あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

安田 優 『 軍は自ら墓穴を掘れり 』

2021年11月30日 06時07分07秒 | 安田優

・・・・この将校の中に 安田優という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」
・・・そのとき私は小学校五年生でした

同志は實に偉大だ  特に若い同志に偉大な人物が多い
安田の如きは熱叫 軍の態度を攻撃した。
彼の最後の一言
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
は 昭和維新を語る後世の徒の銘記すべき名言と云はねばならぬ。
安田はサイトに第一彈をアビセ 渡邊をオソヒ 一人二敵をタホシタル勇豪の同志、
劍に於ける彼の勇は言論にも勇であつた。
余は 彼の言をきゝ 余の云ひたきことを全部云ひツクシテ呉れたるを深謝した。
・・・磯部浅一 ・ 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 


安田優  ヤスダ ユタカ
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
目次
クリック して頁を読む


・ 安田少尉 「 天誅國賊 」 
昭和維新 ・安田優少尉
・ 安田優少尉の四日間 
・ 安田優少尉 ・ 行動録 ( 1月18日~2月29日 ) 
・ 安田優少尉と片倉衷 
・ 
安田優 ・ 憲兵訊問 「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 
 安田優 『 軍は自らの手によって、その墓穴を掘ったのであります 』 
・ 最期の陳述 ・ 安田優 「 村中の背後には なにか大なる背景があると信じます 」 
・ 
安田優 『 序言 』 
・ あを雲の涯 (十六) 安田優
・ 昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉 

私は斯く申せばとて
我々の今回の擧を以て罪なしとなすものにあらず。

又、國法無私するものにもあらず。
唯 現在の國法は強者の前には其の威力を發揮せずして
弱者の前には必要以上の威力を發揮す。
我々今回の擧は
此の國法をして絶對的の威力を保たしめんとしたるものなり。

私は今回の事件を起こすに方り既に死を決して着手したり。
即ち、決死にあらずして必死を期したり。
今更罪になるとかならぬとかを云為するものにあらず。
靜かに處刑の日を待つものなり。


『 二 ・二六事件 』 そのとき私は小学校五年生でした。

2021年11月29日 10時55分07秒 | 安田優

阿蘇神社の 「 御前迎え 」 俗に 「 火振り祭り 」 がすむと小川の水もぬるみ、
日とともに阿蘇は早春らしくなり 「 野焼き 」 がくるといっぺんにハルノ装いとなります。
その年は例年になく冬が長く二月も終りになってから雪が降り、山は一日じゅう白銀に輝いていました。
そんな日の夜、わが家の土間では女御衆おなごしたちが集まって炭俵編みの内職をしていました。
その傍らコンコン婆しゃんが、大声で喉をゼーゼーいわせながら喋っています。
コンコン婆しゃんは、村落随一のラヂオ所有者であり、情報にうといこの村落では随一の情報屋で、
村の人たちは 『 伝書鳩 』 とも呼んでいました。

「 ちょとまあ 聞きなはり。 東京じゃ兵隊が大勢して剣付鉄砲で暴れだしてな。
政府のえらか衆ば、片っぱしから撃ち殺してしまったげな。東京は上を下への大騒ぎちゅう話たい 」
「 へえ、婆しやん、そりゃいつのこつじゃうか 」
「 なんでも四、五日まえのこつばい。
 兵隊が鉄砲で撃ち合いばしてな、新聞社も放送局も全部おさえてしもうてな、
夕方儂が聞いたニュレスじゃ、初めてのこつだつたな 」
内職の小母しゃんたちは、一斉に手仕事をとめてコンコン婆しゃんを注視しています。
私も炭俵にする萱を一本ずつ揃えながら母しゃんの傍らにいました。
「 えらか衆たちなら話せばわかろうもんに、
 なんでまた鉄砲撃って人殺しなんぞ恐ろしかこつばするとじゃろか、
兵隊ちゅうのはむごかこつするもんじゃな 」
母しゃんが、えらい見幕でまくしたてたので、みんなが一瞬黙ってしまいました。
「 それがな、騒ぎ起こしたのは陸軍の若え将校さんげなたい。
 いま日本じゅうがこうした不景気じゃろ。
どこの百姓もみな飯の食えんこてなつとるたい。阿蘇の百姓ばつかりがきつかつじゃなかもん。
そいで若い将校たちあ、こうした世の中真っ暗うなつたんは政治家の責任たいちゅうて、
剣付鉄砲で騒ぎば起こしたちゅうこつたい 」
さすがに新智識を仕入れているだけにコンコン婆しゃんの話には説得力があります。
女御衆たちも 「 そげんな 」 「 百姓の味方ちゅうわけたい 」 とうなずきながら聞いています。

