は屡々報ぜよ 」

 ・ 戰雲を麾く 8 「 達者でいたか 」
 ・ 戰雲を麾く 9 「 畢竟、人生は永遠に戰ひつづけるもの 」

・ 
西田騎兵少尉 
・ 「 殿下、ここが、有名な安來節の本場でございます 」 

西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」 
・ 
西田税と大學寮 1 『 大學寮 』 
・ 
西田税と大學寮 2 『 靑年將校運動発祥の地 』 

・ 
西田税ノ抱懐セル國家改造論 竝 其ノ改造實現ノ手段方法

西田税 『 士林莊 』 
・ 天劔党事件 (1) 概要 
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に發した書簡   
・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧錄


天皇と農民 ・・※

・ 
ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』 
・ 
ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』 

・ 五 ・一五事件 『 西田を殺せ 』 
・ 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 
・ 紫の袱紗包み 「 明後日參内して、陛下にさし上げよう 」
・ 昭和天皇と秩父宮 1
・ 
昭和天皇と秩父宮 2 


・ 末松太平 ・ 十月事件の體驗 (1) 郷詩會の會合 
西田税と十月事件 『 大川周明ト何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ 』 
・ 絆 ・ 西田税と末松太平 

・ 統制派と靑年將校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」
・ 西田税の十一月二十日事件 
・ 悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

西田はつ 回顧 西田税 1 五 ・一五事件 「 つかまえろ 」 
西田はつ 回顧 西田税 2 二 ・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 
・ 
西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 「 男としてやりたいことをやって來たから、思い残すことはないが、お前には申譯ない 」 


青一髪  萬頃の 波がしら
一劔天下行  欲斬風拓雲
萬里不見道  只見萬里天
・・・西田税 ・ 金屏風への落書 



赤子の微衷

西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」 
西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
西田税、村中孝次 ・ 二月二十ニ日の会見 『 貴方モ一緒ニ蹶起シタラ何ウデスカ 』 
・ 西田税、安藤輝三 ・ 二月二十日の会見 『 貴方ヲ殺シテデモ前進スル 』 
・ 西田税、栗原安秀 ・ 二月十八日の会見 『 今度コソハ中止シナイ 』 
・ 西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』
・ 西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』

・ 西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」

・ 西田税 2 「 僕は行き度くない 」
・ 西田税 3 「 私の客観情勢に對する認識 及び御維新實現に關する方針 」
・ 西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 西田税 (一) 「 貴方から意見を聞かうとは思はぬ 」
・ 西田税 (二) 「萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 」
・ 西田税 (三) 「石原は相變らず、皇族内閣などを云って居るとすれば、國體違反だ 」
・ 西田税 (四) 「若いものが起ちましたから、其収拾に就てはよろしく御盡力をお願ひ致します 」
・ 西田税 (五) 「眞崎大將をして時局収拾せしめたいと鞏調しました 」

・ 西田税 (六) 道程 1

・ 西田税 (七) 道程 2 

・ 「 貴様が止めなくて一體誰が止めるんだ 」 

・ 反駁 ・ 北一輝、西田税、龜川哲也 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 1 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 2 
・ 反駁 ・ 北一輝 
・ 反駁 ・ 西田税 

西田税 ・北一輝
はじめから死刑に決めていた
「 両人は極刑にすべきである。兩人は證拠の有無にかかわらず、黒幕である 」 ・・・寺内陸相

「 二・二六事件を引き起こした靑年將校は 荒木とか眞崎といった一部の將軍と結びつき、
 それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです 」 ・・・片倉衷

・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行爲は首魁幇助の利敵行爲でしかない 」


陸軍軍法會議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、
結論的に言うと、指揮權發動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛亂幇助罪で3年くらいのところ、
また、西田については、もっと輕くてよいところ、
鞏引に寺内陸軍大臣が指揮權發動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事實である。
これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・
拵えられた憲兵調書 

何事モ勢デアリ、
勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
蹶起シタ青年將校ハ
去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、
天皇陛下萬歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、
半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、
此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報國ト云フ言葉ガアリマスガ、
私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。
・・・最終陳述

・ 西田税の手記 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


・ 
菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 
・ 
大蔵榮一 「 回想 ・西田税 」 
・ 
「 軍刀をガチャさかせるだけですね 」 

・ 
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 ・・・昭和10年12月31日
西田税 ・ 金屏風への落書 

・ 
西田税が描いた昭和維新のプランとは・・

あを雲の涯 (二十一) 西田税 
・ 西田税 ・ 妻 初子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 家族との最後の面会 
・ 西田税 「 家族との今生の別れに 」 
・ 西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」 
・ 西田税 ・ 悲母の憤怒 
西田税 「 このように亂れた世の中に、二度と生れ變わりたくない 」 
・ 「 俺は殺される時、靑年將校のように、天皇陛下萬歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」  

昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
・ 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」 
・ 西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

十八日に面会に参りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「 さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。

・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯


松浦邁 『 現下靑年将校の往くべき道 』

2023年02月11日 11時28分18秒 | 松浦邁

奈良に着いたときは、日が暮れていた。
松浦邁少尉は週番勤務中であった。 ( マツウラツグル )
士官学校を八月に卒業して、二カ月間の見習士官を経て十月に任官した、
ホヤホヤの新品少尉である松浦は、予想以上に元気であった。
『 五・一五事件 』 で おきざりにされて、精神的苦痛に悩んだ、候補生時代の暗い影は、
すでに消えていた。
私は和歌山で大岸大尉に会ったこと、大阪で中村義明と三人で田崎仁義博士を訪問したことなど、
こまごまと話した。
「 大岸さんは、中村義明は転向者と、ただひとこといっただけだったが、
貴様、中村という男を知っているのか 」
「 よく知っています 」
松浦が話をしてくれたのは、次のようであった。
中村はかつて浜松楽器の労働者争議を指導した若き共産党の闘士として、
活躍した経験の持主である。
三・一五事件 ( 昭和三年三月十五日、新生共産党の全国いっせい大検挙 ) のとき
検挙されて入獄し、獄中で渥美勝の 『 桃太郎主義 』 や 遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 などによって、
百八十度の転向をして出獄した。
そのころ、立憲養正会の里見岸雄は、盛んに天皇の科学的研究を唱道していた。
その講演会が、大阪で開かれた。
松浦は、たまたま先輩の鶴見重文中尉 ( 陸士四十期、後平井と改姓 ) と共に聴講した。
里見岸雄の講演内容に対して、堂々批判の一矢いっしをむくいたものがいた。
天皇を科学的に分析する態度に同調し得ない、という中村義明であった。
その中村の批判に全く同感の意を表したのが田崎仁義博士であった。
そのことがきっかけとなって田崎と中村との親交がはじまり、
当然のようにこれを通じて松浦と中村、田崎との交流がはじまった。
それがやがて大岸、中村のコンビに発展するのであるが、
私が大岸を訪ねた、その一日前に中村の反吐事件を誘発し、その交流が強化されたというわけだ。
「 そうですか。 義明が反吐を吐きましたか、よかったですね 」
松浦は愉快そうに笑った。
「 週番中の宿題みたいな気持ちで、ちょっと書いてみたんですが、読んで見てくれませんか、
つまらないものですが・・・」
松浦は、部厚い原稿を出した。
私は、その原稿を四つ折りにして、上衣の内ポケットにしまい込んだ。
本人のいうように、どうせ、つまらないものと思いながら・・・・。
松浦少尉と別れて、東京行きの汽車に乗ったのは、夜もだいぶ更けてからであった。
旅の疲れが一度に出て、私は、いつの間にか寝てしまった。
沼津で眼が覚めた。
いままで忘れていた松浦の原稿を、フト思い出した。
私は睡眠不足の重い頭で読んでみた。
『 現下青年将校の往くべき道 』 の 表題で書きつづられている文章を一枚、二枚と読んでいくうちに、
私の眠気は一ぺんにふっ飛んだ。言々句々、まさに珠玉の文章であった。
一気に読み終わった。
二度、三度倦むことなく読み返した。
これが、新品少尉のものした文章であろうか、と 疑ったほどの大文章であった。
東京でも、絶賛を惜しまなかった。
このままに埋もれさすのは惜しいというので、印刷に付すことにした。
香田中尉の斡旋で、まず 五百部が刷られた。
全国の各聯隊はもちろん、朝鮮、満洲の守備隊に至るまで配付した影響は大きかった。
この 『 現下青年将校の往くべき道 』 が、啓蒙の上に大きな役割を果たしたことは、
いうまでもない。 ・・・大蔵栄一 著  二・二六事件への挽歌  「 
松浦少尉、警世の大一文 」 から


松浦邁
(つぐる)
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『 現下靑年将校の往くべき道 』 
松浦邁 ・ 異聞

松浦中尉はそのころ鶴見中尉と同じ奈良の三十八聯隊にいて、
いわば和歌山勢といったところだった。
彼は前に述べたように、
『 日本改造方案大綱 』をめぐっての東京と和歌山の確執を解くべく一役買って上京したこともある。

