あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯

2021年08月31日 13時09分32秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


二・二六事件慰霊像 
「 二十二士之墓 」 開眼供養法要


栗原安秀中尉達の寄書き 

あを雲の涯
目次
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・ 二十二烈士

村中孝次 ・妻 静子との最後の面会 
・ 磯部浅一 ・ 妻 登美子との最後の面会 
・ 
磯部浅一 ・ 家族への遺書
磯部浅一、登美子の墓 

相澤三郎 『 仕えはたして今かへるわれ 』 (一)
相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二) 


・ 北一輝 ・ 妻 鈴子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 妻 初子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 家族との最後の面会 
・ 西田税 「 家族との今生の別れに 」 
・ 西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」 
・ 西田税 ・ 悲母の憤怒 
西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 
・ 西田税 ・ 遺書 「 同盟叛兮吾可殉 同盟誅兮吾可殉 」

「 昔から七生報国というけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」 
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」 
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ 」

・・・西田税


二・二六事件慰霊像

2021年08月30日 05時28分43秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

計画以来
三年余の歳月を経過して、
宿願の建立を果し、
その当日を迎えた。
慰霊像除幕式
昭和四十年二月二十六日、
事件三十年目の思出の当日は快晴に恵まれ、
屋外の行事であるだけに、関係者の喜びは一入でありました。
正午前から続々と参列者を迎え、
殊に地方から上京された方々は早くから到着され、
関係者と懐かしく歓談される姿があちこちに見受けられました。
開会までの時間を渋谷公会堂地下食堂の控室に休憩して頂き、
定刻十分前に係員の誘導で除幕式現場に参集しました。
現地は二面を道路に接する角地であり、
道路綿から直立する二米の側壁の上の敷地に、七米の台座、
その上に四米の像が安置されている構造でありますので、
道路以外に余地のない地形のため、地元警察と数次の打合せの結果、
特に道路使用の許可を受け、参列者一同道路を埋めて着席しました。
総数約七百名余にのぼる方々の御参会を仰ぎ得ましたことは望外の感激でありました。
紅白の幔幕まんまくをめぐらし、多数の献花、花輪に飾られた式場の中央には、
地上十四米の慰霊像が、紅白の皮幕をかぶり 晴の除幕を待ち、
台座の中央正面には、
曹洞宗管長、高階王龍仙禅師に御願いして書いて頂いた
『 慰霊 』 の文字が刻まれた大理石の像銘を囲んで、仏心会の生花が飾られ、
台座の左に延びる側壁には日の丸の国旗が張られ、
約二坪の前庭には皇居の御庭から移し植えられた梅の樹が、
早くも白い花をほころばせて こよない雰囲気をただよわせていました。
定刻一時半、導師賢崇寺住職、藤田俊訓師及 二伴僧の他に
九州唐津からの善興寺住職 朝日一誠師、
浦賀からの東福寺住職山田勝剛師を加えた五師が、
一団髙い前庭正面に着席され、
司会の末松太平氏によって開会致しました。
先づ、
国家 君が代を全員起立のうちに斉唱し、
仏心会 河野司代表の挨拶の後、
愈々全員の見上げる緊張のうちに、
栗原安秀中尉の母堂克子さんの手によって 除幕の紐が引かれました。
一瞬 サット落ちる紅白の幕、
温容をたたえ右手をあげた慰霊観音像の姿が、
万雷の拍手と歓声のうちに その全容を現わしました。
洵に感激高潮の一瞬でありました。

続いて
建立代表者、河野司氏により、啓白文が像前に奏上され、
次いで
開眼供養の読経が厳かに誦しょうせられました。
藤田導師による香語は
雨雪風霜三十年  昨非今是世論遷
虚空現出慰霊像  恩怨倶亡月皎然
事件以来三十年、終始一貫変ることなく、
諸霊を護り抜いて今日を将来して下さった藤田師の高徳が、
この香語の中にこめられた思いであります。
続いて事件殉難諸霊の三十回忌法要に移り、読経のうちに焼香に入りました。
仏心会遺族十三家、及殉難警察官遺族代表土井スミ子未亡人、
関係殉難者代表宇治野みき子未亡人を始めとした遺族の焼香に続き、
参列の荒木貞夫、石原広一郎、寺島健、三浦義一、橋本徹馬、木村武雄氏を初めとして
多数の参列者の焼香がいつまでも続きました。
立ちこめる香煙のうちに、
最後に殉難者五十士の名が読上げられ、
約一時間に亘る行事がここに滞りなく終了致しました。
末松太平氏の閉式の挨拶をもって式を閉じましたが、
最後には千に近い参列者を迎え、時余に及ぶ屋外の行事にも拘らず、
終始粛然と取営まれましたことは、洵に感激の外なく、
通りすがりの多数の市民のうちにも立止って合掌される姿も見られて嬉しい限りでした。
尚、歩道から道路を埋めつくした参列者と一般通行人や自動車の整理のために、
渋谷署からの交通係十数名の応援によって、
懸念された交通整理も終始整然と処理されたことも、喜びでありました。


祈念慰霊像竣工祝賀披露会
除幕式を終了し、参列者一同は隣接の渋谷公会堂の地下大食堂に移っていただきました。
正二時半、末松太平氏の開会の辞にはじまりましたが、
三百名以上を収容する階上も一杯の参加者で埋りました。
河野仏心会代表が完成までの経過と御支援に対する感謝の挨拶を述べたあと、
参列者を代表し、荒木貞夫、石原広一郎両氏の懇篤なる祝詞と時局に対する熱烈な所見が述べられ
満場の人々に深い感銘を与えられ、
故人を偲ぶことも切なるものがありました。
荒木さんは九十歳に、石原さんは八十歳に近い御老齢にも拘らず、
烈々たる憂国の御熱弁には ただ頭が下がる思いでした。
終って工事関係者、設計の川元良一先生、彫刻の三国慶一先生
及び、工事請負の鈴木工務所にそれぞれ感謝状の贈呈があり、
その労に感謝を表しました。
続いて塚田新潟、竹内青森 両県知事を初め 全国各地よりの多数の祝電の披露があり、
最後に建立準備事務所の事務局を代表し小早川秀浩氏より募金経過及概況を報告し、
今後共一層の御支援を懇請するところがありました。
このあと鈴木岳楠師社中による吟詠が行なわれ、これで披露会を閉じました。

終って隣室に訪けられた祝宴場に移り、
それぞれ宴卓を囲んで祝盃をあげ、歓談と追憶の一時を送りました。
全国各地からこの日のために上京、
参列された方は、
九州の朝日、八木、江口、高村氏、四国の平石氏、北陸の越村、明石氏、
新潟の登石氏、大阪の木積、広田氏、愛知の三浦、佐藤氏、
静岡の七夕氏、秋田の石沢氏、青森の大久保氏 等の多数を数えましたことは一入感謝に堪えません。
又 遺族は全国から殆ど上京し参列致しました。
こうして遠来の人々や、旧知の方々を囲んだ歓談、
懐旧談はいつ果てるとも思えぬ楽しい宴席でしたが、五時近く意義深い一切の行事を終えました。
最後に、
この行事の戦後を通じ、準備、運営其他に御協力いただいた多数の皆様には
この稿をかり厚く御礼申上げます
・・・「 建立経過報告書 」 から

 昭和49年 ( 1974 年 ) 11月23 日 ( 土 ) 吾撮影
慰霊像碑文
台座の側面に はめこんだ黒い大理石にこの像の由緒書の碑文が彫込んであった。
歩道に直面して 通行人の足をとめていた。
日展書道審査員、花田峰堂氏の書である

碑文
昭和十一年二月二六日未明、
東京衛戍の歩兵第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企図していた野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹶って重臣を襲撃し、
総理大臣官邸、陸軍省、警視庁 等を占拠した。
斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監はこの襲撃に遭って斃れ、
鈴木侍従長は重傷を負い 岡田総理大臣、牧野内大臣は危く難を免れた。
此の間 重臣警備の任に当たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に対する処置は 四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが、
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に集結した。
世にこれを二・二六事件という。
昭和維新の企図懐えて主謀者中、野中、河野 両大尉は自決、
香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により、
東京陸軍刑務所に於て刑死した。
この地は その陸軍刑務所の一隅であり、
刑死した十九名とこれに先立つ 永田事件の相沢三郎中佐のが刑死した処刑場の一角である。
この因縁の地を選び 刑死した二十名と自決二名に加え、
重臣、警察官 この他 事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、
且つは 事件の意義を永く記念すべく、
広く有志の浄財を集め、
事件三十年記念の日を期して 慰霊像建立を発願し、
今ここに その竣工を見た。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
昭和四十年二月二十六日
仏心会代表
河野司 誌

( 碑文 原案は末松太平氏 )
野司 著  ある遺族の二・二六事件 から


「 二十二士之墓 」 開眼供養法要

2021年08月28日 14時33分23秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)