昭和十一年二月二十六日の、
いわゆる 「 二 ・二六事件 」 は阿蘇の村里にも、恐ろしい事件として伝えられました。
私に初めて 「 二 ・二六事件 」 を伝えてくれたのは 『 拝み婆 』 ことコンコン婆しゃんだったのです。
しかし情報が伝達されたのは二月二十六日から四、五日経ってからでした。
それは阿蘇というところが、文化果つる僻遠の地というだけでなく、陸軍が事件とともに戒厳令を布き、
事件関係の報道を禁止したからです。
そのとき私は小学校五年生でした。
思い出されるのは、コンコン婆しゃんの話を聞いた直後、
学校で五、六年生の生徒を全部、にわづくりの講堂に集めて、
校長先生や六年の男子組担任の坂本先生の特別講和があったことです。
坂本先生は体躯は小さいが威勢のいい先生で 「 二 ・二六事件 」 の首謀者のひとりである安田少尉と、
中学時代に同級だったとかで、涙をポロポロこぼしながら熱弁を振るわれました。
坂本先生が壇上で興奮の余り絶句されたのがとても印象的でした。
「 ・・・二月二十六日の朝早く、大雪の中を二十一人の将校が、千四百人の兵隊をひきいて雪を蹴たてて
岡田首相、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、鈴木侍従長らを襲撃しました。
そして鉄砲や機関銃によって重臣たちの多くを殺し、陸軍省をはじめ参謀本部、警視庁などを占領して
しばらくは日本の政治を制圧したのです。
・・・・どうしてこんなことをしたかといえば、
この数年間、日本の社会が不景気で行き詰まっているのは、
天皇陛下を助けて政治をしている重臣や役人が、自分勝手なことをしているからだ。
これらの人間を取り除いて昭和維新をやらねばならんと思ったのです。

・・・・この将校の中に 安田 優 
という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」
坂本先生の講話は山の中の軍国少年たちの興奮を誘いました。
坂本先生の同級生の一人がこの事件に加わったということで 「 二 ・二六事件 」 というものが、
私にとって にわかに身近なことに思えたものです。
坂本先生の話を聞いてから 「 二 ・二六事件 」 の若い将校のことがとても崇高に思えたり、
やはり母しゃんのいうような 「 人殺しはいかんばい 」 とも思えたりしたものです。
そのうちに日が経つにつれて若い将校たちは後ろから操られただけの犠牲者で、
純粋でかわいそうな人たちだと思うようになりました。
どうしてこんなふうに思ったのでしょう。

三月に入ってから 、「 二 ・二六事件 」 の軍法会議による裁判が始まりました。
緊急勅令によって、この事件は反乱罪だから 「 一審のみで、上告なし、弁護人をつけず、公開もせず 」
いうまさに暗黒裁判の名のとおりでした。
宮地館の映画のあいまのニュースで 「 いよいよ軍法会議開かる 」 というのを見ました。
悪びれる風もなく胸を張って軍法会議に赴く若い将校たち二十名余りが映っていましたが、
なかには白い歯を見せている人もいました。
安田少尉という人もいたのでしょうが、どの顔もみな同じに見えてよくわかりませんでした。
写真の解説に
天皇陛下におかせられては、このたびの事件は国法を侵し、
 国体を汚すきわめて憂うべきじけんである。
このさい関係者には厳粛にのぞみ、以て粛軍の実を上げ、
再びこのようなことの起らぬようにすべきである。・・・・との勅諭を発せられました 」
と荘重に言葉がはいりました。
ニコニコして会議場に消えていった若者たちの顔は
子供にもそれとわかる重たい言葉とはまるで違った雰囲気のものでした。
その段階では、
この若者たちはそれほど厳しい罪に問われることは夢想だにしていなかったのかもしりません。
七月にはいって急に暑くなりました。
七月の何日だったのでしょうか、六日か七日のことだったのでしょう。
ブリキ屋の小母しゃんが熊本の町に用事に行った帰りにわが家に立ち寄りました。
「 熊本じゃ号外売りがリン、リンと鈴を打ち振るってとんでまわってな。
 一枚二銭で買うてきたばい。なんでん東京じゃ兵隊しゃんが死刑になったげなたい 」
小母しゃんは手提げの中から折りたたんだ一枚のビラを私にくれました。
それは大きな活字で
「 反乱軍遂に断罪、十五名に銃殺刑、事件の青年将校ら天皇陛下万歳を唱和、
従容として死につく 」 と書いてありました。
事件から四ヶ月、短い間に審理をして死刑の判決を言い渡し、早くも銃殺にしてしまったのです。
何か早く死刑にしてしまわないと、面倒なことでも起こるとでも思っているようなあわてた事の運びようでした。
事件との関係があれこれ取沙汰されていた荒木、真崎、柳川などという将軍は無罪とされ、
直接に行動をした若者たちだけが、『 言い分 』 に封印されたまま処分されたのです。

この青年将校たちは、昭和維新をやってのけて、
軍部の力で腐った政治をたて直そうとしいたのですが、「 二 ・二六事件 」 の結果、
皮肉にも将校たちが思い描いたような軍部独裁が成立したのです。
こうなると この若者たちが生きていることはかえって厄介なのです。
全部を死刑にすることで真相を永遠に闇の中に封じこめてしまったのです。
きっと誰か、大きな軍隊を動かす力が青年将校たちをこんな行動に走らせたのでしょうが、
秘密のうちに事件は片付けられたので、国民は真相を知ることができませんでした。
青年将校たちは銃殺されましたが、この将校の起こした騒ぎを十分に利用するかのように、
その後は軍部が横暴になり、誰にも遠慮することもなく中国大陸での戦火を拡げていきました。
「 雀追いにしても同じりくつ。
 いつもバケツばガランガランやかましゅうやると、 雀も馴れてしもうてびくともせんごてなる。
兵隊さんが東京のど真ん中で鉄砲撃って人殺しばさしたけんな、
人殺しが当たり前になってきたばい。
こるかる戦争がどんどん拡がって、若い衆が何人も死ぬるごてなるとじゃろたい。
ほんとに困ったこつばい。どけんしたらよかもんじゃろ 」
母しゃんは石臼で豆をひいて黄粉を作りながら私に語りかけるようにいったものです。
事実、私が六年生になってからというものは、
坂道を転げ落ちるように日本は戦争への道を駈けおりたように思います。