もともと彼は五 ・一五事件の士官候補生とは士官学校時代からの同志だが、
なにかのはずみで、この事件に参加しなかった。
それを彼は討入りにはぐれた赤穂浪士のように負い目に感じていた。
少佐になってからも、折にふれてそういった心境を私にもらしていた。
しかし彼が見習士官時代に聯隊長からの課題作業として綴った 『 青年将校の行くべき道 』 の一文は、すぐれた作品だった。
私たちは満洲事変中、満洲でそれの印刷したものを受取ったが、
凱旋の途次 新京で会った菅波大尉も、これを激賞して
「 誰が書いたのだろう、大岸さんではないかと思っているがね 」 と いっていた。
彼はしかし 二・二六事件にも連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、
懸命の奔走をつづけたのだった。
・・・末松太平著  私の昭和史  から


澁川善助 『 絶對の境地 』

2023年02月10日 08時07分37秒 | 澁川善助

昨夜 安藤と会ったあの応接室には、十数名の将校が集っていた。
安藤も坂井も鈴木もいた。
勿論 見馴れぬ将校もいた。
わたくしがそこに這入って行くや、
坂井に話す隙もあらばこそ、忽ち数名の者から、
「何うだ、何うだ」
と、質問の矢を浴びてしまった。
これは余り様子が違う。
野中や坂井が誰と交渉したのか、それさえも知らぬわたくしである。
ただ知っているのは奉勅命令のことである。
「奉勅命令が出たんです。お帰りになるんでしょう」
わたくしは慰撫的にそう云った。
これはかれらには意外だったらしい。
「 何が残念だ、奉勅命令が何うしたと云うのだ、余りくだらんことを云うな 」
歩兵第一旅団の副官で、事件に参加した香田大尉がこう叫んだ。
かれらはまだ自分の都合のよい大詔の渙発を期待しているのだ。
奉勅命令については全然知らない。
わたくしは茫然立っているだけであった。
この時
紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。

それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。
全国の農民が、可哀想ではないんですか 」

澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
一座は再び怒号の巷と化した。
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた。
・・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」

澁川は会津若松の出身で、仙台陸軍幼年学校を経て陸士に進んだ ( 三九期 )。
幼年学校では、二期上に村中、一期上に安藤がいた。
彼は、士官学校予科を二番で卒業し、将来を嘱望された。
しかし、本科卒業直前に、士官学校の教育方針を批判したというだけの理由で、退校処分を受けた。
ときの校長は眞崎甚三郎であった。
その後明治大学専門部に学んだが、在学中社会問題、思想問題に関心を抱き、
満川亀太郎らの指導を受けて国家革新運動に奔走するようになった。
昭和九年頃大森一声、西郷隆秀らと、学生を対象とする精神修養団体 「 直心道場 」 を創設し、
塾生の指導に当たる傍ら、道場に置かれた 「 核心社 」 の同人として雑誌 『 核心 』 の発行に携わった。
昭和一〇年一一月相澤中佐が起訴されると、西田税らと共に相澤の救援活動に当たっていた。
同志の澁川評は、
「 直情径行の士で、実行力に富む 」 ( 福井幸 ・第五回予審調書 )
「 昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。
 激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない 」 ( 中橋照夫 ・第一回公判 )
「 一徹に進んで行くかと思うと、途中でいかぬと思えばすぐに引き返し、
 今度は引き返した方向に一徹に進むという急進 ・直角的で、
 樫の木のような性格の持ち主 」 ( 西田税 ・第三回公判 )
と、ほとんど一致する。
彼が明晰な頭脳と鋭い論鋒の持ち主だったことの片鱗は、
裁判長らに宛てた 「 公判進行ニ関スル上申 」 に示されている。
しかし、私が何よりも驚嘆するのは、彼の強固でしぶとい意思についてである。
一例を挙げよう。
後述のように、彼は事件の前日、
偵察先の湯河原に同行していた妻を、連絡のため上京させた。
帰途西田から託された手紙を夫に渡した。
これは、妻も西田もあっさり認めた事実だが、澁川だけはついに最後までしらを切り通した。
取調官が確証を握っている事実について否認し通すことは、通常人にはできない仕業である。
澁川は、兄事していた西田に関する事項については、徹底徹尾諴黙を守っている。
西田を庇った被告人は、もちろん彼だけに止まらない。
村中 ・磯部 ・栗原らは、予審 ・公判を問わず、
極力西田が事件と直接関係のないことを主張した。
とりわけ磯部は、北 ・西田の助命のため、
獄中から百武侍従長その他の要路関係者に対して、
次々と秘密の怪文書を発送している。
しかし、まるで西田が存在しないかのように西田関係について黙秘した者は、澁川を除いてはなかった。
これは、彼の人間研究に見落とすことのできない点である。
リンク
獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」)
獄中からの通信 (6) 「 一切合切の責任を北、西田になすりつけたのであります」 
獄中からの通信 (7) 「 北、西田両氏を助けてあげて下さい 」  )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二月二三日、澁川は村中から本件の計画を知らされ、
牧野伸顕の所在偵察を依頼されてこれを快諾した。
この時点で、彼は直接行動には加わることなく、外部から蹶起を支援することになっていた。
彼は、即日妻キヌを同伴して湯治却を装い、
佐藤光佑という偽名で湯河原の伊藤屋旅館に投宿し、牧野の動静を探った。
二五日朝、彼は妻を上京させて磯部に情報を届けた。
午後、河野大尉が旅館を訪れ、直接澁川から情報を得ると共に、
牧野が滞在している同旅館別館の周囲の状況を自ら見分した。
澁川は、午後九時頃旅館に戻ったばかりの妻をせき立てて、
旅館には 「 親戚の子どもの具合が急に悪くなったので帰る 」 との口実で、
湯河原発午後一〇時三四分発の終列車 ( 横浜止まり ) で帰京した。 ( 澁川キヌ ・第二回検察官聴取書、稲井静江 ・検察官聴取書 )
妻が旅館に戻ったとき、彼は妻が帰ってくるのを待っていたような様子であり、
トランクなどもきちんと整理とてあったというから、当初から帰京のつもりだったと思われる。
帰京した彼は、終夜歩一 ・歩三の周辺で部隊の様子を窺っていた。
午前四時過ぎに部隊が営門から出発するのを確認した彼は、直ちに電話でこのことを西田に報告している。
事件発生後の澁川は、情報の蒐集と提供、民間右翼に対する協力要請などに走り回っていたが、
二七日旧知の中橋照夫 ( 明治大学生 ) から山形県農民青年同盟の同志らと謀って蹶起する旨を告げられ、
拳銃五挺の入手方を依頼された。
澁川は、歩兵第三二聯隊 ( 山形 ) の浦野大尉への紹介状を渡し、
まず軍隊と連絡を取るようにと助言する一方、栗原に依頼して入手した拳銃五挺し実包二五発を与えた
( さらに栗原を介して銃砲店に実包三〇〇発を注文したが、これは入手できなかった )。
中橋は、出発直前の二八日午前九時頃自宅で警察官に逮捕され、
反乱幇助で起訴されたが、判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定されて禁錮三年に處せられている。
このほか、澁川は、二八日青森の歩兵第五聯隊の末松太平大尉のもとに、
東京の情況説明と地方同志の奮起を促すため、佐藤正三 ( 中央大学専門部学生 ) を派遣している。
このため佐藤は反乱幇助罪で起訴されたが、
判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定され、禁錮一年六月 ・執行猶予四年の刑を受けている。
なお、末松は、革新青年将校の一員であり、澁川の同期生で親交があった。 ( 反乱者を利する罪で禁固四年 )
この事実は、澁川も被告人尋問で率直に認めている。
しかし、判決文からは、なぜかこの事実はすっかり欠落している。
おそらく、法務官のミスと思われる。
二八日午前一〇時頃、
澁川は 「 幸楽 」 にいた安藤大尉を訪れ、そのまま叛乱軍に止まった。
その理由について、
彼は法廷で、
「 外部の弾圧が激しく、検束されるおそれがあったからだ 」
と述べる。
確かに警視庁は、この日から民間関係者の一斉検束に乗り出している。
しかし、情報を得るために安藤に会いに行った澁川が、
急激に悪化した情況のため、戻るに戻れなくなった可能性もないわけではない。
以上の事実関係のもとで澁川を 「 謀議参与者 」 と認めることは、私には疑問がある。
牧野偵察はまさに幇助行為だし、
中橋らに対する行為にしても、彼が独自に行った支援行為にすぎないからである。
しかし、この点はさておいても、極刑の選択はあまりにも酷であった。
軍法会議は、民間の被告人らに対しては、とりわけ厳刑で臨んで居る。
澁川然り、湯河原班の水上然り ( 求刑は懲役一五年 )、北 ・西田また然りであった。
禁錮一五年の求刑を受けた亀川哲也も、判決は無期禁錮であった。
軍部に対する国民の非難を民間人に転嫁しようとする意図が窺える。
・・・北・西田裁判記録  松本一郎  から


澁川善助  シブカワ ゼンスケ
『 絶対の境地 』
目次

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・ 澁川善助 ・ 道程 ( みちのり ) 

・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
・ 澁川善助の士官學校退校理由 

・ 
澁川善助と末松太平 「 東京通い 」 

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕 
・ 
末松の慶事、万歳!! 
・ 澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕 

・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
 皇国維新法案 『 これは一體誰が印刷したんだ 』 
・ 澁川理論の展開 
・ 
相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 