«昭和27年 ( 1952年 ) »
仏心会々報 ( 再十三号)
報告事項
1  二十二霊分骨埋葬式の件
七月十一日午後四時、賢崇寺に於て読経の後、
梅雨そば降る合間に滞りなく御埋葬を了し、新しい墓所に永遠の眠りにつかれました。
参列者
原、垂井、丹生、西田、白井、河野、外に宇治野時参氏。
2  「 二十二士の墓 」 完成の件
連日の雨のため工事進捗せず焦慮しましたが、
雨を冒して強行の結果、当日の一二日朝完成を見まして安心致しました。
自然石の台石、墓碑の調和、寛治もく、
曹洞宗管長禅師の御染筆も一入はえて、二十二士に相応しい落着いた姿です。
3  十七回忌法要及 「 二十二士之墓 」 開眼供養法要の件
七月十二日午後二時より執営みました。
降り続いた雨も幸ひ当日は降りみ降らずみの雨もよひの天候でしたが、
午後からはどうやらあがり、
午前中から会員の方々初め御関係の方々の御応援を得て万全の準備を整えました。
一時頃から御参列の方々相次ぎ 定刻には百五十名に近い多数の御参会をみました。
戦災後の狭い仮本堂に溢れ出る盛況の中に、
二時十分 一同着席、
次の順序で荘厳な御法事が始りました。
司会には 大蔵栄一氏が当って下さいました。
一、導師入場  藤田住職以下三名の導師入場。
二、開式の辞  大蔵栄一氏 開式を告ぐ。
三、読経  藤田師の法語につぐ読経 厳粛に流れる。
四、祭文  施主体表 河野司氏祭文を奏す。
五、弔詞  当時の同志代表し 末松太平氏 切々たる弔詞を朗読さる。
六、弔電弔詞疲労  大蔵栄一氏披露。
七、読経  再び読経に入り 最後に二十二霊の俗名、戒名が呼上げられ 一同粛然合掌、
      厳粛の気 堂内に溢れる。
八、仏心会代表 栗原氏に続いて遺族一同焼香、次いで 参列者に移り、
      真崎甚三郎元大将を始め全員の焼香を終る。
九、遺族挨拶  遺族を代表し栗原氏立たれ声涙共に下る感激の挨拶を述べらる。
      遺族席の嗚咽しきりに、堂内の緊迫頂上に達した洵に劇的な幕切れであった。
一〇、導師退場、閉式。

次いで書院にて小憩の後、一同境内墓地の式場に移る。

「 二十二士之墓 」 開眼供養法要
三時間半墓前の準備も整ひ、一同境内の新墓所に参集し、
黒白の幔幕まんまくを廻らし墓前の供花も清楚に、厳粛な環境裡に開式しました。
参列者からの御希望で、
先づ、国家を斉唱し、二十二士霊に相応しい雰囲気を醸しだすうちに、
藤田導師による読経と開眼式が厳かに執営まれました。
報道陣のカメラマンが入交る間に焼香に移り、初めて墓前に頬づく遺族達の感激は一入に深く、
一六年間の宿願を果し得た欣びは隠しきれないものが見られました。
あの時以来、初めて姿を見せられた老齢の真崎大将は
感慨深い面持ちで粛然と二十二士霊への焼香を捧げられる姿は特に印象的でした。
続いて 故人との関係が深かった方々、立場を同じくされた同志の人々、
理解と同情に溢れた方々が次々と墓前に額づかれ、その数百五十名を数へました。
かうして 意義深い法要を終りましたが、
地下の二十二士霊は、嘸かし満足して永遠の眠りにつかれたことと信じます。

多数の参列者の方々の姿が山門を去られたあと、
静かになった墓前に、藤田師を中心に栗原さんをかこんで感激の写真を撮った。
張りつめたこの日までの緊張が一度崩れた思いで、栗原さんと手を握り合って涙にくれた。
ありがとう、ありがとうと ただそれだけを繰返して、
私の手を握りしめた栗原さんの目からとめどなく涙が落ちた。
判り過ぎるほど判る その心境は、
私も同じで いつまでも墓前に立ちつくす二人のうしろに、
静かに藤田住職が寄り添っておられた。
泣き出しそうだった曇り空から ぽつぽつと小雨がこぼれだし、
夕色こめる賢崇寺の森に、記念すべき十二日の行事の幕が静かにおりて行った。

最後に、当日の祭文と弔詞を書き残して置く。

祭文
仏心会を代表し 謹んで二十二士柱の御霊に申上げます。
本日十五士の十七回忌を迎へ 併せて 二十二士の合同墓碑の建立を見るに当りまして
こんなに多数の人々が皆様の前に集まって居ります。
十六年の越し方を回想し 只々感慨の無量を禁じ得ません。
皆様もきっと喜んで下さると思ひます。
顧みますれば、あの日以来 私達が皆様に御約束しましたことは、
何とかして皆様を一つのお墓に葬ってあげたい、そして 安らかに眠って頂きたいといふことでした。
それは あの朝、刑場に臨むに当って、
「 俺達は 撃たれたら直ぐ陛下の御側に集まろう 」
と 誓ひ合って、
聖寿の万歳を三唱し、従容として死に就かれたと聞きました。
然し 本当の皆様の心状は、
死んでも 死にきれない死であったことを 私達はよく知って居たからです。
御分骨を持寄って、温い賢崇寺の懐ろに御預り頂いたのもそのためでした。
そしていつの日か必ず雪冤えんの日を期しつつ 毎月此処に集まっては御冥福を祈り続けて参りました。
其間に幾度か合同埋葬の企図も進めましたが、
常に空しく挫折して 今日に及びました。
しかし乍ら
本日の十七回忌を機として、
ささやか乍らも墓所を撰し、
墓碑を建て、
始めて皆様への御約束を果す事が出来ました。
感激これに過ぎませんと共に、物心両面に寄せられました沢山の方々の御懇情に対しては、
洵に感銘に堪えません。
皆様も必ずや喜んで下さったことと信じます。
此の次は 皆様の上にかけられました いまわしい汚名を解きほぐすことです。
私達はこのために更に努力を重ねますことを御約束致します。
在天の皆様、
どうか安らかに御眠り下さい。
茲に謹んで御冥福を祈ります。
昭和二十七年七月十二日
仏心会代表  河野司

弔詞
謹んで二十二士の御霊に申します。
二十二士の御霊よ、
あなたがたが先立たれましてより早くも十七年の歳月は流れました。
その過ぎ去った世の様を顧れば、
ことごとく あなたがたが憂えられた如き成行でありました。
思はぬことの起るが世の習ひとは云へ、
意志をつぐべく遺されたものの怠りを自責するのであります。
昔、盟友の墓前に空しく哭こくした人がありました、
われ等また同じ思ひを抱いて今 墓前に立つのであります。
十七年前のあの頃は、殊に雨が多く、
人々はあなたがたの志を悲しんで涙雨といっていました。
ことしもあの時と同様、雨が多く当時を偲ぶこと一入であります。
その雨もようやくあがった今日、
ゆかりの人々あまた墓前につどい、
あなたがたの冥福を祈る次第であります。
又 幽現一如と申せば ここを幽現交流の場として
改めて意志をつがんことを誓ふのであります。
二十二士の御霊よ
願はくば われ等の微衷をくみ給へ。
昭和二十七年七月十二日
一同代表  末松太平

河野司 著  ある遺族の二・二六事件 から


西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 20時39分29秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 

西田税の墓 「 義光院機猷税堂腰居士 」 

要津山法城寺、西田税の霊はここに眠っている。
山陰本線の要衝である鳥取県米子市の中心部からやや東寄りに勝田 (かんだ) 山という小丘陵がある。
その丘の上に禅寺があり、てらの浦の地つづきの墓地の中ほどに、西田家の塋域えいいきがある。
「 西田家先祖累代之墓 」
側面に 「 大正十四年十一月、西田税建之 」
と 刻まれた大理石の小さな墓石の下に、西田税は葬られている。
大正十四年といえば陸軍騎兵少尉の軍籍を去り、革命の戦士として世にたとうと決意した年である。
税はこの時二十五歳、
来るべき非業の死を予想して自らの手で墓石を建てたものであろう。
これから十二年の間、激しい革命への導火線に、自ら点火しつづけて、
ついに 昭和十二年八月十九日、三十七歳の壮齢で刑死するのである。
ちちのみの父らまち給ふ風きよき  勝田ケ丘のおくつき所
処刑される二日前の八月十七日 「 最後によめる歌八首 」 のなかに残した遺詠である。
すでに生きながら涅槃の境に達したと思われる西田の脳裡に、
はるかなつかしい郷里の祖先の霊の眠る勝田ケ丘の塋域が、忽焉として浮かび上ってきたものであろう。
「 義光院機猷税堂居士 」 

と刻まれた西田の位牌が、
法城寺の持仏堂の奥まった一郭、西田家先祖代々の位牌にまじって安置されているが、
俗名も歿年月日も行年も彫られていない。
「 逆賊 」 という汚名のもとに銃殺された刑死者として、
刑死直後おそらく自分たちの手で作ったであろう位牌に、
母や弟が世間をはばかってわざと俗名や歿年月日を彫らなかったものであろうか。
あれから四十年も経っている。
敗戦の年からすでに三十二年、人心も世相も大きく変わっているのに、
遺族の人々の心の中には、まだ晴れやらぬ憤怨の思いが、たえずくすぶりつづけているためでもあろうか。

