あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

安藤部隊

2019年07月31日 13時57分58秒 | 安藤部隊

タンクが帰って暫らくすると
山王ホテルの前の路地から、十数名の兵士を率ゐた将官 佐官の様な人が来ました。
電車通り迄来た時に、安藤大尉はそれを見ると既に抜力して居た軍刀を閣下の前に出し、
「 閣下、私を殺して下さい 」 と 云って道路に坐してしまひました。
閣下らしい人は、
「 さう昂奮しないで立って刀を納め自分の云ふ事を聞いて呉れ 」
と 数回云ひました。
が 安藤は、立ち上がったが刀を納めず、
「 今タンクから斯う云ふビラを撒いたが、
此中に、下士、兵卒とあるが、将校と兵卒の間に如何なる相違があるか 」
「 将兵一体の教育をして居るのが、日本軍隊の筈である。」
「 其様なビラを以てして我皇軍が動揺すると思って居られるか。
あなたは左様な精神で皇軍を教育して来られたのか。」
「 今や満州の地に於いて隣邦と戦端を開かれ様として居るが、
若し開戦された場合斯様な宣伝に依て動揺する様な事があったら如何なされるや。」
「 あなたは、三聯隊の兵士を左様な兵士だと思って居りますか、
左様な人の云ふ事は私は信ずることが出来ませんから、何事も聞く訳には行きません 」
と 云ふと 閣下らしい人は、
「 左様な事ばかり云って居たのでは話にならない 」
と 云って居りました。
安藤大尉は
絶対に聞く事は出来ません、
話があるなら、斯様な事態になる前になぜ早く話してくれなかったか、
全部包囲し、威嚇されて屈伏する訳には行きません。
話があるなら、包囲を解かれてから来られたい。
私達は間違って居りました、聖明を蔽ふ重臣閣僚を仆す事に依て
昭和維新が断行される事と思って居りました処、
吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。
吾々は何等の野心なく、只陛下の御為に蹶起して導いた処、
戒厳令は昭和維新の戒厳令とはならず、
却て自分達を攻める為のものとなって居るではありませんか。


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊


安藤部隊
目次
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・ 
安藤大尉

中隊長安藤大尉と第六中隊 
・ 中村軍曹 「 昭和維新建設成功の日 近きを喜びつゝあり 」 
・ 
歩哨線 「 止まれ !」 

・ 第六中隊 『 志気団結 』 
・ 堂込曹長 「 奸賊 覚悟しろ!」 
・ 鈴木侍従長 「 マアマア、話せば判るから、話せば判るから 」 
・ 
奥山軍曹 「 まだ温かい、近くにひそんでいるに違いない 」 



・ 
安藤大尉「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」 
・ 命令 「 独断部隊ハ小藤部隊トシテ歩一ノR大隊長ノ指揮下ヘ這入ル 」 
・ 破壊孔から光射す 
・ 命令 「 我が部隊はコレヨリ麹町地区警備隊長小藤大佐の指揮下に入る 」 
・ 
「 一体これから先、どうするつもりか 」
地区隊から占拠部隊へ 
・ 幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 
・ 下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」 
・ 「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」 
・ 町田専蔵 ・ 皇軍相撃を身を以て防止すること決意す 
・ 
「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 

・ 小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」 
・ 安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」 
・ 「 世間が何といおうが、皆の行動は正しかったのだ 」 
・ 「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 
・ 『 農村もとうとう救えなかった 』 1 
『 農村もとうとう救えなかった 』 2 
・ 
「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」 

・ 
伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1 
・ 
伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 2 

突然怒号して
「 オーイ、俺は自決する、さして呉れ 」
と、ピストルをさぐる。
余はあわてて制止したが、彼の意はひるがえらない。
「 死なして呉れ、オイ磯部、俺は弱い男だ。
今でないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌ひだ、
裁かれることはいやだ、幕僚共に裁かれる前に、自ら裁くのだ、死なしてくれ 」
と 制止の余を振り放たんとする。
悲劇、大悲劇、兵も泣く、下士も泣く、同志も泣く、涙の洪水の仲に身をもだえる群衆の波。
大隊長も亦
「 俺も自決する、安藤の様な立派な奴を死なせねばならんのが残念だ 」
と 云ひつつ号泣する。
「 中隊長殿が自決なされるなら、中隊全員御伴を致しませう 」
と、曹長が安藤に抱きついて泣く。
「 オイ前島上等兵 お前が、曾て中隊長を𠮟ってくれた事がある。
中隊長殿、いつ蹶起するのです、
このままおいたら農村はいつ迄たっても救へませんと云ってねえ。
農村は救へないなあ、
俺が死んだらお前達は堂込曹長と永田曹長をたすけて、どうしても維新をやりとげよ。
二人の曹長は立派な人間だ、イイカ、イイカ 」
「 曹長、君達は僕に最後迄ついて来てくれた、有難う、あとをたのむ 」
と 云へば、
群がる兵士等が
「 中隊長殿、死なないで下さい 」
と 泣き叫ぶ。
余はこの将兵一体、鉄石の如き団結を目のあたりにみて、同志将兵の偉大さに打たれる。
「 オイ安藤ッ、死ぬのはやめろ、
人間はなあ、自分が死にたいと思っても、神が許さぬ時には死ねないのだ、
自分では死にたくても時機が来たら死なねばならなくなる。
こんなにたくさんの人が皆して止めているのに死ねるものか。
又、これだけ尊び慕ふ部下の前で、貴様が死んだら、一体あとはどうなるんだ 」
と、余は羽ガヒジメにしてゐる両腕を少しゆるめてさとす。
幾度も幾度も自決を思ひとどまらせようとしたら、
漸く自決しないと云ふので、余はヤクしてゐた両腕をといてやる。
兵は一堂に集まって中隊長に殉じようと準備してゐるらしい様子、
死出の歌であらう、
中隊を称える 「吾等の六中隊 」 の軍歌が起る。
・・・
行動記 ・ 第二十四 「 安藤部隊の最期 」 


白襷を掛け 『 尊皇討奸 』 の 幟を持って帰隊途中の蹶起部隊
中隊長を失った第六中隊は、
歩三第五中隊代理の小林美文中尉がトラック三台を率いて迎えに来たが、
堂込曹長はこれを断り、永田曹長と共に中隊を指揮して堂々と行軍で帰隊することにした
それは 中隊長の志を継いだ 堂込曹長 最後の抵抗である
沿道の市民は黒山の人手となって六中隊を歓迎し、
知人の兵の名を呼ぶ者、中隊を激励する者などがあって大変な騒ぎであった
それは さながら討入を終えた赤穂浪士の泉岳寺への引揚を彷彿させるもので
あった


中隊長安藤大尉と第六中隊

2019年07月30日 18時28分05秒 | 安藤部隊

歩兵第三聯隊第六中隊の 昭和維新
昭和11年2月25日~29日
2月25日
21:00
第六中隊下士官集合・・・中隊長より訓示
点呼終了後階下の広場で行われた
訓話を始めるにあたって先ず準備された黒板に富士山の絵をかき、
次に白墨を横にして富士山を塗りつぶした。
「 今の日本はこのように一部の極悪なる元老、重臣、軍閥、官僚等の私利私欲によって
このように汚され、今や暗雲に閉されようとしている。
今こそ我々の手によってこの暗雲を払いのけ 日本を破滅から救い
国体の擁護開顕を図らなければならぬ 」
24:00
安藤大尉は次の命令を下した。
1  かねて相沢事件の公判に際し、真崎大将の出廷による証言を契機とし、
    事態は被告に有利に進展することが明かとなれり。
2  しかるに この成行きに反発する一部左翼分子が蠢動し、
    帝都内攪乱行動に出るとの情報に接す。
3  よって 聯隊は平時の警備計画にもとづき  
    主力をあげて警備地域に出動し、警備に任ぜんとす。
4  出動部隊は第一、二、三、六、七、一〇の各中隊とし、
    機関銃隊は一六コ分隊を編成し、各中隊に分属せしむべし。
命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」

2月26日
00:00
週番司令安藤大尉より聯隊主力に出動命令下達
一中隊主力、二中隊一部、三中隊、六中隊、七中隊、十中隊、機関銃隊主力
六中隊は二コ小隊編成で、第一小隊長に永田曹長、 第二小隊長に堂込曹長
  第二小隊長堂込喜市曹長
03:00
中隊 非常呼集
03:30
舎前整列、編成の下達
中隊は三個小隊に編成、第一、第二、第三 ( 機関銃隊 )
編成終了後、安藤大尉の号令 「 弾込メ 」
安藤大尉は抜刀して
「 気オ付ケーッ!中隊は只今より靖国神社に向って出発する、
行進順序建制順、右向ケー 右!前エー進メ 」
喇叭吹奏、行進
「中隊は只今より靖国神社参拝に向かう。 第一、第二小隊の順序、指揮班は中隊長に続行」
03:50
営内出発
衛兵の部隊敬礼を受けて営門を出て隊列が歩一の前にさしかかった時、
走ってきた乗用車が止り 渋川善助がでてきて安藤大尉に、
「愈々決行ですか、御成功を祈ります」
渋川は至極落付いた表情でそういった。

隊列は以後粛々と進み、乃木坂、赤坂見附を通過
04:50
鈴木侍従長邸近くに到着

「 第一小隊は官邸の外まわりの警戒、第二小隊は邸内の警戒、
第一小隊の第三分隊及び第二小隊の第一、第三分隊は突撃隊となり侵入し、目標の探索に任ずべし 」
05:00
軽装に身を固めた中隊は愈々襲撃に移った。
攻撃は正門、裏門の両方に別れ指揮班は表門組の第二小隊のあとに続いた。
まず安藤大尉が門前を警戒していた二、三人の守衛に開門を要求、
彼等は応じる気配がないので直ちに取抑え、
この間携行してきた竹梯子を塀に立てかけ先兵が内に飛込み瞬く間に門扉をあけた。
外で待っていた第二小隊がドッと侵入、続いて指揮班も入った。
この時取抑えた守衛たちは守衛詰所のキリヨケに手をかけてブラさげ監視をつけた。
家屋内に浸入すると、中は真暗なので用意してきた懐中電灯をつけ、
念入りに各部屋を探索しながら奥に進んだ。
やがて私達が建物の中頃あたりまで進んだ時、突然奥の方から拳銃の発射音が響いてきた。
すると 安藤大尉はソレッ!とばかり奥に向かった。
指揮班も遅れじと続く。
一番奥と思われる部屋にくると電燈がついて
そこに十五、六名の兵隊が半円形になって包囲する中に目指す鈴木侍従長が倒れていた。
上半身から血が流れ出し畳を赤く染めている。
安藤大尉はその光景を見るや侍従長をすぐ寝室の床に移動させた。
奥の間のすぐ手前が侍従長夫妻の寝室で、夫人が床の上に正座していた。
安藤大尉は徐ろに夫人に向って蹶起の理由を手短かに説明した。
「 御賢明なる奥様故、何事もお判りのことと思いますが、
 閣下のお流しになった血が昭和維新の尊い原動力となり、
明るい日本建設への犠牲になられたとお思い頂き、
我等のこの挙をお許し下さるように 」
「 では何か思想的に鈴木と相違でもあり、この手段になったのですか、
鈴木が親しく陛下にお仕え奉っていたのをみても
その考えに間違いはなかったものと思いますが 」
すると安藤大尉は静かに制して
「 いや、それは総てが後になればお判りになります 」
沈黙が続いた。
ややあって夫人は 
「 あなた様のお名前を 」
「 歩兵第三聯隊、歩兵大尉安藤輝三 」
「 よくわかりました 」
「 甚だ失礼ではありますが閣下の脈がまだあるようです、止めをさせて頂きます」
「 ああそれだけはどうぞ・・・」
と 夫人が叫んだ。
安藤大尉はしばらく考え、
「 ではそれ以上のことは致しません 」
と いいながら軍刀を納めた。
全員は大尉の号令で鈴木侍従長に向って捧ゲ銃の敬礼を行い官邸を引上げた。
正門前で隊列を組み三宅坂方面に向って行進に移る。
 
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

06:30
同邸前出発後、陸軍省近傍に到着
「 安藤は部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る。
 ヤッタカ ! !  と 問へば、
ヤッタ、ヤッタ と 答へる 」
・・・第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 

第七中隊常盤少尉がきて安藤大尉に状況報告
警視庁を完全占領し目下警戒中の由、
坂井中尉は斉藤内府、渡辺教育総監を倒し我が方負傷二名
高橋蔵相が近歩三の襲撃で死亡
岡田総理が歩一の手によって斃された
報告を受けた安藤大尉は感無量といった姿で天を仰ぎながら
「愈々昭和維新が達成するか」 といった。
その後間もなく全員は陸相官邸前に整列し 
安藤大尉から蹶起趣意書を読みきかされ、真の出動目的を確認した

10:00
三宅坂三叉路附近に移動、警戒配備
聯隊より朝、昼、夕食運搬、住民湯茶サービス
夜  雪堤を造り、露営
破壊孔から光射す 
安藤大尉「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」 

2月27日

早朝  戒作命第一号により 麹町地区警備隊に編入

12:10 ~13:00
新国会議事堂附近に移動。待機。

待機中、 安藤大尉に対して、二名の憲兵が来て、
一刻も早く 下士官兵を帰隊させることを求めたが、
安藤大尉はこれに応ぜず、
「 陛下の赤子を使用することは申しわけないが、
今回の蹶起は鳥羽伏見の戦いと同じで
最後の一兵までやる覚悟である。
ここは何トンの爆弾が落ちても平気である。 将校も兵も一心同体なのだ 」
と 反駁

前聯隊長井出大佐 ( 現参謀本部軍事課長 ) が訪れる
安藤と会談中、傍にいた小河軍曹がいきなり大佐を射殺するといい出し
大尉に止められる一幕があった
18:00
陸相官邸で開催された軍事参議官会議の情報が入ってきた。
事態は蹶起部隊に有利に展開中とのことに安藤大尉は満面に笑みをたたえて喜んだ。

安藤輝三大尉は 部下中隊に訓示と命令を下達 
「 小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」
安藤中隊長を先頭に、中隊はラッパを吹きながら新国会議事堂から出る
安藤中隊は粛々として首相官邸の坂を山王下へ下って行った

18:30
料亭 幸楽 に入る。
「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」 
「 去る二月二十六日蹶起した各部隊は、夫々の場所において当初の目的を達成した。
これから秩父宮が上京され 上層部に説明を行われるので、事態は益々よくなるから
全員心配せず任務を続行してもらいたい 」・・大広間において安藤大尉の状況説明
20:00
新井中尉、安藤大尉を訪問
・・・ 地区隊から占拠部隊へ
休養、警戒しつつ夜を徹す
同大広間において、中隊長、全隊員に状況説明
・・・維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」 
2月28日
早朝  情勢一変、反乱軍として鎮圧軍の包囲を受く、緊張の日中を過ごす
06:00
五中隊の小林美文中尉がきて安藤大尉に告げた。
「安藤大尉殿、間もなく総攻撃が開始されます。
もし大尉殿がここを脱出されるようでしたら自分共の正面にお出下さい。
我々は喜んで道を開けますから」
「有り難う、御厚意に感謝する 」
・・・小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」
時間の経過と共に緊張が高まり兵士はみな悲壮な覚悟を決めた。
10:00
村中大尉が吉報をもってきた。
「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」
次いで地方人池田氏 ( 神兵隊事件関係者 ) がきて種々援助をしてくれた。
同時刻頃
蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合かかる
しかし安藤大尉は頑として応ぜず、
今ここを離れたらどんなことになるか判らないと判断し、
坂井中尉を代理として LG一コ分隊、小銃一コ分隊をつけ自動車で差出す
12:20
形勢逆転せんの形勢見えしため、
安藤中隊長は遂に戦闘準備を宣し、一同勇躍して出陣に就く、襷掛けの悲想な出陣
兵隊との別れの握手、 実に見る者をして涙ぐましめたり、民衆は之を見んものと道路を埋めてゐる
安藤中隊長も最後の握手を兵隊達と交わした。
・ 中村軍曹 「 昭和維新建設成功の日 近きを喜びつゝあり 」 

13:00
村中大尉がきて安藤大尉に
「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった 」
と 悲壮な覚悟を示した。
すると安藤大尉は一瞬ムッとした表情で
「今になって自決とは何事か、この部下たちを見殺しにする気か、
軍幕臣どものペテンにかけられて自決するなど愚の骨頂だ 」
「 俺は何といおうとそれらの人間とあくまで闘うぞ」
と、村中大尉の報告を立ちどころに一蹴し決意の程を表明した。
我々が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃、幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に
「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」 と叫んでいた。
丁度歩一の栗原中尉がきていたので、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
「皆さん!我等のとった行動は皆さんと同じであなた方にできなかったことをやったまでである。
これからはあなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい。」
「我々は今や尊皇義軍の立場にありますが、
これに対して銃口を向けている彼等と比べて、皆さん方はいずれに味方するか、
もう一度叫ぶ、我々は皆さんにできなかったことをやった。
皆さん方は以後我々ができなかったこと、即ち全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、
どうですか、できますか?」
すると民衆は異口同音に 「できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる」 と 感を込めて叫んだ。
続いて安藤大尉が立ち簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。
民衆は二人の演説に納得したのか万歳を叫びながら徐々に散っていった。
・ 幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 
・ 
下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」
渋川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」 

「 小藤大佐ハ爾後占拠部隊ノ将校以下を指揮スルニ及バズ 」 
16:00
出陣せんとした折吉報入る。
皇族会議の結果、 我々の勤皇の行動を認めるとの中隊長の伝達に依り一同にどっと喜の声が絶えなかった。
実包を抜きとり、志気作興のため演芸会開催せり。
「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 
夜になって吉報が舞い込んだ。
今日陛下と伏見宮様がこん談され、陛下も尊皇軍をよく解って下さったようだというもので、
これを受けた安藤大尉はニッコリして
「明日は逆転するぞ、みておれ、反対に悪臣たちに腹を切らせて我々が介錯するのだ」 と、いった。
大阪から在郷軍人団がやってきた。
彼等は早速附近に集っていた民衆に熱弁を振るい協力を求めていた。
21:00
悲報が到来した。
明朝鎮圧軍が軍旗を奉じ、やってくるとのこと、もし原隊に帰らなければ武力をもって鎮圧するという情報である。
最早や交渉の余地はなくなったようである。
22:00
そこで戦闘を有利に実施できるよう陣地変換に移った。
幸楽を撤収、裏門から隠密裡に抜け出し山王ホテルに移動
第一小隊は階下及び玄関、第二小隊は二、三階、 指揮班は階上
以後、香田大尉の部隊と協同で戦闘することとなる
2月29日
払暁  鎮圧軍ラッパを吹き、示威行動、包囲網圧縮
07:50
奥村分隊、中村分隊、再度君が代斉唱