永田軍務局長を斬った時の感想として、
「 私の心の中の覚悟としましては、総て確信による行動であるから、
事の成ると成らざるを問わず、行動を終ればそのまま平然と任地に赴く考えでありました 」
と、澁川がその速記録を見ながら、相澤の心境を語った時、
安藤輝三大尉がクスクス笑い出してしまった。
これは笑うのがあたりまえだ。
一般国民でもかれは精神異常者ではないかと噂したほどであるから。
安藤は澁川と昵懇なので遠慮がないから笑えたので、
一緒に他の者が笑わなかったのは、ただ失礼と思っただけである。
澁川は陸士三十九期の中途退学生である。
「 笑ってはいけません。 安藤さん、あなたは禅を知らないからです 」
澁川が大きな声で叱った。
澁川のこの言葉に、一同は なる程そう云うものかなと、
全面的に納得はゆかぬものの、話はそれで進められた。
・・・
澁川善助 「 あなたは禅を知らないからです 」 

今回の行動に出でたる原因如何。

宇宙の進化、日本國體の進化は、
悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考へるべきものではありません。
斯くの如く分けて考へるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、
当時者たる私には説明の出來ないものであります。
相澤中佐が永田中将を刺殺して後、
台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで

絶對の境地であります
之を不思議に思ったり、刑事上の責任を知らない等と 言ふのは、
凡夫の自己流の考へ方であります。
又 之を以て相澤中佐の境地に当嵌あてはめるのは間違ひであります。
今回の事件は、多少大きい事件でありますから問題にされる様でありますが、
私の気持ちでは當然の事と思って居ります
・・
澁川善助の四日間

昭和維新・澁川善助

・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
・ 澁川善助 ・ 昭和維新情報 
・ 澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

・ 澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 

・ 
澁川善助 『 感想錄 』 
・ あを雲の涯 (六) 澁川善助
・ 澁川善助の観音經 

事件勃発後は主として西田宅におり、
西田の指示により情報の収集と民間団体蹶起の呼びかけ等に専念していたが、
二十八日午前十時頃、幸楽の坂井部隊に入り、
爾来 事件終結まで 坂井隊と行動をともにした。
彼はこれがために 部隊指揮、すなわち 「 群集指揮 」 の責任の故に死刑となった。
澁川は日蓮宗にふかく歸依し、
獄中、常時讀經し、とくに刑死前夜には同志のため祈りつづけていた。
そして七月十二日午前八時三十分
泰然として刑場に臨み、
その刑の執行されんとするや、

「 國民よ、軍部を信頼するな !」
と 絶叫したという。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件 から


暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 「 余は初めからケンカのつもりで出た 」

2023年02月09日 20時36分39秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略3 磯部淺一の闘争

一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ。
吾々に對する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要點を陳べてゐない 又 事實と相違せる點も多々ある。
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは亂暴ではないか。
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは、
吾等は三月一日發表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる、
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である。
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい、
國賊であるか否かを重點としてもう一度ヨク豫審でしらべてもらひたい、
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か  義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに、
國賊なりとの斷定の下に、國賊即反徒 反亂罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である。
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ。


暗黒裁判
幕僚の謀略 3

磯部淺一の闘爭
『 余は初めからケンカのつもりで出た 』
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1  奉勅命令について 
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ。
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない。
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ。
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ國賊云々の宣傳文は不届キ至極である。
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒嚴群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる。
勅命には抗してゐない、
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

「 奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ 」 ・・・香田淸貞
「 山下奉文等、將に下達ノ時機切迫スト。一同ヲ集メ切腹セシメントス。
 一
同下達サルヽマデヤル覺悟、遂ニ下達サレズ、外部々隊包囲急ナリ 」 ・・・ 林八郎
「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」 ・・・安藤輝三
いずれも奉勅命令は伝達されなかったと遺書している。
だが軍當局は彼らが奉勅命令にしたがわなかったとして逆賊とした。

「 軍幕僚竝ニ重臣ハ吾人ノ純眞純忠ヲ蹂躙シテ權謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ 」 ・・・香田淸貞
「 當時大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ即時、吾人ヲ免官トシテ逆徒トヨベルハ、
 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 ・・・安藤輝三

忠誠心にこりかたまっていた彼らの悲憤、今日においてなお私たちの胸に迫るものがある。
彼らははたして「奉勅命令」そのものをどのように受けとったのであろうか。
「 奉勅命令ニ從ワナカツタトイウコトデ、私ドモノギョウ動を逆賊ノ行爲デアルノヨウニサレマシタコトハ、
事志ト全ク違イ忠魂ヲ抱イテ奮起シタ多數ノ同志ニ對シ寔ニ申シ譯ナイ次第デアリマス。
シカシ 私ドモハカツテ奉勅命令ニマデ逆オウトシタ意思ハ毛頭ナク
最後ハ奉勅命令ヲイタダイテ現位置ヲ撤退サセルトイウ戒嚴司令官ノ意圖デアルコトヲ知ツテ、
ソンナ事ニナラヌヨウニ、ソンナ奉勅命令ヲお下シニナラヌヨウニト、 
色々折衝シタダケデアリマシテ、決シテ逆賊ニナツテマデ奉勅命令ニ逆ウヨウナ意思ハ毛頭アリマセンデシタ。
事實、今日ニ至ルマデイカナル奉勅命令ガ下サレタノカ、ソノ命令内容ニ關シテハ全然知ラナイノデアリマス」
・・・村中孝次調書

奉勅命令で撤退せしめられるという意圖を知って、これが下達されないように工作したというのである。
奉勅命令がでれば、万事休すである。これは絶対だからだ。
それ故に、逆賊になってまで奉勅命令に逆う意思は毛頭なかったと、首謀者村中は言うのである。
「 奉勅命令ハ命令系統カラハ全然聞イテオリマセン。
タダ、二十八日夜ニ歩三聯隊長ガ幸楽ニ來テクレマシテ、
奉勅命令ガ下ツタトイウコトノ話ハアリマシタカラ、ソノ後小藤部隊長ノ命令ヲ持ツテオリマシタガ、
何ノ命令モナク、周囲ノ部隊ガ攻撃シテ來マスノデ、ドウスルコトモ出來ズ、
山王ホテルニ立チコモッテオリマシタヨウナ次第デ、
奉勅命令ニ抗スルトイウヨウナ氣持ハ毛頭ナク、
マタ事實、小藤部隊ノ指揮ニ入ツテオリマシタノデ、
奉勅命令ニ從ワナカツタトイウコトハナイト信ジマス」 ・・・安藤輝三調書

・・・ 「 奉勅命令ハ伝達サレアラズ 」 
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2  
大臣告示に就いて 

どこに一語でも説得の文句があるか。
吾々をよく云って居る所ばかりではないか、
參議官一同は恐クし、
各閣僚も今後ヒキョウの誠致すと云ってゐるではないか。

吾々は明かに大臣によつて認められた。
而も吾々の要求した所の行動を認めるか否かと云ふ点については
明かに行動を認めると云ふ印刷物が部隊の將校の方へ配布された。

所が大臣告示が変化した。
吾々が二十九日収容されると同時に変化し出した、
先づ最初に告示は陸軍として出したものではないと云ふことを云ひだした。
そして曰く、
あれは陸軍大臣個人として出したのだとつけ加へた。
そんな馬鹿な話があるか 大臣告示と銘打って出したものが 陸軍として出したものでないとか、
川島個人のものだとか云ふ理クツがどこにあるか、
豫審廷でサンザン同志によつて突込まれたあげくの果て、
弱って今度は大臣告示は軍事參議官の説得案だと云ひ出した。
どこ迄も逃げをはるのだ。
そんな馬鹿な話しがあるか、
あの文面のどこに説得の意があるか、
行動を認むとさへ記した印刷物を配布した位ひではないか、
行動を認める説得と云ふものがあるか、
吾人は放火殺人をしてゐるのだ、
その行動を認めると云ふのだ、
祖の行動を認めて尚どこを説得すると云ふのだ、
行動を認めると云ふことは全部を認めると云ふことではないか、
全部を認めたらどこにも説得の部分は残らぬではないか、
宮中に於て行動を認めると云ふ文句の行動を眞意に訂正したと云ふのだ、
ところが訂正しない前に香椎司令官は狂喜して電ワをしたと云ふ、
此処か面白い所だ、
即ち、最初はたしかに全參議官が行動を認めたので吾人はそれだけでいゝのだ、
あとで如何に訂正しようとそんな事は問題にならん、
吾人の放火、殺人、の行動を第一番に、最初に軍の長老が認めたのだ、
吾人の行動直後に於て認めたのだ、
第一印象は常に正しい、
軍の長老連の第一印象は吾人の行動を正義と認めた、それだけでいゝではないか、
軍事參議官が先頭第一にチュウチョせずに認めたと云ふ事實はもうどうにも動かせぬではないか、


3  
戒嚴軍隊に編入されたること 
二月廿七日 吾人は戒嚴軍隊に編入され  
午前中早くも第一師戒命によつて 麹町警備隊となり 小藤大佐の指揮下に入った。
・・・命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備ニ任ズ 」 
戒嚴は 天皇の宣告されるものだ。
その軍隊に編入されたと云ふことは 御上が義軍の義擧を許された、
御認めになつたと云ふことだ、それは明伯だ。

