あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか

2020年06月25日 18時01分22秒 | 説得と鎭壓

天皇の意思
この事態収拾に関しては部内には二つの意見があった。
一つは 断乎として彼らを討伐せよというのに対し、
他の一つは 皇軍相撃を排して説得により撤退せしむべきだというにあった。
これまで見てきたように当時の軍政首脳部一連の動きは後者に属するものであり、
ことに軍事参議官の大勢は皇軍相撃を絶対に避くべきとする荒木、真崎の意見に同調していた。
だが、統帥部としては比較的はっきりと討伐を打ち出していた。
宇都宮の第十四師団、仙台の第二師団、四ツ街道の重砲、千葉の歩兵学校の戦車、
教導聯隊それに、下志津の飛行機まで出動する態勢を整えた。
正に千数百の反乱軍に対し約四個師団の兵力を集中したわけである。
これは威力をもって反乱軍を制圧することによって、無血鎮圧を試みたもので
それは最も強硬に戒厳令の公布を主張した石原作戦課長の一貫した 「 威迫 応ぜざれば討伐 」
という方針によるものであったと見てよい。

だが、宮中でははじめから天皇の意思ははっきりしていた。
天皇は彼らを叛徒と断定し、
しかも急速にこれを討伐せよと大臣、
次長さらに 政府にもその意思を明示されていた。
陸軍の首脳部がいつまでも鎮圧に出ることなく、モタモタしていることに宮中では、
彼らはどちらを向いているのか知れたものではないと強い非難をあびせていた。
天皇は戒厳司令官の鎮圧措置が緩慢であることに不満だった。
二十七日午後
本庄武官長を召された天皇は、これについて彼の意見を求められている。
「 行動をおこしました將校の行爲は陛下の軍隊を勝手に動かしましたる意味において、
統帥權を犯すの甚だしきものと心得ます。
その罪もとより許すべからざることは明白でござりますが、
しかしその精神に至っては
一途に君國を思うに出たるものであることは疑う餘地もあるまいと存じます。
よって、武官長個人の考えといたしましては、
今一度説得して大御心の存するところを知らしめることが肝要と心得まする。
戒嚴司令官においても武官長と同意見であろうと考えます 」
「 武官長 」
---- 天皇の声は凛として冴えかえっていた。
「 彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか、
かくの如き兇暴な行動を敢えてした將校らをその精神において、何の恕すべきところがあるか、
朕がもっとも信頼する老臣を悉く殺害するのは、朕が首を眞綿で締むるのと同じ行爲ではないか 」
「 仰せの如く 老臣殺傷は軍人として最惡の行爲であることは勿論でございまするが、
しかし、たとへ彼らの行動が誤解によって生じたものとしても、
彼ら少壮將校といたしましては、
かくすることが國家のためであるという考えに端を發するものと考えます 」
「 もし、そうだとしても、
それはただ私利私慾のためにするものではないというだけのことではないか、
戒嚴司令官が影響の他に及ぶことを恐れて、
穏便にことを圖ろうとしていることはわかるが、時機を失すれば取りかえしのつかぬ結果になるぞ、
直ちに戒嚴司令官を呼んで朕の命令を傳えよ、
これ以上躊躇するならば 朕みずから近衛師団を率いて出動する 」
「 そのように御軫念をわずらわすことは恐れ多き限りでございます。
早速、戒嚴司令官に傳えて決斷を促すように致します 」
(以上本庄日記より)

二十七日 朝八時二十分
杉山次長は天皇に拝謁して 「奉勅命令」 を仰いだが、
天皇は至極満足にて ただちに、充裁になった。
この時、
「 皇軍相撃は努めて避けたく
目下軍事參議官は軍の長老として所属部隊長とともに極力反亂軍を説得中でありますので、
奉勅命令を戒嚴司令官に交付する時間については參謀総長に御委任を乞い奉ります 」
と 上奏してお許しを得た。
この奉勅命令は、
「 戒嚴司令官ハ三宅坂附近ニ占拠シアル證校以下ヲ以テ
速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊長の隷下ニ復歸セシムベシ 」
と いうのであったが、
この命令を下し
彼らが原隊にかえらなければ 断乎討伐するというのであった。

