あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 「 家族との今生の別れに 」

2021年08月04日 11時32分49秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

 
西田税 
獄中の感懐

西田は逮捕されてから、銃殺されるまで約一年半、
陸軍衛戍刑務所に収容されていたが、その間、多くの詠草を残している。

秋深きかの山かげにきのこなど  尋ねし頃のなつかしきかな
母思ひはらから思ひ妹思へば  秋の夕べに風なきわたる
これは死刑を求刑された十月二十二日の日付がある。

越えて十一月十九日の手記には俳句や和歌を書きつけている。
むさし野に雁ないてゆくねざめかな
愚かなるわれ故辛き起伏の  妹を思へばいとしかりけり
悲しみの使徒の如くに老いのこる  母は悲しもひたにおろがむ
これも同じ頃の歌であろう、
母を思い、妻を思う切々たる真情を吐露している。
故郷の母は如何にと恋ひわぶる  ひとやの窓に秋の風吹く
蹌踉そうろうと別れてゆける妻添ひの  母の面影忘れえぬかも
秋風や幸うすきわが妹子が  よれる窓辺の思はゆるかも
妻子らをなげきの淵に沈めても  行くべき道と思はざりしを

この年の十二月四日、監房訪問の際、所長手渡すと付記された紙片に、
次の三首の和歌が書きつけてある。
たはやめのいもが世わたる船路には  うきなみ風のたたずあれかし
ふる里の加茂の川べのかはやなぎ  まさをに萌えむあさげこひしも
神風の伊勢の大宮に朝な朝な  ぬかづけるとふ母をおろがむ

西田は能書家として知られている。
世を慨き人を愁ふる二十年  いま落魄の窓の秋風    天心猛生
西田は遺墨の署名は たいてい 「 天心 」 と 号しているが、
まれに 「 西伯処士 」 とも署名している。
郷里の南東部に広がる平野と、そこに悠大な裾野を広げて聳そびえる山陰一の鐘状火山、
大山 ( 一七一三メートル ) が指呼のうちにのぞまれる。
その地域一帯が西伯郡である。
朝夕大山をのぞんで育った西田は、懐旧の情を托してこの名を号としたものであろう。

かの子等は あをぐもの涯にゆきにけり
涯なるくにを日ねもすおもふ

昭和十一年七月十二日、
青年将校たち十五名が天皇陛下万歳を叫び、
「 みんな撃たれたらすぐ陛下の前に集まろう 」
と 元気よく話しながら、無残に銃殺された日、
少し離れてはいても、
そのかすかな声やざわめきは西田の監房にも響いてきたのであろう。
彼はやるせない思いをこの歌に托した。
終日法華経を誦していたといわれる。
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翌十二年八月十日、
東京の弟正尚から、
いよいよ近い内に判決が下るという知らせで、博は内密に上京した。
六十八だというのに、事件以来めっきり衰えのめだってきた母に、
兄の死刑の判決が近いことを知らせるに忍びなかった。
しかし、気配でそれを悟った つね は、
店の仕事を嫁の愛にまかせて
十五日の汽車に乗り、
十六日には陸軍衛戍刑務所の面会所に現われて、みんなを驚かせた。
税は急に衰えのめだった母に気をつかい、
「 お母さん、泣けるだけ泣いて下さい。
汽車の別れでさえつらいものですのに、
いよいよ お母さんとは幽明境を異にするわけです。
どうか泣けるだけ泣いて下さい 」
と 言って自分の袂からハンカチをとり出して、母の手に渡した。
しかし、つね は 泣かなかった。
昔の武士の母のように端然として、
言葉少なに返事しながら、眸ひとみは食い入るようにわが子の顔をみつめていた。
「 十五日から十八日まで、母を先頭に初子、姉弟 それに同志の人々は、
毎日 面会に通いました。
しかし、すでに生きながら、涅槃の境に這入っていた弟から、
かえって面会にきた私たちが慰められ、激励されて泣くことが多かったのです 」  ( 村田茂子 )
「 十八日面会に行ったら、兄はきれいな頭を剃っていた。
それを見た瞬間、死刑は明朝だと知った。
スーと頭から血がひくように感じた。
涙がとめどなく出て止まらない。
兄が慰めるように 『 正尚、こんな句はどうだ。夏草や四十年の夢の跡 』 と言った。
『 兄さん、それは 』 と、言ったまま絶句した。
芭蕉の焼き直しですよとは言えなかった。
泣いている弟をいたわる死んで行く兄の最後のユーモアだったとは、
ずっと後に気がついた 」 と、これは末弟正尚の追想である。
また 家にいる博には、米子弁まるだしで、
「 昔から七生報国というけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」  ( 村田茂子 )
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」  ( 西田愛 )
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ 」
と 言って、金網越しに暖かい自分の手を一人一人に握らせ、握りかえしていた。    ( 村田茂子 )
死刑執行の近いことを知った西田は、
十五日には最も親しく信頼している姉茂子に、
十六日には妻初子に、それぞれ遺言状を書き残している。
初子にあてた手紙は、 « 西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 » を参照

ここでは姉茂子にあてた遺言状を紹介する。
平素の修練未熟、玆に非常の場合に立ち到り、
嘸々さぞさぞ御驚嘆の御事と恐察、不悌、何とも申訳無之次第に御座候。
只本年春御上京、御面謁の砌
みぎり一応申述候通り、何事も天命時運、
此度の儀も、私境涯に於て止むを得ざるに出でたものにして、
又 一面より見れば、好個過分の天与の死所死機なりしものに有之候。
然る処、七十年辛労の後、又復 今日のことに遭会して、老母の心中如何なるべきか。
断腸此事に候。
願くば此上とも姉妹兄弟、相和し 相依り、
夫々康福奉養、老母の残年をして更に心安からしめ給はむことを。
初子は小弟十二年来の真個の好半身、宿縁の愛妻、誠に不憫に堪えず候。
殊には同じき未亡の涯分、何卒私とも思召されて、修正後愛撫御懇情相願度候。
後事要々の件は夫々申残し候。
諸般について、初子 博 等より伝達せしむべく候。
本日は故秀善兄の御命日に当り候。
万懐殊更に深きもの有之候。
姉上様には、故兄の遺児の為に至重の御身、何卒一層御自愛御健祥にて、
一家御繁昌の程奉祈上候。
私、何事も貢献する所なくして終り、故兄に対しても慚愧此事に候。
御詫申上候。
万懐、滾々こんこんとして尽きず候も、如何ともするなし。
是れにて生前最後の御訣れ申上候。    泣血頓首
昭和十二年八月十五日        税
御姉上様  膝下
白い封筒の裏には 「 於東京衛戍刑務所  西田税 」
表には 「 村田しげ子様 」 とあり、西田の処刑後、刑務所の係官から本人に手渡された。

十七日には
「 残れる紙片に書きつけて贈る 」 として 「 最後によめる歌八首 」
を 書き残している

限りある命たむけて人の世の  幸を祈らむ吾がこころかも

あはれ如何に身は滅ぶとも丈夫の  魂は照らさむ万代までも

国つ内国つ外みな日頃吾が  指させし如となりつつあるはや

ははそばの母が心腸はらわた  断つ子の思ひなほ如かめやも

ちちのみの父らまち給ふ風きよき  勝田ケ丘のおくつき所

うからはらから世の人々の涙もて  送らるる吾は幸児なりけり

君と吾と身は二つなりしかれども  魂は一つのものにぞありける

吾妹子よ涙払ひてゆけよかし  君が心に吾はすむものを

・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


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