法城寺の門前に煙草や筆墨を売っている山口菊代という六十すぎの老婦人は、
当時を思いだしてこう語ってくれた。
「 私しゃね、ここでこうしてもう五十年近くも、前を通る葬式をみているが、
税さんの葬式みたいな淋しい葬式はしらないね。
後にも先にも、あんなあわれな葬式はほかになかったね。
税さんのおっ母さんは、武家の奥方のようなキリリッと気性の勝った人だったが、
税さんの葬式の時にはね、そのおっ母さんが税さんのお骨を抱いてね、
怒ったように口を堅くむすんで、まっ正面をにらみすえたまま歩いて行きなさる。
あとは四五人、兄弟とごく近しい親戚だけお供をしていましたよ。
忘れもしない暑い日でね、八月の末か九月初めだったでしょうよ。
見ていてあわれであわれで、まだ嫁にきて間もない私だったけど、物かげで泣いたのを覚えていますよ。
国賊だ、逆賊だといったって、死ねばみな仏じゃないかと、死んだ主人と話しあって、
涙をふいたのを覚えていますよ 」

当時の国民は陸軍の宣伝どおり、逆賊だ、アカだと信じこまされていたし、
新聞もそのような悪人の印象を与えるような表現をしていた、
ましてや温順で消極的なこの地方の人々である、
うっかり西田家に顔をだしたり、まして葬式に供などしたら警察や憲兵ににらまれて、
うるさくつきまとわれる、と恐れられていたからであろう。
西田税の生家はいまもある。
法城寺から歩いて五分ほどの、せまい町並の一角に、いまも仏具商を営んでいる。
「 あの頃、私たちが肩身の狭い思いをした事は、忘れようとしても忘れられません。
夜 どこからかとなく石が飛んできて、何度ガラス戸を割られたか知れません。
『 アカだ、アカの家だ 』 と、大声で罵られたことも幾度かありました 」
でも、米子分駐の憲兵さんは、夜分それとなく巡回して護衛してくれました 」
税の弟、博の未亡人 西田愛は生前私にこう語ってくれた。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
西田税 ニ ・ニ六事への軌跡 から

 
ふる里の 加茂の河辺の川柳
まさをに萌えむ 朝げこひしも


西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 12時07分05秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

西田税の墓

昭和五十六年六月、山陰旅行を機に米子の西田税氏の墓所を訪れた。
松江の湘南学園、岡崎功氏と同行し、
税氏の姪、西田真理子さんの案内で法勝寺境内の西田家墓所に立った。
「 西田家之墓 」 他二つの墓石のある墓所の中央に、
五寸角の木標が建っていて、それが税氏の墓標であった。
意外であった。
四十五年を経た今日、既に半ばくちけた木の墓標の下に眠る仮葬の姿に、
理解し難い複雑な心境で、花たてもない漂前を清めて生花を供えた。
墓標の正面には
「 義光院機猷ゆう税堂居士 」
と 書かれ、
左側面に
「 昭和十一年二月二十六日東京事件ニ連座、尊皇義軍ノ首魁トシテ殉職 」
と あり、
右側正面には、
「 昭和十二年八月十九日旧七月七日、没、俗名 西田税、行年三十七歳 」
と 書かれてあるが、
既に十年余を経たと思われる墓標の姿には 涙をさそった。
真横に建つ 「 西田家之墓 」 には、「西田税建之 」 と 刻まれている。
自分が建立した西田家の墓に入れず、
今だに仮の姿で眠る税氏を思い、
岡崎氏と淋しく目を見合わせたことであった。

西田家は古くから寺の下通りの博労町に仏具店を営んだ家で、
税氏が軍人となったあとの家業は弟が継いで盛業していた。
戦後弟夫妻の没後は娘、真理子さんが、
高校の先生の傍ら現在でも続けられている仏具店である。
この米子の弟一家と税氏の関係は複雑であったようだ。
税氏が軍人となって故郷を去ってから、
病気のため陸軍少尉で退官し東京へ出て北一輝に師事し維新運動に挺身し、
幾つかの事件にも関与し、
この間に結ばれた初子夫人との生活は、古い商家の米子の本家とは、
あまりにかけ離れたものであつたと思う。
かくて、初子夫人も米子の土地を踏まず、
税夫妻と米子の本家との間は円滑でなかったようだ。
こうしたことが税氏の死後四十五年の今日、
なお目前にする墓標であるとすれば、
故人の冥福いつの日かと断腸の思いを残して辞した。

松江に帰る車の中で、
岡崎氏は同じ山陰の同志として、
大先輩西田税国士慰霊のために、
あの墓標の文字をそのままに立派なお墓を建てたい、
それは私たちの責任であると情熱を傾けて語られた。
私としても ご遺族の方々にご協力して、
その日の来ることを熱願してやまない。

正真正銘の一心同体であった 税氏夫人初子さんも
五十六年正月、
一人淋しく逝かれた。
しかし遺骨は税氏のもとには帰らなかった。
悲しいことである。
「 西田税之墓 」
建立の日には、
晴れて同穴、
冥福を祈念するものである。

河野司 著 ( 昭和57年 ( 1982年 ) )
ある遺族の二・二六事件  から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
( 五輪塔・・昭和61年 ( 1986年 ) 9月 建立 )
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」 


栗原安秀中尉達の寄書き

2021年08月26日 05時03分53秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

自衛論
一、自然ノ法則
萬物ノ生存スルヤ絶ヘス四周ヨリ侵碍セラルヽヲ以テ自ラコレカ防衛ノ術を有ス
自然界ニ於テ常ニ現象セラルヽ自營本能ハコレニシテ生物ノ天賦ノ權利トス、
故ニ一朝コレヲ失ハンカ忽チニシテ強敵ヨリ殘賊セラレ衰滅スルモノトス
人類モ亦コノ法則ヲ有スルハ當然ナリ
二、私人ノ權利
人ノ社會を形成スルヤ一定ノ規範ニヨリソノ生命名誉權利ヲ保證セラル、
サレトコノ保證ノ突差ノ間實施セラレサル時ハ自ラ防衛セラルヘカラス、
コレ法律ニ於テ正當防衛ノ認メラルヽトコロナリ
三、國家ノ權利
國家ハ常ニ外周ノ他國ト内部ヨリスル自潰作用ヨリ脅威セラル、
即チ内部ニ對シテハ法律ヲ以テ外部ニ對シテハ開戰ノ權利ヲ以テ防衛ノ手段トス、
而シテコレ行使ノ骨幹ハ國家ノ威力軍人ノ任務ノ國家ヲ保護スルニアリトナス所以ハコヽニアリ
四、國體擁護ノ爲ノ軍人ノ公人トシテノ任務
公人トシテノ軍人ハ國體ヲ破壊シ又ハ破壊セントシ者ニ對し當然の權利トシテコレヲ斃サヽルヘカラス、
コレ國家ノ爲正當ナル手段ナレハナリ、
即チカクノ如キ場合ヲ正當防衛ナリト主張スル所以ナリ


栗原安秀中尉達の寄書

國  國體論  建國ノ歴史顯現  國體論
獨斷蹶起  歴史的  安  國體論
破壞  護  栗原 
立證  自衛的
壓迫

顯  否定
惡素質
特殊性

五、余等ノ蹶起ノ大ナル獨斷ナリト主張スル理由、
若シ統帥權干犯者  天皇機關説論者等ノ國體破
壊者ノ法律ニヨリ罰セラルヽコトナク 寧ロソノ法律ニヨリ保
護セラレアル時ハ國内的ニ法律ノ權力ナキ□故最終ノ
手段トシテハ軍隊アルノミナリ、   即チコレカ攻撃ハ大ナル
獨斷専行トナストコロナリ、要ハ國體破壊ノ事實ヲ
立證セハ可ナルヘシ、
六  維新ニ於ケル自衛的内容
人間社會ニ於テモ下層者ノ上層者ヨリ絶ヘス各種ノ壓
迫ヲ受ケツヽアルハ現實的事實トス、  而シテコリカ累□積
ノ遂ニ下層者ノ自衛的爆發トナルハ革命ノ原則ニシテ
民族自體ノ一種ノ自衛作用ナリ、
日本ニオケル維新ノコノ種意義内容ヲ包持シアルハ否

定シ難キモ、顯者ナル事實トシテ維新ノ主因ヲナスハ即チ
國體破壊者ニ對スル國家ノ淨化作用ニシテ維新ハ
又國家ノ自衛ナリトモ云フ得ヘシ、
カクノ如ク國家自體カ時勢ノ進運ニ伴ヒ逐次生シキタル
矛盾、惡質素ヲ否定排除シツヽ進化スル點ニ日本ノ
國體ノ特殊性アリ、    而シテコレカ作用ノ主タル原動力
ヲナス者ハ即チ軍人 ( 正シキ力 ) トナス。

國體論、
神代ノ意義、   考古學的  人種學的  人間の常識  民族理想ノ集約
建國ノ歴史、    神武創業ノ□□
國家ノ進化、    社會進化ノ法則、世界民族ノ原則  氏□□  ローマ法皇權  國民□□ノ進化
萬世一系ノ天皇、    萬世一系ノ理想  明治維新  帝と絶對者  □□□□□
日本臣民、    克ク忠  克ク孝  先賢□□
維新ノ意義、    大化ノ改新  建武ノ中興  明治維新  昭和維新
國家ノ理想、    一君萬民  君臣一體  義ハ君臣  情ハ父子
皇道ノ世界宣布    日本ノ皇化ニウルホス、

