「 武官長はどうも眞崎の肩を持つようだね 」
・・・と
昭和天皇が鈴木貫太郎侍從長に述べたことが本庄の耳に入る。
林銑十郎陸相が推進しようとした眞崎更迭案について、
本庄が 「 閑院宮總長 梨本宮元帥と善後策を協議されては 」
と 林の建議を再檢討するよう天皇に進言したことを指す。
それを受けて 『 本庄日記 』 には、
「 宮中では軍の立場を忘れて一切沈黙するしかない 」
と 述懐するに到る。
・
本庄は翌十六日、天皇に呼ばれ概略、次のように問われた。
「 林陸相は眞崎大將が總監の位置に在りては統制が困難なること、
昨年十月 士官學校事件も眞崎一派の策謀なり。
( 恐らく事件軍法會議処理難を申せしならん乎、まさか士官學校候補生事件を指せしものにはあらざるべし。)
其他、自分としても、眞崎が參謀次長時代、熱河作戰、熱河より北支への進出等、
自分の意圖に反して行動せしめたる場合、
一旦責任上辭表を捧呈するならば、氣持宜しきも 其儘にては如何なものかと思へり。
自分の聞く多くのものは、皆 眞崎、荒木等を非難す。
過般來對支意見の鞏固なりしことも、
眞崎、荒木等の意見に林陸相等が押されある結末とも想像せらる 」
・・・・と 仰せられたり。
天皇が西園寺や岡田首相をはじめとした統制派系からの情報を
極めて具體的に入手していたことがうかがえる。
ただ、
「 士官學校事件も眞崎一派の策謀 」 の くだりには 本庄も驚き、
注釋で軍法會議の經緯のことを指すのだろうが、と 書き留めている。
大御心
・ 昭和十年四月九日 「 眞崎教育総監の機関説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」
・ 昭和十年四月十九日 「 朕が聴糺さんとせしことを陸軍は妨げんとす 」
・ 昭和十年七月十六日 「 眞崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なる 」
・ 昭和十年七月二十日 「 教育総監更迭・・ 在職中御苦労であった 」
眞崎敎育總監更迭
目次
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・ 三長官會議・眞崎大將の手控
・ 『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』 ・・眞崎甚三郎大将
・ 陸軍派閥一覧表
・ 林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」
・ 磯部手記
・ 『 國體明徴 』 天皇機關説に關する眞崎敎育總監の訓示
・ 昭和の安政大獄
・ 軍閥重臣閥の大逆不逞
・ 敎育總監更迭事情要點 ・村中孝次
・ 村中孝次 「 私は常に正々堂々と名前を出しております 」
・ 國體明徴とニ ・ニ六事件
・ 渡邊敎育總監に呈する公開狀
・ 香田淸貞 ・ 眞崎大將を訪問 「 乃公は絶對に同意はしていない 」
・ 磯部淺一 「 統帥權干犯の事實あり 」
・ 小川三郎 ・ 古荘次官、眞崎大將を訪問 「 眞崎大將は辭表を出してはいない 」