午前中  戦車接近、中隊長激発、帰順説得続くも、中隊長拒否。飛行機ビラを撒く
09:00
雄叫を唄う
10:00
三階から外を見ると、 電車通りも行動隊の兵士が(白襷を掛けて)整列して居って、
階下に下りて来て先程の部屋を見ると
安藤、香田の両大尉及下士官、七、八名も居り 緊張して居り
安藤か香田に何か大声で話をして居りました。
安藤大尉は
「 自決するなら、今少し早くなすべきであった。
全部包囲されてから、オメ オメと自決する事は昔の武士として恥ずべき事だ 」
「 自分は是だから最初蹶起に反対したのだ。
然し 君達が飽迄、昭和維新の聖戦とすると云ふたから、立ったのである 」
「 今になって自分丈ケ自決すれば、それで国民が救はれると思ふか。
吾々が死したら兵士は如何にするか 」
「 叛徒の名を蒙って自決すると云ふ事は絶対反対だ。 自分は最後迄殺されても自決しない。」
「今一度思ひ直して呉れ」 と テーブルを叩いて、 香田大尉を難詰して居りました。
居合せた、下士卒は只黙って両大尉を見詰めて居るばかりでした。
香田大尉は安藤の話をうなだれて聞いて居たが暫らくすると、頭を上げ、
「 俺が悪かった、叛徒の名を受けた儘自決したり、兵士を帰す事は誤りであった
最後迄一緒にやらう、良く自分の不明を覚まさせて呉れた 」
と 云って手を握り合ひました。
安藤大尉は、 「 僭越な事を云って済まなかった。許して呉れ 」
と 詫び
「 叛徒の名を蒙った儘、兵を帰しては助からないから、 遂に大声で云ったのだ。
然し判って呉れてよかった。最後迄、一緒にやって呉 」
と 云ってから
「 至急兵士を呼帰してくれ 」
と 云ったので、 香田大尉は其処に居た下士に命じ、呼戻させ、再戦備につく

安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」
12:30
中隊長自決を計る
伊集院少佐 介錯しようとする

他隊帰隊相次ぐも、第六中隊最後まで頑張る
14:00
蹶起部隊幹部 山王ホテル に集合
安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々は重要会議を始めた
が、やがて重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となる。
15:00
全中隊、ホテル広場に集合
参謀副官は我々に向って
「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ 」
と いった。
これを大隊長が一応とめたが安藤大尉はどういうわけか聞き流し、
整列した我々に対し最後の訓示を与えた。
「 俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。
お前たちが聯隊に帰るといろいろなことをいわれるだろうが、
皆の行動は正しかったのだから心配するな。
聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、
女々しい心を出して物笑いになるな。
満州に行ったらしっかりやってくれ。
では皆で中隊歌を歌おう 」
やがて中隊歌合唱がはじまった
・ 「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」
・ 「 農村もとうとう救えなかった 」
・ 「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」 
伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1 

中隊長自決を図る。
「 永田曹長の指示でホテルから寝具が運ばれ、大尉を仰向けに寝かせた。
大尉は手真似で筆記具をよこせといい、
永田曹長が通信紙と赤鉛筆を渡すと眼を閉じたまま複数に走り書きした。
やがて衛戍病院から車がきたので大尉は病院に向った。
その直後 永田曹長は全員を集め中隊長の書き残した通信文を読上げた。
その内容は、
1  爾後の指揮は永田曹長がとり、無事原隊に帰れ
2  未だ 『 弾抜ケ』 を していないので 弾を抜け
3  お前達は渡満したなら 御国のためにしっかりやれ
などであった。
一同は泣きながらそれを聞いていた 」・・・二等兵大谷武雄

帰隊
出発にあたり武装解除を要求されたがこれを拒否
永田曹長の指揮で銃を肩に 軍歌を合唱しながら、堂々と凱旋気分で行進した。
永田曹長引率す中隊主力、午後六時頃帰営


「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」

2019年07月28日 17時46分45秒 | 安藤部隊

私は昭和十年兵隊検査を受け甲種合格となり、
後日、本郷連隊区司令部から歩兵第三聯隊第六中隊に入隊すべしという通知を受けとった。
その時私は名誉と責任の重大さをかみしめ、
早速先輩各位から軍隊の概念や入隊までに準備すべき事項などの教示を受けた。
たまたま この中に第六中隊から除隊したという者がいたので親しみをもって挨拶すると、
「 そうか、では伝えておくが、
お前が入隊すると間もなく日本中が大騒ぎになる大事件が起こるから 覚悟して入隊することだな 」
と 妙なことをいった。
私は何の話か判らず、そうですかといっただけで聞き流してしまった。

明けて昭和十一年一月十日、
大勢の人に見送られて歩三、第六中隊に入隊し 第三内務班に所属した。
班長は門脇軍曹であった。
入隊すると間もなく中隊長安藤輝三大尉の精神訓話があり、
拝聴しているうち私はだんだんと胸のときめきを覚えるに至った。
訓話の概要は次の通りである。
『 我が第一師団は近く北満の警備につく予定であるが、
渡満前 我々としては腐敗した現在の政界とこれを取りまく重臣どもを粛清しておく必要がある。
これらの輩に大鉄槌を下し、国政を正しておかなければ 我々が満洲に行っても意義がない 』
そして中隊長は黒板に一隻の船と大海を描き、
次いで上方に太陽を、そして その下に暗雲をたなびかせた。
『 今 述べた事をもう少し判りやすく説明する。
この図にある大海とは世界である。
船は日本国民だ、太陽は天皇 暗雲は腐敗した重臣どもである。
而して この暗雲がただよっている限り御稜威は我々下々の国民には届かないのである。
即ち 船は大海を乗り切ることができない、
そこで 何としても この暗雲を取り払わねばならないのである 』
安藤大尉は熱を帯びながら国政を痛烈に批判するので
私たちもいつしか熱心に耳を傾け魅了されていった。

初年兵の日課は訓練と内務教育がすべてで 毎日追われるような日が続いたが、
この間 安藤中隊長との接触が深まり 非常に兵隊を可愛がることが判って無上の喜びを感じた。
二月二十五日夕刻、一日の訓練がおわって兵舎に入ると中隊掲示板に
「 大内山に光射す云々 」 と 大書されていて 皆の目を集めた。
しかし 誰もどんな意味を秘めていたかは知らなかった。
班内で身のまわりの整理をしていると今晩非常呼集があるという うわさが流れてきた。
そのため日夕点呼後軍装品を揃えて就寝した。

二月二十六日
その日は入隊日から数えて四十七日目である。
早暁予想したとおり非常呼集が発令された。
しかしラッパは鳴らず、班長たちが一人一人をゆり起こし
非常呼集を告げるというおかしなやり方だった。
考えてみると昨夜点呼後からの中隊内のザワメキは異常で、
二年兵や幹部の振舞いはたたごとではなかった。
そして誰いうとなく明払暁、
鈴木侍従長に襲撃をかけるらしいとの流言が暗々のうちに流れたほどである。
私は飛起きると すぐ軍装にとりかかった。
すると班内に弾薬や食糧が持込まれ 一人一人に交付された。
受取った弾薬は実弾でびっくりした。
どこかへ出動するのである。
昨夜の話が本当だとすれば大変なことだ。
しかし私には命ぜられるまま行動する以外に道はなかった。
すると二年兵が、
「 お前たち初年兵は早く末期の水を飲んでおけ、そのうち飲めなくなるぞ。それに親兄弟に遺書を書いておくんだな 」
真実とも冗談とも判じかねる二年兵の言葉に戸惑ったが、
その時 彼等はすでに今回の出動を知っていたようである。

○四・〇〇頃 舎前に集合すると編成下達があり、私は指揮班になった。
出発準備が整ったところで安藤大尉の号令で出発となった。
残雪が夜目にも白く路面は凍てついて郡靴がすべりやすかった。
営門を出てから約一時間たった頃、ある邸宅の横で小休止をした。
叉銃し 背嚢をおろして約十分間休んだが
路面が凍っているので小銃の床尾鈑がすべり なかなか叉銃ができなかった。

○五・〇〇 行動をおこした。
やはり目標は目前の鈴木官邸であった。
中隊は二手に分れ 第一小隊が裏門、指揮班と第二小隊が表門から突入した。
私は入隊後日も浅く未だ一人前の兵隊ではなかったので、
恐ろしさが全身を包み手足がふるえ屋内に飛込めず躊躇した。
すると 見ていた堂込曹長が、
「 お前は中にはいらなくてよろしい、そこで窓を監視しておれ、若しそこから出てくる奴があったら射殺せよ 」
と 命令してくれたので
私は小銃に実包を込め引鉄にゆびをかけて、即戰の姿勢で玄関ワキの窓を警戒した。
それから約二十分後、屋内から襲撃班が引上げてきた。
そして 「 状況終り、成功!」 が 告げられた。
この間捕えられた一人の警官が丸裸でしばられていたが、
彼は 「 どこでもいいから銃剣で突いてくれ 」 と 兵隊に頼んでいた姿が今も目に浮かぶ。

中隊は表玄関前に集合し隊形を整え すぐ陸軍省に向った。
途中トラックに乗った多数の憲兵を見た。
陸軍省前につくと一寸小休止しただけで三宅坂に移り、
ここで縄を張り歩哨線を布いて交通遮断の任務についた。
即ち同志の通過は許すがその他の者は一切追返すのが守則であった。
そのうち聯隊から食事が届けられた。
内容を見ると今までに見たこともなかった豪華な食事だったのでビックリした。
寒い日だったが飯を食べたので急に楽になった。

午後、陸軍省から大柄な堂々とした閣下 (たぶん山下奉文閣下と思う) が きて
安藤大尉に陸軍大臣告示を伝達した。
その夜は警備しながら夜を明かした。
ジッとしていると凍ってしまいそうな寒い夜だったが、木炭を焚いて暖をとり、
聯隊から届けられた食事で何とか事なきを得た。
中でも私たちにとって豚肉が沢山入った味噌汁は全身が暖まる願ってもない防寒食事だった。
その他小夜食としてリンゴ、甘納豆なども支給され、兵隊の志気は大いにあがった。

二十七日午後一時頃、
中隊は三宅坂の警備を解き、新国会議事堂附近に集結、
しばらく待機した後 夕方になって幸楽に入った。
その夜 大広間で安藤中隊長から状況説明を聞き、
「 陸軍大臣告示 」 なるものが公布されたことを知り 私たちは天にも昇るような喜びにひたった。
私はここで前島上等兵から鈴木侍従長襲撃の模様を細かく聞き、同時に各蹶起部隊の行動も聴取した。
この頃から渋谷聯隊長、伊集院大隊長をはじめ多数の外来者が入れかわり立ちかわり
安藤大尉の所にきて膝ずめで話をしていた。

二十八日になると
俄然状況がかわり 戦闘の気配が濃くなったので中隊はその夜ひそかに山王ホテルに移動した。
すでに鎮圧軍がここかしこに姿をチラつかせて遠巻きに私たちを包囲しているのが見えた。
ホテルに入った中隊はすぐ戦闘配備を整え、私は板垣上等兵の分隊となって屋上を受持った。
ここに設備された消防ホースをのばし放水を主力武器として敵襲に備えたのである。
しかし戦闘配備についても空腹では処置なしであった。
その頃聯隊からの食事が止ったので自活することとなり
ホテルの食糧に依存したが量は僅少であった。
私たちの屋上には握り飯が一個ずつ配給されただけで我慢させられたが、
後で聞いた話によると、下に居た連中は倉庫から色々な食料品を持出し、
酒までみつけ出して飲食したそうでかなりの隔たりがあったようである。
なおホテルの従業員は全部避難し、
伊藤葉子という人が一人だけ自発的に踏止まって私たちの面倒を見てくれた。
随分勇敢な人だ、
いつ戦火がおこるか極めて急迫した状況下に女の身でよく頑張っていたものと関心した。
そんなことから兵隊たちにとって彼女の印象が強く残り、
渡満してからも伊藤葉子さんの話題に花が咲き 当時の思い出が語られたほどである。

そして
二十九日の朝がきた。
屋上に立つて刻々明るくなってゆく四囲を見ていると、
ホテルの周囲はすでに鎮圧軍によって包囲され、
その後方には砲兵隊陣地まで構築されているのが確認されたが、
しかし両方とも黙したままであった。
これは相手の撃ち出すのを待っているかのようであるが
果して皇軍相撃という事態が起こり得るだろうか。
やがて戦車が出てきて放送を開始した。
スピーカーから流れ出たのは 「 兵に告ぐ 」 という勧告で
下士官兵の原隊復帰を呼びかけてきたのである。
しかしその内容には子を想う親の心情が切々と感じられ聞く者の胸を打った。
状況としては最早発令された奉勅命令に従う以外にない。
命令がいつ出たのか知らぬが 何故伝達されなかったのか、
だが事態はもうそこまできていたのである。
この間ホテル内では戒厳司令部をはじめ第一師団長以下大隊長に至るまで
安藤大尉に対し必死に原隊復帰の説得が続けられていた。
この中で伊集院大隊長の説得は特に切々たるものがあった。
「 安藤!お前や兵隊達は死ぬ気でいるのであるからそれでよかろう。
しかし兵の親兄弟が遠く故郷の空からどんなにか心配し悩み悲しんでいるか、
安藤、お前には判らぬ筈はない 」
事実私の郷里八代村大字平須賀の鎮守の森では、私が投函した
「 尊皇討奸、我、大日本帝国の礎となりて死せんとす 」
の 一通の葉書きが小学校長の許に届いたため 村の人が集り、
梅林寺神官祈祷の下に無事なるようにと上を下への大騒ぎになったとか、
ましてや、たった一人、私の身を案じて朝な夕な神仏に祈りを捧げていてくれた、
年老いた母親の心情を察するに、余りあるものが窺われる。
だが 渦中にある私としては、屋上に在って今や遅しと待構えていた時の気持ちは、
我方が敗ければ日本国家は滅亡するのだ、
その後のくだらぬ世の中にあって生きてゆくのは御免だ、
一層のこと安藤中隊長と一緒に死んだ方がよいという強い信念で凝り固まっていたのである。

戦車や飛行機からビラが撒かれ、スピーカーからは休みなく投降勧告が放送され、
包囲する鎮圧軍が徐々に迫ってくる状況下、安藤大尉は説得責めにあえぎ続けた。
やがて午後二時半か三時頃、或はもっと過ぎていたかも知れない、
緊迫した最中に突如 「 ホテル前広場に集合 」 が かかった。
全員は戦闘配備を撤収し広場に整列すると安藤中隊長がきて訓示を行った。
「 戦いは終わった。しかし勝つべき正義は遂に負けた。
 皆は至らぬ中隊長を最後までよく援けてくれた。ありがとう。
中隊長はここで自決するが、皆は健康に注意し満洲で国のために尽くしてくれ 」
訓示が終わった瞬間 兵隊の間から号泣がおこり周囲を圧した。
すると兵隊の中から
「 中隊長殿が死ぬなら俺も死ぬぞ!」
と 銃口をノド元にあてる者が出たので中隊長は、
「 では 中隊長も一緒に聯隊に帰る
と 諭とし ようやく安心させた。

隊列の周囲には
鉄帽、防弾チョッキで身をかため鎮圧軍がひしめき、
私たちの行動を見守っていた。

彼等は私たちが原隊に向って出発するのを今か今かと待ち望んでいるようだった。
その顔には勝ちほこった自信が溢れ、我こそ皇軍であるといった風潮を誇示しているようにみえた。
それを見ていた隊員たちは 号泣の中に怒りがこみ上げ、
俺たちのした事が何故悪い、貴様らにできないことをやったのだ、
と ばかり いきなり数人が並いる将校たちに銃口を向けた。
すると全員がそれを合図に 一人残らず鎮圧軍の将校に立ち向かったので
彼等の驚きようは格別で、

腰を抜かさんばかりにたじろぎながら兵隊の間をかいくぐるようにして後方へ姿を消した。
そして参謀一人だけ残った。彼は桜井戒厳参謀であった。
突如とした私達の行動に鎮圧軍側は動揺し包囲網が乱れ出した。

中隊は再び隊列を整え
彼等を物ともせず中隊長の提案によって中隊歌の合唱をはじめた。

涙を流しながらの合唱は 只々 悲壮感以外の名にものでもなかった。
やがて正面に立って歌っていた中隊長は徐々に側方に移り、
次いで 隊列の後方へと歩んでいった。
中隊歌が二番に入ったとき、
安藤中隊長は、やおら拳銃を抜き、下あごにあて自決を図った。

銃声一発!
大尉はドッと倒れた。
その行為に合唱がとまり隊員は中隊長の元に集まった。
その時の様子はあまりにも衝撃的で細部を述べることを控える。
櫻井参謀が中隊長の側にきて様子を見ながら、
「 俺も安藤大尉と同じ気持である 」
と 私たちにつぶやいた。
すると隊員たちは怒りを爆発させて、
「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」
と 叫び参謀につかみかかった。
私は参謀のそばにいたので その様子が今でも目に浮かんでくる。
その時 伊集院大隊長が、
「 堂込! 止めさせろ!」
と 大声で制したので参謀は危く助かった。
安藤中隊長の身柄はすぐ陸軍衛戍病院に送られたため、隊員の興奮もおさまり
永田曹長の指揮で弾抜きをして 武装をしたまま原隊に帰った。


中隊に戻ると残留者が喜んで迎えてくれたが、
玄関で小銃と弾薬を取上げると途端に態度を一変して気合いをかけた。
「 貴様ら、とんでもないことをしてくれたな、殿下中隊に泥をぬりやがって、第六中隊の名誉は丸つぶれだ!」
その晩 参加した兵隊達は全員近歩一に隔離された。
その道すがら、全員は四日間の睡眠不足のため、
歩きながら眠り 電柱にブチ当りそうになったことがしばしばあった。

それから二日後、営庭に張られたテントの中で憲兵の取調べを受けた。
私はすべて命令によって行動したと答えたが
中には口をすべらせたため二十日間の重営倉に処せられた者もあった。
取調べが終了すると原隊に帰されたが、中隊内でもしばらく禁足の状態が続き、
残留組との間に区別をつけられた。
事件終了後は一期の検閲と渡満準備で忙しい日が続いた。
五月渡満となり任地チチハルで第十六師団歩兵三十八聯隊と交代し
警備のかたわら訓練に励んだ。
渋谷聯隊長の後任として着任した湯浅聯隊長は
満洲にきてから、やたらと猛訓練を課し 時には全員を整列させた上で説教もした。
内容はいつも同じで
二・二六事件に参加した私たちを非難した上で、
きまって 「 汚名挽回 」 を お題目のように強調するのである。
しかし 私たちは 安藤大尉の信念と目的に心服していたので
「 汚名挽回 」 には むしろ反発を感じ 癪にさわってとても死ぬ気持にはなれなかった。
更に在隊中、新任の各幹部が二言めには名誉回復を口ぐせのように振り回したのには
腹が立つ程口惜しかった。
その翌年 北支事変の勃発と共に聯隊は長城作戦に出動したが
私は身体が弱く途中から入院しそのまま除隊した。
次いで 昭和十六年夏、関特演の召集で近歩四に入隊し歩四十九に転属、
ここで一年半軍務に服して解除帰郷した。
この時の階級は兵長である。
囲碁 青年学校指導員、防衛隊要因として服務中 終戦を迎えた。

