リハビリ3冊目。
前々から読まうと思つてゐた小説。購入した日付は残念ながら書いてゐないが、20年ぐらゐは「積ん読」してあつたと思ふ。
遠藤の作品は30歳前後に読み続けてゐたが、まだまだ読み終えてゐない本がたくさんある。今回の作品のやうな趣向のものは初めてであるが、そのテーマから予感してゐた読後感の悪さはなかつた。
その趣向はいろいろに言ふことができるかもしれない。作家の表現によれば「罪ではなく悪を書いた」といふことにならうし、「醜の中に美があると思つてゐたが、醜と美とは別々ものであり、それが一つの中に同時に存在してゐる」といふことを書いたのかもしれない。
ただ、私が感じたのは「老い」といふことであつた。
唐突だが新約聖書にはこんな言葉がある。大伝道師パウロの言葉である。
「『内なる人』としては神の律法を喜んでゐますが、わたしの五体にはもう一つの法則があつて心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしてゐるのが分かります。あたしはなんと惨めな人間なのでせう。」ローマの信徒への手紙7章22節
イエスに直接会つたことのないパウロは、それだけにその救ひの意味を論理的に正確に知り得た。だから、誰よりもこのやうに理屈でその救ひの意味を説明しようとしてゐる。福音書は直接の弟子が書いたとされるが、その他の新約聖書の大部分はパウロが書いたものとされてゐる(間違つてゐたらご指摘ください)。それはなによりイエスの救ひを言語的=論理的に説明することの大事を知つてゐたからであらう。そのパウロが年と共にその救ひの意味を知れば知るほど「もう一つの法則」が自分のなかにあることに気づくやうになり、それと戦ふ自分の姿こそ自分の本当の姿であると考へたのであらう。もちろん、彼はそこからさらに深いイエスの救ひを説いていくのであるが、単純に信仰の年月が「内なる人」の純化をもたらしていくといふことは誤りであると記してゐるやうにも読めた。
そこで、この小説である。主人公の老作家勝呂はかう書いてゐる。
「老いるということが、こんなものだとはぼくは知らなかった。若い頃、君たちと目黒で語りあっていた時も、壮年時代も心には楽観的なものがあって、ぼくは老年になればたどりついた丘陵の上から午後のやわらかな陽のさす平原を静かに見おろせるのだと思っていた。少なくとも自分の人生や文学が確信に似たものを与えてくれると考えていた。
しかしこの冬、氏の足音を少しずつ聴くようになると、老いがどういうものかをはっきりと知った。老いとは不惑でも澄みきったものでも円熟でもなく、少なくともぼくには醜悪で悪夢のようなイメージであらわれてきた。死を前にしているから誤魔化しがきかず、逃げ場所がないものだった。」
これを書いた遠藤は63歳だつた。それから十年後に亡くなつたが、この境地が遠藤のものであるかどうか、そしてさうだとしてもそれがその後十年間変はらなかつたのかも分からない。また遠藤の研究家たちには、この作品がどういふ位置づけのものであるかも不明だ。だが、一人のキリスト者としての感慨を主人公勝呂に託したと見ても間違ひではないだらう。それはあまりにも執拗に語られ、それを否定する側の人物を配しながら、絶えず説得する形で勝呂に語らせてゐるからである。
私は遠藤の執筆当時の年齢にはまだ少しあるが、老いについての予感はうつすらと感じてゐる。