『 二 ・二六事件と安田少尉 』  丸木正臣 著


安田優少尉 ・ 行動録 ( 1月18日~2月29日 )

2020年02月20日 05時21分10秒 | 安田優


安田 優少尉
事実論

一月十八日
歩一に於いて 栗原、中島と會し、
二十五日以后純靑年將校をもって立つ可きを約す。
二月十八日
村中を訪ね 立つ可きを約す。
二月二十三日
村中、中島に會す。
中はしを訪ね果たさず。
二月二十四日
坂井を歩三に訪ね、高はし、麥や に會し決定す。

二月二十五日
村中、中島に會し、明朝蹶起を約す。
午後四時
萩窪駅にて弟肇と會し、兄と會し 神の導引を謝す。
午後六時
家を出づ。
家を出づるの前、愛弟に菓子をあたへ、二階に至りて號泣す。
又 辱知諸兄に訣別す。
午後七時
新宿中村や にてかすてらーを求め、宝亭に訣別せんとして止めたり。
午後七時半
歩三に入り、一中隊に至りて準備。
夕食を採り拳銃を手入す。
午後十時半
下士官をあつめ趣旨をつたふ。
« 二月二十六日 »
午前一時
兵をおこしたり、彈薬食糧を供す。
午前四時
舎前集合、進發を令す。
午前五時十分
齋藤邸を包囲す。
女中部屋よ附近より侵入。
是より先 警官を戒論せり。
諾々たり。
平田リンの案内に依り階上に内府を求む。
時に中より扉を開け 更に閉めむとするを排して突撃。
春子を排して内府を求む。
時に内府寝室より出で來る。
余、第一發を發し寝台下に斃す。
二發を更に加へたり。
階下に至りて集合號令を吹奏せしむ。
時に
五時十分
赤坂離宮前にて宮城を拝す。
兵力三十名を選抜す。
五時三十分
田中中尉自動車をもたらす。
出発、上萩窪に至る。
六時十分到着
兵を率ゐ 表玄関を破り侵入。
一彈を右肢に受く。
裏手に廻り夫人を排して侵入、二彈をあたう。
引上ぐ途中憲兵の自動車を破壊す。
午前七時前后
陸相官邸に着す。
前田病院に入院、就眠。
午后八時頃めさむ
上京不明。
自決々意。
靑ノ氏に催眠剤をいたゞき更に就眠せり。
戰時警備令下に入りたるを知る。
小藤大佐是れを指揮せり。
二十七日午前二時
戒嚴令下に入る。
麹町警備隊たり。
中島來る。
告示を齎もたらす。
大臣告示
一、蹶起の趣旨は天聽に達したり。
二、諸子の行動は國體眞姿顯現の至情に基くものと認む。
三、國體眞姿顯現の現狀 (弊風を含む) に關しては恐懼にたへす。
軍事參議官も一同一致して匪窮の誠をいたし、國體愼姿顯現に邁進せむとす。
これ以上は大御心にまつ。
二十八日
中島來訪。
維新大赦令發布の計進行中なるを告ぐ。
栗原、丹生氏來たる。
午后
上京激變せるを知れり。
寺内、植田、林の策動あり。
一木、湯淺、宮中を攪亂す。
清浦、參内を阻止さる。
運命に委す。
二十九日
悠々自若たり。
午后
奉勅命令下れるを知る。
學校に聯絡し、陸相官邸に集合せり。
出發前茶菓の饗もてなしを受く。
感謝しつゝ出院。
赤十字自動車にて送らる。
船引中佐と別る。
首相官邸に至る。
更に陸相官邸に至る。
坂本大佐に武人の面目を全うせむことを申出づ。
憲兵に擁せられ果さず。
石原莞爾に面罵され、射殺せむとし機を失ふ。
武装を解かれむとするに当り、自決せむとして果さず。

二・二六事件青年将校 安田優と兄・薫の遺稿から


安田優 『 軍は自らの手によって、その墓穴を掘ったのであります 』

2017年11月18日 15時32分28秒 | 安田優


安田 優

安田少尉は音吐朗々として雄弁を奮った。
その内容と共に私は非常に感激した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・昭和11年5月19日、第十五回公判・・・
公訴事實ニ對スル反駁
檢察官ノ陳述セル公訴事實中我々ノ行動ヲ賊軍ノ如ク取扱ヒアルモ、
私ハ奉勅命令ニ背キタルコトナキニ附、
奉勅命令ヲ傳達シタルヤ否ヤノ點十分審理アランコトヲ希望ス。
尤モ、私自身トシテハ賊徒ノ汚名ヲ甘受シテ死スルノ雅量ヲ有セザルニアラザルモ、
國軍ノ爲ニマコトニ遺憾ニ堪ヘザル次第ナリ、云々