吾人は奉勅命令に抗してはゐない
故に賊と云はゝる筈なし
吾人の行動精神は 蹶起直後 陸軍首脳部によつて認められ大臣告示を得た。
続いて戒嚴軍隊に編入されて戒嚴命令により警備に任じた、
以上の事を考へみたならは吾人が反軍でない事は明かである。
反亂罪にとはるゝ筈はないのだ。
然るに軍部は氣が狂ったのか、大臣告示は説得案と云ひ、
戒嚴軍隊に入れて警備命令を発し警備をさせた事は謀略だと云って
無二無三に吾々を反亂罪にかけてしまつた。

4  豫審について 
豫審官は決して正しい調へをしようとしなかつた。
自分の考へてゐることに 余を引き入れて 豫審調書を作成しようとした態度がありありと見えた。
それで余はコレデハタマラヌと考へたので、
「 一體吾々は義軍であるか否か  即ち吾人の行爲は認められたか否かと云ふことを調査せずに
 徒らに行動事實をしらべて何になるか。
吾人は反軍ではない反亂罪にとはるゝ道理はないのに、反亂罪の調査ばかりすると云ふのは以ての外だ 」
との意をのべたら豫審官は
「 君等の行爲は軍中央部に認められる以前に於て反亂だ 」
と 極く簡短に答へて シキリに行動事實だけを調べようとするのであつた。

[ 註 君等の行動ハ軍中央部ニ認メラルヽ前ニ於テ既ニ叛亂ダト云ケレドモ
ソレ程明瞭ナル反軍ニナゼアノ如き大臣告示ヲ出シタカ
又戒嚴軍ニ入レ警備ヲ命ジタカト云フコトハ公判ニ於テ陳述セリ ]・・・欄外記入


5  
公判について  
村、安、余、栗等はコソコソと公判の對策を打ち合せした。
流石に同志はえらい 皆期せずして一致していた。
1、奉勅命令の下達サレザルコトヲ主張スルコト
 大命に抗シタルニ非ずと云ふことを第一に主張スルコト
2、大臣告示を受けたことを主張シ行動を認められたる旨を充分に陳ベルコト
3、戒嚴軍に編入し警備命令をうけて守備をした事を主張スルコト
要点は右の三条であった

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・・・挿入・・・

「 いよいよ法廷に立ったときは、
 すっかり達観して死を待って居るかの如く至極簡單に淡々と陳述する者もありますし、
せめて裁判官にでも昭和維新の理念をたたきこんでやろうとするかの如く熱烈に陳述する者もあり、
神がかり的にその信念を縷々と述べる者もありました。
又 多少行き過ぎを自認した發言をする者も二、三ありました。
非公開なのは彼等の心残りであったのでしょう。
・・中略 ・・
彼等は政財界、重臣の腐敗、幕僚ファッショを衝きます。
それを調べずして裁判は出来ないと主張します。
・・中略 ・・
私達も暗黙の裡に、彼等の指摘する情勢については憂を同じくするところもありましたが 」
・・当時、特設軍法会議の半士・間野俊夫 ( 陸士33期、当時陸軍歩兵大尉 )

「 私は判士の一番末席にいて あまり被告とやり合った事はないが、

 被告から陸軍大臣告示や警備部隊編入のことを突かれると、判士は ぐっと詰る。
被告の言うことが眞実なのだ。
しかし、それを認めるとなると陸軍の上層部はみな叛乱罪か、叛乱に利す ということになり、
陸軍は大混乱になり、統制系統は崩壊の危機に立ち去る。
まあ、それを防ぐために必死になってやり合ったわけだ。
実際はあの時 上層部の二、三名が自決して責任をとっておれば 事態はもっと変ったであろうが、
無責任な将軍たちばかりだった。
この無責任な體質がついに陸軍をして大東亜戦争にまで暴走させてしまったのだ 」
・・当時、特設軍法会議の補助判士であった河辺忠三郎 談
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原因、動キ、思想、信念等は抜きにして事実シン理に入るのだ 暴も甚しい。
余は休ケイ時間に村兄に耳うちして
「 事實の陳述をやめて原因動キをのべる事を主とされよ、
 而して 彼の公判即決主義を打破せよ 公判はユツクリと充分に陳述せざれば不可である。
裁判官の云ふとほりにするとヒドイ目にアフゾ
彼等は公判を短時日にやつて少数者の極刑主義をとるのだから吾人はソノ裏をかくを要する。
成る可く彼等のキキタガル行動事實の陳述をアトニして
原因、動キ、思想信念を永々とのべ公判日時のセン延をハカル事、
又 少數者の極刑主義をとるにちがひないから 吾人は多數を処刑セネハナラヌ様にスルコト
ソシテ遂ニハ手ガツケラレナイ程ニ拡ゲテユクコト
コレガ爲メニハドウシテモ先ヅ第一ニ日時ノ遷延をハカラネバイケナイ
ソシテ村兄は先頭第一の訊問ダカラ敵の情況ヲモ偵察シツヽ陳述シテホシイ、
尚同志教育ま必要モアルカラ成ル可くクワシク ユツクリと陳述シテホシイ
同志教育ト云フノハ國家内外の客観情勢を同志によく知らして腹ゴシラヘをさせるのだ 」
との 意をのべた。  村兄 余の意見をとり陳述をス。

余は村兄に維新の意義 革命の哲学を説けと云ひて次の意見を具申す。
「 維新とは大義を明かにすることだ。
 日本的革命の哲学は皇権の奪取奉還である。
即ち兵馬大權が元老重臣軍閥等によつて侵されてゐるのを
大義にめざめたる文武の忠臣良ヒツが奪取奉還する事を維新と云ふのだ。
政治大權が政ト財バツによつて侵されたるを、
自覚國民 自主(民主)國民が奪取奉還することを維新と云ふのだ。
この点を説明してやらぬと裁官は全くワカラヌラシイ 
特に 統帥權の干犯者を斬って皇權を奪取奉還せる義軍事件の中心精神を説かれよ、」 と
村兄余の意見をとり 堂々の論を吐く。

余は初めからケンカのつもりで出た。
年齢 出生地等型の如き訊問をおわりたるのち裁判官に質問と称して
「 一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ、
 吾々に對する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要点を陳べてゐない 又 事實と相違せる点も多々ある、
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは乱暴ではないか、
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは
吾等は三月一日発表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる、
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である、
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい、
國賊であるか否かを重点としてもう一度ヨク予審でしらべてもらひたい、
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か  義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに
國賊なりとの斷定の下に、國賊即反徒 反乱罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ 」
と 陳べた、
所が裁判官も一寸ヘドモドした様子であつたが
無礼なる藤井は
「 然らば公判を受けぬと云ふのか 受けぬならこちらで推理決定す 」 と 云ふ
コレヲキヽ 余は云ふ可きを知らない。
すべてが制圧的である。
彼等の規定の方針に従へようとして訊問をする、純然たる反徒としての取り調べ振りである。
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・・・挿入 ・・・
憲兵報告・公判狀況 3

午後四時二十五分再開ノ際、
 村中ハ健康上ノ都合ニ依リ休憩ヲ申出デタル爲、 
磯部淺一ノ訊問ニ移リタルガ、

磯部ハ潑剌タル元気ヲ以テ次ノ如ク檢察官ノ公訴事實ヲ反駁スルト共ニ、
裁判官ニ喰ツテカカリ、廷内ニ緊張ノ空気ヲ漂ハセタリ

(1)  檢察官ノ公訴事實ハ我々靑年將校ノ眞精神ヲ没却埋没シアリ。
 即チ、我々蹶起ノ眞精神ハ全然公訴事實ニ現ハサレアラズ。
(2)  國憲ニ反抗セリトノ言葉ヲ使用シアルガ、我々ハ斷ジテ國憲ニ反抗シタルモノニアラズ。
 國體破壊ノ元兇ヲ殪シタリトテ國憲反抗ト謂フベキニアラズ。
大臣官邸ニ宿營シタリトテ國憲反抗ニアラズ。
首相官邸ノ占據ヲ以テ國憲反抗トナスガ、國體破壊ノ元兇ヲ殪シテ其ノ儘其処ニ據リタリトテ、何ガ國憲反抗ナリヤ。
我々ハ國憲反抗ノ解釋ニ苦シムモノナリ。
(3)  奉勅命令ノ違反、之亦奉勅命令ノ發セラレタルコトヲ知ラザル者ニ違反ノ事實アル筈ナシ。
 我々ハ決シテオ上ニ對シ奉リ 弓ヲ引ク者ニアラズ。
我々ヲ賊軍扱ニスルハ奇怪ナリ。
(4)  兵ハ將校ニダマサレテ出動シタリト云フモ、斷ジテダマシタル事實ナシ。
 全ク志ヲ同ウスル者ノ團結ナルコトヲ斷言ス。
(5)  我々ガ小藤大佐ノ隷下ニ入リタルコト、續テ戒嚴部隊ニ編入セラレタルコトハ、 公訴事實ニ全然現ハサレアラズ。
以上五點ハ檢察官ノ公訴事實中承服出來ザル點ナリ。
茲ニ於テ判士長ニオ願ガアル。
斯カル公訴事實豫審ノ取調ヲ基礎トシテ取調ヲ受クレバ、反亂罪トシテ處斷セラルゝハ必然ナリ。
先ヅ 我々ガ義軍ナリヤ否ヤヲ明カニシテ、然ル後ニ取調ヲ進メラレ度シ。