おわりに私は立派な中隊長の下で行動したことを誇りに思い、
あわせて 亡き陸軍歩兵大尉安藤輝三氏の霊に対し
心から冥福を祈り続けている。

歩兵第三聯隊第六中隊・二等兵 平井銀次郎 『四面楚歌』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から


『 農村もとうとう救えなかった 』 1

2019年07月27日 17時20分00秒 | 安藤部隊

私は当時二年兵で第四内務班に所属し 中隊長安藤輝三大尉の当番兵を勤めていた。
所属の内務班は奥山粂治軍曹であった。
昭和十一年一月 初年兵が入隊した頃、
相沢事件の予審終了にともない近々公判が開始されるとあって聯隊内の心ある青年将校たちの
態度が俄かに活気を帯びてきたのが感じられた。
公判は第一師団司令部内に特設された軍法会議場で行われるとのことだった。
当中隊では毎週金曜日ごとに精神訓話が行なわれたが、君臣一体を説く中隊長の言葉の中に
現代の世相に対する憤激の精神が徐々に現われて、
拝聴する私たちには何かが起こるのではないかといった予感が抱かれたほどであった。
こうした雰囲気の中に、夜になると三、六、七中隊の屋上では日課のように軍歌演習がはじまり
「 昭和維新の歌 」 が高唱され、非常呼集も時折発令されるほど、
何かしら鳴動の気配がヒシヒシと高まっていった。

やがて一月が過ぎ 二月に入ってからも同じような状態が続いたが、
そうした頃の二十四日と思う日、私は安藤大尉の依頼で偕行社に買物に行った。
どんな温度の変化に遭っても曇らない眼鏡があるから買ってきてくれというのである。
多分満洲に行って使用するつもりなのであろう。
その時私は中隊長から妙なことを指示された。
それは往復とも必ず鈴木侍従長邸の前を通ること、聯隊から同官邸に至る経路、所要時間、
官邸周囲の警備配置及び人員、官邸に至る間の交番の位置を調査し速やかに報告せよというものであった。
やがてその狙いが何であったか二十六日になって解けたことはいうまでもない。

さて事件の起こる前日 私は発熱のため練兵休で就寝していたが、
その夜班内の空気が妙にザワついているのが気がかりだった。
そして深夜、おそらく午前零時直前かと思う頃 誰かが私をゆり起した。
「 週番司令殿が呼んでおられます 」
私はすぐ飛起きて仕度にかかった。
今週の司令は安藤大尉である。
間もなく司令室に行ってみると部屋の中には軍装した安藤大尉の他、第七中隊長の野中大尉、
歩一の栗原中尉 それに見たこともない民間人が一人いて密談していた様子だった。
私が一歩中に入るとすぐ命令が下された。
「 前島は機関銃隊の柳下中尉、炊事班長田中軍曹、兵器委員助手新軍曹・・・・
に 連絡してすぐ週番司令室にくるように伝えよ 」
この時 指名したのは五、六名だった。
命令はすぐ伝わった。
そのうち清原少尉、鈴木少尉等が集ってきた。田中曹長がくると大尉はすぐ命令した。
「 命令、聯隊は只今より帝都に起った暴動鎮圧のために出動する、
田中曹長は二食分の携帯食(乙) 及び間食一回分を直ちに配給すべし 」
命令が次々に下り、準備が進められた。
用事が済み中隊に帰ってくると皆軍装して待機の姿勢にあった。

〇一・〇〇
非常呼集が発令されたのだという。
私も大急ぎで軍装を整え指揮班に入った。
私の不在の間にすでに編成も完了していて、六中隊は二コ小隊編成で
第一小隊長に永田曹長、
第二小隊長に堂込曹長
が任命されていた。
〇三・三〇
舎前整列、この時中隊も整列していたのが見えた。
やがて安藤大尉が厳然として命令を下した。
「中隊は只今より靖国神社参拝に向かう。
第一、第二小隊の順序、指揮班は中隊長に続行」
衛兵の部隊敬礼を受けて営門を出てから間もなく、隊列が歩一の前にさしかかった時、
走ってきた乗用車が止り中から黒服の紳士がでてきて安藤大尉に話かけた。
「愈々決行ですか、御成功を祈ります」
その紳士は至極落付いた表情でそういった。一体何者なのか私達には判らなかった。
隊列は以後粛々と進み、乃木坂、赤坂見附を通過、
五時少し前、とある邸宅の近くで小休止した。


蹶起部隊出撃経路

〇五・〇〇
軽装に身を固めた中隊は愈々襲撃に移った。
目標は目の前の邸宅でそれは鈴木侍従長官邸であった。
攻撃は正門、裏門の両方に別れ指揮班は表門組の第二小隊のあとに続いた。
まず安藤大尉が門前を警戒していた二、三人の守衛に開門を要求、
しかし彼等は応じる気配がないので直ちに取抑え、
この間携行してきた竹梯子を塀に立てかけ先兵が内に飛込み瞬く間に門扉をあけた。
外で待っていた第二小隊がドッと侵入、続いて指揮班も入った。
この時取抑えた守衛たちは守衛詰所のキリヨケに手をかけてブラさげ監視をつけた。
家屋内に浸入すると、中は真暗なので用意してきた懐中電灯をつけ、
念入りに各部屋を探索しながら奥に進んだ。
やがて私達が建物の中頃あたりまで進んだ時、突然奥の方から拳銃の発射音が響いてきた。
すると 安藤大尉はソレッ!とばかり奥に向かった。
指揮班も遅れじと続く。
一番奥と思われる部屋にくると電燈がついて
そこに十五、六名の兵隊が半円形になって包囲する中に目指す鈴木侍従長が倒れていた。
上半身から血が流れ出し畳を赤く染めている。
安藤大尉はその光景を見るや侍従長をすぐ寝室の床に移動させた。
奥の間のすぐ手前が侍従長夫妻の寝室で、夫人が床の上に正座していた。
安藤大尉は徐ろに夫人に向って蹶起の理由を手短かに説明した。
「 御賢明なる奥様故、何事もお判りのことと思いますが、
 閣下のお流しになった血が昭和維新の尊い原動力となり、
明るい日本建設への犠牲になられたとお思い頂き、  我等のこの挙をお許し下さるように 」
「 では何か思想的に鈴木と相違でもあり、この手段になったのですか、
鈴木が親しく陛下にお仕え奉っていたのをみても  その考えに間違いはなかったものと思いますが 」
すると安藤大尉は静かに制して
「 いや、それは総てが後になればお判りになります 」
沈黙が続いた。
ややあって夫人は  「 あなた様のお名前を 」
「 歩兵第三聯隊、歩兵大尉安藤輝三 」
「 よくわかりました 」
「 甚だ失礼ではありますが閣下の脈がまだあるようです、止めをさせて頂きます 」
「 ああそれだけはどうぞ・・・」
と 夫人が叫んだ。
安藤大尉はしばらく考え、
「 ではそれ以上のことは致しません 」
と いいながら軍刀を納めた。
全員は大尉の号令で鈴木侍従長に向って捧ゲ銃の敬礼を行い官邸を引上げた。
正門前で隊列を組み三宅坂方面に向って行進に移る。

 
昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

すでに夜も明けたが今日もどんよりと曇っていて、今にも雪が降りそうな天気だった。
目的を達した私たちは 「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら行進しているとフト救急病院の車が走ってきた。
勿論 鈴木侍従長官邸に行くことに相違ない。
一部の者から車を抑えるべきだとの意見が出されたがそのまま見過ごすことにした。
( 侍従長は後刻病院に収容され一命をとりとめ、後に太平洋戦争の終局時、
内閣総理大臣をつとめるに至った )

約三十分位して部隊は陸軍省に到着、ここでしばらく待機となった。
その頃 陸軍省をはじめ参謀本部、
陸相官邸はすでに歩一の兵隊によって占領され一帯は歩哨線が布かれていた。
私は伝令のため安藤大尉に随行し行動を共にしていたので、
お蔭で各方面に出動していた他隊の将校が行う報告から戦果が手にとるように判った。
第七中隊常盤少尉がきて安藤大尉に報告した内容によると警視庁を完全占領し目下警戒中の由、
坂井中尉は斉藤内府、渡辺教育総監を倒し我が方負傷二名とのこと、
高橋蔵相が近歩三の襲撃で死亡、岡田総理が歩一の手によって斃された等生々しい情報を耳にした。
報告を受けた安藤大尉は感無量といった姿で天を仰ぎながら 「 愈々昭和維新が達成するか 」 といった。

その後間もなく全員は陸相官邸前に整列し 
安藤大尉から蹶起趣意書を読みきかされ、真の出動目的を確認した。
その後三宅坂一帯は静寂そのものであった。
朝食が聯隊から届き交代で食べる、寒気がはげしく午後天幕を張って焚火する。
その日は警備態勢のまま夜を明かした。

三宅坂の安藤部隊、26日

二十七日
この日から小藤大佐 ( 歩一聯隊長 ) の 指揮下に入った。
これは昨日戒厳令が布かれ麹町地区隊長に小藤大佐が任命され、
蹶起部隊は全部その指揮下に入り、以降麹町地区警備隊となったためである。
時間がたつに従って三宅坂附近一帯は次第に物々しくなってきた。
そうした 一三・〇〇頃
中隊は警備を撤収して新国会議事堂附近に集結した。
これは小藤地区隊長からの命令であった。
しかし現場はまだ工事中で休養などできる場所ではなく雪の上に立ったままであった。
そこへ前聯隊長井出大佐 ( 現参謀本部軍事課長 ) が見えて安藤大尉と話をはじめた。
するとそれを見ていた小河軍曹がいきなり大佐を射殺するといい出し大尉に止められる一幕があった。

新国会議事堂の安藤大尉、27日
一八・〇〇頃、
陸相官邸で開催された軍事参議官会議の情報が入ってきた。
それによると 事態は蹶起部隊に有利に展開中 とのことに安藤大尉は満面に笑みをたたえて喜んだ。
一八・三〇分、
休養をとるため、尊皇討奸の旗を先頭に山王下、幸楽に入る。
沿道には市民が大勢つめかけ我々に対し万歳、勤皇軍と叫び歓声をあげていた。
中隊本部はロビーに、各分隊は部屋に入って休養かたがた警備につく。
ここで得た情報によると今晩秩父宮様が弘前を御出発、上京とのこと、中隊長以下各幹部感涙にむせぶ。
第二は本夜同じ戒厳下にある諸部隊 ( 蹶起部隊以外の部隊 ) が
我々を国賊と見做し討伐をはじめるとのデマが飛んだ。
そこで我々は皆銃剣を枕に寝た。

その夜は何事もなく過ぎ
二十八日を迎えたが
昨夜中隊長の許にきた憲兵隊長が中隊長に自決を迫ったということを聞いた。
この日から状況は一変し我々の立場は反乱軍となり、鎮圧軍から討伐を受ける羽目になった。
デマは真実となったのである。
安藤中隊長は予想外の成り行きに憤激し抗戦を決意した。
明るくなってみると玄関前の電車通りの向こう側にはいつの間にか鎮圧軍が布陣し我々の動きを監視していた。
よく見ると彼等は歩三の残留部隊であった。
〇六・〇〇、
五中隊の小林美文中尉がきて安藤大尉に告げた。
「 安藤大尉殿、間もなく総攻撃が開始されます。
もし大尉殿がここを脱出されるようでしたら自分共の正面にお出下さい。我々は喜んで道を開けますから 」
「 有り難う、御厚意に感謝する 」
二人は敵味方に別れていても同じ聯隊の将校同士である。
このような現状になったことを歎きながらもお互いの武運を祈り合っていたようである。
時間の経過と共に緊張が高まり兵士はみな悲壮な覚悟を決めた。
一〇・〇〇、
村中大尉が吉報をもってきた。
「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」
次いで地方人池田氏(神兵隊事件関係者)がきて種々援助をしてくれた。有難い。
同時刻頃蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合がかかった。
しかし安藤大尉は頑として応ぜず、今ここを離れたらどんなことになるか判らないと判断し、
坂井中尉を代理としてLG一コ分隊、小銃一コ分隊をつけ自動車で差出した。
午後一時頃
村中大尉がきて安藤大尉に
「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった 」
と 悲壮な覚悟を示した。
すると安藤大尉は一瞬ムッとした表情で
「 今になって自決とは何事か、この部下たちを見殺しにする気か、
軍幕臣どものペテンにかけられて自決するなど愚の骨頂だ。
俺は何といおうとそれらの人間とあくまで闘うぞ 」
と、村中大尉の報告を立ちどころに一蹴し決意の程を表明した。

我々が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃、
幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に
「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」
と 叫んでいた。
丁度歩一の栗原中尉がきていたので、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
「 皆さん!我等のとった行動は皆さんと同じであなた方にできなかったことをやったまでである。
 これからはあなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい。」
「 我々は今や尊皇義軍の立場にありますが、
 これに対して銃口を向けている彼等と比べて、皆さん方はいずれに味方するか、
もう一度叫ぶ、我々は皆さんにできなかったことをやった。
皆さん方は以後我々ができなかったこと、即ち全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、
どうですか、できますか?」
すると民衆は異口同音に
「 できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる 」
と 感を込めて叫んだ。

続いて安藤大尉が立ち簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。・・・ 幸楽での演説  
民衆は二人の演説に納得したのか万歳を叫びながら徐々に散っていった。
夜になって吉報が舞い込んだ。
今日陛下と伏見宮様がこん談され、陛下も尊皇軍をよく解って下さったようだというもので、
これを受けた安藤大尉はニッコリして
「 明日は逆転するぞ、みておれ、反対に悪臣たちに腹を切らせて我々が介錯するのだ 」
と、いった。
大阪から在郷軍人団がやってきた。
彼等は早速附近に集っていた民衆に熱弁を振るい協力を求めていた。
二一・〇〇、
悲報が到来した。
明朝鎮圧軍が軍旗を奉じ、やってくるとのこと、もし原隊に帰らなければ武力をもって鎮圧するという情報である。
最早や交渉の余地はなくなったようである。
そこで戦闘を有利に実施できるよう陣地変換に移った。

二二・〇〇、
幸楽を撤収、裏門から隠密裡に抜け出し山王ホテルに移動、
第一小隊は階下及び玄関、第二小隊は二、三階、
指揮班は階上を死守と決定し以後香田大尉の部隊と協同で戦闘することとなった。
ホテル内は客も従業員もそそくさと立退き兵隊だけになったが、
唯一人 伊藤葉子という女の人が残り、
最後まで勤皇軍のために死を決して食事の準備にあたってくれた。
リンク
・ 
伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1
 藤葉子 此の女性の名を葬る勿れ 2


次頁
『 農村もとうとう救えなかった 』 2 に  続く
二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第六中隊・伍長勤務上等兵 前島清 
「安藤大尉と私」から 


『 農村もとうとう救えなかった 』 2

2019年07月27日 04時15分33秒 | 安藤部隊

安藤部隊、坂井部隊の四日間

前頁 『 農村もとうとう救えなかった 』 1 の 続き
明くれば二十九日
払暁を破るかのように鎮圧軍の陣地から気ヲツケラッパが亮々として鳴り響いた。
我々も戦闘態勢に入る。
いよいよ楠軍と足利軍との戦いが始まるのだ。
そのような緊迫した所に大隊長伊集院少佐がやってきて血を流さんうちに帰隊せよと盛んに説得したが
安藤大尉は頑として拒否し
「 そのお心があったら軍幕を説いてくれ 」
と絶対に動こうとしなかった。正に大尉の気魄は鉄の如く固まっていたのである。
鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き  「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに続く。
もし中隊長に一発でも発射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵学校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵学校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は国家の現状を憂いて、ただ大君の為に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。

私は今初めて悟りました。重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。自分の認識が不足であった点を後悔しています 」

「 歩兵学校では種々有益な戦術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
少佐は教導隊の生徒を率いて鎮圧軍に加わっていたのである。
次いで歩三、第十一中隊長浅尾大尉がやってきた。
「 安藤大尉、お願いだから帰ってくれ 」
「 浅尾大尉殿、安藤は帰りませんぞ。
陛下に我々の正しいことがお判り頂くまでは帰るわけには参りません。
十一中隊は思い出の中隊でした。帰りましたら十一中隊の皆さんによろしく伝えて下さい。
木下特務曹長をよろしくお願いいたします 」
二人が話している所へ戦車が接近してきた。
上空には飛行機が飛来し共にビラを撒きはじめた。
これを見た中隊長は憤然として 「 こんなことをするようでは斬るぞ 」 と叫んだ。
正に事態は四面楚歌であった。

再びホテルに戻ってくると第一師団長、堀中将がきて説得をはじめた。
「 安藤、兵に賊軍の汚名を着せて陛下に対し申訳ないと思わんか、黙ってすぐ兵を帰隊させよ 」
すると安藤大尉はムラムラッと態度を硬化させて
「 閣下! 何が賊軍ですか、尊皇の前には将校も兵も一体です。
一丸となって陛下のために闘うのみです。我々は絶対に帰りません。また自決も致しません 」
「 師団長閣下、安藤は閣下に首を斬られるなら本望です 」
すると側に居た伊集院少佐が
「 安藤、お前はよく闘ったぞ、では閣下に代わってこの伊集院がお前の首を斬る、そして俺も死ぬのだ 」
といった。
すると安藤大尉はグッと少佐を睨みつけ
「 何をいうか、俺を殺そうとまで図った歩三の将校団の奴らに斬られてたまるか、斬れるものなら斬ってみろ 」
と 起ち上がったため附近にいた私たちが中に入ったので事なきを得た。
師団長は兵のことを考えてくれといって帰っていった。

一三・〇〇頃、
歩一香田部隊が武装解除して帰ろうとしていた。
それを見た安藤大尉が憤り香田大尉に詰め寄った。
「 帰りたいなら帰れ、止めはせん、六中隊は最後まで踏止まって闘うぞ。
陛下の大御心に我々は尊皇軍であることが解るまで頑張るのだ。
昭和聖代の陛下を後世の物笑いにしない歴史を作るために断乎闘わねばならない 」
この言葉に香田大尉は感激したらしく、意を翻して最後まで闘うことを誓い再び陣地についた。
我々はここで志気を鼓舞するために軍歌を高唱した。
その声は朗々として山王ホテルを揺るがした。
最期まで中隊長の命を奉じて闘い そして死んでゆく気概がありありと感じられた。
軍歌が終わった頃再び伊集院大隊長がきた。
「 安藤、さきほどは済まないことをした。俺はあやまる、何としても皇軍相撃を見るに忍びないのだ。
 どうか俺の言葉に従って帰ってくれ 」
板ばさみになっている大隊長の苦悩がよく判る。
何としても部下の兵隊を帰したい気持ちがありありと浮かび出ていて
大隊長は涙を流しながら安藤大尉を説得した。
しかし大尉の決心に変わりなく、
「 何度いわれても同じことです。私たちにいう言葉があったなら、軍幕臣を説いて下さい。
この上いうなら帰って下さい 」 とはっきりいい切った。

