言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

パトリシア・ハイスミスを読む。

2020年08月29日 15時15分37秒 | 評論・評伝

 

 

 倉橋由美子は『あたりまえのこと』の中で、パトリシア・ハイスミスに何度か触れてゐた。一般に彼女の名前が知られるのは映画『太陽がいっぱい』の原作者であるといふことだらう。日本人のアラン・ドロン好きとあいまつて、映画は好評で、原作も読まれた。

 倉橋は、もちろんその作品に触れたのではなく、一度も実際に書いたことがなく、頭の中だけで14冊の本を書いた男を主人公にした短編「頭のなかで小説を書いた男」について論及してゐた。

 書くといふ作業は、頭の中の「構想」を文字にして「表現」するといふやうに理解されやすいが、事実私の周囲にも表現といふタイトルで構想の文字化を実践してゐる人がゐるが、じつに浅薄な「表現」理解だなと苦笑してゐる。表現とは、ペンや紙の抵抗を受けながら、構想自体を作り上げていく作業だと微塵も思はないといふことは、たぶん文章を書いたことがないからだらうと想像してゐる。だから、構想→表現などと一方通行的構造でとらへて平気でゐられるわけである。「書かなければ分からないことがある」、そんな常識を素通りにしてしまふのだらう。

 さて、この小説だが、この男には妻と子供がゐる。妻はをかしいなと思ひながらその夫の行動を見守る。本にならないのだから売れるわけもなく、経済的にも自分が支へることになる。夫は作家であることへの誇りすら描写されてゐる。しかし、一人息子はそんなことは金輪際思はない。裸の王様を認めるのはやはり子供であるのかもしれない。

「書かなければ分からないことがある」。その常識を思ひ出させてくれる一級の小説である。作家を夢想する人が描いた小説の観念であり、七転八倒する実体の作家の厳しさが浮かんでくるとも言へる。

 この小説が収められてゐる短編集『風に吹かれて』を読んでゐるが、一篇一篇趣が違つてゐて興味深い。「池」といふ小説はとても不気味で後味が悪く、夜寝る前に読んだので嫌なざわつきがあつたが、それも味なのかもしれない。アメリカ文学といふは馴染みが薄いが、一つ一つ作品に触れていかうと思ふ。

 

 

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