 ト 判士長ニ詰ヨリ、法務官ヲシテ答ヘシムトノ判士長ノ返答ニ依リ、 法務官トノ間ニ押問答アリ
 結局、検察官ト裁判官トノ立場ノ異ルコトヲ諭サレテ承服ス 
・・・  ・・ 第四回公判狀況    昭和11年5月4日 
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6  
求刑と判決  

求刑
山本又、今泉を除き他は全部死刑
山本十五年、今泉七年
一同無言、
同志に話しかけられると、
何に 死はもとより平気だ
と云って 強ひて笑はんとするが その顔はゆがんでゐる。
こんな表情を余は生来始めて見た。
余も亦歪める笑をもらした、泣きたい様な怒りたい様な笑ひだ。
自分で自分の歪んだ表情、顔面の筋肉が不自然に動くのがわかつた、イヤナ気持ダ
無念ダ
シャクニサワル 
が復讐のしようがない。

論告 
は特に出タラ目ダ
民主革命を強行せんとしとあるに至っては一同慄然とした。
吾人の行動を民主革命と称するのだ。
國體を理解し得ない維新を解し得ぬ輩がよつて、たかつて吾人に泥をなすりつけるのだ。

世間では二、二六事件と呼んでいるが これは決して吾人のつけた事件名ではない。
又 吾人が満足している名称でもない。
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので 余は甚だしく二、二六の名称をいむものだ。
名称から享ける印象も決してばかにならぬから、余は豫審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても、
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に強調しておいた。
然らは余等は如何なる名称を欲するか と 云へは 義軍事件 と云ふ名称を欲する
否 欲するではない、事件そのものが義軍の義挙なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ。
余は豫審公判に於ても常に義軍の名称を以て対した

・・・
二、二六事件等 変てコな名をつけた事は如何にも残念だ 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『 判決 』  (七月五日)
死刑十七名、
無期五名、
山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ。
余は蹶起同志及全國同志に対してスマヌと云ふ気が強く差し込んで来て食事がとれなくなつた。
特に安ドに対しては誠にすまぬ。
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ。
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない。
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた為めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると 夜昼苦痛で居たゝまらなかつた。
余は只管に祈りを捧げた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入 ・・・

磯部の遺書の中に 「 特に航空兵大尉の態度最も悪し 」
と 攻撃されている河辺忠三郎は、言う。
「 当時私は間野さんと同じく大尉であったが、下志津の陸軍航空学校の教官をしていた。
元来私は軍人は政治にかかわるべきでないと信じていたから、 決起将校には同情的ではなかった。
軍の統帥をふみにじった怪しからん奴だと憤慨していた。
ところが 軍法法廷で、彼等の陳述を聞いているうちに しだいに彼等に同情するようになった。
國家の腐敗、混乱を見るに忍びず、自らの家庭や生命を犠牲にして國家を建て直そうという 純粋な精神に感動したのだ。
まあ 生命を捨ててかかっている連中は鞏いのだ。
気魄が違う。
中央の幕僚たちがなんとか責任を免れよう、 履歴に傷がついて出世の妨げにならんように
と保身に汲々たる連中とは、天地の開きがある。
やった行爲は誰がみても許せない事だが、蹶起する動機の純粋さに判士たちはみな感激した。
彼等は他日 ( 何十年か後には ) みな 神に祭られる人々だ。
銃殺でなく、昔の武士の切腹のように名誉ある死を賜るようにすべきではないかと説く人もいた。
賛成する人も多かったが、陸軍刑法の定めは動かすことはできん。
ついに銃殺に決まった 」
「 間野さんは 彼等の目は輝いて 『 後を頼む 』 と 言っているように、私は思えました、
と書いているが、 實際に死刑の判決をうけた被告が、無期の判決をうけた者の傍にかけよって
『 おめでとう 、おめでとう  』 と言って慰めていた。
無期の連中は しょんぼり うなだれていた事は はっきり覚えている。
死に遅れて すまない という気持があったのではあるまいか 」
・・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から
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同志は實に偉大だ  特に若い同志に偉大な人物が多い
安田の如きは熱叫 軍の態度を攻撃した。
彼の最後の一言
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
は 昭和維新を語る後世の徒の銘記すべき名言と云はねばならぬ。
安田はサイトに第一彈をアビセ 渡邊をオソヒ 一人二敵をタホシタル勇豪の同志、
剣に於ける彼の勇は言論にも勇であつた。
余は 彼の言をきゝ 余の云ひたきことを全部云ひツクシテ呉れたるを深謝した。
全同志等シク 兵教育ニヨツテ國家改造の必要を痛感せるを陳べ、  
ソノ兵下士の家庭を思ひ、
窮乏國民の家庭を思ひ、
國家の前途を憂ふるの情誠に痛切なるものあり、
流石専横の裁官も謹聴せざるを得ざる状況があつたのはイサヽカの喜びであつた。


昭和維新 ・ 蹶起の目的

2023年02月08日 14時48分59秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」
昭和六年の事、
香田清貞は同期の大蔵栄一に しみじみとそう語った。


昭和4年10月に始まる世界第恐慌は 5年には日本農村に波及する。
米と繭の価格下落に加えて 6年、9年と続けて襲った東北大凶作に依り大被害となった。
米の価格は大正4年の一石40円71銭から、じり貧状態となっており、大恐慌の際にはいっきに17円77銭に暴落した。
繭も大正14年に一貫当り11円25銭であったのが 大恐慌によって昭和9年には2円52銭にまで惨落する。
1920年代後半から農村不況は進行し、1930年代前半に農村の疲弊はその極に達したのである。
借金のカタに差し押さえ、競売 又、収穫以前に出来秋の稲を事前に叩売りしてしまう 「 青田売り 」 が 行われ、
更に娘の身売りまで行われた。
東北地方の農村を中心に小学校の昼食時間に 弁当を持ってこない 「 欠食児童 」 が 大量に発生した
小作争議は急増し、恐慌下の生活破綻のなかで、 中小地主と小作人が小作地をめぐって血みどろの闘いを強いられた

    
小作争議                                                                                         満洲事変 ↑
大正十五年五月一日の早朝、西津軽郡車力村の鎮守の森から、突如として
「 聞け万国の労働者、とどろきわたるメーデーの示威者におこる勝鬨は  未来を告げる  トキの声・・・・」
と、インターナショナルの合唱が起こった。
村の人達は何事が始まったのかと、仕事を捨て、墨も黒々と左記の字句を列記していた。
小作人から田畑を取上げるナ---小作人から飯茶碗を取上げるナ---小作料をまけろ---小作人を人間扱いせヨ---
小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ---等のスローガンを掲げ、それに続く、むしろ旗や赤旗を押し立て、
ケラ ( 箕 ) を着て、縄帯を締め、素草鞋ばきで、手には草刈鎌やタチ ( 田のクロを切る農具 ) を持ち、鍬を肩に担いで、
木造きづくり町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、田茂木、芦野、地元の車力、下牛潟、富萢とみやち方面から、
約六百五十名の農民の大行列が、地元を揺り返が如き、勢で村内をインターナショナルの歌声で、行進した。
これが県下での初めてのメーデーである。 農民組合の発祥の地として、全国通々浦々に新聞等で、車力の名が紹介された。
この有様を二階の窓から見た或地主は 殺される! される!と叫んで家の中を逃げまわり土蔵の長持に隠れたというエピソードを、
いろんな本に書いているが、そうでなく、朝から夜中まで、便所の中に飯も食わずに、かくれていた事は本当で、
家の人がナダメて、やっとのことに、その中から出したという。
この地方は大昔から、二百十日頃になると毎年の如く、季節風が雨と一緒にやってくる。
暴風雨に混って、暗闇の中からドンドンと薄気味悪く鳴り響いてくる太鼓の音と共に、水だ---水だ---と ざわめく、悲痛な人声である。
本村の農民達は素早く種俵や土用俵をかついで、豪雨の中をジャッブ、ジャッブと走って行く足音が、次々と闇の中に吸い込まれた。
翌朝、あの広々とした津軽平野も、大海の如き様相を呈している。千貫の向うと、長泥の北はずれの岩木川の堤防が決裂したという。
人家は床下浸水どころか、軒下近くまで、水につかり、下車力や長泥の人々はマゲ ( 二階のように見せかけているが、様子がない )
で 一夜を明かした位だ。勿論 島立 ( 稲島 ) は流失して、皆無作である。焚出しを舟で運んだ。
土手の決壊の名残に岩木川の堤防沿いの東西に大、小の沼がある。これは今、昔の惨状を物語っている。
また太田山偏東風が続けば、山田川が十三湖より塩水の逆流で川や堰の魚が死んで浮いている。
叭や俵を背負って、それを拾いに行ったものである。無論、稲も枯死した。七分作、五分作、三分作、皆無作とその度合いによって異なった。
大正十二年頃から、内務省直営で、岩木川と山田川の堤防の改修工事が始められており、毎年に惨状が減って来た。
でも偏東風が植付早々吹き続き、綿入や犬の皮を着て田の草取りをし、早期に霜や あられが降ると、
未熟の稲穂が箒ほうきを逆立ちにしたようなものであって、いわゆる凶作である。このように、隔年的に水害と冷害に悩まされる。
減収による小作料の減免を乞うと地主は、弱い者には玄関払い、手答えの小作人には酒肴で誤魔化して、一粒も負けてくれなかった。
地主は数百ヘクターレル、数千ヘクタールを所有し、小作人はこれ等の田畑を借り受けて耕作していた。
その小作料を収納する土蔵を家の前後に、五つも六つも建造した。
小作人は残りの半分で、飯米、医療費、交際費、税金、学費、その他凡ゆるものに振り向けられていた。
田植を終った途端、飯米を不足している農民は三分の二位で、そうしたような窮地におかれていた。
村内には、人の弱みをつけ込んで、米貸し商売をしていたものもいた。現物返しで、一俵につき二斗の利米で、借りて生きて来た。
小作人等は来年の先行きも案じて、濁酒ではなく、清酒を無理して買い込み、利米に添えて持参した。偽ざる姿である。
この仕組はつい最近まで取引していたらしい。数える程少ない小作人のうちで、田植終了直後に、わずかに夏摺臼を廻せば、
人々はあそこの家がマブク ( 裕福 ) になったと注目した。
昔から、十三湖周辺の岩木川下流地域にある。中里町の武田、内潟と肩を並べて車力も冷水害に悩まされて来たことは
多くの津軽の関係史に残っているが、小作人は正に奴隷的存在であったことは云うまでもない。
政治家共は自己の利益のみに没頭し、農村問題対策には無頓着であった。
あれは確かに昭和六年頃だと思うが、東北地方は凶作の年だった。
全国的に不況のどん底におちいり、即ち、農村恐慌が深刻化する一方だった。
男たちは出稼ぎ、女たちは女工や女郎に身売りさせられた。
この最中に満洲事変が勃発した。騒然たる世相の中で、凶作に見舞われたこの地方の人々は、
どん底から更にどん底へつき落された。・・・攻略
・・・『 車力村村史 』 からの 小作争議
農民の窮状 ↓ 
     