一四・〇〇頃、
尊皇軍の幹部全員が山王ホテルに集まった。
安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々は重要会議を始めた模様である。
ここに至っての会議といえば事件処理の善後策以外に考えられない。
やがて重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となった。
その頃山王ホテルの周囲は鎮圧軍がひしめき、盛んに降伏を呼びかけていた。
間もなく安藤大尉は全員を集め静かに訓示した。
「 皆よく闘ってくれた。戦いは勝ったのだ。最後まで頑張ったのは第六中隊だけだった。
 中隊長は心からお礼を申上げる。皆はこれから満州に行くがしっかりやってもらいたい 」
安藤大尉の訓示は離別を暗示していた。
そこで
「 中隊長殿も満州に行かれるんでしょう 」
と 兵が口々に叫んだ。
すると大尉は 「 ウン、いくとも・・・・」
と 悲しげに答えた。
そこへまた大隊長がきて
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
と 迫った。
中隊長はすでにさきほどの気概が消え、恰も魂の抜がらのようになっていた。
「 ハイ、一緒に死にましょう 」
そういって無造作に拳銃を取り出したので私は咄嗟に中隊長の腕に飛びついた。
同時に磯部主計が背後から抱き止めた。
「 離してくれ・・・・」
「 いや離しません 」
「 安藤大尉、早まってはならん 」
中隊長も止める者も皆泣いた。
大隊長は
「 なぜ止めるのか、離してやれ、可愛いい部下を皆殺しにできるか、
俺と安藤の二人が死んで陛下にお詫びするのだ、
昭和維新は十分に目的を達したのだ、喜んで死ぬのだ 」
と 彼もまた号泣した。
中隊長は腕を抑えている私に
「何という日本の現状だ・・・・前島、離してくれ、中隊長は何もしないよ、
するだけの力がなくなってしまった。
随分お世話になったなあ。
いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、
と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
しかしお前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった
中隊長の目からこぼれ落ちる涙が私の腕を濡らした。
側にいる磯部、村中の両大尉が静かに話しかけた。
「 安藤、死ぬなよ、俺は死なないぞ、
死のうとしても止める時は死ねないものだ。死ぬことはいつでもできるのだ 」
「 ウン、しかし俺は死ぬのがいやで最後まで頑張ったのではない、
ただ何も判らない人間共に裁かれるのが嫌だったのだ。
しかし正しい事は強いな、けれども負けることが多い、日本の維新はもう当分望まれない 」
そこへ山本又少尉がやってきて
「 安藤大尉殿、靖国神社に行って皆で死にましょう。
大隊長も靖国神社に行って死ぬことを誓ったので喜んで帰ってきました。一緒に行きましょう 」
「 ウン、行こう、兵士と一緒ならどこへでも行く 」
これを堂込曹長が止めた。
「 行っては困ります、中隊長殿、死ぬなら私たちと一緒にお願いします 」
私はここで中隊長の腕をはなした。
すでに将校たちは死を決意し死場所を求めているのである。
そこへ戒厳司令部の参謀副官がきて、早く靖国神社に行けと催促した。
同居していた歩一も勧告されたのか武装を解いて原隊に復帰し
香田大尉は陸軍省に集合したとのことである。
中隊長は出発にあたり物入れのボタンが落ちているのでつけてくれというので
私は黒糸を使って縫いつけた。
そこへ参謀副官が再びきて 「 兵隊だけは原隊に帰えせ 」 といった。
すると中隊長は憤然として
「 最後までペテンにかける気か、皆も見ておけ、軍幕臣という奴はこういう人間だ 」
と 副官をなじりあくまで兵と一緒に行くことを強調した。
かくして 
一五・〇〇、
中隊がホテル前の広場に集合した時、参謀副官は我々に向って
「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ 」 といった。
これを大隊長が一応とめたが安藤大尉はどういうわけか聞き流し、
整列した我々に対し最後の訓示を与えた。
「 俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。
お前たちが聯隊に帰るといろいろなことをいわれるだろうが、
皆の行動は正しかったのだから心配するな。
聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。
満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう 」
やがて合唱がはじまった。
昭和維新の夢破れ、
反乱軍の汚名を着せられて屈伏した今、
安藤大尉の胸中如何ばかりか察するにあまりあるものがある。
無念の思いをこめて歌う合唱がどのように響いたかかは知らないが、
我々の心は等しく号泣に満ちていた。
一、
鉄血の雄叫びの声  竜土台
勝利勝利時こそ来たれ吾らが六中隊
二、
触るるもの鉄をも砕く わが腕
奮え奮え意気高し 吾らが六中隊
以下三、四番 略
合唱が二番にうつる頃、安藤大尉は静かに右方に移動し隊列の後方に歩いていった。
私は変な予感を抱きながら見守っていると、やおら拳銃を引抜き左あご下にあてた。
「 ダーン!」
突然の銃声に驚いた一同は
ワッと叫びながら安藤大尉の元にかけより口々に  「 中隊長殿!」 と叫んだ。
倒れた大尉の頭から血が流れ出しコンクリートを赤く染めた。
負傷の状態をみると左あご下からこめかみ上部にかけての盲貫銃創で
しかも銃弾が皮膚と骨の間を直通したかのようであった。
早速衛戍病院に連絡し救急車を呼び、
私一人が付添い人となり病院からきた衛生兵二名と共に病院に護送した。
安藤大尉がすぐ病室に収容されるのを見届けると私はそのまま聯隊に帰隊した。
なお山王ホテルの方の主力は永田曹長の指揮で聯隊に帰った。

久し振りに寝台に横たわってみると
四日間の出動期間が一カ月もの長い年月に思われ、
安藤大尉の行動が如何に目まぐるしく苦悩に満ちた闘いであったか しみじみ想起された。
夕食後は全員日用品を持って近歩四に隔離され、三日目から営庭に張られた天幕の中で取調べを受けた。
私は安藤大尉の当番兵であったためか大分細かく訊かれ、
取調べ回数は十二回にも上り、やっと放免されて原隊に帰った。
事件後二週間ぐらいして新しい幹部が着任した。
その頃 出動した下士官以上の者は全員衛戍刑務所に収容されていたのである。

・・・ 「 前嶋君 君達にあひ度かつた 」 ・・・後編に続く
二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第六中隊・伍長勤務上等兵 前島清 
「安藤大尉と私」から 


「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」

2019年07月26日 17時11分31秒 | 安藤部隊

前頁
「 断乎、反徒の鎮圧を期す 」 の続き
 

自決か脱走しかない

その頃磯部は永田町一帯台上に見切りをつけて、ここにやって来ていた。
山王ホテルは、反乱軍最後の抵抗拠点である。
ホテルの応接間には期せずして同志将校が集まっていた。
磯部、村中、香田、栗原、田中、竹嶌、對馬、山本等々。
そして今後の方針にさき意見をまとめようと話合っていた。
だが、もう、こうなっては兵を返す以外に案もなかった。
ただ 安藤だけはさいごまでやると頑張っていた。
磯部はさっきから、じっと、連日の疲労に青黒い顔をしている兵隊たちをみつめていた。
彼らは、あるいは壁に寄りかかり、あるいは窓に腰かけて軍歌をうたいつづけている。
あといくばくもない命の綱をわずかに軍歌の歌声によって、かろうじて支えているのだ。
磯部の胸にはグッとつかえるものがあった。
この兵隊たちを殺してはいけない。
なんとしても安藤に戦いを断念させなくてはならんと思い至った。
「 オイ安藤 」
不意に磯部は顔をあげて呼びかけた。

「下士官兵をかえそう、貴様はこれほど立派な部下を持っているのだ。
騎虎の勢い、一戦しなければとどまることがてせきまいが、
それはいたずらに兵を殺すだけだ。
兵を殺してはいかん。兵はかえしてやろう 」

いっているうちに、磯部は泣いてしまった。
「 諸君 ! 」
安藤は昂然と顔をあげて言った。
「 僕は今回の蹶起には最後まで不賛成だった。
しかるに、ついに蹶起したのは、
どこまでもやり通すという決心ができたからだ。
だのに、このありさまはなんだ。
僕はいま、何人も信ずることはできない。
僕は僕自身の決心を貫徹するのだ 」

同志の将校は交々意見を述べた。
「 それはわかる、だが、兵を殺すことはできない 」
「 兵隊だけはかえした方がいい。
いまかえせば彼らは逆賊とならないですむ 」

だが、安藤は
「 そんなことは信用できない 」
と いいながら、傍の長椅子にゴロリと横になった。
「 少し疲れてゐるからしばらく休ませてくれ 」
そのまま眼をとじてじっと考えていた。
しばらくして、むっくりおき上がった彼は、
「 戒厳司令部に行って包囲を解いてもらおう、包囲を解いてくれねば兵はかえせぬ 」
と 言った。
磯部も 「それも一案だ」 と 賛成した。
そこで磯部は戒厳参謀の石原大佐と交渉することを思いついた。
ちょうど、そこに柴大尉がいたので、彼にこの連絡方を頼んだ。
間もなく戒厳司令部の少佐参謀が山王ホテルに車を飛ばしてきた。
「 石原参謀の返事をお伝えする。 今となっては自決するか脱出するか二つに一つしかない」
「 何ッ! 」
磯部をはじめそこに居合わせた同志たちは、このうって変った非情な仕打ちに切歯痛感した。
だが、さりとてよい案もなかった。
彼らはまた首をうなだれ深く考え込んでしまった。
そこへ、歩三の大隊長伊集院少佐が撤退勧告に決死の覚悟でのり込んできた。
この少佐は前日、
「 この事件で兵を殺してはならん、歩三の将校の不始末はわれわれ将校で片づけよう。
 われわれは最後の一人まで斬り込もう。一番最初に安藤を、それから野中を殺してしまう 」
と、将校団で提案した人だった。

「 安藤!  兵隊がかわいそうだから、兵だけはかえしてやれ 」
と 伊集院少佐は安藤に詰めよった。
安藤はこの少佐の言葉に、憤りの色を見せ、声をふるわせて、
「 わたしは兵がかわいそうだからやったんです。大隊長がそんなことをいわれると癪にさわります 」
と 反発した。
突然、安藤は怒号した。
オーイ、俺は自決する、自決させてくれ 」
彼はピストルをさぐった。
磯部は背後から抱きついて彼の両腕を羽がいじめにした。
そして言った
「 死ぬのは待て、なあ、安藤! 」
安藤はしきりに振りきろうとしたが、磯部はしっかり抑えて離さなかった。
「 死なしてくれ、オーイ磯部 !  俺は弱い男だ。
いまでないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌いだ。
裁かれることはいやだ。
幕僚どもに裁かれる前にみずからをさばくのだ。死なしてくれ磯部!  」

もがく安藤をとりまいて、号泣があちこちからおこった。
磯部は、
「 悲劇、大悲劇、兵も泣く 下士官も泣く 同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波 」
と、その情景を書きのこしているが、まさしくこの世における人間悲劇の極限というべきか。
伊集院少佐も涙にくれて、
「 オレも死ぬ、安藤のような奴を死なせねばならんのが残念だ 」
鈴木侍従長を拳銃で撃ち倒した堂込曹長が泣きながら安藤に抱きついた。
「 中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お伴いたします 」
「 おい、前島上等兵 ! 」

安藤は当番兵の前島が さっきから堂込曹長と一緒に彼にすがりついているのを知っていた。
「 前島 !  お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある、
 中隊長殿はいつ蹶起するんです。
このままでおいたら、農村は救えませんといってね、
農民は救えないな、
オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。
二人の曹長は立派な人間だ、イイかイイか 」
「 曹長!  君たちは僕に最後までついてきてくれた。ありがとう、後を頼むぞ 」

群がる兵隊たちが一斉に泣き叫んだ。
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」
「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」

磯部は 羽がいじめの腕を少しゆるめながら、
「 オイ安藤、死ぬのはやめろ ! 
人間はなあ自分で死にたいと思っても神が許さぬときは死ねないのだ。
自分が死にたくなくても時が来たら死なねばならなくなる。
こんなにたくさんの人が皆 とめているのに死ねるものか、
また、これだけ尊び慕う部下の前で貴様が死んだら、一体あとあはどうなるんだ 」

と、いく度もいく度も、自決を思いとどまらせようと、説きさとした。
すると 次第に落ちつきをとりもどした安藤は、
やっと、
「 よし、それでは死ぬことはやめよう 」
と 言った。
磯部は安藤の羽がいじめをといてやった。
こんなことがホテルの応接間で行われているうちにも、
兵隊たちは一室に集まって中隊長に殉じようとしていた。
死出の歌であろう、
この中隊をたたえる 「われらの六中隊」 を泣きながら歌っていた。
磯部はこれ以上安藤中隊にとどまっていることはできなかった。
三宅坂附近の最後の処置をつけねばならぬと考えていたので、
心を残してここを出た。


歩兵第三聯隊第六中隊

磯部らの同志将校が山王ホテルを出て行ってからも説得の人びとが出たり入ったりしていた。
そして兵隊たちに、
「 早くかえれ、天皇陛下の命令がでているんだ、
 攻撃開始までにかえれば逆賊ではないんだ、わかったか、わかったらすぐかえれ 」
と 説きつづけていた。
しかし 兵隊たちは誰一人かえろうとしなかった。
安藤はこれらの説得の人びとをじっと見つめていたが、
「 そうだ、いま、かえせば逆賊ではない、よし、兵をかえそう 」
と 決心した。
「 第六中隊集まれ ! 」
と するどく号令をかけた。
まもなく中隊は歩道上に集合した。
彼は叉銃を命じたのち外套を脱がした。
兵隊たちはあちこちで外套をまいて背嚢につけた。
再び整列を命じて、安藤はその前に立った。
「 蹶起以来、みな中隊長を中心に命令をよく守り一糸乱れないでよくやってくれた。
この寒空にひもじい思いに堪えて、永い間本当にご苦労だった。
中隊長としてお礼をいう。
われわれが行動をおこして以来、尊皇討奸の目標につき進んだ。
しかも時に利あらずわれわれは賊軍の名を受けようとしているのだ。
われわれの行なわんとした所は
国体の本義に基づいた皇道精神であることを永久に忘れないでほしい。
これで皆ともお別れだ。
皆が入営以来のことを思うと感慨無量だ。
よくこの中隊長に仕えてくれた。
この規律と団結てをもってすれば天下無敵だ。
皆は身体を大切にし満洲へ行ってしっかりご奉公してくれ。
最後のお別れに中隊歌をうたおう 」

安藤をはじめ兵隊たちは、むせび泣きながら六中隊歌を合唱した。
軍歌はくり返し二度うたわれた。
二度目の結び----われらの六中隊----を歌いおわった瞬間、
安藤は腰の拳銃をとって銃口を頭部に押し当てた。
前列にいた前島上等兵が安藤にとびついたのと、引金が引かれたのと同時だった。
銃声とともに安藤の身体は残雪の上に倒れた。
「中隊長殿!  中隊長殿! 」
下士官兵は一斉にかけ寄って中隊長をよび叫んだ。
兵はこの場の昂奮と悲憤な気が狂わんばかり。
なかに兵の一人は ツカツカと叉銃線に走り銃を手に取った。
「 中隊長を殺した奴は誰だ 」
と 怒号しながら道路を隔てて布陣する攻撃部隊に向かい撃とうとした。
かたわらにいた将校が天皇陛下万歳と叫んだ。
この兵もつり込まれて天皇陛下万歳を唱えた。
そしてこの兵の射撃は阻止された。
そこへ師団の桜井参謀がやって来た。
銃を手にした件の兵は またしても
「 中隊長を殺した奴は誰だ 」
と 叫びながらこの参謀にたち向かった。
桜井はいきなり上衣を脱いで天皇陛下万歳を唱えた。
兵もまたこれに和して、事は防がれた。

一方、この間かけつけた救急要因によって安藤には応急手当が施され、
救急車で陸軍病院に運ばれた。
だが、兵の四、五名は人びとの制止をきかず、
中隊長と一緒に死ぬんだとわめきながら、そのあとを追いかけた。
安藤は病院で手当を受けたが傷は案外浅く致命傷とはならなかった。

こうして反乱部隊は安藤中隊を最後に全部の帰順をおえた。
戒厳司令部は午後三時に至って、
「 反乱部隊は午後二時頃をもってその全部の帰順を終わり、ここに全く鎮定をみるに至れり 」
と 発表した。
かくて、四日間、
帝都いな全国を震撼させた空前の大事件も、
ついに一発の銃声を聞くことなく、ここに落着を告げた

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大谷敬二郎  二・二六事件  から 


「 世間が何といおうが、皆の行動は正しかったのだ 」

2019年07月25日 18時46分07秒 | 安藤部隊

私は昭和十一年一月十日入隊したばかりの新兵で、
訓練と内務のため追廻わされるような毎日を過ごしていた。
だが日課の中には 午後 精神訓話が組まれてゐて中隊長安藤大尉からの話を謹聴する
落着いた時間もあった。
中隊長の訓話は日本の現状をテーマにしたものが多く、
東北地方の農村における深刻な実情について、娘の身売りや生活の赤貧ぶりなどを
克明に説明されたのを今でも記憶している。
そして必ず左のような絵を黒板に書いたものである。
« いくら太陽 ( 天皇 ) が照っても
黒雲 ( 側近・軍財閥 ) が遮っている限り 地上の作物は生長しない、

つまり国民が栄えてゆくためには黒雲を取り除かねばならない。
今の日本の現状はこの絵のとおりである。
東北の農民は勿論、全国民が安らかな生活をするにはどうしても
天皇のとりまき連中を排除して
国民の声を上聞に達するようにしなければならない。

いずれ日本は米英から戦争を仕向けられる運命にあるので
国内の改革を急ぎ断行する必要がある »

安藤大尉は常にこの持論をもって強調した。
今思えば正に先見の明があったといえる。
このように天下国家を論ずる中隊長であった半面
部下に対しては細心をもって温か 我々の面倒をみるなど
実に人間味あふれた心の暖い上官であった。

さて、二月二十五日 その日は何事もなく暮れ日夕点呼後すぐ就寝したが、
何かザワメキが立ちこめていた。
下士官室は遅くまで電気がつきゴソゴソしていたし、夜勤者はいそがしく部屋を出入りしたりして、
いつもと違った雰囲気で落着きがなかった。
その夜 ○一・〇〇頃 突然非常呼集がかかった。
夜勤者が押しころしたような声で 「 非常呼集 」 を 連呼し 一人一人をおこして仕度くを支持した。
私は入営以来初めての体験だったが、いわれるままに仕度を整えて舎前に整列した。
雪は止んでいたが根雪が三十糎ぐらい積ったままで凍っていた。
全員の集合が終わるとその場で小銃弾一二〇発と乾麺麭、罐詰等の食糧が交付された。
話の様子では一週間の予定で富士裾野に行き 実弾射撃をやるらしいとか、
何も知らない私はそのつもりで鵜呑みしてしまった。
軍装を充分に整え愈々 ○三・○○過ぎ 出発した。
この時の編成で私は指揮班 (約五~六名) となり、中隊の先頭を行進した。
ところが富士に行くものと思っていた行進がどうも方向が逆で、
宮城の外濠が見えるに至って愈々おかしいと思った。
それに隊列の中に梯子を携行している者が見えるので、何か別の目的があるのだと覚った。

