言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

冲方丁『麒麟児』を讀む

2019年08月14日 18時25分09秒 | 評論・評伝
麒麟児
冲方 丁
KADOKAWA

 私としてはたいへんに珍しく歴史小説を讀んだ。冲方は『光圀伝』『天地明察』で知られる作家である。家内の方がファンで、この本も先に家内が読んでゐる。読後の感想はほぼ一緒だつた。

 本書を讀むきつかけは教へ子から冲方の新著が出ましたけど読んだかとの問ひ合はせがあつたことによる。以前『光圀伝』を紹介したのだが、それをたいへん気に入り、それ以来冲方のファンになつたやうだ。本書は勝海舟と西郷隆盛といふ二人の麒麟児(才能が優れてゐて、将来が期待される少年)の話だから、これまでにもいろいろなメディアで二人の話は讀んだり見たりしてきた。その作者がどちらの側に立つかで、あるいは佐幕派か勤皇派かでも描き方は変はるが、両者とも傑物であることに変はりはない。江藤淳のやうに若いころは勝の立場に傾倒し、晩年は西郷に心を寄せるやうになるといふ変化が起きるのも、当代一流の文藝評論家をしてもその年齢に応じて見方を変へざるを得ないほどの魅力をこの二人が内包してゐるといふことであらう。

 江藤淳を引き合ひに出すのであれば、さて福田恆存はこの二人をどう見てゐたのだらうか、今すぐに思ひ出せないが、何かの感想はお持ちであつたはずである。

 この小説であるが、300頁ほどで描き切るには話題が多すぎる。だから、感想としては「長いあらすぢを讀んだ」そんな読後感である。張り詰めた場面の連続であるがために、どこの場面も同じく重いもので、それらが次々と描かれていくから速度の速い乗り物に乗つて道を急いだといふ感じなのである。それほどに二人が生きた時代が激動してゐたといふことなのだらう。作者がそれを伝へるためにかういふ趣向にしたのかどうかは分からないが、私にはさう思へた。これを5冊ぐらゐの文章で書くことも、この作家なら可能であらうが、それは今日の出版業界が許さないといふこともあるだらうし、二人の生き方の激しさやそれに伴ふやり切れなさや疲労感は、きつと滲み出てこないだらう。じつくりと描く代はりに大事な感触を失つてしまふものになつたのではないか。したがつて、これはこれで良いのだらうと読者の一人としては感じる。

 それにしても、この二人の人物は明治新政府の成立にとつて欠くことのできない存在でありながら、自ら身を引く道を選んでいつた。それゆゑに日本が近代化の遠心力にばらばらにならずに済んだのである。身を捨てて日本を生かす人がゐたといふことである。そのことを改めて感じた。

 先日、友人から「前田さんは、日本近代150年の欺瞞を話されてゐるが、そのところを結論だけでなく精緻に書いてほしい」と言はれた。私にはもとよりその直観(あるいは直感か!)以上の根拠を明示することは能力的に無理だと弁明したが、絶対者のゐない日本の近代が似非であることは今も否定する気はない。しかし、そんな問題意識などないながら日本の近代を何とか成立させようとした二人の傑物がゐた。そのことを迂闊にも失念してゐたことを本書によつて知らされた。しかし、我田引水に言へば、彼らの苦労がそれでも空しいのは(「空しい」などと書くと相当な批判を受けると思ふが)、それをきちんと受け止める絶対者がゐなかつたからである。会津の戦争に悲しみがあるのも、それ以上に西郷の戦争に悲しみがあるのも、そして大久保の死が痛ましいのも、それゆゑである。彼らはいづれも無念で終はつてしまひ、歴史の悲しみを日本の近代に浸潤させた。しかし、その土台を私たちは受け継ぐことができないのである。これが近代の欺瞞の紛れもない証左なのである。

 ハムレットにはホレーショーがゐた。もしホレーショーがゐなければ、『ハムレット』は成立しなかつたであらう。そして400年の間それを正統なる悲劇として私たちに印象付けることはできなかつたであらう。シェイクスピアなど持ち出して何を言ふかと訝しがる人もゐると思ふが、日本の近代が悲しすぎるのは、それが「未完」であるのは、それをきちんと受け止める存在がゐないからである。

 この辺りを起点に「日本近代150年の欺瞞」を書き出すことができるかもしれない。そしてもし福田恆存が二人の人物にて触れてゐないとすれば、その触れてゐないといふことが大事なメッセージのやうに思へるのである。

 

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