村中、北宅に現われる
この夜、兵に休養を与えるために、
野中部隊は鉄相官邸、鈴木部隊は文相官邸、清原部隊は蔵相官邸、中橋部隊は首相官邸、
田中部隊は農相官邸、丹生部隊は山王ホテル、安藤部隊は幸楽、
そして支援本隊は鉄相官邸におきそれぞれ宿営した。
これは反乱部隊が小藤大佐の指揮に入って
はじめてその命令下に宿営についたのであった。
夜、八時頃、
村中は夜陰に乗じて部隊を抜け出し中野区桃園町の北一輝宅に現われた。
そこで北宅に潜伏していた西田、
また西田の招きで来宅していた亀川とも会って今後の措置について話合った。
北は青年将校一致の意見として時局収拾を真崎大将に一人したことに関し、
参議官が一致してこれを上奏することの成り行きについて、
いまだに参議官から青年将校に回答がないことを憂慮し、
今日、薩摩雄次に頼んで
加藤海軍大将に海軍側の善処を申入れさせたが、
早速、小笠原長生とも相談して尽力しようということになり、
加藤大将は
伏見宮軍令部長にお目にかかって意見を申し上げた。
宮様は明早朝参内して意見を上奏しようと約束されたので、
海軍は挙げて君等を支持していると語り、
村中は雑談的に、事件以来の出来事、
例えば 陸相官邸での大臣との面接や、華族会館への威迫などを面白く話していた。
ここで問題だったのは、北、西田から
「 真崎内閣がきまらないうちは部隊を引きあげることは犬死に等しい。
なんとか早く真崎内閣を成立させる途はないものか 」
と いったことから、亀川は、
「 むしろ早く引きあげる方が世間の同情もあり解決が容易になるのではないか 」
と 異見を述べたが、
北と西田は真崎内閣ができるまではどんなことがあっても一歩も退いてはならぬと強く主張した。
亀川は重ねてお上の御召しもよくないということだから慎重に考えよといい、
村中はそんなことはないといい張る。
北も信念に基づいてご奉公するのが真の忠義だとくり返す。
西田は、
「 同志の杉田正吾、渋川善助を使って全国各地の愛国団体に働きかけている。
この際これを契機に愛国団体を解いて一つにまとめる。
そして維新を促進するために全国的に興論を喚起し広い国民運動を展開する必要があり
目下この工作も進展している。
また、一般的に外部の情勢も、漸次蹶起部隊に有利に展開している。
現に、全国各地から数千にのぼる激励電報がきているのだ。
ともかくも軍事参議官から正式な回答があるまでは絶対に現在の占拠をつづけよ 」
と 村中を激励した。
この会見はわずか一時間ぐらいであったが、
村中は深く心に期するものをもって官邸に戻って来た。

軍は反乱軍を全滅せんとす
奉直命令が出たとの風評が陸相官邸に伝わってきたのは、二十七日夜も更けてのことであった。
その頃反乱部隊将兵は昨日来の疲労で各所に分宿してぐっすり眠っていた。
ちょうど、陸相官邸に居合せてこの噂を聞いた山口大尉は驚いて、
早速 鈴木貞一大佐、小藤大佐と相談した。
もし事実とすれば大変な事だ。
すぐにも戒厳司令官に強談してこれを喰い止めねばならない。
彼らは深夜の闇をついて三宅坂から九段下の司令部についた。
小藤大佐らはすでに用意されていた二階の司令官室に通され、
戒厳参謀列席の上で意見を具申した。
午前三時頃であった。
まず 鈴木大佐が口を開いて、
「今となつて弾圧は考えものだ、軍は昭和維新へと推進すべきだ 」
と 所信を述べた。
次いで小藤大佐が立って 「 弾圧不可 」 を くどくどしく訴えた。
このあとをうけて

