磯部さん、
私は小学校の時、
天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の 「 ろぼ 」 を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、
と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は厳然として 「 飛びついて殺せ 」 といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せという、たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ
・・・河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」
河野壽 コウノ ヒサシ
『 父の訓育 』
目次
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磯部浅一 ・行動記
・ 第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」
・ 第八 「 飛びついて行って殺せ 」
・ 牧野伸顕襲撃 1 「 デンポウ ! デンポウ ! 」
・ 牧野伸顕襲撃 2 「 俺に代って誰か邸内に突っ込め 」
・ 牧野伸顕襲撃 3 「 女がいるらしい、君、 女を助けてやってくれ 」
・ 宇治野時参軍曹「 河野さん、私の懺悔話を聞いて下さい 」
・ 河野大尉 ・ 自決の由
・ あを雲の涯 (七) 河野壽
・ 昭和11年3月5日 (七) 河野壽大尉
・ 河野壽大尉の最期
栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、死 ということについては、
一つの考えを持っていました。
それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、
いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、綺麗であるが、
反面安易な、弱い方法である。
われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。
自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、
死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、
ほんとうに強い生き方であるという信念です。
この考え方は、私はいまも変わりありません。
しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、
私の進むべき道はただ一つしかありません。
叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです。
河野壽は
明治四〇年三月二十七日、佐世保で生まれた。
父は海軍少将河野左金太で剛直質実な人柄で、人一倍忠誠心の強い軍人であった。
寿が小学校四年の春、熊本の碩台小学校に転入した。
三日目、
同級生のガキ大将が弱い子をいじめているのに立腹して
「 よせ 」 と 一喝した。
ガキ大将は新入生の癖に生意気だと、下駄で殴りかかった。
肩から鞄を下した寿少年は
いきなり竹の物差で相手の眉間を打った。
その日の夕方、
学校に呼び出された左金太は、帰ってきてしょんぼりしいている寿少年に言った。
「今日お前のやったことに、お父さんは小言をいわない。
しかし、物差でやったことは悪い。やるなら拳骨でやるんだ」
父の訓戒はこれだけであった
・
河野も幼い時の父の訓戒を肝に銘じていたものらしく、
二・二六事件の直前、
磯部にこんな決意を告げている
「磯部さん、
私は小学校の時、
天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の「ろぼ」 を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、
と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は厳然として 「飛びついて殺せ」 といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せという、たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ」
河野司 著 「湯河原襲撃」
リンク
磯部浅一 ・行動記
・ 第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」
・ 第八 「 飛びついて行って殺せ 」
通学早々の三日目のことだった。
寿が編入されたクラスに一きわ身体の大きいいかにも強そうな子がいて、
教室内ではおとなしいのだが、
遊び時間になると滅法に傍若無人ぶりを発揮していた。
どこでもあるように、弱い者をいじめてはお山の大将をきめこんでいる。
転校したての寿には、それがまことに苦々しい光景とうつったらしい。
その日の放課後の帰り道、
またその子の乱暴がはじまって、弱い子がいじめられている。
寿は我慢できなくなって、その子供との間にわりこんでいった。
「 よせ ! 」
寿が大きな声で一括したのに、
一たんはおどろいたその子も、
それが新入の寿であることを知って、にわかに強気になった。
帰りがけの子供がパラパラと駆けよって、三人をとりかこむ中で、
その餓鬼大将は、
自分より身体も小さく未だ勝手もわかっていない新入生がなぜ自分に抗争をいどむのか
理解できないふうに にらみかえしながら、
「何だ、生意気な」
と 履いていた下駄をすばやく片手握って戦闘姿勢をしめした。
寿は顔面を蒼白にしながら、
「君、可哀想じゃないか。弱い者いじめはやめ給え」
と 言ったが
「ドサを使うて何かッ。喰わすっぞ」
と いきなり下駄を振り上げた。
ドサは東京弁の意味で、喰わすっぞとは殴るぞという熊本弁である。
寿の東京言葉は、その子の反感をさらにつのらせたのだろう。
振り上げた下駄が寿の横面に鳴った。
寿は一歩後退すると、
肩からかけた鞄をはずし、そこにさしてあった竹の物差をとって、
ふたたび襲いかかる下駄をはらいのけた。
そして、そのまま竹の物差で相手の眉間をピシャリと打ったのである。
額に手をあてて退るその子の顔に赤い血が走った。
その日の夕方、
学校の受持訓導から父へ、学校へ出頭するようにと使いが来た。
学校で一部始終を聞いて帰った父は、座敷に坐ると寿を呼んだ。
どんなに叱られるかと、寿はおずおず父の前に正座した。
「今日のおまえのしたことを、お父さんは叱るつもりはない。
しかし物差でやったのは悪い。やるなら拳骨でやるんだ」
父の訓戒はそれだけだった。
そして、それが父だった。
曲ったことの嫌いな、むしろ頑固一徹の、いわば古武士的の性格であった父は、
海軍部内でも大久保彦左衛門と陰口されほど権勢におじない人であったようだ。
生抜きの軍人のこととてご多分にもれず 絶対皇室中心主義にかたまった父であったが、
それもまた一きわ徹底していた。
それは、時折新聞紙上に現れるいわゆる当時の 不敬 的分子に対して、
「そんな奴は、構わないからぶった斬るんだ」
と 慷慨していたのでもわかる。
寿は、そういう父のもとで育っていった。
そして、寿はとくに厳格に訓育された。
五人の男の子のうち、
一人は軍人に育てて自分の後継としたいという念願を父はもっていたのである。
寿は小さいときから、
おっとりしたなかにはげしい気性をもち、こせこせした性格ではなかった。
がっしりした身体つきも父に似ていた。
そういう寿を父は一番軍人むきとして、後継にしたいと考えたのだろう。
私の二・二六事件 河野司 著から