河野司 著  二 ・二六事件秘話  から


村中孝次 ・妻 静子との最後の面会

2021年08月19日 14時01分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


村中孝次

昭和12年8月16日

面会人
妻 静子
義弟 宇野 忠
面会時間三十分


村中
どうして来たのか

役所から電報が参りましたから驚いて来ました
村中
そうか  皆元気で居るか

はい 元気です
本を送らうと思ひましたが忠様が来る時 持って来て貰ふ心算でした
村中
約一年も残って 別に大したこともないのだから
もう長くもあるまい

兄様 ( 修一 ) は チチハルに転任しました  副官だそうです
村中
そうか 少佐の副官とは守備隊がな
兎に角 お前達も暑い時だから確り元気出して気を強く持って居らねば駄目だよ
僕は大学に入らず地方に居ったら最早満洲にでも行って 前に死んで居るのだが
永遠の死場所を見つけ出したは幸福だよ
俺も同志の遺族の為に力を尽くしたいと思ったが出来ない
未だ他に残って居る人が多くあるから見捨てはしないよ 心配するな
僕らも理想を持って居たが 全く水の泡になった
時に法子は未だ乳を飲むか

はい 時々飲みます
村中
兄様方は軍人だから安心は出来ないから
忠様がこれからは全責任を持って居て下さい
頼みます

承知しました  一生懸命にやります

私は花を一週に二回宛して居ります
後は何とでもして行きますから御心配ないやうに願ひます
村中
それで僕も安心だ
別に残すことはない
体を大事にしてくれ

よく解りました
では 明日でも出来たら参ります
刑囚に対する面会人の状況  昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
から


家族寫眞  9. 6

昭和12年8月17日

面会人
妻 村中静子
義弟  宇野 正

法子の写真は今日見たよ

そうですか 文子さんが写して下さったのです
皆様が宜しく伝えて下さいと申しました
高崎さんが私の処に御訪ね下さいました 宜しくと申されました
住所はお聴き致しませんでしたが 東京にお住まひと云ふ事です

今度の事変で俺の知って居る者も戦死したと云ふ様な事を新聞で見ないか

別に見受けません

俺と同期の大学の連中はもうそろそろ中央に来る頃だと思ふ

そーですかね
只今 北さん 西田さんの奥様方にお会ひしましたが 貴男に宜しくお伝へ下さいと申されました

そうか 皆様 お達者で何よりだ
法子は親に似て腹の弱い子だから 将来此の点 充分注意して養育して呉れ
法子の歯の方は快くなったか

まだ快くなりません 今少し治療したら護謨を詰める事になって居ります

相沢さんの奥様の病気は快方になったか

もうすっかり良くなりました

そうか
杉田 ( 省吾 ) さんから 暑中見舞が来た
杉並の方に移転したと云ふ事だが 電話まで持って居る様であるが 妻君が何か又商売でも始めただろうか

私も移転された事はお伺ひして居りますが お目にかかったことはありません

其れから お前に云って置くから
楠公父子のあの忠死によって其の名は永遠に伝へられて居る事は お前も承知の通り
又 北、西田 両氏の死に依って日本改造法案は益々普及発展し正価を高める事になる
各々死に依って二・二六事件は永久に忘れられない事だろうし
吾々の持って居た信念も必ず認められる時代が来ると思ふ
去年の事件以来世の中の空気は随分変わって来た様に思はれる
十年後にはもっともっと変わると思ふ
俺の死は満州で戦死すると同様な気持で居る
只 気の毒なのは遺族のお前や法子である
これも仕方がない
私の心を お前は克く知って居るのであるから 堅い信念を持って法子を立派に育てて呉れ
( 此時 妻は泣き出して何とも答へず )
夫れから正君も是からいろいろの苦労もあると思ふが、どうか奮闘して立派な人となって呉れ
義弟
能く解りました。必ず努力致します。

夫れから 役所の方に遺体の引取方を申込んで置け
監獄令で見ると引取人のある時は下附される事になって居るから、兎に角 申込んで置て呉れ。
今年は八月になって非常に暑くなって、まだ暑さも当分続く事だと思ふが
東京は仙台より暑さが激しいから、特に病気に罹らぬ様に注意せよ。

よく気をつけます
何かお望みの差入れものはありませぬか

別に欲しいと思ふものはない
菓子類は沢山あるから入れるな

そーですか
では 失礼します

面会人
独立山砲兵第一聯隊中隊長 陸軍砲兵大尉 宇野 弘 ( 義兄 )
義兄
暫くでした。
静子から電報が来たので只今到着した
村中
よく来られたな
動員中で忙しいだろう
静子に会ったかね
義兄
いや 今迄此処に居たと云ふ事であったが、一足違ひで会へなかった
是から静子の処に行く心算だ
村中
住所は解って居るかね
義兄
今係の人から住所の方は聴いた
実は俺にも近い内に動員令が下ると思ふから、明日は帰る事になって居る
或は之が最後のお別れになるかも知れないが、後のことは心配するなよ
村中
有難ふ
今度は思ひがけなく会へて嬉しかった 此れで結構だ
兄も進級したと云ふ事で喜んで居る
然し 独立守備隊に行って随分長いからな、反乱の弟を持って居るので内地に転任させないかな
義兄
そんな事はあるものか
独立守備隊に行けば、三年以上は転任しない様である
兄はまだ満三年にならないから殊更に長いと云ふ事はないよ
村中
そーか、動員令が下って出征しても貴公は砲兵だから比較的危険は少ないが、
歩兵の方はなかなか危険の事が多いからな。
子供はまだ出来ないか。
義兄
まだだ
村中
成績が悪いな
身体の方はどうだね、顔色は大変にいい様だが。
義兄
砲兵学校に行ってからすっかり達者になった。
村中
砲兵学校の方は恩賜とどうした、逃してしまったか。
義兄
うん 駄目だった
貴公の方は腹の具合はどうだね
村中
俺の方は別に変わりはない、最近は調子が良いよ。
外部の事は何も知らないが時々 「 ラヂオ 」 の 「 ニュース 」 が聴へるし、
召集されてゆく者の見送の人々の万歳万歳の声が手に取る様に聞へるので、大体想像はつくよ。
支那ばかりでなく、ロシアの方が危険だな
貴公などは第一番にウラジオストックあたりにやられはせんかな
義兄
其は解らんさ。
此の前の上海事変の時と違って支那もだんだん戦備が完備して来たからな
村中
俺も前に改正された歩兵操典を研究したが、大分違って来たな。
義兄
うん 違って来た。
北海道の兄さんには何日会ったか。
村中
去年会った儘で今年はまだ会って居らない。
俺の方の親類は余り当てにならないから将来宜しく頼む。
貴公や兄等に俺の様な反乱の弟を持って随分今迄迷惑をかけたと思ふが、将来の事に就ては尚宜しく頼むよ。
義兄
いや 別に迷惑もかかって居らない
将来の事に就ては心配するな
では 俺は先に話した様に非常に忙しい中を隊長に話して来たのだから、
明日は帰るから 此れでお別れになるかも知れぬが、将来の事に就ては安心してくれ。
では お別れする
何か用事があるか
村中
いや 別に用事はない。忙しい所 有難ふ。
刑囚に対する面会人の状況  昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
から


磯部淺一、登美子の墓

2021年08月17日 13時25分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


磯部淺一、登美子の墓

南先住駅のすぐ前に、
明治維新の犠牲志士たちの墓所として、有名な回向院がある。
院内を入るとすぐ右手に橋本佐内の墓があり、
そこを抜けた墓地には
幕末、小塚原刑場で斃れた 吉田松陰、頼三樹三郎
他 多数の樹形志士たちの墓が コの字形に経並んでいる。
この一画に隣接して
「 磯部浅一、登美子之墓 」 がある。
 
側にささやかな
「 二・二六事件 磯部浅一之墓 」
と 書いた木漂が建っている。

山口県の日本海側漁村に生れた磯部の墓が、どうしてここにあるのか。
建てられたのは刑死後三年余といわれるが、
誰が施主となって建立したかは詳かでなく、
事件前後を通じて磯部夫人と最も親しかった西田税夫人の初子さんに訊ねても判らなかった。
私は磯部と陸士同期で、同じ朝鮮に勤務し、同志として親交を重ね、
そのため事件後は陸軍刑務所に収監された 佐々木二郎氏とともに、
定期的に回向院に同行墓参し、お寺の住職とも話し会ったが、
寺側にも記録なく、今ではほとんど訪れる人もなく無縁に近い墓となっていると聞いた。
この時 思い浮べたのは、
登美子夫人の弟で、磯部なきあとを継いで 磯部姓を名乗る須美男氏の存在だった。
仏心会の法要にも姿を見せず、
事件のこと磯部のことにも触れることを避けた人だったが、
文通だけは保たれていた。
近年いろいろのことで親しく相会する機会も生れていたので、
須美男氏に連絡し 初めてこの間の事情を知ることができた。
それによると、
処刑後磯部の遺骨は郷里の山口には分骨だけ送られ、
本骨は夫人のもとに置かれてあったのだが、
昭和十五年に、
磯部が現役時に勤務していた陸軍糧秣本廠の廠長であった 堀内少将の努力で、
維新因縁のこの地を選して 秘かに建墓埋葬されたという。
夫人の病死は十六年三月であるから、まだ生存中であったが、
病身だった夫人の願いでその名も一緒に刻まれたという。