     

紺の背広の澁川が熱狂的に叫んだ。
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」  誰かが駆け寄った。  それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」  野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」  澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」  野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」  野中は沈痛な顔をして呟くように云った。
・・・二月二十八日の幸楽

蹶起趣意書

昭和維新

蹶起の目的
目次
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根本の問題は國民の魂を更えることである。
魂を改革した人は維新的國民。

この維新的國民が九千万に及ぶ時、魂の革命は成就されると説く。
良くしたいという 一念 三千の折から
超法規的な信念に基ける所謂非合法行動によって維新を進めてゆく。
現行法規が天意神心に副はぬものである時には、
高い道念の世界に生きている人々にとっては、何らの意味もない。
非が理に勝ち、非が法に勝ち、非が權に勝ち、一切の正義が埋れて非が横行している現在、
非を天剣によって切り除いたのである。

この事件は粛軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。

・・・磯部浅一

今回の行動は大權簒奪者を斬る爲の独斷専行なり。
党を結びて徒らに暴力を用ひたるものにあらず。
我々軍隊的行動により終始一貫したるものなるを以て、
此独斷専行を認めらるるか否かは位置に大御心にあるものなり。
若し大御心に副ひ奉る能はざりし時と雖も反乱者にあらず。
陸軍刑法上よりすれば檀權の罪により処斷せらるるものたるを信ず。
・・・
村中孝次    

・ 
維新は天皇大權により發動されるもの 
・ 「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」 
・ 尊皇討奸 ・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」 
・ 蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった 
・ 「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」 

憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二・二六事件 』 

・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1 
・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 

澁川善助
宇宙の進化、日本國體の進化は、悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
同志一同の行動は、大御心を上下に徹底し、上下民其所を得て尊皇絶對に邁進し、
皇威を八紘に輝らし 皇恩を四海に浴し乍ら、皇謨翼賛の重責を盡さず、
却って大御心を歪曲し奉りつつある奸臣を除かんとしたるものでありまして、蹶起趣意書の通りであります。
事件を決行しました動機の直接とか間接とか言ふ様なものは、
絶對の境地で行はれたものであり、説明は出来るものではありません。
然し 強いて申せば、
相澤中佐が公判廷に於て、あれ丈言はれたるに拘らず、
國家の上層部、軍上層部、軍幕僚、官僚、財閥、政党等が
何等反省の跡を見受ける事の出来ない事が 直接の原因動機でありますと申されませう。
・・・憲兵訊問調書 から

野中四郎 
迷夢昏々、萬民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶對絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、國内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戰士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず  一路遂に奔騰するのみ
・・・遺書・天壌無窮  から

村中孝次  
吾等は護國救世の念願抑止難く、捨身奉公の忠魂噴騰して今次の擧を敢てせり。
今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒嚴令を宣布し軍政權を樹立して昭和維新を斷行し、
以って 北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を実現するに在りとなすは是悉ことごとく誤れり。
吾人は 「クーデター」 を企圖するものに非ず、
武力を以って政權を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を爲せるものに非ず、
吾人の念願する所は一に昭和維新招來の爲に大義を宣明するに在り。
昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。
抑々維新とは國民の精神覺醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。
然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、
自ら理想とする建設案を以って是れを世に行はんとして、
遂に武力を擁して權を専らにせんと企圖するに至る。
而して斯の如くして成立せる國家の改造は、
其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、
國民を頣使し、國民を抑圧して築きたるものは國民自身の城廓なりと思惟する能はず、
民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。
之に反し國民の精神飛躍により、擧世的一大覺醒を以て改造の實現に進むとき、
玆に初めて堅実不退転の建設を見るべく、
外形は学者の机上に於ける空想圖には及ばずと雖も、其の實質的価値の遥かに是れを凌駕すべきは万々なり、
吾人は維新とは國民の精神革命を第一義とし、
物質的改造は之に次いで来るべきものなるの精神主義を堅持せんと欲す。
而して今や昭和維新に於ける精神革命の根本基調たるべきは、實に國體に對する覺醒に在り、
明治維新は各藩志士の間に欝勃として興起せる尊皇心によって成り、 
建武の中興は当時の武士の國體観なく尊皇の大義に昏く滔々私慾に趨りし為、
梟雄尊氏の乗じる所となり敗衂せり。
而して明治末年以降、人心の荒怠と外國思想の無批判的流入とにより、
三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇國體に、社会理想を発見し得ざるの徒、
相率いて自由主義に奔り 「デモクラシー」 を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、
玆に天皇機關説思想者流の乗じて以て議会中心主義、
憲政常道なる國體背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。
之れ一に明治大帝によりて確立復古せられたる國體理想に対する國民的認悟得なきによる、
玆に於てか倫敦条約当時に於ける統帥権干犯事實を捉へ來って、
佐郷屋留雄先ず慨然奮起し、
次で血盟団、五 ・一五両事件の憂國の士の蹶起を庶幾せりと雖も未だ決河の大勢をなすに至らず、
吾等即ち全國民の魂の奥底より覚醒せしむる爲、
一大衝撃を以て警世の乱鐘とすることを避く可からざる方策なりと信じ、
頃來期する所あり、機縁至って今回の擧を決行せしなり。
藤田東湖の回転史詩に曰く
『 苟も大義を明かにして民心を正せば皇道奚んぞ興起せざるを患んや 』  と。
國體の大義を正し、國民精神の興起を計るはこれ維新の基調、
而して維新の端は玆に発するものにあらずや。
吾人は昭和維新の達成を熱願す、
而して吾人の担當し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、
豈に微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当らんと企圖せるものならんや。
吾人は三月事件、十月事件等の如き 「クーデター」 は國體破壊なることを強調し、
諤々として今日迄諫論し来れり。
苟も兵力を用ひて大權の發動を強要し奉るが如き結果を招來せば、
至尊の尊嚴、國體の權威を奈何せん、
故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覺悟せる同志の集団ならざるべからず。
一兵に至る迄不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。
國體護持の爲に天剣を揮ひたる相澤中佐の多くが集団せるもの、
即ち 相澤大尉より 相澤中、少尉、相澤一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。
此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、
故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意圖は極微と雖もあらず、
純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。
吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、
乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の實現を妄想して此挙をなせるものならんや。
吾人は身を以て大義を宣明せしなり。
國體を護持せるものなり。
而してこれやがて維新の振基たり、
維新の第一歩なることは今後に於ける國民精神の変移が如実にこれを実証すべし、
今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。
吾人の蹶起の目的は蹶起趣意書に明記せるが如し。
吾人は軍政權に反対し、
國民の一大覺醒運動による國家の飛躍を期待し、これを維新の根本基調と考ふるものなり。
吾人は國民運動の前衛戰を敢行したるに留る、
今後全國的、全國民的維新運動が展開せらるべく、
玆に不世出の英傑蔟出、 地涌し大業輔弼の任に当たるべく、 これを真の維新と言ふべし。
國民のこの覺醒運動なくしては、
區々たる軍政府とか或は眞崎内閣、柳川内閣といふが如き出現によって現在の國難を打開し得べけんや