原因、動機ニ就テ
上層階級ノ精神的堕落、中堅階級ノ思想的頽廃たいはい
下層階級ノ經濟的逼迫ひっぱく ヲ救フ爲ニハ、
球磨川ノ如キ流ガ大ナル岩ニ當リテ激スル如キ事件ヲ起コスカ、
或ハ戰争ヲ起スカ、
兩者其ノ一ヲ選ブノ外ナシト思料シ、
而モ戰爭ヲ起スコトハ我國内外ノ情勢上危險ヲ伴フ虞アリタルヲ以テ、
前者ヲ選ビタルモノナリ。
而シテ多クノ諸君 ( 相被告ノ意 ) ハ
陸軍大臣ノ告諭、戒嚴部隊編入等ヲ以テ
我々ノ擧ガ正シキモノノ如ク考ヘアルガ如キモ、自分ハ意見ヲ異ニス。
即チ、我々ノ行動ハ其ノ良否ハ別トシテ、最初ヨリ正シキガ故ニ正シキモノニシテ、
今トナリテハ考フレバ、
大臣ノ告諭、戒嚴部隊ノ編入等ハ却テ禍とナリタルモノト思料セラル。
肩ニベタ金ト星ヲ三ツ着ケテ自己ノ職分ヲ盡スコト能ハザル如キ軍人ノ存在ヨリモ、
身分ノ低キ一士官候補生ニテモ自己ノ信念ニ基キ盡クスベキ処ヲ盡ス者ノ存在ガ國軍ノ爲如何ニ有用ナルカ、
嚴頭ニ立ツテ頭ヲメグラス如キ軍人ノ存在ハ國軍ヲ毒シ國家ヲ滅亡ニ導クノ因ヲ爲スモノニシテ、
斷ジテ排撃すベキモノナリ、云々

國軍ノ將來ニ對スルオ願
私ハ斯ク申セバトテ我々ノ今回ノ擧ヲ以テ罪ナシトナスモノニアラズ。
又、國法無私スルモノニモアラズ。
唯現在ノ國法ハ強者ノ前ニハ其ノ威力を発揮セズシテ
弱者ノ前ニハ必要以上ノ威力ヲ發揮ス。
我々今回ノ
擧ハ此ノ國法ヲシテ絶對的ノ威力ヲ保タシメントシタルモノナリ。
私ハ今回ノ事件ヲ起コスニ方リ既ニ死ヲ決シテ着手シタリ。
即チ、決死ニアラズシテ必死ヲ期シタリ。
今更罪ニナルトカナラヌトカヲ云爲スルモノニアラズ。
靜カニ處刑ノ日ヲ待ツモノナリ。
今、玆ニ述ベントスル処ハ、恐ラク私ノ軍ニ對スル最期ノオ願ト成ル物ト思料ス。
(1)
軍ガ財閥ト結ブコトハ國軍ヲ破壊シ國家ヲ滅亡ニ陥ラシムル原因ナリ。
而シテ其ノ萌芽ハ既ニ三月事件、十月事件ノ際之ヲ認メタリ。
 トテ、池田成彬ガ靑年將校ニ偕行社ニ於テ金錢ヲ分配セントシタルコト、
十月事件ノ宴會費ハ機密費ヨリ支出セリト云フモ 財閥ヨリ支出セラレタル疑アルコト ヲ 引例ス )
(2)
軍上層部ト第一線部隊ノ者トノ間ニ意思ノ疎隔アルハ國軍將來ノ爲憂慮ニ不堪。
此ノ携行ハ在満軍隊ニ於テ其ノ著シキヲ見ル。
永田事件後、軍上層部ニ依リテ叫バレタル肅軍、統制ノ聲ハ相當大ナルモノナリシガ、
第一線部隊ニ在ル者ハ第一線ノ部隊ハ軍紀風紀嚴正ニシテ統制ヲ破ル者ナシ、
肅軍、統制ノ必要ハ第一線部隊ヨリモ軍上層部ナリトテ、中ニハ憤慨シタル者アリ。
多門師團長ガ第一線部隊ノ將兵ガ困苦欠乏ト闘ヒアル際自分ハ高楼ニ坐シテ酒色ニ耽リ、
靑年將校ガ憤慨シテ斬リ込ミタルハ事實ナリ。
某旅團長ガ花柳病ノ爲部下將兵ヲ満洲ノ野ニ殘シテ歸還セザルベカラザルニ至リタルモ事實ナリ。
日露戰役ノ際、上原將軍ガ部下將兵ト共ニ戰場ニ於テ穴居生活ヲ爲シアルヲ見タル
獨逸皇太子ヲシテ感歎セシメタルハ有名ナル話ナルガ、
斯ノ如キ將軍ガ現今幾人アリヤ。
(3)
將校ト下士官以下トノ氣持チハ漸次遠カリツツアリ。
此ノ現象ハ國軍將來ノ爲看過シ難キ一大事ナリ。
我々ハ及バズナガラ此ノ點ニツキ努力シ來レルガ、
將校タル者ハ大イニ考慮スベキコトト信ズ。
(4)
將校團ノ團結ニ就テ
現在ノ將校團ニハ士官學校出身アリ、少尉候補者出身アリ、特別志願者アリ。
士官學校出身者ノ中ニ於テモ貴族的ノ者アリ、
役者ノ如キ軟派ノ者アリ、或ハ纔ワズカニ氣骨ヲ保持スル者アリテ、多種多様ナリ。
此ノ現象ハ將校團ノ團結上障碍ヲ爲スニアラザルカ。
以上四項ハ軍首脳部ニ於テ特ニ御考慮ヲオ願ヒシ度キ點ニシテ、
恐ラク私ノ最後ノオ願ヒナリ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上は憲兵が残した記録であるが、
よくその意を尽くしていないし、舌足らずである。
そして肝心のことが欠落している。