須美男氏は当時まだ学生で、その頃の状況下に処していっさい関知させられなかった。
外国語学校を出て戦争から敗戦、姉の関係姓を名乗っても、磯部家との縁は薄く、
戦後は米軍関係に勤務する須美男氏の足は、回向院にむくこともなく打過ぎたようだ。
既に定年を過ぎ 米軍関係も退いた今日、須美男氏は今度の私との会談のうちに、
これからは回向院の供養にはげみたいと語ってくれた。
しかし自分なきあと無縁になることは避けられない心残りも語った。
思いは私も同じである。
磯部夫妻と最も親しかった西田夫人も佐々木二郎氏も 相次いで昭和五十六年春に逝った。
淋しさを禁じ得ない。

山口県の寒漁村の漁家に生れ、貧困のうちに育った磯部は、
その抜群の才能を惜しんだ有志の支援によって、広島幼年学校から陸士へと将校の道を進んだ。
事件連座の他の将校たちとは異なった環境を経た磯部の性格は、
いつか青年将校運動に没入し、終始その先鋭となって事件蹶起の主役となり、
在獄中の激越な遺書を残したことは故なしとしない。
その革命児、波乱の一生がそのままこの墓所になっていることを感じる。
将来無縁になるであろうこの墓であるが、
吉田松陰をはじめとする明治維新の殉職志士たちに伍して、
奇しくも 昭和維新殉難の唯一人として永遠にこの地に眠ることは、
せめてもの救いであり、叛逆児磯部の本懐とする安らぎの地であるかもしれない。
冥福を祈ってやまない。

河野司 著  ある遺族の二・二六事件  から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
七月十一日、
東京衛戍刑務所で面会して帰宅後、
登美子は住んでいた参宮荘のアパートの管理人に対し、語った
『 磯部は面会の時、夫が死刑に処せらるる事を心配するよりも、
助命の心配する事が本当だと言っておりました。
夫は非常に元気で、
我々は大勝利を得たのだ。吾々は殺される理由はない。
彼等が吾々を殺さなければ、自分が危ないから殺すのだ。
俺は殺されても魂は何時までも生きている。
だから俺が殺されても成仏する様 お経をあげないでくれ。
骨は故郷へ持ち帰らぬよう こちらへ葬ってもらいたい 』
・・特高警察の週報から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
義父は昭和二十六年、七十六歳で他界いたしました。
義父の死後、義父が生前大切にしていた手文庫を開けてみましたら、
磯部さんからの遺書と思われる達筆で書かれた毛筆の封書と、
一通の電報が沢山の書類と一緒に入れてありました。

電文は
『 イマカラユキマス、オセワニナリマシタ、イソベ 』
とあり、発信は渋谷局となっていましたから、
処刑直前に奥さんにでも言いつけて打ったものと思われます。
御生前の凛凛しかった磯部さんの姿を思
い浮かべ、
電文をうつ 奥さんの心中を推しはかって
思わず泣き伏してしまったことを覚えております。
・・松岡とき (松岡喜二郎の長男省吾の妻 )


磯部淺一 ・ 妻 登美子との最後の面会

2021年08月16日 13時51分47秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


昭和12年8月16日
面会人

妻 登美子
義弟  須美男
面会時間三十分



今日は早くから来たのか

午後一時 参りました

官房には 「 ラヂオ 」 が 良く聞こえるから外部の事も略々見当が憑く
支那の方も大分やって居る様だ

「 ラヂオ 」 も 余り聞かれないでしょう

そうか どうも不審の事があると思った
今日も午後面会を許すと云ふ事も変だね
近く あるのかも知れない  お母様は元気で居るのか

元気です

執行する時は 前日には多分入浴 髯そり 等をやるから解るよ
俺も昨年の今頃の様に元気がない  仏様になった
最早 死んで行く方が良いと思ふ

麻の襦袢が入って居りますか

入って居ない
俺は最後迄頑張ったから此頃は皆から嫌がられるよ
乱暴者だからね
然し 良く戦って来たよ  死んでも不足はない
然し どうも不振だね
近く やるかなァ  変だね
弟 ( 義理弟 須美男 )
大分 世の中からの人も解って来たらしいです

私は前からの事を総合して思ふと もう近日にあると思はれますから明日も参ります

早くやらねば此処の人も困るだらうからね
書物もあるが検査受けて許されたものは返されるだらう
遺書は明瞭に判って居るから少し書く心算だ
「 お前 」 等は 能く内を整理して何事も落着いてやらねばいけないよ
俺は安心して居るのだから 心配は要らない

では又
明日参ります
死刑囚に対する面会人の状況  昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿   
憲兵司令官  藤江惠輔
から

昭和12年8月17日
面会人
妻 登美子
義弟  須美男

兄さん 何か言って置く事はないですか

別に無いが 俺は今死ねばいい死所を得たと云ふものだ
革命家が銃殺されると云ふ事は本望だ
俺は勇ましく死んで行くよ
昨年二月二十八日に同志が皆自殺すると云ふのを俺一人が引き留めたのだ
死を恐れたのではないが 男らしく調べられ言ひ度い事を言ひたかったからだ
昨年渋谷憲兵分隊に村中と二人で調べられた時
分隊の新聞を見るに大命に抗して云々と云ふことが出て居たので
俺は村中さんに向ひ 俺達はどうしても駄目だ
御経でも上げて死にませうと其時から覚悟はして居た
何時やられても俺は本望だ
何か準備が出来て居るか

私も何時の事か判りませんので 別に準備はしてありませんが覚悟はして居ります

そーか 然し 同志の中で俺程貧乏の家に生まれたものはあるまい
色々苦労はしたが 貧乏人の心持は同志の内で俺が一番知って居るので
貧乏人を助けたいが為に今迄闘って来たが 貧乏人の方で俺達が思ふ程云ふ事を聞かない
それだから 何時迄起っても貧乏人は苦労して居るのだ
俺も大陸軍を相手にして先を土俵際迄一時は追ひつめたから本望だ
お前達も余りメソメソするな

私は貴男にイロイロ申上げたい子とがりますが
今御話しすることは貴男に心配を掛けることになりますから云ひません
只 先日憲兵隊に呼ばれた時に 是非感想を書けと云はれましたので二三書きました。

其れから親友達に許されたら処刑された後で電報を十四五通出す積りだ
文面は此処の迷惑になってはいかんから 色々お世話になったと云ふ事丈け出すつもりだ
それから俺には古い借金があるのだ
今になっては先方から請求はすまいが だまって死ぬのも俺はいいが お前が心苦しい事があるといかんから言って置く

夫れは 私の方で全部解って居りますから よう御座います

夫れでも念の為言ふ
藤屋に二〇〇円位 他の一軒に七〇円位 宮路 ( 宮路作次か ) と 二人で飲んだのが一〇〇円位
山口の武学生養成所に二〇〇円 其他少ないのを入れると千円位あるかも知れぬ
俺は払ふ気はあったのだ
大臣になったらと思ったが 此んな事になったので払へなくなって了ったのだよ
須美男さんは学校を出たら早く嫁さんを貰ふ方が良いよ
女の選定は お前のお母さんか姉さんの様な人を貰へば間違いないよ

嫌ですよ冷やかしては

冷やかすものか 俺は女の一番豪えらいのは西田さんの奥さん 其次は お前だと思って居るよ
俺の遺骨の事に就て山口の方からは何とも言って来ないか

余り具体的な事は申しませんから 未だ何とも云って来ません

そーか お前達二人でいい様にして呉れればそれで満足だ
須美男さんも親孝行を忘れるな
俺はあの世に行ってからお前達のお父さんと自炊でもする積りだ
お前達は仏様に反抗するな
寿命だけは大事にせよ
尚 山田 ( 洋 ) に会ったら 俺は勇躍して死んで行くと云ふ事を伝へて呉れ

御会いしたら申上げて置きます

西田さんの奥さんは実に立派な方で
種々御厄介にもなって居るが御礼の手紙を出す事も出来ないので
お前達からよく御礼を申して置いて呉れ

承知しました
又 明日参ります
死刑囚に対する面会人の状況  昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿   
憲兵司令官  藤江惠輔
から