・・・村中孝次・丹心録から

松浦 邁中尉
軍服の聖衣を纒まとへる農民の胸奥を知る者は独り青年将校のみ。
我等は熱と誠心の初年兵教育に彼等の魂を攫つかみ彼等の胸奥を知る。
困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君國の爲め献身する彼等の努力こそ実に血と涙の結晶なり、
彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。
彼等が我等を見上る眞摯の眼には 何物か溢あふるゝその至純なる農民層の頼むあるは唯 我等青年将校のみ、
我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。
興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。
客秋満蒙の地に鉄火閃ひらめきしより以來 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、
彼等は病床に独り苦しめる老父母を残して去れり、
彼等は粥を啜り 芋の根を噛かむりて日々を送る妻子を残して去れり。
彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて帰りをのみ待てる弟妹を残して去れり。
彼等は斷じて何人の犠牲にも非ず。
彼等は唯 「天皇陛下の為に 」 起てり。
彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、
彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。
「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。
金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、
嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に応ふる何物か与へられんや。
吾人は幾千の生霊を空しく異郷の土に冥する事に忍びず
彼等と共に戰へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり。
・・・
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 から

栗原安秀
「 吾々同志が蹶起したのは
天皇と臣民の間に居る特權階級たる重臣財閥官僚政党等が私心を慾ほしい侭に
人民の意志を 陛下に有りの侭を伝へて居ない
従って日本帝國を危くする
吾々の同志は已む無く 非常手段を以て今日彼等の中樞を打砕いたのである 」
・・・二十八日夜・幸楽での演説


河野壽
「 磯部さん、私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の ろぼ を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、  と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は嚴然として 飛びついて殺せ といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、
父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せ という たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ 」
・・・第磯部浅一  行動記  第八 

「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」
・・・西田税


澁川善助 ・ 道程 ( みちのり )

2023年02月08日 09時08分59秒 | 澁川善助


澁川善助  

澁川善助  道程 ( みちのり )
明治38年
12月9日   福島県若松市七日町にて
海産物問屋を営む 父利吉 母ヨシの長男として生まれる。
 ・・・・                     会津若松市立第二尋常小学校卒業、
  ・・・・                     福島県立会津中学校第二学年を修業、
                              小中学校を首席でとおす。
大正9年
4月1日       仙台陸軍地方幼年学校を首席で入校す。( 第
24期生 )  入校式で入校宣誓文を読む。
大正12年
4月1日     陸軍士官学校予科第三期生として入校す。
                               歩兵を志願し、大正13年11月21日 歩兵科発表。
大正14年
3月14日   同校卒業。  成績は326人中の2番で、恩賜の銀時計を拝受し、
               摂政殿下裕仁親王の御臨席を仰ぎ、御前講演を 「日露戦役ノ世界的影響 」 という題目で行う。・・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
              卒業後、士官候補生として郷土 ・
若松歩兵第29連隊配属。( 6ヶ月間 )
10月1日   陸軍士官学校本科 入校。( 第39期生 )
                入校して間もない頃 西田税と知合、北一輝著 「日本改造法案大綱 」 を読む。
 士官学校卒業写真
昭和2年
4月            同校を退学、同年5月28日士官候補生を免ぜられる。・・・ 澁川善助の士官學校退校理由 
昭和3年
4月            明治大学専門部政治経済科に入学する。
                  「天皇賛美論」 を書いた遠藤友四郎、大森一声等が主宰する 「 錦旗会 」のメンバーとなる。
9月23日     満川亀太郎を訪問。
昭和4年                 「 興国連盟 」 のメンバーとなる。
年10月          明治大学内に 「 興国同志会 」 を設立する。
昭和5年
9月           満川亀太郎塾頭とする 「 興亜学塾 」 の塾生となる。
昭和6年
3月            明大専門部政治経済科卒業。
4月            明大政治経済学部に入学。
8月26日    全国同志将校の会合 「 郷詩会 」 に出席する。 ・・・郷詩会の会合
昭和7年     西田税等と 「 維新同志会 」 を結成し、全面的に革新運動を展開する。
5月15日    五 ・一五事件、裏で策動する。
年7月        明大を退学する。
7年12月    「 敬天塾 」 の塾生となる。
昭和8年
1月            松平紹光 ・植田勇・竹嶌繼夫らによって会津若松市に設立された 「 皇道維新塾 」 の塾長となる。
4月            「 非国難非非常時 」 の小冊子を発刊する。
4月16日     満州に行く。
                  関東軍特務部と 「 在満決行大綱 」 を作成しクーデター計画を立て、
                 そのことで満州にいた菅波大尉に会う。

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「 在満決行計畫大綱 」 は、何人が何時何処で作成したものか
 此時押収の高検領第□号の証第□ 「 在満決行計畫大綱 」 を示したり
昭和八年五、六月頃、澁川善助が満洲國公主嶺の當時の私の官舎に於て作成したものであります。
如何なる事情で作成されたか
私は昭和五、六年頃は満洲國東邊道の匪賊討伐に從事中で、
 澁川が東京から來る事は知つて居たが其の日時に付て  はよく存じませぬでした。
恰度五 ・一五事件の事に附私に聽きたい點があると云ふ軍法會議側からの通知で、
 昭和八年五月末頃新京に出て参りました。
其時澁川は私に會ふべく通化に這入り、途中で知らずに行き違ひました。
私が新京滞在中、澁川は新京に歸り、
其の頃の或る日 公主嶺の私の官舎に澁川が柳沢一二、山際満寿一を聯れて來ました・・・・・
同夜は殆んど徹夜して此相談を爲し、翌日私、山際、柳沢等は新京に出たが、
其の留守中に澁川が自分の持參した満鐵改組の三案を冩し、
之れに 「 在満決行計畫大綱 」 を自ら書いて添へて全部を私の宅へに置て、本人は奉天に出發しました。
私は其の日歸宅して、此残されたものを入手した次第であります。
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昭和8年

11月          「 救國埼玉挺身隊事件 」 で検挙される。 ・・翌年1月14日釈放。
昭和9年
1月        大森一声を道場長とする 「直心道場 」 に所属し、「 核心 」 の同人となる。
20日      絹子と結婚す。
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( 西田と ) 一緒になりましたのは、
大正十五年でございますが、ずいぶん古い話でございますね。
ある資料に、澁川善助さんが
「 命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ 」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。 ・・・天劔党事件 (1) 概要
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
澁川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その澁川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
・・・西田はつ
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10月      「 統天塾事件 」 に関与したとの咎で
             「 鉄砲火薬類取締法施行規則違反 」 で検挙される。・・翌年7月末釈放。
・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕
・・・ 末松の慶事、万歳!!
澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕
昭和10年
8月以降     
国体明徴運動に奔走す
る。 
                 「 相澤中佐事件 」 の裁判に向け奔走する。
12月31日  中村義明宅で忘年会 ・・・
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 
                 大岸頼好大尉等に蹶起に加わることを迫る。
昭和11年
1月26日   石原莞爾大佐を訪ねる。
2月23日    牧野伸顕を偵察するために湯河原へ行く。
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

2月25日    帰京。
・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
2月26日    二・二六事件勃発 外部工作を担当す。・・・澁川善助 ・ 昭和維新情報 
2月28日    12時頃、安藤大尉の居る 赤坂見附山王下料理店 「 幸楽 」 に身を投じる。
                 以降、坂井部隊と行動を共にする。
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うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
「 西田 さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、
それで私と押し問答しましたときに渋川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、
いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、
原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。
原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。
それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです。
あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。
それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。
・・・西田はつ
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澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
・ 
澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 

2月29日    陸相官邸で憲兵により施縄される。・・・ 「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 
7月5日    謀議参与及び群集指揮の罪で死刑判決 ・・・二・二六事件 『 判決 』
7月12日   午前8時34分刑執行

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 


逆賊の名を冠せらるるとも、今にして立たずんば

2023年02月07日 12時53分06秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

村中孝次  
事件の首謀者村中孝次らはもともと平和革命を念じていた。
そのいうところの維新 すなわち国家改造は、軍を主体とする合法的運動の展開に求め、
武力による一挙の革命については、
「 武力行使は國體反逆行為を討伐し大義名分を樹立するを要すべき場合に斷行することを餘期し、
平素よりは武力的迫力によって情勢を誘導指尊す 」
・・( 昭和十年二月七日、十一月事件に関連する誣告罪告訴理由書 )
といい、また、
「 たとえ國體を破るの餘儀なき場合に遭遇することがあるにしても、
それは私どもが尋常の人事を盡して尚及ばない場合であり、
その時は國體の大義に立脚して臣子の犠牲的本領を盡すに止まり、
一死挺身して みずから危うきに當り、
みずから法の前に刑死を甘受するの非常の決意の上に立つべき存念であります」
・・( 昭和十年四月二十四日、十一月事件に関連する誣告罪告訴理由書 )
これが彼らの直接行動への心構えであった。
ここでわたしは彼らが 「 国体を破る 」 といっていることに注目したい。
「 国体を破る 」 ことの認識に立っているのである。
しかし、ニ・ニ六がはたして右の基本構想によってなされたものであるかどうかは疑問であるが、
この理念が彼らの思惟の底辺にあったことは疑いないであろう。

右の記述は昭和十年春頃までのものだが、
その夏七月真崎教育総監の罷免、
次いで 八月 相澤事件が突発して彼らは非常な刺激をうけた。
そこでは維新の戦闘は開始されたと見た。
「 ---斥候戦は今や尖兵、前衛の戰闘開始となった。
維新の天機は刻々として着々と動いている。
維新の同志よ、
文久三年八月の非常政変に次いで来った大和、生野の義擧、
禁門戰争の無用なる犠牲に痛心する勿れ。
吾人はひたぶる維新に翼賛すれば足る。
維新のこと、今日を以て愈々本格的に進展飛躍してきた 」