○五・○○前 行進が止った。
目の前に大きな邸宅が見える。
ここで隊列が散開して分隊単位でそれぞれの持場についた。
まぎれもなくこの邸宅を攻撃するのだ。
そしてそこが鈴木侍従長官邸であることがすぐ判った。
やがて指揮班は安藤大尉に従って正門から 永田曹長等は別口から襲撃を決行した。
正門は鉄格子作りで簡単にあかないので 早速 梯子をかけて数名が中に入り内側から開聞、
続く正面玄関も堅固でビクともせず止むなく小銃の床尾鈑で叩き壊わす。
すると物音に驚いたのか若い書生風の男が二人現れた。
だが忽ち兵隊につかまり 庭に引出され雪の上に正座をさせられた。
屋内は暗かった。
大邸宅で広い廊下が奥深く続いている。
雪明りで床面がやっと見えるがキレイに磨かれていてピカピカである。
処々に西洋人形が飾ってあったのは印象的だ。
奥に行くほど暗くなる。
郡靴の音をきしませながら用心深く銃剣で天窓や襖などを突き刺しては反応を窺いつつ奥へと進む。
やっと中頃あたりまで達したと思う頃、突如裏手の方から拳銃音が響いてきた。
はっきり聞えたのは一発だが二、三発は鳴ったようだ。
ソレッとばかり安藤大尉が飛んで行く。
指揮班もあとに続く。
一番奥の方にある部屋に電気がついていて廊下には兵隊が大勢つめかけていた。
中に入ってみるとそこは二間続きの八畳間で閣下と夫人の寝室であった。
茄子紺色の布団が二つならべて敷かれ、
二〇名ぐらいの兵隊がとり巻く中に閣下がウツブセになって床の上に倒れていた。
布団から上半身をはみ出した格好で両手には拳銃が握られていた。
創は胸のあたりらしく流れ出る血が上半身を真赤に染めている。
動く気配は全くない。
夫人は自分の布団の上に正座したままである。
ここで安藤大尉は夫人に対し 徐に昭和維新の断行を告げたあと、
軍刀で止メをしかけると、夫人は初めて口を開いた。
「 お待ち下さい。あなた方は何故このような乱暴をなさるのですか。
主人とて話せば判る人間です。止めは私がいたします!」
夫人は鋭い語気を含んで言放った。
何と立派な軍人の妻女であろうか。
安藤大尉は夫人の意見を尊重して軍刀を収めると全員に捧げ銃を命じ静かに引上げた。
結局襲撃に要した銃弾は三発だけであった。

中隊は正門前で隊伍を整え新国会議事堂の裏に集結した。
ここで我々は初めて各隊の行動と成果を聞き 昭和維新の全貌を知ったのである。
その後中隊は三宅坂三叉路附近に至り雪を盛りあげて警備についた。
その日は終日 雪がチラつき寒い一日だったが、中隊はここで徹夜することとなり、
本部用の天幕が一張り建てられた。
我々は歩哨に立ち警戒にあたっていたせいか別に苦痛は感じなかった。
幸い夕食が聯隊から届けられたので大いに助かった思いである。

二十七日になると
西隣りにある航空本部に出動してくる高官達が多勢やってきたが、
歩哨が阻止して全部追返した。
私は朝方安藤大尉に従って陸軍省に出かけた。
そこには蹶起部隊の将校が数名いて大尉は彼等と何やら打合せをした。
推察するに上司に対し蹶起部隊の正当性を認めさせる相談ごとのようであった。
緊張した日が瞬く間に暮れ、その夜は幸楽で仮眠した。
本部はロビーに位置し 各分隊は部屋に入った。
全員土足のままなので畳を裏返し 毛布を拡げて腰をおろした。
玄関には歩哨が立ち 無用の者は一切出入を禁止する措置がとられた。
夜になって北、西田の両名らしい者がきて安藤大尉と連絡をとっている姿が見えた。

二十八日、
外部が大部騒然としてきた。
我々はいつの間にか叛乱軍となり、
これを鎮圧するため各地から部隊が上京し 我が方を包囲した模様である。
何の情報も聞いていない私には
事態がどう動いているのか皆目見当がつかないが緊迫していることだけは窺えた。
その夜 山王ホテルに移動した。
この時はできるだけ音をたてないようにと口に手拭を咥え抜き足差し足で幸楽の裏木戸を抜けた。
ホテルに入ると早速窓際に銃座を作り鎮圧軍と一戦交える準備に入った。
相手が撃てば撃返すという腹でジッと様子を窺っていた。
私はもうここで死ぬものと覚悟を決め郷里へ遺書を書き、できるだけ心を落ち着けた。
陛下の為に死ぬのなら どこで死んでも同じだと 死ぬことが崇高なものに思われたのである。
しかし鎮圧軍からは一発も撃ってこなかった。
長い緊張が続く。
その間をぬって高官連中が足しげくやってきては安藤大尉に投降を説得した。
だが安藤大尉は頑として受けつけず むしろ
「 ここにくる気持があるなら幕臣を説き我々の蹶起した趣旨を受入れるよう努力してもらいたい 」
と つっぱねていた。
安藤大尉はその頃すでに死を覚悟で好転にすべてをかけていたようである。

二十九日になると朝からホテルの周囲でスピーカーが鳴り出した。
戦車がきて投降の呼びかけをはじめたのである。
上空には飛行機が旋回し さかんにビラを撒き散らした。
愈々肚を決める時期がきたようだ。
ここにおいて流石の安藤大尉も戒厳司令官の呼びかけには抗し難く 遂に聯隊復帰の命令を下した。
玄関前に整列した全員の前で安藤大尉は切々とした口調で訓示をした。
「 みんなよく闘ってくれた。
 世間が何といおうが みんなの行動は正しかったのだ、
満洲にいったらしっかりやってくれ 」
やがて中隊歌の合唱となった。
鉄血の雄叫びの声竜土台
掌理勝利  時こそ来たれ我が六中隊
(以下略)
その光景はまことに悲愴であった。
これで中隊長と お別れかと思うと日頃世話になった温情がこみあげて、やたらと涙が流れ出る。
東北の窮状も全国民の幸福への願いも消え 国政改革の途が断たれたのかと思うと
落胆と悲愁が交互に胸を突刺す思いだ。
恐らく黒雲は更に層を厚くして拡がり 日本全土への投光を遮ることであろう。
中隊歌が悲想のうちに過ぎてゆく頃
突然安藤大尉はピストルを出して自殺をはかった。
全員がかけ寄って 口々に叫ぶ中中隊長は従容として横たわっていたが、
やがて前島上等兵が付添って衛戍病院に運ばれた。
傷は左のアゴ下から左コメカミに至る盲貫銃創である。
隊長のいなくなった中隊は永田曹長が指揮官となり、間もなく出発、
一七・○○ 聯隊に帰った。


歩兵第三聯隊第六中隊・二等兵 酒井光司  『侍従長の寝室』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から


安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」

2019年07月24日 21時08分02秒 | 安藤部隊


帰順する蹶起部隊

二月二十九日
私は午前六時半頃と思ふ頃起きて見ると、
安藤、香田両大尉も起きて居たが非常に緊張した顔をして居りました。
私は愈々最後の一戦を交えるのではないかと思ひ
安藤大尉の処へ行き
今一度申し上げたい事があるが聞いて戴けますか
と 云ひますと 安藤大尉は暫く無言で居たが、
「 今となっては、何を聞いても仕方がない、何事も言うな 」
と 云って居りました。
私は止むなく引き下りました。
安藤大尉は
「 兵は各部屋へ、自分達は此処でやる 」
と 云ったら ホテルの者は
「 此処で大丈夫ですか。
女達が恐がって居りますから、弾丸は飛んで来ないでせうか 」
と 云ったら、
大尉は笑ひながら
「 心配はない 」
と 云ひ、又外へ出ました。

私は其内に顔を洗って各部屋を廻ったりして、
再び元の部屋に帰って見ると、安藤、香田両大尉は居らず、
テーブルの上に、一枚の原稿用紙が裏返しにして居たのを見ると
命令書と思はるるものであり、
良く記憶しませんが、各部隊は首相官邸と新議事堂へ引き上ぐべし、
猶一ヶ月は持ちこたへる事が出来る。
〇〇部隊は急速に食糧の蒐集給与に当るべしと云ふ意味の事が書いてありました。
私は此れを見て愈々最後の一戦の覚悟と感じ、
外部へ知らせ様とし、ホテルの電話を探しました処が電話は線が切れて居り、
或は器物なんか一括入れられてあり、這入れる事が出来ませんでした。
私はホテルを抜け出し自動電話をかけ様と思ひましたが、包囲軍の兵士が一ぱいで近寄る事が出来ません。
止むなく連絡を断念し帰りましたが、
附近の人家は全部避難したらしく、人影も見えず、静かでした。
ホテルの前を再び厳重な誰何を受け元の部屋に帰りましたが、安藤大尉の姿は見えませんでした。
ホテルに這入って右側の室には近所から徴発したのか
白米袋、醤油、味噌、木炭、漬物が沢山あり、兵士の話では、酒もある様でした。

私は午前十時頃と思はれる頃、
三階から外を見ると、
電車通りも行動隊の兵士が ( 白襷を掛けて ) 整列して居って、
階下に下りて来て先程の部屋を見ると
安藤、香田の両大尉及下士官、七、八名も居り
緊張して居り安藤か香田に何か大声で話をして居りました。
安藤大尉は
「 自決するなら、今少し早くなすべきであった。
全部包囲されてから、オメ オメと自決する事は昔の武士として恥ずべき事だ。」
「 自分は是だから最初蹶起に反対したのだ。
然し君達が飽迄、昭和維新の聖戦とすると云ふたから、立ったのである。」
「 今になって自分丈ケ自決すれば、それで国民が救はれると思ふか。
吾々が死したら兵士は如何にするか。」
「 叛徒の名を蒙って自決すると云ふ事は絶対反対だ。自分は最後迄殺されても自決しない。」
「 今一度思ひ直して呉れ 」

と テーブルを叩いて、香田大尉を難詰して居りました。
居合せた、下士卒は只黙って両大尉を見詰めて居るばかりでした。
香田大尉は安藤の話をうなだれて聞いて居たが暫らくすると、頭を上げ
「 俺が悪かった、叛徒の名を受けた儘自決したり、兵士を帰す事は誤りであった。
最後迄一緒にやらう、良く自分の不明を覚まさせて呉れた 」

と 云って手を握り合ひました。
安藤大尉は、
「 僭越な事を云って済まなかった。許して呉れ 」
と 詫び

「 叛徒の名を蒙った儘、兵を帰しては助からないから、遂に大声で云ったのだ。
然し判って呉れてよかった。最後迄、一緒にやって呉 」

と 云ってから
「 至急兵士を呼帰してくれ 」
と 云ったので、
香田大尉は其処に居た下士に命じ、呼戻させ、又戦備をつかしめたり。

其内に 「 タンク 」 の音がしたので安藤大尉始め皆電車通りに出て行きました。
私は 「 ホテル 」 の中で見て居ると
安藤大尉始め下士卒約三十名は一斉に電車線路に横臥してしまひました。
私も出て見ると、赤坂見附方面から 「 タンク 」 が続いて進んで来ました。
私は 「 タンク 」 の全面約二十間計の処で見たのですが、
前面に
「 今からでも遅くない。下士、兵卒は早く原隊へ帰れ云々 」
と 書いた帰順勧告の貼紙が付いてありました。
安藤大尉は兵士に向ひ、
「 タンクに手向ひするな、皆此処でタンクに轢殺されろ 」
と 横臥の儘命令して居りましたが
タンクは其為か赤坂方面へ順次に引き返して行きましたが、
其時タンクから、謄写版刷の帰順勧告のビラを沢山撒布しました。
安藤大尉はそれを拾って見て非常に憤慨して居りました。

タンクが帰って暫らくすると
山王ホテルの前の路地から、十数名の兵士を率ゐた将官 佐官の様な人が来ました。
電車通り迄来た時に、
安藤大尉はそれを見ると既に抜力して居た軍刀を閣下の前に出し、
「 閣下、私を殺して下さい 」
と 云って道路に坐してしまひました。

閣下らしい人は、
「 さう昂奮しないで立って刀を納め自分の云ふ事を聞いて呉れ 」
と 数回云ひました。
が 安藤は、立ち上がったが刀を納めず、
「 今タンクから斯う云ふビラを撒いたが、
此中に、下士、兵卒とあるが、将校と兵卒の間に如何なる相違があるか 」
「 将兵一体の教育をして居るのが、日本軍隊の筈である。」
「 其様なビラを以てして我皇軍が動揺すると思って居られるか。
あなたは左様な精神で皇軍を教育して来られたのか。」
「 今や満州の地に於いて隣邦と戦端を開かれ様として居るが、
若し開戦された場合斯様な宣伝に依て動揺する様な事があったら如何なされるや。」
「 あなたは、三聯隊の兵士を左様な兵士だと思って居りますか、
左様な人の云ふ事は私は信ずることが出来ませんから、何事も聞く訳には行きません 」
と 云ふと 閣下らしい人は、
「 左様な事ばかり云って居たのでは話にならない 」
と 云って居りました。
安藤大尉は
絶対に聞く事は出来ません、
話があるなら、斯様な事態になる前になぜ早く話してくれなかったか、
全部包囲し、威嚇されて屈伏する訳には行きません。
話があるなら、包囲を解かれてから来られたい。
私達は間違って居りました、聖明を蔽ふ重臣閣僚を仆す事に依て
昭和維新が断行される事と思って居りました処、
吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。
吾々は何等の野心なく、只陛下の御為に蹶起して導いた処、
戒厳令は昭和維新の戒厳令とはならず、
却て自分達を攻める為のものとなって居るではありませんか。

「 昨夜から自決せよと云って来て居られるが、安藤は自決しません、
自決せよと云ふなら殺して呉れ 」
と 云って軍刀を前に出しました。
すると 佐官の人が安藤大尉の傍に来ました。
安藤大尉は、
「 あなたは何故斯うなる迄放って置かれたか、斯様な事態になったのもあなたにも責任がある。
安藤は絶対に自決しません。だから殺して下さい 」
と 云ふて軍刀を突き出しながら、路上に坐りました。
佐官の人は
「 左様か。成程自分も悪かった。お前が左様云ふなら、お前を切って、自分も死ぬ 」
と 云ひながら、
此処で両人の間に切り合ひが始まり層になりました。
双方の兵士も各四十名計り互に銃を向け合ひ正に危機一髪と云うふ状態になりました時、
私は先に行動隊の或る兵士から預って持って居た、
「 天下無敵尊皇討奸 」 と書いた、日の丸の小旗を持って、
安藤大尉の傍に居りましたが、此状況を見るや三尺計りの間に飛び込み、手を広げて、
「 射ってはいけない、切るなら自分を切ってからやって呉れ 」
と止めました。
此為か、双方の気合いが挫けた様でありましたが、
瞬間双方の兵士も銃を引き、双方の将校を引き離しました。
斯様な情景があった後、包囲軍の将校は引き上げて行きました。
包囲軍の警戒線では御苦労様と云ふて通して呉れましたが、
三ケ所計り通り過ぎた処で、其将校達に追ひ付きました。
私は其処で、
「 何卒あの人たちを殺さないで下さい 」
と 云ひましたら、将校達は
「 安藤は絶対に自決する事の出来ない男だ 」
と 云ふて相手にして呉れません。
私は
「 イヤ、自決します。それは安藤に勝たせれば自決します。」
「 安藤に勝たせると云ふ事は武器で勝たせると云ふのではなく、
安藤等の今回の蹶起が尊皇義軍であると云ふ事を認めると云ふ事であります。
それが認められれば安藤は自決します 」
と 云ひましたら、
「 イヤ自決出来ない男だ 」
と 云ふので、私は
「 それがせ認められれば、誓って自決させて見せます。
何卒彼等の忠義に依た楠勢を見殺しにしないで下さい 」
と 申しましたが将校達は之に答へません、
私は止むなく、
「 此事をお願ひします 」 と 云ふて帰って来ましたら、
安藤大尉は未だ電車通りに居りましたので
私は、「 少し休みませう 」 と 云って
安藤と共に山王ホテルに入り、三階の表の見える部屋へ這入りました。
安藤大尉は従って来た兵士と食事をして室外に出た後
私に向ひ、
「 町田さん、今の行為は芝居して見て居りましたが、間違って居るでしょう 」
と 云ひました。
私は、「 あーする様に他は無かったでせう 」 と云ひました。
更に私は、今包囲軍の将校に面会して来た事を話しましたら、
安藤大尉は、
「 イヤ、絶対に自決しません 」
と 云ひ 金鵄勲章を貰ってオ酒でも飲みませうと笑って話しました。
私は安藤大尉に対し
「 尊皇の蹶起であることが認められれば自決すべきでせう 」
と 云ひましたが、安藤は之に対し何も答へませんでした。

・・・・中略
私が議事堂から ( 首相官邸へ ) 帰って来た時には
包囲軍の大隊長が行動隊の兵士に向って、
「 只今勅命が降った、
陛下はお前達を皇軍と仰せられた、此から俺の指揮に従って聯隊へ帰るのだ 」
と 説得して居りました。
其処へ栗原中尉が機関銃を担はせて帰って来ましたが、下士兵を集める事を命じました。
私は如何するのですかと聞きましたら 聯隊へ帰すのだ、と云って居りました。
私は首相官邸の玄関まで行ったのですが、中へは這入りませんから、中の様子は知りません。
私は官邸の裏口から帰りましたが、此頃飛行機が飛んで盛んにビラを撒いて居りました。

