言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

太宰治「道化の華」

2020年08月17日 10時11分35秒 | 評論・評伝

 

 

 もともとは「海」といふ題で作られた作品である。それをどういふ理由か分からないが、作者自身が頻繁に作中に出てきて、「さて、僕の小説も、やうやくぼけて来たやうである。ここらで一転、パノラマ式の数齣を展開させるか。」だの、「僕は三流作家でないだらうか。どうやら、うつとりしすぎたやうである。パノラマ式などとガラでもないことを企て、とうとうこんなにやにさがつた。」だのと記してゐる。

 奥野健男はこれを「前衛小説」と名付けるが、確かにさうではあつても、読者にその意味は伝はらない。むしろ入水しながら相手の女性だけが亡くなり、しかもその女性には別の男がゐたことを知つた男の、引きちぎられてどうにも整理がつかない思ひを、自分自身が自分に対して告白し、それに言葉をかけてゐる、そんな風に読めたのである。

「なにもかもさらけ出す。ほんたうは、僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕といふ男の顔をださせて、言はでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考へがあつてのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニュアンスを作品にもりたかつたのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると己惚れてゐた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかに数えてゐた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言ひたかつた。いや、この言葉をさへ、僕ははじめから用意してゐたやうな気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言ふことをひとことも信ずるな。」と作者である「僕」は告白するが、この告白自体も嘘であり、真実である。過去形で書いて、この作品の意図を「告白」してゐるやうに書くことによつてしか、書けない真実があるといふやうに書いてゐるが、それは真実であるかどうかは分からない。どこまで行つても自己韜晦であり、仮面の告白でしかない。

 それが「含羞の人」であるか「虚言癖」であるかは、その人の太宰治の好悪の距離が決めることであらう。しかし、これでは道化の華は咲かないだらう。私は笑へなかつた。

「ずゐぶんつらかつたよ。われは先覚者なりといふ栄光にそそのかされただけのことだ。柄ぢやないのだ。どんなにもがいても、崩れていくだけぢやないか」と嘆いてみせても、心は動かない。それよりは、むしろこの小説の最後の言葉「葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの断崖になつてゐて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の奥底に、海水がゆらゆら動いてゐた。/そして、否、それだけのことである。」こちらの方にむしろ心惹かれる。

 この作品は太宰の第一作品集『晩年』に収められたもので、もちろん、主人公大庭葉蔵とは『人間失格』の主人公と同じ名前である。小説集の中核をなすこの作品に、太宰の道化師としての生き方が表れてゐる。仮面を被つてしか告白できないのが道化なのかもしれないが、読者に告白してどうするのか、といふ疑問が私にはある。

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