・・( 教育総監更迭事情要点 ・村中孝次 )

もはや、無用なる犠牲に痛心することなく維新の戦列に走せ参ぜよと叫ぶ彼らには、
「 今にしてたたざれば 」 といった感慨がこめられている。
この場合 武力行使、国体破壊の元兇、重臣の討伐が、国体破壊に通じ
天皇の大御心に副うものかどうかは、もはや問題ではなかった。
「 我一介の武弁、いわゆる上層圏の機微を知る由なし。
 ただ神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み殊に畏くも至上を挟みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか、嗚呼、遂に赤子御稜威を仰ぐ能わざるか。
久しく職を帝都軍隊に奉じ一意軍の健全を翹望ぎょうぼうし他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我生來の軟骨滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士 絶體絶命に及んでや、ここに閃発せざるを得ず。
あるいは逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼。
然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん 」
野中四郎

野中四郎大尉の遺書の一節である。
今にして立たずんばとする絶体絶命の境地が躍如として表現されており、
たとえ逆賊の汚名をきても 「 やる 」 というのである。
また、村中孝次も、
「 今回の擧は喫緊不可欠たるを窃に感得して敢えて順逆不二の法門をくぐりしものなり。
もとより一時聖徳に副わざる事あるべきは万々覚悟。
然してこの挙を敢えてせざれば何れの日か、この困難を打開し得んや 」 ・・( 『 続丹心録 』 )

といい、
さらに、この一挙をかの満洲事変における関東軍の独断専行に比し、
「今次の決行は精神的には同志の集団的行動にして、
形式的には各部隊を指揮せる将校の独斷軍事行動なりしなり。
関東軍の独斷行動とその精神を一にし、後者は張学良軍を作戦目標とし、
餘輩は内敵を攻撃目標とせるの差異あるのみ。
不幸右独断行動が大元帥陛下ま御許容を仰ぐ能わざる場合においては、
明らかに私かに兵力を使用したるものとして、各部隊指揮官たりし将校と、
その独斷行動の籌画に与りしニ、三士とは檀健の罪の嚴罰を甘受すべきは当然とす 」 ・・( 『 続丹心録 』 )

とも書きのこしている。
また、この村中は、事件直後の訊問に答えて、
「 その後四日間にわたりて昼夜陛下の御宸襟を悩まし奉ったことについては、
恐懼措く能わざる所で何とも申訳ない次第であります。
又、陛下御親任の重臣を討ったのでありますから、これまた罪萬死に値する所でありますが 」

とも述べていた。

このように見てくると、この一挙、
重臣抹殺---陛下の信任になる重臣殺害は、大御心に副わないことを覚悟していたことがわかる。
少なくとも一時聖徳を汚すことを予期しての、法の前に刑死覚悟の蹶起であったことがわかる。
すると事が敗れることも彼らの計算の中にあったこととて、今更何を怒り何を恨むのだろうか。
討奸は、すでにみたように、
たとえ逆賊となってもやるといい ( 野中 )、聖慮に副わざることも覚悟の上 ( 村中 ) での決行であった。
だが、一面、彼らの心の中ではこれが許されることも考慮していた。
いや、一時、天皇に苦悩を与えても、次いで来るべき維新の成功によって、
のちには、喜びいただけるものと確信していた。
「 一時宸襟を痛く悩し奉ることも、
直後に来る昭和維新によって従来山積したご苦悩の原因を一挙に払い去ることができて、
直ちに償い奉ることが出來るものと思いましたが、志は全く達せられず
宸襟を悩まし奉る結果にのみおわりました 」・・( 村中孝次訊問調書 )

例によって村中の反省であるがともかくも、
事の成功を信じて一時聖徳を汚しても断乎やることの決行であったのであるから、
そのためにはこの一挙に余程の成算が見込まれなくてはならない。
もちろん、この場合 軍を推進しての維新であるから、陸軍をしてまず維新化することが先決であるが、
同時に宮中輔弼がとくに重要である。
すると彼らはこの宮中輔弼をどのようにしようとしたのか、
みずからが宮中にのりこんで輔弼をあえてしようとしたのか。
「 斬奸後血刀をさげて宮城に參内し、陛下にお目にかかり事態を申し上げ、
昭和維新の斷行をお願いするということはたびたび考えた。
あるいは、こうすることによって、あるいはお許しを得るかもしれないし、
あるいは重臣に御下問になることも考えられるが、何れにしてもお許しをうることができると思っていた。
しかし お上に鞏要云々がおそろしく このような手段にでることができなかった 」

これは、村中が入獄後、
塚本刑務所長に語ったという断片である。
・・・リンク→ 勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし 

村中にしてはこのようなお上に強要する手段を避けたが、これに代る手段は何だったのか。
いわゆる宮中工作、こんな言葉は彼らは口にすることさえ避けていたが、
事実として行なわれ、
また 行なわれようとしたものの一つが、
直接行動としての 「 不逞重臣の参内阻止 」 であった。
このことはあとでくわしく触れるつもりであるが、
彼らがその計画において坂下門における不逞重臣の参内阻止をきめ、
近歩三 中橋基明の一隊が禁闕守衛兵力増強に籍口して宮城内に入り、
わずかな時間であったが、坂下門の警戒に任じた事実がある。
不逞重臣の参内阻止とは重臣の天皇輔翼を妨げ天皇を孤立させることであった。
たとえ重臣の参内入門を許したとしても、それは蹶起軍の息のかかったものに限られるとなると、
もはや宮中の事実上支配ということになる。
しかしこの重臣の参内阻止は、
忠誠心にこりかたまって天皇強要を極度に戒慎したという彼らにしては、
はなはだしい不逞行為であって、
わたしはこれがはたしてどこまでのものであったかを疑うものである。
結局、この参内阻止の効果は、
付近警備に任じていた安藤中隊、あるいは野中中隊のそれとかわることはなかったのであるが。

大谷敬二郎著  ニ・ニ六事件 から


相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

2023年02月06日 06時02分35秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

しばらくでした。いつこられたんですか。
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか
奥さんが知っています
承知しました
いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい
・・・今日本で一番悪い奴はだれですか 

事件ノ前夜 (十一日)
私方ニ泊ツタ際、
相澤中佐ハ
「 東京ハ何ウデスカ 」
ト尋ネマスカラ、
「 別ニ變リハアリマセヌ 」
ト答ヘマシタ。

処ガ此一言ノ返事ガ、
相澤中佐ヲシテ永田少将ヲ殺サシメル
一ツノ動機トナツタ様デアリマス。
・・・西田税


相澤三郎 
( 永田軍務局長刺殺事件 )
相澤中佐事件

目次

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「 永田鐵山のことですか 」 
・ 「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか 」 
・ 
「 年寄りから、先ですよ 」 
 
・ 
昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1 
・ 
昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2 

・ 國體明徴と相澤中佐事件 
・ 永田軍務局長刺殺事件 
・ 
永田伏誅ノ眞相 

・ 軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」 
・ 軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室に入る 」 
・ 軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長と向ひ合っていた 」 
・ 軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」 
・ 軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」 
・ 軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ(大事) だ 」 
・ 
軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」 

 大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」

・ 犯人は某中佐 
「 相澤さんが永田少将をやったよ 」
・ 
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件 

・ 相澤三郎中佐の追悼錄 

 
  相澤三郎 發 西田税

法務官訊問 『 被告人ガ入手シタ如何ナル物ガ殺害決意ニ刺戟ヲ与ヘタルカ 』 
・ 憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」 

相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 
・ 満井佐吉中佐 ・ 特別弁護人に至る經緯 

・ 所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」 
・ 第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾發言 
・ 
新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 
・ 新聞報道 ・ 第三回公判 『永田鐵山は惡魔の總司令部 』
・ 『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』
・・眞崎甚三郎大将
満井特別辯護人ノ證人申請

・ 
相澤三郎 ・上告趣意書 1
・ 相澤三郎 ・上告趣意書 2

・ 
判決 『 被告人を死刑に處す 』 

本朝のこと寸毫も罪惡なし 

「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を單に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本國民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に、關聯を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、經濟、民族の發展に關する根本問題にも触れるものがありまして、
實にその深刻にして眞摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・(下略) 」
・・・ 
注目すべき鵜沢博士の所論

絶對の境地
相澤中佐が 昭和一〇年正月に天誅を決意した頃のメモに、
『 かくすれば  かくなるものと  知りながら  已むに已まれぬ  大和魂 』
と 書き付けてあった
『 かくすれば  かくなるものと  知りながら 』
と 云ふことは、
理智から出た処の頭のよさを示すもので、
この俗智の境を越境した時に、
『 やむにやまれぬ大和魂  』
即ち まつろはぬ者 を討つ心、
天に代りて不義を討つ心 が生れてくるのである
この 境地に進むには俗智の人では出來ぬ
よほど透徹した 頭のよい人でないと出來ないのである
俗智小智でなく、
小我小欲を離れた大智大我の人でなくては 達成せらぬのである
・・相澤事件の真相 ( 菅原裕  著 )

まつろひ
祭る  祀る  に 由來し、
『 神を祭り、祖先を祀るときの心境であり、祖先をお祀りの所の心境を
私もなく、邪念もなく、全く之なし 』 の 無私の精神のこと  ・・皇魂から