言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

倉橋由美子『あたりまえのこと』を読む。

2020年08月18日 18時05分27秒 | 本と雑誌

 

 

 小説家の小説読本といふ趣であるけれども、この作家は毒舌家でもあるから、読むに値する本だけを読めといふこを明言してゐる。さて、それはどういふ本かといふ固有名詞は「営業妨害にあたるからしない」とのことであるが、名指して駄目な小説もこつそり書かれてゐるので、なるほどさういふことかといふのも伝はつてくる。

 それで、「小説を読む」にあたつて大事なことは何か。最後になつてそれは書かれてゐる。

「小説を読むのに格別変わった読み方やコツがあるわけではありません。いつ、どこででも、どんな姿勢をとってでも、ただ読めばいいのですが、一つだけルールがあります。それは、小説を読む時も、目で一行一行、正確に追って読んでいく、ということです。(中略)飛ばし読み、拾い読み、斜め読みといった読み方はしないこと。そんな読み方をしたくなるような、またそんな読み方でしか読めないような小説は、そもそも読むに値しないものです。誰が何をしてどうなるかを早く知りたいと焦るほど話の展開が面白い小説もあるでしょう。それでも目のエッジをしっかりと字面につけて、滑るような速さで読んでいくことです。そうでないと、文章から『音楽』を十分に読みとって脳に送り込むことができません。」

 福田恆存は、文章の評価を「泣いてゐるかどうか」に置いてゐたと谷田貝常夫氏に聞いたことがある。「泣いてゐる」とはどういふことかと尋ねてみたが、明確なお答へはなかつた。ずゐぶん失礼な問ひであつたのだらう。「君はそんなことも分からないのか」といふ非難がその沈黙にはあつたのだらうと今にして思はれる。

 倉橋も明言はしないが、快感を味はふほど丁寧に読め、そしてそれができるのがよい小説であるといふことなのである。

 この本全体に違和感はない。ただ一つだけ、倉橋が挙げた次の文章への評価だけは違つてゐた。

「公開はなかった。船上では殺人は日常茶飯事にすぎない。私が殺人者となったのは偶然である。私が潜んでいた家へ、彼女が男と共に入って来た、という偶然のため、彼女は死んだのである。

 何故私は射ったか。女が叫んだからである。しかしこれも私に引き金を引かす動機ではあっても、その原因ではなかった。弾丸が彼女の胸の致命的な部分に当ったのも、偶然であった。私は殆んどねらわなかった。これは事故であった。しかし事故なら何故私はこんなに悲しいのか。」

 大岡昇平の『野火』である。これいついては福田恆存が書いてゐるからといふことではないが、倉橋は「大事なのは、この文章には『〇〇主義』といった思想があるのではなく、十分な思考の跡があるということです。」と書いてゐるのは誤りである。もちろん、平和主義だとか反戦思想だとかの思想はない。しかし、そこにあるのは「敵に殺されるのではないかといふ不安から撃つた」といふことを隠さうとして十分に思考した跡である。それは事故ではなく、紛れもなく事件である。ただ戦時であることによつて許される事件といふだけだ。

 かうなると、倉橋の「丁寧に読め」といふのも怪しいなといふ気がしないでもないが、それでも読んで損はなかつた。

 近代日本文学史を考へる上でとても学ぶことが多かつたのはリアリズムといふことに対しての見解である。ある事件が起きたとして、そこに至る過程をできるだけ詳しく書いたとしてもそれはリアリズムとは言はない。「人が自殺した『原因』が借金が返済できなくてであったというのは不正確であり、正確にはその人は借金を返済しないままに死んだのである。借金が返せない人が皆自殺するわけではない。『死の観念』だか何だか異常な観念に取り憑かれて自殺したと言うなら、その取り憑かれたことが事故なので、普通人間はそういうものに取り憑かれずに生きている。」

 私たちは、それを「魔がさした」と言つたり、「死神につれていかれた」と表現するが、それで「魔」や「死神」を表現しても合理的な説明にはならない。しかし、ながながと心理状態を説明してもそれはリアリズムかと言へばそれも違ふ。『野火』の作者は合理的に説明しようとし、それを事故とした。倉橋はそれをリアリズムと受け取つたのであらうが、これはリアリズムではない。リアリズムの焦点はむしろ、隠さうとしても隠せない人間のエゴイズムを自ら暴いてしまつたといふところにある。

 それにしても、小説家が日本の近代文学をどうみてゐるのかといふことは、今の私には十分に関心があることだ。ふと手にした本だが、幸運な出会ひであつた。

 

 

追加

大事なことを書き忘れてゐました。

小説の良し悪しを決める最大のものは、文体があるかないかである。文章が下手なものにいい小説があるわけはない。それを何度も書いてゐた。これは耳が痛い。私は小説家ではないけれども。ワープロ時代の文章がなぜ駄目か、それは文章が下手だからであるとは、その通りである。

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