時刻は丁度午後一時頃であったと思ひます。
私は食事を首相官邸へ届けて山王ホテルへ戻って来ましたら、ホテルの前には兵士が整列して居りました。
香田大尉に出合ひながら山王ホテルに入ると、
応接間の隣りの部屋に安藤大尉を囲むで大勢の下士卒が泣いて居りました。
安藤大尉に取りすがり、死なないで下さい。と云って居りました。
私は安藤大尉に首相官邸へ行き、
栗原中尉に会ひ食事を届けた事及栗原中尉の動静を告げました処、
安藤大尉は、私の手を握って、
「 僅か計りの知り合ひなのに色々と御苦労様でありました。厚く御礼を云ひます 」
と 云ひ、
「 然し最早これで万事お終ひです。跡の事を宜しくお願ひします 」
と 云って居りました。
私は
「 それでは御別れします。なんとかして包囲の外へ出ます 」
と 申しましたら、安藤大尉は
「 それでは吾々の蹶起の趣旨、及吾々の行動を誤りなく世間の人に伝へて貰ひ度い 」
と 云ふて居りました。
私は山王ホテルを出ましたが、
包囲軍が厳重で中々外へ出られませんので、
安藤が帰順したいと云ふ事を一応電話丈でも掛け様と思ひましたが、
附近の電話は皆不通になって居りましたので、それも出来ず、再び山王ホテルに戻りました。
すると、安藤大尉は部隊の兵士をホテルの前に整列せしめ、兵士に向ひ、
「 二十六日頃より之れ迄団結してやって呉れた、此の団結を持って行っては、天下無敵である。
お前達は此際如何なる事があっても早まった事をしてはならぬ。」
「 お前達の命は満州へ行く迄此安藤が預って置く。陛下のお為めよく働いてくれ。」
「 中隊は之より靖国神社を参拝して原隊へ帰るのだ 」
と 云ふ様な訓示をし
最後に中隊の軍歌を唱ふと云ひ 全員興奮の中に暫らく唱ひ続けて居りました。
安藤大尉は其内に、
二間計り兵士の前を後退し曲れ右をしながら、
取出した拳銃で自分の喉を打て仰向に倒れました


町田専蔵の憲兵隊聴取書
昭和史発掘11 松本清張 二・二六事件 五 から
 


小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」

2019年07月23日 18時55分21秒 | 安藤部隊

     
26日                                 27日                               28日                          29日                          

二十八日午前六時頃、
福吉町附近に新井中尉が、第十中隊を指揮して配備に就いて居りますので、
隣接中隊の関係上、大隊長にお願いして 新井中尉の許に連絡に出かけましたが、
途中から新井中尉の所へ行くのは止めて、幸楽に居る安藤大尉の所に行く気になりました。
大隊長は大隊本部の位置におらずに、
説得のみ歩いて居るので、私もじっとして居られず、
此の以前に一度大隊長に行動隊へ説得お願ひしましたが、
御許しがないので、其の儘になつて居りましたが、
新井中隊へ連絡に行く心算で出で、福吉町の所へ行く途中、
何とはなしに幸楽の方へ足が向いて行きました。
私は安藤大尉に対する説得は駄目だと聞いて居りましたから、
説得はせずに、次の話を交はしました。
安藤
「 よくきて呉れた。」
小林
「 私は貴兄を説得は致しません。
唯、聯隊の将校は皆全知全能を絞って文字通り真剣になつて居ります。
貴兄の所謂 昭和維新と言ふのも出来た様に思ひます。
私としては、是非聯隊の方に帰って来て戴き度いと思ひます。」
安藤
「 さうか。
然し、近衛の方は猛烈に攻勢の意図があるし、
幕僚等のやることがどうもお可笑しい。
我々は小藤大佐の指揮下に在り乍ら、野中大尉が真崎大将と直接交渉して、
小藤大佐が中に這入って居らぬ等、
どうも幕僚のする行為は分らぬ事が多いから、頑強に抵抗しようと思ふ。」
小林
「 頑強に抵抗するなら、此の配備を突破したら良いでせう。」
安藤
「 突破して聯隊に行こうかと思ふ。」
小林
「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません。」
安藤
「 秩父宮殿下が御出になつて居られるを見たが、
誰か聯隊の者が行って呉れゝば、直ぐ解決するのだがなあ。
此の事件を起こすときには、
予め殿下に連絡すれば、直ぐ御出になると言はれて居ったがなあ。
誰か行って呉れないかしら。」
「 主謀者は自決し、兵は返すと言ふことなら、話が分かるが、
麦屋少尉外 新任少尉三名は自決を許して貰い度い。」
と 言ひました。
次いで、安藤大尉が、高橋少尉に遭って来いと言ひますので、
高橋少尉の寝て居る所に行きまして、
「 どうした 」 とか 何とか掛声をしまして、
一寸安藤さんとの会話の事柄を話した様な気持もしますが、
兎に角 二、三分 煙草を吸ひながら、無言の行で顔を見合せつ、
同じく其処へ寝て居る 坂井中尉、麦屋少尉とも顔を見合せた儘、直ぐ別れました。
其後、安藤さんも探しましたが、見当らないので、
安藤さんに逢はねば済まない様な気がしましたので、
洗面中の高橋少尉に 安藤さんに宜しく伝へて呉れ、
と申しまして、幸楽を出て行きました。

« 二月二十九日 »
午前一時頃大隊長である伊集院少佐が説得に来た儘要領を得ませんで、
大隊長の様子を見に行く為に山王ホテルに出かけました。
山王ホテルの玄関の所へ行って見ると、
伊集院少佐と安藤大尉、山本又予備少尉と三人で激論して居りました。
其処には内堀大尉、河野薫中尉も居りました。
その時 警備司令部の少佐参謀が来まして、
安藤大尉に、「 兵の前で自決しろ 」 と云ひました所、安藤大尉は憤慨しました。
其処で、伊集院少佐が 「 大隊長が命令するから、兵の前で自決しろ 」 と云ひましたので、
安藤大尉は自決することになりました。・・・リンク→「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 
其の時、村中、磯部が居るのも見ました。
又、栗原中尉、丹生中尉、香田大尉の居るのも見ました。

憲兵調書  二・二六事件秘録 (一) から


町田専蔵 ・ 皇軍相撃を身を以て防止すること決意す

2019年07月22日 20時52分08秒 | 安藤部隊

 
町田専蔵
私は
二十八日朝
警視庁前で清原少尉から安藤大尉が幸楽に居ることを聞きました
ので、
同人に会へば 色々情報が判ると思った事と、
今事件に私達と反対的思想を有して居る 北、西田が参加しているのではないかと 謂ふ疑がありましたので、
中に入って行くことを決意した訳で、入る手段としては
二十八日午後六時頃
幸楽の正門に到りまして、兵に名刺を通じ 安藤中隊長の知人であると申しますと、
直ぐ 取次いで呉れました。
幸楽正門・将校は坂井中尉か ?
« 安藤大尉とは »
五・一五事件直後、安藤大尉が裏切ったと謂ふ風評がありましたので、
私は入営兵の見送りを兼ね同人に其事実を確めに行きましたことが最初で、以後 一回位 会って居ります。
二十八日午後六時頃、
兵の案内にて応接間に通され、安藤大尉と調書にある様な事実を話し、
其の純一無雑な精神に共鳴して、自分も其処に踏止まらうと決意し、
安藤大尉に此処に居て働かせて貰ひ度いと申出ますと、
喜んで承知して呉れましたので、
私は曩さきに聞いた情報を生産党に齎もたらすべく 前田虎雄に電話をかけ情報を話した後、
自分が踏み止まって皇軍相撃つの事態を 身を以て防止することを誓ひました。
同日 ( 2 8 日 ) 夜、包囲軍の少佐 ( 伊集院大隊長 ) の方が訪ねて来て、
幸楽の門前で安藤大尉と面会、盛に何か交渉して居りましたが、
遂に決裂し、少佐は君を殺して己も死ぬと 互に抜刀し、双方の兵は銃剣を突合せ、
将に一触即発の危険な場面でありましたので、私は身を挺して両者の間に入り、之を引き止めました。
其日は此様な事があったのみで何もなく、私は午前零時頃 横にうたた寝をして、
午前四時頃 目が醒めますと、誰も居りませんので、方々捜しますと、一名兵が居りましたから、尋ねますと、
午前三時頃 「 山王ホテル 」 に引揚げたとのことで、
早速同所に行きますと、香田大尉、安藤大尉、栗原中尉等が居りました。
丹生隊
それで、兵を引揚げさせることに就て別室で激論しました結果、
香田大尉が自己の不明を詫び、互に手を握り合って泣いて居りました。

午前十時頃 首相官邸に行きました処、
兵は二食も食べて居ないと謂ふ事を聞き、
安藤大尉に話しますと、何とか成らんだろうかと謂はれましたので、
私は之を引受け、赤坂の瓦斯会社の処に本部を有して居りました包囲軍の本部に行き、
大尉の人に話すと、此事を少将の方に取次いで呉れ、
其の少将の方は、兵が飯を食はんで居ると謂ふことは可哀相だ、而し、こちらからやる訳には行かんが、
お前が持って行くのなら宜しい と謂はれましたので、
私は帰って安藤大尉に話し、兵三名計りと 共に幸楽より ( 首相官邸に )食事の運搬を為し、
安藤大尉が 「 山王ホテル 」 に 引返したので、私も 「 山王ホテル 」 に 行き、
安藤大尉より もう最後だから お前は早く脱出して呉れと言はれましたので、
而し 私は帰る心持ちになれず、
暫く其処に居りました処、
安藤大尉は兵を集めて訓話を為し、自殺を企てましたので、
私は下士官の人達と共に病院に送るべく出発、
赤坂溜池附近で警視庁職員に同行を求められ、今日に至って居ります。
・・と 当時の状況を悲壮なる面持にて落涙で陳述す
公判・審理
町田専蔵の 陳述

・・二・二六事件秘録 (三) から


伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1

2019年07月21日 15時54分31秒 | 安藤部隊


安藤大尉 « 血染めの白襷 »
山王ホテル接収

事件が起ったその日 ( 二月二十六日 ) の夕方、
一番最初に丹生さん ( 丹生誠忠中尉 ) が、山王ホテルにお見えになりました。
それはちょうど六時半頃で、
ホテルにお泊まりの皆さんが夜のお食事をなさっている最中でした。
その時、私たちは早朝に、何かおそろしい、重要な事件があったということを、
うすうす知っておりました。
武装した丹生さんたちは六人で入っていらっしゃいまして、
ホテルの玄関でマネージャー、支配人とお話をしていました。
「 二、三日の間、二階は使わないから階下だけ、兵隊が泊るのに貸して頂きたい 」
そう交渉していました。
支配人が、
「 私の方は株式会社になっているし、一応、社長に話さなければ判らない 」
と 答えますと、
「 君たち二人いて、そんなことが判断出来ないのか 」
と、たいへん お怒りになったのが記憶に残っています。
それにしても、ちょうどホテルではお客さんが満員だったので、
その方たちにどこかに移って頂かなければなりませんので、
他のホテル、旅館等をこせ紹介し、お家のある方は お家に帰って頂きました。
そして、その夜の十時半頃までには病気で動けない方ひとりを残して、
お客さまをすっかり お帰ししました。
その方も次の日の夕方までには、お帰りになりました。
丹生さんたちがいらっしゃって一時間くらいでホテルを貸す交渉が決まり、
さらに一時間ほどして百八十人ほどの兵隊さんがきました。
「 自分の部下だから 」
と、丹生さんは言って、玄関から入って来られました。
そして玄関のところの宴会場に敷いてあつた じゅうたんをはがして、
毛布を敷いてお寝みになりました。
それから夜になりましたが、そのままそこで夜をあかされました。
次の日 ( 二十七日 ) の朝 八時頃、
トラックでどこからか御飯を持って来ました。
麦飯に、お大根と人参と肉と煮たのが四度運ばれました。
何でも三聯隊から来たとか言って、それを皆さん飯盒にわけて召上ったのです。
次の日 ( 二十八日 ) の朝、昼と 同じように御飯が届きましたが、
どうしたことか、その夜と次の二十九日には来なくなってしまいました。
それで、顔みしりになった兵隊さんにお聞きしますと、
原隊から帰るようにと言って来たが、こちらでは帰らないと頑張っているので、
そりなら食糧を送らないといっているんだ、とのことで、食糧が来なくなったそうです。
事件の起った翌日の夜も、また宴会場で、毛布を敷いたままお寝みになり、
丹生さんと他二人だけがお部屋でお寝みになりました。
私たちが泊っていたホテルの寄宿舎は、
ちょうど距離にしてホテルとは四十メートルくらいしか離れていませんでしたが、
二十九日の朝二時頃、
二百人くらいの兵隊が、白襷に白鉢巻で、ラッパを吹いてホテルに入って来ました。
どうしたのかしら、と思って寝間着のままエプロンをかけ、ホテルへ行ってみました。
その頃には従業員はほとんど家に帰ってしまって誰もおらず、ただ電気部の方だけが、
保安のため残っていました。
ホテルの方には、支配人の方がいらっしゃいましたから のぞいて見ましたら、
将校の方が玄関でご挨拶なさって、それからゆっくり入っていらっしゃいました。
それが安藤さん ( 安藤輝三大尉 ) でした。
お連れになった兵隊は、普通の食堂のところに、軍装のままで背嚢だけを外して御寝みになりました。
赤坂の 『 幸楽 』 の方にもいらっしゃるということを聞きましたから、
「 まだ幸楽にもいらっしゃるのですか 」
と、安藤さんに聞くと、
「 幸楽に二百人残っていますが、あとはこれだけで、残りは全部原隊に引揚げました 」
と おっしゃいました。
そして 私を見て、
「 幸楽では女中さんたちもみんな小学校に避難しましたよ 」
と 言われますので、おっかなびっくり、
「 戦争が始まりますか ? 」
と 聞くと、
「 向うが撃ち出さないうちは こちらからは撃たないから大丈夫です 」
と 言っていらつしゃいました。


あんぱんで餓えをしのぐ
宿舎に帰り 夜が明けかかったころ、
警察のお巡りさんが立退きの命令を伝えて、
「 いよいよ危ないから、手回りの物を持って気をつけて立退くように 」
と 回って来ました。
それで皆が手荷物をまとめ始め、避難の準備にかかりました。
それにしても、やっぱりどちらにひいきするということはありませんが、
自分のところに来た人は、初めは良い悪いということは判りませんでしたが、
一日でも二日でもお世話・・・・と言ってもべつにありませんが、
いっしょの所にいますと、何だか情が移ると申しますか、
ホテルにいらっした方のほうがいいような気がしましたし、
丹生さんからもいろいろお話をうかがって、
この方たちの考え方も判りましたので、みんな比較的安心していました。
私も人間が少々変っていますので、
もし戦争が始ったら機関銃やなんか撃つのを見てみたい、
などと思ったものです。
それよりも、誰もいなくなっては、兵隊さんたちはホテルの様子も判らないし、
どうも食事も満足に出来ないのではないかと心配になりました。
二十八日の夜なんかは丹生さんが、ご自分のお金でアンパン等を買って、
部下の皆さんにあげていらっしゃいました。
ホテルの方からも、ちょいちょいおやつを出しましたが、
書付にいちいち、几帳面にサインをなさって、
「もし 軍隊の方で払わないといったら、家に取りに行ってくれ 」
と おっしゃって、ロール巻とかカステラなどを、二回ばかり作りました。
一人前五銭ぐらいというので、その程度で二回お出ししました。

叛乱兵士のおむすびをつくる
ホテルの人々は最後の二十九日の朝 四時頃には全部立退き、
五時頃にはもう誰もいなくなってしまいました。
私は一人残って、
みなさんどうしているかしらと思って、ホテルの戸を開けて入って行きましたら、
兵隊さんが、御飯を炊くといっていました。
五升くらい入るお釜に五つたいてりましたが、
「 これだけでは足りないが、お米はどこにあるのか 」
「 ストーブはどういうふうにするのか 」
などと お聞きになりました。
それで私も
「 こういうふうにしますの 」
と いろいろお教えしました。
---その時、私は
べつに家に帰って行こうかとか、
ここにいれば死んでしまうというような気持は
ちっともなかったのだから不思議でした。
それでもさすがに
「 もし怪我でもしたら・・・」
とも 思ったりして手拭のいらないのなんかをたくさん
ハンドバッグの中に入れていたものでした。
ホテルの出入りには兵隊の方が一寸四方くらいの紙を下さいました。
それが無い以上は、どんな格好をした人でも絶対に中に入れないのです。
ちょうど二十九日の朝五時頃でした。
雪も降っておりましたし、真っ暗でした。
まだその時は、ホテルの様子はちっとも変っていないので、
二十六日に兵隊さんが入ってきたときと、少しも変りがありませんでした。
それから七時頃、
私が寄宿舎からホテルへ入っていってみると、突然、ガタガタガタと音がしました。
その時はもう、少し明るくなっていましたが、
だれかが 「 いよいよ始まるぞ !」 と 叫びました。
兵隊さんたちは一糸乱れず 屋上と一階、二階、三階に分れて機関銃を、
屋上に一つ、旧館の玄関に一つ、そりから新館の玄関に一つ、
コック場の裏の入口に一つと四個所に備えつけ、そこに三人ずつ付いて、
弾丸の箱を置いて狙っていました。
また 室内ではいよいよ始まる (註・討伐命令による戦闘開始) というので、
椅子や机なんかを動かし始めました。
弾丸よけにするつもりだったのでしょう。
その時私は、御飯を炊いていました。
その御飯でおむすびを作って、あっちに行ったり こっちに行ったりして 見ていましたら、
一人の兵隊さんが 「 針金がないか? 」 と おっしゃいましたので
「 電気室に行けばあります 」 と 答えましたら、
針金を持ってきて、ドアを針金ですっかり縛りつけてしまいました。
ガラスなんかはすぐに壊れるというので、テーブルなどを積上げ、
足りないところは椅子やベッドを立てかけたりしました。
私が、
「 綿というものは弾丸を通さないというから、蒲団を立てかけるといい 」
と 言いますと、
「 それはいいことを教えてくれた 」
と、蒲団をたくさん積み重ねました。
それから屋上に上って行きましたら、兵隊がいっぱいいました。
私はただ 一生懸命御飯を炊き、炊きがると、どんどんおむすびにする。
大きなおむすびでした。
ちょうど大きな灰皿ぐらいもありました。
そういえばその前に、ホテルでは、梅干を千個買って着てりました。
カウンターのボーイをしている人が、
「 僕は 断然こっちに入っている兵隊に賛成する。しっかりやろう 」
といって 外へ注文したのです。
自分のところにいる兵隊に味方するのは人情です。
梅干を入れておむすびを作りましたが、その千個の梅干もなくなったので、
あとはお塩だけで握ったりしました。

ものものしい機関銃の放列
その時、丹生さんと安藤さんと、
それからどこかの方と四人いらっしゃいまして、
私がお結びを握っていましたら、
「 君、これでもう御飯も炊けて大丈夫だ。
いよいよ始まったら、一人でも傷を負わせたら申訳けないから、これで十分だから帰ってくれ 」
と おっしゃいました。
でも、その時私は、少しも怖いとも 何とも考えていませんでした。
お話の様子を聞いていると、
皆さんは、このまま、意志が通せなかったら、一緒に腹を切るという覚悟のようでした。
もっともそれは最初から言っていらっしゃったことです。
私も、兵隊さんがたくさんいますし、
ホテルの内部のことでいろいろ聞かれると、私の性質上得意になってお教えしたり、
お手伝いをしたりしていたわけです。
そのうち安藤さんが、
「 君、とても凄いから屋上に上って見てきたまえ 」
と いうので 上って見ましたら、
ちょうどホテルの前の銀行と、それから自動車部品の店、それから料理屋さん、
そのところの路地に、鉄兜の兵隊がいっぱいいるのです。
「 ずいぶん大変ですね 」
というと、
「 もちろんかなわないことは判っているが、
こっちは陛下の御為にやっているのだから、神様がついている。
力の限り尽せば、みんなが死んでも意志が通せる 」
と、静かにお話しになりました。
向う側に、鉄条網を積んだ自動車が七台並んでいました。
赤坂のホテルの側にある聯隊・・近衛ですか・・そこの前あたりには、
機関銃が四台ずつ並べられており、しかも向うには兵隊がたくさんいるのです。
やはりかなわないのは、私にもわかりました。