山口大尉が
えらい気合いでまくしたてた。
「 今、陸相官邸を出て陸軍省脇の坂を下り三宅坂下の寺内銅像の前にさしかかると、
バリケードがつくってあった。
半蔵門前からイギリス大使館の前にかけては部隊がたむろしている。
戦車も散見する。
あのバリケードは何のためのバリケードだろうか。
あの部隊は何のための部隊だろうか、
そして物かげにかくれている戦車はどんな意味なのだろうか。
聞くところによれば、
明日蹶起部隊の撤退を命じ 聞きいれなければこれを攻撃されるという。
蹶起部隊は腐敗せる日本に最後の止めをさした首相官邸を神聖な聖地と考えて、
ここを占拠しておるのである。
そうして昭和維新の大業につくことを心から願っているのに 彼らを分散せしめて
聖地と信じている場所から撤退せしめるというのはどういうわけであろうか。
しかも、彼らは既に小藤部隊に編入され警備に任じておるのに、
わざわざ皇軍相撃つような事態をひきおこそうというのは、一体どういうわけであるのか、
皇軍相撃つということは日本の不幸これより大なるはない、同じ陛下の赤子である。
皇敵を撃つべき日本の軍隊が鉄砲火を交えて互いに殺しあうなどということが許さるべきことであろうか。
今や蹶起将校を処罰する前に、この日本を如何に導くかを考慮すべきときである。
昭和維新の黎明は近づいている。
しかもその功労者ともいうべき皇道絶対の蹶起部隊を名づけて反乱軍とは、何ということであろうか、
どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は未然に防いでいただきたい。
奉勅命令の実施は無期延期としていただきたい 」
声涙共に下って説く彼の弁舌は凄愴な気迫を伴い森閑とした真夜中に、
なみいる人々の心を痛く打つものがあった。
この間、香椎司令官はみずから山口に茶菓をすすめ、
その興奮した空気を和らげることに努めていた。
そして
攻撃開始に確定したわけではない
と 口ごもりながら答えていた。
水を打ったような静寂の中で山口はさらにつづけた。
一語また一語に力をこめて、
どうしても同意させずにはおかないといった気迫が全身にあふれていた。
一座は緊張した面持ちで傾聴している。
彼はこのようにして時余にわたって説き去り説き来りこの重大進言をおわった。
誰も発言するものがない、
突然、
大きなテーブルの端にいた石原大佐がすくっと立ち上がった。
静かな声であったが力強く、「 ただちに攻撃 ! 命令受領者集まれ! 」 といいながら部屋を出た。
そして ドアの前に待機していた命令受領者に向かって、
「 軍は本日二十八日正午を期して総攻撃を開始し反乱軍を全滅せんとす 」
つづいて爆撃隊の出動、重砲の砲撃、地上部隊の攻撃要領等について落ちついた調子で、
整然と戒厳命令を口達した。
命令の下達をおわった石原は
傍らにいた小藤大佐と満井中佐を願みて、
「 奉勅命令は下ったのですぞ、御覧の通り部隊の集結は終り攻撃準備は完了した。
飛行機も戦車も重砲も参加します。
降参すればよし
然らざれば 殲滅する旨をハッキリとお伝えください。
大事な軍使の役目です。さあ行って下さい 」
左右の手で両軍使の首すじをつかまえて階段の降り口の方へ押しやった。
なみいる幕僚はこのあざやかな石原の演技にただ感嘆の眼をみはっていた。

もう、夜明けに近かった。
三人の勧告者も 石原のこの果断の前にすごすご引き退らざるを得なかった。
だが 山口はなおも 偕行社に軍事参議官を訪ねて、
撤退命令の無期延期に尽力せられるよう懇請した。

二十八日 朝、
戒厳司令部では満井中佐が軍首脳部に意見を具申したいと申し出た。
戒厳司令官のとりなしで、大臣、次官、軍務局長、次長、総務部長らの首脳が集まり、
それに林、荒木の両軍事参議官も同席した。
荒木、林の両大将は、
この朝偕行社での参議官擬議の結果、
近く討伐実施の運びにありと驚いて、
討伐絶対不可の意見を開陳するため司令部を訪れたのであった。
満井中佐は、参会の諸官に対し自己の意見を印刷した文章を配った。
前夜陸相官邸で村中から聞いた意見を参考とし起案したものであった。
一、
維新部隊は
昭和維新の中核となり現在地に位置して昭和維新の大御心のご渙發を念願しつつあり。
右部隊將校らは皇軍相撃の意思は毛頭なきも維新精神抑壓せらるゝ場合は死を覺悟しあり。
また、右將校らと下士官兵とは大體において同志的關係にありて結束固し。
二、
全國の諸部隊には未だ勃發せざるも各部隊にも同様維新的氣勢あるものと豫想せらる。
三、
この部隊を斷乎として撃つことは全國に相當の混亂起こらざるやを憂慮す。
四、
混亂を未然に防ぐ方法としては、
イ、全軍速やかに維新の精神を奉じ、輔弼の大任を盡し速やかに維新の大御心の渙關を仰ぐこと。
ロ、これがため速やかに鞏力内閣を奏請し維新遂行の方針を決定し諸政を一新すること。
ハ、もし、内閣の奏請、擁立急に不可能なるにおいては、軍において輔弼し維新を奉行すること。
    