安田少尉は今回の事件の処理に於て、
軍の取った方法手段は我々の心情を全く無視したものであると言った。
二十九日最後の日の軍のやり方は悉く我々の精神を蹂躙したもので、
これによって林の剛勇も池田の純情もすべて踏みにじられてしまったと慨嘆した。
そして軍はこれから我々の総てを葬り去ることによって
自らの指導権を確立した幕僚の天下となることを予言し、
このようなやり方が如何に軍自体を傷つけたかを直言し、
最後に、
「 軍ハ自ラノ手ニヨッテ、ソノ墓穴ヲ掘ツタノデアリマス 」
と絶叫した。


事件の証拠調、証拠物件の提示、
申請せられた証人に対する予審官の取調及びその回答、
これは大体に於て検察官が行ったように記憶している。
検察官は匂坂春平という法務大佐であった。
この背の低い小柄な検察官は嫌な感じのする男であった。
我々が占拠していた場所の検証調書、殺害した人々の死体検案書を一々読み上げ、
証拠物件として多数の品々を呈示した。
そしてブリキ缶の中から故高橋蔵相の血染めの寝巻などをとり出して呈示した。
我々がやったことはすべて事実として全員認めているのだから、
こんな物をわざわざ見せなくとも良いと思った。嫌な感じであった。
申請した証人の回答もすべて一方的なもので、
陸軍大臣の告示も戒厳部隊への編入も皆説得の為になされたものであることを、
川島大将の証言を読上げて立証した。
その他の証言もすべて最初から我々を鎮圧する為の作戦上の必要性から行われたまので、
我々の行動は兵営を出た時から反乱行為であると言う立場の上に構築されていた。
その他数多くの申請した証人に就いては、其の必要を認めないとの理由で脚下された。
事件勃発当時、義によって我々を応援した多くの人々も、
我々が敗れ去ってからは腫れ物に触るように、我れ関せずの態度をとった。
若し同調するような言動を取れば、直ちに拘留されることは判然としていたからである。
多くの人々は我々を一方的に葬り去ることによって、その責任を逃れた。
その変心の様はまことに憐れむべきものであった。


池田俊彦 著
きている二・二六  から 


安田優 ・ 憲兵訊問 「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 

2017年11月17日 19時19分30秒 | 安田優


安田 優
私ハ小サイ時カラ不義ト不正トノ幾多ノ事ヲ見セツケラレ、
非常ニ無念ニ感ジテ來タモノデスカラ、
小サイ時ハ辯護士ニナツテ之ヲ打破シヨウトシタガ
之ヲ達セラレナイト思ヒ
( 法律ハ金力ニ依ツテ左右サルコトガ多イカラ ) 斷念シ、
中學校ニ入リ一番正シイノハ
軍人ダロウト思イ軍人ヲ志願シタノデアリマス。
大正十二年頃
佐野學ガ第一ニ檢擧サレタ頃、
共産主義ノ説明ヲ父親ニ聞キ 大イニ共産主義ヲ憎ム様ニナリマシタ。
實ニ軍人ノ社會ハ正シイモノト思ツテ志願シタノデアリマス。
士官學校豫科ニ入ツテ二日目ニ、全ク裏切ラレタノデアリマス。
第一ニ
御賜ニテ幼年學校ヲ出ル様ナ人間ハ、
支給サレタ自分ノモノガ無イ時ハ
他人ノモノヲ取リテ自分ノモノニシタ様ナ實例ヲ見、
其ノ他 他人ノ金錢ヲ取ルモノ、
又ハ本科ノ生徒ガ
日曜ニ背広ヲ著シ 「 カフェー 」 ヤ遊郭ニ行ク様ナ點ハ 全ク憤慨ニ堪エナカツタノデアリマス。
此ノ様ナ點ニテ、
村中區隊長ト接触ヲ始メタノデアリマス。
而シテ 此ノ様ナ不正ハ何トカセネバナラヌト共鳴シテ居ツタノデアリマス。
原隊ニ歸ツテモ、
村中氏トハ家族同様ノ親交ヲシテ居ル内ニ、
村中氏ハ私情ヲ投ゲ
君國ニ殉ズルノ精神ニ甦ツテ行動シテ居ラルルコトニ非常ニ感奮シタノデス。
然シ 一度モ國家改造等ノ事ハ村中氏ヨリ聞イタコトハ有リマセン。
但シ、其ノ進行中ノ無言ノ内ニ愛國ノ士デアルコトガ判リ、
無言ノ感化共鳴シ 全ク此ノ愛國ノ至情ニハ一ツノ疑念ナク、
凡テニ於テ共ニ行動出來ルモノト確信シタノデアリマス。
ソノ後益々親交ヲ深クシテ居リマシタ。
然ルニ 悉ク遭遇スルモノハ皆不正不義ナル現實ニ接シ、
いよいよ凡テニ是非國家改造ノ必要ヲ痛感シテ來タノデアリマス。
就中、三月事件、十月事件、十一月事件デアツテ、
殊ニ甚シク遺憾千萬ナモノハ統帥權干犯問題デアリマス。
然ルニ相澤中佐殿ノ公判ニ依リテ見テモ、
統帥權干犯問題ガ闇カラ闇ニ葬り去ラレ様トシテ居ルノデ、
何トカシテ之ハ明瞭ニシ
斷乎ソノ根源ヲ絶タネバナラント愈決心ヲ固クシタノデアリマス。
ソレニハ元兇ヲ打タネバナラヌト考エタノデアリマス。
私ハ昨年十一月ニ砲工學校普通科ニ入ルベク上京以來、
勉強ノ爲メニ追ハレテ居ツタ關係上
村中氏トハ二回位シカ會ツタ事ガナイシ、ソノ他何人ニモ會ヒマセンデシタ。
然ルニ、統帥權干犯問題ヲ新聞ニテ知リ、
愈根源斷絶ヲ決行セネバ駄目ト考ヘテ居リマシタ。
之レガ爲メ、第一ニ中島ニ聯絡ヲトツタノデアリマス。
何とナレバ、中島ハ村中氏ヤ河野氏、安藤氏等ト聯絡ヲトツテクレルト思ツタシ、
マタ聯絡ヲトツテ呉レト頼ンデモ置イタカラデス。
其レデ、中島ニハ具體的方法等ノ事モ考エテツタノデス。
只此度ハ個々夫々ニ計畫ヲ口デ申シ合セ文章ニシテアリマセン。
ソレハ、從來文章ニスレバ失敗シテ折ツタ苦キ經驗ニ基クモノデス。