ガンとして説得に応ぜず

九時頃になって、
何か書いたものをぶら下げて飛行機が飛んで来ました。

私も見ておりもーましたが、文句は判りませんでした。
その時に、安藤さんも丹生さんも、
二十人くらい集って、玄関の前の空地でいろいろ話していらっしゃいました。

飛行機が飛んできた、いよいよ始まるぞ、
といって兵隊たちが、さかんに弾丸を防ぐ準備をしていました
なんでもその時、安藤さんと丹生さんが腹を切ろうとしたそうですが、
とめられてしまったということです。

飛行機が飛び去ったあと、何の気なしにラジオをかけましたら、盛んに放送していました。
そばにいた将校の人がかけちゃいけない、と強く言っておとめになりました。
あれが 「今からでも遅くはない」 というあの有名な放送だったのですが、
もちろん私は何も外のことはわかりませんので、すぐとめました。
皆さんはこの二、三日お寝みにならないので、お顔がとても青く、
腕組みをして飛行機を眺めたり、下を向いてお話をしたりしていらっしゃいました。
その時、聯隊から迎えの人が来ました。
かなり年を取った方が五人で、
相当上のほうの方だろうと思いましたけれども、
「 どうしてもこのまま意志を通させてくれ 」
と 安藤さんや丹生さんが強くおっしゃって、
ずいぶん帰るようにと説得されたのですが、
とうとうお帰りになりませんでした。
それから間もなくのことです。
こんどは一人でいらっしゃった方がありました。

やはり鉄兜をかぶって、長い剣を下げ、丸顔の方でした。
その方が説得されたのですが、

「誰が何と言っても帰る意志はないから、いよいよとなったらここで腹を切る」
と言って、安藤さんたちは聞きません。
すると逆にその人が、

「これだけ言っても帰らなければ、おれが腹を切る」
「それじゃ切ってもいい」
と皆さんが言うと、
その人は本気になって新館の玄関のところであぐらをかいてしまって、

本当に腹を切ろうとしたのです。
さすがに安藤さんたちもおどろいてとめました。

その方と安藤さんたちでいろんなことを話し合って泣いていましたが、
おそらく同期か、
同じ聯隊かの仲のいい人だったのでしょう。
間もなくその方も帰ってしまって、
十時頃、
丹生さんの隊と安藤さんの隊と分かれて、

安藤さんの方は食堂で部下にお話をなさっていました。
丹生さんの方は他の場所に集めてお話をなさっていましたが、
丹生さんの隊の方が十時頃ですが・・・全員を集めてお帰りになりました。
安藤さんの隊の方は、どうしても帰らないというのです。
安藤さんの兵隊は二百人もいました。

部下思いの安藤大尉
けれども その後、十一時半頃になりまして、ご懇意な方がいらっしゃったり、
いろいろお話をされまして、やっぱり帰ることに覚悟をなさいましたのでしょう。
帰るからとおつしゃったのがちょうど十一時半頃でした。
それから全員が四列に並びました。
その時はもう雪も晴れ、日が当たって来ました。
その時、安藤さんの兵隊さんの方が六人ばかり、
食堂の機関銃のところにいらっしゃって、いろいろお話をしていました。
皆さん泣いていらっしゃったようです。
安藤さんの部下の兵隊さんたちは一度マントを着たままで帰ろうとして並びましたが、
安藤さんがマントを着けちゃいけないというので、みんな脱いでしまいました。
私はその時、何だか心細くなって・・・・あっちに行ったり、こっちに行って話したりしていました。
マントを巻きながら、皆さん泣いていらっしゃいました。
安藤さんも丹生さんも兵隊さんたちを非常に可愛がっていらっしゃって、
みんな、

「中隊長殿の言うことなら、どんなことでもきく」
と言っていたのです。
今、ここで死ねと言ったら、一緒に死んでしまうという覚悟でいたようです。
でもとうとう死ぬことは出来ず、玄関の前に全員整列が終りましたが、
安藤さんの隊のほうに病気になった方がありました。
その方は熱もありましたし、立てないので、来た時から寝たままでした。
それに何にも召上らないし、はっきり話も出来ないくらいだったのですけれども
ーーーその人を二人で肩に担ぎまして、列の後の方に並びました。
その時、安藤さんがお話をなさいました。
「これまで八分通り意志が通せたのに、このまま帰るのは・・・・」
と言ったまま、しばらく絶句していて、
「 残念だけれども仕方がない。
もう帰るから、みんな僕の気持が判るなら一緒に帰ってくれ 」

とおっしゃいました。
すると皆さんが急に列を崩して、
口々に何か言いながら涙を流して安藤さんを取り囲みました。


「吾等第六中隊の歌」
斉唱の中に自殺図る

そのうち皆で何だか歌を歌い出しました。
最後に「六中隊」ということばのある歌です。
繰り返し繰り返し歌っていたのですが、
何回目かの「六中隊」と歌った時、
安藤さんは、
肩にかけていたピストルをだしてドン!
と 撃ったのです。

私はそのとき泣きながら歌を聞いていたのですが、
すぐそばに背広を着た人がいました。

その人はお名前はおっしゃらないのですが、顔の面長な色の白い方でした。
「僕は民間の者だ、もちろん名前は言わないが・・・」
と言っていらっしゃいましたが、
いつか判らないうちにホテルの中に入っていらして、

お米がなくなった時には、
ホテルの並びにある「国竜会」の前にあった車を持って来て、

どこからか南京袋に入っているお米を積んで来たことがありました。
その人も腰かけて私と一緒にいろいろな話をして
「これまでにしたのに・・・」

と言って泣いていたそのときでした、
急にドン!
と 音がしたのは・・・。

ハッと思ったときには安藤さんが倒れていたのです。
皆さんは・・・私も・・・安藤さんはてっきり死んだと思いました。
でもまだ死ななかったのです。
「中隊長殿、中隊長殿
と 皆さんがとてもなきました。
「こんなにして死ぬんなら、なぜ一緒に死ねと言わなかった、
中隊長殿一人で死んで、後に残った僕たちはどうするのだ、どうして置いて行った、
最初からこういう約束じゃなかった、中隊長殿、約束が違います」
そういうようなことを何十ぺんも繰返して、かわるがわる取りすがって泣いていました。
そのうちに、血がどんどん流れて来ます。
そうしましたら、
さっきの民間の方が、安藤さんのかけていらっしゃった白襷を外してその血をつけ、

ふところにお入れになりました。
そうしているうちに上官の方がいらっしゃって兵隊たちに、
「今まで決心を定めたのにこの有様は何だ、女々しい。おまえたちは軍人じゃないか!」
と、たいそうお怒りになりました。
すると、もう一人の髭を生やしたりっぱな方が、

「お前たちの気持はよく判る。けれども仕方がない。
気持ちはよく判るが、泣いていても仕方がない時だ。

これだけの気持があるならば、満州に行ってお国のために尽くせばいい。
中隊長が死ぬなら僕も死ぬ、と言って、ここで死んで何になる、何もならない。
満州に行って国のために働いて死んだ方が、今こうやった意志の十分の一でも通せる」
というと、皆さんが
「よく判りました」
とすっと立ち上がりました。
間もなく赤十字の自動車が来まして、安藤さんを載せて行きました。
皆、泣きながら安藤さんの車を見送りました。
その後、兵隊さんが続いて聯隊へ帰って行ったのですが、
それがちょうど十二時頃でした。

一本十五銭の酒で最後の宴
話が前に戻りますが、
これで最後だ、というときに、安藤さんと丹生さんから命令がありました。

「好きな歌を歌ってもいい」 というのです。
それは「兵に告ぐ」とか何とかがまだ出ていなかった時で、
二十九日の七時頃でした。
いよいよ始まるという時に、
お酒でも飲まなければおもしろい歌が出ないというので、
みんなでお酒を分け合って飲みました。
お酒は、初めのうちは、
「絶対に飲まさない。飲むと気持ちか゜緩むから飲まさないでくれ」
ということだったのですが、後になって、
「どうしても飲みたいならば、自分のお金で買えばいいから、高くして売ってくれ」
とおっしゃって、がらすの特利一本を五十銭で売ることになりました。
やっぱり好きな方がいて買いに来ましたが、売ったのはほんのわずかなものでした。
こうしてお酒を飲んで、皆さんがいろいろな歌を歌いました。
聯隊の歌を歌ったり、好きな歌を歌ったり・・・
でもやっぱり、いくら朗らかな歌でも、朗らかに歌えませんでした。
それから後で見ましたら、
いつも丹生さんが腰掛けていらっしゃったテーブルに、
グラスにお酒が八分目くらい注いであったのが目につきましたから、
別れのお盃でもしていらっしゃったのだろうと思います。
やっぱり、最後だと思って、ご自分でも召上ったらしいのです。
最後に、
この四日間で一番感じたのは、
安藤隊が帰る時でした。
「死ぬなら、どうして一人で死なずに言ってくれなかったのか」
と 皆さんが
倒れた安藤さんを囲み、声をだして泣いた時は、
本当に何とも言われず、
私も
声をあげて泣きました。

当時
山王ホテルに勤めていた
伊藤葉子さん
の 体験談である

次頁  伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 2 に 続く
二・二六事件秘話  河野司 著  安藤大尉 ”血染めの白襷” から


伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 2

2019年07月20日 15時47分38秒 | 安藤部隊

安藤大尉 « 血染めの白襷 »
伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1 

托された血染めの白襷

自動車が行って、皆さんが帰ってしまうと、その民間の方が、小さい紙に、
「 神兵隊の鈴木善一 」 と 書いた紙を下さいました。
それと、安藤さんの血を拭いた白襷を巻いたのを新聞紙にくるんで、
「 君、ちょっと来てくれ 」
と、人のいない方に連れてゆきました。
「 さては・・・・まわし者だったのか 」
と 思いましたが、私もあの時には、生きている気持にはなかったので、黙ってついて行きました。
すると、パーラーの奥の方に行って、
「 君、兵隊のやったことを、いいと思うか 悪いと思うか? 」
と 聞きますので、
「 私だけの考えですけれども、いろいろ丹生さんからもお話を聞いたり、
兵隊たちからも話を聞いて、私はいいと思ったから 出来るだけのことはしたつもりです。
悪かったらどこに行ってもよろしゅうございます 」
と いいますと、
「 いや、そうじゃない。君がもし いいと思ってくれるなら、頼みたいことがある 」
と いうのです。
「 私に出来ることなら・・・・」
というと、
「 ありがとう、神兵隊に行って、これを鈴木さんに渡してくれ。
そしてこれは、決して誰にも言っちゃあいけない 」
「 神兵隊はどこにあるのですか 」
と うかがったのですが、もう そんなやりとりをしている時間はありません。
私は別に こそこそ隱れるという気持はないのですが、頼んだ方があわてていまして、
こんなところを見つかったら大変だというので、
私も、
「 はい、確かに お渡し致します 」
と お引受けしました。
「 お名前は何とおっしゃるのですか 」
と うかがいますと、
「 名前は言わなくても、安藤さんの最期の時に お預かりした品物です、
と 言って 鈴木さんに渡せば判る 」
と いって、
その人は そのまま 兵隊さんの後に ついていってしまいました。

 田川の兵隊
ものものしい戒厳令

広いホテルの中で一人になってしまった私は、外に出ようと思いましたが、
裏から出られないので 表の方から出ると、
安藤さんの隊と入れ違いに入ってきた会い田川の兵隊が、
「 どこにいて、どうした 」
と 聞きますから、
「 逃げ遅れて中にいましたが、これから帰るところです 」
と 言うと、すぐに帰して下さいました。
やっと外に出ると、急にお腹が空いたのを感じました。
いままで たくさんのおむすびを作っていたんですけれど、ちっとも食べたいと思わなかったのに、
やっと外に出て来たら、急にお腹が空いてきたわけです。
それでホテルに帰って、食べ残りの御飯を食べようと思ったのですけれども、
もうホテルには入ることが出来ません。
今度は反対の方の兵隊が取巻いて、すっかり厳重に警戒していて
「 ホテルの者ですけれども 忘れた物があるから取りたい 」
と 言ったのですが
「 後から取れるから、今は入ってはいけない 」
と、どうしても入れてくれないのです。
それでフラフラ歩き出しました。
そうしますと、あちこちに塹壕があります。
鉄条網を積んだ自動車が六台もある。
それから陸軍の自動車があって、偉い方が乗っていました。
道にも機関銃が置いてある。
それに丸いものが巻いてあるので 「 これ、何ですか 」 と 聞きますと
「 電話線だ。戦争があると電話が通じないから、これは戦争だけに使う電話だ 」
と いうことでした。
何しろ お腹が空いてたまりませんので、何か食べる物はないかと探しましたが、
店はあるのですけれども、今まで避難していた家ばかりですので、
とても食べさせてくれるどころではありません。
今までの騒ぎに気を取られている外の人たちは、いろいろ取沙汰をしています。
誰かが自殺をはかったということは判っていたようですが、誰ということが判らない。
わいわい 騒いでいます。
やっと知っている うどん屋がありましたので
「 何か食べたいんだけど 」
と 頼むと
「 じゃあ、冷たい御飯がある 」
というので、食べさせてもらい、やっと人心地がついたのでした。

憲兵隊に調べられる
四時になって、
社長さんがいらっしゃったので、やっとホテルに入れました。
入って行きましたら 憲兵隊の方が来まして、いろいろな話を聞いて、
「 君は最後までいたというが、どういう気持だったのか 」
と 言うのです。
私は、
「 どういう気持というわけではありませんが、
帰ろうと思ったら遅くなって帰れなくなりましたし、
兵隊さんたちが御飯を炊くのに様子が判らないから、御飯を炊いたりしていました 」
と 答えました。
その時はそれだけの話ですみました。
それから写真屋が来て、そのままになっているホテルの内部を写真に撮りました。
その次の日も また次の日も、憲兵隊から調べに来まして、
「 君をどうするわけでもないから、どういう兵隊がどういう行動を取ったかということを、
感じたまま、見たままを話せ 」
と いうことでした。
私は何だか、加勢した兵隊のことを言うのが しゃくにさわったので
言わなかったのですが、
いろいろ聞きます。
たとえば ホテルの方から軍隊に請求する費用
・・・・椅子がどれだけ、ベッドが壊れて、いくら、
ということを
君は知っているだろうと聞きましたが、
ホテルのほうのつけかけが多くて しゃくにさわったので
「 これは本当じゃない 」
と 言いました。
たとえば 食堂の方の請求書ですが、肉でも卵でも酒でも洋酒でも、
営業をしていたままですからいろいろありました。
でも 飲んだ洋酒は五十本くらいでしょう。ビールだって五ダースくらいでしょう。
肉も少しは使いました。スープの大きな鍋がありますので、
みんな大したことはないのですのに、専務さんがいろいろと細かい請求書を出しました。
憲兵隊の人は、何度も何度もいろいろのことをお聞きになりまして、
私が話したことを一回一回読んで、はんこ をおさせるんです。
うっかりしたことを言うと、これによって刑が定まるんだから、うそを言っちゃいけない。
と おどかしたりなんかするのです。
たいていのことはそのまま お話したと思いますけれども、
やっぱり 自分で加勢した方を悪く言いたくありませんから、少しはいいように言って置きました。
けれども本当に、椅子やなんかを壊したのはいよいよ戦闘が始まるという時で、
それまではちっともふだんと変わってはいなかったのです。
宴会場に毛布を敷いて寝ていたくらいですから、そのとおりを言いました。
本当に兵隊さんたちはおとなしかったのです。
どんなことでも、命令されたこと以外はしませんでした。
宴会場にいて、お部屋の方にはちっとも上らなかったのに
「 そうじゃなかろう 」
と 聞くのです。
ホテルの方でも
「 夜はお客のベッドに寝たのだろう 」
と 言いましたが
「 そうじゃありません 」
と はっきりいってやりました。
一週間くらいして、また元どおり ホテルは営業するようになりましたが、
別にそう困るものはありませんでした。
椅子の足が折れたとか、ガラスが壊れた、それから蒲団が汚くなったことくらいですが、
蒲団なんかは全部カバーが掛っていましたから、洗濯屋に出して、
椅子は足を取換えればいい。
それから、パーラーのじゅうたんが汚くなって壁が少しよごれたことくらいで、
大した損害もなかったようです。

安藤大尉の« 血染めの白襷 » の後日譚
事件が終わってから一カ月ぐらいしてから、
あのお預かりした安藤さんの血染めの白襷をお届け致しましたが、
それがまた たいへん苦労だったのです。
『 神兵隊 』 というのが、
どこにあるのかまったくわからないのです。
やはり軍隊のどこかにあるのではないかと思って、一聯隊に行って営兵に聞いてみました。
「 どういう用件だ 」
と 言いますから、
「 ちょっと持って行きたいものがあるので・・・・」
というと、
「 それじゃ、その品物を出せ 」
と 言うのです。
それを見せなければ教えないと言いますから、
「 それじゃいいです 」
と さっさと帰って来ました。
それから三聯隊に行って、
「 ご面会したい人があるのですけれど、神兵隊というのはどこですか? 」
と 聞いたのですが、
「 判らない 」
と、どうしても教えてくれませんでした。
そのうちに、ちょうど私と一緒に働いている人の兄さんが、頭山満さんを知っていて、
その方が民間の何かだったので、ぜひ話を聞かせてくれとおっしゃっていましたから、
私は別に話をしようという気持はなかったのですが、
「 僕は決してあやしい者ではない。
君のことを聞いてどうするというのではない。
民間側の者で 頭山さんも知っているし、話を聞かしてくれ 」
と おっしゃいます。
その時 「 民間側 」 ということが ピンと来ましたから、
民間側の鈴木さんと、それからもう一人の方をご存知かとうかがってみますと、
やっぱり知っていらっしゃいました。
それで、
「 鈴木さんは どこにいらっしゃるのですか 」
と 聞きますと
「 刑務所に入っている 」 ( 註・神兵隊事件で入獄中)
というので、
それは困ったことになったと思いました。
それで その品物を預かったお話をしますと、
「 上の人に話せば通ずる 」
と おっしゃいました。
「 上の方って どなたですか 」
と 聞きますと
「 頭山満さんのお宅が青山六丁目だから、その方にお話したらすぐ判る 」
と 教えて下さいました。
それで道を教えて頂いて頭山さんをお訪ねしました。
その日、私はちょうど おそ番でしたので、朝早く・・・八時頃家を出ました。
頭山満さんの家は、
少しは大きな家かと思いましたから、行けばすぐ判るだろうと思ったのですが、
きっと門がついている家だと思いましたところ、なかなかそれが判らない。
困ってしまって、近くの人に聞きましたらなんとそれは、小さいお宅でした。
玄関からじゃいけないと思って、初めお台所に行って、
女中さんに、
「 鈴木さんという方がちょいちょい お見えになりますか 」
と 聞きますと、
「 この頃はお見えになりません 」
という。それで
「 その方に頼まれて、
山王ホテルにいらっしゃった安藤さんのものを お預かりしていますが・・・
こちらに うかがったら判るというので うかがいました。
御主人にお目にかかってお話したいのですけれども、
いらっしゃらないでしょうか 」
と 言いました。
私は鈴木さんから頼まれた、
と わざとうそをついたわけです。
けれども何しろ事件の直後ですから、なかなかお会いにはならないらしい。
十五分ほどしてから、怖そうな人が玄関に出て来て、
「 何用だ ! 」
と 言うから、
こういう訳ですとお話しますと、
「 ああ、そうですか 」
と 言うのです。
初めは
「 何用だ ! 」 なんてえらい権幕で出て来たのに、
話をしたら
「 ああそあですか 」 と 急におとなしくいうのです。
それで、これですから、と品物をお渡ししました。
私は、直接御主人にお渡ししたいと言いましたが、
「 確かに受取った。大丈夫だ 」
と おっしゃるので、その方にお渡しして帰って来ました。
その後、
あの血染めの白襷が
どうなったかは存じません。