磯部淺一 ・ 家族への遺書

2021年08月15日 13時49分00秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


拝啓
梅雨が晴れたら厚くなる事だらう
御前達は元気かね
私はとても元気だ
身体も元気だが それよりも精神が非常に元気だから安心せよ
次の件は よく考へてそれぞれ処置せよ
一、臼田様へ手紙を出したいから住所を至急通知せよ
一、山口と新京へは私が決して忠義をフミチガヘテ居らぬと云ふことをよくよく知らせて呉れ
一、新聞社その他の者に面会するな、今は何事も云ふてはならぬ
一、山口の兄等があわてゝ状況したりする様な事がない様にあらかじめ通知しておけ
      ( 上京させないほうがいゝのだよ )
一、私の身の上の事ばかり心配しては  野中さんや河野さんにすまないと云ふことを考へよ
      又 自分の不幸をなげく先に田中さんやその他の新婚したばかりの奥さん方や
      子供の二人も三人もある奥さん方の事を考へねばいけないぞ
一、差入品を有難う
      着物類は絶対にいらないからもう決して心配するな
      食品の方は果物は止めて呉れ  その代りに夕御飯を差入れて呉れ
      あまり心配しないでカンタンにして呉れないとこまる
一、分籍の件は早くしてくれて大変よかつたね
      御前がよく気をつけてやつて呉れるので将来のことも少しも心配はない  安心し切ってゐる
一、これから先は私の代理は須美男さんだがから 何事につけても須美男さんを表面に立てよ
      そして女は出シャバラない様にせよ
一、一日も早く新京の父母と一所になる様に努力せよ
一、御経の浄写したのを入れて呉れて誠に有難い  御前達も御経をよめ
一、とみ子 御前には須美男さんをたのむよ
      此の数年間 運動にばかり力を入れて お前達二人の世話をちつともせず
       却て叱つたりしたのは誠にすまなかつた
      特に須美男さんに済まないから 将来私にかわつて御前が死力をつくして須美男さんを成功さして呉れ
一、須美男 元気かね
      あんたは必ず立派な人物になると兄さんは信じて居る
      兄さんの期待にそむかぬ様努力せよ
      姉さんは弱いからよく助けてあげよ
      お前は男だから 姉さんが泣く時でも決して泣いてはいけないぞ  男子は強くなくてはいけないぞ
一、その他 大切な事は遺書に詳しく書いておくから その積りでいよ
一、神仏を信ぜよ  必ず御前達を援けて下さる
十一年七月六日
登美子殿
須美男殿
 (註) 封筒に入れ、表書は、市内渋谷区代々木山谷三〇八 参宮内  磯部登美子殿  親展となっており、
        裏書は、渋谷区宇田川町  陸軍刑務所  磯部淺一、と記してある。


北一輝 ・ 妻 鈴子との最後の面会

2021年08月10日 14時37分38秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


北一輝 

昭和12年8月16日

面会人
妻 北 鈴子
長男 北 大輝


よく来て呉れた 有難う。
お前には二十五年の間、大変御世話になった、又 大輝にも色々世話になり 私はお礼を云ふよ。
夫れから お前等に特に言って置き度いことは、
今度私等が此の様になっても 決して軍部や軍法会議を恨んだり、悪意を持ってはいけない、
陸軍の人々も今度は大変心配して居る。
又 私に対しても能く諒解して 何とかして命丈は助けたいと云ふ気味は確に私は見て取った、
昨年以来最近も法務官の上の方の少将の方迄、私の所に来て色々のことを聞かれたが、
其時でも非常に叮嚀な言葉で実に私は有難く思った。
大体 今度の裁判は私にとっては誠に有難い裁判だ、
軍法会議としては私の真意等は能く汲んでは居るが、如何せん法律は曲げられないから、
陸軍の人も涙を呑んで裁判をして居られるのだ、私も又有難くお受けして居る。
尚 此処の刑務所も我々に対しては実に何とも言へない 唯感謝の外ない、位懇切に取扱って下さった。
先日も一寸話した様に、
今度私共は刑務所の中に居る人の中では実に貴族様だと思って居る。
だからお前達は良く解って居るだらうが、
内の方の人 特に昤吉 ( 弟 ) は 総て 「 早まり 」 勝ち 誤解し易い人だから、
お前の方から能く話をして陸軍の方々を恨んだり悪意を持ってはならんと私が言ったと伝へて呉れ、
岩田 ( 富美夫 ) にも同様 話して呉れ、
私は喜んで死んで逝く。
私は今度の公判に出る前 ( 当日の朝 ) 神仏の慈悲無辺と云ふことを知ったのだ、
今度の私の外史が出版されるのも皆神仏のお蔭だ。
私の体は最早不用の体だ  肉体は消へるものだ。
神様はお前方を守ってやるよ。
今度から自由の体になるのだ、私は夫程修養が出来て居ると思ふのだ。
お前方も今後益々神仏にお参りして呉れ。

私共の後事は 決して 決して 御心配なさらぬ様に願ひます。
夫れから昨日 昤吉様が来られて、お母様に一寸会はせ度いと云はれましたが如何ですか。

先程も話した通り お母様には会はない方が良いと思ふので、昨日手紙を書いて置いたのだ。
昤吉と庄吉には一日会ひたいと思ふて居る。

夫れは会っても良いが 昤吉様には私共二人 ( 妻と大輝 ) を頼む等と話さないで下さい。
話しても見て下さる人ではありませんから。

夫れは私も能く存じて居る。
昤吉と云ふ人間は今日迄代議士等に出て大体兄 ( 輝次郎 ) を利用し過ぎて居る、
尚又 二度も洋行しても私に挨拶に一度も来ない様な人間だから、 私も其辺の事は知って居る。

先日 新聞に発表のあった時から覚悟して総て考へて居ります。
西田様と貴男を家にお迎へする考へです、又 私は将来 尼になる心算ですが許して下さいますか。

それはお前の考へ通りにするが良いだらう。
生計はどうだ。

只今困ることはありません、又 尼になれば皆様が御神仏を差上げるから之を食へる様にと申されます。
大輝
私も最早学校は止めます、行きたくはありません。

夫れはお前の勝手だが 何も学校を止める必要はないだらう。
然し 何も機会技師になれと言はないから マアー 能く考へて見なさい、
お前には我々夫婦は子供の時から荒いこと一口言ったこともないよ、
故に総て熟考して良い様にして呉れ。
大輝のことは話さねばなるまいね。

どうぞ夫れは話さないで下さい。
では又明日参りませう。
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和12年8月17日
面会人
甥  木本純一郎
甥  岩城吉孝
親戚  馬淵清邦
義妹  北 キ子
妻  北  鈴子

皆様 暑いのに有難ふ、別に心配しなくとも私は元気だから。
木本
お母様から宜しくと申して居りました。
清邦
色々お世話になりましたが、私も最早一人で大丈夫ですから。
吉孝
私も元気で居ります、大変お世話になりました。
キ子
お母様も大変元気です。

今日 昤吉様と庄吉様と大輝と来ることになって居ます。

キ子 お前は色々と心配もあるだらうが庄吉と一所懸命働いて子供を育てて呉れ、
清邦は大輝と一緒に居る由だが 何分頼む。
木本は長崎から来て呉れて有難ふ、
私は何も心残りは無い、安心する ( 以下 様鈴子一名残り 他は出る )

私は今日 昤吉様が来ますのに付て、一言申し度いと思ひます。
家屋の事ですが、お金は一文も呉れませぬ。
私は誰からも補助を受けて居ませぬ。
昤吉様は八百円も修理に使ったそうです、
又 私が後藤 ( 伝兵衛 ) 様に頼んであの家を昤吉様に買って下さいと話したら、
昤吉様の申されるには、家は兄から貰ったのだが 姉様はどうして左様な慾を言ふのだろ、
家は一千四百円の価値しかないから、一千四百円で買ふ。
名義変更の時 一千円渡すと云って、数ヶ月経って一千円貰ひました、
残り四百円は下さらぬから私はもう要りませぬと申しました、
以上の様なことですから
今日 昤吉様が来て其の話があって貴男と私と話が違ってはいけませぬから一寸申上げます。
然し、夫れを昤吉様に話せばきっと私に当りますから何卒話さずに下さい、お願ひですから。
岩田様は昨年暮れに二百円 其後に二百円 持って来て五十円宛西田様にやって呉れと云ひましたから、
西田様に二度で百円渡しました。

さうか
岩田が昨年末五千円持って来たが お前が私に話さないのだと今日迄信じて居たのだ。
さうか。

岩田様は只今私に会ふのは避けて居ます。

ヨシヨシ 何も私が知って居る、
昤吉も来て何を話すか知れんが、
先般憲兵隊に私が居る時来て本人が帰って後、憲兵の話では
あの人は見舞に来たのか何かと言はれたが、実に私は恥しかったよ、
其の様に彼は太平楽のみ言って居る、私を利用して色々の事をして居るのだ、
金も相当貰って居ると思ふが 一文も持って来ないが  ソーカ
然し、私は何も云はない 心配するな。

私は今度 鷺宮に家を見付けてあります。
大輝と清邦と西田様と一緒に居る心算ですから御安心下さい、
夫れから 机、椅子は千円で売れます。
只今私 三千円程ありますから何も心配ありませぬ、
外のものは何も手は付けませんが 「 ワニ革 」 の鞄は家賃の方に入れましたから御承知下さい、
夫れから大輝のことは話さずに居て下さい、貴男が今度神様になられたら能々お解りになりますのでは、
又 参ります。

何事も能く解った  有難ふ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
面会人
弟  北  昤吉
弟  北  庄吉
弁護士従弟  後藤伝兵衛
長男  北  大輝

ヤー  皆様能々有難ふ
昤吉
お母様は昨夜上京しました、お寺の和尚様が連れて来て呉れました、
お母様も先日の号外を持って居りましてよく諒解して居ますから御心配ない様に、
就ては お母様も是非面会し度いと云って居ますが

ソーカ 私はもう会へない心算で一寸書いて置いたのだが、お母様から云ふなら会って逝きたい、
では明日妻と共に来る様に云って呉れ。
昤吉
夫れで私も安心です、お母様のことは私が全責任を持って行きますから御心配せぬ様に。

どうか頼みます、庄吉にも色々お世話になったが此の先 昤吉を助けて能く働いて呉れ、
又 昨年中は色々心配かけて申訳ない、又 後藤には特にお世話になりました。
庄吉
いいえ 私こそお世話になりました、此の後は一所懸命働きますから 御安心下さい。
後藤
私は大変お世話になりました、後の事は総て皆でやって行きますから御安心下さい。