次ニ經濟上ニテ、
現狀ハ一君萬民ノ國情ニナツテ居ラヌ事ハ明瞭ナル事實デアリマス。
同ジ陛下ノ赤子ナガラ、
農村ノ子女ト都会上層部ノ人々トノ差ノアマリニ烈シイコトハ
陛下ニ對シテ申譯ナイト思ヒマス。
之ハ現在ノ國家ノ機構ガ惡イト思ウノデアリマス。
殊ニ北海道山奥ノ人民ノ生活ハ満洲人等以下ノ生活ヲシテ居リマス。
殊ニ北海道ノ北見ノ方ニ行クト、
十一月頃ニ一月位迄食ウ馬鈴薯モ ( 米、麦ハ勿論ナシ ) 無イト言ウ有様デアリマス。
然ルニ 農村ノ租税ノ割合ハ都市ヨリ多ク、金融ハ凡テ集中占領サレテ居リマス。
満洲事變以來、
軍部ハ政党ヲ押エ附ケ様トシテ來タガ今ハ政党ノ温床ノ如クナツテ居ル。
其レハ 軍需 「インフレ 」 工業ノ利益ガ政党ニ行ツテ居ル。
例エバ飛行機ノ政策ニテモ同様、
外国ヨリ 「 パーテント 」 ヲ買ツテイル中島、川崎、三菱等ハ高イ金ヲ以テ軍部ニ賣ツテ居ルガ、
ドウセ外國ノモノヲ買ワナイ、
彼等ノ手ヲ經ス國家ニテ統制シテ之ヲ整備スル必要ガアルノニ、
ソレヲヤラズニ居ルノハ即チ政党ノ温床ニナツテ居ルカラデアル。
殊ニ重工業ノ如キハ實ニ斯ル様ニ思ウ。
之ハ財閥重臣ヲ斃サネバ此ノ實現ハ出來ヌト思ウノデアリマス。
今デモソレヲ確信シテ居ルノデアリマス。
北海道ノ兵ノ如キハ、食物ハ軍隊ノ方ガヨイカラ地方ニ歸ツテ農ヲヤルコトヲ厭ツテ居ル。
ソレデ良兵ハ愚民ヲ作ルコトニナツテ居ル。
之皆農村ノ疲弊カラデアル。
之レヲ救ウニハ、ドウシテモ財閥重臣等ヲ排除セネバ實現ガ出來ヌト思ウノデアリマス。

次ニハ思想上ヨリ言エバ、
無産党ガ成功シテ居ルコトハ所謂 「インテリ 」 階級ノ動向ヲ察セラルルノデアル。
無産党ガ斯クヤッテ居ルト、軍隊ナラバ非常ニ隆盛ニナルコトト思イマス。
サスレバ、之レガ國體ニ相反スルモノガ此ノ様ナ狀況ニナレバ英國ノ如クナリ、
甚ダ憂フベキコトト思イマス。