« 筆者註 »
この安藤大尉の血染めの白襷は、
神兵隊事件に参加した町田専蔵氏 ( 事件後軍法会議により禁錮三年に処せられ、のち病死 )
が 山王ホテルを去るに当って伊藤葉子さんに托したもので、
以上の経過によって頭山満翁に届けられたのであった。
その後、鈴木善一氏 ( 神兵隊事件の中心人物 ) の出所後、同氏の手に渡ったが、
町田専蔵氏の出所により、鈴木氏から町田氏のもとに返った。
以来町田氏が秘蔵していてところ、同氏の死により同じ神兵隊の同志、中村武彦氏が預り、
昭和二十七年七月十二日、安藤大尉等二十二士の十七回忌法要に際し、仏心会に寄贈せられた。
現在は私が保管している
が、伊藤葉子さんの消息は、まったくわからない。
( 私・・・河野司氏 )


当時
山王ホテルに
勤めていた
伊藤葉子さんの
体験談である
( 昭和十一年七月四日に聞たもの )

二・二六事件秘話  河野司 著
安藤大尉  ”血染めの白襷”  から


歩兵第三聯隊 第六中隊

歩三の某伍長の手記
山王ホテルニ於テ
二十九日午前七時五十分
① 奥村分隊、中村分隊再度君ケ代斉唱ス  感涙湧カザルヲ得ズ
② 隣室巡察ノ際、
   我々ノ為ニ其ノ如キ険悪ナル情勢ニ至リタルモ尚顧ズ、
   ホテルニ只一人握飯ヲ作リ居リシ健気ナ女性ヲ発見セリ
   頼ミテ氏名ヲ聞ク 伊藤葉子 ト云フ者ナリト
   乞フ此ノ女性ノ名ヲ葬ル勿レ
③ 志気依然トシテ其ノ絶頂ニ達シアリ

八時三十分
① 安藤大尉最後ノ言葉
  「聯隊ニ残リシ六中隊ノ幹部ハアレデモ幹部カ」 ト
② 大木伍長、渡辺軍曹巡察ニ来りて激励シ行ケリ
③ 安藤大尉、渡辺軍曹敵ノ中ニ踏込メリ
  「討タバ討テ」ト敵ハ銃剣ヲ突キツケテ取巻ケリ
   安「ソレハ一体何ダ」スルト敵ハ銃ヲ立銃トナシ不動ノ姿勢ヲ取レリト
   尊皇討奸軍ヲ何故討テル筈ガアルカ
午前九時〇分
① 再度ノ雄叫ヲ唄フ
② 外套ヲ整頓シ置キ水筒ヲ捨テテ身軽トナル思フ存分働カン意気昂シ
③ 朝日窓ニ冴ヘタリ  正ニ大内山ニ暗雲ナシ
④ 部下ニ発砲ヲ固ク禁ズル旨再度言渡ス
⑤ 部下ノ顔ニハ終始喜ビ顔見エタリ 至上ノ光栄ト存シ死ニ赴カン
二十九日午前十時三十分
旅団長閣下折衝ノ為メ来リテ歴史的光景
零時三十分
中隊長自決セントス
大隊長中隊長ヲ切ラントス
服装ヲ整ヘ引揚ク

現代史資料23 国家主義運動史3 から


「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」

2019年07月19日 15時22分21秒 | 安藤部隊

山下聯隊長は、
菅波中尉の態度から目を離さなかったが、
菅波が約束どおり神妙なので、ほっとしたかのようであった。
ところが菅波は、
満州事変勃発と言う危機感の漂う中で、
すでに歩三において独自の革新運動を積極的にすすめていた。

秩父宮が帰隊される前の十月下旬から、
ガリ版刷りの「日本改造法案」が、
歩三聯隊将校の一部にひそかに配布されていた。
松尾新一中尉の机にもいつの間にかはいっていたし、
森田利八中尉は親友の安藤から直接渡されていた。
ある日、
安藤の招きで松尾、森田両中尉が将校室へ行くと、
野中、菅波両中尉が安藤とともに待っていた。
その雰囲気で、松尾と森田は直ぐに安藤の意図を察した。
菅波中尉が例のもの静かな口調で、国家革新への思想と運動方針について諄々と説明した。
菅波の話が終わると、
終始黙念と聞いていた松尾は、落着いた口調でいった。
「 君らの考えは、決してわからぬことはないが、そりは明らかに政治問題である。
それほど国内の刷新を望むなら、軍人をやめて代議士にでもなってやるよりしかたがない。
 軍人はその本文をつくすべきだ」
「 いや、それでは間に合わない。
われわれは平常から、天皇陛下の格別の御恩願を受けている。
われわれがやらなくて、いったい誰がやろうか。
 現在の政治家にそれが期待できるくらいなら、われわれがこうして運動に邁進する必要はない 」
と、菅波が珍しくも強い口調で応じた。
しかし 松尾も軍人の本文を主張して譲らない。
森田も松尾に同調して、会談はついに決裂した。
松尾と森田は決然と席を立つと、
それまで一言も言わずに聞いていた野中四郎中尉が、
憤然と色をなし、
「 松尾さん、われわれが蹶起の際は、出動の前に、まず貴方を血祭りにあげますよ 」
と、叩きつけるように激しい口調でいった。
松尾は、普段温厚で寡黙な野中の言葉だっただけに、
やや意外の感に打たれたが、
やがて苦笑を浮かべながら、
「 野中、それが軍人の本文だと信ずるならば、やるがいい。
だが俺も軍人だ。貴公のやり方によっては、俺にも覚悟はある 」
と、言葉を返し、森田をうながして部屋を出た。
この会談中、安藤は終始黙して語らなかったが、
野中の一本気な性格に、内心会談の失敗を悔やんだ。
聯隊内に強いて敵をつくる必要はなかったからである。

昭和十年の秋
ともに中隊長となった森田と安藤は
ますます親密の度を加えてゆき、中隊対抗の銃剣術試合もよくやった。
ある日のこと、
森田が営庭で部下の銃剣術の練習を見ていると、
営外演習の仕度をした安藤が傍を通りかかった。
気付いた森田が、
「おい安藤、今日は何処へ行くのだ」
と、聞くと、安藤の元気な声が跳ね返ってきた。
「森田さん、これから逆賊掃討の演習をやってきます」
これがいつもの、安藤流の逆説的表現であった。
折から東京日日新聞社のカメラマンが居合せたので、
森田はカメラマンに頼んで安藤と並んで撮影してもらった。

二十八日の午後五時頃、
第一師団舞参謀長、渋谷歩三聯隊長、森田大尉が「幸楽」へ安藤大尉を訪れた。
三人が幸楽の表に来たとき、森田大尉は安藤中隊のひしひしと迫る殺気を感じた。
歩哨の兵に安藤大尉の居在を問うと、
奥から顔みしりの下士官が出て来て、中隊長は不在だといった。
そこで三人は、やむなく文相官邸にいる野中四郎 大尉を訪れた。
時刻は五時三十分頃であった。

文相官邸の一室で
舞師団参謀長、渋谷歩三聯隊長、森田大尉の三人は野中四郎大尉と面談した。
森田大尉は、
まず秩父宮との会談内容を伝えると、野中はうなだれたまま黙然と聞いていた。
森田は軍人らしく自決することをすすめた。
普段温厚な森田だけに、野中にとってしみじみと胸に迫るものがあったろう。
「 貴様の骨は、必ず俺が拾ってやる 」
と、森田がいうと、
傍の舞参謀長が
「 殿下の令旨だぞ ! 」
と、強調した。
森田は最後に、
「 だがな野中、すでに奉勅命令は下達されているのだ。
今度の事件で、貴様が最先任であることを忘れるなよ 」
と、野中の手を握って別れた。
ついに野中はさいごまで何もいわなかった。

森田大尉は後ろ髪を引かれるような思いで、舞参謀長、渋谷聯隊長、と表に出た。
寒気ひとしお厳しかった。
と、後から野中大尉が迫って来て、
森田に、通信紙をもう一度見せてくれといって、再び丁寧に読み返して確認した。
「ありがとう。森田、世話になったな」
と、これが森田大尉がこの世で聞いた野中四郎 大尉の最後の言葉であった。

森田大尉は、渋谷聯隊長、と再び 「 幸楽 」 を訪れると、幸い安藤大尉は帰っていた。
やがて幸楽の一室に通され、
ふたりは憔悴しきった表情の安藤に、
「 奉勅命令 」 の下達を伝え、兵を帰すように論した。
秩父宮との会談の内容も、野中と会ったことも伝えた。
瞑目して聞いていた安藤は、森田の話が終わると、
やがて、かっ! と、眼を開くや
必死な表情で、
奉勅命令は絶対に下達されていないと信じている、
と答え、
最後に
「 森田さん、まことにすまないが、
私は昔 千早城にたてこもった楠正成になります。
その頃、正成は逆賊あつかいされたが、
正成の評価は、
正成が死んでから何百年かたった後に正しく評価され、
無二の忠臣といわれました。
私も今は逆賊、叛乱軍といわれ、やがて殺されることでしょうが、
私が死んでから何十年、いや何百年かたった後に、
国民が、後世の歴史家が必ず正しく評価してくれるものと信じています。
秩父宮殿下にも、聯隊長殿にも 森田さんにもまことにすまないが、
今度ばかりは、どうか安藤の思うように、信ずるようにさせてください。
これが安藤の最後のお願いです 」
三人の眼にはそれぞれ熱いものが溢れていた。
やがて幸楽の女中が、
黒塗の椀にはいった三杯の吸物を持って来て、三人の前に置いた。
きのこのはいった汁であった。
三人は無言で湯気のたつ汁をすすった。
安藤の性格を知りぬいている森田は、もう何もいわなかった。
渋谷聯隊長と森田大尉が幸楽の玄関を出るとき、
送って来た安藤は、
「 聯隊長殿、短いご縁でした。
悪い部下でまことに申し訳ありません。森田さん、歩三のことはくれぐれも頼みます 」
安藤の声がふっと 途切れた。
森田はもう一度安藤の顔を見つめて無言の別れをすますと、
安藤の顔は泣いているかのようであった。
森田と渋谷はがっくりと肩を落として帰っていった。
森田は、帰途安藤がいった奉勅命令はまだ下達されていない、
という 言葉が気にかかった。
そんなはずはない。
しかし、安藤は決して嘘をいう男ではない。
ならばどうしてこのような事態になったのか。
戒厳司令部か第一師団司令部に、何らなの落度があったとしか考えられない。
だが、奉勅命令という軍人に対する最高の重要命令が下達されていないとすれば、
これは一大事である。
こんな馬鹿なことがあってよいものか。
森田は軍首脳部の考えがさっぱりわからなかった。
それだけに ひとしお
安藤が、野中が不憫
でならなかったのである

秩父宮と二・二六 芦沢紀之 著から


幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」

2019年07月18日 05時15分59秒 | 安藤部隊

   

幸楽の群衆に演説する将校

我々が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃、
幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に、
「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」
と 叫んでいた。
丁度 歩一の栗原中尉がきていたので、
彼は早速民衆に対して一席ブッた。
皆さん!
我等のとった行動は 皆さんと同じで
あなた方にできなかったことをやったまでである。
これからは あなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい。
我々は尊皇義軍の立場にありますが、
これに対し銃口を向けている彼等と比べて、
皆さん方は いずれに味方するか、
もう一度叫ぶ、
我々は皆さんにできなかったことをやった。
皆さん方は以後我々ができなかったこと、
即ち 全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、
どうですか、できますか?

すると民衆は異口同音に、

「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」
と 感を込めて叫んだ。

続いて安藤大尉が立ち、
簡単明瞭に昭和維新の実行を説いいた。
民衆は二人の演説に納得したのか万歳を叫びながら徐々に散っていった
・・歩三第六中隊、前島清 上等兵 の手記
2.26事件の謎 新人物往来社 から

« 栗原中尉の演説 »
吾々同志が蹶起したのは
天皇と臣民の間に居る特権階級たる重臣財閥官僚政党等が
私心を慾しい侭に
人民の意志を 陛下に有りの侭を伝へて居ない
従って日本帝国を危くする
吾々の同志は已む無く 非常手段を以て今日彼等の中枢を打砕いたのである
吾々同志は皆 今夜死ぬ
諸君は吾々同志の屍を乗りこえて 飽迄も吾々の意思を貫徹して貰いたい
諸君は何れに組するや
栗原中尉がこのように問いかけると、
群衆より
討奸軍万歳 
と 云う者がありました
後は諸君と共に天皇陛下万歳を三唱します
と云って栗原中尉は
天皇陛下万歳  
と 発声しました処
其後で群衆中に
尊皇討奸万歳
 と 唱いたるものあり
群衆は之に三唱しました
・・二十八日の晩・・幸楽の支配人談

« 安藤大尉の演説 »
・・・・昨夜来から幸楽前に押しかけた群衆は益々その数を増し、
夜になっても帰る様子がなく、安藤大尉の話を望む声が強まってきた。
そこで大尉が玄関前に姿を現すと 一斉に群衆が万歳を叫んだ。
まさに天地が亀裂せんばかりの響きである。
大尉は静かに話し始めた。

諸氏も知っているとおり、
さきの満州事変、上海事変等で死んだ兵士は気の毒だがみな犬死だった
これは軍閥や財閥の野望の犠牲であったからである
これらの悪者は一刻も早く倒さねばならない
その目的で我々は皆さんにかわって実施したまでである
今からお願いしたいことは、
我々の心を受けて大いに後押ししてもらいたい
以上おわり
大尉が姿を消すと群
衆はやっと承知したかのように万歳を叫び徐々に帰りはじめた。
二・二六事件と郷土兵 斉藤弥一・歩三機関銃隊二等兵 著 「鎮圧軍包囲す」 から・・・・・


栗原中尉

われわれは天皇陛下の軍人として、上は元帥、下は一兵卒に至るまで、
一切を挙げて陛下にすべてをお委せすれば、
現在のように腐敗堕落せる政党、財閥の巨頭連中を一掃して、
皆さんの生活は必ず良くなる。
今回の蹶起は下士官、兵もすすんで強力したもので、
下士官、兵の声は皆さんの声であります
・・二十八日の夜
幸楽の門前に立ち民衆に向っての大演説


下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」

2019年07月17日 15時16分34秒 | 安藤部隊


二十八日
幸楽山王ホテル附近に於て軍人のしたる演説要旨
一、山田分隊 ・山田政男伍長
新聞紙の報道に
青年将校が首相官邸を襲ひなどゝ称し居るも吾々は尊皇軍である、
吾々は 決して上官の命令で今回社会の賊物を殺したのではない、
全軍一同が奮起したのである。
吾々は 今後と雖も
財閥軍閥元老政党等の腐敗毒物を叩殺し
そして北満守備の為め出征するのである、
是等国賊を全滅せしめないで出征することは実に心配である。
吾々は 斯かる国賊を叩き切る事は全く上御一人をして御安心遊さる様
又 国家皆様も安心して生活することが出来る様に
全く国家の為めに出動したのである。
是を同じ皇軍の吾々を友軍が我々に向て発砲することは何事である
万一発砲する場合は固より人を殺している吾々である、
一兵卒となるとも戦ふのである。
諸君は今度のことは良く知るまい、
齋藤はどうだ頭に三十発も鉄砲弾を喰ひ 其上首を切り落され頭は真二つになつている。
鈴木の頭には 此山田がピストル三発ぶち込んだ。
首相は池の中に死体を叩き込まれたのだ。
是れで終るのではない、
是れから未だどしどし国賊は叩殺すのだ、
国家に対する国賊を皆殺にするのが目的だ、
悪いものがなくなれば良者が出て国家の政治を行ふは当然だ。
一日も早く悪い者を殺すのが国民の腹の底にある考へを吾々が実行したのだ。
吾々の背後には尚我等の意志を継いで呉れる者がある事は心中喜ばしいのである。

二、堂込小隊長 ・堂込喜市曹長
堂込小隊の旗を背負はしめ 日本刀を持ち半紙二枚の声明書を群集に向て朗読す。
其内容は主として
尊皇愛国の精神を説き
軍人にして財閥と通じ皇軍をして私兵化せしむる如き国賊は
之を排除し其他国家の賊物を悉く打ち斃し、
次いで国家の安泰を計るが目的である云々
諸君
吾々は 歩兵第三聯隊安藤大尉の部下である、
吾々は 之より死を覚悟して居るものである、
而して 私の希望は何物もない。
吾々には国家の為に死ぬものである、
遺族の事は何分頼む

と 述ぶ
此時一般群衆の動静は
甲 是れから尚国賊をやつて仕舞へ。
乙 愛宕山の放送局を占領して今の声明書を全国に知らして下さい。
丙 買収されるなよ。
丁 腰を折るな確かりやれやれ。
戊 妥協するな。
     大勢御苦労であった。
甲 なぜ牧野、一木をやらなんだのです。

山田伍長 牧野は焼き殺されて居るのだ。
と 云ひ 次いで言を亜ぎ
諸君 吾々に共鳴するなら 一木でも牧野でも打殺して来て呉れ
と 云ふ。
群衆の声  諸君の今回の働きは国民は感謝して居るよ
追て当時の群集は凡そ数百名ありたりと謂ふ

現代史資料23 国家主義運動3 より