有難ふ 夫れから鈴子と大輝のことは構はずに任意にさして下さい、
少し私も考へごとがありますから
昤吉
承知しました。

夫れから 一寸是非君方に話しておきたい事は
此度の事件を世間では如何様に伝へて居るか知りませぬが、
今度の公判は実に道徳的裁判と云ふが 私に取りては誠に有難い公判です。
軍法会議でもよく私の心を酌んで 涙を呑んで裁判せられたことは 私は確に認めて居ります。
求刑後に於ても態々少将の方 ( 法務官=藤井喜一 ) が来られて、
然も 懇切に色々の事を お取調べになった為め、
其の内心はどうかして命は助け度いと云ふ心が私にはよく解りましたが、
何分法は曲げられぬ故 詮方なく今度の様になったのです、
又 私も法務官の人に求刑通りやって下さい、私は責任は免れませんと申し出てたこともある、
之で私も青天白日の身となります、
以上の様な訳ですから、
皆様 決して陸軍や今度の裁判に立たれた人々を恨んだり 悪く思ってはなりません、
呉々も私が云っておく、
私は有難くお受けして居ります。
大輝
お骨は東京に半分と佐渡の方に半分送る方が良いと思ひます。
昤吉
大体 お骨は法律では分骨を許さず 全部先祖の所に埋葬するが建前です、
之は何とかなりませう。

半分は若い者の所に置いて呉れ、半分は国の方に頼む、
西田も私も前から覚悟はして居たのだ、今更何も言ふことはありません、
皆様は 元気で働いて呉れ。
昤吉
お骨は佐渡の方には私は一寸行けないから姉妹と大輝と行って能くお祭り致します、
御心配要りません。

「 ラヂオ 」 が時々 聴へるので外部のことも少しは解るが何も話すまい、
では 暑い所 有難う
皆元気で居て下さい。
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔


西田税 ・ 妻 初子との最後の面会

2021年08月08日 12時13分57秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


昭和12年8月16日
面会人
西田初子


西田
お前一人か

いいえ 皆来て居ますが私一人にお願したのです
西田
詳しく発表になったか

はい 発表されましたが此処では話されませぬ  止められてます
西田
話さなくともよい
少しは違って居るかも知れないが大体に於てあの通りだ
まあ 死んで行く丈の事だ
僕の気持も充分汲んでは居られるが何分あれ程の事をしたのだもの 其責任はあるのだ
僕は五・一五の時 汚名を着て死ぬより 病死するより 余程幸福だ
どうせ弱い体  二、三年位 しかもてない僕の体だもの いい死ぬ時と思ふ
陸軍でも大分議論があるらしいことは分かって居るが 結局死と決した訳だ
血盟団や五・一五、今度と 色々の点で 若い者が私を持出したのだから
実に僕の理想と異なって居る点もあるが 事件の責を受けねばならないことは前から覚悟して居ったのだ
思ひ残すことはない
此処で居る間は迚ても大切に取扱って貰った
実に感謝して居る
病院迄行った世話になり 今度はよい死時と思ふ
夫れから別に残す物はないが
正尚には御下賜かし品の銀時計と秩父宮様より戴いた 「 ワイ襯衣 」 と 「 カウス 」 釦
を 家宝にして呉れと言ってやって呉れ
星野には東郷様の和歌の額をやれ
僕の書は余り散さんで呉れ
強いて謂ふ人には やってもよいが僕の骨は半分東京に置いて同志と一緒 半分は国の方に送って呉れ
式等はするな
お前は仏像を持って居てくれ
其他にない
お父様やお母様に宜しくお詫申してくれ

よく解りました
では今日は何も話しませぬ
又明日参ります
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和12年8月17日
面会人
西田初子の父 佐藤新兵衛
義弟 佐藤幸吉
妻  西田初子
西田
お暑い時に誠に有難う御座います。
此の様な事を致しまして申し訳ありませんが、総てお許し下さい。
実は お目にかかれないと思って居りました、之で私も安心出来ました。
本当に色々御心配のみかけましたが、今度はいい死場所です。
妻もよく尽してくれました、私は喜んで居ります。
後事は宜しくお願ひ致します。
初子は色々の関係上当分一人で任意にさして下さい、本人も覚悟して居りますから。

私も面会が出来て嬉しく思って居ります、後事は何も心配はいりません。
西田
幸吉様にも色々心配かけましたが許して下さい。
又 私の気持は今回発表された事でお解りと思ひます、私の心はあの通りです。
軍法会議の方も能く気持を酌んで好意を持って下さって居ります。
私の為すべきことは皆終りました、只 肉体は消えます。

お母様は矢張り 上京して会ひたいと云って 電報が来たそうですが 会ひますか。
西田
そうか 上京するか
会へるなら会ひたいよ、例へ 死顔でも母は見たいと思って来るだろう。
最早 俺は誰とでも会ふ、母が来たら お前 連れて来てくれ。

承知しました。
では 明日でも来たら直ちに参ります。
西田
もう会へないかも知れないが確りして行けよ。
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十八日に面会に参りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。
・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 


西田税 ・ 家族との最後の面会

2021年08月07日 12時11分08秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


昭和12年8月16日
面会人
実姉  星野由喜世 ( 四六 )
実姉  村田茂子 ( 四〇 )
実弟  西田 博 ( 三一 )
実弟  にしだ正直 ( 二八 )
同妻  綾子 ( 二九 )
西田
御遠路有難う御座います。

兄様も来たいと申しましたが 何分忙しいので失礼致しますと謂ひました。
尚 前回上京の際は 色々とお世話になりましたと御礼を申して居りました。
西田
私はもう会へないと思って居りました。

私も会へないかと思ひました、 又 病気の時は嘸そざ御難儀でしたろう。
西田
やはり 病気では死なれないです。
新聞でお解りのことと思ひますが私の事は大体新聞の通りです。
御上の方も私の気持ちはよく汲んで下されたが、何分大変なことをしたのですから 其責任は免れませぬ。
然し、肉体は死んでも精神は必ず皆様を守って居ります。
私は軍人になった時は死は覚悟して居りました、
五・一五の時 汚名を着て死ぬより 又 病気で死ぬより 余程幸福です。
夫れから 博、正尚 等も決して私の意思に反してはならん、
遺書にも一寸書いてあるが初子と皆で読んでくれ。

お母様は今度 来ませぬが、能く解して居りますから心配しないやうに。
西田
初子には話したが、後始末の事だが 僕の遺骨は半分は国に送って呉れ、
其他は何としても都合のいいやうにして呉れ。
夫れから正尚には、秩父宮殿下より御下賜された襯衣はだぎと 「 カウス 」 釦を家宝として呉れ。
星野には東郷元帥の和歌を贈る。
博は相続人だから別に何もやらんでもよいだらう。
村田の姉様には書を上げる。
書は成丈 所々に配分したくない、僕の恥になるから。
別に話すこともない、是で僕も喜んで逝けます、皆仲良くして呉れ。
星野/村田
では又参ります。
今日は之で失礼します。
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔

昭和12年8月17日
面会人
実姉  星野由喜世
実姉  村田茂子
実弟  西田 博
実弟  西田正直
同妻  綾子
従弟  佐藤有亮
西田
佐藤君有難う 色々お世話になりました。
佐藤
小生こそ色々お世話になりました。
星野
此処へ来て見ると何故うちの人も連れて来なかったかと思って お前に申し訳ありません。
西田
いえいえ 是れだけ会へたら満足です、私は会へないと思って居たのですから。
私が病気の時等は自決する心も起した時もありましたが、後の事が気になって思ひ止まりました、
夫れに私は五・一五の時には胸の病気が出ないのに 今度胸の病気が出て一寸苦しみましたが、
非常な手厚き取扱で命は助かりました。
星野
本当に私は皆様から承りましたが、今度の病の時には大変よくして下さったそうですね、
御礼を言ふにも誰に申して良いやらで 其儘にして居りますが、非常に親切にして貰ったそうですね、
有難いことです。
西田
正尚に言って置くが お前は決して俺の様なことをしてはならん、
間違のない様に真面目に働いてくれ、私の信念は先日出た判決文の通りであるが、
私の心だから何事も誤解せぬ様に。
博は肥へ過ぎて居るから酒の方を注意せよ。

承知しました、兄様の言ったことを能く守り 皆で働いて行きます。
西田
写真はやはり前の写真が出ただらうか、誠に拙い写真でね
皆も一度はいい写真を撮って置くがよい、べつにもう話すことはない、安心して逝ける。
星野
私も帰って子供等に皆お前の言ふことを伝へます。
西田
そうして下さい、では皆様元気でいて下さい。
一同
では もう帰ります
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔


西田税 ・ 遺書 「 同盟叛兮吾可殉 同盟誅兮吾可殉 」

2021年08月06日 11時52分46秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

殺身成仁鐵
血群概世淋
漓天劔
林莊外風蕭
壯士一去皆
不還
同盟叛兮吾
可殉
同盟誅
兮吾可殉

囚未死秋欲
染血原頭
落陽寒
昭和十一年季冬
於獄中  幽因吟録二
西伯処士  西田税

みをころしてじんなす てつけんぐん
殺身成仁鐵血群
がいせいりんり てんけんさむし
概世淋漓天劔寒      大いなる世の中をなげくこと ・・・・天剣とは小生等が団結していた名前 ・・・・天剣党をつかつた
しりんそう ぐはいかぜせうせう
士林莊外風蕭々      士林荘とは小生の居所の名
そうし ひとたびさつてみなかへらず
壯士一去皆不還     
どうめいはんす われじゅんずべし
同盟叛兮吾可殉      同盟とは彼の将校等
どうめいちゅうす われじゅんずべし
同盟誅兮吾可殉      しけいになること
ゆうしゅう いまだしせず あきくれんとほつす
幽囚未死秋欲暮      ひとやずまい
せんけつげんとう らくやうさむし
染血原頭落陽寒      しけいになった代々木の原  夕日のこと    染血とは此所のこと

西伯処士 ・・・・西部伯州 〔  鳥取県西伯郡 〕 生れの浪人のこと
河野司 著  二 ・二六事件秘話  から

例の五 ・一五事件のとき、その日の夕刻代々木山谷の居宅で、
事件の行動妨害者、裏切者として同志川崎長光のために拳銃で数発射たれ、
奇跡的にも助かったが、体内にとどまった弾丸のために健康は良くなかった。
入所後ときどき腹部に激痛をうったえ、診断の結果弾丸摘出のため、
世田谷の東京第二衛戍病院に入院することになった。
私は勤務者の監督やら患者慰安の意味やらで、たびたび訪れた。
切開手術のときは、病院長から特に立ち会ってくれとのことで、初子夫人と共に立ち会った。
相当の時間を要する大手術であったが、順調に終了した。
西田は手術の半ばに、大胆にも小声で談笑することがあって、医官に注意されたのにもかかわらず、
私の顔を見て こまごまと礼をいうような落ち着き払った態度であった。
だから手術の立ち会いのような緊張さはなく、単なる患者見舞いの感じであった。
夫人も手術室の一隅に端然として、夫の大事を見守っていたが、
婦人ながらも その落ち着きは大したもので、さすがと感心したのである。
手術の経過は良好で半月位で退院した。

・・・挿入・・・
主人や北先生の裁判の前途がほとんど絶望的になりました十二年の五月、
五・一五事件の際縫い合わせた腸の傷痕が悪化いたしまして、西田は急性腹膜炎を起しました。
腸の傷はなかなか厄介なものらしゅうございます。
腸の縫合部分から滲出した(にじみだした)食物でちょうど豆腐のような環がとりまき、
それが腹膜炎を誘発したそうでございます。
衛戍病院で開腹手術を受けましたが、拘禁生活一年余り、体力は衰えており病状も悪く、
生命に危険があったからでしょうか、手術の立会人として十日程 夫の傍に付添うことが出来ました。
西田と夫婦になりましてから、あれほど心と心が通い合ったことはございません。
一言一言の会話にしみじみとした思い、いとおしみといたわりが滲んで居りました。
あの負傷が原因で、夫婦としての最後の頁を心をこめて綴りあえたのでございます。
あの狙撃事件で西田はひくにひけない境地に立たされ、
その結果 二・二六の青年将校との紐帯を問われたのですが、
その傷痕の後遺症によって本来許されない時間にめぐりあうことになったのでした。
人間の運命はわからないものだと思います。
手術は病室で行われました。
看守が立会っております。
わたくしは寝台の枕許にたちまして顔の両側においた西田の手を握っておりました。
体力が衰えておりますので、ほとんど麻酔剤は使えなかったようでございます。
西田は痛みをこらえるために、わたくしの手を強く強く握りました。
両手が痺れて感じなくなる程の力でございます。
立会いの看守が一人卒倒するような手術でございました。

・・・西田はつ ・・・

それから十五名の死刑執行後、昭和十一年十二月四日、監房訪問の際、

半紙に書いた左の漢詩を示して
「 署長殿いかがでしょう、これはものになっていますかね 」
と出した。
私は漢詩はよく分からないがと受け取った。
天有愁兮地有難  涙潜々兮地紛々
醒一笑兮夢一痕  人間三十六春秋
また、
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
囚未死秋欲
染血原頭落陽寒

この詩は刑死八カ月前の作である
ああ、人間三十六春秋     合掌
・・・塚本定吉  二・二六事件、軍獄秘話  から


西田税 「 このように亂れた世の中に、二度と生れ變わりたくない 」

2021年08月05日 11時49分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

(昭和十一年)十月二十二日、
死刑の求刑に対して北は、こう述べている。
「 裁判長閣下、青年将校等既に刑を受けて居ります事故、
私が三年、五年と今の苦痛を味う事は出来ません。
総てを運命と感じております。
私と西田に対しては情状酌量せられまして、
何卒求刑の儘たる死刑を判決せられん事を御願ひ申上げます 」

西田も同じように
「 二度と私は現世に生れ苦痛をいたしたくはありません。
狭い刑務所であります故、
七月十二日に十五名の青年将校及び民間同志が叛乱逆徒の汚名を着た儘、
君が代を唱へ聖寿万歳を連呼しつつ他界した事は、
私の片身を取られたと同様でありました」

と 陳述している。
死を覚悟している北や西田のことだ、
もっと痛烈な皮肉や批判の言をはなったことだろうが、
これは 公式な記録だから記録として残していないと思われる。
「 あるいはこの日であったかも知れないが、
私の記憶では翌くる年の十二年七月の中旬ではなかったかと思う。 
北、西田の最後の陳述を傍聴した。
その情景は今でも忘れられない 」
と、川辺はこう語った。
その日、北、西田の最後の陳述があるというので、川辺も第五法廷に入って傍聴した。
はじめに起った 北一輝は、国家改造方案は不逞思想ではない。
やがていつかは日本が行きづまった時、私の所説が必要になってくるだろう。
私の改造論を実現しようとして、青年将校たちが蹶起したとは思わないが、
彼らはもう既に処刑されている。
私も彼らに殉じて喜んで死刑になる気持ちでいる、
と淡々とした語り口で述べたのち、
最後にこう言った。
「 私はこれで喜んで極楽へ行けます。
お先に行って、皆様のおいでを待っております 」

と、笑みを含んだ顔で、深々と頭を下げた。
川辺は思わず涙ぐんだ。
こう淡々として死が迎えられるものだろうか、
話に聞く高僧の心境というのはこういう境地をさすのか、
と 心から感動した。
とたん、判士の一人が
「 馬鹿奴、貴様のような奴が極楽へ行けるか。貴様は地獄だ 」
と、憎々しげに吐き捨てるように言った。
「 心性高潔な被告と、品性下劣な裁判官とを象徴する言葉で、
巧妙なコントラストを見る思いであった 」  と、
西田税 
続いて西田が起ち、北と同じような所懐を述べたのち
「 昔から七生報国という言葉がありますが、
私はこのように乱れた世の中に、二度と生れ変りたくはありません 」

と、結んだ。
退廷する時、西田は川辺の顔をみて、微笑んだ。
「 おお、川辺か、よく来てくれた 」
と、声をかけてきた。
川辺は笑って答えようとしたが胸が迫って声が出ない。
黙って深く頭を下げたが、涙がホロリとこぼれた。
これが西田を見た最後であった。
しかし、川辺は西田のさっきの言葉が気になった。
「 せめて勇ましく七生報国、
七度生れて国に報いんと言ってくれるかと思ったが、
案に相違した西田の言葉は、なんとしても不満だ。
その夜、師の御坊の所へ聞きに行った 」
と、いう。
川辺は陸士に在学中、父親に死に別れ、
自身も死生の間をさまようような大病を病んで死生の問題を深く考えるようになった。
西田たちが国家改造論議に熱をあげているのを尻目に、
川辺は宗教書や哲学書を枕読していた。しかし、どうしても疑問が解けない。
大正十三年砲工学校に派遣されていた時、
顕本法華宗の大僧正 本多日生の講演を聞いた。
その話のなかに
「 人格実在論、霊魂不滅論の哲学的論証は、法華経以外では解決することはできぬ 」
と いう言葉があった。
これだと直感して、宿所の目黒の常楽寺を訪ねて、教えを乞うた。
本多日生は
「 今の君は 言ってみれば小学生程度だ。
小学生は算術は解けても 微積分はわかるまい。
微積分が理解できるまで修業することだ 」
と 言って、良い師僧を紹介してくれた。
妙満寺派の綜合宗㈻林の学頭、本村日法という権大僧正であった。
その頃、早稲田の正法寺に座っていた。
川辺は週に三回 ここに通い、本村日法の教えを受けることになった。
川辺の言う師の御坊とは、この人であった。
日法は川辺の不満らしい口吻を、静かに抑えて
「 いやいや、そうではない、
恐らくこんな言葉を吐ける人は万人に一人といないであろう。
死生を達観した達人、高僧の心境である 」
と、教えてくれた。
「 あの頃、西田も私も今流で言えば三十五か六、血気盛んな壮年だ。
こんな若い年で、こうした心境に到達した西田という奴は大した奴だ。
と 今さらのように感服したことを覚えている 」
と、川辺は語っている。
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄著 から
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西田税の最終陳述
私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
 私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法会議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上実際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ検察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ青年将校ハ 去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、天皇陛下万歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報国ト云フ言葉ガアリマスガ、私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。懲役ニシテ頂イテモ、此身体ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。