憲兵隊 被告人訊問調書
「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 の問に答えたものである


安田優 『 序言 』

2016年12月03日 06時04分33秒 | 安田優


安田 優

序言
維新と言ひ 革新と言ふ。
吾人の希ふ所、
啻に社会機構の非ずして、
日本國民の根本的精神革新を以て第一義とす。
若し それ吾人が、
十八世紀前後に於ける大英帝國が其の植民政策を鞏固に堅持し、
克く 其の大をなせるもの其の所以を検、
其の事業たるや單なる海賊の所業に外ならずして、其の目的を貫徹せる所以のもの、
一に其の伝統的紳士道に基くものと言はざる可らず。
吾人今翻って、皇國の現狀を観察せむか、
外に國民精神の廢頽は徒に悔いを四夷にいたし、内徒らに私利の貧りに終始す。
吾人は此の精神的堕落を匡正して皇國本來の精神を發揚し、
國體の眞姿顯現のため挺身せざるを得ざるなり。
一、直接行動論
余は直接行動に依る現狀破壊に論理性を明白に堅持す。
夫れ大樹の克く其の大をなせる、一日の力にあらず、
其の基を訪ねむか地下に抑壓せられたる一つの種子が其の壓迫に抗し之を排除し、
太陽の白々明々を浴せむとする、
是に吾人は大地を破り、壓力に抗するの論理性を堅持す。
若し夫れ、大河の克く激流を集め破砕裂劇の自然性は、
此の論理性を明らかにして余す所なかる可し。
余は是に皇國國體破壊の現狀に鑑み、
此の現況を打破して民族意識を鞏固にし、更に之を高揚せむがためには、
斷固天劍に依る 是れに大撃を加ふ可きを信じてうたがはざるなり。
一、社會彈力論
吾人の求むる所は、サイン曲線の交錯にあらずして、
ガウス曲線の連續なる平面に非ずして之に近き波状面たり。
吾人の加えたる天撃は、實に此のガウス曲線に鼓動をあたへむとするの序曲たり。
若し夫れ大正中世以来、空氣充満破裂に瀕するの空氣枕、
然かも内壓に伴ふ外壓による其の平面的表狀を呈するは、
是れ實に彈力性を完全に失墜せるの劃一的の國家狀況に堕せるもの、
吾人が斷固改新せざる可からざる所以なり。 

國體論大綱
恭しく思見るに、
萬世一系、聖なる天皇の御稜威は、濱土に至るも是れを光被せざる可からず。
吾人は是に自主的人格の高揚により、
九千萬人民の日本國民たるの自主的人格の中心を求めて熄まざるなり。
是に吾人は維新を希求して熄まず。
國體破壊の元凶を論ず
一君萬民たる國體本來の面目は、
全く是れを認識せらるる事なく、國政は一部特權階級の壟斷に委し、
財政は一部財閥の獨占に帰し、
軍は一部巨頭の私兵化し、人材登庸の道は封建時代思想に逆轉し、
遂に天皇機關説の謬論は天皇の聖明を九重の奥に閉し奉り、
之れ實に所謂、啓して遠ざくるの不逞不敬の國體破壊に非ずして何ぞ。
以下之を詳述せむとす。
一、特權階級論
明治維新の歪曲せられたる藩閥政治の延長は、二十世紀当に半ばすぎむとするに當り、
更に尚余喘を保てるもの、是れ即ち特權階級の實質にして、
一君萬民たる可き國體を遮斷せむとするの中世的宦官、柳沢吉保的昭和攪乱の元凶にして、
酒井清勝的國權紊乱の元凶たり。
皇國一大躍進のためには、更に吾人は是れが残奸の艾除を希求して熄まず。
一、財閥論
富は皇室を凌ぎ、政匪を操縦することに依りて國政を壟斷し、
赤子股肱をして露頭に迷はしめ、
秩序破壊の根源をなし、是れを打倒し、
一君萬民本來の面目に立ち到らしむるがためには、
天皇の軍隊に依りて之に天劍を加へざる可らず。
即ち資本主義破壊の前に其の悲惨なる壊滅を救ふ所以のもの、實に此の天劍にあり。
一、政黨論
吾人は、天皇主權最高度発揚のためには、議會政治を是認す。
即ち吾人は主權發揚のための議會政治を維持するもの、
自由民主々義の主權制限のための議會政治を否認す。
故に吾人は政權授受のための既成政黨を排し、更に國體破壊の新進政黨を忌否せむとす。
現政黨政治を維持せむか、十年後に於ける天皇議會は遂に蘇議會の派出會たるに到るべし。
一、軍閥論
山県、上原等、藩閥皇魂の元凶に誘導せられたる軍閥の吾が軍隊を毒せるの事實は、
長軍たらしめ薩軍たらしめ、宇垣私軍たらしめ、更に幕僚私軍たらしめたるもの、
小児的虚榮心に彩られたる軍隊七十年の歴史は、皇軍本然の眞姿に非ざるなり。
然かも吾人の此の挙に依って派閥關係は一掃せられ、
啻幕僚私軍の排除をのみ残されたるものなり。
一、幕僚論
情報に支配せられ大勢に漂流する幕僚は、欺瞞的策謀的にして定見を有せず。
所謂保身の術に終始し、皇國に殉ずるの定見と情熱を有せず。
朝に新官僚と結託し、夕に財閥番犬の門を叩き、
皇軍を毒し更に皇國を毒す、その状、實に痛憤にたへず、
吾人は斷固ケレンスキー幕僚時代の崩壊を計りてやまず。
一、閣僚論
右に平等、左にマルクスをかざし、併かもレーニンの情熱を有せず。
自由獲得のために血を濯ぐの勇氣を有せず。
皇士に生れ、然かも皇士の何たるかを知らず。
言論抑壓の暴政に叩頭し、秋唇の卑怯に屈す。
無用の長物コノ位素禄を食むもの、夫は官僚たり。
吾人は是を斷固破壊せざる可らず。
一、將校論
口に忠君愛國を唱へ、兵に信義を教ゆ。
胸中利財をのみ計り、腹中同僚を陥れむとする。
是れ所謂將校たり。
國事損命を高唱し元気の中心を説いて然かも難を避けて易きにつくをのみ是れ計り、
兵を營倉に錮して身は唐劍に身をや安む。
軍の崩壊又期してまつのみ。反省せざる可けむや。
一、幕僚、官僚結託論
其の本質を同じくする兩者は、
今や全く民意を無視し、皇國を忘れ、利を胸中に計って國を食まむとす。
其の定見なくして漂洲たる海中に喘ぐもの、
実に皇國破壊の元凶と言はざる可らず。
上級階級の精神的堕落を論ず
天皇機關説の謬説にかくれ、旧套の自由平等主義に謬られ、
飛躍時代の新進の気鋭を殺ぎ、啻に現狀に満足し自利を之計り、
重臣は益々其の結束を固くし、軍内巨頭は三長官爭奪、
あたかも政党者流の政權爭奪に似たり。
此の弊風を打破せる之即ち、大義を明らかにして民心を正すにあり。
中間階級の思想的頽廃を論ず
知識階級は徒に卑屈なる功利主義にかくれ、進んで自己の信念を徹するの勇なく、
しかも只これマルクスの鵜呑みに終始し、又所謂プチブルは享樂的桃色的に終始す。
國を誤るの大、思ふべし。
層階級の經濟的窮迫を論ず 
( 略す )