右の場合には維新に關し左の方針を最高意思をもってご決定の上、
     大御心の渙發を詔勅として仰ぐこと。
   
「 維新を斷行せんとす、これがため建國精神を明徴にす、國民生活を安定せしむ、國防を充實せしむ 」
ニ、萬一、右、不可能の場合、犠牲者を最小限度にする如く戰術的に工夫し維新部隊を處置すること。
  
 ただしこの場合全軍全國に影響をおよぼさざることに關し大いに考慮を要す。
  これが實行は影響するところ大なるべきをもって特に實行に先だち、
  まず現状を奏上の上御裁可を仰ぐを要するものと認む。
この満井案の討議に入るに先だって石原大佐は発言を求め、軍事参議官の退場を要求した。
つまり、軍事参議官が直接、統帥に対して干渉することを避けるためだった。
だが、荒木大将は軍の長老として軍事参議官は本朝に至って切迫せる状況を知り
一同相談の結果、
維新部隊を武力討伐するにおいてはきわめて重大なる影響あるにつき、
ここに次の意見を提案するといい、
一、
事件當初より參議官の主張せる通り、皇軍相撃ち市民に損害を与え官民地方
その他いろいろと不利なる影響を与える討伐の斷行は恐懼に堪えない。
手段を尽しこれを回避するよう希望する。
二、
彼らの行動のけしからぬことに議論の餘地はない。
然れども彼らもまた吾人の戰友なるをもって日本軍人らしい態度に出るようにせられたい。
三、
占拠部隊の將校の最後は日本武士たる態度を明らかにするようにせられたい。
下士官以下を傷つけぬようにして、もって皇軍と國民との関係を惡化せしめざることに努められたい。
と いう三つの意見を述べた。
要するに荒木の意見は兵力使用の回避であった。
この荒木発言がおわると
石原大佐は再び軍事参議官の退場を迫った。
「 軍事参議官ご一同のご退場を願います 」
林、荒木は石原の断乎たる態度にあってすごすご退場した。
この時のことである。
当時戒厳司令部で石原が荒木大将らに罵言を浴びせて退場を強要したとの流説がとんでいた。
が、これにつき荒木は
「----そこへ、たまたま石原が入ってきたので不審に思って、
「 君は一体、何でこんな所に来てるんだ 」
と たずねると 石原は
「 自分は増加参謀として今日ここへ派遣されたのです。
しかし、こうなっちゃ、これゃどうしても討伐しか手はありませんよ 」
と いい放った。
荒木もムーッとして
「何をいうか、
何とかして皇軍相撃の悲惨をさけんとワシらがどんなに心配しているかがわからんか、
どんな場合でも皇軍互いに撃ち合ってはいかんぞ、必ず説得するのだ 」
と たしなめると、
石原はケロリとした顔で、
「 それならたった一つ良い方法があります、
これから直ぐ軍事参議官一同が拝謁して、
蹶起部隊の希望する首班の内閣を奏請することです、
それも一時間以内でなければ間に合いませんよ 」
「 この場になって何を馬鹿なことをいうか、
この際、軍事参議官が揃って参内するような大それたことができるか、
かりに拝謁をお許しになったとしても、そんな短時間でこの重大な時局を担当する内閣が、
そう簡単に出来ると思っているのか、
とにかく、この際君らが先走って軽率に討伐などと騒いでは絶対にいかんぞ、
あくまでも彼らを説得して兵を原隊にかえすのだ 」
と 強く念を押した 」
( 嵐と闘う哲将荒木) と 書かれている。
何れが真か偽か、筆者も事の次第は知らないが、
当時の統帥部のそうそうたる中堅幹部の
軍事参議官追い出しの一幕はいささか興味のあることである。

大谷敬二郎  二・二六事件  から 


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