故に我は、
是に天賦の劍を振ひ、特權階級に一撃を加へ、大義を明らかにし、民心を正し、
皇道を光被せむと共に、勃々たる神州正大の気を發揮せむと欲したるなり。
昭和十一年七月十一日
安田 優

極秘を要せむ

« 註 »
これは安田少尉が、刑死の前日の七月十一日、徹宵して書残したものである。
文中、蹶起の原因の一つである、
下層階級の経済的窮迫の問題を省略して結論しているのは、
時間の余裕がなくなったためと思われ、
それは筆致が乱舞になり、急いだ跡が歴然と見られることからも想像される

河野司編  二 ・二六事件  獄中手記遺書  から


安田優少尉と片倉衷

2016年12月02日 15時45分04秒 | 安田優

「 中佐、妙な話があるんです 。どうもこの病院に奴らの一味が入院しているらしい。二階にね 」
片倉はがらり話題を転じて来た。
「 それは将校か 」
「 そうらしい。ちょくちょく奴らの仲間が見舞にきているようですよ 」
「 貴様が入院していることは?」
「 これのおかげで気づいていません 」
顔面を覆う包帯を指で示した。
「 誰だ入院している奴は 」
「 安田とかいう男・・・・」
「 安田?それは野砲七聯隊の安田少尉だ。天草の出身で俺と同郷だ 」 ・・・リンク→そのとき私は小学校五年生でした
事件のまっただ中で、憎しみ合う反乱、幕僚の将校が同じ病院で治療を受けていたのである。
・・・
「 武藤中佐 」
病室を去ろうとする上司を片倉は鋭く呼び止めた。
「 何だ 」
「 殺しましょう。全員処刑だ 」
片倉は叫んだあと、武藤の耳を寄せるように長いことを語り続けた。
武藤は何度も頷いていたが、やがて病人から身を引き離した。
「 片倉少佐。今の言分を文書にして提出せよ。軍事課員のみんなで、じっくり検討する 」
「 この身体で書くんですか 」
片倉は、片方の眼を情けなさそうにゆがめた。
武藤は取り合わなかった。
「 文書にして提出せよ 」
冷酷に繰り返した。
・・・毎日新聞社一九八九年刊、寺内大吉著 「 化城の昭和史 」 下巻から

前田病院は院長が外遊中で尾形という方が代理院長だったんです。
その方が手術をしてくれましたのですが、その病院に安田少尉が入院したんですよ。
総理官邸へ侵入した男、それがぼくの上、二階におったらしい。
やが
てぼくの入院を知って、ぼくを殺すというんです。
今度は奴が・・・・
これはあとから聞いた話ですよ、
そこで尾形氏は、安田を寝台に縛りつけたらしい、動けないように。
それで、まあそういうことは病院ではなかった。
こっちは私の関係者が見舞にくる。
向うは向うの奴らが来るという状態が続いたんです。
さらに二十九日の朝、
いよいよ討伐攻撃が始まるというので、赤坂も危険地域になり、患者たちに避難命令が出た。
片倉は衛戍病院へ移ることになった。
ところが輸送車に安田少尉と二人だけ乗せる、という病院側の処置だ。
ようやく別々の車で運ばれた。
衛戍病院の病室へ移ったら最初の見舞客が反乱将校の栗原安秀中尉だった。
彼は気づかずに 「 これは失敬 」 と すぐに出ていってしまったという ・・・。
・・・片倉衷・回想録  から

 
安田 優

安田少尉が入院した経緯
二十六日の払暁、斎藤内大臣を襲撃、殺害。そのあとトラックで杉並の渡辺錠太郎教育総監を襲った。
・・・午前六時半か七時頃です。
都心へ帰ってくると 直ちに陸相官邸へ引揚げましたが、歩けません。
憲兵が世話して玄関の側の室に連れてゆき、看護長か誰かが手当をしてくれました。
これより自動車に乗り 中島が前田外科病院 ( 赤坂伝馬町 ) へ連れて行ってくれ、治療を受け、
昨二十九日午後二時迄入院しておりました。 ・・・憲兵隊訊問調書
・・・リンク→安田優少尉 ・ 行動録 ( 1月18日~2月29日 ) 

階上に、磯部さんに撃たれたと云う片倉少佐が入院して居り、
看護婦に

『 二階に連れて行って呉れ、あいつをぶっ殺す 』
と せがみ、困らせたこと。
不思議と病院中の看護婦は弟には親切で、
片倉少佐の世話をするのは皆いやだと言っていた
・・・昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